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2012-01-31

勇に長け孝なき信玄

あ、変なところで更新ボタン押しちゃった^^;

とりあえず続き。毛利家マンセーの次は有名どころの武将評論するらしいよ。


厳島宝前物語のこと(6)

「先に言ったように、私は諸国で修行してきたから、諸将の武道や行状の善悪をも一通り見聞きしている。
まず甲州の武田信玄は古今無双の良将で、軍の法令の正しさは末の世の手本にもなるほどのものだ。
自身は寡兵を率いつつ、何度も敵の大軍を破ってきた。
とりわけ戦の勝敗に敏感な将だったので、危うい戦は慎んで、戦で利を失ったことはないと聞いている。

しかしながら、とんでもない親不孝者だ。
それというのも、父の信虎が信玄を廃嫡して次男の典厩(信繁)に国を譲ろうとしたからといって、
たちまち悪逆を企てて信虎を追い出し、国を奪い取ってしまった。
そもそも信虎がデーバダッタよりもひどい大悪人ではあるのだが、
実の父を追い出す悪は、ほかに比べるものがないほどひどい。

舜が瞽叟(父)に孝行した話を毛の一筋たりとも聞き及べば、こんな振る舞いはできないだろう。
また伯夷・叔斉が父の孤竹君の禅譲を辞したことや、
この日本の難波の皇子(仁徳天皇?)の謙譲の志すら知らなかったのだろうか。

いかに武道が古今に傑出しているといっても、このように不孝の至りの人ならば明将とはいえないだろう。
ただ悪逆非道の邪将である。
太公が将に求めたのは、勇智仁信忠だ。孫子が将を論じる点は智信仁勇厳だ。
これは五材を兼ね備えてからの話だという。勇だけが勝っていても仕方ない。
だから信玄は勇一辺倒であって、智信仁厳もなく、また忠もない。

けれども智がまったくなければいい策略も練ることなどできない。
信玄の一代限りは、謀略の面でも諸将に勝っていた。なぜ信玄に智がないなどと言えるのかと、
ひとしきり非難もあるだろう。
たしかにまったく智がなければ甲州一国から五ヶ国を切り従える身となれるはずもなく、
またその間には数々の謀略を成功させてきた。
それに軍法が優れていて末代の手本にもなると人に噂されるのは、智がなければできることではない。
これを考えると、信玄に智なしというのは偏見だと思えるかもしれない。

しかし一歩退いて愚案をめぐらすと、そうではなくて、もし実際に智があったならば、
父の悪行を諌め、それでも父の行状が治まらないなら、小松の重盛がやったことをまねるはずだ。
そうでなければ伯夷の心持の清らかさを学んで、弟の典厩に家を相続させ、
自分は世俗を離れてまことの道に入り(出家し)、
来世は安楽な国土に生を受けたいと願うようになっていたのではないだろうか。
または深山幽谷に入って蕨を採って飢えをしのぎ、聖なる名を永遠に残そうと腐心するはずではないか。
そうせずに父を追い出したのは、実に浅ましい振る舞いだと言える。

孝と不孝、忠と不忠、善と悪とを見極めることこそが智ではないだろうか。
孝、不孝から善悪に至るまで知らないのは智をは言えないのではないか。
また知っていたとしても、それを実行できないのを智と言うだろうか。
たとえその行状に智信仁忠だと思えることがあったとしても、本当の智信仁忠ではないのだ。
猿が人真似をしているようなものだろう。
信玄には父の因果がたちまち襲い掛かって、嫡子の太郎義信もまた信玄を殺そうとした。
そして信玄はまた、実の子である義信を殺した。

父を追い出し子を殺し、これを大悪不道と言わずに何と言おうか。
普通の人のように子を愛したならば、義信もどうして信玄に逆意を抱いただろうか。
信玄が義信に一片の愛も注いでいないとわかっていたからこそ、
信虎が次男の典厩に国を譲ろうとした過失を繰り返そうとする信玄に対して、
太郎義信は恨みを抱いたのだ。
それを糾弾するのであれば、実の父に悪逆の限りを尽くした信玄こそ、
自身の悪行のほどを思い知るべきだ。
こんな不孝者では成仏もできないだろう。
だから後代の将は、信玄を前車の轍と考えて、孝行に専念するといい。

信玄の武勇は先に述べたように古今に抜きん出ている。
智も一通りは備えているし、国の施政もそれほど悪くはなかった。
孝さえ備わっていれば末法の世には珍しい良将だと言えたのだが、
不孝のほどがひどすぎて、たとえ法や施政が賢将のようであっても、本当の賢将とは言えない。

昔の聖人や賢将に、一人でも不孝な者があっただろうか。
もし不孝者であれば、人々も賢将・良将をもてはやさないだろう。
これからの将に勇だけは信玄に並び立つ将が出てきたとしても、国政すら信玄に及ばず、
不孝さで信玄に似てしまえば、今生の軍功の冥加も尽き果て、きっと死後には閻王の呵責を受けるだろう。

信玄が一代で武威をたくましくしたのは、勇に優れて謀略に長けていたからだ。
国政もまた信長に比べると雲泥の出来で、賞罰も明確ではある。
だからこそ寿命が尽きるまでは、不利な防戦に臨むこともなく、人々に勇将ともてはやされた。
それだけでなく、国土も安寧だった。

しかし因果は必ずめぐる。天道の目は節穴ではない。
信玄の子、勝頼は自軍の強さを妄信して勝敗の勘もなく、長篠で合戦を仕掛けて大利を失った。
また国政がよくなかったので士卒はやる気を失い、民も苦しんで、
ついに天正十年には、武田の一族は一人残らず信長公に殺されて、その末裔が生き残ったとは聞かない。
これは勝頼自身が勝敗の道理に詳しくなく、特に民を悩ませた罪科が積もり積もったのと、
父の信玄の不孝が類を見ないほどだったのを、仏神が憎み果てたからこうなったのだ。
阿闍世(あじゃせ)太子が父王の頻婆娑羅(びんばしゃら)を七重に幽閉した罪に等しい。
これを思えば、元就と信玄との優劣を一くくりに論じることはできまい」


以上、テキトー訳。まだ続く。

親の因果が子に報い、か。武田の最後は切ないよな。
櫛の歯が欠けるように、ぼろぼろと失われて、欠けていって。
でも信玄てここまでdisられるほどひどい人だったのかね。
「この大将じゃだめだ」と思った家臣も多かったからこそすんなりと信虎の排斥ができたんだと思うけど。
まあ祖母の住んでるのが山梨なんで、信玄公推しを目の当たりにしてきたから、
それほど悪い印象はない。負けんなよ、甲州!

陰徳記の成立は1660年とされているけど、それはこれを記した正矩の没年。
もっと早い時期に執筆が進んでいたと考えて間違いない。
正矩が生まれたのが1613年だったかな。
こんなころから、ずいぶん儒教思想が幅を利かせていたんだね。
悪い親でも親は親、大事にしてしかるべしなんて、外部の人間だからこそ言えるんだろう。
晴信は晴信でいろいろあったんだろうになぁ。信虎追い出したのだって晴信単独じゃないだろ。
そもそも毛利家見てれば、国政なんて当主の胸先三寸でどうにかなるもんじゃないとわかるはずなのにね。
なんか、著名人の末路と寓話を無理やり合体させて、あたかも教訓ぽく仕立て上げるから、
儒教って苦手なのよね。うさんくさいっていうのか。
モヤモヤする! 月末月初でイロイロ詰まってるからだろか?

そんなわけで次回は北条について語られるようだが、仕事がちょっと詰まってるので、更新できるかわからない。
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2012-01-30

元春=孔明、隆景=泥中の蓮華←new!

引き続きおっさんどものダベリ場@厳島宝前。
白髪の老人が語り終わり、坂東なまりの武者修行者が元春について話してる途中から。


厳島宝前物語のこと(5)

「さて秀吉公が九州征伐を行ったとき、薩隅の二国は山深く道も険しいところで、
そのうえ島津兄弟は当世では群を抜いた大勇将ときていて、智計謀略では太刀打ちできない。
また軍事に携わる家臣たちは言うに及ばず、里や村の農夫・きこりに至るまで、
死ぬことを常日頃飯を食ったり茶を飲んだりするのと同じように考えているそうだ。
それがどうやら本当らしいと聞いて、秀吉公がこれは一大事だと思っていると、
長曽我部・仙石・大友たちがことごとく一戦の内に打ち負かされてしまった。
数千の兵を討たれ、命からがら逃げ上ってきたので、
これはますます島津の武勇は侮りがたいと秀吉公は感じていらした。

しかし元春の武勇は播磨の上月・伯耆の馬野山・備中高松の三ヶ所で
ご自分が対陣しているのでよく知っている。
吉川を先陣として島津を攻めれば、たちどころに征伐できるはずだとお考えになった。
それで安国寺にその旨を伝えて、元春に出兵するように促したが、
元春は隠居の身でもあり、年老いて常に病に苦しめられていると言って出馬しなかった。

秀吉は次に黒田勘解由を通じて、輝元・隆景にこう伝えた。
『近年は元春と所々において対陣してきた。だからその戦についてでも語り合いたい。
この秀吉が天下の権勢を握れたのは、ひとえに元春・隆景のおかげだ。
備中での和睦のときに、信長が惟任(明智光秀)に殺されたという知らせを再三受けながら、
士卒は秀吉の後を追って攻め上るべきだとしきりに訴えただろうに、
元春・隆景が会盟の旨を決して破らなかったからこそ今がある。
その恩は忘れたこともない。元春に対してわしは毛の一本ほども疎意はない。
一聞は一見にしかずという言葉もあるし、とにかく一度対面して、
元春と水魚のように親交を深めたいというわしの心の底もすべて語り、また九州征伐の計策も評定したい。
だから元春にぜひとも九州へ出馬してほしい』
これは二度伝えて、合計三度も使者を送っていることになる。

そして輝元・隆景は新庄に行って、
『関白殿がこうして理を尽くし言葉を和らげて、九州の軍事についてひたすら元春を頼っているのに、
出馬しなければ無礼のきわみになってしまう。
また吉川家のことは言うに及ばず、毛利家の危機にもつながる。
輝元のためとも思って、元長・元氏・経言の身の上をも思えば、どうか九州へ出馬してほしい』
と重ねて説得した。

元春は『私が身命を惜しまず強敵・大敵を挫き、戦場の霜雪にこの身を削られるのを厭わなかったのは、
ただ毛利家の危機を助けようとしてのことだ。
今秀吉がこうして言ってくるのに頑なに背くと、輝元のためによくないと言われれば、
承知しないわけにはいかない。では秀吉の仰せに従うとするか』と、すぐに九州に向かった。
しかし豊前を制圧する途上で亡くなってしまった。

これを考えると、諸葛孔明に臥龍の徳があると聞いて、魏を滅ぼすために、
蜀の劉備が三度も孔明の草庵に足を運んだ故事に通じる。
孔明はついに劉備に応えて蜀に仕え、赤壁の戦いで魏の軍を大破したが、
軍営の中で病に冒されて死んでしまった。
草庵への三顧の恩といい、智謀勇武といい、軍営での死に方といい、
元春が秀吉から三度の要請を受け、再び表舞台に立って九州の陣中で病死したことと、
一つとして孔明と異なるところはない。
これを思えば、元春は諸葛亮の生まれ変わりとでも言えるのではないだろうか。

また、小早川隆景は文武両道の才能があるが、なかでも治世撫民の器に秀でている。
愛和の情が人より強いので、士卒も世間以上に隆景を慕っている。
その行いは柳下恵(中国周代の賢者)のようだ。
最近では石田治部少輔・長塚大蔵ごときのつまらない者たちと親交を結んでいるが、
本人はまったく堕落していない。
これは蓮の花が泥の中から現れてもその濁りに染まらないのと同じだ。
昔の聖人は物事にこだわらず、世とともに移り変わるというが、それに相当する。

今輝元の国政を助け、八国の民を愛し育んでいる様子は、あたかも成王を補佐した周公のようではないか。
時代は違えど、周公の徳を学べる良将は隆景だ。
また、小松の内府(平重盛)の行いにもよく似ている。
だからこそ秀吉公もその賢才を愛して筑前と肥後の木の郡・養父郡を与えたのだ。
これが賢さで抜きん出ていると言わずに何と言えようか。

元就の八人の息子のうち、隆元・元春・元秋は亡くなってしまった。
今残っているのは隆景のほかには元清・元政・元康・秀包だ。いずれも劣らぬ勇将だ。
なかでも元清は隆景とよく似ているそうだ。
吉川広家は父の元春の勇も智も仁も受け継いでいる。
だってそうだろう。豆の種から麻や麦は生えてこないものだ。
祖父といい父といい、またこの人の母は熊谷伊豆守信直の息女だ。
信直の祖先の直実にも劣らない勇士だぞ。

もし隆景が老死してしまっても、広家・元清がいる限りは、
毛利家の政道に不正はなく、軍事力も昔に劣ることはないだろう。
輝元はまだ若いといっても、秀吉公が特に大事にしている信将だとのことだ。
こうして子孫が繁栄して、文武の徳を両方得ることができるのは、
すべて元就の武勇が古今に傑出していただけでなく、上は仏神を敬い、
下は庶民を慈しんだためであって、その徳が今になって輝きを放っているのだ」


以上、テキトー訳。どこまで続くのか。

ついに元春、「諸葛孔明の生まれ変わり」とまで言われちゃったね。
ヒャッホゥ! うちの殿様世界一~~~!
三国志もよく知らないけど、孔明死すったらアレか、五丈原だったかな。昔習い事で歌った覚えが……
「キ山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原 零露の文(あや)は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
 蜀軍の旗光なく 鼓角の音も今静か 丞相病篤かりき 丞相病篤かりき」
だったかな。うろ覚え。ああ、また筝やりたいな。もう指が昔のように動かなくなってるけど。

そして隆景。なんか「愛」とか「和」のイメージないんですけど。
だいたい正矩のせい。これまでの描写がドSすぎる。
でも泥中より生ず蓮華になぞらえるのは美的でイイよね。ドSのイメージとも競合しないし。
決めた。うちの隆景のイメージカラーは「白」だ。
どんな色にも染まらない、すべてを反射し拒絶する白。
柔和なフリして絶対に他者を受け容れない白蓮。
肖像画も柔和な美老人て感じだし、ぴったりな気がしてきた。

あと広家、待ってました! 母ちゃんの血統も褒めちぎられてるし、満足満足。
熊谷直実にも劣らない勇士だってよ、どうするオイ。

さて次は毛利家じゃない武将について坂東なまりのおっさんがいろいろ語ってるようだよ。
武田信玄とか北条早雲とかそのへん。
ここらで有名武将総括入れとこうって腹か。そうなのか正矩。
2012-01-29

引き続き毛利家マンセーですが、何か

あらすじ? そんなものはない。
居酒屋で政権批判に花を咲かせるおっちゃんたちよろしく、
厳島宝前でも長々と毛利家の論評が続けられている模様。ただしこちらはマンセー。
三人のおっさんたちのうち、白髪の老人が一通り話し終わって、
今現在は武者修行で全国を渡り歩いたという坂東なまりのおっさんのターン。


厳島宝前物語のこと(4)

さて元就は、天下に旗を揚げず、数ヶ国を切り従えて、
日本を五つに分けたうちの一つを保つ発想といい、民を撫育する仁政といい、
周の文王が天下を三つに分けたうちの二つを治めた故事に似ている。
大内・陶を滅ぼして防州山口に進出したとき、功の浅深を調べて恩賞を与え、帰服する者には本領を与え、
また降伏する者がいればそれを許し、法を犯す者には罪の軽重を取り調べて刑罰を行った。

恩賞を与えられた者はさらにこれから功に励もうとするし、
服従した者や降伏した者は情けをかけられたと感じて命を投げ捨てて恩に報いようとする。
刑罰に不正がなければ、罰せられた者も恨みを抱かない。
特に大内家の苛政を改めたので、国中の四民遊民は、元就が至義をもって不義を罰したことを喜んだ。

元就は、杉・仁保・吉田・杉森などをはじめとして、降伏した者を一人も殺さなかった。
これは『神武不殺(武の真髄は殺すことではない、周の文王をたたえた言葉、易経)』である。
義長・隆房を討って苛政を改めたのは、『人を殺して人を安んじる(司馬法)』行いだ。
殷の湯王が夏の王傑を討ち、周の武王が殷の紂王を滅ぼしたのと同じことだ。
また、元就は尼子の領国の石見・備後に進軍し、
そこから出雲に向かって、ついには尼子義久兄弟を捕虜にした。
はじめに石見・備後に入ると、先に慈愛を施し、威嚇を後回しにしたので、
国中の兵・土民に至るまで、皆その仁徳に恭順して、尼子を見放して毛利についたのだ。
これは『その国を責めてその民を愛する(司馬法)』に当たる。

先に言ったように、防州山口に入ったときも、刑罰で民を威圧することなく、
ただ仁徳をもって民を愛しただけでなく、築山をはじめとして大内家の城郭すら破壊しなかった。
また国清寺・香積寺など大内代々の菩提所、清水・八幡・祇園などの神社が破壊されていればそれを修繕し、
寺社領を侵すこともなく、陶のときに減らされたものは改めて旧例どおり返している。
雲州冨田に入ったなら、出雲はほかの国に比べてとりわけ神国として抜きん出ているので、
杵築・神魂をはじめとして数ヶ所の霊社に対し、近年の兵乱で壊されたり荒れていたりしているところを修繕し、
社領も旧記をもとにして返しつけたのだ。

また、尼子義久兄弟は、父の晴久の代からの怨敵だ。
一旦は命を助かるために降服したが、いつかきっとまた遺恨を晴らすために時節を待って兵を起こすだろう。
平家が頼朝を助けて災禍を招いたのと同じに見える。
老臣たちがすぐに首を刎ねるようにと諫言したが、一旦は命を助けると金石より堅く約束している。
元就は、約束をたがえるのは信将が恥ずべき行いだと、ついにその諫言に従わなかった。
これはあたかも漢の高祖(劉邦)が凾谷の関に入って秦の宮室を焼くこともなく、
その宝物を貪ることもなく、また降服した子嬰を殺すこともなく、秦の邪政を改めその民を愛したのと一緒だ。

また、己の武威をかさにきて法令を敷かずにすべて自分のしたいように振る舞い、
あるいは神魂の社壇を破却して乱暴狼藉の限りを尽くした本庄の一族、
重罪を重ねた井上の一族を誅殺している。
この誅とは、『武を明らかにするゆえん(尉繚子)』である。
一人を殺して三軍が恐れるならこれを殺し、一人を殺して万人が喜ぶならこれを殺す、というところに相当する。

さて、嫡子の大膳太夫隆元は勇も智も全備している。
その徳はあなた(老人)がすべて列挙してくれたから再び称美するには及ばないだろう。
孝順が人より優れている点は、雪の中で季節はずれの筍を求めた孟宗、
氷の張った水に飛び込んで継母のための魚を捕ろうとした王祥とも並び立つはずだ。
しかし不幸にも短命で死んでしまったことは、
顔回(孔子の後継者として見なされていたが早世した)と一緒だとも言えよう。

次男の元春は、攻めれば取り戦えば勝ったという韓信(漢の三傑の一人)の智勇にも並ぶ。
とりわけ伯耆の馬乃山で秀吉公と対陣したとき、敵は大軍なのに味方は五分の一にも満たないのを見て、
うしろの橋津川の橋を崩し、舟の櫓櫂を打ち折って、ともに戦士すべしと士卒に示したからこそ、
秀吉公を敗退させたのは、韓信の背水の陣に似ている。

また備中の国の高松表において、秀吉と輝元が和睦した後は、
『私が毛利家の危機を助けるのはこれまでだ。今は秀吉が天下の権勢を握っている。
その行いは非常に軽率で、政道もまた正しくない。こんな濁った世の中に出て世俗の埃にまみれ、
自分の名を汚すなどどうしてできようか。
昔の人も、自分が潔白であるのにどうして汚れたものを身につけられるだろうか(漁父辞)
と言ったではないか。功を成し遂げて名を十分に上げた者が身を引くのは天の道だ』と言って、
嫡子の治部少輔元長に家を譲り渡し、山中に居を構えた。
武略に長けたところと引き際のよさを思うと、越の范レイの徳に匹敵するだろう。

だいたいにしてこの人は、きわめて信を大切にして、
特に無欲さで言えば古今に肩を並べる者がない将だと聞いている。
それというのも、安芸より北の軍事に関しては、父の元就から任せられている。
だから大内・大友・尼子退治のときも、元春は寝食を忘れて尽力した。
また元就が北表の軍事をこの人に任せたのは、大内・陶・大友・尼子・山名など強大な大敵がいて、
毛利家の軍事の要となるのは北面にあると見ていたからだ。
元春は幸いにして文武全備とはいいながら、なかでも武勇については、暗に孫呉にも匹敵する。
戦国は孔子も孟子も役に立たない世の中なので、隆景ではなく元春に任せたのだ。
元春の智勇謀計をもってついに大内・尼子を滅ぼし、豊前一国を切り従えた。

敵城を攻め落として敵国を切り従えたときは、元就が戦のたびに西北の所領を分け与えようしたが
これを固く辞して、自分の手に属した国人のなかで忠孝を貫いた者を推挙してこの賞を与えた。
胸裏に一点の私欲もなく、清白な様は、許由が汚らわしいことを聞いたと川の流れで耳を洗い、
伯夷・叔斉が孤竹君(父)の禅譲を辞したのと同じだ。
これによって、国人たちはその恩に報いようと、進んで死ぬことを喜び、退いて生き延びるのを恥とした。

城郭を攻めるときは矢や石が雨のように降ろうとも、士卒は身命を惜しまず先を争ったので、
攻めて落とせなかったことがないのだ。
また山野で敵の将と陣を対峙させ、備えを設けて白刃を交える合戦のときは、
士卒が争って先に進んで忠孝に励み、死をいとわず働くので、戦えば必ず勝つ。
元春は愛しい子のように士を思って接するから、士卒もまた元春を父のように慕っていた。
だからこそはじめに大内を滅ぼし、次は尼子を捕虜にし、
最終的には秀吉との戦においても、ついに利を失うことはなく、どの戦も寡兵をもって衆を挫いたのだ。
智勇を兼ね備えただけでなく、私欲を捨てて士卒を愛し、仁徳を施したからこそできたことだ。

今後、武勇の一途さは元春に似た将が出てきたとしても、
これほど私欲もなく士を愛し民を撫育する仁徳まで兼ね備えた将はいないだろう。
また、士を愛し民を憐れむ仁将が出てきたとしても、
元春のように武勇に優れ謀略に通じた将はいないだろう」


以上、テキトー訳。まだ続くよ!

