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2011-09-30

化け物退治は定番なのか?

というわけで見つけた。
面白そうな話があるじゃないの。
もう夏は過ぎてしまったので怪談というのも時期はずれだけど、
怪談というよりは冒険譚のようなものなので、別にいいか。

ちなみに主人公は毛利家中の人ではない。


塩冶興久化け物を切ること(上)

塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。
この人が勇猛であることを示す、こんな話がある。

月山富田城の甲の丸に、桜の間、柳の間という部屋があって、
そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋は魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまった。
次第に、そこに近づく者はいなくなった。

塩冶はこれを聞いて、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、
見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、
眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、
化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。
私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」と、
たった一人でその部屋に向かった。

上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、
宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。
風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので、興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。
垂木(軒先の渡し木)の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」と、
外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が姿を現した。

まるで曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪で、上のほうで結った髪をカッと乱し、
目は鏡を額にかけたようにたった一つだけあって、太陽や月よりもなお明るく光っている。
鼻は長く垂れ下がり、歯は黄色くて上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭くて、剣樹のようであった。
唇は真っ赤で血の池のようであり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた麻の衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
ヨロヨロと近寄ってくるのだ。

「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。
これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。
朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。
ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と呟く声が聞こえた。

さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。

「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。
ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。
この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。
昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もしなかった。
大きく開いた目でじっと老女を睨みつけている。

老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。
おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。

老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。
お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。
そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、
それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。

「アッ」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。


以上、テキトー訳。後半へ続く。

仏教用語どころか、意味不明も甚だしい禅の公案引っ張ってくるんじゃねーよ(泣)。
「吹毛剣~」のあたりはマジで訳せないっす。
強引に訳したところで、余裕で意味がわからないっす。
「吹毛剣とはどんなものですか」と聞かれた僧が「月に照らされた珊瑚がキレイじゃのー」と答える。
この真意はいかに?っていう禅の問答(公案)らしいが・・・知るか!!
まあおそらくー、たぶんー、「そんなありもしないモン気にしなさんな」ってコトなのかね?
吹毛剣てのは、刃の上に置いた髪が、息を吹きかけるだけで切れてしまうほどの切れ味鋭い剣のことだそうな。
そんな刃物、あってたまるか。

この時代でも、妖怪とか信じない人がいたんだねー。
と思ったが、興久さん、狐や狸が人を化かすとか、三途の川とか、安達が原の鬼とかは信じてるのね。
安達が原の鬼ってのは、在原業平がさらってきた姫を横取りしちゃった奴だっけ?
まあいいや。

もう一つ、面白いなーと思ったのは、この老婆の妖怪、なんとモデルがいるっぽい。
平安時代の末期に流行した説話に「零落小町」というのがあるらしい。
玉造小町という人が、若いころは美しくて評判で結婚の申し込みが引きも切らなかったが、
17歳のときに親が死んでからはすっかり落ちぶれて、
日々食べるものにも困り、着るものもなくて、見苦しい姿に成り果てたというお話。
世の無常を強調した物語だね。
これが「宇治拾遺物語」なんかに収録されているらしい(読んだことない)が、
この「陰徳記」での老女の独り言で、ほぼそのまんま流用されてるみたいね。
なぜそう思うかというと、わからない言葉をググってたら、
「零落小町」に行き当たって、ほぼそのまんまの文章がヒットしたんだな。
パクリ?というのとは違うんだろうが・・・和歌の本歌取りみたいな一種の技法なのかな。

そうそう、この主人公、塩冶(えんや)興久さんは、尼子経久実子で、塩冶に養子に入った人。
生粋のの尼子家中にもかかわらず、敵対する大内傘下に入り、父親に反逆したので、
冒頭で「不孝・不義の人」とひどい言われようをされている。

次回、化け物オババたちの正体が明かされる!?
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2011-09-28

元春が吉川家を相続したようです

今回は物語性のほとんどない記録みたいな感じ。

少輔次郎元春、吉川家相続のこと

こうして元春は、その年(天文十六年・1547年)に吉川家相続の契約が相整ったが、
しばらく新庄には入城しなかった。
翌天文十七年三月に吉日を選んで小倉山に入城した。この年には嫡子元長が誕生している。
吉川興経も布川から小倉山に訪れて元春の入城を祝し、この家の大切な宝である青江為次の太刀などを進上した。
興経が「お供にはどんな方がいるのです」と尋ねると、元春に追随した家臣たちが一人ひとり名乗り出たので、
皆盃をいただいて、一晩中酒を飲み、興経も舞を披露して、布川へ帰っていった。

吉田から供奉した者は三十六人いたそうだ。
まず、福原上総介広俊の次男、二郎五郎元正・桂能登守元澄の弟左近太夫(元貞)・
平佐出雲守(就有)・兼重与次郎(信高)・粟屋三河守(元俊)・田中河内守(通家)・
山県杢助(康政)・内別作右衛門尉・井上備前守(貞敏)・福原下野守・粟屋伯耆守(就幸)・
山県日向守(康景)・山県筑後守(春勝)・武永四郎兵衛尉・粟屋十郎左衛門(由久)・
黒杭内蔵丞(春通)・河北源左衛門(行茂)・中村源右衛門(勝忠)・
井上与三右(左)衛門(重次)・長和三郎右衛門・佐々木弥左衛門・佐武(竹)善左衛門(直次)・
市川五郎左衛門・小河内因幡守(石見守とも、和久)・朝枝市允・粟屋源右衛門(就信)・
内藤平左衛門(春善)・浅原丹後守・井上新右衛門(斯直)・井上又左衛門(直次)・
福原備後守・坪井孫右衛門(久清)・井尻又右衛門(光友)・南部新右衛門(光信)・
大野四郎右衛門・井上神(甚)兵衛尉らである。

宮庄下野守・宮庄備前守は興経に味方したため、一命は助け置かれたが、
一所懸命の領地は没収され、その土地は二郎五郎元正に与えられて元正が「宮庄」と名乗ることになった。
二宮右京亮は石見の小笠原に逃げた。朝枝加賀・朝枝三郎左衛門は小早川へと越した。

元春は智仁勇の三徳を兼ね備え、先祖を敬い下々を慰撫し、
その徳は昆虫にすら及んで、この家の代々の一族郎党もすべて忠勤に励んだ。
なかでも吉川伊豆守経世・森脇和泉守祐有は子孫繁栄して、この家の両翼を担う家臣となった。


以上、テキトー訳。

いやあ、こうして家臣の名前がビッチリ出てくると
「うはw イイ資料www」とか思っちゃうのはなぜだろう。
だから創作するつもりとかないんだって。
妄想はするけど。

しかし興経、幽閉の身だというのに新当主の祝いに招かれるとか可哀相。
元春って、一応興経の養子になってるんだよな。
その若造に名刀を献上して舞まで披露しなきゃならんとは・・・
その心中を思うだけでちょっと胃が痛いよ。

さて次回、まだどこを読むか決めてない。
なんか面白そうなのをこれから探す。
どうせ明日は夜まで会議だから更新できそうにないし、ゆっくり探します。
2011-09-27

大塩の最期、興経の処遇

前回のあらすじ:
吉川興経は美童として寵愛していた近江出身の大塩に大権を与え、
大塩は傲慢に振舞って吉川の一族郎党にきつく当たったので、
家中には大塩を恨む者が多かった。
ついに堪忍袋の緒が切れた森脇和泉守(興経の養育係)が吉川伊豆守経世(興経の叔父)に
不満をぶちまけ、二人して、かくなるうえは大塩を誅殺すべしと結論し、時機を待っていた。


吉川治部少輔興経、家老と不和のこと(下)

興経はそのころ、新庄から一里ほど離れた大朝という所に滞在していた。
興経の本妻は宍戸安芸守隆家の妹だったが、容色も美しい女だったのにどうしたことか夫婦仲は悪かった。
大朝に宮庄下野守(経友)の娘を妾として囲っていたので、そこにばかり入り浸っていた。
このときは大朝から仮屋というところに狩に出かけていた。
伊豆守・和泉守はこれこそ好機だとついに行動を起こし、
朝枝修理亮・境の一族らに計画を打ち明けると、もともと大塩をよく思っていない者たちだったので、
境美作守をはじめとして、渡りに船とばかりに喜んで、計画に同意した。

朝枝首里亮は夕方ごろに大塩の宿所に赴き、
「明日、吉田にお使いとして参ることになったのですが、我らの武具はあまりにも粗末なものです。
見栄えが悪いので、大塩殿の薙刀をお貸しいただけませんか」と言った。
大塩はお安い御用だと秘蔵の薙刀を朝枝に貸し与えた。
大塩は弓馬だけでなく武術にも熟達しているので、
もし討ち入りの際に武具を構えられては厄介だということで、一計を案じて引き離したのだった。
そして朝枝は大塩の十三歳になる嫡子太郎と二人きりで客間に寝た。
これは大塩を討つときにその嫡子も同時に始末するための策であった。

そうして取り決めの時刻になると、和泉守の嫡子内蔵太夫が夜陰に乗じて忍び込み、
大塩がすっかり寝入っているところを狙って丁と斬りつける。
大塩も鋭い男なので、とっさに気づいて夜具で受け流し、枕元に置いた太刀を取り上げた。
刀を抜く隙もなく、鞘のまま二打、三打を受け止め、闖入者につかみかかる。
大塩はたいそうな力持ちで興経とも互角に相撲をとるほどの者なので、
手傷を負いながらも内蔵太夫を宙吊りに持ち上げようとしたところ、十人ほどの寄せ手が大塩に殺到した。
大塩はものともせずに数人を振り切り、家の中から大庭目指して躍り出たが、
大勢が寄ってたかって斬りかかり、ついにそこで討たれてしまった。
嫡子の太郎は、朝枝修理亮が押さえつけて首を掻いていた。

寄せ手が大塩の田中の宿所に火をかけたので、もうもうと煙が立ち上り、空を覆い尽くすような勢いであった。
これを仮屋の山上から見た興経は、
「大塩の宿所辺りで火の手が上がったのは、過失なんかではあるまい。
噂で耳にはしていたが、これは定めて伊豆守と和泉守の仕業に違いない」と、
急いで鎧を着て、たった一騎で仮屋から駆けつけようとした。供の若党たちもすぐに後を追う。
寄せ手たちは、前々から計画していたように、興経の通り道に人を配置して
「大塩屋敷で失火がありましたが、多くの人が集まって消火いたしました」と伝えさせた。
興経は、「これは運がよかった」と、また大朝へと帰っていった。

翌日、各方面から「伊豆守と和泉守らが手を組んで、大塩を暗殺しました。
殿もご用心ください」と注進が寄せられた。
興経は、「昨夜はきっとそうだと思っていたのに、すっかり騙されてしまった。悔しくてたまらぬ。
なんとも憎い真似をするものだ。そういうことなら、一人残らず討ち果たしてくれよう」と、
手近な者を五千人ほど集めて新庄に帰った。
吉川伊豆守・森脇和泉守・森脇内蔵太夫・朝枝修理亮・境美作守ら、
その他家中の大半の者たち三百人は、既に家々に火をかけて与谷の城に引きこもっていた。
興経はすぐに攻め寄せてことごとく殺し尽くしてやろうとしたが、
「叔父の伊豆守、また私を赤子のころから抱き育ててきた和泉守ですら、こうして反逆を企てたのだ。
他の者だって多少の逆意を抱いているに違いない」と、
後ろめたさばかりが先立って、結局何の行動も起こさないまま日数ばかりが過ぎていった。

宮庄下野守・その子備前守・江田宮内少輔・二宮杢助(俊実)・
朝枝右京亮(経道)・朝枝因幡守・朝枝三郎左衛門などは、
「興経はまだ年も若くていらっしゃる。正道を外れたといっても、
臣下として主君を蔑ろにするわけにはいかない」と、興経に味方した。

伊豆守・和泉守は寄り合って話し合った。
「我らは主君のために奸臣を討ち滅ぼして政道を正そうとしているわけで、
これは吉川家に末永く安泰をもたらすための策でなくてはならない。
しかしかえって吉川家を滅ぼす災いに転じてしまったようだ。
こうなったら吉田(毛利家)にお願いして、元就のご子息のうち一人を養子にして当家を相続させ、
興経には隠居していただこう。
これは興経に対しては反逆と同じようなものだが、吉川家に対しては大忠功の至りとなろう」と結論し、
二人で連れ立って吉田へと赴いた。

「興経は家中の取り仕切りが大変悪く、歴代仕えてきた一族郎党であっても奴隷のように取り扱います。
小賢しく媚びへつらう大塩ごとき新参を寵愛し、一族郎党の頂点に据えるかのように召し使うなど、
当家はもうおしまいでございます。
それゆえに我らは是非もなく奸臣の大塩を討って政道の間違いを心改めさせようとしましたが、
興経はこの諫言を反逆として受け取ったのか、我々を処罰しようとしているのです。
このうえは、少輔次郎元春に吉川家を相続していただきとうございます。
興経は取り押さえて隠居させ、元春殿に無二の忠勤を捧げたく思います」

二人の提案に、元就様は首を縦に振らなかった。
そこで伊豆守・和泉守は、未来永劫逆心を抱かぬ証に、
熊野牛王符を裏返して天地の神々を揺り起こし、七枚の起請文を書いて元就様に進上した。
元就様は、ここまでするのであれば疑う必要もないと、少輔次郎元春の吉川家相続を認め、約束した。
伊豆守・和泉守は、喜びを隠しきれない様子で新庄に帰っていった。

さて、興経は議論の余地もなく隠居することに決定したので、
力及ばず、国内の布川へ隠居することになり、
同(天文十六年(1547年)?)八月一日に小倉山の麓の館を出立した。
供には手嶋内蔵丞(豊島興信)・二宮十郎左衛門・村竹宗蔵らがつき、
中間以下を含めても数十人には及ばなかった。
布川の館は屋根の茅もまばらで、松の柱も傾いており、柴の扉を尋ねてくる人もほとんどない。
ヨモギが生い茂って道を隠し、まがきの内側も野原と変わりないので、
そこを通り道にしている小さな牡鹿も、住み着いている松虫でさえ、人気が少ないので我が物顔である。
門の番をする老人もおらず、ムグラが這い伸びて門を閉ざすのをなかなか払えないような有様だった。
昨日までは数千の兵を統べる大将だった身が、今日からは人もいないような山里に侘び住まうとは、
盛者必衰が世の常とはいえ、痛ましいことである。

同二日、小倉山にいた江田父子のところへ、伊豆守・和泉守から城を明け渡すように伝令が来た。
江田因幡守は「興経が我らにこの城を預けたのは、もしものことがあったとき、
我らならば潔く掃除などもして敵に明け渡すだろうと思し召されたからだろう。
私が今おめおめとこの城を出たのでは、人に会わせる顔があるものか」と、
甲の丸で腹を十文字に掻き切って死んだ。
嫡子は二の来輪(くるわ)にいたが、父が自害したと聞いて
「主君興経は蟄居の身となられ、父もまた自害した。
私だけが生きのびては主君に対して忠義がなく、父に対して孝心がないことになる」と言って、
同じように腹を切って果てた。
忠といい儀といい、比類ないことだなあ、と人々は皆感涙に咽んだ。


以上、テキトー訳。この段はオシマイ。

なんか、「世に聞こえたる大力の者」ってのも頻出だな。
そんなに力持ちばっかいたんかい。
それとも「大力」は組み合ったときに必ずつける決まりごとにでもなっとるのか。
もうちょっと、「俊敏」とか「技術に優れた」とか、
個人の特性にバラエティがあってもよさそうなもんだが、
こういう思考が現代のゲーム脳なんだろうかw

うっかりスルーしそうだったけど、マジで枕元に刀置いたりするんだな。
都市伝説みたいなもんかと思ってたけど、
大塩しかり、ちょっと前に呼んだ話の陶隆房の乳兄弟しかり。
いつ寝首をかかれるかわからない時代だったんだなぁと妙に感心した。

興経はアレだな。
頭が回りそうなのに騙されやすいとか、血気に逸るのにしぼむのも早いとか、
イマイチ中途半端な印象が残った。
この後見せ場はあるんだろうか。

次は、元春が吉川家を相続したときの話を読むつもり。
2011-09-26

吉川興経がやらかしたようです

元就が吉川に養子入りは、当主の興経の悪政に家臣団が反発して隠居させ、
後釜に興経の叔母の子である元春を据えた、というのが概要だったと思う。

その詳しい経緯を追っていこう。

当時のだいたいの状況は、出雲の尼子VS防長の大内って構図の中で、
元就は吉家国経の娘との縁談を契機に一旦尼子側についたものの、ほどなくして大内に乗り換えた。
興経は国経の嫡子元経と元就の異母妹との間に生まれた子だったが、
毛利とは異なり尼子方に味方している。


吉川治部少輔興経、家老と不和のこと(上)

吉川治部少輔興経は、このたび雲州富田の八幡山から城に入った。
これから芸陽に帰ろうというのは、一国を敵にまわしているので、
どだい無理な話であって、しばらく富田に滞在していた。
元就様が義隆卿に「吉川興経は何度も裏切って不義の至りではありますが、
吉田宮崎、富田洞光寺で度々勇猛を顕した者でもあります。
これからは私が意見をして、危険な野心を抱かないように説得いたしますので、
ぜひとも罪をお許しください」ととりなすと、
「そうだな。元就の言うように取り計らおう」と義隆卿も了承した。
元就様はこの趣旨を富田へ伝えさせ、興経はすぐに家城の小倉山に帰ることになった。

こうして二、三年が経つころ、叔父の吉川伊豆守(経世)と乳人の森脇和泉守は興経に恨みを抱いて、
ついには主従の間に亀裂が入ってしまった。
どうしてかというと、大塩右衛門尉という者のせいだという。
大塩はもともと近江の者だったが、年少のときに容貌がとても美しかったので、
志学(十五歳)から興経が側に召して寵愛していた。
成長するにしたがって武勇や才能が他よりも抜きん出てきたので、
興経はますます大切にして家中の掟などもその者に制定させるほどになった。
人々は皆、表面上は吉川家一族を敬っているように振舞ったが、裏では大塩の権勢におもねっていた。
自然と大塩の威勢は誰よりも高くなり、対して吉川の一族や家老の威光は
明けの明星が光を失うように衰えていった。
大塩は自身の才知に驕って人の下に立つことを嫌がったので、次第に傲慢になり、
伊豆守・和泉守をはじめとしてその他の郎党にも無礼な振る舞いをするようになった。

何事においても従来の法を破棄して新しい法を定め、年貢が厳しいばかりか、
課役だけはしょっちゅう言いつけてくる。
領民たちは皆迷惑して、他国に逃亡する者も珍しくなかった。
それだけでなく、一族郎党も大塩の意地の悪さを憎んで、ほとんど仲違いしてしまった。
士農工商の誰もが疲弊して、皆が大塩を恨んだ。

商人が街道を通る際の手形の発行も大塩が行っていた。
新庄から吉田へ通る道の押さえに森脇和泉守がついていたが、
吉田から来た商人たちが森脇に「手形を発行してください。この道を通りたいのです」と言うので、
森脇は「大塩にもう一度手形を求めるのだぞ」と言って、手形を発行した。
こうして商人たちが山の荷を抱えて新庄に入ると、道の境にいる番人が「手形は持っておらぬか」と問うので、
商人は「ここにございます」と、森脇の手形を提示した。
番人たちがこのことを大塩に告げると、大塩は我慢のきかない男でひどく怒り出した。
「すべての道の通行手形は私が出しているのだから、
他の誰かが出した手形では通してはいけないと法で堅く定められておる。
それを破って手形を出すなど、この大塩を侮るだけでなく興経を蔑ろにしている表れである。
今後の見せしめとして、荷物を切り落として追い返すがよい」と大塩が命じたので、
血気にはやる若者たちが後先も考えずに命令のままに荷物を切り落とし、商人たちを追い返した。

商人たちがほうほうの体で逃げ帰り、森脇に起きたことを告げると、森脇は大激怒した。
「大塩が私を押しのけて手形を出していたこと自体が間違いだったのだ。
しかしながら、例えどんな非道を行ったとはいえ、
興経公が赤子のころからこの手に抱いて育て上げたのはこの私だ。
だからこそ一度は見逃したというのに、無理な法に任せて罪のない町人に狼藉を働くとは何事だ。
この和泉の顔に糞尿を塗りたくったのと同じだぞ。
所詮大塩は当家の者ではない。その掟が正しいはずがないわ」と、森脇は地団太を踏んで怒った。
「吉川伊豆守は興経の叔父で当家の重臣だ。この人も常々大塩には煮え湯を飲まされている。
私と伊豆守はともに鏡山城主の婿だ。内外なく親しくしている。
まず伊豆守に相談して我が鬱憤をぶちまけてやろう」と、急いで伊豆守の館に向かい、
人払いをして、あったことを一つ残らず語った。

伊豆守も森脇に同調した。
「大塩のひどいやり方は、本当に外道だのう。
奴があなたや私に害をおよぼすのは、ひとえに忠臣の我らが自分の上にあるのを鬱陶しく思っての意地悪だろう。
こうなったら大塩を討って当家の苛政を改めようではないか。
大塩を殺せば、興経はきっとあなたと私を処刑するに違いない。
たとえこの身をズタズタに引き裂かれたとしても、恨みを残すことはなかろう。
主君のために命を投げ打つのは忠臣として望むところではないか。
戦場で討ち死にするのも、今度のように奸臣を討って命を失うのも同じ忠義だ。そう思わんか。
大塩を滅ぼせば、当家の侍たちの恨みも解消して、主従が心を合わせやすくなる。
興経の武運も永久となろう。たった二人の命で多くの人の艱難が救われ、
当家の危機を除けるのであれば安いものだ」と内々に取り決めて、あとは時節を待っていた。


以上、テキトー訳。次回に続く。

つーかまた出てくんのかよ、「男色の寵愛」w
どんだけポピュラーなの。
これで思い上がっちゃった大塩が興経の名の下に悪政を敷いたのか。なるほどね。
そういう奸臣を「いかに失脚させるか」じゃなくて
すぐに「殺そう」ってなる発想はさすが乱世だ。この感覚、慣れてきてスルーしそうだったわ。
でも、すぐに、ってわけでもないか。ずいぶん我慢したもんな。

この話で誰がかわいそうって、商人たちだよな。担いでた荷を奪われてるんだし。
お役所はきちんと連携してくださいよと言いたくなるわ。

さて次回、森脇と経世叔父さんはどうやって大塩を暗殺するんだろうか。
2011-09-25

兄上を差し置いてとか、そんなのカンケーねえ!

