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2011-10-31

豊前一揆前哨戦

クロカンさん男色事件に心を千々に乱しながら続きを読むんだぜ。
ちょっとググッたら「陰徳太平記」の原文も読めたので、確認してみたところ、
クロカンの広家への想いは「陰徳太平記」でも普通に書いてあった。
多少美々しく飾り立ててやわらかい表現になってはいたけどw

さてさて、ここからは黒田と吉川が一緒に戦う豊前一揆のお話。


豊前の国で一揆蜂起のことにつき岩石城没落のこと

天正十五年、秀吉公は九州の国を二つに分けて、黒田勘解由と毛利壱岐守(吉成)に与えていたが、
殿下が帰城するとあちこちで一揆が頻発して黒田や毛利の命令に従わない。
黒田勘解由自身は馬の嶽にいたが、子息の吉兵衛尉に、
叔父の黒田兵庫佐と輝元様から付け置かれた内藤少輔右衛門の合わせて二、三千騎あまりをつけて、
城井の屋形にいる宇都宮弥三郎(城井鎮房)を攻めるように差し向けた。
その城井の谷は彦山並びに求菩提寺から七里ほどあり、きわめて峻険な難所であって、
ずっと昔から落城したことがないと言い伝えられている。

地理はこのように神聖なうえ人々もまた豪傑ぞろいなので、黒田の大軍を少しも恐れず、
その難所に引き入れて、宇都宮自身が采配を振るい遮二無二にかかってくる。
黒田は当時の諸将のなかでは並び立つ者がいないほどの良将だったが、
敵を甘く見すぎたのか、深入りして戦ってしまった。
予想に反して宇都宮が決死の思いで切りかかってくるため、たちまち利を失って雑兵たちは乱れ散ってしまう。
吉兵衛尉が「なんと口惜しいことだ」と自分でも鉾を取って手を変え品を変えて防戦するも、
味方は浮き足立っている。
さらに宇都宮が鏑矢の馬印に金の簾の指物をして諸軍勢に檄を飛ばして戦うので、
さしもの黒田も最終的に押し負けて、一方を打ち破って退却した。

宇都宮が「あれを逃すな」と追ってくる。
なかでも岡橋鷲助・八幡兵介・野間源蔵・榛谷荒次郎などという一騎当千のつわものたちが
真っ先に進んで追いかけて、
黒田の猩々緋の陣羽織が遠目にも目立つので、それ目掛けて「逃がすものか」と追ってくる。

黒田がいよいよ危なくなると、小野江の小弁という者が進み出た。
小弁は十七歳で容色が極めて美しく、張緒の風流振りにも張り合うほど、
また李節推の紅顔よりもなお美しかったため、黒田勘解由もその美しさに首ったけになって寵愛を注いでいた。
小弁は艶やかであるだけでなく、心栄えも勇ましく、吉兵衛尉に向かって
「着ていらっしゃる羽織が目立つから敵が鏃をそろえて狙ってくるのです。取り替えてください」と言って、
吉兵衛尉から脱がせた陣羽織を自分の鎧の上に着て引き返す。

「我は黒田吉兵衛尉なり」と名乗り、追いすがる敵を数人斬り伏せ、
ついには無残にも野間源蔵・榛谷荒次郎に討ち取られてしまった。
こうして小野江が命を張って主人の危機を救う間に、吉兵衛尉は遠くに逃げ、
十死を逃れて一生を得ることができた。

こうしたことが大坂に伝えられると、すぐに殿下から毛利・吉川に対して、
黒田に協力して豊前の一揆を成敗するように命令が出された。
輝元様は同十月朔日(ついたち)に吉田を出発して防州山口に着陣し、
吉川蔵人頭広家様(経言を改め広家と名乗る)が雲伯の兵一万二千騎余りを率いて先陣に進み、
九州豊前の地に渡っていった。
同国の小倉の城には毛利壱岐守が在城していたが、出迎えに出て広家様に対面し、
「当国の一揆勢は岩石の城に籠城して、何につけても私の下知に背くのです。
まずあの城を攻め崩していただきたい」と言う。
「それならば」と、広家様は同二十五日に岩石の城を取り囲み、
一人も逃がさないように、柵で囲ってしまった。

折りしも北風ばかりが吹いて雪もしきりに降り注ぎ、兵たちの手は凍え身はすくんで、
弓や鉄砲も思うように撃てない。
しかし広家様は諸軍勢に檄を飛ばし、城中に向けて鉄砲を一斉に撃ちかけた。
鬨の声と銃撃の音に大地鳴動するも、城中の一揆勢は、敵の大軍と堅固な陣、
固く結いまわされた柵の木に逃げ道を失っている。
この大雪にまぎれて一戦して活路を開き、一人でも命が助かるようにしようと軍議で決定した。
最後の晩餐とばかりに好きなだけ飲み食いし、夕暮れが迫ると、二千人余りが一丸となって打ち出て行く。
どんな銀山鉄壁であろうと、必ずどこかを打ち破ろうとするその勢いは、
いかに天帝の四天王、修羅の一族であっても止めることはできないとも思えた。

先陣に進んだ一揆勢は手に手になたや薙刀を持って、柵の木をバラバラに切って打ち出ようとする。
広家様に「あの敵、一人も逃すな」と命じられた吉川勢は、
我先に討ち取ろうと柵際に殺到して散々に切り伏せる。
城中の兵たちは、退却して城中に帰れば必ず死ぬ。
敵を押し破って生きる可能性を求め、自分たちの命を助けようとしているので、
心も勇んで一歩も引かずに進んだ。
しかし敵の備えは乱れず、さらに敵兵は皆剛健で将は勇猛である。
一揆勢の願いも空しく、一人残らず討ち取られ、柵際に屍山を築いた。

広家様は「敵が打ち出てきた隙に城に乗り込め」と下知し、吉川勢が一直線に城へ攻め上がる。
そのなかでも木次孫右衛門が一番乗りを果たし、
「吉川の手勢、木次孫右衛門、一番乗り」と名乗りを上げる。
城中に残っていた一揆勢七百人余りを、ここかしこに追い詰めて討ち取った。
三村紀伊守も手勢二百ばかりで木次に続いて城に乗り込み、分捕り高名をした。
毛利壱岐守は家之子郎党に対して「自国の敵なのだから吉川勢に先を取られるな」と
兼ねてから言い含めていたが、まさか今攻め込むとは思いもよらず、
少しばかり休憩しているうちに吉川勢に先を越されてしまった。
一番に攻め込んだ吉川勢に続いて他の中国勢一万が城中に乗り込むと、
壱岐守の手勢は後陣に押し隔てられ、分捕り高名もできなかった。

やがて壱岐守が吉川広家の本陣を訪ねてきた。
「岩石城に立て籠もっていた一揆勢は乱暴者で、近隣の村の民を悩ませていました。
それだけでなく、私の命令にも背いていたものです。
それを広家殿が早速攻め滅ぼし、一人残らず討ち果たしなさったこと、
殿下に対してもっとも忠勤の至りだと、いまさら申すまでもありません。
ともかくも私の方では本望を達したと思っております。
これまではあの悪党どもを罰しようと考えてはいても、ご存知の通り、私の手勢は千騎にも満たない寡兵です。
憤りを押し殺して過ごしていましたが、ようやく積年の鬱憤を晴らすことができました」と、
壱岐守は手を合わせて喜んだ。
こうして速やかに岩石の城を攻め落とし、一揆勢をことごとく薙ぎ捨てたことを大坂に知らせた。

翌月二十六日の晩、壱岐守は自身の家城で広家様に饗応した。
酒宴がそろそろお開きになろうかというころ、壱岐守が広家様に向かって口を開いた。
「以前、私の名字は『森』という字を用いていました。
広家殿にお頼みして輝元様へ契約を取り付け、『毛利』の字に改めて同じ名字にしていただきました。
このことはひとえに広家殿のご推挙によってなしえたことですので、
御礼をしたいのですが言葉では言い表せません。
そこで、この御礼に、私もまた広家殿のご家来、香川兵部太輔の改名の契約をさせていただきとうございます。

と言いますのも、同じ仮名を持つ細川兵部太輔藤孝は以前から諸芸に通じており、
あらゆる分野で世間の人を引き離しております。また殿下が常にそばに召し置かれるほどの出世頭でもあります。
ですから、広家殿がまったく憚らず同じ仮名を家臣に許していると、殿下がお考えになるかもしれません。
香川兵部太輔の名を改められたほうがよろしいと思います」

広家様は「壱岐守殿の仰せはもっともです。おっしゃるように、
藤孝への名の憚りはもちろんございましたが、私などの召し使っている者が憚りを気にするのも、
かえって大人物を気取っているように思えて、今まではそのままにしておりました。
けれども貴殿の仰せがもっとも適切であると思いますので、どうかよろしくお取り計らいください」と答えた。
壱岐守は「それでは」と香川兵部太輔を呼び出し、盃を取り交わして「又左衛門尉」と名を改めた。

さて壱岐守は、「私が申し出たことを広家殿がご了承くださって、とても嬉しく思います。
この馬は去年六歳になって、殿下から下賜された、見ての通りの早馬です。
これを今回の喜びの印に差し上げましょう」と言って、香川に贈った。

こうして広家様がしばらく小倉に逗留していると、
小早川隆景が肥後の国の一揆征伐のためにその表に赴き、
和仁・辺春の両城を取り囲んでいるという知らせが届いた。
広家様も当国の一揆を攻め滅ぼし、肥後に駆けつけて隆景に協力しようと出立したところに、
殿下から御内書が届けられた。

  去る二十五日の書状、京都において拝見した。
  岩石城のこと、さっそく乗り崩してことごとく討ち果たしたとのことだが、
  その粉骨の働きは大変素晴らしいことである。
  寒さも厳しいのに、気を入れて在陣しているとも聞いている。また追々様子を知らせてほしい。
  (天正十五年)霜月七日     秀吉(朱印)
  吉川蔵人どのへ (吉川家文書之一-一〇八)


以上、テキトー訳。

ああ、「陰徳記」読みたいって思ってた初心に帰った気がする。
広家がウィキペディアでひどい裏切り者扱いされてて心を痛め、
「広家がヒーローな話を読みたい」って思ったからこの本買ったんだった。
誇張されてるとはいえ、こうしてひいきの武将が活躍する話を読むのは楽しいなぁ。
黒田長政も大好き。このとき一揆勢に負けたのを反省して頭を丸めたという逸話もあるが、
そりゃ真っ赤な陣羽織は目立つわw
幕末の戦争のときも、井伊の伝統ある赤備えが鉄砲隊の格好の餌食になったって話もあるし。
だいたい、信号で「止まれ」の合図に赤い色を使うのにも理由がある。
赤い色は一番遠くまで届く色だからこそ警告色たりえる。
夕暮れや朝焼けの地平線が赤く見えるのは、太陽が放つ光のなかで、赤い色だけが私たちの目に届くからだ。
まあそんなものを着てりゃ、遠くの大将に自分の活躍を見てもらえるかもしれないけど、
逆に言えば遠くの敵にも見つかりやすいってワケで。
まあ、まだ若かったし(二十歳になってない)、早めに失敗しておくのはいいことだよね。
やり直しが利くから。

そしてまた如水さんの男色話ですよ。
もうショックも消化したので普通に受け入れるけれども。
小弁はいい若者だったね。惜しい人を亡くした。
何事もなく育っていれば、長政の側近として重用されたかもしれないのに。

あいかわらず手紙を訳すのが特に苦手なわけだが、
こうして吉川家文書を引いてこれるのは「陰徳記」の強みだよな。
なにしろ著者本人が資料読み放題の家老職だもんね。
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2011-10-30

公式設定で○○×○○だと!?

調子に乗って広家(経言)が家督するところに飛んでみたよ。
今回はすげえショックなんだぜ……


経言、吉川家相続並びに隆景、筑前拝領のこと

去年元春が亡くなり、今年は元長が世を去った。
輝元・隆景をはじめとして、中国八州の士農工商にいたるまで、いったいどうしたらいいのかと嘆き合った。

吉川家の家老たちが寄り集まって
「(元春の)次男の左近元氏は備中の国の四畝の陣から病気である。
三男の民部太輔経言なら、仁智勇の三徳を兼ね備えた良将の器量がある。
元長も、経言は仁義の勇者であると常におっしゃっていたものだ。
経言に家督を譲りたいと母君にも相談されていたたが、
最期のときに今田中務・香川兵部の二人にこのことを遺言されている。
だから我々はその遺志を守り、経言を主君と仰ぐことにしよう」と、会議で一決した。

このときは宮庄太郎左衛門は熊谷新介の末子であったが、
宮庄家に養子に入って家督を相続し、まだ若年であった。
吉川式部少輔(経家)は鳥取で切腹しており、その子供たちは皆十歳程度だったので、
今田中務こそが経言の吉川家相続に関して功をなした。
もっとも、宮庄太郎左衛門なども今田と同様の考えを持っていた。
他の者に吉川家を相続させようとした者も数人いたが、その名は忘れてしまった。

経言に仇をなそうとする者はなんだかんだと文句をつけようとしたが、
今田中務・香川兵部たちが
「元長公のご遺言であるので、誰が何と言おうとも、経言のほかに誰が吉川家を相続するというのか。
異議を唱えれば眉間を真っ二つに切り破ってやるぞ」と一致団結していたので、
悪逆を企んだ輩たちは何もできなかった。

さて、まずは隆景に元長の遺言の内容を伝えねばと、香川兵部がひそかに伝えに行った。
今田・香川らは、「隆景公は経言に吉川家を相続させること、ご納得してくださるだろうか。
と言うのも、去る天正七年に石州の小笠原の家老たちが経言を婿にとって小笠原家を相続させたいということで、
少輔七郎の娘を新庄に寄越して婚礼も整ったというのに、隆景の反対があって相続の件は破談になった。
だから少輔七郎は娘も離別させて引き取ってしまった。経言はこのことをとても残念に思っている。
隆景もいささかこちらに心を閉ざしているなどという噂もある。
なんとも心もとないことだ。

また、いかに輝元・隆景が了承したとしても、秀吉公の承認を得るのに、どうしたらよいかもわからない。
とにかく黒田勘解由殿に相談してみよう。
まず黒田殿に内々に相談して、ひそかにお頼みしよう。
あの人は経言とは水魚の交わりだから、異議はあるまい」と考えた。

香川兵部太輔は人目を忍んで黒田の陣に赴き、元長の遺言の内容、そのほか家老たちの考えを詳しく語り、
「どうか経言が吉川家を相続できるように、秀吉公への取次ぎをお頼み申します。
また、内々のことでもご才覚をもって説得してくださいますよう、ひとえにお頼み存じます」と言えば、黒田は
「私も何とか経言が吉川家を相続できるようにと、強く思っている。
殿下のご承認のことはさて置き、輝元・隆景がこのことを相談してきたら、
私からも経言が家督するのがいいと言おう」と言った。

これで吉川家の家老たちは安堵し、「では、今回いろいろとお話したのは内緒のことです。
これから、このことを公にして申してきます」と、
香川兵部太輔・今田玄蕃の二人を使者として、輝元様・隆景へ元長の遺言の内容と家老たちの考えを申し上げた。
輝元様はこれを聞いて
「元長はすでに亡くなった。元氏は病気だ。経言でなければ、誰が吉川家を相続できるというのか。
ことに元長の遺言であればあれこれ言う必要もあるまい。
しかしながら秀吉公がお認めになるかどうか。
このことは黒田勘解由に相談してみよう」と言った。
隆景も、輝元が言うことに異議は唱えなかった。

やがて黒田とこのことを密談した。
黒田はこれを聞き、「経言が吉川家を相続するのが一番いいでしょう。
秀吉公のご意思としても、きっと異議はありますまい。
というのも、以前、元春・隆景から経言・秀包を大坂に差し上らせたとき、
秀吉公は私にこうおおせになりました。

『経言は普通の人間ではなく、大将として数万を任せても不足はない。
元春が近年あちこちで武威を顕しているのは道理だ。
元就は元春・隆景を先鋒として、西国に覇権を築いたという。
また元春は元長・経言を先陣として、敵を破ってきた。
わしは弓矢を取れば智も勇も元就・元春より十倍も優れているかもしれないが、
こうした良将の器を備えた子を持つということでは劣っている。
どうにかして男子を三人持って、一人には天下を譲り、
他の二人にはそれぞれ関東・関西の押さえとして置きたいものだ』

こうおっしゃって、あとは大いにお笑いになりました。
経言のことをこんな風におっしゃっていたので、少しも異論はございますまい。
私が承認を取り付けましょう」と言って、すぐに秀吉公に伝えた。

殿下から「経言が吉川家を相続すべし」との朱印状が下されたので、
経言は殿下が在陣している筑前の国箱崎に駆けつけ、吉川家督の礼を申し述べた。

このとき、輝元様は隆景並びに黒田勘解由・香川兵部太輔を呼び集め、
「経言が吉川家を相続したからには、さらに武勇のことは言うまでもなく、仁徳を施すように」と訓示した。
黒田は以前から吉川家の秀吉公への取次ぎを引き受けている縁もあり、
経言が世に類ない美少年で男色の想いを深く寄せていたので、
非常に大切に思って、万事の後見をしてくれた。

秀吉公は筑前一国と肥前の内基諱郡養父の郡を添えて小早川隆景様に与えた。
「これは吉川元春に与えて九州の押さえにするつもりだったが、元春だけでなく元長も死去してしまった。
今の経言は、智勇は親兄弟に劣らないとはいっても、まだ若年であるので、戦功を重ねてから国主にしよう。
隆景は立花城に入って九州を押さえ、昔の太宰大弐のように、すべてを取り仕切れ」と言う。
隆景は世にも優れた仁将で、勇もまた兼ね備えているので、
世間の人々は「昔の小松の内府(平重盛)、細川の武州(頼之?)などという人でも
ここまで素晴らしくはあるまい」と感嘆していた。
秀吉公も隆景の賢才を称え、このたび大国の主に据えたのだろう。ありがたいことだ。

さて、隆景は伊予の国を返上したので、二つに分けて、
加藤左馬助(嘉明)・藤堂佐渡守(高虎)に与えられた。
また筑後の国久留米六万石が毛利藤四郎秀包に与えられた。
その後、秀吉公が箱崎を引き払って、同七月十四日に大坂に帰城すると、
西海の波も穏やかになって、風雨も適切に起こる太平の世となった。


以上、テキトー訳。

待って、待ってよ。
黒官さんが男色もイケたってのは初耳なんですけど! しかも広家に懸想だと!?
なんておいし……うにゃうにゃもうたべられな(ry
ネットでいろいろ読んだ程度だが、如水さんは愛妻家でキリシタンだから側室がいないんだぞ♪
ってヤツしか見当たらなかったのに(広家と義兄弟で仲良し、ってのは見つかった)。
印刷されて巷間に流布した「陰徳太平記」にはこのことは書かれてなかったんだろうか?
もしくは書かれてても「あるあ……ねーよw」で終わったんだろうか……

あとちょっと突っ込ませてほしい。
すでに二十代半ばの男子を「美少年(原文ママ)」呼ばわりするのはアリなの?
秀吉×秀包のときには広家の容姿については完全スルーだったことはさて置くとしても、
すでにけっこう育ちきっちゃってるのに「少年」なの??
黒官と初めて会った時点で少年だったっていう解釈も可能だけど
和睦したり人質に行ったりしてる時点ですでに二十歳越えてたよね???
あーもーワカランwww

まあしかしだ。実際のところ黒官と広家が普通に仲のいい友人だったにしろ愛人だったにしろ、
少なくとも吉川家中では「黒官殿はウチの広家様に懸想してる!」と思ってたのかもしれない。
だって吉川家臣の覚書をもとにした本だからね、「陰徳記」も。
それとも「ウチの広家様ってばモテモテなんですからね!」という補強か。
モテモテの広家……何その私にドストライクな設定w
いずれにしろ、「陰徳記」自体が岩国吉川の家老が執筆したものだから、
吉川家中的な公式設定は黒官×広家でファイナルアンサーなんだろうな。
2011-10-29

広家・秀包「人質生活始めました」

我慢ができなくて下巻も拾い読み!
広家かわいいよ広家!!
今回は名前が経言だった時期の話だけど。


経言・秀包、大坂へ上りたまうこと

羽柴筑前守秀吉は惟任・柴田らの征伐を無事終え、天下を統べる武将となった。
去年(天正十年)、備中の国高松表において毛利と和睦し、
「その証として吉川・小早川から一人を差し上らせよ」と秀吉が安国寺に伝えさせてきた。
元春様は嫡子の元長様に家督を譲っている(天正十年十二月二十日)ので、
元長から弟の民部大輔経言に小坂越中宮(守)(左衛門大夫春信)・二宮杢助(佐渡守俊実)を差し添えて、
隆景は実子がないので弟の藤四郎秀包(元総)に桂民部大輔(広繁)・浦兵部丞を添え、
安国寺を案内として送った。
隆景様は備後の国の三原まで見送り、元春・元長は安芸の国隠戸の迫門まで見送った。

これは天正十一年九月下旬のことで、西から吹く秋風まで治まった御代だということだろうか、
非常に天候もよく、船路に障る波もなくて、やがて同十月二日には泉州の堺の港に到着した。
経言は賢法寺、秀包は玉蓮寺に宿をとった。
その夜、すぐに秀吉から蜂須賀彦右衛門・黒田官兵衛尉を上使として、
「遠路はるばる、ここまで上られたこと、もっとも神明の至りである。
明日の三日に登城しなさい」と言ってきた。そして翌日には大坂から送り馬数百匹が遣わされた。

さて、秀吉卿からは事前に触れが出ていた。
「わしが今天下の権勢を握ることになったのは、吉川・小早川と高松表で和平を結んだときに、
信長討ち死にの知らせが届いたにもかかわらず、
元春・隆景が盟約を守ってあの陣を引き払ってくれたからこそだ。
もしもこのときに、わしの劣勢に付け込んで追撃していれば、今こうしていることはないだろう。
これを思えば、わしが武門の棟梁となることは、ひとえにあの兄弟に表裏がなかったからである。
わしはこの恩を絶対に忘れない。
だから、自分の身がかわいと思う者は、皆この者たち(経言・秀包)の出迎えに出て馳走せよ」
大坂にいた大名・小名たちは、出遅れてなるものかと、
住吉天王寺あたりまで出迎えに出てきていて、その様子は実に豪華絢爛なものだった。

その後登城すると、蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛尉を奏者として、秀吉公が対面した(十一月一日)。
自ら出席した饗宴の後、経言・秀包に太刀やその他の引き出物の数々を贈った。
小坂・桂・浦・二宮などにも名だたる駿馬が贈られた。
同十一月に経言には暇が出されたが、今回はるばるやってきた記念にといって、経言は蔵人に任官された。
「秀包は今少しそこに置くように」と隆景から申し出があり、
秀包は容貌がとても美しかったので、秀吉も色に耽る趣味があって、「ではもう少し」と留め置いた。
秀包は翌年の尾州小牧の合戦、また紀州雑賀の合戦にも連れられ、
後年は筑後の久留米に六万石の領地を与えられて「久留米の侍従」と呼ばれるようになった。
また経言が家督すると秀吉公から同名を与えられ、「羽柴の侍従広家朝臣」というようになった。


以上、テキトー訳。

広家(経言)、名前だけしか出てこなかった……(´・ω・`)ショボーン

秀吉は敬称が「卿」なのか「公」なのかそれともつかないのか。
ハッキリせんかい!!!

しかし秀吉に男色趣味もあったとはね。女狂いのイメージはデフォだけど。
そして種ナシもデフォだけど。
もしかして秀吉が男も食ったとしているのは「陰徳記」の系譜だけかもしれない。
このとき広家22歳、秀包15歳って感じか。
まあ広家の年齢ではトウが立ってるし、秀包なら若衆として盛りの時期だわな。
……「広家はイケメン」って描写がなくても泣かないもんね!

