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2011-12-31

広家は広正が大好き

広家から広正への手紙が好きなので、今年の最後にそのうちの一つをのっけておこう。

●吉川広家自筆書状 宛先:広正

「度々の書状ありがとう。私は熱は下がった。でもまだ食べ物の味などは全く感じない。
 全身にでき物ができたが、それもようやく治まってきたようだ。
 足がむくんで足が重く、筋がひきつれて、歩くのも楽じゃない。
 最近そちらに呼んでもらったが、出かけていける感じじゃない。
 痔も毎夜痛むから、これが困りものだ。
 両殿様(輝元・秀就)の御前で申し上げてくれ。よろしく頼んだよ。

 また、おまえが万事物事をうまく処しているとのこと、こちらでは下々の者たちにまで伝えて、喜んでいる。
 それというのもおまえの分別がいいからだ。私も安堵、満足している。
 家中下々までも、最近はおまえが万事公私ともに分別がいいと言って、
 こちらに帰ってきた者たちが言っている。
 いよいよ万事に心がけをしっかりして、油断しないことが肝要だ。両殿様の御前でしっかりやりなさい。
 またこちらで何か用事があれば承るよ。

 私の病状は五郎左衛門尉が伝えるだろうから詳しくは書かなくていいね。
 また志摩殿(毛利元景)のところへ時々たずねるようにしなさい。
 河内殿の暮らし向きがよくないと聞いているが、本当だろうか。これもまた聞かせておくれ。
 恐々謹言

  十月二十八日        蔵人 広家(花押)
  左介殿(広正)」


以上、テキトー訳。

年は明記されてないけど、広正がだいぶ成長して、萩に出仕してるときの手紙だと思う。
広家はきっと岩国にいるんだね。

それにしても、ひぃ様、痔なのね。
しかも他の書状を見ると「下血」とあるから切れる方なのかも。
かわいそうに。冬はつらいんだってね。十月も末じゃもう寒かろう。
円座をプレゼントしたい。「わろうだ」じゃなくてムートンの方。

で、「病状は詳しく書かない」って、書いてますがな。これ以上書きたかったの?
全身のでき物、足の腫れ、筋のひきつれ……何の病気だろう。帯状疱疹とかかな。
足が腫れるっていうと循環器系の病気っぽい気もするんだが。合併症?

いずれにしても広正はすごく良くできた子みたいで、父親の言うことは聞くし
萩のために尽くすし、子供はポコポコ作るし、ホント若いころの広家に見せてやりたいわw
広家も広正をとても大事にしてるのが伝わってくるんだよな。
次男の彦次郎もあちこち(主に寺)連れまわしたりしてたみたいだけど。
おおよそ、ここの家は家族をすごく大事にするよね。元就・元春から変わらん。

けっこう前から不思議だったんだが、広家はなんで継室を迎えなかったんだろうと。
正室の宇喜多氏(秀吉養女)は結婚後数年で他界して子供もいない。
朝鮮出兵やらでそんな暇なかったのはしょうがないにしても、
関ヶ原前後というか主に関ヶ原の後に、徳川の有力者から継室を迎えていれば
その後は違う展開もあったんじゃないかな~なんて思ったわけだ。
関ヶ原時点で広家も40歳くらいなんだから、まだまだ男として現役だもんな。
正室は亡くなってるしその実家は没落してるから気を使う必要もないしね。

で、嫡男広正の生年を見てみたら、慶長6年2月17日なわけさ。
関ヶ原の前に母親のおなかの中にいたんだな。戦後処理のころには懐妊の知らせが広家に届いてたろう。
身ごもった側室は若林藤兵衛の娘ってことだけど、これは家臣の娘だから身分は低いよね。
生まれてみたら初めての男の子で、きっと広家はこの子を跡継ぎにしたかったんだろうな。
それで継室を持とうとしなかったんじゃないかと思うんだ。
継室持ったら、側室の子の立場がものすごく微妙なことになるもんな。

まあただのド素人の妄想だけどね。
でももしそうだったとしたら、広家は甘いな、と思う。
でも、そういう俗な人間くさいところが好きなんだよね。広家。

さて、来年も広家にトチ狂う年になりそうだけど、
少しずつ知識を広げて、世界も広げていけたらいいなと思う。

本年、当ブログにお越しいただいた皆様、ありがとうございました。
また来年もよろしければのぞきに来てやってください。
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2011-12-30

僕たちの失敗

僕たち=広家・輝元。
如水さんから広家へのこんな手紙があったので。

ときは風雲急を告げる慶長五年八月のこと。
三成挙兵、輝元の大阪城入りを耳にした如水さんの手紙。

●黒田如水孝高自筆書状(折紙) 宛先:広家
「ヒロイエへ     ジョスイより

 天下のことについて輝元様が意見を出されるようにと奉行衆が申し、
 大坂城に移りなされたこと、めでたく思います。
 まあ秀頼様に別心を抱く者はいないでしょうから、やがてめでたく納まるでしょう。

 ところで、九州・四国衆の人質は輝元様が預かってくださるように進言していただきたい。
 九州でも鍋賀州(鍋島直茂)・賀主(加藤主計)・羽左近(立花宗茂)・毛壱(毛利吉成)・
 島津(義弘)、特にこの衆のことをよろしくお願いします。
 甲州(黒田長政)の人質は、あなた様が輝元様から預かってくださるように手を回してください。
 そうすれば何でも協力いたします。
 人質が奉行衆の管轄下になれば、輝元様に協力することはできませんので、この点をよく理解してください。

 内府公は必ず上国するでしょう。
 そのときは、またあなた様の肝入りにて輝元様のことを済ますといいでしょう。
 とにかくここしばらくは御分別が大切です。

 さてさて、不慮のことが起こりましたがこの先どうなるのでしょうか。
 そちらの様子を詳しく言い含めて、誰か一人こちらに寄越してほしいです。
 私の心中もあなた様には残さず申し上げます。かしく

   (慶長五年)八月一日」


以上、テキトー訳。

ああ、人質さえ輝元って言うか毛利が抑えていれば違う展開が望めたのかもしれないなぁ、と夢想。
三成らが人質確保に動いたのは7月17日のはずなので、
まあ如水さんがこの手紙書いてる時点ですでに手遅れなんですけどね。
しょうがないよ、多分広家も大阪入りが7月16日14日だったはずだし、そこまで手が回らんわな。
黒田の人質(長政母・嫁)に関しては脱出成功してるけど、
8月1日時点では、まだ如水さんのところに知らせは行ってなかったのね。

なんていうか、情報伝達のスピードがもどかしいって言うか、
それを類推するのもまた楽しくなってきそうで怖い。
2011-12-29

秀吉の本気=十六万騎

毛利・黒田勢は日向の高城を取り囲んだ。
すると島津が後詰の猛攻をかけてきたが、奮戦するもあえなく敗退、ってとこまで読んだ。
土木工事に堪能な秀吉の手勢VS味方の死骸を踏み越え進軍する薩摩勢……ってシャレになんないよね。
だって堀も死骸で埋めればいいんだもの!!!

ともあれようやく秀吉が九州に発向したようです。


関白秀吉公、九国下向のこと

関白秀吉公は同(天正十五年)三月一日に大阪の城を出発し、
尾張から西の弓矢に携わる者たちは一人残らず追随した。
同二十九日、豊前の地に到着すると、長野三郎左衛門尉の家城、馬の嶽へと入る。
総勢十六万騎が近郷に陣取れば、野といい山といい、兵馬の蹄の跡が残らないところはなかった。

同国の岩石の城に熊見越中守という者が籠もっており、殿下の猛勢をものともせずに、
死を一途に思い定めて抵抗していた。
秀吉公は「軍神の血祭りに上げてやれ」と、数万騎をけしかけてあっという間に攻め取ってしまった。
城中の兵たちも死に物狂いに切りまわり、比類なく戦って快死を遂げた。
こうなると、秋月三郎も降伏してきた。
豊後の府内の城に、島津が兵を入れ置いていたが、同四月十五日の夜、ひどい大雨が降ると、
これにまぎれて退却していった。

龍造寺政家は毛利輝元の推挙によって秀吉公の幕下に属し、これに伴って筑後・肥後もことごとく帰服した。
立花左近統虎(宗茂)は、薩摩衆の星野中務太輔・同民部太輔などが籠もる高鳥井の城を切り崩し、
その両人を討ち果たしたので、秀吉公は今回対面して、大いに感称した。
立花左近はの父の高橋入道浄雲(紹運)は、先年島津勢が大軍で攻めかかって来たときに、
宝満の嶽に立て籠もって戦った人だ。
浄雲は名のある将で、身命を捨てて防ぎ戦い、敵を数多く討ち取ったが、
敵は死人を踏みつけ、乗り越えて、ついに宝満を制圧してしまった。

それから島津勢は、左近の養父の戸次道雪がいた岩屋の城へと攻め込んだ。
道雪は九州に肩を並べる者がないほどの勇将で、大軍の敵にもひるまずに戦い抜いた。
追手・搦手の堀は、たちまち死骸で埋め尽くされて平地となり、薩摩勢は死人を踏み越えて切り入ってくる。
岩屋の城も攻め落とされて利舞うと、道雪は一方面を切り破り、どうにか敵を切り抜けて立花の城へと入った。

この恨みをその身に刻みつけ、今回は星野を討って父と養父の遺恨を晴らし、
我が身の勇を顕し、殿下から褒められたのである。勇ましいことだ。

肥後の国中の敵城をすべて制圧すると、関白秀吉公は肥後と薩摩の境にある仙代川(川内川)に着陣した。
今回、秀吉公は六条の門跡(下間頼廉?)を連れていたが、
これは、その門徒たちが九州で繁栄しているので、もし兵糧が乏しくなれば、
門跡が宗門の者たちに声をかけて兵糧を調達しようとの策があったからだ。
しかし九州のうちの七ヶ国は次々と靡き従って、我も我もと兵糧を献上したので、
秀吉公が立ち寄るところは皆、宝の山が漏れ出したかのような有様だった。


以上、テキトー訳。

秀吉が動き始めるとスピードが違う気がするのは気のせいだろうか。
まあ吉川家・毛利家中心の軍記なので、
自分たちがかかわっていないところの戦況は詳しく書きようがないから
淡々とした描写になっているのかもしれないけど。

さてさて、出てきたね、立花統虎。後に宗茂に改名するまで何度名を変えたんだか。
鎮西無双の異名の通り、戦功はそりゃすさまじかったらしい。
この人は小早川秀包(元就九男、隆景養子)と義兄弟になったというところに注目したいんだが、
どうやら秀包との義兄弟契約というよりは
隆景との義父子契約と見たほうがいいのかもしれない、なんて思ったり。
秀包ともずっと、朝鮮出兵や関ヶ原の最中まで軍事行動をともにしてるけど、
小早川家文書で隆景・秀包・宗茂ひとまとめに宛てられた書状を見ると、どうもね。
この義兄弟だか義父子契約も政治的判断の臭いがプンプンするぜ。
ちょっとは夢を見させてくれよ。

ともあれ、次回の陰徳記は年明けの三日か四日になりそう。
帰省するので本を持って帰るのはツライのだよ。重いし。
その分、諸家文書や他の軍記(ネットで見られるやつ)をチョコチョコ読んでいけたらいいなと思うが、
どうなるかなー(遠い目)。
2011-12-28

ストレスゲージが高まる合戦

前回のあらすじ:
耳川を引き退いた島津家久を追って高城までたどり着いた京・中国勢は、
城と後詰の二方向に注意を向けざるを得なくなった。
後詰に備えた宮部隊も、(元長様のサポートで)よく戦うも、島津に押されぎみなう。


島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと(下)

そのうち、諸将が一箇所に集まって、「薩摩勢は宮部・南条の陣へと押し寄せている」
「あの陣が切り崩されると、味方が重大な危機に直面するぞ」
「両陣へ加勢を送って、協力して陣を破られないようにすれば、やがて敵も退散するだろう」
「敵が引いたら、その後を追いかけて討ち取ってやろうか」などと、さまざまに議論しあった。

かねてから、もし薩摩勢が宮部・南条の陣を破ったとしても、
城を攻める者たちは一人も持ち場を離れてはいけないと、固く軍法が制定されていたので、
宇喜多勢・吉川勢は動くことができず、ただ城に向かって、鬨の声や矢金の音を余所事のように聞いていた。
元長様は、「敵は夜が明ければ退却するだろう。味方の兵はこれほど多いのだ。
敵の左右に回らせて横合いからかかれば、薩摩勢がいかに勇猛であっても、ひとたまりもないだろうに。
それに、会議に時間をかけていると、敵に手すら付けられなくなる。
ここで敵を追い払えば、薩摩征伐にはそう時間はかからないはずだ。
ああ、大将秀長の許しを得て、人々が強敵と恐れる薩摩勢と一合戦して、強弱を試してみたいものだ」
と歯噛みしていた。

諸将の会議もなかなか結論が出ず、時ばかりが経っていくと、
浦(乃美)兵部丞宗勝がたまりかねて矢倉の下へ行き、「隆景に物申す」と言いだした。
隆景が「誰か」と尋ねると、「宗勝です」と答える。
「何の用だ」と問われ、宗勝は
「ほかでもありません。夜合戦は夜のうちだけやるものです。夜が明ければ薩摩勢は退却するでしょう。
兵を出して討ち果たしてください」と言った。
隆景が「諸将が皆ここに集まって軍議をしている。出すぎた真似だぞ、宗勝」としたたかに罵ると、
宗勝は「承りました」と退出していった。

しかし皆、薩摩勢を目に見えない鬼のように恐れていたので、
「引くなら引かせてやろう。陣さえ破られなければこちらの勝ちだ」と、
諸将のうち七、八割がこの策をとり、評定は決した。
よって加勢を出すことはしなかった。

宗勝はこの評定に納得できず、またさっきのところに行って「隆景」と声をかける。
「誰だ」と声が返ってきた。
「宗勝でございます。もう夜も明けますので、敵はもうすぐ引いていくでしょう。
すんなりと引かせるところではありませんぞ。
横合いに左右から突きかかれば、難なく切り崩せます!」と言うと、
隆景は「またも差し出がましい物言いをするか!」と怒りをあらわにする。
宗勝は「かしこまりました」と言って帰るしかなかった。

こうしているうちに夜も白々と明け、東の山に朝日が昇ると、
薩摩勢は一気にさっと一町ほど引いて、一隊ずつまん丸になって、代わる代わる次第に引いていった。
尾藤神右衛門は宮部の隣の陣にいて、杵の幟を押したて、
屈強な兵を三千騎ほど一面に並べて、敵の跡を追おうとしたが、
大納言秀長卿から「一人も敵の跡を追ってはならん」
と固く命令が下されたので仕方なく怒りを噛み殺していた。

騎馬の者六、七十ほどがさっと駆けてみると、薩摩勢は丸くなって皆腰を据え、
鉄砲をバラバラと撃ちかけながら引いていく。
秀長卿から「絶対に追いかけてはならん」と通達が来たので、
尾藤は「腰抜け大将に従ったせいで目の前の敵を討ち漏らしたわい!」と逆上して進軍をやめた。

後に秀吉公が「敵をおめおめと帰したとは口惜しいことだ。この春は臆病払いをするぞ」と言ったところ、
尾藤は続きの座敷でこれを耳にして
「臆病払いをなさりたいのでしたら、まず御舎弟の大納言殿のお払いをさせてから、
ほかの皆のお払いをしてほしいものだ。
あれほど薩摩勢を追いかけて討とうと申し上げたのに」と呟いた。
秀吉公はこれを恨みに思って、最終的には尾藤を追放したということだ。
南条の手勢では、近藤七郎兵衛尉が一番に薩摩勢の退却する跡を追い、手負いの者の首を討った。
これをはじめとして少々首を取った。

そして薩摩勢は四、五町ほど引くと、何を思ったか引き返してくる。
黒田の陣へかかってくるように見えたので、
元長様は都野三左衛門に鉄砲隊六十艇を指し添え、黒田への加勢とした。
黒田父子も今朝の薩摩勢の鬼神のような戦いぶりを目にしていたので、
もしこの陣が破られてしまえば天下の笑いものにされるだろうと考えて、
これは討ち死にするしかないと思い定めていた。

しかし敵は一町ほど先の小松山のあたりまで寄せてきて、
しばらく松の陰で休息しながら扇をひらひらと仰がせて黒田の陣を見渡していた。
そのうち、何の見切りを付けたのか、来た道を引き返していった。
後で敵の引いていった道を見ると、大怪我して動けない者の首を打ち、道のそばに埋めて帰ったようだ。

さて討ち死にの薩摩兵は五百ほどいたのだが、宮部・南条の陣の前に行って見てみると、
二の腕に刺青で「何の何某、享年何十歳、何月幾日討死」と書いて死んだ者が多かった。
そういうところだからなのか、またはそういう大将だからなのか、
薩隅両国の兵は、死などということは日常の飲食よりなお容易いと思っているのだろうかと、
人は皆舌を巻いた。


以上、テキトー訳。

いいなぁ、宗勝。美貌の叔父様に罵られるなんてうらやましい。
すっかり脳内では隆景=「パ○ワ」のサー○ス様で再生されました!
声はもちろん塩○○人さんです!!! 懐かしいなぁ、パ○ワくん……。

隆景マジでドSだな。半端なくM心を刺激される。私はSでもMでもない、Lのはずなのんだけどな。
もう、宗勝が二回目に声をかけたときなんて、誰かなんてわかってるくせに、
それなのに隆景ったらまた「誰ぞ」とか。
それだけでもなんというか、背筋にゾクゾクとクるよね。
なんかおかしな意味で隆景のこと好きになりそうで困る^^

しっかし、戦慣れした古強者たちはフラストレーション溜まりまくりだったろうな。
ここで押せば勝てる!というところで追撃を許さない大将なんて屁だ!
それを口に出してしまった尾藤さんは処断されるわけだが、
後の小田原に参陣して秀吉本人に悪態ついた宇喜多家重臣の花房さんは加増ってどういうことなの。
気分? 秀吉の気分なの??? やってらんねえ。

薩摩勢もまたいい味出してるよね。やられた仲間の弔いのために逃げてる途中で引き返すとかさ。
そもそも討死と決めたら腕に刺青までしちゃうとかね。
DQNな行動のはずなんだけど、なんかちょっとしんみりするな。

次は秀吉が登場っぽい。
2011-12-27

耳川渡河、高城包囲戦始まる

前回のあらすじ:
耳川を挟んで対峙した大納言秀長軍と島津中務家久軍。
秀長の手に属す毛利・小早川・吉川だったが、
吉川元長は薩摩勢の挑発に乗り、進軍命令もないのに川を越えようとして止められる。
軍議によって、翌日総勢で川を渡ると決まった。


島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと(中)

そうしていると、島津中務は何を思ったのか、その夜の夜半に耳川の城に火をかけて退却した。
寄せ手はこれを見て、「なんと、敵が引いていくぞ。あれを討ち漏らすな」と言うや、
皆我先にと取る物とりあえず川に浸かって追いかけ始める。七里の道をわずか一刻ほどで進んだ。

この山の裳野の原崎に城郭がある。
土地の者に名を聞けば、「城の名は高城といい、城主は三原弾正中と申します」と答えた。
「城は高城といって名は人のようだったが、名にも似つかず浅く低い城だと侮らせておいて、
主は名高いつわものなのだろう。
十万に及ぶ勢に対して、これほど小さく低い城にわずかな手勢で持ちこたえようとしている。
薩摩の兵は、島津修理大夫(義久)・島津兵庫頭(義弘)が名将だからか、
随所の者も皆一騎当千とはいっても、こんなところで敵を迎え撃とうというのは、群を抜いた勇士だ」と、
寄せ手は味方が大勢だといっても相手を侮ったりはせず、皆感称した。

寄せ手はその城をひしひしと取り囲み、
まず城の尾頭には毛利右馬頭輝元朝臣、安芸・備後・備中・周防・長門の勢たちが次々と陣を打った。
それから続いて小早川左衛門佐隆景朝臣、自身の旗本の勢に伊予一国、
並びに備後・備中勢を加えて、これも隙間なく陣を構える。
そこから西の端には吉川治部少輔元長・同蔵人経言が、
これも手勢に石見・出雲・伯耆半国・隠岐勢を合わせて陣取る。
東の山には総大将の大納言秀長卿本陣を据え、
南の方は宇喜多八郎秀家が、備前・美作・備中半国・播磨二郡の勢一万五千騎あまりで陣を打つ。
毛利・宇喜多の両家の仲は良好ではないので、両陣の間に藤堂与右衛門尉の陣を据える。

薩摩からの後詰に備えて、黒田勘解由・その子吉兵衛尉・蜂須賀彦右衛門尉・尾藤神右衛門・
宮部善乗坊・垣屋播磨守・荒木平太夫・亀井武蔵守・南条伯耆守・同左衛門進、
総勢一万余騎が薩摩口に向かって陣を構え、
「早く敵が来ないものか。分捕り高名してやろう」と控えていた。

城の尾頭に仕寄をつけ、竹束勢が楼を組んで隙間なく攻めたが、
宇喜多と吉川の仕寄がほかにもまして間近に寄せ、南の方の城の塀の手へと六、七間ほどに詰め寄った。
吉川勢は勢籠から火矢を射掛けて、城の三のくるわの砦を一つ焼き落とした。

こうしたとき、敵は寄せ手の陣の近くに大札を立てた。
人を出してこれを見てみると、
「来る十七日、この表へ罷り出で、一戦仕る所存である。そうお心得あるべし。島津中務」と書いてあった。
これを見て、黒田・蜂須賀、そのほか後詰の備えに当たっていた兵たちは、
皆陣の向かいに堀を作り、芝土手を高く上げ、柵を結い塀をつけ、矢間をビシッと切って、
向城のように構えて待ち受けた。

そして同十七日寅の刻(午前四時ごろ)、島津中務は二万余騎にて宮部善乗坊の陣、
並びに一番先に陣取った南条伯耆守元続の陣へと、太鼓を打って一斉に押し寄せた。
陣中は少しも騒がず、鳴りをひそめ、南条の三千余騎を六組に分けて持口を固めさせた。
かねてから「たとえ左右の味方の持口が押し破られたとしても、
自分の持口を外れて味方を助けようとしてはならん。
弱いところへ力を添えるのは、小鴨左衛門進元清ただ一人だ」と法令を出してあった。
山田越中守・同畔介・赤木兵大夫・一条市助・南条備前守たちは、
「一歩も退かずに塀裏を枕として討ち死にしよう」と一途に思い定めて控えていた。
南条元続は陣中の高いところに矢倉を設け、自分はその上に上り、
塩谷新允をはじめとして屈強な鉄砲の達人を選りすぐって配置した。

島津中務は床几に腰をかけて鬨の声をドッと上げ、太鼓を打ち鳴らして進軍する。
皆手に手に鹿の角を先につけた青竹を持っている。
先陣の大将と思しき者が、塀から五、六間ほど離れたところで
床几に腰をかけて「かかれ」と号令すると同時に、バラバラとその鹿の角を塀格子に引っ掛けて、
「エイヤ、エイヤ」と引き倒そうとするが、陣中からそれを鉄砲で狙い済まして撃ち倒す。
南条は投げ松明を多数用意してあり、これをバラバラと投げては、
その光でよく敵を見分け、塩谷たちに撃たせていた。
先駆けの大将と思しき者を床几から撃ち落すと、すぐその手負いを引き退け、
またその床几に腰を打ちかけて、撃てども突けども、少しもひるまない。

塀へぴったりと取り付いてきた者たちは、塀越しに突き落とす。
この塀は昨日と今日で塗ったものなので、まだ乾いていない。
そのやわらかい塀を隔てて、陣中からそこかしこと槍を突き出した。
塀が引き崩されても、堀立塀なので、その堀の上へと崩れかかり、
そのうえすっかり倒れきることもなくて横に倒れ掛かるので、
このせいで薩摩兵たちは容易に越えてくることはできなかった。

たまりかねて、塀の破れ目から陣中に入ってきた薩摩勢が二、三人いた。
心は猛々しく勇んでも、数千人が槍や長刀を抜き揃えて待ち受けているところへと入ってきたのだ。
敵とたちを打ち違えるまでもなく、そのまま無残に討たれてしまった。

諸陣から、南条・宮部の陣へ二百か三百ずつ人数を出していたのだが、
かえって陣中が狭くなって自由に動けない。
宮部の手勢に友田左近右衛門という大つわものがいて、その者が下知をなしながら駆け回っていたので、
敵はまったく歯が立たない様子だった。
元長様は智謀に長けた良将で、飯を「ツクネカマキ」という物に入れ、宮部の陣に送っていた。
善乗坊がこれを兵たちの口に押し込み押し込みしたからこそ、皆力を溢れさせて防戦したのだろう。

戦が終わってから、善乗坊は元長へ謹んで謝辞を述べ、
また殿下秀吉公へも、元長の才知が諸将より抜きん出て素晴らしいと伝えると、
殿下も非常に感じ入ったということだ。


以上、テキトー訳。あと一回の予定。

島津側としては、挑発に乗った諸隊がバラバラに攻めてくれば思う壺だったんだろうなー。
十万近い大軍勢に一気に向かってこられたらたまらないもんね。
十万の勢の分断が、この時点での島津の狙いなのかな。
耳川から引いても、いかにも攻めやすそうな城と後詰の両面に注意を向けようとしてるしね。
まあ単純に二分割しても、どちらも大軍には変わりないんだけどね。

