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2013-05-06

元就が平賀に激おこぷんぷん丸

タイトルは一度言ってみたかっただけです。
すっきりした(*´∇`*)

陰徳記、だいたいの流れ:
大内家ではクーデターを起こした陶入道全薑(晴賢)の新政権が確立されたが、
備後の国では江田隆連が大内家から離反し、尼子へと属した。
元就はこれを討伐するために隆元・元春らと備後へと向かい、
加勢に駆けつけてきた尼子勢と荻瀬橋で戦って敵を後退させる。
尼子勢への夜討ちの案も出たものの、折からの露の大雨で断念し、
大内からの加勢である陶全薑の軍勢の到着を待っていた。


毛利・平賀座敷論のこと、並びに祝城没落のこと

尼子修理大夫晴久が数万騎を率いて備後の国に打って出てきたとの報告があると、
大内左京大夫義長から元就への加勢として、陶尾張守入道全薑が差し向けられ、
同(天文二十二年六月)十日に旗返表へと到着した。
こうしたところに、旗返の城を切り崩すための会議が開かれ、諸将は皆陶の陣に駆けつけた。

ここで、毛利と平賀の間で、座敷の上下について論争が起こった。
その成り行きを聞いてみると、このようなものだったという。

元就様は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならぬ。
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛のときには、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられている。
それに、義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と思っていた。

平賀太郎左衛門は、「元就がどんなに武威が盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、この隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

陶の入道も、「この問題をどうしたものか。こ
れはもしかすると味方が分裂する事態に発展するぞ」と思い、
「私の判断ではどうすることもできない。ただ神のご存念にお任せしよう」ということにした。
元就・隆宗の二人も、「ともかくこれ以上話し合うことではない」と考え、
近くの八幡の神前で占いを行って、「左の座は元就」と神託が下った。
それでも一同は納得せずに、十五日は元就、十六日は隆宗というように、
順番に左座に着席して会議を行った。

こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長からない当下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

さて、江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就様父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進んだ。

城中には、祝甲斐守・同治部大輔をはじめとして、主力の兵二百余騎、
また久代修理亮からの加勢の百騎、そのほか雑兵など七百五十人が立て籠もっていたが、
矢間を開けて散々に射掛けてくる。
寄せ手は三重の空堀を越え、一気にドッと塀に突きかかっていく。
城中の兵たちは鑓・長刀でそれを突き落とし、切り落としてきたので、
勇んでいた寄せ手もたまらずに、堀際へとさっと引き退いた。

元春様は後ろから藤の丸に三引両の旗を押し立て、「かかれ、かかれ」と下知をする。
諸卒がまた塀に取り付くと、城中がまた射立て突き立ててくるので、
寄せ手はまたもや元のところまで引いた。

こうしたところに粟屋弥七郎(就俊)ただ一人が一歩も引かず、
「この城の一番乗りは粟屋弥七郎だ」と名乗りを上げ、
塀のそばに生えている榎の木にしがみついて、「エイヤッ」と声をかけて塀を乗り越えようとした。
そこに敵が鑓を構えて、粟屋の体の真ん中をズンと突き貫いた。
さしもの鬼神のような粟屋も、真っ逆さまに落ちて死んでしまった。

元就様・隆元様・元春の父子三人が堀を越え、塀に近づいたらすぐに乗り越えようとするのを見て、
諸卒は一気に塀や格子を切り破り、城中へなだれ込もうとした。
城中はまた射立て突き落とそうとしたが、寄せ手が少しも怯まずに乗り越えてくるので、
城中の兵たちは塀の裏からさっと引いた。

右の方をキッと見ると、平賀太郎左衛門隆宗(広相)の鎧は篭手や脛当てまで金でできていたので、
まるで仏像のように見えた。
平賀勢は五百余人が真っ先に進み、青竹に鹿の角を結いつけたものを五十人ほどに持たせて、
到達すると同時に一気に「エイヤッ」と塀を引き崩し、足をとどめることなく乗り入っていった。
「鬼平賀」と呼ばれるのもまさに道理だと思うほどに、猛々しいやり方であった。

祝は甲の城に引き籠り、攻め込めば切り出し、切り出せば押し込み、
四度か五度までは防ぎ戦ったが、多勢に無勢でどうにもかなわず、
甲の城戸までも破られてしまった。
吉川勢は一番に甲の丸に乗り入ると、祝甲斐守・同治部大輔・同長戸守を討ち取り、
元春の手柄とした。

これを見て雑兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとしたが、
あちこちで追い詰めて討ち取ったので、首の数は多く、逃げおおせた者は少なかった。
その日の首級六百のうち百七が吉田勢、百十一が元春様、八十が平賀、七十五が熊谷、
六十三が宍戸、七十一が天野、六十九が香川・飯田・山県などの佐東郡の者たちが討ち取ったものだった。

諸軍勢は勝ち鬨を上げて本陣へ引き返すと、
その日の夜の亥の刻に城に火をかけ、山の中へと引き退いた。
内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就様と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就様も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。


以上、テキトー訳。

上座・下座で難癖をつける元就……これは新鮮だわ(*´∇`*)
いやまあ、武士は面目が命ですからね。怒って当然ですよね。
器ちっちぇえとか全然思ってナイデスヨ?
陶さんが困って神様に丸投げするのもナイス!
正直どうでもいい問題に関して、くじ引きって素晴らしい解決手段だよな。
考えようによっては、元就と平賀に隣の席を争われるマドンナ陶さん(ただし剃髪済み)。
これはこれでおいしいですmgmg
でも、順番に座ることでOKなら、最初からそうしてれば……イエナンデモナイデス

合戦シーンはホント好きだ。
元春が下り藤三引両の旗だったり、平賀さんの必殺☆塀はがしがかっこよかったり。
まるで仏像のような平賀広相……ゴールドクロスかよ。
毛利の装備は古くさそうだからなw 目に付いたんだろうなwww

ところで江良・内藤の三吉への所業は、あのまんまでいいんですか!
なんかとってもひどいことしてるけど、完全スルーじゃない???
元就の側室の一人って、三吉氏じゃなかったっけ。
元秋やら元康の母親が……ここの三吉さんじゃないのかな?
とりあえず、帰り際にちゃっかり吉田に寄って、
娘さんと久々の対面を楽しんだであろう興盛、よかったね!

