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2011-11-09

輝元初上洛&広家嫁娶り

ようやく戻ってきた陰徳記。
ああ、毛利家文書や吉川家文書の書状たちに後ろ髪引かれるぜぇぇぇぇ。
なんで一日は36時間くらいないんだろう。48時間でもかまわないのに。

ともあれ、輝元初上洛のお話。
このへんは以前読んだ『秀吉の接待』という本で予備知識があるので飛ばそうかと思ったら
広家の嫁娶りがあるじゃないか!
広家ファンとしてここは読まねば!!!


毛利三家上洛のこと

四国・九州の逆徒たちは、あるいは軍門に屍を晒し、または兜を脱ぎ旗を巻いて降伏してきた。
西海の波は静かになり風雨も順調な世となったので、輝元様が上洛し、関白秀吉公に謁見することになった。

隆景・広家もともに、同(天正十六年)七月三日(七日)、芸陽を出発した。
西からも秋風が吹いて舟の漕ぎ手に力を添えて海路を進む。
同十五日、難波の港に着き、しばらくここに逗留して、同二十日(二十二日)に上洛を果たした。

関白秀吉公から「九州の逆徒らの再蜂起をたちまち討伐して、
毛利三家が上洛されたことは、たいへん喜ばしいことである。
すぐにでも対面しよう」との仰せがあったので、
同二十四日、輝元・隆景・広家は聚楽に赴いた。
関白秀吉公がすぐに出てきて、
「四国・九州が素早く鎮圧できたのはひとえに皆々の粉骨砕身の働きによるものである」と再三褒め称え、
「この三人に同じ名前を与えよう」と言って、氏を羽柴、姓を豊臣に改め、桐の頭の御紋を下賜された。
世に類ない誉れであった。
関白秀吉公はやがて天子様にお伺いを立て、同二十五日、輝元様は宰相、隆景・広家は侍従に任官された。

同八月二日、毛利三家は大和に移動し、秀長卿に連絡を取った。
同五日、大納言殿(秀長)は郡山の城で饗応をしてくださった。
やがて毛利三家がお別れの挨拶に行くと、「もう少し逗留してくだされ」と引き止めるので、
しばらくの間郡山城に滞在した。
同六日、そのころの天下無双の名人を呼び集めて能を催した。
大夫は金春八郎、脇は春藤六右衛門尉だった。

秀長卿から「輝元は小鼓の名手だと伝え聞いている。是非一番打ってくだされ」と所望があり、
辞退しようとしても重ねて所望されるので、固辞しきれるものではなかった。
三番目の杜若は、小鼓は輝元様、大鼓は樋口石見、太鼓は細川兵部太輔、笛は広家様、
シテ方は金春八郎、脇は春藤六右衛門であった。
いずれも楽や舞の名手だったので、音は大空に響き渡り、聞く人は皆感嘆したという。

同七日、また奈良において終日能を堪能し、夕暮れになってようやく郡山に帰った。
翌日八日、皆秀長卿にお別れを告げて、京都へと帰っていった。

同十七日、そろそろ帰国すべく秀吉公にお伺いを立てると、
殿下は皆へのお別れの饗応をしようということで、山海の珍味を取り揃えて手厚くもてなしてくれた。

その後(八月二十日)秀吉公が言うことには、
「広家にまだ妻がいないのはあまりにもよくない。
宇喜多宰相秀家には姉がいて、この秀吉が養子にして養育している。
これを広家にやろうと思うが、どうだろう。広家の舅に秀吉では不足かな」とおふざけになる。

輝元様、隆景様は「たいへんかたじけない御上意です。御礼も申し上げようがありません」と返答し、
広家様はただ膝行頓首して平伏した。

その後、秀吉公が帰国を許されたので、では京都を出発しようかというところに、
重ねて秀吉公からお達しがあった。
「十月十九日が吉日である。急いで広家の婚礼を整えよ」とのことだった。
広家様はこれを承り、輝元様について芸陽への帰国を急ぐ。
同十月七日が吉日だということで、秀吉公が養育されたその姫君の御輿が聚楽第を出発した。
秀吉公からは黒田勘解由が差し添えられ、
秀家卿からは冨山半右衛門・土居甚四郎、そのほか数人が輿添えとしてつけられた。