秀吉が「人たらし」と呼ばれる所以は、呼びつけた人たち(地方の大名とか)に対して、
かなり豪勢な接待したり、他の家臣・大名に命じてその人たちを接待させたりして
財力・兵力・影響力を見せ付けてたからなんじゃないだろうか。
人質に差し出されたヒヨッ子を在坂の大名たちに命じて迎えに行かせるとか、すごいよね。
この話の五年後に初上洛した輝元も、そのちょっと前に膝を折った家康も、
この接待攻勢で牙を抜かれた印象がある。
輝元上洛のときの日記は現存していて、『秀吉の接待』という書籍で現代語訳されてる。
著者がその接待スキルをスゲースゲー言ってて面白い。
あと毛利家の相変わらず仲良しな感じとか、
黒官さんの尽くしっぷり、毛利家中からの愛されっぷりも垣間見える。
読み返したいが、他にも読みたい本いっぱいあるんだよなー。
2011-10-28

毛利家のホームドラマ配役妄想

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2011-10-27

元就様マジヒーロー

出先からアリバイ作りの仮置き。
あとで整える~

と残して投下したはいいが、整えるのが約一日後って……生活が乱れてんなぁ。
元就みたいに日の出に向かって念仏唱えたり、
隆元みたいに母親の供養のために毎晩三百回(だっけ?)念仏唱えるくらいの心の余裕が欲しいもんだ。


唐人来朝して元就朝臣の人相を見ること

永正十年(1513年)癸酉六月十八日、唐船が一艘日本に来た。
正使の了菴(桂悟)仏月(日)禅師に、大明国燕都の人相見で朱良範先生という者が
一緒に連れて行ってくれと頼み、この人も日本に来た。
また博多の正(聖)福寺や承天寺の僧たちが、あるいは入門のため、または護衛のために集まった。
薩摩の福昌寺の僧、関東の三ヶ寺、そのほかにもさまざまな叢林が修行のために馳せ集ってきて、
皆赤間が関についた。

南海道は能島・来島といった海賊たちが津々浦々に充満して、
その唐船の宝物を奪おうとてぐすねを引いていると、先んじて報告が寄せられていたので、
赤間が関から四、五百匹ほどの馬に高荷を積んで、山口へと向かった。
大内義興にしかるべき道案内を頼み、陶入道道麒(興房)が安芸の国まで送っていった。
その者たちは安芸の国の厳島神社に参詣し、それから佐藤(東)に来て、佐藤から吉田を越えて、
そこから石見路を通り、出雲から丹波路を経て都に入ろうと計画していた。

さて、吉田につくと、唐の僧、日本の僧たちは、興禅寺並びに大通院、曹洞寺にて包みを解き、草履を脱いで、
寺の構えなどをつぶさに観覧し、座具を出してきて払子を振るう。
礼の法要が終わると、点心を作って食べ、旅の疲れを癒した。
商人と人相見は吉田の市中に宿を借り、馬を休め、高荷を下ろして、旅路の愚痴をこぼしていた。
元就様がこの状況を知ると、志道太郎三郎広好・桂左衛門佐元澄、
芸陽は新庄にある西禅寺や石見は佐波の花の谷の了和尚などを引き連れて、
丹比の城から吉田に向かい、祇園坊で唐僧や人相見などに対面した。

人相見は元就様を何度もいろいろな角度から見て、ようやく後ろに下がり、
三度拝んでから硯に向かって何かを書き付け、元就様に進呈する。
元就様が二人の和尚にそれを渡して「読め」というので、僧たちはそれを受け取って読んだ。
元就様は態度を和らげて「私に訳して聞かせてくれ」と言う。

了和尚が「この書付には、唐土の明王と人相似ていると書かれています。
まず、蜂月(目)狼声というのは、秦の始皇帝のことです。
次に、而龍顔とあるのは漢の高祖、龍鳳之姿とあるのは唐の太宗文武皇帝です。
これらの明の王と似ていらっしゃいます。
ホクロも高祖に似ているとあります。高祖は左の股に七十二のホクロがあったとのこと。
お姿が美しいのも昔の偉人になぞらえててあります。
これだけでなく、病もなく長生きすることでしょう。
子は十人生まれ、子孫は繁栄し、最終的には帝王を支える師となることでしょう、
と書いてあります」と言うと、元就様は大いに喜んで、その人相見に褒美を与えた。

これは了和尚が元就様に講釈したものを伝え聞いて書き記している。
その唐人が書いたものは、今でも毛利家に秘蔵してあるので、簡単に見ることができないそうだ。
さてこの唐人の見立ては毛筋ほども外れていない。
眼光は日月両輪のように鋭く、再び目を合わせるのも恐ろしい。
声も人より大きく、実に狼の声のようだ。
言葉がハキハキしているうえに声も大きければ、兵たちに命じる声は、一軍・二軍にも響き渡るだろう。
輪郭は引き締まり、鼻は高く、二十歳ごろから生え始めたひげは左右に豊かに生い茂り、
怒ったときには一本ずつ逆立った。
これも、ひげが美しかったと言う高祖に似ているのではないだろうか。

鬢の上には大きな痣があり、心は穏やかで人を愛することにかけては古今無双だ。
情け深い人は心が広く豊かでよく人を愛するというが、まさにこういうことだろう。
また、姿にも威厳が備わっているばかりか非常に気高いので、龍鳳の姿というのも道理であると感じる。
姿に威厳があってまた美しい様を梅の花に似ていると書いたのは、張良になぞらえたのか、
張良は婦人とも見まごうばかりの美しさだったという。
昔の人の梅の詩に、
「真に何遜(かそん)が知己となるは須らく、始めて張良が婦人に似ることを信ず」とある。

また十人の子に恵まれるというのは、前述したように大膳太夫隆元様から秀包にいたるまで、
確かに十人の子に恵まれた。
子孫繁栄については、嫡孫の輝元様は従二位中納言となって清華の家(公家の家格)となった。
武家が清華となる端緒となった。

また、帝王の師となるということについては、
元就様が上洛して従四位に叙せられたときに、大江家(文章博士)の末裔だからということで、
とある子細があって、禁裏で儒教の講義をすることになったが、断ったので実現はしなかった。
従来、和漢の学問に広く通じて頭も切れる人なので、鞍馬にいる間もあれこれと文章を書き、
槊を横たえて詩を賦し(武器を持ちながら詩を作ることも忘れないこと)ていたけれども、
遠くの田舎に住む武官の身であり、雲上(宮廷)で家業でもない学問の講義などすべきではないと考えた。
そこで名家出身の博識の人に委任して、その役を務めてもらった。
これが帝王の師となるという予言に合致するかもしれない。

また、目の前に控えていた人々(人相見)は福原広俊を見て、
「大果報の相があり、子孫繁栄することでしょう」と言う。
志道広好を見て、「子孫繁栄は望めないでしょう」と言う。
また井上河内守・渡辺次郎左衛門・志道又三郎には、「剣刃の難があります」と言う。
口羽通良・桂元澄・坂たちを見て、「庶子に生まれながら嫡家より優れている相です」と言う。
結果を見ると、確かにそうなったのだから不思議なものだ。

人相見も、「このようなめでたい人にお目にかかるとはありがたい」と、趣深い句を作った。
西禅寺・花の谷なども、もとより子胆・魯直にも劣らない才能があり、
先生が韻をついで錦章繍句を延べたのを、
「先生がこの人の人相を見てひらめいたので、雅やかな清風が巻き起こった」と言って感じ入った。

その後お別れをし、彼らが上洛するというので、騎馬武者五人と弓五十張を差し添えて赤間まで送らせた。
そこで尼子伊予守が護衛を引き継ぎ、赤松の領内まで送らせて、
あとは赤松が備前から京都へ無事に送り届けたとのことだ。


以上、テキトー訳。

元就マンセーがどれだけ続くねん。
よくもまあ、これだけ歯の浮くような褒めっぷりができるもんだわw

しかし、当時の武将ってのは実際、ものすごい博識でないと務まらないよなぁ。
学問ができるって意味じゃなくて。
読み書きと兵法はもちろんのこと、領地経営と兵站を考慮すると数学は必須、
人心掌握にも長けて、情報収集・解析やときには情報操作もやって、
城や陣の造営のため、あるいは賦役にこたえるために土木知識も必要で、
武将同士の集まりでは歌も作れなきゃならないし、
格式が高いパーティーに出るなら有職故実にも通じてなきゃならんし、
いったいどれだけのスペックが要求されるんだか……
まあ、そのためにいろいろな家臣を取り揃えてるんだろうけどね。
多芸多才の筆頭みたいなのが豊臣秀吉なんだろうなぁ、と思ってみたり。
有能な家臣にも恵まれてるしね。

さて、そろそろ広家に飢えているので下巻に手を出すかもしれない。
2011-10-26

元就様マジ天才

続いて元就マンセーの章。
来たよ、苦手な和歌、というよりさらによくわからない連歌。
もう掛詞とかがオヤジレベルのダジャレにか思えなくなってきたよ!


元就朝臣元服のことにつき本卦のこと

丹比松寿丸殿は当年十五歳になったが、まだ元服をしていなかった。
それで母君から佐藤の何某とかいう者をお使いとして、京都に滞在していた興元様へ相談があった。
「松寿丸はまだ元服をしておりません。今年こそ元服させるべきでしょう。
そこで、仮名・実名を何と名乗らせたらよろしいでしょうか。
当主のご決定を仰いできてください」と言われた佐藤は、急いで吉田を出発して京都に上り、
取次の井上源三郎に委細を伝えた。

興元様はこれを聞いて、「私は少輔太郎と名乗ったので、松寿丸は少輔次郎と名乗るといい。
また、実名は『元』の字は当家の字なので言わずもがなだが、
下の字は東福寺の彭叔和尚(守仙)に相談しなさい」と言った。
佐藤はすぐに恵日山東福寺へ向かい、用向きを話して取次を求めると、吉侍者が応対してくれ、
この吉侍者を通して名乗りの下字のことと本卦(運命の吉凶を占う)のことを申し込む。
彭叔和尚はこれを聞いて、「佐藤さん、今日は宿所に帰り、後日またいらっしゃい」と言うので、
佐藤は言われたとおりにその日は帰って、翌日またその寺に赴いた。
今度は彭叔が出てきて対面がかなった。

「名乗りの下字のことは承りました。『就』の字がよろしいと思います。
また、本卦は師の卦、上六(じょうりく)に当たります。
上六とは、大君は戦争に勝って功労者を諸候に任じ、国を開いて家を興させる、
つまらぬ者はは登用してはならぬ、という卦です。
この心は、必ず名大将になられ、数ヶ国を切り従えることになるでしょう。
庶子として生まれたといっても、惣領として家を継ぐことになります。
これは本卦といい当たり所といい、大変なことでございます。
この愚僧の未来の予言はよく当たりますぞ」と言う。

佐藤がこれを聞いて帰ると、興元様が「どうであった」と問う。
「そうですなあ、師の卦といって、当たり所がよかったので、必ずや有名な武将になられ、
数ヶ国を切り従えるでしょう、ということでした。
どこへなりとも御大将として差し向けられれば、当家の戦は勝ちが続くだろうと、
和尚はおっしゃっておりました」
佐藤はそれだけ答えた。
庶子に生まれながら嫡家を継ぐだろうということをあえて言わなかったので、
興元様はたいそう喜んで、佐藤に盃と禄を与えた。

その後、佐藤は興元様にお別れを告げて吉田に戻り、委細を伝える。
母君は大喜びで、すぐに松寿丸殿の元服があり、丹比少輔次郎元就と名乗るようになった。
「私は志学の歳になるまで何もない田舎に閉じこもっている。
人知れず朽ちていく埋木のようで、悔しいものだ。
どうにかして少しでも急いで京都に上り、兄興元公の先陣を務めたいものだ」と、常々言っていた。
ようやく元服がなってこれで上洛できると思っていたところ、
母君のお許しが出ないので日々ばかりが過ぎていった。
少しの間も戦争のことが頭を離れず、他のことには興味がない様子だった。

それどころか張子房(張良)が橋の上で得たという一巻の書、呉子・孫子が伝えた道をはじめとして、
唐の兵法書を捜し求めてはこれを学び、
そのほか我が国の源頼義・義家・義経・義貞・正成といった歴代の名将の功績を追って、
武道の学問を一点の曇りなく学び極めた。

「高祖は『我は布の衣を着る平民の身で、三尺の剣を引っさげて天下を取った』と言って、
台風の詩(戦乱を巻き起こして天の曇りを払った、喜びの詩)を吟じた。
現代の武将にできないわけがあろうか。
武勇があって教養がないのは片翼を欠いた鳥のようだ。
文武を併せ持てば角を持つ虎のごとしだ。
学問は道を貫くためのもので、学ばなければ戦争の賢聖の道を見極められない。
孔子ですら『私は生まれながらにしてすべてを知っているわけではない』と言っている。
凡人であればなおさらだ。
国を治め民を撫育し、政道を尭舜(中国神話上の王たち)のころの善政に戻すには学問に勝るものはない」
といって、常々、魯論(論語)・中庸、他にも世にあるさまざまな聖賢の書を学んで、
ときどきはこれを実践した。

また、「目に見えない鬼神をも従え、猛々しい武士の心をも慰めるのに和歌に勝るものはない。
和歌の道にまったく疎いのは血の通わぬ木石と同じで、ことにこの国は神の国だ。
『大和歌』と書いて『ことば』と読むのだ。
神はお言葉を人の心の種として、万の言葉とした。
『和』はすなわちおだやかな威光のことである。
愛しあい仲良く暮らすのに、和歌ほど役に立つものはない。
日本を『大和の国』と言うのは、神の国だということを強調しているためだ。
神の国に生を受けながら和歌を詠まないのはすべての神の恵みに背いていると言っても過言ではない。
神慮に背いて、どうしてこの神国で武家として冥加を得られようか」
といって、謀略計策を練り、暇があれば敷島(和歌)の道を逍遥していた。

そのころ、防州山口に内藤内蔵助(護通)の流派の連歌の得意な人が多かったが、
こうした人がたまに芸陽に訪れるとそれを呼び寄せて、連歌の興行などを行った。
天文のころ聖護院准后(道増)が防州の山口、雲州の冨田、芸州の吉田へ下向してくると、
歌の道の師となってもらってその奥義を極め、その妙を得たので、
そのころの武家には並ぶ者のない歌の達人となっていた。

あるとき志道太郎三郎広好(良)が
「内藤内蔵助は歌道においてはその名が雲上にまでとどろいている者でございます。
内藤は常々、現在の宗匠宗祇といえども自分よりすぐれているわけがないと思い、
上洛して宗祇に接触を果たしました。
宗祇は、内藤など山口の田舎に住んでいる者が自分より優れているわけなどないと、
居丈高に思って自己防衛に徹しています。
実に井戸の底のヒキガエルとはこういう者を言うのでしょうが、やがて連歌興行がありました。
表が過ぎて裏にかかると、内蔵助が華の句を詠もうと心に決めて前句を狙っていたのを小憎らしいと思ったのか、
華前になると宗祇は『ぬき足するも心ありけり』という句を詠みました。
これでは恋の句です。
内藤の前句を『ぬかした』のは心ある華の句をと心にかけているようだから
(熟慮しすぎて遅いから?)、という意味を含んでいます。
内藤は筆を執って、吟じ上がると同時に『ぬる鳥も驚かさしの花に来て
(花の句なのに、寝る鳥=句を練る私も飛び起きるほど驚かせてくれますね?)』と付けたので、
さしもの宗祇も感嘆したとか。
そのあとまた『角ならば契らし者を中々に』という句に、内藤は『まだ葉隠れの園の青瓜』と付けました。
宗祇はこれにも感じ入ったそうです。
こうした名人の流派なので、なかには取るに足らない者もございましょうが、
そのときどきの宗匠によって言葉遣いも少しはかわるものです。
最近は宗牧・昌休の弟子などが山口、厳島に下ってきていますので、
彼らを呼び寄せて当世の流行でもお尋ねになったらいかがでしょう」と言ってきた。

元就様は「おまえの言うことは確かにもっともだが、乱れた世は武をもって治めるというではないか。
今は乱世だ。軍法の学問を重点的に学ぶべきだ。儒学や歌学はそれほど深く極めなくともよい。
その道を少し知っているだけでいいのだ」と言って、武学だけは怠らなかった。
自然と軍法は正しいものになり、号令も明確で、戦えば必ず敵を挫き、
攻めればたちまち城を落とさぬことはなかった。


以上、テキトー訳。

えーっと、元就の母君って、幼いころに亡くなってるんではなかったっけ?
元就4歳とかそのへんで。
父親の弘元も10歳くらいのときに死んでるよね。
いきなりそこをスルーですか。
作者のセンスがわからなくなってきた。

作者のセンスと言うか、これまで著者の香川さんをさんざんdisってきた気がするが、
「陰徳記」の下敷きとなってる書物があるんだよね。
「安西軍策」っていって。それも「二宮俊実覚書」とかをもとにしてるらしいし。
道理で作中に「二宮杢助(俊実)」ってのがよく出てくるはずだわ、よく考えたら。
二宮さんの覚書も、80歳くらいになってから広家にお願いされて書いたものだから
記憶が不確かでもしょうがないよね。
この二宮さんは吉川家家臣だが、元春よりも年上で、あの厳島合戦でも戦功を挙げ、
広家が秀吉のところに人質に出されたときは広家について大坂に行ってるはず。
広家は父とも思ってすごく頼りにしてたんだろうなーと思う。
うん、脱線しすぎた。

占いがヤバすぎる。この時代なら兄に殺されても仕方ないレベル。
まあこの逸話自体がでっち上げくさいが、それはそれとしよう。
すべてを興元に話さなかった佐藤何某はエライけれども、
重要な役回りなんだから何某じゃなくて名前がわからなくても無理にでもつけてあげてください。
あまりにもあんまりです (;ω;)
2011-10-25

元就マジ傑物という雰囲気でお送りします☆ミ

毛利の先祖の系譜の章なので、特に前回のあらすじということもなく。
ようやく気づいたんだが、元就が話中でけっこうな頻度で引き合いに出してくるのが
新田義貞とか源頼朝なんだよね。
軍記が武将の必須教養だからそういう昔の戦のことを持ち出すのかとばかり思ってたが、
先祖がその時代に右往左往してたから、家伝としても親しんでいたんだろうね。

さて、下段でようやく元就登場。


大江元就朝臣先祖のこと(下)

元春の子には、広房・元房・その弟麻原兵部少輔実広・中馬左馬助忠広・
福原左近将監広世・小山刑部少輔元淵、以上六人がいた。
広房・凞元・豊元・弘元までは嘉元、応仁の乱はあっても、国同士の私的な戦はなかった。

この弘元には多数の子があった。
嫡子は備中守興元・次男松寿丸・三男は少輔三郎元綱といった。
この元綱はどんな宿世の報いか、足が不自由であったので、
歩くのも思うようにいかずに、世間と交流するのも物憂くなっていった。
蛍雪の窓を閉じ、春は咲き乱れる花々を歌に詠み、夏は涼風に琴の調べを乗せ、
秋は月を眺めて心を澄まし、冬は雪を題にして詩を吟じる。
俗世間とは離れたところで月日を送っていたが、壮年にもならないうちに早く世を去ってしまった。
四男は相合四郎就勝・五男は敷名兵部丞元範といった。

松寿丸というのは、丹比の家(多治比猿掛城)を相続して丹比少輔次郎といった。
これはすなわち陸奥守元就様のことである。母は福原内蔵太夫(式部大輔広俊)の息女だった。
明応六年巳丁(三月四日)に誕生した。母があるとき重病にかかって、
昼間でも起きているのが耐えられなくなり、肘を枕に横になって少々まどろんでいた。
そのとき、夢の中で日光が懐に飛び込んでくる様子を見てからというもの、体がふっくらとしてきて、
その後懐妊していることがわかった。
ついに臨月になって、お産は安産で、世を照らし渡すほどの玉の男の子を出産した。
こうしたことから、元就様は東に向かって日輪を拝み、観経するようになったという。
老後に法名を「日頼」とつけたのも、こうしたわけがあったからだとのことだ。ま

た元就様が十一歳になったとき、どこの国から来たのかもわからない客僧が井上河内守のところに来て、
講談や説法を立て板に水を流すが如くの弁舌で披露した。
元就様はその僧に会って念仏の重要性を伝授してもらい、毎朝念仏を唱えた。
また観音菩薩を信仰しており、広大無辺な仏の慈悲が目をかけて守ってくださっているからか、
国土はまるで草が風に撫でられるように従順に元就様になびき従った。
聖徳太子が守屋(物部)の逆臣を成敗したとき、守屋が多くの兵で太子を取り囲むと、
太子は逃げようがなく榎の木のウロに隠れたという。
その榎はたちまちウロを閉じて太子を隠した。
太子が危機を脱して守屋を退治したあとに、その木を使って毘沙門天を造った。
元就様はその毘沙門天をお守りとして肌身離さず持っていたが、珍しい瑞相が多く現れたそうだ。
元就様が信心第一であったために神仏の加護が深かったためだろうか、さまざまな奇瑞もあったという。

なかでも出雲の尼子を征伐するために出陣したとき、具足櫃の上に誰が置いたともわからない、
錦の袋に入った一巻の書が一夜のうちに現れたことがあった。
元就様は早朝に起きてこれを見ると「誰が置いたのだ」と尋ねたが、誰も知っている者がいない。
世にも不思議に思ってこれを開いてみてみると、軍法軍配の奥義、真言の秘訣を記した書だった。
「これはただごとではない、きっと八幡大菩薩のお告げであろう」と、
三度押し頂いて崇めた後、櫃の奥深くに納めた。

「その昔、子房(張良)は不(下?)邳の橋の上で石公から一巻の書(太公望の兵法書)をもらい受け、
それを使って帝(劉邦)の軍師となり、強国の秦を滅ぼした。
我もまた天より一巻の兵法書を賜ったのだ。
なんとしてでも凶徒を速やかに退治し、天下の執権として大樹(将軍)の後見を務め、
政道の間違いを正し、民を苦しみから救わねばなるまい」と喜んだという。

元就様には十人の子がいる。
嫡男は大膳太夫隆元様、その次は女子で宍戸安芸守隆家の妻となった。
三番目は吉川駿河守元春、四番目は小早川左衛門佐隆景、五番目は女子で上原右衛門太夫の妻となった。
六番目は杉森少輔十郎元秋、七番目は穂田(穂井田)治部大輔元清、
八番目は毛利大膳太輔元康、九番目は天野六郎左衛門元政、十番目は藤四郎秀包である。
豆の種から麻や麦の芽が生えてこないように、いずれも世に傑出した良将であったということだ。


以上、テキトー訳。

うーんと。いきなり元就の兄弟情報・子供たちの情報が把握してたのと違って混乱。
ウィキペディアによると
【兄弟】興元、元就、北就勝、相合元網、見付元氏、女(武田氏室)
【子供】隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、
    末次元康、秀包、二宮就辰、女(夭折)、五龍局(宍戸隆家室)
まあウィキペディアも信頼できる情報かっていうとアレだけどな。
二宮あたりは隠し子だから数に入れてないのはいいとしても。
元綱とかはお家騒動とかにも絡んでくるはずだから、ここで間違えてると辻褄があわなくなるで、しかし。
ていうかこのあたりは間違えようがないと思うんだけど、どうなんだろう。

まあいい。
瑞兆だの何だの絡めてくるのはお約束だね。
具足櫃の上に兵法書が置いてあったとかいうくだりは、「元就、ボケたの?」と言いたくなるなw
自分で置いといて忘れたんと違うんかい、って誰か突っ込めばいいのに!
それとも、アレかね。戦国武将がよくやったという自作自演なのかね。
「縁起がいいぜ! この戦、勝つと決まったようなもんだぜ!」って雰囲気を演出して
兵の士気を高めるというテクニックなのかね。
この時代の奇跡だとか瑞兆なんてもののほとんどが自作自演なんじゃないかと疑ってみたりw
2011-10-24

毛利の先祖について

なんか目次を作ってみると、最初の方を全然読んでないことに気づいたので、最初の方を。
一番最初とか序文とかは、けっこう美辞麗句で飾り立ててあって訳すのには手ごわい。
そこで、なんとなく毛利の先祖の話。


