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2011-12-19

元春「すぐ元気になるから、ね」

九州征伐真っ最中、病に倒れた元春は。

吉川駿河守逝去のこと

吉川元春は癰瘡がようやく平癒すると、
「もう少しだけ療養して、賀春の嶽へと打ち出るぞ」と言った。
諸軍士は、「この人の病が癒えたということは、殿下の出馬を待たずとも、
九州の怨敵を退治できるという兆候だろう。
隆景がいらっしゃれば危ないことはないけれども、元長・経言は元春の看病をするために小倉に滞在している。
その隙を狙って、もし島津が薩摩・大隅・日向三ヶ国の兵を率いてくれば、
味方は由々しい危機に直面するだろう。
この人の病が癒えた今となっては、九州全てが一丸となって攻めてきたとしても、何の恐れもない。
この人こそ、とりわけて父の元就様の智勇を受け継いだ将でいらっしゃる。
現在の日本六十余州の将と元春を比べれば、一切の諸世界の上に須弥山王の出るがごとしだ。
その人の病が平癒したなら、我々は枕を泰山の安きに置ける(どっしりと安定できる)」と喜び合った。

こうしたとき、黒田勘解由が元春様へと、鮭を調味して饗応した。
元春は、「鮭は血を破るものだ。これを食えば癰瘡が再発するだろう。
しかしこの魚を主菜として饗応してくれるのに、自分には毒だからと言って箸をつけなければ、
主もさぞ残念に思うだろう。
私もまた療養のためとはいうものの、役に立てなくて申し訳ないと思い煩っていたところだ。
病が再発するとしても、毒だと言ってしまえば、勘解由はきっと、
自分のわきまえがないばっかりにこんな性の毒となる肴を料理してしまったと思うことだろう。
まあ少しばかり食べるか」と思って、箸をつけた。

さて美酒を数度酌み交わすと、勘解由は
「九州の平定は遠いことではないでしょう。
そうなったら、筑前一国は元春に宛行いたいとの殿下のご内意でございます」と打ち明けた。
元春は、「かたじけなき殿下のお志でございます」と言って、退出した。

元春はやがて寝所に入ったが、すぐに起きだしてきた。
「今夜は癰瘡がひどく痛んできた。きっと再発したのだろう。これを見てみろ」と、
外科の医師を呼んで患部を見せると、ことのほか腫れ上がっていた。
その夜、徳琳という外科医が癰瘡の周囲に関薬を付けておいたが、
翌朝にはその関薬の外へと紫色の血筋が活々と迸って、目も当てられぬ有様になっている。
それからは日を追うごとに病が重くなっていった。

輝元様から徳琳が遣わされ、「今夜のご気分はいかがですか」と尋ねさせる。
徳琳はすぐに小倉の甲の城から二の来輪へ下り、元春様へ用件を申し伝えた。
元春は看病の者たちに助け起こされて、徳琳を近くに呼び、輝元様への返事をあれこれと伝える。

「あれから養生しているが、もう少しでも調子がよければすぐにでも輝元にお会いして言うべきなのだろうが、
病状が思わしくないのでお前に語って聞かせるので伝えてほしい。
このことをよくよく申し伝えてくれ。

それはな、今回は九州征伐のために殿下が御出馬されると仰せになり、
その先陣として、毛利家がこの国に攻め入ったのだ。
だから、輝元は今回の戦を、これまで赴いた戦場と同じように考えてはいけない。
というのも、近年は殿下秀吉公と所々で対陣していたときは、
輝元公を本陣として、隆景と我らが先陣に進み、直接軍勢を指揮して、
手を砕き、敵を挫いて味方を助け、攻めれば取り戦えば勝ちの功を励まし、
輝元公は策を帷幄の中に運び、勝つことを千里の外に決し
(あらゆることを的確に処して物事をうまく運んで)てきた。

それに引き替えて今は、秀吉公が総大将でいらっしゃるのだから、輝元公は先陣の戦将だ。
だから、これまで輝元公を大将と仰ぎ、隆景や私が先陣に進んで戦を決したのと
同じように心得ていただかなければ。
こんなことは言うに及ばないかもしれないが、事のついでに申したまでだ。

また、肥前の龍造寺政家はいまだに秀吉公の御手に属していない。
つらつら愚案をめぐらせてみたところ、現在日本国中で殿下の下知に従わない者はない。
よって龍造寺だけが勝利を得られるわけもない。
きっとこれも早々に降伏して安堵に胸を撫で下ろしたいと思っているだろうが、
秀吉公へ和睦を請う手段がなくて打ち過ぎているだけだろう。
輝元公から使者をやって、味方に与するのであれば秀吉公へ口添えをしてやろうと言い送れば、
龍造寺はきっと流れに棹と喜びに堪えず、すぐに了承して味方に降るはずだ。
ここが兜を脱ぎ旗をたためば、九州征伐は早々に決着するだろう。

