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2018-03-19

新社会人に対する恵瓊さんのハイパーお説教タイム

結局新しいPC買いました。
あとは死んだマシンのデータを取り出さなきゃなんないんですけどメンドい。

てなわけで、まあ更新しない間いろいろ流し読みをしてきたけれども
何かしらテーマに基づいて読んできたわけでもないんですね。
再開一発目は、キャラの濃い恵瓊さんのお手紙を読みたいと思います。

時節柄、新社会人デビューを控えた人々に響くかもしれないと思ったがそうでもなかった。

■萩藩閥閲録遺漏 大多和惣兵衛蔵書 1

安国寺恵瓊、大多和与次兵衛(元直)へ教戒の書簡写

大 与     一任 恵瓊

あなたの勤務態度について、何度か対面して話し、また書状でも注意してきました。
一時は「心を入れ替えました」などといって出向いてきたこともあったのに、
きちんと仕事をしているようには見受けられません。
佐与(佐世元嘉)からも、二日ばかり前、そういう報告が届いています。
あの人も(あなたを斡旋したことについては)悔やむばかりでしょう。

さてさて、あなたについては、父の河内(大多和就重)より男ぶりも良く、
生まれてからこれまで、十分に教育を受けてきています。
親の領地を引き継いでおり、年も若いので、
これから殿様(毛利輝元)に奉公するのに何の問題もありません。

後ろ盾としては私や佐与がいるのだから、あなたがそれほど役に立たなくとも、
仕事仲間にそこそこ認めてさえもらえれば、あなたを出世させることはできます。
それなのに、どういうつもりですか。
あなたがいい加減な気持ちで勤めてそれが見咎められたならば、
そんなあたなを贔屓することは私にもできないことです。

良いことは良い部分を伸ばし、悪い部分は悪いものと切り捨てるのが、
この国における私の使命です。
あなたが不心得のままであるならば、私は真っ先にあなたの敵となるでしょう。

下記、注意点です。

一、業務に関しては、御小姓衆の児玉小次郎(元兼)、平佐源七郎(元貞)などの
  やり方を、続きの部屋からよく見るようにしなさい。
  さてさて、殿様の御身近く、あのように召使われたいものだ、と思いませんか。
  また重臣のなかでは、佐与、二太(二宮就辰)のように成り上りたいと考えてみてください。
  仕事中は普段からそう心掛けてほしいものです。

一、これまで見てきた様子だと、出勤前のまだ家にいるときから
  「ああ、めんどくさいなぁ。今日は何をしたらいいんだろう。
   そのあたりの物陰で無駄口をたたいている愚か者たちと寄り合って、
   誰かの悪い噂でもして盛り上がれればいいなぁ」と思っているようです。
   
  良い人と交流して業務のことを学び、一日でも早く出世したいと思うでしょう。

  誰に対しても、無礼はいけません。
  福原殿などの御親類衆に対しては言うまでもないですが、
  渡石(渡辺長)などの重臣の方々がおいでになったときも、
  姿勢を整えたうえで様子を見て御礼を述べ、「ご無沙汰をしております」とか、
  遠くに使者として行く人には「ご苦労様です」などと言うといいでしょう。

一、主人のことを一番に考えて奉公しなさい。

一、仕事仲間に憎まれないようにふるまいなさい。

一、佐世殿の恩を忘れないようにしなさい。

一、母上様の恩、亡き父上様への弔いだと思って勤めなさい。

一、親類たちの意見に従いなさい。

まだまだ言いたいことはたくさんありますが、体調が悪いため、
今回はここまでとします。          恐々謹言

   九月八日     恵瓊 判
     大 与 まいる

以上、テキトー訳!

私、AKさんの書状、好きなんですよ。
勢いがあるというか、言い回しが面白いというか。
そこいくと、広家はまだおとなしい印象かなぁ。
同じような強い勢いを感じるのは、元長の書状だったりします。

今回の書状、AKさんてばパねえわ。
堂々と「贔屓して出世させてやるからそれなりに仕事しろよ」っつってるね。
やっぱさ……贔屓とか、コネとか、大事なんだね……

よく、法度で「贔屓だて禁止」って出てくるから、禁止されてるものだと思ってたけど、
法律でわざわざ禁止されるということは、横行して弊害が出てたからこそなんだなぁ、と。

お説教相手の「大多和与次兵衛」については全く調べてません!
佐世元嘉のコネで輝元近習もしくは小姓衆に加えられたのは、文脈からわかるね。
そんでもって、AKさんと佐世さんががっつりタッグ組んでんのもわかるね。
毛利家の人事権のいくらか(新規登用分あたり)は、この二人が掌握してそうだね。

というかね、輝元の中央集権を進めた「出頭人」制度の代表格が佐世元嘉なわけじゃない。
出頭人というのは、出身や身分に関係なく「能力のある者」が採用されると思ってたんだ。
でも、「出頭人=能力のあるもの」という図式は、本当に成り立つんだろうか?
論理的にはおそらく成り立たないと思う。

実際の事例において、
 ・どんな能力が
 ・誰(既存の家臣団)に比べて
 ・どの程度上回っているのか
という点で、検証されたことがあるんだろうか? むしろそれを検証し得るんだろうか?
という疑問が、この書状を読んでむくむくと大きくなりました。

輝元側近「出頭人」人事は、いわゆる「お友達人事」ってやつなんじゃないかと……

この疑念を強く持った端緒は、広家の小笠原入嗣騒動を調べていてなのですが、
そちらはまとめ切れていないので、また後日。
2013-12-02

とある吉川家臣の遍歴(下)

前回のあらすじ:
吉川興経に仕えた朝枝加賀守は、興経幽閉の際に吉川家を立ち退き、沼田で小早川家臣となった。
加賀守は小早川家中では高家である有田家の所領を相続し、有田姓を名乗る。
そして有田加賀守として、厳島合戦や須々万城攻略で武名を挙げ、
さらに九州の国人衆懐柔に奔走したり、伊予河野氏への検使としても活躍した。
河野大方(宍戸隆家嫡女)の手引きで妻を娶り、実子半兵衛が誕生するも、
後継ぎとして引き取っていた、亡き弟三郎左衛門の遺児である右京に跡を継がせる。
天正12年10月9日、死去。享年不明。
右京は安芸に引き移った河野母子のそばで仕えたが、
河野通直が死去すると隆景のいる筑前に移り、肥後国人一揆鎮圧の際に戦死した。
天正16年12月2日、享年41歳。

そういえば、朝枝加賀守・三郎左衛門に関しては、
『陰徳記』の「少輔次郎元春、吉川家相続のこと」にちょろっと出てたねw
こっちでは二人とも小早川に越したことになってました。