同十九日に芸州新庄の日の山に到着し、婚礼が執り行われた。
中国八ヶ国の侍たちは皆日の山に赴き、賀詞を述べていく。
関白秀吉公は「わしの養女に婿をとった。何と嬉しいことだ」とおっしゃって、
聚楽第で馬廻りの老臣を皆呼び集めて盃を下された。
あとは酒宴となり舞や謡を楽しみ、秀吉公自身も、三度も扇をかざして舞ったということだ。

その後、また「この秀吉が初めて婿を取ったが、これほど嬉しいものとは思わなんだ。
わしを大事に思うてくれる者も、きっと喜んでいるだろう」とおっしゃったのを聞きつけて、
松平家康卿・前田利家卿・上杉景勝卿が先を争って芸陽の新庄に使者を遣わし、広家様の婚儀を祝した。
佐武(竹)・細河(川)などをはじめとして、世に知られる大名・小名も
こぞって芸州に使者を送ったので、人もすれ違えないほどに道が混み合って、
新庄の山中も花の都路さながらであった。

ところで黒田勘解由(はじめは官兵衛と名乗っていた)はしばらく新庄に逗留していた。
輝元様は常に「備芸二国を領有する分際のままであれば、今の吉田でもかまわないが、
中国八ヶ国の太守たる者の居城には向かない。
吉田は山中だからいろいろと手狭で、ことに海辺から遠いので、
そうなると敵が領内に攻め入ってきたときに防ぎにくい。
また敵国に攻め入る際にも不自由するだろう。
第一には、今は平和な世の中だから、京都へ上るための利便性も必要になる。
当国にどこか適当な場所を探して、城を築いて移住しなくては」と言っていた。

多くの人が今の吉田のままでいいと言い合っていたが、二宮信濃守(就辰)が
「己斐の河口の芦原に城をお築きになられてはどうでしょう。
大坂より西に、これほどいい立地は他にありません」と提案していた。
では幸いにも黒田殿が新庄に逗留しているので、あの人に相談して城を築く場所を見立てよう、
ということになり、輝元様がこの相談を伝えた。
黒田はすぐに現地を見に行き、
「己斐の河口はこの上なく城郭に適した地なので、ここがよろしいでしょう」と返答する。
それではということで、二宮信濃守を普請奉行として、城の縄張りを済ませ、てきぱきと着工した。

三年ほどして完成し(天正十八年十二月落成)、天正十九年四月吉日良辰の日を選んで入城した。
この場所はこのとき「広島」と名付けられたということだ。
昔は「川島の芦原」といったそうだ。我が国のことを「豊葦原の中津国」という。
この広島も葦原の中洲であるので、日本国が終わらない限りは、ここも絶えず栄える地となろう、
と人々は皆喜び合った。


以上、テキトー訳。

ふふ……ふふふ、そうだった。
広家の嫁は、さんざん毛利を翻弄した暗殺大魔王宇喜多直家の娘だったよ。
このころには直家はすでに亡くなってるんだけど、
毛利にとってはいろいろ苦い思い出が詰まった人選だね。

まあどうしてその直家の娘が秀吉の養女になっているかって、
そのあたりのことは次の章で詳しく書かれていそうなので待て次回。

広家は、正室は生涯この嫁さんだけで、
数年後に先立たれてからも継室は置かずに側室しか持たなかった。
吉川を継いだ広正は1601年誕生だから、ずいぶん長いこと継嗣がなかったことになる。
よっぽど宇喜多氏の正室に参ってたのか、お気に入りの側室の身分が低すぎたのか、
はたまた有力者との縁組を狙ってわざと正室を空位にしていたのか、
それとも他に事情があったのか……
なんて妄想しだすと眠れなくなりそうだから封印しなきゃwww

それにしても吉川公式設定で広家に惚れてる黒官さんが嫁入り行列に同道するってどうなの。
さらに新婚家庭にそのまま逗留させるとか、それなんのイジメですか。
ついでに築城の相談受けてこき使われちゃってるし。もっと大事にしてあげてほしい。
そして今回、隆景の影が異様に薄いけどそれはいいのだろうか。
二宮就辰は元就の隠し子だけどそれについてはスルーなんだろうか。
広島城築城についてもついですぎる。

ツッコミたいところは多々あれど、今週のビックリドッキリポイントは
輝元が小鼓の名手&広家が笛の名手ってトコだろうな。
想像できねえ。
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