しかしこれだけ人がいると、話があちこち飛んで読みづらいな(愚痴)。
元長が飯の差し入れをして誉めそやされるくだりなんて、どうしてこの流れで出てきたのか。
吉川の軍記だから「ウチの殿様すごいだろ!」みたいなのがところどころに散りばめられるのは
仕方ないというかむしろ可愛くて大好きなんだけど。
なんかここまでだと一戦が終わったかのような錯覚に陥る。
でもまだまだ続くんだ。
2011-12-26

耳川を目前にした中国・京勢

今回は島津征伐、耳川の一戦……の前に、なんか不安要素がある遠征勢。

島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと(上)

大和大納言秀長卿が九万余騎を率いて耳川に着陣すると、
たとえいかなる鬼神であってもこの勢を相手に一戦しようとは思わないだろうに、
島津中務(家久)は名うての勇将なので、少しも臆さずに耳川の城に籠もっていた。
同(天正十五年三月)十二日、島津中務は総勢一万騎ほどで渡し口へ打ち出し、
堅固に備えを固めつつ、「ここを渡ってこい」と待ちかけていた。
しかし寄せ手は対象の下知を守ってまったく渡ってこないので、中務もやがて城中へと入っていった。

こうしたとき、吉川治部少輔元長様は、千代延与介・恋塚三郎兵衛尉を呼んで、
「夜に入ったらこの川を試しに渡ってみよ。
夜が明けたら一番に渡り、中務の城へ乗り込んでやろう」と言った。
二人は「承りました」と答えて、夜中に川の試し渡りをして馳せ帰り、川の浅深を事細かに報告する。
これはいとも簡単に渡れるとわかって、総勢がこの川を渡る先陣を切ってやりたいと、待っていた。

同十三日、また中務の一万余騎が渡し口へと押し寄せて、
「これっぽっちの小川も渡れんのか」と挑発して敵を招く。
かねてから心にかけていたことだけに、吉川元長・経言は、
その手勢三千余騎を打ち渡そうと、陣中から出て行く。
大納言秀長卿はこれを見て、すぐに小早川左衛門佐隆景に向かって、
「吉川兄弟はこれから川を渡るつもりらしい。あれを止めてきてくれ」と言った。
隆景様はすぐに使者を送って、「元長、もう少し待ちなさい。大将からの仰せだぞ」と制した。

元長・経言はすでに渡し口に着いていたが、隆景からの使者がきたのでしばらく馬をいなしていると、
隆景がたった一騎で駆け寄ってきた。
「大将秀長公の下知なのだから、これからこの川を渡ってはいけない。
敵がどんなに挑発してきても、深さもわからない早川を渡ろうというのはまったく愚かなことだ。
どこが浅瀬だと思って渡ろうというのか」と強く引き止める。
元長様はにっこりと笑って、「この川は、まさか宇治や勢田より流れがきついわけではないでしょう。
昔、足利・佐々木も渡ったのだから渡るのです。
この川に詳しくはありませんが、浅瀬は一目見てもわかるものです。
そのうえ、昨夜のうちに手の者に申し付けて試しに渡らせてみましたので、
川の浅さ・深さはよく存じております」と、川に入ろうとする。

隆景様は元長の鎧の袖をつかんだ。
「元長には物の怪でも憑いているのか。これほどの大河で、
しかも水底には大石・小石がごろごろしている。馬の足場が悪い。
試し渡りをさせたといっても、それだけでは十分ではあるまい。
たとえ一人や二人が裸になって渡ったとはいっても、大勢が川に入って渡るのはわけが違う。
味方の中には水練の得意でない者もたくさんいるだろうから、馬や筏がひっくり返ってしまえば、
いたずらに水の中で溺れ死ぬことになる。
それにだ。御大将の御下知であるぞ」

すると元長は、「昨夜試し渡りをさせたところ、深いところでも乳から首の辺りを越えません。
川の真ん中のあたりの七、八間ほどは、人が長く立っていられないようなので、
これは思い通りにわたれると思って打ち出てきました。
浅瀬は、敵もここが浅瀬だと知っているはずですから、昨日も出てきて備えを固めていたのです。
敵の振る舞いで浅瀬がわかります。
しかし、もし『渡し口だぞ』とだましてあらぬところを敵に渡らせ、
水に溺れたところを撃ってやろうとしているのではないかと思って、昨夜試し渡りをさせたのです。

中務は、大友義統のような弱い敵に勝って、ほかの者も豊後勢と同じように考え、
己が武勇を誇って敵をあざ笑う憎いやつです。
一番に押し渡って、敵を城中へと押し込んでやります。
そうすれば諸軍勢も跡について押し寄せるでしょうから、城の周りへと陣を寄せ、
すぐに柵を結いめぐらして、一人残らず討ち果たしてやれば、
薩隅の両国は刃を血で濡らさなくとも靡き従うと思います」と反論した。

そこへ、また秀長卿から軍使が遣わされてきて、
「今日川を渡ってはなりません。まず、皆さん引き揚げて、本陣へ集まってくだされ。
申し合わせることがあります」と言うので、隆景・元長は連れ立って本陣へと向かった。

大納言秀長卿が言うには、
「今日川を渡るのは延期して、明日未明に総勢を一度にドッと渡し、敵城を攻め取ろうではないか。
絶対に抜け駆けをしてはならん」とのこと。諸将はその言いつけを守った。
やがてまた秀長卿から、
「諸軍勢は柵の木一本、縄を少しずつ用意して川を越えてくれ。
敵の籠もった城の周りを一文字に切り結んでやろう」とあれば、
皆「承りました」と、その用意をして沿う軍勢の足並みをそろえ、夜が明けるのを今や遅しと待っていた。


以上、テキトー訳。つづく。

不安要素はおまえか、元長!!!

ちょ、隆景カッコイイ……!
抜け駆けしようとしてる部隊のもとへ、たった一騎でギャロップ……これは男前だわ。
でもこの人、いつも一人ぼっちな印象なんだよな。多分思い込みだけど。

対して元長は、試合勘はいいけれども詰めの浅い印象が残る。ちゃんと軍議せいと。
連携っていうか各将のコミュニケーションがうまいこといってないんだよな。
どこまでも自分ちルールで大規模な合同軍事行動に慣れてない。
どこまでが部隊の大将に任されていて、どこからが総大将の決定に従うのかが明確にされていない感じ。
もしかしてそれは明確でも、従わないやつが多いのか?
とりあえず軍事評定が統制を取る唯一の手段なのかな? はっきり言ってめんどい。
それぞれの家ごとなら、阿吽の呼吸でできることもあるんだろうけど。
ギクシャクしてんな、って印象。これ、もしかしてずっと続くのかな?

なんか先行きのよろしくない感じだけど、きっと島津相手だから盛り上がれるはず!
期待してるよ、家久さん!
2011-12-25

秀長の起動、十万の進軍

短い章が二連続してたのでまとめて掲載。
九州征伐は、高橋氏制圧まで進んでるとこ。


龍造寺味方になること

輝元様は、元春が末期に至って言い遺した言葉を隆景に伝えた。
隆景は「これはいい案だ。龍造寺が味方に与すれば、九州の平定も迅速に行えるだろう」と、
すぐに輝元様・隆景・元長から龍造寺へと使者を送った。
「味方に降られれば、殿下秀吉公へよきように取り成します。本国安堵の朱印を与えられることでしょう」
と言い送ると、龍造寺はどんなものにもすがりたいと思っていたところだったので、
渡りに船と非常に喜んで、やがて降伏してきた(天正十四年九月中、下旬ごろ)。
これで肥前は言うに及ばず、肥後一国もばらばらと靡き従った。

その後、黒田勘解由が「最近では京都から東には馬印・指物・幟があります。
中国勢も京勢と同じようになさいませ。
来春は殿下がご出馬されるでしょうから、それまでにどうにか揃えてください」と言いだした。
確かにそれがもっともだと、輝元様の馬印は一段の鳥毛で、上に白い「たくだ」をつけた。
元長様は竹で三尺四方の輪を作り、それに角取紙(すみとりがみ)をつけ、
上を掛にして、四半の絹に「吉」の文字を二つ書いた。
隆景様は二段の鳥毛の上に黒い「たくだ」をつけた。
黒田勘解由はもとから輪抜(貫、わぬけ)に角取紙をつけたものだった。
いずれも幟は皆その家の紋にした。指物は兵たちが皆思い思いにこしらえた。

こうしてその年も暮れようとしていた。
輝元様は小倉にいて、黒田勘解由は長野の家城の馬の嶽に入る。
元長・隆景はその嶽の山下にある郷に陣を張って年を越したが、
明けて天正十五年(丁亥)正月九日、筑城原に陣を移した。
これは羽柴美濃守殿の下向を待ち受けるためだったそうだ。


大和大納言、豊前着陣のこと

羽柴美濃守秀長は、昇殿して大納言に昇進し、大和を領したので、大和の大納言と呼ばれる。

去年から肥後口は秀吉公自らが攻め、日向口は秀長が攻め下る予定になっていたので、
天正十五年二月五日(十日)、秀長卿は大阪(大和)を出発した。
それに伴って、宇喜多八郎秀家・宮部善乗坊・木下備中守・尾藤神右衛門・南条伯耆守をはじめとして、
大和・阿波・讃岐・美作・但馬・因幡・伯耆半国・備中半国の勢六万騎あまりが追随した。

やがて長門の国府に到着したと知らせが来ると、輝元様からは福原式部少輔、
元長様からは宮庄太郎左衛門、隆景様からは粟屋四郎兵衛尉がお迎えのために差し向けられ、
秀長卿の下着を祝った。同二十五日、豊前の国築城原に着き、
翌日には同国の内の秋吉というところへ陣を移した。
同二十七日、豊後の国の湯の嶽へ到着する。ここで輝元様が隆景・元長を伴って亜相の陣へと赴くと、
秀長卿がすぐに対面して、「豊前一国を短期間で平定した戦功は比類なくすばらしい」と感称した。

こうして秀長卿は中国勢三万騎を加え、合計九万騎あまりで、同国の府内へと陣を移した。
翌日には竹田に着き、そこから大梓小梓を越えて日向の国へと入り、しばし人馬の息を休める。
同三月七日に同国の土持へ着陣し、五日逗留して土持の城を開城させて軍士を差し籠めた。
同十二日には耳川へ打ち出した。畿内・中国など十五ヶ国の勢九万騎あまりが、
耳川の近辺の山や峰や里に立錐の余地もなく陣取る有様は、それは夥しく見えた。


以上、テキトー訳。

ダダンダンダダン、ダダンダンダダン♪
ターミネーターのテーマが頭の中で流れていたよ。
羽柴軍十万怖い。三千人くらいならリアルに想像できるんだが、万単位になるともう何がなにやら。
秀長さん登場だね。この人はなぜかちょっと好きだな。
鳥取の丸山城でのことといい、逸話サイトの高虎シリーズの影響もあるな。
この人が亡くなってから秀吉がラスボスモードになった気がしてならない。
秀吉の暗黒面をうまく緩和してたのが秀長さんじゃないんかと。

えっと、とりあえず龍造寺降伏については、天正14年9月って元春が死ぬ(11月15日)前じゃん!
それどころか九州に渡ってほぼすぐのころじゃないの??
よしツッコミおしまい!

馬印とか幟、指物なんかは、なんか黒官に言われて初めて用意したみたいになってるなぁ。
まあ旗は前からあったのが確認できるけど。
確かになぁ、毛利軍だけなら馬印なんて要らないか。
あれって総大将や軍監が各部隊の大将の動きを目で追えるようにするためのものだったよね。
諸大名が合同で大規模な軍事行動起こすときじゃないとそんなモン必要ないわな。
あとは変な立て物がついた兜とか、大名同士が競い合った結果なんじゃないかと思うわ。
面白くて好きだけど、変わり兜w 黒田長政の大水牛のが特に好き。
一の谷型? ソーラーパネルでしょ、あれ。
ああ、早くこの目で広家の甲冑見たいよ広家!

ところで秀長さんが出てきたので、前に読んだ章で広家と輝元が笛と鼓を披露した話があったのを思い出し、
ようつべで笛動画拾って悦に入っておりました。
多分、広家の得意だった笛ってのは能管だと思うんだけど、超カッコイイな、あれ!
空気を切り裂くような鋭い音色がタマラン。あの音出すにはすごく腹筋使いそう。
特に笛と鼓の競演がよかったなぁ。広家と輝元はこんな感じでセッションしてたのかな、
とか考えながら聞いてるんだけど我ながらきもいわ^^

さて次はいよいよ島津軍も登場する予定。
2011-12-25

輝元の元服の様子

なんか小早川家文書の桂元澄から弟の元忠宛の書状が面白そうだったので。
ちょっとわからない単語とか多いんだけど、まあ気にすんな!


●桂元澄書状案(小早川家文書)
 「元忠 御陣所      能登守 元澄」(上書き)

 「御曹司様の御元服、一昨日十六日、御祝言が無事終わった。
  元服式は、以前聞いていたよりかなり、やり方がが難しかった。

一、お役目を務める者がたくさん揃えられた。この元澄には理髪のお役目が仰せ付けられた。
  御上使(幕府からの)の名代というわけだが、御髪(おぐし)を結い、御髪を詰め、
  その後、烏帽子を初めてお召しになる。
  それから、加冠の役目といって、上使が御鬢に水を御付け初めなさった。

一、御烏帽子の役目は坂広昌に仰せ付けられた。これは柳箱というものに御烏帽子を入れておいて、
  それを持ってきて御曹司様の右の方に置く役目だ。

一、御鬢たらいの役は、国司助六(元相)に仰せ付けられた。
  これも柳箱に御鬢の水を入れておき、持ってきて左に置く。

一、打乱の箱といって、手箱の懸子に御櫛を二つ、御笄(こうがい)を一つ、
  御髪を詰める包丁、これは通常の包丁より少し幅の広いものだが、それを御櫛箱に入れる。
  その包丁の名は「たこうがたな(笋刀)」というんだって。
  御もつとい(元結)は、御髪のもとを結うのは紫で、
  四つ組みに長さ三尺五、六寸ほどの御元結だったよ。
  御髪を二つに分けてまた紫の御元結で両方を結い、
  それから御髪の裏を小高紙という新しい紙で包み、
  普段の御元結で結ってから、御髪を中で詰めた。

  この御櫛箱を包むのも、本当は白綾にするように沙汰があったけど、白綾などないから、
  ねり(練り絹?)で代用した。
  広面三巾を継ぎ合わせ、裏はいい絹をふしかねそめ(五倍子染)に染めて、
  袷のように仕立ててあった。これで御櫛箱を包んだ。
  この包みの衣の名は「くしたなこい(櫛手拭)」というらしい。
  これは粟屋孫二郎が持ってきて御前に置いた。

一、御曹司様の席は、畳を二畳のけて、のこい(拭)板という敷板を敷いてあった。
  そのうえで讃岐円座という竹の皮で結ってある円座が二つ、のこい板の上に敷いてあった。
  一つには御曹司様が座って、もう一つには理髪の役者の私が座って、御髪を詰めたんだ。

  ものすごくむつかしかったものだから、普段のように考えてはいけないと思って、
  十五日に上使の宿へ教えてもらいに行った。
  お目にかかりたいと申し上げたところ、もちろんかまわないといって呼んでくださって、
  じかに教えてもらった。そりゃもう丁寧にね。
  このときの様子を全部書くとものすごく長くなるから、まあとにかく、
  上使の名代とは言いながら、御髪を詰めて御烏帽子を初めてつける役目、このように御祝言を相調えること、
  七十になるまで生きてきて、元澄も思いがけない幸せだ。
  あまりにめでたいので、まるぬきの脇差を一つ進上したよ。

  この役目は、上使も烏帽子須和布(?)をおつけになって、
  上(元就?)も烏帽子裏打(?)をおつけになるので、役者もぜひ烏帽子須和布でなくてはと
  御上使が強く仰るので、急いで烏帽子須和布をつけたんだけど、
  まったく似合わなくてさ。想像してみてくれよ。

  御元服の式の後は三献があった。
  初献の御酌はぜひ御一門から、と細川殿(細川隆是?、上使)が仰ったけど、
  知ってのとおりこちらには誰もいないからさ。
  広昌は病気中だから、御酌なんかできないしさ。この老いぼれだってそうだろ。
  で、平二郎(桂就宣、元忠の子)が仰せつかったんだけど、
  これも烏帽子須和布をつけなくちゃって、上も上使も仰るんだよ。
  もう急なことだから、探す時間もないよな。

  上使の下向にあわせて元次も下向してくるって内々に聞いてたものだから、
  もしかしたら必要になるかもしれないと思って、去年山口から烏帽子須和布を取り寄せてたんだ。
  元次は私の縁者だからこれ幸いと用立てて、無事御役を調えたよ。安心してくれ。
  今日は御上使のおもてなしだから、御祝言も終わって、公私共にめでたいことだ。

  あまり詳しく知らないが、そちらの表はいよいよせわしなくなってきたようだね。
  それではまた。恐々謹言

    (永禄八年)二月十八日       元澄
    元忠 参 御陣所」


以上、テキトー訳。

「六ヶ敷候」って何だ?って思ったが、ただの当て字で、「むつかしいYO」ってことね。
大事なお役目務められて名誉だぜ、めでたいぜ、
でもむつかしくて大変だったんだぜってなってる元澄じいちゃんカワイイwww
なんだろう、強い将の下には弱兵はいないっていうのと同じで、
可愛い将の下には可愛い家臣が集まるようにできてるんだろうか。元就からして可愛いし。

永禄8年(1565年)といったら、尼子攻めで月山冨田城を取り巻いて攻めだしたころかな。
吉田には老臣が残ってるだけで、ほとんど出雲に遠征してるんじゃないかと思うんだが。
あて先も「御陣所」だし。
元就は吉田に戻ってたのかな? たぶん「上」って出てくるのは元就のことだと思うんだけど。

なんかな、「元結」とか「烏帽子」とかはわかるんだけど、
「須和布」はわかんないわ。グーグル先生に聞いてみてもマトモな記事が引っかからん。
なんとなく、想像だけど、直垂みたいなちょっと格式張った装束のことかな?
あと、髪を結っていく様子が全然わからん。最初に根っこを結うまではいい。
それから二つに分ける? それをまた結う? 紙で裏を包む? 髪を中で詰める?
いったいどうなっているんですか???
ぜひとも映像で見たいもんだ。

で、なぜこれが小早川家文書なんだ。元澄も元忠もバリバリ毛利家重臣ですがな。
しかも「書状案」? 兄から弟への手紙に「案」とかあるの? 
まあ戦場にいる重臣への報告みたいな側面もあるんだろうが、多分に私信っぽい雰囲気だし。
 ①隆景が実は輝元をすごく可愛く思ってて、元服記念にもらってきた
 ②隆景が桂元澄を慕ってて、元澄が亡くなったとき(1569年)に形見としてもらった
 ③小早川家の家政を取り仕切る人が式次第の参考にもらってきたか写した
①だったらすごく萌えるんだが、この選択肢の中ではきっと③が妥当だな。
だって秀秋との養子縁組の祝言の記録のすぐ近くに掲載されてるもんね。

でもいいんだ。
輝元が「御曹司様」って呼ばれて大事にされてたのが伝わってくる。
広家も関ヶ原の後、徳川への申し開きで「輝元はバカなんです」とか書いちゃってるけどそれは方便で、
実は輝元のこと、えらい大事にしてるし言うこともちゃんと聞くんだよね。
とにかくニヤニヤが止まらんわ、この家中。
2011-12-24

賀春大明神「めりーくりすます!」

ほいほい、九州征伐、賀春の嶽の高橋氏陥落ってとこで、今回はちょっと箸休め的な内容。

賀春大明神のこと

隆景・元長が本陣からはるかに賀春の嶽の方を見やると、
杉榊が生い茂っている間から、あけの玉垣がほのかに見えて、
白木綿の枝々に掛かっている様子は消え残った霜とも見紛うような、とても神々しい場所があった。
「あれは何という神だ」と尋ねさせると、兵たちは誰も知らない。
そのうち神主と思しき者が一人訪ねてきた。
その者が言うには、
「当社が祭っているのはさる霊神でございます。
その名を賀春の明神といわれます」とのこと。
両将が「この神様のことを詳しく聞かせてくれ」と言うと、神主は語り始めた。

「そうですなぁ、当社の霊験がことのほか優れていることは、世に隠れのないことです。
いにしえより伝わっていること、また現在この目で見てきたことを全て語ろうとすると、
あまりにできごとが多すぎますので、そのなかから一つだけお話しましょう。
それでほかをお察しください。

昔、弘仁のころ、最澄がこの賀春の神宮寺で法華経の勤行を行いました。
当社の神様はその尊い知識の法味にひかれ、錦の御戸代の内から出て、千早振る神の井垣をも越え、
その法席にお出ましになって御法を聴聞なさいました。
神幸が成った験としては、この山の高峰から紫の雲が起こり、
その中から妙なる光がその勤行の場へとたなびき渡って、
聴衆の人々は言うに及ばず、近里遠村の者たちまでもがこれを目にしました。

『これはただ事ではない。最澄和尚が経を講じなさるのを、神も納収なさったのだろうか。
妙なる法力で神の奇特な験にお目にかかれようとは、なんとありがたいことだろう』と、
皆感涙に咽び、五体を地に投じて恭敬礼拝をしたのです。
そのとき、豊前の国の田河の郡吏たちが瑞雲の様子を記録してその御僧に進上すると、
最澄はこれをかたく封印なさって、
義真に『この瑞雲の状は、私が没するまでは絶対に開いてはならんぞ』とおっしゃった。

その後、最澄が世を去り、その門弟たちが封緘を破って見てみると、その状には、
『今日十八日の未の刻(午後二時ごろ)、光り輝く紫雲が賀春の嶽から沸き起こり、
法筵の庭を覆った。村民たちは皆これを見て畏敬の念を抱いた』と書かれていました。
そのように言い伝えられています。

また最澄が船でこの国に下っていらして、この賀春の嶽の麓に宿を借りられたとき、
その夜の夢に梵僧が一人現れたそうです。
その僧は肌脱ぎになり、半身をあらわにしていたのですが、
左の肩は人間に似て、右の肩はまるで石のようでした。
最澄は、『あの人はいったいどういう人なんだろう』と世にも不思議に思われて、
『あなたはどこの人ですか』と尋ねました。
その梵僧は、『私はこの地に住まう賀春の明神である。
和尚、どうか慈悲を垂れて我が業道の身を救ってくれ。
そうすれば、私もまた求法を加助して昼夜あなたを守護しよう。これを験としてくれ』と仰って帰っていく。
そこで夢から覚めたそうです。

最澄は非常に不思議に思って、翌朝に法の局を押し開き、外に出て見てみると、
この山の右の方は荒い岩がゴツゴツと聳え立って草木もまったく生えておらず、
『夢に出てきたあの梵僧の姿に相違ない。これはなんと異なことだろう』と思いました。
そこで突然風荒波が起き、光明が赤々と海上を照らしました。
そのとき最澄は、『さては夢の中での神託は虚妄ではなかったか』と思われて、
すぐに法華院を建立なさり、自ら開基となられました。今の神宮院がこれです。

その後は法華妙典の功力により、神も三熱の苦しみを免れられたのでしょう。
この山の右の方に草木が年々生い茂るようになりました。
これを間近で見ている者は言うに及ばず、都鄙遠境まで知られ、
世人は皆帰依渇仰したと伝えられております」

これを聞いて、両将は実にありがたいことだと、宮司にも禄を与え、
その社へも、無事に西国征伐が済むようにと種々の捧げ物をした。


以上、テキトー訳。

そういえばクリスマスイブか。
今日になって神様の話が回ってくるあたり、なんか因縁めいたナントヤラを感じるけど。
きっと賀春大明神のせい……ではないと思う。
この神様、仏に帰依しちゃうくらいだしw
ていうか右と左って見る方向によって変わるよな、ってツッコミはしちゃいけないんだろうか。

しかしなんとも不思議な宗教空間だよな、日本。
基本的にアニミズムの基礎があって、仏教をはじめ、いろんな思想が入り混じってる感じ。
神様と仏様は対立する概念じゃないし、一神教の神様も八百万の神々の中に併呑してそうだ。
イスラム教だユダヤ教だキリスト教だのは、本来は同じ神様信仰してるくせにずっと戦争してるってのに。
イスラエル人とパキスタン人が、居酒屋で酒飲みながら
「日本でなら仲良く暮らせるのにね」って言ってたって話をどこかで読んだ。
その日本で一時期締め出されたキリスト教ってどうなのw
と思ったが、一神教てのは確かに御しづらいかもね、為政者にとっては。
日本では放っておいても、宗教的に政治機構や共同体に対立しそう宗派は一定数以上は増えないみたいだけど、
移民を受け入れるとなったらイロイロと問題が起きそうな予感。

日本で過激な宗教つったら、一向宗? 戦国期には領主と度々ガチンコバトル。
でもあれ、宗教的な問題じゃなくて、領主の統治に従わない勢力って側面の方が強い気がするんだよな。
あとは日蓮宗かな。説法には他宗への攻撃(口撃)が伴うらしいし。
まあ、同じ山頂に登っていくのにそれぞれ道が違う、ってくらいの宗派の分かれ方なのかね。

まあ何にしろ、九州征伐が順調なようでなによりです。




ここからは関係のない愚痴なんだけど、最近パソが馬鹿になりすぎて困る。
ありえない変換はするわ、辞書登録したものが部分的に消えてたりするわ。
頻用する漢字を覚えて変換候補の頭に持ってきてくれる機能もすっかりダメダメ。
とにかく入力しててイラつくことといったら。
マイク□ソフトの陰謀? そういえばアップデートの後くらいからおかしいぞ。
2011-12-23

賀春の嶽、ゲットだぜ!

