FC2ブログ
2011-11-24

天下人のパフォーマンス

秀吉との高松表での和睦、人質差出、四国征伐の後、
隆景と元長が秀吉に出仕したときの話。


元長・隆景、大坂へ上りたまうこと(上)

四国はほどなく静謐になったので、殿下秀吉公へ御目見えするようにとのことで、
吉川・小早川の両将は、同(天正十三年)十月初旬(十二月)に芸陽を出発し、
同中旬(十二月十九日)に泉州の国境の港に着いた。
隆景様は賢法寺、元長様は玉蓮寺(西条道場とも)を旅宿とした。

殿下はこれを聞き、同十八日(十九日)に蜂須賀彦右衛門・黒田官兵衛尉を上使として差し向けた。
「はるばるのご上国、本当にご苦労様でした。殿下は非常にお喜びです。
明日十九日(二十一日)に大坂に登城なされませ」と言われて、
元長と隆景は急ぎ上使に対面して上意をかしこまり承ると伝えた。

夜が白々と明け、両将が出仕の身支度を整えていると、
大坂から秀吉公の命令で送馬数百匹を引いて出迎えがあった。
殿下は諸大名に対して
「吉川・小早川は、わしに対して言葉では言い尽くせないほどの忠節を尽くしてくれている。
わしのことを自分のことのように大切に考えているならば、出迎えに罷り出でよ」と通達していた。
一昨年の経言・秀包の上国のときでさえ、殿下の馬廻りの諸侍がこぞって道に出て迎えている。
今回はさらに重鎮の元長・隆景の上国とあって、
大坂にいた大名・小名たちは皆、他に負けてなるものかと、
住吉天王寺・大坂の町・城の堀際まで思い思いに出迎えた。
道はすれ違えなくなるほど狭くなり、隆景・元長も馬から降りて挨拶をし、
その後登城して、すぐに殿下と対面した。

殿が言う。
「遠路はるばるのご上国、神妙の至りである。
一昨年の惟任日向守(明智光秀)謀反のときは、備中の高松において対陣し和睦したが、
信長公が光秀によって殺されたこと、両陣に知らせがあれば、
きっと盟約を破ってこの秀吉の跡を追って攻め上るだろうと思っていた。
しかし誓約を堅く守り、陣を払ってお帰りになった。
秀吉は無事惟任を責め滅ぼし、天下の権勢をこの掌中に握っただけでなく、
位階は従一位にまでなり、太政大臣、関白にまで出世した。
これも皆、両川が儀を金石のように守られ、約束を破らなかったおかげである。
この恩はとても返しつくせない。

輝元は中国八ヶ国の太守だから領地に不足はあるまい。
隆景には伊予を与えよう。
元長にも、今後領主に空きが出たら、どこなりとも宛がおう。
これからはこの秀吉に対し、疎遠になるでないぞ。

だが一つ残念なことがある。元春とは近年、所々で対陣してきた。
さっき言ったように高松で和睦が成ったのだから、
一度は対面してこれまでの戦について語り明かしたいと思っていたのに、
早々と隠居したといって上国しないのは、秀吉の意に沿わない気がする。

しかし来年は九州の逆徒を成敗しようというところなので、
元春に九州の戦の差配をひとえに任せたく思う。
わしも出馬するから、筑紫で対面し、山ほど積もった戦の話を語り明かして、
胸のモヤを散らそうではないか」

隆景・元長はただ平伏していた。

この後、珍味寡肴を集め、美々しく飾り立て滋養に良いものを尽くした饗膳が振舞われた。
その後、六畳敷きの構の柱・鴨居・天井・敷居に至るまですべて黄金を凝らした部屋でお茶が供された。
茶入・釜・茶碗・茶杓まで、すべて黄金を張り巡らしており、
その華やかさは、三寸ばかりの舌先ではとても言い表せないものだった。
しかし「茅茨剪らず采椽削らず」というような質素なさまとは雲泥の差があるように思えた。

さて、茶席もお開きになると、殿下は「お二人に天守を見物してもらおう。この秀吉が案内しよう」と言って、
蜂須賀出羽守一人に太刀を持たせ、元長・隆景を引き連れてあれこれと見せていった。
「滅多にないことだから供奉の侍たちにも見物させよう」と言い出して、
二人の手勢百四、五十人を天守に呼び寄せて披露した。
実に噂だけは知っている阿房殿、唐の驪山宮などというものも、
ここの豪華さには及ぶまいと、皆呆然としていた。

つい先日までは敵と味方に分かれ、楯を突き矛を交え、あちこちで攻め戦った兵たちを、
何の用心もなく、主従二人だけが敵数百人の中に混じって、
「ここを見よ、あそこを見よ」と指をさし、頭を廻している。
この態度は、人を虫けらのように思っているのとはまた違って見えた。
これほど大胆不敵でもなければ、草を刈り薪を担いでいた農夫の身で
従一位の関白に出世することもなかっただろう。

まさしく殿下は智勇が古今に傑出した名将だとはいっても、
仁と儀と礼については夢にも知らない人だ。
過去にどんな善因があって、これほどの栄華を誇ったのだろうか。
秦の始皇帝は六国を滅ぼし漢陽宮を造り、聖賢の書を焼いたこと、
平相国(清盛)が朝的を攻め滅ぼして、都を福原に遷し、公卿の官職を奪った故事によく似ている。
始皇帝・平相国は子孫が続いて天下を保つことがなかった。
秀吉公も、たとえその身一代はこの上ない栄華を誇ろうとも、仁政徳化を施さなければ、
子孫が無窮の栄華を極められないだろう。
始皇帝は胡亥に至って滅び、清盛は宗盛の代で滅亡した。
殿下もその二の舞になるだろう。御子の代は危ないぞ、と人々は言い合った。


