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2011-08-29

毛利家の関ヶ原

ちょっと脱線。毛利家から脱線するわけじゃないけど、戦国を脱線。
いや、もうね。
幕末に手を出すつもりなんてさらっさらなかったんだよ。
もともと新撰組も維新志士も特別好きじゃないし。興味なし。
こんな落とし穴があるとは思ってもみなかった。

毛利敬親と吉川経幹
毛利敬親は幕末の長州藩主であだ名は「そうせい候」。
政治を家臣たちに任せて、「うん、そうせい」と言うだけの簡単なお仕事です。
しかし大事な時にはスッパリ決断することもある人で、
吉田松陰や高杉晋作など、家柄や年齢にこだわらず才覚のある者を積極的に登用した。
寛大な人柄は長州志士にも慕われた。

吉川経幹は同じく幕末の長州藩岩国領主。通名は「監物」。
16歳のときに家督を継いで、藩校・養老館を設立するなど聡明な領主だった。
冷遇され、疎遠となっていた本家の長州藩との融和協調に努め、
幕末の動乱期を本家のために奔走する。
第一次長州戦争では幕府と藩との仲介役として武力衝突を回避し、
第二次長州戦争では芸州口で奮戦して幕府軍を撃退、
翌年39歳の若さで病没する。

この幕末の二人の状況、誰かに似てないか?
イエス、毛利輝元と吉川広家の関ヶ原に瓜二つだ!!!
私は輝元と広家が大好きだ!
歳も敬親が経幹より10歳ほど上で、
8歳差だった輝元・広家にますます重なる。
とくに第一次長州戦争。
毛利宗家が突っ走り、吉川が対外交渉でブレーキかけて戦闘を避け、
スケープゴートを差し出して手打ちにするところまで、
まるで関ヶ原の再現かと思うほど。

そしてここからが、関ヶ原の本当の続き。
長州藩は経幹の仲介や、薩摩藩・西郷隆盛の決死の説得もあって
幕府に一旦帰順したものの、
ひそかに薩長同盟を結び薩摩藩を通して軍備を整えていた。
そしてやっぱり前の処分が気に食わなくて再度攻めてくる幕府。
経幹・敬親「よろしい、ならば戦争だ!」
ってことで、今度ばかりは経幹も宗家と心を一つに、
4方面攻められるうちの1方面、芸州口で幕府軍相手に大奮戦する。
んでもって将軍の死により休戦。実質長州の勝ちだな。

翌年経幹は、病からついに帰らぬ人となってしまう。
そこであの「そうせい候」が動いた!
経幹の死を口止めしたんだが、それは果たして、
すでに毛利家で重要な人物となっていた経幹の死を隠し、
家中の動揺を防ぎたかったのだろうか?

そうせい候はなおも動いた。
翌明治元年(1868年)
  3月13日 毛利敬親 吉川家を末家にする宣旨を賜る
閏 4月19日 吉川経幹 駿河守に任じ従五位下に叙し諸侯に列する宣旨を賜る
  6月 9日 吉川経幹 城主格となすべきとの奉書を賜る
  12月28日 吉川経幹 隠居を許される
そしてようやく1869年3月20日、経幹の死が公表された。

長州藩岩国領は関ヶ原から268年を経て「藩」として認められた。
そして広家と同様に宗家のために尽くした経幹は、
その死を伏せて「初代藩主」となり、官位を賜り城主格と認められた。
そうせい候・敬親が、なにがなんでも経幹の死を隠したのはこのためだ。
関ヶ原の裏切り者の汚名をそそぎ、
毛利氏分家にふさわしい格を吉川に取り戻すために、敬親は奔走した。
どうしても経幹こそがその名誉に浴さなければならないという思いがあった。
そしてそれはかなえられた。

やっと、毛利家の関ヶ原が終わった。


この二人を知ったとき、泣いた。
小説を読んだのでもなく、ウィキペディアや個人ブログにつづられた情報を
ちょろりと流し読んだだけだが、これが泣かずにおらりょうか。
軽い気持ちで「そう言えば子孫てどうなったんだ?」とかいって
調べなきゃよかった! すっかりファンだよ、コノヤロー!

