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2013-11-20

毛利隆元シンポジウム強行軍

こっそり復活しますた。
ようやく仕事関係の試験が終わったので、広島まで夜行バスで行ってまいりましたよ。
ちゃんと試験は受かったよ?(震え声)
これからしばらくは趣味関係に没頭できるはず……残業さえなければ!
強行軍すぎて体力がいまだ戻りませんが、それもまた余韻。

広島着いたのは土曜日だったので、宮島とか広島城とか信直パパんちとか行き、
香川さんちにも行こうと思ったら迷い道クネクネしすぎて日が暮れ……
翌日は朝から隆元展見て午後からシンポジウム行ったわけなんですが、
シンポの内容を簡単にレポート。

毛利隆元シンポジウム「名将の子の生涯と死をめぐって」
平成25年11月17日(日) 於 安芸高田市民文化センター大ホール

■第1部 神楽「元就公」 吉田神楽団
あらすじ:吉田郡山城を尼子勢が取り囲んだときのこと。

いや私、実はお神楽見るのって生まれて初めてで、
雰囲気とかノリ方とかよくわからんのね。ドキドキして始まるのを待った。
笛と太鼓のお囃子(?)が始まり、後ろの幕からスモークがモクモクしてきたと思いきや、
バァン!と出てきた! 尼子晴久・久幸コンビ!!!
晴久は真っ白な長髪を振り乱し、久幸は真っ黒な長髪を(ry
衣装がとにかくキラッキラ! キラッキラだよすげえなんだこのキラッキラ加減。押さえる気が全くない。
その二人が鑓持って、「これから元就をヌッコロす!」と舞い踊るわけですよ。
頭の動きが獅子舞のお獅子みたいで、ついつられそうに。

尼子コンビが退場すると、下手から登場する、なにやらイイ役っぽい男・女・男。
衣装は言わずもがな、白塗りの顔にも何やらキラッキラしたものが。ラメ入りドーランなんてあるのか。
一人は元就なんだろうから、あとは誰だ、と思っていたら紹介が。
えっ、女は奥さんでいいとして、もう一人の男は元春なの!?
そりゃ吉田郡山合戦と言えば元春(隆元は山口滞在中)だけど、嘘でも隆元出さなくていいのか!?
パパ・ママ・元春で神前に戦勝祈願するシーンは、元春好きにはたまらんね。
ほいでまあ、ママが「12歳なのにもう戦場へだなんて、母にとっては悲しい」と嘆く。
それでも幼い(見た目は幼くない)元春は勇ましく、父とともに出陣して舞い踊る、と。
このあたりですでに私は、この演目が「元就公」だというのを忘れ果て、元春メインで見ているよね。
パパと二人でクルクル回る元春かわいかった(*´∇`*)
二人の袴がかぼちゃパンツみたいに膨らんでな。かわいかった……

そしてママのみ残って夫と子供の無事を祈念するシーンがあり、
また下手から元就・元春が出てきたと思ったら、地味な衣装に変わってた。
袖に大きく毛利紋があしらわれてはいるけど、比較的地味。戦のシーンだから?
とか思っているうちに元就が「尼子出てこいやァ!」して舞台正面の幕から連獅子尼子が登場して
切り結んで押しつ戻りつ、息をもつかせぬ四人の乱舞……(*´∇`*)ホゥ
うっかり見とれていたら、いつの間にか衣装が変わってる!? ファッ!?
一瞬動揺したけど、地味な上着がリバーシブルになってて、キラッキラ仕様の内側を出したんだね。
そのキラッキラの四人がまた乱舞・乱舞……もうため息しか出ねえよ(*´ω`*)
ラストの展開は胸の内に秘めておこう。

とにかく初の神楽観劇、賑やかでキラキラした感じがとても楽しかった。
たぶん観客が手拍子とかしながら見るものなんだろうけど、
他の人たちはおとなしく見てるし私もそれに倣いました。
また見たいな、神楽。
吉田神楽団は、東京でも来年1月に公演される(演目は違う)そうなので、都合ついたら行きたい。


■第2部 基調講演「毛利隆元の生涯」 秋山伸隆氏(県立広島大学教授)
(内容は私の記憶が頼りなので、間違ってたらゴメンナサイ。ほぼ感想ですん)

まずは隆元の生涯をさらっとおさらい。
家督相続の時期、文書発給の形態から、政務への関与度の変遷を検証。
家督相続の背景(弟二人の養子入りや重臣との協議)をさらって、ここから本題!