というわけで今回は、右京のの跡を継いだ半兵衛の訳に挑戦していきたい。
例によって()内は管理人による補足でござんす。


●朝枝嘉右衛門聞書(岩国徴古館蔵「吉川家臣覚書」)②

【朝枝半兵衛景進】

幼少のとき、加賀守・右京と死に別れ、加賀守の後妻が津生和泉に再嫁したので、和泉のもとで育った。
同腹の妹が二人おり、一人は浅野甲斐守の家来となった横見四郎兵衛の母である。
もう一人は福島左衛門大夫(正則)の家来、鶴見平右衛門の妻となり、
平右衛門が牢人すると京都の三条通に住まい、平右衛門が死去すると、
岩国の半兵衛のもとで暮らして死去した。瑚□慶珊大姉。

半兵衛は、小早川家では有田姓を名乗った。
有田右京の跡、20貫を相続し、幼年から隆景公の御手廻りでご奉公した。
二度の朝鮮出兵にも従軍し、最初に渡海したときは14歳で、小姓として召し連れられた。

隆景公がご他界なさった後は、本家の輝元公が
粟屋四郎兵衛(景雄)・井上五郎兵衛・椋梨和地・堅田和地(大和守元慶?)・梨羽をはじめ
小早川家の衆を召し抱えてくださったので、長門のイクモ(生雲)村で380石の知行を拝領した。
その後二歩上がりの新縄になり、500石に加増された。
梨羽壱岐(景宗)と同等の分限である。
この者たちが、(輝元の)次男の日向守(就隆)様に小早川の名字を名乗らせ、
御家を再興させてくださるようにと申し出たが、実現しなかったため、
御本家から立ち退いたとき、半兵衛も一緒に立ち退いた。

半兵衛はあちこち浪人しているうちに広島にやってきて、福島左衛門大夫殿にお仕えしようと考え、
左衛門殿の帰国を待っていたところ、江戸で左衛門殿が遠島を仰せ付けられてしまったので実現しなかった。
  〔(朱書注)左衛門大夫遠島……とあり、その後大坂陣で花房が……とあるのは年代が合わない〕

こうして広島に足を留めていると、広家様がお聞き付けになられ、
桂但馬(春房)を通して岩国に来るようにと仰せになったので、関ヶ浜までやってきた。
桂但馬を通じ、「(吉川の)御家に召し置かなくてはならない家筋なので召し抱えたい」
と伝えられ、ありがたく存じ奉り、ご奉公申し上げた。
当面の堪忍料として、60石の知行を与えられ、追って加増してくださるとのことだった。

広家様の一代のうちは、使番を仰せ付けられて、あちこちへと遣わされた。
大坂陣の前には、西国の様子を探るために(幕府より)花房助兵衛殿(職秀、職之)が
備中へと遣わされてきたので、指示を仰ぐために半兵衛が使者として遣わされた。

備中の助兵衛殿の宿所に参上すると、口上は直接お聞きになるということで、
助兵衛殿の家老一人とともにまかり出て、対面した。
助兵衛殿は炉の脇に半兵衛を呼び入れると、家老に対して
「続きの間には三間ほど掛け金をかけてくれ」とお命じになり、
家老には「そこで話を聞いているように」と仰せになった。
広家様の御口上をお聞きになると、助兵衛殿はこう仰せになった。

「このたびは私の方へのお問い合わせが遅かったので、それはそれは心配していたが、
こうして書状と口上を承り、さてもさても安堵した。
それというのも、江戸の家康公の御前にて、亀井能登守(政矩)が
『吉川も大坂籠城の人数に加わると聞いております』などとを言い出したのだ。
家康公はそれをお聞きになり、『なんと、そうだったのか。
最近では弓矢(戦)の剛者は広家の他にはそうそういないというのに、
なんとも苦々しいことだ』と仰せになられた。

そのとき私は、『広家が籠城するという情報をお確かめになってから仰せください。
そのようなことはありえないと私は思います。
上様もご存知の通り、私は広家とは特別に心安い間柄です。
彼の人の所存もよく存じております。
十のうち十勝てるとわかっている合戦でさえも、思案を重ねるような性格です。
今回の大坂籠城は、大将は秀頼公、その他は旗本の若者共、あとは諸牢人を掻き集めたにすぎません。
百のうち百も勝ち目がないとわかっている籠城の人数に加わるような人ではありません』
と申し上げた。
すると能登守は、『今回の籠城の人数の確かなことはわかりませんので、
風聞を申したまでです』と言った。

家康公は、この助兵衛の申したことに納得してくださったが、
『しかし、関ヶ原陣のときに、広家は当方に別してひとかたならぬ忠義を貫いてくれた。
だから周防・長門の二ヶ国を広家に与えたが、
広家自身がこの二ヶ国を輝元に与えてくれるようにと固辞し、
それがかなわないときは輝元同様に牢人の身になる覚悟だと言うので、輝元に遣わしたのだ。
とはいっても大忠にほかならないのだから、そのほかに三、四郡ほどは広家に宛行うべきだったのに、
そうしなかったから腹を立てて籠城の人数に加わったのかと思った』
というご上意であった。
そう仰せられると私も何も言えない。
こんなことがあったので、こうして使者を立ててくれて、本当に安心した。

そうして大坂の陣が目前に迫ってきたので、私は西国の様子をうかがうために罷り上ってきた。
家康公もおっつけご上洛なされる。
そなたは急いで国元に帰り、私が申したことを広家に伝えて、
兵の人数はそろえなくてもよいから、早々にお手廻りの衆だけをお連れになって上方に行き、
大津・草津あたりまで家康公のお迎えにおいでになるように、と進言してくれ。
お迎えに行ったら、『ご上洛の噂を聞いて、手廻りだけで馳せ参じました。
もし御用があれば仰せ付けください』と家康公に申し上げるといい。
そうすれば、江戸で私が耳にしたご上意の件もあるのだから、
戦が終わったら一ヶ国は拝領できるだろう。
これについては、この助兵衛が保証してもいい」との御返答だった。

そのとき半兵衛はこう申し上げた。
「只今お聞きした、江戸の家康公の御前で仰せくださったこと、
それにお迎えのため早々に罷り上るようにとのご助言、
広家が聞けば、どれもこれも忝く存じ奉ることでしょう。
私ごときでさえ、このお礼の気持ちは心の底まで申し上げることができません。
実にありがたいことでございます。
しかしながら、家康公のお迎えのために広家が罷り上るというのは、
先程口上でも申しましたように、この二年ほど広家は病床に伏しており、何をするにも思うに任せません。
助兵衛殿のご内意をお聞きしても、私が考えますには、罷り上ることはできかねると思います。
そのようにご理解をいただきたく思います。
この件を申し上げないままお迎えに罷り出なかった場合、さぞご不審に思われるでしょう。
ですから、前もって申し上げておきます」

