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2011-12-11

からくれないの戸次川

ゆんべの続き。

あらすじ的なもの:
宗麟から義統に代代わりした大友に対して反旗を翻した島津。
義統は島津征伐に乗り出すが緒戦で大敗、秀吉に泣きついた。
秀吉は九州征伐のために土佐の長曽我部父子、讃岐の千石を送り込んだ。


七尾合戦のこと

長曽我部父子(元親・信親)・千石(仙石)たちが豊後の国に着くと、大友は大いに勇気付けられ、
もう敵はよもや城に寄せることはあるまいと安堵のため息を吐いていた。
長曽我部は千石らと会議し、
「我等がこの国に着きながら、日向の国に敵の足を留めさせては武家の名折れだ。
それが殿下(秀吉)のお耳に入る恐れもある。いざ日向の国に打ち出し、
敵を隅州へ追い込み、殿下の出陣のはなむけにしようではないか」と、
大友の軍をも引き連れて、総勢三万騎あまりが豊後の部丹生に陣を構えた。
薩摩勢も一万騎ほどで打ち出し、戸次川を挟んで言葉戦いをしながら数日を送った。

千石・長曽我部は薩摩勢を目前にして、
「敵に我等が武勇のほどを見せつければ、再度手を砕かず刃を血で汚さずとも、
敵は自ら退散するだろうに」と勇んだが、
この川はそれほどの大河ではなきにしろ、大石・小石が流れに横たわり、
馬の足場が不安定で、なかなか渡れない。
「どうにか川さえ思うとおりになれば、貴様らの首を一つひとつ刎ねてやるものを」と歯噛みをしていたが、
やがて人夫を数千人そろえて石を拾わせ、またその石で両方から一筋の堤のように築き上げ、
中間に水の通り道を開け、その間には橋を渡した。
これで馬を二、三頭ほど並べて渡れるようになった。

千石たちは、「早く敵が出てこないものか。馬を次々に乗り渡して、一人も残さず討ち取ってやろうものを。
薩隅両国の者たちは、いつもの歩兵同士の戦には一家言を持っているかもしれないが、
騎馬兵との合戦は見たことさえあるまい。
一面に馬の鼻を並べて追い立てれば、太刀を打ち交わすまでもない。
皆ひづめにかけて蹴倒してやるのに」と鼻息を荒くしていた。

薩摩勢はかねてから敵を誘い込んで討とうと策を練っていたが、
まず七尾というところに足がかりの城を構え、そこから一里ほど進んで、戸次の高田に伏兵を置いた。
一千人あまりが茜の帷子に玉襷をかけ、桃の実なりの兜に赤熊(しゃぐま)の毛をつけたものを
一様にかぶり、槍・鉄砲・なた・長刀、そのほか各自の得意の武具をそれぞれ提げている。
「ここを渡ってきてくだされ。上方勢のお手並み拝見、我等が武勇のほどもお見せいたそう」
と挑発して、狂ったように跳ね回った。

長曽我部土佐守は名高い大将で、すばやく敵の目論見を見抜いた。
「敵がわずかばかりの勢で現れ、ここを渡ってこいなどと挑発するのは、
どうにかして罠に嵌めようとしているのだろう。
罠とはほかでもない、後陣に伏兵を置いて前後左右から挟み撃ちにしようとしているはずだ。
今日は渡河して一戦すべきではない」と制するが、
千石らは「しかし薩摩兵どもめ、憎らしい言い様です。
上方衆は楊枝をくわえて席駄(せきだ、雪駄のこと)を履き、
四条・五条の大路を歌でも口ずさんで歩いているようには見えない、
だいたいにして畿内の兵は、口は樊噌(はんかい、劉邦の家臣)にも勝っているのに、
心は比丘尼よりもひどく劣っている、などとあざけるのです
。一発ぶちかまして目に物みせてやりましょう」と、進軍を始めてしまった。

長曽我部信親はまだ若武者だったので、千石に先陣を務めさせられないと、一番に川を渡る。
はじめはこれまで整備した道を渡っていたが、あまりに進む者が多く、
あとは川へひたひたと乗り入れ、我も我もと渡っていった。
薩摩勢はかねてから計画していたとおりに、皆我先にと足に任せて逃げていく。
讃岐・土佐の兵たちは、
「そら見たことか、これまで人をののしった言葉を恥とも思わぬか。
上方勢の心と口が入れ替わったとでも言うつもりか。
おのれらこそ、口とははるかに違う臆病者ではないか。
どうした、戻って来い」と、槍を合わせて追いかけた。

