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2011-11-30

煮詰まっていく

HPには多少余裕があってもMPがごっそり減っていく気がする。

前回のあらすじ:
織田に狙われた鳥取城に、吉川一門の経家が大将として入った。
しかし兵糧の備蓄がない。周辺地域はことごとく買い叩かれている。
本国から運び入れようとしても失敗。
さあ、秀吉が出てきたぞ。


吉川式部少輔経家、鳥取に籠もること、並びに秀吉出張のこと(下)

秀吉の本陣は摩仁帝釈山に据えられた。
西表の袋川と千谷川との間には、中村孫平次・少阿弥・山名大蔵太輔・木下備中・
荒木平太夫・神子田半左衛門・蜂須賀彦右衛門・小寺官兵衛尉・木村隼人佑・加藤作内、
東表には信長からの援軍一万騎、鳥取・丸山の間にある鷹金山には織田御万・宮部善乗坊、
備前からの加勢の明石飛騨守・長船紀伊守・福田五郎左衛門・楢原監物・
宇喜多七郎兵衛尉・宇喜多越前守など八千騎あまりが続けて陣取った。
また、芸陽からの後詰の押さえには秋里村に城を構え、
杉原七郎左衛門に二万騎あまりを差し添え、渡り口を押さえた。
また、海岸線には浅野弥兵衛尉が警護船を三百艘ほど並べ、家々の幕の紋、舟印が潮風に翻っていた。

丸山の東口には羽柴美濃守・増屋隠岐守・添田何某・山名但馬守、
北の方の山には垣屋駿河守・磯辺・秦・亀井・武田・蓑部など、少しの隙間もなく陣が張られた。
まず自分の陣に柴土手を高く築き、その上に木の柵を二重三重に結いめぐらし、
空堀を四、五間ほど堀り、塀を丈夫につけて矢間を重く切り、夜は一間ごとに提灯が一つ懸け置かれた。
これでは、空を飛ぶ鳥でもなければ通れない。
城中の兵たちは、網にかかった魚、籠に飼われる鳥と同じだった。

秀吉の陣は夜のうちに白紙で壁を貼らせたので、遠目には白壁に見えた。
また京都から乱舞の名手を呼んでおり、日夜鼓を打たせたり笛を吹かせたりした。
これは戦いの道をおろそかにしていたずらに日を送っているのではなく、
この城が名高い名城だからこそ力攻めにせずに数ヶ月を送って兵糧攻めにしようという謀略だ。
その謀略を敵に思い知らせ、城中の兵たちを退屈させようとの魂胆だった。
そして秀吉自身は一日に二度、乗り物に乗って諸陣を見回ったが、深い思惑があったのだろう、
まったく同じ乗り物を二、三丁ほど隔てて進めさせ、
供奉の兵たちも同じように整えて出立させたので、どれが秀吉なのか見分けることができなかった。

城中の兵たちは足軽を出し敵を挑発するが、秀吉が固く制していたので出合う兵もなく、
ただ鉄砲を陣中から撃ちかけてくるだけだった。
城中の兵たちは、敵陣との間に袋川があったので、
これを渡るのも難しく、近くまで寄ることもできない。

式部少輔・森下・中村は、そのほか出雲・伯耆の国人衆から送られた兵たちに向かって、
「敵陣に夜討ちをかけようと思うが、どうだ」と呼びかけるも、皆一同に首を横に振った。
「袋川の川幅はそれほど広くないとは言っても歩いて渡ることはできず、
舟で渡ろうとしても、船がいくらもないのでできません。
敵は斥候を出しているでしょうから、船で渡ってくるとわかれば大勢が対岸に集結し、
人数を分けて渡る兵を大勢で取り囲まれてしまい、皆なすすべなく討たれてしまうでしょう。
それでも城内の兵が志を一つにすれば、危ない状況をも顧みず、十死一生の戦いにも臨めましょうが、
今ここに籠もっている兵たちは、父が味方なら子は敵方にあり、
兄が城中に籠もれば弟は寄せ手の中にいます。
夜討ちが決まればすぐに敵方に知らされてしまうでしょう。
それどころか兵たちは、城中を出て夜討ちに臨もうとするときに、
心を変じて裏切り、または城に火をかけようとするかもしれません。
今しばらく様子を見て、元春の援軍をお待ちください」
式部少輔もこれに同意して夜討ちの評議は終わった。

しかしいかんせん城中の兵糧が乏しい。
急ぎこのことを吉田に報告するために、城兵の中から水練の達者を選んで、
袋川・千谷川の水底を通過させようとしたが、
敵はすぐに気付いて川に網を張り、所々に鳴子をつけたので、
水中を進む者五人がたちまち捕まって、皆首を刎ねられてしまった。

このせいで秀吉出張の知らせは芸陽に届かなかったが、
元春様が有地右近・新見新左衛門尉に鳥取に兵糧を入れるように命じた。
二人は大崎まで打ち出して、敵陣近くに近づき、隙をうかがって兵糧を入れようとしたが、
敵陣の備えがなかなか手に負えないもので、兵糧を入れられない。
有地右近・新見左衛門尉は三十町ほど離れて三日間陣を張ったものの、敵はあえて取り合わず、
その後二人も打ち入った。

鳥取城には食料が乏しく、飢えをしのぎがたくなった百姓・町人たちが、
城の外に出て木の実などを探しているのを見て、
あるとき、秀吉の本陣から勇壮な若者たちが駆け出て、町人たちを数名討ち取った。
これを見て、因幡の国衆の一人、尾崎の何某という者が、その翌日に敵が来るのを待ち伏せていた。
またその日も町人たちを殺そうと、寄せ手が尾上へ上ってくると、
尾崎はいきなり身を起こして斬ってかかる。
敵もたまらず我先にと逃げていくのを、城中の兵が追いかけた。

敵がこれを見て「味方を討たすな」といってわらわらと打ち出てくる。
その中でも七、八反ほど進んでいた兵たちが田の畦に鉄砲を構えているところに、
尾崎が不意に行きかかった。
敵がここぞとばかりに鉄砲を撃ちかけてくると、さしもの尾崎もどうしようもなく、
同じ場所であたふたとしていたが、敵はかまわずドウと撃ってくる。

尾崎の運が強かったのか、もしくは敵の鉄砲が未熟だったのか、すべて撃ち損じていたようだ。
尾崎はツッと敵に走り寄ると、硝煙の中に太刀を振り上げて躍り入り、
ヒラリと光ったと思えば、首を引っさげて帰ってきた。
味方はこれを見て、
「危機に瀕していた命が助かったばかりか、多くの人の目の前で高名を極めてやったぞ!」と、
声を上げて敵を罵った。
敵は音も立てずにいた。


以上、テキトー訳。

にぎにぎしく間抜けているように見えて、絶対に包囲網を崩さない。
連絡手段が断たれる。
食料調達も絶望的。
敵は弱い者を刀に掛け、反撃を受けて静まり返る。挑発には乗らない。
いやあああぁぁぁぁ。

心理戦で負けるわ。なんかマジで気味悪いわ。
もう白旗揚げたいんですけどダメですか?

こわい秀吉さすが怖い。
残酷さが、子供のような残忍さというか、善悪の分別がない感じなんだよね。
効果的に残酷さを演出しようとしてるんじゃなくて、
思いついたことを片っ端からやってみたら不要なくらい残酷だったというか。
小さな虫の羽や足を千切って喜ぶガキンチョ(在りし日の私の姿)と何が変わろうか。
官兵衛……やっぱり官兵衛がこれを仕切ってたのかなぁ。
あの人の空気読めなさ加減なら、嬉々としてやってたのかもしれない。
だってKYってのは「くろだ・よしたか」の略だもんね、さもありなん。

あと、毛利家は合議制で運営されてると認識はしてたが、
やっぱり末端の方でも、大将だからといって専制的な軍の運用はできなかったんだね、と再認識した。
反発を減らせるという点でうまい統治方法なのかもしれないが、
やっぱりスピードが求められる場面では弱いんだな。
中国大返しを成したスピードの鬼とは、そりゃ相性が悪すぎるわ。
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2011-11-29

経家登場、いきなりピンチ!?


一日空けちゃったのは体調不良のため。
あと愛用のUSBメモリがお亡くなりになった。合掌。

おさらい:織田VS毛利……ていうか私毛利サポだから毛利VS織田だわな。
二者間で右往左往してた山名豊国は家臣に愛想を着かされて追い出され、
鳥取城は毛利方となったまでは良かった。
請われて送った大将・牛尾は合戦中に負傷退場、
替わりに市川雅楽允が詰めたけど、城兵は米相場の暴騰に欲を出して兵糧を売り払ってしまったよ!
織田の秀吉が攻めてくるのにどうすんの?


吉川式部少輔経家、鳥取に籠もること、並びに秀吉出張のこと(上)

森下・中村は何を思ったのか、
「どなたかご一族から一人送ってください。大将として仰ぎたいのです」と伝えてきたので、
元春様は、今度は吉川式部少輔経家(石見吉川家)を向かわせた。

経家に従った兵には、松岡安右衛門尉・森脇若狭守・山県筑後守・
山県源右衛門・朝枝加賀守・武永四郎兵衛尉・井下新兵衛尉・井尻又右衛門・
高助左衛門・長和三郎左衛門・長岡信濃守・野田左衛門尉・大草因幡守、
船手からは野村藤蔵・野村九郎左衛門・豊嶋新右衛門・山県次郎兵衛尉、
そのほか杉原盛重から横山弥太郎・南方半介、古志因幡守からは古志蔵人、
宍戸五郎兵衛尉からは宍戸弾正忠、有地右近からは叔父の有地右京亮など八百騎あまり、
天正九年二月二十六日に芸陽(石州)を発ち、鳥取の城に籠もった。
やがて市川雅楽允は芸州に帰っていった。

鳥取から一里(約四キロ)ほど離れた小さな山を丸山といった。
これに手を入れて城郭とし、元春様から山県九左衛門尉が大将として置かれた。
国衆の侍の奈佐日本助・塩冶周防守・佐々木三郎左衛門などが五百騎ほどで立て籠もり、
軽の港に大船を掛け並べておいた。

そうして吉川式部少輔が鳥取の城に入ってみると(三月十八日)、兵糧がほとんどなかった。
仰天して、元春様に
「当城に立て籠もる軍兵は二千あまり、そのほか里の者たちを合わせて男女四千ほどいます。
兵糧を点検したら、二、三ヶ月の蓄えもありません。急ぎ兵糧を送ってください」と注進した。

また京都に山伏を放ち、信長卿の動向をうかがわせていると、その山伏が鳥取へ戻ってきた。
「信長卿は、羽柴秀吉に鳥取の城を取り囲むように下知なさいました。
秀吉も元春が後詰を勤めるだろうから、少数の軍勢ではかなわないと言ってきたので、
信長卿から一万騎あまりの加勢が送られるとのことです。
また秀吉は、鳥取には押さえを置いて伯耆に赴き、
南条の家城に取り付いている敵をすべて攻め破ろうとしています。
そうすれば鳥取の城は攻めずとも落ちると申しております」

報告を受けた式部少輔は、
「急ぎ兵糧を送ってください。秀吉は南条兄弟を助けるために、この秋には出張してくるようです。
鳥取か八橋か、どちらか一城を攻め落とすつもりでいるようです。
八橋はさて置き、当城は名城でありしかも優秀な兵が二千はいますので、
兵糧さえ十分にあれば、たとえ何百騎で攻めてこようとも、たやすく落とされることはありますまい」と、
しきりに注進した。
元春様は杉原盛重に命じて兵糧を少々送らせたが、
男女四千あまりに及ぶ人数なので、一月分にも足りなかった。

また、船で兵糧を入れようと、大船四艘に米を積み、
田中宗右衛門・豊嶋源次郎・有間又八・白井藤次郎・白井新左衛門・白井七郎左衛門・
竹内新五左衛門・手嶋藤次郎などが運搬していると、
夜半に丹後の警護船が数百艘乗りかかってきて戦いとなった。
芸陽の警護は少勢でもあり、思いもかけず夜中のことだったので、かなうはずもなかったが、
いずれも劣らぬ屈強な者たちばかりで、散々に戦った。
なかでも田中宗右衛門は比類ない働きをして討ち死にした。
豊嶋源次郎・有間又八・白井藤次郎・手嶋藤次郎も討ち死にした。
竹内新五左衛門・白井七郎左衛門はこれをかいくぐって帰ってきた。

そして同七月五日、羽柴美濃守(秀長)が一万騎を率いて山見として出てきた。
丸山の東の方の山に登って、やがて引き上げていくのを見て、
城中から奈佐の姪(?)滝野三左衛門が先陣となって足軽をつけさせ、遠矢を少々射掛けた。
同七日の卯の刻、羽柴筑前守が六万騎を率いて出発し、
鳥取・丸山の両城が一里ほど隔たっているにもかかわらず、
それらを一緒にぐるりと取り囲んだ(七月十二日)。


以上、テキトー訳。

さあさあ、いやーな雰囲気が漂ってきましたよ。
経家登場回だというのに! のっけから暗雲かよ!

まず、森下・中村は「市川様じゃちょっとハクがつかないよネー」とか言ってたんじゃないのかと!
だから市雅ヘソ曲げて帰っちゃったんじゃないの?
まあ普通に別のことやらせるのに元春が呼び戻したんだろうけど。

あと意外に山伏が有能で驚いた。
こういうのが忍者の本来の姿なんだろうな。
職業集団としての「忍者!」みたいなのじゃなくて、
本来は別の仕事やってるけど、そのついでにというか立場を生かして、
副業的に諜報活動やってるという。
これだけ有能なんだから、標的が城だけじゃなくて土地全体に及ぶ兵糧攻め作戦くらい
聞き込んできてくれればいいのに。

なんかね、食糧輸送船が強襲されるとか、静かな物見とか、
真綿でジワジワと首を絞められていくような感覚だね。
ヤバイけどどうにもできない。
背筋が寒く感じるのはきっと冬だからだろうそういうことにしとこう。
2011-11-27

鳥取、退場者二人目

織田VS毛利、鳥取城の雲行きがさらに怪しくなってまいりました。
とりあえず鳥取に籠もってた山名豊国は毛利を裏切って秀吉に降ったものの、
家臣たちに憎まれて一人落ち延びていきましたとさ。


鳥取城へ牛尾楯籠もること

山名大蔵太輔豊国が鳥取の城を逃げ出すと、
森下出羽入道道誉(通興)・中村対馬守は使者を元春様に送り、
「大将を一人置いてくだされ。お味方について当国を切り従えようと思います。
豊国は卑怯第一の愚鈍な者で、敵に与したり味方になったりと、
正脈を定めぬ邪将だったので、この城を追い出しました」と、あったことを事細かに伝えた。
元春様は、因州若佐の鬼ヶ城に籠め置いていた牛尾大蔵左衛門尉に、
まず鳥取に入るように命じ、牛尾はすぐに鳥取に入場した。

大蔵左衛門尉は、先年尼子左衛門尉勝久がこの国に攻め入ってきたときも、
鳥取に籠もって鹿介と渡り合い、何度も武勇を顕していた。
森下・中村は、いい大将が来たと大いに勇み喜んだ。

牛尾はすぐに敵の領分に仕掛けていき、あちこちに放火して一揆勢を数多く薙ぎ捨て威勢を誇示した。
この国の諸寄の城に磯辺の何某という者が籠もっていて、その城中に逆心を抱く者があり、
これが牛尾に内通していた。
大蔵左衛門尉は、中村・森下とともに二千騎あまりを率い、
その城に押し寄せてヒタヒタと切岸に取り付く。
城中にも屈強な兵が多数籠もっていて、弓鉄砲を隙間なく撃ちかけるも、
牛尾は少しも怯まずに手勢三百ばかりで無二に斬りかかり、砦のくるわを一つ制覇した。
そのまま二のくるわに乗り込もうとすると、城中からこれを打ち払おうと射掛けてくる。
牛尾が塀に手をかけると、近距離から放たれた矢に膝をしたたかに射られて、
その矢を抜こうとすると矢柄は抜けたもののやじりは膝に残ってしまった。

さすがの牛尾もこれでは足が立たずに、仕方なく郎党の肩に寄りかかって扇を振り上げ、
「かかれ、かかれ」と下知したけれども、
大将がすでに手負いとなっては、諸卒もなかなか進めずに、次第に退却してしまった。
牛尾はこの傷が非常に痛み、残された命もあとわずかかという有様で、
元春様にこの報告をして湯治のために出雲の牛尾へと帰っていった。
牛尾の替わりに市川雅楽允(春俊)が鳥取に置かれた(天正八年九月)。

羽柴筑前守秀吉は武勇だけが余人を引き離しているのではなく、
智謀もまた古今に傑出した良将だった。
商売船数艘を若狭から因幡に差し下し、米・粟・大豆などを従来より倍の高値で買い集めさせた。
森下・中村はこれを謀略とは夢にも思わず、急に運が向いてきたような気持ちになって、
蓄えていた兵糧をほとんど売り払ってしまった。
これは、鳥取は名城なので、力押しでは容易に攻め落とせないと思ったからこそ、
この智謀を張り巡らしたのだということだ。


以上、テキトー訳。

先に言っちゃうとこの次に経家が出てくる。

牛尾さん……なんか牛尾さん、ハッスルしすぎて負傷して退場ってどういうことなの。
あんた大将でしょうが。

そして兵糧の売り払い。
これを見るだけで「あああぁぁぁ」って声が出そうな。
これが超鬱展開につながるんだよね。
年の暮れも押し迫ってきたというのにこんな鬱話読んでしまっていいのだろうか。
まあ軍記物で鬱じゃないのはないんだろうけれども。

これからジワジワ追い詰められていく感を楽しむのか。
なにこのドM精神www
2011-11-26

鳥取けちのつき始め

鳥取落城を読もうと思って、その少し前から読み始めてみた。
早く経家登場しないかな~。


山名大蔵太輔豊国心替えにつき森下・中村、豊国を追い出すこと

羽柴筑前守秀吉は、数万騎を率いて但馬の国に攻め入った。
このとき、一番に敵を討ち取った者には莫大な恩賞を与えると触れを出したので、
兵たちは我も我もと勇んで進む。
そのなかで、武田源三郎の郎党の中原市太夫が一番に敵を一人討ち取り、首を引っさげて帰ってきた。
秀吉は大いに感称した。
その後、太田垣の一族もあちこちで防戦して勝利を得ようとしたが、
大軍を相手にかなうはずもなく、城を捨てて退却せざるを得なかった。

秀吉の武威はいよいよ強大になり、この国で降伏してきた山名但馬入道・垣屋駿河守を先陣に使って、
因幡の国の鳥取の城に押し寄せた。
まずは使者をして、豊国に
「味方になれば人質を返し、そのうえ因幡一国を残らず与えよう。
もし断るなら、豊国並びに家之子郎党の人質も残らず討ち果たす」と伝える。
豊国は早速寝返ろうと思ったが、さすがに家人たちの心中を慮って、
山口・森下・中村を呼び寄せ、どうしたものかと相談した。

皆が言うには、
「先年、尼子の冨田籠城のとき、元就に使いを送って軍門に下る旨を伝えました。
元就は杉原・南条らを加勢に送ってくれ、この国の敵を攻め滅ぼしてくれました。
これはひとえに元就の芳恩に他なりません。
その後、山中鹿介が尼子勝久を大将に担ぎ上げて当国に攻め入ってきたときは、
毛利家を裏切ってこれに味方されましたね。
元春・隆景が勝久を征伐しに当国の私部(キサイチ)の城に向かったとわかると、
また尼子を裏切ってもとの毛利家に従われました。
これでは前代未聞の卑怯な愚か者でどうしようもないと思っていましたが、
今度はまた秀吉に一味しようなど、なんと情けない仰せですか。
私どもの人質がその身をズタズタに切り裂かれ、骨を粉々にされようとも、
主君のために子を捨てるのは忠臣として嘆くことではありません。
ここは毛利家への一味の態度を変えないでくだされ」と諫める。
豊国ももっともだと思ったのか、秀吉へ寝返ることはなかった。