引き続き九州征伐。
高橋の籠もる賀春の嶽の城に続く三の嶽が中国勢の勢力圏内になったとこまで読んだ。


賀春の嶽降参のこと

賀春の嶽の城は、一の嶽・二の嶽・三の嶽といって、峻険に聳え立つ峰が三つある。
三の嶽は麓から上る道が細く滑らかで、山頂は平らになっている。
二の嶽からは、この山をよく知っている者なら、岩の迫を伝い、
木の根につかまってどうにか通ることができるが、山道に不案内な者はまったくお手上げだった。

さて、麓から一町ほど行った山の中腹に城郭が構えられている。
城より上に広い谷があって、郷人たちは、ここに固屋をいくらともなく並べて籠もっていた。
峰からだと深い洞があって人が通れるところがない。
また鉄砲を撃ちかけようとすれば、城のはるか上の虚空を通り過ぎてしまい、
城の追手の城戸口は、古見門左馬允というつわものが堅守していた。

高橋秋種には男子がなかったので、弟の秋月の子を養子にして、自分の娘と結婚させていた。
秋種は死去し、今の九郎はまだ十二、三歳ほどだったが、父の武勇が世人を越えていたので、
兵士たちもまた一騎当千の者たちだ。
義経の家来の武蔵・亀井、義貞の手勢の栗生・篠塚にも劣らない兵ばかりで、
中国勢が雲霞のごとく押し寄せてもちっとも臆さず、
隙があれば突いて出て敵の不意を突いてやろうと勇む様子はあっても、まったく弱る気配を見せない。
さすがに切れ者の黒田も少々責めあぐねていたようだ。
よって寄せ手は城の追手へと山の岨伝いに仕寄を付け、
その後ろに付城を構えて、出雲の国の住人、湯佐渡守を入れ置いた。

そんな頃、毛利七郎兵衛尉元康に仕寄番が回ってきて、家之子郎党たち三百人ほどを差し向けた。
折りしもそのときは風が吹き荒れて外がもってのほかに寒く、
仕寄番の者たちも、こんな夜にはまさか敵も出てはくるまいと油断していた。
この仕寄番は交代で勤めるので、その日の暮れ方に吉川勢が元康衆と交代しようと出て行くと、
佐武善左衛門が「仕寄番の者はしばらく待ってくれ」と止める。
皆、「なぜそんなことを?」と言うと、「ちょっと思うところがあって」とさらに引き止めた。

それからしばらくして、城中から兵が一文字に突き出てきた。
元康衆は、この風の吹きすさぶ寒い夜には敵も手がかじかみ、五体も凍えて、
まさか打って出てくることはあるまいと油断していたところだったので、難なく突き立てられてしまった。
敵はこの仕寄を切り崩し、後ろに作ってあった萱の小屋にも火をかけ、
この明るい火を頼りに湯佐渡の付城へと切ってかかる。

湯はなかなかの古強者で、待ち受けて鉄砲を散々に撃ちかける。
敵があきらめてサッと引き、城中へ帰ろうとすると、少しだけ追いかけて、
手傷を負って後に残った敵を二、三人討ち取った。
この功によって、湯佐渡は秀吉公から御朱印を贈られた。

元康衆が仕寄を切り崩されると見るや、吉川勢は我も我もと駆けつけてくる。
城中の勢はこれを見て、城戸の内に入ってしまった。
吉川勢は仕寄に入り、「台無」などの大筒を散々に撃ちかける。
仕寄に向かった兵たちは、後で佐武に向かって
「なぜしばらく待てなどと止めたんだ。もう少し早く入れ替わっていれば、
敵と渡り合って分捕り高名してやったのに」と言った。

佐武はこれに、「いやそうではない。私は敵が打って出てくることを知っていたのだ。
というのも、今日の昼から持口に飾ってあった槍・長刀を
こちらに気付かれないようにソロソロと内に入れていたし、
その後あの口あたりで城中の兵が騒いでいる様子が外から見えた。
これは、今宵仕寄へと攻撃を仕掛けてくるに違いない。
味方を入れ替えて取り押さえれば勝利できるだろうが、
入れ替わろうとする隙を狙って敵が仕掛けてくれば、きっと利を失うだろうと思ったから、
今しばし待てと言ったのだ」と答えた。

その後は、仕寄を付寄せて、息をも継がずに攻め続ける。
城中はとてもかなわないと思ったのだろう。
しきりに降参したいと言い出すようになったので、
隆景・元長は、黒田勘解由と評定して、高橋が望むままにすることにした。
同二十四日(天正十四年十二月八日直後)、高橋は城から出て、この三将に一礼をして帰っていった。
城中には、検使として、元長様から森脇内蔵太輔を差し籠めておいた。


以上、テキトー訳。

意外とあっけなかった。
これなら調略入れれば攻めなくても落とせたんじゃないか……てのは甘いか。
三の嶽が取られたことでにっちもさっちもいかなくなったんだろうし。

元康……元康なぁ。カッコ悪いけど、そのまま信じちゃうのは抵抗があるな。
カッコ悪く描かれてるのは、やっぱり広家とナカワルだったからだろうかと邪推。
しかし「元康衆」って、実名に「衆」とかつけるのは初めて見たわ。
なんか慣れない。でも確かに「毛利勢」とかだと本隊と区別つかんもんな。

あと佐武さん、敵が出てくるのがわかってたなら、それをみんなに伝えてから交代に行かせて、
敵が「油断してるはず」と突きかかってきたところを返り討ちにしちゃえばよかったんじゃねえの。
わざわざ元康衆が負けるのを見物せんでも、って思った。
2011-12-23

元春が可愛すぎて夜しか眠れない

嘘です。休日は昼寝とかもしてます。元春が可愛いのは本当だけど。
そんなわけで可愛い元春さんの書状。

●元春自筆書状  宛先:隆元
「隆元へ           治部少輔 元春」(上書き)
「書状受け取りました。
 以前申していた御太刀をくださって実にかたじけなく思います。
 また登城してお礼を言いますね。
 これまでまったく持っていなくて、探してはいたのですが、
 小太刀となると、なかなかすぐには見つからず、困っていました。
 それであなたに相談したのですが、一腰くだされたので、ひときわ嬉しいです。
 持ち太刀にしようと思います!
 刀などはいくらもあるのですが、小太刀は本当に持っていなくて、実に実に嬉しい。
 それにこれは、とても見事ですね。ああ、すごく嬉しい!
 あなたとは親しい仲だから無心をしたのですが、わかってくれて
 こうして気を遣ってくださるのは、本当に言葉に尽くしがたいです。
 ともあれ、そちらに参ってお礼を申し上げます。恐惶謹言

   七月二日       元春

 重ね重ね、見事な太刀で、非常に喜んでいます。
 この気持ちは言い表せまん。ありがとう、ありがとう!
 とにかくお目にかかって申し上げます」
 (毛利家文書)

●元春自筆書状  宛先:娘(益田元祥室)
「七尾かさ参 御つぼねへ     宮島より 元春」(上書き)
「こちら(宮島)に私が逗留しているからと、元祥からご機嫌伺いの使者が来た。
 とりわけ御樽・肴を送ってもらって、ご丁寧に、どうもありがとう。
 おまえが病気でさぞそちらは取り乱しているだろうと思っていたが、
 こんな心遣いができるとは素晴らしい。
 また病気については、この間はかなり悪い様子だったのに、
 次第に快気してきたようで、嬉しく思い、胸を撫で下ろしている。
 近々帰る予定だ。また家城から連絡をするよ。
 ともあれ、よかった。

   四月五日       元春

 重ね重ね、病気のこと、詳しく聞かせてくれてありがとう」
 (小早川家文書)

●元春自筆書状  宛先:娘(益田元祥室)
「七尾 五もじへ       よしの原 もと春」(上書き)
「今度の伊予への出陣は、今回が家督初めの役目だと言って、元長が出るって言ってる。
 私はこちらにいるので、久しぶりに会いたいなと思う。ぜひ訪ねてきてほしい。
 馬や人手が必要なら迎えをやるから、何が必要か教えてくれ。そちらに遣わそう。
 この館には初めて来ることになるのかな。早く来てくれればどんなに嬉しいことか。
 まあちょっと検討して、返事をください。待ってます。
 それじゃあまた。かしく 
 
  (天正十三年)五月四日      もと春
 
 重ね重ね、なるべく早く返事がほしい。そちらの出陣に差し障らないように、相談しよう」
 (小早川家文書)


以上、テキトー訳。

やだ、トーチャンカーチャンに会いたくなっちゃうじゃない……!
まあ年末年始は帰省するんだけどね。
バーチャンにも会いたい。バーチャンの白菜の漬物、楽しみだなぁ。
何買って帰ろうかな。

まったく元春は本当に家族への愛情が濃いよなぁ。
元就が元春を「そっけない子」みたいに評してる書状を読んだ気がするが、全然そんなことないよね。
むしろ愛情が鬱陶しいくらいに溢れてるじゃないか。

すごく不思議なんだが、元春から娘への手紙はなぜ小早川家文書に収録されてるんだw
写しとかじゃなくて自筆書状だぞ。
誰かが元春の娘にねだってもらってきたりしたのか?
隆景が元春の書状を欲しがったと考えるとさらに萌えるんだけどな。
ていうか、小早川家文書って、「なぜこれがここに?」と言いたくなる書状が他にもある。
元春から経言宛とか、桂元澄(兄)から元忠(弟)宛とか。

個人的に、特に隆元への書状に胸を撃ち抜かれた。
キュンキュンするな、こんな弟。
いつの手紙かわからないけど、「小太刀がほしいんだけど見つからないんです」って兄ちゃんに言ったら、
兄ちゃんが気を利かせて小太刀を贈ってくれたらしい。それもなかなか見事なやつを。
「もう、ずっとこれ持って歩くんです!」みたいな、元春の喜びようがハンパなくてすごく可愛い。
原文も「目出目出」とかいっぱい出てきて、その興奮具合がなんとも可愛い。

元春は吉田にあんまり頻繁に連絡してくるタイプではなかったようなんだけど、
でもそれは、特に異議がないから連絡しなかったんだっていう言い訳の書状もあったりする。
きっと兄ちゃんに「なんでおまえは手紙くれないの!」ってなじられたんだなwww

いやもうホント毛利一族ってば可愛すぎるだろ。
2011-12-21

元長、愚痴る

前回のあらすじ:
元春が死んでしまったので、経言は死骸に付き添って芸州に帰り、
元長はしばらく小倉に滞在していた。
賀春の嶽に向かった隆景は、残し置かれた吉川勢に、賀春の嶽に続く要所を攻め落としてこいと言う。
月もない夜に難所へと向かった吉川勢は、どうにか三の嶽にたどり着くも、
待ち受けていた敵と丁々発止の交戦状態となった。


三の嶽を切り取ること(下)

こうして敵味方ともに引くものかと勇気を振り絞って進んでいくと、
互いの距離が十間ほどになるかと思うほどに詰め寄った。
撃ち合う鉄砲の筒口から出る火花が顔にかかるようにも思えた。
佐伯源左衛門・三宅源允の二人は、天狗の頭がついた兜をつけ、
味方の槍部隊の脇で飛び跳ねながら名乗りを上げていたが、
三宅がのど輪を撃たれ、「少々傷を負ったようだ」と言う。
それと同時に、香川・粟屋・二宮・森脇・古志などが「エイヤ」と声を上げて槍を打ち振るい、
無二に切ってかかる。
すると敵はとてもかなわないと思ったのか、たちまち蜘蛛の子を散らすように逃げ散ってしまった。
これを追いかけようとするも、敵はこの地に慣れ親しんだ者たちで、
岩の迫を伝ってどこへともなく引いていったので、討ち取ることはできなかった。

ここで、後ろから多くの味方が駆けつけてきた。ようやく三の嶽を制覇したのだ。
しかしこのままでは守りきることはできないと、芝土手を三尺ほど上がり、
隆景様から回された柵の木を運んで、峰を横一文字に結び切る。
突いて出るための城戸口を二ヶ所もうけて開き、高萱を刈り取って柵の木に結わえ付け、
あっという間に向城を構えて、三吉新兵衛尉を据え置いた。

すると翌日の早朝、治部少輔元長が小倉から下着して、すぐに三の嶽へと上ってきた。
元長が床几に腰を据えると、益田・吉見・三吉・宍道・佐波・古志、
そのほか北表の国侍たちが一様に居並んだ。
元長は皆に一礼して、
「昨晩三の嶽を切り取ったとのこと、実にひとかたならぬ粉骨砕身の働きであった」と、大いに感称した。
またこうも言った。

「それにしても、隆景は情のないことをなさる。
この城は、高橋秋種が千寿重種を騙して乗っ取ってからというもの、何年もかけて手を入れて構えた城だ。
その秋種は武勇一途で九州に並ぶ者のない将だった。だからこそ、随所にいる兵たちにも弱兵はいない。
秋種は死んでいなくなったとは言っても、家之子郎党が残っている。
奴らは養子の九郎を守り立てて、この城を枕に死んでやろうと牙を剥いている。
そうして勇み立ち立て籠もる兵は、だいたい五千ほどもいると聞いている。

こちらはと言えば、経言は芸州に帰っていて、私はまず孝養のために僧たちを集めて法要をしようと、
しばらく小倉にとどまっていたから、この辺りには兵だけを残しおいていた。
その兵たちも主君との別れを悲しみ、絶望の底にいるうえに、大将もいない。
もちろんこの辺りの地理にも不案内だ。
その兵たちに向かって、敵の精鋭が死を一途に思い定めて籠もっているところを攻め取れと言うなど、
言語道断の次第だ。

宍戸だって、近年は三沢などを手勢につけて、南北の中筋の軍事を取り仕切っているのだから、
隆家か、さもなくば幸いにも隆景がこの陣にいらっしゃるのだから、
南側の国侍に手勢の家之子郎党たちを差し添え、
敵城を攻め取ってくるように言い含めて差し向ければよかったのに。
元春が生きていたときも、敵が手ごわい場所を譲ってくれていたが、
元春は言うに及ばず、私や経言がいたからこそ何度も敵を破ってこれたのだ。
今は大将が一人もいない兵に向かって、城を落とせ、敵を攻めよとおっしゃるなんて、返す返すも恨めしい。
私の兵にことごとく討ち死にせよとでも言うような振る舞いではないか。

たとえ私の家之子郎党たちが三の嶽を切り取ってきますと申し出たとしても、
『今はそちらには大将がいない。幸いにして隆景がここにいるので、我が手の者に切り取らせよう。
吉川の者たちは無用の振る舞いだ』と制してくれるのが道理ではないか。
こんな邪な仰せを、恨まずにいられるものか」

元長は、両の目からはらはらと涙を流した。
益田などの諸国の侍たち、そのほか吉川の諸侍はなんとも声のかけようがなかった。
「元長様は父の喪にあって、悲嘆が胸を責め憂いの涙が袂を湿らせている上に、
隆景がこうしてこちらの手の兵に十死一生の働きをせよとおっしゃったのだ。
情がないと思うのももっともだ。
また元春様のことがこれにつけても思い出されて、悲しみや懐かしさが胸を襲い、
あれこれと言って涙を流すのももっともなことだ」と、
皆鎧の袖を絞り、顔も覆わずに泣いた。

高橋は、家人の小御門左馬允をはじめとして、
「吉川父子はこの陣には来ていない。ただ小早川一人だけで来たようだ。
隆景は智・仁の二つが最も優れ、武勇もこのごろの諸侍より勝っているとは言っても、
吉川に比べればどうということはない。夜討ちをかけてやろう」と策を練っていた。
しかし、元長様が藤の丸に三引領の旗を押し立て、三の嶽へと上がっていくのを見て、
「なんと、吉川がこの陣に着いたようだ」と慌てた。
「いやいや、夜討ちは控えた方がいい。城を落とされないようにしなくては」と、
自分たちの持ち口を固めて、夜討ちの計画は頓挫してしまった。

以下に、元春様が逝去したことを殿下(秀吉)が耳にしたときの
御内書(吉川家文書之一-一〇四・六五七)を載せる。

  「父元春死去とのこと、言葉もないことである。
   本国にいれば養生なども自由にできたのに、陣中にあり、
   しかもことさら寒い時分にこんなことになったとは。
   併せて秀吉に対しての忠節は立派であった。

    (天正十四年)十二月三日     秀吉
    吉川治部少輔(元長)殿
    吉川蔵人(経言)殿」

  「今度吉川駿河守が亡くなったと聞いた。
   本国にいれば養生なども自由にできただろうに、陣中で、
   寒い時分に病気にかかってこんなことになってしまった。
   秀吉に対する忠節は立派であった。
   まったく残念なことではあるが、人の生死については是非に及ばず。
   治部少輔・蔵人の二人に、そう心得るように言ってやってほしい

    (天正十四年)十二月四日     秀吉
    小早川左衛門佐(隆景)殿」

また三の嶽を攻め取ったことを、黒田・小早川から報告すると、
次のような御内書(吉川家文書之一-一〇〇)が届いた。

  「筑前の賀春の嶽に三つの丸があるうち、手を砕いて一つの丸を攻め取ったと、
   小早川左衛門佐・安国寺・黒田の三人から聞いた。
   実に実によく励んでくれたとうれしく思っている。
   これ以後も落ち度のないように気を引き締めて働いてほしい。
   また吉報を待っている。

    (天正十四年)十二月四日     秀吉
    吉川治部少輔殿
    吉川蔵人殿」


以上、テキトー訳。

元長、そんな子供みたいに泣かないの! もうすぐ不惑でしょ!!!
ていうかな、前々から思ってはいたんだけれども、「鎧の袖を絞った」って、絞れるもんなの?

隆景・黒官が三の嶽攻略を焦った背景がどうもワカラン。
別に元長を待ってからでもいいじゃん。
想像するに、元春の死が敵方に伝わる前に決着をつけようとしたのかな?

それでまた、吉川勢だけを向かわせた理由がワカランのだけれども。
 ①四国は小早川が頑張ったんだから九州は吉川がやれよ
 ②元春が功のないまま死んじゃったから、秀吉の手前、吉川が手柄を上げないとまずい
 ③実は吉川勢の方から「ウチがやる。弔い合戦じゃー!」って言って止めても聞かなかった
まあ順当に②か、血の気が多い吉川さんだから③だろうな。
もしくは、本当は全軍で攻め取ったけど、物語の都合上、吉川の手柄にしているか。
難所だと人数が多くいても意味がないし、というか逆にヤバイし、少数で向かったのは理解できる。

まあなんだ、元長のメンタルが弱くて口惜しい。
元春の後のことは経言に任せてとっとと陣に向かえと言いたい。
死に目に会えただけでも幸せじゃないか。
自分がすぐに供養とかしたいんだったら、経言を陣に向かわせろよ。あんた当主だろ。
んでもって「恨めしい」とか言いながらピーピー泣くし。武将に向いてない気がする。

元長は、どっちかというと学者向きっぽい。書状とかを読んでるとね。
いい人だと思うし好きなんだけどね。武将ならもっとガツンと戦えと言いたくなるなぁ。

次は……と、この人の最期も近いので、このまましばらく読み進めるとしますか。
明日は夜中まで帰れないので更新しないと思う。
2011-12-20

大将不在の難所攻め

決めた。将来犬を飼ったら、元春と名づけよう。
元就が熊谷信直への手紙で元春のことを「犬の様」と評してるのが元ネタ。
イメージとしては祖母の家で触ったことのある甲斐犬。
きっと強くて頼りになると思うんだ。

そんなわけで元春が死んだとこまで読んだ。ううぅ、なんで元春死んでしまうん?


三の嶽を切り取ること(上)

賀春の嶽を取り囲んで攻めていた黒田・中国勢は、周辺に目を向けた。
その山には二の嶽・三の嶽といって、城に続く峰が二つある。
敵はここに城中から兵を分けて配置し、砦を保っていた。
ここの城は山の半腹に構えられている。
城から上の峰は険しく岩が重なって、人が通れる道がない。
城から絶壁を伝って上がると、二の嶽というところがある。
それからまた峰続きに三の嶽といって山頂が平らになっているところがある。
どちらも白雲の上に出るような高さで、とりわけ険しく、きこりの通路のほかは登る道もなかった。

「この三の嶽をこちらのものにしてしまえば、敵は二の嶽にもいられなくなるだろう。
そうなれば甲の城になるので、敵の陥落も早くなる」と、隆景と黒田勘解由が評定して、
香川兵部太輔・粟屋彦右衛門を呼び、
「今宵、吉川家家老の者として三の嶽を切り取ってほしい。
このことを北前の国侍たちにも伝えてくれ」と言った。

両人は、「承りました。しかし、元長はまだ小倉におります。
経言は元春を供養するために芸州へと罷り上がっています。
吉川勢が北面の国侍たちと相談しますが、三の嶽を切り取るといってもどうしていいやら。
もし仕損じてしまっては、私などは蒼蠅のような(取るに足らない)者なので気にする必要はありませんが、
中国の武名を傷つけることになりましょう。
しかしながら、仰せに対してあれこれと言っては義がないのと同じですから、
まず陣に帰って吉川家老の者たちに伝え、それから是非のお返事を申し上げたい。
この二人だけが承ったとしても、残りの者たちの考えもわかりません。
きっと異議はないと思いますが」と退出し、陣屋に帰っていった。

今田中務の陣所へ宮庄太郎左衛門などが集まって、このことをどうするかと会議を開いたが、
まず北前の吉川与力の衆を呼び集めて会議しようとなった。
益田越中守・宍道五郎兵衛尉・佐波常陸守などを呼び寄せ、
「隆景からこのような指示がありました。
ここで否と言うことでもないですから、吉川の手勢は、今宵三の嶽を枕として討ち死にを遂げる覚悟です。
しかし兵の多くはまだ小倉におり、現時点でここにいる兵は、従来より半分以上少ない。
心はどんなに猛り勇んでも、難所に籠もっている大勢を、小勢で攻め破るのは無理だと思います。
皆さんが後詰をしてくだされば、今宵三の嶽へと無二に攻めかかって切り崩せるでしょう」と伝える。

益田越中守は、「これは意外な仰せです。
いかに年来吉川衆の武勇が諸人に勝り、寡兵で敵を挫いてきたのは日常茶飯事だといっても、
それは元春・元長がいらしたからでしょう。
大将のいない今は、どうなるかわかりません。
吉川家老の皆さんは、皆五千や七千の将の器ですから、その勇に任せて切り取ればいいかもしれませんが、
幸いにも隆景がこの表にいらっしゃる。
隆景こそが手勢をもって切り取るべきでしょうに、このような仰せは隆景のお間違いだと思います。

このような難所を切り崩すのに、兵を多く消耗するところを人に与えて攻めさせ、
また何の手間も要らないところは自分が攻め破って、忠功で人の上に立とうとするのは、
皆よく知っていることではありますが、それはへつらう佞将のやることです。
末法の世の聖人とでも言うべきと、世を挙げて言うことでしょう。
隆景の仰せとは思えません。

しかしそれはそれとして、ただあの城に向かっていて今宵死ねと言われているのです。
死ねと言われて否とは誰も言わないでしょう。
ならば皆も力いっぱい戦って死を一途に追い求めるでしょうから、
心強く思って三の嶽へ攻め入りなされ」と言う。
佐波・宍戸、そのほかの人々も皆これに同意した。

よって、香川・粟屋はまた隆景のところへ赴き、
「吉川の手勢および北前の国侍たちに申し伝えたところ、御下知に従って、
今宵三の嶽を切り取ってまいります。
そこを手中に収めましたら、すぐに二の嶽との間に柵をめぐらせて道を断とうと思いますので、
御手の衆に仰せ付けて柵の木を三百荷供与してください」と告げた。
隆景も「あいわかった」と了承した。

こうしてその晩、吉川勢一千騎あまりが先陣に進み、益田・吉見・宍道・佐波など、
二千騎あまりが馬から下り立って、岩の張り出した道をたどって登っていく。
ここはいつも人が通るような場所ではなく、ただこの里の芝切運や爪木拾いばかりが、
用事のあるときに獣の踏み分けた跡を道として利用するのみだ。
または狩人が潜んだ猪の寝床を突き止め、小男鹿の鳴き声をたどるために分け入るだけだ。

どうということもない深山でも、奥に踏み込めば出口を見失い、
険しい絶壁の上に歩みを進めかねてはめまいを起こして心を乱すものだというのに、
ここは名前すらはじめて聞いたようなところだ。
道を知る人はなく、暗さも増してどこに足を進めているのかもおぼつかない有様だった。
しかし勇む心を標(しるべ)として、汗だくになりつつ登っていく。

吉川勢の中には、忍の術に長けた者たちがいた。
以前は杉原播磨守盛重の手に属していたのだが、この家が滅びた後、元長様が皆抱え置いていたのだ。
この忍の者を先に立て、物聞をさせながら登っていくと、難なく三の嶽にたどり着いた。
兵たちが一息入れて休んでいると、この物聞たちが先から走って帰ってきた。
「ついさっきまで敵はあのあたりにいたようです。
その証拠に、所々に萱を切りくべて焼いて火に当たっていたと思われる場所がありましたが、
まだその火も完全には消えていませんでした。
しかし敵はもう退却してしまったのでしょうか。
このあたりでは一人も見かけませんでした」とのことだった。

吉川勢がここに居並んでみると、山下から見上げていたのとは様子が違って、
三の嶽から二の嶽の間は意外にも広く平らで、背の高い萱が生い茂っている。
二の嶽までの距離は四、五町ほどあるように見えた。

これは十一月二十日の夜だったので、月はまだ出ておらず、あたりは真っ暗で、
分け入る兵の兜より二、三尺ほども背の高い萱が生い茂っている。
いかにも敵が伏兵を置いていそうな場所だった。
ここに敵がいるなら討ち取って高名しようと、香川兵部太輔・粟屋彦右衛門・二宮兵介・森脇内蔵太輔・
古志因幡守・香川雅楽助・佐伯源右衛門など、総勢六十人あまりがその萱原へと分け入っていく。
鉄砲頭の溝捽次郎兵衛尉が、「鉄砲隊十人ほどで踏み分け申す」と、真っ先に進んでいくと、
傍の尾続きに宍道五郎兵衛尉が上って控えているところのすぐ近くまで敵が紛れ寄り、
鉄砲を撃ちかけて引いていった。

宍道の郎党の成田宗兵衛尉・成田采女が駆けてきて「香川兵部」と呼ばわる。
「誰ぞ」と問えば、「宍道の手の者、成田兄弟でございます。
たった今敵が思いも寄らぬところから近づいてきて、鉄砲を撃ちかけて引いていきました。
味方の油断で討ち漏らしてしまいました。ご用心なさいませ」と言い捨てて帰っていく。
そこに案の定、敵が鉄砲を六、七十ほど提げてきて、近距離から撃ちかけてきた。
溝捽次郎兵衛尉は、ここぞとばかりに鉄砲を構えて散々撃ち合う。

祖式掃部助の若党が一人傷を負って倒れた。
香川兵部が「その兵を敵に討たすな」と言うと、「わかりました」と、手勢の三宅源允が駆け寄っていった。
粟屋彦右衛門は手の者の山県市允に「三宅に力を貸してやれ」と下知したが、
源允がそれを待たずに駆け出してしまう。
行ってみれば、敵二人が祖式の若党の首を取ろうと駆け寄ってくる。
三宅は「三宅源允なり」と名乗りを上げ、無二に斬りかかっていく。
敵は、後続部隊が大勢いるとでも思ったのか、サッと走って逃げていった。
その隙に、三宅は手負いの若党を肩にかけて、味方の方へと引いた。


以上、テキトー訳。続く。

なんだかアツい戦闘描写。ドキドキ。
まだまだ白熱の戦闘シーンが続くけどちょっと今日は力尽きた。
しかし、確か当事の城って山城が多いんだよね。
鎧着て山登って戦うとか、考えられない体力だよなぁ。

最近やってなかったツッコミ。
月も出てない真っ暗闇でどうやって戦ったんだろう。
ていうか、三の嶽の様子が事細かに描写されてるけど、兜より高い萱が密生しててしかも真っ暗なのに
どうやってそれを見ることができたの? エスパー?