やっぱ有名なエピソードははじめに押さえとくべきだろ。
というわけで、元春の嫁取り話。

前後関係をちらりと見ると、
吉川家への養子入り決まる→嫁取り→吉川家相続
という流れらしい。
つまり養子入りが決まったからこそまだ17歳の元春が嫁さんもらうわけだ。
7つ上の兄ちゃんのお相手はまだ決まっていないというのに・・・


少輔次郎元春、熊谷信直息女と嫁娶りのこと

元就様は言う。
「元春にはまだ妻がいない。しかるべき者の息女を選んで婚姻の契約を結びたいものだ」と、
寝ても覚めてもこのことを考えていたが、とりあえず元春の気持ちを聞いてくるようにと、
児玉三郎右衛門就忠に言いつけた。
就忠は「かしこまりました」と、元春のところへ行って元就様の用向きを告げた。
元春は、「誰を妻にしたいという希望はない。すべては元就公のおおせ次第だ。
しかしながら、私に任せていただけるということであれば、
胸の内を言わないというのも何なので、就忠には言っておこう。
熊谷伊豆守信直の長女がいいかと思う」と言う。

「なるほど、しかと承りました。元就公にもそう申し上げましょう。
しかし、信直の長女はとんでもなく器量の悪い女だと聞き及んでおります。
これはなんとも申し上げにくいことではございますが、いざ妻にしてみて、
その容色が聞いていたよりも悪かった場合、後悔も深くなり、愛せなくなるのではないですか」
と就忠が言えば、元春はにっこりと笑った。

「信直の娘を望むのは私が好色だからだとでも思っているのか。
それならば就忠の考えはどうあれ、父元就公のお考えには沿わないだろう。
将たる者が第一に慎むべきなのは好色である。
唐の玄宗皇帝が楊貴妃のせいで天下を奪われたことは、皆知っているだろうから言う必要はないな。
日本でも漢でも、将が女色に耽溺する例は枚挙に暇がない。
かの新田義貞は義経以来の名将ともてはやされたが、
勾当内侍の色香に溺れて西国への出発を引き伸ばしたために、尊氏に戦で負けてしまった。
将であれ兵であれ、好色が災いして名を汚し命を失う者がとにかく多い。
最も戒めるべきなのはこの道である。

私は元就の次男として生まれ、わずかな間ですら武芸の精進を怠ったことはない。
もし御仏や神々に頭を垂れて祈り、一度は武名を天下にとどろかせ、
昨今の諸将のうちでは抜きん出た才覚の持ち主だと世間の評判となったとしても、
それでも父に比べれば雲泥ほどにかけ離れて劣っているはずだ。
昔の楠正儀は、当時の勇将と称された細川清氏・桃井直常らより十倍も優れた武将であったけれども、
父正成に比べれば半分にも満たないと嘲笑われたという。
父元就公は、武将としては正成に勝るとも劣らない。
私もまた正儀と大して違わない。
だから私がどんなに愚かだったとしても、重大な期待を背負っていることは知っている。

今回、信直の娘を望むのは、その女の容貌が優れていると聞いたからではない。
おまえが言うように、姿が醜いと耳にしている。
姿が醜ければ、この女を嫁にしたいという人はいないだろう。
父の信直もまた、この娘を妻に望む者は少ないと思っているはずだ。
だからこそ私がこの女を求めれば、信直も、世間での婿・舅の間柄よりも百倍して、
私の心を汲み取ろうとするはずだ。そして私の志に身命を投げ打って報いてくれることだろう。
今現在、この中国に熊谷信直に勝る侍大将はおらぬ。
私が彼を舅にして先陣を務めれば、どんな強敵・大敵であっても破れぬことはあるまい。
こうして武威を振るえば、元就の武勇の核心とまではいかないまでも、
何らかの片鱗を私のものにすることができよう。
また、私が信直と縁を結べば、信直もまた元就公に対してさらに忠節を尽くすことだろう。
そうすればますます毛利の武運は増す。
これを考えれば、醜い女を妻にするのは、父に対しての孝心だと言える。
また私にとっては、武名を上げるための計略になるから、これを望んでいる。
決して好色な思いからではないぞ」

就忠はこれを聞いて、
「これほどまでに若君のお心立てがご立派になっていようとは、露ほども存じ上げませんでした。
信直の息女が美しいとお聞きになったために望まれたのだと思い、愚かなことを申しました。
こんなことを申せばお心のうちでは大変迷惑にお思いになるでしょうが、
実にあなた様は、天が下された聖武の器に成長なされました。
斉の閔王が宿瘤という大きな瘤持ちの農家の娘の一言に心打たれ、
賢女だと見抜いて后(第一夫人)に迎えたところ、その徳は数ヶ月のうちに隣国にも及び、
諸侯が挨拶に訪れるようになり、晋の三国を脅かし、秦や楚の脅威ともなったという話を聞いたことがあります。
若君も熊谷の息女と婚姻を結ばれれば、おっしゃるとおり、
熊谷は比類ない戦働きをするでしょうから、若君の武名が日ノ本六十余州にとどろくのは間違いないでしょう。
元就公がこれをお聞きになれば、どんなにかお喜びなることでしょう。急ぎこのことをお知らせせねば」
と帰っていった。

元就様は元春の思いを聞くと、
「そんな風に考えているとは、実に殊勝な心がけである。
この一言は毛利家の武運がますます隆盛となる予言に違いない。
元春は竹馬に鞭を振るっていた幼いころから良将の器量の持ち主だと思っていたが、
我の目は曇っていなかったようだな」と大いに喜び、
すぐに熊谷伊豆守へ元春と息女との縁談を持ちかけた。

熊谷はことのほか喜んで、天文十六年(1547年)、めでたく祝言を挙げた。
元春が言ったように、熊谷は元春に対して身命を惜しまず戦働きに邁進した。
これによって元春は勇将と評判になり、
遠くには先祖の伊豆守基経が「鬼吉川」と世間に恐れられた跡をなぞり、
また近くには厳父元就様の名将の名を継ぐことになった。
世にも稀なことである。


以上、テキトー訳。

元就が元春の嫁の心配をするのは養子入りが決まったからだよな。
家督した長男にはまだ嫁さんいないわけだけど、
兄貴がまだ嫁もらってないのに・・・ってのは一言も出てこないw
こういうのは江戸期に広まった儒教的な発想なんだろうか。

信直の娘が醜女だとするのは、この「陰徳記」が初出らしい。
また、信直の妹は絶世の美女と言われていたので、姪である元春の妻=醜女説には再考の余地があるとか。
この説がデタラメだった場合、なんでそんな設定になったのかというと、
・「陰徳記」を著した香川氏が熊谷氏とライバル関係にあったために意地悪をした説
・元春のイメージアップのため、あえて故事にも通じる挿話を入れた説
などがあるようだが、私としては後者だろうな~と思っている。
香川氏と熊谷氏って、ほぼ同時に安芸武田傘下を抜けて毛利についてるはずだから仲いいと思うし、
もし仮に不仲だったとしても、そんな個人的な鬱憤を晴らすために
偉大な藩祖、広家の母君を悪し様に描くわけないだろ、と。

この話で意外だったのは、元就が元春に希望を聞いている点。
本人の希望とか、一応聞くこともあるんだね。
実際聞いたかどうかは別としても、そういう決め方も一般的にあったとうかがわせる。
エピソード的には、元春が突っ走って熊谷に求婚に行っちゃって、
元就が後からフォローしたって話のほうが面白いけど、これはこれでナカナカ。
17歳のやりたい盛りに「好色じゃないもん」とか言っちゃう元春がカワイイ。
そして「あいつは小さいときからデキる男だと思ってた!」とデレる親バカ元就もかわゆい。
竹馬にまたがって鞭をくれている幼児元春を想像するとさらにホンワカする。

元春はこの後、すぐに子供作って翌年には第一子が生まれてるし、
ずっと側室を持たずに正室の新庄殿との間に四男一女をもうけてるし、
三男がグレたときには両親連署で諫める手紙を送ってるしで、
夫婦仲はものすごく睦まじかったんだろうなー。うらやましい家庭だ。

明日は、やっぱり少し気になった、吉川への養子入りの経緯を読もうと思う。
2011-09-25

隆元をざっくり描いてみた

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2011-09-24

伊香賀さんこぼれ話

今日は友人相手に思いっきり戦国話ができたので満足w
しおりん、聞いてくれてさんくす!!!
そのうち絵もうpするからね!!!

さて今日は、陶さんが大事で大事でしかたない伊香賀民部のことを元就が語ったようです。


伊香賀民部のこと並びに元就朝臣父子四人帰陣のこと

元就の御前に、熊谷・天野や福原・桂・志道などが伺候して、
今回の合戦における大内家の侍たちの戦いぶり、自害の様子などを語り合っていた。
元就様がこんな話をした。

「陶入道は祖父中務太輔・父兵庫入道と二代続いて智仁勇を兼ね備えた武臣だった。
だからその余慶が子孫に伝わり、全薑入道にも優秀な家臣・郎党が多くいたのだな。
重見は河野の一族で伊予守頼義の末裔だったからだろうか、
源家の印を顕し節義に命を賭けたのは、今の世には珍しい勇士である。

それにつけても伊香賀民部少輔は、末代にも語り継がれる忠臣の鑑である。
入道の養育係だったから、万事を後見して政治の間違いを正し、謀略の不足を諫め、
そのうえ自分自身でも何度も分捕高名して勇名を馳せた者でもあった。

伊香賀は忠臣の道を貫いたが、ことさら心中が思いやられて胸が痛む、こんな話がある。
民部には三人の子があった。そのうちの一人は名を采女といって、陶入道にとっては乳兄弟だ。
以前、山口でいりこ酒が大流行したときに、陶・杉・内藤をはじめ、
侍たちもこぞってこれを楽しんで、毎日毎晩、いりこ酒の会といっては酒宴を催していた。
青景越後守が主催したときも、一晩中呑み明かして、朝霧の隙間から有明の月が山の端にかかった様子を
飽きもせずに歌に読み、鼻歌交じりに吟じてようやくお開きとなった。

陶入道、このときはまだ隆房といったが、彼は遠山の雲の辺りに飛ぶ雁のほのかな声をもう一度聞こうと、
家の中には入らずに扉のところに立っていた。
陶の小侍従で若杉九郎という者が隆房の寝所の続きの間に寝ていて、
もちろん主人が近くにいることなど知りもしないで、
『なあ采女、隆房様はいったいどこに、何の御用でお出かけになったのだ。
こんな時間までお帰りにならないとは、心配じゃないか』と言った。
采女は陶の寝所に寝ていて、『隆房様はいりこ酒だ!いりこ酒の隆房様だ!』と言った。

陶は障子越しにこれを立ち聞きしてカンカンに怒り、乱暴に障子を引き開けて、
『なに!隆房はいりこ酒、いりこ酒は隆房と、私を嘲笑うか!』と、
とっさに脇差を抜いて斬りかかろうとした。
この脇差は若楓という名で、刀工波の平による一尺五寸の業物だ。
采女はさすがの早業で、夜具でこれを受け流し、うしろの障子を撥ね破って大庭に逃げた。
陶は腹に据えかねて縁側に走り出て、『采女、心構えがなっとらんようだな。
好き勝手に主君の悪口を言いおって、どこへ逃げたとしても逃げ切れないぞ。
あらゆる仏神、とりわけ八幡大菩薩もご覧あれ。
日本国中はさておき、唐土・天竺・南蛮・韃靼国へ逃走したとしても、天の隅々、地の隅々まで探し尋ねて、
その首を刎ねてやる。ここに戻ってこい。私に一太刀に斬られて死ね』と、
飛び上がるようにして縁側の板をドスドス踏み鳴らし、声を荒げて言い放った。

采女はこれを聞いて、鞘ごと手に提げていた脇差をカッと投げ捨て、
『なぜ私が殿の悪口など申しましょうか。ただふざけて申したことではございますが、
それほどまでに憤っていらっしゃるのであれば、一歩も引くわけには参りません」と、
静々と歩み寄って縁側に上がった。両袖を脱いで正座し、両手を突いて首を差し伸べると、
『これをどうぞ』と言って口を閉じた。

陶は堪え性のない男だ。
『いりこ酒一つ受けてみよ』と言って斬りつけ、采女の首は前に落ちた。
陶はすぐに父の民部を呼び、『おまえの子の采女はこんなことを言った。あんなことをした』と
起きたことをすべて語っている間、民部はただ平伏していた。
陶は『おまえにとっては子であるから、さぞ不憫に思うだろう。死骸は引き取ってよい。
よく供養してやれ』と言った。
民部少輔は、愛するわが子を失って胸を痛め、目の前が真っ暗になり心神喪失しそうなものであるが、
少しも悲しむ気配もなく、はたと我が子の死骸を睨みつけた。
『おまえはなんということをしたのだ。もう私の子ではない』と言って縁側の下に突き落とし、姿勢を正した。
『なぜ死骸の供養などいたしましょうか。主君のことを悪し様に申し、
ご勘気をこうむってこんなことに成り果てた者を、親だからといって、
不憫に思って供養などするものではありません。
生きているうちには主君の不興を買って首を刎ねられ、死しては父に勘当されて、屍を捨てられました。
これは断じてこの民部の子ではありますまい。
天魔の仕業か、狐が人に変化したものでございましょう』と言って、民部は身を震わせて退出した。

皆は民部の心中を慮って、訪ねてきては何くれとなくお悔やみなどを言ったものだが、
民部はちっとも悲しいそぶりを見せなかった。
飲食して談笑していたが、さすがに夜になると涙をこらえることができなかったそうだ。

しかしその後も少しも陶を恨む気配すらなく、ごくわずかな間でも仕事を疎かにしなかったものだから、
陶も自分勝手な考えをすぐに改め、采女を殺したことを悔やんで、民部の心中を察して労わったという。
民部は子を殺されても恨まないどころか、常から従事している仕事に力を尽くし、
今は入道の最期までも節義忠貞を貫いた。実に奇特な者であった」

元就様が語りながら感涙を流すと、そこに居並んだ熊谷・天野をはじめとして、皆袂を涙で濡らした。
こうしてこの島に十一日まで滞在し、翌十二日の朝方に、小方町へと帰陣した。


以上、テキトー訳。

元就、よく知ってんな。まるで見てきたかのように語るw
陶さんはどっかの市松さんみたいなことやってるし。
酒乱の主君を持つと大変だよねぇ。

伊香賀さん、なんつうかマジで忠義者だね。
息子殺されても「こんな悪い奴息子じゃない」と死骸すら粗略に扱い、元気そうに振舞うも、
夜はこらえきれずに涙を流す・・・でも仕事はちゃんとやるとか。できた人だ。
そりゃみんな、こんな話聞いたら泣きたくなるよ。
むしろ元就からこんな話を聞かされると、
「おまえの親族殺すかもしれないけど、伊香賀民部みたいに忠節尽くせるよな?」
と暗に言われてるようでgkbrだわ。

さて、この続きは厳島合戦後の山口情勢の話になるようだが、
一応厳島合戦の話はここで一区切りなので、次回は気分を変えて全然違うとこを読むことにしよう。
2011-09-24

【腐注意】カミングアウト

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2011-09-23

褒められると思ったら怒られたでござるの巻き

そういえば生け捕られた大和伊豆守はどうなったのか、というと。

大和伊豆守誅せらること

元就様は無事に怨敵を打ち滅ぼし、しばらく厳島に在陣して、このたびの合戦における論功行賞を行った。
香川左衛門尉光景が呼ばれたときのこと。

「大和伊豆守を生け捕り、並びにこの郎党たちやその他所々において
敵二十人あまりを討ち取ったのは、大変感心なことである。
特にあの伊豆守は文武両道の器量の大きな武将である。
だからこそ、この元就は伊豆守を味方につけて召し使いたいとおまえたちに言っていたのだが、
あの乱戦のさなかにハッと思い出し、一も二もなく殺すようなことはしないで捕虜としたのは、
何にも増した忠勤である。

しかし、だ。

このたびは七ヶ国の太守、大内義長との戦争であって、元就の盛衰も、家の大事もここに極まった。
光景は国人とはいっても、先年、武田刑部少輔信実が退散したときから当方の味方となり、
何度も忠戦を果たしてきた。だから我もさらに信頼し、
もし陶の軍数万騎に城を囲まれたとしたら、城を枕に戦死を遂げることはあろうとも、
敵が大勢だからといって城を捨てて退却することなどないだろうと頼もしく思って、
家老の桂・児玉と同じように一城を預けたのだ。
敵がもし陸地を攻めてくるとすれば、まず最初に桜尾・草津の二城に攻め込んでくるだろう。
海上からならば、厳島・三保ノ島が最初に敵に囲まれる。
どれも安芸の重要な防衛地点だ。
その要衝を放っておいて、この島へ渡ってくるとは何事だ。
かねてから我が定め置いたことに背くとは、まったくもって不当である」と、
元就様はもってのほかに怒ったので、香川は平伏するしかなかった。

「仰せの向きは確かにもっともでございます。申し開きの次第もございません。
しかし私の愚案を申し述べさせていただきます。
事前にこのたびの合戦の勝敗を予想してみたのですが、何しろ敵は防長豊筑の兵が三万以上です。
味方は安芸半国にも及びませんので、わずか三千ばかりで、敵に比べれば十分の一。
毛利家の存亡を賭けた十死一生の合戦ということになります。
この島で比類なき防戦をしたとしても、十中八九勝てないでしょう。
そのような場合は、ご一族のうち誰か一人くらいは留守居にするものです。
こう申すのも恐れ多いものですが、皆ことごとく討ち死にすると思っておりました。
それならば、ご一門が皆討たれるというのに、何のために城を守るというのでしょうか。
秦の時代の?轢鑚(ひき潰す、切るという意味だから惨憺たる滅亡のこと?)ともなりましょう。
意味もなく城を守っているよりは、物の数にも入りませんが、一人でも多くこの島に渡り、
ヘロヘロの矢の一筋なりとも敵に向かって放ち、
錆びた槍の一本なりとも敵に突き捨てて忠死を遂げようと思い定めたのです。

