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2018-04-02

経言小笠原入嗣騒動考⑤

しばらく更新しませんでしたが、今後も2週間くらいできなくなる見込み……
ちょっと入院してきます。はっはっは、私もついに切腹ですよ。
はやく退院できるといいなぁ。

さて、輝元の剣幕に鬱入ったところで、今度は元春側の様子を見ていこう。
天正9年6月3日の輝元書状(③にてテキトー訳)を受けた吉川家の反応は?


●吉川元春自筆書状(吉川家文書 1225)

   元 まいる御返事申給へ     駿河 元春

去る五日の書状、同月の七日に到着し、拝見した。
吉田(輝元)からの御書もつぶさに読んだ。
実に驚いてしまった。なんという御文体だろうか。

(輝元から)私にも同様の通達があったので、その御書を書き写し、
大蔵に託しておまえに届けさせようとしていたところだった。
そちら(元長は伯耆八橋に在陣)にも御書が遣わされたのだな。
こちら(新庄)に届けてくれたので、よく読んだ。

お前や私としては最初から、吉田の裁定に背いてでも
あの家(小笠原)との養子縁組を結ぼうなどとは、微塵も考えていないというのに。
吉田のお疑い、あの書かれようはいったいどうしたことなのか、
まったくどうしようもない。

ここで申し開きをしようものなら、かえって吉田に反抗する形になってしまう。
まずはとにかくご命令に従って、そのうえで調整しなおすのがよいと思う。

このことを経言(広家)に申し聞かせたところ……想像してみてほしい。
内(元春夫人)と私の膝元に(経言を)引き据えて説明した。
あの者(経言)は非常にがっかりした様子で当然ながら腹を立てた。
あれこれと言ってなだめたのだが、(経言は)
「ぜひ一緒に河本まで行って引き破ってしまいましょう」などと言うのだ。

私たち夫婦ではどうにもしようがなかったわけだが、
そこにお前が香彦を遣わして申し送ってくれた。
お前が深く考えてくれたことは、少しも外れていなかった。
実にこちらの現状に合っていたので、経言もその方向で納得したし、
気分も和らいだようで、鳥取に出張することに決まった。

そのあらましを大蔵に言い含めてある。
内々にお伝えする。 恐々謹言

   (天正九年)六月十一日     元春(花押)
     元長 御返事申給へ

それにしても、お前の考えがぴたりと当たった。
今回、経言は強硬に主張していたが、(お前のおかげで)態度が軟化した。
吉田と我が家の関係が左右されるほどのことなので、
いろいろ推量してみてほしい。森太に言付けておく。

●吉川元春、同元棟(元氏)、同経言(広家)連署状(吉川家文書 1226)

例の件について、吉田からの御書を拝見した。
あまりの文面に、じつに驚いた。
申し開きをしたいところだが、このようなときにはそうもいかない。
とにかくご命令に従い、当方からの反論は控えることにする。
そのことについて、森太に詳しく言いう含めておく
それではまた。恐々謹言

   (天正九年)六月十一日     元春(花押)
     元長 御返事申給へ     経言(花押)
                       元棟(花押)

以上、テキトー訳。

各自の反応は、だいたい下の通りだろうか。

経言=輝元の裁定に非常にショックを受け、反乱を起こそうとするほど激昂した。
元春=輝元の剣幕に驚きはしたが命令に従おうとした。
     また経言の過激な反応に対処しようとするも、どうにもできない。
元長=輝元からの通達をすみやかに元春に知らせ、自分の考えを伝えた。

元長がいちばん冷静に動いてんな。
いや、この当時の元長書状がないからそう見えるだけかもしれんけど。
元長はこのとき、伯耆の八橋に駐屯してるんだよね。
対して元春・経言・元棟は、新庄に帰っている、という状況。

元長が使者の香彦(香川彦右衛門?)を遣わして考えと伝えてくれたことで、
経言が納得し、態度が軟化した、という状況が見えるので、
私はこの件については、元長がキーマンだと思うのですよ。
いったいどんな考えだったのかは、この文面からはわからないけれども、
経言の鳥取出張を提案したことだけは読み取れるね。

さて、いつになるかわからないけれど、次回は、
時系列をいったん整理するか、元春夫婦から経言あての教訓状を読んでみたいと思います。

んじゃ、ちょっくら腹切ってくるわ。
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2018-03-26

経言小笠原入嗣騒動考④

はい。今のところ予定通り読み進めてます。
今回は、小笠原騒動で輝元・元春間の使者を務めた、児玉春種に対する輝元の書状を読んでみます。
3通ぶっ続けで行くけど3通目はもはや意味が分からないよ!
相手もわからないよ!

てゆーかさ、今までさんざん輝ちゃんダイスキって言ってきた私の心が折れそう。
昨日プロレス見て元気を補充してきたはずなのに折れそう!


