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2011-10-31

豊前一揆前哨戦

クロカンさん男色事件に心を千々に乱しながら続きを読むんだぜ。
ちょっとググッたら「陰徳太平記」の原文も読めたので、確認してみたところ、
クロカンの広家への想いは「陰徳太平記」でも普通に書いてあった。
多少美々しく飾り立ててやわらかい表現になってはいたけどw

さてさて、ここからは黒田と吉川が一緒に戦う豊前一揆のお話。


豊前の国で一揆蜂起のことにつき岩石城没落のこと

天正十五年、秀吉公は九州の国を二つに分けて、黒田勘解由と毛利壱岐守(吉成)に与えていたが、
殿下が帰城するとあちこちで一揆が頻発して黒田や毛利の命令に従わない。
黒田勘解由自身は馬の嶽にいたが、子息の吉兵衛尉に、
叔父の黒田兵庫佐と輝元様から付け置かれた内藤少輔右衛門の合わせて二、三千騎あまりをつけて、
城井の屋形にいる宇都宮弥三郎(城井鎮房)を攻めるように差し向けた。
その城井の谷は彦山並びに求菩提寺から七里ほどあり、きわめて峻険な難所であって、
ずっと昔から落城したことがないと言い伝えられている。

地理はこのように神聖なうえ人々もまた豪傑ぞろいなので、黒田の大軍を少しも恐れず、
その難所に引き入れて、宇都宮自身が采配を振るい遮二無二にかかってくる。
黒田は当時の諸将のなかでは並び立つ者がいないほどの良将だったが、
敵を甘く見すぎたのか、深入りして戦ってしまった。
予想に反して宇都宮が決死の思いで切りかかってくるため、たちまち利を失って雑兵たちは乱れ散ってしまう。
吉兵衛尉が「なんと口惜しいことだ」と自分でも鉾を取って手を変え品を変えて防戦するも、
味方は浮き足立っている。
さらに宇都宮が鏑矢の馬印に金の簾の指物をして諸軍勢に檄を飛ばして戦うので、
さしもの黒田も最終的に押し負けて、一方を打ち破って退却した。

宇都宮が「あれを逃すな」と追ってくる。
なかでも岡橋鷲助・八幡兵介・野間源蔵・榛谷荒次郎などという一騎当千のつわものたちが
真っ先に進んで追いかけて、
黒田の猩々緋の陣羽織が遠目にも目立つので、それ目掛けて「逃がすものか」と追ってくる。

黒田がいよいよ危なくなると、小野江の小弁という者が進み出た。
小弁は十七歳で容色が極めて美しく、張緒の風流振りにも張り合うほど、
また李節推の紅顔よりもなお美しかったため、黒田勘解由もその美しさに首ったけになって寵愛を注いでいた。
小弁は艶やかであるだけでなく、心栄えも勇ましく、吉兵衛尉に向かって
「着ていらっしゃる羽織が目立つから敵が鏃をそろえて狙ってくるのです。取り替えてください」と言って、
吉兵衛尉から脱がせた陣羽織を自分の鎧の上に着て引き返す。

「我は黒田吉兵衛尉なり」と名乗り、追いすがる敵を数人斬り伏せ、
ついには無残にも野間源蔵・榛谷荒次郎に討ち取られてしまった。
こうして小野江が命を張って主人の危機を救う間に、吉兵衛尉は遠くに逃げ、
十死を逃れて一生を得ることができた。

こうしたことが大坂に伝えられると、すぐに殿下から毛利・吉川に対して、
黒田に協力して豊前の一揆を成敗するように命令が出された。
輝元様は同十月朔日(ついたち)に吉田を出発して防州山口に着陣し、
吉川蔵人頭広家様(経言を改め広家と名乗る)が雲伯の兵一万二千騎余りを率いて先陣に進み、
九州豊前の地に渡っていった。
同国の小倉の城には毛利壱岐守が在城していたが、出迎えに出て広家様に対面し、
「当国の一揆勢は岩石の城に籠城して、何につけても私の下知に背くのです。
まずあの城を攻め崩していただきたい」と言う。
「それならば」と、広家様は同二十五日に岩石の城を取り囲み、
一人も逃がさないように、柵で囲ってしまった。