さて、お次は備中の話題です。
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2013-05-05

もののふの死化粧

昨日は書状類を読んでいるところに知人から呼び出しがあって
会って飲んでいるうちに遅くなって撃沈、という体たらくでしたw
自堕落な連休ライフ満喫してるなぁ。

さてさて陰徳記、前回のあらすじ:
すっかり陶全薑(晴賢)の一存でことが運ぶようになった大内家。
備後では江田隆連が大内から離反し、尼子に属した。
元就はそれを陶に注進すると、自ら兵を率いて江田討伐に向かう。
その途中、大内方の兵を籠めていた湯木の城では涌喜が離反して目付け役を殺してしまう。
元就は、まずはこちらを攻めるべく、荻の瀬へ向かったところで、川を挟んで尼子軍と対峙する。
吉川衆、熊谷などが先陣となって橋の上で攻め戦い、敵将の一人を仕留めることができた。


備後の国、泉合戦のこと(下)

芸陽勢が勝ちに乗って追いかけようとすると、元春は
「敵は多勢だ。味方が狭い橋を追い越して、また引いてくるのは難しい。
早く引いてこい」と下知をした。
熊谷の衆が一番に兵を治めたので、皆また橋の前に弓衆を前に出し、備えを固めて控えていた。

二陣の尼子金吾(敬久)は、敵が勝ち誇って備えが乱れた隙を討とうと、
逃げてくる味方を押しのけながらかかっていこうとしたが、
道が混雑して急には進めないので、そばの畑のなかの畦に一旦退避した。
その隙に、芸陽勢はさっと引いて弓備えを立ち設けている。
金吾は大声を張って、「敵は最初の合戦で痛手を受けている。
もう力は残っていないはずだ。息も継がせず攻め戦えば、味方の勝利は間違いないぞ。
進めや者ども」と下知をして、橋の上に一度にドッと攻めかかった。

元春はかねてから金吾が無二にかかってくると考えていたので、
それを見て「今度は敵が橋を渡ってくるその途中を襲撃して勝利を得てやろう」と思っていた。
それで「敵に橋を越えさせろ」と下知をした。
あえて妨げなかったので、敵は易々と橋の上を進む。
けれども出雲勢は、敵が鏃をそろえて待ちかけているのを見て、
橋を渡りきらずにためらっていた。
そこに後ろから、金吾が「進めや者ども」と大音声を上げて下知をするので、
兵たちは橋を越えて進んだ。

元春は敵勢が半分ほど渡ってきたと見るや、
「者ども、かかれ」と采配を振るい身を翻して下知をした。
新庄勢は国人たちに先を越されまいと勇んだ。
熊谷・香川といった人々は元春の旗本の者たちを追い越そうと進んでいったので、
負けじ劣らじとかかっていくと、出雲勢はたちまち一戦のうちに利を失い、
また橋から引き返そうと、ほうほうの体で逃げ帰っていった。

金吾が橋を渡りきらないうちに、先陣の兵たちが早々と逃げ帰ってきたので、
「いったいどういうことだ」と怒ったけれども、
浮き足立った勢をまた立て直すことはできなかった。

芸洲勢は、「敵の後陣に国久が二千ほどで続いてきたならば、
今度は橋の果てまで追いかけていって一人たりと向こうの地へは渡しはしない」と、
またもとの配置に戻って敵襲に備えた。
国久は馬を早めて駆けつけてくると、初手の勢と入れ替わろうとしたけれども、
敵が早々に引いてしまったので、仕方なく怒りをこらえてしばらく敵陣を睨んで歯軋りをしていた。

後日、吏部(誠久)が金吾に向かってこう言ったそうだ。
「元春はまだ二十歳ほどの若大将だ。
剛強さばかりが先走ってきっと大いに勇み誇り、戦を第一に、
謀を二の次に考えているだろうから、欺きやすいと思っていた。
しかし今日の合戦の駆け引きは、備えの立て方といい、古今無双の弓取りである。
おまえたちもよく見ておけ。敵であっても、元春のやり方を学ぶといい。
なんという勇略全備の勇将だろう。
元就は子供までもよく生み育てた、果報めでたい大将だ。
武威が末代まで衰えずに盛んであるのは、弓取りが願ってやまない武運である。

大内の義興は、当人一代の間は武運も古今に傑出し、
義稙公を天下の武将に祭り上げて、自身は七ヶ国の太守となりながら、
九州をもその手に属させた。
だから今の元就よりも武名の誉れは世に名高いというものの、
子の義隆は武もできず、文も中途半端だった。
これを思えば、元就は弓取りとして義興にも勝る武運の持ち主だ。
弓取りとして子を持つならば、元就にあやかりたいと思うほどだ」と言ったという。

これは、魏の曹操が赤壁の戦いで呉の孫権が周瑜によって破られ、
その後兵を加えてもうまくいかずに、溜息をついて
「子を生むならば孫仲謀のような者がいい。
向こうの劉景升の子供たちは、豚や犬のような者しかいない」と言ったというのも、
まさにこのようなことかと思い知られる。

晴久は先陣の戦で味方が利を失ったと聞くと、急いで本陣を寄せたので、
国久を先陣として、橋を隔てて矢戦があった。
「吉川勢は朝からの戦で疲れているだろうから、少し息を整えよ」ということで、
元就様・隆元様が二千余騎で入れ替わりながら足軽競り合いをする。
晴久は二万の勢を川越えさせることができないので、
川岸に立って遠くから矢を射掛けることしかできない。

吏部・金吾は、今朝の合戦で利を失ったので、川を渡って一戦しようと進んだけれども、
亀井・牛尾たちは「川の水が非常に増しております。
渡ろうとしても大勢溺死するでしょう。それに、今日はもう夕暮れが迫っています。
決戦は明日ということにして、今夜のうちに手勢を分け、
川の上下に渡れる場所がないわけがないので、この土地に詳しい者を先に立て、
一隊を夜のうちに向こう岸に渡しましょう。
明日、両方から敵陣を挟み撃ちにすれば、勝利は疑いありません。
どうかこれからの川渡りはおやめください」と制した。

