FC2ブログ
2013-01-20

浅野幸長と黒田長政の話

吉川ネタなどを渉猟中に、たまたまナイス!なお話を見つけたので、
なんとなく訳して掲載。
しかし吉川関係ないよ。
ついったで呟こうか別のとこに投稿しようか迷ったけど、
呟くには長すぎるし、投稿するにはまとめ切れんので、こちらでw


黒田長政、紀伊に幸長の病を訪なう

浅野幸長が病のため江戸への参勤を控えていると、
ある日突然、黒田長政が小船に乗って紀伊の城にやってきた。
見舞いのためだというが、そのころの法度では、
大名は互いに国もとに見舞いに行くことを固く禁じられていた。
幸長は城に長政を招き入れ、終日話をした。

日が暮れて、「須本に船を着けているから、これから帰る」と言う長政を、
「この港は見た目とは違ってたいそうな難所で、小船でさえ簡単に出られないのに、
日が落ちてから大船で出るのは無理だ。泊まっていってほしい。
せっかく見舞いに来てくれた人に怪我をさせるわけにはいかない」と引き止める幸長。
長政はその夜の帰船をあきらめ、夜通し幸長と話をして、早朝に茶の湯をしてから出発した。

幸長も、自分の家老や物頭たちを船に乗せ、自分も乗り込んで、川口まで長政を送っていく。
道中、家臣たちを一人ひとり長政に紹介し、長政も彼らに言葉をかけた。
河口に着くと、長政は自分の船に乗り換えたが、
幸長は小姓の永原大膳を小船に乗せ、長政の案内のために差し出した。
そのとき幸長は、小姓に「大膳、絶対に沖を案内するなよ。
松江浜を通って加田の多倉崎へとお通しするように」と申し付けた。

さて永原の案内で船が進んでいくと、中松江で大波が一つ押し寄せ、
長政の船に覆いかぶさった。
何とかしのいで「やれやれ」と言っていると、また大波が来る。
大膳も大慌てになり、どうにか船に下知をして脱出させた。

須本まで到着すると、長政は大膳に色々と馳走して、
刀などを与えてから幸長のところに帰した。
幸長は川口浜で幕を張り、酒宴をしていたが、
「永原の船が見えました」と報告が入ると、幸長は大喜びでそれを待ち受けた。
大膳が着岸して、一通り別れの挨拶を済ませてきたと報告すると、
幸長は不機嫌になって、「それだけか」と尋ねる。

永原は赤面して、少ししてから話し出した。
「本日は困ったことがございました。黒田様のお船へと、大波が二つも当たったのです。
黒田様は屋形の戸を立てていましたので、あの程度では濡れなかったでしょう。
しかしそのほかの上士下士は、皆ずぶ濡れになっていました。
まったく難儀いたしました」と言う。

幸長はこれを聞くと上機嫌になり、
「よしよし、よくやった。それを聞きたかったのだ。さすがは我が小姓だ。
馬の先で役に立とうという者が、そんなことに気付かないわけがない。
あの筑前(長政)めは、家康の内意で見舞いに来ていたのだ。
この幸長が、江戸・駿府へ行かないのは悪意があってのことだと疑い、
様子を見てくるようにと申し付けたのだろう。ただの見舞いのはずがない。

もし明日にも幸長を退治するという話になったときは、
我が国の港ををよく知っているからと、筑前が西国から一番に船を出してくるだろう。
そうなったら大変だ。
今日こうして波を食らわせておけば、長政は「紀伊の港はなかなかの難所だ」と思うはずだ。
それに他の西国の奴らも、皆それを聞いて恐れるに違いない。
和泉方面から攻めてくるなら、敵は山越えをしなくてはならないから、
こちらが勝つに決まっている。

さてもさても、筑前めの肝を潰してやったわい。満足満足」
と言って城に入っていった。
(浅野長政公伝)