今恐ろしいことに気づいた。
ここまで読んだけどこの章、まだ半分いってない。どういうことなのwww
隆元についてはサラリと孝行息子的な面に触れられ、話題は元春に移ったけど、
この後もまだまだ元春について語られてるよ! どんだけ吉川押しなの!
そんでもって中国故事の引用が地味につらいよ!
全力で「そんなヤツ知らねぇよォーーー!」って叫びたい。

うん、でも元春イイね。士卒を愛し、士卒も元春を愛して身命をなげうつ。
さすがアニキっていうかみんなのアイドルっていうか。
毛利・吉川の魅力の一つは、家臣たちの殿様LOVE!!!な姿勢なんだよな。
あの凡夫とこき下ろされるのが定番の輝元でさえ、けっこう愛されてる。
まあ輝元を愛し補佐する筆頭が広家なんだけどね。あと益田元祥さんとか。佐世元嘉さんとか。
もちろん秀元と美貌の叔父様も……きっとそこに愛はあるよね???

ひねくれてないストレートな主従愛っていいよねぇ。
いや三河方面の人たちや黒田さんちに言ってるわけじゃないですよホント。

吉川家譜読んでたら、広家の最期のときの近臣たちの書状や覚書なんかが引かれてて、
これがまた主従愛に満ち溢れててすごく幸せな気分になった。
公儀のご法度だからと殉死を許さない広家は、今田宗与に引き止めるように命じるんだけど、
今田もまた殉死したかった一人で、この役目を申し付ければ思いとどまってくれるだろうと、
そこまで考えた上での人選だったとか。
「今後息子たちの役に立ちそうにないから」と一人だけ殉死を許された森脇作右衛門に対して、
「一人だけお供できるなんてすっごい羨ましいんですけど!」って手紙書くやつがいたりとか。
どうもね、一緒に死ぬってのは、来世も一緒にいようね、って意味らしいよ。破廉恥!!!
あと、せっかく本家の秀就がわざわざ見舞いに訪ねて来てくれてるのに、
そのお迎えの役を仰せつかったやつが「こんな役目のせいで殉死したかったのに出遅れた!」とか書いたりね。
それが鳥取城で腹を切った経家の子なんだぜ。あの「かめじゅ」なんだぜ。胸熱……!
もう吉川家、末永く爆発しろ。

そんなわけで次回も引き続き元春についてです。
2012-01-28

柳の隆景、元就はまさかの……

おっさんたちの夜長話@厳島宝前。
元就はマジすごい名将だよねー。子供たちもすごいよねー。
花木にたとえるなら、隆元は花の王の桜、元春は強く優美な梅花、まで読んだ。
今回は続きの隆景から。


厳島宝前物語のこと(3)

「また小早川隆景は、陽柳がほかの木に先立って緑葉を茂らすのに似ている。
この人は文武全備の将ではあるが、なかでも世を治め民を撫育する器量に秀で、愛和を第一とする仁将だ。
柳の青い色は春の木を司る。春はすなわち仁だ。
柳緑が藍より青い様は、隆景の仁と同じではないだろうか。

この人は常に危うい戦を慎み、策謀をもって敵をくじく手段を第一としているので、
武勇の聞こえは元春にいささか劣っているようではあるが、
だからといって武勇を備えていないわけでは断じてない。
それというのも、まだあれは天文二十年代だったか、安芸の国厳島で陶を倒したときには、
三浦越中守と自ら鉾を取って猛戦を果たした。
こうしてほかに方法がない場面では無二の働きをして勇を顕したが、
常に熟慮を重ねるがゆえに、強敵が来そうな先陣を避けて戦を慎むのだ。

だからこそ、大内・尼子・大友・秀吉などの大敵・強敵に対しても爪牙を隠し、
勇を裏に、謀を表にしていた。
武勇より知略、武芸より文学が得意なように見えるが、武勇に劣っているわけではないのだ。
常に『柔よく剛を制し弱よく強を制す』の手段を用いている。
『勝兵は水に似たり。それは至って柔弱なるものなり。
然れども触るるところの丘陵必ずこれがために崩る』と言うではないか。
隆景も常にこのように兵を用いる。
世俗のことわざにも『柳に風折なし』と言う。

最近の智将勇将、名を上げた人々が戦で利を失い多くの兵を失った例を挙げてみると、
上杉謙信の川中島の合戦、家康卿の三方ヶ原、勝頼の長篠、
秀吉公の小牧の合戦、信長の長嶋の退口などがある。
いずれも大将自ら手を砕き、勇を顕す防戦をしたといっても、
先ほど言ったように、所々で負け戦もあって、多くの兵を失った。

隆景は戦を慎んだからこそ、ほとんど大敗はなく、逆に敵を滅ぼしたことが何度もある。
大内・陶・尼子、そのほか三村のような者を、いくらとも数知れず滅ぼしている。
これは皆、柔を第一にして勝利を得たのだ。
雨の雫が庇の下の石を消し去るのと同じだ。
これはさっき言った陽柳が風になびきつつもかえって風を制する様に似ている。

こうした例えは皆、なんともぎこちなく聞こえるだろう。
わしは竹馬に鞭をくれていた幼いころから、山河での漁猟で生計を立てていたし、
また戦場では弓を引き剣を提げて、てきを滅ぼし味方を助けようと、そればかりに心を尽くしてきた。
つらい世の中でいたずらに日を過ごし、今は白髪の老人になったので、
和漢の書などというものは、その名前すら知らない。
イロハの『以』の字を牛の角に似ているやつだと覚えたほどの愚か者なので、
一つとして本質をうがつものはないかもしれない。
しかし、批判されるのも承知で、口に任せてしゃべってみたのだよ」

老人が語り終わると、坂東なまりの人が口を開いた。
「いやいや、ただいまの批評こそ、この大明神のご託宣かもしれない。
人知の及ぶものではないと感じたぞ。
隆元・元春・隆景を花柳にたとえたのだから、父元就の徳についても話してくれ。
何の草木に似ているだろうか」

尋ねられて、老人はこう言った。
「確かにあなたの言うように、わしは隆元兄弟を花柳になぞらえた。
花が赤く柳が緑になるのはすべて造物主の功で、陽春の和気が万物を成長させる。
であれば、天地陰陽の徳をもって、元就の智・仁・勇になぞらえることができるのではないかな。
千草万木をもってしても、とても並べることなどできないと思う」

坂東なまりの人は言った。
「この例えは実に雪上に霜を加えるようなものだ。
私は若年のころから武者修行をしながら諸国をめぐっていて、いろいろな家の戦備えの様子、
政道の善悪も一通り見聞きしてきた。
しかし元就を超える弓取は、二人といなかった。

この人は仁徳に厚く、民を撫育する志が深いからこそ、天もまた感応したのか、
丹比三百貫から次第に武威を増強して、十三ヶ国の太守となっただけでなく、
位は贈三位に至り、七十余年も長生きできた。
それに男子八人、女子二人の十人の子にも恵まれた。
その上、嫡孫の輝元は従二位中納言にまでなり、八ヶ国の太守になった。

隆景はまた豊前の一国・肥後二郡を領し、秀包も久留米で六万石を与えられている。
吉川広家は侍従に出世し、出雲・伯耆で秀吉公から十二万石、
元から毛利家より与えられている本領を併せて十五万石を知行するようになった。
そればかりでなく、秀吉公は西国に空いている国があれば宛行ってやろうと、
たいそう志を深くしているそうだ。きっとすぐに一国の主となるだろう。

こうして子孫が永久の徳を誇れるようになったのは、
元就から今に至るまで、嫡流の人々が皆、武勇も仁徳も兼ね備えていたからだろう。
あなたが言ったように、これは元就が天下に旗を揚げようとしなかったこと、
また子孫が皆良将だったことで、こうなったのだろうな」


以上、テキトー訳。ツヅクノデスw

天地陰陽の徳って、ケタ違いだな、元就!

それにしても、よくしゃべる爺ちゃんだぜ。
ようやく坂東なまりの人のターン。このまま次に続く。
正直飽きて……いにゃいにゃなんでもないDEATHよ、正矩たん。
ていうか正矩たんキャラクター化したくなってきたな。いじり倒したい。

隆景は思慮深さが強調されてんのな。
そのわりには若いころによく危ない目にあってる気がするんだけど気のせい?
「柔よく剛を制す」って、このころからあった言葉なのか。ちょっと驚き。
雨だれが石を穿ちいつかは穴を開けるように、
静かにしかし着々と乃美宗勝や豊前坊のM化を進める景様しか頭に浮かびませんでした。
脳が腐るってコワイね。

今回は広家の話題もほんのちょっと出てきたから嬉しい。
しばらくこの調子でおっさんたちの止め処ない話が続くよ~~~。
2012-01-27

桜の隆元、梅花の元春、隆景は次回

♪はるか昔 無名な三人のおじさんが 長い長い話をしていた……
厳島に集まった三人のおじさんが、毛利家について論評しているようです。
昨日の続きで、まだ爺さんが話してる最中。
元就の話は終わったようなので、ここから三矢の話題に移行。


厳島宝前物語のこと(2)

「嫡子の大膳大夫隆元は、とても懐が深く情け深い人で、とりわけ孝心ではずば抜けている。
父の元就が重病に侵されて命も危ういというようなとき、
自分の命を替わりにしてほしいと願書をしたためて、この島(厳島)の社壇に納めなさった。
舜(中国神話の君主)は孝をもって天下を治めたというから、
この隆元も武勇だけでなく仁徳にも優れ、毛利の家を相続するのにもっともふさわしい器量だといえる。

隆元は常にこう言っていたそうだ。
『弓矢とを取って我が父元就に劣らず名を上げられるならば、
先立って父を悲しませるよりは、長生きしたほうが孝行になるだろう。
しかし私はどうやっても父の半分の徳すら身につけられないと思う。
堯(中国神話の君主、舜と並び称される)の子(丹朱)は自分が堯の爪先にすら遠く及ばないと知っていた。
父よりひどく劣った子は父の名をも貶め、遠い先祖にも顔向けできなくなるのだから、
早く死んでしまったほうがいい。私がただ願うのは、父元就に先立って死ぬことばかりだ』

こうして自分の身を省みることのできる賢将であったが、
どういうわけか、四十あまりで世を去ってしまった。
勇も仁も命の短さも、鎌倉の基氏に似ているのではないかな。
また昔の平重盛は、父の悪逆を諌めきれずに、熊野権現に祈りながら絶命してしまった。
隆元は、智勇仁徳が父に及ばない自身を省みて死ぬことを切望した。
父の善悪は違っても、子の賢才は同じだ。
今現在の輝元卿も、父隆元に劣らない良将だと思うぞ。

さて吉川元春は、先ほど元就と似ていると言った義家などの良将にも劣らぬ将と見える。
当世でたとえるならば、甲斐の武田入道信玄は武勇に優れており、
また危うい戦を慎む良将だが、元春の戦の手際と遜色がない。
東西に引き分かれてはいても、智勇はまったく同じだと言える。
また嫡子の元長は、父にも祖父にも劣らぬ勇将だ。
当代の武将と比べると、越後の上杉入道謙信と似ている。

また、元就を楠正成にたとえたなら、元春は嫡男の帯刀正行にたとえられるだろう。
どうしてかというと、正行は智勇を兼ね備えているといっても、勇がはるかに勝っている。
元春もまた同じだ。
隆景は正成三男の又次郎左衛門正儀にたとえられる。
正儀は策謀を優先して戦を後にする良将だ。これは隆景の戦のやり方と同じである。

そして隆元・元春・隆景を花木にたとえるなら、
隆元は父元就にも劣らぬ良将であり、毛利家を相続するにふさわしい器量の持ち主だ。
隆元は桜だ。桜の花は、その色香がほかのどの木より勝っているからこそ、
我が日本でその名を呼ばずに『花』といえば、必ず桜を指すようになっているのだろう。
これを考えると、さまざまな花が美しさを競い合っても、まったく桜には及ばない。

次男の元春は梅の花だ。
なぜなら、智・仁・勇の三徳を兼ね備えた良将であり、向かってくる敵を必ず打ち倒し、
囲んだ城はすべて落としたと聞くと、きっと恐ろしげな猛々しい将だと思うだろう。
厳罰を好み、士卒は近寄ることもできず、万民は恐怖して村を逃げ出し、
木曽義仲や仁木義長のような振る舞いをしているのだろうと思っていたが、
その行状をよくよく聞けば、まったくの思い違いだったとわかる。

元春は賞罰も正しく行い、とりわけ仁徳が深いため、慈悲の心を優先する。
特に私欲などはまったくと言っていいほどなく、心持が清浄で潔白な賢将なのだ。
対象に一点の私心もないからこそ、士卒もかりそめにも奸邪なく、
一日中、忠志に励もうとする心がけを怠らない。
だから自分から法を犯すこともなく、法を犯さなければ刑罰に処される者もなく、
元春が刑罰を与えるのは極めて稀だと世を挙げて言われている。
愛が刑に勝っているのだな。

愛が刑に勝ると、きっと士卒が上を侮るだろうと思ってしまうが、
法令が厳重に定められているから、士卒は法を守り、上を侮ることもない。
実に威厳があっても猛々しくはなく、法で民衆をよく治め、武力で敵をよく防ぐ名将と言える。
さっきも言ったように、この人は他所では大猛将と言われているから身の毛もよだつほど恐ろしいように思うが、
近くで行状を聞けば、仁徳を深く施し、民を撫育する志も厚く、威厳も愛和も優れた人だとわかる。
梅の花も、寒い時期に氷雪をしのいで蕾をほころばすことから、その花の色も無骨で恐ろしげかと思えば、
木の立ち姿や枝の佇まいがそこらの木とは違うばかりか、色も美しく優美だ。

昔の人の梅の詩に、『真に何遜(かそん)が知己となるは須らく、始めて張良が婦人に似ることを信ず』
という一節がある。
梅の花は色の美しさだけでもほかの木に勝っているというのに、
実った果実の風味の良さもほかの草木より優れている。
だから黄山谷(庭堅、中国北宋時代の詩人)も『江梅に佳実有り』と作詩してているのだ。

元春は智・仁・勇が当世で抜きん出ているだけでなく、
仁徳が古来に稀で、華も実もある名将だから、梅によく似ている。
また元春は武勇に優れているから、どんな大敵や手ごわい敵に相対しても少しも臆さないばかりか、
かえって寡兵を用いてそれを打ち破ってしまう。
厳島での陶との決戦、馬野山での秀吉との対陣など、数えあげればきりがない。
梅の花も深い雪の中で寒さをいとわずに、むしろその顔をほころばすではないか。

元春はまた武勇だけではない。
智略にも長けているから、陣幕の中で策謀をめぐらし、戦場から千里離れていても勝利を決められる。
わずかばかりの胸の内に智計を秘めていたがゆえに、その名は日本全国に響き渡った。
まるで一枝の梅花の清い香りが千里の果てまでも届くのに似ている。
昔の人も『一点梅花の蘂、三千世界香(一点の梅の花の香りは世界中に香る)』と言っている。
元春の武の徳はその香りに等しい。

大納言(足利)義昭卿は、信長を成敗しようと、武田信玄をはじめとして名だたる諸将を頼ろうとなさったが、
政道をまったく疎かにされたため、下知に応じる将はいなかった。
しかし元春は違った。
『君が君子らしくないからといって、臣下がその勤めを投げで出すべきではない』と、
義昭卿を再び京都に帰して差し上げようと忠戦を貫いたのだ。
梅花は天の恩光を受けていることを感謝して、ほかの木に先立って清香を発するが、それと同じだ。
雨露は草木の父母である。だから梅花は雨露の恩に報いるために、千草万木に先んじて花を開く。
元春も同じように、その孝順が世に超越している。
また元春は心がまっすぐで、自分の気持ちを曲げて人に媚びへつらったりしない。
これも梅の立枝になぞらえることができる」


以上、テキトー訳。まだまだ続くよ!

元春ageが激しすぎて隆景は次回に見送りと成りました。どんだけ元春押しなの。
ていうか隆元の鬱イメージつらいな! 久々だけどやっぱキツイな!
厳島の願文の話とかが出てくるってことは、毛利・吉川家中では、
けっこう多くの人間があの願文や遺文のこと知ってたってことだよね。
もちろん元春も、兄さんの「早く死にたい」なんて鬱手紙を読んでる可能性が濃厚なわけだ。
マジ勘弁してやれよ、恵心。
兄さんに小太刀をもらった喜びに花咲かせたピュアピュアな元春になんという仕打ち。

それはそうと、「隆元は桜、元春は梅花、隆景は柳」というたとえは陰徳記に出てたんだね。
名将言行録あたりの創作だろうと思ってたけど、どれが初出なんだろう。陰徳記なのかな?
「真に何遜の~」の引用も私が見たところで2度目だ。
一度目は元就マンセーの最初のほうの章に出てきてる。正矩、この詩が好きなの?
真に強い人は実はその姿も優美で、でも近づいて見ないとわからないんだぜ、って理解でいいのかしら。

どうでもいいけど寒苦のなか花ほころばす梅花に似たる元春って……ちょっとムラムラするよねwww
紅く咲くのは~梅の花~ 白く咲くのも梅の花~ どうすりゃいいのさこの私 夢は夜(ry
妙なる色香、その清香は千里を走るどころか数百年のときを超えて私を惑わしているよ。
あの丸ポチャの肖像画を思い浮かべて落ち着きたいけど、荒らぶるわぁ。
2012-01-26

元就の評判

昨日の続きだが内容はまったく関係ないよ。
厳島神社のところでおっちゃんたちが毛利(今回は元就)についてダベっているだけなんだぜ。
なのにけっこう長いんで何回かに分けるんだぜ。


厳島宝前物語のこと(1)

八月、十五夜のころだろうか、月はことさら白く輝き、風はとても涼やかになって、
こうした風雅な宵は千金にも替えがたく、神々の配慮に勝るものはないと思うほど、趣深い夕暮れどきのこと。
数多くの人々が厳島の宝前に詣でて、宵の口には読経したり説法したりする僧もおり、
また名月に思いを馳せて和歌を詠んだり詩を口ずさんで神の御心を涼ませようとする者もいた。
そんな夜もようよう更けていこうとすると、皆自分の住家に帰っていくのだが、
二、三人ほどそこにとどまり、夜通し四方山話をする者があった。

一人は見るからに高位の僧で、声がとても澄んでいて、
もしかしたら五岳(道教の聖地、中国の五名山)のあまねく知識を身につけた人か、
または徹翁・関山両派の悟りを開いた僧とも思えた。
一人は年齢が五十と少しで、鬢の近くに切り傷・突き傷と思しき痕が二ヶ所あり、
坂東なまりのにごりがちな声をしている。
もう一人は出雲・伯耆あたりのなまりで、白髪の老人であったが、
左腕には突き傷の痕があり、風体も尋常な人間ではない。
いずれも宝前の柱に寄りかかり、時折咳をしたりしながら、
古今の聖人・賢人や世の盛衰について話をしていた。

「さてさて、毛利家は近年よく繁栄して中国八ヶ国を治める太守となり、
日本に数少ない大名と呼ばれるようになった。
これはひとえに、ここの大明神が加護し、眼差しを注がれたからだ。
元就がこの厳島で陶尾張守隆房を討ってから、武威が次第に増していき、
山陽・山陰両道の諸将も皆、旗を巻き兜を脱いで降伏した。
また人々はその仁徳あふれる施政を喜び、恭順したのだ。

あの元就は丹比の三百貫を領して猿掛の城で兵を挙げ、ついには十三ヶ国の太守になったそうだ。
これほどの名将は昔ならいくらもいただろうが、近代には耳にしたこともないなぁ」
などと語り合っていると、坂東なまりの人が白髪の老人に、
「こんなにも無双の良将である元就の戦ぶりは、古代の名将の中では智勇が誰に似ているかな」と問う。
その翁は、こう答えた。

「わしは、元はといえば出雲の国に住んでいたから、
尼子伊予守経久が全盛だったころから見てきている。
元就が丹比の少輔次郎という名だったときからのことも聞き及んでいるとも。
しかし唐土の良将のことは、一文も読めないので知るわけもない。
とはいえ、この日本の古今の良将についてなら、戦に携わる身であれば、だいたい聞き及んでいるわな。
元就の戦の手際は、楠正成に並ぶと思うぞ。

楠は最初は赤坂に籠もったが、その後の千早城での籠城といい、
足利尊氏の大軍を京都から追い落とした策謀といい、人智の及ぶところではない。
一方元就は初陣で武田元繁を討ち、陶を滅ぼし、大内を倒し、尼子を虜囚にしてしまった。
この勇謀は、正成にまったく劣らない。
昔の楠の智勇を聞き、現代の元就の手段を見れば、毛ほどの差もないではないか。
元就は永禄年中に尼子を攻め倒したが、そのまま都に攻め上がっていれば、
天下に旗を翻し、この日本の武門の棟梁と呼ばれただろうことは歴然としている。

しかし元就は、常々こう言っていたそうだ。
『天下の主となる者は、子孫を末代まで残すことはできない。
政治の善し悪しによっては、一代かあるいは二代、もしくは五代から七代の誤差はあれ、
結局は一門もろとも葉も枯れ根も絶えて、末裔も生き残れはしないのだ。

その前例を挙げるなら、平家は邪政を敷いて仏神にも憎まれ、人望も失ってしまったので、
清盛・宗盛のわずか二代、二十余年で滅びてしまった。
源頼朝は戦に臨んでは勇もあり、政治も悪くはなく、末法の世にも稀な名将だったとはいっても、
嫡子の頼家・次男の実朝が悪逆を重ねてしまったがために、ついに父子三代にして滅びてしまった。
北条九代は政治に奸曲なく民を思う志が深かったので、八代までは類葉が繁栄したものの、
第九代高時の代になって、上を蔑み下を悩ませたから、
ついに京・鎌倉にて一門がことごとく滅びてしまったのだ。

こうして考えれば、天下の権勢を握って子孫を断絶させてしまうよりは、
数ヶ国を保持して子孫を永代に残したほうがいい。
私が今数ヶ国を切り従え子孫に譲れば、たとえいかなる名将が出てきて天下の兵馬の権を握ろうとも、
元春・隆景がいるかぎりは、絶対に当家は滅亡しないだろう。
またもし子孫の誰かが十三ヶ国の半分を敵に回したとしても、七ヶ国の太守の立場は守れる。
時が経ってまた七ヶ国が減ってしまったとしても、まだ三ヶ国が残る。

日本六十余州のうち、一国を領する者さえ、この世にはそういない。
それを二、三州と、また子孫まで残れば、この元就の徳が末代に残されたことになるはずだ。
天下に旗を挙げて一代の武名を輝かせるよりは、天下を五つに分けて、その一つを保ち、
栄華を子孫万世に残すほうがいい』
こうして元就は天下取りの望みを絶ったのだ。

古代の司馬温公は、銘々の行いの中で陰徳を積んで子孫長久の計りとなそうとした。
元就は、天下に旗を広げるのを慎んで、子孫に無窮の栄華を残そうとしたのだ。
その祖先の大江広元は、源頼朝の時代に、後見として天下の政を掌握した。
だからこそ国家は安寧で、万民はその徳に恭順した。

元就も足利義輝卿の管領として天下の政務を取り仕切っていれば、天長地久の仁徳を施しただろうから、
頼朝の政道を取り戻し、また先祖義満公の徳化を引き継ぐこともできただろうが、
足利家の泥滅のときがきたのか、上は愚かになり下は媚びへつらう世になって、
ついには義輝卿は三好によって殺されてしまった。

先に申したように、唐土の賢将の例えを引かないのは、わしに学がなく愚昧なせいで力が及ばないためだ。
この日本の名将に比べれば、武勇では源義家・義経・義貞にも匹敵するだろうな。
また仁徳は小松の重盛・北条時高・時頼にも倍するだろう」


以上、テキトー訳。続くよ。

元就ヨイショ久々に読んだけどパネエなwww
「本気出せば天下だって取れたんですからね~
 深謀遠慮があって慎しんだだけなんですからね~~~
 べ、っべつに諦めたわけじゃないんだから、勘違いしないでよねっ!」
はいはいツンデレツンデレ。この場合は正矩がツンデレなの?