七尾まで十五、六町ほどの距離まで進んだところで、
薩摩勢は頃合よしと判断したのか、一気に逃げ足を止めた。
鉄砲隊は固まり、槍、長刀と皆それぞれ固まって、岩になれとでもいうほどだった。
一人残らずひざを打ち組んで、真円になって、
敵がかかってくるならまず馬の足を薙ぎ捨てようと、静まり返って待ち構える。
その構えは銀山・鉄壁よりもなお固く、破るすべも見つからずに、
四国勢はどうにもしようがなくて、馬を左回り・右回りにぐるぐると乗り回し、
敵の隙があれば入って蹴散らそうと目を凝らす。

と、高田に潜んでいた兵たちが、合図の太鼓を聞くや否や、
「エイエイ」と声を上げて敵の背後を取って切りかかり、または横合いに突きかかった。
これを見て、岩になりひざを打ち組んでいた薩摩兵たちは、
槍を提げ長刀を担ぎ、鉄砲を先に立てて、小唄を口ずさみながら静かに打ってかかる。
千石・長曽我部はいずれも劣らぬ名将で、少しも騒がずに二手に分かれて防戦した。
「一歩も引くな、敵は小勢だぞ」と檄を飛ばしていたものの、
敵兵は次第に増えていき、ここの谷陰、あちらの峰裾から次々と打って出て四国勢の隙を突く。
四国勢は難なく突き立てられて崩れていく。
千石・長曽我部は馬の向きを立て直しながら「返せ、返せ」と下知するも、
大友勢はすでに混乱して退却していく。下知も耳に入らず、我先にと逃げ出した。

大友勢でも、名を惜しむ者たちは引き返して戦って討ち死にした。
なかでも小笠原備前入道宗仲は、そのころはまだ又七という名で十七歳だったが、
主従二十人ばかりで引き返し、散々に戦っていた。
そこに薩摩の野村四郎三郎が駆けつけ、名乗りを上げて突きかかる。
小笠原が槍の柄を長く握り直して「エイッ」と突くと、野村の肩先をしたたかに突き刺し、
対して野村は小笠原の草摺の隙間に突っ込んだ。
又七が危なくなったので、郎党たちが向かってくる敵を打ち払い、主人に肩を貸して退却した。

長曽我部信親は、「此度の合戦で失敗し、生きて帰って人にあざ笑われるのは口惜しい」と考えて、
郎党に向かい、「信親は討ち死にするぞ」と言って引き返した。
追いすがる敵を何度も切り戻したが、ついにその場所で討たれてしまった(天正十四年十二月十三日)。
これを見て信親の家人の桑名藤吉郎・細川源左衛門・池左近右衛門をはじめとして、
「こんなときに命を惜しんでいられるか」と、敵と渡り合い刺し違え、
四百六十人あまりが同じ場所で枕を並べて討ち死にした。そのほかの雑兵は数も知れない。
千石・大友の兵たちも討たれた者が多く、逃げ切れた者は少なかった。
戸次川の水面はから紅に染まり、「
神代も聞かず(ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは『小倉百人一首』在原業平」
と詠まれた竜田川の秋の波に紅葉が流れているかのようだった。
長曽我部は味方が大敗して退却してくるのを見て、二千ばかりで打ち出て備えたが、
敵も長追いはせず、戸次川を限度に打ち切りにしてやがて兵を引いていった。

こうして薩摩勢は長曽我部信親を討ち、その死骸を、
戸次の内の七尾の青山に続く高山の山頂に塚を築き、大きな石を据えて葬った。
供養をねんごろに執り行い、僧たちを呼び集めて読経・念仏を上げて弔った。
ありがたいことである。

こうなると大友は府中の上野原にもいられずに、また八里引いて、
「あぢむ」の龍王山まで逃げて籠もった。
戦えば負け、負ければ逃げる義統の心の中こそがまずかったのだろう。
この合戦の様子を聞いた殿下は、すぐに千石権兵衛尉の領国、讃岐を召し上げた。


以上、テキトー訳。

くそう、つよい、さすが島津強い! 釣り野伏怖い!
信親……かわいそうに。あたら若い命をこんなところで散らして。
この合戦は悲劇のヒーロー信親と対比されて逃げ延びやがった千石の卑劣さが際立つね。
長曽我部・仙石と併記されてるけど、軍監は仙石だから指揮権握ってるわけだし。
だいたい12月中旬つったら今時期だよ。真冬だよ。それなのに渡河? ばかじゃないの。
まんまと誘い込まれてフルボッコされてりゃざまぁないわ。
この敗戦で所領没収されて高野山に追放されても、後日小田原の役で大名に返り咲いてるし、
江戸期も無事に家を続かせたようでホントに憎らしい (#^w^)ギリギリ