以上、テキトー訳。

おまいら、仲がいいんですか悪いんですかwww
幸長は深慮とかではなくて、ただ長政にいたずらしたかっただけじゃないの?
船旅多い長政が波くらいでビビるとは思えないし、
紀伊の地理知ってる人間なら他にいくらでもいるしな。
なんたってほら、長政は川に落ちても溺れながら敵と戦ったくらいの人ですしおすし。
ちょっとしたイタズラとして見ると微笑ましい気がする。

しかし長政、家康の密偵みたいなことしてんのな。
広家とのつなぎも長政だったっけ。よく働くこと。
広家も慶長12年には病気で参勤できなくて、疑われて、
長政が取り成してくれたから「ありがとう」って書状(しかも起請文)を送っていたはず。
まあ私は個人的に、この起請文には思うところあるわけだが。それは追々。

とりあえずこのお話は、近代デジタルライブラリーで読めます。
訳はだいぶ不安なので、気になったら原文をご参照くださいませ。

近デジ、たまに面白い話にブチ当たるからやめられない。
使い勝手悪いのに……><
2012-10-22

近況報告

数年ぶりにまともにひいた風邪(たいしたことない)でダウン中だす。
とりあえず仕事場の仲間にうつったら困るので医者に行ったら、
「こじらせましたね~」とか言われたけど、熱はないんだよ!
ただ気管支がねゲホゲホ。咳するって体力使うんだね。

そんなわけでPCに向かう気力がわきませぬ。
陰徳記の続きはしばしお待ちを~_ノ乙(.ン、)_

でもでも今日は、西暦換算の広家の命日だねー。
9月はすっかり忘れてスルーしてたわ。ごめんね☆テヘペロ
今回はツイッターのbotの仕込みをしたけどそこで力尽きたよぱとらっしゅ……

ご冥福をお祈りしておとなしく寝よう!
2012-07-15

広家の献身@少年向け読み物

今日も陰徳記はお休みで、追加で発見した少年向け読み物から、
広家サンのかっこいい話を抜き出しちゃうぜぇ(^―^) 手抜きだろぉ~

ほとんど訳す必要はないんだけれど、少しばかり読みやすくしようと試みてみますた。


吉川広家、十五歳にして先登(先駆け)す

 吉川広家、幼名は又次郎、はじめは経言という。元春の第三子である。
 天正二年正月、尼子勝久が因幡に侵攻して三城を攻略した。
 翌年の秋、元春は兵を率いて伯耆に入り、小早川隆景もまたこれに続き、
 鳥取城を攻め取り、さらに私部城を囲んだ。
 広家はここで先駆けを果たした。年は十五であった。

毛利勢は一挙に鳥取城を落とした。
山名豊国が兵を率いて私部城を攻め、橋をかけて谷を渡り、堀端近くまで押し寄せる。
城将の亀井新十郎茲矩は勇猛によく闘った。豊国は敗軍しておびただしい死者が出た。

広家はこれを聞いて歯軋りをし、私部城を見渡して独り言つ。
「いざ敵に出会って一鑓試みてこよう」
槍を掻き揚げて城中をにらみ付ける。
そばについていた小坂越中守が、広家の鎧の袖を掴んでそれを押しとどめた。
「鑓を交えるのは兵卒の仕事です。隊長であるあなたがやるべきことではありません」

広家はこれを聞いたとたんカラカラと笑い、
「父上や兄上ほどであればそうであろうな。だが私は居候の身分だ。
奮闘してようやく名を上げられるというもの」
と、進んで城に向かおうとした。
しかし越中守が馬を引きとめて放さず、広家は不本意にも思いとどまることとなった。

その夜、城将の茲矩はひそかに決死の兵を出して、寄せ手に襲い掛かった。
広家は真っ先に馬を乗り出し、鑓をひねって縦横無尽に奮い闘った。
広家が触れる者はみな斃れた。
敵兵は散々に負けて逃げ走る。

広家は勝ちに乗じて敵を追い詰め、そのまま城の堀際まで迫る。
味方の兵も続いてきて、ドッと鬨の声を上げた。山や川が震えるほどだった。
広家は兵たちを指揮し、揉みに揉んで激しく攻め戦い、ずっと手を緩めない。