こうして日もすでに傾いていたので、敵味方ともに勢を引き上げた。
尼子勢は二日のうちに川の上下一、二里のところから勢を渡し、
三方から攻め戦おうと決議したが、
その夜からまた大雨が強く降って水かさがさらに増したので、
晴久は仕方なく釜棟に陣を据えた。
元就様父子三人は四千余騎で志和地に対陣した。

こうしてその日の戦が終わり、今日討ち取った首などを実検した。
首は六つあったが、そのなかに佐久木新右衛門が米原の首を提げて元就様の前に駆けつけてきて、
実検に備えていた。
米原は鉄漿を真っ黒につけており、乱れた髪に焚き染めた香がほのかに匂ってきた。
元就様は、「なんという剛の者だろう。
今日討ち死にすると思い定めていたのだろう。
勇に優れているばかりか、心も優美なつわものだ」と言って感涙に咽んだ。
御前に居並んだ侍たちも皆鎧の袖を湿らせた。
昔の斉藤実盛は、髪を墨で染めて名を北国の故郷までとどろかせ、
今の米原は髪に香を焚き染めて勇を備陽の戦場に刻み付けた。
感心しない者はいなかった。

さて、五月雨は絶え間なく降り続け、川の近くの村々の民家はすべて水底に沈んでしまった。
庭の木々も波間に沈み、魚が梢に遊んでいるような状況では、合戦などできるわけがない。
互いに水が引くのを待っていた。
そこに、備後の国人たちが元就様にこう諫言した。
「味方のわずかの勢で、晴久の二万以上の大軍と対陣なさるのは非常に危険です。
そのうえ新宮党は先日の合戦に打ち負けているのですから、
この陣を枕として討ち死にする覚悟で、会稽の恥を雪ごうと歯噛みをしていると聞いています。
あの父子三人の勢は、三千以上いるのは確実です。
三千人が決死の覚悟を決めて攻め戦えば、どんな強敵堅陣であっても、破れないことなどありません。

それどころか、晴久が二万の勢で前後左右からかかってきたなら、
敵勢の一陣や二陣は切り崩せたとしても、最終的には味方が負けてしまうでしょう。
かかるべきときにはかかり、引くべきときには引いてこそ、
敵に応じて変化する兵法ではないですか。
荻の瀬合戦では二度も味方が勝利を得ました。
これで面目は保てますから、この陣はお引き払いください。

昔の楠正成も、天王寺に出張して京勢を二度まで追い崩したとき、
宇都宮が五百余騎で向かってくると聞くと、正成は三千の勢で天王寺を退却しました。
そして再び大勢を率いて山々や峰々に篝火を焚き、少しずつ攻め寄せたのです。
宇都宮もまた、前回正成を退却させたことで面目を保ち、都に引き返しました。
このような例もあるのですから、今回は退却なさって大内勢の到着を待ち、
再び大軍を率いて打って出てください」

元就様はこれを聞いて、「皆の仰せはもっともだ。
しかしながら、先にも申したように、敵が大勢だからといって見逃すことはできない。
晴久の二万騎を我が四千騎で防戦して、たとえ利を失ったとしても、
毛利家の武名の傷にはならない。
また、もし打ち勝つことができたなら、我が武名は天下に輝くだろう。
この陣は地形も険難で、敵が数万でかかってきたとしても、
たやすく攻め崩されるようなことはない。
他の人々は好きにすればいい。この元就だけは、ここで引くなど思いも寄らない」と言った。

また元就様はこう言った。
「晴久は味方が大軍であると慢心し、敵がかかってくるとは想像もせずに油断しているだろう。
ここで夜討ちをしかけて切り崩そう」と、宍戸・天野・熊谷などの人々と決議した。
同六月一日の夜、忍びに慣れた兵たちを敵陣に遣わし、陣取りの詳細をよく下見させた。
同五日(三日)の晩に切りかかろうと決定したが、
尼子はどんな深慮があったのか同五日(三日)の辰の刻、釜棟を引き払って山内へと出た。
そこから毎日足軽を出しては、在所在所で野伏戦をした。

同七日、陶の入道からの飛脚が到着し、
「近日中にそちらの境まで出張するので、粘り強く対陣してほしい」と言い送ってきた。
これで芸陽勢は力を得て、一方ならず勇み猛った。
こうなると、芸陽にいた大内勢が思い思いに馳せ加わり、六千余騎ほどになった。


以上、テキトー訳。おしまい。

うむうむ、やっぱり合戦は読んでて楽しいな(*´∇`*)
計略の応酬とか攻防がドキドキするよね。
私の苦手な故事や仏教説話もそんなにたくさん出てこないし……w

そんでもってまた元春爆ageだよ!
そうだよ、元春はカッコイイんだよ!
ただの脳筋や疲れた中間管理職とはわけが違うのだよフハハハハハ!!!
ホント吉川家にご奉公したいわぁ(*´∇`*)

あと尼子晴久や新宮党、手ごわくてかっこいいね!
米原さんもステキじゃない。鉄漿つけて髪に香を焚き染めて戦場に出てくるとか。
もし首を取られても見苦しくないように、ってことだよね。
自分で死化粧したってことか。
こんなところで意地を張る……それがもののふなのか。
そういえば経家も、鳥取城に入るとき、自分の首桶持参したっていうしな。
切腹の前には行水をして、お気に入りの服でその場に臨んだんだよな。
……せつない(´;ω;`)

さてお次、もしかしたら書状類に浮気するかもしれませんというかすでにしている。
2013-05-03

尼子と大内の狭間

陰徳記、だいたいの流れ:
大内義隆が陶隆房の謀反によって滅ぼされ、大友宗麟の弟である義長が大内家当主となった。
隆房は入道し、実名を晴賢と改めて全薑と名乗る。
義隆に味方した者たちは滅ぼされ、所領を没収され、陶に一味した者たちは所領を増やした。
しかし義長と陶全薑の大内領支配には問題もあり、杉・内藤らとの軋轢も増えていった。