こう申し上げると、助兵衛殿は、
「ふむふむ、事情は確かに承知した。広家がおいでにならなければ確かに疑念をかけられよう。
よく気が付いて申したものだ」と仰せになり、ご自分の家老に対して、
「使者に参るときなどは、このような心遣いが肝要なのだぞ」と仰った。
そして小声になり、家老には聞こえないように、
「広家の御心中は、そなたの申す通りだと思う。しかしそれは考えが古い。
これからはそのようなやり方では通じない。このことを広家によく申し上げてくれ」
と仰せになった。半兵衛はお料理でもてなされ、帰国した。

帰宅して早々にこの件を広家様に申し上げると、
ご病気なので上坂できそうにないと助兵衛殿に申し上げたことをたいそうお気に召され、
「これは半兵衛の一存というよりも、神仏のご加護ともいうべきだ」と、
それはそれは御機嫌なご様子だった。
「明日、老中も同座して話を聞くから、この件を申すように」ということで、
老中がお揃いになってからこの話をし、広家様の意にかなうことができた。
大坂の陣へもお供いたし、大坂に着船するとすぐに助兵衛殿への使者に立った。

広家様の代に、分限が少なくて奉公を続けることができないため、二度辞表を出した。
しかし、後日取り立てると言われたまま、時だけが過ぎてしまった。
広正様の代には、萩に駐在して奏者役を務めた。
隠居を申し出て、かわって伊兵衛がご奉公すると申し上げたところ、お許しをいただいた。
「半兵衛の代のうちに取り立てたく思っていたのに、何かと機を逸してしまった。
普通の楽隠居だとは思わないでくれ。おまえの力が必要なときが来たら働いてほしい。
そのように心得ておくように」との御意だった。
2~3年して、主膳(吉川就紀、広正の子)様の後見役に山縣又右衛門が付けられ、
その副役を半兵衛が仰せ付けられ、江戸に罷り下った。
又右衛門は90石の仕組で罷り下るようにとのことで、その通りにした。

半兵衛は在世中に一代のことを書き表したいと申していたが、
「当家は私の代になって散り散りになり、その上親とは幼いころに死に別れたので、
これまでの書物なども失ってしまった。これではどうしようもない」と諦めていた。
半兵衛が内々に話していたことを書き出すと、以上になる。
きっとこのほかにもご用を務めてお役に立ったこともあるだろうが、
こうした事情があるので書き付けなかった。
このほか、キリシタンの宗門のこと(島原の乱か)で所司代板倉周防(重宗)殿へと
森脇源右衛門と半兵衛が罷り出て、首尾よく罷り下ったのでお褒めいただいたとのこと。

広正様の御代にも、子供が多数いたので身上を保てないから辞めさせてほしいと申し上げたが、
慰留されてご奉公を続け、こうして嘉右衛門まで続いている。


以上、テキトー訳。これでおしまい。

なんかな、加賀守・右京の代はそれほど目立った突っ込みどころがなさそうなのに、
年代が後の半兵衛の情報が一番怪しいってどういうことなの。
まず朱書で先人が突っ込んでいたように、
福島正則の左遷(元和5年)より大坂の陣(慶長19~20年)のが早いからそこがまずおかしい。
また、粟四兵ら隆景遺臣たちが出奔したのは、就隆誕生以前だって(「伊予の戦国史」管理人様のご指摘)。
これについては、秀包遺児とか、小早川家再興運動の神輿になった候補者が別にいて、
再興運動自体はあった可能性も捨てきれないそうだけど。
それに、根拠はないが、花房助兵衛とのやり取りが、ものっそいぁゃιぃ……よね?
だって、いきなりこんなに詳しいなんておかしくない?
まるで小説のワンシーン読んでるみたいよ。話盛ってるよね???
花助兵と広家の仲が良かったってのは、仲をうかがわせる書状もいくつか残ってるし、
あんまり疑わなくて良さそうだけど、家康発言による広家の持ち上げっぷりがな。
実にぁゃιぃ……

だがしかし。この半兵衛・花助兵会談は、これはこれで面白いので好きです。
史実かどうかは置いといてね。逸話として。
「確実に勝てる戦いにさえ慎重になる性格」って評価されるとか、
広家さん、花助兵と一緒のとき何したん……と、妄想が膨らむよね。
むしろ「慎重な性格」ってのは、半兵衛自身の広家への批評かもしれんな。
思い起こせよ関ヶ原……いや待て、あのときだって広家は、
「西軍の統率がバラバラで、こんなんじゃ勝てそうにない」って判断してたじゃん。
まあ私の反論はどうでもいいか。相手が花助兵にしろ半兵衛にしろ、もうこの世にいないし。

花助兵が「広家の考え方は古くて今の流儀には合わない」って指摘したのは、
いったい何を指すのかな~、と考えてみたけど、
「徳川方からの吉川への優遇や加増などを、宗家の毛利家や世情の評判を憚って遠慮している」
っとこが、「古い」と言われる部分なのかな、なんて思った。
だって慶長12年ごろから病気を理由に家康と距離置いてるんだよね、広家。
慶長6年には、秀忠・井伊→黒田長政ってルートで加増の話があったらしいし(真偽未確認)。
慶長8年の上洛時には家康から熱海の湯桶拝領してるし。
慶長11年の江戸の普請では、家康から「現場にいなくていいから熱海に湯治においで」って誘われてるし。
そもそも江戸証人からして「血筋の者じゃなくていい」って、かなりの優遇だよね。
毛利宗家の手前、こうした優遇はまずいわな。
断リ続けると今度は幕府が怖いし、となると接触を控えるしか……
というかまた私は横道に……反省。

半兵衛に話を戻すと、母親が子連れで再婚した「津生」さんてのがヒットしない。
いきなりつまずくかと思いきや、「坪生和泉守元貞」が小早川家中にいるみたいなので、
たぶんこれじゃないかと。
前回読めなかったメモ書き?部分の「□□生」は、きっと「つほ生(つぼう)」だ。
きっと写しを作るときに「坪」を「津」と書き間違えたか読み間違えたかしたんだろう。
よくあることだよね(私も今回読み・書き間違いともにひどい頻度orz)。
同母妹が嫁いだらしい横見某というのも、もとは小早川家中だよね。
鶴見はわからぬ……あと半兵衛が跡を譲った伊兵衛てのは誰だ。子の一人か。
次回岩国訪問時にでも、系図を見せてもらいましょうね。

そうそう、前回記事・今回記事ともに、人名検索に利用させていただいたのは、
村井良介氏の「芸備国衆家臣団一覧表」(pdf版)でござんす。
「右京=景勝」情報も、正確にはこちらから「伊予の戦国史」管理人様経由で。

用語についても今回調べきれんかったのが。
「二歩上がりの新縄」て何じゃ。「新縄」は「あらなわ」で、荒縄(太い縄)のこと?
なら、「二分増えて身上が太く(豊かに)なった」ってことかな?
「90石の仕組」ってなんだろう。予算のことデスカ?
基礎知識のない自分の身がうらめしい。
でも独学だったらこんなもんだよね(震え声