ところで真面目に源平・鎌倉押さえておかないと陰徳記もワケワカメっぽいな。
全然よく知らないんだよな。教科書で習ったことも忘れている勢い。どうしたもんか。

まあちょっとかったるい老人語りがこの後も続くわけだけど、
毛利サンフレッチェの評判もこの後に出てくるはずなんだぜ。
ちょっと見たら「隆元」「元春」「隆景」についても語られてるので興味深い。
基本的にマンセーだけど、江戸初期の吉川家臣から見た三矢ってどんな感じなんだろう。

そしてどうでもいい近況ですが、また本を購入してしまいました。
すでに手に入れているものすら読みきっていないのにどういうことなのw
2012-01-25

幽斎と文殊、隆景と山伏

申し訳ない。昨日おいちゃん嘘ついたわー。
秀吉が俳諧するんじゃなかったわー。ちゃんと見たら幽斎さんだったわー。


細川藤孝俳諧の発句並びに隆景と山伏問答のこと

天正十九年の秋の末ごろ、秀吉公はこう思い立った。
「わしは農耕を生業とする田夫の家に生まれたが、今は日本六十余州の主となった。
それどころか従一位太政大臣にまで出世し、すべての政をあずかるまでになった。
これは武芸に長じていたからというだけでなく、もしかして仏神の化身であるからではなかろうか。
自分でも、凡夫の生き様ではないと思っていたところだ。
この国を掌握した者といえば、古今に数多くいる。
しかし三韓(新羅・高句麗・百済)を切り従えた事例は、大昔の神功皇后のほかにないと聞いている。
これから後の世にもきっとこんなことはないだろう。
わしがこれから高麗の国に派兵して打ち従え、それから大明と一戦し、武勇のほどを顕して、
武威を震旦(中国)・扶桑(日本)に振るおうではないか」と、大陸への出兵を企んだ。

すぐに西国の諸将へと「来年には朝鮮へ遠征する。その用意をしておくように」と下知がなされた。
諸将は、朝鮮に渡るのなら船がなくてはならないと、皆大船を作った。
その中で、細川兵部太輔藤孝入道玄旨は、そのころは丹後の太守だったが、
子息の越中守(忠興)が朝鮮に渡るので船を作ろうと大木を探し求めた。

切渡の文殊のあたりに大木が多くあったので、これを切り出して船にしようとすると、
その堂の僧たちは、「この土地の松は太古の昔から切り出されたことはありません。
前例がないのでいかがなことかと思います。
ことに高麗国まで数千万里の波濤をしのいでいくのですから、
文殊のお心を損ねてしまうのは恐れ多いことではないでしょうか」と言い出した。

玄旨は、「たしかに言うとおりだな。では私が文殊へ手向けをするので、その後で切るといい。
和歌は諸仏道成道の元根であり、霊山会上(釈迦がしばしば説法したという霊鷲山の会座)の説法の奥義だ。
『大いに和(め)くる歌』と書いて『大和歌』と読む。
文殊の御心を大いに和らげて差し上げれば、きっとご加護の眼差しを注いでくださるだろう」と、
俳諧の発句をして、その松を切らせた。
「舟にせん松を切との文殊四郎」
文殊もこの発句に喜んだのか、何の祟りもなかった。

また秀吉公は隆景に対して
「豊前の彦山に楠の大木がたくさんある。これを切り出して大船を数艘造れ」と命じた。
隆景様はすぐに彦山に登り、「殿下の仰せだ。この山の大木を切っていくぞ」と告げる。
その土地の座主で何某の法印という者は「何でも仰せに従いましょう」と答えた。
隆景様はその座主の坊にしばらく滞在した。

ある夜、雨が窓を打つ夜の寂しさに、ただ一人灯りをともして心を澄まし、
「錦城の歌吹海(遊里)に在るを憶ふ、七年の夜雨、かつて知らず」と、古い詩を口ずさんでいた。
すると風とともに、どこからともなく、身の丈が七、八尺もありそうな大きな山伏が現れた。
兎巾(わら製の冠)をかぶり篠懸(すずかけ、修験者が着る法衣)を着てイラタカ数珠を持ち、
隆景様にの向かいに佇むと、大きな目を突き出してキッと睨んでくる。
隆景様も、「これは何かありそうな山伏だ。きっとこの彦山に住む豊前坊という大天狗に違いない」と思って、
少しも騒がず、瞬きもせずに睨み合った。

しばらく間があって、その山伏は話し出した。
「のう左金吾(中納言の唐名)殿、この山の木は昔からずっと切られたことはないのだ。
それなのに隆景が何の憚りもなく切るというのは奇怪なことではないか。
おまえ様は仁の道にも尽力しているし、仏神に帰依もしている。
この末法の世には珍しい仁将だと思っていたのに、こんな悪逆無道のことをするとは何たることか」
と声を荒げて言いつのる。

隆景様は答えた。
「あなたのような山伏の仰せとも思えぬな。
この彦山の樹木を、この隆景の私用のために切るのであれば、そのように言われるのも仕方ない。
しかしこれは関白殿のご命令でやっていることだ。
隆景はその奉行として罷り出ているだけであって、
秀吉公がこの山の木を切らせるのに前例がないからといって背くのであれば、
天下の下知に背くのと同じことだ。

普天のもと、王土にあらずということなし。
秀吉は天子ではないといっても、寰中(かんちゅう、畿内)は天子の直轄、そのほかは将軍の令を守るものだ。
天下の下知に背くのは、いかなる道理があってもまかりならぬ。
『理は法に勝らず』とことわざにもあるように、
天下の制法を私的な利のためにないがしろにするとは、いかがなものか。

また隆景を悪逆無道と言ったが、あなたこそ自分の言い分ばかり並べているではないか。
役の行者(役小角、修験道の開祖とされる)以来、山伏の法には、
私利私欲を優先して法を破るのがいいとでも書いてあるのか。
もし法を破り、私利を優先すれば、山伏とは外道の法であり正法ではない」

これを聞いて山伏は、
「普天のもと王土にあらずということなし、とは実に道理だ。
おまえ様の罪ではないというのも歴然である。ではお別れだ。さらば」
と言って掻き消えるように姿を消した。
もし隆景が臆して、こうして道理で責めていなければ危なかったところだ。
左金吾は仁徳を施すだけでなく、優れて剛胆な人でもある。
元就の武勇は元春が受け継いだとはいっても、
この人もまた諸将の中では並ぶ者がないほど智に抜きん出ており、勇もまた傑出していたそうだ。


以上、テキトー訳。

隆景無双www 2メートル超の天狗も言い負かしちゃうのかよ。パネエ。
恫喝を受け流し、瞬きもせず睨み返して慇懃に言い返すって、
ホントにドSの鑑だよね、景様……ハァ、冷たい視線で射抜かれたい……w
陰徳記の景様はホント言葉責めっていうか威圧プレイの達者だよなぁ。
こういう面がもっと注目を集めてもいいのに!

そういえば野生動物は先に目を逸らした方が負けなわけだけど、人間も妖怪も一緒だね、きっと。
きっとこのときは大天狗の方から目を逸らしてるよね!
隆景に詰られてシュンとしちゃう大天狗に萌えてしまいそう。
豊前坊かわいいよ豊前坊! そのまま隆景の下僕になってしまえばよかったのに!

それはそうと、今回調べ物をしているうちに、意外なことを学んだ。
「幽斎」って「静かな部屋」って意味なんだね! へぇ~~~~!!!
隆景が口ずさんでいた漢詩のなかに出てくる語句らしい。
ていうかしっとりと雨が降る寂しい宵に漢詩を口ずさむとかこのインテリ!

そして隆景のインパクトにかすんでしまった細川の幽斎様。
ごめん、歌意がちょっとわからない。
「文殊四郎」をググッたら、そういう珍しい苗字があるというのがヒットした。なんだそれ。
でも和歌で仏神を慰撫するってのは優雅な感じでいいね。
すげぇセンスの親父ギャグを始終ぶっ放してるイメージだったけど、
こういう基本理念に基づいてると思うと、ちょっと見る目が変わってきた。

なんか朝鮮出兵の話が出てたけど、次の章ではあんまり関係なくて、
ただおっちゃんたちがダベってる章のはずだよ。
2012-01-24

鶴松の夭逝

昨日の続きを読むけど、昨日の話と特に関連はない。
今回は秀吉の嫡子が死んじゃったというお話。


八幡太郎殿、早世のこと

同(天正19年)八月五日、秀吉公の嫡男、八幡太郎(鶴松)殿がにわかに早世してしまった。
秀吉公はひどく嘆き悲しんで、やがて東福寺に入って髷を切り落とした。
これに追随して、家康興・輝元卿・利家卿をはじめとして、六十余州の大名小名はことごとく髪を切り、
門戸を閉ざしたので、まるで諒闇(天皇が父母の死にあたり喪に服す期間)のようだった。
昔、源(足利)尊氏が鎌倉で髷を落としたときには、関東の武士は皆髷を切って
「鎌倉の一束切」などと呼ばれたが、それにもまして、
見るにつけても聞くにつけても大規模なものだったようだ。

翌年には改元があって、天正二十年は文禄元年となる。
翌年の玉祭のころ、秀吉公がまだ木下藤吉郎と名乗っていたときから親しくしていた梅雪という者が
都に来ていた。
その者は非常に貧しかったので、どうにかして渡世の元手を手に入れたいと考え、何か思いついたようだ。
秀吉公のところへ行き、
「この梅雪は八幡太郎殿にお目にかかりましたぞ。
ご伝言を預かっておりますので、それを申し上げるために参りました」と、ある局方へ申し入れた。

秀吉公・御台所は、「なに、それはどういうことだ。急ぎ梅雪を呼べ」と御前のすぐ近くまで呼び寄せる。
「やあ梅雪、なんとも久しいことだ。さて、八幡太郎にはどうやって会ったというのだ」と尋ねると、
梅雪は「それはですな、彼岸盂蘭盆には、西方十万億土の極楽からも、
また奈落の底の罪人たちでさえも、娑婆の世界へ亡き人々が帰ってくると聞いたものですから、
きっと御曹司様も娑婆穢土へお帰りになるだろうと思い、墓所に参って終夜念仏を唱えておりました。
そろそろ夜が明けるというころ、御曹司様がおいでなされました。
『我は西方極楽の九品の中、上品上生に至った。どうかご安心くだされと、
秀吉公・御台所のお二人へ伝えてくれ』とのことでございました。
また歌を一首お詠みになられましたぞ」と答えた。

秀吉公が「そうか、太郎は仏になったか。無病息災そうであったか」と問うと、
「それはもちろん、ことのほかご立派になっていらっしゃいました。
お顔の色なども一段といい様子でしたとも」と答える。
「そういうことなら安堵の至りだ。ところで歌とはどうやって身に着けたのだろう。
歌舞の菩薩がお教えくだされたのだろうか。なんと詠んだのだ」秀吉が問うと、
梅雪は「遥々とたづねて来たる梅雪に目かけて給れかかやとと様、とお詠みになりました」と返した。

秀吉公は「おまえの気持ちの深さを感じて、そのように詠んだのだろう。
太郎の伝言の旨、少しも疎かにするものか」と、梅雪に金銀珠玉を山ほど与えたので、
梅雪はあっという間に大金持ちになった。

土民の子ながら天下をすべて手中にしてしまうほどの武勇・才知を持っているなら、
梅雪のこうした浅ましい嘘に騙されたりはしないはずだが、
身分の貴きも卑しきも、才ある者も愚かな者も、子を思う道に迷うのが世の習いなのだろうか。
秀吉公は、この程度の昔話のような話を本当だと信じ、多くの宝を与えただけでなく、
その後も「八幡太郎があれほど頼んでいたのだから」と、折につけ梅雪に金銀を与えたという。
愚かにも哀れにも思えて、周りの者たちも袂を涙で濡らしたそうな。


以上、テキトー訳。

タカられてんじゃねえか、秀吉w 誰か止めてやれよォ~。
なんでポツポツこういう同情引く系をはさんでくるかな。かわいそかわいく思えちゃうだろ。

鶴松は残念だったよね。
誰の子だろうと、幼くして死んじゃうってのは気の毒だ。
生来虚弱体質だったとも言われてるけど、まだ数えで3歳だったんだよ。
現在の年齢にすると2歳と2ヶ月くらいしか生きてないんだよ。
かわいそうになぁ。親も悲しいよなぁ。それにつけ込む梅雪最低だな。
ていうか秀吉の周りって何気にけっこうひどい人が多い……?

次回は、そんな傷心の秀吉が俳諧をするそうです。
美貌の叔父様も登場すんのかな。
2012-01-23

中央の思惑と広家の身上

おっとォ! なんか拍手ありがとうございます。
訳文は自信がないまま破れかぶれで載せてるので気をつけてねー!

これまでの流れ:
九州征伐が済むと、秀吉は関東仕置きに乗り出し、北条氏が立て籠もった小田原を開城させるに至る。
これで天下統一はほぼ果たされた。
あとは秀吉のために尽力した諸将への恩賞分配となるわけだが、果たして広家は……?


広家朝臣、出雲冨田入城のこと

あるとき秀吉公は石田治部少輔・大谷刑部少輔にこう言った。
「先年、吉川駿河守元春に、九州を平定した後には筑前の国を与えると、
黒田(勘解由)を通して内意を伝えてある。
しかし元春は小倉で死去してしまい、続いて元長も死んでしまった。
輝元・隆景が、黒田を通じて
『元長には実子がいないので、弟の広家にあの家を相続させてほしい』と言ってきたから、
すぐに朱印状を用意したのだ。

あとは元春に約束したことなのだから、広家にも所領を宛行おうと考えていたわけだが、
まずはその武勇の程を見極めてからでも遅くはあるまいと思って、今まできてしまった。
広家は親にも兄にも劣らず、智勇を兼備しているように見える。
これから西国のどこかに、一国なりとも宛行ってやりたいと思うが、残念ながら空いている国がない。
東西の大名をどうにか国替えさせて、わしの蔵入地の中からでも、
広家に西国の一国を与えてやろうではないか」

これを聞いて、石田治部少輔・大谷刑部らは難色を示した。
「せっかくの仰せではございますが、いま少し熟慮すべきかと。
というのも、輝元はすでに周防・長門・安芸・備後・石見・出雲・隠岐の七国のほか、
備中半国・伯耆半国を支配していますので、中国の八ヶ国にも九ヶ国にもなりましょう。
その上、小早川に筑前一国・備前の内の二郡を宛行っておりますので、現在の毛利領は十ヶ国にも及びます。
もしも天下を争う兵乱でも起これば、西国はこの毛利の下知に従うと思います。
備前の宇喜多は毛利の家に対して有効な押さえになると思っていましたが、
殿下が吉川の縁者になさってしまいました。
こうなれば、播磨から長門までは毛利の領国と言っても過言ではありません。

おそらく殿下は、四国の内か、また因幡・但馬のあたりを与えようとお考えなのでしょう。
そんなことをしてしまえば、西国をすべて毛利にくれてやったことになります。
中国八ヶ国の内の二、三ヶ国を分知するように命じて、
あの家の武威を少しでも削っておくべきではないでしょうか。
御子孫が末永く天下を治めるための策謀をめぐらせた方がよろしいと思います。

それにまた、現在の所領に加えて新たに知行を与えるとあっては、後々災いを招くことにもなりましょう。
とはいえ、広家は九州で敵城数ヶ所を攻め落とす軍功を挙げましたので、
お取り立てになるのはもっともなことです」

秀吉公が「ならば毛利家の国を広げずに、広家を取り立てる方法があるのか」と訊くと、二人はこう答えた。
「それこそ簡単なことでございます。毛利の領国の内から、
何万石と定めて広家にお与えになれば、きっと広家は恩を感じることでしょう。
毛利の領国は広がらないどころでなく、分割してしまえば、かえって狭くなるではありませんか」

秀吉公は「とにもかくにも、お前たちの策に乗ろう」と言ったが、
「出雲の冨田の城は尼子代々の居城だった。ことに中国第一の名城である。
これを広家に与えよう」とも言った。
実に秀吉公の配慮の深さをうかがわせる。

こうして黒田勘解由を通じ、広家は出雲冨田の月山へ入場することとなり、その近辺を領するようになった。
また本領と伯耆半国・隠岐一国を支配するようにとも命じられた。
黒田はすぐにこの旨を広家様に申し渡し、広家も異議なく受け取って、
天正十九年六月十八日、冨田へ入城を果たした。

広家様の本領は安芸・石見の両国にあったが、芸州の新庄一万貫ほどを元のままに据え置き、
残りの代替地として島根郡を輝元公から与えられた。
よって島根三郡・伯耆半国・冨田近辺の所領、そのほか新庄の一万貫を知行することになった。
同二十一日には、津越中守を名代として、神魂(サクサ)、杵築へと参拝を済ませた。

さて、この国の領地にあった神社仏閣については、以前の通り寺社領を与えたので、
「ああ、この君がずっとこの国の主となってくれたら、仏法神道ともにこの領主に恭順するものを」と、
寺社の関係者は大喜びした。
それだけにとどまらず、政治は正道を貫き、民を撫育する志も深く、
士農工商のすべての者が、「ずっと先までこの国の主人であってほしいものだ」と思うようになった。
万歳、万歳、万々歳と、後の世の幸福まで祈らない者はいなかったそうな。


以上、テキトー訳。

はいはい、広家ageパネエよ! 待ってましただよ!
実際にどんな善政を敷いてたんだか皆目わからんが、今のところ広家は家臣に優しくてた形跡は確認してても
領民に慕われたエピソードは拾えてないよ、私は。
まあ手広く領地持っても、その運営に専念する物理的余裕ってのがなかったんじゃないかと思う。
なんだかんだと伏見とかでも賦役や外交交渉なんかがあって出張ってただろうし、
この後には長期間に及ぶ朝鮮出兵もあるわけだし、
領地に馴染む間もなく関ヶ原→減封ってコースじゃないんだろうか。

そんでもって、もうここで石田・大谷が広家と毛利の繁栄に影を落とすキャラクターとして登場するんだね。
秀吉が元春との約束だからと、厚意もあって吉川に大きな所領を与えようとしたのに、
それにストップをかけ、毛利本家の力を削ごうとする人物として描かれてる。
なかなか興味深いなぁ、なんてニヤニヤしてる。

吉川家文書では、広家の冨田への所領替に関しては、
黒田孝高から吉川重臣の香川又左衛門春継宛の書状が残されてる。
「広家の外聞がいいように事が運んでよかった。
 分限は承知してるだろうから、手元不如意のないように家中への分配をするといい。
 世は治まったのだから、不要な人員を抱えないこと」
といった内容。さすがは節約家の如水さんだね。助言がいかにもって感じ。
てか助言が親身すぎて、吉川の身内のようにも感じられるね。

それはそれとして、秀吉―黒田―吉川ってルートで所領替えがあったってことは、
秀吉の毛利家への内政干渉だよね。
冨田の城は毛利元秋が預かってたが、元秋の死後は同母弟の元康が入場してた。
いきなり内政干渉でその所領を吉川に譲らなきゃいけなくなった元康はどう思っただろう。
元康と広家は仲が悪かったようで、このへんのいざこざが原因なんじゃないかと個人的に思ってる。
このときの元康の反応が知りたいなぁ。

秀吉は、こうやって主だった家の重臣を不自然なほど優遇したりして、
内部の嫉妬や恨みを増幅させ、内部分裂→その組織の力を奪うって手法をよく使ってる気がする。
島津でも義久ではなく義弘が優遇され、上杉では当主景勝より直江兼続が重視された。
こういう人心操作が秀吉のいやらしいところだと思わんでもないが、きっと効果的だったんだろうね。
なら仕方ない。とにかくこのあたりは陰謀渦巻いてそうで、
突き詰めていくとなかなか楽しそうだw
2012-01-22

輝元お誕生日おめー!!!