そうなると、秀吉はすぐに山口・森下・中村たちの人質を磔にかけ、
鳥取の麓に並べて、槍・薙刀を抜いて差し当てた。
「もし味方になるなら助けてやるぞ。そうでなければ人質を突き殺してやる」と言っても、
山口・森下・中村たちはまったく耳を貸さなかった。
この人質を一人残らず突き殺す様子は、余所目に見ても魂が消え入りそうなものだった。
親兄弟であればどれほどつらかっただろうか。
義があれば嘆いて当然のことでも嘆かないものだとは言うものの、その心中はさぞ、と思われて、
城中の者たちは皆袂を絞った。
まして人質の母や祖母たちは、愚かな女の身であれば、忠も義も知ったことではない。
ただ「非情な秀吉じゃ。薄情な親心じゃ。
敵方に降伏せずに、いとおしい可愛い我が子をこうして目の前で殺されてしまった」と嘆き悲しんだ。
実に道理で哀れな有様だった。
森下たちは、「生は死の始めだ。百年も生きる者はいるまい。
どうせ一度は死ぬ命なのだ、主君のために命を捨てるのは、忠臣・勇士として望むところだ。
子供たちもこの我らの子ならば、恨みにも思うまい。
ならば我らが悲しんではならん」と、気にもかけない振りをしていた。

その後、敵はまた豊国の娘を磔にかけ、美しい黒髪をさかさまに引っ張り、
手足を左右に開かせて縛り付けると、乱暴に鳥取の麓に晒した。
槍・薙刀を抜いて雪のような肌に差し当て、
「どうした豊国、子供の命が惜しいか。因幡一国がほしいか。それならこちらに味方せよ。
惜しくてたまらない子供の命も、望みの領土も捨てて、毛利家に一味するなら覚悟しろ。
こちらにつかないならこの人質を刺し殺し、この城も攻め落としてやる。
豊国はもちろん、女子供の首もことごとく刎ねてやる。よく考えるんだな」と三日間言い続けた。

豊国は、「あの娘を殺されては、自分がこの世に生きている甲斐がない。
もう出家して高野粉川の奥に隠棲しよう。身も惜しくない。国もほしくない」と嘆いた。
山口・森下・中村は、
「最愛の我が子を捨てたのも、主君の不義の汚名を雪ごうとしたからなのです。
今またご息女の命を失い、国を捨て家も捨てて出て行けば、さらに愚痴蒙昧の汚名が加わるでしょう。
子を失っても敵に協力しないのも殿のため、子を殺されながら敵に降伏するのも殿のため、
もう豊国を諫めたりはしません。お好きなようになさってください」と言った。
豊国は非常に喜んで、使者を送って
「秀吉にお味方しようと思います。娘の命を助けてくだされ」と伝える。
秀吉はこう言わせるためにこそ、ここ数日はただ見守っていた。
やっと念願がかなったので、すぐに人質を助けた。

こうして因幡一国が丸々豊国に与えられたかというとそうではなく、
因幡はほぼ家人に分割して与えられ、豊国にはわずか二郡が与えられた。
山口以下の家臣たちは、子供を殺されたうえに小身になって、まったく興醒めした様子だった。

これほど忠志を尽くしても、豊国はこれを嬉しいと思うような様子もないばかりか、
無法な振る舞いも多かったため、山口・森下たちはたちまち恨みを抱いた。
なかでも中村対馬守と豊国が仲たがいしたのは、豊国の好色が引き金となった。
中村の妻は容貌が優れて美しく、また心優しい女だったが、豊国はこの評判を聞きつけ、
どうにかしてその女を一目見て、聞いていた通りなら奪い取ってやろうと思っていた。
しかし目にする機会もないので、心を千々に砕いて考え込んでいたところ、ハッと思いついた。
手近な侍たちに「数奇(風雅な催し物?)をせよ」と申し付けると、次々に我も我もと会を開いた。

中でも豊国の真意を心得た若党が「数奇もなかなか気詰まりだ。私は茶屋を学ぼう」と、
自分の妻を出して茶を立てさせた。
それからは茶の手前は女がやるほうがよさそうだとなって、
山口・森下も自分の老女を出して茶を立てさせた。

さて、中村が会を開く番になると、豊国は以前からの望みがかなうと世にも嬉しく思って、
いつもより華やかに装って外出した。
中村の数奇屋に入り、早く女房が出てこないかと待っていると、
意外にも対馬守本人がくすんだ肩衣袴を着け、いざり出てきた。
そのまま無愛想に茶を立てたので、豊国は顔色を変え、
「皆は妻女を出して茶を立てさせた。それを中村一人だけが違えるとは奇怪なことだ」と激怒した。

対馬守は「仰せはかしこまって承りました。
しかしながら、豊国のご厚恩にて、近年は過分の所領をいただいておりますので、
家人も数多く召抱えております。
よって妻が手ずから茶を立てたことはありませんので、茶の道を存じておりません。
そんな不調法者を御前に出すのもいかがかと。
私は不肖の身ではありますが、当家の老臣の名を冠する者が、いかに豊国が気に入るからといって、
女を差し出し、茶屋の女将のような振る舞いをさせるものではありません。
これまで皆の妻室に茶を立てさせたのも下品極まりないと思いますぞ」と乱暴に言った。
豊国も理詰めでやりこめられて、言葉をなくして宿所に帰っていった。

それから豊国は、忠節を尽くしている中村を憎々しく思って、どうにかこれを失脚させようと、
毛を吹いて疵を求める(人の欠点を暴こうとしてかえって自分の欠点を晒すこと)がごとくに振る舞った。
そのうえ家中の掟も一つとしてまとものものがなかったので、山口・森下をはじめとして皆辟易して、
心替えをして芸陽に一味し、因幡一国を切り従え、本領を取り返そうと謀略を練った。
豊国は無力にも、八月(九月)二十一日に毛利浄意入道一人を連れて鳥取を逃げ出し、
播磨の姫路へ赴いて、羽柴秀吉にこのことを告げた。
また同九月二十五日には、亀井新十郎とともに鹿野の城にいたが鹿野の何某が、
何を思ったのか急に態度を変えて芸陽に味方し、その城を捨てて同国の荒神山に籠もってしまった。
一人城に残された亀井は、秀吉に加勢を頼んできた。


以上、テキトー訳。

とwwwよwwwくwwwにwwwww
不思議なことに、この人は江戸時代まで生き残って、ちゃっかり家を続かせてるんだよね。
まあよく知らないんでwiki先生覗いただけだけの知識しかないが。

いやしかし、家臣に
「あんた裏切ってばかりじゃないですか。もっとちゃんとしてくださいよ」
とか言われてシュンとしちゃうとか、それってどうなの。
裏切るなら裏切るで、真田昌幸レベルまでいっちゃうといっそ痛快なのに。

そして家臣の妻を横取りするにも、「まあ一回見て確かめてから~」なんて悠長なことやってて、
仕込みはOKなはずなのに期待を外されたうえ
「曲がりなりにも当家重臣の女房に茶屋のかかあの真似させるわけにいかんでしょJK」
と怒られてまたシュンとしちゃって、後日嫌がらせを始めるとか、ちっちぇえな。
意に沿わない者は斬り殺すくらいの残忍さがあればまたひと味ちがったんだろうにな。

今後はしばらく鳥取落城まで順に読んでいこうと思う。
2011-11-25

秀吉「これでもか!」

前回のあらすじ:
四国征伐の後、秀吉に出仕するため大坂に上った隆景・元長は、想像以上の歓待を受けた。
秀吉自ら大阪城の天守を案内し、供の者百人以上も呼び寄せて見学させた。


元長・隆景、大坂へ上りたまうこと(下)

その後殿下秀吉公は両人(隆景・元長)の家の者に贈り物を渡そうと、
反物を持ってこさせ、山のように積み重ねた。
「それ、皆これを好気名だけ持っていけ」と放り投げると、
二巻・三巻取る者もあれば、ようやく一巻を確保する者もいる。
殿下は大いに興に乗って、手を叩き声を上げて大笑いした。

元長様は中国へ帰ってからこう言った。
「天守見物をしたときに、秀吉を一刀のもとに斬り殺し、自害してやろうと思っていた。
今だ斬れ、今だ打てと何度も思ったが、
この身は毛利家のために命を捨てるのは望むところではあっても、隆景は違う。
たとえ秀吉を討ったとしても、隆景を失っては、中国の柱・礎が砕かれてしまう。
そうなれば毛利家の滅亡を招くだろうと、仕方なく思いとどまったのだ。
ああ、隆景さえ同道していなければよかったのに。
太政大臣だろうが、関白だろうが、体が金属や石でできているわけでもないのだから、
ただ一打に斬り殺してやったのに」

こうした気持ちを魂に抱えていたからか、その気配が外にも顕れていたのだろう。
秀吉公はその後、宮部善乗坊に対して、
「吉川元長は祖父の元就、父の元春にも劣らぬ大将と聞き及んでいたが、
聞いていたよりもさらに恐ろしい眼光だった。
この秀吉は鬼だって恐ろしいとは思わないが、あの元長の目つきは、
ともすれば秀吉だろうと一太刀浴びせようと思っている目だったから、
なんだか居心地が悪くてくつろげなかたぞ」とこぼしたという。

その後、秀吉公は隆景・元長に太刀など数々の贈り物をした。
両将に供奉していた今田中務・井上又右衛門も呼び出され、駿馬を一頭贈られた。
さて、隆景の宿には蜂須賀彦右衛門、元長の宿には黒田官兵衛尉が付け置かれた。

翌日二十日、隆景・元長が三吉の中納言秀次卿のところに出向くと、
秀次卿がすぐに対面してたいそうなもてなしを受けた。
饗膳には金銀をちりばめ、山の幸や野菜が所狭しと並び、終日盃を重ねた。
その後、観世左近・金春八郎・春藤六右衛門・樋口石見・大蔵二介など
乱舞の名人たちが呼び寄せられ、三番能が催された。
ここでも今田中務・井上又右衛門の二人が呼び出され、良馬を贈られた。

その後、元長・隆景は別れの挨拶をしてそれぞれの宿に帰っていった。
この扱いに、時の面目、世の覚えもまた比類ないものだったようだ。
殿下はまた元長・隆景を招いて言った。
「来年は九州の逆徒、島津・秋月・高橋らを成敗する予定だ。
あなた方は地理的にも近いので先陣を頼みたい」
隆景・元長は「かしこまりました」と答えた。

同(天正十三年)十二月二十日、暇乞いを済ませて大坂を出発しようとすると、
秀吉から「このごろは北風が激しくて海上は波が荒れている。
船路では大変だろう。陸の道で下国するといい」と、
案内者として蜂須賀彦右衛門・黒田官兵衛尉が差し添えられた。
元長・隆景は「時の面目が他の人々より高くなった」と感じて、
手足がどこにあるかもわからないほどだった。

摂津・播磨・備前・備中まで、宿泊所では米や酒肴まで提供され、丁寧に料理して出された。
下男や中間に至るまで、道に兵糧をばら撒くこともなく、上機嫌で歌などを謡いつつ、
同晦日、備中の河辺川に着いた。黒田・蜂須賀の人々も、ここで互いにお別れをして備前の岡山に帰り、
そこで年越しをし、翌天正十四年正月上旬に大坂に向けて旅立った。
元長・隆景は、同正月五日に芸陽の吉田に到着し、輝元様に会ってから、
それぞれ沼田・新庄へと帰っていった。


以上、テキトー訳。

うんうん、元長、憎かったろうねぇ……
毛利勢と秀吉は、戦争はしていたけれども遺恨が積み重なっていたわけじゃないんだから、
和平も結んで完全に軍門に下った状態で「殺してやる」とか、明らかに別の恨みがあったんだろうね。
やっぱり経家のことなんだろうと思ってしまうのは穿ちすぎなのかね?

でも「陸路で帰りなさい」と言われて案内者まで添えられたからって
舞い上がるのはどうかと思うよ。
どうせ毎度おなじみの財力・影響力の示威行為じゃないか。
しかし、ここが秀吉のすごいトコなんだよな。
ものすごくパフォーマンスがうまい。
多少やりすぎでも。
本当に「これでもか!」ってくらいで下心見え見えなんだけど、
不思議と丸め込まれてしまうんだよね、みんな。

とすると、やっぱり人を口説くには押せ押せが正解ってことかな。ちがうか。
2011-11-24

天下人のパフォーマンス

秀吉との高松表での和睦、人質差出、四国征伐の後、
隆景と元長が秀吉に出仕したときの話。


元長・隆景、大坂へ上りたまうこと(上)

四国はほどなく静謐になったので、殿下秀吉公へ御目見えするようにとのことで、
吉川・小早川の両将は、同(天正十三年)十月初旬(十二月)に芸陽を出発し、
同中旬(十二月十九日)に泉州の国境の港に着いた。
隆景様は賢法寺、元長様は玉蓮寺(西条道場とも)を旅宿とした。

殿下はこれを聞き、同十八日(十九日)に蜂須賀彦右衛門・黒田官兵衛尉を上使として差し向けた。
「はるばるのご上国、本当にご苦労様でした。殿下は非常にお喜びです。
明日十九日(二十一日)に大坂に登城なされませ」と言われて、
元長と隆景は急ぎ上使に対面して上意をかしこまり承ると伝えた。

夜が白々と明け、両将が出仕の身支度を整えていると、
大坂から秀吉公の命令で送馬数百匹を引いて出迎えがあった。
殿下は諸大名に対して
「吉川・小早川は、わしに対して言葉では言い尽くせないほどの忠節を尽くしてくれている。
わしのことを自分のことのように大切に考えているならば、出迎えに罷り出でよ」と通達していた。
一昨年の経言・秀包の上国のときでさえ、殿下の馬廻りの諸侍がこぞって道に出て迎えている。
今回はさらに重鎮の元長・隆景の上国とあって、
大坂にいた大名・小名たちは皆、他に負けてなるものかと、
住吉天王寺・大坂の町・城の堀際まで思い思いに出迎えた。
道はすれ違えなくなるほど狭くなり、隆景・元長も馬から降りて挨拶をし、
その後登城して、すぐに殿下と対面した。

殿が言う。
「遠路はるばるのご上国、神妙の至りである。
一昨年の惟任日向守(明智光秀)謀反のときは、備中の高松において対陣し和睦したが、
信長公が光秀によって殺されたこと、両陣に知らせがあれば、
きっと盟約を破ってこの秀吉の跡を追って攻め上るだろうと思っていた。
しかし誓約を堅く守り、陣を払ってお帰りになった。
秀吉は無事惟任を責め滅ぼし、天下の権勢をこの掌中に握っただけでなく、
位階は従一位にまでなり、太政大臣、関白にまで出世した。
これも皆、両川が儀を金石のように守られ、約束を破らなかったおかげである。
この恩はとても返しつくせない。

輝元は中国八ヶ国の太守だから領地に不足はあるまい。
隆景には伊予を与えよう。
元長にも、今後領主に空きが出たら、どこなりとも宛がおう。
これからはこの秀吉に対し、疎遠になるでないぞ。

だが一つ残念なことがある。元春とは近年、所々で対陣してきた。
さっき言ったように高松で和睦が成ったのだから、
一度は対面してこれまでの戦について語り明かしたいと思っていたのに、
早々と隠居したといって上国しないのは、秀吉の意に沿わない気がする。

しかし来年は九州の逆徒を成敗しようというところなので、
元春に九州の戦の差配をひとえに任せたく思う。
わしも出馬するから、筑紫で対面し、山ほど積もった戦の話を語り明かして、
胸のモヤを散らそうではないか」

隆景・元長はただ平伏していた。

この後、珍味寡肴を集め、美々しく飾り立て滋養に良いものを尽くした饗膳が振舞われた。
その後、六畳敷きの構の柱・鴨居・天井・敷居に至るまですべて黄金を凝らした部屋でお茶が供された。
茶入・釜・茶碗・茶杓まで、すべて黄金を張り巡らしており、
その華やかさは、三寸ばかりの舌先ではとても言い表せないものだった。
しかし「茅茨剪らず采椽削らず」というような質素なさまとは雲泥の差があるように思えた。

さて、茶席もお開きになると、殿下は「お二人に天守を見物してもらおう。この秀吉が案内しよう」と言って、
蜂須賀出羽守一人に太刀を持たせ、元長・隆景を引き連れてあれこれと見せていった。
「滅多にないことだから供奉の侍たちにも見物させよう」と言い出して、
二人の手勢百四、五十人を天守に呼び寄せて披露した。
実に噂だけは知っている阿房殿、唐の驪山宮などというものも、
ここの豪華さには及ぶまいと、皆呆然としていた。

つい先日までは敵と味方に分かれ、楯を突き矛を交え、あちこちで攻め戦った兵たちを、
何の用心もなく、主従二人だけが敵数百人の中に混じって、
「ここを見よ、あそこを見よ」と指をさし、頭を廻している。
この態度は、人を虫けらのように思っているのとはまた違って見えた。
これほど大胆不敵でもなければ、草を刈り薪を担いでいた農夫の身で
従一位の関白に出世することもなかっただろう。

まさしく殿下は智勇が古今に傑出した名将だとはいっても、
仁と儀と礼については夢にも知らない人だ。
過去にどんな善因があって、これほどの栄華を誇ったのだろうか。
秦の始皇帝は六国を滅ぼし漢陽宮を造り、聖賢の書を焼いたこと、
平相国(清盛)が朝的を攻め滅ぼして、都を福原に遷し、公卿の官職を奪った故事によく似ている。
始皇帝・平相国は子孫が続いて天下を保つことがなかった。
秀吉公も、たとえその身一代はこの上ない栄華を誇ろうとも、仁政徳化を施さなければ、
子孫が無窮の栄華を極められないだろう。
始皇帝は胡亥に至って滅び、清盛は宗盛の代で滅亡した。
殿下もその二の舞になるだろう。御子の代は危ないぞ、と人々は言い合った。


以上、テキトー訳。続く。

ヤラしいなさすが秀吉ヤラしい。
「え~、元春くん来ないのォ? せっかくわしが勝った戦のこと語り明かそうと思ってたのにプププ」
みたいな感じか。
元春の電撃隠居はもったいないと思ってたが、
こんな禿鼠の膝元に這い蹲らなきゃいけないなら、家督譲ってよろしい!
むしろ出家しちゃえYO!って思ったわ。

あと、わざわざ供奉の衆にも天守を見学させるのもヤラしい。
なんていうか、人を食ったようなというか呑んだようなというか、
できればこういう言葉は使いたくないけどつまり余裕ぶっこいてるところがマジむかつく^^

ええ、完全に吉川目線ですが何か。
とはいえ、以前より秀吉のこと好きになってるのが不思議だな。
宇喜多母との章が同情せずにはいられなかったもんな……(遠い目)

大切な経家の仇と対面した元長はどんな気持ちだったか、待て次回。
てか明日更新できるかな? 夜中まで会議だ><。
2011-11-24

あなたは私の弓矢

「陰徳記」の杉原家騒動を読んで元長兄さんのカッコよさに開眼。
またまたネット入手の石見吉川家文書をパラパラ見てたら、元長さんたら……!