そんなわけで、吉川家臣→小早川家臣→毛利家臣→吉川家臣という遍歴を辿った
朝枝・有田三代を追ってきたわけですが。
『陰徳記』読んでて、「侍は渡りもの」って言葉にたびたび出会うわけだけど、
実例がこんな感じなのかな。
特にまとめらしいまとめはありませぬ。

その他、つらつら思うことは、長くなったしただの妄想だから、続きにて。


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2013-12-01

とある吉川家臣の遍歴(上)

ウィークデーがわりかし忙しいので更新できぬまま、
なんとはなしに最近仕入れた資料だけ流し読みする日々……
トリ頭だから右から左に情報がすり抜けてゆくのよ。やんなっちゃうorz

このままではよろしくないので、何かまとめられそうなネタを探したところ、
岩国に伝わった吉川家臣関連で面白い話を見つけ、ついったでだだ漏らしっぱなしだったことに気付いた。
忘れないうちにまとめておこうと思う。
例によって例による理解できてないテキトー訳なわけですが、
今回は原本が筆文字なので、読めなかった文字とかもあってさらにカオスだよ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
もちろん崩し字など読めるはずもなく、楷書で記された部分をどうにか読んだだけです。

最初にどんな話かってのをさっくり説明しておくと、
吉川興経の家臣だった朝枝(有田)加賀守、その甥であり後継者の右京、
そのまた後継者の半兵衛(加賀守の実子)といった人物が語り継いできた話を、
子孫の朝枝嘉右衛門という人が「聞書」として著したものらしい。
文中に「慶安五年まで何年」とか出てくるから、成立年代はその辺なんだろうと想像。
朝枝氏の系図は見たことないので、あんまり詳しく追えてませぬ。
()内は管理人による補足でござる。


●朝枝嘉右衛門聞書(岩国徴古館蔵『吉川家臣覚書』)①
「朝枝久呉より差し出す」
「朝枝嘉右衛門、父半兵衛よりの聞書の写し」

【朝枝加賀守】

若い頃の名は弥次郎、その後右京、加賀守を名乗る。
もとは朝枝・境と並び称されるような、吉川家の家臣だった。
しかし、この加賀守の代になって牢人することになった。
それというのも、興経公が毛利元春公を養子にされるときに、
興経公が叛逆を企てていると噂する者たちがいた。
毛利元就公が興経公に切腹を仰せ付けられたので、加賀守は吉川家を出た。
この話はよく効かされているが、加賀守は興経公にあれこれと諫言をしたけれども、
興経公が全く聞いてくださらなかった。
加賀守は「結局私が何を言っても、興経公は今までどおりに私が守ってくれるとお考えになって
本気で向き合ってくださらないのだろう。
頼りにしている家臣たちがいなくなれば、(元就への)逆心もおさまるはずだ」
と考えた末、立ち退いたのである。

その後は、安芸の奴田(沼田)、隆景公の領内で暮らしていた。
隆景公はそれをお聞きになると、元春公に了解を得て、加賀守を家来として召し抱えてくださった。
そうして数年奉公したので、有田式部少輔の跡である75貫を拝領した。
また御座敷へと呼び出され、有田の名字を名乗るように仰せ付けられた。
有田というのは小早川家では高家であり、詳しくは小早川の系図に載っている。

安芸の厳島の陣で陶と決戦となったとき、同国の大(火か)立・廿日市へと毛利家が進軍された。
厳島の本城には隆景公が人数を籠め置かれ、御三殿がいろいろと相談をしたが、
「こうなっては野嶋(能島)・来島に頼らなくてはかないそうもない」ということで、
この両家の居城がある伊予へと加賀守が遣わされ、
すぐに両家を引き連れて罷り帰ってきた。
この証拠として、両家から加賀守への書状がある。
そうして両家の者たちと相談し、未明に厳島へと打ち渡った。
隆景が配下の城に籠城なされるので加賀守もお供し、陶を追い崩して二度高名した。
隆景公からの感状が二通ある。
陶を討伐なされたので、周防・長門の両国は元就公の御手に属した。
その翌年の春、周防のスヽマ(須々万)の城を攻め落とした際にも、加賀守は高名した。
これも感状が一通残っている。
同年、周防の大野という土地で25貫の御加増があった。

その次の年から三年間、筑前の立花道接(雪)・高橋・秋月の三人衆へと、
「中国(毛利)にお味方なさるならばご出陣なさってください」と交渉するため、
加賀守は安芸と筑前を行き来した。
この三人衆、またその他にも一味すると約束してくれた者たちがいたので、
(元就が?)立花陣を思い立たれたそうだ。
筑前においでになると、元就公・元春・隆景公が連署された判物をいただいた。
それには、「そなたが三年間も苦労してくれたからこそ、今回の立花への出陣が決まり、
大変うれしく思う。ついては、そちらの土地で案内を務めるように」とあった。

筑前では、ハカタ(博多)の小福寺を宿にして、方々をめぐっていた。
市川経佳(好)が籠っていた山口の城へと、豊後から義長を騙って乱入してきた者があった(大内輝弘)。
(毛利家は)すぐに筑前から撤退され、すぐに叛逆した者たちを討ち果たした。
隆景公は山口に加賀守を1年間残し置かれたので、翌年になってから沼田に帰った。
そこへ、博多の小福寺の万念和尚が訪ねてきた。
寺で讒訴され、住むことができなくなったので、加賀守を頼ってきたそうだ。
この件を隆景公に申し上げると、沼田の蓮華寺という寺に二百貫をつけ、万念和尚を住まわせてくださった。
後年、輝元公へと話を通してくださり、万念和尚は吉田の洞春寺の住持となった。

その後、伊予の河野弾正(通直?通宣?村上通康?)殿が死去された。
ご子息の四郎殿(牛福、通直?)はまだ幼少だったので、隆景公は河野家に加賀守を付け置かれた。
加賀守は伊予で、河野家から100貫の知行を拝領した。
また隆景公からも、伊予への出張手当として、安芸の大崎でニ十貫を拝領した。

河野大方(宍戸隆家の娘?)様から、半兵衛の母が加賀守に娶わされた。
母の本国は土佐の国で、吉良殿の一老である天竺飛騨守の息女として生まれた。
居城は土佐の内浦というところだったが、長祖加辺(曽我部)殿がその城を攻め落とされたので、
父子三人は切腹し、母は娘(半兵衛の母)を連れて伊予のドフコ(道後)の町に落ち延び、
育てた娘を河野殿へと進上したそうだ。
そして加賀守に実子である半兵衛が生まれたので、安芸の本領120貫を、甥の有田右京に譲った。
伊予の戦乱のときは、沼田(隆景)からの下知や法度を諸国人に通達するため、
加賀守が伊予に駐在していた。
加賀守は年老いてしまったので、跡を右京に任せて沼田へ帰った。
それから2~3年して加賀守は死去した。
命日は天正十二年十月九日、戒名は三甫宗玄居士である。慶安5年まで69年。