また、もし今のように勝利できたのであれば、端の城などは一旦敵に落とされ、
たとえ妻子や家の者たちが生け捕られたり皆殺しにされたりしたとしても、嘆くことではありません。
すぐに取って返して、城は戦で取り返せばいいのです。
もちろん、妻子が殺されてしまうのは不憫ではございますが、
恩愛の別れを惜しみ、主君の最期を見届けられずに、城にこもって誰かから伝え聞くなどということになれば、
不忠の極みどころではありません。それは逆臣というものでしょう。

おそれながら、ただ生死、存亡をご一族と共にすることこそが、
これまでの御厚恩にほんの少しなりとも報いる方法です。忠心を顕すにはここしかないと思い、
考えなしに渡って参りました。
このことは事前に児玉内蔵丞に相談しており、海上でも一緒におりました。
たった今お叱りを受けてのとっさの方便ではありません。内蔵丞にもお尋ねください」

香川が言うことを、元就様はすべて聞いていた。
「このたびは陶が防長豊筑の兵を多数引き連れて攻め渡ってきた。
国人たちは皆かつての契約を違えて、あるいは病と称し、
または何くれともったいぶって我の催促に応じなかった。
それなのにおまえは、妻子をも打ち捨て、身命をも惜しまずに、ここまでついてきてくれたばかりか、
大変な働きで多数の敵を討ち取り、さらには大和伊豆守を生け捕ったこと、
その節義、功名は類まれなるものである。おまえの言うことは確かに道理であるな」と、
元就様は感じ入って香川を称えた。
香川は許しを得られてたちまち喜びに眉を開き、頬を緩ませて御前を退出した。

「大和伊豆守を理由なく殺すようなことはするな。
しばらくは囚人として香川に預け置くので、よくよく大切に遇してくれ」との命が下された。
しかし、「大和が強かったのは既に過去のことです。
生かしておいては千里の野に虎を放つようなものです」という諫言が、
熊谷・天野をはじめとして多く寄せられた。
元就様は一ヶ月ほど経つと「では大和を殺せ」と言うようになった。
香川左衛門尉はこれを承り、すぐに家の子の香川佐渡守・猿渡壱岐という者に言いつけて、
仁保ノ島の城の坂で大和を討ち果たした。
大和伊豆守はさすがの勇士なので、太刀を抜いて散々に戦ったが、敵は二人である。
一太刀浴びせられるともう抵抗のしようがなく、ついに討たれてしまった。

伊豆守が差していた刀は号を「鷹匠切り」といった。
これは普光院足利義教卿が大内家に下されたものである。
刀工、来国俊の業物で三尺一寸あり、代々大内家の家宝として伝えられる千鳥・荒波と並んで
鷹匠切りは天下の名物であった。
しかし大内左京太夫義長が男色関係でのめりこんでいた杉民部にこれを与え、
諸事情があって伊豆守が貰い受けたのである。
このような稀代の宝物を勝手に自分の物にするわけにはいかないと、二人はこれを元就様に献上した。
元就様は「こんな比類のない名物、おまえたちだって何としてでも欲しいものだろう。
これほどの宝を持つ家は非常に珍しい。おまえたち、持って帰って家の宝にするがいい」と返してくれた。

義教将軍が鷹を持った者を袈裟懸けに斬った際、
斬ってからしばらくして地に倒れたのに鷹が驚いて、それから飛べなくなったという。
そんなわけで「鷹匠切り」と名付けられたという。


以上、テキトー訳。

なんか素直に驚いたのが、「ヘロヘロ」って擬態語がもうこの頃からあったのか!ということ。
そういえば前に「フラフラ」も出てきた気がする。
「キッ(吃)」とか「ズン(寸)」なんてのもあった。
話の本筋には関係ないが、やっぱり原文に当たるって、発見が多くて楽しいなぁ。

お手柄香川さん、実は持ち場を離れていたらしい。そりゃ叱られるわ。
申し開きがまた泣かせるじゃない。
譜代でもないのによくこんな忠節を尽くすもんだ(美化されてるんだろうけど)。
熊谷も香川と一緒に毛利傘下に入ったけど、この人も毛利で大活躍だしな。
熊谷信直さん。元春の舅、広家のじいちゃん。
無骨なレスラーみたいな人を妄想して悦に入ってるw

大和伊豆守はご愁傷様でした・・・
2011-09-22

敗戦の一風景

生け捕りや掃討戦を免れた将の身の処し方。

重見因幡守自害のこと

重見因幡守という者があった。
出身は伊予の国の河野対馬守の一門で、河野十八家のうちの一人である。
その家も昔から派閥が真っ二つに分かれていて、与州を独り占めしようと争い、
宗家の望みも忘れて数世代に及んで合戦を繰り返していた。
そのようなわけで因幡守は国に住むことができず、
防州に渡って太宰大弐義隆卿を頼って身を寄せたところ、陶尾張守に預けられた。
そうして今度は陶に従って厳島に渡り、衆目を集める一戦を果たそうと思っていたが、
味方の本軍が負けて壊滅してしまった。
重見はなんとしても陶入道に合流しようとしたものの、敵に押し隔てられて、仕方なく山中に潜んでいた。
陶入道はどうされているのか、せめて耳に入れようと思い、
数日間は木の実を食べて飢えを忍び、露を舐めて渇きをしのいでいたところ、
ある谷陰にきこりが休んでいるのを発見した。

「陶の入道だか、禅門だかがこの島に渡って攻めてきたときは、兵も三万以上いたと聞いておるが、
五万だったか、さて三万だったか。わしらのような下賎の者にはよくわからんな。
この島の長瀬辺りから小浦・有ノ浦・大鳥居前に本陣を置いて、沖には船を掛け並べておった。
あの入道は人間を生きたまま噛み千切って食べるぞ、などと言って、
子供たちを震え上がらせるほどのお方だったが、これより勝る大将がいたのだなあ。
元就という人がたったの三千の兵で夜中に渡ってきて、鬼神のごとき入道を易々と仕留めてしまった。
今は三万人のうちの三人も残っておらん。
この島は開闢以来こんな戦が起きたことはなかったと、長老たちも言っておる。
まあ、神主や僧、商人たちしか集まってこなかったから、合戦なんてものがあるわけないな。
ここにはいつも僧・神主・町人だけで噂しあっているばかりで、
どんな法要に行こうと、どんな仕事をしていようと、武士なんてものは見たことも聞いたこともなかった。
あるとすれば平家物語の演舞くらいだな。
だから今度こそ近くで戦なんていうものを見たが、武士というものは実に恐ろしいもんだ。
鎧をつけて槍を持った姿はいかめしいけれども、
戦では二つとない命を賭けて戦うんだから、なかなかに危ないもんだ。
腰が痛いだの肩を壊しただのと言っていても、
こうして薪を切って楽々と世を渡っていくほうが、よっぽどマシだ」

きこりの話を聞いた重見は、「さては入道は船で退却できずに討たれてしまわれたか」と思い、愕然とした。
また、もう一人のきこりが口を開いた。

「陶の入道の首は廿日市の洞雲寺に送られ、土中に埋められて菩提は弔われたというぞ。
敵の死骸を手厚く埋葬して僧たちに供養させるなんて、
元就は鬼神のように恐ろしいのかと思えば、ことのほか情け深いところもあるもんだ」

老いたきこりたちは、日陰から出て暖かい方にに場所を変えて休んでいたので、
重見は近くに忍び寄ってこの語らいを聞いた。
「やはり入道は討たれてしまわれたのだなぁ。となれば、もう誰のために命を永らえる必要があるのか。
潔く自害して、入道に長年かけていただいたご恩をお返しせねば」と、
有ノ浦に出て、そこで年齢の近そうな者を呼んで、
「私は重見因幡と申す者です。
何としてでも全薑と共にいるべきだったのですが、
急な合戦のさなか、敵に押し隔てられて入道と別れ別れになってしまい、最期を見届けられませんでした。
これまでは、入道の生死を確かめようと思い、山中に忍んでおりましたが、
入道は既に討たれてしまわれたとのこと、とある機会に耳にしました。
私も腹を切り、同じ道に赴こうと思います。ですので、御検使を一人よこしてくだされ。
成行、結果をお見せしたく思います。
そうでなければ、重見はこの島に渡ったものの情けなく逃げ隠れ、飢え死にしたなどと噂が立ってしまいます。
それでは故郷の一族の面汚しになりますので、どうぞお願いいたします」と伝えさせた。

元就様はこれを聞き、
「重見因幡守は剛の者であるばかりか義士である。一命を助けて召使たいものだ」と、
児玉内蔵丞・兼重左衛門尉を遣わし、
「重見殿は陶譜代の家臣ではなく、予州の河野の一族なので、特に怨敵というわけではありません。
全薑はすでに自害されましたので、今度はこちらに力添えしてくだされ。
お命をお助けするだけでなく、全薑が以前から与えられていた扶持の倍を領地として差し上げます」と伝えた。

重見はこれを聞いて、
「これはなんとありがたい仰せでしょう。この重見からすれば、生前の面目、死後の名誉ともなります。
この仰せを聞いて、とっとと兜を脱いで降伏しないなど、実に鬼畜か木石かといった所業ですとも。
けれども私は、仰せのように河野一族ではございますが、
事情があって義隆卿を頼って身を寄せ、陶入道に預け置かれました。
全薑はどう思われることでしょう。
あのお方は、ひとかたならぬお心がけで親切にしてくださいました。
ご自分の衣を解いて私に着せ、ご自分の食べ物を節約して私に食べさせてくださった。
その恩は須弥山よりも高く、蒼海よりもなお深いものです。とてもお返ししきれるものではありません。
せめて命運を共にできれば、入道の厚恩を九牛の一毛程度でも報いることができましょう。
先に申しましたとおり、敵に押し隔てられて入道の最期を見届けられなかったことだけは口惜しく思います。
元就公のありがたい仰せに従おうとすれば、陶入道の年来の恩を忘れたことになり、
私は入道の怨敵となってしまいます。
全薑禅門の累年のご芳志に報いようとすれば、
これは元就公のご憐憫のお恵みを無視することになってしまいます。
何を是とし、何を非とするべきかはわかりません。

けれども今降伏してしまったら、入道は草葉の陰でなんとも恨めしく思われることでしょう。
またどんなにありがたい仰せであっても、私はもうこんな有様ですし、
命が惜しくて降伏するような者は、もう義士とは呼べませぬ。
身に余る仰せ、誠にありがたく、命も惜しく、妻子への名残も深いものですから、
ここで助けていただいて身の後栄を期するべきなのでしょう。
しかし義に背くことになり、私は名が惜しくございます。ですから自害をいたします。
このことをよくよくご両人からお断りしてください」と言う。

二人が元就様に伝えると、「重見のこのような所存を聞いては、なおのこと助けたいものだ。
心のない鳥や家畜だとて子への愛情は深いもの。重見も木石ではないから子を想わぬわけはない。
ふむ、次に自害の決心を覆せないようならば、西条木原に妻子がいると聞いているので、
これを探し出して因幡守の目前で首を刎ねてやると言え」とのことだった。

因幡守は「たとえ妻子にどのような罪を着せられようとも意味はありません。
入道の厚恩に報いなければ、どうして生きていけましょうか。
妻子や親類も共に死ねば、入道の恩徳により深く報謝できるというものです。
それこそかえって都合がいい」と、唯一筋に言い切った。

「忠といい、義といい、たぐいなき仁義の勇士であることよ。
節義の士に対しては威刑を用いて脅してはならぬという。
妻子を殺すなどと言わずに、もっと礼を尽くし姿勢を低くして当たるべきだったのに」と、
元就様は深く後悔した。

さて、検使には入江与三兵衛尉を差し遣わした。
重見因幡守は「お願いしたとおりにしていただけるとのこと、大変ありがたい」と、
入江に向かって合掌して喜び、謝辞を丁寧に述べてから、潔く自害した。
「忠臣二君に仕えず」とは実にこういうことを言うのであると、世の人々は皆感心しきりだったという。
元就様は重見の二人の子を召し出して所領を与え、家臣とした。
嫡子は木原兵部少輔、次男は次郎兵衛尉といって、
子は父の業を受け継ぐ習いなのか、二人とも群を抜いた勇士になったという。


以上、テキトー訳。

なんつうか、元就公はアレだな、Vシネに出てくるヤクザそのものだなw
「下手に出とったらいい気になりやがって!てめえの女房・子供がどうなったっていいってのか!」
うんうん、よくある噛ませ犬のパターン。
パターンと言えば、親父を殺して子や遠い親戚を取り立てるのも
元就のパターン化した行動のように感じる。重見の場合は自害だけども。

いやいや、もっと元就が美化されて描かれてるのかと思ったけど、
こういう失敗は失敗として描いてるんだな。
「陰徳太平記」になるとどう描かれるのか興味がでてきてしまったじゃないかw
またもや散財の予感・・・

次はまた別の武将の話っぽい。
2011-09-21

弘中最後の大暴れ

本日、台風15号通過につき電車が止まったり遅れたりと大混乱。
交通情報見るのが面倒になったので歩いて帰ってきた。雨もやんでたし。
風はあったけど、まあ一時間くらいワケない。
震災で交通網麻痺してたときは何度も歩いたもんな。
この台風が東北に大被害をもたらさないように祈っています。

さて陰徳記。乱闘には定評のある弘中三河守はどうなったか。


弘中父子最後のこと

弘中三河守隆包、息子の中務少輔は、数百人の兵を率いて竜の馬場の難所に立てこもっていた。
柵の木をしっかりと張り巡らされていて、切って出る方法がないので、
弘中に味方すると思われた難所は、逆に敵の地の利を助ける難所となっていた。
十月三日の朝、弘中父子が味方の顔ぶれを見れば、夜のうちにあるいは討たれ、
またはたぶらかされて生け捕られていたので、今は主従三人しかいなかった。

郎党たちが捨てていった弓矢を拾い、寄せ手に散々撃ち掛けて、三日までは討たれずにいたものの、
嫡子の中務は、いざ最後の戦に臨もうと、郎党を一人脇に立て、薙刀を打ち振るって突撃していった。
寄せ手も夜のうちに柵の中に入って待ち受けていたが、
中務が来ると見るや、我先に討ち取ろうと駆け寄ってきた。
中務は高名な薙刀の名手である。水車のように回って斬りつけた。
しかし場所は一騎打ちができる程度の細道、切り立った岩を伝って
身をひそめてやっと通れるような場所なので、端を通るようなことはできない。
寄せ手は大勢であっても、一対一の勝負しかできず、後ろにいた者は諦めてよそを守っていた。
中務が獅子の洞を出て、「虎の一足」という薙刀の秘義を用いて奮戦する。
たった一人に切り立てられて、寄せ手には死傷者ばかり出たが、中務はかすり傷一つ負わなかった。

吉川衆で小坂越中守という者がだいぶうしろに控えていたが、
先に進む道がないので、岩肌を伝って足場を得ると、遠巻きに矢を射かけた。
それは中務の左肩に当たり、したたかに突き立った。
さしもの中務も痛手を受けてフラフラと足をもつれさせ、倒れようとしたとき、
父の三河守がキッと見て、「その程度のかすり傷で何を弱気になっているのか。情けない姿だ」と
目をむいて怒声を上げた。中務はにっこりと笑って、
「もう、これまででございます。お先に参っておりますね。しばしのお別れです」と言って、
直下三千尺ばかりの竜の馬場の洞口に飛び込もうとした。

ここで、熊谷伊豆守の手の者で末田新右衛門という者が思い切って、走りかかって組み付いた。
中務は敵とともに洞口へ身を投げようとするも、末田は組み付いたまま倒れこんで味方の陣の方へと落ち、
上になったり下になったりして取っ組み合った。
中務は名に聞こえた大力の持ち主だったが、
今日まで三日間何も食べていないばかりか水も飲んでいないうえ、
数度に及ぶ戦いに力尽き、ましてや深手を負っている。
ついには末田に取り押さえられて、討たれてしまった。

これを見て三河守は「待っておれよ、中務、すぐに追いつくからな」と鎧の上帯を切り捨て、
腹を切ろうとしたところを、阿曽沼豊後守広秀の郎党、井上源右衛門が飛びかかって一太刀に斬りつける。
隆包(三河守)は抜いていた刀で応戦したが、最初に一太刀浴びていたので、
ついにその場所で討たれてしまった。
郎党も主君に追随しようと斬りかかってくるのを、吉川衆の井尻又右衛門が討ち取った。

こうして所々で討ち取った首を皆が持ち寄ると、その数は四千七百八十五もあった。
そのほか、捕虜も数知れず。
芸陽勢はわずか三千五百人なので、分捕りができなかった者は一人としていなかった。
あとは、名のある武士は殺されたが、中間(ちゅうげん)や下郎たちは命を助けられた。
一番最初の一戦に負けて船に飛び乗り、そのまま逃げた者たちをはじめ、
総勢三万のうちの半数あまりが逃げ延びた。
あるいは夜にまぎれていかだを組み、棹をさして対岸へ逃れついた者もあり、
または大野辺りへ泳いで渡って助かる者もあった。
山の中で木の実を拾って食いつなぎ、五、六十日経ってから
海人の小船に乗せてもらって故郷に帰った者も多かった。

ここに一つ不思議なことがある。
塔の岡から社壇の前後は初めの一戦の際に互いに名乗りを挙げて身命を捨てて切り結んだ場所だが、
ここでは死人は出なかった。
これは明神が社頭を汚すまいとして執られた方策なのだろうと、人々は神妙な気持ちになった。
義隆卿は奸臣を登用して邪道の政治を行ったので人望がなくなり、陶に身を滅ぼされた。
また陶も、臣の立場でありながら主君を殺した天罰を免れることができず、
数年も経たないうちに元就によって滅ぼされたのだろう。
ああ、義隆を滅ぼしたのは義隆自身であって陶ではない。
陶を滅ぼしたのは陶自身であって元就ではない。
ただ、悪しき原因を作ったために悪しき結果を招いたのは歴然で、道理にかなう。
実に外聞の悪いことである。


以上、テキトー訳。

最後まで乱闘。それでこそ弘中さん。天晴れなり。
しかし、自分で死のうという人間が、殺されそうになると抵抗するのは何でだろうな。
結果は同じなのに。討ち死により切腹のが名誉なんだろうか。

そして毛利の挙げた首級の数。ほぼ5,000。びっくりだね!
首があるってことは、死体も5,000体あるわけで、処理が大変だね!
よく「屍山血河を越えて・・・」なんて表現があるが、この場合は文字通りこの状態なんだろう。
たぶん身包みを剥いだ後に穴を掘って埋めるんだろうが、これは手がかかるわ。
小分けにするにしてもどれくらいの大きさの穴をいくつ掘れば足りるのか想像がつかん。

「ひどい」とか思わなくなったあたり、なんか感覚がマヒしてきた気がする。

次も順序どおり読むけど、また別の将のお話。
2011-09-20

この有様の定まれる身に

前回のあらすじ:
陶入道はいよいよ自害の決意を固め、
付き従ってきた家臣たちも、共に黄泉路を歩むことを選択する。


陶尾張入道全薑最後のこと(下)