まず、隆元の人物像とは?ということで、
元就の書状に現れる隆元への評価をピックアップして紹介。
「山口かかり(山口かぶれ)」だの「ほんしきたて(くそ真面目)」だの「分別うすく候」だの、
もうやめて隆元のライフはゼロよ!
それに追い打ちをかけて隆元の自己評価「名将の子には不運な……」とくるから、
聞いてる方のライフもゼロになりそうだったお_ノ乙(.ン、)_

こういった遺文から、父にとっては不出来な息子で、弱々しく心情を吐露する人物像が出来上がってくるんだけど、
でもこの隆元像って、「元就の目を通した、息子としての隆元」だったり、
本来公表されるはずじゃなかった書状から拾われた、「人間隆元の心の奥底」だったりするわけだ。
つまり、別の視点から隆元をとらえれば、従来とは違った人物像が見えてくるのではないか、と。
この提言にはハッとさせられた。

その一つのアプローチとして、秋山先生は次に、「防芸引分」つまり陶晴賢との戦争を取り上げ、
陶との敵対に慎重な姿勢を取る元就に反対し、根気強く弟や重臣たちを説得していった隆元の動きを追った。
そしてこの時点で、隆元は「毛利が倒れれば、小早川・吉川も滅亡する」って主張していた、とも。
この論法は元就の「三子教訓状」と呼ばれるもので有名なフレーズだけど、
その教訓状が書かれるより以前に、隆元が主張していたってのは、驚きだった。
結局隆元は、元就の態度を変えさせるだけの交渉をしたんだよね。
武将としても有能だったことを再確認した。

さて二つ目の主題、隆元の死をめぐる言説の検証。
隆元は大友氏との講和を結び、出雲の元就のもとへと赴く途中、急死した。
死の前夜に和智誠春の饗応を受けたとされていることから、食中毒説、暗殺説なども囁かれる。
だけどそもそも、隆元が和智の饗応を受けたと断定できる確実な一次史料が存在しないんだそうだ。
後世に書かれた覚書や物語等で確認できるだけで、まずここから疑わしい、と。
……目から鱗でしたよ。そこまではすでに検証された史実だと思ってたからね。

そしてさらに、毒殺説を彩る二人の人物、赤川・和智の末路から、
「当時隆元の死に彼らが関与したと目されていたか」という点についても検証が行われた。
赤川元保については、元保を不審視していたのはむしろ隆元の方で、
元就と元保の確執も隆元生前から続いていたものだったので、その延長線上での元保粛清であり、
元保が隆元の死に関与していたと疑われていた様子はないことが分かった。
元保粛清の件は『陰徳記』でも、別に隆元の死とは絡んでなかったなぁ、などと思い出した(この記事)。

次に和智兄弟の厳島軟禁→殺害に関しても、その動機となったのはどうやら別件で、
その別件については、史料からは詳しくわからないらしい。
『陰徳記』だとどうだったっけなー、と確認してみたら、
隆元の葬儀時の和智の態度があんまりよろしくなかった(この記事)って程度だったね。
隆元の死に直接関与したと疑われていた気配がない、というのは、『陰徳記』でも確認できた。
いつどんな経緯でそうした言説が語られ、主流になっていったのか、興味は尽きないね。
しかし最初のころの自分の記事は恥ずかしいな……何もかも手探りだからしょうがないけど。

さてそんなわけで、非常に興味深い基調講演だったよ。
掘り下げて聞きたいなぁと思った点は、
・本来なら後世に残る予定ではなかった隆元の文書を保存したのは誰で、残した目的は何か。
・元春の吉川家養子入りがいきなり出てきたが、それ以前に北就勝に養子入りする予定があったはずでは?
・対織田戦争のころ、備後衆が相次いで離反したのは、元就が備後衆を信頼していなかったことに
起因するのでは、と先生は言うけど、もっとドライで打算的な動機付けも検討されてしかるべきでは?
といったところでした。
質疑応答は行われなかったので、それだけがちょっと残念。
秋山先生は全体的にソフトでわかりやすい語り口で、聞いてて飽きなかった。


