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2011-11-14

キケンな仲直り

今回は朝鮮出兵中に一気に飛んで、
広家・長政(黒)・正則・宗茂の仲良しグループを追跡したい。
この四人、大好きだ。


福島左衛門太夫・立花左近和睦のこと

福島左衛門太夫正則と立花左近将監統虎(後の宗茂)とは、近年仲が悪くなっていた。
そのきっかけとなったのは、天野源右衛門という男だったという。

天野は、先年、惟任日向守(明智光秀)の手勢に属し、本能寺において信長公を襲撃したので、
太閤秀吉公が主君の敵だと大いに憎んでいた。
さしもの武名高らかな者であっても、身を潜め、
いるのかいないのかわからないような状態で世を渡っていた。
これを、現在の関白秀次公がまだ三吉治兵衛殿という名だったころに、
太閤に伺いを立てた上で召し置いた。

あるとき、城を造ることになって、天野にも家来たちを召し連れて普請するようにとの達しがあると、
天野は「我が国に大変なことが起こったときに、こちらの先陣を引き受けて敵を挫くのが仕事だというのに、
この人に仕えたことで、普請などということをするとは夢にも思わなかった。
こんなことは中間の奴らがするものよ」と言って、自分の家に帰ってしまった。
やがて家来数百人に弓や鉄砲を持たせ、自分は鎧を着込んでその普請場に出てきた。

秀次公は仰天し、「天野には物の怪でも憑いて狂ったのか。どうしてこんな振る舞いをするのだ。
理由を聞いて来い」と近習を遣わし、近習が天野に問う。
「それはですな、私に家人を召し連れて出るようにお達しがあったので、
きっと謀反人でもあって、それを討ち取るお役目かと思い、こうして出てまいった次第」と、天野は答える。
「いや、そういう仕事ではない。
家人を連れて出仕せよというのは、急ぎの普請であるからそのために励めとのことだ」
田中兵部太輔がそう言うと、天野はカラカラと笑って、
「わしには普請などをするための家人は一人もおりませんな。
どんなときでも、合戦の場において、槍を突き、太刀を打つことをこそ心がけておりますが、
普請などまったく鍛錬になりませぬ」と言う。

秀次公はこれを聞いて激怒し、このような傍若無人の輩は頭を刎ねて獄門にかけ、
以後の見せしめとしようと、追っ手を差し向けようとした。
天野もこんな暗君に仕えてどうすると、やがて自分の家を捨て流浪の身となっていた。

立花左近将監は、天野の武勇が優れていると聞き及び、天野に対して、
「私のところに来て、安心して月日を送り、世の成り行きでも見てみないか」と語った。
天野は、とにかく仰せに従おう、と筑後に赴いたのだった。

福島左衛門太夫も勇士を好む人なので、この天野を召抱えたいと思い、あれこれと誘ったのだが、
立花に先約があるということで、天野は了承せず、立花の方に行ってしまった。
福島は大いに腹を立て、立花との仲が悪くなった。

そもそもこの福島は、秀吉公からすれば従兄弟に当たる。
昔は大工の弟子になっていた。
柱でも棟でも境目を継ぐのに、「太夫継」という技法があるが、
これはこの人が工夫して始めたものらしい。
もともと大器の持ち主で転生の武勇が備わっていたので、大工道具を売り払って太刀を買い揃え、
太閤秀吉公がまだ筑前守だったころに、その旗下に加わった。
播州上月合戦では、十七歳にして、伯州の南条伯耆守の手負いの若党の首を取ってからというもの、
その後も何度も武功を立てている。
なかでも江北賤ヶ嶽の合戦で比類ない鑓働きをし、次第に出世して、
今回の高麗の合戦のときには、十二万石を領し四位の諸太夫から侍従に出世していた。

常に酒に耽り、酔えば必ず悪酔いして、
些細なことでも家人を切り殺したり切腹させたりということも珍しくない。
けれども酒に酔っていないときは邪なことは一切しなかったが、
あまりに筋道を強く立てたがるので、人を大切にするということがまかったという。
よって、ほんの少しの罪でも許すことを知らない性格で、
罰が愛を大きく越えてしまって、周りの者も親しもうとはしなかった。
世の人は皆、安達が原や鈴鹿に住むという鬼か、鞍馬・愛宕の大天狗かと恐れたものだ。