以下、年代不明だけど吉川元長から吉川経家に宛てられた手紙の意訳。


「式少(吉川式部少輔)へ     少二(少輔二郎)元長より

 石見への帰国、明日に決まったかな?
 もう何年もこっちにいるから、帰国はとても嬉しいだろうね。
 幼いときから一緒にいたあなたのことだから、私も喜ばしい。
 でも、片時も離れず一緒にいたから、正直寂しくてたまらないよ。
 こんな風に言うのは軽薄かもしれないけど、察しておくれ。

 あなたの本拠地は石見だけど、一年のうち半分ほどはこっちにいるようにしてね。
 経安(経家の父)が何と言おうとも、そうしてくれるとありがたい。
 まあ帰国に際して支度をしているところだろうから、私のことまで頭が回らないかもしれないけどさ。

 あなたがそばにいるのは当たり前のことだったから、あんまり大事な話をしなかったね。
 離れていってしまうと思うと、もっといろいろと話しておけばよかったと思う。

 まあ、住む場所が離れるってだけのことだし、私の気持ちは以前とちっとも変わらない。
 あなたも同じ気持ちでいてくれたらと思う。
 ただ、遠く離れると心も離れていくものだから、注意してくれよ。
 返す返すも、あなたから何も言ってこないのが寂しい。
 
 また、軍事情勢が不安定だから、石見のことは万事気をつけるようにしてくれ。
 国境に身を一つ置くような気持ちでね。
 こんなことを言うと、あなたが私の弓矢のようでなんだかおかしいけれども、
 とにかく、私のことは吉田(毛利本家)同然に思ってくれないと困る。
 
 このことは絶対に絶対に誰にも内緒だからね。
 これからも心を隔てず、すべての面で私の支えになってくれ。

 また、筑前立花の陣でいろいろと尽くしてくれたこと、今でも忘れていない。
 言うまでもないよね。

 では、ご帰国の吉事、おめでとうございます。

 八月二十三日         元長

 そうそう、会って話したいので来てくれるのを待ってるよ。
 この書状は火中に投じるか返却すること。
 来てくれれば細々とした返事はいらないからね」


以上

元長……なんつう破壊力なんだ。完全に萌えた。ていうか悶えた。
「燃やすか返せ」と言われてる書状をこっそり取っておく経家もどうかと思うよ!
元長に背いても自分の手元に置いておきたかったとか、かわいすぎる!!!

そうかぁ、二人は幼馴染なんだねぇ。
生まれ年も経家が1547年、元長が1548年だし、歳も近い。
経家の元服の加冠(1560年)も、当時鶴寿丸という名だった元長がやってるし、
官途書出し(1568年)も当時元資という名だった元長がやってる。 by同文書
てことは、経家は元長の小姓として抜擢されてたのかな。
ていうか経家の父の経安が元長の養育係で、経家も一緒に育ったのかな。
歳が一年違いってことは、経安の妻が元長の乳母になってて、二人が乳兄弟って可能性もあるわけか。
まあ証拠もないし単なる想像ですけれども。

経家は有名な、秀吉の「鳥取の飢え殺し」で切腹しちゃうんだよね。
鳥取に入城すると決まって、相当の覚悟をしていたようで。
当初、経家の切腹は城兵助命の条件には入っていなかったらしいけど、
自分が切腹すると聞かなかったらしい。
で、秀吉が信長に経家を切腹させていいか尋ねて、OKが出たので見事切腹したと。
経家の首は信長の元に届けられて手厚く葬られたそうな。
預かった城を明け渡すのに、自分が腹切らなきゃ気が済まなかったんだろうな、経家さん。

経家も自分を元長の弓矢だと思ってたんじゃなかろうか。

経家は、元長の弓矢のつもりでいたからこそ劣勢の鳥取城を預かり、
それが破られるときは求められずとも腹を切ったんじゃないかと思ってしまった。
「陰徳記」の鳥取城開城あたりをちらっと見てみると、かなり壮絶なことになってて泣ける。
これも近いうちに訳に取り組みたいなぁ。
2011-11-23

杉原景盛の弁明

前回のあらすじ:
兄を殺して杉原家の乗っ取りを画策した杉原景盛は、
その陰謀に気付いた主君、吉川元長の号令で居城を軍勢に取り囲まれた。
縁者の有力者はことごとく元長側につき、
陰謀の中心人物だった菖蒲左馬允が逃げ出すと、城中に動揺が走る。


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(6)

こうして城中の兵は六日の日から夜にかけて皆逃げていってしまい、景盛の手勢はわずかばかりになった。
「今夜はいよいよ敵が乗り込んでくるだろう。
時刻はおそらく寅の下刻(午前五時)だろう。精一杯暴れまわって潔く死のう」と、
酒を出してきて世を徹して最後の酒宴を催した。
しかし明け方を待っても、敵がかかってくる気配はない。

明くる七日の朝、香川兵部大輔・粟屋孫(彦?)右衛門のもとから城内に使者を遣わした。
「只今こうしてこの城を取り囲んだのは、景盛に逆意ありと巷で噂になっているからです。
しかし証拠も見つかりません。
ただ、尾高の城から佐田に移られたので、
人々も、南条と一味して東伯耆の境に出られたのだと邪推したようです。
出雲・伯耆の国人すべてが野心を抱いているとはいっても、景盛だけはそんなことはしないでしょう。
ご尊父の盛重が杉原家を相続されたとき、元春からの恩があるため、
その一生の間は八幡大菩薩との誓言は違えても、
元春のお叱りを受けるようなことだけは二度となさらなかったと聞いております。
これほどの決心をされていたため、戦功も他より抜きん出ていたことは、
中国の兵たちどころか三歳の幼子まで承知しています。
このことは、輝元・元長もお忘れにはなっていません。

景盛のご謀反はまったく証拠のないことですので、まずはこの城を明け渡され、
その身に罪ないことを訴えなされませ。
亡き播磨守殿の御戦功に照らし合わせて、きっと許されましょう。
景盛の身にまったく過失がないのでしたら、身命に障りがないどころか、
杉原家ご相続のことについても異議は出ないでしょう。
濡れ衣を着せられたまま命を捨て家を失われるよりは、ここで引いて無罪を証明し、
奸人の讒言を糾弾すべきです。

もし逆意について返す言葉がなく、あの風説が事実であるならば、
御返事をいただいた後でこれからこの城を攻め破ることになりますので、
よくよくお考えになってくだされ」

こうして道理を尽くし、言葉を和らげて言い送ると、景盛はしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。
「先日私が尾高から佐田に出て城を築いたのは、絶対に野心からではありません。
それを讒言をお信じになり、南条と一味したと思われたのは、確かに道理ではありますが、
事の全容をご両人もお聞き届けになって、元長公の御前で申し上げてくださいませ。
お聞きのように、亡父の盛重はひとえに元春のお情けによって杉原家を相続いたしました。
だからこそ忠義を尽くして戦い、身命をなげうったのです。
御領国八ヶ国の国人にだって、盛重に並び立つと言われる者はいないはずです。
この身は不肖ながら、その子として、どうして敵に与し、御家に弓を向けることなどありましょう。

次に、南条と一味するなど、考え付いたことすらありません。
南条と亡き父とは、旧来犬猿の仲です。
南条兄弟は盛重の忠功が他に抜きん出ているのを妬んでいます。
その上その父の豊後入道宗勝が、去る天正三年の正月に、芸陽の吉田・新庄に新年の祝賀に赴いたとき、
その帰路に亡父盛重の居城、八橋に立ち寄りました。
盛重は美食を尽くして饗応して、宗勝も興に乗って盃を重ねたのですが、
酒毒にでも当たったのか、家城の羽衣石へ帰ったとたん、死んでしまいました。
やがて遺骸の肉の色が変わったらしく、盛重が毒を盛ったのだろうと言って、あの兄弟は我々を憎んでいます。
亡父のことは言うに及ばず、我ら兄弟のことだって、どうにかして殺してやろうと考えています。
もし一旦は謀略上一味したとしても、きっと騙して殺そうとしてくるでしょうから、
私は身の置き所がなくなったとしても、絶対に南条にだけは頼りません。
この程度のことは、一々申し上げなくとも、世の人が推察しているでしょう。

この身を失い家が滅びる時期が来たのであれば、せめて父の遺した忠誠を破らず、
元春公・元長公に対してまったく野心を抱いていないことを表明した上で、自害したいと思います。
ご両人のおっしゃることを疑っているわけではありません。
おめおめと降伏すれば、世の人が嘲笑うことでしょう。
南条領にも近いので、心無い噂が南条の耳に入るのは口惜しい。

人質を一人置いてくだされ。
亡父のときから今の私にいたるまで、新庄のお取次ぎは今は飛騨守殿がお勤めだと承っています。
先年までは森脇市郎右衛門といっていました。
その縁者である、ご子息の市郎右衛門殿を渡してくだされ。
また、当城へのご検使として差し向けられた、香川殿・粟屋殿からも人質を一人出してくだされ。
そうしていただければ、速やかにこの城を明け渡しましょう」

この言い分に沿って、森脇市郎右衛門に、香川兵部からは三宅源四郎、
粟屋からも郎党一人を添えて、景盛に送った。
景盛は、それではということで、その夕方に城を寄せ手に明け渡した。

香川・粟屋が難なく景盛を生け捕ったと新庄に伝えると、
今田中務・森脇右近が三百ほどの手勢を従えて駆けつけて、景盛の身柄を受け取った。
尾高の町の二階建ての家に、上下に四、五人を置いてしばらく幽閉していた。
やがて、「そこで自害なされませ。南条と一味の件は実否を取り調べるまでもありません。
実の兄に濡れ衣を着せて討ち果たされたことは、証拠が挙がっています。
輝元・元長は絶対にお許しになりません」と言われた景盛は、
「忠節だと思って実の兄を討ったことまでも、濡れ衣を着せて討ったなどという讒言をする者がいるならば、
このうえ申し開きをする意味もない。自害は覚悟していたことだ。今更驚かぬわ」
と言って、すぐに諸肌脱いで腹を十文字に掻っ切った。
そのままカラカラと笑い、「そろそろ首を打て」と言うので、郎党が一打に斬り落とした。

景盛には子供が二人いたが、これも一緒に刺し殺した。
景盛は享年三十二歳だったという。
この郎党の三吉徳右衛門を、同僚の佐田彦四郎に命じて討たせようとすると、
三吉も手の早い者で、抜き合って佐田を切り立てる。
香川の郎党、三宅源允がちょうどここに居合わせ、駆け寄って難なく三吉を討ち果たした。
また、佐田彦四郎を、中原弥介に命じて討ち取った。
佐田の弟の小鼠は、これを聞きつけて東伯耆に逃げていった。

やがて、景盛の弟の少輔五郎に三千貫を与え、父の名字を継がせてみたが、
この者は「堯の子堯に似ず(親が立派でも子が必ずしも立派になるとは限らない)」とは言うものの、
父の智勇に比べ、十分の一ほどにも及ばなかった。
こうして伯耆に七千貫あった景盛の所領は、輝元から元長に与えられ、
佐田の城は破却して、尾高の城に人を置いて、南条への押さえとして置いたのだった。


以上、テキトー訳。オシマイ。

後味の悪い章だのう。
景盛も、悪党なら悪党で、もっと派手にやればいいのに。
なんかイマイチすっとしない最期だった。
昨日の菖蒲の妻のほうが強烈だったわぁ。
あと、香川・粟屋も「景盛を殺せ」って言われてるんだから、
生け捕ったりせずに殺しちゃえばいいのに☆
まあ、合戦で人員を消耗しなかったのはいいことだよね。

さて次はどこを読もうか。
2011-11-22

極悪人の女房子供

前回のあらすじ:
杉原景盛と菖蒲左馬允は結託して、杉原家当主であり景盛の兄である元盛を殺し、
杉原家を手に入れようと企んでいた。
しかしそれに気付いた吉川元長が香川・粟屋をして景盛の居城、佐田の城を取り囲ませる。
悪逆によって味方は次々と離れていき、佐田は絶体絶命の大ピンチに陥った。


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(5)

菖蒲左馬允は同五日の日までは諸手に回ってあれこれと指示を与えていたが、
同夜に入って矢間を潜り抜け、どこへとも知れず逃げていった。
この男、自分の恨みから景盛をそそのかして兄の元盛に濡れ衣を着せて討たせ、
今度はこの罪によって景盛が処刑されようというときには、人より先に逃げる、たいそう卑怯な男だ。
景盛と一緒に悪巧みをしたのだから、せめて景盛と死をも共にするのであれば、
悪は堤婆(デーヴァバダッタ、釈迦弟子でありながら教えに背いたとされる)に等しくとも、
武勇だけは人並みだと言われただろうに、
奸邪だけが人より越えているだけでなく、また世にも珍しいほどの臆病者だった。
これを聞いて菖蒲を嫌わない人はいない。

菖蒲が逃げたとわかると、途端に城中の者たちは我先にと子を背に背負い、親に肩を貸し、
歩けるだけ歩いて逃げていく。
寄せ手はこれを追いかけ、斬り殺して遺品を引き剥ぐ。
死んでそのまま道の土となる者もあり、生きたまま捕らえられて軍門に顔をさらされる者もあり、
目も当てられぬ有様だった。

菖蒲の女房はこのことを聞いて、十歳になる男の子を近くに呼び寄せた。
「お聞き、小次郎。おまえの父の左馬允殿は、主君の元盛公に恨みがあって、
景盛公をそそのかしてありもしない罪をでっち上げ、元盛公を討ちました。
それだけでも十分非道なことだけれど、今度は景盛公が因果によって三年も経たぬうちに、
このような有様になられ、明日をも知れないお命。
この悪逆の張本人なのだから、逃げようとしても人が逃がすわけがありません。
また天も許すはずがないでしょう。
せめて景盛の最期にお供されれば、極悪の名を末代に残すとも、
臆病の恥を子孫に残すことはなかったのに、こんな情けないことになっています。
夫婦の仲であってさえ、恨めしくも憎くも思います。

おまえはまだ幼いとはいっても、大悪人の子です。敵が助けるわけがありません。
無理やりに生け捕りにされ、あれこそが大暴悪の男の子供だと人々に指をさされ、
恥をさらすだけでなく、頭を獄門にさらして死骸を荒野に捨てられるよりは、
私の手にかかって、来世までの親子の契りを堅くしなさい。
私も女だとはいっても敵の手に捕らえられ、あの男の妻だからと身代わりに刑にかけられ、
辱めを受けるのはごめんです。
おまえと一緒にいこうと思い定めました。
おまえもあの父と同じように、恥も人目も気になりませんか」

小次郎はこれを聞き終えて、
「どのようにでも、母上の思うようになさってください」と言う。
母は、「おまえは、魂は父には似ずに母に似た」と言うや否や、
守り刀を抜いて二回刺し、押し伏せた。

十二、三歳ほどの娘もいたが、これを見て、
「なんと恐ろしい、かか様は気が違ってしまった」と急いで走って逃げ、
景盛の妻室のいる部屋に駆け込んだ。
娘がわけを話すと同時に、周囲の者たちが走ってゆく。
その女房が肌脱ぎになって念仏を唱え、刀を腹に突き立てたところに抱きつき、
「どうしてこんなことをするのですか」と刀を奪い取った。
その後、治療して一命を取り留めた。

夫の菖蒲が南条を頼ろうとして東伯耆にいると聞きつけて、女房が訪ねていくと、
主君を討ち、主君を捨てた天罰だろうか、
菖蒲はすっかり白髪になって眉毛も鬚も抜け落ちてしまっていた。

「私はもう死んでしまってもいいと思いましたが、あなたに一度会って、
子供を捨て、主君を捨て、そんなどうしようもない命惜しさに逃げ去ったあなたにこの恨みを伝えてから、
どこぞの淵にでも身を投げようと思い、これまでつらい世に命を永らえてきました。
今のあなたの有様を見ると、天罰が当たって非人・乞食になったようですね。
この世にどんな未練があって生きさらばえているのですか。
あれこそ主君を殺し主君を捨て、恥をも人目をも顧みず、仏罰・神罰をも恐れぬ、邪見放逸の輩ぞと、
人々に指をさされるよりは、いっそ自害したらどうですか」

女房の言葉に、菖蒲ももっともだと思ったのか、
または飢えに耐えかねて死んだ方が楽だと思ったのか、諸肌脱いで自害して倒れた。
女もまたその刀で自分の身を貫いて絶命した。


以上、テキトー訳。あと一回だと思う。たぶん。

短いけど、きりがいいのでここまで。
うん、今回は鬱展開だね! 今夜は夢見が悪そうだよ!

しっかし、戦国時代はカーチャンもすごいな。いやカーチャンはいつの時代もすごいけど。
十歳の息子に向かって「おまえの父は極悪人だ」だよ?
できれば少しオブラートに包んであげてよ小次郎がかわいそうだよ 。・゚・(ノД`)
それで息子を刺し殺して、自分は切腹するんだよ?
女の人も切腹するの?
守刀なんて刀身短いんだから喉を突けばいいのに(そういう問題じゃない)。
あと、娘は他に預けとくか、ちゃんと言い含めておけよ。

そして命が助かって、訪ねあてた旦那への物言いがすごい。鳥肌立った。
これはヤンデルね。デレはない。
目だけが爛々と光ったりしてたんだろうな。
ナムナム。
2011-11-21

佐田を取り巻くアレコレ

前回のあらすじ:
兄を殺して杉原の家を自分のものにしようとしていた景盛は、
その陰謀に感づいた元長によって追い詰められようとしていた。
元長から景盛征伐を任されたのは香川兵部大輔・粟屋彦右衛門の二人。
さらに景盛の退路・援軍の進路をふさぐ人員も大規模に動員されてるぞ。
どうする、景盛!