●毛利輝元書状写(吉川家文書 1183)

「児玉市允(春種)方への御書の控え」(端裏書)

このたび元春が言うには、絶対に毛利家との筋目をおろそかにしないとのことで、
あの件(小笠原氏)からは速やかに手を引くようにするそうだ。
しかしながら、又次郎(経言、広家)が短慮をしでかすかもしれない、とも言ってきた。
私はこれが理解できない。

もしこの件がおかしな成り行きになったなら、
そなた(児玉市允)も平佐藤右衛門(就之)もただでは済まないから、
今から覚悟しておくように。

元春はきっと、又次郎にその「短慮」をあえてさせ、元春自身は責めを負わないように、
あの件をひっくり返そうとしているに違いないと、私は推測している。
言うまでもないことだが、私としては、この件については
この命を捨てる覚悟でいるので、裁定をし直すつもりはない。

そなたの将来のために、今申し聞かせておく。
そなたはこの件について使者を務めているので、この推測が当たっていたならば、
私はそなたらをきっちり問い詰めるぞ。
今からその覚悟をしておくように。
まあそうなったときには、私もこの世にいないかもしれないな。 謹言

   (天正九年)六月二十四日     輝元(血判)
     児市(児玉春種)

●毛利輝元書状写(吉川家文書 1184)

「控え」(端裏書)

昨日の返事を読んだ。もう、何もかもどうでもいい。
あの次郎右衛門尉(小笠原長治)とその仲間の悪人どもに、いよいよめちゃくちゃにされてしまった。
元春は又次郎(経言、広家)に騙しぬかれ、又次郎は悪人どもに担ぎ上げられて、
無理にでも強行しようと申し合わせているはずだ。
もうこうなったら、三家(毛利・吉川・小早川)は滅亡するしかない。
そう思い詰めている。

とにかく討ち果たすしかない状態になったとしても本望だ。
いくら又次郎でも、元春の命令に従わないことなどありえないだろう。
そなたもそう思わないか?
こんな風にいろいろと騙しあって、三家が滅亡するとしても構わずに、
この件を成立させようとしているのなら、罰が当たって当然だ。

又次郎の進退については、おとなしく私の裁定に服すのであれば
他の機会に引き立ててやろうと、あれこれと考えていたというのに、
次郎右衛門尉に味方したばかりに、数代続いてきた三家を滅亡させ、
自身は筋目もない非道を行って死んでいくことになるのだ。
まったく言語道断である。

とにかく、裁定が破られたなら、「そのとき」だ。
元春の考えはよくわからない。
そなたは、この三家の興亡を賭けた使者を務めているのだから、
そういう運だったと思うといい。心得ておくように。 かしく

     児市(児玉春種)

●毛利輝元自筆書状案(吉川家文書 1185)

「御書控え」(端裏書)

重ねての返事、承知した。
誰が何を言ったというわけでもないが、この間の春、
あの人が言っていたことはおそらくこのことだろうと思われるので、
これからの心得のために申し聞かせておく。
市介(児玉春種)のところへならば、そなたの内緒話として話を通しておいてもいい。
とにかく裁定したのだから、まさか春(元春)が抵抗するはずはないとは思う。
かしく

以上、テキトー訳。

はーい、輝元社長、それ、パワハラです……
輝元・元春間の使者となった児玉さんに、なんつう圧力かけてるんですかあなた。
当事者じゃなくて使者なのに責めを負わなきゃいけないのか?
ブ、ブラック……こりゃ元長もびっくりするはずだわ。
あと、身の破滅に話を結び付けたがる様子が、なんとも中二っぽい。

この児玉春種さんは、元就・隆元の代を優れた行政手腕で支えた児玉就忠さんの三男だね。
輝元側室二ノ丸さんの父、元良さんの弟にあたります。
元春の奉行人と言われてるけど、隆元死後の輝元の反銭徴収にも「児市」が関わってる形跡が。
これは想像だけど、毛利・吉川両家にまたがる被官だったのかもね。
児市さんに限らず、そうした形態で動いてた家臣は探せばたくさん出てきそう。

その、毛利にとっても吉川にとっても大事な人材を、輝元はもうあからさまに脅迫しているわけで。
これにビビった児市さんが元春に泣きついたため、
この書状の写しが吉川家文書に載っかっているという経緯なんだろうね。

これらの書状のハイライトは、学者の方々によると、
輝元の認識として、経言が元春の指示なくして輝元に抵抗を試みるはずもなく、
経言の抵抗の背景に元春の意思があるという理解だった、という解説があるわけですよ。
つまり輝元の疑いの目は、経言なんかではなく、元春に向いていたわけだ。
これには異論はありません。

元春から言わせれば、「そんなこと言われても、あの子マジでおれの言うこと聞かないんだぜ」ってとこだな。
まあ輝元も、自分の息子が成長するにつれ、思春期~青年期男子の実態がよくわかるようになったとは思うけど、
この時点では理解できなかったのかもしれないね。
というより、このときの輝元自身が、両川からの自立を模索する真っただ中だったのかも。
二十代後半だし、対信長戦争で強いリーダーシップを求められる時期でもあった。

