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2011-12-16

うっかり官兵衛と愉快な毛利軍

今回はまじでタイトルのとおり。
九州征伐で中国勢が小倉制圧に成功した後、賀春の嶽を攻めあぐねているときのお話。


宇留津城没落のこと

隆景・元長・経言は、中国勢二万騎あまりを引率して神田の松山へ陣を移した。
殿下秀吉公から検使として遣わされた黒田勘解由も同所に陣を移したが、その手勢は三百もいなかった。
宗像はもとから中国に一味しており、益田越中守元祥の次男、修理亮を養子にする契約になっていたので、
今回も手勢千五百ほどを率いて中国勢に加わった。
長野三郎左衛門尉も馬野嶽から下りてきて降伏し、黒田の手についたので、
勘解由は自分の手勢に長野の一千騎馬を加えて陣を張った。

宇留津の城には賀来の一族が立て籠もっていた。
元長・隆景から使者を送り、
「味方に与し兜を脱いで旗を巻き、こちらの軍門に下れ。
そうすれば一命を助け、本領を安堵いたそう」と申し送ると、
賀来与次郎・賀来新右衛門・賀来孫兵衛たちは、
「仰せられるまでもなく、こちらから手を返してお味方に参じたいところですが、
父の入道専順が高橋の手につき、人質として賀春の嶽に入っています。
私たちが身命を惜しみ、所領に心引かれてお味方につけば、
高橋はすぐに父の入道の首を刎ねてしまうでしょう。
父を捨て敵方に降るのは孝にも義にもなりません。
遅かれ早かれ、高橋もまた殿下に対して弓を引き矢を放ち、どうして勝利を得られましょう。
皆身を滅ぼし、命を失うと決まっていると知りながら、それでも父を捨てられないと思います。
命を捨て、妻子をも顧みず、一戦を遂げて、死後に孝順を残すべきだと思い定めております」
と返答した。

それではということで、同(天正十四年)十一月七日の鶏が鳴くころ、
中国勢並びに黒田・長野・宗像合わせて総勢二万三千騎あまりが、松山を出立し、
辰の刻(午前八時ごろ)に宇留津表に着陣した。
この城は東は海、南北は深田だったが、南に黒田・長野、北に小早川、北に吉川勢が押し寄せた。

元長・経言は父の元春がひどい腫れ物を患ったため、松山から小倉に帰っており、
宇留津の攻め口には、元春様の名代として
宮庄太郎左衛門尉春実に古志因幡守を後見として差し添え、差し向けていた。
そのほか今田中務・香川兵部太輔・粟屋彦右衛門などをはじめとして、
主力の兵たちは皆この攻め口に残し置かれた。

諸軍勢が仕寄をつけようとしていると、
城のそばを馬で駆けていた黒田の手の者が、指物を城中に投げ入れた。
敵はこれを拾って城中を走り回り、武勇を吹聴して回る。
よそから見れば、黒田の手勢が城中に乗り入ったように見えた。
「なんと、勘解由の隊が城中に斬り込んだようだぞ」と言ったかと思うと、
取るものもとりあえずかかっていこうとする。
黒田も人に先を越されまいと「エイヤ、エイヤ」と声をあげて攻め寄せた。

吉川勢は黒田より早く城に攻め入ろうとして、一番に塀の近くに攻め寄せ、
とっとと乗り破ってしまおうと走りかけたとき、城中から鉄砲が一斉に放たれた。
真っ先に進んでいた牛尾大蔵左衛門は、唐冠の兜の真正面を撃ち破られて、矢場に倒れて死んでしまった。
後続の兵はこれを見て、「敵に息を継がせるものか」と、一気に城中に乗り入った。
他の軍勢も、遅れを取るまいと攻め入って切り込み、やがて城に火がかけられた。
密集した藁の家屋にあっという間に燃え広がり、
城中の兵たちも寄せ手の兵たちも猛火の煙にむせて、
誰が敵で誰が味方なのかも見分けることができない。
ただ「誰だ」と問いかけて「何某だ」と答える声だけを頼りに攻め戦った。