加賀守には弟が一人いて、朝枝三郎左衛門という名で、
興経公ご切腹の際に共に死去した。その子供が右京である。
当時は幼少だったので、今田上野介(経高)の判断で出家させていたが、
加賀守に実子が生まれないので、上野介から引き取って沼田で育てた。
桂伯耆殿のハイ(不明)と、この右京とは同腹の兄弟である。


【有田右京進】

若名は弥四郎、加賀守の跡の両方(小早川家知行分・河野家知行分)合わせて220貫を拝領。

島津陣のこと、大公(閤)様の九州征伐のときまでは、伊予に暮らす。
隆景公が太閤様から筑前一国・肥前の基諱郡・養父郡の50万石を拝領して、伊予を返上した。
このようになったので、河野大方様・同四郎殿(牛福、通直?)は、
安芸の高原で3000貫を与えられ、そこでお二人で暮らされていた。
その年、四郎殿が死去なさったので、右京は筑前に罷り下った。
肥後の国の半国を領していた佐々陸奥守(成政)の領内、鰐(ワニ)の城主が叛逆したので、
隆景公の指令により、粟屋四郎兵衛・有田右京の二人が兵を率いて鎮圧に向かった。
城の抵抗が激しかったため、四郎兵衛はけがを負って引き返し、右京進は討死してしまった。
今はなくなってしまったが、そこに廟所が建てられ、半兵衛が13歳で筑前に罷り下ったときに参詣した。
戒名は真宗道鐡居士、命日は天正16年12月2日、享年41歳であった。
慶安五年まで六十五年。

     隆景公
   筑前一国五十万石肥前二郡
   御城本名嶋備後内出雲内十六万石周防の内安芸の内

  宗玄事
   井上五郎兵衛・粟屋四郎兵衛・桂宮内少・兼久内蔵丞
  高山主水事
   ムジヤアゲ弥左衛門
        鵜飼(ウカイ)新右衛門
        手嶋市之介
            □□(つほ?)生和泉・同与兵衛

以上、テキトー訳。つづく。

長いな……_ノ乙(.ン、)_
軍記の一章ってわけじゃなく、ひとまとまりの家伝のようなものだから
片手間にやっつけるってわけにはいかんでな。
文中に出てきた誤表記というか異表記?は、一通り残してみたよ。
沼田→奴田とか、長曽我部→祖加辺とか、おもしろいよね((└(:D」┌)┘))

右京の段の、最後のメモ書きみたいなのはよくわからんかった。
□のところは読めてませんすみません。
あとすみません河野さんちはあれこれありすぎて把握できてません><。
ツッコミ大歓迎です(・`ω´・)

この朝枝(有田)加賀守、吉川家から小早川家に転職して大出世!という人なんだけれども、
この「聞書」が『吉川家臣覚書』に収録されていて差出人が朝枝姓ってことは……
そうだね、プロテインだね!じゃなくて子孫がまたぞろ吉川家に帰参したんだね!
こんな足跡をたどってる家臣がいるのか!って、大興奮しとりますwww
加賀守の代から、だいぶ時間が経ってからのもので、しかも聞書なので、
ちょこちょこ突っ込みどころはありそうな感じ。私にはわからんが。

これを最初に読んだとき、真っ先に思い出したのが、
隆景遺臣の行方を追ってらっしゃる、ブログ「伊予の戦国史」の管理人様だったわけで。
私はそのときついったーの本アカウントを抹消していたので、急いで作り直して
「有田加賀守を知っとるけ!?」と凸したわけですさ。
んでもって、その方に論文の所在などを教えていただいたりして、今に至る、と。
ホント毎々お世話になります。
私なんかと違って、すごくまじめに緻密に調べてらっしゃる方だから尊敬するわ。見習いたい。

その方からご紹介いただいたのが、川岡勉氏の論文、
「永禄期の河野氏権力と芸州:小早川氏の検使の派遣」(「地域創成研究年報vol.2」、2007年)。
同論文は、『吉川家中并寺社文書』(岩国徴古館蔵)に収録された伊予関係文書を通して、
小早川隆景・伊予河野氏の動きとその間をつないだ検使の実態に迫っている。
私は小早川氏や河野氏関連はまったくさっぱり調べてないので、
こういう情報をピンポイントで教えていただけたのはとてもありがたい。
川岡氏よると、朝枝(有田)加賀守の実名は「経道」さんらしいですお。
書中に見える略名は「有賀」さんだね。
そして、加賀守は河野の「局方」、つまり宍戸隆家嫡女らから信頼を寄せられ、
隆景に対して「なんとしても有賀を伊予に置いてほしい」という要望があったと見てよさそう。

それを考え合わせてみると、今回テキトー訳した聞書に見える、
「半兵衛の母は河野大方から娶わされた」という状況は、河野側の引きとめ工作なのかもわからんね。
川岡氏が紹介していらっしゃる隆景の有田加賀守宛書状が推定永禄11年で、
そのときすでに「老体の儀」と労わられていたほどの年齢だったのに、
子供産めるほどの若い奥さんもらうとかけしかr(ry……いや、それだけ見込まれてたってことで。
若いってだけじゃなく、実家が没落したとはいえ血筋もいいみたいだし。
隆家嫡女だけでなく、宍戸氏の総意として、また平岡衆・来島衆といった伊予勢からも
検使役の指名がかかるほどの人だったようなので、
その有能さも推して知るべし、といったところか。
この人が吉川家に奉公続けてたらどんな仕事したんだろうね。

次の右京は早々に戦死してしまったのであまり活躍の機会がなかったようだけど、
河野母子に見込まれて、ぎりぎりまでそばにいたんだね。
右京の実名は「景勝」らしい。
こちらも「伊予の戦国史」管理人様からいただいた情報ですん。
「経」の吉川カラーから「景」の小早川カラーへと、右京の代で転身が完了したわけだ。

そんなわけで右京の代まで終わったので、次回は半兵衛の代をテキトー訳するよ。
日があかないようにしたいなぁ。
2013-11-24

某先生「隆元に心の友といえる存在はいたのか?」

隆元シンポジウムで耳にした、この質問が心に引っかかってしょうがない。
秋山先生が答えた国司・佐藤といった面々はあまり記憶にない(というか全く調べてない)けれど、
いつだったか「萩藩閥閲録」目次で目にした、隆元の「大事のときの伽はおまえでなきゃ」という
見ただけで鼻から出血して階段から転がり落ちそうな書状を思い出した私……
「親子のように思っている」とも掻き口説かれてたような。
いいなぁ……あれ、相手は誰だっけ? ←ダメ人間