入道は石の上に苔を払って座り、乙若の首に掛けた袋から胡餅(パンのようなもの)を取り出して、
自分も食べ、皆にも食べさせた。
「さて、皆は腰に何もつけておらぬか。水呑などは持っておらぬか。水で最後の杯を取り交わそうではないか」
と言っても、酒や水呑を持った者はいなかった。
そのとき伊香賀民部は柏の落ち葉を拾って二、三枚重ね合わせ、針代わりに松の葉で綴じて形を作って杯にした。
谷川の水を汲んできて「酒」と名付け、にっこりと笑って、
「皆さん聞いてください。後漢の逍丙が、旧友に出会うたびに水を汲み
『これは酒だ』と言えば人は酔うことができたといいます。
これはその逆で、一杯飲めば浮世の悪い酔いを醒ます功徳の水だと思ってくだされ。
昔は谷水の流れを汲んでは鼓祖の菊の水(酒)を思い重ねて長寿を願ったものですが、
今のこの水は曹源一滴の水(禅の根本)ともなって、
その手に掬って即心即仏ならしめてほしいと思いますが、悲しいことです」
と涙に暮れて立っていた。
しかしすぐ顔を上げ、さあ、最後の宴をしようということになった。

さしつさされつ、強いつ強いられつ飲んでいると、
山崎勘解由がここで一節謡おうといって、美しい声で謡いはじめた。
「五衰滅色の秋なれや、落つる木の葉の盃、飲む酒は谷水の流るるもまた涙河、
水上は我なるものを、物思う時しもは今こそ限りなれ」
と謡えば、入道は
「勘解由は観世宗摂の弟子であって舞の名手であると世に名高い。
これほどの迫真の舞は、能舞台を思い起こさせる。
時節に合ったことを謡うとは、舞が優れているだけでなく、
胸裏に『勇』という一文字が翻っているからであろうな」と大いに感じ入った。

そして入道は盃を伊香賀民部にまわし、「民部、呑み納めだ」と言った。
民部は「承りました」と頂戴し、水をタプタプと受けて、一杯を飲み干した。
入道は「さあ、最後の宴に一指し舞おう」と言って、
扇がないので腰の刀を抜いてかざし、声を高らかに上げて謡った。
「雑兵の手にかからんよりはと思い定めて腹一文字に掻き切りて、そのままに、
修羅道にをちこちの、土となりぬる青海苔山の、無跡問いて答(た)いたまえ、無跡問いて答いたまえ」
と謡って舞い納めると、皆
「いやいや、ただいまの舞はいつもより格別に趣深い。
魯陽が矛を用いて沈んでいく太陽を招き返した故事に比類する舞でありますな。
沛公(劉邦)を殺そうとした項荘の剣舞もかくやと存じます。
また、項羽勢が皆垓下で死んでしまったとき、漢王の軍に囲まれた項羽が
『我が力は山を抜き、気は世を覆った。しかし今は時に利はなく威勢は廃れた』と歌ったのも、
今の御謡と同じですなあ。
内容の「青野ヶ原」を「青海苔山」と言い換えられたのも、このような折にしてはよく思いつかれたものです。
観世宗摂が新しい館の完成祝いで杜若を謡ったときも、
『信濃なる浅間の獄に立ち煙る』を『立ち曇る』と謡ったのも奇特な才能だと皆こぞって感心いたしましたが、
ただいまの一字千金の御作意とは、天地雲泥の差でございます」と感じ入り、褒め称えた。

そのとき、全薑は刀を抜いたついでに自害しようと、石の上に座し、
辞世の歌を一首詠んだが、聞いた者は忘れてしまった。
さて、入道はすぐに「若楓」という脇差を左の脇にグサリと突き立て、
右側へサッと引いて、「エイヤッ」と声をかけ、
脇差を持ち直して心臓の下にぐっと押し立て、下へズンと押し下した。
カッと垂れ出た腸を手で掴み出そうとしたところに、
伊香賀民部少輔が太刀を振り上げたと思うや、入道の首は前に転がり落ちた。

民部はそのまま太刀を放り投げ、全薑の死骸にすがり付いた。
「ああ、殿がオムツをされていたころから乳人(めのと)に参り、
一日も、片時も離れずにお仕えして参りました。
次第に成長されていくのを見ては、自分が歳をとるのも忘れて、世にも嬉しく思ったものです。
昔のことも昨日今日のように覚えておりますとも。
近年、年齢を重ねられてからは、西国無双の強将と称えられ、人々に恐れられていたのに、
こんな小さな敵に負かされたのは、ただ前世の業とは言いながら、
どんなにか口惜しくございましたでしょう。
私こそ先に旅立つべきなのに、こうしてあなた様を手にかけなければならぬとは、なんとも恨めしい」
と、民部は声をあげて泣き崩れた。皆、さもありなんと同情した。

そのとき、垣並・山崎が「どうした民部、心弱く見えるぞ」と制すると、
民部は立ち上がり、入道の着ていた小袖に首を包んで、重なっている岩の下に隠し置いた。
ともにいた者たちは石を重ね木の葉を上にかけた。

垣並と山崎の両人は、阿僧祇劫(成仏するまでの時間)まで朋友の契りを破るまいぞと、
互いに手に手を取って来世にも及ぶ盟友の誓いを固め、
さて刺し違えようと太刀を心臓に突き立て、互いに貫き合って死んだ。
他に供奉していた四人の者たちも、皆刺し違えて死んでいった。
民部はこれを見て、「なんとも勇猛な死に様よ。入道殿がお強いから、
家子郎党もまたつわもの揃いだ」と感心した。

民部は乙若に向かって、「おまえはまだ幼いので、敵も殺すことはあるまい。山口へも無事に帰りつけるだろう。
人はきっと、民部はなぜ入道殿と一所に自害しなかったのかと不審に思うだろうが、私にも考えがある。
私が皆と同じ所で死ねば、民部がここで自害しているということは、
入道もきっと同じ所で死んでいるだろうと敵が当たりをつけ、全薑の首を見つけ出してしまうだろう。
そうなれば、入道の死が疑いなくなってしまう。
入道は高名で、人々に恐れられているお方だ。
入道が亡くなったことは、一日でも長く人々に知らせないほうがよい。
これはまた大内家のためでもある。
死せる諸葛生ける仲達を走らすとも言う。
くれぐれも、もし敵に捕らえられて尋問されることがあっても、このことを漏らすなよ。
防州に無事帰り着いたならば、我が方の信用の置ける人に、
民部がこのように言っていたと、よろしく申し伝えよ」と、細々と言いつけて、
自分は浜辺へ二、三町ばかり走り出た。
そこで立ったまま腹を掻き破り、自分で首を押し切って、倒れて死んだ。

民部の行動は勇猛さもあり、儀もあり、忠もあり、また謀もありと、感嘆しないものはなかった。
その後、陶入道の首は、元就様父子が四人で実検して、
廿日市の黄龍山洞雲寺に納められ、石塔などを建立して手厚く供養された。


以上、テキトー訳。

うわあぁぁぁぁぁぁあああああ!民部ぅぅぅぅぅうううううう!!!
アンタなんて人だ!
まさか軍記物ほぼ原文で読んでて涙が出るとは思わなかったよ!
自分の子同然に育てた自慢の大将の介錯って、ツラすぎるだろーが!
こんな状況だからこそ少しでも傍近くで死にたかっただろうに、
わざわざ離れたところで割腹とか、もうね。
ああ、この人は陶さんが大事で大事で仕方なかったんだなぁと思った。
だから最初の方で、思う存分戦いましょうと言ってたのか。
陶さん本人の武将としての矜持を保たせてやりたかったんだな。
大将の責任よりも陶さんの気持ちが大事だったんだな。
泣かせてくれるよ・・・・・・
もう「莞爾と笑ひて」ってのがトラウマになりそうな気がする。
こんなときににっこり笑うなよ。

そして乙若・・・てめえは許さねえ。
なんで口止めされてるのに自分から進んでゲロるのか。
まったく「云ふ甲斐無き物哉」だ。
結果的にはちゃんと供養されてよかったのかもしれないが、
民部の最期までのいじましさを見てしまうとなぁ。たまらんよなぁ。
あと辞世の句は忘れないでください。大事なトコだろ。
ウィキペからだが「何を惜しみ何を恨まんもとよりもこの有様の定まれる身に」

まあ陶さんは立派だった。ちゃんと十文字に腹掻っ捌いた。
35歳なんだよね。まだ若いよ・・・
垣並・山崎コンビも仲のよろしいことで大変うるわしいです。

次は案外放置が短かった弘中さんちの話だ。
鬱回終了となるか?
2011-09-20

陶入道の決意

やっぱり全部入れると長すぎるので三つに分ける。

前回のあらすじ:
想像してごらん、首無し死体がゴロゴロと転がっているところを。
想像してごらん、その中に一体、茶色の褌つけたおデブちゃんがいるんだ。
想像してごらん、なんとそれが敵の大将の遺骸で、首も見つけたんだ。

ていうか、なんで陶さんは裸にひん剥かれて褌一丁で転がってるのかと。


陶尾張入道全薑最後のこと(中)

さて、生け捕られたなかに入道殿の最期の様子を知っている者たちもいたので、
どんな様子であったかを尋ね聞いた。

入道はとても肥え太っていたので、歩き続けるにも思うに任せず、
しばらくこの石に腰を下ろして休んでいた。
そのとき伊香賀民部少輔に
「敵は前後にたくさんいて、味方の船は一艘もありません。全薑公はどのように思われますか」
と言われ、入道は
「こうなっては逃げる道などない。自害するほかあるまい。
右馬頭(元就)程度の者に、こうも易々と打ち負かされるなど無念至極、言葉にも尽くしがたい。
しかしながら、これは全薑の武名を傷つけるものではない。そのときがきたというだけだ。
我も少数の兵で大軍を破ったことは何度かある。
今回は三万の大軍を率いて、元就の三千の兵に不意を打たれ、敗北した。
天が我を見放しただけのことだ。戦が下手だったのではない。
命運が尽きれば、どんな名将も、負けるはずのない戦に負け、死ぬはずないところで死ぬ。

昔から先例は多い。
先ほどおまえが言ったように、新田左中将義貞は数万騎の精鋭を率いて足羽黒丸城を攻めたとき、
鹿草出羽守の三百騎に行き会って討たれてしまった。
奥州の国司北畠顕家卿は、十万騎の大軍であってもわずかな敵に打ち負かされ、討たれてしまった。
これは皆、天運が味方しなかったために討たれた。
または過去の宿縁がよくなかったのだろう。武勇が劣っていたわけではない。
今こうなっているのも、大内家の滅亡が近く、この入道の運が極まったからだ。

さても皆、ここまで付き従い、我の最期を見届けてくれて、本当にありがとう。
一つ望みがあるのだが、皆がそれに従ってくれることが、
今生だけでなく来世にも及ぶ深い忠志だと思う。
この入道が自害した後、皆は絶対に切腹するな。
入道の死骸を葬った後は、策を立ててこの逆境を脱し、
命をかけて愚息、五郎長房・次男の小次郎を守り立ててくれ。
内藤・問田・杉民部らと相談して、桜尾・草津辺りを攻めて元就と一戦し、我が死した恨みを晴らしてほしい。
長房はまだ二十歳にもなっていないが、その武勇は五十になった入道よりも勝っている。
幸いにも大内家を補佐のする器量もある。末頼もしく思って守り立て、我が恨みを雪げ。

入道のためには念仏一ついらない。経の一巻も読まなくていい。
ただ元就を滅ぼす算段こそが、寺や塔を建てたり盛大な法要にもまして、最大の供養となるだろう。
くれぐれもこれに背くなよ」と言った。

供奉していた者たちは皆、
「ここまでお供したのですから、閻魔大王の御前までご一緒にお連れください。
これまで海山のようにかけていただいたご恩を、九牛の一毛ほどでもお返ししたく思います。
今死を免れたとしても、前後の道は敵が遮っていることでしょう。(防州に)退く手立てはありません。
このままどこかで討たれてしまうのは、生前死後の恥でございます。
もう覚悟はできておりますので、御前において自害し先立って、冥途にてお待ちします」と刀に手を掛けた。
伊香賀民部少輔が「皆、しばらく静まってくだされ。全薑の御自害を見届けて、
その後御験(首)を深く隠してからならともかく、今はそのときではござらぬ」と制すると、
皆も、それもそうだと静かになった。

そのとき、垣並佐渡守が「もう昼になりました。なにとぞ、今日はこの山に隠れ忍んでおいでください。
あの浦の岩陰に、浮木が一本波に浮いております。夜になったらこの木に全薑一人をお乗せして、
山崎殿と私は水練を極めておりますので、腰に綱をつけて一人は泳いでこの木を漕ぎ、
もう一人は木につかまって休んで、代わる代わる泳いで、あの阿多田島か小黒髪島まで逃げ延びます。
そしてあの辺りの漁船が来たらその船にお乗せして、防州に帰しましょう。
浮木に乗って天河まで至った例もありますから、ましてや阿多田島までなど、簡単でしょう」と提案した。

入道は、「佐渡・勘解由が水練の達者だというのは我もよく知っている。
この入道を抱いても背負っても、海路を二里か三里は泳げるだろう。
我もまた、おまえたちが知っているように、富田の陣にいたとき、
水鳥よりも海人よりも水上で自由に動き回れた。
泳いで渡って生きようと思えば、おまえたちに手を引かれ肩に担がれずとも、あの島まで渡ることはできる。
が、我は防長豊筑の兵を率いてこの島に渡ってきており、一人も生きて帰していない。
何の面目があって、一人だけ帰って、人々に顔向けができようか。自害するしかないのだ」と言った。

昔、楚の項王が烏江で自害しようとしたとき、長舟を整備して待つ烏江亭の船主が項羽に向かってこう言った。
「江東は小さいといっても、土地は千里、住民は十万人もいて、王となるのに不足はありません。
大王よ、急いで渡ってください」と勧めたが、
項羽は「我は江東の子弟八千人と川を渡って西に向かったが、今は一人も生きて故郷に帰ることができない。
たとえ江東の父兄たちが我を憐れんで王にいただいても、どんな面目があって顔向けできようか」と言って、
ついに自ら首を刎ねて死んだという。
今の入道の心中もこれと同様に、痛ましい有様だった。

牟羅漢・謝仲初の術もないので、笠を水面に置いて竹の葉で川を渡ることもできない。
黄道真・王子喬の道も学んでいないので、木陰に佇む鹿や雲間に飛ぶ鶴に乗ることもできない。
進退窮まり、呆然と佇むしかなかった。


以上、テキトー訳。ラスト1回。

なんという鬱回。

一人だけおめおめと生きて帰れない、ていうのは、わかるなぁ。
そっちの方が死ぬよりもツライだろうなぁ。
逆に、一人だけでも生きて帰ってほしいと思う家臣の気持ちもわかるなぁ。
強く言えないのは、みんな陶入道の気持ちがわかるからだよね。
そして「追い腹切るな」と言われても、捕まるか殺されるのがわかってる。
よしんば生きて帰れたとしても、みんな一人だけ助かるのがイヤなのは同じだからムリ。

でも、こうして互いを想う主従っていうのは、いいよね。
陶さんとか、ストレートに「ありがとう」って言うし、こういうとこ好きだ。
逆に言えば直情型で、元就にハメられたりする所以なんだろうな。
2011-09-19

落ち武者は消毒だー!

弘中さんちはしばし放置で、逃げた陶さんたちの足跡を追うようです。

陶尾張入道全薑最後のこと(上)

さて、厳島の合戦が終わって、翌二日、
吉川衆の粟屋三河守・嫡子源蔵・二宮杢助・佐伯源左衛門尉など四十人あまりが、
山に分け入って落ち武者狩りを行った。
大きな声で「この山に隠れている人たちよ、よくお聞きください。
今日からは皆々の命はすべて助けられましょう。
この辺りに隠れているなら出てきてください」と呼ばわる。
するとすぐに四十歳くらいの男が一人、岩の陰から出てきて、
「お助けくだされるか」と問うたので、二宮、
「もちろんです。入道殿の大将たちの験(しるし・首)は、昨日の朝の間に皆出揃いました。
そうなれば他の者たちを殺すのは罪作りなので、お助けいたします」と答えると、
「ありがとうございます」とその男は走って行き、
谷から鎧をきた屈強な武士を六十人ばかり連れてきた。

「さて、あなたはどの隊の衆でございますか」粟屋三河守が尋ねれば、
「私は陶の家人、平塚のなにがし」と名乗る者があり、その他豊前の長野の手の者、
筑前の宗像の郎党などと思い思いに名乗った。
「降伏してきたら命を助ける掟ですので、ご心配には及びません。
しかしながら、投降者の作法として鎧を脱ぎ、太刀を引き渡してください」と粟屋が言うと、
「かしこまりました。すべてお任せいたします」と、皆やむをえず太刀を手放した。

そうして話などしながら浜辺に出ると、粟屋三河守は佐伯とキッと目配せをして、
「(三途の川の渡し)船の乗り場はここでいいか、まだ先か」と言った。
敵もすぐにその意味を察し、「これはお情けのないことだ。よくも恥も外聞もなく騙してくれたな」と、
持っていた杖を持ち直し、佐伯の眉間を丁と打つ。
粟屋が心得たとばかりに背け様に抜き打ちに斬りつけ、佐伯も袈裟懸けに斬って捨てた。
これを見て、残った者たちは、太刀も持っていないのでどうしようもなくて、
ただ足に任せて逃げていった。これを追いかけて斬り伏せた。
あまりのことに驚いて海に飛び込み、泳ぎ回る者もあり、
また山に分け入って松や柏の木に上る者もあったが、一人も残さず討ち取った。

そうして粟屋・二宮たちが連れ立って帰ろうとすると、
途中に船が二艘もやってあるのを見て足を止めた。団扇の紋を掲げていた。
「誰だ」と問えば「児玉内蔵丞の船だ」と答える。よく見れば舫に首を三つかけてある。
「この首は誰の首だ」と尋ねると、
「これはこの浦の向こうで侍がたくさん刺し違えて倒れていたんだが、
その中に茶の下帯をした者が、遺骸はあれども首はない。
何か役に立つのではないかと、残った者の首を取ってきた。
人に見せて苗字を尋ねようと思って、こうして掛けてある」と答えた。

それはおかしな状況だと、粟屋・二宮が船に乗り移ると、
児玉も屋形の中から出てきて目にした様子を語って聞かせた。
二宮がこの首をよく見ると、陶入道の身の回りで仕えていた
垣並佐渡守・山崎勘解由・伊香賀民部少輔の首だった。
二宮はこれらの者と昵懇の仲だったのだ。

というのも、陶入道がまだ隆房という名であったとき、
(大内)義隆卿の命によって元春様と兄弟の契りを交わしたので、
吉川・陶の両家の者たちも常に交流を持っていた。
二宮は垣並・山崎らと始終互いに行き来をしていたため、よく見知っていた。
杢助は児玉に向かって
「これは陶入道の乳人(めのと・養育係)の伊香賀民部少輔・
足軽大将の垣並佐渡守・山崎勘解由の首なので、
茶の下帯をつけた遺骸は間違いなく陶入道全薑でしょうね。
入道の験(しるし・首)を探しに行きましょう」と言った。

「なんと、入道の手の者でありましたか。
それなら確かに、あの遺骸は全薑でしょうな。
船に乗って防州に退却したか、合戦でこれほどの大勝利をおさめながら
大将の入道の首がないので、討ち漏らしていたのかと残念に思っていましたが、
全薑が自害していたのであれば嬉しいことです。
さあ、首を探し出して元就公の実検に備えましょう」と、
児玉・粟屋は二宮を引き連れて青海苔山の谷へ小川沿いに分け入った。

ここにあるか、あそこにあるかと、岩をどけたり落ち葉を掻き分けたりして探すも、
首は見当たらない。
近くに樫の木が生い茂っていっそう暗い影を落としているところがあり、
そこから十三・四歳ほどに見える子供が出てきた。
首には緞子の袋を一つ掛けている。
「命を助けていただければ、大将首のありかを教えましょう」とその子が言うので、
児玉・粟屋たちは、「命を助けるどころか、褒美を取らすぞ。
大将首のありかを教えよ。そもそもおまえは一体誰だ」と問うた。