あと、隆景が意外にひどいやつでちょっとホッとした。
カンペキ超人みたいに賞賛されてるのしか見たことないから、なんかモヤッとしてたんだよね。
元春に病気で死なれた兵たちに、「お前らあの難所行って攻め取ってこいや」なんて、ドSすぎる。
しかも元長・経言すら不在というこの状況で! ひどいにもほどがあるんだぜ。
いやしかしドSの隆景、おいしいです。

そして個人的に待ってましたの祖式さん登場。
ここの一族の九右衛門(長好)さんが広家の手紙を後生大事に保管しててくれたんだよね。
祖式さんありがとう! おかげで広家の人となりをうかがい知ることができます!
そんで知れば知るほど好きになっていく広家。
でもどこが好きなのか自分でもイマイチはっきりわからない。
2011-12-19

元春「すぐ元気になるから、ね」

九州征伐真っ最中、病に倒れた元春は。

吉川駿河守逝去のこと

吉川元春は癰瘡がようやく平癒すると、
「もう少しだけ療養して、賀春の嶽へと打ち出るぞ」と言った。
諸軍士は、「この人の病が癒えたということは、殿下の出馬を待たずとも、
九州の怨敵を退治できるという兆候だろう。
隆景がいらっしゃれば危ないことはないけれども、元長・経言は元春の看病をするために小倉に滞在している。
その隙を狙って、もし島津が薩摩・大隅・日向三ヶ国の兵を率いてくれば、
味方は由々しい危機に直面するだろう。
この人の病が癒えた今となっては、九州全てが一丸となって攻めてきたとしても、何の恐れもない。
この人こそ、とりわけて父の元就様の智勇を受け継いだ将でいらっしゃる。
現在の日本六十余州の将と元春を比べれば、一切の諸世界の上に須弥山王の出るがごとしだ。
その人の病が平癒したなら、我々は枕を泰山の安きに置ける(どっしりと安定できる)」と喜び合った。

こうしたとき、黒田勘解由が元春様へと、鮭を調味して饗応した。
元春は、「鮭は血を破るものだ。これを食えば癰瘡が再発するだろう。
しかしこの魚を主菜として饗応してくれるのに、自分には毒だからと言って箸をつけなければ、
主もさぞ残念に思うだろう。
私もまた療養のためとはいうものの、役に立てなくて申し訳ないと思い煩っていたところだ。
病が再発するとしても、毒だと言ってしまえば、勘解由はきっと、
自分のわきまえがないばっかりにこんな性の毒となる肴を料理してしまったと思うことだろう。
まあ少しばかり食べるか」と思って、箸をつけた。

さて美酒を数度酌み交わすと、勘解由は
「九州の平定は遠いことではないでしょう。
そうなったら、筑前一国は元春に宛行いたいとの殿下のご内意でございます」と打ち明けた。
元春は、「かたじけなき殿下のお志でございます」と言って、退出した。

元春はやがて寝所に入ったが、すぐに起きだしてきた。
「今夜は癰瘡がひどく痛んできた。きっと再発したのだろう。これを見てみろ」と、
外科の医師を呼んで患部を見せると、ことのほか腫れ上がっていた。
その夜、徳琳という外科医が癰瘡の周囲に関薬を付けておいたが、
翌朝にはその関薬の外へと紫色の血筋が活々と迸って、目も当てられぬ有様になっている。
それからは日を追うごとに病が重くなっていった。

輝元様から徳琳が遣わされ、「今夜のご気分はいかがですか」と尋ねさせる。
徳琳はすぐに小倉の甲の城から二の来輪へ下り、元春様へ用件を申し伝えた。
元春は看病の者たちに助け起こされて、徳琳を近くに呼び、輝元様への返事をあれこれと伝える。

「あれから養生しているが、もう少しでも調子がよければすぐにでも輝元にお会いして言うべきなのだろうが、
病状が思わしくないのでお前に語って聞かせるので伝えてほしい。
このことをよくよく申し伝えてくれ。

それはな、今回は九州征伐のために殿下が御出馬されると仰せになり、
その先陣として、毛利家がこの国に攻め入ったのだ。
だから、輝元は今回の戦を、これまで赴いた戦場と同じように考えてはいけない。
というのも、近年は殿下秀吉公と所々で対陣していたときは、
輝元公を本陣として、隆景と我らが先陣に進み、直接軍勢を指揮して、
手を砕き、敵を挫いて味方を助け、攻めれば取り戦えば勝ちの功を励まし、
輝元公は策を帷幄の中に運び、勝つことを千里の外に決し
(あらゆることを的確に処して物事をうまく運んで)てきた。

それに引き替えて今は、秀吉公が総大将でいらっしゃるのだから、輝元公は先陣の戦将だ。
だから、これまで輝元公を大将と仰ぎ、隆景や私が先陣に進んで戦を決したのと
同じように心得ていただかなければ。
こんなことは言うに及ばないかもしれないが、事のついでに申したまでだ。

また、肥前の龍造寺政家はいまだに秀吉公の御手に属していない。
つらつら愚案をめぐらせてみたところ、現在日本国中で殿下の下知に従わない者はない。
よって龍造寺だけが勝利を得られるわけもない。
きっとこれも早々に降伏して安堵に胸を撫で下ろしたいと思っているだろうが、
秀吉公へ和睦を請う手段がなくて打ち過ぎているだけだろう。
輝元公から使者をやって、味方に与するのであれば秀吉公へ口添えをしてやろうと言い送れば、
龍造寺はきっと流れに棹と喜びに堪えず、すぐに了承して味方に降るはずだ。
ここが兜を脱ぎ旗をたためば、九州征伐は早々に決着するだろう。

と、このことをよくよく申してくれ。
私もやがて快気するだろうから、詳しくは顔を合わせたときに申すことにしよう」
徳琳は「かしこまりました」と言って退出した。

しかし、元春様の病状はさらに重くなって、同(天正十四年)十一月十五日、ついに空しくなってしまった。
御年は五十六(七)歳であった。
この人は智仁勇の三徳を兼ね備えていながら、武運をも天から与えられたのか、
大内・陶・尼子・大友・羽柴などの強敵と何度も戦を重ねたが、ついに勝利を失うことはなかった。
戦のたびに寡兵をもって衆を挫き、功をなしてきた。
呉起が西河を守って諸侯と大いに戦うこと七十六度、全勝したのは六十四、残りは和議となった。
土地の四面を開拓して地を千里に拓き、その功にも増して、
孫子が蘇との境を破って郢に入り斉晋を脅かした勇にもなお増して、世を挙げて称嘆したものだ。
かの後漢の馬援は、武陵五渓の蛮夷を討とうとし、進んで壷頭に宿営し、
暑気にあたって病にかかり死んでしまった。
孔明は、魏を成敗しようとして渭南に軍を進め、病が重くなって陣中において死んでしまった。
そのときもこのような状況だったのだろうと思い知らされた。

輝元様は、「当家が数カ国を切り従え、武威をたくましくし国を保ってきたのも、この人のおかげなのに」と、
これ以上ないほどに嘆き悲しんだ。
元長・経言の愁傷は深く、気の毒なほどだった。

ぐずぐずしているわけにもいかないので、死骸を芸州へと送った。
経言も供奉して上国し、葬礼を丁寧に執り行って、全てが済んでからまた九州に下ってきた。
元長様は、「父の喪中であっても公戦に臨まないわけにはいかない」と、
やがて賀春の嶽へ向かうために小倉を出立しようとした。
こうしたところへ秀吉公から輝元様・元春・元長・隆景へと御内書が届いた(吉川家文書之一-九八)。
このような書状だ。

  「豊前の宇留津城を去る七日に攻め崩し、千あまりの首を刎ね、
   そのほか男女を機物(磔)にかけたとのこと、心地能次第である。
   言葉にしようのないお手柄だ。
   とりわけ敵方味方中の覚えといい、この祝着は筆紙に尽くしがたく思う。
   季節がら下々の者たちの長陣はかわいそうだと思うので、
   当年中にも出馬してほしいと言われたが、春まで延期となってしまった。
   安国寺・渡辺・石見・黒田勘解由を通じて言上があったのに、
   当年は出馬できなくなってしまい、心もとなく思っていることだろう。
   来春はそちらに知らせないうちに早々に出馬するので、了承してほしい。
   そのときに対面して忠・不忠を選別し、高名などをきわめた者に褒美を取らそう。
   このことを皆に伝えてくれ。
   豊後へもすぐに蜂須賀阿波守・脇坂中務・加藤左馬助、
   そのほか総勢一万四、五千を送り込む。

    (天正十四年)十一月二十日      秀吉在判
    毛利右馬頭殿」

 文体を同じくして、いずれも別紙であった。
    (天正十四年)十一月二十日      秀吉在判
    吉川駿河守殿
    吉川治部少輔殿
    小早川左衛門佐殿

この御内書を皆拝見して、「ああ、元春と一緒に頂戴できれば、どんなにか嬉しかっただろうに」と、
目を瞬かせながら押し頂いた。実に悲しいことだ。


以上、テキトー訳。

ウワアァァァン、元春ー!
どんな軍でも打ち倒せなかった将が病に負けた。悔しいね。
輝元に訓戒を残すなんて、お父さんみたいだ。
「これまでおまえを前線に出さないために頑張ってきたけど、
これからはおまえが前線に出なきゃいけないよ」
どんな思いで言ったんだろうな。

息子たちは傍で何を思ってたんだろうか。
元長はもう40歳近いし、当主としての貫禄もついてきただろう。
経言はまだ20代半ばで、一つも孝行してないってのに死なれちゃあんまりだ。
呆然としたんじゃないかな。人一倍苦労をかけてきた息子だったしね。
でも、息子たちが傍にいるところで死ねるってのは、ひょっとしたら幸せなのかも。
名前すら出てこない次男がかわいそうだけど。

そうそう、黒官が元春を暗殺したと解釈もできるけど、
わざわざ小倉でやるのは兵の指揮も下がるし、まだるっこしいのでナイかな、と思う。
中国勢の方が数は圧倒的に多いから、敵に回したら厄介だ。
隆景が一枚噛んでたなら中国勢の押さえになるけど、どうだろ。
黒官は暗殺するにしたって、人数を分断して取り囲んで殺す程度だな。
毒殺とかは考えにくいわ。
ホントにただのうっかりで、良かれと思って、精がつくご馳走の鮭を振舞ったんじゃないかな。
それがこんなことになるとは、ドジっ子属性おそるべし。

ここで傷心の経言に、贖罪意識の働いた黒官が寄り添って、
将来まで続く義父子だか義兄弟だかの誓いを立てる……ってストーリーを妄想した。
実際それどころじゃないだろうけどな。きれいな夢を見たいのだよ。
2011-12-18

元春「予言どおりッ(キラッ」

九州征伐、吉川勢の大将は不在ながらも順調に端城撃破中。
今回は小倉で療養中の元春のところに人が集まってきたときの話。


吉川元春、九国の弓矢の予言のこと

今度賀春の嶽を取り囲むという軍評定について、小早川隆景から使者として、
安国寺並びに渡辺飛騨守が小倉にいる吉川駿河守へと遣わされた。
やがて元春が対面し、元春の病気の様子を見に来ていた益田越中守・吉見三河守や
そのほか雲石の兵たちとともに、饗膳を振舞われて四方八表の話が始まった。

安国寺恵瓊西堂が、
「島津家は九州で数年間武威を奮っていましたが、来春関白秀吉公が御出馬されれば、
一門の根を絶やして葉を枯らしなさるでしょう。
島津の居城の鹿児島の城は構えもそれほど堅固ではないと言いますから、
一日あればたやすく破れるはずです」と言うと、
皆も「いやごもっとも。きっとそうなるでしょう」と答えた。

元春はすべて聞いてから、口を開いた。
「私はそうは思わない。もっとも、秀吉が終わりより西の兵を率いて発向されれば、
島津が戦に負けるに決まっている。
秀吉も数年かけて薩摩を攻めるのであれば皆が言ったようになるだろうが、
いまだ関東さえほとんど手にしていないのに、九州に月日を費やして攻め取るようなことはあるまい。
まず天下統一を成し遂げることを第一にお考えだろう。

島津もまた無双の良将だ。やすやすと打ち負けたりはすまい。
おそらく薩隅両国の境で衆目を驚かす一戦をして、それから降参を請うだろう。
降参を申し出れば、秀吉も島津に対してさほど遺恨があるわけでもなし、お許しになるはずだ。
島津もいかに勇ましいとは言っても、現在の秀吉の武威にはかなわず、
一戦してから降伏して、本国の薩隅を安堵する策を練っていると思う。

薩摩がもし本土に位置したとして、四方の隣国から攻め入られれば、
島津もたちまち滅び果てるかもしれないが、実際は九州の南の端だ。
肥後・日向の二方面からしか攻められない。
とりわけ、肥後口にはサシキ(佐敷)・ミナマタ(水俣)という、
蜀の剱閣よりもなお険しい難所があって、大軍が簡単に攻め入れる場所ではないという。
日向から大隅に入るにも、これまた難所が多いそうだ。

国柄もよし、島津兄弟が勇ましいので兵たちもまた強い。
国と将と兵とが一丸となれば、いかに秀吉が大軍だとはいっても、容易に攻め滅ぼすのは難しい。
島津は、切り取った国さえ渡せば、本国は安堵する条件で和睦できると踏んでいるだろう。
この予想は十中八九外れないと思うぞ」

安国寺は、「そう聞けば、そういうこともありましょうな」と言って退出したが、
結果を見ると、ことごとく的中したのだから驚いた。


以上、テキトー訳。

元春……体調が思わしくないのに何やってるんですか。ホント養生してください。

元春ageのカンペキ作り話臭がするけど、予言と言うか予測だよね。
それもものすごく理詰めで来るとこはさすが元春。文学アニキ。
長々と大演説をぶっこくのはやはり血筋なのか。それとも軍記物の常なのか。

実際の元春の自筆の手紙も長い。しつこい。特にお説教系。
それを受け継いだのか、元長も広家も長い文書をよく書いてる。自筆で。
元春の手紙で面白いなと思ったのは、広家宛の手紙。
「おまえはどうせ父さんの言うことは聞かないんだろうから、母さんからの書状を読みなさい」
「おまえはこう言われると気に入らないかもしれないけど」
なんて感じで、けっこう子供の気持ちになって考えてるんだな、というか、
子供に反発される現代の父親像まんまでニヤニヤできる。
まあ、反発されても元春は受けて立つしちゃんとお説教をするんだけどね。
広家がちょっと折れたら、それに乗じて服装の注意とか座敷での態度への苦言とか畳み掛ける。
大人になり当主になり父となった広家が、家中の者に
「言葉遣いを普段からちゃんとしなさい」とか申し渡してるんだから元春の教育は偉大だよね。

今更だけどこのときは益田・吉見は吉川勢に編入されてるんだね。
吉見は隆元の娘の嫁ぎ先だから本家の管轄だと思ってたんだけど、山陰側だからかな?
このへんのときの縁が続いて、広家次男の彦次郎が後年吉見家に養子入りしたんだろうか。
益田さんは元春の娘婿だけど、いつの間にか本家の重臣になってるしな。
ここんちの家臣団編成がイマイチよく理解できない。
てか、益田と吉見ってもともと大内所属で、領地が隣り合ってて
境目の件でちょっと仲ワルだったんじゃないっけか? また調べてみよう♪

ああ、次はいよいよ元春の最期かぁ。
2011-12-17

吉川勢、がんばる

九州征伐、小倉城……クリア! 宇留津城……クリア!
賀春の嶽端城攻略、順調であります!!!
元春様は御病のため、元長様・経言様はその看病のために御不在ですが、
我ら吉川新庄勢、殿様若様のために身命をなげうつ所存です!!!


筑前国障子の嶽明け退くこと

同(天正十四年十一月)十日、高橋の端城の障子の嶽を攻めようと、
中国勢二万騎あまりを率いて、小早川・黒田の両将は障子の嶽表へ打ち出で、
その城に向かい合う山に陣を構えた。

その夜はことさら北風・雪がふぶいて寒さが険しかった。
後から到着した人夫たちは皆、本陣の近くの木陰・岩陰に苔を敷き、木の葉を枕として伏せていた。
敵は「土地勘はこちらにある。十日の月が入ってとりわけ暗いことだし、
四、五百人ほどで夜討ちをかけよう」と馳せ出で、その人足たちを二、三十人ほど討ち取った。
そのまま石見の国の住人、冨永三郎左衛門尉の陣へと切ってかかる。
冨永は、まさか敵がかかってくるとは思ってはおらず、
油断したところを突かれて防ぎかね、退却しようとした。

そこへ吉川陣から松岡安右衛門・二宮兵介・森脇内蔵大輔などが一番に駆けつけた。
冨永の後ろの陣は宮庄左衛門尉・古志因幡守の陣では、すぐに柵の木の際へと兵を備えて、
向かってくる敵を待ち構えていた。

こうしたところへ今田中務・高橋弥左衛門も駆けつけてくるのを見て、
敵はかなわないと思ったのか、足早に退却していった。
吉川勢はこれを知らずに、冨永が明け退いた陣へ切り込んでいくと、敵は一人もいなかった。
跡を追ってみようとしたが、皆岩陰や獣道を伝って退却してしまっていた。
しかし一人逃げ遅れていた者を生け捕りにしてきた者がいた。
「その男を殺すな。生かしてここの様子などを尋ねてみよう」と皆が近寄ってみると、
年のころ三十ほどの男で、合印なのか玉襷をかけ、布の袷を着、九尺ほどの槍を持っていたが、
あれこれとしているうちに凍えて死んでしまった。

また、敵の別働隊が備後国三吉広隆・新兵衛尉の陣へ夜討ちをかけていたたが、
北風がやがてみぞれとなって降ってくると、耐え切れないほどの寒さとなる。
夜討ちの輩は身が凍り手がかじかんで、たちを提げ槍を突くこともできずに、
ただ三吉の陣屋を叩き回り、出てくる敵があれば討ち取ろうとしていた。
一番に祝部勘左衛門が聞きつけて、太刀を取ると名乗って打って出る。
味方もこれを聞いて後に続き、たちまち八人の敵を切り伏せた。
鉄砲も激しく撃ちかけたので、敵はこれはかなわないと思ったのか、
一気にさっと退却して自分の城へと入ってしまった。

こうして城中の兵たちは、
取り囲まれて網の中の魚のようになってからでは逃げる方法がないと思ったのだろう。
その晩ごろに城を放棄して賀春の嶽へと退却した。
同十一日(十五日)、全軍は賀春の嶽へと押し寄せた。
二方を空け二方から詰め寄り、仕寄をつけ、昼夜の境もなく攻め立てた。


以上、テキトー訳。

まあそれほど何てことはない話で。
わざわざ生け捕りにした敵に凍死されるくだりはなぜ挿入されているのか。
お話的に要るのかというとちょっとな。

でもなんか、大将不在の吉川勢がめちゃくちゃ頑張ってるのは伝わってきた。
ピリピリしてたんだろうな。大将がいない間にヘタ打つわけにいかないもんね。
あと、対尼子残党戦でゲリラ対策に慣れていたのかもしれない。
鹿ちゃんがしつこかったみたいだしね。経験は金だね。

しかし元春の看病って、息子のうち一人は戦場に出てくるわけにいかなかったのかね?
次男の元氏(当事は元棟)はどうやら本人が長患いしてたようなんだが。
元長か経言のどっちか……てか、もう元長が家督してるんだから、
小倉には経言だけ残して自分が大将やればいいのにね。
え? いやいや、TERUには言ってないよ。

次回はたっぷり元春さんの予定。
2011-12-16

うっかり官兵衛と愉快な毛利軍

今回はまじでタイトルのとおり。
九州征伐で中国勢が小倉制圧に成功した後、賀春の嶽を攻めあぐねているときのお話。


宇留津城没落のこと

隆景・元長・経言は、中国勢二万騎あまりを引率して神田の松山へ陣を移した。
殿下秀吉公から検使として遣わされた黒田勘解由も同所に陣を移したが、その手勢は三百もいなかった。
宗像はもとから中国に一味しており、益田越中守元祥の次男、修理亮を養子にする契約になっていたので、
今回も手勢千五百ほどを率いて中国勢に加わった。
長野三郎左衛門尉も馬野嶽から下りてきて降伏し、黒田の手についたので、
勘解由は自分の手勢に長野の一千騎馬を加えて陣を張った。

宇留津の城には賀来の一族が立て籠もっていた。
元長・隆景から使者を送り、
「味方に与し兜を脱いで旗を巻き、こちらの軍門に下れ。
そうすれば一命を助け、本領を安堵いたそう」と申し送ると、
賀来与次郎・賀来新右衛門・賀来孫兵衛たちは、
「仰せられるまでもなく、こちらから手を返してお味方に参じたいところですが、
父の入道専順が高橋の手につき、人質として賀春の嶽に入っています。
私たちが身命を惜しみ、所領に心引かれてお味方につけば、
高橋はすぐに父の入道の首を刎ねてしまうでしょう。
父を捨て敵方に降るのは孝にも義にもなりません。
遅かれ早かれ、高橋もまた殿下に対して弓を引き矢を放ち、どうして勝利を得られましょう。
皆身を滅ぼし、命を失うと決まっていると知りながら、それでも父を捨てられないと思います。
命を捨て、妻子をも顧みず、一戦を遂げて、死後に孝順を残すべきだと思い定めております」
と返答した。

それではということで、同(天正十四年)十一月七日の鶏が鳴くころ、
中国勢並びに黒田・長野・宗像合わせて総勢二万三千騎あまりが、松山を出立し、
辰の刻(午前八時ごろ)に宇留津表に着陣した。
この城は東は海、南北は深田だったが、南に黒田・長野、北に小早川、北に吉川勢が押し寄せた。

元長・経言は父の元春がひどい腫れ物を患ったため、松山から小倉に帰っており、
宇留津の攻め口には、元春様の名代として
宮庄太郎左衛門尉春実に古志因幡守を後見として差し添え、差し向けていた。
そのほか今田中務・香川兵部太輔・粟屋彦右衛門などをはじめとして、
主力の兵たちは皆この攻め口に残し置かれた。

