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2011-11-23

杉原景盛の弁明

前回のあらすじ:
兄を殺して杉原家の乗っ取りを画策した杉原景盛は、
その陰謀に気付いた主君、吉川元長の号令で居城を軍勢に取り囲まれた。
縁者の有力者はことごとく元長側につき、
陰謀の中心人物だった菖蒲左馬允が逃げ出すと、城中に動揺が走る。


杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(6)

こうして城中の兵は六日の日から夜にかけて皆逃げていってしまい、景盛の手勢はわずかばかりになった。
「今夜はいよいよ敵が乗り込んでくるだろう。
時刻はおそらく寅の下刻(午前五時)だろう。精一杯暴れまわって潔く死のう」と、
酒を出してきて世を徹して最後の酒宴を催した。
しかし明け方を待っても、敵がかかってくる気配はない。

明くる七日の朝、香川兵部大輔・粟屋孫(彦?)右衛門のもとから城内に使者を遣わした。
「只今こうしてこの城を取り囲んだのは、景盛に逆意ありと巷で噂になっているからです。
しかし証拠も見つかりません。
ただ、尾高の城から佐田に移られたので、
人々も、南条と一味して東伯耆の境に出られたのだと邪推したようです。
出雲・伯耆の国人すべてが野心を抱いているとはいっても、景盛だけはそんなことはしないでしょう。
ご尊父の盛重が杉原家を相続されたとき、元春からの恩があるため、
その一生の間は八幡大菩薩との誓言は違えても、
元春のお叱りを受けるようなことだけは二度となさらなかったと聞いております。
これほどの決心をされていたため、戦功も他より抜きん出ていたことは、
中国の兵たちどころか三歳の幼子まで承知しています。
このことは、輝元・元長もお忘れにはなっていません。

景盛のご謀反はまったく証拠のないことですので、まずはこの城を明け渡され、
その身に罪ないことを訴えなされませ。
亡き播磨守殿の御戦功に照らし合わせて、きっと許されましょう。
景盛の身にまったく過失がないのでしたら、身命に障りがないどころか、
杉原家ご相続のことについても異議は出ないでしょう。
濡れ衣を着せられたまま命を捨て家を失われるよりは、ここで引いて無罪を証明し、
奸人の讒言を糾弾すべきです。

もし逆意について返す言葉がなく、あの風説が事実であるならば、
御返事をいただいた後でこれからこの城を攻め破ることになりますので、
よくよくお考えになってくだされ」

こうして道理を尽くし、言葉を和らげて言い送ると、景盛はしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。
「先日私が尾高から佐田に出て城を築いたのは、絶対に野心からではありません。
それを讒言をお信じになり、南条と一味したと思われたのは、確かに道理ではありますが、
事の全容をご両人もお聞き届けになって、元長公の御前で申し上げてくださいませ。
お聞きのように、亡父の盛重はひとえに元春のお情けによって杉原家を相続いたしました。
だからこそ忠義を尽くして戦い、身命をなげうったのです。
御領国八ヶ国の国人にだって、盛重に並び立つと言われる者はいないはずです。
この身は不肖ながら、その子として、どうして敵に与し、御家に弓を向けることなどありましょう。

次に、南条と一味するなど、考え付いたことすらありません。
南条と亡き父とは、旧来犬猿の仲です。
南条兄弟は盛重の忠功が他に抜きん出ているのを妬んでいます。
その上その父の豊後入道宗勝が、去る天正三年の正月に、芸陽の吉田・新庄に新年の祝賀に赴いたとき、
その帰路に亡父盛重の居城、八橋に立ち寄りました。
盛重は美食を尽くして饗応して、宗勝も興に乗って盃を重ねたのですが、
酒毒にでも当たったのか、家城の羽衣石へ帰ったとたん、死んでしまいました。
やがて遺骸の肉の色が変わったらしく、盛重が毒を盛ったのだろうと言って、あの兄弟は我々を憎んでいます。
亡父のことは言うに及ばず、我ら兄弟のことだって、どうにかして殺してやろうと考えています。
もし一旦は謀略上一味したとしても、きっと騙して殺そうとしてくるでしょうから、
私は身の置き所がなくなったとしても、絶対に南条にだけは頼りません。
この程度のことは、一々申し上げなくとも、世の人が推察しているでしょう。