備後の国、泉合戦のこと(上)

天文二十一年(二十二年)、備後の国の江田にある旗返の城主、
江田の入道(玄蕃助隆連)は、それまで大内家の幕下に属していたが、
たちまち志を翻して尼子(晴久)に一味した。

そうなってしまったのには、次のようなわけがあったという。
山内大和守(少輔四郎隆通)がこう言って江田を誘った。
「あなたが大内家に属しているのは実にまずいと思う。
つらつら大内家の様子を見ていると、滅亡はそう遠くないとわかる。

まず義隆卿だが、太公の言ういわゆる十過、
つまり『貪りて利を好む者あり。仁にして人に忍びざる者あり。
智にして心つたなき者あり。信にして喜んで人を信ずる者あり。
廉潔にして人を愛さぬ者あり。智にして心緩き者あり。
儒にして喜んで人を任ずる者あり』という七つの不善が備わっていたものだから、
結局は家人の陶によって家を滅ぼされ、命を奪われてしまった。

今は縁もゆかりもない大友左衛門督義鎮の弟である義長を大内の当主に据えているが、
これは傀儡師が人形を舞わせているようなもので、
何につけても陶の一存でことが運ばれている。
陶全薑は杉の重矩を断罪して誅してしまったから、この一族は皆きっと陶に恨みを抱き、
『何か事件でも起きないものか。全薑に向かって一矢報いてやろう』と、
時節を待っているはずだ。

内藤(興盛)・豊田といった者たちは、
義隆卿が相良という大奸臣を重用して政道がことごとく狂っていたために、
一旦は陶に味方したのだ。
陶が不善を改めて内藤・豊田らに礼を尽くし朋友の交わりを深めるならまだしも、
そうしないばかりか、陶はまったく鼻持ちならない驕慢な古入道だ。
義隆を討ち果たした後は、自分こそが防長豊筑の大将であるとばかりにますます驕り高ぶり、大
内家の諸士を皆自分の家之子郎党のように扱っている。
内藤・豊田といった人々も、『これでは義隆のときよりひどい』と、後悔しきりだという。

陶は弓矢を取らせれば豪胆そのもので、大将の器に適しているように見えるが、
これもまた『勇にして死を軽んずる者あり。急にして心の速やかなる者あり。
貪りて利を好む者あり。剛毅にして自ら用いる者あり』といった不善に他ならない。
いずれは尼子によって滅ぼされるか、
そうでなければ防長豊筑備芸石の味方たちがバラバラになって陶に背き、
同士討ちが始まって滅亡することになるだろう。
そうなればその隙に乗じて尼子が備芸石をたちまち手に入れることになるだろう。
たとえ六尺の棒で大地を叩こうとして失敗することがあったとしても、
このことに関しては、私の予言が外れることはないと思う。

陶が滅びた後に大内の領分を切り従えることができる大将は、
毛利元就か吉見正頼の二人のうちのどちらかだ。
元就には国人たちが多く付き従っている。
なかでも熊谷・天野という将兵の器を兼ね備えた者が一味しているから、
羽翼もすでに整っている。だから今後は毛利家の武威はますます大きくなるだろう。
そのうえ隆元・元春・隆景の三人の子供は、いずれも劣らぬ大将だ。
たとえ元就がいなくなっても、百年後まで毛利家の弓精はいや増すはずだ。

尼子晴久の家老たちは、主人に『元就と和睦してください』と諫言をしている。
晴久の祖父の経久は大内義興と何年も敵対していたが、
元就が尼子家に一味していた間は、大内義興が名将であったにも関わらず、
芸陽では大内が何度も戦利を失っている。
その子の義隆は父に比べようがないほど出来が悪かったというのに、
今は元就が一味しているから、安芸一国は残らず大内家に従っている。

とにかく、大内・尼子の国争いは、元就が味方した方が勝利しているわけだ。
だから『晴久も先非を悔いて元就と和睦してください』と、
牛尾遠江守たちが再三意見をしているのだ。
晴久も、『元就が味方に与するなら、備後一国は元就の切り取り放題だ』と仰ったそうだ。
おそらく右馬頭(元就)も、大内家の武運を見限っているだろうから、
尼子に属すことになるだろう。

あなたも尼子に従うべきだ。
しかし大内家の勢いが尽きてからでは、降参したのと同じになってしまう。
大内家の武威がまだ盛んなうちに尼子に一味しておけば、
尼子への志が深いと表明できて、あなたのためになるだろう」

山内がこう言ったので、江田はその道理に屈服してすぐに尼子に属し、
大内への手切れとして、大内領の在所へと攻撃を加え、
民家に放火したり一揆勢を薙ぎ捨てたりした。

元就様はこのことを山口に注進すると、自ら四千余騎を率いて備後の国へと向かった(四月五日)。
江田はどうにもかないようがないと思い、すぐに尼子へと早馬を遣わして急を告げた。
晴久は「元就が小勢で備後へ打って出てきたとは、願ってもない幸運だ。
急ぎ後詰をしてあっという間に打ち滅ぼし、
その勢いに乗ったまま芸陽一国を切り従えて、周防へと攻め入ろう」と、
出雲・伯耆・石見・美作の勢を集めた。
そして総勢二万余騎で出雲を打ち立った(四月)。

備後の涌(湯)木の城には、大内家から主力の兵が十三人差し籠められていたが、
涌木(喜)の何某がすぐに心変わりして尼子に一味し、
その十三人をすべて討ち果たしてしまった。
元就様は「まずは涌木を攻め滅ぼそう」と、五月二十日にその表へとやってきた。
そこに尼子晴久が二万余騎で着陣し、涌木が味方に与したことに力を得て
、尼子紀伊守国久・嫡子の式部大(少)輔誠久・次男の左衛門太夫(敬久)を大将として、
牛尾遠江守(幸清)・宇山飛騨守(久兼)・米原左馬允・桜井刑部少輔・
広田隠岐守・疋田左衛門尉など五千余騎が荻の瀬表へと打って出て、
晴久の本陣に五十余町ほど先立った。