大江元就朝臣先祖のこと(上)

毛利陸奥守贈三位大江元就朝臣と言う人がいる。
勇気・智謀が人より優れているだけでなく、仁徳愛和も世に類ないほど優れていて、
最終的には、永禄年中に山陽・山陰十三州を統べる武将となった。
その武威は世の中にとどろき渡り、武名は後世でも輝いている。

その先祖をたどっとみると、第五十一代天皇、平城天皇の第二皇子、阿保親王の第二十六代の後胤となる。
その親王の御子には本主・音人・千古・維時・重光・匡衡・挙周・成衡・匡房・
維順・維光・広元にいたるまで、和漢両朝の才能に富んでいた。
そのなかでも広元の才能は抜群だった。
治承という時代に源頼朝公が院宣を賜り、東の八ヶ国を打ち従えて上洛をしようとしたときに、
「頭の切れる臣下を関東に遣わしてください」と後白河法皇に上奏したところ、
この因幡守広元と斉院次官親能が鎌倉へ差し下された。
そして親能は範頼・義経に付き従って四国・九州の戦場に赴いた。
また、広元は頼朝卿のそばに侍って国家の政道を司った。

その後、頼朝卿は平家を追討して征夷大将軍に任官され、
広元は後見として世を治め、民を撫育することになった。
そして頼朝卿が没する(正治元年正月十三日)と、頼家・実朝に仕え、
その後の和田合戦・承久の乱のときも、広元が謀を帷幄のなかにめぐらし、武家一統の世を作り上げた。
将軍三代に仕え、頼経の後見もした。
老いてからは仏門に入り、覚阿と称して、ついに七十八歳にして、
元仁二年(嘉禄元年)乙酉六月十日に死去した。

長男の民部親広入道蓮阿は、承久の乱のときに流罪となった。
京都の守護正四位時広は、鎌倉の評定衆に列したが、西明寺(北条)時頼のとき、
謀反を企てた三浦若狭前司の秦氏と時広は深く朋友の契りを交わしていたために、
秦氏と共に籠もって討ち死にした(宝治合戦)。
これによって子息(季光の子)宗光(経光)は鎌倉を追い出され、越後の国でわずか三千貫を給与された。
その弟は河内の国で千貫を手当された。

宗光の嫡男、季光・経光・時親・真親・親茂・師親までは越後に在国していた。
その後、元弘の乱のとき、真親入道了禅・子息親茂・嫡孫師親・
その弟の坂宮内少輔匡時・有富越後守直衡は、(新田)越後守義顕の手勢に属し、忠戦を果たす。
その後の義貞と尊氏の合戦のとき、義貞・義顕は北国で討ち死にしてしまったので、
越後の国は高越後守師泰が尊氏から賜った。
貞親・親茂は、匡時・直衡らを引き連れて宮廷方に属した。
このとき師親一人が将軍方に従い、観応元年に石見の国佐波善四郎直冬の傘下となった。

越後守退治として馳せ下るとき、師親は師泰の軍に属し、
毛利少輔太郎と名乗って江の川を一番に渡って青杉・丸尾・鼓の崎の三城を攻め落とした。
この勲功により、安芸の国吉田の三千貫の土地を賜って、それから芸陽に住むようになった。

その後、師直・師泰は趙高・禄山ほどにも驕りたかぶってやがて誅殺されてしまったので、
次は山名伊豆守時氏の傘下に入り、師親の名を改めて元春と名乗った。
五番目の弟が一人、元春に味方した。
その後、貞親・親茂が死去した後、元春は二人の弟と和解して、弟たちも越後の国から吉田へとやってきた。
その後、将軍義詮が逝去すると、御子の鹿園院義満卿のときに、嘉慶・康応のころ、
後醍醐天皇の末の皇子が一人、肥後の菊池を呼び寄せ、将軍の宮と称して筑紫の二島を打ち従えた。
菊池を成敗するために義満卿が九州に向けて出陣すると、山陽道・山陰道の兵たちは思い思いに付き従う。

このとき、菊池は長門の国府に陣を張っていたが、
搦め手の合戦で負けて敵が九州に乱入してきたと知ると引き返し、九州の地で何度も合戦に及んだ。
しかし天下を相手にしては多勢に無勢でかなうわけもなく、
最終的には和睦して肥後一国を領すのみとなり、残りの八国は将軍の手に渡った。

このとき、元春は将軍の方に属しており、
元春が九州に下った隙をうかがって、弟の匡時・直衡は宮方について吉田三千貫を横領した。
このせいで元春は九州在陣中に本国からの兵站の運搬が滞って難儀した。
しかしどうにか、京都に保有していた二箇所の屋敷を赤松に売却し、
また河内の千貫の所領を頼みとして、九州に在陣し続けた。
そして帰陣すると、弟二人の命だけは奪わなかったものの、所領などは没収した。
坂・有富の先祖はこれである。


以上、テキトー訳。続く。

うーん、天皇の血筋にまでさかのぼるか。ハンパねぇな。
しかし親王の名前がちょっとアレだね、阿保親王……
そんでもって大江広元。なんか教科書で目にしたことがある気がする。

毛利は苗字で、姓が大江だ、ということらしいが、混乱するなー。
まあ、国民皆姓ですべての人が一つのファミリーネームを持っている現代人の感覚ではわからん。
しかしこういう制度になったのも明治時代からで、姓と苗字が分かれていた時代の方が長いんだよね。
私の理解では、姓=天皇から賜ったもの、苗字=勝手に名乗っていいもの、という感じ。
一人が天皇から姓を賜り、その子孫が受け継ぐことで、繁殖に伴い人数も増えていく。
いろいろな地域に広がっていく。
そうなると、「大江」とかいっても、どこの「大江」か判別がつかない。
そこで、「毛利(森の庄)の大江」を名乗り、やがて姓を用いるのは公式書類のみで、
他は苗字で通すようになったということらしい。
余談だけど「毛利」も最初は「もうり」でなく「もり」と読んでたらしいね。
簡単な見分け方は、「藤原(ふじわらの)」「源(みなもとの)」「平(たいらの)」というように、
「~の」という読み方をするのが姓、しないのが苗字だとか。

さらに余談なんだが、うちの先祖、仙台伊達藩の家臣の家臣だったらしい。
父方とはあまり交流がないし、興味もなかったので最近まで知らなかったが。
何かの拍子で父親に「うちの先祖って農民でしょ?」と聞いたら、
「いや~、それが武士だったらしいよ、下級だけど」と返ってきたのでビビッたw
それでかな、うちの家紋、伊達政宗の使ってた「竹に雀」の、竹の部分が似てる。
中央部はまったく違う意匠が入ってるわけだが、ゴチャゴチャしてて実はあんまり好きじゃない。
正直、伊達政宗もそれほど好きじゃないので、縁があるといわれても正直微妙だよ!
2011-10-23

和智粛清

今日は久々にプロレス観てきた。
両国国技館の全日本。イヤもう最高。
アジア・タッグマッチ選手権試合があって、大日本プロレスから参戦した関本・岡林組に激しく燃えた。
二人同時のアルゼンチンバックブリーカーとか、
二人とも体格いいからダブルラリアットとかも見ごたえあったなー。
私は技のなかでは逆水平が大好きなわけだが、岡林の逆水平は最高だった。
前観たときも思ったけど、ああ、また観たい……

そんなわけで、今の状態として心は軍記物から離れているけど、
出かける前に書いてあった章を。
どうせ昨日の続きじゃけん。


和智湯谷のこと

吉川駿河守元春・吉川治部少輔元長・小早川左衛門佐隆景は伊予一国を切り従え、
同四月(五月)初旬に兵船の艫綱を解いて五々島(興居島)に着いた。
元就様から平佐藤右衛門尉(就之)・長井右衛門太夫(元為)の二人が使者として遣わされてきた。
「このたびは、伊予をわずか六十日で討伐されたこと、とりわけ敵の大将豊綱を捕虜にされましたこと、
いまさらのことではありますが、両将の詭計謀略がきわめて優れていたからこそと、
元就様は大変お喜びでございます。
さて、また和智(誠春)・湯谷(新三郎)兄弟を誅殺するようにとの仰せがございました」

両将は評定を開いた。
「和智・湯谷の兄弟の首を刎ねるべしとの仰せは、たしかにもっともなことです。
しかしながら、今回はまず、誅罰のことはお許しになるべきです。
今、伊予が平定されて諸軍勢が安堵に胸を撫で下ろしているときに、
また和智兄弟の首を刎ねてしまえば、人々は皆どうしてこんなことになったのかと、
自分の身も危なく感じてこちらを疑ってくることでしょう。そうではないですか。
今回は是非とも思いとどまってください。
特に九州との戦争を目前に、諸氏の疑心を深め、和を乱しては戦利など望めません。
よって、とりあえずはお許しくださいますよう」と、両使にもう一人差し添えて元就様に申し上げた。

すると元就様もそれももっともだと考えたのだろう。
当座は死罪とはせずに、厳島の押さえに留め置かれた佐武越後守・児玉肥前守の二人に和智兄弟を預け置いた。

それからしばらくして、和智隆実(誠春)は何を思ったのか、
焼草を持ち込んで神前に立てこもり、討手が来たならばすぐにこの神社を焼き払ってしまおうと企んだ。
佐武・児玉はこのことをすぐに吉田に注進する。
元就様は、近習として召し使っている熊谷右衛門尉に、
あの島に渡って和智を討ち滅ぼすようにと、その方策を言い含めた。

熊谷はすぐに厳島に渡り、社殿の回廊に忍び込むと、和智の出入りするときを見計らって組みかかる。
力自慢の熊谷はそれほど苦労もせずに回廊まで引きずり出し、
元就様の上意であることを詳細に言い渡してこれを刺し殺した(永禄十二年正月二十四日)。
熊谷の働きは極めてすばらしいと、世間の人々は皆賞賛した。

和智もそれなりの勇士なので、熊谷にこうも易々と討たれてしまうのは信じがたいが、
宝殿を焼き払おうとした悪逆によってたちまち神罰をこうむり、
たちどころにさしたる抵抗もできずに討たれてしまったのだろう。
これまでの武名を傷つけただけでなく、死後においても獄卒の鉄棒で打ち据えられ、
永く八大地獄の底に沈んで苦しみ続けることになるだろう。

桜山入道が一宮の社壇を焼かせたこと
(南北朝時代に後醍醐天皇に味方した桜山茲俊が、敗色濃厚になり、吉備津神社に火をつけ自刃した)
と似ているといえば似ているが、今回の事件はまったく異なっていて、善悪のめんで雲泥の開きがある。
弟の湯谷は道理を説いてなだめると立てこもりを解いて出てきたので、その延べた首を切り落とした。
その郎党三人も首を刎ねた。

その後、和智兄弟は怨霊となって人々を悩ませたので、
厳島の者たちが怨霊を鎮めるために社壇を一宇建立し、神と崇めたという。

和智兄弟の穢れを払うために厳島神社を作り改めることになり、
遷宮のために吉田殿(兼右)が下向してきて、その儀式を厳重に執り行った。
元就様からは名代として桂左衛門尉(元重)が参詣し、さまざまな宝物の数々を奉納した。
さながら、宝の山が社殿の前で動き出したかと見まごうばかりだったという。


以上、テキトー訳。

隆元殺しの容疑者、和智さん粛清の巻き。
とはいっても、毒殺の証拠もないので、何が直接の罪状だったのかイマイチ不明。
しかし、誅殺が度重なると、そりゃみんな不安になるよな。
自分はいつ殺されるんだろうか、ってな。
いきなり殺さずに、離れたところに幽閉しておいて、自爆してくれるのを待ったのはよかった。
元春、隆景、GJ!

熊谷新右衛門さん、強くてかっこいい。
なんつうか、ここんちは小姓てのがあんまり出てこない印象だな。
今回も近習だし。小姓と近習の違いっていったい何なんだろうか。年齢?
仕事内容としては、殿の警護と身の回りの世話ってところなんだろうけれど。
あとは秘書役か。こういう人たちの日常生活とかも激しく興味を惹かれるなぁ。
2011-10-23

『陰徳記』 上巻 目次

下巻の目次はこちら

※リンクのない章は未読
※訳文は知識不足の人間が手がけているため信用度が低いので要注意
※原文は米原正義校訂『陰徳記』(マツノ書店、1996年)による



●巻第一
 1-1 恵林院殿、都落ちのこと
 1-2 恵林院殿、四国を従え防州に赴くこと
 1-3 恵林院殿、大内義興を頼みたまうこと
 1-4 義稙卿ご上洛のことにつき人麻呂塚合戦のこと
 1-5 東寺合戦のことにつき西国勢敗北のこと
 1-6 舟岡山合戦のことにつき義澄卿討たれたまうこと
 1-7 義稙卿、右大臣に成られること
 1-8 尼子伊予守、陰謀のこと


●巻第二
 2-1 大江元就朝臣、先祖のこと
  2-1-1 大江元就朝臣、先祖のこと(上)[2011-10-24]
  2-1-2 大江元就朝臣、先祖のこと(下)[2011-10-25]
 2-2 元就朝臣、元服につき本卦のこと[2011-10-26]
 2-3 唐人来たりて元就朝臣の人相を見ること[2011-10-27]
 2-4 武田検非違使元繁、芸陽に下向のこと
 2-5 武田、有田の城を取り囲むにつき吉川高橋同城を論ずこと
 2-6 志道広好、元就後詰を引くこと


●巻第三
 3-1 元就朝臣、武田勢と初度合戦のこと
 3-2 有田中井手合戦につき熊井(谷)元直討ち死にのこと
 3-3 有田合戦につき武田元繁討ち死にのこと
 3-4 香川己斐討ち死にのこと


●巻第四
 4-1 元繁御台、銀山に入りたまうこと
 4-2 上野民部、吉田に下向のこと
 4-3 両御所御和睦につき尼子経久安世城を攻めること
 4-4 尼子先祖のこと
 4-5 経久立身のこと
 4-6 経久、三沢に方便のこと


●巻第五
 5-1 大内義興下向のこと
 5-2 毛利備中守興元逝去のこと
 5-3 高橋大九郎討ち死にのこと
 5-4 青屋城攻めのこと
 5-5 安芸の国西条鏡山没落のこと
 5-6 幸松丸殿早世のことにつき元就朝臣毛利家家督のこと
 5-7 相合上総介殿謀反につき生害のこと
 5-8 桂広澄自害のこと
 5-9 大内銀山桜尾の両城取り巻きのことにつき次休蔵のこと


●巻第六
 6-1 根の坂の上合戦のこと
 6-2 武田光和合戦のこと
 6-3 尼子勢銀山後詰につき合戦のこと
 6-4 元就朝臣夜討ちのこと
 6-5 大内勢敗軍のこと
 6-6 義興、廿日市表敗軍のこと


●巻第七
 7-1 大内・龍蔵(造)寺、和睦のこと並びに義興石州発向のこと
 7-2 浜田合戦のこと
 7-3 尼子敗軍のことにつき義興逝去のこと並びに歌事
 7-4 大内先祖のこと
 7-5 元就朝臣上洛のこと
 7-6 熊谷兵庫助山中を討つこと
 7-7 武田・熊谷、半ば不和のこと


●巻第八
 8-1 経久と興久、不快のこと
 8-2 亀井、経久へ最後の暇乞いのこと
 8-3 佐田の城没落のこと
 8-4 塩冶末次の城合戦のこと
 8-5 塩冶備後へ落ちらるることにつき米原討ち死にのこと


●巻第九
 9-1 横川合戦のこと
 9-2 武田太郎判官光和逝去のこと
 9-3 武田衆評定のこと
 9-4 八木の小城を攻めることにつき武田衆分散のこと
 9-5 若狭の武田のこと


●巻第十
 10-1 塩冶宮内太輔興久自害のこと
 10-2 塩冶興久化け物を切ること
  10-2-1 塩冶興久化け物を切ること(上)[2011-09-30]
  10-2-2 塩冶興久化け物を切ること(下)[2011-10-01]
 10-3 備後国宮城合戦のこと
 10-4 備後国高之山の城降参のこと
 10-5 元就様、義隆卿と一味のこと
 10-6 尼子民部太輔晴久吉田発向の評定のこと
 10-7 伯州大山明神の御こと
 10-8 武田刑部少輔、晴久に頼むこと
 10-9 岩屋の城合戦のこと

●巻第十一
 11-1 晴久吉田発向のこと
 11-2 太郎丸ならびに池内、合戦につき湯原弥次郎討ち死にのこと
 11-3 遺分合戦のこと
 11-4 大田口合戦のこと
 11-5 風越山宮崎合戦のこと
 11-6 琢亜弥討ち死にのこと

●巻第十二
 12-1 山名蜂起により国久伯州へ越されること
 12-2 伯集橋津川合戦につき尼子兵部太輔討ち死にならびに武田山城守最後のこと
 12-3 南条吉田合戦のこと
 12-4 南条小鴨を討つこと
 12-5 土取場合戦のこと
 12-6 吉川高尾黒正、宮崎へ陣を寄せること

●巻第十三
 13-1 大内勢後詰のことにつき宮崎合戦のこと
 13-2 青三猪山合戦につき尼子下野守討ち死にのこと
 13-3 尼子民部大輔敗軍のこと
 13-4 佐藤銀山しろ並びに廿日市桜尾城没落のこと


●巻第十四
 14-1 大内太宰大弐義隆卿出雲へ発向会議のこと
 14-2 尼子経久逝去並びに義隆卿出雲発向のこと
 14-3 熊谷平蔵直続討ち死にのこと
 14-4 赤穴の城明退くこと
 14-5 冨田菅之谷蓮池合戦のこと
 14-6 金尾の洞光寺合戦のこと
 14-7 冨田川合戦のこと


●巻第十五
 15-1 備雲石の武士心替えのこと
 15-2 大内太宰大弐義隆卿敗軍のことにつき周防介最後のこと
 15-3 小早川正平討ち死にのこと
 15-4 河津民部左衛門尉討ち死にのこと


●巻第十六
 16-1 尼子晴久石州へ発向のこと
 16-2 尼子因幡へ発向のこと
 16-3 牛尾卯山合戦評定のこと
 16-4 備後の国府野合戦のこと
 16-5 尼子紀伊守父子三人、備作の城を攻めたまうこと


●巻第十七
 17-1 隆景朝臣、小早川家相続のこと[2013-02-24]
 17-2 吉川治部少輔興経、家老と不和のこと
  17-2-1 吉川治部少輔興経、家老と不和のこと(上)[2011-09-26]
  17-2-2 吉川治部少輔興経、家老と不和のこと(下)[2011-09-27]
 17-3 少輔次郎元春、熊谷信直息女と嫁娶りのこと[2011-09-25]
 17-4 少輔次郎元春、吉川家相続のこと[2011-09-28]
 17-5 備後国の神辺城合戦のこと[2013-02-26]
 17-6 元就様父子、山口に向かうこと[2011-09-04]
 17-7 内藤興盛、毛利隆元との婚礼が整うこと[2011-09-04]
 17-8 平賀・杉原合戦のこと[2013-02-27]
 17-9 右馬頭元就帰城につき深野入道未来識言のこと[2013-02-28]
 17-10 紹?数寄並びに観世宗摂閑寺小町の能のこと[2013-03-01]


●巻第十八
 18-1 義隆卿、諸道の淵源を究めること[2013-03-02]
 18-2 冷泉判官隆豊諫言のこと
  18-2-1 冷泉判官隆豊諫言のこと(上)[2013-03-03]
  18-2-2 冷泉判官隆豊諫言のこと(下)[2013-03-05]
 18-3 手島内蔵丞のこと[2013-03-07]
 18-4 興経弓馬の噂のこと[2013-03-08]
 18-5 興経最後のこと
  18-5-1 興経最後のこと(上)[2013-03-09]
  18-5-2 興経最後のこと(下)[2013-03-10]
 18-6 手嶋兄弟最後のこと[2013-03-11]


●巻第十九
 19-1 備後の国神辺の城没落、付けたり目黒最後のこと[2013-03-12]
 19-2 冷泉判官隆豊諫諍のこと
  19-2-1 冷泉判官隆豊諫諍のこと(上)[2013-03-13]
  19-2-2 冷泉判官隆豊諫諍のこと(下)[2013-03-16]
 19-3 陶・相良不快のこと
  19-3-1 陶・相良不快のこと(上)[2013-03-17]
  19-3-2 陶・相良不快のこと(下)[2013-03-19]
 19-4 久村玄蕃允誅せらること[2013-03-20]
 19-5 安芸の国厳島千句のこと[2013-03-21]


●巻第廿
 20-1 相良遠江守、山口を落ちること[2013-03-23]
 20-2 山口、物の怪のこと[2013-03-24]
 20-3 陶隆房、陰謀の評定のこと[2013-03-26]
 20-4 陶隠居、付けたり冷泉諫言のこと[2013-03-27]
 20-5 元就と隆房、一味のこと[2013-03-28]
 20-6 冷泉夜討ち会議のこと[2013-03-29]


●巻第廿一
 21-1 安芸の国頭崎の城明退くこと[2013-03-30]
 21-2 義隆卿、山口没落のこと
  21-2-1 義隆卿、山口没落のこと(上)[2013-03-31]
  21-2-2 義隆卿、山口没落のこと(下)[2013-04-01]
 21-3 義隆卿法泉寺に落つこと[2013-04-02]
 21-4 義隆卿難風に遭いたまうこと、並びに公家衆最後のこと[2013-04-03]
 21-5 義隆卿自害並びに大寧寺炎焼のこと[2013-04-05]
 21-6 三位中将・大内新介最後のこと[2013-04-07]
 21-7 安芸西条槌山の城没落のこと
  21-7-1 安芸西条槌山の城没落のこと(上)[2013-04-08]
  21-7-2 安芸西条槌山の城没落のこと(下)[2013-04-09]


●巻第廿二
 22-1 陶入道、杉重政を討つこと
  22-1-1 陶入道、杉重政を討つこと(上)[2013-04-10]
  22-1-2 陶入道、杉重政を討つこと(下)[2013-04-12]
 22-2 備後の国志川滝山没落のこと[2013-04-12]
 22-3 山口興廃のこと
  22-3-1 山口興廃のこと(上)[2013-04-13]
  22-3-2 山口興廃のこと(下)[2013-04-14]
 22-4 陶兵庫入道、嫡子次郎を殺すこと
 22-5 左京太夫山口入りのこと
 22-6 長州深川大寧寺のこと


●巻第廿三
 23-1 備後の国泉合戦のこと
 23-2 毛利・平賀座敷論並びに祝の城没落のこと
 23-3 三村、毛利家に属すこと並びに猿掛城合戦のこと
 23-4 三村・穂田重而合戦のこと


●巻第廿四
 24-1 尼子晴久、播州に働くことにつき高田合戦のこと
 24-2 浦上敗軍のこと並びに刀田太子堂合戦のこと
 24-3 井上一党誅戮のこと
 24-4 尼子晴久新宮党を殺すこと
 24-5 尼子吏部の子息両人生害のこと


●巻第廿五
 25-1 毛利・陶、手切れのこと
 25-2 吉見頼信、陶道麒と刺し違えること
 25-3 正頼吉見家相続のこと
 25-4 江良丹後守吉田へ来ること
 25-5 嘉年の城没落並びに陶津和野へ発向のこと
 25-6 元就朝臣神領へ打ち出したまうこと
 25-7 安芸の国銀山小城桜尾の城明退くこと
 25-8 宮川甲斐守芸陽に上ること
 25-9 安芸の国廿日市折敷畑合戦のこと
 25-10 神領明石合戦のこと


●巻第廿六
 26-1 石州長安の城明退くこと並びに大田懸の橋合戦のこと
 26-2 野間隆実降参のこと
 26-3 陶、吉見と和睦のこと
 26-4 元就朝臣佐西郡に討ち入りたまうこと
 26-5 江良丹後守、陶入道へ諫言のこと
 26-6 深野入道、陶へ異見のこと
 26-7 江良丹後守生害のこと
 26-8 三浦越中守仁保島合戦のこと(本文なし)