諸軍勢が仕寄をつけようとしていると、
城のそばを馬で駆けていた黒田の手の者が、指物を城中に投げ入れた。
敵はこれを拾って城中を走り回り、武勇を吹聴して回る。
よそから見れば、黒田の手勢が城中に乗り入ったように見えた。
「なんと、勘解由の隊が城中に斬り込んだようだぞ」と言ったかと思うと、
取るものもとりあえずかかっていこうとする。
黒田も人に先を越されまいと「エイヤ、エイヤ」と声をあげて攻め寄せた。

吉川勢は黒田より早く城に攻め入ろうとして、一番に塀の近くに攻め寄せ、
とっとと乗り破ってしまおうと走りかけたとき、城中から鉄砲が一斉に放たれた。
真っ先に進んでいた牛尾大蔵左衛門は、唐冠の兜の真正面を撃ち破られて、矢場に倒れて死んでしまった。
後続の兵はこれを見て、「敵に息を継がせるものか」と、一気に城中に乗り入った。
他の軍勢も、遅れを取るまいと攻め入って切り込み、やがて城に火がかけられた。
密集した藁の家屋にあっという間に燃え広がり、
城中の兵たちも寄せ手の兵たちも猛火の煙にむせて、
誰が敵で誰が味方なのかも見分けることができない。
ただ「誰だ」と問いかけて「何某だ」と答える声だけを頼りに攻め戦った。

追手の門の右の方に、藁屋の上に赤土を塗って火矢を防ぐ造りになった家があった。
その中から「賀来の源介」と名乗って出てきた者が、辺りにいる敵に斬りかかった。
後に続く味方が一人もいないので、また家に引きこもる。これを数度繰り返す。
吉川勢の中に境孫次郎という力持ちのつわものがいたが、これを見て、
「敵の様子を見ると続く者もなく、ただ一人で切って回っているだけだ。
あれが樊噌(はんかい)であったとしても恐れることはない。この手で討ち取ってやる」と、
太刀を抜きかざして、その家に切り込んだ。

そこに源介が三尺ほどの大太刀で「エイヤ」と打ってかかる。
煙に目をやられ、そのうえ外は明るく中は暗いので、敵の太刀筋を見切ることができずに、
さしもの境も敵の太刀を受け損ねて眉の上をしたたかに斬られた。
たちまち流れ出てきた血が目の中に入り、仕方なく引いて出てくる。

香川兵部太輔が「よい敵はいないか」と、近づいてきた。
境が「おい香川、その家だ。得物を持った手練の敵が中にいるぞ」と言うと、
香川は「心得た」と何の遠慮もなく押し入る。
またそこに「賀来源介なり」と名乗りを上げ、斬りかかってくる。
香川は太刀を抜きかざし、しとどに受け流すと、続けざまに三回斬りつけた。
そのままツッと入って無手と組む。
賀来はなかなかの大力だったが、初太刀を打ち付けて引いたときに、
香川にひざの上をしたたかに斬られていて、歩くのも思うに任せず、
ついには取り押さえられて、香川に首を掻き切られてしまった。

益田越中守は手勢三十ほどで敵の出てきそうなところを狙って待ち伏せていた。
敵は家の中に籠もっていたが、ツッと出てきたところを討ち果たした。
柳沢新右衛門は輝元様からの使者として黒田勘解由のところに来ていたところ、
ちょうどよく合戦となったので喜んで参加し、これも敵を一人討ち取った。
宍戸備前守(元続)も敵を一人討ち取り、手勢の末兼土佐守・粟屋次郎右衛門・福万壱允・
寺下市允・浅原備後守・渡辺壱岐守・板屋肥前守・児玉筑後守なども分捕高名を果たした。
中所(なかぞ)掃部・勢一四郎兵衛尉・楢井・菅田などは討ち死にした。

輝元様の旗本衆は、山田吉兵衛尉・児玉小次郎・児玉兵庫・村上又右衛門・
三浦兵庫・佐武三郎右衛門・宇多田善介・佐藤宗右衛門・波多野源兵衛尉・
涌喜孫兵衛尉・小田切九郎などが分捕りした。
吉川衆は、今田中務・粟屋彦右衛門・佐々木豊前守・横道権允・
小野太郎右衛門・新見左衛門尉などが高名した。
今田の郎党の中村何某は、香川の手勢の恩田又右衛門と二人で敵と渡り合い、
敵はなた・長刀、二人は太刀で切り結んだ。
中村は股をしたたかに突かれながらも少しもひるまず、その敵を討ち取った。
恩田も同じく切り伏せて首を取った。

井下左馬允は「いい敵がいないか」と探したがなかなか出会わないので、
城の後ろにある池の周りをたどっていくと、年のころ十八、九ほどの男と、四十ほどの男がいた。
二人は、城が焼けたので池の中に入ったのだろうが、そうそう水中にいられるわけもなく、
やがて水から上がってどこへなりとも逃げ延びようと思ったのだろう。
水辺に上がろうとするところに、井下は声をかけた。
「怪しいやつめ。逃がさないぞ。ただし降伏すれば命は助けよう」

十七、八ほどの男はキッと後ろを振り返ったが、年嵩の方が「もう降伏なさいませ」と言うので、
「命をお助けくだされば降人になります」と言った。
「命は助けてやるぞ」と井下が言うと、「ありがとうございます」と近くまで寄ってくる。
井下はこれを一刀で切り伏せて首を取った。
しかしまだ年端もいかぬ者の首なので、実験に入れても仕方ないと思っていた。
けれども降伏した者がこの首を見て腰を屈めて通っていくので、もしかしたらひょっとすると思い、
「何という者の首だ」と尋ねると、
「これはこの城の大将、賀来の与次郎殿の首でございます」と答える。

また香川が打った首を見て、
「こちらもこの城の大将でございました。
惣領は与次郎殿ではありますが、まだ若年でございますので、
近年は叔父の源介殿が大将のようになさっていたのです。
そういうわけですので、軍の掟などはこの人が定めたものです。
常々こんな風に言っておりました。
『一城の大将を預かるほどの者が源介などという名では、まるで年若い者のようだ。
敵が聞いたらどう思うだろう。
今度は中国勢を相手に討ち死にするだろうから、名を改めて心置きなく死にたい』と言って、
十日ほど前に名を新右衛門と改められました。
そのときは会う人遭う人に、
『昔の実盛が鬢を墨で染めて名を北国の街に上げたように、
わしは名を改めてこの首を秀吉の実験に入れてやるぞ』などとおっしゃっていたのに」
と、涙をはらはらと流すのだった。

こうして賀来与次郎・賀来新右衛門の名が知られることになった。
新右衛門が最後に「源介」と名乗ったのは、そちらの方が人に知られていると思ったのだろうか。
もしくは口になじんだ旧名だったから名乗ったのか、
「新右衛門」とは言わずに「源介」とだけ名乗っていた。

そうしてその日に討ち取った首は一千あまり。
そのほか焼け死んだ者がどれだけいたのか見当もつかない。
黒田はやがて賀来与次郎・新右衛門の首を桶に入れ、討ち取った兵の姓名を記し、大坂に送ったのだった。
その後、生け捕った男女四百人あまりをすべて磔にかけ、見せしめのためにと、一人残らず突き殺した。
哀れなことである。
同八月一日に宇留津の城の死骸を全部海に流し捨て、一通り掃除をして軍勢を配置し、
同九日に諸軍勢を神田の松山へと移した。
豊前・肥後の敵城を「一揆の城」と言うが、土民ではなく、皆国人たちだ。
しかし一国の大将もなく、皆それぞれ一城ずつ持って抵抗していたので、人々は一揆と呼んだ。


以上、テキトー訳。

ちょっと! 何してくれてるんですか黒田兵! 指物を城に投げ入れちゃうとかw
うっかりは大将だけにしてください。
あと毛利軍(吉川勢含む)! ドリフみたいなかけ合いしてる場合ですか、ここ戦場ですよ!!!

あー、今回大爆笑だった。
自分とこの兵が投げ入れた旗指物でゴングが鳴る前になし崩し的に合戦が始まり、
慌てて乗り込もうとする官兵衛さんイカス。
この人もしかして天然? そんな気は薄々してたけどやっぱり天然なの?

毛利軍も自分たちがつけた火で自分たちが燻されてりゃ世話ないわ。
吉川衆の境さん、あんた前回首を撃たれてたよね。傷は浅かったの?
香川さんは↓こんな↓感じで脳内再生された。
 香川「ウホッ、いい敵(おとこ)」
 源介「やらないか」
井下さんもブラブラしてたらなんかチンケな敵がいて、騙して討ったら実は大将だったとか、
ホントになんという展開だろうwww
いや不謹慎で申し訳ないけど。

そうそう、毎度空気の宍戸さんは今回も相変わらず空気だった。
隆家さんのお孫さんなのに、孫の代になっても空気とか。不憫じゃ。

死骸を捨てて掃除をしたのは「八月一日」って書いてあるけど、きっと「八日」の間違いだよね?
十一月の話だったのにいきなり八月に飛ぶとかありえないし。

そういえばこのあたりの話は大好きな逸話サイトで少し読んだんだけど、
出典が違うらしく、開戦も「黒田の合図で」ってなってるし、討ち取った首も「二千」になってる。
磔になった人数も「一千」だしね。盛ってる盛ってるぅ~。
2011-12-15

さて役者が揃っ……も、元春様!?

大体の流れは、九州征伐で大敗を喫した四国勢の後に中国勢が九州入りし、
少々危ない場面はありつつも順当に小倉を奪取、といったところ。


賀春の嶽、高橋乗っ取りのこと

高橋秋種(鑑種)は、もとは小倉の城にいたが、さる天正十年のころ、
高橋は一千騎を率い、賀春の嶽の麓、高城城というところに陣を構え、秋月へと連絡した。
「この場所に、今夜一夜だけとどまりたいので、どうかお許しくだされ」と言い送ると、
千寿はこれを方便とは夢にも思わず、「そんなことはおっしゃるまでもありません」と答えた。
高橋は「どうもありがとうございます」と謝して、
同日の夜中に、こっそりと三の嶽に二、三百ほどの兵を配置し、
岩を転がし枯れ木を叩き、鬨の声をどっと上げた。高橋は麓から鬨を合わせた。
賀春の嶽に籠もる兵たちは、夜中の突然の出来事に、
皆寝ぼけ眼で太刀を探り求め、鎧を探り歩き、繋いだ馬に逆に乗って、
夜討ちというからには、やれ焼き討ちだ、水攻めだ、などと口に任せてわめき叫んだ。
子を背に負い、父に肩を貸して、皆こけつまろびつ周章狼狽して逃げていった。
千寿は高城寺の館にいたが、家城の賀春の嶽が乗っ取られたと聞いて、
偶然にも命を失わずに済んだと思って豊後を目指して落ちていった。

これから高橋が賀春の嶽に入っていたのだが、秋種はしばらくして病を得て亡くなってしまった。
現在の九郎は今年十三、四になったばかりだが、強将の下に弱兵はないのが世の常なので、
家之子郎党はきわめて強く、大軍の中国勢を見ても少しも臆さずに、賀春の嶽に籠もっていた。

小倉から三里ほど離れたところに宮山という城がある(城番:稲津見羽右衛門)。
吉川衆はその城の麓に攻撃を仕掛け、大野の在郷の民家にことごとく火を放った。
一揆勢が道を失って嘆いているところに境外記主従が二人して赴き、敵を二人討った。
山県杢助の郎党の安田神介・広岡源兵衛尉なども一揆勢の首を討ち取って帰っていく。
城兵たちはこれを城中からキッと睨んで、
「目の前で見方を討たれて知らん顔などできるものか。
敵も小勢だ、急いで向かって討ち取ってしまえ!」と言うや、
皆我も我もと、手に手に槍・なた・長刀・鉄砲などをそれぞれ引っ提げて打って出る。

跡をつけていって飛び掛れば、山県杢助・綿貫権内・千代延午介などは浅い傷を少々追って、
退却しかねることになった。
城中の兵は勝ちに乗り、跡をひたひたとつけてくる。
佐伯兵右衛門が柴垣の結い目を台にして鉄砲を構え、ドウと放つと、
城中の兵の足軽大将と思しき者を一人討ち取った。
これに力を得て、松岡安右衛門・境孫次郎などが引き返し、
しばらく弓鉄砲で競り合いながら前線を保っていた。

境孫次郎が首を撃たれ、仕方なく引こうとする。
敵は二百ばかりを先に回し、この退き口を遮ろうとしたので、
境も松岡もこれを弓で射払って退却した。
ここに木次孫右衛門が鉄砲を持って控えていたが、二人が引いてくるのを待って、
鉄砲を撃ちかけて向かってくる敵を打ち払う。
そのまま小坂を一つ越えると、大野で見方が難儀をしていると聞きつけた吉川衆五百人あまりが
群れをなして駆けつけてくる。敵はこれを見て退却していった。

その後、黒田勘解由と相談して、隆景・元長・経言はここから神田の松山へ陣を移し替えた。
元春様は小倉にいたが、背中に腫れ物ができ、これがひどく痛むと知らせがあって、
元長・経言は松山から馬廻り衆だけを連れて小倉へ帰っていった。

この頃には輝元様も長府から小倉に渡海して本城に入ってきた。
殿下秀吉公は森勘八・森兵吉を九州へ差し下し、輝元・隆景・元春・への御内書を届けさせた。
その書状はこのようなものだ(吉川家文書之一-九七)。

  「このたびは関の門を越えたそうで、見回りのために森勘八・同兵吉を差し下す。
   この寒天の時分に、ことさらご尽力痛み入る思いだ。
   輝元並びに皆の出馬のことはすぐに噂になって広まるだろうから
   外聞もいいと殿下は思し召しである。
   長陣になるかもしれないが、一通り申し付けるつもりでいる。
   併せて軽はずみな行動は起こさないように。
   いずれにしても敵を侮ったりせず、しっかりと心得て進軍するように。
   どんなことでも目いっぱいに働いてほしい。
   人数、兵糧などのことは心置きなく申し越してくれ。
   そのために勝手のわかる両人を遣わした。

     (天正十四年)十月十一日      秀吉

    毛利右馬頭殿
    小早川左衛門佐殿
    吉川冶部少輔殿
    吉川駿河守殿

   なおもって長陣が続けば、敵は一人ずつでも降伏してくるだろう。
   そのうえで、そちらの状況を見ながら殿下が出馬、逆徒らを成敗する計画だ。
   このとおりに進行するように。
   今回馬でも贈ればよかったのだが、急いでいたのでそれもできなかった。
   所望であれば追って贈るようにする。以上。」

四人への御内書は別々で、しかも文体が少々違っていたが、
たいていは同じなので、省略してこの一通を載せるに留める。


以上、テキトー訳。

うーん、なんだろ。
秀吉が味方に絡んでる合戦描写はあんまり筆が奮ってない気がする。気のせいかな。
でも押したり押されたりってのは楽しいね。
寡兵で立ち向かってガンガンに勝っちゃうってのも小気味いいけど、それはそれ。

じわじわと九州に侵食を始める中国衆。
今回は背後の心配がないから、けっこう思う存分戦功だけを追いかけられる。
まあそれは完全に秀吉の傘下に入ったことをも意味するわけだが。
輝元が悠々と遅れて到着するのは、なんか坊ちゃんぽくていいね!
輝元を前線にさらさないように、親族たちが頑張るようになってくとこがすごく好きだ。

そして元春病む。そんなにしてまで秀吉に会いたくなかったんだね。
腫れ物……って何だろな。炎症性粉瘤とかだろうか。
外科手術が発達してさえいれば、これで命を落とすなんてことはないんだろうけどね。
治療方法としては、炎症が起きてる患部を切開して膿を排出し、
炎症が落ち着いて体力が回復するのを待ってから、原因となる粉瘤を切り出す、って手順でいいのかな。
陶さんなんかは自分で炎症部を切開してしまったという痛い話があったが、あれは股だしな。
背中だとそうもいかないね。痛い痛い。

病といえば、手紙を読んでると広家もしょっちゅう具合悪くなるんだよね。
広正も頭痛持ちっぽいし、広嘉も疱瘡にかかってみたり吐血したりと病がちな一家だなぁ。
広正の子供なんて数人が夭逝してるしな。

さて、次も中国勢と黒官さんが仲良く進軍するよ!
2011-12-14

輝元から叔父上へ「オ・ネ・ガ・イ(ハァト」

わーい、昨日コメント乞食してみたら拍手もらえた!
初めてです! ありがとうございました!!!
と一通りデレデレになったところで、ようやく昨日の記事がタイトル未入力なのに気づいた。
アホだね。

さて今回は「秀」とか「元」の人が出てきたと思ったら、章自体が短かったよ。


中国勢豊前に渡ること、小倉城が明け退くこと

殿下秀吉公から安国寺恵瓊西堂並びに黒田官兵衛尉を通じて輝元様に伝達があった。
「九州の戦のことは、方角が同じ輝元をひとえに頼りにしている。
吉川駿河守元春は、家を元長に譲って隠居していると聞き及んでいるが、
しかしながら毛利家の軍事を、亡き元就は二手に分けた。南は隆景、北は元春だ。
隆景は伊予に出たといっても、元春は出ていない。
今回の九州の戦は元春に頼みたい。
中国勢を率いて九州に下向し、凶徒退治の作戦に従事するようにと、輝元から伝えてくれ。
元春がもし了承してくれれば、この秀吉も喜びのきわみだ。
南前は隆景の領域と聞いていたから、四国平定のときに伊予の国を宛行った。
今度九州征伐が済めば、先年には大友と立花において対陣したという因縁のある国なので、
筑前は元春に宛行おうと思っている。秀吉も来年の三月には肥後口向かって出馬する。
そのときに、近年何度も対陣してきた戦のことについて、元春と対面して語り合いたい。
隆景・元長には対面を果たしたが、元春にまだ会えていないのが気にかかっている。
ぜひ今回は出張(でばり)してくれるように、輝元から説得してくれ」
輝元はすぐに、元春にこのことを伝えた。

元春はしばらく考えをめぐらせているようだったが、輝元様が
「殿下の仰せに従ってくれれば、それが一番私のためになります。
もし秀吉公の仰せに背いては、毛利家のためになりません。
ぜひとも出張してください」と言うので、元春も否とは言えず、秀吉公の仰せに従った。
輝元様は喜びを抑えきれずに、
「隠居されたのだから、何につけても不自由なさいましょう」と言って、金銀をたくさん元春に進上した。
すぐに輝元様から秀吉公へ、
「仰せに従って、吉川元春を九州に出張させます」と報告が行き、秀吉は大いに喜んだ。

こうして天正十四年八月十六日、元春・元長・隆景・経言は、中国八州の軍勢を率いて、
豊前の小倉へ押し渡った。輝元様は長門の国府まで出張した。
やがて小倉の城を取り囲むと、高橋はやがて城を明け渡し(天正十四年十月四日)、
賀春の嶽へと引いていった。
これにより、その城には黒田官兵衛尉が入り、吉川・小早川の両将は牛房原に陣を張った。


以上、テキトー訳。

TERUの「お願い(;人; )」は身内に絶大な威力を発揮するな。
当主だから当たり前っちゃぁ当たり前だけど、
へそ曲げた元春の心を動かすTERUって、もしかすると毛利家最強かもしれない。
まあ隆景の説得があったんだろうけどさ。元春もけっこう隆景に甘いとこあるし。
なんだかんだで、こうやって身内で助け合って生きてくところが、毛利家大好きな一因かもしれない。

しかし秀吉の元春に対する執着が強くてもはや笑うレベル。
おまえなんか女の尻追っかけとけばいいんじゃー  (☄◣д◢)☄ワシャー
まあ女にも振られぎみだったりするけどな。まあなんだ、元気出せよ秀吉。

そして、やってきました。「元」も「秀」もついてない経言(広家)!
天正七年~九年頃にはグレちゃってしょーもなかった元春三男だけど、もうそろそろ落ち着いてるよね。
ていうか一向に登場しない次男は何やってるんだろう。
これから活躍してくれるのかな。楽しみ。
2011-12-13

九州征伐、中国勢前哨戦

カウンター見たら昨日・今日といきなりアクセス数が増えてるんだけど何でだろう。
まじめに調べ物しててこんなサイトに出くわしてしまった方は実にご愁傷様です。
ダメ出し等随時受付中ですので、よかったらコメント残してやってください。
だがエロ広告! テメーは駄目だ!!!
検索よけとかしたほうがいいのかな? やり方を調べないとわからないんだけど。

さて「陰徳記」の続き。
九州征伐で先陣を切った長曽我部・仙石隊が
まんまと島津に釣られてコテンパンにやられた、まで読んだ。


備前小倉城合戦のこと

毛利・吉川・小早川にも、九州征伐に出発するようにと殿下(秀吉)から通達があった。
輝元様からは、まず三浦兵庫助を大将に、
三刀屋弾正左衛門・桂兵部丞・福原彦右衛門尉をはじめとして、
主力兵三千騎ほどが豊前の地へ送られ、門司の関の城に入れられた。

こうしたところに、小倉の城から高橋の手勢が打って出てきた。
足軽が出て、弓や鉄砲を射かけ撃ちかけて迫ってくる。
三浦は「どうにかしてまず高橋の端城の小倉を攻め落とせば、
古所山の麓の馬見の城に立て籠もっている秋月は、城を空けて退散するだろう。
そうなれば高橋も賀春之嶽にとどまることができないはず。
帆柱の城に立て籠もる麻生重郷、山鹿の城の麻生元重はもとより中国方なのだし、
豊前一国はばらばらとなびき従うだろう。まず目の前で踏みこらえている小倉を攻め取ろう」
と策をめぐらしていた。

そこに、小倉の城から稲津見羽右衛門が足軽隊の先に出てきた。
手勢は五百ばかりで、敵に「かかってこい」と挑発する。
三浦はこれを見て、「敵が四、五百ほどで出てきたならば、城中の兵の半分以上が出てきたのだろう。
あの勢に取り結び戦ってすべて討ち取れば、城はあっという間に陥落するはずだ」と、
二千ほどで打って出て、ひしひしと対峙する。
矢の射かけ合いがはじまると、稲津見は次第に人数を繰り出してきて、
これも二千ほどになって突きかかってきた。

門司の城からも、これを見て、城中の兵をすべて繰り出して打って出て小倉勢を追い立て始める。
と、そこに一千騎あまりが敵の援軍として現れた。
これは秋月が事前に用意していた策だった。
思いも寄らずに横合いから突きかかってこられそうになって、門司勢は突き立てられ、
先備えの足軽の足が乱れて退却を始める。
これはもう大崩になるだろうと見た福間・桂は後ろに下がり、大音声を上げて全軍に下知し、
備えを乱さずに退却しようとするも、
敵が大勢で鬨の声を上げて攻め寄せるため、これでは諸勢が次々に追い討ちをかけられてしまう。
そこで福間彦右衛門は十文字を軽やかに提げて引き返し、
向かってくる敵を数多く掛け倒し突き伏せ勇猛に戦って、たちまちのうちに戦死してしまった。

桂兵部丞はこれを見て、
「今ここで引いては、日頃から誇っている武勇が台無しになって大臆病者の汚名を着るだろう。
いざ討ち死にしてやろうではないか」と、馬からひらりと飛び下りて槍を提げ、
「エイヤッ」と声を掛けて敵を待ち構えた。
三刀屋は「桂は討ち死にと思い定めたようだ。
ここで討ち死にしても、味方が少しでも助かるわけでもないだろうに」と言って控えていた。

小倉勢は桂が立ち向かってくるのを見て、これはいい敵だと思ったのか、
自分が討ち取ってやろうと、数百人が打ってかかる。
桂は名高いつわもので、勇んで迫ってくる敵兵に少しもひるまず、
無手と渡り合い、突き立て切り立て散々に戦った。
しかし敵は勢いに乗っているうえに、新手を入れ替えながらかかってくるので、
兵部丞もその身は鉄や石でできているわけではなく、切り傷・突き傷を多数受けて、
ついにその場所で討たれてしまった。

三刀屋弾正左衛門は、手勢二百ほどで控えていたが、家之子郎党たちが久佑の前に来て、
「桂殿は討ち死にいたしました。何を待っているのですか。かかって一戦しましょう」と声を上げる。
三刀屋は「お前たちは戦術など知りもしないだろう。
勝機を得た大軍に、敗色濃厚になった小勢が打ちかかって一戦したところで、
どうやって勝利を得られるというのか。かかるのも待つのもそのときによる。
ここでかかっていけば桂の二の舞になるぞ。
時を待って戦えば利もあるだろう。
そのうえ敵は勝ち誇って少々備えが乱れているように見える。
こちらが備えを固くして待ち受ていれば、敵も引かざるを得ないだろう」と言って馬から下り、
「この久佑の手の者は、一人も立ち上がらず、座ったまま討ち死にせよ」と命じ、
山のようにどっしりと控えた。