生まれてきてくれてありがとう! そしてありがとう!!!
今度はちゃんと確認したぜ、吉川家譜(そっちかよ)。
1月22日は我らがTERU様のご生誕の日である! もうホント大好き。

そんなわけで陰徳記はちょっと置いといて、輝元の書状を読みます。
元春宛の心細げなアレでござんす。

●毛利輝元自筆書状 宛先:元春
(上書き)「元春 参人々 申給え      少輔太郎 輝元」

「この二通は、時間のあるときにでも読んでください」

「 私が心底で考えていることを、すぐに言うべきだったのですが、
  とにかく取り乱していてこんなに遅くなってしまいました。ごめんなさい。

一、今度は不思議にお心遣いによって、皆何事もなく上国しました。
  当家のことは言うに及ばず、他家の者たちも非常に安堵しています。

一、こうなれば、当家もしばらくは存続できます。本当によかった。
  これからは、私の心持ちが重要になる戸思いますので、
  それについて、私が常々思っていることをお話します。

一、私は実に無器量・無才覚に生まれつき、そのうえ常栄(隆元)とは十一のときに別れてしまい、
  ついに親から教えを受けることもなく、指南をしてくれる人が誰もいませんでした。
  こうして時が過ぎるまま、西も東も知らぬ私に、
  あれこれと気を回したり、尽くしたり、「何はともあれよくやった」などと
  一言でも言ってくれる人はいません。
  どうかご推察ください。
  本当に私などは、兄弟の一人もおらず、手も力もないようなものです。
  どうすることもできません。
  必要のないことばかりを目にして過ごしてきました。
  あなた様のことを、親とも兄弟とも思って心から頼りにしたく思います。
  ご理解いただければ、本当に一生恩に着ます。

一、私は仁者の次の代に生まれてしまいましたが、これは私の不運です。
  親・祖父のことは言うに及ばず、先祖に対しても残念に思います。
  毛利の家は私の代で傷をつけてしまうでしょう。実に無念に思いうばかりです。
  もっと物のわかった重臣にでも一旦当家を相続させるよう、
  手を打ってくれればよかったのにと、どれほど思ったことでしょう。
  戦は次第しだいに手広くなり、終わることもなくこうして続いています。
  その上、家中にはできる者もおらず、欲をかく者ばかりいて、
  私を自分のことのように思ってくれる者は一人もいません。これは一大事です。
  遠い海へ小舟で乗り出したような気持ちです。

一、今後は、気を引き締めて覚悟を決めなくては!
  この城はあまりに広すぎて、なかなか滑稽なものですね。
  もしものときは頼みになるように、ぜひ他に一城こしらえたいと考えています。
  次にいらっしゃるときは、話のついでのようにして、
  上(元就)のお考えを聞いてみてもらえないでしょうか。

一、今後、これからの当家のあれこれについて、また心の様など、
  気が付いたことを一書にてお聞かせいただければ嬉しく思います。相談させてください。

一、言うまでもないことですが、もし今後、何か遠慮などなさるようなら、
  実に残念に思ってしまいます。

  近頃はいろいろと忙しくなさっているのに、長文になってしまって申し訳ないけれども、
  私の心の内を隠さず申し上げようと思いました。
  時間に余裕があるときにご覧ください。恐々謹言

   十二月十三日      輝元
   元春へ」

「  元春へ     少 輝元
  また申し上げます。
  次の出雲表への出陣ですが、ぜひ今度は、私も参加したいと思っています。
  あまりにも戦に出ないでいると、人も侮るようになるでしょうから、
  ぜひともお頼みいたします。
  せめてこんなことだけでも頑張ってみたいと思うのです。
  これまでは、何度望んでも許されなかったので悔しかったのです。
  ご理解いただければ、海ほどにも山ほどにも、本当に喜ばしく思います。
  まずは申し入れておきます」


以上、テキトー訳。

(´・ω・`)「指南してくれる人が一人もいないお」
元  就 「えっ」
隆  景 「えっ」
(´・ω・`)「よくやったって誉めてくれる人もいないお」
元  就 「そうだっけ」
隆  景 「よくやったことってありましたっけ」

↑という情景が脳内で再生されました。本当にあり(ry
隆景が調教もとい、教育に当たった前なのか後なのか教育中なのか、それによってニヤニヤ具合が変わるよな。
年が書いてないんだけどいつのことだろう。
永禄8年2月に元服して「輝元」名乗ってるからそれ以降なのは確実として、
「戦に出る」ってのも別に初陣てわけでもないだろうしな。
初陣は同年4月だから間に12月挟むのは無理ってモンで。
大日本史料綱文で検索する限りでは、初陣から元亀元年1月まで出陣の記録がないんだよな。
てことは永禄12年の12月なんだろうか。よくわからんがまあいいか。
そのうち吉川家譜などで判明したら追記しますです。

(`・ω・´)「でも頑張るお! 城造りたいお! 戦に出たいおっおっお!!!」

↑それにしてもコレだぜ、TERUちゃん。なかなかいい根性してんじゃないの。
この子は心細い心細い言うわりに悲壮感が漂わないからいいよね。
広家への手紙でも、気持ちの切り替えして前を向いてる感じがするので好印象。

でもまあよくこんな可愛い子が生まれてくれたもんだと感心する。
元就の孫、隆元の子ならさもあらん。
そういや「自分の代で毛利の家に傷をつける」ってのは予言だね。
安国寺の信長・秀吉評(信長は数年で駄目になる、秀吉はさりとてはの人)も真っ青だね。

今日も残り少なくなったけど、本当に輝元、お誕生日おめでとう。
旧暦? そんなもん知らん。日付が大事なんじゃ。アニバーサリーじゃ。
そんなわけで私は酒を飲む。飲むぞー! 明日仕事だからほどほどにするけどね!



【追記 2012/1/30】
この書状は永禄12年12月でいいみたい。吉川家譜で確認。まあこっちも推量で書かれてるけど。
そして翌元亀元年正月、TERUは出雲に向けて出陣するのでした。
ちなみに広家の初の従軍もこのとき(10歳)で、そのまま陣中にいて、
翌元亀2年6月に初陣を果たした(11歳)んではないか、とのこと。
2012-01-21

秀吉の道草

ツイッターで広家botを作ってみようかと思い立って、挑戦中。
けっこう難しい。システムが、じゃなくていい台詞が思い浮かばんのよ。
なるべく書状とかを元ネタにしたいんだけどなぁ。
あと、痔ネタは出して大丈夫かしら。顰蹙買わないかしら。
とりあえずなんとなく形になったら、右のツイッターリンクを広家botに挿げ替える予定。

前回までのあらすじ:
小田原が無事開場して関東八国はすべて家康に与えられた。
諸将に力を与えすぎて、わざわざ自分の子孫の敵作るなんて秀吉乙。
広家は家康の居城、岡崎でお留守番中です。


小田原の城没落のこと(下)

やがて秀吉公が岡崎に着くと、羽柴侍従広家様は、珍玩嘉肴を山ほど用意して饗膳でもてなした。
秀吉公のご機嫌は非常によく、自ら拍子をとって謡を披露する。
秀吉公は広家様に向かって、
「わしが秘蔵している馬の中から、どれなりとも一頭くれてやろう。
広家は武術に優れているらしいが、中でも馬術を得意にしていると聞く。
ならば目利きのほども試してやろう。わしの馬の中から目利きをして良い馬を取れ」と言う。
広家様が「かしこまりましてございます」と答えると、
秀吉公はではこれから一緒に行こうと、広家を連れて厩へと出向いた。

数百頭も並べられた馬たちは、どれも劣らぬ名馬だったので、
あれこれと目移りして、これがいいと断定するのは難しそうだ。
その中に、月毛の馬で高さが五尺ほどあり、目つき顔つきが、穆王の八頭の天駒、
項羽の千里の葦毛、頼朝卿の生月・摺墨などといった名馬もかくやという様子の馬がいたので、
広家様は「この馬をくださいませ」と言上した。
秀吉公はニコニコと笑って、
「今回は多くの駿馬を買い求めたが、この馬に並べて見るとまるで花のそばの深山木だ。
たくさんいる中でも特に優れた馬だから、この秀吉、
とりわけ秘蔵していてなかなか人に見せたりもしなかったわけだが、
広家が欲しいと言うならくれてやろう」と言って、すぐに与えた。

それから家康卿の飼っている孔雀を見るといって、そぞろ歩いて見に行く。
孔雀を飼育している中間と思しき者に飼い方などを尋ねて、やがて中へと入っていった。

翌日、秀吉公は岡崎を出発したので、広家様から送馬を三百五十頭ほどつけさせた。
その中から良馬を選び出して秀吉公をお乗せしようと、蠅原次郎左衛門が一頭一頭見て回り、
香川又左衛門が出した馬を秀吉公の御召馬に定めた。
香川は栗栖十兵衛という者を舎人に出した。

秀吉公はその馬に乗るとすぐに
「なあ舎人、これは広家の馬か、それとも家中の者の誰かが送馬に出したものか」と尋ねるので、
栗栖は「もちろん広家の馬でございます」と答える。
秀吉公は「そうであろう、そうであろう。乗り心地のいい馬だ」と感心し、
その後は舎人に向かって「あそこに山の峰がそびえておる」「この谷の木は曲がっておる」などと、
あれこれと話しかけていた。
尾張の中村に差し掛かると、秀吉公は栗栖に「おまえはわしについてってこれるか」と訊くので、
十兵衛は「もちろんどこまでもお供いたします」と答える。
「ならば後について参れ」と、秀吉公は栗栖一人を召し連れて、
ただ馬一頭だけで駆け出すと、中村に入っていった。

秀吉公はある街で栗栖に向かい、「おまえはここでしばらく待て」と言うと、
たった一人で中村の在郷を駆け巡ってから帰ってくると、
「ここはわしの故郷なのでな、懐かしく思ってきてみたのだ。
昔に引き換えて、皆の住居もなかなか賑わしく、なかなかいい暮らしぶっりと見える」と言った。

天下を統べる武将の身でありながら、送馬に乗ったと聞いてもピンとこないし、
厩に自分で数百頭の馬を抱えているのに、こんなことをするなど考えられない。
その上、その日初めて会った素性のわからない者を馬の口添として、
譜代恩顧の者のようにたった一人召し連れるとは。
こうした乱世には山賊なども巷に溢れている。また主人を殺され家を失った者たちも星の数ほどいる。
そうした者たちが忍んで恨みを報ずる機会を狙っているというのに、
何の用心もなく、このような軽々しい振る舞い、是と言うべきか非と言うべきか。

やがて秀吉はそこの老翁を呼び出し、禄を与えるなどしたが、
「昔はおまえと何とかいう山へ行って、木を切ったものだ。
帰るときには薪が重くて、すっかりくたびれ果てたものだが、おまえが麦飯を少しばかりくれた。
あの情けは今でも忘れておらんぞ。まだ草を刈っておったのか。嬉しいものだな」などと語って、
袂を湿すと、その翁たちも皆涙を流して退出した。

秀吉はやがてそこを出発したが、紅染のいかにも華やかな広袖の小袖を着て、
長い鬚を左右の頬や顎につけて、九尺ほどある大熨斗付きの太刀を帯びたいでたちだった。
この太刀は、中は二尺三寸の刀だったが、長大な空鞘を仕立てさせてそれに刺している。
馬上で背中を大いに怒らせ、目をカッと見開き、口をへの字に結んで作り鬚を掻き撫で、
道の脇で見物していた貴賤僧俗の前を通るにも、
「さあおまえたち、よく見るがよい。我はこれ、従一位関白、豊臣の秀吉であるぞ」と、
左を向き右へ振り返り、大げさに声を作って声高に叫ぶ。

その有様は、踊の場の流れ者の白拍子がやる座の狂言、あるいは狂人などという者とでも言うべきか。
またこの殿下の行状は、常人の思考では理解できないもので、
不可思議な活境界の良将であるので、愚の骨頂の身では是非を論評するなどできることではない。
博学な者が和漢両朝の聖人賢将のたとえを引けば、あれこれと違ったものが出てくるだろう。
後の世の将が真似できるものではない。

秀吉公は、やがて京に帰り着いて聚楽第へ入った。
天下統一の御代となり、たいへんめでたいことであった。


以上、テキトー訳。この章はここまで。

秀吉がけっこうオモロイことやってるのに、広家がいい子ちゃんで霞むな。
ちゃっかり一番いい馬もらってるのは遠慮を知らない末っ子だから? 違うか。
「月毛」ってのがよくわからなかったからググッてみたら、茶系の淡い毛色みたいだね。
ベージュというかクリーム色というか。それに乗ってる広家……きっと可愛い。

元春が陶隆房に真っ黒な馬もらって「すっごい黒いよ!」って強調されてたから、
黒い馬が好まれるんだと思ってたわ。
なんで黒がいいんだろうと疑問だったけど、このころは単純に黒=強そう!って認識だったようだ。
具足を真っ黒にしてる人は、強く見せたいってこったな。夏だと暑そうだね。
あと、紐まで黒く染めると、染料の関係なのか強度が弱くなるそうだ。
なんかの本に書いてあった。なんだったっけ。
基本的にこの時代の発想は中二的だと思っとけばいいのかなw

次は広家が領地替えになるときの話っぽい。
2012-01-19

小田原落城

前回のあらすじ:
秀吉は多大な犠牲を払いながらも小田原の端城を落としていき、
また美貌の叔父様(ドS)の助言を受けて、徹底的に小田原に籠もる北条を追い詰めていったよ。


小田原の城没落のこと(中)

こうしたころ、城中でも松田が反逆を企て、上方勢を城中に引き入れようとしたが、
すぐに露見してしまい、本丸へ呼び出されて討ち果たされた。
これだけではなく、忍の城の成田も逆心を抱いていたが、
それが露見してしまいそうになると自分の陣中に籠もり、用心を重ねる。
そのほかの諸士も皆不安を募らせ、
「とてもかなわない籠城なのだから、この城を明け渡して氏政を助命させ、
そのほかの者たちも助けてほしいものだ」と願わない者はなかった。

広家様はフラフラと病に倒れてしまった。
秀吉公が早々に岡崎に帰し、看病のために延寿院玄朔が付き添うようにと命じたので、
広家は「上意のありがたさはこの身に余ります」と礼を言って岡崎へと帰っていった。
治りにくい病ではあったが、殿下秀吉公の浅からぬ志のためか、
もしくは玄朔が有効な医術を尽くしたためか、たちまち平癒した。
玄朔も小田原へと帰っていった。

城中は非常に浮き足立ってバラバラになってしまったので、
氏政は家康卿にこの城を明け渡す旨を申し出た。家康卿がこのことを秀吉公に伝えると、
秀吉公は家康卿の扱いに任せると決めた。
こうして七月七日、無事に事が済んだ。

上方勢が城を受け取り、氏政・弟の氏照の二人は家康卿の陣所で切腹を遂げた。
氏政の子、氏直は一命を助けられたが、高野山へ入るようにとの秀吉公の命で、
主従三十人ばかりで高野山へと入る。
しかし翌年、逝去してしまった(天正十九年十一月四日)。
北条左衛門大夫は輝元様に預けられたので、その身柄を受け取ると廿日市に籠め置いていたが、
その後召し出されたとのことだ。

そのほか、北条美濃守をはじめとして、本領を与えられて安堵する者もあり、
また所領を没収されて流浪の身となる者もいた。

こうして秀吉公は、この次は関東の仕置きをしようと奥州まで下り、
国々の運営を指導してやがて帰陣した。
北条退治が済めば、家康卿には武州に百万石を与える約束であったが、
秀吉公は何を考えたのか、関東八国をすべて宛行った。
昔の源義家・義経・新田義貞たちにも劣らない良将の家康卿に八国も与えてしまったことが、
百年の後に秀吉公の子孫が天下を奪われるもとになったのだろう。

昔、後醍醐天皇が相模次郎蜂起のときに、これを討つようにと源(足利)尊氏に勅を下した。
尊氏は天下の武将になろうとの野心があったため、征夷大将軍の号、
そして関東八国を与えてほしいと望んだが、
後醍醐天皇は何の考えもなく、後々の難にも思いをめぐらさずに、尊氏の望みどおりに勅許を与えてしまった。
これで尊氏は諸侯より抜きん出た権威を得て、ついには天下を奪い取り、
このときから王法(朝廷?)が廃れていった。

こうした先例を顧ないとは愚かなものだ。
「敵国滅びて謀臣亡ぶ」と昔の人もよく言い置いたもので、
天下が統一された御代になったのなら、諸将の力を抑えて、
自分の子孫が永く無窮の栄華を保てるように画策するべきだ。
それなのに、自分の子孫の天下を奪ってくれと、まるで自分から差し出すような恩賞を決めた秀吉公は、
勇も智も古今に抜きん出ているとはいっても、後の世のことまで見定める目はまったく持っていない。
なんとももろいものである。

しかし一歩引いて愚案をめぐらせてみると、尾張中村の土民の子の身で天下を手中に収めたのだから、
勇も智も遠くを見る目も兼ね備えていなくてはこんなことができるはずがない。
深謀遠慮がなかったはずはないのである。
きっと問題は別で、家康卿は勇智に優れているだけでなく、
外では五常(仁・義・礼・智・信)を正しく守り、内では仏神に帰依し、
衰微した上王法を助け、下々の万民の苦しみを救おうとの志があった。
それが天に通じたからこそだったのだろう。

北条の相模入道(北条高時)以来、政は塗炭に堕ち、
上は暗愚で下は世間の人に媚びへつらうようになってしまったが、
今この人をして天下の政道を正し、廃れたものを興しまた断裂したものを継がそうと、
仏神が取り計らったのだろう。
これを思えば、世が乱れたとはいっても未だ仏神の力は衰えていないと、末頼もしく思えるものだ。

秀吉公はどうしたことか、信長公の三男、尾張内府信雄公の所領、尾張八郡・北伊勢五郡、
そのほか百万石を没収し、秋田へと左遷してしまった。
内府はこう言ったそうだ。
「秀吉は尾張の土民の子だったが、奉公していた主人の使いで買い物をしに京都に来たとき、
持たされていた二、三枚の銀を着服して父の信長に仕えだした者だ。
この弟の美濃守は桑山修理のところで芝刈りをしていた。
秀吉は猿に似ていたから、信長は『猿』とお呼びになっていた。

信長はこんな卑しい身分の者を、お取り立てになって播州を与えたばかりか、
中国を屠った暁にはその一円を与えようとの朱印状をお与えになった。
その恩の深さは、百千の大海にも万億の須弥にも比較できない。
この恩に讐で報いるなど、仏神がどれほど憎むことだろう。因果は歴然だ。
阿闍梨のような高僧であっても因果の道からは逃れられない。秀吉も今に見ておれ。
その身が前世の善行によって一日の栄華を誇っても、永く子孫は絶え果て、
悪名をずっと後の世まで残すことになろう。

かの前百丈は学者の問いにこう答えたそうだ。
『因果に落ちないようにしたために、五百生もの永い間、野狐の身となってしまった』と。
このように因果不落の見解にすら、狐の身でも苦しむのだ。
秀吉は 不落因果というだけでなく、こうして主人の恩を仇で返すのだから、
百億万却地獄に落ちて、閻羅王の鉄棒を味わえばいい」

内府が呪わしげに言うと、皆涙を流した。またそばにいた古入道も、
「秀吉は因果の道理によって悪趣に堕したのは歴然です。
このように仰る内府の父の信長公は、公方義昭卿を天下の将軍となして
兄の義輝卿の遺恨を晴らしてやると言いふらしました。
公儀の権威を借りて自分が天下の権力を握ろうと画策したので、
一度は三吉・佐々木などを滅ぼしてから、義昭卿に対して腹立ちをぶつけるような振る舞いをなされ、
ついには流浪の身となさしめてしまった因果がたちまち報いて、
その自分自身が家人の惟任に滅ぼされておしまいになった。
それだけでなく、今また多くのご子息たちもこうして遠流の身となられました。
わが身の上をご存知の内府がこのように仰るのは道理です」と嘆いた。

秀吉公は内府をも左遷させてしまったが、また先年、
信長公の次男、織田三七信孝も秀吉公と矛盾を交えることになったので、尾張の内海で切腹させている。
このとき、信孝は辞世として
「昔より主をうつみのうらめしき、おわりを思え羽柴筑前」と詠んだという。
「昔より」と口ずさんだのは、長田が源義朝を討ったことを含めたのではないかと思うと、いっそう趣深い。
こうした悪逆無道を思えば、秀吉公の行く末を危ぶまない者はいなかった。


以上、テキトー訳。もうちょい続く。

広家フラフラしてんじゃねぇよ。
どうでもいいけど原文に「フラフラ」って書いてあったよ。
この時代から擬態語が豊富だったとかマジ胸熱。ビバ日本語。
玄朔というのは二代目曲直瀬道三のことだね。毛利家とも縁が深い。
輝元は初上洛したとき、曲直瀬邸にお風呂借りに行ってたらしい。TERUwww
「医学天正記」に広家の事例載ってないかな。前探したときは見つからなかったんだけど。

今回は秀吉の評価・家康の評価が出てきてちょっと面白かったな。
徳川政権下だから家康の評価が高いのは当然として、秀吉がdisられるのかと思ったらそうでもなかった。
いやまあ地獄で金棒食らえとか言われちゃってるけど。
なんつうのか、ひどい人間・愚かな人間といった面もありつつ、「こいつスゲエ!」ってのも垣間見えるよね。
ちょっと前のアメリカンドリームの象徴と似たような存在だったんだろうか。不思議な人だ。

明日は帰りが深夜になる予定なので更新できないと思うけど、
次回でこの章はおしまいにしたい。秀吉の帰り道の話で広家も出てくるよ!
うん、ていうか本当に最近ひろいえひろいえ言ってるな、私。
2012-01-18

景様ドS語り

昨日の続きのはずなんですけどね。なんか雰囲気がガラリと……
背景としては秀吉の小田原征伐でほぼ端城を制圧した後の話だと思うよ。


小田原の城没落のこと(上)

秀吉勢が小田原の城を取り囲む有様は、まるで稲・麻・竹・葦のようであった。
海上に関しては毛利勢が数千艘の船に乗って警護を固めている。
東の口から海辺までは家康卿、北の方は尾張の内大臣(織田)信雄公、この山続きには秀次公、
その次の尾頭は宇喜多中納言秀家卿、西口は北国衆が海辺まで陣を引いていた。

関白秀吉公は西の方の山に陣を張った。
この山に左は小田原へと続く川があり、右には海、前は小田原である。
本陣は石垣を丈夫に構え、二・三の来輪まで溝で囲い、馬攻場まで山上に構えて、
何年でも在陣できるようにしてあった。これは敵を退屈させようとの策だった。

同五月二十日、秀吉公の命令で、羽柴侍従広家様が小田原へと下っていくと、
小早川宰相隆景卿も、清洲から小田原へと下ってきていた。
秀吉公は二人を御前に呼び出し、「はるばるこの地までの下向、ご苦労であった」とねぎらった。
「ここからどうやったら小田原の城を早々に落とせるだろうか。二人の所存を一つ残らず申してみよ。
中でも隆景は、元就が尼子を七年がかりで攻め落としたときの智計謀略を知っているだろう。
そこのところも申してみよ」と秀吉が告げた。

