FC2ブログ
2011-10-15

尼子義久、夫婦の別れ

「夫婦」なんて文字が見えたのでついカッとなって読んだ。
昨日の段の続き。
つーかさ。和睦を結んだといえば聞こえはいいけど、
実質的には完全降伏してるよね、尼子。


義久兄弟芸陽へ下向のこと(上)

尼子右衛門督義久・その弟九郎倫久・同弟八郎四郎秀久の兄弟三人は、
城を敵に明け渡して、侍七、八人を連れて離れることなく出発した。
吉川・小早川両家の者たちが一千騎ほどにて前後を取り囲む。
曽祖父の経久の代から山陰道の派遣を掌握し、
武威もたくましく影響も隅々に広がって、栄耀栄華を極めたというのに、
昔と比べて今は、数多くの家之子郎党もことごとく散り散りになり、従ってくれる従者も数人しかいない。
どんな前世の報いだといってこのような憂き目を見なければならないのかと、涙ばかりこぼれていく。
昔から慣れ親しんだ里の梢が遥かかなたに見えなくなるまで振返るも、
涙のせいで滲んで見えて、ことさら口惜しい。
古代の蘇武が異民族に囚われたときの思い、平家が都を落ちたときの悲しみも、
今身をもって知ることになったと、袖を濡らした。

錦の浜を過ぎるにも、いろいろな思いがよぎる。
立身して故郷に帰らないということは、夜の闇の中で錦を着るのと同じで、甲斐のないことだという。
ましてや栄枯は移ろいやすく、かつては数万の軍を率いた大将だったというのに、
今は徒歩でトボトボと他人の国に向かって歩いている。
通過してきた自分の国が恋しくて、波が帰っていく様すらうらやましく、
この浜の名の「錦」を着て、いつの日かきっと故郷に帰ってくるぞと思い続けている。切ないことだ。
同八日の暮には、杵築に着いた。

ここで御台所(奥方)と引き離すと警護の武士が言うと、義久は
「なんということだ。せめて夫婦が一緒にいて、悲しみも辛さも共に語り合って慰めあえれば、
少しは気持ちも休まるというのに。蝦夷の千嶋に住むという野蛮人のように、情けも知らぬ武士どもめ」と、
心から恨めしく思った。
義久は御台所を引き寄せ、
「私はすでに武運も尽き果て、敵に囚われの身となって芸陽へと旅立つ。
またいつの日か、いつの時にか会えるかどうかもわからない。
これまで互いに想い合ってきたこの名残は、絶対に忘れられない。
ほんの少しの間だけ立ち別れ、また帰ってくる旅でさえも名残惜しく思うものなのに、
今回は何年離れると決まっているわけでもない。
前世からの業を背負う我が身は、いつ命絶えるかもわからない。
またもしこの命があったとしても、守護の武士があちこちに置かれるだろうから、
かりそめの風の便りさえ絶え果ててしまえば、筆を執って近況を伝えることもままならないだろう。
夢の中でなら見咎められることもないだろう。
たとえ身は千里も離れていようとも、心は君のそばを離れないよ」と、腕を取って涙を流した。

御台所はこれを聞き、さすがに兵たちが注目しているので柱の影に隠れて、
「なんとも情のない仕打ちです。私が一緒にいても、女の身で何ができるというのでしょうか。
何の罪があってこんな境遇に置かれるのでしょうか。
最初にお会いしたときから、あなた様の立派さに先年も寿命が延びるような思いで、
連理の枝、比翼の鳥となろうと誓ってきましたのに。
こんなところで離ればなれになって、また生きて会えるかどうかもわからないとは、
『夏野行く牡鹿の角の束の間も』と歌にあるように、
ほんの短い間でも嘆きを忘れることができません。
実に親子は一世の契り、夫婦は二世の契りと聞いております。
来世もまた共に老いを重ね同じ墓に入る運命だと思っております。
思いのほかに妹背の川の波は厳しいもの、離ればなれになっては、
なるようにしかならない世の中で生きながらえてどうしようというのでしょう。
いっそ千尋の谷底で(身を投げて)藻くずとなってしまいたい」とその場に崩れ落ち、義久の袂にすがった。