そんなわけで、多分、戦国にとどまらず幕末にも手を出してしまいそう。
幕末も人気だから本はいっぱい出てるけど、
殿さまに関する文献は限られてそうだよな。いい本があるといいけど。
とりあえず経幹の「周旋記」が読みたいんだが、アマゾンで6万円もしやがるよ。
刊行が90年前だから仕方ないけどね。ていうか読める気もしないけどね。
そのまえに毛利家文書や吉川家文書に当たりたいんだよなー……。
あと、黒田家譜も。どう考えても金が足りん。
うー! 読みたい><。


――追記――
長州宗藩て、支藩の長府藩から何度か養子を入れてるけど、
これは毛利秀元の血統だね。
関ヶ原の後に吉川広家を目の敵にしてたのが秀元なわけだが、
広家の子孫の名誉を挽回したのが、秀元の子孫と考えると、
さらに輪をかけて感慨深い。
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2011-08-29

本を読んでて眠れなくなったので

ちょっと整理。

『秀吉の接待』1ヶ月前くらいには読了。2周目に突入。
イイトコ。
TERUと旅気分。しかも船旅。磯に下りてキャッキャウフフとか。
ちょっと前まで戦で戦ってた相手に膝を折るとか。
あとクロカンさんの気遣いとか愛されっぷりとか。
ド忙しいスケジュールとか。
席次だの衣装の風俗考証がかなり助かる。絵入りだし。
助かるって、別に何か創作しようってんじゃないが。
イメージを膨らませるのにリアリティあっていいよね。
やなトコ。
毛利家の上洛日記なんだから秀吉前面のタイトルはどうかな。
危うく見逃すところだったよ(秀吉はあんまり興味ないので)。
日記に書かれていない秀吉の表情とか輝元がどう感じたかなんてのが
著者の補正でチョコチョコ入る。
想像の助けにはなるかもしれないけど、
固定のイメージを押し付けられてるようでちょっとモニョる。

『戦国の交渉人』読了。先週末に書店で見かけて衝動買いした。
たぶん3周くらいする。
イイトコ。
安国寺恵瓊について書かれたものが少ないので、貴重な本。
関ヶ原の大罪人のはずなのに、しかも坊主なのに、
なぜ恵瓊に注目集まらないんだろうなー。坊主だからか?
一次資料をたどるスタンスなので、
恵瓊が実務としてどんなことやってたのか、よくわかる。
メチャメチャ忙しく働いてる人で、人物眼も鋭く、頭もよく、
何よりもカニよりも、もんのすごいタフ!
私が胸ときめかせた僧侶のまま大名になった説はあっさり否定されて凹んだけど
毛利家の確執ネタがいくつかあって、これまで知らなかったので単純に嬉しい。
やなトコ。
なんつうか読んでて「?」となることが多い。
たとえば浅野長政・黒田長政が登場するところで、
単に「長政」って書いてあっても、どっちだよ!とか、
誰と誰が喧嘩してて恵瓊が仲裁に奔走したのはいいけど
その喧嘩は何が原因でどう決着したんですかとか。
関ヶ原の東軍内通は広家のスタンドプレーみたいに書いてるけど
一枚かんだ福原ら宗家の重臣はどこいっちゃったんですかとか。
そもそも著者が恵瓊の「悪僧」イメージを払拭するために
なんかバイアスかけてますよねというか。
本当に惜しいのは関ヶ原敗戦~恵瓊の最期までが超駆け足なところ。
おいおい、そこがイチバン重要じゃないんか、と。
一次資料がなかったとしても、二次資料などでどんな風に伝わってきたか、
ちゃんと記述してほしかったな。
あと、欲を言えば、恵瓊本人の書状を、
原文もしくは書き下し文で紹介してほしかった。
人間性を垣間見たいもんね。
てめえで史料読めってか。まあもっともだな。

これから読むぞ!
『雑兵物語』入手済み
『笑ふ戦国史』入手済み

ちなみに、小説の類は読む気がしないので読んでない。
たまたま何の気なしに小早川隆景を主人公にした小説読みかけて、
自分のイメージとかけ離れてたので拒否反応起こしてから、
なんつうか、小説買っても無駄金って思うようになっちゃった。
ウィキペディアや逸話から入ったので、
勝手なイメージができちゃって小説を楽しめないんだよね。
われながら狭量だこと。
しかしなぜかマンガ「殿いつ」は好きだな。毛利出てこないから?
たぶん有名な司馬遼太郎も読まずに過ごすんだろうな……
これまで読んだこともないし、司馬遼。
時代小説で面白かったのは、隆慶一郎かな。
でもアレ、ファンタジーだしなー。
2011-08-28