隆景は口を開いた。
「この城に関しては、秀吉公が出馬されたのですから、遠からず落ちますとも。
しかし思い当たることもございますので申し上げましょう。
また愚父の元就が尼子を攻め落としたときの様子も、ご希望通りお話いたしましょう。
広家はその時分には四、五歳でしたから、伝え聞いた知識しかないので、
御前で申し上げるのは憚りがあるかと思います。私が申し上げましょう。

まず、尼子は曽祖父の伊予守経久から義久まで四代の間、
十国から八国の太守となっていましたので、兵の数は多くいました。
また義久の代まで、経久の代から武道に秀でた家老たちが多かった。
その上、山中鹿助のような智勇の将兵の器を備えた者も多く、
とりわけ冨田の月山の城というのは中国一の名城で、
古来より一度も落とされたことがないと伝え聞いています。

晴久・義久父子も、一通り勇も智も兼ね備えた武門の者、
しかも城は峻険で、精鋭が数多く立て籠もっていました。
力任せに攻めれば、たとえ日本六十余州の軍勢でも落とすのは難しいと考えましたので、
亡父の元就は戦はともかく謀略を練りました。

あるときは城中の兵にいろいろと働きかけて見方に取り込み、
またこちらの味方にならずに尼子に一味する決意の固い者は、
逆心を抱いていると敵方に聞こえるように言い募る。
このように策を運びましたので、晴久の代には、
尼子紀伊守・その子式部少輔・その弟の左衛門大夫をはじめとして、数人を粛清しています。

中でも義久が籠城している間には、卯山飛騨守父子など、皆元就の術中にはまり、数多く討ち果たされたので、
義久は家臣たちを疑い、家臣たちはまた義久が罪のない者を刑に処すのをうらみに思ったものです。
卯山の一族、その他罪科に問われた者の一門親類は、皆義久に恨みを抱き、こちらの味方になりました。

また城中の兵たちの妻子や老父母を出雲と放棄の境目まで拉致して、
美作・因幡あたりの遠くの縁者を頼って疎開していた者たちもすべて探し出し、
洗合の陣中に置くようにしました。
城中の兵たちは、父母や祖父母、また妻子が敵方に囚われている状況では、
大事な者たちの命を奪われてしまうと考えます。
自然と尼子への中世もおろそかになって、しまいには元就に味方するようになりました。

これゆえ、尼子もまた妻子父母兄弟が寄せ手に囚われている者に対しては、
たとえその者自身が忠節深いことが疑いないとしても、尼子への忠誠を違えないと心に誓った者であっても、
きっとあの者もまた敵に通じているのだろうと疑うようになります。
仕方なく敵に味方した者や、また津森という者をはじめとして
主君の疑心を散らすために自害した者もおります。

また所々に向城を構え、人の往来を遮断しておりましたので、尼子は兵糧に困ったようです。
あるときは、こちらに降れば命を助けてやろうと声をかけましたが、
道口を開くと雑兵たちはバラバラと一日に十人、二十人ずつ、
しまいには百や二百も落人になることがありました。
こうして何くれとなく謀略を張り巡らせましたので、城中の者たちは皆逃げ出すか討ち果たされ、
次第に数が少なくなってゆき、威勢も衰え果てて、ついに義久兄弟三人も降伏してきたのです。

今申し上げましたことは、釈迦の前で説法をするようなものではございますが、
この城も無闇に戦を仕掛けずに、まずは策謀に専念なされ、
城中の兵の心を引いてご覧になるとよろしいでしょう。
関東八国の兵が籠もっているのなら、皆が忠節第一というわけでもありますまい。
敵が大勢いるならば、それはかえって味方が謀略を運びやすいというものです」

隆景が語ると、秀吉公はうなずいて、
「隆景の申したことを第一に心がけよう。
これは呉子が『間諜を巧みに用いながら機動部隊を出没させて撹乱し、敵の内部分裂を誘う』と唱えた
『事機』に相当するものだ。
わしもまた元就のやり方をまなぼうではないか」と言って、
やがて羽柴筑前守利家・その子息の肥前守利長・上杉弾正景勝を先陣に、
数万騎の兵をもって関東八国の城と言う城、松枝・鉢形・松山・箕輪・厩橋・川越・八王子・岩村など
数ヶ所を攻め落とした。

小田原に籠城する諸卒の妻子を多く生け捕りにして、城中へそのことを伝え送る。
するとこれまでは二心なく北条に忠節を誓っていた兵たちも、
さすがに恩愛の道の悲しさに、弓を引き鉄砲を撃つ力もなく、
どうにか秀吉に降伏して妻子を助けたいものだと思うようになった。


以上、テキトー訳。長いので分けまする。

うへぁ、さすが景様、本領発揮といったところか。すんごい怖い^^
どんな物の怪の怪談より、げに恐ろしきは現世に生きる人の心よなぁ。
修羅じゃ、修羅がおる!

そんな感じに心が千々に乱れていましてよ。景様のドSっぷりを侮ってたわw
いや、隆景は昔語りをしてるだけで、実際やったのは元就なんだけどさ、それにしても。
毛利ファンはお隣の直家さんをアレコレ言えない気がしてくる。
毒殺とかより内部分裂を誘う手口の方が数倍むごいと思う。人の心を操るんだからね。
本当は味方同士なのに、疑心暗鬼を誘い、お互い憎み合うように仕向けていくっておっとろしいわ。

そういえば厳島のときもこんな手口使ってたけど、
寡兵VS大軍ていう好みの状況に酔っててあんまり目が向いてなかったな。
毛利コワイです毛利。
この血が輝元や広家にも脈々と受け継がれているんだなぁ。戦慄。
前回がかなり心温まる話(個人的に)だっただけに、落差が激しいよ!
「ガキだったお前の出る幕じゃない」って、言外に広家がのけ者にされてたけど、
むしろよかったと思ったよ! 景様シビれる(河豚毒的な意味で)!
2012-01-17

韮山・下田の成り行き

さて昨日の続き。

あらすじ的なもの:
小田原征伐に動き出した中央勢に対し、北条の継嗣氏直の反対がありながらも北条側は籠城を決断。
地の利に勝る峻険な山中城も秀吉の多勢の前に落去し、中央勢の矛先は次の端城へと向けられた。


韮山の城を抱え詰めること並びに下田の城明け渡すこと

韮山の城には北条美濃守が立て籠もっていたが、土佐の長曽我部をはじめとして、
四国の勢が二万余騎で取り囲んだ。
美濃守は少しも意に介さず、
「どんなにでもお攻めになればよい。我らは矢の一つも射出したりすまい。
それもこれも、私が諸陣を切り払って大勝利を得たとしても、
小田原が落城して氏政父子が切腹してしまえば、私も共に自害するつもりだからだ。
秀吉公も、いかにこの城を攻め落としたところで、本戦で負けてしまえば意味のないことだろう。

小田原が落城するか、もしくは和睦となるか、この二つのうちどちらかだ。
この美濃守は、氏政と同じ運命をたどる覚悟である。
いくら攻められたとしても、要らぬ骨折りの防戦はするまい。
たとえ気の済むまで攻めたとして、意味があるかどうか。
よくよくご思案あれ」
こう言いのけて少しも取り合わない。
四国勢もその後はあまり強硬には攻めず、ただ何をするでもなく守っているだけだった。

また、下田の城は輝元卿が攻めるようにと秀吉公が命じたので、
吉見三河守広頼・益田越中守元祥・山内大隅守広通・三沢摂津守為虎・熊谷豊前守元直・
宍道五郎兵衛尉正義・阿曽沼豊後守・小笠原弾正忠など、約一万騎が取り囲んで攻め戦った。
あるとき、熊谷の郎党の波多野次郎右衛門という者が仕寄番についていたところ、
城中の者と何くれとなく言葉を交わし、四方山話が始まった。
波多野が「ちょっとこっちに来てみろ、言いたいことがある」と言うと、
城中の兵は「いったい何だ」と、すぐに近くまでやってくる。

波多野は、「籠城していても、とてもかなうものではないぞ。
早く城を明け渡して、一命が助かるようにするといい。
小田原も近いうちに落城するだろう。それから降伏したいと言い出してももう遅い。
まだ決着がついていないうちに和睦を請うんだ。
そうすれば私の主人である熊谷にそのことを伝えるから、
そこから秀吉の耳に入れ、皆の一命に別条がないように取り成してほしいと、私が働きかけよう。
城中の人々にこの件を伝えてくれ」と言った。

相手は「心得申した。城主へこの通り申し聞かせよう」と答えて帰っていったが、
波多野を頼んで降伏した後は、どこへともなく落ち延びていった。


以上、テキトー訳。

うーん、そういえば私、静岡出身だったわ。
戦国時代にはほとんど何もなかったような山奥だけど。
あ、源平関連なら頼朝さんが狩とかやってたかもしれない。そんな土地。
韮山、下田なんかは行ったことある気がする。
当然そのころは戦国に興味がなかったので、地元の古戦場跡とかよう知らんなぁ。
今度調べて、帰省したときにでも足を運んでみようか。

ああ、熊谷・益田・吉見なんて文字に心躍るわ^^
いや今回は戦らしい戦してないけどね。調略でもいいよね。
しかも愛しの熊谷さんとこの手勢だぜヒャホーイ!

なんかね、前線の兵同士、しみじみ話したりするんだねぇ。ちょっとしんみりする。
どんな話してたんだろう。
どこから来たんだ、ここからどれだけ遠いんだ、どんな土地だ、そっちの女はきれいか、
女房はいるのか、子供はどうしてる、今までどんなやつと戦った……まあそんなところだろうな。
こういう場面をしっとり描いた映画とか小説があれば見てみたい。
うん、いまさらだけど、敵兵同士のほんわかする触れ合いが私のツボなんだな、きっと。
丸山城の狼狩しかり。

次はいよいよ小田原、隆景や広家もほんのり登場する気配だよ。
2012-01-16

若武者の遠吠え

前回のあらすじ:
秀吉がいよいよ小田原に出陣してきた。
北条の重臣たちは軍議を開いて、籠城案に意見が傾いていたとき、
若干十六歳の継嗣、氏直が「一戦するべし」と立ち上がった。
家康の場合は小牧長久手の合戦で秀吉に対して武威を見せつけ有利な和睦を結んだが、
現在の北条の場合は状況が違うと、若い嫡子が吠えている。


北条小田原籠城のこと(下)

「また家康の小牧の戦いのときは、秀吉の勢も今より断然少なかったのですよ。
そのときは、備前の宇喜多、安芸の毛利、北国の前田、越後の上杉などは、
和睦を結んだとはいっても、一人も加勢していなかったではないですか。
四国・九州の勢はまだ秀吉の手にも属していなかったころで、
家康はその当時の大敵だったはずです。
だからあのときの秀吉の手勢といえば、現在の旗本衆だけだったと考えてもいいでしょう。
合戦にしても、何度も重ねて戦をすれば秀吉が勝利したかもしれませんが、
四国・中国・畿内・北国がまだ距離を置いていたので、
まず家康が手の下にくだりさえすればそれで勝利としたのでしょう。

今は日本全国が秀吉の幕下に降っています。
安芸の毛利、筑前の小早川、四国の長曽我部、北国の前田・上杉、関東では家康卿まで、
つくづく秀吉に従っています。
兵力が十倍であるだけでなく、日本が一枚岩になっていれば他の方面で憂慮することもないでしょう。
小田原の城に対して、五年も三年も長陣できます。
一城に取り詰められることになっては、どうやって勝利を得るのでしょう。

どうぞ、当家の軍勢軍馬が八千あるうち、その半数を私に与えてください。
天竜川へ打ち出し、十死一生の合戦を遂げ、当家が続くかどうかの攻防を究めてみせましょう」

氏直のこの言を聞いて、もともと逆心を抱いていた成田は、
秀吉に北条の後釜に据えてほしいと申し入れて御判物を受け取り、押し隠していたので、
今度も他の意見を待たずに口を開いた。

「これはあんまりな仰せですな。
ここは小田原に立て籠もって、五年も三年も籠城をすればよいではないですか。
上方勢は元来短気ですから、長陣に飽き果てるでしょうし、
そのうえ兵糧の運送もうまくいくわけがないのですから、一人ずつ退却して帰っていくでしょう。
千剣屋の寄せ手の引き際のようになるはずです。
そうなれば秀吉も心許なくなって長陣はしていられない。
そのときを見計らって、ゴマをすって和を請えばいいではないですか。
そこで本心から和睦するか、また敵が退却しようとするところを追いかけて打ち滅ぼすのかは、
そのときの様子によってまた考えればいいのです。
とにかく味方が勝てる方策は、籠城以上のものはありませんな。
途中までうかうかと出向き、大軍に取り囲まれて一戦で利を失ってしまえば、
それ以上戦うこともできないでしょう。また籠城もままならなくなります。
やすやすと事が運ばないのは目に見えています」

成田はしきりに諫言した。
北条家の滅亡がいよいよやってきたのか、または氏政が愚案に落ちてしまったのか、
五年でも三年でも籠城しようと決まってしまった。残念なことだ。

こうしたところ、山中の城は早くも落去してしまい、
城主の松田兵衛太夫、そして加勢として入れ置いていた宮豊前守が自害し、
北条左衛門大夫・朝倉能登守はどうにか切り抜けて下田の城に籠もったとの報告があった。
氏政父子、またその他の諸士は
「これはどうしたことだ。まさか攻め落とされることはないと頼みに思っていた山中の城が落ちただと。
なんとも口惜しい」と、皆呆然として、
とんでもない戦を起こしてしまったものだと、今になって千度も百度も後悔したが、もう遅かった。

さて今回、山中の城を一手に引き受け、他の勢を交えることなく切り崩したのは秀次公だったので、
「秀吉公は来年には天下を秀次にお譲りになるだろう」と噂された。
天下を統べる武将となる御身には、何であっても器の大きさを示せなくてはいけない。
幸いにもこの乱が起きたので、山中の城を秀次公だけで切り崩させ、
諸人に武勇の優れたところを見せ付けるのがいいと、殿下が仰せになったと聞いている。
だから秀吉公から付け置かれた四人の年寄衆、
木村常陸守・一柳伊豆守・中村式部少輔・白井権大夫が身命を捨てて攻め入ったのだった。

一柳伊豆守が一番乗りを目指して進んだが、城中から鉄砲が雨霰のように撃ち出されたので、
一柳は正面を打ち抜かれて死んでしまった。
中村式部少輔の手勢から、渡辺勘兵衛尉が一番に城に乗り入った。
間宮・朝倉が手際よく動いたので、大手の空堀は寄せ手の死人で埋まって平地になったということだ。

ここまでは聞き及んでいるが、遠国のことなので委細は知らず、追って記す。


以上、テキトー訳。

あかん、武将がよくわからん。
逆心を抱いていた成田さんというのは、『の/ぼ/う/の/城』で自分の城を出て小田原に詰めた殿さんかな。
私もたいがいアレだが香川さんも調査不足のようだしw まいっか。

にしても若武者氏直カッコよろしいな。噂のサッカー狂。
サッカー狂といえば吉川ファンの頭に浮かぶのは元氏さんだけど、
ええい! まだ毛利勢は登場せんのか!
2012-01-15

秀吉が小田原に向かったが毛利はお留守番です!

さて、小田原征伐が始まったようです。
長いので2回に分ける。


北条小田原籠城のこと(上)

天正十八年庚寅のことである。一昨年、北条氏政は秀吉公の下に馬をつなぎ、
一礼として北条美濃守(氏規)が上洛したが、今またその和平が敗れて矛盾を交えることになった。
そのきっかけは、「氏政が上洛するように」と秀吉公が命じたのに対し、
氏政はどんな腹があったのか、秀吉公の上意にそむき、敵の色を立てるようになった。
それで自分自身が命を落とすばかりか、北条の家や諸家が永く断絶することになったという。

秀吉公は北条退治として(天正十八年)三月十九日(一日)に京都を出発した。
聚楽第には弟の大和大納言秀長卿を残し置き、京都の守護のために羽柴宰相輝元卿を留め置く。
同(天正十九年)四月初旬に秀長卿が逝去してしまったので、輝元卿が聚楽第に移った。
尾張清洲の城には小早川左衛門督隆景が置かれた。
三河の国、岡崎の城には、そのころは松平大納言家康卿が在城していたが、
家康卿は小田原に向かってしまったので、その城には吉川蔵人広家様が置かれた。
家康卿の御座の間にいるのは恐れ多いと、その間は空けておいて、その次の座敷を使っていた。
家康卿の公達には、城から十町ほど離れたところに杉田新兵衛尉という者がいたが、
やがてその者の屋敷に移った。

秀吉公は中国・機内・北陸道・南海道・東海道の兵二十万騎を率い、
同四月二日から小田原の城を取り囲んだ。
小田原の城中の軍評定を後に尋ね聞いたところ、氏政が北条の大身の老臣たちを呼び集めて
「これからの戦、どうやって勝利を勝ち取ろう」と会議をしていたところに、
そのとき十六歳だったという嫡子の氏直が虎の皮の羽織を着て着座した。
智勇は父の氏政、叔父の氏照よりもなお勝り、近くは祖父の氏康、
遠くは先祖の宗雲にも劣らぬ良将の器の持ち主だ。

意見が出揃って是非を決めかねているところに、氏直が口を開いた。
「ただ今の皆の評定は、八割から九割は、小田原に籠城するのがいいだろうとの意見と見受けます。
しかし私が思うに、これはまったくよろしくない。
この戦のきっかけは、美濃守が上洛して下向する途中、三河の岡崎へ立ち寄ったとき、
家康卿が仰ったではありませんか。

『今、北条が秀吉公に馬をつないだとは言っても、いつかは必ず戦になるだろう。
とにかくにも、上方勢にその手際や武勇を見せ付けておかなければ、
将来北条家が安全に続くことはないだろう。
なので、秀吉が今度は氏政が上洛するようにと言っているので、
ここで否と言えば、秀吉がすぐに小田原に攻めてくるはずだ。
そのときは天竜川を隔てて対陣するといい。
上方勢は短気だから、川を渡って一戦に及ぼうとするだろう。
きっと先陣は中村式部少輔で、二陣が私になるはずだ。
中村の勢は五千もいない。川を渡ってきたときに、一人残らず討ち果たしなさい。

この家康は、これで少し臆したように見せかけて川を渡らずに控えていよう。
緒戦で利を失えば、上方勢も気後れして、重ねての合戦に諸卒は進もうとしないだろうから、
十中八九、秀吉は和睦して帰陣するだろう。
塩をつけられて秀吉が帰洛すれば、いよいよ北条家を奥深く思って、
二度と関東に発向しないばかりか、秀吉は手を尽くして氏政の機嫌を損ねないように
振舞うようになるだろう』と。

美濃守が帰ってきてからこのことを氏政に言上したので、現在こうして戦になっています。
ここは予定通り、とにかく天竜川をはさんで一戦するのがいいでしょう。
日本一国が丸々敵かと思うような戦をしようというのだから、
十死一生の戦いをとげず、自らの手を砕かずに空しく城に取り籠もって、
険しい地形ばかりを頼りにするほど臆していては、勝利など得られようはずもありません。

だいたいにして、今回秀吉との和睦を破り合戦に及んだこと自体、
この氏直ごときの愚蒙の身には、いい策だとも思えません。
これは実に、風もないのに波を起こし、何もないのに事を構えるようなものです。
家康が小牧においてわずか一万四、五千の兵を率いて、秀吉の十万騎に立ち向かい、
先陣の三吉秀次を追い立て池田を討ち取って、上方勢に塩をつけてから和睦したのを先例として、
当家が無事を破り、一戦してから和睦しようなどということは、
似ているようで似ておらず、家康の場合はうまくいったことも、当家の場合はどうなるかわからない。

家康は天が赦した聖武です。
これを真似しようとすれば、鵜の真似をしようとする鴉と同じです。
こんなことを言えば、当家の武名を軽んじ、
氏政公が家康に劣った大将だという意味にとられてしまうかもしれませんが、
そういう意図はまったくありません。
日ごろから武勇に優れ、謀も賢く運ぶ良将でいらっしゃる。
だからこそ今、関東八州がその御手に属しているのでしょう。

しかしながら、今回の戦で小田原に籠城しようとの仰せについて、こう申したのです。
籠城して地の利を頼むくらいならば、初めからこの乱を企てなかったのはいったいどうしてでしょうか。
先に申したように、和睦を破り、天下を相手に一戦し、敵に塩をつけようとの策ならば、
城に籠もろうと決議するのは、その愚といい臆といい、是非に及ばぬことです。」


以上、テキトー訳。つづく。

がーん。秀長さん、どうして死んでしまったんじゃー><。
でもウィキペィアだと死没が天正19年1月22日になってるよ。4月ですらない……追究するのはやめるか。
天正18年1月頃から病が悪化してたらしく、輝元が聚楽第に入ったのは入れ替えられたわけじゃなさそうだな。

吉川家墓所には小堀遠州作と言われる手水鉢があるそうだが、これも秀長さんの家臣だったようで。
秀長に遣えてた時代に広家と親交を結んだ可能性もあるわけか。
小堀は龍光院に庵を構えてたようだから、広家もたぶん龍光院には足を運んだだろうし
(黒田如水のための塔頭で広家の墓も分骨して建てられている。
 龍光院住持の江月宗玩の賛が入った広家肖像もあるから交流はあったはず)
そこでの縁という可能性も考えられるけど本筋からそれてたわ。

吉川勢は岡崎にいたのに、北条側の状況がえらい詳しいな。ってか家康ageがすごいな。
若干16歳の氏直が吼えること。
まだこの大演説は続くんだよ。恐るべき16歳だね。

そういえば最近『の/ぼ/う/の/城』をようやく読んだが、
あれも小田原征伐の一環の端城戦なんだよね、たしか。
噂どおり読みやすかった。内容的には……うーん、小説読みつけてないからニントモカントモ。
でもまあ、映画は見てみようかなと思ってる。合戦シーンに飢えているんだぜ。
2012-01-15