国久は、芸陽勢が橋を前にして備えていると見ると、軍を三つに分けた。
先陣は尼子式部少輔・宇山飛騨守・米原左馬允・疋田左衛門尉をはじめとした二千余騎である。
二陣は尼子左衛門太夫・牛尾遠江守・桜井刑部少輔の一千余騎、
その後に尼子紀伊守が二千余騎で控えた。
「一陣・二陣で元就父子と渡り合って攻め戦えば、
勝っても負けても敵の備えは乱れるだろう。
そのとき国久が旗本を率いて無二に攻めかかり、敵の将を討ち取ってやろう」
という計画が立てられた。

芸陽勢も、先陣は吉川治部少輔元春を大将として、
それに従う国人衆は、熊谷伊豆守信直・香川左衛門光景・飯田七郎右衛門尉・
山田左衛門太夫・福島三郎左衛門尉・遠藤左京亮など二千余騎が、
荻の瀬の橋を前に備えていた。
元就様・隆元様は、こちらも二千余騎で少し後ろの小高い場所に控えている。
泉の入道父子は、「私はこの土地に詳しいので、
先陣に馳せ加わって一合戦して参ります」と元就様にことわってから、元春の手についた。

はじめは互いに弓衆を出して橋の両方のたもとに詰め寄り、矢戦をしながら時間が過ぎていった。
「荻の瀬の表で合戦が始まりました」と晴久の本陣に注進が届くと、
晴久はすぐに川添(副)美作守(久盛)・立原備前守(幸隆)・伊藤入道・
三沢三郎左衛門・松田勘解由・目黒佐渡守など三千余騎を、
「新宮党に合力せよ」と差し向けた。
晴久自身も、「先陣の合戦の様子によっては本陣を率いて一合戦しよう」と考え、
二十余町ほど進んだ。

国久父子は、「合戦が始まれば、きっと晴久が駆けつけてくださるだろう。
まだ味方が続いてこないうちに一戦して敵を押し破り、
私一人の高名にしてしまおう」と考えて、すぐに橋の上に進んできた。
元春も、「晴久の大軍が後から続いてきたら一大事だ。
その前に急いで切り崩さなければ」と考えて、一気に敵を挫こうと、
一際進んで渡り合い、わき目も振らずに攻め戦った。

出雲勢の大将は、そのころ鬼神のように世間から恐れられていた国久父子である。
芸陽勢の大将は、大強将の名を得た元春である。
元春は当年二十二歳の若大将なので、その勇気は金輪の高山を照らすほどであった。
そのうえ新宮党の人々とは、今日が始めての大合戦となるので、
自分の手並みを見せつけようと、日頃にも増して豪胆さをふるった。

そうしているうちに、橋の上の戦は火花が散るほどになったが、
最近の五月雨で川は水かさを増し、流れが逆巻いて川岸を覆っていたので、
どこから渡れるのかわからなくなっていた。
尼子勢の方が多勢であったが、川を渡ることもできなかったので、
ただ橋の一本道を競り越そうと、揉みに揉んで攻め戦った。

出雲勢のなかで米原左馬允が名乗りを上げ、
三度の合戦では毎度真っ先に進んで向かう敵を多く突き伏せ、命を限りに攻め戦った。
その様子は、伝え聞く治承の昔、源三位入道(頼政)の郎党、
渡辺省・授・続の源太が宇治橋の上で勇猛に戦ったという話を思い起こさせ、
敵も味方もこれを見て皆感心した。

両陣の兵たちは橋を狭く感じたものの、ほかに通れる場所もなく、
肩をぶつけ鉾を並べ、叫びながら攻め戦っていた。
その声や音は、幾百幾千の雷が天地を揺るがすかのようであった。
元春が「いつまでも勝負を決さないままではいられない。いざ目にもの見せてやる」と、
自ら鑓を提げて橋を渡ろうとすると、新庄勢は言うに及ばず、
熊谷・香川・飯田・山田・福島・遠藤も無二にかかって敵を押し崩した。
出雲勢は突き立てられて少し引く。
米原左馬允が「なぜ下がってくるのだ。進めや者ども」と叫んで真っ先に進み、
ここが最後だという気合を見せる。
すると芸陽勢が少し怯んだので、米原は勝ち乗ってこのまま橋を競り越そうと、身を躍らせて進んだ。

備後の住人に、佐久木新右衛門という者がいた。
名高い弓の名手であったが、橋が非常に狭くて渡りようがなかったので、
川下の方へ回り、敵に矢を射掛けていた。
米原が一人で真っ先に進むのを見て、佐久木はよく引いて矢を放った。
その矢は米原の脇から肩まで貫通した。
さすがにハンカイのように勇猛な米原も、あまりの深手にたまらず鑓をカラリと投げ捨て、
橋から真っ逆さまに川の中へと落ちてしまった。
佐久木は「やったぞ」と弓を投げ捨てて走りかかり、米原の首を掻き切った。

芸陽勢はこれに力を得て、槍長刀の先を揃え、一度にドッと突きかかった。
出雲勢はたちまち橋を追い抜かれ、群れになってさっと引いた。
式部少輔は名高い力持ちの勇将だったので、
「これはどうしたことだ。敵は小勢だというのに、こうも易々と突き立てられるとは口惜しい。
引き返せ、宇山。戻れ、疋田」と下知をして、自らも馬を引き返し、鑓を入れて散々に戦った。
しかし浮き足立った軍勢の耳に下知は届かず、皆逃げていく。
式部はわずかな勢では勝ち目もないので、二、三町ほど引き退いた。


以上、テキトー訳。つづく。

( ゚∀゚)o彡°かっせん!かっせん!
若元春が非常にヤル気な( ゚∀゚)o彡°かっせん!かっせん!
イィィヤッフーーー!!!
取り乱しましたが、やはり合戦描写は楽しいね!
血気盛んな若元春……燃える。
最近、元春には中間管理職的ストレスフルなお父さんリーマンのイメージが定着していたので(私の中で)、
なんだか心が洗われたような気分です(*´∇`*)