もしそうだとしても、パワハラはパワハラだけどな。
価値観の異なる数百年前の事象を、今現在の倫理価値観で評価するのは避けたいところだが、
同時代の元春・元長が児市への輝元の態度にドン引きしたようだし、
これは輝元の暴走と受け止めても差支えないんじゃないかと思う。

毛利・吉川間の利害衝突というよりは、輝元・元春間の(主として輝元による)信頼関係の崩壊。
ここまで読んできたなかで、私は小笠原騒動をこのようにとらえました。

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2018-03-25

経言小笠原入嗣騒動考③

宣言通り、本日は、小笠原問題に関する輝元の書状行ってみよう!
……えー、この件に関しては、輝ちゃんかわいくないです。
先に言っとく。

まずは、天正9年に比定される、元春宛ての書状から。
おそらく元長宛にも同様の書状が届いていたことが、①の起請文からわかるね。


●毛利輝元自筆書状(吉川家文書 196)

彼の家(小笠原家)のことについて、下野守(口羽通良)を通じての申し入れを聞いた。
この件は、三家(毛利・吉川・小早川)の盛衰にかかわる問題だと思う。

経言が小笠原家の養子となれば、ほかの国人衆は全く道理に合わないことだと思うだろう。
そうなれば、いつ何が起こっても不思議はない。
それに、銀山の経営に支障が出ると予想され、そうなれば、
戦をしようにも思うようにいかなくなるはずだ。
私自身は今以上に、生きていても仕方ない身の上になることだろう。

この毛利家が外聞も内実も失ってしまったら、次はあなたの番だ。
日頼(元就)の書き置かれた一通のとおり、
三家のうちで一人でも欠けようものなら、遅かれ早かれ三家はすべて滅ぶ。

ぜひとも今は、日頼への報恩だと思って堪忍され、
二郎五郎どの(経言)にも意見を加えてほしい。
三家の再興は今この時にかかっているのだ。

どうか元春、よく考えてほしい。
まさ、か日頼の御一通を忘れたわけではないとは思う。

詳しくは使者から申す。     恐々謹言

  (天正九年)六月三日     輝元(花押)
     元春まいる 人々申給え   右馬頭 輝元

以上、テキトー訳。

続けて、これも天正9年に比定されてる(大日本古文書)けど最近の研究では天正10年のものらしい、
輝元から経言への書状。


●毛利輝元書状(吉川家文書 1190)

   経言 まいる申給え     右馬頭 輝元

申し入れる。
小笠原の件について、去年、元春父子に対してお断りしており、
あなたも納得したということだったので、胸を撫で下ろしていた。
あなたの安全を保障することについて、忘れてはいない。
元春と相談して固く約束したことなので、安心してほしい。

当時、あの家中(小笠原)では様々に雑説が飛び交っているとのことだ。
次郎右衛門尉(小笠原長治)はあなたに何と言ってきたのだろう。
あなたの御存分を耳にして、本当に驚いた。
次郎右衛門尉は近頃、あなたに対しては、
すべてうまくいっているかのように伝えているかもしれないが、
それは次郎右衛門尉が好き勝手に言っているだけに過ぎない。
それに、「長旌(小笠原家当主)から祟られるぞ」などと言っているそうではないか。
また、次郎右衛門尉は不義(反逆?)を企てている。
それに同意するとは、なんとひどい話だろう。

一、そもそも、よく考えてみなさい。
  あなたが小笠原に養子に行く必要などないだろう。
  まったくの他人なのだから、私がわざわざ止めるまでもない。

  私はなるようになると思って日々を暮らしているけれども、
  以前から、日頼(元就)さまは私にこのように仰せになっていた。
  「他の国ではそうではないが、この安芸の国では、
   国人の仲間たちで相談して対応を決め、これまで戦い抜いてきた。
   なので、国人衆に対する心持が重要だ」
  このように時々聞かされていたので、国人衆に対する私なりの考えがあった。
  あなたの養子縁組はそれに合わないため、差し止めた。

  あなた一人の心持ち如何で、すべての戦略が台無しなるのだ。
  このことをよく考えて、納得してほしい。
  最近はどの人も、当座のことしか考えずに物を言うようになった。
  誰が何と言おうと気にせずに、あなた自身が覚悟を決め、
  道理というものをよく考えなければならない。

  この問題は、三家(毛利・吉川・小早川)の盛衰にかかわる。
  私は今、どうにか毛利家を領知している身だが、
  不肖者なので、あなたの心中を顧みずに言おう。

  次郎右衛門尉のことだが、このような者は、どこの家にも一人くらいいてもいい。
  しかし彼は、他国とは異なる安芸の国の慣習を理解していない。
  日頼さまの代までは、法律を適切に適用していたため、困ることはなかった。
  次郎右衛門尉は、これまでは毛利に忠節を尽くしてきているが、
  将来的にはどうなることやら、といったところだ。
  自分の本意に背いての馳走は、敵であろうが見方であろうが、
  それほど頼りにできないと思う。