こっそりウチのワイドハウスちゃん

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2012-01-14

大仏造営するから材木差し出せってさ

広家の嫁の母に関する章の次から読んでいくよ。
今回は単発記事的なうえ短いけど、次から小田原征伐のお話。

いや最近吉川家譜に浮気してるわけだがそっちが面白くてな。
でもブログに上げられるほど読み解けてもいないんでな。
まだ読みやすい陰徳記を細々と読みつついつか家譜の記事を上げたりしたいと思いますハイ。


大仏造営のこと

明けて天正十七年己丑、秀吉公は大仏を造営すると言って
国々の太守へといい材料を京都へと送るように申し付けた。
「なかでも中国は深山が多い地である。昔は俊乗坊(重源、東大寺大勧進職)も
周防の国から大仏の材木を取り寄せたと伝え聞いている。
これは古い記録に載っていることだ。
それに先年、薩摩追討のために下向したとき、防府の奥で、
俊乗坊が例の良材を捜し求めたときの風呂釜という、
口の広さが九尺あまりもある釜が今でもあると聞いている。
きっとそこには今も大木が数多くあることだろう」

秀吉公は、中国の材木を探して大阪に差し上すようにと、
寺沢志摩守を通じて輝元卿・広家様へと命じた。
輝元様と広家様はすぐに領内の深山に山師を数千人分け入らせ、
大木をいくらともなく探し出して献上した。
その中に、芸州の三田というところに木の切り口が一丈一尺もある大木があったが、
これも大船数艘に乗せて漕ぎ上らせた。
秀吉公は「こんな大木がこの世にあるのか」と、大いに感心した。
このような大木を、もう一本琉球から取り寄せたということだ。
やがて大仏造営に取り掛かった。大仏供養以下のことは追って調べて記す。


以上、テキトー訳。

あれ、大仏造営に絡んでくるのって刀狩令だと思ってたわー。
百姓や町人の持ってる武器を鋳潰して大仏造るって名目での刀狩。
まあ普通、社会の授業でそう習うよね。
中国勢には木を刈ってこいってお達しもあったんだね。
九州とかでは太閤検地をきっかけに大一揆とか起こるし、ホント秀吉ってば迷惑☆

学校で習った知識しかないころは、検地ってのは測量のしなおしや単位の統一のためにやってたと思ってたけど、
あれって増税が目的だったみたいだね。隠し田の摘発とか。
領主によってはわざと小さい枡で年貢を計量して実負担を軽くしてやることもあったようだけど、
単位が統一されてしまうとそういうこともできなくなるわけだ。
だから検地をすると一揆が起こる。

一揆が起こると鎮圧しなきゃいけないから、一揆を起こせないようにするために刀狩令が必要になる。
百姓から武器を取り上げてしまうと、戦の際に百姓を徴発しても「武器は自前で」なんてことはできない。
それまでは徴発した百姓が自前の具足・武具で戦に参加してたっぽいけど。
それで身分制度というか軍人とその他が必然的に分けられていったのかしらどうなのかしら。
自分の理解の足りなさに日々ため息ですわ。

まいっか。次からの小田原征伐に関しては、毛利勢はほぼ留守居役なので見せ場は少ないと思う。
2012-01-13

九州の始末

だいたいのおさらい:
島津がヤンチャしてたので懲らしめたよ
 →九州は秀吉の影響下に置かれたけど、検地とかのせいで一揆が激しくなったよ
  →肥後を与えたれた佐々成政は超強いけど、毛利も九州に出張りして一揆を鎮圧したよ
   →佐々が悪政を理由に処断されたよ


小西・加藤、肥後の国を賜ること

鬼よりも神よりもなおいかめしい佐々ははかなく自害してしまったので、
「肥後の国の一揆がもしまた再発してしまってはいけない。
小早川隆景が肥後の国にしばらく在陣するように」との秀吉公のお達しで、
隆景は佐々が国を出てから、肥後に入って陣を構えていた。

「とはいっても、国人たちが一味同心して不意に戦いを仕掛けてくれば、今度は隆景が危なくなる。
急ぎ輝元・広家が加勢するように」との秀吉公の命で、
輝元様は天正十六年四月十日に筑前の国の博多まで出張した。
広家様は総勢六千余騎で肥後の国へ赴き、小代というところに陣取った。
小早川・吉川の武威に伏して、国人たちは皆なびき従った。

そうして肥後の国の筒ヶ嶽という山を調略し、兵を配置して、広家様がしばらく在陣し、
隆景様は南の関というところに総勢一万騎ほどで陣を張った。
その後、秀吉公から浅野弾正忠・生駒讃岐守の二人が差し下され、
国中を全て検地して、東の半国を加藤主計頭、西の半国を小西摂津守に与えた。

二人が領地に入ると、吉川・小早川の両将は閏五月十三日に肥後表を引き払い、筑前まで引き上げる。
そこで輝元様に会い、しばらく逗留して、
輝元様・広家様は六月三日に連れ立って芸州へと帰っていった。
隆景は名嶋の城に入った。


以上、テキトー訳。この次はここ

「毛利の武威」じゃなくて「小早川・吉川の武威」なのがしょっぱい。
そして自分ちの戦じゃないのに長いこと頑張った挙句、
他のやつに領地が与えられるって、毛利勢はただ働きなの?
まあもとからデカい家だから、これ以上領地を与えるわけにいかないのはわかるけど、
何か恩賞はないのか、恩賞は!

この年の7月に毛利・吉川・小早川がそろって上洛し、秀吉の接待を受けることになるわけだが、
豊臣政権に新たに属した諸侯がそろって上洛し臣下の礼をとるのはこれより早い5月のこと。
つまり毛利は諸侯に遅れをとったことになるわけだけど、
秀吉の命で九州に在陣してるんじゃしょうがないよね。

と言うより、この「遅れてOKの特別扱い」こそが毛利への恩賞だったんではないかと。
三家が上洛したときは在京の大名たちに秀吉から出迎えの催促が行ったらしい。
「九州でも頑張ってくれたから幕下の大名たちもこぞって毛利を歓迎し大切にしてるよ」という
パフォーマンスだったんではないかと……!

時系列でざっくり並べてみると、
・4.10 輝元、筑前に出張り
・5/9  聚楽第への後陽成天皇の御幸および諸侯謁見(徳川家康もこのとき初めて臣下の礼をとる)
・5/13 吉川・小早川、肥後表引き揚げ開始(ここまでに検地・新領主の下国)
・5/14 佐々自害
・6/3  輝元・広家、安芸へ帰る
・7/7  輝元、上洛のため家城を出発
・7/22 輝元・広家・隆景、入洛
ってことになるのかな。

広家は小代というところで城の普請をしていたようで、吉川家文書には奉行衆や加藤清正らからの
「お仕事本当にご苦労様です~」という見舞いの書状が収録されている。
福島正則からの書状もあるけど、祐筆任せの固い書面だね。
どうでもいいけど福島は仲良くなると可愛いひらがなの自筆書状をくれるから、
どこのシミュレーションゲームのキャラだと言いたい。ぜひとも攻略したい。

いずれにしろ秀吉がちゃんと挨拶しとくようにってせっついたんだろうな。
4月上旬の日付だから、輝元より先に広家は現地入りしてたのかも。
このへんの動きもちゃんと他の文書併せて読まないとキッチリわからんなぁ(メンドイ)。

さて、大体九州は終わった。そんでもって次はどこを読むかはまた明日考えるさ~。
書家文書やその他古文書に走るかもわからんし。
ぬふふふ、今日もいい文書をゲットしたのさフヒヒヒヒ。
2012-01-12

佐々、一世一代大見世場

昨日ポロッと書いちゃってしまったと思ったけどどうせタイトルでわかるからいいか。
そう、登場直後なのにもう末路なんです、佐々さん。

すんごい強くて怖い佐々さんだが領国の政治のほうがアレで反乱起こされて
でもすんごく強いからあっという間に片付けちゃったその後。


佐々自害のこと

関白秀吉公は佐々のこの大勝利を聞き及んで、
「いやいや、佐々の武勇は昔よりも格段に増しているではないか。
もしこの者が野心を抱けば、たちまち天下を覆してしまうに違いあるまい」と思い、
肥後一国を与えたことを今になって千回も万回も後悔した。

佐々は誇りを極めただけでなく好色にふけり、阿蘇宮の神主の娘を奪い取ってしまったので、
この神主は怒りに震え、このことを秀吉に訴えてきた。
秀吉公は、これだけのことで佐々を滅ぼすのもどうかと思ったのか、
肥後の国の一揆勢に対して「佐々の国の運営が邪であると、
具体的に挙げて訴状をよこすように」と内々に指示した。
一揆勢は渡りに船と喜んで、すぐに佐々の政道が邪で曲がっている根拠を
数十ヶ条も書き記して訴えを起こす。

秀吉公はその実否を糺すという名目で佐々を呼びつけた。
佐々はすぐに国を出発すると船に乗り、主従五十人ばかりで上ってくる。
摂津の国の尼崎に着き、さる禅院に宿を借りているところへと、
秀吉公から一柳伊豆守・毛利壱岐守が検使として遣わされてきた。

二人の使者は佐々を刺激してはまずいと、わずかな手勢でなんでもないような振りを装って訪ねたが、
佐々は毛利・一柳に向かってにっこりと微笑み、
「私に腹を切れとのお使いだな」と言う。
二人は「いかにも」と答えた。

佐々は、「今ごろになってとは遅いものだ。
秀吉も、天下を奪える良将はこの佐々しかいないと、さぞ恐ろしく思っているだろう。
私のような英雄が世にあれば、秀吉が天下の主となったとはいっても安心できるものではない。
漢高(劉邦)は天下を統一してから韓信・彭越を滅ぼしたが、
私も同じように武勇と勝運が優れていたから疑われたのだ。
『高鳥尽きて良弓蔵(かく)る(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓も仕舞われてしまう)』とは、
昔の人もよく言ったものだ。
九州が私の武威に服した今となっては、私のような良い犬は煮られてしまう運命にあるのだ。
これは私の武名をさらに鮮やかに飾り立てることになるぞ」と言い放つと、
すぐに沐浴を済ませ、客殿の真ん中にスッと立つ。

「一柳、毛利、よく見ておいて後の世の物語にしてくれ」と、
立ったまま腹を十字に切り、腸をつかみ出すと天井に丁と打ち当てる。
「エイヤッ」と大音声を上げて前の庭へと一丈(約3メートル)も飛んで降りて、
「よし首を打て」と言うと、佐々の郎党がすぐにその首を打ち落とした(天正十六年五月十四日)。

その寺の天井には龍が描かれていたが、今でも血の痕が残っており、
夕焼け雲の中に龍が遊んでいるかのように見える。
二人が帰って報告すると、秀吉公は愉快そうに打ち笑って、
「鬼神のような勇名を馳せた佐々のことだから、金屑のたとえ(賈南風のこと?)が恐ろしくて
そんなことを言い出したのだろう」と言った。
その後しばらくしてから、
「罪のない佐々を無実と知りながら殺してしまったのは秀吉の一生の不覚だった」とも洩らしたそうだ。


以上、テキトー訳。

切腹シーンまでブレないかっこよさ。月岡芳年とかこのシーン描いてくれればいいのに!
きっと香川さんもしくは陰徳記の元になった覚書書いた人は佐々さんが好きだったんだろうな。
憧れと言うべきか。蒲生氏郷もその武勇に憧れたって逸話もあるくらいだもんな。
切腹した宿は法園寺 というところらしい。墓もそこ。とはいっても今は寺自体が移転されているそうな。
まあ血天井なんて残ってないんだろうなぁ。陰徳記も所詮軍記物の一つだしね。

しかし「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る」ってのは福島正則改易のときの逸話にも通じるね。
平和な世の中になったら弓は仕舞われる(武人は用済みになる)ものだ、かぁ。
で、用済みになって放り出されて食い詰めた弓たちが反乱をでかくするわけねw
大阪の陣、島原の乱はそういう食い詰め浪人の一斉大粛清みたいなものだったのかな。

あと、この後毛利勢が上洛して初めて輝元が秀吉に臣下の礼をとることになるわけだけど、
数千人規模の人員を動員して上洛してるわけさ。
そのまま戦でもするのかってくらいの人数だよね。
こんな事件があった後なら「当主が殺されるかもしれない」って不安はあって当然だな。
佐々の二の舞にならないためのあの動員数だったんだな、と思ったら腑に落ちた。

次も九州情勢。
2012-01-11

肥後一揆と佐々成政

九州一揆征伐、絶賛穴埋め期間中。
ほとんど一揆の方は鎮圧済みの状態で、しばらく九州情勢の説明が続くと思う。
といっても、今回を含めてあと3回くらいか。


佐々陸奥守、肥後の国を賜ること

佐々陸奥守(成政)は、以前柴田修理亮に味方していたので、
関白秀吉公は大いに憤って、能登の国を没収してしまった。
しばらくは流浪の身となっていたが、さすがに旧友が手厚く世話を焼いていた。
また奇計良略の世に傑出した良将だったので、
「九州の蛮族を抑えるには猛将でなくてはならない。
今の世の中には佐々がその任に一番適しているだろう」と、
罪を許されただけでなく、肥後の国を与えられたのだった。

佐々は衣食住も満足に整えられない状態からいきなり一国の主となり、
その栄耀は身に余っていたようだ。
国に入ったのなら仁徳をもって人民を愛せば国も穏やかに、また自身も安全でいられるというのに、
佐々は攻め取ったり戦いに勝つ才能は人より上ではあっても、
士を愛し民を慰撫する徳は夢にも知らぬ血気盛んな勇将である。
刑罰を厳しくし、愛和の道を疎かにしたので、
国人たちは表面上は佐々の武威に従っていても、心の内には恨みが山のように積もっていた。

よってたちまち国中で示し合わされ、一揆が勃発したのだった。
佐々は大いに怒り、すぐに自分の城を出て一揆の城郭を取り囲んで攻め始めたが、
あちらこちらの一揆勢が群れとなって後詰として攻めかかってくる。
佐々は自分の軍勢はすべて城の攻め口に差し向けていたので、
旗本だけのわずか二、三百の手勢で敵の大群に立ち向かった。
十死一生の戦を遂げ、たちまち大敵を平らげて前代未聞の大勝利を得た。

その後すぐに、一揆勢数万騎が熊本の城を攻め取ったと、櫛の歯を引くように次々と知らせてくる。
佐々は馳せ帰ってどこかを打ち破り城中へ入ろうとしたものの、
自分が念を入れて構えた堀が邪魔をして渡りようがない。
長柄の槍数十本を束ね、橋として堀に渡し、次々と打ち渡って城中へと入ると、士卒の勇気を励ました。
そして湯漬けを食い終わると同時に突いて出て、千変万化して敵を翻弄する。
前にいるかと思うと忽然と後ろに現れる。その速さといえば迅雷の如しだ。
耳を覆うこともできないような有様で、敵陣はあっという間に破られて退却していった。
佐々はその後城中に籠り、翌朝には寄せ手が引き退いていく後を追って、
数千人を切り捨てたということだ。

ここまでは聞き及んでいるが、遠国のことなので委細は知らず、調べてから追記する。


以上、テキトー訳。

>調べてから追記
香川さん(著者)、私のブログみたいなことやってんのなw

そりゃそうと、ほとんど武将の名前を知らない私だけど、佐々成政だけは知ってた。
高校の同級生にその家の末裔だという人がいた。庶流だそうだけどね。元気にしてるかなぁ。
なかなか濃いクラスで、先祖が南北朝の時代に南朝の重臣だったとかいう人もいた。
そのときに歴史に目覚めてれば、おいしい状況だったんだろうなぁ。
まあ例によって佐々さんが何をした武将かなんて知らなかったので、ここで知れてよかったw
ほとんど無双状態じゃないか。かっこいいなぁ。

次回はそんな佐々さんの末路。
2012-01-10

美貌の叔父様VS肥後国人一揆

なんか拍手が増えてる……! ありがとうございます!
ですが残念なお知らせです。また別の資料に浮気心がうずいてしまいました。
ていうか吉川家譜ゲットだぜで踊りだしたい気分~~~~!!!
ますます朝鮮出兵に手をつける勇気がしぼんで違う方面に走り出しそうです!

まあ陰徳記もちょっとずつやるけどね。

陰徳記、とりあえずここここの間を埋めていこうと思う。
目次作らなきゃなぁ。あれ、なかなか面倒なんだよなw

とりあえず今回の章までの流れとしては、
秀吉の九州征伐→平定→一揆勃発→黒田が鎮圧失敗→毛利に平定命令→吉川勢が賀来・福島を落とした
という感じだな、きっと(オイ)。


肥後の国和仁・辺春落城のこと

小早川左衛門佐隆景は肥後の国へ赴き、辺春(ヘバル)の城へは粟屋四郎兵衛尉・朝枝右京亮に
安国寺瓊西堂を指し添え、総勢四千騎でその城を取り巻いた。
城中の兵には弓や鉄砲の名手が多く、隙間なく撃ち出し、射出してくる。
朝枝右京はたちまち正面を射られて死んでしまった。
粟屋四郎兵衛尉も肩を射られたが、傷が浅かったので少しも気にせず、
「少しずつ詰め寄せていけ」と下知をなし、塀の手から四、五間に攻め寄せる。

いよいよ乗り込もうとすると、辺春の何某(親行)は、もうかなわないと思ったのか、
「私一人が腹を切りますので、残りの者たちの命をお助けください」と懇願しだした。
粟屋四郎兵衛尉・安国寺たちは、自分たちで決められることではないと、隆景様へと伺いを立てた。
隆景様は「よろしい。辺春の言うとおりにしよう」と言い、
すぐにその城を明け渡し、辺春は切腹するようにと言い渡した。

辺春は「私の望みを隆景がご了承くださったのは、ひとえにお二人様のお取り成しゆえです。
ご芳志に感謝いたします。
私には幼少の男子が一人おりますので、安国寺に差し上げます。
成人したならば法師にして、私の無跡を弔うようにご指南を加えてください」と、
十二、三ほどになる子を安国寺に引き渡した。

安国寺はすぐにその子を受け取ると、
「ご安心ください。よきように取り計らいます」と答える。
辺春は手を合わせて喜んだ。
その後、辺春は腹を十文字に切って倒れ伏した。
その子は北村五郎左衛門といって、安国寺に付き従っていたが、
成人した後は名誉の勇士に成長したそうだ。
和仁(親実)は武器を投げ捨てて一命ごいをし、どことも知れず退散していった。

この報告が秀吉公に届くと、すぐに御内書が送られてきた
(小早川家文書一-文四九八、吉川家文書一-一一二)。

「今度肥後の国は和仁・辺春の両城を攻め取ったこと、粉骨の至りで、もっとも神妙に思う。
 なお、小西摂津守から申し伝える。
  (天正十六年)正月十九日      秀吉
  小早川左衛門佐殿」

「豊前の国において賀来・福島を討ち果たし首を送ってくれて嬉しく思う。
 特別に骨を折ってくれたと聞いている。神妙の至りである。
 なお黒田勘解由・森壱岐守(吉成?)から申し伝える。
  (天承十六年)正月十九日      秀吉
  吉川蔵人頭殿」


以上、テキトー訳。

短いけれどこの辺で。
吉川勢が活躍した一方で小早川勢もちゃんとやってましたよ、ということで。
粟屋一族カッコイイなぁ。惚れそう。

辺春さんは息子をそんな、モノみたいにくれちゃっていいのかしらと思わんでもないが、
この時代は普通に人質にやったりしてるから当たり前の感覚なんだろうな。
でも安国寺にあげるとセクハラされそう(ひどい偏見)w
まあ武士になって勇名を馳せたようなんでヨシとするか。

次も続きの九州情勢。
2012-01-09

近況と駄文(腐)

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2012-01-08

元長が家族大好きっ子すぎて泣ける

そんなわけで吉川家文書別集、元長から西禅寺の周伯恵雍さんへの手紙を流し読んでみた。

「先日いらしたときにお引止めしたかったんですができなくて。
 年内に一度ゆっくりお話でもしましょう。近日元棟のところにおいでください(12月14日)」
「得魚を元棟(元氏)が拝見したいというので、明日見せてください(3月21日)」
「松寿丸(元春四男)が病を得たのでこちらまで下向してくださったと聞きました。
 本当にありがとうございます。少し良くなったようなので安心してください。
 私は明日か明後日には罷り上がります。(天正6年10月23日)」
「元春の瘧病が快気したと聞いてすぐに見舞いをくださり、ありがとうございます(8月5日)」
「昨日はお越しいただいてありがとう。取り紛れて挨拶できずにすみませんでした。
 元春は今日は一段と気分がいいようです。
 晩にどうなるかはわかりませんが、まずはよかった。(8月11日)」
「元春も今私の家にいますので、今日はお疲れでしょうから、明日の昼くらいにおいでください」
「経家が論語抄を返したそうで、よかったです。(3月8日)」
「元棟のところに来てもらえますか。相談したいことがあるんです」
「今日は元春が疲れきっているので、明日の朝おいでください」
「梅の花を二枝ありがとうございました。ちょうど老母が私の家に来ているので
 帰るときの土産に持たせたいと思います。きっと喜びます(12月1日)」
「元春の死去は是非に及びません。元春は周防の龍門寺雲庵東堂の弟子ですので、
 その弟子筋を呼んで、まずは一通り引導をすることになりました。
 ご門中の衆も集まって打ち合わせをしておいてください。
 貴僧はおいでになっても、おいでにならなくても、お心にお任せします。
 後々の供養は貴僧が調えてくださいますよう。(天正14年11月15日)」
「以前頼んでおりました、日頼(元就)の衣で九帖袈裟を新調する件、進んでいますか。
 余計な事ながら、進捗を聞かせていただきたいです。
 元春の位牌のこと、先に進めないでください。まずは寺号を定めなくては。
 新しい土地が必要ならそのようにします。悪いところでは後悔しますから。
 よくよく考えてください。私も考えます。(天正14年12月19日)」

なんなの、もうこの子かわいい。
まだ他にもあるけど追いきれてない。
「黙然」などの雅号を使ってる書状もいくつもあった。
元棟の登場回数が多いのは、西禅寺がどうも元棟の所領にあったためらしい。
元春はダントツの登場回数だね。ホント孝行息子だね。
それにじいさまの遺品の衣で九帖袈裟仕立てたいとかもうもうもう!
お袈裟ってのは本来、古布を継ぎ合わせて仕立てるものらしい。
さすが仏教オタク。金襴緞子なんて目もくれない。
あの、陰徳記呼んでて「さっさと陣に行け」なんて毒づいて申し訳ありませんでした。