●巻第廿七
 27-1 元就、厳島の城を築きたまうこと
 27-2 三浦越中守、仁保島合戦のこと
 27-3 陶入道、厳島渡海の評定のこと


●巻第廿八
 28-1 陶尾張入道厳島へ押し渡られること
 28-2 陶入道、厳島の城を囲むこと並びに元就朝臣後詰のこと
 28-3 能嶋久留島、元就と一味のことにつき弘中三河守軍評定のこと
 28-4 厳島の城後詰の軍評定のこと


●巻第廿九
 29-1 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと
  29-1-1 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(1)[2011-09-07]
  29-1-2 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(2)[2011-09-08]
  29-1-3 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(3)[2011-09-09]
  29-1-4 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(4)[2011-09-10]
  29-1-5 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(5)[2011-09-11]
  29-1-6 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(6)[2011-09-11]
  29-1-7 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(7)[2011-09-12]
  29-1-8 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(8)[2011-09-13]
  29-1-9 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(9)[2011-09-14]
  29-1-10 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(10)[2011-09-15]
  29-1-11 毛利右馬頭元就、厳島へ攻め渡り同所で合戦のこと(11)[2011-09-16]
 29-2 弘中三河守父子竜の馬場に上ること
  29-2-1 弘中三河守父子竜の馬場に上ること(上)[2011-09-17]
  29-2-2 弘中三河守父子竜の馬場に上ること(下)[2011-09-19]

●巻第三十
 30-1 陶尾張入道全薑最後のこと
  30-1-1 陶尾張入道全薑最後のこと(上)[2011-09-19]
  30-1-2 陶尾張入道全薑最後のこと(中)[2011-09-20]
  30-1-3 陶尾張入道全薑最後のこと(下)[2011-09-20]
 30-2 弘中父子最後のこと[2011-09-21]
 30-3 重見因幡守自害のこと[2011-09-22]
 30-4 大和伊豆守誅せらること[2011-09-23]
 30-5 伊香賀民部のこと並びに元就朝臣父子四人帰陣のこと[2011-09-24]


●巻第三十一
 30-1 杉椙森(杜)、元就朝臣に属すこと
 30-2 陶五郎長房滅亡のこと
 30-3 永興寺開基のこと並びに大内家物語のこと
 30-4 伊賀路高山寺城没落のこと
 30-5 防州那珂の鞍懸の城没落のこと
 30-6 坂新五左衛門尉、須々万表物見のこと


●巻第三十二
 31-1 陶小次郎滅亡のこと
 31-2 杉・内藤合戦のこと
 31-3 山内隆通、元就に一味のこと
 31-4 元春石州へ発向のこと
 31-5 防州須々万城合戦のこと
 31-6 冨田若山明退くこと


●巻第三十三
 32-1 防州須々万の城没落のこと
 32-2 大内左京大夫、山口落ちのこと
 32-3 大内京兆最後のこと
 32-4 防長一揆蜂起のこと
 32-5 大友義鎮入道宗麟、母を殺したまうこと
 32-6 義鎮入道、叔父服部を殺したまうこと
 32-7 厳島万部之経のこと
 32-8 益田降参のこと


●巻第三十四
 34-1 杉原忠興死去のこと
 34-2 石州出羽合戦のこと
 34-3 播磨守盛重、杉原家相続のこと
 34-4 山県小七郎討ち死にのこと
 34-5 福田壇の上鑓争い並びに寺本河辺降参のこと
 34-6 小笠原館放火のこと
 34-7 吉川左京亮自害のこと
 34-8 石州温湯の城取り囲まれること
 34-9 尼子修理太夫晴久河上の城を責めたまうこと
 34-10 小笠原降参のこと


●巻第三十五
 35-1 福屋隆包、重冨党を殺すことにつき同女房戦死のこと
 35-2 穂田刑部少輔異見のこと
 35-3 福光の城合戦のこと
 35-4 中村の城没落のこと
 35-5 石州川上の松山の城没落のこと
 35-6 福屋、芸陽の新庄へ働きのこと
 35-7 福屋没落のこと
 35-8 隆包家人殺害のこと並びに稲光神主勇により助命のこと
 35-9 豊前の国門司関合戦のこと


●巻第三十六
 36-1 別府合戦のこと
 36-2 新原崩れのことにつき束賀高畠自害のこと
 36-3 石州銀山の山吹の城攻めのこと
 36-4 本庄、毛利家へ一味のことにつき本庄太郎兵衛尉冨田を退くこと
 36-5 晴久完道左馬助を絡めらること
 36-6 元就朝臣雲州へ押し入りたまうことにつき三沢・三刀屋・赤穴以下味方に属すこと
 36-7 米原平内兵衛尉降参のこと並びに南条行松完道多賀国入りのこと
 36-8 本庄本田合戦のこと
 36-9 本庄父子誅戮のこと


●巻第三十七
 37-1 雲州の国人心替えのこと
 37-2 尼子修理太夫晴久逝去のこと
 37-3 三刀屋八畦合戦のこと
 37-4 三刀屋地主峠合戦のこと
 37-5 隆元朝臣防州に赴きたまうこと[2011-10-05]
 27-6 豊前の国門司関合戦のこと(本文なし)
 37-7 大友・毛利和睦のこと[2011-10-06]
 37-8 毛利大膳太夫隆元逝去のこと
  37-8-1 毛利大膳太夫隆元逝去のこと(上)[2011-09-05]
  37-8-2 毛利大膳太夫隆元逝去のこと(下)[2011-09-06]
 37-9 出雲の国白鹿城を攻めること
 37-10 雲州熊野城鉄砲揃えのことにつき合戦のこと
 37-11 城鹿後詰のことにつき同城明け渡すこと

●巻第三十八
 38-1 元就朝臣、洗合に陣城を築かれること
 38-2 尼子勢、伊藤の城を攻めること
 38-3 尼子義久、重ねて伊藤の城を攻めたまうこと
 38-4 弓の浜夜討ちのこと
 38-5 野白の固屋を攻め破ること
 38-6 伯耆の国日野の不動嵩夜討ちのこと
 38-7 杉原播磨守伯州泉山城に入ることにつき弓の浜合戦のこと
 38-8 泉山合戦のこと


●巻第三十九
 39-1 輝元、元長出雲へ発向ならびに冨田麓合戦のこと[2011-10-02]
 39-2 冨田の城下三ヶ所における合戦のこと
  39-2-1 冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(1)[2011-10-07]
  39-2-2 冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(2)[2011-10-08]
  39-2-3 冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(3)[2011-10-09]
  39-2-4 冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(4)[2011-10-10]
 39-3 冨田退口合戦のこと[2011-10-11]
 39-4 伯耆の国江美の城没落のこと[2011-10-11]
 39-5 大江の城没落のこと[2011-10-12]
 39-6 冨田所々付城並びに山中鹿助夜討ちのこと
 39-7 元春・元長四位に叙せられること
 39-8 福山肥後守討ち死にのこと
 39-9 平野又右衛門自害のこと


●巻第四十
 40-1 熊谷新右衛門尉・原宗兵衛尉のこと
 40-2 山中鹿助・品川狼助合戦のこと
 40-3 三村家親のこと
 40-4 津ノ守入道自害のこと
 40-5 牛尾豊前守降参のこと
 40-6 尼子家の諸侍降参のこと
 40-7 卯山飛騨守生害のこと
 40-8 平賀中谷合戦のこと


●巻第四十一
 41-1 隆景・元春、霊夢につき冨田城和平のこと
  41-1-1 隆景・元春、霊夢につき冨田城和平のこと(上)[2011-10-13]
  41-1-2 隆景・元春、霊夢につき冨田城和平のこと(下)[2011-10-14]
 41-2 義久兄弟芸陽へ下向のこと
  41-2-1 義久兄弟芸陽へ下向のこと(上)[2011-10-15]
  41-2-2 義久兄弟芸陽へ下向のこと(下)[2011-10-16]
 41-3 元就朝臣輝元朝臣帰陣のこと[2011-10-17]
 41-4 観世宗摂能のこと
  41-4-1 観世宗摂能のこと(上)[2011-10-19]
  41-4-2 観世宗摂能のこと(下)[2011-10-20]
 41-5 赤川左京亮生害のこと[2011-10-18]
 41-6 伊与(予)の国所々合戦のこと[2011-10-22]
 41-7 和智・湯谷のこと[2011-10-23]
2011-10-22

土佐の長曽我部VS毛利

今日は早めに。
出雲平定後、赤川たちの粛清も済んだころ、伊予で何かあったらしい。


伊与(予)の国所々合戦のこと

伊予の国(松山市道後)の住人河野弾正忠通直、子息の四郎通宣は、先年から毛利家の幕下に属していた。
同国の宇都宮豊綱は河野と何年にも渡って敵対していたが、
土佐の一条殿のご家来、長曽我部土佐守(元親)が宇都宮に協力して伊予の国に攻め込み、
河野を討伐しようとしている。

河野がこの状況を元就様に伝えると、とりあえず加勢を出そうということで、
元春から森脇大蔵(経夏)・井下新兵衛尉(朝兼)を大将として、足軽数百人をつけて差し渡された。
これに力を得た河野は城を打って出、手勢七千騎あまりで宇都宮の居城大津(洲)周辺を攻めた。
こうなれば土佐の長曽我部もまた宇都宮へ久竹内蔵丞に数千騎を添えて加勢する。
宇都宮豊綱、清の党に久枝又左衛門清義を先陣として出陣し、
伽の森というところで両陣は激しくぶつかり合った。
森脇・井下も、比類ない功績を挙げた。
その日は互いに勝負がつかず、敵も味方も退却した。
四国で有名な伽の森合戦とはこのことをいう。

その後、元就様は河野に加勢し宇都宮を討伐しようということで、
自身は吉田に残りつつも、分国の兵を集めて四国に渡海させた。
輝元様は吉田を出て佐藤(東)の山県筑後守の館まで出向き、
伊予へは吉川駿河守元春・嫡子治部少輔元長・小早川左衛門佐隆景が、
備中・備後・安芸・出雲・伯耆・石見・周防・長門八州の軍兵三万騎あまりを率いていく。

永禄十一年二月(四月)中旬に、安芸の国草津から兵船の艫綱を解いて、伊予の国へ渡る。
順風が思い通りに吹いて、三日のうちに伊予の国に到着した。
河野父子もすぐに合流して案内を引き受け、宇都宮の端城を一つひとつ攻略する。
同二十四日、上須戒の城へ河野が先陣となって攻め込み、あっという間に攻め破って五百人以上を討ち取り、
下須戒へは吉川・小早川の兵たちが一番に乗り込んで三百以上の首級を挙げた。
敵の多くは山伝いに逃げ散った。
それから枷の森を取り囲み、三万騎が鬨の声を上げて攻め上る。
城方もここを先途と防戦したが、多勢に無勢で、ひとたまりもなく落城した。

このとき、吉田衆に坂新五左衛門・冨落小次郎、小早川衆に井上又左衛門が首を取り、
吉川勢の香川兵部大輔が城に一番乗りを果たした。
益田藤包の若党吉岡兵左衛門が「兵部殿、私の分捕りにご協力いただけませんか」と頼むので、
香川は「心得た」と了承し、敵を一人切り伏せて「吉岡、首を取れ」と討たせてやった。
吉岡は手を合わせて喜んで、すぐにその首を討ち取った。
それから、宇都宮豊綱の家城、大津を取り囲んだ。

長曽我部土佐守はこれを聞くと、「今宇都宮を見捨てれば歴代の武門の名に傷がつく」と、
土佐・讃岐の軍兵二万騎あまりを率いて、
大津の城から百町(1.1キロ)ほど離れた柳原というところに出てきた。
そこに一晩で二百間(約360メートル)四方の陣城を築き、土手を造り堀をめぐらせ、
構えを整えて援軍に駆けつけた。
この押さえとして、河野父子・平岡遠江守・能嶋掃部助・久(来)留嶋出雲守らが、
土佐勢を防ごうと控えていた。
安芸勢の宍戸安芸守・福原左近允・国司右京亮・児玉三郎左衛門・古志清左衛門尉、
そのほか防長の兵五千騎ほどが河野に差し添えられたので、
河野の手勢と合わせて一万二千騎ばかりが陣を堅く構えて土佐勢の行く手を阻んだ。

さて大津の城は、吉川・小早川の両将が、備後・安芸・出雲・伯耆・石見五ヶ国の兵で取り囲んでいる。
豊綱も随分な強将なので、度々打ち出ては敵に迫ったけれども、
とにかく寄せ手の数が多すぎていっこうに歯が立たない。
ついに降伏してきたので、吉川・小早川が城を受け取り(永禄十一年五月上旬か)、河野に引き渡した。
豊綱は隆景預かりとなって備後の国三原に置かれ、警護の武士を厳重につけられたが、
ほどなく風邪をこじらせてついには亡くなってしまった。

大津の城が降参すると、長曽我部の陣へ押しかけて討ち果たそうかと会議しているころ、
土佐守は「大津の宇都宮は降伏してしまった。こうなっては、ここにいる意味もない」と
柳原を引き払ってしまった。
河野たちはこの跡を追おうとしたけれども、土佐守はさしもの勇将で、
久竹・桑名・豊永ら三千ばかりをしんがりにして、備えを乱さず静かに引いていった。
「四国で戦争が盛んになっている昨今にあって強将と名高い土佐守、その評判に違わぬ退き口だなあ」と、
人々は感心したそうだ。

こうなると、宇和にいた西園寺公広も、元春・隆景に使者を送って、
毛利の傘下に入ると申し入れてきた。
これで伊予一国は無事に平定され、すべて河野の差配に任された。
元春・隆景両将は、やがて(五月下旬)帰城した。

その後、河野四郎通直と、宍戸安芸守隆家の息女との結婚の契約が成った(伊予陣以前とも)。
また、元清へは久(来)留嶋出雲守の妹が遣わされ、これもまた婚礼が整ったので、
河野をはじめとした伊予一国の侍たちはすべて元就様の傘下におさまったことになる。


以上、テキトー訳。

あんまり派手な合戦にはならなかったようで。
まあ、アレだな。さすがに三万は誇張としても(秀吉の四国討伐でも二万程度だったはず)、
万単位で攻め込まれたらひとたまりもないよね。
ぽろぽろと城が落ちてもしゃーない。
大軍勢で押し寄せるってのは、城兵の意気を挫いて早期に降伏させられるって利点があるよね。
寡兵VS大軍の決戦てのは非常に血沸き肉躍るが、こういう派手さのない戦ってのもナカナカ。

香川兵部さん、ステキ。
他家の若党に手柄立てさせてやるなんて太っ腹じゃないの。

さて長曽我部さんの登場。
BSR動画でなんか海賊のふりしたニーチャンを見るまで名前すら知らなかったけど。
土佐の武将で若いころは読書に耽り「姫若子」と呼ばれていたとか。
遅い初陣で意外に才能を発揮してから「鬼若子」と呼ばれ、
信長には「無鳥島の蝙蝠」と揶揄され、秀吉に謁見する際には大坂に鯨一頭を持ち込み、
それで秀吉の命で出陣した九州征伐で多くの家臣と嫡子を失い、狂ったという人。
まあ、なんだ。今のところ特に興味は惹かれない。

しかし一夜でけっこうデカイ陣を造営しちゃったり、引き際がきれいだったり、いい大将だよね。
土佐は一預具足が有名だなぁ。農民に具足一寮貸し与えて、戦のときだけ動員するっていう。
足軽が農民なのはどこも一緒なんだろうけど、こういう人たちの活躍も読みたいなあ。
2011-10-20

能……やはりブン投げ

あきらめました、どうあきらめた、私にゃできぬとあきらめた……(元ネタは都々逸)
今日はちょっと時間がなかったのと、現在キレやすい状態のため、
ブン投げ訳だけ置いてゆく。


観世宗摂能のこと(下)

四番に「烏頭」では殺生の業によって呵責にさいなまれる有様を表現している。
これを見ると、前の三番の能、たとえば千代の世を祝い、また乱れた天地を治めて平和をもたらし、
あるいは情欲に惑う話も、いつかはただ春の夜の夢となり、
ついには無常の殺鬼に責め立てられることになると知らしめられる。
見る人を恐ろしがらせて、成仏のために仏道に帰依しようとさせるための説教ではないかと思うほどだ。
神の誉れも仏の導きも同じである。
ありがたくも、また来世が恐ろしくも思えて、「南無仏」と唱え「妙法蓮華経」と呟き、
古の人の一句の話が頭をも透けさせてほしい(?)と考える。

こうして舞を奏でて、太夫たちは楽屋へと入り、幕を下ろした。
物の境もはっきりと見えない状態となり、これが天地未分、鴻毛未判のところなのだろう。
ここにおいては上に尊ぶべき仏もなく、下に見下ろすべき衆生もない。
仏も祖先も、この田地にいたっては見ることも触ることもできない。
極楽も地獄もなく、これを正法眼蔵ともいう。
本来無一物、あるいは一つの吹毛剣ともいい、林際下に一喝ともいい、
曹洞宗では正中偏ともいうそうだが、法華では中道、真言では阿字、浄宗では本性の阿弥陀と名付けて、
儒教の皇極道では対極ともいうらしい。
唯一の神道ではいったい何というのか、神のことをみだりに口にするには畏れもあり、
国常立の尊の無始無終のご神体にいたっては、考えも及ばず言葉でも言い表すことができない。

さて、太夫がこうして楽屋に入るのを見ると、花も根に帰り、月も暗路に入るものなので、
人間もまた本来自分の持っている仏性に立ち返って安住することを心がけ、
悪を断ち善を修めようと、心が不思議と燃え立った。

そこに「養老」の切笛・鼓・太鼓を打ち囃し立て、
「ありがたや、治むる御代のしるしとて、山河草本おだやかに、
五日の風や十日の天が下照る日の光曇りはあらじ、玉水の薬の泉はよも尽きじ、
あらありがたの奇瑞やな」と謡う。
するとさきほどの恋慕哀傷、有為転変の物語が思い起こされて、
憂いが湧き出ていた気持ちが一変して、「幾久しさも尽くせんや、尽くせんや」と謡いたてた。
またもとの脇能の喜びの心に戻り、高砂の松の葉が散り散りになるまで、正木の葛のように、
長い御代に限りはなかろうと思っているうちに、舞もおしまいになった。
「よき御代なれや、よき御代なれや、万歳の道に帰りなん」と謡った。
この元就公の長寿は万歳万歳万々歳に及ぶ。
その徳は尭舜が説いた仁義の道に立ち帰るであろうと誰もが思った。

その日はいつにも増して快晴であったが、「高砂」の途中から空が曇ってきて雪が降りだし、
白州に居並んだ見物客の膝上に積もった。
しかしあまりに感動していたため、皆自分の身が凍えているのにも気付かなかったということだ。


以上、テキトーすぎる。訳はできていない。

眼が痛い。
明日は夜中まで帰れないので更新しないと思う。
2011-10-19

歌舞音曲は……必要?

昨日断念した能の話。
今でもよくわからない。


観世宗摂能のこと

尼子義久兄弟が出雲の国の冨田の城を明け渡してから、しばらく中国は平穏無事であった。
そのころ、観世宗摂(節)・観世三郎(元尚)・観世小次郎・福王甚右衛門尉、
そのほか橋本喜俊・大多和修三・似我与左衛門尉などといった舞の名人が供の者(十五名)を打ち連れて
芸州吉田へと下向してきたので、元就様は手厚く遇した。

諸軍勢は長年、雲州表に在陣して疲弊しきっている。
それをねぎらい慰撫するために、同(永禄十年)十一月二十三日、興禅寺において能を催した。
いろいろな人が集まり、群集が肩を並べ膝を重ねてこれを観覧する。
近代では並ぶ者のない名人が演じるので、見物した僧も俗世の男女もあまりに感動しすぎ、
ただ大口を開けて呆然と見入っていた。
「高砂」「田村」「井筒」、そのほか七番の演目があった。

なかでも、「二人静」は観世三郎がシテ役を務め、
宗摂の弟子に彦三郎という大内義隆卿から預けられた太夫もいたが、
これも今の世には珍しい能の達者であった。
声はとても麗しく、「見渡せば松の葉白き吉野山」と謡い、指声から小謡に移り、
「白雲の消し跡こそ道となれ」と謡うと、
三郎が「のうのう、あの菜摘人に申すべきことの候」と謡い答える。
その声色は、実に仏の迦陵頻伽の声もこんな感じであろうと思われるほど、しみじみと趣深い。
やがて二人が一緒に「花を踏みては同じく惜しむ少年の春の世も」と謡ってかざす扇といい、
踏み鳴らす足拍子といい、筆舌に尽くしがたい情趣があった。
彦三郎も舞の達人というだけでなく、体つきからして常人とは異なる雰囲気があるが、
三郎と並び立つと、花の傍の深山木のような佇まいがいっそう際立った。

日も暮れかけて、舞もまた終盤になってくると、かの魯陽の矛を取って夕日を招き返したいと誰もが思った。
それほどに、「高砂」「田村」「井筒」「烏頭」そのほか七番の能は、
どれもこれも優劣つけがたく趣深かった。

切能は「養老」という演目だった。
たいていの凡庸な太夫の舞でさえ目を楽しませるのに、
ましてや名高い宗摂の舞となればさぞやと思っていたところに、
まず翁が出てくるときに、朗々と謡いだした節を聞くにつけても、
翁は天照大神であり千蔵経は住吉大明神、三番三は春日大明神という言い伝えがあるので、
教養のない老人までもが
「ありがたいありがたい、天照大神が天の岩戸に引き篭られたときに、
八百万の神々が神楽を奏で舞を舞ったというのも、きっとこんな光景だったろうなあ」と、
ありがたくもまた感慨深くも思い、こうしたことを始めた秦の河勝の心まで思いを馳せた。

また「高砂」を見ては、「わが日本は神国だからこそ、脇能は神事を主体としているのだろう。
天下太平、国土安全でいられるのも、ひとえに天照大神をはじめとした神々がこの扶桑国(日本)に
恩恵を垂れてくださっていることを知らしめているのだ」と推察した。

三(二?)番目に修羅能を演じるのは、周辺の異民族を征服して馬を華山の陽光の下に帰し、
牛を豊かな草原に放ち、弓を袋にしまい矢を箙に収める(平和な)世がきたことを知らせているのだろう。
特に「田村」は将軍の勅令を受けて伊勢は鈴鹿の鬼神を退治して、
「千万に仕えし鬼神も地も木も我が大君の国なれば」という一首の歌により、
朝敵となることを恐れて逃亡した例まで引いているので、
朝廷の敵となった者は、人間は言うに及ばず、鬼神までもことごとく滅ぼされることを表現している。
ことさらありがたくも恐ろしくも思えた。

三番に鬘能が演じられた。天下太平にして仁徳の恩が世界中に溢れ、
頂点の一人から下は万民に至るまで人間たちが栄華を極め、天上の妙なる楽しみを尽くすのであれば、
色に染まり情に耽ることほど楽しいものはない。
イザナギ・イザナミの二人の神が浮橋の上から「この下になぜ国がないのだろうか」といって
天の瓊鉾(ぬほこ)を差し下し、海原を掻き混ぜると、その瓊鉾の滴りが固まって島となる。
これがオノコロ島である。二人の神はこの島に下って陰陽に交わった。
陽神は天となり、陰神は地となって、万物が生まれた。
これが天地開闢の源であり、人間は言うに及ばず、仏も神々もここから始まったのである。

なかでも在原業平は観音の化身として仮に人間界に生まれ、
色を好み情に染まって数千の女と契りを結んだが、
これは下々の愚かな女たちに仏のお恵みを得させるためであったとか。
心を持たない木や竹ですら、「あなた」と親しげに呼びかけることもあるそうなので、
人間においては言うまでもない。
夫婦の道の睦まじさが思い起こされる。

業平は河内の国の高安の里にいい人がいて、二股をかけて忍んで通っていた。
業平と幼馴染だという紀有常の娘が
「風吹けば沖津白波立田山夜半にや(君がひとり越ゆらむ)」と謡うのを聞けば、
貞女の道を守るばかりか嫉妬心も抱かない女だとわかる。
こうしたことは世の人の妻たちに聞かせてやりたいくらいで、
また夫にとってもいい教訓であって、忠臣の道と一緒である。
権威を競い合うだけでなく、少しでも自分より優れた者が現れればそれを妬むというのは、
奸臣のすることである。
賢人を陥れて失脚させ、主君を恨み、国を乱す。
有常の娘のような心立てであれば、優れた人を妬まず、陥れず、主君を恨まぬものだろうと、
人々は皆この「井筒」を見て涙を落とした。


以上、テキトー訳。続く。

なんか、隆元に対して「武士たる者には歌舞音曲は必要ない。常に謀略を考えよ」
なんて説教したという元就らしからぬ発想だよね、能を興行させるって。
描写を見るに、作者がけっこう能とか好きで、それを語りたいがための話なんじゃないかと思ってしまうw
各演目のあらすじは省略してるわりに、劇中の謡いの文句はチョコチョコ出てくるんだよな。

特に鬘能の「井筒」の注釈で、「嫉妬心を抱かないのが優れた人だ、妻たちに聞かせてやりたい」なんて、
世の人じゃなくオマエが思ったんだろうが!とツッコミたくなる。
この時代の夫たちも家で待つ「おっかあ」が怖かったんだな~とニンマリした。

しかし、軍記物読者は和歌・仏教説話・日本神話・中国神話・故事に加えて
能の演目のあらすじまで前提知識として要求されるのか。
当時の人はどんだけスペック高いんだ。
私なんて、目の前の箱とインターネット空間がなかったとしたら、
絶対に理解できてないよ。たとえ辞書があったとしても。
いや、今でも完全には理解できてないけどさ。

テクノロジーってありがたいね。
2011-10-18

通説と違う赤川粛清の理由

昨日の次の「観世宗摂能のこと」を読むつもりでいたが、
能……まーた古い文化的なモン出してきやがって(泣)。
ムリ……わかんないよ!
てなわけで、ちょっと飛ばしてその次に行きます。
能の話も時間があれば調べられると思うから、そのうち。

今回は赤川元保……だと……?