敵は三刀屋が討ち死にと言ったのを聞きつけて、さらに勇んで押し寄せてくる。
三刀屋の郎党たちも一歩も引かず、敵と刺し違えて十七人が枕を並べて討ち死にした。
敵がこれには三刀屋も堪えられないだろうと目をやれば、
さすが雲伯では武勇を極めた久佑というべきか、少しも騒がずに槍衾を作って待ちかけている。
さしもの高橋勢もこの勢いに辟易して、まったく近寄れず、それから次第に退却していった。
久佑がこうした働きを見せなければ三浦も討たれてしまうところだったが、
三刀屋の武勇のおかげで十死に一生の難を逃れたということだ。

こうして中国勢は一戦のうちに勝利を失い多くの兵が討たれてしまった。
三浦はどうにかしてこの憤懣を晴らすべくひと合戦したいと思っているところに、
ちょうど三村紀伊守が備中から馳せ下ってきた。
三刀屋弾正左衛門とも軍議をして、伏兵を七曲に置き、斎藤寺口から三浦兵庫助が二千騎あまりで打ち出た。
高橋・秋月らはこれを見て、
「三浦の武勇の程は先日試してよく知っている。今日は一人残らず追い討ちにしてやる」と、
三千騎あまりで懸け合った。

三浦は作戦通り、一矢射てはさっと引き、引いては一矢射ち、次第に下がっていく。
高橋の郎党たちは、秋月の手勢より早く攻撃して高名しようと進み、
秋月の兵は、高橋勢に後れを取るものかとはやって、我先にと進む。
いよいよ三浦が退却を始めると、それを策略とは知らずに、
「先日大敗して臆病神が頭に乗り移っているのではないか。
今日は一度も槍を合わせることなく逃げていくぞ」と言いながら、馬に鞭をくれて追いかけた。
三浦は取り決めていた場所まで敵を引き付けると、今度は鼓を打って兵を返す。
七曲に伏せていた三村紀伊守・三刀屋弾正左衛門、総勢七百騎あまりが敵の後を遮ろうと打って出ると、
さしもの高橋・秋月勢も前後の敵を防ぐことはできずに退却していく。
これを追いかけて散々に討った。
高橋・秋月の兵が多く討たれた中に、千寿の何某・秋月の一族の一人がいた。
ようやく三浦は、先日勝利を失った会稽の恥を雪いだ。


以上、テキトー訳。

いいねいいね~。三刀屋さんかっこいい。
敵もさる者ながら味方もなかなかどうして。押しつ押されつ渡り合い、策を重ねてだまし合う。
こういう合戦は読んでて楽しいね。文章それ自体はあまりノッてはいないんだけど。ビバ頭脳戦。

しかし三浦だの三刀屋だの三村だの「三」がつく人が多すぎると思うの。
それを言ったら毛利家なんて「元」だらけで泣きたくなるけどね。
あと豊臣政権下では「秀」がゲシュタルト崩壊を起こしそうだよ。

次はその「元」とか「秀」がつく人たちも出てくるよ。
2011-12-12

つれづれ

心にふと浮かんだことを書き留めていくスペース。
自分の頭の中整理用。
書き出してみると、こんなに広家のことを考えていたのかと再認識。
正直言って自分でもキモチワルイw

※思いついたときにに上書きしていきます

続きを読む

2011-12-11

からくれないの戸次川

ゆんべの続き。

あらすじ的なもの:
宗麟から義統に代代わりした大友に対して反旗を翻した島津。
義統は島津征伐に乗り出すが緒戦で大敗、秀吉に泣きついた。
秀吉は九州征伐のために土佐の長曽我部父子、讃岐の千石を送り込んだ。


七尾合戦のこと

長曽我部父子(元親・信親)・千石(仙石)たちが豊後の国に着くと、大友は大いに勇気付けられ、
もう敵はよもや城に寄せることはあるまいと安堵のため息を吐いていた。
長曽我部は千石らと会議し、
「我等がこの国に着きながら、日向の国に敵の足を留めさせては武家の名折れだ。
それが殿下(秀吉)のお耳に入る恐れもある。いざ日向の国に打ち出し、
敵を隅州へ追い込み、殿下の出陣のはなむけにしようではないか」と、
大友の軍をも引き連れて、総勢三万騎あまりが豊後の部丹生に陣を構えた。
薩摩勢も一万騎ほどで打ち出し、戸次川を挟んで言葉戦いをしながら数日を送った。

千石・長曽我部は薩摩勢を目前にして、
「敵に我等が武勇のほどを見せつければ、再度手を砕かず刃を血で汚さずとも、
敵は自ら退散するだろうに」と勇んだが、
この川はそれほどの大河ではなきにしろ、大石・小石が流れに横たわり、
馬の足場が不安定で、なかなか渡れない。
「どうにか川さえ思うとおりになれば、貴様らの首を一つひとつ刎ねてやるものを」と歯噛みをしていたが、
やがて人夫を数千人そろえて石を拾わせ、またその石で両方から一筋の堤のように築き上げ、
中間に水の通り道を開け、その間には橋を渡した。
これで馬を二、三頭ほど並べて渡れるようになった。

千石たちは、「早く敵が出てこないものか。馬を次々に乗り渡して、一人も残さず討ち取ってやろうものを。
薩隅両国の者たちは、いつもの歩兵同士の戦には一家言を持っているかもしれないが、
騎馬兵との合戦は見たことさえあるまい。
一面に馬の鼻を並べて追い立てれば、太刀を打ち交わすまでもない。
皆ひづめにかけて蹴倒してやるのに」と鼻息を荒くしていた。

薩摩勢はかねてから敵を誘い込んで討とうと策を練っていたが、
まず七尾というところに足がかりの城を構え、そこから一里ほど進んで、戸次の高田に伏兵を置いた。
一千人あまりが茜の帷子に玉襷をかけ、桃の実なりの兜に赤熊(しゃぐま)の毛をつけたものを
一様にかぶり、槍・鉄砲・なた・長刀、そのほか各自の得意の武具をそれぞれ提げている。
「ここを渡ってきてくだされ。上方勢のお手並み拝見、我等が武勇のほどもお見せいたそう」
と挑発して、狂ったように跳ね回った。

長曽我部土佐守は名高い大将で、すばやく敵の目論見を見抜いた。
「敵がわずかばかりの勢で現れ、ここを渡ってこいなどと挑発するのは、
どうにかして罠に嵌めようとしているのだろう。
罠とはほかでもない、後陣に伏兵を置いて前後左右から挟み撃ちにしようとしているはずだ。
今日は渡河して一戦すべきではない」と制するが、
千石らは「しかし薩摩兵どもめ、憎らしい言い様です。
上方衆は楊枝をくわえて席駄(せきだ、雪駄のこと)を履き、
四条・五条の大路を歌でも口ずさんで歩いているようには見えない、
だいたいにして畿内の兵は、口は樊噌(はんかい、劉邦の家臣)にも勝っているのに、
心は比丘尼よりもひどく劣っている、などとあざけるのです
。一発ぶちかまして目に物みせてやりましょう」と、進軍を始めてしまった。

長曽我部信親はまだ若武者だったので、千石に先陣を務めさせられないと、一番に川を渡る。
はじめはこれまで整備した道を渡っていたが、あまりに進む者が多く、
あとは川へひたひたと乗り入れ、我も我もと渡っていった。
薩摩勢はかねてから計画していたとおりに、皆我先にと足に任せて逃げていく。
讃岐・土佐の兵たちは、
「そら見たことか、これまで人をののしった言葉を恥とも思わぬか。
上方勢の心と口が入れ替わったとでも言うつもりか。
おのれらこそ、口とははるかに違う臆病者ではないか。
どうした、戻って来い」と、槍を合わせて追いかけた。

七尾まで十五、六町ほどの距離まで進んだところで、
薩摩勢は頃合よしと判断したのか、一気に逃げ足を止めた。
鉄砲隊は固まり、槍、長刀と皆それぞれ固まって、岩になれとでもいうほどだった。
一人残らずひざを打ち組んで、真円になって、
敵がかかってくるならまず馬の足を薙ぎ捨てようと、静まり返って待ち構える。
その構えは銀山・鉄壁よりもなお固く、破るすべも見つからずに、
四国勢はどうにもしようがなくて、馬を左回り・右回りにぐるぐると乗り回し、
敵の隙があれば入って蹴散らそうと目を凝らす。

と、高田に潜んでいた兵たちが、合図の太鼓を聞くや否や、
「エイエイ」と声を上げて敵の背後を取って切りかかり、または横合いに突きかかった。
これを見て、岩になりひざを打ち組んでいた薩摩兵たちは、
槍を提げ長刀を担ぎ、鉄砲を先に立てて、小唄を口ずさみながら静かに打ってかかる。
千石・長曽我部はいずれも劣らぬ名将で、少しも騒がずに二手に分かれて防戦した。
「一歩も引くな、敵は小勢だぞ」と檄を飛ばしていたものの、
敵兵は次第に増えていき、ここの谷陰、あちらの峰裾から次々と打って出て四国勢の隙を突く。
四国勢は難なく突き立てられて崩れていく。
千石・長曽我部は馬の向きを立て直しながら「返せ、返せ」と下知するも、
大友勢はすでに混乱して退却していく。下知も耳に入らず、我先にと逃げ出した。

大友勢でも、名を惜しむ者たちは引き返して戦って討ち死にした。
なかでも小笠原備前入道宗仲は、そのころはまだ又七という名で十七歳だったが、
主従二十人ばかりで引き返し、散々に戦っていた。
そこに薩摩の野村四郎三郎が駆けつけ、名乗りを上げて突きかかる。
小笠原が槍の柄を長く握り直して「エイッ」と突くと、野村の肩先をしたたかに突き刺し、
対して野村は小笠原の草摺の隙間に突っ込んだ。
又七が危なくなったので、郎党たちが向かってくる敵を打ち払い、主人に肩を貸して退却した。

長曽我部信親は、「此度の合戦で失敗し、生きて帰って人にあざ笑われるのは口惜しい」と考えて、
郎党に向かい、「信親は討ち死にするぞ」と言って引き返した。
追いすがる敵を何度も切り戻したが、ついにその場所で討たれてしまった(天正十四年十二月十三日)。
これを見て信親の家人の桑名藤吉郎・細川源左衛門・池左近右衛門をはじめとして、
「こんなときに命を惜しんでいられるか」と、敵と渡り合い刺し違え、
四百六十人あまりが同じ場所で枕を並べて討ち死にした。そのほかの雑兵は数も知れない。
千石・大友の兵たちも討たれた者が多く、逃げ切れた者は少なかった。
戸次川の水面はから紅に染まり、「
神代も聞かず(ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは『小倉百人一首』在原業平」
と詠まれた竜田川の秋の波に紅葉が流れているかのようだった。
長曽我部は味方が大敗して退却してくるのを見て、二千ばかりで打ち出て備えたが、
敵も長追いはせず、戸次川を限度に打ち切りにしてやがて兵を引いていった。

こうして薩摩勢は長曽我部信親を討ち、その死骸を、
戸次の内の七尾の青山に続く高山の山頂に塚を築き、大きな石を据えて葬った。
供養をねんごろに執り行い、僧たちを呼び集めて読経・念仏を上げて弔った。
ありがたいことである。

こうなると大友は府中の上野原にもいられずに、また八里引いて、
「あぢむ」の龍王山まで逃げて籠もった。
戦えば負け、負ければ逃げる義統の心の中こそがまずかったのだろう。
この合戦の様子を聞いた殿下は、すぐに千石権兵衛尉の領国、讃岐を召し上げた。


以上、テキトー訳。

くそう、つよい、さすが島津強い! 釣り野伏怖い!
信親……かわいそうに。あたら若い命をこんなところで散らして。
この合戦は悲劇のヒーロー信親と対比されて逃げ延びやがった千石の卑劣さが際立つね。
長曽我部・仙石と併記されてるけど、軍監は仙石だから指揮権握ってるわけだし。
だいたい12月中旬つったら今時期だよ。真冬だよ。それなのに渡河? ばかじゃないの。
まんまと誘い込まれてフルボッコされてりゃざまぁないわ。
この敗戦で所領没収されて高野山に追放されても、後日小田原の役で大名に返り咲いてるし、
江戸期も無事に家を続かせたようでホントに憎らしい (#^w^)ギリギリ

で、信親隊の死に様がまた悲惨なんだよね。陰徳記には詳しく書かれてないけど。
遺品として引き取られた具足がボロッボロだったらしいし。
これで長曽我部の中心的な家臣も根こそぎ戦死して、
元親も期待の嫡男の死を受け入れられずに気がふれて、長曽我部家はどんどん沈んでいくんだよね。
関ヶ原(元親の四男、盛親が当主)ではよりにもよって西軍についた(長塚正家に拉致られた)うえ、
よりにもよって南宮山に陣取って、広家のせいで動けないまま敗戦を迎えたりさ。
大坂の役も大坂方について負けて斬首されちゃうしね。ナムナム。

次は中国勢が登場するよ。
2011-12-11

島津が大友に牙を剥いたようです

うっかり開いたのが、島津VS大友だった。
秀吉による九州征伐の前段階だから、ここから九州平定まで読み進もうかと思う。
元春登場が待ち遠しいよ!


島津修理大夫、大友に背くこと

大友左兵衛督義統は、父の宗麟以来、九州をすべて切り従え、上見ぬ鷲のように振舞っていた。
筑紫の習慣で、幕下に属する者は八月朔日に国々から馬を引かせてきて繋ぐという行事がある。
このため、誰かの手に属することを「馬を繋ぐ」と言うようになったそうだ。

さて大友家城の厩の前に馬を繋ぐための柱を二、三百ほど打ち立て、馬櫛と刀を添えて置いておくと、
九州の諸侍たちが馬を一頭ずつ引いてきて、その木に繋ぎ、「誰々の馬」と大札を立てて、
舎人に侍一人を差し添えて畏まっていた。
そのとき大友が出てきて床机に腰をかけ、その馬たちを眺める。
毎年の控の台帳を取り出して見比べ、もし一人でも馬を繋がない武士がいれば、
「さては逆意だな」と、すぐに討手を差し向けてこれを攻め滅ぼすのだ。

天正十二年の八月朔日、また例年のように馬を繋がせると、
島津修理大夫(義久)が馬を繋いでいなかった。
馬繋ぎを監督する畑野善内が、このことを左兵衛督に報告すると、
武衛(兵衛府の唐名)義統は大いに憤り、
「さては島津め、私に背いて敵対するつもりか。憎い態度だ。
何ほどのことがあったと言うのだ。急いで討手を差し向け攻め滅ぼせ」と命じた。

心無い者たちは、「薩摩・大隈を攻め取ったら大友の旗本の者は大身になれるぞ」と歓喜した。
心ある者たちは、「こんなことができるとは、島津は智仁勇を兼ね備えた良将だ。
大友家の武道は、前の代に比べて雲泥の差がある」と見透かして、大友に敵対した。
「これから大友の国は日向方面から切り取られていくんだろうな」と眉をひそめ、大息を吐く者も多かった。

大友家の老臣で、武道の功がある者たちが寄り集まって、
「島津退治のことをどうするべきか」と会議を重ねているところに、ある報告があった。
島津が討手を待たずに先手を打っており、弟の兵庫頭義弘を大将として、日向の国の高城まで打って出て、
そこから先陣が「つくみ」という里に進んで家々に放火していったという。
この「つくみ」というところは、大友義統の家城の臼杵からわずか三里の距離なので、
義統は大いに驚いて「急ぎ討手を差しやって、高城の敵を追い散らせ」と命じた。
大友家の侍たちは、我先に向かわんとひしめきあった。

こうしたところに、臼杵新介が義統に諫言した。
「高城をうかうかと攻めようとするのは由々しきことですぞ。
というのも、当家の侍たちは戦の仕方を忘れ果てているように見えるのです。
島津は修理大夫・弟の兵庫頭ともにいずれも劣らぬ勇将です。
そのうえ近年は肥後表で何度も大軍を率いて勝利を得ており、
また龍造寺も大勢で攻め戦いましたが、島津はその五分の一の小勢で勝利を勝ち取ったことも何度もあります。
今九州を切り従えている大将は島津兄弟だと思います。
ですから、宗麟の代にここでもあそこでも勝利を得たのをいいことに、
敵を侮り敵国に深々と攻め入ろうとするのは、口にするのも恐れ多いことではありますが、
鵜のまねをする鴉と同じではないでしょうか。

まずこちらが負けないように策を立ててから、敵に勝つ行動を起こしてこそ、完全な勝利を得られるものです。
この戦の勝負が当方にあるのか敵にあるのかすら考えることもなく、
向こうは小勢、こちらは大勢だからといってむやみに仕掛けて一戦するというのは、
まったくもって愚将のやることです。
まず国境まで出て行き、足がかりの城を築き、それから次第に詰め寄り、
その流れで日向の国に踏み入って、その後大隅・薩摩へ攻め入るほうがいいでしょう。
大勢が小勢に負ける要因はいろいろと多くありますが、まず敵を侮って負けるというのが一番多いのです。

味方の軍勢は島津より二倍、三倍もいるでしょうから、
まず味方の陣城を築き位詰め(威圧して詰め寄せる)にして、日向を攻め取るといいでしょう。
敵はとにかく一戦のうちに勝敗を決さなければ国が奪われてしまうと思って、
無理な一戦を仕掛けてくることでしょう。
そのときはさらに気を引き締めて戦い、大将を得るのではなく五分、三分ほどに勝ち、
勝って兜の緒を締めれば、敵は威を失い、味方は次第に強くなって、しまいには敵国を滅亡せしめるはずです。
まず日向境まで打ち出て、むやみに戦をせずに敵の強弱をお試しなされ」

これに義統は激怒した。
「宗麟と私にどんな違いがあると言うのか。互角の兵数であっても島津ごときに負けはせぬわ。
ましてや、あちらは小勢、こちらは大軍だぞ。戦わずとも勝利は疑いようがないではないか。
高城をひたひたと取り巻き、一気に攻め破るのは難しいことではない。
もし薩摩から後詰があれば、それこそ望むところだ。仕掛けてことごとく打ち滅ぼしてやろう。
勝利はわが掌中にあり。
おまえは遠慮だては、その白髪頭が惜しくてそう言うのだろう。
私が戦場で臆したことがあるか? 臆さなければどうして島津に負けるというのか。
父に劣ると言われるとは実に奇怪である」
と、義統が地面をビシバシと打ちながら怒るので、新介は重ねて言った。

「この白髪頭は、いずれは白骨になるものです。
人間はどんなに生きても百歳までは生きられません。それを恨もうとも嘆こうとも思いません。
この老いぼれがいる限り、国を敵に取られることはないでしょうが、
もし今すぐにでも私の白髪頭が敵の手に渡れば、義統は豊後の国を三年と保つことはできないでしょう。
お父上の宗麟は民を憐れむ御心深く、敵を滅ぼす謀略に長けておいでのうえに、
武道の探求も怠らなかったからこそ、九州はことごとくその手に属し、島津も幕下に下ったのです。
それなのに宗麟を失ってからは、お屋形様は武道の噂すらされずに、
伴天連坊主か茶の湯の坊主かのようになってしまわれました。
これは大友家も末になって滅び果てる時節が来たと考えて、島津が兵を出してきたのでしょう。

あの家は今まさにこれから隆盛を迎えようとしており、
軍制も正しく、武勇は日の出の勢いになっています。
それに比べてこの大友家は、文武の道も廃れ果て、すでに言えも傾きかけ、
落日のごとくだというのに、どうして敵を退治などできましょうか。
敵を滅ぼすより敵に滅ぼされないようにこの国を守ってくだされ。
今度、敵の先陣の将に会って、私は討ち死にするでしょう。
そのときに、この新介が申した言葉の意味を思い知りなされ」と、
新介は座敷をスッと立って、宿所に帰ってしまった。

義統はやがて叔父の田原入道従忍(親賢、紹忍)を大将として、
志賀・清田・佐伯・部丹生・杵月・本城・古沢・畑野・松木、
そのほか大友家の侍一人も残さず徴用して、その軍勢は六万騎以上になった。
臼杵新介は親しい友人に最後のお別れとして自分で立てた茶を振舞った。
「茶釜の蓋をしないのは不吉だと聞くが、私は二度と帰らないだろうから、釜の蓋をするな」と言い置いて、
そのまま日向へと出発した。

豊後勢は日向の国の佐土原に陣を張った。
島津は同国の高城にいたが、やがて同国の耳川を渡って一万ほどで押し寄せる。
豊後勢も打って出て、矢立が杉というところで合戦となった。
命知らずの薩摩兵が無二に切ってかかってくるので、たちまち豊後勢は突き立てられ、
捨て鞭を打って逃げ出した。

臼杵新介は、味方が前後ひとつになって崩れていくにもかかわらず、
自分は少しも引かずに、手勢三百ほどで真っ向から一戦した。
兵は、あるいは討たれあるいは逃げ出して一人もいなくなり、
それでも新介はいささかも騒がずに床几に腰掛けていた。
薩摩兵が勢いづいて進む中に、新納武蔵守という者が一番に名乗りを上げ駆け寄ってくる。

新介はにっこりと笑って、
「さては新納殿でいらっしゃるか。
思うところあって、今回は討ち死にすると思い定めて罷り出で申した。
雑兵の手にはかからず、武蔵守殿に会って討ち死にできるとは、こんなに嬉しいことはない。
よく討ってくだされ」と言い、
刀に手をもかけずに、はかなくも討たれてしまった。
なんと強い男だろうと感じ入らない者はなかった。

これを見て、田渋重富・田渋隼人佑・長松土佐守・古沢右馬助たちは引き返し、
所々で戦って五百人あまりが討ち死にした。
恥も人目も気にしない者たちは皆我先にと逃げていった。
足が立たずに倒れ、後から来る味方に踏みつけられて死んだ者、
洞に飛び込んでしまって命を失う者など、豊後勢は二万三千あまりが討たれた。
辛くも命を拾った者たちは馬や武具を剥ぎ取られて、
乞食・非人のようになって臼杵の城までの十九里の距離を足に任せて逃げ延びた。
なんとも浅ましい有様であった。

義統は主力の兵たちをことごとく討ち取られてしまって、もうなすすべがなかった。
家臣たちの次男・三男などが僧籍に入っていれば還俗させて父の跡、兄の跡を継がせたが、
昨日までは読経・念仏ばかりしていた者たちでは、馬に乗って手綱を取る方法も知らず、
具足を取って肩にかけても上帯を固める技も知らない者たちばかりで、見苦しいことも多かった。

こうしてこの年も暮れていき、明けて天正十三年九月上旬、
島津は日向から打ち出して臼杵の城に攻め寄せてくると噂が立った。
大友は迎え撃とうとしたが、味方の大半が坊主上がりで、
刀を後ろに差し、弓を右に持ち、矢を左手につがえるような者たちばかりでは、これ以上戦えるはずもない。
敵が寄ってこないうちにと、臼杵の城に火を放ち、
七里先のの上野原というところまで、取るものもとりあえず逃げ落ちていった。
口惜しいことである。

そしてそのままその城に籠もっていたが、これでは島津にかなうまいと考え、
能島・久留嶋に頼んで急いで京に遣わした。
「御味方に参じますので、秀吉公が九州にご出馬してくだされば、
先陣を承り道案内をいたしましょう」と伝えると、
殿下は「大友が味方になれば国の案内にちょうどいい。大友に協力せよ」と言って、
土佐の国の住人、長曽我部土佐守(元親)・その子信親、讃岐の国の住人、
千石権兵衛尉(秀久)などに、「豊後に赴いて大友に力を貸せ」と下知した。
両人は、総勢一万五千騎あまりにて、同(天正十四年)十一月中旬に豊後に下向していった。


以上、テキトー訳。

ぼんやりしてたら日付変わっちゃった。口惜しや。

なんてゆうか、義統が典型的なバカボンすぎて逆にかわいい。
お父さんと比べられてブチ切れるのはngmsの専売特許ってわけじゃないのね。プププ。
新介さんがかなり辛辣なんだが、大友家臣てのは立花道雪も辛辣なイメージだよな。
宗麟も「民を憐れんだ」なんて持ち上げられてるが、
この人、耶蘇教に狂って寺社仏閣破壊したような人だし、
あんまり民に愛されてたとは言えないんじゃなかろうか。かなりダメダメなイメージ。
でもすんごく優秀な家臣がそんな当主を見捨てずにいろいろと尽くすからすごい。

あんまり詳しくは知らないけど、このときの戦はホント悲惨だったらしい。大友が。
なんせ大友家の中心人物がことごとく討ち死にしちゃって、
その跡を継いだのが、陰徳記では「坊主上がり」ってなってるけど、
ほとんど十代前半とかの少年だったらしい。そりゃいかんわ。

島津もイケイケなんだな。
この家はものすごく強靭でしぶといイメージがある。関が原の島津の退き口も有名だしね。
少人数で敵中突破だよ。考えられないよ。
しかもそのとき、敵方の将にクリティカルダメージ与えてるし。もうイミフ。
それで追っ手が迫っても「捨てがまり」って戦法で、大将の義弘は九州に帰り着いちゃうし。
アメージング薩摩隼人。

九州戦線、重い腰を上げた元春の悲しい話もあるけど、
もうひとつド悲惨な鬱戦場があるね。今回も不穏な名前が出てきたけど。
何も年末にこんな悲惨な話を読まなくても、と思わんでもないが、
舞台もちょうど年末だし、ちょうどいいかも。
2011-12-09

鳥取落城

前回のあらすじ:
鳥取城を取り囲む秀吉と城方の間では和睦交渉が進められていたが、
大将の経家が求められてもいないのに切腹を申し出て引かない。


鳥取丸山扱いのこと、付いて吏部以下自害のこと(下)