で、究めつけはこれ。元長の書状じゃなくて、恵雍さんの奥書。
    ↓ ↓ ↓ ↓
「右は御臨終にいたるまでの御自筆の御書なり。文数五十三、紙数七十五。
 端の一封は他筆ではあるが、末後の書状なので添えておく。
 御自筆の御書の総数は文数百六十八通、紙数二百六十九枚なり。
   天正十六年丁亥六月五日     西禅野衲周伯記」

恵雍さん、元長の一周忌に合わせて、もらった書状整理してたのかよ!
泣けるわ!!! もうその書状の束は増えないんだぜ、切なすぎるよ。

最後に、兄を亡くした弟たちから恵雍さんへの書状。


元棟(元氏)書状
「元長様のこと、何度言ったところで是非もないことです。
 かねがね万徳院に建ててあった廟所に葬ることになりました。
 とはいっても、元長様は生前、内々の雑談でも、
 西禅へ行けばひときわ心が清浄になっていい気持ちだと言っていましたから、
 香兵(香川春継)などとご相談のうえ、御舎利(遺骨)を貴寺にお預けして
 廟を建てていただき、御酒掃(供養?)をお願いしたいと思います。
 第一、元長様と貴翁の仲ですから、これがきっと最善の弔いでしょう。
 お局方もそうお考えです。恐惶頓首
  (天正十五年)六月十七日     宮内太輔 元棟
  西禅丈室(周伯恵雍) 侍者御中」

経言(広家)自筆書状
「私から連絡をするべきでしたのに、取り乱しているうちに、
 あなたから音信をいただいてしまいました。
 それにしても当家は、不慮のことで難局に立たされ、言葉を失っております。
 私の言い分は十分お聞きになっていると思いますのでそれはいいのですが、
 御家を預かることはまさかあるまいと思っていました。
 末代までの名誉ではありますが、私などは結局のところ大間抜けで不調法者なので
 きっと御家を滅ぼしてしまうと思います。でも仕方ないことです。
 このことは言葉にも筆にも尽くしがたいのです。
 名誉だと申し上げなくては、まったく気も晴れません。
 元長の御他界について、敵のことはもちろん、家の無力がこれほどまでに極まるとはと、
 どうにもならない思いでいます。
 あれこれとわきまえもせずに、今の時勢の成り行きに従って、
 または元棟(繁澤元氏)と家中の者たちに助けてもらいながら、
 吉川の名字を続かせるようにしていくつもりです。
 またお会いしてお話しましょう。恐々謹言
  (天正十五年)八月二十一日      経言(花押)
  西禅寺(周伯恵雍) 尊報      蔵人 経言
 箱崎まで細々と御音信をくださいましたが、
 行き違っているのではないかとご心配だったでしょう。
 確かに確認いたしました」

えーっととりあえずアレだ。広家、いっぱいいっぱいなのはわかるけど、空気嫁。
まあでも、これ以降も広家は恵雍さんを気にかけて細々と手紙を出してるのでよしとするか。


明日から陰徳記に戻ろうかと思うんだけど、朝鮮出兵が読みたくてうずうずしてる。
いや、アレですよ。広家に加えて黒田さんちの息子さんが活躍するので。長政大好き。
ただ朝鮮に行くと、終わりまで抜け出せない感が強いよね。
どうするか……また明日考えるか。

以下、拍手コメいただいた方への返信です。

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2012-01-07

元長の命日って

ウィキペディアによると6月15日、
陰徳記と広家の覚書によると6月5日なんだけど。
まあぶっちゃけ、陰徳記の日付とかはあんまり信用できない。間違ってることが多い。
けど、曲がりなりにも吉川当主の命日なんだから、後になっても法要とかやるはずで、
これを間違えるってのはいくら陰徳記でもありえないんではないかと思ってしまう。
広家も、自分が家を相続することになった重要な日を間違えるもんだろうか???
そこで吉川家文書の書状群ですよ。

【吉川家文書に見る天正15年6月5日の様子】

・天正15年6月5日付 輝元書状
 輝元→経言「元長が病気なので、家督をおまえに譲る件について、了解した。詳しくは隆景から伝える」
         (吉川家文書 677)
 輝元→元長「今回の病気で、以前から考えていた通り、家督を経言に譲るという件について、
         私に異議はないので安心してほしい。家中の定めをしっかりすること。
         なお隆景から伝える」(吉川家文書 678)
 輝元→隆景「元長の所存について井上春忠が知らせてきたが、異議がなければ
         早々に許可状を調えてほしいと言ってきた。
         すぐにこれを認め、任承の旨を、今田玄蕃を使いとして送ってある。
         元長存命のうちに知らせてやりたいとのことなので、差し急ぎそうした」
         (吉川家文書 679)
 ※この時点で輝元は「元長は死にそうではあるが生きている」と認識している

・天正15年6月5日付 吉川家臣・寄騎の起請文
 益田元祥ほか14名→元長・経言(吉川家文書 202)
 宍道政慶→今田経忠・今田春政(吉川家文書 680)
 ※経言の家督を認め忠節を尽くすという内容、元長は病気だがまだ生きているという認識

【吉川家文書に見る天正15年6月6日の様子】

・天正15年6月6日付 吉川家臣・寄騎の起請文
 宍道政慶→経言(吉川家文書 681)
 富永保英→経言(吉川家文書 682)
 宮庄春眞ほか18名→今田春政・相賀木工助(吉川家文書 683)
 ※経言の家督を認め忠節を尽くすという内容、元長の生死は不明

【吉川家文書に見る豊臣秀長の反応】

・天正15年6月4日付 豊臣秀長→経言(吉川家文書 865)
 「こっちの見回りについてはこれ以上お気遣いはいらないよ。
  元長が病気で奉公できないのは仕方ないことだからかまわない。
  まだ若いんだから養生が肝要だ。早々に都郡(とのこおり)に行って養生に専念してくれ。
  都郡では元長の宿所がなくて難儀していると疋田就長(秀長家臣)から聞いた。
  寺であろうと民家であろうと、好きなところに押し入っていいよ。この文書で保証する。
  どこであろうと宿所に陣取って、養生すること。
  この書状をもって、おまえもそっちに行って宿所を申しつけ、元長を看病しなさい。
  ちょうど林土佐守(就長、毛利家臣)が来たので輝元にも養生のことを伝えるよう言っておいたよ」

・天正15年6月4日付 疋田就長(秀長家臣)→経言(吉川家文書 874)
 「書状ありがとうございます。元長公の病気について、ただ今取り成しをしておりますのでご安心を。
  秀長卿は早々においでになって看病に専念するべきだと思し召しです。その書状を調えられています。
  都郡の陣屋のことまで気をまわしてくださいました。私が申し上げたんですけどね。
  たとえご兄弟衆であっても、このことは内緒にしておいてください。
  こちらの取り成しに手落ちはないのでご安心ください。こちらのことは私に任せて、看病してくださいね。
  秀長卿も細々と文書に指示されています。
  林土(林就長)もいらしたので、林土にもこのことをお伝えになられました」   

・天正15年6月6日付 豊臣秀長→経言(吉川家文書 866)
 「元長の病気がよくならないようだね。さぞ心細いだろうね。
  そちらから連絡がないので、昨日も使者を遣わしたけど、まあ油断なく養生することだ。
  こちらにできることがあれば遠慮なく言ってくれ。あとは疋田から伝えさせる」

・天正15年6月6日付 疋田就長→経言(吉川家文書 875)
 「お伝えくださった旨はすべて秀長卿に伝えました。
  元長公の病状についてよくよく申し上げました。早くよくなってほしいと願っていらっしゃいます。
  お見舞いをしたいと思し召しですが、まずは昨日、使者を送られました。
  私は秀長卿の午前であなた様の話をして取り成しをしております」

・天正15年6月7日付 豊臣秀長→蜂須賀家政(吉川家文書 867)
 「書状を見た。ちゃんと連絡をしてくれなきゃ。長雨のせいで下々は迷惑するよね。
  島津中務(家久)が不慮に亡くなったこと、是非もない。
  又七(豊久)に心付をやったのはいいことだ。
  次に元長のことだが、これまで患っていたとはいっても、こうも急に死んでしまうとは思わなかった。
  元長は親父(元春)以来、関白殿に協力してくれていたから、
  私も蔵人(経言)に対して少しも手抜かりはない。
  とりわけ蔵(経言)のことは、このごろ細々と訪ねてきてくれたから、すっかり仲良くなった。
  おまえも仲良くするように。
  輝元と隆景の心中を察しているよ。あとは九兵衛(疋田就長)から伝えさせる」

・天正15年6月8日付 疋田就長→経言(吉川家文書 876)
 「それにしても元長公のことは是非もないことです。中納言殿(秀長)も大変残念に思っています。
  ご身上のことについては、昨日蜂須賀家政から私に連絡がありました。
  必ず取り成しをいたします。ご安心ください」

※6月6日~7日くらいに元長死去の報が秀長に届いている様子

【結論】
むしろウィキペディアが間違ってる感じだなこりゃ。
6月15日死亡の根拠が見つからん。どこかにあるなら教えてほしい。

元長は4日あたりにもう危篤の状態で、吉川の重臣が経言家督に向けて急速に動き出したんだろう。
5日に輝元の了解を取り付けるのと前後して元長が亡くなったようだ。
吉川家臣・寄騎の起請文の提出が素早いから、手回しが鮮やかだよね。
これだけ急いだってことは、吉川家中がいかに焦ってたかを感じさせる。
「御家ヤベエ!」って感じだったんだろうなぁ。

この文書群には黒官さんが登場しないけど、実際はどんな風に関わってたんだろうか。
まさか陰徳記をそのまま信用するわけにいかんからなぁ。
代わりに蜂須賀さんの名前が出てるのか。フムフム。
黒田-蜂須賀ルートが中国勢の豊臣政権への窓口なんだな。


どうでもいいけど秀長がすごい優しいよ! 惚れてまうやろ!
「経言とは知音になったんだよ」ってもう。
知音て、恋人って意味もあるから、最初「えっ」って思ったwww ここでは「友人」程度の意味かな。
疋田さんはちょっと「私が頑張ってるんですからね」アピールがきつくて萎えたので全文は訳してない。
2012-01-06

元長の死

酔っ払って途中までアップしたまま寝てしまったよ。
拍手くださった方、ありがとう、そして正直すまんかった。
追加分を併せて再掲しておきます。

さて島津本体は秀吉に降伏したわけですが。


吉川治部少輔元長逝去のこと

島津の家老で本郷の何某とかいう者が、何を思ったのか、
「島津がたとえ殿下の下知に従うとも、私は秀吉公の命に従うなどまったく思いもよらないことだ」
と言い出した。
「では本郷を討ち果たせ」と、高城表から竹永というところへ諸軍勢は陣を移した。

こうしたとき、吉川治部少輔元長は、「いささか風邪を引いたようだ」と言い出したが、
ひどく重篤になってしまい、自分は日向の都公直(とのこうり)まで帰り、
弟の蔵人頭経言を名代として差し出した。

こうして総軍勢が野尻に着き、本郷の城を攻め落とそうとするも、城との間には猿瀬川という川があった。
最近の五月雨に水かさが増して渡りようがなかったので、
諸軍勢は山に分け入り蔦を取ってきて大縄に打ち、吊橋をかける。
すると本郷はかなうまいと思ったのか、降伏してきた。
諸軍勢は、「この竜頭蛇尾の男が最初の威勢はどこへやら、
]こうもおめおめと降参するのであれば、はじめから異議を唱えるべきではない。
しようもないことを言って無駄に骨を折らせるものだ」とあざ笑って、皆帰陣した。

元長様は、いよいよ風邪が重篤になって、ついに同(天正十五年)六月五日に逝去した。
享年四十歳であった。
祖父の元就様・父の元春様の智勇にも劣らぬ良将だったので、
世の人々は皆恐怖したのみでなく、またその徳になびき従ったものだ。
父子がこうも続いて二年のうちに亡くなってしまうと、
毛利家の柱礎が砕けてしまったと、人は皆気を落として力を失ってしまった。

島津中務(家久)も同日に亡くなった。
この人もまた勇将だったが、元長と同年でもあり、同日に亡くなったのも不思議なものである。

元長様は近年、隠居をしたいと思い続けていたが、ついにその志を遂げずに亡くなってしまった。
父の元春様は以前、丹波の国人たちが味方についたときに、
愛宕山に馳せ上り都を攻め破って信長を安土に追い下し、将軍義昭公を再び都に入ようと考えていた。
それで出雲から丹波へ上ろうとしていたときに、宇喜多和泉守直家が陰謀を企てた。
宇喜多は隆景と元春を上月表へと呼び寄せ、にくい尼子勝久・山中鹿介を討たせてから、
両将をだまし討ちにして信長につこうと思いめぐらせていた。
直家が隆景に対して「上月表へ出張りしてください」としきりに申し入れてきたので、
隆景から元春へ、まず丹波の戦を終わらせてから上月表へ打ち出てくるように言ってきた。
それでその表へと上ってきた。

直家は、梶原が判官殿の討手に土佐房を向かわせたように、
「勝久・鹿介は私に恨みを抱く者たちだから、滅びてくれれば都合がいい。
もしまた羽柴筑前守が後詰をしてくださり、吉川・小早川が戦利を失えば、
追い討ちをかけて両将を討ち取り、信長に一味しよう。
どちらが勝ち、どちらが負けても、直家にとっては悪いことではない」と思案して、
ほらばかりを吹いていた。上月が落ちたあと、直家がたちまち黒沢山で逆意を企てると、
元春たちはその後丹波へと向かう道がふさがって思うようにならず、
美作・因幡の間で戦が起こって、結局は信長と最後の勝負ができずに予定が狂った。

その後、秀吉公と備中高松で対陣したとき、一旦は和睦したものの、
元春は人の風下に立って戦をするのは無念だと考えて、その年に元長様へ家を譲った。
去年九州へ出陣したのも本意ではなかったが、第一には毛利家のため、
二には秀吉公が「近年あちこちで対陣したときの戦物語もしたいので、ぜひ出陣してくれ」と
言葉を和らげ礼を尽くして言ってきたので、しようがなく出陣したのだった。
また、元長も父の元春と一胸襟だったので、
「いまさら人の下知を守って戦をするのも口惜しい」と、思っていた。

弟の経言様が幸いにも良将の器なので、家を譲り、
自身は俗世の塵を避けて深山幽谷に遊び心を澄ましていたいと考えていた。
しかしこのことをまだ言い出せないうちに九州の戦が始まり、望まぬ筑紫の戦に赴いたのだった。
戦に明け暮れ忙しくしているときでも、この志を遂げたいとばかり思っていた。
父の元春が逝去したあと、日向の大梓小梓を越えるときに、
病気療養のため石見に残っていた弟の左近将監元氏に送った歌にも
「梓弓引かれけるぞや心にも任せ果てなば墨染めの袖
(出家に心を惹かれるなぁ。死なずに帰れれば、そのときは……?)」とつづっている。
隠居の望みを遂げられず、むなしく軍旅に携わっている心のうちを吐露したものだという。

武勇が世人より優れているだけでなく、風月の才能に富んでいたので、
一生のうちにつづった和歌の中から、いい出来のものを自ら集めた巻物が三巻あった。
これは深く箱の中にしまわれて、ついに世に披露されなかったので、読むことはできない。
ある翁が語ったのだが、どんな主題だったのだろうか、
「皆人は渡り果てたる世の中に我が身ぞもとのままの継橋」をいう歌を詠んだという。

筆者はもとから歌のことは良し悪しの区別がつかないが、元長には常に隠居の望みがあったので、
「人は皆、世の中を渡り終えたら山林江湖に引きこもり、心を澄ますものなのに、
自分はまだその本望を遂げず、いたずらに世俗の塵埃を浴びている。情けないことだ」
と言いたかったのだろうか。

またこの人は孔孟の道を学び、孫呉の術を究めたばかりでなく、その教えを内外に徹し、
慶寿院の廓和尚という知者に会って曹洞宗の五位を授けられた。
西禅寺の西堂に参禅して臨済宗の四喝を悟了もした。
しかしとあることがあって、後に真言宗に帰依して、阿宇本不生、即身成仏の奥旨を究めた。
それをふまえてこの歌を読むと、
自分の身の至らなさを述懐し、底には阿宇の本身は三災壊却にも朽ちず、
金剛堅固の正体は、色身敗壊のときでも本来のままであるという意味もこもっているのかもしれない。

またあるとき関東から芸州へ秀誉という浄土宗の長老が下向してきて、説法をして勧誘をしていた。
その宗門の者たちが「この僧は坂東でも俊才博学の名を得たのだ」と言いふらしていた。
元長も仏学を好むので、この僧の説法を聞こうと思ったが、
この宗門の者たちはたいした僧でなくともありがたがって、あれこれと大げさに言うのが常だった。
元長は安達彦左衛門に向かって
「ちょっとお前が行って試してこい」と、何を問うのかを言い含めて遣わした。

安達はすぐにその僧のところに行って少し話をすると、
「仏心宗(禅宗?)では『本来無一物、いずれの処にか塵埃が有らん』と言って、
もし悪念が生じたときには吹毛の剣を想起して一刀で断ち切る。
真言宗では阿宇の一刀で生死を断ち切り、涅槃もまた切る。
浄土宗門では何をもって迷いを断ち切るのか」と尋ねた。
この僧は、「南無阿弥陀仏と十回唱えて全ての邪念悪心を払います」と答えた。

安達が帰ってこのことを報告すると、元長は
「浄土宗なのだから、十念で迷いを切るというのは、まあ当然のことだろう。十念はわかる。
けれども自分の宗門に向けてそう答えるのはいいかもしれないが、
他の宗派と比較して問われているのだから、『一念弥陀仏則滅無量罪なので』などと、
念仏一回で迷いを断ち切れると答えればいいのに。
あの宗派は行いやすく修しやすいのを第一としている。十回も唱えるのはこの旨にも相違している。
こんな間抜けな答えを返すのだから、この僧が才能豊かだと評判だというのは、実際は違うのだろう」
と言って、説法を聞くのはやめにした。

武勇が優れているだけでなく、仁徳までも人に越え、歌道にも仏学にも通じていた。
祖父元就様と露ほども違わない名将であったのにと、人々は涙を流して称嘆した。


以上、テキトー訳。
この続きはこちら

元長死んじゃった……あっけねえな。
島津家久も同日に亡くなったんだね。二人とも天文17年(1548年)生まれで同い年か。
なんか感染症でもはやってたのかな? 夏だからインフルエンザってわけでもないだろうし。
40歳の壮健な男が死ぬくらいだから、タチ悪い病気だったんだろうな。
そういえば輝元も実は春に小倉で病気してて、秀吉から曲直瀬道三(二代目)が派遣されてるね。
こっちは血便とかだから赤痢みたいなものだろうけど。
症状が軽減すると、完治を待たずに馬で出発したと「医学天正記」にあるから、
TERUもなかなか頑張り屋さんだね。

ていうか元長の命日ってウィキペディアだと6月15日なんよね。
まあ陰徳記に出てくる日付とか年齢とか間違いまくってるのはよくあることなんだけれども、
広家の記した覚書にも、6月5日となってる。
そのくせ6月5日には元長が生きてるのが前提の書状なども吉川家文書にある。
ちょっとこの件については別で考証したい。

あといきなり「元長は隠居したがってた」ってのが出てくるのはどういうわけなんだろう。
元春死後からずっと追ってきても、隠居したがってる風なんてまったくなかったじゃん。
ちゃんと伏線置いとけよ。死んでから「実は……」とか言われると疑いたくなっちゃうよ。

ようやく次兄の元氏の名前も出てきた。よかったねー!!! このままスルーされ続けるのかと思った!
石見にお留守番してたらしい。
このころはまだ「元棟」って名乗ってるはず。元氏。
元長自身も初名は「元資」なんだけど、ここの兄弟は皆名前変えてるんだよな。ちょっと面倒。
経言が「広家」になるのはこの年(天正15年)の9月くらいのはず。
輝元も「元」の字くれればいいのに、なんで「広」なんだろう。
ご先祖様の大江広元由来で、「元」より格上っぽい(上の字)からだろうか。
自分の名前から一字あげればいいのに、TERUめ。水くさいじゃない。
そもそも経言もなんで「元」つけてもらえなかったのか。どういうことなの、元長兄さん。

それにしても元長兄さんの仏教オタクっぷりがハンパないわ。
仲のいい坊さんへの手紙で「赤い九帖袈裟欲しい」みたいなこと書いてたからコスプレもするのかw
この坊さんと元長の交流もものすごく微笑ましいのでそのうち取り上げたい。

どうでもいいけど「本来無一物、いずれの処にか塵埃を惹かん」て言葉はけっこう好き。
人間なんて本来何も持っていないんだから、何もないところに塵や埃は積もらない。
自分が本来に立ち返れば心は清浄なままなんだよ、と解釈してる。合ってるかどうかはわからない。
2012-01-05

島津、陥落

昨日の続き。
って言っても、昨日の章は秀吉がおじいちゃんと話してるだけだったが。


島津和を請うこと

島津修理大夫(義久)は一族郎党を集め、「殿下秀吉はすでに川内川に着陣している。
こうなると数日中には薩摩の国へ攻め込んでくるだろう。
城に籠もっていてはなかなか勇気も擦り切れて果々しい防戦も難しいだろうから、
端城を守らせている軍兵を一手に集め、敵陣に逆に攻め込んで
十死一生の合戦をいたそうではないか」と持ちかけた。
しかし皆は「薩隅二国、そして日向を今までどおり保てるのであれば、
和睦をなさったほうがよろしいと思います」と口々に諫めるので、
修理大夫・兵庫頭(義弘)もこれに同意した。

こうして日向の高城口へは伊集院勘解由から使いを出し、
声高に「伊集院からの使者である。間違ったことをしてくれるな」と呼ばわった。
寄せ手から「あれを聞いて来い」と人を出すと、その使いは「陣中に参って申そう」と言う。
よって同道して大納言殿(羽柴秀長)の陣へ行くと、使者が話し始めた。
「薩摩・大隅並びに日向三郡を安堵していただければ、降伏をいたしましょう」と言うので、
このことを大納言殿に伝えた。

秀長卿はこれを聞き、「私だけで判断できることではない」と、
その使者に人を添えて、秀吉公のいる川内川の陣へと遣わした。
殿下秀吉公は、「薩摩へと攻め入って今津の一族を責め滅ぼすのは何よりも簡単だが、
そちらの望みに応じて和平を結べば、天下泰平のなる日も近くなる」と、和睦に応じた。