すっかり元春に心奪われているけど、今回の話で注目すべきは、山名と江田のやりとりだな。
どちらにつくかを見極めるのって大変だよね。
「大内家が傾いてから尼子に属しても手遅れだよ!
今のうちに尼子についたほうがおトクだよ!」ってな考え方は、よく現実を見てるよなぁ。

そんでもって元就が相変わらず爆ageされているわけだけどもw
元就が加担した方が勝つ、って、すげえなwww
あと、吉見と毛利がだいたい同格、みたいな捉え方がなかなか興味深い。
もう一つ、毛利の傘下の国人で、最有力が熊谷・天野というあたりも……
実際どうだったのかは、勉強不足なのでよくわかんないけども。

さてさて、次回も続きを読みますが、せっかくのお休みなので、書状なんかもゆっくり読みたいねぇ。
ホント、3年くらい仕事行かないで軍記や書状に埋没したい!
はっ、これが五月病か!←違う。
2013-05-02

石屋和尚の遍歴

今夜は帰りが遅いので朝のうちに更新!

前回のあらすじ:
長門の国の大寧寺は、大内義隆の切腹の際にことごとく焼失したが、
その後大内家当主となった義長によって再建されることになった。
大寧寺の開基となった石屋和尚についてのお話の続き。
石屋和尚は同輩の了意和尚に騙されて、師からの伝法で出遅れてしまった。
その後諸国を遍歴して長門の国にやってくると、亡者が地獄の鬼に打ち据えられているところに出くわす。
その亡者を弔っている家にとどまり、丁寧に供養を行った。


長州深川の大寧寺のこと(下)

その夜、その主人の夢に、亡き母親が美しく幸せそうな様子で現れた。
母親は頭に珊瑚のかんざしを挿し、手には花をひねって、
「私は五障三従の罪が重く、八大地獄の底に沈んで、長いこと閻魔王の棒に打ち据えられていたの。
休む間もなく責めさいなまれていると、高貴な僧正の弔いを受けて、
たちまち安養不退の浄土に生まれ変わることができたのよ。
もう少し話をしたいけれど、急いでいかなければならないから、そうもできないわ」
と言って立ち去った。

男はあまりに悲しくて母の袂にすがり、「私もともに参ります」と言うや否や、
松を吹き抜けていく風とともに夢は覚め、見てみるとそこにいた母はどこにもいない。
ただ幸せそうな顔ばかりが思い出されて、ただの夢とも思えなかった。
「母はあの雲の上にのぼっていったのだろう」と見上げると、空には趣深く雲がたなびいていた。

男は早朝に起きると、このことを石屋和尚に話し、合唱して喜んだ。
その後男は喜びを抑えきれず、黄金三枚を取り出して和尚に寄付した。
和尚はその黄金を懐に納めると、九州に渡って薩摩の国に入り、国中を歩き回ったが、
あるときあまりに歩き疲れてとある山陰に聳えた巌にもたれかかって、しばらく休息した。

松や杉が茂っている様子を見ては、「後人の標榜にしよう」という言葉を思い出し、
散り積もる木の葉に身を横たえては青銼和尚の在世していた昔を想像して
「これこそ人間の是と非を裁断して粗末な庵を結ぶのにちょうどいい場所だ」と物思いに耽った。
和尚はあたりの松を柱の支えにして、鬱蒼と茂った草むらを引き結んで籬に造り、
しばらくはそこに足を休めた。
座禅工夫の暇もなく、ありのままに清らかに暮らしていると、
周辺の獣たちもよく馴れ、鳥たちは花をくわえて献じるようになったそうだ。

ここにどこの誰とも知らない女性が一人訪ねてきて、
「私に即心即仏の奥義を教えてください」と言ってきた。
和尚が「あなたはいったい誰だ」と問うと、その女性は、
「私はここに住む龍神です。その昔、釈尊の法座に列席したことがありますが、
まだ畜生道の苦患から逃れられません」と答えた。
和尚はすぐに直示人心見性成仏(教説や修行によることなく、
座禅によってただちに自分の心の本性を見極め、悟りを開いて仏と成ること)の教えを授けた。
龍女は合唱し、朝暮れとなく度々通ってくるようになった。

それを里の者たちが伝え聞き、
「この山陰に草庵を結んでいる石屋和尚のところへ、
それは美しく色っぽい女房が、夜毎に通っているという。
この僧はきっと、戒律を破る悪僧に違いない。
さあ、その女人を絡め取って罰を与えてやろうではないか」と言って、
百人、二百人ほどが弓矢を携え、その女房の後をついていった。

そして石屋和尚の草庵に着くと里人たちは草庵をびっしりと取り囲み、
「この中へ、それは美しい婦人が入っていっただろう。こちらに出せ」と迫る。
すると龍女は、「私がせっかく知識の豊富な高僧に出会い、
畜生道を離脱して成仏を果たす修行をしているというのに、
外道な考えを持った凡人たちがそれを妨げるとは無念極まりない」と言って、
たちまち本来の姿に変身した。
そのまま近くにあった大岩を真っ二つに砕くと、
地面を揺るがすようにして海中に飛び込んでいった。
里人たちはこれを見て肝を潰し、十方へと逃げ散った。
その大岩は「龍宮岩」と呼ばれ、今でもそこにあるそうだ。

その後和尚はそのあたりから三十余町を隔てて、直林寺という寺を建立した。
またこの国の玖田嶋というところに伽藍を造営しようとしたところ、
大きな岩が張り出していて敷地がずいぶん狭かった。
和尚がその岩の上に座して座禅すると、この石は霜や雪が陽光に照らされて
消えていくかのように、たちまちなくなってしまった。
和尚は大いに喜んで、以前問田の里の長が献上した黄金を取り出し、
亡者のために一宇を建立して「妙円寺」と名づけた。そ
の後、福昌寺などの伽藍を建てたそうだ。