もともと、黒田甲斐守(長政)・吉川侍従(広家)などとは断金の盟友だったので、
「立花・福島、二人の仲が悪くなったのは、さしたる遺恨もないのだから、互いに仲直りしてくれ」と、
ときどき意見をしていた。
立花・福島も「それは構わないとも。日頃積もり積もっていた遺恨を瓦解氷消しようではないか」と了承した。
それではということで、文禄四年乙未二月三日、
トクネンギ(東策)の城へ立花・福島を招待し、黒田甲斐守も同じく来ることになった。
吉川広家は、立花・福島はどちらも大勇の者で、
死ぬなどと言うことは日常の食事や茶を飲むことより簡単だと思うような人たちなので、
また何かあるのではないかと、安心してはいられなかった。

皆が揃うと、珍膳嘉肴を尽くして宴会となった。
立花左近将監は弟の高橋主膳・家臣の小野泉守ならびに天野源右衛門を連れてきていた。
彼らは一騎当千の勇士で、鬼であろうが蛇であろうが捻じ伏せてやろうという気構えだった。
福島はたった一人で来ていたので、さしもの大勇の太夫正則も心細いのではないかと、皆推量した。
しかし太夫正則は少しも臆した様子もなく、立花の向かいに堂々と座っていた。
黒田・吉川などの挨拶があって座敷も和やかになり、これで争いの種が生じるようには見えなかった。

さて、和睦の盃が出て数度回した後は、宴もたけなわになり、立花左近が一杯飲み干して左衛門太夫に注ぐ。
正則がその盃で三杯受けると、左近将監は、
「それでは肴を用意しよう。二王舞でも舞おう」と言って、スッと立ち上がった。
その座にいた人々も興が乗って、「二王舞を見ようぞ」とはやし立てる。
左近は諸祖になって拳を握り、座敷を一回りすると、福島太夫の目の前に大きく拳を振りかけて舞う。
真の二王はいざ知らず、漢の高祖と楚の項羽が鴻門で会見したとき、
范増と項伯が剣を抜いて舞ったというのもかくや、と思わずにいられなかった。
こうなってくると、福島も少し様子が変わってきたように見えたので、
黒田・吉川がなんとか押さえ、どうにかこうにか酒も呑み納めとなった。
その後はつれづれに話などをして、黒田・福島・立花の人々は、皆気分をよくして帰っていった。
なんとも危ない和睦会見だったと思われる。


以上、テキトー訳。

天野さんの秀次に対する態度がよろしくない件。
武辺者だから普請しないってのは、どうなんだろ。
どこの家中もみんなで協力し合って家を守り立てているというのに。
城の造り方を熟知してれば、守りやすく攻めづらい城を建てられるし、
逆に攻城戦で敵の弱点も発見しやすいんではないかな。
武辺者はそういうこと考えちゃいけない脳筋なんだろうか。

そして市松よ、それは逆恨みというのだ……そゆとこカワイイけどメンドイ人だなぁw
この「陰徳記」でもケチョンケチョンに酒乱だ鬼だと断定されている市松さんが、
広家に対して「あさごはんたべにきてね」とか平仮名で手紙書いてるかと思うと
むちゃくちゃ萌えるわッ!
まあ広家だけに対してじゃないんだろうけどね。
ガキ大将のまま大人になったような人だもんなぁ。

あと、宗茂さん、空気読んでください。
広家のHPが見る間に減っていくのが見える気がするよ!
まあ、別に宗茂が悪いわけじゃないのに勝手に逆恨みされた意趣返しくらい
してやりたい気持ちはワカランでもないw

長政と広家が仲良く空気呼んでて嬉しかった。
長政はやればできる子! 広家も立派になったのぅ。

さてさて、次回からちょっと「陰徳記」中断するかもしれない。
またか、って感じだが、吉川家文書が……!
吉川家文書が面白すぎるのがいけないと思うの!!!

一段落したら元春の九州出張(でばり)あたりを読もうと思う。
そろそろ下巻の目次も用意しなきゃな……
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