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(4)

さて、三沢摂津守為虎・三刀屋弾正左衛門久祐・その子の監物・羽根弾正忠・湯佐渡守・
牛尾大蔵左衛門・福頼藤兵衛尉・小谷刑部少輔・小森和泉守、そのほか毛利七郎兵衛尉元康、
出雲の国は冨田の城に詰めていた杉森少輔十郎元秋たちは、
かねてから取り決められていた通りに、小土産の山の普請も半ばに、警戒に余念がなかった。
「もしかしたら南条が軍勢を出して不意に決戦を挑もうとしてくるかもしれない。
その押さえとして、早々にお出ましあれ」との触れがあると、
元康・元秋はこの謀略の内容を知っているものの、
ほかの国人衆は皆、城の普請の人夫を出し、
そのうえ敵の押さえのために軍勢を率いて出ろと言われたのだと理解して、軍を率いてきた。

香川・粟屋は吉田肥前守の調略を済ますと、伯耆に駐留していた福原真俊・渡辺飛騨守にその報告を行った。

さて、諸軍勢が小土産の周辺に着くと、香川・粟屋は
「景盛を討ち果たすようにとの輝元の仰せである。
元長から、この二人が検使として遣わされた。
急ぎ佐田の城を取り囲み、攻め破ってほしい」と言い渡し、
同八月三日、寄せ手八千騎が佐田の城をクルリと取り巻いた。

ちょうどこのとき、杉森元秋と毛利元康は事情があって兄弟の仲が悪くなっていた。
今回も、「この元秋が兄なのだから、鬨の声は我が陣から上げよう」と言われた元康が
「軍門に兄弟の礼などないという。こちらの手勢から鬨頭を上げてやる」と争い、一触即発となっていた。
福原と渡辺が「無益な争いをしている場合ですか。
元長様から御名代として香川兵部大輔が遣わされているのです。
鬨頭も春継の陣から上げるのが筋でしょう」と諫めると、
この兄弟も、とりあえずこの二人の裁定に任せようということになり、
香川の陣から鬨頭を上げ、三回鬨の声を上げると、城中でも二千騎あまりがその発声に声を合わせた。

香川・粟屋は、景盛の手勢のなかで、宗徒の兵と言われている者たちに、
城を落としてくれば本領をまるごと安堵すると話してあった。
すぐに了承した兵たちは、石原助次郎・馬屋原孫兵衛尉・横道権允・中原弥介・中原市太夫・
新庄兵庫・丹比七郎兵衛尉・その弟の秋里主水正・内坂織部・大塚内蔵丞・
土肥内蔵丞・入江左衛門進などだった。
横道源介は「景盛はここ数年、自分に良くしてくれた。
今は籠の中の鳥のようになったとは言っても、最後に暇乞いをしなければ、
どうにも気持ちがおさまらない」と、しばらくそばに留まっていた。
しかし景盛は、味方がことごとく離反していったので、
横道源介もきっと的に味方して城に火でもかけるつもりだろうと邪推して、
「こちらに留まってくれ」と騙して殺してしまった。

香川兵部大輔春継は、佐田の城の攻め口には軍の掟を固く定めておき、
粟屋彦右衛門を残して、自分は吉田肥前・牛尾大蔵左衛門を連れて、尾高の城に向かった。
景盛から尾高を任された木梨中務少輔を取り囲み、使者を送る。
「景盛は悪逆非道にして兄の元盛の罪をでっち上げて殺した。
輝元に事の次第を申し上げ、元長から景盛を成敗するようにと、私たちが動員されている。
あなたについては、杉原家譜代の家之子郎党ではなく、備後の本国を諸事情によって後にし、
杉原を頼って仮に足を休めているに過ぎない。
であるから、今兜を脱いで降伏したとしても、年来の武名は少しも傷つかない。
不義の景盛に協力し、その身を滅ぼし命を失えば、後代までの名折れとなろう。
さあ、早く城を明け渡し、真っ当な将に仕えて、忠勤に励まれよ」と伝えると、
木梨は説得に応じて、同五日に城を空けて、捕虜となった。

河口刑部少輔久氏は、景盛にとっての姉婿だったが、こ
れも景盛のあくどい所業を心底憎んでいたところで、すぐに城を去って寄せ手に加勢した。
景盛は、「切に頼んでいた尾高の城の木梨は降伏してしまった。
また一方を防いでくれると頼っていた河口も、野心を抱いて敵に迎合してしまった。
これはどうしたことか」と、茫然自失して途方に暮れていたが、
さすが盛重の子と言うべきか、武勇だけは人より優れていた。
城中の兵を集めて、「これから十日間ほど持ち堪えよ。
南条兄弟・宮部善乗坊・本下備中守などに言い含め、援軍を送ってくれる手はずになっている。
今こうして元長から攻められているのは、以前から私が想定していたことだ。
南条と胸を合わせ、羽柴秀吉の内意もひそかにうかがっている。
秀吉も、一旦は和睦したとはいっても、長年矛楯を交えてきた遺恨を忘れてはいらっしゃらない。
この機会を見逃すものか。

中国に軍勢を差し向けたいと思われていたから、私に対して
『おまえが毛利家に対して恨みが山のようにあるのなら、謀反を企てよ。
そうなったら南条を先陣として伯耆口から攻め入ってやる』と、内々に密約を固めておいたのだ。
今に見ておれ。秀吉の出馬があれば、毛利家は滅亡するだろう。
毛利家が滅亡すれば、私も大身になるのは自明の理だ。
おまえたちにも所領を多く与えてやろう。
そうすれば、子孫は無窮の栄華を誇るだろう」と、舌が滑るに任せ、
ないことをさも本当のように言い立てて、
味方を鼓舞するために弓矢・鉄砲を隙間なく乱射すると、
たちまち三沢摂津守為虎の郎党、山崎与次郎という者を一人射伏せた。
これには城中の兵たちも矢間の板を挟んでどよめいた。


以上、テキトー訳。まだ続くよ。

この章長いわw 面白いけど。
ていうか元康と元秋、くだらねえ兄弟喧嘩してんじゃねーよw

なんか、今回はいっそ、景盛の嘘吐きっぷりに舌を巻くね。
よくもまあ、これだけないことないこと喋れるもんだ。
ていうか、実際この事件に秀吉が噛んでてもおかしくないと思ってしまうあたり、
私は元長によって滅ぼされるのは必定なのかもしれない。
うん、元長に殺されるなら後顧の憂いはないや。
でも贅沢を言えば経言の刀の錆びになりたい。

でもやっぱり口先だけじゃなくて日頃の行いとかが大事なんだね。
ぼろぼろと味方が抜け落ちていくのは寂しいというより恐ろしいよなぁ。
できれば味わいたくない気分だ。
2011-11-21

存在の耐えられないナントヤラ

おおおお、また「記事を保存」押す前に寝ちゃった><。
酔うとろくなことねえ。

前回のあらすじ:
遺産分配をめぐって兄に恨みを抱いた杉原景盛は、兄の元盛を呼び出してヌッ殺しました。
けれど新庄(吉川家)にあることないことフいたので、かえって疑われるハメに。
まあ元春も元長も疑ってるのを気取られるほど素人じゃないけどね。
景盛は悪逆がたたったのか物の怪やら兄の亡霊やらに悩まされたので引っ越しましたとさ。


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(3)

元長様はこれを聞いて、
「さては景盛め、自分の罪科からは逃れられないと思って、
南条・宮部に一味して当家に弓を引こうと考えたな。
急ぎこやつを討たねば千度後悔したところで意味もあるまい」と考え、
すぐに吉田に赴いて、輝元様にこのことを注進した。
輝元様は即沼田に使いを送り、
「いささか話し合いたいことがあるのでこちらに来てほしい」と伝えると、
隆景様が吉田へとやってきた。

こうして景盛誅殺について会議をした。
隆景が「定は東伯耆の堺だから敵城に近い。
悪くすれば景盛は南条を頼って退却してしまうでしょう。
もし仕損じれば武門の名を汚すことになります。
元春は一昨年隠居してしまったし、元長はまだお若い。
年寄役として私が出て行き、景盛を成敗しましょう」と言うと、元長様はカラカラと笑った。

「景盛が南条に一味したとしても問題はありません。
押し込めて討てば苦労もないでしょう。
私の旗下の景盛を討ち果たすのに、お手間を取らせるわけにはいきません。
また私自身が向かうまでもありません。
いずれにしても家人を一人検使として差し向かわせ、
北表の勢力を動かして、すぐに討ち果たそうと思います」

これを聞いて、隆景様は
「これは由々しき一大事ですぞ。先ほど申したように、敵城に近すぎる。
また、父盛重の代から、勇名をほしいままにする恐れを知らない集団です。
今の景盛も、武勇は人並みに備わっているようです。
そのうえ、手勢も皆、大博打・夜盗・強盗の元締めたちで、
命など永らえたいとも惜しいとも思わない者ばかりなのだから、易々と討ち果たすのは難しいでしょう。
さて、誰を検使にするつもりですか」と問う。
元長は「香川兵部大輔(春継)をやるつもりです」と答えた。
隆景は「兵部は勇も智も一通り全備している。最適な人選だと思います。
では、どのように事を運ぶおつもりか」と重ねて問うた。

「それはですね、討手が迫っていると噂にでも聞けば、
景盛は城を捨てて南条に身を寄せようとするでしょう。
ですから、まず何条への押さえとして小土産(ささづと)の山を城郭に築くと発表して、
普請の者を出すように国人衆に呼びかけます。
そこで軍勢を整えて南条側への通路を遮断した後、佐田の城を取り囲みます。
何条は後詰など寄越さないでしょう。
一昨年、家城を捨てて播磨に逃げていったときも、
秀吉が『南条はきわめて臆病者ではあるが、わしをひとえに頼ってきて不憫に思う。
これの家城を返してやってほしい』としきりに頼んできたので、
羽衣石の城を返し与えてやったのです。
このような大臆病者なので、軍勢の一人として加勢に送ってくることはないでしょう。
一両日の間に景盛を攻め滅ぼしてやりますよ」
元長の返答に、隆景は「その策がいいと思います」と同意した。

元長様はやがて宿所に帰ると、供に連れてきていた香川兵部大輔を呼んで、ひそかにこのことを伝えた。
「いよいよ景盛を討ち果たすことになった。
輝元・隆景へも、おまえを検使として差し向けることは言ってある。
急ぎ伯耆の国へ向かい、景盛を討ち果たせ」
兵部はかしこまって、「ご当家は他家よりも武勇に優れた人が多くいます。
どなたでも、景盛を簡単に討ち果たせる器量の持ち主をお選びになり、仰せ付けくださいませ。
私のような者が愚蒙な我が身を省みずに仰せに従ったところで、
もし仕損じてしまっては、ご当家の武名を傷つけることになりましょう」と固辞した。
元長様は、「仕損じては当家の名折れになると思うからこそ、おまえに命じると、
輝元・隆景にも申してきたのだ。さあ、早く」と急かす。
兵部大輔は「このうえはお断りするべきではありませんな。
しかしながら、もう一人誰かを差し添えてください」と答えた。

元長様が「人選は、ともかくもおまえの望みに任せよう。
誰なりと好きな者を連れて行くがよい」と言うので、兵部は、
「それでは粟屋彦右衛門をつけてください」と要望した。
元長様は「粟屋は源次郎と言う名だった十五歳のときから何度も勇名を馳せている。
また智もそれなりに備わっている者だ。おまえの望むとおりでいいだろう」と、
すぐに彦右衛門を呼ぶと、この旨を伝えた。
粟屋は「かしこまりました」と承って御前を退出した。

粟屋は香川兵部に向かい、「さてさて、当家には人も多いというのに、
私を選び出してくれたとは実に面目の至りだ。この芳恩は未来永劫忘れるまい。
あなたと私で謀を運べば、景盛も簡単に攻め滅ぼせるだろうよ」と、兵部の背中を撫で、
「ああ、私が濡れ衣を着せられてあなたに棒で六十回打ち据えられたとしても、
振り返ったりはしないよ」と手を合わせて喜んだ。
香川も、「あなたはまだ志学の歳から赤川又五郎を討ち、その翌年には木原兵部を洗合で討ち果たした。
その後も、何度も武名を上げていることは皆承知だ。
あなた一人は、余人千人にも代えがたいと思って、元長公に望んだのだ。
聞いている通り、景盛はまだ乳臭い青二才だ。
大して困難もない。とっとと片をつけてこよう」と打ち笑って、二人一緒に宿所へと帰っていった。

同(天正十二年?十年?)七月二十八日、景盛は、来る八月朔日の祝賀のために、
浅山与三左衛門という若党を使者として新庄に送ってきた。
これを捕らえると土蔵の内に閉じ込め、
香川兵部大輔・粟屋彦右衛門、その日に新庄を出発して伯耆へと旅立った。

さて、二人が佐田へ到着し、
「小土産の山に、南条への押さえとして築城することになったので、普請奉行として二人して参った次第です。
景盛殿からも人手を出してください」と言うと、景盛はこれを謀略とは夢にも思わず、
「それがしも佐田の城の普請の途中ですので、今回はお許しいただきたい」と、特に注意もせずに答えた。
そこで香川・粟屋は相談して、
「吉田肥前守は景盛の姉婿だが、かねてから景盛の悪逆を憎み、仲たがいをしているという。
そのうえあの男は大変な律義者で、また並びなき忠義者だ。まずこれと相談しよう」と、
使者をやって呼び寄せ、二人の計画をこっそり話した。

吉田は、「景盛の無道を罰しようとの策略は、実にもっともだと思います。
あんな無法者の縁者だからといって、どうして道理をわきまえた良将に弓を引いたりしましょうか。
ご安心ください。私が策を練って景盛など易々と討ち果たしてみせます」と言った。
香川も粟屋も、吉田がもし景盛に協力したなら、
無双の勇士だけに簡単には打ち滅ぼしがたいと思っていたところなので、
自分たちへの協力を取り付けられて、
これは早々に景盛を葬ることができるぞ、とすっかり気分を良くして
笑いを抑えきれない様子で帰っていった。


以上、テキトー訳。まだツヅクノデス。

重要な中心人物のはずなのに、会話にまったく参加してこない輝元が不憫でならない……ッ!
まるで……空気……! 二人が話してる間何してたのさTERUよ。
逆に元長兄ちゃんが驚くほど頼もしい。惚れてまうやないの。

まあ、吉川家傘下の問題に、いくら万能とはいえ別家の叔父様に出張ってほしくないわな。
吉田の会議では「うちの傘下の杉原ヌッ潰すけどいいよね?」って
了解だけ取れればいいんだもんな。

さてさて、私の待望の粟屋さん登場だね。たすけてヒコエモン~。
元長兄ちゃんにご指名された香川さんにご指名されてかなり喜んでる。
これが十五歳くらいで笑いながらふざけるふりして自分に惚れてる男を斬り殺した人だなんて。
しかし香川さんによるヒコエモン昔話はいきなり順序が違ってるしw
まあ些細なことなんだけどね。
しっかし香川・粟屋ペアは仲のよろしいことで。
その仲の良さを少し景盛・元盛兄弟に分けてやってほしいよマジで。
2011-11-19

おまえの因果の果てを

ぬがぁ。
訳してたテキストがマシンの強制シャットダウンで吹っ飛んだぁ~。
せっかく粟屋さん登場まで読んだのに、おのれ熱暴走……(泣)
どう考えてもこまめに保存しない私が悪いですね、はい。
「♪しーねーばーいーのにー」が頭の中にサワヤカに反響するんだぜ。
もういいや。今回はこれだけで。

そんなわけで前回のあらすじ:
遺産分配をめぐって兄に恨みを抱いた杉原景盛は、兄の元盛を呼び出してヌッ殺しました。
あとは杉原の家をまるっと我が物にするだけだよウヒヒヒヒ。


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(2)

景盛はやがて元春に使者を送った。
「兄の元盛は、羽柴殿に味方したので、是非もなく討ち果たしました。
先にこの旨を申し上げ、ご検使を一人遣わしていただき、
すべて終わってからこれからのことをご相談したいと思っておりましたが、
すでに南条と話し合って、元続・元清の手勢を
八橋並びに尾高の両城へ引き入れる手はずになっておりましたので、事を急ぎました。
敵と合流してからでは千度悔やんでも意味がないと思い、まず討ち果たしました」

使者からこれを聞いた元春・元長は、
「実に忠節の至りである。
血肉を分けた同胞の仲をも割いて味方に心を尽くすとは、さすがは盛重の子であるなぁ」
と感心して見せながら、事の成り行きが不審だと感じ取っていた。

去年からのことを細かく尋ねていくと、景盛の悪逆が露見した。
「さては景盛が陰謀を企て、無実の兄に罪を着せてこんな所業に出ているのだな。憎い奴だ。
急いで討ち果たさなければ」とは思ったものの、
諸国の兵乱がまだおさまっていないので、知らぬ振りをして様子を見ていた。

景盛は、これは騙しきれたぞと思っていたが、尾高の城は伯耆の大山の麓にあるので、
景盛が兄を殺した非道ぶりを、大山大権現並びに伯耆房などと呼ばれる大天狗が見逃さず、憎まれたのだろう。
元盛を討ってからは、その城には変化の者が我が物顔で徘徊した。
あるときには大きな山伏柿が篠掛けに頭巾を引っ掛け、景盛と対座して浮世の物語をすることもあり、
またあるときは、大きな男が素っ裸で相撲などを取って客殿の真ん中で上へ下へと動き回り、
ドッと笑って掻き消えるようにいなくなることもあった。
また手拍子をチョチョンと打って、人間なら五十人から百人もいるような声で歌を謡い踊りを躍ることもある。
こうしたことは数知れず起こっていた。

その上、景盛はある夜、こんな夢をみた。
兄の元盛が鎧を着込んで景盛に打ち向かい、「おまえの因果の果てを見せてやろうか」と問う。
夢心にも、「元盛は私を恨んでいるのだ。念仏の功徳は五逆十悪の罪人をも助けると聞く。
念仏を唱えよう」と思い、六文字(南無阿弥陀仏)を唱えると、元盛はカラカラと笑う。
「悪心を持ちながら念仏を唱えても、砂を噛んで飯にするようなものだ。
仏のなした四十余年の説法は、心の悪を去らしめ善に回帰させるためのものだぞ。
千万回念仏を唱えようとも、心が磨かれないのであれば、功徳などがあるものか」
元盛がそう言ったところで目が覚めた。
景盛は驚いて、「ここは大山に近いからこんなことが起きるのだ。
佐田の方に城を構えてそちらに移ろう」と決めた。
そして佐田明神のおわす松原に城を築き、完成すると、尾高を引き払ってそちらに移った。


以上、テキトー訳。まだ続く。

後ろ暗いことがある人は、実に臆病になるね。
どんな非道なことでも後ろ暗いと思わずに実行できる人間て、実はすごいのかもしれない。
たとえば某殿下とか佐野道可事件のときの宗瑞さんとか。

しかし景盛の夢枕に立った元盛兄ちゃん、なんか優しいなぁ。
けっこうまっとうなお説教してるもんね。
べつにそんな怖がらなくてもいいんじゃないかと思うんだが。
物の怪さんたちも、歌ったり物語したり相撲取ったりだから楽しそうなんだけどな。
引っ越すほど気味が悪いかなぁ?

さて次はいよいよ粟屋彦右衛門さん登場シーンまで絶対入れてやる!
ところでこの粟屋さんは、関ヶ原のときに東軍内通の証人(人質)として息子を送った
粟屋彦右衛門と同一人物なんだろうか。
イヤ普通に考えれば同一人物なんだろうけど、粟屋姓多いんだよね、ここん家。
いろいろとワカランわぁ。
2011-11-18

杉原家の兄弟喧嘩

言ったことをやらないって人間のくずだと思うけど、
前に「次は元春の九州出張読む」とか書いておきながら違う章を読んでいる。
今夜はカイトさん(?)の「しねばいいのに」を聞きながら眠ろうと思います。

さて今回は、毛利家傘下の杉原家のゴタゴタのお話だよ!
時期は秀吉と和睦が成ってからしばらく後のあたりだよ!