  小笠原家中のことは、だいたいこの通りだ。
  ただただ、将来の吉川家、毛利家、その他の人々のためを思って
  あなたが納得することを願っている。
  小笠原を措いて他にないという考えならば何も言うことはないけれども、
  何もあの家にこだわることもないだろう。
  それというのに、最初の一念を貫くため、数代続いてきた吉川家を捨て、
  われらを困らせるようなことにでもなったら、非常に残念だ。
  どうかよく考えて、あなたの本心を知らせてほしい。

  この件については、元春父子からあなたに詳しく話しているだろうから
  私からは申し入れていなかったが、
  あなたが納得できていないように聞いたので、困ったことだと思って
  今回、こうして申し入れたものである。
  なお、この使者から申し述べる。

  あなたの進退については、元春父子と相談して、必ず取り立てるようにする。
  これは当然ことなので、安心してほしい。それでは、恐々謹言

   (天正十年)三月十四日     輝元(花押)
     経言 参 申給え

以上、テキトー訳。

輝元がどうしても経言を小笠原家に養子入りさせたくない理由。
 ・他の国人衆が納得しないはずだ(割と遅くまで抵抗してたから?)
 ・銀山の経営に支障をきたす(小笠原本領、河本が銀山にほど近い要害)
 ―――ここまで対元春(&元長)、以下、対経言
 ・次郎右衛門尉(小笠原長治)が都合のいいように言っているだけ
 ・吉川は小笠原に養子入りする筋目がない
 ・輝元の国人衆への政策があって、それに合致しない
 ・次郎右衛門尉は今は忠義を尽くしているが、この先はわからない

このなかで私が妥当だと感じるのは、「国人政策に合致しない」という部分かな。
その他のほとんどは、元長が①の起請文でことごとく反論していたね。
最後の「今は忠節だけどこの先はわからない」なんつーのはもう、すべての国人に言えることで、
これこそ、なにも小笠原家に限った問題じゃねーのよ。

この2通の書状(主に1通目)は、読んでて非常に違和感があった。
経言と小笠原が銀山の近くにいると銀山経営が混乱する(理由不明)
→戦の支度も十分にできなくなっちゃう →三家滅亡
なんだ、その論法。「風が吹けば桶屋が儲かる」かよ。
まあこの際、論理は置いておこう。ここに突っ込んでも、あまり意味がなさそう。

この書状のキモは、「毛利の外聞実が地に落ちたら……次はあなたの番だ」って部分だと思うの。
これって恫喝じゃない。
元春や元長が驚いたのは、断られるにしても、恫喝されたからなんだろう。

「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
『おれは 三男の養子縁組のお伺いを立てたと
思ったら よくわからん理由で脅迫されていた』
な… 何を言っているのか わからねーと思うが
頭がどうにかなりそうだった… 許可するだとか断るだとか
そんな通常の返答じゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…」

てな感じか。もう使い古された感あるけどポルナレフ好きだよポルナレフ。

ここにきて、経言の養子縁組そのものに加えて、
毛利家と吉川家の関係、という問題まで勃発してしまったわけだ。
ちなみに、ごたついてた天正9年といえば、鳥取で経家さんが籠城してるそのときじゃねーかコノヤロー。

経言の問題に端を発してはいるけれど、喧嘩売ってんのは明らかに輝元だと思われるわけですよ。
次回はもうちょい、これに関する輝元の基本姿勢を追っていきたい。
2018-03-24

経言小笠原入嗣騒動考②

第2回目は輝元の言い分を見ていこうかと思ってたけど、
①で読んだ起請文のすぐ後ろに、その起請文についての覚書があったので、
まずこれを片付けます。


●吉川元長自筆覚書(吉川家文書 1248)

     内覚

一、今度又二郎(経言、広家)を人質として上国させることについて。

一、当年の春に、あの者の進退について、私に対してお約束くださり、ありがたいことです。
  ただ、確実に実現するかどうかわからないので、
  あの者の身の上をわかっていただいてから上国させたいと思いました。

一、元春と経言からはすでに申し上げているので、
  何か言いたいことがあっても申し上げることはないでしょう。
  せめて私から弁明しておきたく、元春と経言に尋ねてみたところ、
  私の考えに任せると言ってくれたので、私から申し上げました。

一、銀山については始め、元就から元春へ沙汰があったことについて。
  それに伴う番衆のことについて。

一、この書状は、ご一覧ののちにすぐに返してください。
  もし上さま(輝元)に仰せられるのでしたら、書中の内容をよくよくご理解いただいたうえで、
  口上で仰せになってください。それならかまいません。

     以上

以上、テキトー訳。

ふむふむ。
覚書というか、これも書状の一種なのかしら?
①の起請文を持たせた使者の口上内容、という風にみると非常におさまりがいい。
宛てどころは起請文と同じく、小早川隆景、福原元俊・貞俊なんだろうね。
使者がこの覚書の内容を向口上で述べてk証文を渡し、隆景、元俊・貞俊が起請文を確認した後に
起請文を回収して帰ってきた、といった感じかな。