少年は「お察しの通り、私は陶入道殿の草履取で乙若と申す者でございます。
最後まで全薑にお供しておりました。
命を助けてくださるとのことですので、入道殿の首を隠した場所へ案内しましょう」
と答えて歩き出した。少年が先に立ち、青海苔山の深谷をしばらく上っていった。
谷川の上流に高く重なった巌があって、その裂け目の石をどかすと、
紫の小袖に包まれた首が押し入れてあった。
少年は全薑の首を取り出し、児玉・粟屋たちに渡し、
「これこそ全薑の首でございます。命をお助けください」と手を合わせて嘆いた。
少年が入道の最期の様子を細々と語るのを聞いて、
皆「これは本当に入道の首に違いない」と喜んだ。

またその死骸のあったところに戻ると、
陶入道の死骸と思われる遺体の股に十文字の傷痕があった。
「これは一体何だ」と問われた二宮は、
「入道は以前便毒にかかったときに、きわめて強気な人なので、
患部を脇差で十文字に切り裂いて薬をつけ、療養したそうです。
それから平癒したと聞いていますから、これはその傷痕でしょう。
首といい死骸といい、いよいよ陶尾州禅門のものに間違いありませんな」と、大いに喜んだ。


以上、テキトー訳。この段はあと1回か2回。

汚い、さすが毛利きたない><。
落ち武者騙して武器を取り上げて撫で斬りとか、よくあることなんだろうけど。

陶さん、やっぱり死んでたね。
どんな最期だったのかは続きで明かされる。
できれば今夜中にアップしたい。

それにしても乙若は、隠してある大将首を教えちゃっていいの・・・?
敵に教えちゃうなら隠してる意味なくね?と思うんだが。

【便毒】
横根ともいう。鼠蹊部のリンパ節の炎症・腫脹で、ものすごく痛いらしい。
梅毒などの性病の主症状でもある・・・って、オイ!
しかしただでさえ痛い患部を自分で脇差で切開しちゃうとか、陶さんパネェ、まじパネェ。
2011-09-19

毛利軍ドS無双

昼寝してたら日付変わっとった。どういうことなの。

前回のあらすじ:
弘中三河守隆包は陶入道敗走に絶望し、切腹するため竜の馬場へと上る。
元就はそれを察知し、一人残らず討ち取るように下知、
逃げられないように柵を結い廻して取り囲む。


弘中三河守父子竜の馬場に上ること(下)

弘中の兵は未だ三十人あまりいた。
はじめこそは今一度精一杯戦って討ち死にしようと歯噛みしていたが、
翌二日の朝からは意気消沈したのか、
「ああ、なんとかして弘中殿父子の命が助からないものか。
そうすれば我々もともに一命を救われるだろうに」と思っていた。

吉川と熊谷の手の者は言葉を尽くし、一人ひとりを呼び止めて
「弘中殿、父御とご子息お二人で降伏されれば、
あなた方のお命を助けられるよう取り計らいましょう。
陶殿も討たれてしまわれました。誰のためにこのように意地を張るのですか。
元就も近年、山口に相談があれば、弘中殿といろいろ申し合わせるなど、
親しくさせていただいたものです。
三河守殿さえ弓弦を外し、兜を脱いで降伏されれば、
元就もそれ以上の処分はしないでしょう。
この旨、隆包父子にお伝えください」と方便を用いた。

兵たちはそれを信じてか、または偽りと知ってか、
もしかして命が助かるかもしれないと空しい望みを抱いて、皆降伏してきた。
その中から賢そうな者を選んで、また竜の馬場へと遣わして、
「弘中殿のお命のことは、必ず助けようとの元就の内意です。
この島の大聖院の法印(僧正)良西が、昨日と今日の二日間、
三河守のことで、一命を助けてくだされと嘆願されています。
いよいよもって典厩(元就のこと。右馬頭=典厩)は三河守をお助けすることでしょう。
早く降伏されてください」と三河守に伝えさせた。

弘中はこれを聞いてカラカラと打ち笑い、
「典厩に味方しようと思っていたら、最初からこの島に渡って来ぬわ。
入道がこの島に渡った時点で、我はこの戦がこうなるだろうと予見していた。
だから陶入道にも再三異見を唱えたのだ。
もし典厩が本当に助けようと言ってきたのだとしても、
我は落とし穴に嵌った猛虎のように成り果てた。
いまさら尾を揺らして憐憫を乞う振る舞いなどするものか。
たとえ陶が滅亡したといっても、未だ山口に残る兵たちは、
杉十郎・内藤弾正・陶五郎兄弟以下、二万騎以上にのぼる。
そこに弘中が助けられて戻れば、虎を千里の野に放つようなものだ。

大内家に人材は多いが、なかでもこの隆包を敵にするのは
虎や狼よりなお恐ろしいと、元就も知っているはずだ。
それをどうして助けるというのだ。
その程度の謀に騙される隆包ではないぞ。
おまえたちは、命が惜しいと降参して高手小手に縛られ、
打ち首にされるのは口惜しいと思わないのか。言う甲斐のない者どもだ」と怒った。

弘中の手の者は
「殿の運の尽きだ。敵が助けようと言っているのに、
こんな当て推量をしてしたり顔をするなど、情けないことだ。
まず我々が降参して、敵方の様子や意図を確かめ、
ここに戻って諫言しようではないか」と皆兜を脱ぎ、投降していった。

すると吉川・熊谷勢は一人ずつ谷陰に連れて行ってことごとくその首を刎ねた。
その他にも谷や峰を捜索して潜んでいる敵を探し出し、
生け捕ったり切り伏せるなどした者は数知れずであった。

渡辺可性という者が生け捕られて引き出されると、
元就様は「この者は以前山口に行った際、何度か訪ねてきたので会ったことがある。
狂歌をよくたしなんでいる。助けておいても害をなす者ではない。
殺さなくともいいだろう。その入道をここに連れて参れ。心を試してやろう」
と御前に召し出し、「すぐに狂歌を一首詠め。いい歌であれば命を助けよう」と言った。
これに可性、
「かけてしも頼や毛利の締め襷 命一つに二つ巻きして」と詠んだ。
「この歌はそれほどの秀歌ではないが、こんなときにしてはいい出来だ」と、
元就様は可性の命を助けた。

また陶入道の同朋で宗阿弥という者も生け捕られてきた。
元就様はこれを見て、
「この宗阿弥はとんでもない大力の剛の者と日頃から聞いているが、
よく簡単に生け捕ったものだな。生かしておけば今後禍をなすだろう。
誰か早く殺してしまえ」と言ったが、
「それにしてもおまえは、これまでに何度も勇を顕した武名を汚すのも顧みずに、
命が助かるならと自害もせずに易々と生け捕られた。それならば、
命惜しさに恥ををも思わず、という心境を狂歌に詠んでみよ。
おまえも狂歌の達者だと聞き及んでいる」と続けた。
この者はそう言われてとりあえず、
「名を惜しむ人と云とも身を惜しむ惜しさに替えて名をば惜しまじ」と詠んだ。
元就様は「渡辺の歌よりはいくらか勝っているな。
よし、助け置いても差し支えあるまい」と言って、これも命を助けられた。

猛々しい武士の心を和ませるのは和歌の徳であるというのももっともである。
いにしえの(藤原)為明は「我敷島の道ならで
(思ひきや わがしきしまの 道ならで うきよのことを とはるべしとは:
家業の和歌のことならまだしも、世間のことで尋問を受けるなんて思いもしなかった)」
と詠んで水火の拷問を免れた。
そして宗阿弥は「身を惜しむ惜しさ」と一首の狂歌を詠んで命を助けられた。
趣深いことである。ただし、渡辺・宗阿弥の歌は
戦が終わってから五、六日後のことであったが、筆のついでにここに記す。


以上、テキトー訳。

いやあ、騙して誘い出して首を刎ねるとか、普通にアリなのね。
まあ珍しくもなかったんだろうけど、
基本的に毛利軍がヒーローな文献だろうに、これはいいのか。

それと後半は弘中さん関係ないと思う。
なぜここに挿入されてるのか。
ナイスな狂歌だったら命を助けるって、それもどうなのって感じだな。

とにかく弘中さんがどうなるのか目が離せないけど、
お話はしばらく弘中さん放置になりそう。
次は陶さんのお話。
2011-09-17

一方、弘中三河守

しばらく順番どおり読むことにする。

厳島の合戦で、奇襲に浮き足立っていたころに、
陶入道に大元浦まで撤退し、そこで軍の立て直しをしろと言って、
毛利軍の足止めを買って出た弘中さん。
吉川勢とやり合った後、社殿近くに放火、
混乱にまぎれて撤退して様子をうかがっていたんだよね。

いや、三浦さんに夢中ですっかり忘れてた。


弘中三河守父子竜の馬場に上ること(上)

弘中三河守は、陶入道が大元浦の辺りで一戦に及べば
引き返して敵軍の横合いから襲撃しようと考え、
滝本の観音の辺りでしばらく様子をうかがっていた。
しかし入道はついに巻き返すことができず、トボトボと落ちていった。
弘中は「全薑は武勇では元就に劣る人ではないはずだが、
運が尽きれば心まで臆病になるものか。一度も引き返してこられないとは」と呟き、歯噛みした。

弥山の奥の院で腹を切ろうと決め、三百人あまりで登っていったが、
次第に逃げ出すものも出て、残った兵は百人ばかりになった。
こうしたところに、見知った人物と出くわした。
求聞持法を修するために訪れていた筑紫の僧であった。
この僧はすでに学匠になっていたので、隆包(弘中三河守)は
最後に相を観てもらって、死後の心の処し方を伝授してもらい、ま
た弔いもお願いしようと思ってその僧を呼んだ。
僧は隆包を見て「なんとこのようなところへも争いが及びましたか」と言うので、
合戦の有様を詳細に語って聞かせた。

僧は言う。
「今朝の明け方から鬨の声が聞こえるので、さて合戦はどのような状況になっているのだろう、
しかし防州方は大軍だからきっと勝利されましょうと思っていました。
しかし今はこの有様です。夢とも思えませぬが、現実とも信じられません」
隆包が「このような修羅道で命を落とすような者は、一体どうしたら成仏できるのでしょうか。
即身成仏の秘技をお授けください」と言うと、
僧は「『阿』字の一刀を捧げ立てて生死をも切断し、涅槃をもまた斬って、
本来虚空の境地に至りなさい」と答えた。
「修羅の苦しみは身にこびりつき、免れることができないと承っております。
お示しくださったとおりにすれば、修羅の苦しみからも逃れることができましょうか」
と隆包が尋ねれば、
「修羅の業をもって修羅の業を打ち破りなさい。
一切諸法の本源が不生不滅すなわち空であるということを『阿』の字が象徴しています。
修羅の業の報いは受けるでしょうが、
修羅の剣戟を『阿』字の一刀に変えてしまえばいいのです」と僧が答えた。
これを聞いて隆包は「あなたのお示しによって修羅道の呵責を免れることができそうです。
ありがとうございます」と言った。
また妻子のこと、残る家子郎党たちへの最期の別れの手紙などをこの僧に託し、
その後竜の馬場へと上っていった。

元就様のところには、弘中が竜の馬場に上り、通行困難な節所に籠もって、
今一度最期の戦を仕掛けようと待ち伏せしているとの報告があった。
元就様は「一人残らず討ち取るように」と、
かねてから用意させてあった柵の木を集め、「結い廻して一人も漏らすな」と命じた。
腕に覚えのある者たちは、弘中を討ち取ろうと、我も我もと弥山を目指して駆けていく。

弘中用の柵を設置しようとしていたところに、
百人ばかりがまっしぐらに突きかかってきたので、
初めの者たちは散々に蹴散らされて引くほかなかった。
ここに元春が五百人ほど引き連れて後から駆け上がってきて、
弘中に組み合い、他の者は兵を逃がすまいと抗戦した。
弘中もこれが最期と奮戦し、前後左右の味方が討たれても少しもひるまずに戦ったが、
すでに数度の戦で疲れているうえに、今日の朝方から何も食べていないので、
腕に力が入らず眼もしょぼくれて、難なく突き立てられた。
百人あまりの兵たちがバラバラと討たれていくなか、
他人の手で殺されてなるものかと思ったのか、
また竜の馬場の険しい岩陰に引き退いた。
そこには大勢で攻め上がる方法がないので、しっかりと柵を張り巡らせた。
弘中はさしずめ籠の中の鳥、網代の魚のようであった。


以上、テキトー訳。つづく。

仏教用語が皆目わからねえ……まあそれはいい。

弘中さん、死ぬ覚悟早すぎです。
300も手勢がいれば、陶入道に合流して華々しく一戦する道もあっただろうに、
大将が戻ってこないと見るや「オラ、切腹すんぞ!山登れ、山!」だからな。
元春を翻弄してたときはカッコイイと思ったのに。
この決断はいただけない。

そしてやはり、戦国武将といっても人の子、死んだら成仏したいのな。
「どうしたら成仏できますか?修羅道の業からは逃れることができるのでしょうか?」
とか言い出すくらいだったら戦をするなと言いたい。
けど、戦なんてしたことない現代人だからそう思うんだろうな。
誰だって心安らかに死にたいよね。

そんでもって元就様ヒドイw
37564とかどんだけw って、まあこの人はそういう人だけれども。
さてさて、元春たちはちゃんと皆殺せるのかな?
2011-09-16

三浦越中の最期

前回のあらすじ:
陶入道を逃がす時間を稼ぐため、三浦越中守率いる30人ばかりは、
追っ手の小早川勢数百と対峙、
山道の隘路を生かし、決死の抗戦によって隆景を危機に追い詰めた。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(11)

元春のところには伝令が来ていた。
「三浦越中守が数百騎を引き連れて取って返しており、
隆景様が危険にさらされています」と聞き、
元春は「隆景を死なせるな。急いで駆けつけろ」と手勢に命じた。
若く健康で足の速い者を先に立たせ、元春自身もあとから急いでついていく。

我も我もと息が切れるほど走っていき、
粟屋源蔵・清長新三郎・樋口彦三郎・二宮七郎兵衛尉などが真っ先に駆けつけた。
三浦はこれを見ても動じず、乱暴に突きかかる。
粟屋の郎党は主を討たせまいと立ちはだかり、たちどころに三人が討ち死にした。
清長新三郎は深手を負った。樋口彦三郎は矢に貫かれて死んだ。
粟屋・二宮とも、心は猛々しく勇んだが、味方がこれだけ討たれてしまうと、
追い立てられて近くの山中に引き退き、味方が追いついてくるのを待った。
ここに吉田衆の内藤内蔵丞、吉川勢の二宮杢助・井尻又右衛門、
高弥三郎らが駆けつけた。

そのころには、三浦越中守の兵たちも討たれたり逃げ出したりなどして、
すでに三浦一人になっていた。
三浦は坂を駆け下り、日輪の立物も抜き捨ててしまって、
地に突き立てた一枚楯にあごを乗せて大きく息を継ぎ、一休みしていた。
そこに敵が来るのを見ると、にこりと笑って
「味方にてございます。考えなく襲ってこないでくだされ」と言葉をかけた。
けれども、「味方にて」の「て」の響き、
「せ」の字が濁ったように聞こえるのは山口の方言である。
三浦の言葉は紛うことなき山口調だった。

有名な三浦越中守に違いないと思った二宮杢助は、
三浦の前に倒れている大木に槍を凭せ掛け、
「味方なら合印をしているだろう。見せろ」と言った。
三浦は「これを見てくれ」と楯の外に具足の上巻を少し出すと、
素早く楯の向こうに引っ込んだ。
「そのようなやり方ではよくわからない。もう一度見せよ」と杢助が言い、
内藤内蔵丞が後ろから射掛けた矢が三浦の綿入れの上に突き刺さった。
同じように高弥三郎も射掛け、これも同じところにグサリと刺さったが、傷は浅い。

三浦もひるまず、「憎たらしい賊のようなやり方だ。味方だと言っているだろう」と、
そばに置いてあった二間柄刃渡り一尺の槍を構え、ひらりと躍り出て、
「三浦越中であるぞ!お手並み拝見!」と突きかかった。
杢助は元から手近に置いておいた槍をさっと構え、
すぐに渡り合って散々に突き合った。
三浦の槍は短く、二宮の槍は三間柄だったので、
ややもすれば三浦の手元をかすっていく。
越中守に続く味方はなく、敵の数は多い。
もはや敵うまいと思ったか、槍を突き投げた。
目のいい二宮はひらりとかわし、
カラリと足元に転がった槍を、吉田衆の転右衛門が取り上げた。

突き損じた越中守が今度は太刀に手をかけ抜こうとしたところに、
二宮が左の脇から右の肩先へとズンと突き通す。
鬼神のようなさしもの三浦もガバッとうつ伏せに倒れた。
そこに井尻又右衛門がそのまま取り押さえて馬乗りになったが、
霜が降りてぬかるんだ地面で三浦が抵抗を続けていると、
すぐ下の谷底へと滑り落ちた。
内藤内蔵丞が駆け下りて待ち構え、三浦の首を掻き切った。
井尻は三浦の首を取り損ねたものの、こうなってはもうどうしようもないので、
取っ組み合いに勝ったせめてもの証拠にと、三浦の太刀を持ち帰った。

陶入道全薑に、厳島に渡るよう勧めたのはこの三浦であったが、
合戦で口ほどもなく負けたのを無念に思ったのか、踏みとどまってその勇を示した。
また、入道と三度までは討ち死にしないと約束したのを守り、
三度戦ってついに一歩も引かずに戦死したばかりか、多くの敵を討ち取った。
なんと血気盛んな勇者であろうかと、人々は皆感じ入った様子であった。

こうして所々で戦っている隙に、
船に乗り遅れた兵たちはこどごとく峰や谷に分け入っていった。
あるいは岩の張り出した木の陰に身を隠している様は、
狩場の犬に怯える山鹿にも似て、なんとも惨めなことであった。


以上、テキトー訳。この段はこれでおしまい。

三浦さんが「これを見てくれ」と言ったときに、思わず
「こいつをどう思う?」と付け足したくなったのはニコニコのせい。
そうなると、杢助が「すごく・・・見えづらいです」と返すのかなw

三浦さんも阿部さん並みの「いい男」だなぁ。
最後の最後まで踏ん張って、一人になっても戦って、
できる限り敵の足止めをしよう、大将がその分遠くに逃げられるなら、
卑怯に嘘もついて、命が続く最期の瞬間まで、足止め役を全うする。
元春・隆景がすっかり霞んだよー!!!