城兵はすっかり疲れきり、もう防ぎ戦う気力もなく、城将茲矩はどうしようもなくなって、
ついに使者を遣わして「城兵の命を助けていただければ、城は明け渡します」と申し入れた。
取るべきは城であって人の命ではない。毛利勢が直ちにこれを許すと、茲矩は旗を巻いて城を落ちていった。
毛利勢が替わって城に入り、一文字三ツ星の旗が城の上に高く翻った。
この先駆けによって、広家の勇名が全軍に轟き渡った。

 野史氏(飯田忠彦?)はこう述べている。
 制韓の役では、広家は諸将とともに蔚山を救援し、野蛮な敵兵を大いに打ち破った。
 加藤清正は感嘆して、吉川氏の軍が最も強いと言ったそうだ。
 広家の勇猛さはおおむねこの通りである。

 また、最近の少年たちは、父兄に爵位があるからといって、父兄の財産を頼みにして、
 他人に対して傲然と驕り、自分から一生懸命に励むことで名を上げようとする者が少ない。
 広家の「私は居候の身分だ」という一言を聞いて、深く自戒する必要がある。

以上。
『少年武士道. 第1』 熊田葦城 著 (東亜堂, 1908) P112~116
先日と同様、近代デジタルライブラリーで読めます。
元就や秀元、立花宗茂、黒田長政などの逸話もあるので、興味があればぜひ。

このあたりの話は、まだ陰徳記で読んでないな。
陰徳記出典ぽい気がするから、かなり楽しみ((o(^-^)o))

まあ広家ちゃんがかっこいいのは当たり前なわけだけれどもw
この話をダシに「自分で努力することが大切だよ」と説かれるわけなのねwww
なかなか興味深い……

広家は自分でアレコレやりすぎて、ちょっと面倒なことになったりもしたね。
石見小笠原家への養子入り騒動は、どうも広家主導で動いてたみたいだし。
といっても元春たちの知らないところで根回ししていたとかではなく、
元春・元長も、気乗りはしないまでも、一応了承はしていた感じだ。
それで元春・元長から毛利本家へ相談しないまま話を詰めていったので、
輝元たちが吉川の行動を怪しんで大騒動に発展した、と。

たぶん、小笠原養子騒動は社会人向けの題材だな。
「このプロジェクトが失敗した原因と解決策を考える」みたいなワークショップやりたいwww

次こそは陰徳記に戻るぞーーー!
2012-07-14

広家の初陣@児童向け読み物

章の途中で別の話を挟むのは気が引けるけど、
先日発見した80年ほど前の小学校の教科書に載っていた広家の話が
ものすごーーーーーーく可愛かったので、今日はそちらをご紹介。
堪え性がないとは私のことだ。フヒヒ☆サーセン_ノ乙(.ン、)_

ほとんど訳す必要がないので、旧仮名遣いを現代様式に改めたり、
送り仮名や表記を整えるにとどめてお送りしますぜ。
手抜きwww


初陣~十歳でたって出陣をのぞんだ吉川広家

元亀・天正のころは、日本国中、あっちでも戦、こっちでも合戦という、
勇ましくもまたさわがしい時代でありました。
その元亀元年正月、吉川元春は、出雲の尼子氏を攻めることになりました。
いよいよ出陣ということに決まると、その子で、やっと十歳になったばかりの又次郎が、
父の元春のところにやってきて、
「私も戦に連れていってください。一方のさきがけをいたします」
と、健気にも頼みました。

元春は、又次郎の勇気のあるのを喜びましたが、十の子供では、手足まといにこそなれ、
戦の役には立たないと思いましたので、
「お前はなかなか偉い。けれども、戦場はどうしてどうして恐ろしいところだよ。
お前はまだ小さいから、恐ろしい戦場へ出て働くことは、とてもできるものではない。
まあまあ、もう三四年まっていなさい」
といって許してくださいませんでした。