てわけで、手の届く範囲で調べてみた。
私が思い出した書状の相手、隆元の寵を集めた男の名は、兼重元宣。
まずは問題のお手紙を超テキトーに意訳。だって全体的に意味が拾いづらい……


●萩藩閥閲録 巻138 兼重勘左衛門(6) 「隆元公より弥三郎元宣への御書」

これは分けて申しておく。
昨日いろいろ話をしたけれども、その中で私が言った、
「本当にそなたのことだけを二人となく頼みにしている」という言葉を、
そなたはどのように考えているだろうか。
すべての政務は二人にかかっているが、
そのなかでも抜き出てそなた一人にかかっていると思うのだ。
二人と別に、私なりの考えもあって実現しないこともある。
そなた一人と私自身、この二人しかいないと申したのは、決して軽々く言ったのではない。
そこのところをよくよく汲んでもらいたい。


●同上(7) 「隆元公より弥三郎元宣への御書」

そなたへの私の気持ちは、本当に本文に書いたように、
親が子を思うように、しっかりと大事に思っている。
だからそなたも、子が親を思うように、私のことを考えてもらいたい。

一、私が何を言おうと、事によって少しでもそなたの考えと違うことを言えば、
そなたは「まったく筋道が違う」と考えて心を閉ざしてしまうようだ。
何があろうとも、私が生きているうちはそのようなことはない。
その時々に応じて、私に油断があるところを、「これは違いますよ」とはっきりと申してほしい。
そうした心構えでこれからも奉公してくれ。

あれこれと言ったところで、私へと無二に心をかけ、一緒に死のうと心に決めている人など、
そなた以外にはいないのだと、私だって内心はわかっている。
こうして申したが、もしそなたが信用できないというのならば、
牛王を翻して(起請文を書いて)でも申し聞かせようと思っているのだ。

さあさあ、これほどまでに私はそなたのことを思っているのだから、
ほんの少しでも、「隆元の言うことは筋目が違う」などとは、絶対に思わないでおくれ。
ちょっとした気の緩みで失言することなど、男女・親子・兄弟の間でもよくあることだ。
いちいちあげつらっても仕方あるまい。
どうか聞き分けてほしい。よろしく頼むよ。


●同上(8) 「隆元公より弥三郎元宣への御書」

重ね重ね、私の身に大事が降りかかったとき、
伽に連れてゆく人はそなたしかいないと心に決めている。
これほどまでにそなたのことを見込んでいるのだ。
だからどうか、何事も、どんな小さなことまでも知っておいてほしいのだ。
わかってくれ。


以上、テキトー訳。
読んでて思ったけど、おまいらデキてんのか!?
まったく元長といい隆元といい……好き好きオーラがダダ漏れですよ!!(赤面)
相変わらず知識不足のうえ脳が沸いてますねスンマセン。

上記の書状はは宛所や差出人名が記されていない手紙だけど、
他の書状には「もと宣へ、たか元」だとか「宣(元宣)、基(隆元)」だとか、
実名書の宛所・差出人署名があるんだよね。
どうもこの家中では、実名で呼ばれるのはトップクラスの十数人だけらしいという感触なので、
この元宣という人は、本文中にもあるけれど、ずいぶん信頼されてたというか重用されてたんだなぁ。
紹介した直前の隆元→元宣書状でも、
「身をはなさずそえ候てつかい申、頼入度候ての申事まて候」とか書いてあるし
宛所・差出人署名は「述(元宣)、元(隆元)」だしで、非常に親密な感じ。
実名の一部を省略するのは、兄弟間とか従弟間とか、
わりと親密な雰囲気の書状に見られるこの家の特徴だよね。
ただし立場が上の人から下の人への書状限定って感じだけど。
そんな書札礼考えてみるまでもなく、内容が親密すぎるけどなwww

まあそこで気になるのは、この「兼重元宣」てのはいったい何者だ、てところで。
『萩藩諸家系譜』をひも解いてみると、この兼重氏、なかなかに興味深い経歴。
というか、元宣の父である元鎮が、そもそも毛利豊元(元就の祖父)のご落胤。
ということは元鎮と元就とは、血縁上では叔父・甥の関係ってことだよね。
元鎮は妾腹だったので幼少期から大通院(寺)に預けられ、出家して浄閑と称すも、
成人して出家を嫌い、還俗してお隣吉川さんちの家臣である笠間氏に養子入り。
弥三郎、五郎兵衛尉、元鎮を称す。
元就の代になって吉田に呼び戻され、故郷の兼重の地を与えられたことから兼重氏を号す。
吉田郡山籠城戦で奮戦して重傷を負い、翌年十月に死去。嫡男の弥三郎元宣がその跡を継ぐ。
元宣は隆元に重用され、元就・隆元間の使者としても活躍したようで、
元就・隆元双方の書状に「兼弥(兼重弥三郎元宣)」の名前が散見される。
元宣は隆元死後も輝元に重用され、天正八年に七十二歳で死去した。元宣の子元続が跡を継ぐ。
1580年に72歳で死去ってことは、アレだ。えーっと、1509年生まれだ。よし。
隆元より14歳ほど年上だね。
上の書状は年代不明だけど、いったいいつのものなのか。気になる。
年上の寵臣に「頼入たく候」とか甘える隆元を想像すると、思わず顔がにやk(ry

しかし「毛利家文書」に収められている一通の隆元自筆書状を眺めてみると、
あれれ?と思うことが……
ちなみに宛所は「左太(桂左衛門大夫元忠)」となっているけれど、元就宛のもの。
前半は元宣に関係ないけど、ついでなので載せておこう。


●毛利隆元自筆書状(毛利家文書715)
(端裏切封ウハ書)
「この書状は返してください。言うまでもないですが。
           左太          たか元」

昨日申し上げたことについて、御返事をいただきました。
内孫(内藤孫八郎か)のことについて申し上げ、仰せ下された件については、承知いたしました。
あの土地は麻原の真木が坪のことでして、納所辻(納税の意味か)は五石の場所です。
この通りですので、さっそく給地しようと思います。
以前も申し上げましたが、あの者のことは、せめて他の者と釣り合うようにしてやりたく思っています。
今現在身近に召し使っている者のなかでは、
少しも心の隔てがなく、安定して奉公しております。
このままの調子で奉公を続けてくればいいと思いますが、そんなわけにもいかないでしょうから、
何かあるまでは、こちらでも相応の宛行をして召し使えばよいと思います。

一、今お伝えするようなことでもないのですが、ついでなので申しておきます。
与十(粟屋与十郎元種か)、佐藤(又右衛門か)、あの者などは、
私情に流されずに一筋にこちらのことを考えてくれています。
児弥十(児玉弥十郎?)は何とも無風流で、物知らずではありますが、
心底は私のことだけを一心に考えて奉公しています。
仲の良い友人や機嫌を取ろうとするような相手は全くおりません。
弟の左五(?)は、以前も申し上げたように、なかなかに気が利きますが、万能ではありません。
児蔵(児玉内蔵丞就方)には、私は直に相談しております。
就方の分別は、実に納得できるものです。異見するようにと言ってあります。