私は最初、①の起請文を、背後にいる輝元を含めた隆景・福原グループ、
そのひとまとまりに宛てた抗議文として捉えていたけど、
今回の覚書を見ると、隆景・福原は輝元とは別の勢力として元長に認識されているみたい。
輝元ではなくその別勢力に①のような起請文を出す元長の意図は何なんだろうなぁ。
起請文てのは味方につけたい相手に送るものだから、つまり、
隆景と福原に対して、協力してほしいという要請なのかもしれんね。

しかし元長、本当にいい兄貴だなぁ。
私は、小笠原入嗣騒動に関しては、意外に元長がキーマンなんじゃないかと睨んでます。
そのわけは追い追い……

さて、次こそは輝元の言い分を見ていこうか。
2018-03-21

経言小笠原入嗣騒動考①

まとめ切れないと言ったそばからやってみたくなる、
そんなとりとめのない日々を過ごしています。
本当は掃除とかしないといけないんだけど、元長のお手紙が長すぎて、
現代語訳にほぼ1日費やしてます……元長、おそろしい子……

ここんちは爺さまの代から長い手紙書くから、楽しいんだけど、ちゃんと読もうと思うとしんどいね~。

さてさて、念願の小笠原入嗣騒動に着手してみましたよ。
この件について気になる方は、当ブログなんぞより、光成準治先生編
『シリーズ・織豊大名の研究 4 吉川広家』(戎光祥出版、2016年)を読まれるといいと思いますよ。
ちゃんと当時の書簡に従って研究されてるからね。

私は別方面からのアプローチを試みます。
ずばり、隆景と毛利氏重臣福原氏に宛てられた、元長の弁明から、吉川家の言い分を見ていきたい。
手抜きバンザイ!

ものすごく長いけど、読む気力のある方は、天正11年に経言=広家が秀吉への人質として
差し出されるにあたって、吉川家当主また経言の兄である元長がしたためた起請文だということを
念頭にお読みいただきたく。


●吉川元長起請文(吉川家文書之 1247) 

   隆景、福原元俊、福原貞俊 参     治部少輔 元長

 弟である又次郎(吉川経言、広家)を、ご命令通りこのたび上国させることにしました。
 又次郎の身の上に関しては、以前からさまざまに問題が取りざたされていて、
 私としても頭を抱えていました。
 とるに足らぬような者たちが、あれこれと噂したのでしょう。
 その問題の始めから終わりまで、あらましを申し上げておくことにします。

一、備中飯山の陣において、小笠原次郎右衛門尉(長治、小笠原家一門衆)より、
  市川雅樂允(経兼)を通して、元春に歎願がありました。
  長旌(岩見小笠原氏当主)に男子がいないため、私の弟である松寿(元春四男、天正六年死去)を養子に欲しいと
  元春に申し入れようとしていたところ、不慮に死んでしまったので、
  又次郎を養子としてもらえないだろうか、とのことでした。

  元春はすぐに市川雅樂允を私のところへ遣わし、
  次郎右衛門尉からこのように言ってきたがどうしたものか、と相談してきました。
  私は「これは大ごとですから、よくよく考えなければなりません」とだけ返事しました。
  承知したわけでも拒否したわけでもありません。
  それなので元春は、次郎右衛門尉に対して
  「この件に関しては決断を催促しないほうがよい」と断言しました。

  すぐ後、南条元続が反乱を起こして因幡・伯耆の情勢が再び不安定になりました。
  私は伯耆の八橋に駐屯して対処にかかりきりになってしまったので、
  小笠原家程度のことを沙汰する暇もなく、
  次郎右衛門尉からも何も言ってこないままに時間が過ぎました。
  
  伯耆の津波並陣にて、次郎右衛門尉が小笠原弾正忠ほか重臣たちの連署状を携えて
  申し入れてきましたが、以前と同じように答えて、一切承知しませんでした。
  そうしたところ、年末になって口羽通良から静間図書允が津波並陣まで遣わされてきました。
  小笠原中務少輔(長秋)から通良へと、このような申し入れがあったそうです。

  「次郎右衛門尉は元春の了解を得たでしょうか。
   それほど急ぐ話でもありません。
   次郎右衛門尉自身は吉川の家に出仕していますが、小笠原はそもそも国人です。
   いろいろ事情がある家でもあると思います。
   元春も、又次郎どのが養子に入ったら、
   長旌の代より所領を増やしてやりたいと思われることでしょう。
   どのようにしたらそれが実現できるのか、私にはわかりません。
   次郎右衛門尉はどのように考えて、この一念を通そうとしているのでしょうか。
   こう申しましたが、私は時勢を心配しているだけです。
   元春が承知してくださるなら、次郎右衛門尉同様に協力を惜しまないつもりです。
   ですので、どうか許諾の証文を得るためにご協力ください」

  元春へと直接書状を差し出すのは遠慮して、通良まで申し入れたとのことです。

  そこまで言うならばと、元春は、
  中務も次郎右衛門も、同様に長旌そのほか小笠原家中の者たちも一同に
  賛成して申し入れてくれば、隆景ならびに毛利家の重臣たちに相談し、
  上さま(輝元)にもうかがったうえで返事をしようということになりました。