和尚はそれから再び長門の国に上ると、問田を訪れてまた一宇の禅院を建て、
これもまた妙円寺と名づけた。
しばらくそこに滞在していると、ある山の上に紫の瑞雲がたなびいているのを見て、
和尚は「きっとあの山の麓に伽藍を建立すべき地があるのだろう」と思い、
期待に胸を膨らませてそこを訪れた。
それが今の大寧寺の山頭であった。

鷲津(頭)の何某(弘忠)とかいう者がそのあたりを知行していたので、
鷲津はすぐに和尚を自分の館に招き入れ、
「ぜひともこの土地で寺を開いてください。私が檀那になって建立しましょう」と言った。
和尚は「私に少し考えがあります」と言うとそこを出て、
美作の国まで行き、西来寺という寺で亡くなってしまった。
鷲津は石屋和尚の進言のとおり、石屋和尚を勧請開山として伽藍を建立し、
寺を「大寧寺」と名づけ、山号は「紫の雲がたなびいていた」というところから
「瑞雲山」としたという。

このような霊場を焼失したままにしておくのは神や仏の怒りも恐ろく、
また義隆の亡霊の怒りをなだめるためにも、ということで、
すぐにこの寺は再建され、義隆卿などの人々の位牌も立て置いて、後世菩提を弔った。

 隆福寺殿従二位黄門兼七州太守瑞雲珠天居士……義隆卿
 珠玉大居士……二条の従一位左大臣尹房公
 一貞浄忍居士……持明院の一忍軒(基規)
 珠玖禅定門……小幡四郎(義実)
 鳳仙道麟居士……冷泉判官隆豊
 善才道医禅定門……黒川近江権守(隆像)
 玉峯道玖禅定門……天野藤内(隆良)
 忠翁道孝禅定門……岡辺右衛門尉(隆景)
 道高社官……八幡(禰宜)の民部丞右信(延)
 悟翁道了禅定門……大田隠岐守(隆通)
 高岳道林禅定門……岡屋左衛門尉(隆秀)

こうして供奉の人々まで過去帳に記して、亡くなった月日が廻ってくると、
その寺の僧たちは経典を読誦したり、法話を説法したりして、その菩提を弔ったという。


以上、テキトー訳。おしまい。

妙円さんはよかったね、と言いたいところだが、
最初、いったい何が原因で地獄につながれることになったのかね。
「女だから」とかいう理由も普通にありそうだよな。仏教って。

龍女の話は、裏読みをすると、これ里の人たちが取り囲んだってのは、
集団レ○プ目的じゃないんですか……
いやに「美しい婦人」てのが強調されてる気がするんだが。
その目的が達成されたのか、里人から逃げている途中かはわからんけど、
女が海に飛び込んで自殺した、みたいな流れだろ。

そしてようやく出てきた大寧寺縁起……あっさりしすぎだと思うよ!
焼け落ちたもののすぐに再建されて、義隆たちの菩提が弔われたようだけど、
やっぱり祟りが怖いから手厚く供養するんだねぇ。
そういえば吉川興経を祀ったナンヤカヤも岩国に多くて、
興経の祟りはずいぶん恐れられていたんだなぁ、という印象だった。

興経といえば、昨日本屋で『吉川興経』って本をつらつら眺めていたんだが、
カバーの家紋マークが普通の九曜紋でさ。
岩国の吉川家は輪九曜だろ。吉川のもともとの家紋は三引両と下り藤三引両だろ。
あの本の九曜紋はどこからきたの……もともと持ってたの?
あと、毛利と両川に関する本もあったけど、
右三巴と九曜紋が並んでてさ……小早川は左三巴じゃなかったっけ?
ちょっとなんだか割り切れなかったので買いませんでしたとさ。

さて、お次は合戦だよ~。
2013-05-01

飲んで飲んで飲まれて飲んだらえらいことになった

いやはやゴールデンウィークですねぇ。
通勤電車がすいててわりと快適(*´∇`*)
なのに今日ランチに入ったお気に入りのお店で、
従業員同士の喧嘩にぶち当たってしまって軽く涙目です_ノ乙(.ン、)_
あと上司、お昼おごってくださってありがとうございました。
救われました(´;ω;`)

さてさて陰徳記。だいたいの流れ:
陶隆房が大内義隆を討ち果たし、豊後から大内義長が山口入りして、
表面上はなんとか平穏が続きそうな感じ。

てなわけで、ここらで一発、義隆の最期の舞台となった大寧寺のお話。
長いので2回に分けるよ。


長州深川の大寧寺のこと(上)

深川の大寧寺は義隆卿の切腹の際に焼失してしまったので、大内左京太夫義長より、
再び建立するように命じられ、七堂すべてが造営された。

そもそもこの大寧寺というのは、石屋和尚(真梁)の弟子の智翁和尚を開基として、
仏法繁栄の霊場である。
その昔、石屋和尚が通幻和尚の元で修行していたとき、
了庵和尚とともに三十有余年も一身に修行に打ち込んでいた。

あるときは凍え死ぬことも恐れずに雪の中に立ち、
またあるときは勉学に励んで夏の暑さをものともせずに
夏安居(げあんご、全集の集中強化修行期間)に入り、ある日桶の底が抜けるように大悟した。
このため、通幻和尚は石屋・了庵の二人の弟子に伝法を行うことを決めた。
二人の弟子たちは大喜びして、伝法の日取りを決めた。

了庵はこの伝法について、石屋より先に受けようと目論んでいたので、
石屋を呼び寄せ「血脈の伝授を祝おう」といって美酒珍膳でもてなした。
石屋は了庵のたくらみを知らなかったので、その志に感激して、数杯の盃を重ねた。
石屋は前後不覚に泥酔してしまって、しばらく枕を寄せて仮眠を取っていたが、
その隙に了庵は通幻の居室に行って、付法伝授を済ませてしまった。

そのとき石屋は夢から覚め、ガバッと起き上がり
「なんということだ。すっかりだまされてしまった」といって慌てて方丈に入り、
袈裟を投げ入れたけれども、了庵はすでに伝授を終えて退出した後だったので、
石屋は仕方なく了庵と師弟になった。
このことがあったため、その一派では今でも禁酒の令が厳しく、
酒を「塩」と呼び替えて飲むようになったそうだ。