で、信親隊の死に様がまた悲惨なんだよね。陰徳記には詳しく書かれてないけど。
遺品として引き取られた具足がボロッボロだったらしいし。
これで長曽我部の中心的な家臣も根こそぎ戦死して、
元親も期待の嫡男の死を受け入れられずに気がふれて、長曽我部家はどんどん沈んでいくんだよね。
関ヶ原(元親の四男、盛親が当主)ではよりにもよって西軍についた(長塚正家に拉致られた)うえ、
よりにもよって南宮山に陣取って、広家のせいで動けないまま敗戦を迎えたりさ。
大坂の役も大坂方について負けて斬首されちゃうしね。ナムナム。

次は中国勢が登場するよ。
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2011-12-11

島津が大友に牙を剥いたようです

うっかり開いたのが、島津VS大友だった。
秀吉による九州征伐の前段階だから、ここから九州平定まで読み進もうかと思う。
元春登場が待ち遠しいよ!


島津修理大夫、大友に背くこと

大友左兵衛督義統は、父の宗麟以来、九州をすべて切り従え、上見ぬ鷲のように振舞っていた。
筑紫の習慣で、幕下に属する者は八月朔日に国々から馬を引かせてきて繋ぐという行事がある。
このため、誰かの手に属することを「馬を繋ぐ」と言うようになったそうだ。

さて大友家城の厩の前に馬を繋ぐための柱を二、三百ほど打ち立て、馬櫛と刀を添えて置いておくと、
九州の諸侍たちが馬を一頭ずつ引いてきて、その木に繋ぎ、「誰々の馬」と大札を立てて、
舎人に侍一人を差し添えて畏まっていた。
そのとき大友が出てきて床机に腰をかけ、その馬たちを眺める。
毎年の控の台帳を取り出して見比べ、もし一人でも馬を繋がない武士がいれば、
「さては逆意だな」と、すぐに討手を差し向けてこれを攻め滅ぼすのだ。

天正十二年の八月朔日、また例年のように馬を繋がせると、
島津修理大夫(義久)が馬を繋いでいなかった。
馬繋ぎを監督する畑野善内が、このことを左兵衛督に報告すると、
武衛(兵衛府の唐名)義統は大いに憤り、
「さては島津め、私に背いて敵対するつもりか。憎い態度だ。
何ほどのことがあったと言うのだ。急いで討手を差し向け攻め滅ぼせ」と命じた。

心無い者たちは、「薩摩・大隈を攻め取ったら大友の旗本の者は大身になれるぞ」と歓喜した。
心ある者たちは、「こんなことができるとは、島津は智仁勇を兼ね備えた良将だ。
大友家の武道は、前の代に比べて雲泥の差がある」と見透かして、大友に敵対した。
「これから大友の国は日向方面から切り取られていくんだろうな」と眉をひそめ、大息を吐く者も多かった。

大友家の老臣で、武道の功がある者たちが寄り集まって、
「島津退治のことをどうするべきか」と会議を重ねているところに、ある報告があった。
島津が討手を待たずに先手を打っており、弟の兵庫頭義弘を大将として、日向の国の高城まで打って出て、
そこから先陣が「つくみ」という里に進んで家々に放火していったという。
この「つくみ」というところは、大友義統の家城の臼杵からわずか三里の距離なので、
義統は大いに驚いて「急ぎ討手を差しやって、高城の敵を追い散らせ」と命じた。
大友家の侍たちは、我先に向かわんとひしめきあった。

こうしたところに、臼杵新介が義統に諫言した。
「高城をうかうかと攻めようとするのは由々しきことですぞ。
というのも、当家の侍たちは戦の仕方を忘れ果てているように見えるのです。
島津は修理大夫・弟の兵庫頭ともにいずれも劣らぬ勇将です。
そのうえ近年は肥後表で何度も大軍を率いて勝利を得ており、
また龍造寺も大勢で攻め戦いましたが、島津はその五分の一の小勢で勝利を勝ち取ったことも何度もあります。
今九州を切り従えている大将は島津兄弟だと思います。
ですから、宗麟の代にここでもあそこでも勝利を得たのをいいことに、
敵を侮り敵国に深々と攻め入ろうとするのは、口にするのも恐れ多いことではありますが、
鵜のまねをする鴉と同じではないでしょうか。

