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2011-10-30

公式設定で○○×○○だと!?

調子に乗って広家(経言)が家督するところに飛んでみたよ。
今回はすげえショックなんだぜ……


経言、吉川家相続並びに隆景、筑前拝領のこと

去年元春が亡くなり、今年は元長が世を去った。
輝元・隆景をはじめとして、中国八州の士農工商にいたるまで、いったいどうしたらいいのかと嘆き合った。

吉川家の家老たちが寄り集まって
「(元春の)次男の左近元氏は備中の国の四畝の陣から病気である。
三男の民部太輔経言なら、仁智勇の三徳を兼ね備えた良将の器量がある。
元長も、経言は仁義の勇者であると常におっしゃっていたものだ。
経言に家督を譲りたいと母君にも相談されていたたが、
最期のときに今田中務・香川兵部の二人にこのことを遺言されている。
だから我々はその遺志を守り、経言を主君と仰ぐことにしよう」と、会議で一決した。

このときは宮庄太郎左衛門は熊谷新介の末子であったが、
宮庄家に養子に入って家督を相続し、まだ若年であった。
吉川式部少輔(経家)は鳥取で切腹しており、その子供たちは皆十歳程度だったので、
今田中務こそが経言の吉川家相続に関して功をなした。
もっとも、宮庄太郎左衛門なども今田と同様の考えを持っていた。
他の者に吉川家を相続させようとした者も数人いたが、その名は忘れてしまった。

経言に仇をなそうとする者はなんだかんだと文句をつけようとしたが、
今田中務・香川兵部たちが
「元長公のご遺言であるので、誰が何と言おうとも、経言のほかに誰が吉川家を相続するというのか。
異議を唱えれば眉間を真っ二つに切り破ってやるぞ」と一致団結していたので、
悪逆を企んだ輩たちは何もできなかった。

さて、まずは隆景に元長の遺言の内容を伝えねばと、香川兵部がひそかに伝えに行った。
今田・香川らは、「隆景公は経言に吉川家を相続させること、ご納得してくださるだろうか。
と言うのも、去る天正七年に石州の小笠原の家老たちが経言を婿にとって小笠原家を相続させたいということで、
少輔七郎の娘を新庄に寄越して婚礼も整ったというのに、隆景の反対があって相続の件は破談になった。
だから少輔七郎は娘も離別させて引き取ってしまった。経言はこのことをとても残念に思っている。
隆景もいささかこちらに心を閉ざしているなどという噂もある。
なんとも心もとないことだ。

また、いかに輝元・隆景が了承したとしても、秀吉公の承認を得るのに、どうしたらよいかもわからない。
とにかく黒田勘解由殿に相談してみよう。
まず黒田殿に内々に相談して、ひそかにお頼みしよう。
あの人は経言とは水魚の交わりだから、異議はあるまい」と考えた。

香川兵部太輔は人目を忍んで黒田の陣に赴き、元長の遺言の内容、そのほか家老たちの考えを詳しく語り、
「どうか経言が吉川家を相続できるように、秀吉公への取次ぎをお頼み申します。
また、内々のことでもご才覚をもって説得してくださいますよう、ひとえにお頼み存じます」と言えば、黒田は
「私も何とか経言が吉川家を相続できるようにと、強く思っている。
殿下のご承認のことはさて置き、輝元・隆景がこのことを相談してきたら、
私からも経言が家督するのがいいと言おう」と言った。

これで吉川家の家老たちは安堵し、「では、今回いろいろとお話したのは内緒のことです。
これから、このことを公にして申してきます」と、
香川兵部太輔・今田玄蕃の二人を使者として、輝元様・隆景へ元長の遺言の内容と家老たちの考えを申し上げた。
輝元様はこれを聞いて
「元長はすでに亡くなった。元氏は病気だ。経言でなければ、誰が吉川家を相続できるというのか。
ことに元長の遺言であればあれこれ言う必要もあるまい。
しかしながら秀吉公がお認めになるかどうか。
このことは黒田勘解由に相談してみよう」と言った。
隆景も、輝元が言うことに異議は唱えなかった。

やがて黒田とこのことを密談した。
黒田はこれを聞き、「経言が吉川家を相続するのが一番いいでしょう。
秀吉公のご意思としても、きっと異議はありますまい。
というのも、以前、元春・隆景から経言・秀包を大坂に差し上らせたとき、
秀吉公は私にこうおおせになりました。