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(1)

天正十二年、杉原又次郎景盛は自分の兄である弥八郎元盛に嘘を言って討ち果たし、
その跡を我が物顔に譲り受けようとしたが、ついにその陰謀が明るみに出て、
やがて自身も滅び果てた。

それにはこんないきさつがあった。
去る天正九年十二月二十五日に、父の播磨守盛重が、伯耆の大山において傷寒を患って死んでしまった。
よって元盛が家を相続したのだが、
山のようにあった父の遺産をどうにかして半分自分に分けてほしいと景盛が思っていたところ、
少々欲深い元盛がすべて自分の物にしてしまって、景盛に分与したのはほんのわずかだった。
これで景盛は元盛を深く恨むようになり、いつか兄を亡き者にして杉原家を奪い取ろうと狙っていた。

そして去る天正十年の備中の国高松表での陣のとき、
杉原兄弟は伯耆の南条兄弟やそのほか因幡方面に対する押さえとして、八橋・尾高の両城を守っていた。
景盛と菖蒲左馬允が結託して、元盛に向かってこう言った。
「今は日本国の半分以上が信長の手の内です。
越後の上杉と安芸の毛利だけが、この信長と戦争しても国を破られることなく堪えていますが、
最終的にはやられてしまうでしょう。
なぜなら、元春・隆景が高松表で秀吉と相対していますが、
敵の数はこちらよりはるかに多いと聞いています。
このうえ信長が出てくるのなら、秀吉程度の大名を何十人も従えてくることでしょう。
そうすると敵は二十万騎にも及びましょうから、
いかに大勇智将の元春・隆景であっても、ひとたまりもなく敗北するでしょう。
そうなれば、毛利家は滅ぶでしょう。
杉原は代々仕えてきた家臣でもなく、ただ一時つき従っているだけの国人なのですから、
秀吉に寝返ったとしても、そうそう嘲弄されることもありますまい。
さあさあ、毛利家への協力を打ち切って秀吉に与し、杉原の家名を永らえましょう」

元盛は答えた。
「これは思いの外のことを聞いたものよ。
亡父の播磨守殿は杉原家の四番目の家老だったが、宮内少輔忠興が逝去した後、
元就公が元春・隆景に向かって、
『杉原家が断絶の危機にある。誰かに相続させよう』とおっしゃって、
隆景がこうお答えになった。
『忠興には実子がないからといって、別の他の家から養子を迎えるのはよくありません。
あの家の一の家老、杉原左衛門進に家を相続させましょう』
これに元春が、『いや、杉原播磨守がいいでしょう』とおっしゃったのだ。

この子細は、おまえたちも存じているだろうから、重ねて言う必要もあるまい。
こうして盛重が当家を相続したのだ。
亡き父が生きていたころは、何事につけても、軍神八幡に御知見あれと宣誓したことは翻したとしても、
元春のお怒りを蒙るようなことは一切なされなかった。
この程度のことはおまえたちも知っていよう。
私は勇と智こそ亡父に劣るといっても、どうして父の忠義を忘れることがあろうか。
この危急のときに臨んで志を変じれば、武名の傷になるばかりか、
亡父の尊霊もさぞかし草葉の陰で、不甲斐ない者たちだとお嘆きになるに違いない。

父の道を継ぐことこそ孝である。
こんなときであっても志を変えないのが立派な男子だ。
孝を捨て、義を捨て、敵に与したところで、家運が尽きれば結局のところ難を逃れることはできないのだ。
正直は一旦の依怙にあらざれどもついに日月の憐れみを被ると言う。
義を大切にし、孝を心がければ、八幡台菩薩の恩恵にも預かることができるだろう。
今年の春、武田滅亡のときの小山田弥三郎(信茂)・木曽義正(昌)、
ほかにも穴山玄蕃(梅雪)入道たちの振る舞いは、世の人々にもこぞって糾弾されている。
だからこそことわざにも、『身は一代、名は末代』というのだ。
父が人より優れた者であれば、その子は十人並みであっても人より劣っているように噂されてしまう。
父が人より劣っていれば、その子がまた十人並みであれば、父より優れていると称美される。
中国はさて置き、日本国中を探しても、勇と智で我等の父の盛重に勝る者はそうはいまい。
国の一つも持っている大将の家に生まれていれば、十国や二十国の太守ともなれる大器の方だった。
私はその父の子として生まれながら、父の業を継ぐことはできずとも、
どうして人道に外れた行いをすることができよう。

おまえたちには物の怪でも憑いているのか。
まさかこんな浅ましいことをその口から聞こうとは。
この元盛、天地がひっくり返っても、元春の厚恩だけは忘れまい。
この身が粉々に裂かれたとしても、父の守った義を翻したりはしない。
おまえたち二人でこの元盛の生き首を引き抜いて、秀吉に捧げるがよい。
そうすれば毛利家は滅びても杉原家は繁栄するのだろう。
私もまた亡き父に対して身を捨て、毛利家のために命を失うのであれば、露ほども恨みには思わぬ」
元盛ははらはらと涙を流して言うので、景盛と菖蒲左馬允は興醒めして退出した。

これは単に秀吉に味方しようということではなかった。
元盛が京方に味方すれば、京都の軍勢は大軍だからきっと勝つだろうと思い、
そうなれば一味同心した杉原家は本領を安堵されるだろう。
もしまた中国勢が打ち勝てば、
「兄の元盛が京方に味方しようとしたので是非もなく討ち果たしました」と忠節ぶって注進し、
景盛が杉原家を相続して菖蒲にも過分の所領を与えようという謀略だった。

そして京都と中国が無事に和睦を結ぶと、
景盛は自分の陰謀が明らかにされないうちに元盛を討とうと、菖蒲と相談して決めた。
元盛に使者を送り、「二の丸においでください。相談したいことがあります」と伝えると、
元盛は何の疑いもなく、若党を五、六人連れて二の丸にやってくる。
景盛は数奇屋に招き入れ、密談するような振りをして、いきなり刀を抜いて斬りかかった。
元盛もなかなかの剣技の達者で、腰の脇差を抜くと散々に切り払う。
景盛・左馬允がすぐに切り立てられて怯むと大庭に躍り出た。
景盛の郎党数十人が追いかけるも、元盛はことごとく切り払うので、
皆あちこちの木の陰、岩の陰に身を潜めた。

元盛はその隙に太刀を担いで本丸に帰ろうとするが、景盛が矢倉に駆け上がって、
「元春・元長よりの上意でこのようなことをしているのだ!
元盛に一味する者は、一人残らず、子々孫々まで誅罰に処されるだろう!」と、声高に叫ぶ。
「この身に罪もないのに、元春がなぜ私を討とうなどと言うものか」と、
元盛は門を出ようとするが、初太刀で眉間をしたたかに斬られたからか、目もくらみ息も乱れ、
二の丸の門の敷居に蹴つまづいて、うつ伏せにガバッと倒れてしまった。
そこに門番の者たちが大勢詰め寄って討ち果たしてしまった。

これを見て、元盛の手の者たちは、
「なんと口惜しいことだ。さあ、ただ切ってかかり、景盛を討って主君の孝養に報おうではないか」
と色めきたった。
景盛は使者をやって、「元春公の仰せに従って、どうしようもなくこうして討ち果たしたのだ。
私自身に遺恨があってこんな振る舞いをしたのではない。さあさあ、鎮まってくれ」と伝えると、
元盛の郎党たちも、「それでは仕方がない」と、皆戦いをやめた。

また景盛は使者をやり、「元盛の二人の子も殺せとの、元春からの仰せである。
不憫ではあるが、早く首を打って差し出せ」と言い送る。
兵たちは、長らく仕えた重恩ある主君の子に、どうして刀を突き立てられようかと、
心を乱しただ涙に暮れていた。
景盛からしきりに催促があって、別所雅楽允がようやく二人の子供を連れ出して、
塀の上で撫で斬って放り出した。憐れで目も当てられない有様だった。


以上、テキトー訳。続く。

景盛、悪いやっちゃな。
ていうか遺産分与の恨みってオソロシイな。

なんでこの章を読んでみたかというと、
毛利軍で忍者を使っていたという噂の杉原盛重さんが気にかかるというのもあるんだが、
この先に「粟屋彦右衛門」の名を見つけてしまったのさ。
そう、あの木原兵部と赤川又五郎を討った粟屋さんだよ。
またまた上意討ちで活躍してくれるんだろうか。
ちょっと期待。
2011-11-17

輝元が可愛すぎて生きるのが辛い

からい!
じゃなかった、つらい!

昼休みにパラパラ読んでた輝元(宗瑞)→広正(広家嫡子・輝元婿)への書状。
もう輝元が可愛いのなんのって……!

「暇があればちょっとおいで。今待ってるから」
「昼くらいにおいでね。広家にもそう言っとくからね。
 昨日は具合が悪かったみたいだけど、今日はきっと良くなっているでしょう」
「明日の朝おいで。広家にも言っておくから」
「時間があればこっちにおいで。待ってるよ」
「昨日は来てくれて嬉しかったよ」
「明日の朝、ご飯食べにおいで。待ってるよ」
「さっき来てくれたみたいだけど、会えなかったね。明日はそっちに行くから」
「珍しい物じゃないけど、これあげる」

といった書状が、そりゃもう大量にwww
どんだけ婿さんが好きなのかとw
他国との外交ではなかなか実を結ばなかったようだけど、輝元の懐こさはパネエな。
もしかして身内限定なのだろうか。

そしてこれらの瑣末な書状を後生大事に取っておく広正もまたかわゆい。
きっとお舅さん大好きだったんだろうなぁ。
まあ大好きでも、頻繁に呼び出されててかわいそうと思ったりもw
あと、書状を届けるお使いの人も激しく乙!!!

そういえば、どこかの戦陣で元春さんも元就に再三呼び出されてたっけ。
なんというデジャヴュwww

なんていうか、ホントにここん家大好きすぎてニヤニヤしっぱなしなんだけどどうしよう。

まだまだ、関ヶ原の役近辺のスパイ大作戦みたいな切羽詰った書状も読みたいし、
大好きな熊谷さんとか益田さんとかも気になりすぎる。
あと、広家に殉死したという森脇さんとか。
いつになったら「陰徳記」に戻る気になるんだろう……
まあ、当ブログにお越しいただいている人も多くはないので、追々充実させていきます。
2011-11-16

ちょっとストーキングしてくる

にゃんと広家大スキー様のステキサイト発見につき
自ブログはおっぽって読み漁ってくることに決定!
イィヤッホゥゥウウウウ!!!

べっ、別に書簡と「陰徳記」の現代語訳に手間取ってるわけじゃないんだからねッ!
そっちはいつだって死に体なんだから、今に始まったことじゃないもん。
勘違いしないでよねッ!
2011-11-15

如水さんと広家くん

とりあえず吉川家文書に手を出した当初の目的を果たすべく、
如水さんの書状を読んでみたよ!

当初の目的=如水さんと広家って何話してたのか知りたい

いくつか訳に挑戦してみたけどかなり強引だよ!
わからない箇所がかなり気にかかる……うう、学校に行くか誰かに習いたい><。

●慶長三年九月十五日 秀吉薨去後の書状

広家様                     如水

そうそう、私は筋を傷めてしまったけれど、気分は良好です。
あなた様は無養生なのだから、体には気をつけて、元気にお過ごしください。

また、何かまずいことがあれば、又左・忠右のうち一人、
もしくは何を聞かせてもかまわない信用できる人間がいれば、こちらに寄越してください。
私のほうでそれとわかり次第、あなた様のお考えを聞かせてもらいます。よろしく。

追って申し上げます。三原はお変わりになっていると思います。
そうであれば、甲州(長政?)にとってもいっそういいことです(?)。
秀吉公がお亡くなりになったことは、こちらにも知らせがあり、私も確かに聞きました。
先月(八月)二十日に大坂から早舟が来ました。私は京に入りました。
甲斐守(長政)のこと、あなた様の弟と思って(引き立てて)やってください。お頼みします。
私は秀吉公への不満はありませんが、世の評判はあまりよろしくない殿でした。
しかしこういうときは、物事がうまくいくものです(? 仕合成申候)。
いきなり戦が起こるというわけでもないでしょうが、そう心得ておいたほうがいいでしょう。


●慶長五年八月二十三日 関ヶ原前夜の書状

広家様                     如水

なお、信用できる人を寄越してほしいと、留守中に申し入れておきました。
参り次第、追って申し上げます。

先月(七月)二十三日の書状、昨日拝見しました。
一、天下の成り行きは是非に及びません。こういう風になると言っていたとおり、
 わかっていたので、驚きませんでした。
一、甲州(長政)のことはご心配なさらないでください。
 加藤主計(清正)と相談しているので、互いにうまくやっています。
一、京の使いに書状を持たせました。到着しているでしょう。
一、今回は合戦にはならないだろうと思います。残念です。
 また戦慣れしている連中があなたにそう言うでしょう。
一、口上で申し上げるのでここには書きません。
一、日本がどんなに変わろうとも、あなたと私の仲は変わらないと信じています。
 あなたもそう思っていてください。謹んで申し上げます。


●慶長五年九月三日 関ヶ原直前の書状

広家様                如水軒 円清

申し入れます。内府(徳川家康)が西に上るということですが、確かな情報でしょう。
その場所にあなたがいるので、とても心配です。
決して失敗のないように、入念に用心してください。
上方に加わっている諸将は、すべて内府に内応していると言いますから、
ご自分のことを第一に考えてください。
そのためにこの者を遣わしました。
九州は、今のところ静かなものです。
どんなにゴタつこうとも、こちらのことを気にしてはいけません。
謹んで申し上げます。


以上、テキトー訳。

関ヶ原後の書状もあるけど、そっちはまた今度。

まあこれは、平穏なときにやり取りしてた内容ではなくて、有事の書簡なわけだけど、
如水さんの広家への思いやりがハンパねえ(下線部)。
あと広家が長政とも仲いいのもうかがわせる(下線部)。

しかし如水さん、なんていうかこりゃ、
マジでデキてたんじゃないの、ってくらいの心寄せっぷりだわ。
吉川家中が「如水さんが広家様に惚れてる」を公式設定にしても已む無し。
日本がどれだけ変わっても、「貴殿我等半替申まじく候」だもんね。
いやなにそれ告白? 私の脳が腐ってるだけ??
少年漫画風に
「世界がどんなに変わっても、俺たちの絆は永遠だぜ!」
とか書けばそれっぽくないそれっぽくない(自分に言い聞かせる)。

個人的に、慶長三年の書簡の
「いやー、私、筋を違えちゃってねw ※トシだからです
 まあ気分は悪くないよ、うん。
 おまえさんは自分の体を労わらないから心配だよ。
 ちゃんと養生して、元気で暮らすんだよ」
みたいな感じの部分が好き。
広家は病気がちだったらしいから(元長お兄ちゃんの書状にもそう書かれてるw)、
そういうの、よく知ってるんだね、如水さん。

やっぱ如水さんは広家のことあ(ry
2011-11-14

キケンな仲直り

今回は朝鮮出兵中に一気に飛んで、
広家・長政(黒)・正則・宗茂の仲良しグループを追跡したい。
この四人、大好きだ。


福島左衛門太夫・立花左近和睦のこと

福島左衛門太夫正則と立花左近将監統虎(後の宗茂)とは、近年仲が悪くなっていた。
そのきっかけとなったのは、天野源右衛門という男だったという。

天野は、先年、惟任日向守(明智光秀)の手勢に属し、本能寺において信長公を襲撃したので、
太閤秀吉公が主君の敵だと大いに憎んでいた。
さしもの武名高らかな者であっても、身を潜め、
いるのかいないのかわからないような状態で世を渡っていた。
これを、現在の関白秀次公がまだ三吉治兵衛殿という名だったころに、
太閤に伺いを立てた上で召し置いた。

あるとき、城を造ることになって、天野にも家来たちを召し連れて普請するようにとの達しがあると、
天野は「我が国に大変なことが起こったときに、こちらの先陣を引き受けて敵を挫くのが仕事だというのに、
この人に仕えたことで、普請などということをするとは夢にも思わなかった。
こんなことは中間の奴らがするものよ」と言って、自分の家に帰ってしまった。
やがて家来数百人に弓や鉄砲を持たせ、自分は鎧を着込んでその普請場に出てきた。

秀次公は仰天し、「天野には物の怪でも憑いて狂ったのか。どうしてこんな振る舞いをするのだ。
理由を聞いて来い」と近習を遣わし、近習が天野に問う。
「それはですな、私に家人を召し連れて出るようにお達しがあったので、
きっと謀反人でもあって、それを討ち取るお役目かと思い、こうして出てまいった次第」と、天野は答える。
「いや、そういう仕事ではない。
家人を連れて出仕せよというのは、急ぎの普請であるからそのために励めとのことだ」
田中兵部太輔がそう言うと、天野はカラカラと笑って、
「わしには普請などをするための家人は一人もおりませんな。
どんなときでも、合戦の場において、槍を突き、太刀を打つことをこそ心がけておりますが、
普請などまったく鍛錬になりませぬ」と言う。

秀次公はこれを聞いて激怒し、このような傍若無人の輩は頭を刎ねて獄門にかけ、
以後の見せしめとしようと、追っ手を差し向けようとした。
天野もこんな暗君に仕えてどうすると、やがて自分の家を捨て流浪の身となっていた。

立花左近将監は、天野の武勇が優れていると聞き及び、天野に対して、
「私のところに来て、安心して月日を送り、世の成り行きでも見てみないか」と語った。
天野は、とにかく仰せに従おう、と筑後に赴いたのだった。

福島左衛門太夫も勇士を好む人なので、この天野を召抱えたいと思い、あれこれと誘ったのだが、
立花に先約があるということで、天野は了承せず、立花の方に行ってしまった。
福島は大いに腹を立て、立花との仲が悪くなった。

そもそもこの福島は、秀吉公からすれば従兄弟に当たる。
昔は大工の弟子になっていた。
柱でも棟でも境目を継ぐのに、「太夫継」という技法があるが、
これはこの人が工夫して始めたものらしい。
もともと大器の持ち主で転生の武勇が備わっていたので、大工道具を売り払って太刀を買い揃え、
太閤秀吉公がまだ筑前守だったころに、その旗下に加わった。
播州上月合戦では、十七歳にして、伯州の南条伯耆守の手負いの若党の首を取ってからというもの、
その後も何度も武功を立てている。
なかでも江北賤ヶ嶽の合戦で比類ない鑓働きをし、次第に出世して、
今回の高麗の合戦のときには、十二万石を領し四位の諸太夫から侍従に出世していた。

常に酒に耽り、酔えば必ず悪酔いして、
些細なことでも家人を切り殺したり切腹させたりということも珍しくない。
けれども酒に酔っていないときは邪なことは一切しなかったが、
あまりに筋道を強く立てたがるので、人を大切にするということがまかったという。
よって、ほんの少しの罪でも許すことを知らない性格で、
罰が愛を大きく越えてしまって、周りの者も親しもうとはしなかった。
世の人は皆、安達が原や鈴鹿に住むという鬼か、鞍馬・愛宕の大天狗かと恐れたものだ。

もともと、黒田甲斐守(長政)・吉川侍従(広家)などとは断金の盟友だったので、
「立花・福島、二人の仲が悪くなったのは、さしたる遺恨もないのだから、互いに仲直りしてくれ」と、
ときどき意見をしていた。
立花・福島も「それは構わないとも。日頃積もり積もっていた遺恨を瓦解氷消しようではないか」と了承した。
それではということで、文禄四年乙未二月三日、
トクネンギ(東策)の城へ立花・福島を招待し、黒田甲斐守も同じく来ることになった。
吉川広家は、立花・福島はどちらも大勇の者で、
死ぬなどと言うことは日常の食事や茶を飲むことより簡単だと思うような人たちなので、
また何かあるのではないかと、安心してはいられなかった。

皆が揃うと、珍膳嘉肴を尽くして宴会となった。
立花左近将監は弟の高橋主膳・家臣の小野泉守ならびに天野源右衛門を連れてきていた。
彼らは一騎当千の勇士で、鬼であろうが蛇であろうが捻じ伏せてやろうという気構えだった。
福島はたった一人で来ていたので、さしもの大勇の太夫正則も心細いのではないかと、皆推量した。
しかし太夫正則は少しも臆した様子もなく、立花の向かいに堂々と座っていた。
黒田・吉川などの挨拶があって座敷も和やかになり、これで争いの種が生じるようには見えなかった。

さて、和睦の盃が出て数度回した後は、宴もたけなわになり、立花左近が一杯飲み干して左衛門太夫に注ぐ。
正則がその盃で三杯受けると、左近将監は、
「それでは肴を用意しよう。二王舞でも舞おう」と言って、スッと立ち上がった。
その座にいた人々も興が乗って、「二王舞を見ようぞ」とはやし立てる。
左近は諸祖になって拳を握り、座敷を一回りすると、福島太夫の目の前に大きく拳を振りかけて舞う。
真の二王はいざ知らず、漢の高祖と楚の項羽が鴻門で会見したとき、
范増と項伯が剣を抜いて舞ったというのもかくや、と思わずにいられなかった。
こうなってくると、福島も少し様子が変わってきたように見えたので、
黒田・吉川がなんとか押さえ、どうにかこうにか酒も呑み納めとなった。
その後はつれづれに話などをして、黒田・福島・立花の人々は、皆気分をよくして帰っていった。
なんとも危ない和睦会見だったと思われる。


以上、テキトー訳。

天野さんの秀次に対する態度がよろしくない件。
武辺者だから普請しないってのは、どうなんだろ。
どこの家中もみんなで協力し合って家を守り立てているというのに。
城の造り方を熟知してれば、守りやすく攻めづらい城を建てられるし、
逆に攻城戦で敵の弱点も発見しやすいんではないかな。
武辺者はそういうこと考えちゃいけない脳筋なんだろうか。

そして市松よ、それは逆恨みというのだ……そゆとこカワイイけどメンドイ人だなぁw
この「陰徳記」でもケチョンケチョンに酒乱だ鬼だと断定されている市松さんが、
広家に対して「あさごはんたべにきてね」とか平仮名で手紙書いてるかと思うと
むちゃくちゃ萌えるわッ!
まあ広家だけに対してじゃないんだろうけどね。
ガキ大将のまま大人になったような人だもんなぁ。

あと、宗茂さん、空気読んでください。
広家のHPが見る間に減っていくのが見える気がするよ!
まあ、別に宗茂が悪いわけじゃないのに勝手に逆恨みされた意趣返しくらい
してやりたい気持ちはワカランでもないw

長政と広家が仲良く空気呼んでて嬉しかった。
長政はやればできる子! 広家も立派になったのぅ。

さてさて、次回からちょっと「陰徳記」中断するかもしれない。
またか、って感じだが、吉川家文書が……!
吉川家文書が面白すぎるのがいけないと思うの!!!