さて次からは、このまま陶入道の最期まで読み進めていきたい。
やっぱり順序どおり読んだほうがわかりやすいなw
2011-09-15

三浦越中大立ち回り

前回のあらすじ:
敗走する将兵の中には生け捕られたり説得に応じて投降した者もいた。
おわり。

というか、今回は、陶入道が逃げる時間を稼ぐために
居残り抗戦を志願した三浦さんの話だ。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(10)

三浦越中守は大内勢が大勢討たれているのを見ても少しもかまわず、
ただ陶入道を逃がそうと後について引いていたが、どこにも船がない。
今がそのときだと思ったのか、青海苔浦の山道に二、三十人ばかりの手勢を集め、
追いかけてくる敵を待ち伏せていた。
ここに三頭左辺(三つ巴)紋の旗をさし、隆景の手勢二、三百人が一番に追いついた。
三浦は「小早川だろうか。鎌倉景正の流れは安芸の国に多くて、他にもたくさんいる。
三頭左辺の紋は誰だろうか」と逡巡し、しばらく敵の出方をうかがっていた。

隆景はしきりに打ちかかろうとしたけれども、
家来郎党をすべて失った三浦がこんなところで待ち伏せていたので、
むやみに一戦に及ぶのも危険と考え、
「後続を待とう。もう少しだけ控えておれ」と制した。
隆景のすぐ先に井上一忠という朋輩が薙刀を持って居たのだが、
味方が注意深く襲撃を控えたのを知らず、
「小早川左衛門佐隆景である。そこにいらっしゃるのは三浦越中守ではないか。
いざ勝負」と名乗りを挙げた。
これを聞いた三浦は、これこそ天が自分に与えた正念場だと思ったのだろう、
前に突いた楯を押しのけて、銀山鉄壁も崩れよとばかりに突きかかる。
この勢いは、すでに人間のものとは言えず、
この山に住むという名に聞こえた鬼坊とかいう大天狗が
人に化けて動いているのではないかと疑うほどのもので、身の毛もよだつようだった。

隆景様も「小早川これにあり!」と叫んで自ら槍を突きかけ、辺りをなぎ払った。
赤川左京亮も槍を取り、三浦と渡り合って散々に戦う。
けれども三浦の三十人あまりの兵たちは、決死の覚悟で臨んでいるので、
身命を惜しまず、隆景様を討とうと躍起になってかかってくる。
これは危ないと思った草井東市允・内海市郎・南勘兵衛尉景久・
井上一忠は主君を討たせまいと、
「主君の危機に命を捨てるのは忠臣として最大の望みです」と一歩も引かず、
そろって討ち死にを果たした。
いずれも劣るところのない剛の者であるが、
とりわけ南勘兵衛尉は槍の継目に鈴をつけた(「槍の鈴」を免許された)
一騎当千のつわものだったという。

三浦はこうして多くの敵を突き伏せ、今度は隆景を目指して、
千里をも一歩で越えようとでもいうように死人を踏み越えて飛びかかってきた。
とそこへ、槍を受け突っ伏していた草井東市允が、
なおも主君を討たせまいと、乗り越えようとする敵の足にしがみついた。
三浦がこれを蹴り払おうとしても、無心にしがみついてきてどうしても放さない。
障害になって進めないので、邪魔なことをする奴だと頭にきた三浦は、
草井を取り押さえてその首を掻き切った。
この場所は山道で一騎打ちが精一杯なので、
後ろから続く兵が進めないでいるうちに、
敵から離れた隆景様は赤坂左京亮を引き連れて、山の上に登って控えていた。


以上、テキトー訳。明日が最期。

今日は体調不良につき短め。
てか、次の段落が長すぎ。

三浦さんつええぇぇぇぇぇ!
一気に四人殺しですよ、奥さん!
とはいえ、三浦さん一人の立ち回りじゃなくて三浦隊の働きなんだろうが、
隊なんだか個人なんだかわからなくなって、私はよく混乱する。

山道ってのはどうしても進軍が縦に伸びて、一度にかかってこれる人数が限られるから、
大軍を相手にした寡兵の部隊が好んで戦場にするよね。
数の不利が少しは解消できる。
今回、元就たちもそれを狙ったわけで。
陶軍数万に対し毛利軍数千だもんな。
一気に形勢逆転したあとは、同じ手に翻弄される、と。

それにしても隆景はちょくちょく危ない目に合うなw
お姫様ポジションなの?
2011-09-14

将兵たちそれぞれの戦い

前回のあらすじ:
陶さんが意外に力士体型だったとわかって非常に嬉しい。
もとい、戦に破れて敗走する陶入道は、
落ち延びるために船を探し出すか、引き返して悔いなく戦うかの選択を迫られる。
落ち延びて再起すべきだと言う三浦越中守の説得に心動かされた陶は、
追跡の足止めを買って出た三浦を後に残し、船を探しに行くのだった。

でも今回は他の人たちの戦闘シーンだから
あんまり関係なかったりする。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(9)

さて、小早川隆景は他の敵には目もくれず、陶入道の跡をつけて、
大鳥居の前から大元浦の谷へと追いかけていた。
ここに羽仁越前守・同将監と名乗る三、四十人ばかりが、谷の死角から斬りかかってきた。
石州の出羽民部大輔元実の家来衆、
東越前守・二ツ山何某などが渡り合い、ここを先途と交戦する。
中でも二ツ山は真っ先に進んで戦っていたが、
このとき散り散りに逃げていた防州勢五百人ばかりが、
所々から戻ってきて斬り返してきた。
芸陽勢は少し油断していたところだったので、
切り立てられて一気にさっと引き、押し返すのが難しくなった。
そこに吉川冶部少輔元春、藤の丸に三引両の旗を押し立てて斬りかかった。
粟屋伯耆守が大音声を上げて、
「吉川元春これにあり!
 おのおのがた、よくも引き退かれるものかな。返せ、戻せ!」と呼ばわった。
出羽の家来衆はこれで力を取り戻し、羽仁兄弟をはじめとして、敵を多く討ち取った。

元春が加勢に加わったのを見て、芸州勢はまた後から引き返して戦った。
そのとき吉川勢で敵を多く討って高名をなした者は、
二宮杢助・森脇市郎右衛門・山県四郎右衛門・粟屋三河守・同伯耆守と、
その他にも数多くいた。吉田勢では庄原兵部少輔・桂善左衛門・
福原惣右衛門・同左京・佐藤惣領右衛門・中原善左衛門・坪井将監・
児玉四郎兵衛尉・波多野源兵衛尉・志道源蔵・渡辺甚右衛門など、記しきれない。
天野紀伊守・同中務も落ち行く敵と渡り合い、数人を討ち取る。
その中に陶の郎党、手嶋清左衛門と名乗る者が引き返して戦っていたのを、
天野中務少輔元明が駆けつけて渡り合い、ついに手嶋を討ち取った。
その年十七歳の初高名だったので、元就様も大いに感心した。

(陶軍の)大和伊豆守は手勢七十余人ばかりで取って返し、
追いかけてくる敵を突き退けたが、
討たれたり逃げたりなどして二十四、五人ほどになった。
そこへまた敵が追いかけてきて渡り合っていると、
誰とはわからなかったが銀の四手(槍印)を腰に差した武者一人を槍にて討ち取り、
そのまま騒がず落ち行こうとした。
それを香川左衛門尉光景が四、五十人ばかりで追いかけ、
相手が大和伊豆守と気づいて「戻って来い」と呼びかけた。
伊豆守も日頃から互いに見知った仲なので、「香川か」と引き返して戦ったが、
二十四、五人の手勢もほとんどがそこらで討たれ、残りの者は逃げ散った。
伊豆守は主従五人になるまで一歩も引かず、左衛門尉を討とうと進んだ。
香川もまた伊豆を討たんと渡り合い、突き合っていると、
香川の郎党、川名石見守が助けに入った。
川名が槍を振り下ろした瞬間、伊豆の槍が打ち落とされた。
やぶれかぶれに組み伏せようとつかみかかって来る伊豆を突き殺そうとしたものの、
香川は、元就様の言ったことを思い出した。

「もし今度、陶に打ち勝てたならば、生け捕りにしたい者が二人いる。
 大庭加賀守は西国一の和歌の名手だ。
 これを助け置いて、我の老後の歌の友にしたいものだ。
 また、大和伊豆守は文武に秀でた勇士である。
 とりわけ軍艦の扱いに究めてよく通じているので、まだまだ生きてほしいものだ」

これをハッと思い出し、自分も武器を手放して伊豆に組み合った。
大和伊豆は有名な怪力の持ち主だったが、相手は数に任せて
手を捕り足を捕りしてきたので、逃れようもなく生け捕られてしまった。
これに続いて香川淡路守・同左馬助・猿渡壱岐守らが郎党を討ち取り、
そのほか十四、五人も討ち取った。

伊豆守は生け捕られたあまりの無念さに、香川をキッと睨みつけ、
「この大和ほどの武士を難なく生け捕り、人に顔を晒し恥辱を与えるとは何事だ。
 さっさと首を取らぬか。捕虜にして何の得がある!」と怒った。
香川は、
「伊豆守殿のことは、私が以前山口に下向いたしましたとき、
 とりわけ親密にしていただいたので、お命をお助けしたく思います。
 また元就も常にあなたのお噂ばかりおっしゃっていますので、
 お命を失われるまでのことはありますまい。そう思って生け捕りました。
 防長に平穏が戻りましたら、本領は安堵していただけましょう」
と宥めた。
すると伊豆守は
「香川殿、それほどのご芳志ならば、ただ早く首を打ってくだされ。
 元就と対面するにも、生け捕られたままでは面目が立ち申さん」
と言って、その後は物も言わなくなった。

宮左衛門佐は手勢の郎党が皆逃げ出してしまって、たった一人になったところに、
三須筑前守房清が二十ばかりで追いかけた。
こうなったら逃げられまいと、宮は岩の上に駆け上がって自害しようとした。
杉原若狭守が遅れて駆けてきてこれを見つけ、
「どうした、左衛門佐! 意味なく自害などしてどうしようというのだ。
 あなたは大内譜代の侍ではない。備後の宮だ。
 惣領下野殿に遺恨があったから、しばし山口に身を寄せていただけではないか。
 このことは元就様もよく知っていらっしゃるので、一命を助けてくだされよう。
 そうでなければ、私の一門がこの合戦で挙げた功に替えて、好意でお助けしよう。
 自害などやめて、降伏してくだされ」
と制した。
左衛門佐一家、従者たちは、まさか方便ではこうも言うまいと思ったので、
自害を取りやめて降伏し、命が助かったということだ。
問田・平井は熊谷に討ち取られた。


以上、テキトー訳。たぶんあと二回くらい。

元就さん、ヨユーじゃないスかw
誰それを生け捕りにしたいとか。しかも老後の友てw
友達はそうやって作るもんじゃないと思うぞ。

それにしても大和伊豆は不憫だ。
「こんなの恥だから早く殺せ!」と息巻いて、
情けをかけられたと知ってシュンとしてしまうとか、ちょっとかわいい。
元春と陶は義兄弟になったから、両家の家臣も交流があったんだよな。
それでなくても大内勢として一緒に戦ってきた同士だから、
かつての友が今日の敵になるってのは、やるせない。
でも仕方ない。
見知った顔だからこそ、退こうとしてても引き返して相手をする。
その心意気がなんとも言えない。

一方で、相手の事情を慮って、手柄にできる首をみすみす逃し、
命を助けようと降伏を勧める人もいる。
うまく言葉にできないが、いろいろあるんだなぁ、なんてしんみりしてしまう。

今回、うまく訳せなかった言葉で「分捕高名」ってのがある。
高名はなんとなくわかるが、そこに「分捕り」が当たり前にくっついてくる。
討ち取った首に脇差や得物、兜なんかを添えて取ってくることだそうだが、
それって追いはg(ry
・・・まあ当時は当然のことだったんだねー(棒)。
生々しい息遣いが感じられるようでちょっと震撼。

あと熊谷さん、さり気にすごい。
2011-09-13

「思い定めよ」「疾く退けよ」

前回のあらすじ:
大元浦で形勢を立て直そうとした陶入道は、
それも叶わず、側近に手を引かれて浜づたいに逃げ落ちていく。
陶の大軍は散り散りになり、溺れ死んだり崖から滑落するなどして、次第に数を減らしていった。
船で逃げ延びた者たちも、守るべき大将の行方も知らず、
情けなさに打ちひしがれるばかり。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(8)

陶入道は大元浦を過ぎ、落ち行く船に乗ろうとすれども、
あたりには船影一つなく、水鳥が陸で迷ったような気持ちになって、茫然と立ち尽くしていた。
鎧は重く、ことさら大きく逞しく肥えた人である。
知らぬ浜辺を歩いて疲れているのを、兵たちが手を引き、腰を押して落ちていった。
伊香賀民部少輔は入道の手をとって肩に引き担いで歩いていたが、
大元の山に着こうというとき、入道を振り返った。

「どうしましょうか、全薑(ぜんきょう)様。ここにも船は一艘もありません。
 ここが運の尽きかと存じます。先に進んでも、船があるわけがありません。
 これでは落ち延びさせることなどできはしません。
 皆散り散りになって頼みにならず、敵の手で討たれるのは無念のきわみでございます。

 日ごろ臆病者と言われていても、最期さえ立派であれば、
 従前の臆病はかえって思慮深さゆえということになり、つわものだと賞賛されるものです。
 またいかに何度も勇姿を見せた者であっても、最期が悪ければ、
 これまでの武勇はすべて軽薄だとそしられ、臆病者の名を後世に残すものです。
 木曽義仲は北国で平家を追い落としたあと、いくつもの合戦で活躍して、
 血気盛んな勇将の名を得ましたけれども、
 死ぬべきときに逃れて、結局は流れ矢に当たって亡くなったので、
 義仲の勇名は完全ではなくなったのだと思います。
 また新田義貞は逃げるべきときに逃げず、いたずらに戦死なさいました。
 こうした上代の名将すら死ぬべき場所を知らないのです。
 どうして現代の将がそれを知りましょうか。

 ただ一筋、思い切ってくだされ。
 御旗を打ち立てて落ち損じている軍勢を召集されれば、
 まだ二、三千はいることでしょう。
 船がないので逃げられぬということを皆がわきまえ、死狂いに狂えば、
 窮鼠猫を噛むと言うように、必ず勝利できましょう。
 もし皆が散り散りなっていて一箇所に集まることができずとも、
 五百か三百は集まるでしょう。
 この手勢で何とか最期の一戦、華を散らそうではありませんか。
 さあ、いざ引き返しましょう。お供して討ち死にいたしましょうぞ」

この進言に、入道、
「私もそのように思って、先ほどから所々で踏みとどまっていたのだ。よく申した」
と立ち止まろうとしたとき、五番目に従っていた三浦越中守が、声を張り上げた。

「民部が申すこと、確かに勇ましいが、短慮に過ぎる。
 たとえ警固の船がなくとも、この先に兵糧船の一つもないということはあるまい。
 探し出して入道殿をお乗せするべきだ。
 全薑一人さえ無事に渡らせ申せば、再び戦の本懐を遂げられるだろう。
 入道殿、この越中守、五度しんがりを務めましょうぞ。
 なに、三度までは討ち死にいたしません。
 その隙になにとぞ防州の地、装束浜・室木あたりまでお退きください」

との言に、陶入道は
「いいや、越中、今は逃げおおせているが、敵が逃さないだろう。
 私もここで一所に戦死しよう」と答えた。

そのとき、また民部少輔が口を開いた。

「三浦殿のおっしゃることももっともですが、王仁鑑渕谷猛虎の例えがあります。
『渕谷を飛び越えるか、猛虎に倒されるのをただ待つか。
 猛虎に倒されるのを待つ先にあるのは死であり、
 渕谷を飛び越えようとする先にもまた死がある。
 猛虎に襲われるのを待てば、必ず死ぬ。
 渕谷を飛び越えようとすれば、万に一つは助かることもある。
 必ず死ぬのを待つよりは、もしほんの少しでも生きる道があるとしよう。
 戦場で屍のように立ち尽くせば必ず死ぬ。
 敵に対峙して、万死のうちの一生を切り開くべきである。
 三軍の突進にためらいが生じれば、兵を用いてこの害を大きく滞らせる』
 といいます。

 あてもなく船を探していれば必ず死にます。
 しかし引き返して一戦に及べば、万一には生き残る道もあります。
 さあ、引き返して万一の生を得ましょう。
 一戦つかまつりましょう。
 引き返して戦われれば、万一の生か、
 そうでなくとも武名を後世に残されるか、二つに一つです。

 空しく船を求められれば、必ず死ぬ上に、弱将の汚名を末世まで着せられましょう。
 これをよくよくお考えくだされ。
 敵が勝ち誇り油断して、気勢も十分発散し尽くしたところに、
 三百程度でも思い切って戦えば、必勝は間違いありません。
 新田義貞が少数の兵で足利尊氏を京から追い落とし、すっかり油断して休息していたとき、
 細川律師定禅は三百の手勢で引き返して新田の大軍に打ち勝った先例もあるではありませんか。
 ぜひ引き返しましょう」

この進言に、入道は「確かにもっともである」と同意して立ち止まった。
すると三浦越中守、

「いえいえ、そうではありません。
 民部が先ほど、逃げるべきときを知らないで、と申したのはこのことです。
 項羽が鳥江で戦死したのは、今の世でも評価されておりません。
 だから杜牧も『戦の勝敗はどんな兵法家にも期すことはできない。
 羞を包み恥を忍ぶのが男子の大事である』との詞を作っているのです。
 漢王朝の高祖は、紀信の謀で衛陽の包囲を抜けられ、項王を滅ぼして天下を手に入れました。

 民部は愚かにもこのように申しておりますが、
 入道殿はこれほどまで理に迷うべきではありません。
 命を惜しむのは良将の習いであります。
 源頼朝も、何の甲斐もない命を永らえたからこそ、
 父の復習を果たされただけでなく、日本六十余州を掌の内にされたではありませんか。
 その弟、義経は、吉野山で佐藤忠信をあとに残し、落ち行かれたではありませんか。
 浅慮にして将の道を考えずに、これほど大変なことを思い立たれたのでは、情けのうございます。
 今討ち死にされるのは、義貞の無駄死にに等しいかと。
 早く逃げましょう」

と大きく目を見開いて入道を睨んだ。
声を震わせて言葉も荒々しく言うので、陶入道ももっともだと思ったのか、
「では三浦の意見に従おう。もう少し逃げてみて、
 事の成り行きを見定めようではないか。
 私が無事に落ち延びたら、すぐに挙兵してたちどころに敵を討ち滅ぼし、
 おまえの孝養にするとともに、私も溜飲を下げよう。
 もし運命が尽き果てて討たれるのであれば、
 死出の山、三途の川辺でおまえに追いつき、ともに修羅の世界へ旅立とうぞ」
と言った。

二人は互いに涙をこらえて立ち別れ、どこともわからぬ山道に分け入るが、
とにかく暗く、敵の鬨の声は前後から覆いかぶさってくるようだった。
山彦が響いて峰にも谷にも敵があふれかえっているように感じられ、
魂が抜けそうになり、しどろもどろに辿っていった。
入道は一丈(約3.33メートル)ほどもある山道を踏み外して真っ逆さまに落ち、
顔を打って怪我をした。それでもようやく青海苔浦までたどり着いた。
しかしやはり味方の船は一艘もなかった。

人の世のの栄枯盛衰は手を裏返すよりも早い。それが世の常だ。
数年前には主君の大内義隆様を追い落とし、
悪逆ではあっても武威を逞しく振るい、防長豊筑の支配権を手に入れた。
それに引替えて、今日は、数万の軍勢をすべて失って、わずか百数人を残すのみとなった。
山道の露に袖を濡らし、浦辺の波に裳裾を絞り、
歩き疲れた様は、傍目に見ても哀れなものだろう。
さしもの大強将の名をほしいままにした人が、わずかな敵に情けなくも戦い負けて、
このようにとぼとぼと逃げてゆく。
謀略がまずいわけでもなく、将兵ともども臆したわけでもない。
これはひとえに、主君を殺した悪逆によって、天の裁きを受けたためにこうなったのだろう。


以上、テキトー訳。あと何回続くのか。

切りどころがわからなかったのと、漢籍の引用部分でワケワカメ状態。
いつもよりかなり不安な訳だな。いつも適当だけど。

伊香賀さんは、恥や悔いを残すような最期を迎えさせたくない一心で、
取って返して思う存分戦いましょうと言う。
三浦さんは、命さえあれば捲土重来を期せるんだから、恥を忍んで生き延びてくれ、
自分はここで時間を稼ぐから、あんたは生きて本願を果たしてくれと言う。
どちらを選ぶか。
難しいけれども、私個人としては三浦さんを推したい。
決して伊香賀さんを否定するわけじゃないけど。
なんたって、陶さんは大将だもんな。
諦めたら、そこで試合どころかすべてが終了ですよ。
2011-09-12

未明、落つ

前回のあらすじがどーとか言う前に、
新しい記事書いて更新したら、全て消えたから萎えたわー。
ひどいよFC2。
アクセス集中して更新できなくてもせめて保存だけはしてくれ・・・

あらすじというか:
毛利軍の奇襲に慌てて防戦体制を整えるも、甲斐なく崩れ去る陶軍。
抗戦を下知する陶入道に従う者はなく、配下に抱えられるようにして大元浦まで引く。
さてここで、陣を立て直せるのか。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(7)