また二、三日してから、秀吉から同じ使者が送られた。
「経家の言い分は至極もっともだとは思いますが、互いに和睦すれば、
自害は必要ありません」と再三説得しても経家は受け入れなかった。
また秀吉としても、城を落としたとしても大将を送り帰したとあっては、
武勇のほどが疑われ、世人もどう思うかわからない。

「経家が義を守られれば、この秀吉の武名も上がります。
この上は、互いに固く誓いを交わして和睦すべきだと思いますので、誰か一人遣わしてくだされ。
起請の判を押し、その証拠をお見せしましょう。
もしおかしな考えを持つようなら、弓や鉄砲で攻めるのをやめて、
兵糧攻めにして飢え死にさせることになります」と伝えた。
これに答えるために、城中から野田左衛門・小野太郎右衛門が遣わされた。

経家が山県源右衛門に向かい、「秀吉への書状をおまえが書け」と言ったので、
山県は「承りました」と、筆を執った(石見吉川家文書一五一=山県長茂覚書)。
その書状にはこう書いてある。

「このたび、因州鳥取において京都・芸州が弓矢を戦わせ、
大軍を相手にし、切腹に及んで諸人を助けるのは、後代の名誉のためです。
この通りの趣旨を天下に広く知らせてください。恐惶謹言。
(天正九年)十月二十五日      吉川式部少輔 経家
    羽柴筑前守殿」

吉川元長公への別れの手紙は自分で書くと言って経家が書いた。
もとより達筆な上、これが最後だと思って書いたのだろう、
文字には誤字脱字もなく、筆の跡も非常に美しかった。
また、父の和泉守(経安)・母・子息の亀寿丸へも、後の形見ともなるようにと思ったのか、
とても細やかに手紙を書き綴った。

そして同十月二十四日、森下出羽入道道与・中村対馬守の二人は、
どちらも自分の屋敷でひっそりと自害していた。
丸山の城でも、奈佐日本助・佐々木三郎左衛門・塩冶周防守がともに自害した。
誰もが潔かったという。

式部少輔は秀吉の起請文の到来を待っている間に、数百人の手勢に最後の盃を与えた。
そして野田・小野が起請文を受け取って帰ろうとしたとき、
秀吉が二人に向かって「式部少輔の首は天下にお送りするので、介錯は念を入れてくだされ」と言う。
二人が城に帰ると、時刻は寅の刻になっていた。

式部少輔は秀吉の起請文を改めると、客殿に出てきた。
その肌には越後の帷子、上には浅黄の縮(しじら)の袷、その上に、
萌黄の裏をつけた黒い羽織を着けている。
具足櫃に腰をかけて座していたが、静間(源兵衛)に向かって
「信長の実検に入れる首なのだ。よく打てよ」と言った。
福光小三郎・若鶴神右衛門は、兼ねてから追い腹を切ろうと思い定めていたので、
どちらも肌に白い帷子を着けて、数珠を手にかけて座していた。

こうしたところで、経家は左右をキッと見て、「秀吉からの検使をここに通せ」と言う。
小坂永左衛門がそれに答えた。
「至極ごもっともな仰せにございます。検使は何のために来ているのか。
大将のご自害を見せるためですとも。ここにご案内しなされ」
野田も「承りました」と言って、検使を案内しようとしたけれども、
堀尾茂介・一柳市介は何を思ったのか、しきりに辞退するのだった。

さて、式部少輔は羽織を脱いで捨て、押し肌脱いで、
一尺五寸はある脇差についている卵型のつばを抜いて中巻にすると、にっこりと微笑んだ。
「日頃から稽古していたことだって、こうした折には心乱れて仕損じることもある。
ましてやこのようなことは稽古などしようもないものなのだから、
きっとみっともなく見えるだろうな」
また、辞世として「武士の取り伝えたる梓弓帰るや本の栖なるらん」と口ずさむ。

その声の下から、脇差を左の脇腹に突き立てる。
「エイヤッ」と右に引き回し、また心本に突き立てると臍の下まで引き下ろす。
刀はそのままに、両手を突いて首を差し出し、「よく打て」と命じた。
静間は刀を振り下ろした。
しかし、さすがに先祖代々仕えてきた主君だからか、
静間の目はくらみ、心も消え果て、太刀をどう打ち下ろしていいのかもわからず、
刃は経家の首に届かない。
式部は弱った様子もなく、「ばか者。切らぬか」と声をかけた。
ようやく二の太刀でその首を打ち落とした。

これを見届けた福光小三郎は、押し肌脱いで腹を一文字に掻き切り、
「お供いたしますぞ」と二度言ったところで、竹崎市允が首を宙に打ち落とした。
若鶴神右衛門はこれまで長く患っていたたので、腕の力が弱って見えたのだろう、
刀を腹に当てようとしたときに、竹崎が首を切って落とした。
そして式部少輔の首を洗い清めて首桶に納め、野田左衛門尉が秀吉の本陣に持っていった。
秀吉も「立派な義士であった」と、鎧の袖を絞ったということだ。

夜が明けると、秀吉は一柳の陣所の尾崎の矢倉に上って、下城する者たちを眺めていた。
袋川に橋を渡し、左右に検使を数百人置いて、芸陽勢と森下・中村の子を帰国させ、
この国の者たちはそのまま残し置いた。
また丸山では、諸卒が下城するとき、寄せ手が城戸を支えてこう言った。
「ほこり銭といって、城を明け渡して出る者は、一人当たり銀子五分を出せ。
これは京都の戦の流儀だ。もしこれに背く輩は、一人も残らず斬り殺すぞ」
城中の者たちが「なんてことを言い出すのだ」と思っていると、
境与三右衛門が出てきてカラカラと高笑いした。

「美濃・尾張、また五機内の腰抜け者どもが、命惜しさに侍の法を忘れて出すんだろう。
中国ではそれを首銭というのだ。侍である者が首銭など出すものか。
こんな恥辱を受けては、命があったとしても生きる意味などないわ。
城中の者たちよ、一人残らず私とともに討ち死にしようではないか!」
こう言って槍を引っさげて近づいてくる有様は、
いかなる鬼であっても真ん中を突き貫いてやるとでも言うような面魂だ。
寄せ手は、「確かにおまえの言うとおりだ。そのまま通ってくれ」と返した。

境が真っ先に立って城中を出ると、藤堂与右衛門が馬上で下知をして回っているところだった。
森脇次郎兵衛尉がこれに飛びかかって馬から引き摺り下ろし、
境も同様に組み付いて、藤堂を難なく人質にとる。
敵たちはこれを見て、山県九左衛門を人質に取った。

こうして鳥取の者たちを、検使の堀尾茂介・一柳市助が一里ほど先に立って、
河口刑部少輔久氏が籠もっている留(とまり)の城まで送っていった。
藤堂についてもそこで人質を取替え、敵と味方は東西に別れた。

式部少輔の首は秀吉によって安土へと送られ、信長父子が諸侍とともに実検した。
これほどの義士の首をいたずらに捨て置くべきではないと、
とある禅院に送り、ねんごろに供養したそうで、実にありがたいことである。


以上、テキトー訳。

ダメだ。最後の堺さんにすべて持ってかれてしまった。
経家と近臣の最期の有様に浸っている余裕なんかない。
まじでいいキャラすぎる。
藤堂さんを人質に取っちゃったり、かなりお茶目だな。
おとなしく人質にとられてる藤堂さんもなかなか茶目っ気がある。
この人はかなり上背があったみたいだから、飢餓で痩せ細った男の一人や二人、
簡単にねじ伏せられたんじゃないかと思うんだ。
とばっちりを受けた山県さんはかわいそうだけど、この人も肝が太そうだよね。
虎の子の弾薬を敵方に送るとなってもノリノリだったし。

うーん、ちゃんと経家のことを考えよう。
まあ戦略的にどうとかは置いといて、切腹のシーンはイイね!
服装まで細かく描かれてるから、絵としてイメージしやすい。
これは石見吉川家文書収録の山県長茂覚書に事細かに書かれてるらしい。
また今度読んでみよう。

静間さんがなかなかに切ない。
「ちゃんと首を打てよ」って念押されて、それでも心乱れて仕損じちゃう。
「ばか者」って言われてようやく務めを果たす。
そうだよね、そうなるよね。ずっとお仕えしてきた主君だもんね。
飢えでフラフラなはずだし。
ここで一刀のもとに打ち落とすのもカッコイイのかもしれないが、
みんな潔く自害しちゃうなかで、静間が見せる懊悩・迷いってのが強烈に人間くさくて印象に残る。
福光・若鶴の追い腹もその介錯も見事だねえ。

そういえば石見吉川家文書には、経家が鳥取から書き送った状況報告もいくつか収録されてるんだが、
ちらっと見た限りでも、ものすごく細かくて長い書状だった。
きっと真面目一本な性格だったんじゃないかなと思う。
元長に送られた書状は収録されてるかどうかわからないけど、
広家(当時は経言)に送られた経家の手紙はウィキペディアにも掲載されてて、有名なようだ。
息子への形見の刀を広家に託すから、息子に与えてやってほしいという内容だった。
経家の息子の亀寿丸は成長して経実という名になり、その子の正実ともども、広家にずっと大事にされてた。
広家が経実の病気を心配する書状がたくさん残ってるんだ。
「今日の容態はどうかな」「食欲はあるかな」とかね。
こういうのを見ると、経家の忠死も報われたような気がするね。

さてさて、次はどこを読むか。やっぱ元春かな。
2011-12-08

「名」と「命」

待ち兼ね山の経家さんだよ。

鳥取丸山扱いのこと、付いて吏部以下自害のこと(上)

秀吉から、堀尾茂介(吉晴)・一柳市介(直末)が吉川式部少輔(経家)に使者として送られた。
「去る七月以来、互いに諸卒を苦しめ、いたずらに月日を送ってきました。
ここで和睦を結び、芸州勢は式部少輔をはじめとして、
最後の一人まで無事にお送りしようと考えております。
また、森下・中村・佐々木・塩冶たちについては、山名豊国譜代の家臣でありながら、
自分の立身を優先して主君を追い出すなど、前代未聞の悪逆。
奈佐日本助は海賊の元締めで往来する船を襲い、多くの人を悩ます大悪人です。
この五名の者共を輝元が召抱えるはずはないでしょう。
また信長も召抱えたりはしません。
速やかに首を刎ねて、世の中への見せしめとなさいませ」
城中からは野田左衛門尉(春実)・小野太郎右衛門が出てこの趣旨を聞き、式部少輔に伝えた。

経家はこれをすべて聞いて、しばらく目を閉じて考えている様子だった。
「私は大将を引き受けてこの城に籠もり、諸卒の命を預かる身だというのに、
どうして味方の者たちを捨て、甲斐もない命を永らえて本国に帰ることができようか。
人の一生は百年にも満たず、ただ春の夜の夢、風を待つ草葉の露と同じだ。
先年の後まで残るだろう名を汚すわけにはいかない。神仙ですら一度は滅びる。
人の身であれば言うまでもない。
生は死の始まりなのだから、無駄に屍を荒野の土に埋もれさせ、
空しく名を人知れぬ埋もれ木の谷底に隠すよりは、
今この城に籠もる兵たちの命に替わり、武名を天下に轟かせる方が、忠臣勇士の望みにかなう。
たまたまこの城に居合わせてこの難事に逢ったことは、嘆くに値するだろうが、私は嘆かない。
ただ、氏神様が、私の武名を未来永劫まで輝かすためにお守りくださったのだろう。
どんなに喜んでも過ぎることはない」

経家は野田・小野を遣わして返答した。
「秀吉の仰せは承りました。私は当城の大将としてここにいます。
森下以下の者たちに切腹させ、どんな面目があって本国に帰ることなどできましょう。
ただ私一人が自害いたしますので、諸士の命をお助けください」

秀吉はこの返事を聞き、
「こちらから切腹せよといっても、あれこれと断って命が助かるように策をめぐらすものだというのに、
逆に自分から自害を申し出てくるなど、義を守って死を恐れない態度は感称するに余りある。
このような義士を殺してしまえば、この秀吉は情け知らずのとんだ野蛮人となろう。
どうにか宥めて生きたまま本国へ帰せ」と言った。

重ねてまた堀尾茂介・一柳市介を式部少輔に遣わした。
「お聞きした趣旨は誠にもって珍しくも義を守られていらっしゃるとは思いますが、
しかし秀吉からは、御自らの切腹は無用とのこと。
その上で皆さまの命を助けて国元までお送りするのであれば、経家の武名の傷とはならないでしょう。
森下・中村・佐々木・塩冶・奈良は重罪の悪人ですので、
敵にも味方にも見せしめにするためにこそ首を刎ねてくだされ。
というのも、経家は、ただこの城の検使として、仮に大将の名を与えられたから籠もっているのであって、
それを重罪の輩と同じく自害させたのでは、
秀吉が黒白・邪正をわきまえていないように受け取られてしまいます。
自害はお取り止めくだされ」
使者はこう掻き口説いたが、経家は一向に首を縦に振らない。
これで調略は沙汰止みになってしまった。

城中の者たちは食料も尽き果て、すでに牛馬をも殺して食べてしまい、木の実を拾って飢えをしのいでいた。
調略が入ったと聞けば、乾いた魚が水に出会うような気持ちで、
また調略が切れたと聞けば、屠殺場にいる羊のように憂いを深くして、吐息をつくばかりだった。


以上、テキトー訳。

うーん、もっと悲惨な情景(人肉食とか)が描かれると思ってたらあてが外れたね。
吉川贔屓の読み物だし、それはまあいいんだけど、
吉岡・田公&隅、境与三を読んだ後だと、経家の決心も甘ちょろいものに見えるから不思議だ。
武名を上げるために切腹するくらいなら、とっとと腹掻っ捌いてより多くの者を救えよ。
意地張ってる場合かよ。
って思っちゃうのは現代の感覚が身に染み付いてるからなんだろうな。
通勤の電車が人身事故で混乱したとき、「迷惑な」としか思わないような人間だけど、
それなりに倫理観とか残ってたんだな、私にも。

まったく、ここまでかなり軽快に読み進んできたのに、
経家のこととなるとずっしり重くなるのは何故なんだぜ。
2011-12-07

こやつめハハ、ハ(;_;)

やっと時間が取れて鳥取城だよー!
待ってました(私が)!!!

と思ったら、今回は隣の丸山城の話ですぜ。でも前回・前々回も面白かったもんね。
今回はどうなるのかwktk

あらすじ的なもの:
毛利VS織田(秀吉)@鳥取。
端城の局地戦では城を守りきったりしてるものの、
本命の鳥取城・すぐ横の丸山城は、大軍勢に取り囲まれちゃって兵糧も乏しいしかなりピンチ!


丸山扱いの使いを切ること並びに狼狩のこと

鳥取・丸山の城は堅固に守っていたので、寄せ手が猛勢であろうと、攻め落とすことはできずにいた。
羽柴美濃守(秀長)は藤堂与右衛門(高虎)に向かって、
「さぞ丸山の城兵たちは、寄せ手の大軍を見て恐れ、また兵糧の乏しさに難儀していることだろう。
どうにか命が助かる方法はないかと思わない者はいないはずだ。
おまえが使者を送って、城を明け渡せば命を助けてやると言って、調略しなさい。
うまく敵の心を引くのだぞ」と命じた。

藤堂は「承りました」と、
阿字戒(あじかい)源太兵衛尉という者を使者として丸山の城に遣わして
「何もいわずにこの城を明け渡せば、皆の命を助けて伯耆まで送り届け申す」と言わせた。

吉川衆に境与三右衛門・森脇次郎兵衛尉という者がいた。
この二人はこの城の普請のために来ていて、ようやく完成し、
羽柴殿の陣取りを見てから帰ろうということで逗留していたのだが、
くるくると取り巻かれて出ようもなくなったので、しかたなく籠もっていた。
二人して使者に走り寄り、
「藤堂殿の御使者だな。こちらへお入りなされ。山県九左衛門尉がじかにお返事いたしますぞ」と言う。
阿字戒は身の危険を感じたのか、しきりに辞退したけれども、
「是非この中へお入りくだされ」と請われて、しぶしぶと中へ入っていった。

すると境がしっかりと抱きつき、森脇も続いてしがみつく。
阿字戒は夜に聞こえた大力でとにかく取っ組み合ったが、ついに二人がかりで押さえ込まれ、
捕らえられて切岸に引き出された。
二人が「藤堂殿にお返事いたそう」と呼ばわると、敵陣から「あれを聞け」と、多くの人が出てくる。
境与三右衛門が声高に、
「山県九左衛門が申したぞ。先ほどの御使者の口上の趣旨は承った。
委細は阿字戒殿へお伝え申した。御礼のため、御使者の体を分身させてお返しいたそう、とな!」
と言うや、首を中へ打ち落とし、切岸から下へと撥ね落とした。

敵はこれに腹を立てて「それならば一人も助けてやるものか」と、ひたひたと陣を近くに寄せる。
夜は折塀の合間へ提灯を数多く立て、
「蟻が通るのも見逃すまい、城中からであれば鼠たりとて見逃すまいぞ」と責め立てた。
その後井合次郎右衛門・藤堂与右衛門が、夜回りのついでに城の様子をうかがおうとして城の塀際に近づくと、
境与三右衛門はどうやって聞きつけたのか、槍を合わせて藤堂をしたたかに突いた。
与右衛門は手傷を負ったが、辛くも命は助かって帰っていった。

こうして数日が経った。
丸山の中腹の茂みの中に狼が一匹隠れていたが、鉄砲の音に驚いて、
茂みの中を飛び出して右往左往していた。
寄せ手はこれを見て、鉄砲をいっせいに撃ちかけたので、その狼はまた茂みの中へと入っていく。
羽柴美濃守が城方に使者を送り、
「この山に狼が一匹籠もっている。人数を出してくだされ。
こちらからも手勢を出して、長陣の眠気覚ましに狼狩りをいたそうではありませんか」と伝える。
すると山県も「承知した」と、城からも人手を出し、すぐに狼を獲った。
羽柴美濃守はその狼を二つに切り、頭は自分の取り分にし、
尾のほうに美酒十樽、肴十合を添えて城中に送った。

城中では長い籠城で酒が尽きていたので、酒の噂をするだけでも上戸は涎をたらすような頃合で、
皆我先にとこの酒を呑もうと集まってきた。
しかしそれを境与三右衛門尉が制止する。
「いやいや、酒が呑みたいからといって欲に任せて無用心に呑んではならぬ。
敵の謀略で、この酒に猛毒を入れて送ってきたのかもしれんぞ。
まず私がためしに呑んでみよう。それで問題なければ皆も呑むといい」と、
大茶碗に並々と六、七杯を飲み干して、やがて北の窓際に寝転がると一日中すやすやと寝入ってしまった。

城中の者たちは、「境は長く起きてこない。言ったとおり、敵が謀略で毒を入れたんだろうか。
息遣いは別にどうともおかしくないが」と、境の口元に耳を寄せ、
夜は「起きろ、起きろ」と揺さぶった。
しかし境はよく酔っているのでまったく起きてこない。
人は皆、毒に侵されたのだろうと囁きあった。

夜も更けてからようやく境は茫然として起き上がり、目をこすりながら、
「酒は名高い二村(にむら)・鳥程(ちょうてい)・鳥祈(ちょうき)・蒲城(ほじょう)・
桑落酒(そうらくしゅ)にも勝る美酒だった。
劉伯倫劉(劉伶)が『酒徳頌』にこう書いている。
『麴を枕とし糟を藉(しい)て思うことなく慮ることなし、其の楽しみ陶々たり、云々』とな。
私は今日、酒の力で籠城の苦労を癒すことができた」と言う。

人々は、「すぐに呑んでしまえばよかったのに、
境めに騙されて今まで手をつけなかったとはもったいない」と、我先に呑もうとする。
そこへまた境が、「皆が酒の珍しさに呑み競って酔っ払ってしまったら、
敵が寄ってきても追い払えないではないか。私がきちんと分けてやる」と言い出し、
上戸・下戸を分け、その分限に応じて分け与えて呑ませた。

そして城中からも何か返礼をしようとあちこち探したが、
兵糧すら尽きているというのに、贈るものなどありはしなかった。
山県が鉄砲の弾と火薬を二十斤ばかり蓄えているだけだった。
境が「これを贈ろう」と言い出すと、人々は
「これは万一敵が城に乗り込んできたときのために残しておいてくれ。
これまでみんな撃ち尽くしてしまって、これ以外には何もないのだ」と反対した。
境は、「火薬の二十斤程度、あってもなくても同じではないか。
敵があの猛勢でこの城に乗り込んでくるなら、
飢えにあえいでいる城中の兵が、何百斤の弾薬を持っていたとしても、勝てる可能性などないわ。
ただ刀を抜き連ねて一文字に討ち死にする以外にどうしようというのだ。
どうしてこの弾薬を惜しむのか。贈ってしまおう」と言う。

山県もこれに賛同して、弾薬を折に詰めて、
「先日は城中に珍しい美酒を賜り、御芳志いたみいります。
こうなれば当方からも何かお送りするべきかと思いましたが、
長く籠城しておりますので、蓄えているものもありません。
ただ持っているものといえば、鉄砲の弾薬しかございませんので、お送りいたします」と伝えて、
敵陣の前に積み置いた。

この城山にいた狼を敵に贈ったことを悔やまない者はいなかった。


以上、テキトー訳。

対峙してる敵同士が仲良く一緒に狼狩りとか何やってんスか、と思ったけど、
なんなんだよー。切ないじゃないかよー。もうー。
今回はお笑いドタバタ路線でいくんだとばかり思ってたらヤラレタ。

秀長さん、さすがに城中がかわいそうになってたのかな。
狼狩りにかこつけて差し入れとかカッコイイ真似しやがって。
返礼にわずかばかりの弾薬。これしかないからと素直に言っちゃう城中も漢だ!
寄せ手も返礼なんか期待してなかったのに、余計な気を使わせたこっちが悪いんだと思っちゃう。
なんつーかな。敵同士でも認め合ってるというか、いいよな、こういう関係。
ちょっと夜だからか歳が寄っているからか、涙腺がユルユルになっちゃうよ、もう。

境さんのキャラが良すぎる。
大将の山県さんに確認もしないで使者を捕らえたばかりか
敵の目の前で堂々たる挑発の後に首を落として見せる苛烈さ。
敵から贈られた酒を「毒見するわ」とか言って、
大茶碗に六、七杯も呑んじゃうってことはただ呑みたかっただけだよね。
そうやって味方さえ欺く頓知(?)。
しかもそのまま酔っ払ってグースカ寝てるし。
みんな心配してるのに。
それでよく寝て起きたら「酒(゚Д゚)ウマー、超癒された(´∀`)」とか。
くっ、この、この野郎~~~ッ!って、読んでるだけで憎らしくなったよ。
それなのにどこかスッカーンと醒めてて、「弾薬あっても意味ないよね」なんてさ。
みんな思ってても言わなかったことを平気で口にするしさ。
もうここで死ぬんだと思い定めてんだな、この人も。

ああ、もっと鬱々とするのかと思いきや、なんかすっごい楽しいんですけど。鳥取編。
2011-12-06

隆元おに……お姉ちゃん?