一段落したら元春の九州出張(でばり)あたりを読もうと思う。
そろそろ下巻の目次も用意しなきゃな……
2011-11-13

秀吉、涙目www

前回のあらすじ:
人質として京に上った宇喜多秀家母は、秀吉の強引な招聘によって聚楽第に登城した。
秀吉は、その聞きしに勝る絶世の美貌にすっかり心を奪われ、
思わせぶりな歌を口ずさんで、今後はここに住まうようにと命じるのだった。


宇喜多秀家の母のこと(4)

女(宇喜多秀家母)は殿(秀吉)の最後の言葉がなんとなく煩わしく気にかかって、涙に咽んだ。
「私は夫に先立たれ、あとはどんな木の陰、岩の陰にでも身を隠して、
落ち葉を集め衣にして肌を温め、青い苔に座して心の塵を払い、
朝には東に向かって天照大神にお祈りしてありがたいお守りをいただき、
我が子の現世が安らかであるよう請願し、
夕には西に向かい落日の前にたなびく黒・黄・白の三色の雲を見て、
五障の罪(女性は生まれながらにして梵天王、帝釈天王、魔王、転輪王、
仏になれない障りを持っているとする考え方)を滅し、
我が身が来世はよいところに生まれるように願い、
三尊(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)の来迎を待とうと思っていたのに、
こうして心外にも都に上り、見慣れぬ人とのやり取りに心を削らなければならないどころか、
殿のいわくありげなお言葉の最後を聞いて耳が汚れてしまった。
この世が憂鬱だと引き返す川浪に、千度百度濯いだとしても、もとの清さに戻るまい。
心の水が濁っていると、蓮の葉の台が生える縁の障りにもなるでしょう」
と女は思い、惨めになって悲しさに袂を絞るばかりだった。

とにかくここはごまかして自分の宿に帰り、重ねてどんな手段で呼び出されたとしても、
命ある限りは登城するものかと思って、幸蔵主に向かい、
「まだ体調が非常に悪いのですが、殿の仰せは重大なことですので、
この命が絶えようとも一度は拝謁しなければ無礼千万だと思い、ここまで参りました。
しかし、頭もフラフラして心が体から離れてしまいそうです。今夜ばかりはお暇させてください。
また重ねて参りましょう」と言う。

幸蔵主は「おっしゃることはもっともですけれども、殿がここに留め置くようにとおっしゃいました。
お体がつらいのでしたら、ここには著名な医者もたくさんおりますので、
ご病気がたちまち良くなるお薬を出していただけましょう。
見苦しいところではありますが、我らの休息所の部屋にお入りください」と付き添うので、
仕方なくその夜は泊まることになった。

殿は彼女のいるところに忍んできて、障子の隙間からのぞき見る。
ほのかな明かりに照らされ、物思いに耽っている様子で、
起きているとも寝ているとも判別がつかない有様、えもいわれぬ風情は、わき目も振らず守ってやりたくなる。
同じことなら、心が打ち解けてひそめた眉を開き、微笑んだ顔の一つでも見たいものだと思うのだが、
一度振り返れば城を傾け、再度振り返れば国を傾けるという絶世の美女の言い伝えもある。
百の嬌を起こすその顔つきは、ようやく治まった天下をも覆すのではないかと、かえって恐ろしく思い返した。

こうして逡巡していたが、忍ぶ心も弱り果て、
今は新しい土地で物思いに沈んでいるところに浮名を立てるのも罪深いと考えた。
やがて西の台に移動させたということだ。

殿はきわめて色好みであり、上は公卿・殿上人、下は庶民の娘にいたるまで、
見た目の良い女房を探し出してはそばに置いていたけれども、この女房に並べば、皆顔色をなくしていた。
こうなると、数々の女にかけてきた殿の寵愛も、この女房一人に注がれるようになり、
他の女房へのお渡りも途切れがちになる。
その女は、多くの人々から恨みを買うのもまた悲しく、殿の深い情もかえって物思いの種となった。
できれば人の目の隙を盗んで忍び出て、夜に背を向け衣を墨に染め、
後生のため菩提を弔う身分になりたいと考えるようになった。

殿は、その女房が深く物思いに沈んでいるのを見るにつけても、
さらに可愛らしく愛しく感じて、ご寵愛はいや増しに増した。
よってその子供の秀家卿にもことさら憐れみを深くして、
三吉秀次公に天下を譲ろうとしたときは、もし秀次卿が固辞したならば、
宇喜多の秀家卿に譲ろうとまで言ったそうだ。

こうして姫君も養育していたが、広家様が文武全備の良将だったので、
西国で何か起これば広家様を頼りにすべく、殿の婿にしたのだということだ。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

うわあぁぁ。秀吉かわいそう。
そこまで毛嫌いしなくてもいいじゃん。と思ってしまった。
思わせぶりな言葉で 耳 が 汚 れ て し ま っ た とかwww
何度濯いでも汚れが取れないとかさー、
お父さんの洗濯物と一緒にされたJCじゃないんだからwww
なんか、ハタで聞いててもいたたまれなくなる展開だよね。
うん、そんなに汚いものでもないと思うよ、とフォローしてやりたくなるなw

そしてようやく最後で、広家と宇喜多秀家姉が娶わされた理由が語られるんだが、
ついでかよ! ていうか本題すっかり忘れてたわ!

広家……文武全備の良将かぁ。成長したなぁ。
というのも、このところ吉川家文書にすっかりハマっていて、つれづれに眺めてるんだが、
若いころの広家がメチャメチャ叱られてる書状がたくさん残ってて楽しい。
叱ってるのはもちろんお父さんの元春なんだけど、その書状が長い。そして多い。
さすがは元就の子だと思った。元就よりパワーアップしてるかもしれない。
戦陣で「太平記」書写したくらいだから、物書くの好きだし得意なんだろうね。

「服装をちゃんとしなさい」「盃を受けるときは目の上まで上げなさい」とか、
「おまえにとって悪いことは言わないから、どうか聞き分けてくれ」
「五つのうち三つ、四つは気に入らなくても、一つは孝行と思って従ってくれ」
「決しておまえを粗略に思っていないよ」「お返事待ってます」なんて。
いい父ちゃんだな。
こうして叱られてたのは十代後半のころみたいなので、
高校生くらいになってグレる今の若者と変わりなかったんだねぇ。

ああ、吉川三兄弟も気にかかるなぁ。
長男の元長はまともに育ったみたいだけど、次男の元氏もヤンチャして元春・元長を悩ませたみたいだし。
それで元春が元長に宛てて弟たちの行状を愚痴ったりもしてる。これも長いw
早く書状がまともに読めるようになりたいなぁ。
2011-11-12

美しさが留まるところを知らないッ! 宇喜多母

前回のあらすじ:
宇喜多家からの人質として上洛した宇喜多母の美しさを耳にした秀吉は、
一目見たくなって呼び寄せようとするも、仮病を使われことごとく振られる。
そこで備前出身のコニタンにお鉢が回り「脅してもすかしてでも連れて来い」ということに。


宇喜多秀家の母のこと(3)

小西は件の女房の乳人で小侍従という女に接触した。
「どうか殿(秀吉公)のお心に任せて、一度はご登城してくだされ。
東西南北の諸将から差し上らされた人々(人質)は皆、殿に謁見しております。
お盃を下されるというようなことではなく、通り一遍の挨拶程度だということです。
いったい誰が申し上げたのか、ご病気だというのは嘘だと殿のお耳に入り、
たいそうご気分を害されております。
もしも、さらに病が重くなったなどといって謁見を拒むのであれば、
ご当人の立場が悪くなるばかりか、御子の秀家にも累が及びましょう」

小西のこの言を聞くと、その女房は
「私がここまで来たのも、あの八郎に国を保たせ身命を全うさせるためです。
我が子が滅びることに比べたら、この身など千々に引き裂かれても、露ほども恨みには思いません。
ましてやたった一度殿にお会いするなど、簡単なことです。
一刻も早く参りましょう」と決心した。

しかし、住み慣れた故郷を離れ、波路もはるかな船の中で心を痛め、慣れない旅の憂鬱さに、
その身も痩せ細り、容貌も衰えてしまったと気後れして、なかなか出発できずにいる。
そこで侍女が助け起こしても、力なく、今にも消え入ってしまいそうな有様で、
風に乱れる女郎花の露が重ねてなびきかかり、
周囲の垣根を身の支えにじっと立つ姿は、なおさら儚げだった。

同じ女の身でさえも、一つの布団に枕を並べたいと感じた侍女は、
秀吉公がお心を尽くして呼び寄せたがるのも実に道理だと思うのだった。

こうしてかろうじて輿に乗り、「楽を聚(あつ)む」などと名付けられた宮殿の中に入って、
幸蔵主に取り次がれた。
幸蔵主は非常に喜んで、このことを殿に告げると、殿は「急ぎここに連れてまいれ。対面しよう」と言う。
幸蔵主が付き添って長い渡殿を過ぎ、一間もある障子を押し開けて、
「こちらへお入りください」と、後ろの戸をぴたりと閉めて部屋の明かりが少々揺らぐ。
屏風の表には、春の夜が仄々と明けてゆき、山に咲き乱れる花は散りもせず咲き残りもせず、
松風が霞を吹き払う合間から、有明の月が高山の雲に傾きかかる様子、
自分の故郷に帰る雁の声が名残惜しげな有様が、筆の限りを尽くして描かれている。

しかし女房はこれを眺めるにも心ここにあらず、
「雁でさえも自分の慣れ親しんだこの世の春を思い出して
都の花の盛りさえも見捨てて帰ろうとするものなのに、
それに引き替えて私は、住みなれた故郷の春に背を向け、
遠くの見知らぬ高貴なところに来て、見慣れぬ人にひなびた姿を見られるとは、
なんと恥ずかしい」と思い出して、涙ばかりこぼれて紛らわしかねる有様だった。
周囲にいた人も、そんな姿がいたわしく思え、涙を誘われるのだった。

殿は待ちかねていた嬉しさに、「昔は袖に
(うれしさを昔は袖につつみけり こよひは身にもあまりぬるかな『和漢朗詠集』?)」と口ずさんで、
妻戸をやおら引き開けて出てきた。
その女房を一目見ると同時に、思いがけない衝撃を受けたようだ。
年齢は盛りを少し過ぎてはいるが、見た目は二十歳より五つか六つばかりしか越えていないように見える。
顔の色は艶やかで、眉の辺りがほのかに影がかかり、色っぽく優雅な可愛らしさもある。
側面の髪がはらはらとこぼれかかるのを慎ましやかに掻きやることもなく、
をさかりはの隙より見給へるまみの艶にやさしき有様(訳断念)、
青柳の糸の乱れがちな木の間から、霞がかる夜の月がほのぼのと姿を現す様よりも
なおうっとりするような顔つきだった。

殿が聞いていたよりも優れたその美しさに、
「昔は物を思わざりけり
(逢ひ見ての後の心にくらぶれば むかしは物をおもはざりけり『小倉百人一首』)」
と詠んだ人の心まで、今の身の上に思い知らされるようだ。
胸もふさがり、心もよろめいて、その女房の袂にすがって、胸を焦がす想いの丈を伝えたいと思う。
しかしこんな出会いがしらに、あっという間に風雅を壊してしまえば、
軽率な態度だと女が軽蔑するかもしれないと、必死で心を鎮めようとする。
「えやは伊吹のさしも草
(かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを『小倉百人一首』)」
と独りごち、溢れる涙に袂を湿らせた。

どうしても堪えなければならない想いというわけでもないので、
浮名が立つなら立て、せっかく逢えたのだからと思い直した。
「今回の対面はなんと素晴らしいことだろう。
今日からはここに留まって心を慰めなさい。
慣れていても旅というものはつらいものだ。
それこそ住んでいた故郷が懐かしく、親しい人たちを恋しく思うだろうに、
ここでは仮の住処が五条の辺りというではないか。
建物もしっかりしていない小さな家だろうから、花の都とは言いながら、
軒から漏れる露に袖を濡らし、板の隙間から吹く風に身を震わせ、旅のつらさが増しているだろう。

ここにはあなたと同じように国許から上らされた女房はいくらでもいる。
互いに悲しいこともつらいことも語り合って、慰め合いなさい。
わしもあなたのことを粗略にはしない。
藤の裏葉のうらとけて(春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ『源氏物語』)……」
と言いかけて、殿は内に入ってしまった。


以上、テキトー訳。まだもうチョイ続く。

うーん、これは……ハトよめとか言ってスンマセンした!
宇喜多母はアレだな、女帝ボア・ハンコック(ワンピ)な感じだなきっと。見た目が。
よし、脳内補正完了!
同性の女が押し倒したくなるほどのイイ女……ゴクリ。
てゆーか、男×男も一般的な一方、女×女もよくあったって聞きかじった気がするけどどうなんだろうね。

この章は、わりとマジで私なんぞの拙訳を読むより、原文読んだほうがイイ。
筆がノリにノッてる。読んでてテンポがよくて楽しい。
意味がわからなくても、言葉の響きとかがなんともなまめかしい。
「あへかなる」とか「にほひたる」とか、現代語にはない趣があるよなぁ。
「陰徳太平記」だとどうなってるんだろう。後で確かめてみよう。

そして読んでるうちに、自分の身に驚きの変化が。
秀吉がかわいくなってきた。
2011-11-11

駆け引き? ナニソレおいしいの?

前回のあらすじ:
秀吉に下った浮田家は当主の八郎秀家の生母を人質に送ることにケテーイ。
人づてにこの秀家の母が絶世の美女だと聞いた秀吉は呼び寄せようとするも、
仮病を使われて撃沈したよ。
秋にはこっちに来るって話だけど、ホントかなぁw


宇喜多秀家の母のこと(2)

そうして水無月(七月)の影も移ろいやすく暮れ果て、人々が夏越の払いをするころも打ち過ぎ、
昨日まで身に馴染んでいた夏用の衣が今朝は単衣に変わっていると気付くと、
秀吉公は、彼女の「夏は必ず」という言葉を忘れかねていた。

幸蔵主に「あの女房の具合はどうだ。秋にはこちらに来ると言った言葉は、偽りではあるまいな。
とにかく早く召し出せ」と言うと、
幸蔵主はこれを承って、女に使者を送る。
女は、「まだ残る暑さに、体も苦しく、体も言うことを聞きません。
そちらに参るのはなかなか思うようにいきませぬ」と返答してきた。
秀吉公は、この返事を聞いてもまだ、木の葉が散るころには会えるだろうと、
恋しさだけが増していき、胸も苦しくなっていく。

露の命、明日をも知れずと思えば、この夕暮れ(今)を大切にしたいと独り言に呟いて、
涙ばかりがこぼれてくるのだった。
「唐土の楚の襄王は、情を交わした巫山の神女が朝には雲に、夕暮れには雨となった夢の面影を慕い、
我が国の一宮は扇に描かれた美しい女の姿に心を奪われて物思いに耽ったのも珍しい例だというのに、
わしもまた、まだ見たこともない女人のことを人から聞いただけで恋に落ち、日々懊悩している。
なんとみっともないことだ」と、自身の心を恥ずかしく思っても、
この想いは胸に広がりすぎて、いや増していくばかり。
故事に取り上げられる偉人たちも同じ思いだったのだろうと思い知らされ、打ち沈んでいた。

秀吉公は幸蔵主を呼び出した。
「わしは天下の権勢をこの手に握りながら、いたずらにこんな女に心を砕くなど、不甲斐ないことだ。
きっとその女は、この秀吉が好色だと聞きつけて、
一度でも会えばあっという間に手篭めにされて、面倒なことになるに違いないと思っているのだろう。
そうでなければ、自分自身が女の盛りを過ぎたことを引け目に感じていて、
体調が悪いといっては断ってくるのだろう。
ならばわしは、何が何でもその女を呼び寄せるぞ。
もしあれこれと言い逃れようとするなら、宇喜田の家を潰してやる」
と、秀吉は激怒した。

幸蔵主はこれを聞いて、これでは秀家が罪もないのに殺されてしまうと思った。
幸蔵主は、備前出身で宇喜多家の恩を再三受けてきた小西摂津守(行長)を呼び寄せ、
このことを告げれば、小西がとうにかしてくれるだろうと考え、やがて小西に渡りをつけた。

「これこれこうしたことがあったのです。これだけはどうにかして引き受けてくだされ。
お返事次第では、八郎秀家の行く末もめでたくなりましょう。
もしくはその女が罪に問われるばかりか、御子の秀家も空しく殺されるか、です。
あなた様は宇喜多家から台頭した人です。
どうかあの人に言い含めて、殿のお心を慰めてくださいませ。
そうなれば宇喜多家も栄えることでしょう」

これを聞いた小西は、
「宇喜多家の禍福はここに定まるということですな。
それがしが彼女に決心をつけさせてご覧に入れましょう」と、帰っていった。


以上、テキトー訳。まだ続く。

恋に身を焦がす秀吉……想像しても美しくない。
なんか不自然に長いんだよね、この章。
別に禿鼠の恋物語とか求めてるわけじゃないので、どうでもいいんだけど。
とか言いつつ、やっぱり醜聞だの艶聞だのは蜜の味ですなぁ。

てか、権力者の色恋に巻き込まれる人たちってかわいそうになってくるな。
秀吉ならなおさら。

この章は文体のリズムがいいから、きっと著者もものすごくノッてるはずだ。
拙訳では再現できないけど、かなりイキイキ書いてるはずだ。
香川さんのエッチ!と言いたい。
なんかもう、こういう男どもはロマンチストでいかんというか
そこが可愛らしいというかウラヤマシイというか。

とりま目が痛いので寝るんだぜ……
2011-11-10

宇喜多と秀吉の縁

さてさて、広家の嫁さんのお母さんの話だよ。

宇喜多秀家の母のこと(1)

さて、秀吉公が宇喜多和泉守(直家)の息女を養育したのにはこんなわけがある。
先年、宇喜多和泉守直家が死去した後、嫡子の八郎秀家から、
天下の権勢を握った秀吉公に対して人質を一人送ることが決まった。
宇喜多家の老臣の岡・長舟・明石以下の者たちが、誰を差し出すかを会議して、
まずは秀吉公の御内意をうかがった上でその尊命に従おうということになった。
秀吉公にこれを伝えると、秀吉公は
「秀家はまだ幼く、実子もいないだろう。であれば、たった一人いる母を人質として京都に差し上らせよ」
と返答した。

これについて宇喜多八郎秀家が老臣たちを呼び集めて相談する。
「たった一人の母をはるかかなたの都に上らせて、見慣れぬ人たちと交流させるなどということは、
子として最大の不孝だ。いったいどうしたらいいだろうか」
とはいっても、岡・長船をはじめとして、
「もし秀吉の仰せに少しでも否と言ったら、たちまち宇喜多家は滅亡してしまうに違いありませぬ。
家を保たせ、身命を全うすることこそが孝行でございましょう」としきりに秀家に諫言する。

また同じように母に相談しても、母はこう言うのだった。
「親しい人々と離れ、愛しくてしょうがない幼い我が子を捨てて、
知らない都に赴くのは嘆かずにいられないことだけれど、宇喜多の家のため、
また他でもない八郎のためならば、露ほども嘆くことではありませぬ。
我が身は虎の潜む野辺、熊の棲む深山に行くことになろうとも、子のためであればちっとも怖くない。
八郎はまだこんなに幼いのに、私を都に送るのを身を挺してでも防ごうとしてくれる。
実に孝行者ですとも。
けれども、家を守ることこそが、父の直家、そのほかの先祖に対してもこの上ない孝行となりましょう」