一、兼弥(兼重弥三郎元宣)についてはいつも相談しているように、何とも我慢なりません。
最近では幸いにも心安く召し使っておりますが、いかにも心が定まらないのです。
いいときは無二、一筋のように振る舞うのに、一方で何か気に入らないことがあると散々なもので、
ひらりと別人の方へ心を移して、私のことなど少しも気にかけません。
あれほど移ろいやすいものは他にないと思います。
どうにかして直させるようにしたいのですが、生心得で、どうしたらよいかわかりません。
こちらが気を付けるしかないかと思います。

恐惶、かしく


以上、テキトー訳。
近臣との人間関係というか人物評価を父親に訴える隆元さん……
こういうこと相談できるって、いいなぁ、この親子。
近臣にとってみれば、わりと気の抜けない職場だな、とも思うけれども。
そうそう、主題は兼重元宣だった。
元宣本人への手紙では、「二人となく思っている」とか「親子のように思っている」とか
散々掻き口説いてたくせに、父親には元宣の心の移ろいやすさを嘆く隆元さんェ……
それとも、心の移ろいやすさを直させるための手段が、あの口説き文句なのか。
どちらにしても、隆元が心の底から信頼して頼ってたわけじゃなさそうってことがわかって、
ちょっとしょんもうり(´・ω・`)

でも、ちょっと疑心暗鬼になったとしても、隆元の心の支えにはなってたと思うんだ、元宣。
「男女・親子・兄弟の間でもいろいろあるんだし」って、隆元本人が言ってるじゃん。
「自分の全部をわかってほしい、自分だけに心を傾けてほしい」って気持ちもわかるけど、
それは甘えたい相手、寄りかかりたい相手だからなんじゃないのかな! かな!!!
思い入れがあるから不満も出る、ということで。

というわけで、今回はこのへんで。
続きに、「兼重氏のここが気になる」をちょろっと。




続きを読む

2013-05-30

届かなかった手紙

すっかりサボり癖がついてしまっただけで、私は生きてます。

さてさて今回は、書状読む前に石見吉川家についての情報を整理してみるよー!
私が気になってるのは系図なので、まずは系図だな。


◆石見吉川家の系譜◆

まず、駿河時代の吉川氏始祖から追ってみると、
①経義→②友兼→③朝経→④経光と続き、
この次の⑤経高が正和二年(1313年)に安芸の国大朝本荘に移る。
ここで経高は末弟の経時を駿河に残し、
他の弟たちを引き連れて安芸に引っ越すわけだけれども、
その弟たちが分家となっていくのね。
経高:安芸吉川初代
経盛:播磨吉川初代
経茂:石見吉川初代
経信:境氏吉川初代

惣領の安芸吉川は、
⑤経高→⑦経秋→⑧経見→⑨経信→⑩之経→⑪経基→⑫国経→⑬元経→
⑭興経→⑮元春→⑯元長→⑰広家→⑱広正……と続く。
石見吉川は、
①経茂→②経任→③経世→④経氏→⑤経義→⑥経康→⑦兼祐→
⑧経典→⑨経安→⑩経家→⑪経実→⑫正実……と続いた。
こうして見ると、本家―庶流の関係とはいえ、
元春・元長や経安・経家の代から、ずいぶん以前に分岐しているのがわかる。
私が追ってる時代は16世紀後半だから、
支流が分岐して250年くらい経ったころってことになるのか。気が遠くなるな。

石見吉川初代の経茂は、安芸の国の大朝本荘鳴滝村の地頭職を拝命した。
そして石見の最有力豪族、益田氏の一族である永安氏兼祐の孫娘「良海(夜刀)」と結婚した。
この妻が領有していたのが石見の国の長安本城の一部およおび津淵村で、
経茂は妻の領地を受け継いで石見に移り、邇摩郡の殿村に居館を構え、
ここに石見吉川氏が誕生したわけだ。一時「津淵」姓を名乗っていたこともあったとか。

代々領地を運営していたが、七代兼祐のときに大内氏に仕え、
津淵村から所領替を命じられたが、伝来の地を取り上げられることへの抵抗なのか、
以後は諸役を拒んで出陣せず、領地没収の憂き目に遭う。
八代経典は大内義興に臣従して失地を回復し、
九代経安も大内氏に仕え、その滅亡後は毛利氏に仕えた。
この流れの中ででようやく津淵村に回帰し、福光城に入ることができた。
……経安に関係する書状類は愁訴の用件が非常に多いけど、
父祖の代の経過を見てみると、加増にこだわる気持ちもわからんでもない。

実はこの経安、経典の実子ではなく、経典の妹の子供で、
父は久利郷(義興から経典に与えられた地もこの一部)の豪族、久利淡路守だった。
経安は幼いころは余七郎という名で、初名を経冬といった。
経典の男子兼栄は早世したため、妹の子である久利余七郎を三女の婿として、
石見吉川を継承させることにした。
こういう女系の相続形態はわりとよくあるよね。

さてここで。最近ようやく私がたどり着くことのできた系図の登場だよオロロ~ン!
でもwebってどう表記したらいいのかわからんな……
とりあえず出会った系図とその他いろんな情報を混ぜてアップしちゃいます!

【石見吉川九代 経安】永正十七年~慶長五年十一月二十七日(★1)
(幼名:亀寿丸 余七郎 左近将監 和泉守 初名:経冬 法号:盛林)
 久利淡路守と吉川兼祐娘(吉川経典妹)との間に生まれる。
 天文十年十二月五日、吉川経典の婿養子となり譲状を受ける(石見吉川家文書25)。
 天正二年四月五日、嫡子経家に領地を譲り渡す。
 天正九年に経家が没した後は、経家の遺児たちを養育する。
 天正十三年、隆景・元長が上坂した際に追従し、その帰りに高野山にて出家。
 慶長五年十一月二十七日、福光城で没す。享年八十一歳。
 福光浄光寺に葬られる。
  妻:吉川経典の三女(永禄二年七月十日死去)
  子:女子……久利左馬助の妻、妙法と号す
    女子……小坂越中守(★2)の妻、妙心と号す
    経家……石見吉川十代