一、小笠原家に対しては、家城ならびに本領を返還し、長旌を父と呼んで大切にし、
  家来ももちろんそのまま召使う、という条件です。
  経言一代限りは血縁者ですが、ゆくゆくは他人になっていく間柄です。
  小笠原家としてはこの養子縁組で念願を果たすことができるのだから、
  将来的に毛利・吉川との関係をなおいっそう強めることになるであろうと、
  元春から静間に対してその利点を説明しました。
  静間もそれは覚えていると思います。

一、その後、上さまから養子入りを止められて、あまりに外聞がよろしくないため、
  せめて長旌の娘との縁辺だけでも整えてほしいと
  経言やその家来たちがしきりに言ってきました。
  元春は通良に相談しました。また、児玉市介(春種)を使者として
  輝元に伺いを立て、祝言の準備をしました。
  また経言が「河本の要害をぜひとも預かっておきたく思います。
  そうしていただけないならば、思いがけない行動に出るかもしれません」
  などと言うので、元春はこれ以上外聞を失うことのないようにと考え、
  祝言と河本の要害について手配しました。

一、そのころ、上さまから二宮太郎右衛門尉(就辰)が新庄に遣わされ、
  元春に通達がありました。その時の御書は今でも残してあります。
  私は伯耆の八橋にいましたが、そちらにも同様の通達がありました。
  この御書も所持しています。
  私は返事として、上記の内容をお伝えしました。
  おそらくこの返事を上さまと一緒に聞いた人がいるでしょうから、
  お尋ねになってみてください。

  またそのころ、平佐藤右衛門尉(就之)・児玉市介を元春のところへ遣わされました。
  あの人に対する上さまからの御書も拝見し、写しを作成してあります。
  この件について、複数の御書の御文体ときたら、あまりの剣幕で、
  まったく理解できませんでした。
  それというのも、こちら(吉川家)としては全く他意がないからこそです。
  もちろん、上さまの御意に背くつもりは毛頭ないので、
  それほどきつく仰せになられずとも、ご命令に従うつもりでした。
  それというのに、あのような仰せではあまりに外聞が悪いことです。

一、以前、長旌の奥方から要害のお局様へお話があり、上さまからの御書もあります。
  このような経緯もあったのですから、この件は
  経言の心得違いばかりとも言えないのではないでしょうか。

一、そもそも、小笠原家に実子ができないために養子縁組を申し入れてきたのですから、
  私の兄弟から一人を養子に出すとしても、まったく筋目のないことでもないでしょう。
  皆さんご存知のように、長雄(小笠原長旌の父)の奥方は
  新庄の出身です(吉川元経の娘)。
  日頼さま(元就)の筋から考えると、元春にとって、長旌は伯母の子に当たります。
  吉川の家筋からすると、元春の伯父に当たります。
  元経の子である妙玖さま(元就夫人)の血を引いているのですから、
  筋目がないとは言えません。
  そのうえで小笠原家を取りつぶすという決定をしたのなら、それこそ、
  元春が時の威勢に乗って国人衆の家を差し押さえたと非難されてもうなずけます。

  小笠原の一族は、日頼さまとは特別に懇意にしていた家です。
  とりわけ長旌については、隆元さまが縁者として遇したので、
  周防での戦争の際(陶晴賢との抗争)には他の国人衆より抜きんでた活躍をし、
  毛利家に対して無二の忠節を遂げました。
  しかしその後、小笠原は周防・出雲と示し合わせてこちらを裏切り、
  御当家の敵となって戦争に及んだこともありました。
  周防が毛利の支配下にはいると、すぐに小笠原の家城のある温湯城を攻めました。
  一旦は小笠原を切腹させると決まりましたが、命乞いがあったため
  隆景・通良が和議をととのえて、一命を助ける代わりに本領と家城を没収しました。
  そのため小笠原は小さな所領に居を構えて暮らしています。

  小笠原が河本で切腹していたならば、その跡目は元春に与えられるはずでした。
  小笠原は周防・出雲が敵となったら御当家が負けるだろうと予想し、
  この吉川家の所領を長雄の隠居所にしたいと、周防・出雲に申し入れ、
  了解を取り付けていました。その証文も残っています。
  こちらの勝利が決まると、小笠原の跡目を元春に与えてくださるよう、
  長雄から申し入れがあったそうです。
  しかし長雄の命は助けることになったので、領地の河本だけが元春に与えられました。
  この地は今でも吉川家が領知しています。

  このような経緯があったけれども、隆景と通良が和議をまとめたので、
  元春も私も小笠原家に対して少しも欲心はありません。
  下々の者たちまで、境目を堅固に保つよう申し付けてあります。

一、養子縁組については、三吉からも祝宮内を使者として元春に申し出がありました。
  吉田(輝元)からのお許しがあれば、長旌を説得するとのことでした。
  元春はこのように返答しました。