赤川左京亮生害のこと

赤川左京亮(元保)は、近年は九ヶ国を領する大友への押さえとして長門の国府、勝山に駐屯していたが、
元就様はこれを誅殺した。
左京は武勇がずば抜けており、知恵もまた普通の人よりは優れているので、
元就様は輝元様が幼少のときから赤川を教育係にしていた。
そうなると世間の人も赤川を粗略には扱わない。
赤川はたちまち驕りたかぶって、人を人とも思わぬ傍若無人の振る舞いが目に付くようになった。

それだけでなく、輝元様が家督を相続すれば、自分の威光が誰よりも上になるとでも思ったのか、
度々輝元様に
「もうそろそろ御歳も十分におなりです。いつまでこのままでいるおつもりですか。
元就公ももうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。

輝元様はまだ志学(十五歳)の年のころであったが、年齢よりも成熟した賢将で、
「左京は邪なことを言っている。放っておけない」と思い、元就様に直接このことを相談した。
「急いで京兆(左京の唐名)の首を刎ねてください」と重ねて言うと、元就様も
「あの者は思い上がりが過ぎるばかりか、
まだ二十歳にもならぬ輝元にこのような邪なことを吹き込んでいたのか。
そのままにしておけば趙高・禄山よりも驕りたかぶるだろう」と思い、誅罰を下したそうだ。

赤川の弟の源右衛門は、吉田の隅というところに住んでいたが、
ここに粟屋右衛門・粟屋弥四郎の二人を差し向けて討とうとした。
弥四郎がツッと走りかかって無手と組み合い、刺し違えて死んでしまった。

左京の養子に又五郎という者が山の方にいるのを、桂能登守が数百人の手勢で囲んだ。
又五郎は力自慢の屈強な動きで、寄せ手数十人をたちまち切り伏せ、周りの者たちを打ち払う。
なんとも手の出しようがなく寄せ手が立ち往生しているところに粟屋彦右衛門が駆けつけ、
並んだ家の間に隠れて隙をうかがっていた。
又五郎も数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、
取り押さえて首を掻き切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、
無手と組んだその意気が立派であった。

数年前、元就様に仕えていた妾に木原兵部少輔が密通した。
これが発覚すると、元就様は木原を誅殺しようと思ったが、この者も世に優れた力持ちの剛の者である。
ことに自分の身に罪科があると知っているので深く用心しているはずで、
日頃から勇名を馳せている者に言いつければ、かえって仕損じることになるかもしれないと苦慮した。

そこで元就は、このときはまだ源二郎という名で十六歳だった粟屋彦右衛門に言いつけた。
粟屋はこのとき見目麗しい美少年で、木原も深く恋慕の情を寄せていたから、
よもや粟屋には用心はすまいと思ってのことだ。
粟屋は木原を討つように命じられると、「かしこまりました」と言って御前を退出した。

木原が碁を打っていると、粟屋が刀を抜いて肩に押し当ててくる。
「上意だぞ」と笑って言うので、木原も冗談だと思ったのだろう。
「また源二郎が馬鹿を言っておるぞ」と相手にせず、目前の碁の勝負に集中している様子だ。
粟屋は「よかった、木原をだまして試すことができた」と思い、
今度は「上意だぞ」と言って刀を振り上げ、切りかかる。
刀は名のある業物だった。
袈裟懸けに大きく斬ってしまえば、さすがの木原も刀の柄に手をかけることもできずに倒れ伏してしまった。

こうして度々武勇を示したのが粟屋彦右衛門という者である。
元就様も大いに感心し、今回も禄を増やすなど褒美をやったということだ。


以上、テキトー訳。

あれ……?
赤川元保さんて、隆元が死んだときに付き従ってて、疑われたんじゃなかったの?
少なくとも、ウィキペディアとかいろいろ逸話を漁ってると、そんな印象が強かったのに。
まあ、隆元派の有力家臣として、元就派の桂さんたちと対立してたって話もあったけど。
で、隆元殺しの片棒担いだとか難癖つけられて切腹を申し付けられた、
だけど赤川は隆元が和智の招きに応じるのに反対してたことがその死後にわかって、
元就が拙速に殺してしまったことを悔やんで一族の者に跡を継がせた、
というのがこれまでの理解だった……「陰徳記」だと全然違うのね。
隆元なんて一言も出てこないじゃんか。ちょっと混乱。

まあいいや。
弟や養子も容赦なく殺す。さすが元就。
桂の手勢や粟屋弥四郎など、損害もデカイけどな。

それにつけても気にかかるのは木原兵部少輔だよな。
元就の妾に手を出したうえ美少年にもコナかけるとは太ェ野郎だ。
しかし、ちょっと待て。木原さんてあの木原さん?
冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(2)
で抜け駆けして尼子勢に「お尻ペンペン」した木原さん?
重見因幡守自害のこと
で自害した重見因幡守のお子さんと同一人物?
ちょっと俄然興味が沸いたんですけど……
ググると自分のブログと
http://www.geocities.jp/ayatuduka/sigemi.html
しか出てこない……でもここだと、元就死後まで生きてるっぽいし。
混乱~ ><。

もうひとつ気になるのは、木原誅殺のときの周囲の反応と、
木原と通じた妾の処遇なんだが、書いてないな。
これじゃ蛇の生殺しなんだぜ。香川さんヒドイよ~ ><。

木原さんのことはちょっと継続して調べてみようかと思う。
なんか面白そうな人なんだもん。
2011-10-17

天野隆重への信頼

尼子を排除した後の月山冨田城を誰に任せるかという話。

元就様・輝元様帰陣のこと

元就様・輝元様・元春・隆景、そのほか福原・桂たちは、
冨田の城に誰か一人留め置いて出雲・伯耆の押さえにすべく評定を開いた。
天野紀伊守隆重は智勇兼備の侍大将である。
この者が適任だと議決し、隆重に冨田の城に留まるように告げると、隆重は畏まって言った。

「月山冨田城に籠もることは謹んで拝命いたします。
しかしながら、尼子経久以来十国以上を領した大将の家城に、この隆重ごときがいたところで、
国の隅々まで監督するのはいささか難しいかと存じます。
少輔十郎元秋公を大将として置いていただければ、隆重はそのご命令に従って城を守備します。
この国に何か一大事でも起これば、元秋公の先陣を務め、国中を打ち従える所存でございます」

元就様は「隆重が申すことも、もっとも至極である。しかし元秋はまだ幼い(十五歳)。
よって隆重一人で月山冨田城に籠もり、武威を示して怨敵を滅ぼし、仁徳をほどこして国人を手懐けよ」と言う。
隆重ももはや辞退する理由もなく、冨田城へと入城した(永禄十年二月)。
こうしたいきさつがあったからか、後の天正のころになってから隆重が熊野の城に移り、
月山冨田城には元秋が入った。

こうして元就様・輝元様は出雲の国の法令などを丁寧に隆重に言い含め、
隆景と共に洗合城を引き払って(永禄十年二月十九日)出発した。
杵築大明神(出雲大社)に参詣し、
「この国を無事に平定できましたこと、ひとえに明神のご加護があったからこそです。
争いはこのように決着しました」と、多数の金銀珠玉を奉納した。
献上品はさながら宝の山が現れたかと思うほど豪勢なものだった。

千家氏、北嶋氏の猿楽師を呼び集め、能などを申し付けたいと考えていたが、
急ぐ旅なのでそれもせずに、翌日には杵築を立った。
元就様・輝元様・隆景・元長が安芸の国に帰陣すると、
出雲の国中はたちまち太平となって、万民が日々の生活を大いに楽しんだ。

元春は、敵の部隊がまだこの国に潜んでいるかもしれないと、
万が一に備えて手勢五千騎あまりで出雲に留まり、厳重に平和を守った。


以上、テキトー訳。

天野さんはウィキペディアによると、もともとは安芸の国人で大内義隆に一味していたとのこと。
毛利とは協力関係にあったが、大寧寺の変で義隆が自刃に追い込まれると、
明確に毛利傘下に入ったらしい。なんかウィキペでは「史料出せ」って書かれてたけど。
まあ、「陰徳記」でも、
「ご子息の元秋様を置いてください~」なんてのは、後世の創作なんだろうな、とは思う。
のちに元秋が月山冨田城に入ることになったからこんな話ができたんだろうね。

そして元春、やっぱカッコイイわー。
他のみんなが家に帰るのに、一人残って警備を怠らないとか。
さすが岩国系の軍記物だね、吉川バンザイ!
元春は毛利家にハマりはじめた当初はあんまり興味を惹かれなかった人だけど、
なんかジワジワと好きになっていくなぁ。
2011-10-16

知らぬは人の行く末の空

前回のあらすじ:
毛利と和睦した尼子義久・倫久・秀久兄弟は、城を明け渡して幽閉の身となる。
住み慣れた出雲を離れ、相思相愛の御台所とも引き離された義久は、
いつの日か毛利を討ち滅ぼすことを胸に誓い、屈辱の旅路を進む。


義久兄弟芸陽へ下向のこと(下)

石見路を過ぎるときに義久が「ここは何というところだ」と尋ねるので
「ここは高津の浦でございます」と答えると、義久は
「ほう、ここが有名な高津の浦か。昔、第四十一代の持統天皇の御時、慶雲四年、
人丸(柿本人麻呂)がこの地で死の床についたとき、名残を残す高津の浦を吟じて
『嶋隠船心頭真面目広却已前の先石見潟高津の松の木の間より浮世の月を見果てぬるかな』と
詠んだのもここでのことだろう」と思った。
自分もここで死ねば、人丸と同じく配流の地で浮世の月の見納めとなるだろうと心細く思いながら、
そこを過ぎるまでに数日を要した。

同十二日には出羽という所に着き、翌十三日には横田に着いた。
着慣れぬ旅装束を着て、何日も経っているので体も疲れ果て、
一旦どこかに滞在して旅の疲れを癒したいと思っても、守護の武士たちは絶対に許してくれない。
同じ宿に二度泊まることすらなく、かりそめの旅の宿さえも名残惜しく思いながら出立する。
「(白浪の寄する渚に世を過ぐす海人の子なれば宿も定めず」(新古今和歌集・詠み人知らず)という歌は
まったく自分にふさわしいと感じて、(前世の)報いのすさまじさを恨めしく思った。

翌十四日、安芸の国の長田という所に着くと、すぐに長田の内藤下野守に引き渡され、
円妙寺という禅寺に押し込められた。
柵を二重三重にめぐらせて、警護の武士をあちこちに配置している。
吉田からは少輔五郎、元春からは二宮杢助、隆景からは宗近加賀守が遣わされ、付け置かれた。
人の出入りも許されず、夢を破る秋風、軒から漏れてくる月影のほかは、訪ねてくる者もなかった。
竹の柱を見ては「うき節(本歌:今さらになにおひいづらむ竹の子のうき節しげき世とは知らずや)」
(古今和歌集・凡河内躬恒)=つらいことが多い世の中だと思い、
一人萱の軒端の月を見るにも「知らぬは人の行く末の空
(本歌:命あれば茅が軒端の月もみつ知らぬは人の行くすえの空)」(後鳥羽院)と詠んだ昔を偲ぶ。
「天子の位にある人でさえもこのようなお嘆きをされたのだから、
どうして我らのような戦争に携わる身が、このような配流の地で月を見て嘆くのを咎められようか」と
自分を慰めていた。

御台所は阿佐の観音寺という尼寺に入り、髪を削ぎ落として受戒し、鈍色の衣に身を包んだ(尼になった)。
「かかれとてこそむは玉の(本歌:たらちめはかかれとてしもむば玉の我が黒髪を撫でずやありけん)」
(後撰和歌集・遍昭)という歌の心(幼いころに母がなでてくれた黒髪が落とされてしまった。
母はまさかこのようなことになるとは思っていなかっただろう)を身をもって知り、
悪夢の中にいるような心地だった。
小宰相の局をはじめとして女房三人も同様に姿を変えた(落飾した)。

日々の勤行で仏の名を唱えるときであっても、義久の面影ばかりが思い起こされて、
恋慕の情ばかりがいや増して涙がこぼれるだけだった。
朝には山に入って花を摘み、先立った父母の霊前に供え、来世の幸福を祈る。
夕には川に出て水を汲み、霊仏霊社に手向けて夫の現世での平穏を祈った。
「昔、文治のときに建礼門院が大原の奥の寂光院に隠棲したときのお嘆きも、
きっと今の私と同じものだったのでしょう」と、
見たことのない古い時代のことにまで思いを馳せ、涙が乾くときはなかった。

ある夕暮れには縁側の端近くに出て座り、「安芸の国とやらはこれより西の方かしら」と思うと、
その方向の空さえ懐かしく思われ、
傾く月が山の端にかかるのを見ても、「あなたのいる辺りに月が入っていくようだわ」と
うらやましく思って歌を詠み、手習いのように硯の蓋に書き付けた。

  「見るらんと見るに心は慰まで涙催す夜半の月哉」

折りしも秋風がそよそよと袂を揺らすと、
そばにいた女房が「書き物をするより、秋風の涼しさを感じましょう」と言うと、次はこう詠む。

  「君が住む国の名に立つ秋(安芸)風は物思う袖をかれずしもとへ」

そもそもこの御台所は、江州の京極修理太夫殿のご子息、五郎殿の姫君であった。
お姿が大変麗しいだけでなく、心栄えも世間の人より優れている。
歌の道にも熟達しているので、義久の寵愛が深いのもうなずけるという噂だった。

義久の行く先を見届けようと、安芸の国に行きたいと望む兵は次の者たちだ。
立原源太兵衛尉・山中鹿助・三刀屋蔵人・里田左京亮・秋上三郎左衛門・秋上伊織助・
高尾縫殿助・高尾右馬允・川添(副)美作守・川添右京亮・川添三郎左衛門・川添二郎左衛門・
黒正神兵衛尉・横道兵庫助・その弟横道源介・その弟横道権允・中井駿河守・中井平蔵兵衛尉・
中井助右衛門・馬木宗右衛門・馬木与一・吉田八郎左衛門尉・吉田三郎左衛門・目賀田采女允・
目賀田段衛門・疋田右衛門尉・疋田神九郎・米原助四郎・目黒助二郎・月坂助太郎・平野賀兵衛尉・
平賀源介・熊野兵庫助・熊野二郎・松田兵部少輔・古志因幡守・屋葺右兵衛尉・岸左馬進・
岸孫左衛門・津森宗兵衛尉・宇山弥太郎・三吉五郎左衛門・三吉神太郎・小林甚允・神西甚允・
熊谷新右衛門・大塚弥三郎・日野又五郎・田原右兵衛尉・馬田長左衛門・太野平兵衛尉・
福山二郎左衛門・福山弥次郎・福山内蔵丞・青砥助三郎・中井与次郎・片桐治部丞・渡辺内蔵助・
池田助兵衛尉・池田縫殿允・本田平十郎・梶山主水正・寺嶋兵部允・江見平内・江見九郎太郎・
妹尾十兵衛尉・加藤彦四郎・野津次郎四郎、以上四十九(六十八)人である。
しかしこの者たちは同行を許されなかった。
この者たちは泣く泣く杵築まで義久の跡をついてきたので、そこで饗膳を振舞い、あとはことごとく追い払った。

さて、義久に供奉した侍は宇山右近亮・立原備前守・本田豊前守・本田与次郎・
大西十兵衛尉・その嫡子大西新四郎・馬木彦右衛門・力石兵庫助・津守四郎次郎・
福瀬四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾惣五郎・大塚助五郎・正覚寺などである。
九郎倫久には田賀勘兵衛尉・長谷川小次郎・山崎宗右衛門・重蔵防、
八郎四郎秀久には松浦治部丞・松井助衛門が供奉した。
また、内の者には、宇山には矢田五郎左衛門・沼野助四郎、
立原には長谷川助四郎・下男の乙房、本田には広江彦五郎・中間の源右衛門などがついていった。

立原源太兵衛尉は今回調停の使者となったので出雲において二千貫の所領をあてがうべしと通達されたが、
今更敵方に召抱えられるのも口惜しく思い、また二君に仕えないことが忠臣の道だといって、
京都へと忍んで逃げていった。

尼子経久はさすが名将だったというべきか、
それに従っていた兵たちも皆武勇に優れ、忠義は鉄や石よりも固い。
だからこそわずかばかりの人数でも七(五)年も篭城し、何度もあった合戦でもひどく負けたことはなかった。
また、まだ若い大将の義久が老獪な元就と何年も渡り合ってきたことは、
敵ながら智勇を兼ね備えた名将で、さすがは経久の玄孫である。
城を明け渡すことになったものの、かえって人々は尼子家の将兵たちに感嘆した。


以上、テキトー訳。

今回は、一箇所どうしても適当な訳がわからなくてブン投げた。
それにつけても、我が身を思うにも妹背を想うにも歌の尽きない夫婦だね、尼子義久のとこは。
ちょっとうざ……もとい、麗しい話じゃありませんか。

軍記物らしいのは、立原さんのあたりか。
なんで毛利に召抱えられるのを断ったからといって逃げなくてはならんのだろう、
と一瞬だけ思ったけど、まあ普通に考えたら意に沿わない者は粛清されるわな。

尼子勢に関してはだいたいここでひと区切りなんだが、
ちょっとしばらく、惰性で続きを読んでみようと思う。
2011-10-15

尼子義久、夫婦の別れ

「夫婦」なんて文字が見えたのでついカッとなって読んだ。
昨日の段の続き。
つーかさ。和睦を結んだといえば聞こえはいいけど、
実質的には完全降伏してるよね、尼子。


義久兄弟芸陽へ下向のこと(上)

尼子右衛門督義久・その弟九郎倫久・同弟八郎四郎秀久の兄弟三人は、
城を敵に明け渡して、侍七、八人を連れて離れることなく出発した。
吉川・小早川両家の者たちが一千騎ほどにて前後を取り囲む。
曽祖父の経久の代から山陰道の派遣を掌握し、
武威もたくましく影響も隅々に広がって、栄耀栄華を極めたというのに、
昔と比べて今は、数多くの家之子郎党もことごとく散り散りになり、従ってくれる従者も数人しかいない。
どんな前世の報いだといってこのような憂き目を見なければならないのかと、涙ばかりこぼれていく。
昔から慣れ親しんだ里の梢が遥かかなたに見えなくなるまで振返るも、
涙のせいで滲んで見えて、ことさら口惜しい。
古代の蘇武が異民族に囚われたときの思い、平家が都を落ちたときの悲しみも、
今身をもって知ることになったと、袖を濡らした。

錦の浜を過ぎるにも、いろいろな思いがよぎる。
立身して故郷に帰らないということは、夜の闇の中で錦を着るのと同じで、甲斐のないことだという。
ましてや栄枯は移ろいやすく、かつては数万の軍を率いた大将だったというのに、
今は徒歩でトボトボと他人の国に向かって歩いている。
通過してきた自分の国が恋しくて、波が帰っていく様すらうらやましく、
この浜の名の「錦」を着て、いつの日かきっと故郷に帰ってくるぞと思い続けている。切ないことだ。
同八日の暮には、杵築に着いた。

ここで御台所(奥方)と引き離すと警護の武士が言うと、義久は
「なんということだ。せめて夫婦が一緒にいて、悲しみも辛さも共に語り合って慰めあえれば、
少しは気持ちも休まるというのに。蝦夷の千嶋に住むという野蛮人のように、情けも知らぬ武士どもめ」と、
心から恨めしく思った。
義久は御台所を引き寄せ、
「私はすでに武運も尽き果て、敵に囚われの身となって芸陽へと旅立つ。
またいつの日か、いつの時にか会えるかどうかもわからない。
これまで互いに想い合ってきたこの名残は、絶対に忘れられない。
ほんの少しの間だけ立ち別れ、また帰ってくる旅でさえも名残惜しく思うものなのに、
今回は何年離れると決まっているわけでもない。
前世からの業を背負う我が身は、いつ命絶えるかもわからない。
またもしこの命があったとしても、守護の武士があちこちに置かれるだろうから、
かりそめの風の便りさえ絶え果ててしまえば、筆を執って近況を伝えることもままならないだろう。
夢の中でなら見咎められることもないだろう。
たとえ身は千里も離れていようとも、心は君のそばを離れないよ」と、腕を取って涙を流した。

御台所はこれを聞き、さすがに兵たちが注目しているので柱の影に隠れて、
「なんとも情のない仕打ちです。私が一緒にいても、女の身で何ができるというのでしょうか。
何の罪があってこんな境遇に置かれるのでしょうか。
最初にお会いしたときから、あなた様の立派さに先年も寿命が延びるような思いで、
連理の枝、比翼の鳥となろうと誓ってきましたのに。
こんなところで離ればなれになって、また生きて会えるかどうかもわからないとは、
『夏野行く牡鹿の角の束の間も』と歌にあるように、
ほんの短い間でも嘆きを忘れることができません。
実に親子は一世の契り、夫婦は二世の契りと聞いております。
来世もまた共に老いを重ね同じ墓に入る運命だと思っております。
思いのほかに妹背の川の波は厳しいもの、離ればなれになっては、
なるようにしかならない世の中で生きながらえてどうしようというのでしょう。
いっそ千尋の谷底で(身を投げて)藻くずとなってしまいたい」とその場に崩れ落ち、義久の袂にすがった。