『経言は普通の人間ではなく、大将として数万を任せても不足はない。
元春が近年あちこちで武威を顕しているのは道理だ。
元就は元春・隆景を先鋒として、西国に覇権を築いたという。
また元春は元長・経言を先陣として、敵を破ってきた。
わしは弓矢を取れば智も勇も元就・元春より十倍も優れているかもしれないが、
こうした良将の器を備えた子を持つということでは劣っている。
どうにかして男子を三人持って、一人には天下を譲り、
他の二人にはそれぞれ関東・関西の押さえとして置きたいものだ』

こうおっしゃって、あとは大いにお笑いになりました。
経言のことをこんな風におっしゃっていたので、少しも異論はございますまい。
私が承認を取り付けましょう」と言って、すぐに秀吉公に伝えた。

殿下から「経言が吉川家を相続すべし」との朱印状が下されたので、
経言は殿下が在陣している筑前の国箱崎に駆けつけ、吉川家督の礼を申し述べた。

このとき、輝元様は隆景並びに黒田勘解由・香川兵部太輔を呼び集め、
「経言が吉川家を相続したからには、さらに武勇のことは言うまでもなく、仁徳を施すように」と訓示した。
黒田は以前から吉川家の秀吉公への取次ぎを引き受けている縁もあり、
経言が世に類ない美少年で男色の想いを深く寄せていたので、
非常に大切に思って、万事の後見をしてくれた。

秀吉公は筑前一国と肥前の内基諱郡養父の郡を添えて小早川隆景様に与えた。
「これは吉川元春に与えて九州の押さえにするつもりだったが、元春だけでなく元長も死去してしまった。
今の経言は、智勇は親兄弟に劣らないとはいっても、まだ若年であるので、戦功を重ねてから国主にしよう。
隆景は立花城に入って九州を押さえ、昔の太宰大弐のように、すべてを取り仕切れ」と言う。
隆景は世にも優れた仁将で、勇もまた兼ね備えているので、
世間の人々は「昔の小松の内府(平重盛)、細川の武州(頼之?)などという人でも
ここまで素晴らしくはあるまい」と感嘆していた。
秀吉公も隆景の賢才を称え、このたび大国の主に据えたのだろう。ありがたいことだ。

さて、隆景は伊予の国を返上したので、二つに分けて、
加藤左馬助(嘉明)・藤堂佐渡守(高虎)に与えられた。
また筑後の国久留米六万石が毛利藤四郎秀包に与えられた。
その後、秀吉公が箱崎を引き払って、同七月十四日に大坂に帰城すると、
西海の波も穏やかになって、風雨も適切に起こる太平の世となった。


以上、テキトー訳。

待って、待ってよ。
黒官さんが男色もイケたってのは初耳なんですけど! しかも広家に懸想だと!?
なんておいし……うにゃうにゃもうたべられな(ry
ネットでいろいろ読んだ程度だが、如水さんは愛妻家でキリシタンだから側室がいないんだぞ♪
ってヤツしか見当たらなかったのに(広家と義兄弟で仲良し、ってのは見つかった)。
印刷されて巷間に流布した「陰徳太平記」にはこのことは書かれてなかったんだろうか?
もしくは書かれてても「あるあ……ねーよw」で終わったんだろうか……

あとちょっと突っ込ませてほしい。
すでに二十代半ばの男子を「美少年(原文ママ)」呼ばわりするのはアリなの?
秀吉×秀包のときには広家の容姿については完全スルーだったことはさて置くとしても、
すでにけっこう育ちきっちゃってるのに「少年」なの??
黒官と初めて会った時点で少年だったっていう解釈も可能だけど
和睦したり人質に行ったりしてる時点ですでに二十歳越えてたよね???
あーもーワカランwww

まあしかしだ。実際のところ黒官と広家が普通に仲のいい友人だったにしろ愛人だったにしろ、
少なくとも吉川家中では「黒官殿はウチの広家様に懸想してる!」と思ってたのかもしれない。
だって吉川家臣の覚書をもとにした本だからね、「陰徳記」も。
それとも「ウチの広家様ってばモテモテなんですからね!」という補強か。
モテモテの広家……何その私にドストライクな設定w
いずれにしろ、「陰徳記」自体が岩国吉川の家老が執筆したものだから、
吉川家中的な公式設定は黒官×広家でファイナルアンサーなんだろうな。
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