母はやがて備前の国岡山の城を出て、都を目指して出発していった。

この人は天下に比類ない美人で、
人々が「輝く日の宮と名高い人であっても、これほどではあるまい」と噂しあったほどだった。

しばらくしたある夜、秀吉公がつれづれに身の回りの女房たちを呼び集めて、
歌を謡わせ拍子をとらせて酒宴となった。
たいそう酔ったところで盃を置き、今昔の物語などをしはじめた。

「わしは今六十余州を掌中に納め、従一位の関白にのぼりつめた。どんなことでも思い通りになるぞ。
けれども一つだけ思い通りにならないことがある。
それは何かというと、上は公卿や殿上人、下は漁夫農老にいたるまで、
見目良い娘を持った者を尋ねていけば、このわしを追い返す者などおらん。
それなのに、これぞと心にかなう美人はいなかった。

いにしえの漢の国には唐の楊貴妃・漢の李夫人・越の西施といった美人がいたが、
我が国にも、光明后宮・衣通姫のことは口にするのももったいないことだが、
小野小町・和泉式部など、そのほかにも名に聞こえた美人は数知れずいたものだ。
今の世には、時が経つにつれて衰えたのか、
上には宮中の女官から下は士農工商にいたるまで、
世に類ない美女というものは、耳にしたことすらないぞ。

昔の高師直は、菖蒲の花のような美人を得られるなら大国に替えても惜しくないと言ったそうだが、
わしは日本六十余州に替えても欲しいと思うぞ」

これを聞いて、そばに侍っていた民部卿の局とかいう女房が口を開いた。
「古代の唐土、我が国の美人は噂にばかり聞こえて見たことがないものですから、わかりませぬ。
今の世には、女御・更衣、そのほか数多の女官たちがいますが、
宇喜多八郎殿の母御ほど容姿の優れた女人はおりません。
美しいだけでなく、またお心もおだやかで、並び立つ人はいないでしょう。

かの塩冶の判官の妻は、梅の香を桜の花に匂わせて柳の枝に咲かせたかのごとくだと、
高師直に申した女房がいたと聞いております。

この八郎の母君は、容貌は匂い立つようで、愛嬌もあって、その美しさは梅や桜の色香にも負けません。
また所作はたおやかで、その妖艶な様は柳の枝の深い緑にも比べることができないほどです。
まったく古今の高名な画家であっても、あの姿の艶やかな美しさを写し取ろうとすれば、
筆を投げ捨ててしまうでしょう。
どれほど賢く雄弁な人であっても、この人の心の立派さ、慈しみ深さを語りつくせないでしょう。
同じ女の身であっても、まぶしく心も惑わんほどに感じましたので、
ましてや殿御であれば、一目見れば心は現実を離れて舞い上がり、
身は震え、気絶してしまうことでしょう。

菖蒲の花のような女と日本の六十余州を取り替えるのでしたら、
この女房には月氏・晨丹も添えるべきです。
名前だけ聞く吉祥天女が人に姿を変えたのか、この世の人とも思えない美しさです。

しかしながら、すでに盛りが過ぎている年齢だというのが少し残念です。
ああ、この人の二十八歳ごろの姿を見られなかったのが口惜しくでございます」

秀吉公はこの物語に聞き入って、ただ呆然としていたが、
「では今は何歳ほどなのだ」と尋ねる。
民部卿の局が「そうですねぇ、敷島の和歌の文字数より少しばかり上でしょう」と答える。
秀吉公が「それは一つ、二つ、三つ、程度上なのか」と聞くと、
「そうでずねぇ、源信明が『仄々と有明の月の月影に』と詠んだ歌の文字の数程度にございましょう。
まったく、盛りの過ぎた年齢だということだけが惜しまれます」と答えた。

秀吉公は、「いやいや、そうではない。『花は盛りに月は曇りなきをのみ見るものかは』と
兼好法師も書いているではないか。
少々盛りを過ぎていた方が、かえって情も深く、まめなところもあるというものだ。
最後の寄る辺と頼むには、これこそ好ましい。
槿の斎院が歳を重ねても、光源氏は心を尽くしたではないか。

さあさあ、どうにかしてその女房を一目見せよ。
こうした姿を少しばかり見られれば、この世に生きる甲斐もあるというものだ」

と切に迫るので、民部卿の局は
「私のの力では少々難ししくざいます。幸蔵主、よきように計ってください」と幸蔵主に言った。
幸蔵主は、「殿のお心を遂げさせたいものですが、なんとも難しいので、
何か理由をつけてその女房をここへ呼び寄せなさいませ。
殿のお呼びで召されたとあれば、否と言う者はこの天下におりませぬでしょう。
女の身であっても、ご命令には背きますまい」というので、
やがてその女房のところに使いを出し、
「国々から上洛された人々に殿がご対面される。早々にご登場あれ」と申し伝えた。

その女房は、「私など、声も濁っているし、田舎くさい格好で、
華の都人にお会いするなんて口惜しくも恥ずかしい」と思い、どうにか言い紛らわそうと、
「最近、体にできものが一つ二つできまして、熱もあり、堪えがたい体調です。
秋風が吹きはじめる頃には快復することでしょう。そのときには必ず見参いたします」と返事をした。
秀吉公は、「体調が優れないのであればどうしようもない。
秋まではそう間もない。そのときまでは待とう」と言った。

以上、テキトー訳。ツヅクノデス。

なんていうか、ちょっと前に「やる夫が『奸悪無限の武将』宇喜多直家に仕えるようです」の
まとめサイトを見たので、秀家母がハトよめのAAで再生される……

それはそれとして、今回の感想。
京女コエエエェェェェ!

「その女、歳はなんぼじゃ?」と聞かれて「和歌の文字数よりちょっと上」とか
そんな受け答えできないぞ、普通。なんというサロンスキル。
しかし「その女と引き替えに日本だけじゃなくて大陸もあげちゃいなさいよ」とか言うから
秀吉が朝鮮出兵なんぅわなにをgbsぷじょ;ふじこ

えーと、秀吉は平城運転だった。
イメージどおりの女好き。
「キレイなネーチャン拝むのが生きがい」とか思ったとおりの秀吉すぎる。
男の夢だの野望だのって、結局「イイ女抱きたい」に尽きるよねぇ。
健康そうで何よりです。

そりゃそうと、この当時で「女の盛りは二十八」って認識だったんだな。
なんかに二十八ってぇと年増のイメージだけど。
この頃は十代前半で嫁いだり子供産んだりも珍しくなかったろうから、なんか意外。
もっとペドフィ(ry

おっと、こんな夜中に直家さんがお茶持参で遊びに来たようだ。
2011-11-09

輝元初上洛&広家嫁娶り

ようやく戻ってきた陰徳記。
ああ、毛利家文書や吉川家文書の書状たちに後ろ髪引かれるぜぇぇぇぇ。
なんで一日は36時間くらいないんだろう。48時間でもかまわないのに。

ともあれ、輝元初上洛のお話。
このへんは以前読んだ『秀吉の接待』という本で予備知識があるので飛ばそうかと思ったら
広家の嫁娶りがあるじゃないか!
広家ファンとしてここは読まねば!!!


毛利三家上洛のこと

四国・九州の逆徒たちは、あるいは軍門に屍を晒し、または兜を脱ぎ旗を巻いて降伏してきた。
西海の波は静かになり風雨も順調な世となったので、輝元様が上洛し、関白秀吉公に謁見することになった。

隆景・広家もともに、同(天正十六年)七月三日(七日)、芸陽を出発した。
西からも秋風が吹いて舟の漕ぎ手に力を添えて海路を進む。
同十五日、難波の港に着き、しばらくここに逗留して、同二十日(二十二日)に上洛を果たした。

関白秀吉公から「九州の逆徒らの再蜂起をたちまち討伐して、
毛利三家が上洛されたことは、たいへん喜ばしいことである。
すぐにでも対面しよう」との仰せがあったので、
同二十四日、輝元・隆景・広家は聚楽に赴いた。
関白秀吉公がすぐに出てきて、
「四国・九州が素早く鎮圧できたのはひとえに皆々の粉骨砕身の働きによるものである」と再三褒め称え、
「この三人に同じ名前を与えよう」と言って、氏を羽柴、姓を豊臣に改め、桐の頭の御紋を下賜された。
世に類ない誉れであった。
関白秀吉公はやがて天子様にお伺いを立て、同二十五日、輝元様は宰相、隆景・広家は侍従に任官された。

同八月二日、毛利三家は大和に移動し、秀長卿に連絡を取った。
同五日、大納言殿(秀長)は郡山の城で饗応をしてくださった。
やがて毛利三家がお別れの挨拶に行くと、「もう少し逗留してくだされ」と引き止めるので、
しばらくの間郡山城に滞在した。
同六日、そのころの天下無双の名人を呼び集めて能を催した。
大夫は金春八郎、脇は春藤六右衛門尉だった。

秀長卿から「輝元は小鼓の名手だと伝え聞いている。是非一番打ってくだされ」と所望があり、
辞退しようとしても重ねて所望されるので、固辞しきれるものではなかった。
三番目の杜若は、小鼓は輝元様、大鼓は樋口石見、太鼓は細川兵部太輔、笛は広家様、
シテ方は金春八郎、脇は春藤六右衛門であった。
いずれも楽や舞の名手だったので、音は大空に響き渡り、聞く人は皆感嘆したという。

同七日、また奈良において終日能を堪能し、夕暮れになってようやく郡山に帰った。
翌日八日、皆秀長卿にお別れを告げて、京都へと帰っていった。

同十七日、そろそろ帰国すべく秀吉公にお伺いを立てると、
殿下は皆へのお別れの饗応をしようということで、山海の珍味を取り揃えて手厚くもてなしてくれた。

その後(八月二十日)秀吉公が言うことには、
「広家にまだ妻がいないのはあまりにもよくない。
宇喜多宰相秀家には姉がいて、この秀吉が養子にして養育している。
これを広家にやろうと思うが、どうだろう。広家の舅に秀吉では不足かな」とおふざけになる。

輝元様、隆景様は「たいへんかたじけない御上意です。御礼も申し上げようがありません」と返答し、
広家様はただ膝行頓首して平伏した。

その後、秀吉公が帰国を許されたので、では京都を出発しようかというところに、
重ねて秀吉公からお達しがあった。
「十月十九日が吉日である。急いで広家の婚礼を整えよ」とのことだった。
広家様はこれを承り、輝元様について芸陽への帰国を急ぐ。
同十月七日が吉日だということで、秀吉公が養育されたその姫君の御輿が聚楽第を出発した。
秀吉公からは黒田勘解由が差し添えられ、
秀家卿からは冨山半右衛門・土居甚四郎、そのほか数人が輿添えとしてつけられた。

同十九日に芸州新庄の日の山に到着し、婚礼が執り行われた。
中国八ヶ国の侍たちは皆日の山に赴き、賀詞を述べていく。
関白秀吉公は「わしの養女に婿をとった。何と嬉しいことだ」とおっしゃって、
聚楽第で馬廻りの老臣を皆呼び集めて盃を下された。
あとは酒宴となり舞や謡を楽しみ、秀吉公自身も、三度も扇をかざして舞ったということだ。

その後、また「この秀吉が初めて婿を取ったが、これほど嬉しいものとは思わなんだ。
わしを大事に思うてくれる者も、きっと喜んでいるだろう」とおっしゃったのを聞きつけて、
松平家康卿・前田利家卿・上杉景勝卿が先を争って芸陽の新庄に使者を遣わし、広家様の婚儀を祝した。
佐武(竹)・細河(川)などをはじめとして、世に知られる大名・小名も
こぞって芸州に使者を送ったので、人もすれ違えないほどに道が混み合って、
新庄の山中も花の都路さながらであった。

ところで黒田勘解由(はじめは官兵衛と名乗っていた)はしばらく新庄に逗留していた。
輝元様は常に「備芸二国を領有する分際のままであれば、今の吉田でもかまわないが、
中国八ヶ国の太守たる者の居城には向かない。
吉田は山中だからいろいろと手狭で、ことに海辺から遠いので、
そうなると敵が領内に攻め入ってきたときに防ぎにくい。
また敵国に攻め入る際にも不自由するだろう。
第一には、今は平和な世の中だから、京都へ上るための利便性も必要になる。
当国にどこか適当な場所を探して、城を築いて移住しなくては」と言っていた。

多くの人が今の吉田のままでいいと言い合っていたが、二宮信濃守(就辰)が
「己斐の河口の芦原に城をお築きになられてはどうでしょう。
大坂より西に、これほどいい立地は他にありません」と提案していた。
では幸いにも黒田殿が新庄に逗留しているので、あの人に相談して城を築く場所を見立てよう、
ということになり、輝元様がこの相談を伝えた。
黒田はすぐに現地を見に行き、
「己斐の河口はこの上なく城郭に適した地なので、ここがよろしいでしょう」と返答する。
それではということで、二宮信濃守を普請奉行として、城の縄張りを済ませ、てきぱきと着工した。

三年ほどして完成し(天正十八年十二月落成)、天正十九年四月吉日良辰の日を選んで入城した。
この場所はこのとき「広島」と名付けられたということだ。
昔は「川島の芦原」といったそうだ。我が国のことを「豊葦原の中津国」という。
この広島も葦原の中洲であるので、日本国が終わらない限りは、ここも絶えず栄える地となろう、
と人々は皆喜び合った。


以上、テキトー訳。

ふふ……ふふふ、そうだった。
広家の嫁は、さんざん毛利を翻弄した暗殺大魔王宇喜多直家の娘だったよ。
このころには直家はすでに亡くなってるんだけど、
毛利にとってはいろいろ苦い思い出が詰まった人選だね。

まあどうしてその直家の娘が秀吉の養女になっているかって、
そのあたりのことは次の章で詳しく書かれていそうなので待て次回。

広家は、正室は生涯この嫁さんだけで、
数年後に先立たれてからも継室は置かずに側室しか持たなかった。
吉川を継いだ広正は1601年誕生だから、ずいぶん長いこと継嗣がなかったことになる。
よっぽど宇喜多氏の正室に参ってたのか、お気に入りの側室の身分が低すぎたのか、
はたまた有力者との縁組を狙ってわざと正室を空位にしていたのか、
それとも他に事情があったのか……
なんて妄想しだすと眠れなくなりそうだから封印しなきゃwww

それにしても吉川公式設定で広家に惚れてる黒官さんが嫁入り行列に同道するってどうなの。
さらに新婚家庭にそのまま逗留させるとか、それなんのイジメですか。
ついでに築城の相談受けてこき使われちゃってるし。もっと大事にしてあげてほしい。
そして今回、隆景の影が異様に薄いけどそれはいいのだろうか。
二宮就辰は元就の隠し子だけどそれについてはスルーなんだろうか。
広島城築城についてもついですぎる。

ツッコミたいところは多々あれど、今週のビックリドッキリポイントは
輝元が小鼓の名手&広家が笛の名手ってトコだろうな。
想像できねえ。
2011-11-08

市松かわいい

やっぱ手紙で鬱った心は手紙で回復だよね!
というわけで吉川家文書も漁ってみた。
もちろん黒官さんと広家の文通目当てですが何か。
どんなこと話してたのか気になるんだもん。

しかし心を奪われたのは福島正則から広家に宛てた手紙。
市松かわいいよ市松。
市松は正則の幼名。大好きな逸話サイトで「市松」の愛称で親しまれてる。

さらりと流し読んでみたのは文書番号964~967あたり。
天正十六年(1588年)に広家が小代の城とかいうのを普請してたようなんだが、
その四月に正則から広家に送られた書状が2通と、日付のない書状が2通、
日付(十一月)はあるものの年が明記されていないのが1通。おそらく同じ年かな?

で、何がかわいいかって、最初の2通は漢文調の事務的な内容なんよ。
後者の3通は、ほぼひらがなで構成されてるんよ。つまりこっちは正則直筆。
内容は「あさごはんにしょうたいしたい」
「来てくれてありがとう。ゆっくりはなしができて、うれしかった」
といった感じ(手紙文が苦手なのと変体仮名に慣れてないので訳文は割愛)。
いい歳したゴツゴツの武断派武将がひらがなで手紙書くとか、かわいすぎる。

福島正則は秀吉の親戚で、農民だか職人だかの子として生まれたが、
秀吉に取り立てられて、この頃には伊予十一万石の大名に出世していたらしい。
この人は酒乱で乱暴な逸話がたくさんあって、
中途半端なDQN、噛ませ犬、小悪党、ヘタレといったイメージが強いんだが、
そこがかえって生身の人間として強烈に印象付けられて、私は好きだ。
人情にもろかったりするのも市松クオリティ。

もともと武家に生まれついて、武士として教育されていた人たちとは違って、
あまり読み書きが達者でないようだけど、
それをまったく気にせずに自筆のひらがなの多い書状を送るトコがいい。
さすがにご機嫌伺いと事務連絡っぽい書状2通は祐筆に任せてるね。
祐筆の書いた書状の宛先は「吉蔵様(吉川蔵人頭様の略)」なのに対して
自筆のヤツの宛先は「ひろいえ様」なんだぜ。
かわいすぎて悶えるわwww

そんなわけで市松に癒されたので、他の書状とかも気にかかるけど、
そろそろ「陰徳記」に戻っちゃうぞ!