■第3部 シンポジウム「名将の子の生涯と死をめぐって」
コーディネーター:秋山伸隆氏
パネリスト:山室恭子氏(東京工業大学大学院教授)
      木村信幸氏(広島県教育委員会文化財課)
      柴原直樹氏(毛利博物館館長代理)

覚えてるだけ内容をさらってみると、まずパネリストの自己紹介を兼ねた持論の紹介。

●山本氏
元就の「三子教訓状」14ヶ条と隆元・元春・隆景連署の返書9ヶ条の条文を比較し、
元就の教訓のなかで子供たちに拒絶された要求を明らかにする。
教訓状にあり、返書で承諾されていない内容とは、「兄(隆元)>弟(元春・隆景)」という
序列を守るよう要求された条文だった。

●木村氏
旧吉川領で史跡発掘調査・文献調査に関わった経験を通し、
元就隠居後の居住地から見た支配体制への影響力を考察。
家督の譲渡には「本城」の譲渡が伴うもので、隆元も本城を受け取っているが、
元就は平地に下りるのではなく山の頂上に居を構え、位置的にも隆元の背後から睨みを利かせた。

●柴原氏
博物館勤務の立場から、「物」を通して見た隆元という人物を考察。
舅である内藤興盛から婿の隆元に贈られた一領の具足は実に素晴らしいもので、
贈られた隆元という人間への周囲の評価を読み取ることができる。

ここから、各パネリストによる他者への質問。覚えてる概要だけ。

◎木村氏から全員へ
「隆元の心の弱さに注目が集まるが、これは恵心という特定の人物との交流の中のもの。
 甥の吉川元長も、禅僧恵雍との交流で、同様の心情吐露を見せている。
 そもそも元長は隆元と境遇が似ていて、24~5歳で政務に関与しはじめ、36歳で家督、40歳で死去している。
 文芸に深い造詣があるところも同じである。
 元長には前述の恵雍(一歳年下)、吉川経家(一歳年上)や香川春継といった同学の士がいたが、
 隆元にもそうした心の友のような存在はいたのか」
秋山氏の返答
「国司就信という人物がいたが、山口奉行となり隆元の傍からは早々に離れてしまった。
 また佐藤又右衛門という人物も信頼されていたようだが、隆元より先に亡くなってしまった」

◎山室氏から木村氏へ
「元就が隠居して、かさというさらに高いところに居住するようになったことによる影響は?」
木村氏の返答
「隆元は萎縮したはずだと思う。元春は兄が萎縮するのを見ていて、
 自分の息子(元長)への教育の反面教師としたのではないか。
 若いうちからともに政務を執り行って、そろそろ大丈夫だというころに満を持して隠居した」

◎柴原氏から山室氏へ
「教訓状に対する9ヶ条の返書は、筆跡からして隆元がすべて書いている。
 また教訓状が届いてすぐの返書であり、弟たちと協議して返書の内容をまとめる時間的余裕はないはず」
山室氏の返答
「そういうことを考え合わせると、隆元自身が父の書状の内容を弟たちが納得しやすい形に直して
 取り急ぎ署名をもらったと考えられる」

質疑応答が済むと、コーディネーターの秋山氏より、まとめとして、
「隆元の人物像の見直し、再評価にはどのようなアプローチがいいだろうか」との問いが。
 
●山室氏
「おそらく隆元にとって一番見られたくない黒歴史的な文書が残っている。
 感情があらわになった文書が残っているというのは珍しい家。
 ぜひともどなたか小説に書いてヒットさせて!」

●木村氏
「隆元に関しては遺文のみが注目され、弱さの部分だけが強調されてきた。
 武将としての活動を併せて再構築していけば、隆元の実像が膨らんでくるはず」

●柴原氏
「隆元の自筆書状は、あわてて書くと左に向かって下がっていく癖がある。
 陶との手切れの際の粘り強い説得とか、せっかちな元就に対する方便とか、
 処世術に長けたしたたかな人物だと感じる」