「戦場で一人前の働きができるかできぬか、行ってみなくてはおわかりにならないではございませんか。
私は、きっとできると思います。ぜひ連れていってください」
押し返してお頼みしましたけれども、元春は笑っていて、どうしても許しません。

又次郎は、それが不平でなりませんでした。
どうしても、諦めきれませんので、今度は兄の元長に
「どうか兄さんの軍勢の中に入れて、連れていってください」とお願いしました。
元長は、悪いことではないと思いましたが、
父さんのお許しのないものを、勝手に連れてゆくわけにはゆかないと思い、
どうしたらよいか、母さんにご相談いたしました。

これを聞かれた母さんは、さすがは名ある武士の女だけあって、たいそう腹を立てられて、申されました。
「弓矢とる家に生まれた子は、小さくて竹馬や破魔弓の遊びに気をとられているときでも、
なだめたりすかしたりしてまで、戦場に連れてゆくが当たり前ではございませぬか?
それを、そのように自分から進んで出陣したがっているものを、
わざと押しとどめて、望みをかなえさせてやらないというのは、
どういうお考えでございますか、私にはとんとお心がわかりませぬ。
けれども、武士の子の教えかたというものは、そういうものではなかろうと存じます。
…………ぜひとも、又次郎に華々しい初陣をさせてやってくださいと、
お前からよく父さんに申しなさい」

元長も、母さんのおっしゃることがもっともだと思いまして、その通り父さんに申し上げました。
「母も兄も当人も、そろってその気ならば、差し支えはあるまい」
というので、元春もようよう許してくださいました。

元亀元年正月十六日、とって十歳の又次郎は美々しい小桜縅の鎧きて、
意気揚々と初陣の門出をしたのでございます。

それから数々の戦いに手柄を立て、元春・元長が続いてなくなった後は、
名も広家と改めて吉川家の跡取りとなり、秀吉時代の名高い大名となりました。


以上。
『三年生の修身』(学校家庭学年別模範児童文庫) / 安島健 等編[他] (大阪宝文館, 1930) P159~164

これは近代デジタルライブラリーで公開されているので、
気になる場合はアクセスしてみてください。
児童向けの簡単な挿絵もあってかわいい(*´∇`*)
小学生の道徳の授業でこのお話が読まれていたなんて……!
「父さん」「母さん」「兄さん」て呼び方もかわいいよおおぉぉぉぉぉ!

この内容をツイッターで呟いたら、フォロワーさんから返ってきた反応が
「母ちゃんかっこいい!」多数だった。広家の話なのにwww でも私もそう思う。
新庄局……熊谷家の武闘派っぷりパネェwww
他の武将にもこうした逸話はあるだろうに、あえて広家をチョイスしてくれた筆者の方に
畏敬の念を禁じえない、とのご指摘もありまった。
うん、そうですね……ホントありがてえ(*;∇;*)
吉川家の家族の絆は日の本一やでぇ~~~~!

ツイッターといえば、最近ものすごい奇跡を体験したかもしれない……
別の話なので続きに書きますw

続きを読む

2012-06-14

生存報告

元就公命日だというのに、ちょっと体調不良で更新すっぽかします。
風邪とかではなく持病(加齢性)なのが悲しいw
更新お待ちいただいている方は、話の途中で申し訳ありませんが、もうしばしお待ちを。


ついでに陰徳記の元就逝去のくだりを載せておこう(手抜き)。

「元就朝臣病の萌御座けるが種々医療の術を尽くし給へば、漸く快く成らせ給ひけるが、
 然れども若年の昔より戦場の霜雪に御身を痛め御心を安くし給はず、
 かかる御疲れにや以外に老衰し給ひけり。
 元亀二年六月十二日より聊か御心地悪かりけるが、同十四日、七十五歳にしてついに夜を去御座す」

じいさま……75歳までよくがんばったね。
検索フォーム
カレンダー
06 | 2020/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
訪問者数