まずこちらが負けないように策を立ててから、敵に勝つ行動を起こしてこそ、完全な勝利を得られるものです。
この戦の勝負が当方にあるのか敵にあるのかすら考えることもなく、
向こうは小勢、こちらは大勢だからといってむやみに仕掛けて一戦するというのは、
まったくもって愚将のやることです。
まず国境まで出て行き、足がかりの城を築き、それから次第に詰め寄り、
その流れで日向の国に踏み入って、その後大隅・薩摩へ攻め入るほうがいいでしょう。
大勢が小勢に負ける要因はいろいろと多くありますが、まず敵を侮って負けるというのが一番多いのです。

味方の軍勢は島津より二倍、三倍もいるでしょうから、
まず味方の陣城を築き位詰め(威圧して詰め寄せる)にして、日向を攻め取るといいでしょう。
敵はとにかく一戦のうちに勝敗を決さなければ国が奪われてしまうと思って、
無理な一戦を仕掛けてくることでしょう。
そのときはさらに気を引き締めて戦い、大将を得るのではなく五分、三分ほどに勝ち、
勝って兜の緒を締めれば、敵は威を失い、味方は次第に強くなって、しまいには敵国を滅亡せしめるはずです。
まず日向境まで打ち出て、むやみに戦をせずに敵の強弱をお試しなされ」

これに義統は激怒した。
「宗麟と私にどんな違いがあると言うのか。互角の兵数であっても島津ごときに負けはせぬわ。
ましてや、あちらは小勢、こちらは大軍だぞ。戦わずとも勝利は疑いようがないではないか。
高城をひたひたと取り巻き、一気に攻め破るのは難しいことではない。
もし薩摩から後詰があれば、それこそ望むところだ。仕掛けてことごとく打ち滅ぼしてやろう。
勝利はわが掌中にあり。
おまえは遠慮だては、その白髪頭が惜しくてそう言うのだろう。
私が戦場で臆したことがあるか? 臆さなければどうして島津に負けるというのか。
父に劣ると言われるとは実に奇怪である」
と、義統が地面をビシバシと打ちながら怒るので、新介は重ねて言った。

「この白髪頭は、いずれは白骨になるものです。
人間はどんなに生きても百歳までは生きられません。それを恨もうとも嘆こうとも思いません。
この老いぼれがいる限り、国を敵に取られることはないでしょうが、
もし今すぐにでも私の白髪頭が敵の手に渡れば、義統は豊後の国を三年と保つことはできないでしょう。
お父上の宗麟は民を憐れむ御心深く、敵を滅ぼす謀略に長けておいでのうえに、
武道の探求も怠らなかったからこそ、九州はことごとくその手に属し、島津も幕下に下ったのです。
それなのに宗麟を失ってからは、お屋形様は武道の噂すらされずに、
伴天連坊主か茶の湯の坊主かのようになってしまわれました。
これは大友家も末になって滅び果てる時節が来たと考えて、島津が兵を出してきたのでしょう。

あの家は今まさにこれから隆盛を迎えようとしており、
軍制も正しく、武勇は日の出の勢いになっています。
それに比べてこの大友家は、文武の道も廃れ果て、すでに言えも傾きかけ、
落日のごとくだというのに、どうして敵を退治などできましょうか。
敵を滅ぼすより敵に滅ぼされないようにこの国を守ってくだされ。
今度、敵の先陣の将に会って、私は討ち死にするでしょう。
そのときに、この新介が申した言葉の意味を思い知りなされ」と、
新介は座敷をスッと立って、宿所に帰ってしまった。

義統はやがて叔父の田原入道従忍(親賢、紹忍)を大将として、
志賀・清田・佐伯・部丹生・杵月・本城・古沢・畑野・松木、
そのほか大友家の侍一人も残さず徴用して、その軍勢は六万騎以上になった。
臼杵新介は親しい友人に最後のお別れとして自分で立てた茶を振舞った。
「茶釜の蓋をしないのは不吉だと聞くが、私は二度と帰らないだろうから、釜の蓋をするな」と言い置いて、
そのまま日向へと出発した。

豊後勢は日向の国の佐土原に陣を張った。
島津は同国の高城にいたが、やがて同国の耳川を渡って一万ほどで押し寄せる。
豊後勢も打って出て、矢立が杉というところで合戦となった。
命知らずの薩摩兵が無二に切ってかかってくるので、たちまち豊後勢は突き立てられ、
捨て鞭を打って逃げ出した。

臼杵新介は、味方が前後ひとつになって崩れていくにもかかわらず、
自分は少しも引かずに、手勢三百ほどで真っ向から一戦した。
兵は、あるいは討たれあるいは逃げ出して一人もいなくなり、
それでも新介はいささかも騒がずに床几に腰掛けていた。
薩摩兵が勢いづいて進む中に、新納武蔵守という者が一番に名乗りを上げ駆け寄ってくる。