これで島津修理大夫は川内川の陣へと和睦の一礼として出て行った(天正十五年五月八日)が、
「もし秀吉が偽りの和睦を結んで私を殺したなら、家之子郎党は心を一つにして
恨みを奉ずる一戦を遂げるように」と言い置いて、
自身は肥後の国に赴いて秀吉公に謁見し、和睦の旨を伝えることを了承した。
「ありがたく思います」と謝辞を送られた。

日向口へは伊集院勘解由が一礼として赴き、大納言秀長卿へと太刀一腰・馬一頭を進上した。
そのほか輝元様・秀家様・吉川・小早川などの人々へも、馬一頭ずつを進上した。
これで秀吉公も五月下旬には川内川を引き払って、六月朔日(五月二十九日)に肥後の国の八ツ城へと入った。


以上、テキトー訳。

まあちょっと十万、二十万の軍勢は相手にしてられないよね、いくら薩摩隼人が強くても。
義久がかなりヤル気出しててすごいなぁ。
ていうか島津に関してまだ全然把握してないんだが。
BSRの義弘がけっこう好みかも、という印象。それだけか。
あと、たまに昼飯食いに行く薩摩料理屋はおいしいです。丸に十字の暖簾がかけてあってちょっとときめく。
島津も調べてくときっとすんごく面白いんだろうから、ちょっと今は手を出さないようにしよう。
愛しのひぃ様さえ把握しきれてないのにムリ><

ああもうホント引きこもりたいっていうか一日中趣味に浸りたい。
国会図書館に通いつめたり史跡に行ったりしたい。
何をするにも金はかかるわけで稼がなきゃ好きなこともできんわな。
まあ仕事も好きだし一丁今年もがんばりますか。

次回は元長死去の章。でも明日は深夜まで帰れないので更新できない可能性大。
2012-01-04

陣中での昔物語

新年からIME辞書ツールの破損回数が半端ないですよ。もうやだこの子。

まあ泣き言ばかり言ってないで久しぶりに陰徳記。
どこまで読んだっけ……確か九州征伐で秀吉出馬まで読んだか。
秀吉が薩摩まであと一歩の川内川に陣を敷いた、その続き。


秀吉公、老翁の物語を聞きたまうこと

秀吉公は川内川において「この国には昔の話ができる年老いた翁などはいるか」と言って、
すぐに国人たちに触れが出された。
やがて百三十六歳になる翁を訪ね当て、
「よいか、翁。関白秀吉公がお呼びになっている。急ぎ参れ」と言う。

この翁は「関白秀吉とやらはまったく鬼神のように恐ろしい人だと聞いているが、
その人がわしを呼び出すのは、この爺が長命だから生き胆を抜いて喰ってやろうということだろう。
こんな乱世に百年と三十年余り生き長らえ、こんなひどい目にあうとは恨めしい。
命が惜しいとは思わんが、命が長ければ恥も多いという昔の人の言葉がある。
わしも身をもって知ることになるのだなぁ。この世に例もない死を遂げるとはあまりにもひどい。
早苗大和守もわしと同じ歳だが、これも呼ばれていればいいなぁ」と言い出した。

近所の者から遠くの縁者まで、
「やれ、あの翁だぞ。関白殿は長命の者の生き胆は不老不死の薬だといって、
生きたまま胸を裂き、肝を取り出して喰うのだそうだ」と噂しあった。
では翁にお別れをしようとなって、名残惜しみの酒宴をしようと、濁り酒を持ち寄り皆が集まってきた。
翁の子供といっても九十歳以上になる。
孫は七十過ぎ、曾孫でも五十過ぎ、やしゃ孫・鶴の子などという者たちが四十人ほど集まって、
杯を交わして名残を惜しみ、舞を舞って一晩中呑み明かした。

翌日、翁は藤の皮を剥ぎ集めて織った衣に、葛かずらで編んだ頭巾をかぶり、
藜(あかざ)の曲がりくねった杖をつき、孫たちに手を引かれて、目を瞬かせながら出てきた。
関白は、その山賤の皺に覆われた顔つきやたいそう歳をとった姿をまずは物珍しそうに眺め、
「お前はどういう者だ」と問う。
すると翁は「私はこの里から歩いて半日ほど離れた奥山の土民でございます」と答える。
「歳はいくつになる」と尋ねると、
「もうあまりに長生きをしてきましたので、自分の歳など忘れてしまいました。
殿がお呼びになっているということなので、きっと年齢をお尋ねになるだろうと思い、
指折り数えてみましたが、はや百三十六歳になりました」と答える。

関白は、「なんと、不死の薬でも飲んだのか。どうしてそれほど長寿でいられるのだ」と尋ねた。
「いや、薬などというものは、耳で聞いたことならありますが、この目で見たこともございません。
ただ斧というやつを腰にさして、朝な夕なに山に入って薪を切り、背負って帰って、
秋の末から春の終わりまでは、昼夜を問わず背中を炙っております。
今は年老いて足も弱くしんどいので、孫や曾孫たちが木を切って与えてくれます。
その木を合わせて大髄から亀尾まで炙っては撫で、さすっては灸をすえておりまする。
このおかげで長生きできたのかと思います」と翁は言った。

関白はこれを聞いて、「ならばおまえの背を見せよ」と言うので、
翁は「よろしいですとも」と麻の衣を脱いで肌を見せた。
その背中は真っ黒で、実に「炭の翁」とでもいうような有様だった。
関白は、「さてさて、こんな奇妙な長寿の秘訣があるとは知らなんだ。
才知に長けているという唐の人でも、こんな長生き不死の方法を知りはすまい。
漢の武帝は不要の盃に朝露を受けて仙薬を張り、
秦の始皇帝は不死の薬を探させるために徐福を蓬莱島に遣わしたという。
それはどちらも求めがたく得がたい方法だ。これは求めやすくまた得やすいやり方だな。
山中にきこりを遣わし、ほたを切り取りさしくべて、五百八十年の長寿を得ようではないか。

古代の彭祖は秦の穆王から普門品の二句の偈を伝授されて、自分が七百歳まで年を重ねただけでなく、
この文を忘れないように菊の葉に書き記しておいたところ、
その露の滴った川の下流で水を汲んだ者は、老人ならたちまち若返り、
もとから若い者はそれから老いることはなかったと聞いている。
この爺様は少しの木片を焼いて背中を暖め、百三十歳の長寿を保っている。
わしはこの不死の術を学ぶことができたぞ。
島津退治の後は急ぎ上洛して、奏者を通して聖主(帝)のお年を千秋万歳まで保たせ申そう」と、
一方ならず喜んだ。

そして関白は「なあ翁よ、昔はこの国ではどんな戦があったのだ。
見たり聞いたりしたことがあれば詳しく聞かせてくれ」と言った。
翁はこれに答えて言った。
「そうですなぁ。この爺も長く生きておりますから、見たことでも語りましょうか。
昔、肥前の国の住人の小田龍造寺が五万騎を率いて、
筑後の国の宮の原というところで島津と合戦をしました。
島津はわずか一万騎ほどで対峙し戦ったのですが、
ついに島津が一戦に利を得て、敵を追い散らし八千ばかり討ち取ってしまいました。

翌年、また小田龍造寺は、前の年の会稽の恥を雪がんと、
数万騎を率いて佐敷ミナマタという大きな坂を越えて、薩摩の内の和泉郡へ攻め込みました。
ここに一騎打ちの大難所があり、三里ほどの道を越えかねて、しばらく陣を張っていたところ、
島津がその三里ほどの道の木を切り払い、岩を打ち砕いて、一条、二条の大路のように作り上げたのです。
小田龍造寺は『島津の奴らめ、去年勝ったのをいいことに、私を侮って、打ち出て一戦しようとの魂胆だな。
小勢の島津に攻め寄られては武勇がないに等しい。こちらから仕掛けて一戦してやろう』と、
三里の道を押し進んでいきました。

ところが島津は城に籠もってしまって、まったく出て戦おうとしません。
ただ日数ばかりが過ぎていく隙を突いて、島津は山伝いに人を出し、
道の左右に生い茂った松柏を切り倒して横倒しにしました。
肥前勢はたちまち馬の通る道をふさがれ、結局また負けて、大勢討ち取られて退却しました。

今回も薩摩勢はどうにかして一計を案じ、万死一生の戦を遂げるでしょう。
薩隅の者たちは生まれつき、農夫の老人から漁師の翁にいたるまで、
死などというものはとても簡単なことと思っています。
よその国は一国幾郡石高何万石と計算して、一万石に何百人というように兵の多少を推し量るのでしょうが、
薩隅の両国は、確かに武士に関してはよその国とそう変わらないでしょう。
けれども土民や漁師まで皆天性勇ましく生まれついているので、
お国の大事ともなれば、鉄砲や槍、長刀の武具をそれぞれ携えて、
家一軒につき数人出てくることはあっても、一人も出ないということはありません。
薩隅二国の農夫・漁師の家は数万軒もありましょうから、
兵に関してはよその国とは違って随分たくさんになりましょう。
絶対に侮ったりなさいますな」
翁はいかにも九州風に鄙びた様子でなまった言葉つきのまま語った。

秀吉公はつくづくと聞いて、
「相撲でさえ自分と同じ地方の力士を贔屓する習いなのだから、
ましてや同じ九州の中だからこそ、そうしてわざと恐ろしげに言うのだろう。
この秀吉が眼を見開いて一睨みしただけでも、十万や二十万の敵軍は敗北する。
ことさら今はこのわしが数万の軍兵を率いて出馬しているのだ。
震旦・月支国が一つになって攻めてきたとしても何を恐怖することがあるものか。
薩隅の兵どもも同じだ。秀吉と聞いた途端に戦慄して、生きた心地がしないだろうよ」と言う。

御前に控えた者たちが、「仰せになるまでもありません。
秀吉公のご出馬と聞けば、薩隅の者たちは国の中に一日も長くいられないでしょう。
きっと琉球あたりへ船に掉さして逃げていくことでしょうな」と言うと、秀吉公は大きくうなずいた。

さて、「この翁に酒を呑ませてやれ」と秀吉公が言うと、「承りました」と銚子と土器が運ばれた。
秀吉公が「さあ翁、やってくれ」と言うので、老翁は酒をタプタプと受けて三度傾ける。
秀吉公、「わしも翁の長寿にあやかってその銚子を呑もう」と土器を取り上げると
「なあ翁、おまえの銚子を呑めばその長寿にわしも預かれる。
さあ、秀吉の加齢延年を祝して、何か謡をやってくれ。
きこり歌や牧笛あたりならおまえも謡えるだろう」と言った。

翁はただかしこまっていたが、少し頭をもたげて、
「老人をさえ養えば、まして盛りの人の身に、薬となりてはいつまでも、
御寿命は尽きまじき泉ぞめでたかりける」と口ずさみ、声を震わせて謡った。
秀吉公は大いに感じ入って、金銭一貫を与えたので、翁は大喜びして帰っていった。

その後、秀吉公は和泉郡へ内々に人を見に行かせると、老翁の言ったとおり、
島津が山道に三里ほど道を作って待ちかけていた。
さすがの秀吉公も先人の轍を避けようとして、島津が和平を申し入れてきたときにはすぐに了承したのだと、
世を挙げて噂しあった。
けれども秀吉公はこの老翁の物語のせいで和平に応じたのではないだろう。
完全に勝ってしまうのは危亡のもとだと慎んだからであろう。


以上、テキトー訳。

じいちゃん、いくらなんでも百三十歳はないわ~。
そして生き胆を抜かれて食われるとか、どうしてそういう発想がすんなり出てくるのかと問いたい。
近所の人たちも親戚連中もすんなりその説で納得してるしどういうことなのw
この時代の「恐ろしい人」ってのはそんなことするのか?
そういえば陶さんの回でも「子供をとって食う」みたいな怖がられ方してた気がする。
そんな鬼とか熊みたいな扱いでOKなの???

今回も秀吉の傲慢さが強調されててなんかうれしかった。
うれしかった……だと? まあうれしかったな。
なんだろう、秀吉がだんだん好きになってくるこの気持ちは、何?
一睨みで十万単位を一ひねりにできるとか、もうホントさすがラスボス^^

次も続きを読む。
2012-01-03

広家の甘え考

昨日の輝元の書状に対する広家の返書、の案文。
下書きしてから清書するんだね。
ていうかこのときはそれぞれどこにいたんだろう???
そのうち時系列をまとめないと頭がこんがらがるわ。

●吉川広家自筆書状案 宛先:輝元 時期:慶長2年6月

   ご推察のように、隆景様のご他界については世間に知れ渡っています。
   あちこちからお聞きになっている通り、仕方がないことだと思います。
   さてさて、どれほど長生きしてほしかったといってもきりがないのですが、
   あと五、六年ほどはご壮健であってほしかった。
   これからはとにかくあなた様のことです。
   心中お察しいたします。恐れながら私も同じ気持ちです。

 一、元清の病気については、確かにあなた様のおっしゃるとおりなのでしょう。
   もしかして何か手を打てば持ちこたえてくれるかもしれないと思って、
   以前夜に訪ねてみたのですが、もうまったく手の打ちようがない様子でした。
   ご外聞も実に口惜しいことです。
   ご養生、ご配慮のこと、口さがなく申し上げることも、これからはなくなるのですね。

 一、沼田、隆景様の職の後継について、上意をお伺いになってお決めになるのはもっともです。
   きっと別儀もないでしょうし、上様もご憐憫の裁定を下されると思います。

 一、私のご奉公、身上のこと、お気にかけてくださり、本当にかたじけないと申し上げるのも
   かえってよそよそしいですね。
   さきほど渡飛(渡辺長)・佐石(佐世元嘉)・二信(二宮就辰)へ申したように、
   私は不調法なうえ病気がちなので、特にお知らせしないこともありましたが、
   ご心配には及びません。できる限り養生を心がけて、
   御手足の苦労を御意のままご奉公しなくてはと、内々に考えております。
   私の養生のことまで、今朝もお尋ねくださって、ありがたく思います。
   御意を守って、絶対に気をつけるようにします。

 一、世情のこと、人々の口に上る話題など、耳にしたことは御意のとおりすべて申し上げます。
   このことは必ず心がけるようにします。
   あなた様のためになると思えば、遠慮容赦はいたしません。
   もちろん、ほんのちょっとしたことでも、思ったことは差し出がましく申し上げます。
   私の言うことに正義がなければ、あなた様の胸中に捨て置いてください。

 一、いつも申し上げているように、私は一向に人のことを考えないで育ってきました。
   元春もまったく私にかまわないで置いておいたので、助言をくれる人もいません。
   隆景様がこんなことになってしまったからには、主君としてはもちろんのこと、
   あなた様お一人を親のようにも頼りたく思います。
   物事をわきまえた者であっても間違えることはあるといいます。
   万事ご指南をくださいますよう、ぜひともぜひとも、お願いいたします。

 一、事によりますが、申し上げたりするのには誰を通せばいいでしょうか。
   これを指示していただければ、その人にも御意を通して相談しておきます。

   それではまた。恐惶謹言


以上、テキトー訳。

広家かわいいよ広家。
隆景のことは「様」つけて呼ぶんだね。どんだけ隆景の存在が大きかったかわかる。
あと五、六年隆景が生きていればどうなったかなぁ。
まあ隆景に限らず、元就の時代を知ってる老臣はこの時期にどんどん死んでいくよね。
熊谷のジーチャンだって文禄2年に亡くなってるしな。寂しいし心細い。

しかし広家、「元春がまったくかまわずにいたから、助言をくれる人がいない」てのは、
ちょっとソコ座れと言いたくなるな。
長文の手紙(説教)を山ほどもらっといて「かまってくれなかった」とは何事か。
親の心子知らずって草葉の陰でトーチャンが泣いてらぁ。
助言をくれる人だっていっぱいいるんじゃないかな。
熊谷のカーチャンとか元氏ニーチャンは蚊帳の外ですかまったく。
それこそ頼れる家臣もいっぱいいるわけだし。毛利直臣や寄騎にも仲いいのがいるでしょ。
あと如水さんとかngmsとか市松とか鎮西無双はどうした。ああ、安国寺はいいや(ヒドイ)。

広家の身近な人への書状を読むにつけ、この人は実はすごく甘えん坊なんじゃないかと思うようになった。
父親にものすごく反発するのも甘えだよね。
その父親への不満や育ちのことを「いつも申し上げ」てるのか。言い訳や愚痴が言えるのも甘え。
自分の病気のことを息子にあれこれ語ってみたりってのも一種の甘えかな。
末っ子(厳密には違うけど弟は夭逝してるから実質末っ子、女子は除外)だから甘え上手なんだろうな。
兄貴たちとも歳が離れてるし、きっと家族総出で可愛がられたんじゃないかと思う。
輝元にしても8つ年上なんだから甘えが出るよね。
甘えがいけないって言うつもりはなくて、逆にものすごく大好物なんだけれども。
家族にしろ他人にしろ、人に素直に甘えられるって幸せだと思う。
隆元や元長は、長男のサガなのか、甘えられずにいい子ちゃんで生きてきて苦悩してるっぽいしな。

で、この甘えっ子が何か問題起こすたびに輝元が世話を焼くパターンがある。
まだ経言と名乗ってた広家がグレていたころ、勝手に他家に養子入りしそうだったのを止めたのは輝元。
広家と元康(元就八男)が仲違いしたときも輝元が仲裁したし
広家が伏見で浅野長政と喧嘩に及んだときも輝元が出張った。
広家と秀元の家中の仲が険悪になったときだって、輝元が頑張って収めた。
なんだ、輝元ってなかなかやるじゃん。
このほか秀元と益田元祥の家臣同士がよりによって関ヶ原の行軍中に喧嘩騒ぎになったときも、
輝元と広家が協力して仲裁してたはず、だったと思う。
そのあたりの書状もそのうちちゃんと読みたいな。
2012-01-02

輝元「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ!」

あけましておめでとうございます。
元旦は少々酒を過ごしてノビておりましたw
ああ、今年も酒にたゆたう一年になりそうだ。自重しなきゃ。

さて、新年一発目は、隆景が亡くなって、輝元が広家に書いた手紙。
輝元と広家、このコンビ大好きなんだよ。
お互いがすごく大事で、支え合っていこうって姿勢が書状とかから垣間見えるんだ。
誤解かもしれないけどね。

●毛利輝元自筆書状 宛先:広家 日付:慶長2年6月24日

   隆景のことは、もうずいぶん御老体になっていたから、
   内々こういうことがあるんじゃないかとは思っていたけれど、
   あまりに急なことで本当に驚いたよ。
   過去のことは言う必要もない。世間のさげすみがなんとも口惜しい。
   ぜひともこれからは、おまえが筆頭の重鎮になるわけだから、
   どうか忌憚なく、内外のことについて思ったことは何でも言ってほしい。
   力を合わせてこの難局を乗り切っていこうね。
   そうすれば、世の人々も推測していたのとはどうも違うらしいと思うだろうし、
   存外に御家が長く続くこともあるだろう。
   気弱になっているだけじゃ駄目だ。
   ここで頑張るのをやめたら、中国はおしまいだよ。
   うまく事を運ぶように力を尽くしていこうね。この覚悟が大事だと思う。

 一、(穂田)元清も、もうこの様子では長くないだろう。
   考えるまでもない。ちゃんと養生しなかったからだ。
   さっき言ったように、病をせずに一分をなすことは、国家のためでもある。
   このことをしっかりわきまえておくれ。

 一、何でも思い当たることがあれば聞かせてほしい。
   もうおまえと私の二人であれこれと心遣いしていかなくてはならないから、
   時々の義理立ては何もかもいらない(?)。
   「外実の調え」「早い遅い」の二つに極まった。

 一、沼田(小早川)の家などのこと、上様(秀吉)にお伺いを立てて、
   陣については家中の者が一人も散らないようにとのことだ。上意を守るまでだ。
   大体の仰せについて、私的に内談したいので、帰国して国分けについて相談しよう。
   それで気づいたことや思ったことを聞かせてほしい。
   これが無事に済めば、御家も長久となるだろう。
   ではまた。恐々謹言

   (慶長二年)六月二十四日      輝元

   くれぐれも、世間のことは言うに及ばず、中国の取り沙汰、そのほか耳にしたことは、
   どうか万事よろしく頼みたい。
   何事であっても、私が気にしてはいけないなどと変に気を遣わないでくれ。絶対にだ。
   すぐに見当をつけて忘れないようにする。
   世間の話題を聞かなくてはうまくやりようがないからね。
   どうかどうか、わかっておくれ。


以上、テキトー訳。

うまく訳せない自分に本当に腹が立つ!

隆景が亡くなったのが慶長2年6月12日で、その12日後の手紙だね。
朝鮮出兵中だけど、輝元は病気で国許にいて、秀元が名代で行ってたんだよな、確か。
広家は絶賛出兵中。バリバリ普請とか首狩とかしてたはず。
まだ全然ちゃんと把握できてないな(汗)。

もう輝元が本当に健気だ! ダメダメのボンボンでもかまうもんか! 大好きだ!!!
頼みにしてた美貌の叔父様を亡くして、それでも心を強く持って頑張ろうとしてる。
その決意表明なんだよね。
だから広家、どうか助けてね。耳に痛いことでも遠慮容赦なく言ってくれ。
これから二人で踏ん張ってかなきゃ。

まだ幼いときに父と別れ、親とも兄弟とも頼んだ元春も死んでしまって、
今度はドSだけどマジ頼りになる隆景までも失って。
そういえば輝元が元春に「親とも兄弟とも~」って手紙を書いてるんだけど、あれもなかなかに切なかった。
「兄弟一人いなくて、ものすごく心細い。大海に放り出された小舟のような気持ちだ」みたいな。
元服したてのころの書状だったはず。これも近いうちに取り上げるか。
なんにしろ、隆景を失ったときも同じ気持ちだったんだろうな。そりゃ心細いよな。

8つ年下の広家は、若いときはイロイロ面倒を起こす問題児だったけど、
豊臣政権ではうまいことやってるし、ガツンと頼りにすればいいと思うよ!
大海の小舟でも、寄り添って励ましあえばどうにか生きていけると思うよ!!!

まあそんなわけで、今年もぼつぼつとくだらない妄言を吐いていく所存です。
うっかり当ブログを見てしまった方、気になることやツッコミ等ございましたら
コメントを残していっていただけると大変幸せです。

ともあれ、本年が皆様にとって良い年になりますように。
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