以上、テキトー訳。続く。

ヤラしいなさすが秀吉ヤラしい。
「え~、元春くん来ないのォ? せっかくわしが勝った戦のこと語り明かそうと思ってたのにプププ」
みたいな感じか。
元春の電撃隠居はもったいないと思ってたが、
こんな禿鼠の膝元に這い蹲らなきゃいけないなら、家督譲ってよろしい!
むしろ出家しちゃえYO!って思ったわ。

あと、わざわざ供奉の衆にも天守を見学させるのもヤラしい。
なんていうか、人を食ったようなというか呑んだようなというか、
できればこういう言葉は使いたくないけどつまり余裕ぶっこいてるところがマジむかつく^^

ええ、完全に吉川目線ですが何か。
とはいえ、以前より秀吉のこと好きになってるのが不思議だな。
宇喜多母との章が同情せずにはいられなかったもんな……(遠い目)

大切な経家の仇と対面した元長はどんな気持ちだったか、待て次回。
てか明日更新できるかな? 夜中まで会議だ><。
スポンサーサイト



2011-11-24

あなたは私の弓矢

「陰徳記」の杉原家騒動を読んで元長兄さんのカッコよさに開眼。
またまたネット入手の石見吉川家文書をパラパラ見てたら、元長さんたら……!

以下、年代不明だけど吉川元長から吉川経家に宛てられた手紙の意訳。


「式少(吉川式部少輔)へ     少二(少輔二郎)元長より

 石見への帰国、明日に決まったかな?
 もう何年もこっちにいるから、帰国はとても嬉しいだろうね。
 幼いときから一緒にいたあなたのことだから、私も喜ばしい。
 でも、片時も離れず一緒にいたから、正直寂しくてたまらないよ。
 こんな風に言うのは軽薄かもしれないけど、察しておくれ。

 あなたの本拠地は石見だけど、一年のうち半分ほどはこっちにいるようにしてね。
 経安(経家の父)が何と言おうとも、そうしてくれるとありがたい。
 まあ帰国に際して支度をしているところだろうから、私のことまで頭が回らないかもしれないけどさ。

 あなたがそばにいるのは当たり前のことだったから、あんまり大事な話をしなかったね。
 離れていってしまうと思うと、もっといろいろと話しておけばよかったと思う。

 まあ、住む場所が離れるってだけのことだし、私の気持ちは以前とちっとも変わらない。
 あなたも同じ気持ちでいてくれたらと思う。
 ただ、遠く離れると心も離れていくものだから、注意してくれよ。
 返す返すも、あなたから何も言ってこないのが寂しい。
 
 また、軍事情勢が不安定だから、石見のことは万事気をつけるようにしてくれ。
 国境に身を一つ置くような気持ちでね。
 こんなことを言うと、あなたが私の弓矢のようでなんだかおかしいけれども、
 とにかく、私のことは吉田(毛利本家)同然に思ってくれないと困る。
 
 このことは絶対に絶対に誰にも内緒だからね。
 これからも心を隔てず、すべての面で私の支えになってくれ。

 また、筑前立花の陣でいろいろと尽くしてくれたこと、今でも忘れていない。
 言うまでもないよね。

 では、ご帰国の吉事、おめでとうございます。

 八月二十三日         元長

 そうそう、会って話したいので来てくれるのを待ってるよ。
 この書状は火中に投じるか返却すること。
 来てくれれば細々とした返事はいらないからね」


以上

元長……なんつう破壊力なんだ。完全に萌えた。ていうか悶えた。
「燃やすか返せ」と言われてる書状をこっそり取っておく経家もどうかと思うよ!
元長に背いても自分の手元に置いておきたかったとか、かわいすぎる!!!

そうかぁ、二人は幼馴染なんだねぇ。
生まれ年も経家が1547年、元長が1548年だし、歳も近い。
経家の元服の加冠(1560年)も、当時鶴寿丸という名だった元長がやってるし、
官途書出し(1568年)も当時元資という名だった元長がやってる。 by同文書
てことは、経家は元長の小姓として抜擢されてたのかな。
ていうか経家の父の経安が元長の養育係で、経家も一緒に育ったのかな。
歳が一年違いってことは、経安の妻が元長の乳母になってて、二人が乳兄弟って可能性もあるわけか。
まあ証拠もないし単なる想像ですけれども。

経家は有名な、秀吉の「鳥取の飢え殺し」で切腹しちゃうんだよね。
鳥取に入城すると決まって、相当の覚悟をしていたようで。
当初、経家の切腹は城兵助命の条件には入っていなかったらしいけど、
自分が切腹すると聞かなかったらしい。
で、秀吉が信長に経家を切腹させていいか尋ねて、OKが出たので見事切腹したと。
経家の首は信長の元に届けられて手厚く葬られたそうな。
預かった城を明け渡すのに、自分が腹切らなきゃ気が済まなかったんだろうな、経家さん。

経家も自分を元長の弓矢だと思ってたんじゃなかろうか。

経家は、元長の弓矢のつもりでいたからこそ劣勢の鳥取城を預かり、
それが破られるときは求められずとも腹を切ったんじゃないかと思ってしまった。
「陰徳記」の鳥取城開城あたりをちらっと見てみると、かなり壮絶なことになってて泣ける。
これも近いうちに訳に取り組みたいなぁ。
検索フォーム
カレンダー
10 | 2011/11 | 12
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
訪問者数