折りしも北風ばかりが吹いて雪もしきりに降り注ぎ、兵たちの手は凍え身はすくんで、
弓や鉄砲も思うように撃てない。
しかし広家様は諸軍勢に檄を飛ばし、城中に向けて鉄砲を一斉に撃ちかけた。
鬨の声と銃撃の音に大地鳴動するも、城中の一揆勢は、敵の大軍と堅固な陣、
固く結いまわされた柵の木に逃げ道を失っている。
この大雪にまぎれて一戦して活路を開き、一人でも命が助かるようにしようと軍議で決定した。
最後の晩餐とばかりに好きなだけ飲み食いし、夕暮れが迫ると、二千人余りが一丸となって打ち出て行く。
どんな銀山鉄壁であろうと、必ずどこかを打ち破ろうとするその勢いは、
いかに天帝の四天王、修羅の一族であっても止めることはできないとも思えた。

先陣に進んだ一揆勢は手に手になたや薙刀を持って、柵の木をバラバラに切って打ち出ようとする。
広家様に「あの敵、一人も逃すな」と命じられた吉川勢は、
我先に討ち取ろうと柵際に殺到して散々に切り伏せる。
城中の兵たちは、退却して城中に帰れば必ず死ぬ。
敵を押し破って生きる可能性を求め、自分たちの命を助けようとしているので、
心も勇んで一歩も引かずに進んだ。
しかし敵の備えは乱れず、さらに敵兵は皆剛健で将は勇猛である。
一揆勢の願いも空しく、一人残らず討ち取られ、柵際に屍山を築いた。

広家様は「敵が打ち出てきた隙に城に乗り込め」と下知し、吉川勢が一直線に城へ攻め上がる。
そのなかでも木次孫右衛門が一番乗りを果たし、
「吉川の手勢、木次孫右衛門、一番乗り」と名乗りを上げる。
城中に残っていた一揆勢七百人余りを、ここかしこに追い詰めて討ち取った。
三村紀伊守も手勢二百ばかりで木次に続いて城に乗り込み、分捕り高名をした。
毛利壱岐守は家之子郎党に対して「自国の敵なのだから吉川勢に先を取られるな」と
兼ねてから言い含めていたが、まさか今攻め込むとは思いもよらず、
少しばかり休憩しているうちに吉川勢に先を越されてしまった。
一番に攻め込んだ吉川勢に続いて他の中国勢一万が城中に乗り込むと、
壱岐守の手勢は後陣に押し隔てられ、分捕り高名もできなかった。

やがて壱岐守が吉川広家の本陣を訪ねてきた。
「岩石城に立て籠もっていた一揆勢は乱暴者で、近隣の村の民を悩ませていました。
それだけでなく、私の命令にも背いていたものです。
それを広家殿が早速攻め滅ぼし、一人残らず討ち果たしなさったこと、
殿下に対してもっとも忠勤の至りだと、いまさら申すまでもありません。
ともかくも私の方では本望を達したと思っております。
これまではあの悪党どもを罰しようと考えてはいても、ご存知の通り、私の手勢は千騎にも満たない寡兵です。
憤りを押し殺して過ごしていましたが、ようやく積年の鬱憤を晴らすことができました」と、
壱岐守は手を合わせて喜んだ。
こうして速やかに岩石の城を攻め落とし、一揆勢をことごとく薙ぎ捨てたことを大坂に知らせた。

翌月二十六日の晩、壱岐守は自身の家城で広家様に饗応した。
酒宴がそろそろお開きになろうかというころ、壱岐守が広家様に向かって口を開いた。
「以前、私の名字は『森』という字を用いていました。
広家殿にお頼みして輝元様へ契約を取り付け、『毛利』の字に改めて同じ名字にしていただきました。
このことはひとえに広家殿のご推挙によってなしえたことですので、
御礼をしたいのですが言葉では言い表せません。
そこで、この御礼に、私もまた広家殿のご家来、香川兵部太輔の改名の契約をさせていただきとうございます。

