FC2ブログ
2012-01-06

元長の死

酔っ払って途中までアップしたまま寝てしまったよ。
拍手くださった方、ありがとう、そして正直すまんかった。
追加分を併せて再掲しておきます。

さて島津本体は秀吉に降伏したわけですが。


吉川治部少輔元長逝去のこと

島津の家老で本郷の何某とかいう者が、何を思ったのか、
「島津がたとえ殿下の下知に従うとも、私は秀吉公の命に従うなどまったく思いもよらないことだ」
と言い出した。
「では本郷を討ち果たせ」と、高城表から竹永というところへ諸軍勢は陣を移した。

こうしたとき、吉川治部少輔元長は、「いささか風邪を引いたようだ」と言い出したが、
ひどく重篤になってしまい、自分は日向の都公直(とのこうり)まで帰り、
弟の蔵人頭経言を名代として差し出した。

こうして総軍勢が野尻に着き、本郷の城を攻め落とそうとするも、城との間には猿瀬川という川があった。
最近の五月雨に水かさが増して渡りようがなかったので、
諸軍勢は山に分け入り蔦を取ってきて大縄に打ち、吊橋をかける。
すると本郷はかなうまいと思ったのか、降伏してきた。
諸軍勢は、「この竜頭蛇尾の男が最初の威勢はどこへやら、
]こうもおめおめと降参するのであれば、はじめから異議を唱えるべきではない。
しようもないことを言って無駄に骨を折らせるものだ」とあざ笑って、皆帰陣した。

元長様は、いよいよ風邪が重篤になって、ついに同(天正十五年)六月五日に逝去した。
享年四十歳であった。
祖父の元就様・父の元春様の智勇にも劣らぬ良将だったので、
世の人々は皆恐怖したのみでなく、またその徳になびき従ったものだ。
父子がこうも続いて二年のうちに亡くなってしまうと、
毛利家の柱礎が砕けてしまったと、人は皆気を落として力を失ってしまった。

島津中務(家久)も同日に亡くなった。
この人もまた勇将だったが、元長と同年でもあり、同日に亡くなったのも不思議なものである。

元長様は近年、隠居をしたいと思い続けていたが、ついにその志を遂げずに亡くなってしまった。
父の元春様は以前、丹波の国人たちが味方についたときに、
愛宕山に馳せ上り都を攻め破って信長を安土に追い下し、将軍義昭公を再び都に入ようと考えていた。
それで出雲から丹波へ上ろうとしていたときに、宇喜多和泉守直家が陰謀を企てた。
宇喜多は隆景と元春を上月表へと呼び寄せ、にくい尼子勝久・山中鹿介を討たせてから、
両将をだまし討ちにして信長につこうと思いめぐらせていた。
直家が隆景に対して「上月表へ出張りしてください」としきりに申し入れてきたので、
隆景から元春へ、まず丹波の戦を終わらせてから上月表へ打ち出てくるように言ってきた。
それでその表へと上ってきた。

直家は、梶原が判官殿の討手に土佐房を向かわせたように、
「勝久・鹿介は私に恨みを抱く者たちだから、滅びてくれれば都合がいい。
もしまた羽柴筑前守が後詰をしてくださり、吉川・小早川が戦利を失えば、
追い討ちをかけて両将を討ち取り、信長に一味しよう。
どちらが勝ち、どちらが負けても、直家にとっては悪いことではない」と思案して、
ほらばかりを吹いていた。上月が落ちたあと、直家がたちまち黒沢山で逆意を企てると、
元春たちはその後丹波へと向かう道がふさがって思うようにならず、
美作・因幡の間で戦が起こって、結局は信長と最後の勝負ができずに予定が狂った。

その後、秀吉公と備中高松で対陣したとき、一旦は和睦したものの、
元春は人の風下に立って戦をするのは無念だと考えて、その年に元長様へ家を譲った。
去年九州へ出陣したのも本意ではなかったが、第一には毛利家のため、
二には秀吉公が「近年あちこちで対陣したときの戦物語もしたいので、ぜひ出陣してくれ」と
言葉を和らげ礼を尽くして言ってきたので、しようがなく出陣したのだった。
また、元長も父の元春と一胸襟だったので、
「いまさら人の下知を守って戦をするのも口惜しい」と、思っていた。

弟の経言様が幸いにも良将の器なので、家を譲り、
自身は俗世の塵を避けて深山幽谷に遊び心を澄ましていたいと考えていた。
しかしこのことをまだ言い出せないうちに九州の戦が始まり、望まぬ筑紫の戦に赴いたのだった。
戦に明け暮れ忙しくしているときでも、この志を遂げたいとばかり思っていた。
父の元春が逝去したあと、日向の大梓小梓を越えるときに、
病気療養のため石見に残っていた弟の左近将監元氏に送った歌にも
「梓弓引かれけるぞや心にも任せ果てなば墨染めの袖
(出家に心を惹かれるなぁ。死なずに帰れれば、そのときは……?)」とつづっている。
隠居の望みを遂げられず、むなしく軍旅に携わっている心のうちを吐露したものだという。

武勇が世人より優れているだけでなく、風月の才能に富んでいたので、
一生のうちにつづった和歌の中から、いい出来のものを自ら集めた巻物が三巻あった。
これは深く箱の中にしまわれて、ついに世に披露されなかったので、読むことはできない。
ある翁が語ったのだが、どんな主題だったのだろうか、
「皆人は渡り果てたる世の中に我が身ぞもとのままの継橋」をいう歌を詠んだという。