毛利隆元について

【毛利隆元】1523年-1563年
毛利元就と吉川国経女の間に生まれた毛利家嫡男。
15歳から多感な3年間を人質として大内義隆のもとで過ごすも、
大内義隆・大内家家臣筆頭の陶隆房らにこれでもかと可愛がられ、
すっかり文科系に染め上げられて帰国する。
1546年には家督する(実権は元就が握ったまま)。
元就に「能だの芸事だの、武家には必要ないっつってんだろ!」と
不甲斐なさをみっちり叱られる。
しかし人質時代に築いた人脈が毛利家を救うこともあった。
吉田郡山城が尼子軍に包囲された際、隆元の懇願がどうにか通って
しぶっていた義隆も最終的には援軍を出してくれている(総大将は隆房)。
妻・義隆の養女(大内家臣内藤氏女)との間に一男一女をもうける。
戦場から妻子を気遣う手紙を出すような、家庭思いのお父さんだった。
1563年、出雲の尼子征伐に向かう途上にて頓死。

●隆元のすごいところ
父と弟たちの活躍の影に隠れがちだが、
厳島合戦や九州戦線などでそれなりに戦功も挙げている。
内政手腕、特に財政面で抜きん出た能力を発揮し、
すさまじい勢いで膨張を続ける毛利の台所を支えていた。
隆元死後には毛利家の収入は4,000石も減少し、戦費調達も困難になった。
また周囲の国人たちとの交渉も難しくなったところを見ると、
隆元は毛利家の「信用」そのものだった。
温厚で誠実な人柄、人質時代に得たそつのない社交術がそうさせたのだろう。
また元就が掌握している毛利家中で自分の派閥を持てるだけの政治力も併せ持ち、
マルチな方面で相当に能力が高かったことがわかる。

●しかしどっこいネガティブ思考
これだけ才能がありながら、隆元は自身を凡夫とさげすみ、
偉大な父の名を汚さないことを至上命題としていた。
「早く死んで楽になりたい」など、だいぶ鬱々とした愚痴を
参禅の師である竺雲恵心に書き送っているが、
隆元の死後、恵心に知らされるまで周囲はその懊悩に気づいていなかった。
また、死の数ヶ月前には厳島神社に願文を奉納しており、
「父・元就の武運長久を願う。父に災厄が降りかかるなら自分の命を身代わりにしてほしい」
と願っていた。……隆元の願いどおりになったのかもしれない。

●後世の評価
元就より早く亡くなってしまったのと、
父・弟たちが強烈すぎる実績を残したため、隆元はまるで空気。
「三本の矢」の逸話で数合わせ程度に登場するも、
隆元の子、輝元が元就に続いて「二代目」と称されることもあり、
こちらでは物の数にすら入れてもらえていないほど地味というか不遇。
だけどこっそり隆元が好きな人はいっぱいいるはず!
江戸時代中期には長州藩主・毛利重就が隆元を再評価し、
隆元の遺した言葉を座右の銘とした。
「文をもって治め、武をもって守る。
 功あるを賞すれば、即ち忠ある者が増える。
 罪をもって罰すれば、即ち咎ある者は減る。
 賞を行うに躊躇せず」

まさしく正道の人。
2011-08-28

はじめる。

歴史とか戦国とか興味なかったはずなのに。

動画サイトで「戦国BASARA」のMMDとか見る。おもろい。
 ↓
歴史上の人物・毛利元就を調べてしまう。
 ↓
うっかり長男の隆元に心臓を鷲掴まれる。
 ↓
逸話を漁ったりしてズルズルと毛利家および戦国時代の魅力に引き込まれる。
 ↓
高額本に手を出す決心をする。 ←いまココ

情報を吸収するだけじゃ頭の整理が追いつかないので、
情報整理と高額本購入記念にブログを始めてみる。
ちなみに本はまだ届いていない。早く来ないかなー。
というかちゃんと注文処理されてるんだろうか。心配。
しかし届いたところでちゃんと読み解けるのか……

変なタイミングときっかけで戦国にハマッたため、
歴史友達がおらず話ができないフラストレーションを思う存分発散してやる!
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