この身を失い家が滅びる時期が来たのであれば、せめて父の遺した忠誠を破らず、
元春公・元長公に対してまったく野心を抱いていないことを表明した上で、自害したいと思います。
ご両人のおっしゃることを疑っているわけではありません。
おめおめと降伏すれば、世の人が嘲笑うことでしょう。
南条領にも近いので、心無い噂が南条の耳に入るのは口惜しい。

人質を一人置いてくだされ。
亡父のときから今の私にいたるまで、新庄のお取次ぎは今は飛騨守殿がお勤めだと承っています。
先年までは森脇市郎右衛門といっていました。
その縁者である、ご子息の市郎右衛門殿を渡してくだされ。
また、当城へのご検使として差し向けられた、香川殿・粟屋殿からも人質を一人出してくだされ。
そうしていただければ、速やかにこの城を明け渡しましょう」

この言い分に沿って、森脇市郎右衛門に、香川兵部からは三宅源四郎、
粟屋からも郎党一人を添えて、景盛に送った。
景盛は、それではということで、その夕方に城を寄せ手に明け渡した。

香川・粟屋が難なく景盛を生け捕ったと新庄に伝えると、
今田中務・森脇右近が三百ほどの手勢を従えて駆けつけて、景盛の身柄を受け取った。
尾高の町の二階建ての家に、上下に四、五人を置いてしばらく幽閉していた。
やがて、「そこで自害なされませ。南条と一味の件は実否を取り調べるまでもありません。
実の兄に濡れ衣を着せて討ち果たされたことは、証拠が挙がっています。
輝元・元長は絶対にお許しになりません」と言われた景盛は、
「忠節だと思って実の兄を討ったことまでも、濡れ衣を着せて討ったなどという讒言をする者がいるならば、
このうえ申し開きをする意味もない。自害は覚悟していたことだ。今更驚かぬわ」
と言って、すぐに諸肌脱いで腹を十文字に掻っ切った。
そのままカラカラと笑い、「そろそろ首を打て」と言うので、郎党が一打に斬り落とした。

景盛には子供が二人いたが、これも一緒に刺し殺した。
景盛は享年三十二歳だったという。
この郎党の三吉徳右衛門を、同僚の佐田彦四郎に命じて討たせようとすると、
三吉も手の早い者で、抜き合って佐田を切り立てる。
香川の郎党、三宅源允がちょうどここに居合わせ、駆け寄って難なく三吉を討ち果たした。
また、佐田彦四郎を、中原弥介に命じて討ち取った。
佐田の弟の小鼠は、これを聞きつけて東伯耆に逃げていった。

やがて、景盛の弟の少輔五郎に三千貫を与え、父の名字を継がせてみたが、
この者は「堯の子堯に似ず(親が立派でも子が必ずしも立派になるとは限らない)」とは言うものの、
父の智勇に比べ、十分の一ほどにも及ばなかった。
こうして伯耆に七千貫あった景盛の所領は、輝元から元長に与えられ、
佐田の城は破却して、尾高の城に人を置いて、南条への押さえとして置いたのだった。


以上、テキトー訳。オシマイ。

後味の悪い章だのう。
景盛も、悪党なら悪党で、もっと派手にやればいいのに。
なんかイマイチすっとしない最期だった。
昨日の菖蒲の妻のほうが強烈だったわぁ。
あと、香川・粟屋も「景盛を殺せ」って言われてるんだから、
生け捕ったりせずに殺しちゃえばいいのに☆
まあ、合戦で人員を消耗しなかったのはいいことだよね。

さて次はどこを読もうか。
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