と、このことをよくよく申してくれ。
私もやがて快気するだろうから、詳しくは顔を合わせたときに申すことにしよう」
徳琳は「かしこまりました」と言って退出した。

しかし、元春様の病状はさらに重くなって、同(天正十四年)十一月十五日、ついに空しくなってしまった。
御年は五十六(七)歳であった。
この人は智仁勇の三徳を兼ね備えていながら、武運をも天から与えられたのか、
大内・陶・尼子・大友・羽柴などの強敵と何度も戦を重ねたが、ついに勝利を失うことはなかった。
戦のたびに寡兵をもって衆を挫き、功をなしてきた。
呉起が西河を守って諸侯と大いに戦うこと七十六度、全勝したのは六十四、残りは和議となった。
土地の四面を開拓して地を千里に拓き、その功にも増して、
孫子が蘇との境を破って郢に入り斉晋を脅かした勇にもなお増して、世を挙げて称嘆したものだ。
かの後漢の馬援は、武陵五渓の蛮夷を討とうとし、進んで壷頭に宿営し、
暑気にあたって病にかかり死んでしまった。
孔明は、魏を成敗しようとして渭南に軍を進め、病が重くなって陣中において死んでしまった。
そのときもこのような状況だったのだろうと思い知らされた。

輝元様は、「当家が数カ国を切り従え、武威をたくましくし国を保ってきたのも、この人のおかげなのに」と、
これ以上ないほどに嘆き悲しんだ。
元長・経言の愁傷は深く、気の毒なほどだった。

ぐずぐずしているわけにもいかないので、死骸を芸州へと送った。
経言も供奉して上国し、葬礼を丁寧に執り行って、全てが済んでからまた九州に下ってきた。
元長様は、「父の喪中であっても公戦に臨まないわけにはいかない」と、
やがて賀春の嶽へ向かうために小倉を出立しようとした。
こうしたところへ秀吉公から輝元様・元春・元長・隆景へと御内書が届いた(吉川家文書之一-九八)。
このような書状だ。

  「豊前の宇留津城を去る七日に攻め崩し、千あまりの首を刎ね、
   そのほか男女を機物(磔)にかけたとのこと、心地能次第である。
   言葉にしようのないお手柄だ。
   とりわけ敵方味方中の覚えといい、この祝着は筆紙に尽くしがたく思う。
   季節がら下々の者たちの長陣はかわいそうだと思うので、
   当年中にも出馬してほしいと言われたが、春まで延期となってしまった。
   安国寺・渡辺・石見・黒田勘解由を通じて言上があったのに、
   当年は出馬できなくなってしまい、心もとなく思っていることだろう。
   来春はそちらに知らせないうちに早々に出馬するので、了承してほしい。
   そのときに対面して忠・不忠を選別し、高名などをきわめた者に褒美を取らそう。
   このことを皆に伝えてくれ。
   豊後へもすぐに蜂須賀阿波守・脇坂中務・加藤左馬助、
   そのほか総勢一万四、五千を送り込む。

    (天正十四年)十一月二十日      秀吉在判
    毛利右馬頭殿」

 文体を同じくして、いずれも別紙であった。
    (天正十四年)十一月二十日      秀吉在判
    吉川駿河守殿
    吉川治部少輔殿
    小早川左衛門佐殿

この御内書を皆拝見して、「ああ、元春と一緒に頂戴できれば、どんなにか嬉しかっただろうに」と、
目を瞬かせながら押し頂いた。実に悲しいことだ。


以上、テキトー訳。

ウワアァァァン、元春ー!
どんな軍でも打ち倒せなかった将が病に負けた。悔しいね。
輝元に訓戒を残すなんて、お父さんみたいだ。
「これまでおまえを前線に出さないために頑張ってきたけど、
これからはおまえが前線に出なきゃいけないよ」
どんな思いで言ったんだろうな。

息子たちは傍で何を思ってたんだろうか。
元長はもう40歳近いし、当主としての貫禄もついてきただろう。
経言はまだ20代半ばで、一つも孝行してないってのに死なれちゃあんまりだ。
呆然としたんじゃないかな。人一倍苦労をかけてきた息子だったしね。
でも、息子たちが傍にいるところで死ねるってのは、ひょっとしたら幸せなのかも。
名前すら出てこない次男がかわいそうだけど。

そうそう、黒官が元春を暗殺したと解釈もできるけど、
わざわざ小倉でやるのは兵の指揮も下がるし、まだるっこしいのでナイかな、と思う。
中国勢の方が数は圧倒的に多いから、敵に回したら厄介だ。
隆景が一枚噛んでたなら中国勢の押さえになるけど、どうだろ。
黒官は暗殺するにしたって、人数を分断して取り囲んで殺す程度だな。
毒殺とかは考えにくいわ。
ホントにただのうっかりで、良かれと思って、精がつくご馳走の鮭を振舞ったんじゃないかな。
それがこんなことになるとは、ドジっ子属性おそるべし。

ここで傷心の経言に、贖罪意識の働いた黒官が寄り添って、
将来まで続く義父子だか義兄弟だかの誓いを立てる……ってストーリーを妄想した。
実際それどころじゃないだろうけどな。きれいな夢を見たいのだよ。
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