義久は「ここは運命に身を任せてくれ。いかに武士が乱暴者だといっても、命を失うより恐ろしいことはない。
露のようなはかない命でも、生きているからこそこうして嘆くこともできるのだ。
なんともつらい日々のなかで、生きているということを望みとしなさい」と言ったものの、
「あればこそ人もつらけれ怪しきは(命もがなと頼む也けり)」という歌の心までも身にしみて思い知っって、
袂を顔に押し当てて声を上げて泣きたかった。
しかし義久は武家の大将なら、余りに心弱くては恥ずかしい。
毛利家にこれが伝わっても口惜しく思うので、落ちる涙を押さえつつ、
「私は冨田で死ぬかもしれなかった身だ。
それがこんなところまで彷徨ってきてしまって、さぞ情けなく思うだろうけれども、
恥を忍んで命を永らえるのは、良将の策である。だから顔を上げて敵国に降伏するのだ。
一栄と一落は隣り合わせの世の中だ。毛利家は今でこそ武威を誇っているが、いつかは滅ぶだろう。
そのときを狙って、山陰道の兵を起こそう。皆旧交があるので、誰か一人は従ってくれるだろう。
毛利家を滅ぼしたならば、すぐに迎えを遣わす。

昔、元弘のときに、一宮親王が土佐の田舎に流された。
御息所(妻女)は松浦の何某が奪ったけれども、秦の武文の怨霊に悩まされて、
仕方なく御息所を小船にお乗せし、海上に流してしまった。
御息所はどこともわからぬ住居で月日を送られたが、
ついに公家一統の御代となってなってからは、一宮親王は土佐を出て都に上り、
御息所にもお迎えを遣わしたという。
そして再び比翼の契りを深く結んだと聞いている。
こうした例もあるのだから、いつかは冴え渡るはずの月影が束の間曇ったからといって、
そのように嘆いてくれるな」と言って、身支度を整えているうちに時は過ぎていった。

守護の武士たちが「日が暮れてしまう、早く早く」と言うので、どうしようもなく東西に別れることになった。
玄宗皇帝の馬瑰(嵬)ヶ原の悲しみ(寵愛した楊貴妃が殺された)、
漢の武帝の甘泉殿とのお別れ(寵愛した李夫人が病気のため亡くなった)の際の気持ちと
同じような心持ちだろうと、周囲の涙を誘った。

守護の武士たちも血の通わぬ岩や木というわけでもなく、二人の胸中を推し量ると涙を溢れさせた。
杵築大明神(出雲大社)の御前を過ぎるときにも、
「聞くところによるとこの神様(スサノオノ命)は稲田姫(クシナダ姫)と契りを結んでこの国に住んだときに
『八雲立つ出雲八重垣妻籠めに八重垣作る(その八重垣を)』と詠んだというから、
夫婦というものの離れがたさを神も知っているだろうに、なぜ我が身をたすけてくださらないのか」と
恨みながらも、礼拝を捧げた。


以上、テキトー訳。続く。

えー、今回は。
万葉集とか古今和歌集とかあとなんか古事記?の歌がたくさん引っ張ってあって、
すっごーく現代語訳しづらかった……
こうして引用される歌の意味とか詠み人の背景を知らないと、
当時でもなかなか意味がわからなかったんじゃないかなぁ。
他の段でも漢詩とか三国志、四書五経、果ては禅の公案などの仏教用語までもが頻出してるし。
昔の軍記物読者はものすごく教養がないとやってられないんじゃなかろうか。
私も軍記物だけ読むつもりでいたけど、たとえ古文を完璧に読めたとしても、こりゃ無理だわ。
ネットでいろいろ調べながらじゃないと、下敷きになってる物語が皆目ワカラン。
これを考えると、香川さんの教養がいかほどかと、びっくりしちゃうね、もう。
ああもうどうして吉川家中ってのは、元春をはじめとして武断派のくせにインテリなんだろう。

おっと、義久のことをすっかり忘れてた。
永禄九年と言うことは1566年か。義久は二十代の中盤で、ラブロマンスの似合う歳だね。
歌の引用を読み解くのにてんてこ舞いで、本当に悲しいのかどうかよくわからなかったけれども、
ずっと毛利家に対抗するつらい立場、それも長い篭城戦を支えてくれた奥方には、
ひとかたならぬ感謝と愛情があったんだろうと察するよ。

2011-10-14

尼子さんと和睦

前回のあらすじ:
月山冨田城を毛利が取り囲んで五年が経ち、そろそろ落城間近となったが、
元就が瘧病に罹って命も危なくなってしまった。
冨田の八幡大菩薩と名乗る老人が隆景と元春の夢枕に立ち、
尼子の命を助けて和睦をするようにと言う。
言うことを聞けば元就の病は平癒するだろうとも。
そこで元就たちは聖護院道増の弟子、道澄を通じて尼子に和睦を申し入れた。
道澄は昔預かった尼子義久の誓紙の下書きを取次役の米原に見せた。

てか、どうでもいいが、どうして「隆景・元春」の順番なんだろう?


隆景・元春、霊夢につき冨田城和平のこと(下)

  謹んで言上つかまつります。
  毛利元就とこの義久にはそれぞれ長年の確執がありますが、
  聖護院の御門跡(道増)が命じられたことですので、
  今後については和平を結び、これを違えることはいたしません。
  裏でよからぬことを画策するつもりはいささかもありません。
  もしもこの旨を偽りで申したのであれば、日本国六十余州の大小の神々、
  特に杵築大明神、大山権現、とりわけ愛宕山権現、八幡大菩薩、
  天満大自在天神の神罰を受けることでしょう。
  義久は心から決定に従い、神文を捧げます。
  この旨、皆様によろしくお伝えください。
    (永禄四年)十二月十四日         尼子三郎四郎義久
  大舘伊代守(晴忠)殿
  進土美作守(晴舎)殿

米原はこれを読んで、
「義久殿のこのような内意に、今更何の変わりがあろうか。
ことに今はたった一城に押し込められ、家之子郎党も皆敵に降伏していて、
日の翳りゆくときの槿花、宵闇を待つ蜉蝣にも増して危ない命が助かるのだ」と言われれば、
喜びに堪えず、「必ずそのようにいたします」と月山冨田城に赴いた。
そこで立原源太兵衛尉に会って道澄の用向きを伝える。
義久はすぐに一族郎党を呼び集め、「このことをどうしようか」と意見を求めた。

皆一同に言うには、
「この城は七(五)ヶ年も篭城しております。
食料は全て尽き、兵も日に日に減って今は三百人ほどになってしまいました。
そうはいっても、戦いは兵の多少が決め手ではないので、
兵糧さえあれば、味方の兵は心を一つにして主君のために命を投げ打とうと望んでいる者たちです。
毛利家の兵が百万騎だろうと、勝つことでしょう。
この城は日本一の名城です。何百年経とうとも、敵に落とされるようなことはありません。
たとえ兵糧がなくとも、この辺りの大将が一人でも二人でもいいから味方になってくれ、
援軍を差し向けてくれる可能性でもあれば、これを力としてまだ一年も半年もこの城は堪えられるでしょう。

しかし中国の九カ国すべてが毛利家になびき従っているだけでなく、
阿波の三吉(好)、越前の朝倉、近江の佐々木・浅井、河内の松永、
尾張の織田、備前の赤松・浦上、但馬の山名、丹波の赤井・波多野、丹後の両石川、
大坂の本願寺、紀伊の根来・雑賀の者たちまで、皆元就に丸め込まれています。
越後の長尾喜平景虎も、北条と武田を滅ぼし、上洛して公方の貢献を務めることになりましょう。
毛利元就も召し出されれば、両家は水魚の交わりをなし、天下泰平の方針となるだろうと、
義輝公がご存命だったときに申し上げたと聞き及んでいいます。

こうして毛利一味の諸将は日本六十余州に溢れ、尼子に味方する武将は一人もおりません。
こうなっては何を頼みにし、いつを限度として篭城を続けるというのでしょう。
やがて兵糧が尽き果てて無益に餓死するよりは、聖護院殿の和平の勧めを受け入れるのがよいでしょう。
これが自分の方から兜を脱いで降伏するのであれば、武門の面目も傷つきましょうが、
幸いにも元就の方から和睦を申し入れてきたのです。
その通りにして城を明け渡し、命を永らえて時機を待ちましょう。

元就はすでに六十を過ぎています。
不老不死の方術でも手にしない限りは、余命はいくばくもないでしょう。
元就が死ねば、策を講じて毛利を滅ぼすなどたやすいことです。
ここは道澄の調停どおり、速やかに和睦しなされ」と口々に言う。
義久もこれに同意して、「この城を明け渡します」と道澄に返答した。

永禄九年七月六日(十一月二十八日)、福原左近允貞俊・口羽刑部大輔通良は、
手勢二千騎余りを率いて駆けつけ、城を受け取って入城した。


以上、テキトー訳。

なんていうか、尼子の皆さん、何年も篭城して引きこもってる割には時勢に詳しいなw
この頃は、取り囲むといってもけっこう緩やかだったのかもね。
篭城攻略といえば「鳥取の飢え殺し」とか「備前松山の水攻め」なんて悲惨な戦場が真っ先に思い浮かぶけど、
たぶんこれらの方が規格外の戦法だったんだろうな。
信長配下の頃から秀吉の容赦のなさは怖いわぁ~……
元就も一族皆殺しとかやってるから、容赦ないには違いないんだろうけど、
秀吉はなぁ……なんか根っこのところでまったく違う感じがするんだよな。とってもイヤな感じ。
九州でもかなりひどいことやってるしな。
本筋と話がズレまくりだが、ちょっと秀吉は本気で好きになれない気がする。

それにしても「元就が死ねば毛利なんて怖くない!」とは、甘いにも程があるんだぜ。
何度も刃を交えた元春・隆景を物の数にも入れないとは。
さらに言えば、尼子こそが「経久さえ死ねば……」と思われていた側なんだよな。
この家は没落するって知りながら読むと、なんとも切ない望みだな、と思う。

さぁて、次はどこ読むかなー。
2011-10-13

元春・隆景「ゆっくり夢見ていってね!」

なんか「ゆっくりしていってね!」と叫びだしそうな人の名前があったと思ったら違った。
普通に(?)霊夢=不思議な夢だったよ。こりゃマイッタねw


隆景・元春、霊夢につき冨田城和平のこと(上)

冨田城の篭城は、昨日今日とは思っていても、
年月の移りゆく様は東に流れる水よりもさらに速く、時は惜しんでも止まらない。
光陰は弦から放たれる矢よりも速く、もうすでに七年(五年)になっていた。
食料も尽き果て、兵士たちも夜陰に乗じて敵に降伏する者が日に日に増え、
もはや尼子譜代恩顧の者たちがたった三百ほど残るだけとなった。
この城はもう間もなく落ちるだろうと、寄せ手は喜び勇み、城中は顔色を失ってただ息を呑んでいた。

そうしたころ、元就様は、数日ほど風邪を引いて臥せっていたが、やがて瘧(おこり)病になって、
さる五月の末ごろからは、寒気や発熱が頻発し、食事も喉を通らずに、見る間に衰弱してしまった。
元春・隆景は、医療の妙術をいくつも試してみたが、いっこうに効かない。
老人が瘧に罹ると快復しがたいものだ。
元春・隆景も寝食を忘れて看病した。
発熱がひどいときは手ずから枕元で扇ぎ、悪寒がひどいときには自分自身の体で席を暖めてから寝かせた。
薬湯や酒食もまず自ら試し、あるいは北斗の星に自分の命を替わりにしてほしいと祈ったけれども、
これも効き目がなかった。
肝臓と腎臓の間にさしこみがあるので鍼灸が効くだろうけれども、
老衰しているうえにしばらく食事も摂っていないので施術は難しく、どうしたものかと嘆息していた。

華佗の術を得ることもできないので、腹や背を割き破ってさしこみのあるところを絶つのも、
腸や胃を裁断して疾穢を洗浄するのも、神の薬で治すことも、ただの鍼や薬ではできるはずがない。
扁鵲でもないので、五臓の問題をすべて看破することもできずに、瘧病はひどくなる一方だった。
お命も危ないという状態になると、諸仏諸神に願い立てせずにはいられなかった。

あるとき、隆景がまどろんでいると、夢を見た。
八の字の眉は霜が降ったように白く、八十歳をゆうに越しているであろうと思われる老人が、
鳩杖をついて枕元にたった。
隆景が誰だろうと思って、「どこの国の人ですか」と尋ねると、
「私は冨田の八幡大菩薩だ。尼子の者たちは皆私の氏子である。
早く和睦を結んで囲いを解き、氏子たちの命を助けなさい。
もし私の言葉を信じないならば、元就の命を目の前で奪ってやろう。
よく聞けよ。尼子を傷つけて父の命を絶てば、不孝第一の罪というだけでなく、
子々孫々にまでその影響が及ぶであろう。
もし私の望むようにすれば、元就の瘧はたちまち平癒するだろう」
と言って、去っていくところで夢が覚めた。

隆景は奇異に思って、すぐに元春のところへ向かった。
霊夢の有様を話すと、元春は手をパチリと打つ。
「私も昨日、まったく同じ夢を見た。
世は道義の廃れた乱世になったとはいえ、神の力は未だに強いものだ。
氏子を憐れんで、他の人ではなく我ら霊験を顕してくださったのは実にありがたいことだなあ」と、
感涙を押しとどめることができなかった。

兄弟は揃って元就様の御前に向かい、このようなことがありましたと語った。
元就は、「それは紛れもなく神託だろう。
聖護院の准后(道増)が、以前から、和睦を結んで尼子の命を助けるように言ってきていた。
では聖護院殿に、城中へ和平を結ぶように呼びかけていただけ」と指示した。
折りしも准后は六月の末に厳島から都に上っていたので、
弟子の道澄を呼び寄せてこの旨を伝えると、道澄はすぐに動いた。

米原平内兵衛尉綱寛に接触して「尼子の人々の命を助けようというのが元就の考えだ。
大樹(将軍)義輝がまだご存命であったとき、毛利と尼子は和睦すべしと、
准后を通して両家に沙汰をした。
そのとき、元就は八ヶ条の理由をつけて断ってきた。
大樹はそれでも、もう一度元就に和平せよとの旨を通達しようとしたけれども、
元就の言い分が一つひとつもっとも道理だったので、とりあえずは評定を開こうとしていた矢先に、
三吉(好)の三人衆に理由もなく殺されてしまわれたのだ(永禄八年五月十九日)。
そのとき、(尼子)義久は和平に応じる旨を誓紙にして提出している。
さあ、これがその下書きの控えだ」と言って取り出した紙を米原に見せた。

「こういう次第なので、義久に異存はないだろう。おまえ様もよくよく心を鎮めなされ」
言われて、米原はこれを開いてみた。


以上、テキトー訳。次回に続く。

二人の息子(イケメン)に至れり尽くせりで看病される元就爺さん。
なんとウラヤマシ……おっと、病気をうらやんだらいけないよな。
とは思いつつ、今回はマジで元就に殺意が沸いたわー。
発熱すれば元春が手ずから扇いでくれて、寒気がすれば隆景が人肌で暖めた布団に横になれる。
極楽じゃねぇか。もうそのまま極楽いっちまえYO!と思った。
隆元がこの場にいなくてよかった。
看病したのが隆元だったら、数百年前のそれもフィクションに対して、本気で嫉妬しそうだった。
でも隆元だったらどんな看病するのかは気になるところw

なんか、元春と隆景も仲よさそうで嫉妬。
二人揃って同じ夢見たりとか、もう仲いいってレベルじゃないだろ!
お兄ちゃんご存命の折も二人だけで「ちこちこ」してたらしいじゃないの。
隆元が元就に対して送った、
「あいつら二人だけでコソコソしてるんですよ!
そういうときにはこちらから仲良くしてみようとするけれど、うまくいかないんです」
って手紙が残っているらしい。
ああ、是非ともその肉筆を拝みたいものだ……

今回ここで切ったのは、続く誓紙部分を読み下すのに手間取っているため。
言い回しがさらにワケわかんなくて涙が出そうなんだぜ……。
次回、明日更新できるんだろうか。
2011-10-12

三村家親のお手柄

帰りが遅くなってしまったので、
面白そうな章を探すのを断念して昨日の続き。


大江の城没落のこと

]大江の城(溝口町)には吉田左京亮の嫡子、吉田肥前守がいた。
そのころはまだ源四郎といって十二歳になったところだったが、
家之子郎党たちが補助して共に二百人ばかりで立てこもっていた。
元就様は三村修理亮家親に言った。
「左京の嫡子で源四郎という者が大江の城にいる。おまえは父の左京を討ったのだから、
この源四郎も討ち果たすがよい」
これを聞いた家親は、「もちろん、そうしようと思っていたところです」と喜んで了承した。
検使として香川左衛門尉光景が遣わされた。

同(永禄八年)九月三日、三村は二千騎ほどでその城に押し寄せた。
大手門には三村家親自身が真っ先に進んで攻め入り、城中の兵も命を投げ打って懸命に防戦したが、
二度までは追い払うことができても多勢に無勢、かなわず一、二の門を破られてしまった。
裏門には香川左衛門尉光景・嫡子少輔五郎広景・次男兵部大輔春継がつき、
激しく切り入って城の戸を押し破る。
少輔五郎・兵部大輔・郎党の三宅源四郎は多数の敵を切り伏せて、首を取って城中に乱入した。
左衛門尉は左肩をしたたかに射られていた。

城中の兵、谷上孫兵衛尉・福山肥後守・熊谷(くまたに)又兵衛尉を先頭に、
六十人あまりが源四郎を真ん中に取り囲んで、大手門に一直線に駆けてくる。
さすがの三村も道を開けて通してしまい、手出しもできずに通してしまった。
家親は逃がすまいと追いかけたけれども、まったく相手にされずに打ち払われ、源四郎の命は助かった。
実に立派な引き際である。
寄せ手百三十人あまりが首を取り、勝鬨をわっと上げた。

家親はそのままこの城にしばらくとどまったが、
冨田から牛夜中に尾弾正忠・秋上伊織助・本田与次郎などが、三千ばかりを率いて夜中に押し寄せてきた。
家親もそろそろ来るだろうと用心していたので、すぐに城門から出て激しく応戦した。
香川左衛門尉・同少輔五郎・同兵部太輔は裏門から打って出、向かってくる敵を追い払い、
正門の寄せ手の横合いに突きかかったので、尼子勢もたちまち勝機を失い、一気にサッと引いていった。
どうしたことか、この合戦では、味方に死人は一人も出なかった。
三村の郎党が四、五人ほど負傷したが、命に別状はなかった。

さて、この城には家親が三村五郎兵衛尉・海辺左近右衛門・村松宗兵衛尉らに五百騎程度を残して駐屯させた。
三村自身は法性(勝)寺の城に帰ったが、やがて元就様が南条氏に対して人を出すように命じ、
宗勝がこれに応えて、山田越中守・一条市助・南条備前守・正寿院利菴・赤木兵太夫らをはじめとして
主だった兵を六百あまり向かわせたので、三村の手勢は城を明け渡して法性寺に戻っていった。
三村は法性寺の城からあちこちへ打ち出て冨田勢と三度ほど槍を交えたが、
家親は一度も不覚を取らず、すべてに勝利を得たそうだ。


以上、テキトー訳。

前回に続き、地味~な攻防。
若干十二歳の大将を捻り潰そうとする方もアレだけど
担ぎ上げるほうも大概だよな。
まあうまいこと逃げたみたいだが。

面白そうな話は休日にでも探しておきます
2011-10-11

隆景VSストーカー、そのほか一本

前回、隆景の見せ場がないとボヤいていたら、続きにあったよ。
なので今回も広家はお預け。
昨日の続きの段を読んでみた。
今回は短いので2段ぶっ続け。


冨田退口合戦のこと

同(永禄八年四月)二十八日、元就様は冨田表を引き払い洗合城に引き上げた。
元春・隆景が二手に分かれて後陣を務めて引いていくと、
城中から秋山伊織助・森脇長門守らが足軽五百人あまりで追いかけてきた。
皆弓や鉄砲を手にし、後陣には屈強な兵士たちが一千騎ばかり続く。
元春の隊では熊谷信直がしんがりを務めたが、敵が追いかけてくるのを見て、
元春と信直は静かに馬を引き返し、一戦してやろうと待ち受けるも、
敵は何を思ったのか、こちらにはかかってこない。隆景の方をヒタヒタとつけてきていた。

隆景が「あれを追い払え」と命じれば、小早川勢は我も我もと取って返し、激しく戦った。
尼子家の者たちはもともと数が少ないので、敵が戻ってくればさっと引き、
また敵が引けばしつこく跡を追ってくる。
小早川衆が引くにも引けないで困っているのを見透かして尼子勢がわっとかかってきた。
押され気味になってきたので隆景も馬を引き返し、采配を振るって軍士たちに檄を飛ばしていると、
井上又右衛門が敵の先頭に進んでいた原弥四郎という者を槍で突き伏せ、首を押し切って掲げる。
吉田衆の三輪小次郎も続いて敵を一人討ち取った。
敵がこの者たちに手を焼いているところに、宍戸安芸守・熊谷伊豆守が助けに駆けつけた。
尼子勢はもうかなわないと思ったのか、一度にサッと引いて、そのあとはもう追ってこなかった。
寄せ手は安心して洗合城に戻っていった。


伯耆江美の城没落のこと

伯耆の江美(江尾とも)の城主、蜂塚右衛門尉は、先年尼子を裏切って元就様に従ったが、
本庄父子を誅殺したときから何か思うことがあったのか、尼子傘下に戻った。
尼子は頼りがいもなく勢力を落としていく一方で、蜂塚の一族は、
「こうなればもう年来の契約を破って、元就に復縁を求めて降参してください」と訴えた。

しかし蜂塚は
「当家は尼子に長年世話になっているというのに、それを忘れて一度は毛利になびき、従った。
これは私の本意ではなかったが、さらにはそれだけで終わらず、
もとの尼子傘下に立ち帰ったのもいよいよ悔やまれることである。
尼子家の滅亡が近いと見て、今また弱い者を捨て強い者に近づこうとするのは、
人の心など揺らぎやすいのが世の常識だとは言っても、あまりに口惜しい。
是非もない。今度は討ち死にと思い定めてくれ。

命が惜しい者は毛利家に降伏するといい。侍は渡るものなので私は少しも恨んだりしない。
私はただ一人になろうともこの城を守り、城の門扉を枕に討ち死にしようと思う」と言った。
家之子郎党たちも皆この理に納得し、一丸となって討ち死にしようと思い定めていた。

蜂塚が尼子方として残っていることを知った元春は、杉原播磨守盛重に蜂塚を攻め滅ぼすように命じ、
検使として今田上野介・二宮杢助・森脇市郎左衛門・山県四郎右衛門などを送った。
その同(永禄八年)八月朔日(一日)、美保の関から船に乗って攻め渡ろうとしていると、
にわかに猛風が吹き荒れて秋雨がしぶいて怒涛が海岸を襲った。
船が転覆しそうになったので諦めて漕ぎ戻り、福良・トノ井に四日間逗留して、
壊れた船を修理したあと、同五日に攻め渡った。
山県四郎右衛門・屋吹(葺)四郎兵衛尉らを伴って夜半に蜂塚の屋敷に押し入り、放火した。
けれども敵は屋敷を空けてすべて城に篭っていたので、一人として兵を失わなかった。

翌朝、寄せ手は三千騎あまりで城の左右の山頂に上って鉄砲を激しく撃ちかける。
雑兵たちはたまりかねて城中から崩れ出てきた。
これを皆追い詰めて一人も残さず討ち取った。
蜂塚はもはやかなうまいと思ったのだろう、腹を掻っ切って絶命していた。

杉原・今田以下、数百人が首を取って、意気揚々と帰ってきた。
元春は「こうして江美の城を無事に切り崩したことは実に粉骨砕身の働きであった。
しかし、暴風雨のなか船を無理に押し出し、多くの兵を失いそうになったのは、
なんとも首尾が悪いというほかない」とカンカンに怒って、
今田・二宮・森脇・山県らは、四十五日間ほど出仕を止められた(謹慎させられた)。


以上、テキトー訳。

まあ、特にどうってことのない話。
隆景が粘着されてて、なんかホッとした。お約束的な意味で。
けしかけといて相手が応戦し始めると引き、隙を大きくして襲い掛かるのは、
真田のお兄ちゃんたちも得意な戦法で、北条さんたちが翻弄されてたっけ。
少人数でもかなり効果的な手法らしい。心理戦なのかな。
こういうところを見ると、尼子も用兵は上手な方なんだけど。
事実、隆景隊もかなり困ったみたいで付け入る隙を与えてるしね。
元春の手勢がそれを助けるのもお約束。
マジで熊谷のじい様カッコイイわ~。

下の段は、gdgdの蜂塚さんVSこれまたgdgdの吉川勢。
蜂塚さんみたいなタイミングの悪い人って、今でもいるよなぁ……
昔ファミコンが流行ってたときに、親父が「これからはコレが流行る!」とか言って
PCエンジンとかいうハード買ってきたの思い出したわ。
次に流行ったの、ゲームボーイとスーファミだったじゃねーか。
なんか見てて切な~くなってくるタイプだよね。
そして難なく城を落としてきたのに「無茶しちゃダメでしょ!」と叱られる吉川勢がかわいそうだw
こんな上司、萎える。香川さんみたく言い返せばよかったのにw

さてさて次は……まだ上巻で面白そうなトコ探すか。
目次の準備を始めてるんだけど、上巻だけでもドライアイに苦しんでいるのに、
下巻も一緒となったら気が遠くなる……広家はまだまだお預けだな、こりゃ。
2011-10-10

冨田城攻め菅谷口――怪物退治もあるよ!