……こんな感じで、シンポジウムは終了しました。
以下は感想。もうね。

木村先生! 好きだ! 結婚してくれ!!!(ムリ)
吉川関係を調べているときに、いつもお世話になるのが木村先生の論文なわけで、
今回はその先生のお話を生で聞けるということで、ものすごく楽しみだったのね。
期待を裏切らないというか想像以上というか……
隆元シンポなのにもかかわらず、ひたすら元春・元長に引き付けて話を展開するブレなさがいっそすがすがしい!
きっとアレだね、隆元の話ができないわけじゃなくて、ステマなんだよ!
「みんなもっと吉川元長にも注目してね!」って感じのステマだったんだよ。
全然ステルスじゃなかったけどなwwwww
ステマじゃないとしたら、愛があふれて流れ出ちゃっただけなんだよ、うん。
まさかねー、元春・元長はまだいいとして、今回「恵雍」やら「吉川経家」やら
「香川春継」って人名を耳にできるとは思わなんだ(感涙)。
私にとって、とっても大満足な理由の一つはコレだったね。
あー、もっと木村先生のお話聞きたいわー_ノ乙(.ン、)_
でも広島遠い……というわけで先生結婚して!

冗談はさて置き、みなさんお話が上手で引き込まれまくった。
柴原先生は備後の国人衆も研究されてるそうなので、図書館で追ってみたい。
イエーイ! 盛重ー! 絶対備後には行くからな!!!
山室先生の本も、図書館で見て良さそうだったら購入してみよう。

いやもう本当に、強行軍してよかったと思える旅でした。
体がきつかろうと本望だ((└(:D」┌)┘))
以上でシンポのレポートはおしまいですが、続きに強行軍日程を備忘録……
ちなみに私の今後の予定としては、ちょっと調べたいことがあるので、
陰徳記読みに戻るにはもうちょい時間がかかりそうです。

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2013-03-25

花見にかこつけて墓めぐり

ホントは2月の岩国旅行をアップしたいけれど、心の整理がつきませぬ←ダメ人間w
というわけで先日、東京にある吉川氏関連のお墓めぐりをしてきました。
桜の季節だしね……珍しく外出したくなったのよ。

事の始まりは、瀬川秀雄著『関ヶ原役を中心とせる吉川広家公』を読んで。
瀬川さんは、このほかにも『吉川元春』とかの著作があるのは知ってた。
学習院に勤めて、文学博士になった人らしい。

この『関ヶ原役~』に関しては、関ヶ原の戦いで吉川広家が取った手段を、
それに対する批判を挙げて弁護するといった内容も含まれているのね。
「東軍・西軍、どっちつかずの態度がよろしくない」って批判に関しては、
「広家一身のことであったならば卑怯極まりないが、至上の目的が毛利家存続だったため、
西軍に属しながら東軍に通じていたことは批判されるべきことではない」と断じ、
「広家が動けば西軍が勝利していた」との批判に関しては、
「決戦地とは程遠いうえ、徳川方から押さえの兵も置かれていたので、決着までに本戦場にたどり着けない。
また小早川勢の反逆で勝負が決しているから、どのみち結果は同じ」と言う。
「なぜ徳川本体が目前を通過しているときに叩かなかったのか」という批判には、
「毛利家存続のため、一兵も動かさないという誓紙を交わしている以上、動かすべきではない。
これは高松の陣で元春・隆景が秀吉に対して取った態度と同じである」とする。

もうね、広家スキーの端くれとして涙がこぼれた。
これはいつか、瀬川先生のお墓参りに行かねば!と思い立ったところ、
調べてみたら意外に近くにお墓があったんだよ。東京に。
それは、谷中霊園!

というわけで瀬川先生のお墓!!!
DSCN1023_convert_20130324211357.jpg
上野駅から歩いて行ったけど、折りしも花見客の混雑で、
上野駅は改札出るまでに時間かかった~!
それだけの混雑でも見る価値あるよね、上野公園。
人ごみを外れて谷中墓地へ。
ここも桜通りがあるから、花見客は多い。
管理事務所で墓所マップを入手して、いざ瀬川先生の墓参りに。
お墓に番地がついてて、マップもあるから、方向音痴の私でも難なくたどり着けました。
瀬川秀雄文学博士のお墓は、「乙10号22側」。
手を合わせて、博士の本に出合えた喜びと、お礼を念じてきました。

瀬川博士は、広家公が大正に入ってから官位を追贈されたことで、
広家に関する関ヶ原当時の誤解が解けたと著述されているけれど、
まあそんな簡単にはいきませんわな。
いつか広家公の事跡が認められんことを、私も祈っています!