  「長旌から次郎右衛門尉への内々の書状はあるが、表向きのことは
   中務に対して遠慮があるため、今も長旌の了承は得られていない。
   そのため、吉田にもこの件はご相談する段階にないので、許可状も受けられない。
   ご協力のお申し出はありがたい。
   まずは長旌への説得を試みてもらえないだろうか」

  こう返答して、使者を返しました。

一、国人衆などの養子契約については、その前例は数多くあります。
  私ごときが口幅ったく言うようですけれども、挙げてみます。
  隆景はすでに竹原の家督を継承され、小早川家を治めていらっしゃいます。
  筋目がないようにも思えますが、竹原(小早川)興景の奥方が
  毛利家出身である(毛利興元の娘)ご縁によるものです。
  元春は吉川興経の養子となり、当吉川家を治めました。
  この筋目は今さら言うこともないでしょう。

  元政は天野元定の跡を継ぎ、天野家を領知しています。
  宍戸元孝の弟(元盛)は、内藤隆春の家を継承しました。
  椙杜隆康の家は元康が継承することになりましたが、
  元秋が思いも寄らず病床に伏してしまったため、その名代として
  富田の要害にいったん在番しています。
  椙杜家の継承問題も放っておくことはできません。
  元康の代わりとして、志道元保の次男、少輔四郎を仰せつけられました。
  これらは、何の筋目もない縁組ではないのですか。
  いくらでも掃いて捨てるほど前例があるではないですか。

  今回、小笠原家中の者たちが経言を養子に欲しいと言ってきたのは事実です。
  しかし彼の家中にもそれを承服できない者がおり、毛利家へと
  元春や私がことごとく非道を行っているように言いふらしたため、
  このような笑いものにされてしまいました。是非もありません。

  そのうえ御当家の方針とは異なるからといって、
  吉川一族すべての未来を失うほどの取り沙汰をされ、
  まったくこれ以上ないほど当惑しておりました。

  養子・養父の関係はどこを見ても存在するものだというのに、
  元春や私へのなさりようは、いったいどうしたことなのでしょう。
  道理も何もあったものではないと思っています。

一、御当家に対して、隆景・元春が協力を惜しまないのは当然で、言うまでもありません。
  日頼さまは近年、周防(大内氏)と出雲(尼子氏)の間に挟まれて
  気を休める間もないときも、当家の元春はできる限り力を尽くしてまいりました。
  今までも同じようにしてきているというのに、
  そのなかで、何か間違っていたことがあったということでしょうか。

  出雲に尼子勝久が攻め入ってきたときも、反撃の戦略を整えられ、
  一旦治まると、宍戸隆家・通良・元春を押さえとして残してゆかれました。
  日頼さまがお亡くなりになったときには、情勢が不安定になりましたが、
  周防・出雲両国に反撃し、日頼さま以来の御当家の威光が衰えないよう
  元春は手を尽くしてきたではありませんか。

  そのほか、山陰地方で、今日に至るまで苦労を重ねてきたことはご存知でしょう。
  ご命令に従って、山陽にも何度も出向いています。
  自分の都合を捨て置き、戦やその準備に明け暮れてきました。
  こんなことは、皆さまよくご存知のはずです。
  これほどまでに御当家の戦に専念してきたのですから、
  私の兄弟の一人をお引き立てになられ、立派な武人として扱っていただき、
  御用にでも立てていただけさえすれば、
  少ない分限で数年苦労してきたことをわかっていただけたと思い、
  感謝の心でいっぱいになることでしょう。

  ほかの国人衆の次男や三男にさえ過分の扶助を与えられています。
  抜きんでての扶助が欲しいわけではありません。
  人並みに、また働きに応じた報酬があってもよいではないですか。
  将来、他国の国衆を制御されることについては、戦略の内と思いますので
  口を挟むつもりはありません。
  けれど何もかもすべて遠慮して言わないでいると、扶助をいただくこともできません。
  養子縁組をしたいと言上することすら許されないというのでしたら、
  言うべき言葉も見つかりません。

一、この子細はことが起きたときすぐにお伝えするべきだったかもしれませんが、
  次郎右衛門尉・中務の二人から連絡があっただけで、
  家中のだれもが知っているわけではありませんでした。
  不調法な人とは言え、長旌からも何も言ってきていません。
  あれこれと間で取り次いだ者も少ないので、私の言い分の証拠となるものがなく、
  誰にも言えませんでした。
  また、この件が上さまから差し止められてからは、今日に至るまで
  遠慮ばかりしていて、誰にも言いませんでした。

  今になって言おうと思ったわけは、経言が人質として上洛するにあたり、
  以前から心の内に秘めていた考えをすべてさらけ出してしまおうと思ったからです。
  それにこのままでは、経言があまりに不憫ではありませんか。

  元春と経言は、小笠原家に関しては二度と言上しない旨、固く約束しています。
  その理由は察して余りあります。
  経言の進退について、小笠原家のことは少しも話題にする気はないようです。
  とりわけこのような時期にそのようなことを言い出せば上国にも支障が出るでしょう。
  私自身は最初からそのような約束はしていないので、
  このような時期にこそこそわかっていただくべく、申したまでです。
  このような遠慮ばかりを重ねて、何かあってから後悔することになってはと、
  心の中を残らずぶちまけました。