前回のあらすじ:
出雲に来た輝元がじい様に初陣をおねだりしたため、
毛利勢は三手に分かれて尼子勢をいたぶることになった。
菅谷口に配備された備後勢の働きやいかに!?

……ええ、ここまでコピペですが何か?


冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(4)

また、菅谷口へは小早川隆景、そのほか出雲の米原平内兵衛尉、
伯耆の杉原播磨守・南条豊後守宗勝が馳せ向かい、
城中からは八郎四郎秀久に立原備前守・目黒宗六・池田入道・
本多与次郎・卯山飛騨守らが三千余騎で打ち出てきた。

米原は当国(出雲)の者なので、是非とも先陣を任せてほしいと何度も訴え、望んだ通りに先陣を任された。
敵味方とも射手を進め鬨の声を上げて槍を合わせるが、やがて足軽を押しのけて乱戦となり、
寄せ手からは米原の郎党、半ノ上源介が名乗りを挙げ、城兵からは本田与次郎が名乗り出て一番に渡り合う。
どちらも日頃からよく知った仲なので、互いに莞爾と打ち笑って駆け寄った。

半ノ上が「やあやあ本田殿。面目もない槍を披露いたしますぞ」と声をかけた。
半ノ上の主君の米原平内は、若かりしころ容顔が優れて美しかったため、晴久の寵愛がとても深く、
所領を数箇所与えられたにもかかわらず、その厚恩をすっかり忘れて今は敵の一味となっている。
実に忠臣義士の本分に背いた行いだと、たいそう恥ずかしく思ったからこその半ノ上の言葉だった。
面目もないという言葉は、半ノ上の心に節義があることを示していて、
主君とは違って立派な心栄えだと、人は皆感じ入った。

半ノ上と本田はすぐに渡り合って激しく戦ったが、
半ノ上は主君の不義を咎める天罰を身に受けたのか、たちまち突き伏せられて、
ついに本田に討ち取られてしまった。

この者が苗字に「半ノ上」と名乗っているのは、こんなことに由来している。
昔、冨田川の天の渕というところに
大きな「はんさけ(テイ魚。テイは魚偏に帝。山椒魚のことと思われる)」がいた。
この魚がよく人を襲ったので、その渕の辺りの四、五町(500メートルくらい)の間は、
人の往来が絶えてしまった。
ここに、今の半ノ上の五代前の先祖で、半ノ上弾正忠という者が、
「山椒魚などに妨げられて道の往来を絶やすなど、ばかばかしいことだ。
どんな悪魚といっても、まさか人の力にはかなうまい。私がその魚を退治してやろう」と言いだした。
鎧をがっちりと着込み、兜と頬当をしっかりとつけ、先祖伝来の二本の太刀を抜き身のまま持って、
川上から流れるように泳いでいく。
その山椒魚は口をあけて待ち保けていたところで、人が一人流れてきたので、大喜びしてすぐに丸呑みにした。

半ノ上は口の中に頭が呑まれようというとき、刀を横に突き刺した。
刀はその魚のエラに刺さった。「無門関」を記した恵開が一つの「無」の字を示して言い置いた、
「焼けた鉄の玉を呑んだときのように」、呑み込む事も吐き出すこともできずに、
その魚はたまりかねて水中を飛び出し、川原に一町ばかり這い上がった。
半ノ上が刀でエラをズタズタに切り裂くと、ついにその魚はその場所で息絶えた。
それで「はんさけの上」と書いて「ハンノウエ」と読んだということだ。

こうした者の末裔であればこそ、心栄えも代々世間の人とは違っていたらしく、
この源介もこれまで何度も武名を上げたが、今回も比類のない討ち死にを遂げたのだった。

杉原盛重は城中の兵、目黒甚四郎を危なげなく討ち取り、南条宗勝の郎党が池田宗六の首を取った。
尼子勢の本田豊前守はわが子の与次郎が駆け出していったのを影ながら守ってやりたいと考え、
岩倉寺に出て山下の合戦の様子をうかがっていた。
与次郎が菅谷口で追いつ返しつしているのを見て、岩倉寺から五百ばかりで挟み込み、
横合いから敵の真ん中へ突きかかる。
寄せ手はたちまち追い立てられて退却した。
隆景はこれを見て、「先陣の勝機を逃したぞ。入れ替われ」と命じた。
備後勢の木梨・楢崎・三吉、小早川の手勢末長七郎左衛門・真田孫兵衛尉・
河井大炊助・山田新右衛門・草井式部少輔・南兵庫助などが、命を捨ててかかっていく。
隆景も旗本衆をけしかけたので、秀久はやがて押し負けて退却した。
この口でも首を五十三討ち取った。

そのほか、地侍たちが所々で首を取り、合計して二百六十以上に上った。
城側では三口合わせて五十七の首級を挙げたそうだ。

今度の塩谷・尾小森・菅谷三箇所の合戦では、いずれも最初の戦では尼子が勝ち、
二、三番の戦では毛利三家と名高い毛利・吉川・小早川の旗本衆によって勝利した。
こうして諸軍士たちは皆勝鬨を上げて討ち入り、
それぞれ冨田の八幡山・浄安寺山・石原・上田・星上山に陣を張っていた。
寄せ手は三万騎、冨田城兵は一万騎ほどいたそうだ。
尼子は兄弟三人とも若い大将であり、しかも勢力が日に日に衰えていっているというのに、
立派に三倍の寄せ手に向き合った。
三箇所とも緒戦に勝ち、最終勝負でもそれほどの退廃を喫しなかったのは、
経久の武勇の余慶が残っているからだろうと、人は皆うわさしあった。


以上、テキトー訳。この段はここまで。

ほとんど半ノ上の話じゃねーか。隆景どうした、隆景w
何かとピンチに陥る末っ子には、是非ともまた危機に瀕してもらいたかったが、
そうは問屋がおろさないらしい。
さすがに成長しちゃったな……おいちゃん、ちょっと寂しいよ。

化け物退治の話もあったが、今回の半ノ上さんのご先祖も怪物退治してるね。
人を呑み込むほどのオオサンショウウオってどんなだw
なぜか脳内ではウーパールーパーで再生されたけども。
鯨並みにデカイはず。そんな巨体で川に棲息できてるほうがすごい。
まあオオサンショウウオって両生類らしいから肺呼吸できるしね。水気があればいいのか。
しかしそれだけデカイ死体をどうしたのか気にかかります。
というか普段何食ってたんだろうな、こいつ。
人通りも絶えてるのに、川魚で腹を満たしてたのか?
警戒心の強い小魚が多いのに? かなり謎だ。
あとご先祖、がっちり鎧着込んで川で遊ばないでください。死ぬわ。

次回、未定。
もしかしたらそろそろ下巻にも手を伸ばすかもしれない。
広家を読みたい、広家。
2011-10-10

【お絵描き】輝元に挑戦

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2011-10-09

冨田城攻め――吉川勢の場合

前回のあらすじ:
出雲に来た輝元がじい様に初陣をおねだりしたため、
毛利勢は三手に分かれて尼子勢をいたぶることになった。
塩谷口担当になった吉川勢の働きやいかに!?


冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(3)

また塩谷口へは吉川治部少輔元春・嫡子少輔二郎元長を大将として、熊谷伊豆守信直が付き従って押し寄せた。
ここでもまた抜け駆けした者が多かった。
まず吉川衆の笠間刑部少輔・香川兵部大輔・二宮右京亮・須子平左衛門・森脇采女正・朝枝市允、
熊谷の郎党の細迫源右衛門・阿曽沼の若党山本何某など、五百ばかりで一番に塩谷へ押し寄せた。

この者たちがこうして深入りしたのは、二宮右京亮と須子平左衛門とに、先を争う競争心があったためである。
どうしてかというと、先日、カラカラ橋を架けた際、元春が須子平左衛門尉を橋の奉行に任じた。
二宮は元春に、
「このカラカラ橋を架けるときに、もし敵が打ち出てきて不意に戦闘にでもなれば、
味方は大きな損害をこうむります。
だから、多くの人がいる中で須子を選び出され、あの人も実に鼻が高いことでしょう。
あの須子という人はいつも自分の武勇を誇って、
我らのような若輩者を膝の下に敷いた虫程度にも思っておりません。
舌が回るに任せて、勇ましく荒っぽい言葉を吐き散らすような意地の悪い人です。
今度カラカラ橋辺りで戦があっても、須子と正面から勝負して勝利できる者は、
敵の冨田勢のなかにもそうはいないはず。十中八九は須子が大勝すると思います。
そうなればあの人は以前にも増して自分の武勇を自慢し、我らのような若者を風下に置こうとするでしょう。

及ばずながら、私もカラカラ橋の普請の奉行にしていただきたく、元春様に申し上げます。
それというのも、カラカラ橋の完成を待たずに敵が打ち出てきて不意の戦になれば、
須子一人では危ないと思うのです。
ものの役にも立たない身ではございますが、是非私に任じてください。
一人は橋を架けるために普請の奉行を務め、
もう一人は敵が来るのか来ないのかをうかがうのに偵察などを出して、交戦の準備に専心できます」
と進言した。

元春は二宮の意見を聞いて、「おまえの言うことはまったく道理だ」とすぐに了承し、
二宮もさし添えて任務に当たらせた。
このときから、二宮と須子はさらに武勇を争うようになった。
だから、今度も負けてたまるか、遅れてなるものかと競って先に進み、
気付かぬうちに塩谷の奥深くまで攻め入ってしまっていた。

ここで山上をキッと見れば、敵は三、四千ばかりで待ち構えている。
森脇市正・平野又右衛門・大西十兵衛・立原源太兵衛尉など七百騎が真っ先に進み、
左右の尾根の上から下ってきて射手を先頭に立て、ヒタヒタと近づいてきた。
寄せ手の五百騎がこれに渡り合い、槍の先から火炎を出して激しく戦う。
こうしたところに尼子方の秋山三郎左衛門尉・秋山伊織助・福山次郎左衛門尉ら三百人あまりが、
茶磨山という小さな丸い山の麓を回って、横槍にドッと突きかかってきた。
寄せ手が二手に分かれて戦っていると、笠間刑部少輔は兜の半月の立物(飾り)を少し突き折られた。
そのほかの者も手傷を負っているうえ、不意に横槍を入れられたのではかなわない。
しかし一騎当千の精鋭らしく、命を限りに防いでいる。

尼子方の横道源介が、尾小森口に抜け駆けして寄せる敵の後ろを遮ろうと、百五十騎ばかりで駆けてきたが、
塩谷口の合戦が大きく動いたと見て取って、山上から一直線に下り、
後陣に進んでいた細迫源右衛門と渡り合った。
いずれも劣らぬ勇士なら、突きつ突かれつの激戦となった。
ついに細迫の命運が尽きたのか、草摺の脇をしたたかに突かれる。
しかしそれでも物ともせずに戦っていると、次の槍に鎧の内側を突かれ、
さしもの細迫もこの深手には目の前が真っ暗になり、しりもちをついてドウと倒れた。
城中の兵たちはこれに力を得て一気にドッと突きかかってきた。
寄せ手の後陣はたちまち壊乱し、退却する。

先に進んだ兵たちは、後陣が敗れたので一人残らず討ち取られているかと思えば、
皆勇士なのでまったく騒ぎ立てず、槍を構えたまま足並みも乱さずに静かに退却していく。
さしもの冨田勢も近付くことができず、敵の足並みが乱れたときに虚を衝いて討ち取ってやろうと、
同じように静かに跡をつけていった。

元春は、二宮杢助・吉川与次郎・森脇市郎右衛門・山県四郎右衛門たちに
「今日は、抜け駆けして塩谷の奥深くまで入っていった者がいるようだ。行って止めてこい」
と言って差し向けた。

四人の者たちが冨田川のこちら岸まで出て行くと、先駆けした味方の後陣が総崩れになるのを見て、
これは抜け駆けした者たちが戦に負けたなと見て、急いで川を駆け渡った。
冨田勢は大いに勇んで追いかけてくる。二宮たちは応戦しようと足を進めた。
先に退却していた笠間・香川たちはこれに力を得て一気に取って返し、
二宮・森脇と一緒になって遮二無二突きかかったため、
冨田勢は二度目の合戦に敗退してはるか山上まで引き退いてしまった。

横道は細迫を押し倒して首を取ろうと二太刀ばかり浴びせたところに、
敵がわめいてかかってきたので、仕方なく打ち捨てて退却した。
細迫の郎党たちは、手負いの主君を肩に担いで味方の陣に引いていく。

その後、吉川治部少輔元春・嫡子少輔二郎元長が旗本衆を率いて塩谷口へ攻めかけ、
熊谷・阿曽沼も従って、五千余騎が鬨の声を上げて進んだ。
城中からも九郎倫久が四千余騎で打ち出で、互いに弓隊・鉄砲隊を先に進めてしばらく野戦をしていた。
やがて足軽を押しのけ、突きつ突かれつ入り乱れて戦った。

城中でも立原源太兵衛尉・山中鹿助・黒田右京などが真っ先に進んで武勇を示す。
井上豊後守は、河内の畠山家人丹下に従っていたが冨田に寝返り、
このときは川添美作守の手勢に加わっていた。
川添がこの口に出陣したので共に打って出て、井上弥四郎と名乗って比類ない槍働きをした。

少輔二郎元長は、熊谷伊豆守信直にとっては、娘が産んだ孫である。
信直はそばを離れず付き添って先陣に進み、元長・信直と名乗って吉川衆熊谷勢を一手にまとめて戦う。
元長が真っ先に駆け出て行くのを見て、信直は
「さすがは元春の子、真の獅子児だ。あなたもまた鬼吉川と呼ばれるようになりましょうな。
外戚の私に似たとしても、武勇を人に笑われることなどありますまい」と自賛して、
世にも嬉しそうにしていた。

冨田勢が少し押していると見た九郎倫久は、
「さあ、味方が大勝利を得るぞ。一気に抑えてやれ!」と采配を打ち振るって駆け出る。
尼子勢も鬨の声を上げて進んだ。
寄せ手が引きそうになっていると、元春の旗本衆七百ばかりが左の方へ押しまわして攻め懸ける。
熊谷・阿曽沼たちも身命を捨てて熱戦したので、尼子勢は突き立てられて散り散りに逃げていった。
塩谷の奥まで追い込んで、寄せ手が討ち取った首は六十以上にも上った。詳細は省く。


以上、テキトー訳。あと1回でオシマイだと思う。

吉川勢は吉田勢と違ってお笑いもなく、マジメに戦しとるなー。
やっぱり抜け駆けとかライバル心むき出しの競争はあったみたいだけれどもw
丁々発止といった緊迫感だね。さすが。
細迫さんはかなり重傷のようだけど、助かったんだろうか……

さて、待ってました。
もう一人のおじいちゃん、熊谷信直さんのデレっぷりが描写されてるよ!
信直さんも大好き。
この人は、「平家物語」に登場するあの熊谷直実(平敦盛の首を取った人)の子孫で、
もともと安芸武田氏についてて、父親を有田中井手(毛利と吉川VS安芸武田)の合戦で亡くしてる。
なんやかんやあって毛利勢と力を合わせて戦することがあって、元就の才能に惹かれたらしい。
元春と娘の縁談が整ってからは、毛利にべったり。
だいたい「吉川勢」てのが出てくると、お神酒徳利のように熊谷さんの名前が登場してるね。
つまり婿の元春にべったり。いい舅だなあ。

そして今回は孫にべったり!!!
「うちの孫ってば超天才!」な、ジジバカっぷりを披露してくれて最高に嬉しい。
信直さんのイメージはごついコワモテなんだけど、
そういう人が孫とかにデレデレになってるとギャップに萌えるよね。
しかし、ホントにいい家族だなぁ……こんなおじいちゃんが欲しい。

次回は菅谷口に配備された隆景たちのお話。
2011-10-09

エ/ロ/ゲ/塗/りテスト(隆元)

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2011-10-08

TERUの初陣withじい様

前回のあらすじ:
「自分も戦いたい」と勇む輝元の志にデレッデレの元就が、
その意気に応え、月山冨田城の麓で一戦する用意を整えた。
なぜならTERUは特別な存在だから……

とまあ、今回もデレ就モードなのかな?


冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(2)

元就様は軍士たちに対し、「旗本からの指示もなく抜け駆けをした者は、
たとえ群を抜いた活躍をしたとしても、ことごとく首を刎ねることとする」と堅く触れを出した。
それにもかかわらず、いきなり抜け駆けして先陣に進む者たちがいた。
尾小森口には、木原兵部少輔・木原二郎兵衛尉・吉川少輔五郎・粟屋彦右衛門・
三須兵部少輔・南方宮内少輔・桜井与二郎・井上宗右衛門尉・蔵田東市助・
粟屋右京亮・児玉四郎兵衛尉・横見など五百騎が真っ先に進んだ。
敵方の細矢杢助・河本弥兵衛尉など二百ばかりの勢とぶつかり合い、激しく戦った。

寄せ手は多勢に任せて勢い良く攻め込み、たちまち追い立ててしまうと、
尼子勢は一旦は壊乱して退却していき、これに寄せ手が追い討ちをかけた。
金尾の洞光寺の後畠というところで尼子勢が踏みとどまって抗戦しようとしていると、
寄せ手はなおも突撃をかけ、またもや尼子を退却させた。
細矢は逃げる際に、敵兵に槍を投げて攻撃したが、
先頭で肩を並べていた香川少輔五郎・粟屋彦右衛門尉の間を通って、後ろの土へと穂先が刺さった。

寄せ手が一人残らず討ち取ってくれようと追いかけていくと、尾小森の坂を過ぎ、
城の中から吉田八郎左衛門・福山肥後守・牛尾弾正忠・三刀屋蔵人・中井駿河守・
中井平蔵兵衛尉など1千ばかりの将兵が、山の上の方に居並んで、鉄砲を激しく撃ちかけてきた。
横見・桜井は矢場で射伏せられ、香川の郎党四人、三須の若党三人も撃ち殺された。

木原兵部はこれを見て、「うしろの味方はまだ追いついてきておらず、
現在ここにいる兵たちは鉄砲を一挺も持っていない。これでは的にされて撃たれるばかりだ。
我らは歴戦の手練れだと得意顔をして若者たちを引き連れてきている。
この者たちに手傷など負わせれば、この木原の不覚。皆々、ここは引いてくれ」と呼びかけた。
香川・粟屋は「まず木原殿が退却してくだされ。我らは若輩者なのでしんがりを務めます」と言うので、
木原は再三辞退したものの、「いやいや、皆としんがりを争うのも大人気ない。では私が先に引こう」となった。

しかし木原はおめおめと退却するのは悔しいと思ったのか、
石の上に駆け上がり、敵に向かって
「こっちに下りてこい、存分に戦ってやると、さっきから言っているだろう。我らの武威を知って臆したか。
下りてきもしないで、遠矢を射掛けてくるだけとは、卑怯な振る舞いだ。
さあ、こう言われて悔しければ、早くここに来い。手並みを見てやるぞ」と挑発した。
敵は耳にも入っていない様子で、ただ射掛けてくる。
そのとき、木原は鎧をつけていなかったが、尻を高く掲げて、
「尼子の臆病者どもめ、これでも喰らえ」と、二、三回叩いて見せた。

これを見た敵は「憎い仕打ちをするものだ。あれを射殺せ」と、さかんに発砲するが、一発も当たらない。
木原はこれを目処に、「さて退却だ」と兵を引いた。
木原は岩の陰を通過しようというときに敵が追いかけてくるのでツッと出て、一人を切り伏せた。
けれども敵は多勢だったので、一人ぐらい殺されようとも構わず追ってくる。

寄せ手の毛利勢は、先陣で衝突が始まったということで、我先にと二千ばかりで抗戦するも、
逆上した尼子勢を相手に、たちまち上鑓(槍の突き合いで劣勢)になって、攻めきれずに引き退いた。
これを見て、福原左近允貞俊・桂能登守元澄・桂上総介元忠・志道上野介広好・
口羽下野守通好・口羽伯耆守春好・児玉三郎左衛門就忠・児玉内蔵丞就方・
坂新五左衛門就清・渡辺左衛門太夫・渡辺肥後守・粟屋縫殿助・粟屋内蔵丞・庄原兵部などが、
三千騎あまりで駆けつけ、応戦した。
先ほど戦って引き上げてきた香川少輔五郎広景・三須兵部少輔隆経・粟屋彦右衛門・南方宮内少輔・
木原兵部少輔・木原二郎兵衛尉・井上宗右衛門・蔵田東市助・粟屋右京・児玉四郎兵衛尉などが、
ここに引き返して、身命を惜しまず攻め戦った。

尼子義久は四千程度で出陣しており、自らは山上に控えて、尾小森口から兵を出し、
地の利を生かして敵を破ろうと、采配を打ち振るいながら指示を飛ばす様子は、腐っても大将といったところだ。
輝元様は敵味方が命を限りに戦う姿を見て、自らも駆け出し奮戦しようとするも、
祖父の元就様が「ちょっと待て」と鎧の上帯を捕まえて引き寄せる。
「このわしがよく折を見計らって駆けさせてやるからな」と、自由に動こうとするのを許さなかった。

さて、この口の寄せ手は一万五千騎程度。
多勢なので、先陣が押し立てられても、二陣、三陣から次々とせり上がってくる。
尼子は数こそ少ないが、死を一途に思い定めて篭城するような譜代恩顧の臣たちなので、
今日が最終決戦とばかりに戦った。
千騎がたった一騎になるまでも、一歩たりとも引かないだろうと見えて、
この合戦がいつ終わるのか、だれも見当がつかなかった。

義久は大音声を上げて、「味方が勝ちそうな気配だぞ。進め、者ども」と、攻め鼓を打って進んだ。
寄せ手は少し押されていると思い、声に力を入れて入り乱れ戦う。
元就様は何を見切ったのか、「そろそろ輝元の旗本衆が打って出て戦い、勝利を得てこい」と、
捕まえていた上帯を話した。輝元は「もちろんです!」と喜んで、まっすぐに駆け出す。
同時に、天野民部少輔・天野紀伊守・天野中務が真っ先に進んで切りかかった。
粟屋掃部助・国司右京亮など、旗本に備えていた者たちも、遅れてなるものかと駆け出した。

先陣はこれに力を得て、「ここが正念場だ」と言って、斬られるとも射られるとも少しも構わずに、
まっすぐに敵に向かっていった。
尼子勢はたちまち追い立てられ、すぐにサッと退却した。
寄せ手も勇んで六、七町ばかり(700メートル程度)追いかけたが、
義久が千程度の手勢を温存して山上に控えていたので、
元就様が「深追いするな」と指示し、兵たちを陣のところに戻した。

この戦いで首を七十あまり討ち取り、味方も三十余人討たれた。
高名を挙げたのは内藤河内守・永井右衛門太夫、そのほか多数いたけれども、
この日だけで二百六十以上の首級が挙がったので、すべては記せない。


以上、テキトー訳。まだ続く。

なんというコメディwww
まず、元就の言うことをちっとも聞かずに抜け駆けする野郎ども。
槍を投げちゃう細矢さん。しかもまったく当たらない。
「お尻ペンペン」というイマドキ小学生でも引っかからない挑発に易々と乗る尼子勢。
ていうか木原さん、鎧もつけずに抜け駆けとか、何やってんですかwww
そして、後先考えず駆け出そうとする輝元を、
犬の鎖を引くように上帯を捕らえて制御するじい様。
なんなの、この楽しそうな戦場は!!!
こういうシーンは映画とか漫画とかで見たいなぁ。

なんか、厳島合戦の緊迫した描写とは全然違ってびっくりした。
あの悲壮感漂う鬱展開は今でも思い出すと涙が出そうだが、
この冨田麓合戦は笑いが抑えきれない。
緊迫はしてるんだけど、厳島とは別の緊張感だな、こりゃ。
言うなれば、ドリフの大掛かりなコントみたいな感じなのかも。

ああ、やっぱりTERUにはこういうおバカな雰囲気が似合うなあ。
かわゆいかわゆい。TERU大好き。
元就も、なかなかどうして、役者じゃないの。
とくに、上帯つかんで引き寄せるとか、マジGJ!!!
元長のときみたいに制止が間に合わなくて追いかける羽目にならなくてよかったね!