新介はにっこりと笑って、
「さては新納殿でいらっしゃるか。
思うところあって、今回は討ち死にすると思い定めて罷り出で申した。
雑兵の手にはかからず、武蔵守殿に会って討ち死にできるとは、こんなに嬉しいことはない。
よく討ってくだされ」と言い、
刀に手をもかけずに、はかなくも討たれてしまった。
なんと強い男だろうと感じ入らない者はなかった。

これを見て、田渋重富・田渋隼人佑・長松土佐守・古沢右馬助たちは引き返し、
所々で戦って五百人あまりが討ち死にした。
恥も人目も気にしない者たちは皆我先にと逃げていった。
足が立たずに倒れ、後から来る味方に踏みつけられて死んだ者、
洞に飛び込んでしまって命を失う者など、豊後勢は二万三千あまりが討たれた。
辛くも命を拾った者たちは馬や武具を剥ぎ取られて、
乞食・非人のようになって臼杵の城までの十九里の距離を足に任せて逃げ延びた。
なんとも浅ましい有様であった。

義統は主力の兵たちをことごとく討ち取られてしまって、もうなすすべがなかった。
家臣たちの次男・三男などが僧籍に入っていれば還俗させて父の跡、兄の跡を継がせたが、
昨日までは読経・念仏ばかりしていた者たちでは、馬に乗って手綱を取る方法も知らず、
具足を取って肩にかけても上帯を固める技も知らない者たちばかりで、見苦しいことも多かった。

こうしてこの年も暮れていき、明けて天正十三年九月上旬、
島津は日向から打ち出して臼杵の城に攻め寄せてくると噂が立った。
大友は迎え撃とうとしたが、味方の大半が坊主上がりで、
刀を後ろに差し、弓を右に持ち、矢を左手につがえるような者たちばかりでは、これ以上戦えるはずもない。
敵が寄ってこないうちにと、臼杵の城に火を放ち、
七里先のの上野原というところまで、取るものもとりあえず逃げ落ちていった。
口惜しいことである。

そしてそのままその城に籠もっていたが、これでは島津にかなうまいと考え、
能島・久留嶋に頼んで急いで京に遣わした。
「御味方に参じますので、秀吉公が九州にご出馬してくだされば、
先陣を承り道案内をいたしましょう」と伝えると、
殿下は「大友が味方になれば国の案内にちょうどいい。大友に協力せよ」と言って、
土佐の国の住人、長曽我部土佐守(元親)・その子信親、讃岐の国の住人、
千石権兵衛尉(秀久)などに、「豊後に赴いて大友に力を貸せ」と下知した。
両人は、総勢一万五千騎あまりにて、同(天正十四年)十一月中旬に豊後に下向していった。


以上、テキトー訳。

ぼんやりしてたら日付変わっちゃった。口惜しや。

なんてゆうか、義統が典型的なバカボンすぎて逆にかわいい。
お父さんと比べられてブチ切れるのはngmsの専売特許ってわけじゃないのね。プププ。
新介さんがかなり辛辣なんだが、大友家臣てのは立花道雪も辛辣なイメージだよな。
宗麟も「民を憐れんだ」なんて持ち上げられてるが、
この人、耶蘇教に狂って寺社仏閣破壊したような人だし、
あんまり民に愛されてたとは言えないんじゃなかろうか。かなりダメダメなイメージ。
でもすんごく優秀な家臣がそんな当主を見捨てずにいろいろと尽くすからすごい。

あんまり詳しくは知らないけど、このときの戦はホント悲惨だったらしい。大友が。
なんせ大友家の中心人物がことごとく討ち死にしちゃって、
その跡を継いだのが、陰徳記では「坊主上がり」ってなってるけど、
ほとんど十代前半とかの少年だったらしい。そりゃいかんわ。

島津もイケイケなんだな。
この家はものすごく強靭でしぶといイメージがある。関が原の島津の退き口も有名だしね。
少人数で敵中突破だよ。考えられないよ。
しかもそのとき、敵方の将にクリティカルダメージ与えてるし。もうイミフ。
それで追っ手が迫っても「捨てがまり」って戦法で、大将の義弘は九州に帰り着いちゃうし。
アメージング薩摩隼人。

九州戦線、重い腰を上げた元春の悲しい話もあるけど、
もうひとつド悲惨な鬱戦場があるね。今回も不穏な名前が出てきたけど。
何も年末にこんな悲惨な話を読まなくても、と思わんでもないが、
舞台もちょうど年末だし、ちょうどいいかも。
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