変体仮名を攻略したら、書状の訳文も載せていきたいと思う。
ああ、一日が二十四時間じゃ足りないよう。
2011-11-07

毛利家のとてつもない涙腺破壊力

結局ずっとダラダラと毛利家文書読んでたわけだが(否むしろ眺めてた)、
だいたい逸話とか呼んで内容知ってるはずの手紙の原文に、どうして泣かされなきゃなんないの、ねえ。
ちゃんと読めてるわけでもないのにさ(昔の仮名がまったくワカラン)。
もう、隆元が死んでから、竺雲恵心が隆元から昔受け取った書状を元就に送るんだけどさ、
恵心が秘蔵してた隆元の書状(悩みの吐露など)、それを見た元就・隆景から恵心への書状、
このあたりで大号泣して、今日は瞼は腫れるわ目玉が痛いわで大変だった。
仕事中に思い出すとウルッときちゃうしさ。いや仕事中に思い出すなよってハナシかもしらんが。

あーもう、本当にここんち大好きだ。

そんなわけで陰徳記がまったく手につかないので、毛利家文書からそのときの手紙。
遺された家族から、隆元が唯一その苦しい心中を打ち明けていた恵心へ。


小早川隆景書状(文書番号:763) 竺雲恵心宛

書状を拝見いたしました。
常栄(隆元)の書置き数通に、目を通しましたが、実に言うべき言葉が見つかりません。
これほどまでに思いつめていたとは。これ以上、言葉が出てきません。
大体のことは紙面から伝わってまいりましたので、重ねて議論すべきことでもないでしょう。
来世のことまでもあなた様にお頼りしていらしたようですので、
このうえは安芸においでになり、隆元のために寺を建立していただきたく。
元春も私もできる限りの助力をいたします。
元就のお心の底はご推察ください。
寺のことは、急ぎお願いしたいと考えていらっしゃいます。
委細は昇蔵司(蔵主)に申し伝えておきます。
くれぐれもお願いいたします。恐惶謹言。

卯月(四月)十一日    隆景(花押)


毛利元就書状(文書番号:764)  竺雲恵心宛

寄越していただいた隆元の書置き、日々これを読んでいます。
まったく何と言ったらいいものか。涙をこらえきれません。
和尚のことをこれほどに信頼していたとは思いも寄らず、驚いております。
是非ぜひ、安芸においでになり、隆元の菩提を弔ってくださいますよう。
詳しくは昇公に申しておきます。恐惶謹言。

卯月十二日        元就(花押)


以上、超絶意訳。

恵心が元就に送った隆元の手紙の内容は、まだ訳してない。
面と向かうと、「ぷわっ」って感じで涙が出る。
よくこの老いぼれの身にこんなに水分が残っているもんだと驚くけど、
明日も仕事だから目を腫らすのは危険なんだ。

そんなわけで隆景と元就の手紙を取り上げてみた。
おそらく「卯月(四月)」とあるのは、隆元の死の翌年のことだろうか。
約半年後か。悲しみも少しは癒されてきた頃だろうに、
ダメ押しのように故人の生前の苦悩を知らされるってつらいよね。
恵心てばひどい。癒えかけた傷口に塩を塗り込むようなマネせんでも、と思う。

そもそも隆元の書状を見るに、「お心のうちに納めてください」とか
「一見したら火中にくべてください」なんてことが書かれてるから、
それを遺族に見せた時点でひどいと思う。
故人の遺志なんか完全無視かよ、と言いたくなる。
これは隆元が家族に一番隠していたかったことなんじゃないだろうか。
でも恵心がこれを元就たちに見せたからこそ、現在の私たちも知ることができるわけで。
矛盾だよな。

元就の手紙が短いのも気にかかるなぁ。
長くてくどいのが当たり前の元就さんなのに、どうしてこんなに短いの。
「言葉がない」って、常套句だから使ってるんじゃなくて、大マジなんだってことがわかる。
あんなにたくさん手紙をやり取りした隆元だったのに、
隆元が恵心にこれほど心を許してたことも知らなくてさ。
息子の何を見ていたのかと、自分自身を問い詰めたんじゃないかな。

ああもう。

だめだ、このへんの問題は。棚上げ棚上げ。
明日はもうちょっと気分が明るくなるような話題を探そう。
2011-11-06

元就と隆元が末っ子に会いに行ったようです

毛利家文書に収録されていた「毛利元就父子雄高山行向滞留日記」をざっと呼んでみた。
「毛利隆元山口滞留日記」も読んだけど、それはまたの機会に。

永禄四年(1561年)
 3/26 元就・隆元吉田発、椋梨に宿泊
    隆景から挨拶の使者が送られる
 3/27 一行、隆景の居城雄高山(新高山城)到着、隆景が麓まで出迎える
    元就は井上春忠私邸に滞在、井上の饗応に隆景がご相伴
    隆元は巨眞寺に滞在、夜になって隆景が小魚持って訪ねてきたので数時間一緒に酒を飲む
    熊谷信直・保利中務が到着、元就・隆元に炭薪などを贈る
 3/28 会所にて大宴会、能・七五三膳
 3/29 元就・隆元、御女中様(隆景妻・その母など)に御礼、饗応
 3/30 桂右衛門大夫の私邸にて宴会、五三々膳
閏3/01 会所にて大宴会、能・五三々膳 生鶴(鶴の刺身?)
閏3/02 連歌会、蹴鞠の会
    茶湯の間にて太平記読み、この夜隆元は奥の座敷に泊まる
閏3/03 会所にて宴会
閏3/04 隆元、宿所にて隆景をもてなす
閏3/05 お別れの大宴会、能・五三々膳
閏3/06 元就・隆元出立
    帰路のついでに栖眞寺で滝を見物
    見送りに来た隆景が栖眞寺で一行(近習衆まで含め百人余り)に一献を振舞う


以上、テキトーまとめ。

にしても宴会多いな。能の見世物がついた大宴会が三回かよ。パネェw
七五三膳とか五三々膳とあるのは、お膳の組み合わせ(?)みたいなものらしい。
一の膳に七種、二の膳に五種、三の膳に三種、といった感じ。豪華~。
席次もだれがお酌する係かもバッチリ決まってて、宴会中に贈り物の受け渡しなんかもあったっぽい。
「お座敷奉行」なんてのもいて、宴席の取り仕切りの責任者だな。
あとろうそくの心を取り替えるための人員もいる。
こういう大宴会はたいてい昼間からやるものらしいが、けっこう夜遅くまで続くんだねぇ。

ていうか「生鶴」って何ですか。鶴の刺身?
「篠原四郎左衛門包刀」ってあるから、解体ショーでもやったのかと思ったんだけど。
もしそうなら見てみたいし食べてみたい。
今は天然記念物だから喰うわけにはいかないが。
鶏の刺身はけっこう旨いけど、鶴ってどうなんだろう。

ところで隆元は元就宛に「元春と隆景が私のことハブにするんですぅ」って手紙書いてるけど、
隆景と超仲いいじゃないか。
数時間も一緒に酒飲んだり、宿所があるのに城中に一泊したり。
隆景だって二回も隆元の宿所訪ねてきてくれてるし。元就の宿所には一回なのに。
自信を持ってよお兄ちゃん!
むしろ今回はあんたらが元春をハブにしてるよ!
まあきっと元春も一緒にって誘われてたんだろうな。
熊谷信直さん寄越してるし。元春の名代みたいな感じなんだろう。

ああ、隆元が大事にされてる様子がわかって満足~。
2011-11-04

陰徳記ちょっとお休み

残業中にカキコw
もうすぐ! もうすぐ帰れるはず!!!
だけど帰ったら、新たに発見した毛利家文書読むんだ。
ネットで閲覧できるとかヒャッハー!
隆元の山口滞留日記読むんだああぁぁぁぁ

明日も夜中まで用があるから「陰徳記」の更新が滞留しちゃいそうだ……

2011-11-03

マジで九州は地獄だぜ! フゥハハハァー

昨日(今朝?)の章の続き。
短いけど今回はこれで。


賀来・福島の両城没落のこと

吉川蔵人頭広家様は宇都宮弥三郎が降伏したので、
それから東豊前に進み、賀来・福島の両城を取り囲んだ。
賀来の何某・福島入道ともども、劣るところのない勇士で、寄せ手が多勢であっても少しもひるまずに戦った。
彼らはいずれも、昔からこの国の御家人であって、手勢にも名を知られたつわものが揃っていた。
広家様が攻めてきたのを見て、館を焼かれまいと打ち出て一戦しようとしたけれども、
寄せ手の備えは堅固でそのうえ大軍である。正面から立ち向かうこともできず、城中へ退却していく。
寄せ手は思うままに攻め入り、城の近くにある家々や賀来・福島の館を焼き払った。

そのまま仕寄を付け梯子を組んで攻めようとすると、
城中にも宗徒の兵たちが多く立て籠もっていて、鉄砲を隙間なく撃ちかけてくる。
たちまち熊谷弥七郎・佐伯小次郎が討たれてしまった。
それでも寄せ手はものともせずに攻め近付き乗り破ろうとしたところ、
両城はともに、命を助けてもらえるなら城を明け渡すと降参を申し入れてきたので、これを受け入れた。
同極月(十二月)晦日に城を明け渡して退却するところを、一人も残さず討ち果たした。
両城にて討ち取った宗徒の首、八百余りを獄門にかけ、その日は唐津まで三里打ち入った。

この勢いにすっかり臆したのか、その後はこの国で一揆を起こす者、
さらには黒田・毛利(吉成)の命に背く者はなくなった。

こうして広家様はこの年はこの地で年越しして、
天正十六年正月十日に豊前の地を出発し、長門の国府まで帰陣した。


以上、テキトー訳。

また……また騙して殺すのかよ。
見せしめだから特にひどくする必要があったのかもしれないけども。
一揆制圧に動員された人たちがさすがにかわいそうになってくるよ。
向かってくる敵じゃなくて、すでに降伏してる無抵抗な人たちを殺さなきゃならないとか。
普段の戦でも略奪とか現代の感覚からすると人道的にどうなのって行為は普通だったろうけれども、
あれはあくまで敵地だしなぁ。一揆ってのは保護すべき領国内なわけで。

そういや厳島でも投降した敗残兵を撫で斬りにしてたなぁ。
でもあの時点で敵の大将(陶入道)の生死も行方も不明だったわけだし、
和平とか一定の区切りが付いてる今回とは状況が違うもんな。
そもそも経緯も違う。
陶の大軍VS毛利の寡兵→毛利軍、ムリにでもイケイケモード全開
→勝ったぜ→イケイケモードのまま落ち武者狩り
てな展開だったから、ひどいことしてても鬱にはならないんだろうが。

こりゃ宗教に逃げる将兵が増えるんじゃないか?
毛利の熊谷元直さんもこの天正十五年(1587年)にキリシタンになってるし。
鬱だ……
2011-11-03

広家・黒官「キャッキャウフフ」

前回のあらすじ:機はありながらも黒田官兵衛の忠告によって
一気に追い詰めることができなかった城井攻め、結局どうなったのかと言うと……


城井(きい)の屋形降参のこと(下)

同二十四日、黒田父子と広家様は相談して、横道権允(高宗?)を使者として広家から宇都宮に遣わした。
「貴殿と黒田はさしたる遺恨はないといっても、こうして今抗戦に及ぶのであれば、
殿下秀吉公に逆意があるということになります。
早々に和睦し、黒田父子の下知を守られるがよいでしょう。
先日一戦に及んだ罪は広家がよいように取り計らい、秀吉公のお許しを得て、
本領を間違いなく黒田から渡すようにします」と申し送った。

横道はその意趣を謹んで承り、何くれとなく日暮れまで過ごし、
夜に入ってから大きな松明に火を灯して、とりたてて忍ぶ様子もなく、がやがやと騒ぎながら進んだ。
敵城に近づくと「吉川蔵人頭広家よりの使者なり」と、しきりに声を出して進む。
やがて城中から出している見張りの者が帰ってきて、
「いったい何事でしょうか。吉川殿からの使者だと言って近づいてくる者がおります」と言う。
「行って聞いて来い」と城中から人を出して横道権允から委細を告げられると、
宇都宮は異議を唱えず、すぐに降伏してきた。

その後、黒田勘解由は、宇都宮が堅く用心しているためその心を和らげようと、
子息の吉兵衛尉を宇都宮の娘婿にした。
宇都宮を自分の屋敷に招き入れて、饗膳を振舞ったうえで討ち果たしたということだ。

またある者が横道に向かって「どうして日が暮れてから城中へ行ったのだ」と尋ねると、
権允は「ああいうところに使いに行くときは、昼にうかうかと行ったとして、
敵がもし伏兵を置いていたら取り巻かれて斬られることもあります。
そのときになって、これは和平の使いだ、また何らかの使者だと突然言い出しても、
血気にはやる若者などは、そんなこと言っても信じるものか、騙されるものかなどと言って、
さらに打ちかかってくることがあるものです。
なので、夜になってから松明に火を灯し、特に隠れたりもせずに堂々と行けば、
敵もこれを見て、松明を燃やして来るからには何か用がある使者だろうと考え、
間違って討つことがないようにと気をつけますから、突然打ちかかってきたりはしません。
私はこう考えたので、こうして日が暮れてから行ったのです」と語った。

その後広家様は黒田勘解由に向かって、
「それにしても、先日萱切山で一戦しようと言ったときに、あなたがしきりに止めるので、
老巧のあなたの意見だし、父の元春にも何事もあなたを頼ってご助言に任せるようにと言われていたため、
どんな仰せでも背くまいと思って、あのときは一戦を思いとどまったのです。
いったいどんな見通しがあって私を制したのですか」と聞いた。

黒田はにっこりと笑って、
「あの日に一戦されていれば、広家は大勝利をおさめると思いまして」と言った。
広家が「勝利必至とご覧になるなら、どうして一戦をやめるように言ったのですか」と聞くと、
黒田は「いやいや、必ず勝利すると思ったからこそ堅くお止めしたのですよ。
広家が難なく勝利を得てしまえば、我が子の吉兵衛尉が先日敵を思い侮って利を失ったことと比べられ、
善悪の境目が目に見えてしまうと思って、あのように強く制したのです。
広家と我らは父子の契約を結んだとはいっても、実の子にはかないませんので」と言う。

広家様は「これは黒田殿にしてやられましたよ。
そのことがわかっていれば、止められようとも一戦していたものを」と、大いに拍手してどっと笑った。
実に数年来の断金の朋友だからこそ、黒田もありのままに語り、
広家も騙されたとわかったころで恨みに思ったりしなかったということだ。


以上、テキトー訳。

やべえ、ここまで書いて酔っ払って寝てた。
そして丑三つ時に目を覚ますとか、どこのじいさんなんだ……
しょうがないから今日は日の出でも拝んで念仏唱えるか。

そりゃそうと、ちょ、クロカンwww
「うちの子がかわいそうになっちゃうからあんまり活躍しないで」って
そんな理由で広家の突撃止めたんかいwww
そういや逸話サイトで読んだな、この話。
そんなことするから宇都宮をかなり手ひどい方法で暗殺しなきゃいけなくなるんだって。
宇都宮の娘を長政(吉兵衛)の嫁にとる→娘に会いに来ませんかと言って宇都宮を呼び出す
→取り囲んで殺す→別宿舎にいた息子や家臣を閉じ込めて焼き殺す
てな風に記憶してるけど、嫌な話だよ。

まあ実際は、現場レベルで和睦に落とし込むのが現実的(攻める決め手にかけてた)で
和睦のために調整してたけど、秀吉から「和睦、ダメ絶対。37564にしちゃいなさい」と言われ
上記のような手段に出なきゃならなくなったと妄想。
でも騙されて笑って許す広家がカコイイのでどーでもいいやw
しかし毎度まいど仲いいな、おまえら。

そして横道さんの工夫が地味に歴戦の勇士っぽくて好きだ。
使者も殺されないようにイロイロ考えるんだねぇ。
この人、たぶん尼子方にいた人だったはず。
毛利は昔敵対してた勢力を、決着が付くと家中にがっちり飲み込むんだよね。
毛利だけじゃないとは思うけどさ。
敵の駒を自分の駒に引き入れて利用するってのは、けっこう日本独特なのかもね。
将棋も、大陸ではただ相手の駒を取るゲームだったけど、
日本に入ってきて「取った駒を再利用できる」ルールになったという話を聞いたことがある。
ナイス命のリサイクル!
2011-11-01

豊前一揆@城井谷

昨日の次の章。二回に分ける。
さあさあ、黒田長政がコテンパンにされた城井に、広家はどう立ち向かうのか。


城井(きい)の屋形降参のこと(上)

同(天正十五年十一月)十二日、広家様は小倉を出発し、
城井の屋形、宇都宮弥三郎(城井鎮房)を討伐するために進軍した。
同十六日には城井の谷に隣接する萱切山に上り、手勢一万余りを率いて陣を張った。

こうなると、黒田勘解由・子息の吉兵衛尉も二千騎ほどでその山に着陣し、広家様と共に陣にいた。
宇都宮は元来、勇猛さに優れた人物なので、あちこちの一揆勢と示し合わせ、
手勢三千ばかりで山の麓に攻めかける。
宇都宮はまず備えを堅固に設け、魁の足軽を、生い茂ったなよ竹の一群の陰から突如として襲い掛からせる。
萱切山からこれを見て、「おっと、敵が出てきたぞ」と言っていると、
田の畦や畑の畦の枯れ草を刈っている味方の草刈役を追い立ててくる。
そこに黒い馬に乗った武者が一人駆けつけ、馬上から草刈役を一人突き伏せた。
そのまま馬からヒラリと飛び降りて、首を押し切って掲げた。
これを見て、先陣の古志因幡守・湯佐渡守・津軽三左衛門が「あの敵を逃すな」と追いかけると、
宇都宮は一段高い岸を前に、谷を後ろにして二手に分かれた。

広家様は「ああ、敵が出てくればいいのに、と願っていたところに、こうして打ち出てきた。
これこそ望むところなので、躊躇せず一戦したいところだ。
しかし私が敵の意図を察するに、我々が目前の敵に気を取られて皆追いかけてしまえば、
その隙を狙って後ろの山から本体が現れ、不意に戦を仕掛けようという魂胆だろう。
それではこちらが負けてしまうかもしれない。
ここで負けないようにしてから、敵に勝つ策を講じよう」ということで、
後陣の三沢へと粟屋彦右衛門を検使として差し向ける。

「敵がもし我々が目前の敵に向かっている隙を狙って虚を突かんとかかってきたならば、
その敵を追い散らしてくれ。くれぐれも討とうとしてはならぬ。ただ味方の陣を破られぬようにせよ。
我々は今の敵をすぐに切り崩してくる。
そうなれば搦め手に回った敵も自ずと退散するだろう。
ゆめゆめ小敵と侮って危ない一戦をするな」と軍令を厳しく制定し、
三沢のいる猿尾の陣へと差し向けた。

味方の兵たちは北を追って次第に宇都宮の旗本に追いついた。
広家様は桂次郎兵衛尉をはじめとして軍使数人を差し遣わし、
「敵が退却できないようにしておけ。すぐに私の旗本勢も攻めかかって、
一戦のうちに切り崩すぞ」と命じて切りかかろうとするところに、
黒田勘解由が鎧の袖にすがり、「これからすぐ一戦する必要はありませんぞ」と諫めてくる。
広家が「さて、それはどんな道理があって言うのです」と聞くと、黒田は
「今言うことではありません。まず一戦を差し控えてくだされ。
この私がどうして広家のためにならないことを申しましょうか。今日は戦を取りやめてくだされ」と強く言う。

広家様は「今から一戦すれば絶対に勝利を得られましょうが、黒田殿が強く反対されるなら、
ともかくもご意見に従いましょう」と、先陣へまた軍使を遣わし、
「味方の兵を引き上げよ」と命じた。
先陣が進むのをやめたので、宇都宮もまた退却していった。
また猿尾の三沢の陣へは、案の定、六、七百ばかりの敵が打ちかかり、
この陣を切り破ってから広家の旗本に迫ろうと切りかかってきた。
粟屋彦右衛門・三沢摂津守たちは示し合わせて、鉄砲数百挺で散々に撃ちかけたので、
敵はやがて退却していった。

翌日、広家様は城井谷に押し入り陣を敷いた。
左右の手先には益田越中守・熊谷豊前守、その次は三沢摂津守・三刀屋弾正左衛門・
三刀屋監物・羽根弾正忠・佐渡越後守・佐渡又左衛門尉以下、総勢一万二千騎。
敵に不意を突かれまいと、まず味方の陣を堅く構える。
城中からも敵の強弱を確かめようと、百や二百の足軽を度々出して挑発してくると、
そのたびに寄せ手が鉄砲数百挺を一斉に撃ちかけ、次第に敵も出てこなくなった。
こうしているところに秀吉公から御内書が届いた。

  その表に在陣し、いろいろと精魂こめて指示を行っているとのこと、小西摂津守からの報告で聞いている。
  厳寒の折、長々と苦労をしてくれて、いたく感謝する。
  城井のこと、追い詰めて絶対に落ちのびさせることがあってはならない。
  武将たちが別に肥後表で和仁・辺春を取り巻いており、今後の見せしめとするためにも、
  一人も逃さず攻め殺すように。
  残党については、来年の春までには人数を出して、無残なことを仰せ付けるつもりであるので、
  その意を汲んでほしい。また追々報告するように。
   (天正十五年)十二月十日     秀吉
  吉川蔵人殿  (吉川家文書之一-一一一)

  その表に在陣していること、小西摂津守からの報告で聞いている。
  寒空の下で大変な苦労をかける。和仁・辺春を取り囲んだとのこと、
  今後の人々への見せしめとするため、一人も逃さず討ち果たすように。
  残党については来春には人数を出して無残なことを申し付けるので、そのつもりでいてほしい。
  また追々報告するように。
  (天正十五年)十二月十日     秀吉
  小早川左衛門佐殿  (小早川家文書一-四八九)


以上、テキトー訳。続く。

わーん、マジで手紙が読み解けないよう。もう知るか!

さて、いやもう広家ったらマジ天才だわー(棒)。
まあヨイショだったとしても、実際にも長い戦歴があるからけっこう読みは鋭かったと思うよ。
しかしクロカンが広家を止めるとは……いったい天才軍師(?)には何が見えてるんだろうな。
てゆうか、簡単にすがりついたりできるほど近くにいるんだな。
別々の隊を率いる大将数人が同じ陣に集まってることもあるのか。
これまで、伝令がいくつもの陣を行き来してるイメージだったよ。
まあ今回、先発隊との間で二往復しなきゃならなかった伝令には「ご苦労様」としか言えないw

次回も続き。
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