義久は「ここは運命に身を任せてくれ。いかに武士が乱暴者だといっても、命を失うより恐ろしいことはない。
露のようなはかない命でも、生きているからこそこうして嘆くこともできるのだ。
なんともつらい日々のなかで、生きているということを望みとしなさい」と言ったものの、
「あればこそ人もつらけれ怪しきは(命もがなと頼む也けり)」という歌の心までも身にしみて思い知っって、
袂を顔に押し当てて声を上げて泣きたかった。
しかし義久は武家の大将なら、余りに心弱くては恥ずかしい。
毛利家にこれが伝わっても口惜しく思うので、落ちる涙を押さえつつ、
「私は冨田で死ぬかもしれなかった身だ。
それがこんなところまで彷徨ってきてしまって、さぞ情けなく思うだろうけれども、
恥を忍んで命を永らえるのは、良将の策である。だから顔を上げて敵国に降伏するのだ。
一栄と一落は隣り合わせの世の中だ。毛利家は今でこそ武威を誇っているが、いつかは滅ぶだろう。
そのときを狙って、山陰道の兵を起こそう。皆旧交があるので、誰か一人は従ってくれるだろう。
毛利家を滅ぼしたならば、すぐに迎えを遣わす。

昔、元弘のときに、一宮親王が土佐の田舎に流された。
御息所(妻女)は松浦の何某が奪ったけれども、秦の武文の怨霊に悩まされて、
仕方なく御息所を小船にお乗せし、海上に流してしまった。
御息所はどこともわからぬ住居で月日を送られたが、
ついに公家一統の御代となってなってからは、一宮親王は土佐を出て都に上り、
御息所にもお迎えを遣わしたという。
そして再び比翼の契りを深く結んだと聞いている。
こうした例もあるのだから、いつかは冴え渡るはずの月影が束の間曇ったからといって、
そのように嘆いてくれるな」と言って、身支度を整えているうちに時は過ぎていった。

守護の武士たちが「日が暮れてしまう、早く早く」と言うので、どうしようもなく東西に別れることになった。
玄宗皇帝の馬瑰(嵬)ヶ原の悲しみ(寵愛した楊貴妃が殺された)、
漢の武帝の甘泉殿とのお別れ(寵愛した李夫人が病気のため亡くなった)の際の気持ちと
同じような心持ちだろうと、周囲の涙を誘った。

守護の武士たちも血の通わぬ岩や木というわけでもなく、二人の胸中を推し量ると涙を溢れさせた。
杵築大明神(出雲大社)の御前を過ぎるときにも、
「聞くところによるとこの神様(スサノオノ命)は稲田姫(クシナダ姫)と契りを結んでこの国に住んだときに
『八雲立つ出雲八重垣妻籠めに八重垣作る(その八重垣を)』と詠んだというから、
夫婦というものの離れがたさを神も知っているだろうに、なぜ我が身をたすけてくださらないのか」と
恨みながらも、礼拝を捧げた。


以上、テキトー訳。続く。

えー、今回は。
万葉集とか古今和歌集とかあとなんか古事記?の歌がたくさん引っ張ってあって、
すっごーく現代語訳しづらかった……
こうして引用される歌の意味とか詠み人の背景を知らないと、
当時でもなかなか意味がわからなかったんじゃないかなぁ。
他の段でも漢詩とか三国志、四書五経、果ては禅の公案などの仏教用語までもが頻出してるし。
昔の軍記物読者はものすごく教養がないとやってられないんじゃなかろうか。
私も軍記物だけ読むつもりでいたけど、たとえ古文を完璧に読めたとしても、こりゃ無理だわ。
ネットでいろいろ調べながらじゃないと、下敷きになってる物語が皆目ワカラン。
これを考えると、香川さんの教養がいかほどかと、びっくりしちゃうね、もう。
ああもうどうして吉川家中ってのは、元春をはじめとして武断派のくせにインテリなんだろう。

おっと、義久のことをすっかり忘れてた。
永禄九年と言うことは1566年か。義久は二十代の中盤で、ラブロマンスの似合う歳だね。
歌の引用を読み解くのにてんてこ舞いで、本当に悲しいのかどうかよくわからなかったけれども、
ずっと毛利家に対抗するつらい立場、それも長い篭城戦を支えてくれた奥方には、
ひとかたならぬ感謝と愛情があったんだろうと察するよ。

スポンサーサイト



検索フォーム
カレンダー
09 | 2011/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
訪問者数