追手の門の右の方に、藁屋の上に赤土を塗って火矢を防ぐ造りになった家があった。
その中から「賀来の源介」と名乗って出てきた者が、辺りにいる敵に斬りかかった。
後に続く味方が一人もいないので、また家に引きこもる。これを数度繰り返す。
吉川勢の中に境孫次郎という力持ちのつわものがいたが、これを見て、
「敵の様子を見ると続く者もなく、ただ一人で切って回っているだけだ。
あれが樊噌(はんかい)であったとしても恐れることはない。この手で討ち取ってやる」と、
太刀を抜きかざして、その家に切り込んだ。

そこに源介が三尺ほどの大太刀で「エイヤ」と打ってかかる。
煙に目をやられ、そのうえ外は明るく中は暗いので、敵の太刀筋を見切ることができずに、
さしもの境も敵の太刀を受け損ねて眉の上をしたたかに斬られた。
たちまち流れ出てきた血が目の中に入り、仕方なく引いて出てくる。

香川兵部太輔が「よい敵はいないか」と、近づいてきた。
境が「おい香川、その家だ。得物を持った手練の敵が中にいるぞ」と言うと、
香川は「心得た」と何の遠慮もなく押し入る。
またそこに「賀来源介なり」と名乗りを上げ、斬りかかってくる。
香川は太刀を抜きかざし、しとどに受け流すと、続けざまに三回斬りつけた。
そのままツッと入って無手と組む。
賀来はなかなかの大力だったが、初太刀を打ち付けて引いたときに、
香川にひざの上をしたたかに斬られていて、歩くのも思うに任せず、
ついには取り押さえられて、香川に首を掻き切られてしまった。

益田越中守は手勢三十ほどで敵の出てきそうなところを狙って待ち伏せていた。
敵は家の中に籠もっていたが、ツッと出てきたところを討ち果たした。
柳沢新右衛門は輝元様からの使者として黒田勘解由のところに来ていたところ、
ちょうどよく合戦となったので喜んで参加し、これも敵を一人討ち取った。
宍戸備前守(元続)も敵を一人討ち取り、手勢の末兼土佐守・粟屋次郎右衛門・福万壱允・
寺下市允・浅原備後守・渡辺壱岐守・板屋肥前守・児玉筑後守なども分捕高名を果たした。
中所(なかぞ)掃部・勢一四郎兵衛尉・楢井・菅田などは討ち死にした。

輝元様の旗本衆は、山田吉兵衛尉・児玉小次郎・児玉兵庫・村上又右衛門・
三浦兵庫・佐武三郎右衛門・宇多田善介・佐藤宗右衛門・波多野源兵衛尉・
涌喜孫兵衛尉・小田切九郎などが分捕りした。
吉川衆は、今田中務・粟屋彦右衛門・佐々木豊前守・横道権允・
小野太郎右衛門・新見左衛門尉などが高名した。
今田の郎党の中村何某は、香川の手勢の恩田又右衛門と二人で敵と渡り合い、
敵はなた・長刀、二人は太刀で切り結んだ。
中村は股をしたたかに突かれながらも少しもひるまず、その敵を討ち取った。
恩田も同じく切り伏せて首を取った。

井下左馬允は「いい敵がいないか」と探したがなかなか出会わないので、
城の後ろにある池の周りをたどっていくと、年のころ十八、九ほどの男と、四十ほどの男がいた。
二人は、城が焼けたので池の中に入ったのだろうが、そうそう水中にいられるわけもなく、
やがて水から上がってどこへなりとも逃げ延びようと思ったのだろう。
水辺に上がろうとするところに、井下は声をかけた。
「怪しいやつめ。逃がさないぞ。ただし降伏すれば命は助けよう」

十七、八ほどの男はキッと後ろを振り返ったが、年嵩の方が「もう降伏なさいませ」と言うので、
「命をお助けくだされば降人になります」と言った。
「命は助けてやるぞ」と井下が言うと、「ありがとうございます」と近くまで寄ってくる。
井下はこれを一刀で切り伏せて首を取った。
しかしまだ年端もいかぬ者の首なので、実験に入れても仕方ないと思っていた。
けれども降伏した者がこの首を見て腰を屈めて通っていくので、もしかしたらひょっとすると思い、
「何という者の首だ」と尋ねると、
「これはこの城の大将、賀来の与次郎殿の首でございます」と答える。