一、このたびの上国は、もちろん、ご命令に従ってのことです。
  経言はすっかり外聞を失ってしまったので、これ以後、
  大きく取り立てられることはないとあきらめていますが、
  当年の春、上さまから大いに御意を加えられました。
  このたびもまた罷り出て御用に立つようにとのご命令ですから、
  そのことを忘却すべきではなく、お受けいたしました。

  再び経言がこの地に帰ってこられるかどうかはわからないのですから、
  進退を云々しても仕方ありません。
  私のためにも、何も言わないでいるのがいいと思っているようです。
  将来の望みもなくなったというのに一身をなげうつ経言が不憫でたまらず、
  申し上げました。

  元綱(小早川秀包)にはいろいろと手を差し伸べていらっしゃいますね
  (備後国人大田英綱の跡を継承、後、小早川隆景養子)。
  経言とどう違うというのでしょう。
  二人一緒に人質となるのですから、一人とびぬけて重責を負うわけではありませんが、
  命を失う可能性もあるので、公私ともに一つの心残りもないようにしてから
  上国したいと考えているようです。私や元春もそのように考えています。

一、経言は、今となっては、元春の老後の支えとして手元に置く予定でした。
  しかし元春は、必要なときに御用に立つために、
  老後のことも差し置いて、人質に差し出すことにいたしました。
  このような元春と私の心底をご理解いただき、お取り扱いください。

一、だいたいにして、経言の進退をこの時節にあれこれ言うのがよろしくないと
  お考えになるならば、そのように仰せになってください。
  元春・経言にもそのように心得るよう申し聞かせます。
  これは、御当家に対しての私の役目だと思っています。
  たとえ経言には憐憫をかけていただけなくとも、我々父子は御当家に対して
  変わらず忠節を尽くす所存です。
  そのように内々お伝えいただきたく、お願い申し上げます。

一、くれぐれも、小笠原家のことは、我々父子四人から申しかけたことではありません。
  もしこれが偽りなら、(以下神文)

   天正十一年八月十三日     元長(花押)
     隆景、元俊、貞俊 参

以上、テキトー訳!

はぁ……元長さん、相変わらず熱くて惚れる……すごく好き。
起請文ていうより抗議文なんだよね、これ。

言いたいことを整理すると。
①発端は吉川家側じゃなくて小笠原家中の人物からの申し入れだよ。
②吉川家としては、小笠原家中の意見がまとまるまで承諾できないと言ったよ。
③吉川家が信長に対する戦の算段に没頭していたたため、養子入り承諾を保留しているうちに
 小笠原家中の経言養子入り反対派が讒言をして、輝元の反対で養子入りは破談になったよ。
④じゃあせめて、結婚と経言の領地問題だけでも先に進めようとしたら、
 輝元がすごい剣幕で反対してきたんだけどどういうことなの。
⑤そもそも小笠原は血縁的に何の縁もない家でもないし、
 ほぼ縁のない養子縁組がまかり通っている現在、吉川だけ妨害されるとかイミフ。
⑥元就以来忠節を貫いてきたのに、その吉川に対する仕打ちがこれか。
 少しは思いやってくれてもいいんじゃないの。
⑦この騒動のせいで将来を失ったのに、けなげにも、明日をも知れない人質に赴く経言がかわいそうだろ!

いや、整理しきれんな。盛り込みすぎ。
ちょっと、「狡兎死して走狗煮らる」って故事成語が頭をよぎりました。

私はね、この騒動に関しては、先行研究には欠落している視点があると思うのさ。
おおむね、「宗家=輝元の下知に従わない経言」がクローズアップされ、
輝元には勢力を伸ばす吉川家に対する警戒心があった、とかなんとかまとめられるんだけれども、
じゃあ吉川家の言い分はどうなの、ということに関してはあまり触れられない。
なので今回、元長の言い分をガッツリ読んでみた、という寸法。

養子縁組の手順として、当事者間(ここでは吉川・小笠原)である程度合意ができてから
上(輝元)に上申する、というのは問題ない手続きなんだと思われる。
多くの養子縁組を見てきた元春がそのように進めてるので、おそらく。
それに手続き上の問題であれば、後から修正可能なはずだけど、これはどうにもならんかった。

それなら、何が問題なのか。
経言の野心に言及されることが多いように思うけど、
輝元が反対した理由の正当性というか妥当性はどうだったのか?
元長のこの起請文を読むにつけ、輝元の下知に妥当性がなかったために、
経言が強く抵抗し、数年間にわたる大問題になったのではないか。

なぁ~んてことを思うんだけど、それを検証するスキルと時間が私には足りません。
それに、そもそも私は大の吉川びいきなもので、私情がバリバリ入ります。
だってさ、だって、こんなの、経言だけじゃなくて、元春も元長も不憫じゃないか!!!
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