と言いますのも、同じ仮名を持つ細川兵部太輔藤孝は以前から諸芸に通じており、
あらゆる分野で世間の人を引き離しております。また殿下が常にそばに召し置かれるほどの出世頭でもあります。
ですから、広家殿がまったく憚らず同じ仮名を家臣に許していると、殿下がお考えになるかもしれません。
香川兵部太輔の名を改められたほうがよろしいと思います」

広家様は「壱岐守殿の仰せはもっともです。おっしゃるように、
藤孝への名の憚りはもちろんございましたが、私などの召し使っている者が憚りを気にするのも、
かえって大人物を気取っているように思えて、今まではそのままにしておりました。
けれども貴殿の仰せがもっとも適切であると思いますので、どうかよろしくお取り計らいください」と答えた。
壱岐守は「それでは」と香川兵部太輔を呼び出し、盃を取り交わして「又左衛門尉」と名を改めた。

さて壱岐守は、「私が申し出たことを広家殿がご了承くださって、とても嬉しく思います。
この馬は去年六歳になって、殿下から下賜された、見ての通りの早馬です。
これを今回の喜びの印に差し上げましょう」と言って、香川に贈った。

こうして広家様がしばらく小倉に逗留していると、
小早川隆景が肥後の国の一揆征伐のためにその表に赴き、
和仁・辺春の両城を取り囲んでいるという知らせが届いた。
広家様も当国の一揆を攻め滅ぼし、肥後に駆けつけて隆景に協力しようと出立したところに、
殿下から御内書が届けられた。

  去る二十五日の書状、京都において拝見した。
  岩石城のこと、さっそく乗り崩してことごとく討ち果たしたとのことだが、
  その粉骨の働きは大変素晴らしいことである。
  寒さも厳しいのに、気を入れて在陣しているとも聞いている。また追々様子を知らせてほしい。
  (天正十五年)霜月七日     秀吉(朱印)
  吉川蔵人どのへ (吉川家文書之一-一〇八)


以上、テキトー訳。

ああ、「陰徳記」読みたいって思ってた初心に帰った気がする。
広家がウィキペディアでひどい裏切り者扱いされてて心を痛め、
「広家がヒーローな話を読みたい」って思ったからこの本買ったんだった。
誇張されてるとはいえ、こうしてひいきの武将が活躍する話を読むのは楽しいなぁ。
黒田長政も大好き。このとき一揆勢に負けたのを反省して頭を丸めたという逸話もあるが、
そりゃ真っ赤な陣羽織は目立つわw
幕末の戦争のときも、井伊の伝統ある赤備えが鉄砲隊の格好の餌食になったって話もあるし。
だいたい、信号で「止まれ」の合図に赤い色を使うのにも理由がある。
赤い色は一番遠くまで届く色だからこそ警告色たりえる。
夕暮れや朝焼けの地平線が赤く見えるのは、太陽が放つ光のなかで、赤い色だけが私たちの目に届くからだ。
まあそんなものを着てりゃ、遠くの大将に自分の活躍を見てもらえるかもしれないけど、
逆に言えば遠くの敵にも見つかりやすいってワケで。
まあ、まだ若かったし(二十歳になってない)、早めに失敗しておくのはいいことだよね。
やり直しが利くから。

そしてまた如水さんの男色話ですよ。
もうショックも消化したので普通に受け入れるけれども。
小弁はいい若者だったね。惜しい人を亡くした。
何事もなく育っていれば、長政の側近として重用されたかもしれないのに。

あいかわらず手紙を訳すのが特に苦手なわけだが、
こうして吉川家文書を引いてこれるのは「陰徳記」の強みだよな。
なにしろ著者本人が資料読み放題の家老職だもんね。
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