【石見吉川十代 経家】天文十六年~天正九年十月二十五日
(幼名:千熊丸 小太郎 式部少輔)
 九代経安と経典三女との間に生まれる。
 弘治三年五月、石見銀山を攻略して安芸新庄に帰る元春に、修行のために預けられる。
 一つ年下の惣領家跡継ぎである鶴寿丸(元長)とともに育ち(★3)、
 永禄三年十二月十三日に鶴寿丸より加冠を受けて元服(石見吉川家文書130)。
 永禄五年十一月、父経安とともに出雲月山冨田城攻めに参加して初陣を飾る。
 永禄十一年正月五日に元資(元長)より式部少輔に任じられる(石見吉川家文書131)。
 天正九年、鳥取城督として織田信長の将羽柴筑前守秀吉に降伏し、
 十月二十五日、城内の真教寺にて切腹。享年三十五歳。
 鳥取城青木局に胴体が葬られたが、後に現在の円護寺内の墓所に移された。
 鳥取市戎町の真教寺に明治期まで位牌(殉死者の位牌も)があった。 ※現在は未確認
 殉死者:郎党の福光小三郎・若鶴甚右衛門、与力の坂田孫次郎
  妻:境左衛門尉経輝(境氏吉川十代)(★4)の娘(寛永三年七月十三日死去)
  子:女子(あちゃこ)……石見都野弥次郎(★5)の妻、後に武安十兵衛に嫁す
    経実……石見吉川十一代
    家種……宮寿丸 采女正 慶長五年八月、伊勢阿濃津城攻めで戦死。
    家好……竹松 与右衛門 兄の家種死後、その跡を継ぐ(★6)
    女子(かめ五)……福富与右衛門の妻
    女子(とく五)……粟屋加賀守の妻
 
【石見吉川十一代 経実】元亀元年(★7)~元和六年四月二十四日
(幼名:亀寿丸 小次郎 勘左衛門尉 初名:経盛 法号:宗宅)
 十代経家と境経輝の娘との間に生まれる。
 天正十一年八月十八日、元長より加冠を受け、経盛を名乗る。改名時期不詳。
 天正十三年、四国征伐で初従軍。
 文禄元年、朝鮮出兵で初陣。
 慶長五年八月二十四日、伊勢阿濃津城攻めで重症を負い、
 京都で療養中に関ヶ原の戦いが終わる。同年末ごろ石見に帰国し、岩国に移る。
 六百石を与えられ、吉川家の家老として活躍。
 元和六年四月二十四日に没す。享年五十一歳。錦見の普済寺に葬られる。
  妻:不詳
  子:正実……石見吉川十二代(縁辺についてはコチラ!)
    正知

〔注〕
★1 ウィキペディアでは大永2年~慶長5年10月21日となっているが、
  没年月日は手元の資料の日付を採択し、それより生年を導いた。
  同年十二月一日付で広家から経安に送られた書状が存在するので、
  ウィキペディアの通り10月21日に死去していれば、
  その報は11月中には広家に届いているはずだから。
  なお「岩邑年代記」でも、十一月二十七日に没した、とある。
★2 小坂越中守は、『陰徳記』には広家の乳人として登場するが出自は不明。
  吉川家文書・石見吉川家文書ともに小坂氏の名前が散見されるので、
  おそらく石見の豪族と思われる。
★3 手元資料には、元長とともに育ったのは「四年間」とあるが、
  立花城攻めの後に送られたと思われる元長→経家の書状に、
  そのころまですぐ近くで暮らしていたと思われる文言があるため、
  永禄年間はずっと新庄で暮らしていたのではないだろうか。
★4 経輝その人に関してではないが、経輝の甥に境与三右衛門尉がいる。
  与三右衛門尉は元長の奉行人でもあり、新庄の西禅寺で親交を深めた
  恵雍・元長・経家・香川春継といったグループに加わっていた可能性も。
  経家の妻の従兄弟という縁からか、与三右衛門は鳥取城の端城、丸山城に籠もり、
  『陰徳記』では私の心を掻っ攫っていきました_ノ乙(.ン、)_
★5 都野弥次郎は『萩藩諸家系譜』にも見える石見の豪族、都野三左衛門家頼。
  慶長二年十二月二十二日に朝鮮の蔚山で討死。
  武安十兵衛についてはわからないが、同姓の人が輝元から温泉津の奉行を命じられているので、
  その一族の人だと思われる。
★6 家好は鳥取の池田藩に仕えたようで、
  その末裔に落語家の五代目三遊亭円楽師匠(本名:吉河寛海)がいる。
★7 手元資料では生年が「永禄十一年(1668年)」となっているが、
  同資料の「元和六年(1620年)四月二十四日経実五十一才で歿す」という記述と計算が合わない。
  信頼が置けるのは没年の方だと考え、生年を元亀元年とした。

私が現時点までに調べたところでは、以上!
ふえぇ~、予想外に長くなってしまった……こりゃ時間かかるわけだわ。
でもできれば、経実の妻の素性も知りたいんだぜ。

さて、一応「諸家文書」カテゴリに入れてるから、書状読まなきゃね。
慶長五年十二月一日付の、広家から経安に送られた手紙を読んでみたい。


●吉川広家書状写(石見吉川家文書100)

いつも取り紛れてしまって悪いとは思いながら、その後連絡していなかったね。
こちら(上方)は特に問題はない。様子はあれこれと聞いていることだろう。
何度も言うが、今回、津の城(伊勢)における
勘左衛門(吉川経実)の手柄はすばらしいものだった。
大きな怪我を負ったけど、全快してそちらに戻ったそうで、喜ばしいことだ。
あなたもさぞ喜んでいることと思う。
あなたも来春には周防に下ってきてくれるだろう。
私もそのときには下国できると思うから、会ったらいろいろ話をしよう。
恐々謹言

     (慶長五年)十二月一日     広家
          盛林(吉川経安)参

なおなお、勘左の手柄は本当に言葉にできないほどだ。
無事に下向したのだな。本当によかった。かしく


以上、テキトー訳!

日付は12月1日。経安はこれより少し前、11月27日に帰らぬ人となっていた。
関ヶ原の乱の戦後処理で、先祖代々固執してきた本領を離れなければならないことになり、
経安の悲しみはいかばかりだったかと思う。
岩国には移らずに本領で死ねたのは、よかったというべきなのかな。
おそらく京都で怪我の療養をしていた経実が無事に帰りついたとの連絡があって、
広家がこの手紙をしたためたのだと思うから、最期に嫡孫には会えたんだろうな。
それだけが救いというか……

経安の死を知った広家も、すごく悲しんだだろうな。
会いたかったと思うんだ。
この後広家は、経実やその子供たちをとても大事にしてたようで、
正実の妻に元春の孫娘(毛利宗家永代家老の娘)を娶わせたり、
経実の病気を心配する書状がたくさん残ってたり、
死の間際に経実を思い出して、正実に「おまえのお父さんには本当に助けられたよ。
経実が生きてる間に言ってあげられなくてごめんね」と言ったような書状を残したりしてる。
私はこういう結びつきに弱いな。

そんなわけで、これからはまじめに更新したいと思いますが、
ちょっとしばらく忙しくなるので、どうなるかは風まかせ~!
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