昨日に続いて今日も日付が変わる前に帰れそうにないんだぜ。
これだから年の瀬ってキライさ。
年始もキライさ。松前漬と昆布巻は好きだけど。
と、休憩時間に毒づきつつカキコ。

またまた隆元の書状。
いいじゃねえか。癒されたいんだよ。
今回は隆景宛。山口下向のちょっと前っぽい。

●毛利隆元自筆書状
宛先:隆景


「山口への下向が近くなってきたね。きっと忙しくしているだろうと察します。
 このことを聞いてからすぐに言うべきだったんだけど、取り乱していて遅くなりました。
 ごめんね(口惜候)。今揃えた物を送ります。

 一、弓袋、笠袋、以上二つ

 一、ふさ一かけ。これは見苦しいけど、急なことで、
   こういう運びになるとは思わなかったんだよ。しかしながら、まずご祝儀です。

 一、この反物二つあげます。
   こういうのは内刑に相談したほうがいいんだろうけど、
   あれこれ言ってもどうかと思うので、とりあえず。
   これは内刑と一緒に見てみて、納得がいけば仕付をすべてやってから眺めてみなさい。
   その上で、また山口で江美にいろいろと尋ねてみるといいよ。
   重ね重ね、仕付中に何度か着てみて眺めてみないとダメだよ。覚えておいてね。
   あまりにこまごましたことを言うようだけど、
   残念なことに会えなかったから言っておく。まあ許してくれ。
   江美へは兼重を遣わすといいと思う。
   内刑と相談して、是非来てくださるようにと伝えさせなさい。

 一、何事であっても、元就・元春と頻繁に日夜集まって話し合いなさい。

 一、興禅寺も下向するので、内外ともに話し合うといいよ。
   お屋形様の座中であっても西堂は役に立つだろうから、
   こちらの意図をよくよく相談しておくんだよ。
   官務殿(小槻伊治)・一忍けん(持明院基規)にも言っておく。

 一、何事もめでたく調えられて、早々のご上国をお待ちしてます。
   言いたいことはたくさんあるけど筆には尽くしがたい。ではおめでとう。
   恐々謹言

 二月九日        隆元(花押)
 
 重ね重ね、お屋形様の座中のことが肝心だからね。かしく」


以上、テキトー訳。

うん、なんていうかな。
隆元、実はお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんだろ。
もしくはお母さんだろ。
「服の生地あげるから仕立てて着てみて、周りの人にちゃんと見てもらうんだよ?」
ってアンタ、お兄ちゃんはよう言わんわ~。
そんでもって毎度細かいwww

それとな、やっぱ義隆好みの生地(きっとおそらく)贈ったり
「お座敷でちゃんとしなさいね」なんて念押してみたり、
やっぱ毛利家として、色仕掛けで義隆転がそうとしてたんかなぁ。
隆元も積極的に協力してるし。
肯定的にも否定的にも評価はしないけど、現代人としてはやっぱり、
なんか何とも言えない気持ちになるなぁ。

まあいい。
若い弟のこと心配してワタワタしてる隆元かわいいよ隆元。

よし、もうちょい残業がんばろう。
2011-12-04

吉田郡山城にお勤めしたい

ちょっと今日は体調悪すぎ。頭が割れんばかりに痛くて熱もある感じ。
しかし体温計が行方不明www

そんなわけで本に向かえないので「陰徳記」はまた今度にして
毛利家文書から隆元お兄ちゃんに癒してもらおう。

●毛利隆元自筆書状
宛先:左太(桂左衛門大夫元忠)

「桂熊千代(元盛)の元服について、桂元澄が言ってきました。
 それで、名は「少四郎」にするんだそうです。
 あまりにたくさんいすぎる名前だと思うんですが、そう思いませんか?
 左太などは「孫八郎にするといい」なんて言ってましたが
 能登(元澄)がどうしてもと言うのです。どう思います?
 同名の者は確かにいくらでもいますが、いかがしましょうか。
 恐惶 かしく」

宛先は「左太」となってるけど、前後の手紙を見るに、
左太を通してるというだけで、基本的には元就に宛てて書かれているっぽい。
桂氏は毛利の分家であり重臣の一族。
桂元澄は親元就派の宿老、桂元忠はその弟で五奉行の一人。元盛は元澄の子。
つまりこの手紙は、
「重臣が子供の元服について話をしてきたんだけど名前がありふれすぎてるよね」という内容なんだが
「いかが候はんや」って表現が三回も出てきて、
「どうなの?どうなの?」ってしきりに首をひねってる様が想像できて楽しい。


●毛利隆元自筆覚書
「一、伽で寝るときは莚を敷かないこと
 一、風呂湯殿に入るとき、自分の垢を掻きふいて大げさにしてはいけない
   主人が上がるときは、湯殿の中にいないで、上がり殿へ上がること
   本に上がるときも、上がり殿にいて、主人が帰った後、小風呂に入るべし
 一、もとゆい、さくすを小者たちに呼びかけるようにして取り寄せてはならない
   湯殿衆も上がり殿まで出て、小者たちを上がり殿に上げずに受け取ること
   すべてこのようにすること」

近習とかへの注意書きみたいなものだろうか。細かいw
「伽で寝る」とか「風呂で云々」とか……近習衆がうらやましすぎると思うの……(血涙)
陰徳記の陶さんの話でも主人の寝室で寝てたりその続きの間で寝てたりする近習が出てきたが、
やっぱり夜間警護みたいな体制とってたんだね。
殿様って寝るときもプライベートな時間がなくてちょっとかわいそうかもしれないが
私も隆元にご奉公したいです。そしてこっそり寝息を聞きたいです。
あと風呂! 隆元と一緒に風呂入れるとかどんだけ役得なの!!!
この頃の風呂は蒸し風呂が基本で、下帯つけたままとか浴衣着て入ると聞いたことあるけど、
それにしても湯殿衆がうらやましすぎる。ご奉公させてくれええぇぇぇ!


●毛利隆元自筆申渡書
「天文二十一年(1552年)十二月 急ぎ申し聞くように
 五間たまり所番衆
 一、その日その日の当番衆は、一昼夜の間は自由にせず、必ず番所にいなさい
 一、用事の披露は五間番衆が行いなさい
   わけもなくいきなり二間に出入りしてはいけない
 一、外出用の衆、定衆の内でも、座敷で召し使われない者たちは、下五間に長居しないこと
 一、よそから使飛脚が来たときは、早々に書状などを受け取って上がってくるように
   はねあい(?)をして待たせないように
 一、よそへの使いに遣わすときは申し渡す」

またまた近臣への注意書き。
隆元様にお仕えするなら肝に銘じておくべき。
五間ていうのは近習の控え室みたいな感じで、二間が殿の居室かな。
当番一回が一昼夜ってのはちょっときついな。しかも自由時間なし。
やっぱ食事とかは交替で摂りに行くんだろうか。その際は膳所? それとも弁当?
多分弁当が一般化するのはもうちょっと時代が下ってからだろうから膳所かな。
きっと近習たちも長屋住まいとか部屋住みの若党たちだろうし。
仕事内容は、隆元に用事のある人を取り次いだり飛脚から手紙を受け取って届けたり
あとは隆元から命じられて使いに出たりといったとこか。

うう、想像できる……「ちょっとかさ(元就の居所)に行ってきて」と言われて
「また登山すんのかよ」と、うんざりする近習たちが想像できる……!
きっと健脚揃いなんだろうな、毛利さんちは。
または、元就から手紙で呼びつけられた隆元が
「今からかさに行くから供の用意して」とか言うと
「やっぱりさっきの大殿からの書状、呼び出し状だったか」みたいな感じで
半ば予想できててすでに準備が整っていたりとか。
いや、だって頻繁に呼び出す元就の書状もたくさんあったし。しかも「今来い」とか。

ていうかこの頃にはもう「飛脚」がいたんだな、と一瞬思ったが、
江戸時代以降の飛脚とは性質が違ってそうだ。
もしかしたら重臣や諸国人や一門衆からの使者を「使飛脚」って感じで呼んだのかも。


ああ、楽しそうだなぁ、吉田郡山城勤め。
山道と勤務はきつそうだけど、でも隆元に近侍できるなら我慢できるよな、それくらい。

同様に広家にもお仕えしたい。
この人も家臣にあれこれと送った書状がたくさん残ってるので、そのうち取り上げたい。
2011-12-03

おまえの命を私にくれ

ほいほい、また続きだけど、舞台はまだ鳥取城から離れてるよ。

大崎城合戦並びに隅何某切死のこと

鳥取の城中が兵糧乏しく難儀をしていると芸陽に知らせが来た。
元春様は城中の様子を知りたいと、大崎の城に籠もっていた田公備前守のところへ中村善兵衛尉を遣わし、
どうにかしてこの中村を鳥取の城中に入れるようにと言い送った。
田公はこれを聞いて、
「さあこれは一大事だぞ。敵は柵の木を幾重ともなく結いめぐらし
本篝も捨篝も隙間なく燃やし続けている。夜も白昼のごとしだ。
隠行の法でも身につけない限りは、どうやっても入ることなどできまい。
しかし、なんとかして城中への通路を開けなければ」と、
中村とその手段について話し合ったが、いい方法は見つからなかった。

こうしたところに、秀吉方から宮部善乗坊・亀井武蔵守・木下備中守・藤堂与右衛門などを主力として、
総勢四千騎あまりが、田公の館を焼こうと押し寄せた。
敵は少勢と侮って、うかうかと門の前まで進んだところ、
田公が門を開けて二百五十ほどで突きかかってくる。
寄せ手はまったく油断していて、まさか田公が切って出てくることはあるまいと思っていたので、
にわかのことに慌てふためき、備えも緩くなり、数に勝るにもかかわらず難なく突き崩されてしまった。
兵たちは一度も後ろを振り向かずに、我先にと逃げ出していく。
宮部・亀井たちは馬を駆って味方を鼓舞し、「引き返せ、敵は少数だ」としきりに檄を飛ばすも、
浮き足立った大群の耳には届かなかった。

なかでも前線近くで引いていた亀井に向かって、
田公の郎党の隅何某という猛者が走り寄って突こうとする。
亀井の運が強かったのだろう、切っ先が鞍の尻輪に当たっただけで身には傷一つつかなかった。
亀井武蔵守は命の助かったのをいいことに、鐙で馬の腹を蹴って走らせ、逃げ延びた。

秀吉は吉岡の城では数多くの兵を失い、今また大崎でも利を失って、
端城を攻めていたずらに人数を失っても意味がないと考え、
その後はあえて兵を出すこともなかった。

そもそもこの田公は、なかなかのつわものだった。
去る天文十二年(1543年)、但馬の山名豊員(とよかず)の家人、武田源五郎という者が逆意持ち、
その噂が立つと、豊員はすぐにこれを討とうとして、
武田に同調している長伝という新当流の兵法者と二人、用があるといって城へ呼び出した。
源五郎・長伝一人につき四人ずつの討手を定めて待ち構えていた。

武田は郎党を三十人ほどを連れて登城したが、
玄関から客殿に入ろうとするところに、廊下で八人の者が斬りかかる。
長伝は名高い新当流の兵法者だ。
武田も力自慢の剛の者で、八人もいる討手をその手で切り伏せ、客殿へ切り入った。
当番の者たちは散々に切り立てられ、どこへともなく逃げていった。
源五郎・長伝は二人打ち連れて豊員のいる間へと入ってくる。

田公備前守はそのときまだ十七歳で、豊員の小姓としてそばにいた。
とっさに闖入者に向かって走り出し、源五郎を戸の脇で切り伏せる。
続いて長伝を横払いに切りつけると、横腹をしたたかに掻き切っており、長伝も同じ枕に倒れ伏した。
大いに感じ入った豊員に所領を数箇所与えられて出世したが、
十九歳のときに親の仇を討って但馬を離れ、今は因州に居住している。
その後何度か武名を上げ、今回も亀井・宮部などを切り崩し、わずかの手勢で城を持ち堪えた。
これが無二の毛利方である。

田公は中村に向かい、
「敵陣の構えが堅固で忍び入るのは難しい。
しかし私の郎党に隅という者がいて、これが忍術に長けている。
この者を添えるので、隅の案内に任せて忍び入りなされ」と、隅を呼び出した。

「隅よ、おまえの命を私にくれ。
というのも、去る四月に秀吉がこの城に攻めかけてきたとき、奴らは愚息の又八を磔にかけた。
もし私が秀吉に一味すれば息子の命を助け、その上この国で望みのままに所領をやろう。
またもし同心なくば、交渉の余地はない、又八を突き殺すぞ、と言って、槍・薙刀を又八に突きつけた。
しかし私は吉川元春の御手に属して、
忠功が人より抜きん出ていたためにまた賞も人より多く与えられている。
子供一人はさて置き、一門がことごとく死刑に処せられても、
日来の厚恩を忘れてどうして敵に味方することなどできようか。
そう思って秀吉になびかなかったから、おまえも知っているように、同二十二日に又八は突き殺された。

私は子を捨てて毛利家への忠勤を尽くした。
おまえもまた、私のために一命を捨て、この中村殿を城中に入れてやってくれ。
きっと援軍が来るぞと知らせるお使いだろう。
この使者を城中に入れて援軍が来ると伝えられれば、
城中の人々はとても心強く思って守りを堅固にするだろう。
また、もし連絡が絶え果ててしまえば、力を落として落城もそう遠くはあるまい。

上方と芸陽の戦を左右するのは鳥取の城だ。
そしてその城が持ち堪えるかどうかはこの知らせにかかっている。
おまえは忍術に長けている。
中村殿をご案内して城中へ入れてやってくれ。
もしも敵が伏兵を置いていたら防戦し、その隙に中村殿を逃すのだ。
中村殿も絶対に、隅を見捨てて帰るのは口惜しいなどと思って討ち死にしてはなりませんぞ。
あなたは命をまっとうして、城への連絡を果たしてくだされ。
これこそ至極の忠功ではありませぬか。小事を顧みなさるなよ」

隅は、「仰せの趣、その旨を存じ奉りました。
私の一命を投げ打って、必ず中村殿を城中にお届けいたします。
ご安心なさいませ」と言って退出した。
これを最後と思い定めて、妻子に別れを告げ、
日頃から仲良く語らっていた友達へ、形見として手に馴染んだ扇に一首の古歌をしたためて贈った。

「立ち別れいなばの山の峯に生る待つ(松)とし聞かば今帰り来ん」(中納言行平『小倉百人一首』)

こうして中村を伴って敵陣に紛れ入り、忍び出て丸山に入り、それからようやく鳥取にたどり着いた。

さて、式部少輔(吉川経家)たちに会うことができた。
「この城をどうか堅固にお守りください。
やがて元春父子が後詰として出張(でばり)してきます」と諸卒を励まし、また城中を抜け出た。
隅は中村に向かって
「私が敵陣に紛れ込みます。時を見計らって鼠の鳴きまねをするので、
必ず跡についてきてください」と言い含めた。
捨篝の辺りに忍び寄り、味方のように振舞って、紛れて柵の中にツッと入ると、
約束どおり鼠の鳴きまねをする。中村も続いて中に入った。
かろうじてまた陣中を出て、一町ばかり進み、
もう忍ばなくてもいいだろうと思ったところに、敵が待ち伏せていた。
「そこの者、怪しいな。止まれ」と呼びかけられて、
隅は「いやいや、ご安心ください。お味方の者でございます」とおどけた。
しかし敵方では「その男に物を言わせるな。斬って捨てよ」と言っている。

隅は名高いつわものだ。
人に先を取られるまいと、抜き打ちに一人を切り伏せた。
途端に大勢が身を起こして切って掛かってくる。
中村も太刀を抜いて戦ったが、田公にあれほど言われたのにと思い直し、
敵を打ち払うと走り抜けて、大崎へと帰っていった。
隅は、大崎を出たときから、二度と帰れるとは思っていなかった。
散々に戦って敵を数人切り伏せ、自身もズタズタになって、ついにその場で討たれてしまった。


以上、テキトー訳。

隅さんカッコエエエエェェェェェェ!
そして田公さんもカッコよすぎです御奉公させてください!!!
一度は言われてみたい言葉ランキングに確実に入るね>「おまえの命を私にくれ」
田公さんこの当時で五十代後半か。ヨシ全然いける! <何が

ヤバイヤバイ、なんだよまた鳥取逸れて別の話かよ(前のは面白かったけど)とか思って
うっかり読み流しそうな勢いだったのに、なにこの面白さ!
ニンジャ!? ニンジャだよ!!!
あとゲイシャとスシとフジヤマが揃えば欧米人も大喜びだよ! <イメージが古い
かなり地味な忍術(紛れ込む)だけど基本中の基本だよ(多分)!
やっぱ合印とかどこかで盗んでつけていったのかな?かな?
万単位の大軍だからそんなの必要なかったのかな?

ああしかし、残念なことに隅さんの下の名前が「何某」ってのはどういうことなのwww
扇に書き記した歌はバッチリ伝えてるのに名前が「何某」って。
残されてなければなんか名前付けてやってくれよ、ちょっと不憫になるわ。

悲しくも美しい漢たちの生き様! いいねぇ。
2011-12-02

水面の月を手に入ればやと

鳥取城が秀吉勢にまるっと取り巻かれたトコまで読んだ。
今回もその続きだけど場面がちょっと変わるよ。


因州吉岡の城合戦のこと

因幡の国の吉岡の城には、吉岡入道質体(しつきう)・嫡子の安芸守(定勝)・次男の右近が、
わずか三百騎あまりで立て籠もっていた。
この辺りでは唯一の毛利家方だったが、従来至剛の猛者たちで、
秀吉の大軍にもまったく臆すさず、日夜忍耐を重ねていた。
あるときは敵陣に忍び込んで多数の人を討ち取ったばかりか、
多賀文蔵という者の脇差を盗み出したこともあった。

秀吉は、「吉岡は少数の手勢で城を持ち堪えさせているだけでも小癪だというのに、
あまつさえこの陣の端々に夜討ちをかけて悩ますのだから厄介だ。
誰かおらぬか。あの城に行って蹴破って参れ」と命じた。
多賀文蔵は先日脇差を盗まれたことを口惜しく思っていたので、これこそ好機到来と思い、
「私が行きましょう。あっという間に切り崩してご覧に入れます。
八幡大菩薩もお聞きあれ、もし仕損じたときは、二度と帰っては参りませんとも」と威勢よく申し出た。
「ではおまえが行ってこい」と、秀吉は屈強な兵を三千騎ほど選び出し、文蔵に与えた。

この吉岡の城というのは三方が湖に面していて、一方は山の尾だった。
この尾根をたどっていかないと、敵も寄り付きようがない。
その尾根からは羽柴七郎左衛門尉が五千騎あまりで攻め近づく。
同二十六日の夜半に、秀吉は二万騎あまりで吉岡の城の湖水に向かって打って出た。
城の周りの湖は、一、二町ほど浅瀬になっていて、船では近づけない。
大勢で六、七艘の舟を担ぎ入れた。
同二十七日、多賀文蔵が先陣に進んだ。
三千の大軍では舟の数が足りないので、七百人ほどを選び出し、船に乗って漕ぎ出す。
秀吉の瓢箪の馬印を預かり、舟の舳先に押し立てて、
湖水を渡って城の近くに降り立つと、舟を漕ぎ戻した。
秀吉はまた兵を渡すために、数千人を水際へと出し、待たせていた。

多賀文蔵は鉄砲数百挺を先に立て、城の矢間を撃ち潰し、
そのあとを七百人あまりが槍や薙刀をそろえて攻め上って、一気に塀を乗り破ろうと進んだ。
城方でも鉄砲を入れ替わり立ち代わり撃ちかけてくるが、寄せ手が間近に押し寄せてくる。
これを見て、安芸守・右近たちはもう打って出ようと進みかける。
しかし父の入道が、
「今しばらく待て。わしが先に矢倉に上り、時分を見定める。わしの采配に従って打って出よ」と制止した。

入道が大手の矢倉に上り、敵の動向を見計らつつ、鉄砲を撃ちかけてくるので、
寄せ手も思うように塀に手をかけられずにいた。
吉岡入道がここで「いい時分だ、それ掛かれ!」と号令すると、
待ち構えていた弓衆・鉄砲衆が一気にバラバラと撃ちかけ、射かけてくる。
同時に、安芸守兄弟・近藤七郎衛門尉・大杉何某などをはじめとして、
百人あまりがまっしぐらに突き出てきた。
寄せ手がこれを見て周章狼狽し、浮き足立ったところで、
一番前に進んでいた兵を二十人ばかり次々と突き伏せた。

多賀は「なんと、出遅れてしまったか」と呟いて、
数百人を渡らせて揉みあいながら攻めかけさせる。
先頭で意気地を挫かれてしまった兵たちもこれに力を得て、引き返して戦うが、
勇んで進んだ吉岡の兵たちに押し立てられ、ついに寄せ手は湖水の際まで引き退いてしまった。
引けばまた息も継がすまいと吉岡勢が攻めかかり、
寄せ手は次々と斬り殺され、突き伏せられて残り少なくなっていく。
たまりかねて湖に逃げ溺死する者も数知れない。
なかでも、吉岡右近は瓢箪の馬印を掲げた者を討ち取った。
秀吉は味方の兵たちが次々と討ち取られていくのを見て、あまりの口惜しさに身をよじり、
水際を馬で行ったり来たりするも、水面を数町隔てているのでどうにもできず、
まるで水の中の月を掬おうとしている猿のようだった。

吉岡安芸守は水練の達者な者を湖の中にやって死骸を取ってこさせ、
寄せ手七百人の首を取り、岩の上に立って勝鬨を上げ喜び勇んだ。
湖水の際に竿を結い渡すと首を掛け並べ、瓢箪の馬印も同じように立てかけて己が武勇を勝ち誇る。
「今の日本に、私に勝る弓取りはおるまい。この天下無双の弓取りの羽柴秀吉を討ち取ったぞ。
その証の馬印はこれにある」と、さも声高に言い募った。

そのとき、多賀文蔵が岩の下から這い出て、「そのように大口を叩くのは吉岡か!」と問いかけた。
「安芸守である」と答える。
「そう言うおまえは誰だ」と問えば、
「私は多賀の文蔵という。このたびこの城を攻めた大将である。
瓢箪の馬印は私がお預かりしてきただけだ。決して秀吉が討たれてしまわれたわけではない。
私はさる理由があって、秀吉に今回の大将を願い出た。
華々しく一戦して名を後の世に残そうと思っていたのに、
思わず胸板を突かれて深手を負ってしまったのだ。
そのまま死にもせずに、今こうしてこの面を晒しているとは口惜しい限りだ。
名乗って死のうとは思っても、雑兵の手にかかるのは無念だ。
ここまで生き長らえて、あなたのような大将にめぐり合いたいと待っていたのだ。
もう、露ほどの命など惜しくはない。早く首を打ってくれ」と答えた。

安芸守が「おお、噂に聞いていた多賀文蔵殿か。今私とめぐり合うとは不思議な縁だ。
合戦はこれまでにしよう。お命を助けて送って差し上げよう」と言うと、
多賀はカラカラと笑い出す。
「これほど無残に打ち負けて、そのうえ多くの兵を討ち取られ、
自分の命が助かったとして何の意味があるものか。私はそれほどまでに惨めに映るか。
安芸守殿のそのお考えこそ恨めしいものだ。
早く首を取ってくれい!」

安芸守は、そこまで言うならと、首を打ち落とした。
こうして吉岡は、多賀の首、そのほか宗徒の兵と思しき首を三十ほど、
また打ち捨てられた武具を二十あまり、並びに瓢箪の馬印を、元春様に送った。
なんという武門の名誉だろうと、人々は皆感じ入った。

秀吉は宗徒の兵をことごとく討たれて大激怒した。
「先日は攻める用意をきちんとせずに、敵を侮って失敗した。
これはこの秀吉一生の不覚だ」と、
羽柴七郎左衛門・亀井武蔵守を大将として三千騎あまりを差し添えて再度挑んだ。
尾根の上に押し寄せ、陣の構えを堅く整えてから仕寄(しより・仕掛け)を作って攻めようとしていた。

城中の兵たちの中には、尾根側を固めて先の合戦に加われなかった者も多く、
これが悔しくて、ぜひとも打って出て羽柴七郎左衛門を追い立てたいと望んでいた。
吉岡は「敵は四千も五千もいるだろう。味方はたった三百人だ。
どうやって勝利しようというのだ。勝って兜の緒を締めよと、ことわざにもあるではないか」
と押し留めようとしたが、まったく耳も貸さずに切って出てしまった。
これに二百人あまりが続いた。

寄せ手は先日の合戦での城兵の武勇を見ていたせいで臆したのか、
あっけなく切り崩されて我先にと逃げ出していった。追
いついた城兵が十七人を討ち取った。
亀井武蔵守は危機一髪に陥ったが、若党三人が鉄砲を持って付き従い、
打ち払ったので、危ないところで命を拾った。

吉岡はものすごい大物だと、上方勢も恐れ合った。
秀吉も、こんなところであたら兵を多く失うのは無益だと、
その後はこの城に攻め入ろうとすることはなかった。
鳥取落城の後に、羽柴七郎左衛門尉に城を渡し、吉岡父子は伯耆の国へと越していった。


以上、テキトー訳。

ハイキター!
秀吉、猿呼ばわりwwwざwwwまwwwあwwwwwww

……えーと、草生やしてマジすんませんした。
けっこう真面目にこの章は面白かった。
やっぱり寡兵VS大軍@難所ってのは楽しいよね。
吉岡入道パパかっこいい。安芸守も右近もかっこいい。
やっぱり、こういうの読むと武士ってのは首狩族だなあと改めて思うわ。
水死体の首まで切って竿に掛け並べるとか。
腐ったり干物になったらどうやって処分するんだろう。
というかむしろ胴体の方はどう処分するのか。考えただけでも大変だ。

そういえばちらちらと「宗徒の兵」ってのが出てくるが、
こりゃなんじゃ? 宗教の徒=僧兵?
なんて思ってらアンタ、「むねと」って読むらしいわよ奥さん。
集団のなかの主だった者、だそうで。主力兵だね。

あと、この城、行ってみたくなった。この目で見てみたい。
まあ残ってないんだろうけど。
ちょろっとグーグル先生に聞いてみたら、鳥取県の湖山池ってとこらしいね。
城は「防己尾城(つづらおじょう)」というらしい(江戸に入るまでは吉岡城、亀山城という呼び名)。
「現在は公園となっているが、土塁、曲輪跡、竪堀跡、切岸が明瞭に残っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%B7%B1%E5%B0%BE%E5%9F%8E
とのことなので、いつか行きたい城(跡)にランクイン。滾る!
ああ、案内を買って出てくれるナイスガイorウーマンがどこかにいないものか。
車が運転できれば一人で行ってもいいんだけどな。
まあ法的には運転できることになってるけど、私の運転は黄泉路に直結してるからな。

ちなみに行きたい城は
吉田郡山城、岩国城、厳島の宮尾城、萩城、吉川元春館などなど。
できれば中国地方の城まるっと一周したい。
まだ城については勉強不足も甚だしいので、そう何度も行ける土地じゃないから、
しっかり知識つけてから行きたい。
岩国行きたいよ岩国! ガッチガチの防御目的の城らしいから楽しみ。
あと広家の変なセンスをたっぷり堪能したい!
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むしろ広家を見たいんですがダメですかそうですか。
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