また香川が打った首を見て、
「こちらもこの城の大将でございました。
惣領は与次郎殿ではありますが、まだ若年でございますので、
近年は叔父の源介殿が大将のようになさっていたのです。
そういうわけですので、軍の掟などはこの人が定めたものです。
常々こんな風に言っておりました。
『一城の大将を預かるほどの者が源介などという名では、まるで年若い者のようだ。
敵が聞いたらどう思うだろう。
今度は中国勢を相手に討ち死にするだろうから、名を改めて心置きなく死にたい』と言って、
十日ほど前に名を新右衛門と改められました。
そのときは会う人遭う人に、
『昔の実盛が鬢を墨で染めて名を北国の街に上げたように、
わしは名を改めてこの首を秀吉の実験に入れてやるぞ』などとおっしゃっていたのに」
と、涙をはらはらと流すのだった。

こうして賀来与次郎・賀来新右衛門の名が知られることになった。
新右衛門が最後に「源介」と名乗ったのは、そちらの方が人に知られていると思ったのだろうか。
もしくは口になじんだ旧名だったから名乗ったのか、
「新右衛門」とは言わずに「源介」とだけ名乗っていた。

そうしてその日に討ち取った首は一千あまり。
そのほか焼け死んだ者がどれだけいたのか見当もつかない。
黒田はやがて賀来与次郎・新右衛門の首を桶に入れ、討ち取った兵の姓名を記し、大坂に送ったのだった。
その後、生け捕った男女四百人あまりをすべて磔にかけ、見せしめのためにと、一人残らず突き殺した。
哀れなことである。
同八月一日に宇留津の城の死骸を全部海に流し捨て、一通り掃除をして軍勢を配置し、
同九日に諸軍勢を神田の松山へと移した。
豊前・肥後の敵城を「一揆の城」と言うが、土民ではなく、皆国人たちだ。
しかし一国の大将もなく、皆それぞれ一城ずつ持って抵抗していたので、人々は一揆と呼んだ。


以上、テキトー訳。

ちょっと! 何してくれてるんですか黒田兵! 指物を城に投げ入れちゃうとかw
うっかりは大将だけにしてください。
あと毛利軍(吉川勢含む)! ドリフみたいなかけ合いしてる場合ですか、ここ戦場ですよ!!!

あー、今回大爆笑だった。
自分とこの兵が投げ入れた旗指物でゴングが鳴る前になし崩し的に合戦が始まり、
慌てて乗り込もうとする官兵衛さんイカス。
この人もしかして天然? そんな気は薄々してたけどやっぱり天然なの?

毛利軍も自分たちがつけた火で自分たちが燻されてりゃ世話ないわ。
吉川衆の境さん、あんた前回首を撃たれてたよね。傷は浅かったの?
香川さんは↓こんな↓感じで脳内再生された。
 香川「ウホッ、いい敵(おとこ)」
 源介「やらないか」
井下さんもブラブラしてたらなんかチンケな敵がいて、騙して討ったら実は大将だったとか、
ホントになんという展開だろうwww
いや不謹慎で申し訳ないけど。

そうそう、毎度空気の宍戸さんは今回も相変わらず空気だった。
隆家さんのお孫さんなのに、孫の代になっても空気とか。不憫じゃ。

死骸を捨てて掃除をしたのは「八月一日」って書いてあるけど、きっと「八日」の間違いだよね?
十一月の話だったのにいきなり八月に飛ぶとかありえないし。

そういえばこのあたりの話は大好きな逸話サイトで少し読んだんだけど、
出典が違うらしく、開戦も「黒田の合図で」ってなってるし、討ち取った首も「二千」になってる。
磔になった人数も「一千」だしね。盛ってる盛ってるぅ~。
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