えー、次回も続き。塩谷口に配置された吉川勢のお話だね。
2011-10-07

輝元の初陣が決まったようです

仕事の忙しさもひと段落したので、三連休はゆっくり長めの段を読むことに決めた。
気になるのは、「輝元、元長出雲へ発向ならびに冨田麓合戦のこと」の続き。
輝元も大好きなんだよね。アンチも多いみたいだけど。
TERUかわいいよTERU '`ァ,、ァ(*´Д`*)'`ァ,、ァ

なんか、そろそろブログ上にも目次がないと自分でもワケワカメになってきつつあるな。
始めた当初は日記なんぞ三日坊主で放り投げる気マンマンだったからか、
目次なんて思いつかなかったなぁ。
ちょろちょろ見てくれている方もいらっさるようだし、
WEB上に公開しててこの体たらくじゃ不親切だもんな。
調べて準備しよう。


冨田の城下三ヶ所における合戦のこと(1)

輝元様は、是非とも尼子勢とぶつかり合って衆目を驚かす活躍をしたいものだと考え、
元就様にこのことを訴えた。
元就様も嫡孫の勇猛果敢な望みを聞いて、手放しで大喜びし、
浮かれて手足がどうなっているかもわからないような様子だった。
「よし、ではもう一度、冨田城下で麦薙ぎの挑発をいたせ」と、諸将に命じ、
同(永禄八年)四月十七日に、冨田城下で麦薙ぎ働きをすることに決まった。
敵が麦畑を荒らされないようにと城を出て応戦してきたときのことを考えて、
三方向に分かれて備えを固めた。

尾小森(御子守)口へは元就様、ならびに嫡孫輝元様の部隊が陣取る。
(先の一戦のときに)輝元が「自分が先陣に出て戦いたい」としきりに勇んでいたのを、
元就様もその勇気をとても嬉しく思ったけれども、
「まだ十二(三)歳では合戦の勝利の機を見定めることなどそうそうできはしない。
自ら危険に飛び込んで流れ矢にでも当たるのではないか」と心配して希望通りにはさせなかった。
しかし、今度の戦では味方の勝利に疑いもないので、尾小森口の先陣は輝元様と決めた。
初陣で大勝利を得、これから待ち受けるであろう戦の幸先を良くして、
また望みどおり勇猛さを世間に知らしめるいい機会だと考えてのことだった。

また、その先鋒には、福原左近允・桂能登守・桂左衛門太夫・志道上野介、
そのほか口羽・児玉・粟屋・渡辺・赤川以下、毛利譜代の諸将を残らず前後に配置した。
輝元様の旗本には粟屋掃部助・国司右京亮、
馬のそばには児玉四郎右衛門・内藤六郎右衛門の二人が付いた。
先陣の鉄砲隊は飛落七郎右衛門・渡辺太郎左衛門が二百挺の鉄砲足軽を率いており、
そのほか備芸石防長の国人たちが我も我もと加わりたがり、多くの者が輝元の部隊に入った。

塩谷口には吉川元春・嫡子元長と熊谷伊豆守父子が向かう。
菅谷口には小早川隆景に米原平内兵衛尉・杉原播磨守・南条豊後守らがついた。


以上、テキトー訳。続く。

今回は短いけれども導入部分のみで。
次の段落が優に1ページ以上あるので、明日にかけてゆっくり読むつもり。

しっかし、いつ読んでも孫煩悩なデレ就様はかわいらしいなぁ。
「手の舞い足の踏むところを知りたまわず」だってさ。どんだけ嬉しいのw
輝元もこのとき十二、三歳で、今で言えば中学一年生くだいだね。
元気が良くてちょっとませてて跳ねっかえりなお年頃。だけど体格はまだまだお子ちゃまでさ。
小さな体でキャンキャン吠える孫に「末頼もしい」と目を細めるじい様。
苦笑しつつ見守る叔父たち……なんともあったかな家族の肖像じゃござんせんか。
ホント、毛利家大好きだ。
戦争という殺伐とした舞台なのに、なんだろ、このホームドラマ的展開は。
嗚呼、願わくばここに亡き隆元の姿があれば……

さてさて次回、いよいよ合戦の描写に入ってゆきます。
2011-10-06

そりゃないぜソーリン

昨日読んだトコの次の段を読み進める。
この段の次は「毛利大膳太夫隆元逝去のこと(上)」につながるので、
穴埋め的な感じ。


大友・毛利和睦のこと

尼子修理太夫晴久が存命であったときから、周辺国の国人たちは毛利方に味方する者が後を絶たず、
本国の出雲でさえ、半分近くの勢力が尼子に敵対していた。
晴久が世を去ってからはその傾向も顕著になって、
毛利は日に日に勢力を伸ばし、尼子の威光は刻一刻と衰微していった。
尼子はどうにか家城は落とされずに篭城を続けていたが、
籠の中の鳥が大空を夢見る状況となんら変わりはなかった。

大友入道宗麟と元就様は和睦していたが、大内左京太夫義長が自害してからは、またいさかいが絶えなくなった。
大膳太夫隆元様が大友への押さえとして岩国永興寺に駐屯し、
他にも長州下関の城神田の松山、門司の城などを堅く守らせていた。
こうなってから、大友左衛門入道宗麟から尼子右衛門督義久に使者が遣わされた。

「元就が貴殿の領国に攻め入ったことは宗麟も存じております。
たとえ元就が一旦は勝機を握ろうとも、冨田は屈指の名城ですので、
城を落とすまでのことにはならないでしょう。気長に篭城なさいませ。

私どもは豊前に攻め入って豊前を従え、それから長門へと攻め渡ろうと考えております。
防長両国の兵たちは、入道の実弟の故左京太夫義長に仕えていて、
入道とも親しく交流のあった者たちでございます。
入道が攻め入れば、皆、こちらから声をかけずとも自ずと追随してくるでしょう。
隆元が周防に控えておりますが、毛利勢はほぼすべてが出雲表に動員されているので、
隆元の手勢など物の数にも入りません。
大友勢と互角に渡り合えるとは思えず、防長両国は一日のうちに手に入れて見せましょう。

そうなれば、元就も出雲表を捨てて防長へと駆けつけてくるはず。
義久殿はその期に乗じて毛利勢のあとから追い討ちをかければ、さしもの元就といえども、
前後の敵に進むべき道を見失い、家城に退却するほかないでしょう。
そうなったら義久殿は石見から安芸へと攻め入りなされ。
大友も防長から乱入するので、一瞬のうちに毛利家を成敗してしまいましょう。
毛利が滅亡したら、周防・長門は入道の弟義長の領国だったので、入道が平定いたします。
備芸石はもとより貴殿の領国でありますから、義久殿が支配なさるといい。

この二月、遅くとも三月までには、宗麟は必ず豊前に向けて出陣いたします。
くれぐれもこの意を汲んでくだされ」

こう伝えられた義久はことのほか喜び、使者に対面してこう返答した。
「その後提案は願ってもないことです。
宗麟殿が長州表へご出立されれば、元就もきっと当国を諦めて退却していくでしょう。
以前、大内義隆がこの城を取り囲んだときも、
出雲・石見の国人たちは、一度は敵に味方したものの態度を改め、こちらの味方につきました。
国人の心など朝令暮改ですので、元就の優勢が崩れれば、すぐこちらになびくことでしょう。
そうなればこの義久が大勢を握り、元就の味方は少なくなります。
宗麟殿のご出馬がなくても、この義久だけで元就を成敗できましょうに、
宗麟殿が防州口から芸州に攻め入られれば、元就は一日たりとも城にとどまっていられないでしょう。
これは当家の運を開くきっかけとなります」
こうして尼子と大友は協力関係を築いた。

同永禄六年(1563年)二月中旬、豊後・日向・筑後・筑前・豊前の兵を率いて、
宗麟の弟の田原入道重忍・部次入道道摂・臼杵新介・佐伯など二万騎あまりが、
豊前の国神田の松山を草むらの如く取り囲んだ。

一時は勢いに任せて城を攻め落とそうという話になったが、守備陣に戦上手の天野紀伊守がいることもあり、
大友勢の勢いをものともせずに城の守りが堅固なので、大友勢も寡兵の毛利勢を甘く見たりはしなかった。
まずぐるりを何重にも取り囲み、じわじわと攻めていく。
宗像・高橋・長野などは、元来、毛利家との親交が深かったけれども、敵の数が多すぎて援軍も出せなかった。

周防の永興寺にいた隆元様に早馬が差し向けられ、神田の松山の状況が伝えられると、
隆元様は防府まで進んで援軍を出そうとした。
隆元様が防長の兵を集めているところに、
光源院(足利)義輝から毛利家には聖護院准后(道増)、大友には久我権現大納言通興卿が遣わされた。

「近年諸国で兵乱が止まず、上様(征夷大将軍)を軽んじる振る舞いとも言えます。
大友と毛利はすぐに和睦を結びなさい。中国と九州の平和をなしなさい」とのことで、
両家は大樹(将軍)の命令に応じて和平を結び、宗麟の姫君と輝元様との婚姻の契約も整えた。
これで豊後勢も松山表を引き払って帰っていったので、天野も芸陽へと帰った。

尼子義久は、頼みにしていた大友が毛利家と同盟したことを伝え聞き、がっくりと肩を落とした。
「こうなってはどうにもならない。一体どうしたらいいのだろう」と、ただ呆然自失していた。


以上、テキトー訳。

尼子義久の悲哀が半端ない。
ただでさえ国人衆にはそっぽを向かれてる状況で、
対毛利の密約を交わした大友がいともあっさり毛利と同盟。
誰か、ポルナレフを呼んでやれw
まあ、「どうせ国人たちもこっちに寝返るさ」とかタカをくくってた報いだわな。
サボらないでマメに調略とかしないと。

隆元が死の直前に和智の饗応に足を運んだのも、私は調略の一環だったのではないかと漠然と思ってる。
叔母の嫁いだ家といっても、必ず味方してくれるとは限らないわけで、
姻戚関係があるからこそ、ほんの少しでも粗略にしてしまえば深い恨みを抱かれるかもしれない。
腹心の赤川元保が饗応への出席に反対したにもかかわらず、隆元が和智のところに行ったのは、
「毛利は和智を大事に思っていますよ」ってパフォーマンスだったんじゃないかな。
こまめに顔をつないで、一緒に酒を飲み食事をしながら他愛もない話をするって大事だよね。
そういう些細なことに意味がなけりゃ、現代の会社で飲み会が存続してるわけがないじゃん、と思う。

ちなみに隆元の死因は毒殺とか食中毒とか諸説あるワケだが、私は病死説派だ。
急性の腹膜炎あたりで。特に根拠はないけれども。
外科手術が発達した現代でさえ、盲腸で命を落とす人もいるもんな。
かく言ううちの父親も、盲腸でうっかり死にかけて、けっこう長いこと入院してたっけ。

隆元はその日、腹の辺りがなんとなく痛いような気はしていたけれど、
ものすごく体調が悪いというわけではないし、約束したからと和智邸に向かう。
具合の悪そうな隆元を心配した赤川が引き止めるも、隆元は聞かない。
酒に酔えば痛みを忘れ、楽しく過ごす。
帰り道で痛みがぶり返してひどくなり、鍼灸で痛みが一時的に散っても、根本原因は解決しない。
そのまま腹膜炎で絶命……ってシナリオはどうだろう。
これじゃ盛り上がらないか。
でも、毒殺や食中毒よりは、なんかしっくりくるんだよなぁ。

まあいいや。
次はどこ読もうか。
2011-10-05

大内滅亡後の防州へ隆元が配置された理由

仕事がきついなあ、疲れが抜けないなあ、と思ったら。
そんなときこそ隆元成分配合「陰徳記」。
お兄ちゃんに見守られてるような気持ちで明日もがんばりまっする。


隆元朝臣防州に赴きたまうこと

大友金吾入道宗麟と毛利陸奥守元就様とは過日は和睦していたが、
大内左京太夫義長が切腹したあとは、意味のないものになっていた。
元就が石見で尼子とにらみ合っている隙に、宗麟は豊筑両国に兵を進めた。
両国の兵たちは故義長に旧交があったので皆大友に従ったが、
そのなかで宗像(大宮司氏真)・高橋(鑑種)・長野(弘勝)は大友ではなく毛利に従った。
豊前の国門司の関所の城には仁保右衛門太夫(隆慰)率いる防長勢一千あまりが駐屯しており、
長州下関の城には吉見太蔵太輔正頼を配置して、大友への牽制とした。
正頼はことのほか武威に優れていたので、大友は長州へ手を出そうともできなかった。

元就様は、「大友宗麟は傑出した武略家である。
そのうえ、防長は義長に同情的な国なので、もし味方が考えを変えて大友になびいたら困ったものだ」と、
大変心もとなく感じていた。
そこで、元就様は隆元様を防州に向かわせることにした。
隆元様は武勇に優れているだけでなく、仁徳がきわめて傑出した良将である。
この人であれば、防長の国人もその深い恵みに心を打たれ、徳を慕ってくるであろうと考えたからだった。
「防州に行って地侍はおろか土民に至るまで、文徳と武威をもって賞罰を明らかにし、平和な治世を保つように」
と言われた隆元様は、「出雲表の戦況も気にかかりますが、父上のご命令であれば背くわけには参りません」と、
防州へ下って岩国永興寺に駐屯した。
供の者は、粟屋掃部助・赤川左京亮・内藤孫十郎・兼重左衛門尉など、三千騎あまりがついていった。

隆元様は謀略や智計が人より優れているだけでなく、仁徳もまた比類ない人物だったので、
後の世では、稀代の良将だったと皆感嘆しあったものだ。


以上、テキトー訳。

短いけれども隆元マンセー記事を読んで満足。

元就が尼子討伐に力を入れるに当たって、なぜ隆元を対大友として防長に配置したか。
武勇にも言及されているが、「仁徳」が重視されていたのがよくわかる。
まあ、ソーリンがかなり無茶な宗教政策(寺社打ちこわしとか)をやってるので、
後世になって対比として持ち上げられた感もなくはないが。
ここは素直に、隆元の人物が優れていたと受け取りたい。
隆元はきっと、人に好かれる行いを常日頃からしていたんだろうな。

元就は「毛利を好ましく思うような人などいない」なんて、
冷静というよりはかなりネガティブな考え方をしていた人なわけだけど、
そんな毛利の一員でも、「隆元を嫌うような人などいない」とも思っていたのかも。
隆元に「武略が大事」とか小言を言いながら、元就も
隆元の人柄の良さ、人心掌握能力を誰よりも認めてたのかもね。
なんというツンデレ。

なにより、百姓・商人やゴツイ地侍たちに慕われてはにかむ隆元を妄想すると胸熱。
きっとさ、ちゃんと話を聞いてくれるとか、目が合ったら笑いかけてくれるとか、
前に会ったときに話したことをいちいち覚えていてくれるとか、
そんな小さなことが積み重なって、信頼ってものは築かれていくんだよね。
計算ずくでなく、とても自然に、小さな積み重ねをコツコツやっていく人だったんだろうな。

願わくば私もそうなりたいものです。
2011-10-02

ジジデレ元就

隆元成分が足りない・・・
と、ペラペラとページをめくっていたら、輝元の初陣(その前段階かな?)の段発見。
すでに隆元が死んだ後の話だけど、ちょこちょこ隆元の名前も出てくる。
読んでみたら元就が・・・デレている・・・(?)


輝元、元長出雲へ発向ならびに冨田麓合戦のこと

隆元様の嫡子、少輔太郎輝元様は、御歳十二歳になった。
祖父の元就様がしばらく雲州に在陣し、寝食もまともに取れない状況で、
きっと老いが深まり疲れがたまっていることだろうと、
輝元様は、急いで祖父のもとに馳せ参じて、戦の先陣の一つも務めようと思っていた。
これを耳に入れた元就様は、いとけない輝元様の志に大いに感じ入って、出雲へ来るようにと伝えた。
輝元様はすぐに芸州の吉田を出発した。

元春の嫡男、少輔次郎元長も、洗合城(島根・松江市の毛利氏の拠点)へ赴くべく昨年から打診していたが、
元春が「今少し待て。輝元が近く遠征してくるだろうから、それに合わせてこちらに来い」と、留めていた。
永禄八年(1565年)二月中旬、輝元と元長はくつわを並べ、揃って出雲目指して軍を進めた。

急いで進んだのでいくらも経たないうちに洗合城に到着し、祖父元就様にまず対面すると、
元就様は孫の顔を見て、思わず涙をこぼしてしまった。
輝元は歳のわりには成長も早く、容貌も端整で言葉つきもしっかりしている。
世に並ぶ者がいない若武者ぶりを見るにつけても、
父の隆元様とも同じように会って話をしたかったという思いが胸を突いたのだった。
元長は今年十五(八)歳になって、視線が物を言っているように強烈で、
これもまた鬼吉川と称される器の持ち主に成長したようで、とても嬉しそうに孫たちの顔を眺めていた。

輝元様と元長の二人が元就様に願い出た。
「このたびこの二人がこの国へ参ったという印に、冨田城に攻め入り、自ら手を砕いて一戦したくございます」
元就様は「輝元がそう望んでいるとは、実に殊勝なことだ。
隆元は世にも稀な仁徳を備え、武備も一般より傑出していたが、
子は父の業を継ぐという言い伝えを、おまえも体現しておるな。
ああ、こういうところが実に隆元の子らしい」と、非常に感心した。

「元長はもう志学の歳だから、戦いたいと望むのは道理である。
おまえの眼睛(まなこ)、顔つき、魂は、千人の英、万人の雄とも言える。
しかしながら顔色があまり良くない。常に養生を心がけよ。
長生きすればおまえが輝元の先鋒となって、毛利家を栄えさせるだろう。
よいか。絶対に、いくら武勇に優れているからといって、天下を望んで危ない賭けをしてはならぬぞ」と、
元長にも語りかけた。

元就様は孫たちの勇志をとても嬉しく思い、すぐに冨田城の近くに攻め寄せて一戦しようと進軍した。
元春・隆景が内々に軍議をして、
「元就公は、常日頃から冨田城は力攻めで落とせるような城ではないとおっしゃっている。
まず謀略を進めて、合戦はその後だ。戦わずして戦に勝つとはこういうことだ、とおっしゃっていたではないか。
戦には慎重だった方が、今は進んで戦おうとしているのは、
実に老婆心切(必要以上の世話焼き)といったところだろう。
万が一にも危険な戦になってはいけない。
先に我らが月山冨田城の近くで小競り合いをしてみて、敵の強弱を見極め、そのうえで輝元が初陣を飾ればよい。
初めての戦で一合戦して勝利を得させ、百年の大勝の第一歩としようではないか」と話し合った。
元就様にこのことを提案すると、「実に良い案だ」と了承した。

吉川元春・小早川隆景両軍は、偵察のために冨田城下へ攻めかけようとした。
宍戸安芸守隆家も以前からの軍議の参加者だったので、これも同伴した。
このとき、輝元様は是非とも先陣に加わって自ら一戦したいと申し出たが、
まだ十二(三)歳の大将なので、祖父の元就様もさすがに許さなかった。
元春・隆景、そして隆家からも、
「今日は偵察に行くだけですので、輝元公が旗本衆を動かす必要はございません」と諫められた。
こういうわけで吉田勢は一人も行かなかった。

吉川勢・小早川勢、ならびに宍戸隆家・熊谷信直・益田藤兼・杉原重盛、
そのほか佐波・小笠原・三沢・三刀屋・南条以下一万騎あまりが冨田の郷中へ攻め入ると、
岩倉寺の辺りに冨田城の兵たちが七千ばかり配置され、
敵が来たならばこちらから攻めかけて負かしてやろうと待ち構えていた。
しかし寄せ手(毛利勢)は城を攻めず、里の麦畑を薙ぎ払うなどして荒らしているだけだ。
尼子勢はこれを防ごうとして山の麓に下りてきて弓を射かけ、鉄砲を撃ちかけて野伏戦(ゲリラ戦)を始める。
寄せ手も弓隊を進めて応戦した。

足軽たちが混戦しているのを見た吉川次郎少輔元長は、
「今日の先陣は元長に務めさせてください」と言って不意に駆け出していった。
父の元春が制止する間もなく、元春自身も駆け出していったので、新庄(吉川)勢は我も我もと攻めかかる。
真っ先に備えていた杉原重盛と南条宗勝も、他人に先を越されまいと、躍起になって打ちかかった。

隆景が「元春が自身で攻めていくぞ」と言うと、備後(小早川)勢も負けじと押し寄せる。
宍戸も同じように血気盛んに兵を進めるので、尼子勢は対抗しようもなく遥か山上に退却した。
吉田勢は、輝元様が出陣しない今回は誰一人合戦に参加してはならないと触れが出されていたにもかかわらず、
桂善右衛門・井上民部少輔・福原宗右衛門などが隠れて参戦し、比類のない働きをした。
その後は城中から兵が出てくることがなく、日暮れになる前にと、寄せ手は討ち入っていった。


以上、テキトー訳。

どうしよう。孫にデレッデレの元就がかわいい。
やっぱり輝元見ると隆元のこと思い出すんだな。忘れ形見だもんな。
元就、もっと冷たい人かと思ってたが、最近の認識は「親バカ」「ジジバカ」になりつつある。

そして振り回されてる叔父上たちがまたかわゆい。特に元春。
元春自身も十一歳だか十二歳で、元就や家臣に制止されながらも打って出ちゃって初陣果たしてるんだよね。
「子は親の業を継ぐ」ってのは、吉川家のためにある言葉のようだw
三男も十歳で「戦に出たいー!」と大騒ぎして、元春が押し負けたらしいし。

で、ちょっと不憫なのが宍戸隆家さん。元就の娘婿で、一応叔父上の一人。
まるで添え物のように名前が書いてあるんだよね。
まるで存在感が空気・・・! ああ、そういえばいたっけ、みたいな扱いwww
妻の五龍も気の強い女性だったらしいから、家でも隅に追いやられてそうだ。
よろしく哀愁! スナックとかで愚痴聞いてあげたいタイプだな。

さて今回、「焼働き」「働き」なんて言葉が頻出してたが、
ぶっちゃけ、城下町とか領民に対する乱暴狼藉、田畑荒らしといったイヤガラセの類だね。
城に篭られると攻めるのに厄介なので、相手の兵を城から誘い出すために
挑発行為としてで畑をグチャグチャにしたり稲や麦を刈り取ったりするわけだ。
こんなの当たり前という認識がすでにできているので、あんまりネガティブには感じないが、
領民たちにはいい迷惑だね!

次読むトコは決めてないが、しばらく忙しいので、もしかしたら数日更新できないかも。
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