筆者はもとから歌のことは良し悪しの区別がつかないが、元長には常に隠居の望みがあったので、
「人は皆、世の中を渡り終えたら山林江湖に引きこもり、心を澄ますものなのに、
自分はまだその本望を遂げず、いたずらに世俗の塵埃を浴びている。情けないことだ」
と言いたかったのだろうか。

またこの人は孔孟の道を学び、孫呉の術を究めたばかりでなく、その教えを内外に徹し、
慶寿院の廓和尚という知者に会って曹洞宗の五位を授けられた。
西禅寺の西堂に参禅して臨済宗の四喝を悟了もした。
しかしとあることがあって、後に真言宗に帰依して、阿宇本不生、即身成仏の奥旨を究めた。
それをふまえてこの歌を読むと、
自分の身の至らなさを述懐し、底には阿宇の本身は三災壊却にも朽ちず、
金剛堅固の正体は、色身敗壊のときでも本来のままであるという意味もこもっているのかもしれない。

またあるとき関東から芸州へ秀誉という浄土宗の長老が下向してきて、説法をして勧誘をしていた。
その宗門の者たちが「この僧は坂東でも俊才博学の名を得たのだ」と言いふらしていた。
元長も仏学を好むので、この僧の説法を聞こうと思ったが、
この宗門の者たちはたいした僧でなくともありがたがって、あれこれと大げさに言うのが常だった。
元長は安達彦左衛門に向かって
「ちょっとお前が行って試してこい」と、何を問うのかを言い含めて遣わした。

安達はすぐにその僧のところに行って少し話をすると、
「仏心宗(禅宗?)では『本来無一物、いずれの処にか塵埃が有らん』と言って、
もし悪念が生じたときには吹毛の剣を想起して一刀で断ち切る。
真言宗では阿宇の一刀で生死を断ち切り、涅槃もまた切る。
浄土宗門では何をもって迷いを断ち切るのか」と尋ねた。
この僧は、「南無阿弥陀仏と十回唱えて全ての邪念悪心を払います」と答えた。

安達が帰ってこのことを報告すると、元長は
「浄土宗なのだから、十念で迷いを切るというのは、まあ当然のことだろう。十念はわかる。
けれども自分の宗門に向けてそう答えるのはいいかもしれないが、
他の宗派と比較して問われているのだから、『一念弥陀仏則滅無量罪なので』などと、
念仏一回で迷いを断ち切れると答えればいいのに。
あの宗派は行いやすく修しやすいのを第一としている。十回も唱えるのはこの旨にも相違している。
こんな間抜けな答えを返すのだから、この僧が才能豊かだと評判だというのは、実際は違うのだろう」
と言って、説法を聞くのはやめにした。

武勇が優れているだけでなく、仁徳までも人に越え、歌道にも仏学にも通じていた。
祖父元就様と露ほども違わない名将であったのにと、人々は涙を流して称嘆した。


以上、テキトー訳。
この続きはこちら

元長死んじゃった……あっけねえな。
島津家久も同日に亡くなったんだね。二人とも天文17年(1548年)生まれで同い年か。
なんか感染症でもはやってたのかな? 夏だからインフルエンザってわけでもないだろうし。
40歳の壮健な男が死ぬくらいだから、タチ悪い病気だったんだろうな。
そういえば輝元も実は春に小倉で病気してて、秀吉から曲直瀬道三(二代目)が派遣されてるね。
こっちは血便とかだから赤痢みたいなものだろうけど。
症状が軽減すると、完治を待たずに馬で出発したと「医学天正記」にあるから、
TERUもなかなか頑張り屋さんだね。

ていうか元長の命日ってウィキペディアだと6月15日なんよね。
まあ陰徳記に出てくる日付とか年齢とか間違いまくってるのはよくあることなんだけれども、
広家の記した覚書にも、6月5日となってる。
そのくせ6月5日には元長が生きてるのが前提の書状なども吉川家文書にある。
ちょっとこの件については別で考証したい。

あといきなり「元長は隠居したがってた」ってのが出てくるのはどういうわけなんだろう。
元春死後からずっと追ってきても、隠居したがってる風なんてまったくなかったじゃん。
ちゃんと伏線置いとけよ。死んでから「実は……」とか言われると疑いたくなっちゃうよ。

ようやく次兄の元氏の名前も出てきた。よかったねー!!! このままスルーされ続けるのかと思った!
石見にお留守番してたらしい。
このころはまだ「元棟」って名乗ってるはず。元氏。
元長自身も初名は「元資」なんだけど、ここの兄弟は皆名前変えてるんだよな。ちょっと面倒。
経言が「広家」になるのはこの年(天正15年)の9月くらいのはず。
輝元も「元」の字くれればいいのに、なんで「広」なんだろう。
ご先祖様の大江広元由来で、「元」より格上っぽい(上の字)からだろうか。
自分の名前から一字あげればいいのに、TERUめ。水くさいじゃない。
そもそも経言もなんで「元」つけてもらえなかったのか。どういうことなの、元長兄さん。

それにしても元長兄さんの仏教オタクっぷりがハンパないわ。
仲のいい坊さんへの手紙で「赤い九帖袈裟欲しい」みたいなこと書いてたからコスプレもするのかw
この坊さんと元長の交流もものすごく微笑ましいのでそのうち取り上げたい。

どうでもいいけど「本来無一物、いずれの処にか塵埃を惹かん」て言葉はけっこう好き。
人間なんて本来何も持っていないんだから、何もないところに塵や埃は積もらない。
自分が本来に立ち返れば心は清浄なままなんだよ、と解釈してる。合ってるかどうかはわからない。
スポンサーサイト



検索フォーム
カレンダー
12 | 2012/01 | 02
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
訪問者数