陶入道は「大元浦で巻き返すぞ」と命じたが、形成が崩れてしまったので、
皆我も我もと船に乗ろうとするばかりで、
下り松の須屋あたりへ浜伝いに逃げていき、または山城の馬場まで行く者もいて、
足を止める者は一人もなかった。
さしもの入道も、こうなってはもうどうしようもなくなって、
「臆病も甚だしい者たちを率いても何にもならん。
 戦に負ける口惜しさよ。汚く引くよりも、ここで討ち死にするぞ!」
と怒りを露にした。三浦越中守は
「まずはお引きになって、再び大軍を起こし、会稽の恥を雪ぎましょうぞ!
 合戦は勝つも負けるも世の習いでございます。
 最終的に勝つことをこそお心がけくだされ。
 小事を追い命を捨てるのは一兵卒のやることでございます。
 大将のとるべき道ではない!急ぎ退却を!」
と手をとり、引き立てて落ちて行く。
入道は、ややもすれば、
「口惜しくも負けるわけのない戦に負けたのだ。取って返して討ち死にしてやる!」
と何度も踏みとどまって怒り狂った。

夜は未だ明けきらず、暗くもあり、不案内な場所だった。
しどろもどろになって辿っていくが、
浦に寄せる波の音を聞いては敵の鬨の声かと肝を潰し、
尾根の上の鹿を見ては追っ手の兵馬かと魂が抜けそうになった。
あるいは深さの知れない洞に飛び入り、岩で骨を砕いて死ぬ者もあり、
または千尋の海に落ちて、屍を波に砕かれて命を失う人もあった。
後ろから引き上げてくる者を敵兵が追いかけてくるものと勘違いして、
引き返して同士討ちに及ぶ者もあり、
行軍についていけない老武者は、船もなく、
山に分け入るのも思うようにいかないので、自害して突っ伏しているのも多かった。

平家の十万余騎が、木曽義仲の謀に騙されて倶利伽羅の谷に落ちたときも、
このような状況だったのだろうか。
この山中には太刀、薙刀、鎧その他の兵具類が多く、
百年が経っても木の葉に埋もれ苔に封じられて残っているのを、
炭焼きの老人や木の実拾いに来た子供たちが拾ってきて、家に持ち帰ることも多かった。

さて先立って逃げ、船に乗り込んだ者たちは、
島の戦況がどうなったのかと傍観していた。
次第に遅れて逃げてきて、
「どこどこの誰々という者だ、その船に乗せよ」と言う者もあり、
また自分の乗ってきた船を探し、家人の名を呼び、船頭の名を叫んで乗る者もあった。
大浜・宇嘉嶋たちが、「ところで入道はもう船にお乗りになったのか」と尋ねると、
大将よりも先に逃げる程度の者たちなのだ。
普通なら入道の行方なりとも、どうされているのかとも、
少しは知ろうとするものだろうが、
これらの者たちは、とにかく早く船を出して防州の地へ逃げ着こうと考えたのだろう。
皆全薑(ぜんきょう、陶晴賢)の様子を知っているかのように、「
あの船に乗船されました」「この船にお乗せいたしました」
「実際見ました」「知っております」と口々に言ったので、
警固の者たちはこれを本当だと信じた。
入道が未だ船に乗っていないなどとは夢にも思っていなかった。

こうしたところに、能島・来島をはじめ、
その他芸州の警固、浦・飯田などが浦々へ船を回し、敵船に切りかかってきた。
宇嘉嶋・大浜は、厳島の合戦で味方が打ち負けたのにまったく支えもしないまま、
防州の和木・室木辺りにまで逃げたが、ここにも長くはいられず、
同国の大畠目指して退却し、鳴門の迫門の逆巻波を利用して振り切った。
「さて入道はどこに」と尋ねても、
「どの船にもいらっしゃいません」との答え。
「なんということだ。なんのためにここまで逃れてきたのだ。
 入道殿の行方もわからぬとは、浅ましいことをしたものよ」
と千度も百度も悔い、悲しみ、手を換えて胸を打ち、
空を仰いで己の不覚を嘆いたが、どうしようもなかった。


以上、テキトー訳。

敗走側に焦点を当てるのは卑怯だと思う。
お涙頂戴じゃねーか。
悔しくて悲しくてたまらんじゃないか。
「墓無し(はかなし)」「甲斐無し」って言葉がイチイチ胸にくる。
いよいよふざけたこと抜かしてられなくなった。
まさか、古典でこれほど胸揺さぶられようとは。
2011-09-11

阿鼻叫喚

興が乗ってしまったので本日のもう一発。
前回のあらすじ:
嵐の夜を縫って進軍してきた毛利軍にいち早く気づいた
陶軍の弘中たちは、こっそり山中の陣を引き払って本陣に合流、
元就の目をごまかし迎撃体制を整えることに成功した。
しかし、いかんせん大所帯なのと慌てていたので、
いつの間にか合流していた隆景とともに攻めまくる毛利軍に
まともに抗戦できないまま押されていく。
弘中「陶さーん!塔ノ岡、閉鎖できませーん!」


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(6)

元就父子四人が
「敵は大崩れと見えるぞ。ここで一気に叩け!」
と重ねて命令して進んだので、防州勢は一度にどっと崩れた。
陶入道は、
「これはどうしたことだ、あれっぽっちの小勢に
 押されているようではないか。返せ、戻せ!」
と采配を打ち振り打ち振り下知するも、
大勢が弓手の波打ち際に引き退いてしまい、妻手の山中に逃げる者もあり、
入道が命令した左右の脇の守りを少しも顧みずに逃げて通る者も現れた。

こうなってしまえば、後陣に控えていた大勢の兵士も
入道を打ち捨てて大元浦あたりまで引き退いてしまい、
船を敵に取られないうちに乗ってしまおうとでもいうように、
我先にと船に乗り込もうとした。
小船に大勢がひしめき合って乗っているので、
いくらも乗らないうちに沈んでしまって、海で溺れ死ぬ者もいた。
これを見て、先に乗った者は後から乗ろうとする者を乗せまいと、
船の側面に取りすがる仲間の腕を斬りつけてのけた。
一艘の船べりに二十人ほども取りすがってくるのを、
薙刀や太刀で腕を打ち払って払いのけるので、
大元浦・芦屋あたりの有様は、平家の一ノ谷落ちを髣髴とさせた。

陶入道は、味方の先陣も破れ、
後陣がたまらず逃げていくのを見ながらも少しも騒がず、
「臆病すぎる者は足手まといになる。逃げてくれたほうが好都合だ。
 私の旗本衆なら精鋭ぞろいで二、三千はいる。
 元就と最終決戦に臨もうではないか。皆静まれ」
と気にしない様子でいたが、
その旗本の兵も皆逃げ失せて、ようやく五百ばかりが残った。

こうしたところへ三浦越中守・弘中三河守・同中務・大和伊豆守の四人が
踏みとどまって防戦したと見えて、他の軍勢より遅れてやってきた。
「まず、入道殿は大元浦までお引きください。
 そこで社壇を前にして一合戦おやりください。
 緒戦は仕損じましたが、あの程度の小勢相手に負けるわけがありません。
 ここは場所柄、狭すぎて人数がひしめき合い、
 大軍勢の我が方がかえって不利となります。
 大元浦で備えを整えられるまでは、我らが引き返して敵を防ぎます」
と言えば、陶は「いやじゃ。私もここで討ち死にするぞ」と拒否した。
刻一刻と迫ってくる吉田勢の鬨の声に、
三浦は、入道に物も言わせず、肘をとって引き立てた。
伊香賀民部小輔も「お早く大元浦まで退いて最後の決戦に臨みなされ」と
無理やり引き立て、大元浦目指して引いていった。

弘中三河守・同中務小輔は神殿の背後、観音堂のあたりで入道たちと別れ、
滝小路を背に、総勢五百ばかりで待ち伏せた。
いちばんに吉川冶部小輔元春が追いかけてきたが、
弘中三河守父子は、もとから戦死するものと覚悟していたので、
何のためらいもなくまっしぐらに打ちかかっていった。
元春より先に進んだ兵は不覚にも十四、五間ばかり押し戻された。
元春は、これは何としたこと、と自分の槍で叩き立て、
弘中もふさわしい敵だと目をつけて、父子が一所に進んで槍を合わせて戦う。
大将が手を焼いていると、宮・庄・今田・粟屋・境・朝枝・森脇といった者たちが、
自分の命など塵芥よりも軽いとばかりに切り入る。
弘中がついに押し負けて滝小路へと後退するのを元春が追撃すると、
柳小路から青景・波多野・町野ら三百あまりが横から衝きかかってきた。
吉川勢の危機に、熊谷伊豆守信直・天野紀伊守が後から駆けつけて渡り合い、
斬りつ斬られつ戦って、ついには弘中も青景以下も押し立てられて引くほかなかった。

弘中はさすが古強者である。
滝小路の左右の家に火をかけて、それにまぎれて引いていった。
元春は、「弘中らを逃しても問題ない。神殿を燃やすな」と敵には目もくれず、
消火に当たっている隙に、弘中は大聖院の上まで引き退いてしばらくそこに控え、
合戦の成り行きをうかがって息を整えていたのだった。

弘中の戦に力づけられたのか、防州勢五百ばかりが引き返し、
隆元様の旗本衆に斬ってかかる。
互いに身命を惜しまず攻め合い、隆元様も自ら兵士に先立って戦うと、
双方の兵たちはただ討ち死にを願って猛り狂った。
なかでも内藤河内守・長井右衛門太夫など、槍を合わせて比類ない働きをした。
粟屋又次郎は槍にて討ち取られた。敵も、ここを先途と戦うも、
元就様が「あの敵を追い崩せ」と命じれば、
福原左近允・児玉内蔵允・粟屋与十郎をはじめ
二、三百ばかりが助けに来て打ちかかったので、
防州勢は皆追い立てられて右往左往と逃げ去った。


以上、テキトー訳。まだある。

ちょ、脇を抱えられて引き摺られる陶さん(35)かわええ。
この人の直情的な性格をよく現してるよな。
三浦さんも、口で言っても聞かないから実力行使に出でたんだろうし。
そんなんだから元就の術中にハマってしまうんですよ!
カワイイけども。うっかり萌えるけれども。
やっぱりな。先を知ってるから悲しいんだよなぁ。

そして弘中さん、なんというカッコよさ。
カッコよさでは弘中無双。
てゆーかみんなカッコイイな。読んでてすごい楽しかった。

いや、前半はマジでちょっと阿鼻叫喚なんですが。
大軍って、転がった小石が土砂崩れ起こすようなリスクも併せ持ってるんだね。
動揺の伝播力、パない。
船さえ確保しとけば、乗り込まなくてもいいじゃない?
これだと合戦の死人より溺死者の方が多そう。
てゆうか船にへりにしがみついてきた味方の腕斬りつけるとか
そんなんするくらいだったらYOU降伏しちゃえYO!
やっぱり士気とか軍隊教育とか大事なのねって思った。
2011-09-11

火蓋、切って落ちる

昨日は炎天下、バーベキューだったので調子に乗って飲みすぎた。
ウナギのような犬やら同僚のお子様たちと戯れすぎた。小1女子と相撲とか(*´д`*)
赤子かわええ~(*´д`*) 抱っこするとビチビチ跳ねよるw
のはいいけど、調子に乗りすぎたか、首の爆弾が久々に炸裂。
酔いと眼球の日焼けと
左上半身のみに襲い来る不思議な激痛にダウンしておりました。

そりゃそうと前回のあらすじ:
暗闇の中の登山を強行した毛利軍は案の定道に迷うも、
厳島大明神が使わした鹿の案内によって無事予定の場所に出た。
元就の機転で湿らしてきた手ぬぐいを用いてのどの渇きを癒し、
さて進軍。先陣を仕るのは、もちろん我らが元春様だぜ!


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(5)

先陣の新庄勢のところに
鳥毛空穂をつけた武者五人が足早に通り抜けようとしてきたので、
二宮杢助は
「どなたでございますか。今日の合戦は元春が先陣を承っております。
 先へは一人もお通しするわけには参りません」
と言った。
「いや、ご心配なさるな。桂左衛門太夫(元延)、
 同兵部丞(元親)、同民部太輔(広繁)らでございます。
 一足も早く進み、敵と打ち違えて忠死を果たそうとまかり越しました。
 どうかともに連れて行っていただきたい」
と返事があった。
元春様は「実に見事な心構えよ」と感心して、そのまま連れて行った。

厳島大明神が初めてこの島に渡っていらしたとき、
兵裏を下し置きになったことから、その石は包の形に似た。
よってここを包ヶ浦と呼ぶようになったという。
合戦で勝利したあと、社壇を一宇建立された。それで裏の明神というとのこと。

さて、とても高くそびえた山の尾根をよじ登ると、
元就様に「ここは何というところだ」と尋ねられ、
兵たちは「博打尾でございます」と答えた。
「敵陣に賭けたこの首が、道中で博打尾に登ったのは、
 敵に打ち勝つという印である。
 源義経は勝浦に着いて平家に勝ち、今我らは博打尾に登っている。
 敵に打ち勝つのは間違いあるまい。勇めよ、ものども」
との元就様の命に、将兵たちはますます士気を高めた。

合戦は一日(ついたち)の卯の上刻(午前六時ごろ)と決まっていたので、
前後左右から登ってゆく兵士たちは「えいえい」と声をかけていたのが
次第に鬨の声となって、自然と雄叫びを上げて登っていった。
敵陣は思いもかけず、夜中なのでとんでもなく慌てふためいた。
けれども博打尾に陣取った弘中三河守(隆兼)の陣は
少しも騒がず、篝火を煌々と焚き続けた。

弘中隆兼は大和伊豆・三浦越中の陣に使いを送り、
「敵が山の傘に登ってきており、この陣に攻め降りてくるでしょう。
 陶入道殿の陣へはまだ遠く隔たっておりますので、
 ここの兵力だけで合戦に及ぶのは難しいかと。
 先にここを去って塔ノ岡に集合し、大御堂と有ノ浦の町の小路を先に入って、
 入道殿と一緒に合戦をしたほうがよいでしょう。
 味方は大勢だといっても、あちこちに分散して戦えば、
 小勢を相手にするにも不利なものです」
と伝えると、大和・三浦ももっともだと同意し、
それぞれの陣に篝火を焚かせておいて、ひっそりと塔ノ岡へ引いた。

吉田勢は篝火に騙されて敵が未だに陣中にいると思っていた。
あまりに暗かったので、せめて道の分かれ目が見えるようになるまでと思い、
夜明けはまだかと待っていた。
東雲がほんのりと明るくなってくると、全軍雄叫びを上げて切りかかってゆくも、
よく見てみれば、敵は博打尾にも城ノ頸にも一人として残っていなかった。
さては塔ノ岡の陶入道の本陣に集まっているに違いないと、
一丸となって突きかかっていった。
案の定、塔ノ岡から大御堂の間で、陶軍が堅く備えをして待ち構えていた。
互いに矢を次々に射かけ、槍を交えてさんざんに戦った。

陶軍は大軍でああるけれども、兵士たちは鷹揚に構えており、
まさか討ち死にするとは思っておらず、
一方、吉田勢はわずかであっても死を覚悟していたため、
射られても切られても痛みを感じず、一気に攻め破ろうと切りかかっていく。
元就様・隆元様・元春・隆景、いずれも、ここが最後とばかりに働いて、
大声を上げて命令をくだし、自ら真っ先に進んで戦った。

陶軍の先陣、弘中・大和・三浦が難なく押されてしまったので、
陶入道が「あとから入れ替えよ」と自ら抑えて命を下した。
しかし夜中に敵の鬨の声に驚いて慌ててこしらえた備えだったので、
前後が込み合って槍や長刀を振り回すこともできず、
しかもまだ午前六時ごろなので未だ暗くて、
先陣からなだれかかってくる毛利勢に、
二陣の兵たちは武器に貫かれてあっけなく倒れ伏した。
二陣の兵は先陣に入れ替わろうとするも、
大勢充満していたので通れるような場所はなく、
槍や長刀をさばくこともできないので敵に渡り合う様子もない。
これはどうしたことだと、早々と全軍が浮き足立った。
吉田勢はこの勢いに乗って攻め続けた。


以上、テキトー訳。当分続くな。

いやいや、さらりと書いてますが、香川さん。
隆景いつの間に合流したん!
もひとつ。
合言葉決めたんだから使えよ!!!

それにしても陶軍の弘中さんは、落ち着いてて智将なイメージだけども、
結局陶軍全体を窮地に追い込んでる張本人だよね。
2011-09-10

智計と神助

前回のあらすじ:
悪天候の中、荒れる海をようよう渡ってきた毛利軍。
元就、隆元、元春の三人は乗ってきた船を全て帰し、
厳しい戦に臨む決死の覚悟を見せた。
異常な状況下でアドレナリンを盛んに分泌させる兵士たちの前に、
一匹の鹿が姿を現した。

元就「あれは神様の鹿だからね!」

ってことは我らはついに天に召されてしまうのかしかし!


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(4)

そのうちに、ますます暗闇が迫り、夜は更けていった。
雨のあとならなおさら、青露、黒雲が峰や谷に覆いかぶさって、
どちらが包ヶ浦への道なのかもわからなくなった。
たまたま木こりが使う通路に入っても、
松や柏の枝が朽ちて横たわり、枯葉がうずたかく積もった上に
コケ類がびっしりと封をしている。
この道をよく知る者ですら、足を取られて迷うことだろう。
ましてや不案内な兵士たちは、呆然と大口をあけて立ち呆けていた。

そこへ、先ほどの小男鹿が先に立って山の中へと入っていった。
元就様は、
「これはきっと厳島大明神が道を教えてくださっているのだ。
 神の導きに任せて、この鹿の通った跡についていって、山に分け入ろう。

 現在の人の王の始祖である帝、神武天皇が蝦夷を征伐されたとき、
 皇師中州(みいくさうちつくに)に赴こうとすると、
 山道が険しくて、どこへ向かったらよいのかわからなくなった。
 すると夜、夢の中に天照大神が現れて、天皇にこうおっしゃった。
 『私がこれから八咫烏を遣わして、あなたを案内しましょう』と。
 そして本当に八咫烏が空から舞い降りてきたのだ。
 天皇は『この烏が来たのは、あの祥夢が自然と叶ったのだ。
 おおいなるかな、さかりなるかな、我が皇孫(みおや)天照大神は、
 天の日嗣ぎたる我を助けてくださろうと思し召しなのだ』と
 大変お喜びになった。
 このとき、大伴の氏の遠い祖先である日臣命(ひのおみのみこと)が
 大来目(おおくめの)督将(いくさのきみの)元戎(おおつわもの)を率いて、
 烏の向かう方向を仰ぎ見、山に分け入っていくと、
 ついに菟田の下県(しもつこおり)にたどり着けたそうだ。

 このような例を引くのは、口に出して言うのももったいないことだが、
 神武天皇には天照皇大神宮が八咫烏を遣わして道をお教えになり、
 今我には大神の娘御、市杵嶋姫命が鹿を遣わして
 この山の道案内をしてくださっている。
 国の邪政を改めるために義兵を挙げた我の願いを
 伊都岐嶋(厳島)の御神がお受け入れになったからこそ、
 このような珍しい瑞兆をお見せくださったのだ。
 この合戦の勝利は我らの手中にある」

と喜んで、明神の方向に三度礼拝をし、
ますます神助をくだされるようにと祈願した。
これを聞いて兵士たちはなおさら奮起して進み、
紅葉を踏み分けて行く鹿の跡について登ってゆくと、
たちまち山道に出会った。不思議なものである。

元就様が
「この包ヶ浦には谷底から流れてくる水がある。
 皆のもの、手ぬぐいを水に浸して持ち、のどが渇くようなら
 これを絞って口を湿らせるのだ」
と命じたので、兵士たちは言われたとおりにして山に入った。
喉が渇いて眩暈がしたときには、この手ぬぐいを啜って気力を取り戻した。
昔の魏の曹操は、「梅林が実を結んだぞ」と言って兵の渇きを止め、
現代の元就は手ぬぐいを水に浸して渇きを救われた。
前者は昔の漢の王朝のこと、後者は現代の和国でのこと。
千年を隔てているといっても、良将の智計は似ているものだ。

さて元春は、以前から決まっていたとでも言うように、
「私が先陣を仕りますので、旗本衆のご本陣が最終的に決着をつけてください」
と言上した。元就様も
「そのようにしよう」
とおっしゃったので、新庄勢八百余人は真っ先に進んでいった。