その後了庵和尚は仏法東漸の真理にならい、関東八州で布教を盛んに行って、
宗派や格式を超越した視点で、仏祖の教えをわかりやすく説教した。
あるときは仮に五位を開いてよく三根を接し、
またあるときはじかに三句を拳して大いに群類を救った。
すると禅客たちが静かに集まってきて、雲のような列をなし星の数ほどになり、
一派は繁栄を極めた。

石屋和尚はこれを見て、「腐った肉にハエがたかっているようだ」と首をひねった。
「昔、船子の徳誠和尚が夾山の善会禅師にこう言ったそうだ。
『きらびやかでにぎやかなところに住むべきではない。
すぐに身を隠して、自分の痕跡を跡形もなく消してしまいなさい。
自分の痕跡が残っているところに身を留めようとするな。
深山钁頭のあたりに行って、一箇半箇を接取し、
我らの宗派を守り伝えて断絶しないようにしなさい』とな。
私はこの徳誠和尚の遺戒に従おう」と、
石屋は草鞋を履いて複子を持つと、西国行脚に旅立った。

ときには山野辺で石を枕に野宿して寒い夜を明かし、
または渡し口で船を待ちながら川の水で口をすすいで暑い日を過ごした。
そして七十有余日を経て、長門の国の問田というところに着いた。
里の人々は宿を提供してくれなかったので、
「私は世捨て人なのだから、野に伏せ、山にとどまるのは得意だ」と、
石屋はあちこちと歩き回った。

そうしているうちに、深山幽谷に一宇の堂を見つけた。
石屋はそこに立ち入って荷を解き、旅の疲れを休めていたが、
夜に入ると壁に向かって座禅をはじめた。

こうしたところに、異形の物の怪や青鬼・赤鬼もたくさん出てきて、
「人間くさいぞ」と話していた。
しかし和尚を見ると、「人間がいると思ったのに、そうではなかった。
一個の無の字があるだけだ」と言った。
石屋はこれを聞いて、「私は無にこだわりすぎていたのか」と風車子のように素早く斬破した。

すると鬼は、「さっきは無の字があったと思ったのに、一個もなくなっている」と言った。
その後、鬼たちが「妙円、妙円」と呼ぶと、腰から下が真っ赤になった女房が一人、
袖を顔に押し当てて泣きながら出てきた。
鬼たちはその女を散々に責めさいなみ、それから女の身を裂いて喰ってしまう。
目も当てられぬ様子であった。
そのうち東の空が白々とあけてくると、雲に乗ったり地にもぐったりして、
どこへともなく消えていった。

石屋和尚は不思議に思ったが、やがて托鉢のために堂を出て里に行くと、
とある民家に入っていった。
その家の主は祭壇を設けて香を焚き、僧たちを招聘して読経をしていたが、
石屋和尚を見るとすぐに招き入れた。
石屋和尚が仏壇の上を見てみると、「方智妙円大姉」と書かれている。
「昨夜、牛頭・馬頭に責めさいなまれていた罪人は、ここで弔われている亡者に違いない」と思い、
主人に亡くなった人のことを尋ね聞いた。
主人は生前のことなどをあれこれと語り、「今日が初七日の法要なのです」と涙を流して答えた。

石屋和尚は、「あなたの母の妙円は、奈落の底に落ちて責め苦を受けているぞ。
もし疑うなら、今晩その証拠を見せよう」と言った。
主人は大いに驚いて「では今夜、私を連れていって母の苦患を見せてください」と答えたので、
石屋和尚はその男を連れて山中へ分け入っていくと昨晩の堂に入った。

男を法衣の下に隠し、「絶対に恐怖心を抱いてはいけない」と注意して、夜半まで待つ。
四方の山風が冷たくなり、木の葉がほろほろと散る音がして、
なんとなく身の毛のよだつような感覚があった。
すると、また鬼たちがたくさん現れて「妙円、妙円」と呼び、昨夜のように女を責めさいなむのだった。
これを見てその男は手を合わせ、
「和尚さま、どうか大きな慈悲のお恵みをもって
我が母を苦患からお救いください」と頭を下げ、涙を流した。
石屋和尚はかわいそうに思い、その男の家に数十日とどまって供養を行った。

法華経を読誦していて、「もし女人であるならば、この経典を聞けば、
その通りに修行したのと同じであり、その命が終わるときには、
安楽の世界に住み、阿弥陀仏、大菩薩衆がその住処を囲み、
蓮華の中に生まれ、玉座の上に座る」という部分にさしかかると、
主人は歓喜の涙を流し、「きっとこの経の力で、
母は生別離苦を離れて成仏解脱することができるだろう」と、それは心強く思った。

そこにまた和尚が女子出定・倩女離魂といった法話を語ると、
主人はたちまち大悟発明して、「私の母に地獄に落ちるような業があっても、
大解脱できるのですね」と、ありがたそうに感涙に咽んだ。


以上、テキトー訳。つづく。

なんつーか、大寧寺縁起というよりは、石屋和尚の武勇伝ちっくな……
あ、そこは突っ込んじゃイケナイとこですかサーセン。

しかし、個人的に見逃せない話題が、僧侶の禁酒の理由なんだよな。
「酒に酔って寝てる間に出し抜かれたことあるから、うちの宗では禁酒!」
ってどうなの。なんか情けないってか。逆にかわいいかも知れんが。
私は酒好きなので、先達の失敗云々で禁酒されたら、確実に叛旗翻すよね。
あと、酒の隠語として「般若湯」ってのは聞いたことあったけど、
「塩」ってのは初めて目にしたよ。
「しゅ」と「しお」なら、語感も似てるよね。

まあ、あとは宗教話にありがちな、現実感を伴わないナントヤラだよね。
石屋和尚が妙円の弔い関連で里の主人のご厄介になったのは、
むしろご厄介になるのが目的で妙円云々の話をでっち上げたんじゃ、とか。
こういう疑心を持つのは心が曇ってますか。
でもボヤボヤしてると尻の毛まで抜かれそうな浮世だもんでさ。

さて次回も続きだけど。いつ大寧寺が出てくんのさ。
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