んでまた、瀬川博士のお墓を調べていて行き当たったのが、
同霊園内に点在する吉川氏・岩国関連の人々のお墓。
ついでとは言わないけど、知識不足は大目に見てもらって、
わかるところだけ回ってきました!

吉川重吉さんのお墓↓
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時代は下って、明治時代の吉川氏ですな。
幕末の岩国藩主、吉川経幹の子であり、最後の藩主となった経健の弟。
ハーバードに留学して外務官僚を務めたという、華々しい経歴。
彼が亡くなったときには、墓のそばに番小屋が建てられて、書生たちが50日間も寝ずの番をしたとか。
番地は、乙12号2側。

その右隣にあるのが、「吉川家之墓」と書かれているけれども、
重吉さんのお子さんの重国さんのお墓、らしい。
まさか東京で「吉川家の墓」にお目にかかれるとは……感激。
てなわけでパチリ。
DSCN1036_convert_20130324211716.jpg
とても静かなところで、押しかけて写真を撮らせてもらってるのが申し訳ない。
「岩国に行ってきましたよ。いいところですね」
「吉川氏がすごく好きなので、もっと調べたいです」
「八幡さんへの寄贈も拝見しました」
などと、とりとめもなく語りかけてみましたw
あまり前知識がなくてホントすみません><

吉川さんのお墓からは、桜並木がきれいに見えて……
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この景色を見ながら眠れるとは、ちょっとうらやましくなったなぁ。

ちょっと気になったこと。
重吉さん、重国さんのお墓の囲いの中に手水鉢があったんだけど、見たことない家紋!?
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これは……オモダカ?
とすると、毛利宗家から贈られたんでしょうか?
微妙にうねった、なんとも洒落っ気のあるオモダカで、かわいかった(*´∇`*)
後ろで灯篭が倒れたままになってるので、修復されることを祈ります。

そのほかにも、岩国ゆかりの人々としては、
玉乃世履初代大審院長(甲9号17側)、
藤岡市助工学博士、新庄吉生さんなども、谷中霊園近辺にお墓があります。
藤岡博士・新庄さんには、今回はたどりつけなかったけど、いつかリベンジ!
私が気付いてないだけで、まだ他にもいろいろある気がする谷中霊園。
とにかく、眠っていらっしゃる方々には、お騒がせして申し訳ありませんと言うほかないな……
静かに手を合わせることは許していただけたら……と思うのです。

是非また訪問させてください!
2012-09-01

吉川氏発祥の地に行ってきた

陰徳記は章の途中だけど、休日のうちに記念旅行記でもうpしようということで。
ブログ始めてから1年経ちましたね~(*´∇`*)
訪問者も少しずつ増えてくださって、たまに拍手やコメントもいただけるようになりました。
ありがたいことです。
読んでる内容を話したくて始めたツイッターでも、さまざまな方々と知り合って、
有意義な情報交換ができています。
まぁ私はだいたい情報をいただく側なわけだけどw

最初こそ隆元隆元言ってたのに、もともとその気はあったものの、いまやずっぽり吉川贔屓に……
そして吉川吉川言ってても、岩国やら北広島に行ったことはまだない。
今年は資料収集にお金かけるぞーって決めてたからね。
でも行きたいよ! 特に10月の吉川戦国まつり(北広島町)!
公共交通機関がもう少し充実してたら飛んで行ったかもしれない。
車運転できないからなんとか思いとどまったけど。

夏の間にツイッター仲間の皆さんがあちこち史跡めぐりに行ってるのを
奥歯をかみ締めて眺めるだけなのもなんなので、
私は里帰りがてら、静岡県の吉川発祥の地にお邪魔してまいりました。
フフフ……住宅地にあるさびれた神社を激写しまくるだけの怪しいお仕事です(´;ω;`)

今回訪問した駿河吉川八幡神社は、吉川氏と言っても頼朝公の鎌倉時代と、
あとは江戸時代の半ば以降にしか関連しないけど、
「まあ見てやってもいいよ」って方は、下の「続きを読む」をクリックしてくだされ。


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