以上、テキトー訳。まだ続くんだな、これが。

しかし元就はよく喋るな。
さすが日常的に長くてくどい手紙を書くだけある。
まあ、軍記物はえてしてこういう書き方になるものなのかもしれんが。
それに雨にぐっしょり濡れた体で登山とは恐れ入りますね。
それでなくても重装備で大変だっつうのに。

宮の尾城建ててるんだから道を知らないとかありえないだろ、
地形の把握ができてるからこそ、ここに陶をおびき寄せたんだし。
とか言ったら野暮なんだろうなw
2011-09-09

死ぬか、勝つか

前回のあらすじ:
これから渡海しようってときに吹き荒れてきた雨風。
すっかりビビりまくる兵士たちに渇をいれ、
「昔の人だって暴風雨の中出陣して勝ってるから無問題。
 むしろ敵の油断を衝くチャンス」と、渡海を強行するリアリスト元就。

これを真似して行方不明になるバカが毎年出るんでやめてください。
という戯言はさておき、続き。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(3)

こうして元就様は包ヶ浦に到着し、小高い博打尾に登って篝火を焚かせた。
児玉周防守就方がそばから傘を差し掛けると、
元就様が握り拳で傘の柄をしたたかに打ちつけたので、
傘はどこかへ飛んでいってしまった。
冬にあって防寒具をつけず、夏には扇を持たず、
雨のときにも傘をささない将を礼将というが、まさにこのことだ。

冶部少輔元春の船は少し遅れて到着したが、
向こうの山上に火の明かりが見えるので、そばにいた二宮俊実に、
「あれは敵か味方か見て来い」とおっしゃった。
二宮は「かしこまりました」と急いで船から上がり、行ってみれば元就様だった。
隆元様はこれより先に尾崎にいた。
馳せ帰ってそのように申し伝えると、元春も急いで同所に馳せ集った。

そのとき父子三人で詮議を開き、かねてから心に決めたことなのだからと、
「厳島近辺に兵船を一艘も残してはならぬ。皆廿日市目指して漕ぎ戻せ」
と堅く命令した。
船頭たちは「承ってございます」とそれぞれ船を出し、帰っていった。
このようにして、ひたすらに、命を限りに挑み、
戦に臨むのだという姿勢を示したのだった。

もとより、強い大将の下に弱兵がいるはずもない。
吉田勢は皆、城を攻めるときは我先にと登っていき、
野戦の場合は我先にと向かっていく。
陣鐘が響けば士気を上げ、戦鼓が鳴れば喜色を顕す勇士たちだ。
大将がこれほど十死一生の合戦を決意したのを見て、
ますます奮い立ち、心を一つにした。
陶入道に挑みかかって戦死し、世間に忠死の誉れを顕し、
末代には功名を残そうと思わない者はなかった。

その昔、楚の項羽は、自軍の船を沈め釜や瓶を壊し兵舎を焼き払い、
三日分の食料を持たせて出陣した。
兵士たちは後顧の憂いなく死地に立ち、
秦の軍を大破して王離を捕らえ、蘇角を討ち取ることができた。
まるでこの故事を再現しているかのようである。

そうしていると、小さな牡鹿が一匹、林の中から出てきて元就様父子の前に現れた。
これを見た元就様は、
「いまここに来た小男鹿は、きっと明神が我らの迎えに差し向けてくださったのだろう。
 明神の加護があるのは間違いない。
 今度の合戦、必ず勝利は我らの手の内にあるぞ」とおっしゃった。
隆元様、元春様も
「まこと、この島の明神が我らの旗上にいらして
 神助を垂れてくださる瑞相、明らかですな。
 こちらの勝利は暗に知れております」
と大いに喜んだ。


以上、テキトー訳。まだまだ続くよ!

ふーん。天候悪化でビビってたのに「弱兵」じゃないんだ。
「べ、べつに雷とかが怖いわけじゃないんだからね!
 戦で死ぬなら文句はないけど、
 水死なんてかっこ悪いから、嫌がってただけなんだからね!」
みたいなフォロー入ってたから、筋は通ってんのか。

不思議と雨の中で煌々と燃え続ける篝火。
そして差し出された傘を打ち払って、あえて雨に打たれる漢、毛利元就。
もう還暦近いんだから自愛なさってください。
父上大スキーな隆元が泣いちゃうよ。
そうそう、雨に濡れた隆元はぜひとも私にくださ(ry

てゆーか。
乗ってきた船みんな帰しちゃうとか、バカカッコイイな!
こうなったら、陶を打ち滅ぼしたうえで船を奪って帰るしかない。
他には、死んで厳島の土になるくらいしか選択肢がない。
まさに背水の陣、デッドオアビクトリー。
にしては余裕ブチかましてるんでなんかムカつくけれども。

しかし九月末だから秋真っ盛りか。紅葉がキレイなんだろうなー。
宮島の鹿の大軍に熱烈キッスをしに行きたくなった。

ところで隆景はドコ行ったの?てぇのは、近く明らかになる。ハズ。
2011-09-08

進め、ものども

前回のあらすじ:
陶の大軍をまんまと厳島におびき寄せた元就は、
いよいよ厳島へ進軍するというとき、
「半日でケリつけよう。でも一応三日分の食料は持っていってね」と
ツアーガイドよろしく自らマネキンのように糧食袋を腰に下げて見せたのだった。

昨夜書き忘れてたけど、合印や合言葉って、なんかかわいいな。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(2)

その日の夕方六時ごろに兵士が皆船に乗って準備していたところに、
俄かに黒雲が空を覆って、北東の方向からしきりに風が吹いてきた。
木を折り、屋根を鳴らし、小石を巻き上げた。
盆をひっくり返したように雨が降り、稲妻が天地を轟かせ、
波の花が雪のように舞っているので、船頭ですら
「こんな風の強いときに舟を出すなんてとんでもない。
 風が少しでも収まるのを今しばらく待たせてください」と言い出した。
また兵たちは
「さっきまで静かだった天候がこうも急に荒れだしたのは、
 きっとただごとではない。天から戦の凶兆を示されたのだろう。
 今回の合戦、味方は勝利すまいぞ」
などと、仲間同士で耳打ちし合っていた。

元就様は船頭たちの申し入れを聞いて、
「逆風ならばもっと穏やかなな風でも舟を出せないだろうが、これは追い風だぞ。
 矢のように船が進むはずだ。
 この雨こそが大勝利を得る瑞相なのだ。
 陶は、我が軍がこの悪天候の中をよもや渡ってくるはずもないと油断して、
 枕を高くしてすっかり眠ってしまっているに違いない。
 敵の裏をかいて押し渡り、決死の覚悟で戦に臨めば、
 我々が少数だろうと、必ず敵の大軍を破ることができる。
 大風甚雨は、前を打ち後ろを開くものだという。
 いい例えがある。
 周の武王が騎兵したとき、牧の野に差し掛かって、
 雷神に遭遇して旗鼓が壊れてしまった。それでもついには紂王を滅ぼした。
 また源義経が渡辺神崎から四国へ押し渡ろうとしたとき、
 大風がしきりに吹いたけれども、これを気にせず舟を押し出し、
 しまいには平家を滅ぼしてしまった。
 これを思えば今の風雨は昔の例えにもまして吉兆だと言えよう。
 向こうが備えのないうちに攻め、不意をつくにはこういうときしかないぞ。

 進め、ものども。

 まず我の本船の艫綱を解いて押し出すのだ」
と命令すると、誰一人残ることなく、皆我先にと舟を押し出していった。
兵というものは、敵に対峙して死んでこそ生前の思い出となり、死後の面目も立つものだ。
今海中に沈んで魚の腹の中に葬られては悔しくてたまらない、と思わないものはなかった。

これは九月末日のこと。
左右もわからず眼を刺されてもわからないほどの闇夜であり、
雨風は甚だしく、海面は衾を張ったように光が満ち、
雷がひらめき落ちてきそうな気配がして、
陶軍は、まさかこんな宵に敵が渡ってくるとは思いも寄らないでいた。
一体どうしたことか、夥しい数の水くらげが光を放つので、
陶入道(晴賢)や陣から出てきた外回りの者たちは
「これはただごとではない、海にいらっしゃる神の祟りか、
 それとも弥山にいるという三鬼坊、追張鬼・時媚鬼・摩羅鬼という名の
 大天狗が暴れていらっしゃるのか」
と恐れおののき、皆陣に帰ってしまったので、
敵船が一度に漕ぎ渡ってくる櫓拍子、舵音、水夫たちの大声も、
雷にまぎれて聞こえていなかった。

これはきっと厳島大明神が陶の暴悪を罰し、
元就の仁政に感じ入ってくださっているからこそ、
元就の計画を助けたのだと、後に誰もが思い知った。


以上、テキトー訳。まだ続く。

なんか戦国って神秘主義なんだか現実主義なんだかわからんな。
それらの混在したカオスっぷりが魅力の一つなのかしらん。
現代人から見ると元就はデータに基づいた分析をするリアリストで
対して陶は迷信に惑わされる時代遅れの愚者のように映るけど、
この物語の成立当時はどんな風に読んでたんだろう。
幽霊や妖怪との対決話が信じられてた時代だから、
陶に共感する人が多かったんじゃないだろうか。
さすが元就様、人智の及ばないものをも恐れない!
そこに痺れる憧れるゥ!的な感じなんだろうか。

そして、怖気づく兵たちに発破かけて
いちばんに船に乗り込むのは隆元様だと思っていた私、涙目w
逸話サイトとかで拾い読みした情報だと、
その役目は隆元なんだが。まあいいか。
ともあれ。

盛 り 上 が っ て ま い り ま し た 。
2011-09-07

血沸き肉躍る合戦、厳島の決戦!

せっかく軍記物を呼んでいるので、
隆元とか隆元とか隆元ばかりに走らず、合戦描写を読んでみよう。
ふっふっふ、これが私を戦国ファンに導いたといっても過言ではない……
厳島合戦!
陶軍二万に毛利軍四千はどう対峙するのか! ベンベンベン♪
ちゃんとまともな意味でドキドキしようと方向修正中。


毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(1)

弘治元年(天文二十四年)九月末日。
元就様は昨日、一日中合戦の計画を練り、
今日の夜に厳島に攻め渡り、明日十月一日の午前六時ごろに開戦と決まった。
皆にことごとく元就様の本陣に駆けつけるようにと知らせていると、
我も我もと集まってきたので、戦のルールを言い渡した。
皆これを聞き終えて退出しようとしているときに、
元就様が「もう少し待ってくれ」とおっしゃるので、
隊長たちが「かしこまりました」と待っていると、元就様が陣幕の内から出てきた。

装束を見ると緋縅の鎧に赤い頭飾りをつけた兜をつけ、
合印(仲間の印)に締襷を二つ巻きにして、
腰に焼飯袋、餅袋、米袋の三つを結いつけ、回って見せて、
「皆これを見てくれ。
 このように、出発してから三日分の兵糧を腰につけて、命の限り戦え。
 三日のうちには勝負がつくだろう。
 ただ、これは万一のときのための用心だ、合戦は半日のうちに勝利しよう。
 合言葉は、誰だと訊かれたら「勝」と答えよ。
 「月」と「よし」とは大内家の合言葉だぞ。
 また、人足は一人も連れて行くな。
 中間などで手が空いている者は柵の木を一本、縄を十尋(一尋=六尺)用意して持っていけ。
 そして諸軍勢の船で篝火は焚いてはならん。
 元就の本船の灯りを目印に船を進るのだ」とおっしゃった。


以上、テキトー訳。明日に続く。

長い!
どこで切っていいかわからんというか、
むしろ切らずに一気読みがふさわしいんだろうが、
今日残業で明日もたぶん残業なんで勘弁してください。
ちょっとずつがんばる。
なぜ忙しい時期にこんな重要部分を読むのかと。
もう、アホかと。バカかと。

でもこれが、明日の糧になるんだなー。
いよっし、とっとと寝てまた明日も力いっぱい仕事しよう。
2011-09-06

父上、いま参りま…あれ?

前回のあらすじ:
大友さんと戦してたところに将軍が「まあ穏便に」とか言ってきやがったから
しょうがなく和睦を結んでやった隆元は、
父・元就が出征している出雲への道を急ぐ。
途中、坊さんに挨拶したり息子を呼んで宴会開いたりするけど、
家に寄って休んだりはしていないので
一人だけ楽したことにはならないはずだ!
今お側に参りますぞ、父上!
ってところに叔母の旦那が「ウチで一杯どう?」
と言ってきたので、「おっ、いいねぇ」ってことになった。


毛利大膳太夫隆元逝去のこと(下)

こうして和智元実(誠春)の宿所に行ったところ、
大勢の人の声がして、後ろの山あたりでどっと笑い声がした。
隆元様からすれば、和智は叔母の婿なので何の用心もしておらず、
心許していたところに、大勢の声がするのでなんとも不審に思ったのか、
「あれはどういうことだ」とおっしゃると、
側に付き従っていた侍たちは、
「いや、ご心配には及びません。
 おもてなしのために元実が鹿狩を申し付けたのですが、
 矢がすぐ近くの鹿を射損じたのをああして笑っているのです」と答えた。

そして元実の館へはいると、元実はご馳走を所狭しと並べ、
金銀珠玉をちりばめ、海のものや陸のもの、珍味を取り揃えてもてなした。
隆元様も機嫌がよくなって御酒も数杯召し上がり、
とっぷりと夜がふけてきたので帰途についた。
しかし途中からいきなり腹痛が襲ってきて、かろうじてお宿に帰着して、
灸をすえたり鍼、薬など試したところ、少しは快復したが、
同四日になる明け方に、たちまち亡くなってしまわれた。
お供の人々は、こんなことになってどうしようと嘆き悲しんだけれども、
すでに事切れていたので、お薬などをお口に入れたところで、
効き目があるはずもない。

享年四十一歳、まだまだこれからという御歳でございます。
ことさら武勇が優れていただけでなく、
万民を撫育され、慈愛も深く、
実に末世の聖人ともいえる良将であったのにと、声をあげて泣き叫んだ。
隆元様がご存命のときは、武勇が世に傑出していらしただけでなく、孝行第一であった。
「父が重病に罹るならば自分の命を代わりに取ってほしい」と自筆で願文を書き、
厳島大明神の宝殿に奉納されたとか。
親不孝者で偏屈な子でさえ慈しむのが人の世の常であるのに、
このような智勇仁の徳を兼ね備えた孝行息子を失ってしまった元就様、
そのご心痛いかばかりかと、みな推量しては涙した。

ご遺体は吉田の大通院に移し葬礼を執り行った。
和智元実は、隆元様が自分の館で饗応したすぐあとに亡くなったので、
人より先にあわてて駆けつけ意気消沈していそうなものなのに、
そうではなくて、何を思ったか、
「隆元など、父・元就の戦功のおかげあってこそ
 中国の大将と人にもてはやされるのも早かったが、
 棺に入れられるのもまた早いものだな」と言った。
この言葉がやがて耳に入って、
元就様は意地悪く感じられたのではないだろうか。


以上、テキトー訳。

あれ?
隆元の命日って、旧暦で九月一日じゃなかったっけ?
というのと、
わざわざ鹿狩の一幕で不穏な空気を演出してる伏線は
いつ回収されるのかと思ってたらまったく野放しだった件。
和智の毒殺とか病死とかよりも、
鍼を打ち薬を処方した医者(?)が怪しいと思ってしまうのは
サスペンスドラマとかに毒されすぎだろうか。
そして隆元が武勇の面で賞賛されている驚き。

なんだかオラ、別の意味でドキドキしてきたぞ!

※本日、酔いもいと深くて、ちとはっちゃけ気味なり
2011-09-05

NGMSさん、何やってはるんですか

うっかり拾ってお茶フイタwww

ngms_footboal

2006ドイツ・ワールドカップ記念のアート・ポスター
天明屋 尚「蹴球之図」


どう見ても黒田長政の水牛兜です。本当にあ(ry

しっかし、インパクトあるよな、この兜は。
どうせなら馬印や旗指物も混ぜちゃうとか、
10番の人も本多忠勝のアレかぶせて大数珠巻いちゃうとか……
いや、ソレやったらゴチャゴチャしすぎるか。

サッカー興味ないので知らんかったが、秀逸すぎる。
発見したのはアンサイクロペディア「1558年ワールドカップ日本代表」。
こちらも面白すぎる。義輝将軍、ファンになっちゃった。
これだからネットはやめられない。
2011-09-05

父上、いま参ります!

隆元が大友との和睦で防州→出雲に向かう段。
死んじゃうときの話。
これは長いので二つに分けよう。
香川さん、書き方ちょいとしつこいよ! もう!
作文の時間に、一文は短くって教わらなかった?
なーんてネ。


毛利大膳太夫隆元逝去のこと(上)

隆元様は九州の戦を終えた。
しばらくは大友もおとなしくしているだろうと考え、
門司・下関・山口などの城々に兵を念入りに配置して、
自分は出雲へ行って元就様に力添えするために出発した。
安芸の厳島に聖護院(道増)が滞在していたので、寄っていくことにした。
その前に岩国永興寺へ奉請し、毛利と大友が和睦し九州の入り口が
静かになったことを祝し、饗応のあと、葦毛の馬に鞍を置いて奉納した。

同(永禄六年・1563年)七月六日、隆元様は厳島に参詣なさり、
武運長久・子孫繁栄を祈願した。
ここで准后(聖護院道増・将軍足利義輝の使者)に丁寧に別れの挨拶をする。
「近年は大友との戦で防州に駐屯していたので、
 愚父・元就にずっとお会いしておりません。
 日に日に老い、さぞお疲れが溜まっていることだろうと心配していたところに、
 将軍家の御栄光ではございますが、准后のおとりなしによって、
 大友と和睦が成立したので、父に会いに行くことができ、
 これ以上ないほど嬉しく思います。

 大友を退治できなかったのは本意ではございませんが、
 父に会えるのは喜びのきわみでございます」
と深謝した。同七日、廿日市に漕ぎ帰ってきた。

あけて八日に出立して、同九日に吉田郡山の麓に着いた。
同十日、十一歳になられた嫡男・幸鶴丸様(後の輝元)を一目見ようと、
福原貞俊をお迎えに出した。
皆が「郡山城に帰って四・五日も休息をとってから、
そのあと出雲へ向かってはどうですか」と進言すると、
「近年は九州表の戦のために防州に駐屯していて、
 長いこと元就様の尊顔を拝していない。
 ようやく大友と和睦がなったうえは、できるだけ急いで出雲へ赴き、
 元就様に拝謁するべきだ。
 一日たりとも勝手に休息して楽をすることなどできるものか。
 父はこの六・七年ほどは出雲の大敵に対峙して、
 お眠りになるにも席をお空けにならず、
 食事をなさるにも味をお忘れになるほどで、
 心身を削っていらっしゃるのに、
 子の私が一人だけ楽をするために家に帰ろうなど、
 不孝もはなはだしく、天に顔向けできない」
とおっしゃるので、多くの人は
「孝をもって天下を治めた昔の聖人・道統のような名将だなあ」
と、みな感心した。

すぐに幸鶴丸殿がおいでになったので、三献の儀式のあと、
山肴など雑然と前に並べ、夜っぴて酒宴を開き、
九州表の様子などを丁寧に語って聞かせた。
実に睦まじくしていたが、名残はいつまでも尽きないので、
父子は別れの挨拶をして、同十二日には佐々部というところに着いた。
道すがら用事もあったので、何日か逗留して、
同八月二日、舟木というところに着いた。
同三日の晩に、和智元実がもてなしをしたいと言うので、
「もちろんよろしいとも」とおっしゃった。


以上、テキトー訳。続きは明日。

えーと。
一刻も早く父上のもとにー!って言っといて、
子供呼び寄せて宴会するのはいいの?
隆元、それでいいの??
まあおかげで、死ぬ前に輝元とは会えたんだからいいのかな。

それにしても、隆元の父上大好き度はハンパねえな!
どんだけ父上恋しいんかと。これで四十歳なんだぜ。
マザコンよりファザコンのほうがドン引くけど、
隆元だと可愛く思えてしまう不思議。
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