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2012-01-07

元長の命日って

ウィキペディアによると6月15日、
陰徳記と広家の覚書によると6月5日なんだけど。
まあぶっちゃけ、陰徳記の日付とかはあんまり信用できない。間違ってることが多い。
けど、曲がりなりにも吉川当主の命日なんだから、後になっても法要とかやるはずで、
これを間違えるってのはいくら陰徳記でもありえないんではないかと思ってしまう。
広家も、自分が家を相続することになった重要な日を間違えるもんだろうか???
そこで吉川家文書の書状群ですよ。

【吉川家文書に見る天正15年6月5日の様子】

・天正15年6月5日付 輝元書状
 輝元→経言「元長が病気なので、家督をおまえに譲る件について、了解した。詳しくは隆景から伝える」
         (吉川家文書 677)
 輝元→元長「今回の病気で、以前から考えていた通り、家督を経言に譲るという件について、
         私に異議はないので安心してほしい。家中の定めをしっかりすること。
         なお隆景から伝える」(吉川家文書 678)
 輝元→隆景「元長の所存について井上春忠が知らせてきたが、異議がなければ
         早々に許可状を調えてほしいと言ってきた。
         すぐにこれを認め、任承の旨を、今田玄蕃を使いとして送ってある。
         元長存命のうちに知らせてやりたいとのことなので、差し急ぎそうした」
         (吉川家文書 679)
 ※この時点で輝元は「元長は死にそうではあるが生きている」と認識している

・天正15年6月5日付 吉川家臣・寄騎の起請文
 益田元祥ほか14名→元長・経言(吉川家文書 202)
 宍道政慶→今田経忠・今田春政(吉川家文書 680)
 ※経言の家督を認め忠節を尽くすという内容、元長は病気だがまだ生きているという認識

【吉川家文書に見る天正15年6月6日の様子】

・天正15年6月6日付 吉川家臣・寄騎の起請文
 宍道政慶→経言(吉川家文書 681)
 富永保英→経言(吉川家文書 682)
 宮庄春眞ほか18名→今田春政・相賀木工助(吉川家文書 683)
 ※経言の家督を認め忠節を尽くすという内容、元長の生死は不明

【吉川家文書に見る豊臣秀長の反応】

・天正15年6月4日付 豊臣秀長→経言(吉川家文書 865)
 「こっちの見回りについてはこれ以上お気遣いはいらないよ。
  元長が病気で奉公できないのは仕方ないことだからかまわない。
  まだ若いんだから養生が肝要だ。早々に都郡(とのこおり)に行って養生に専念してくれ。
  都郡では元長の宿所がなくて難儀していると疋田就長(秀長家臣)から聞いた。
  寺であろうと民家であろうと、好きなところに押し入っていいよ。この文書で保証する。
  どこであろうと宿所に陣取って、養生すること。
  この書状をもって、おまえもそっちに行って宿所を申しつけ、元長を看病しなさい。
  ちょうど林土佐守(就長、毛利家臣)が来たので輝元にも養生のことを伝えるよう言っておいたよ」

・天正15年6月4日付 疋田就長(秀長家臣)→経言(吉川家文書 874)
 「書状ありがとうございます。元長公の病気について、ただ今取り成しをしておりますのでご安心を。
  秀長卿は早々においでになって看病に専念するべきだと思し召しです。その書状を調えられています。
  都郡の陣屋のことまで気をまわしてくださいました。私が申し上げたんですけどね。
  たとえご兄弟衆であっても、このことは内緒にしておいてください。
  こちらの取り成しに手落ちはないのでご安心ください。こちらのことは私に任せて、看病してくださいね。
  秀長卿も細々と文書に指示されています。
  林土(林就長)もいらしたので、林土にもこのことをお伝えになられました」   

・天正15年6月6日付 豊臣秀長→経言(吉川家文書 866)
 「元長の病気がよくならないようだね。さぞ心細いだろうね。
  そちらから連絡がないので、昨日も使者を遣わしたけど、まあ油断なく養生することだ。
  こちらにできることがあれば遠慮なく言ってくれ。あとは疋田から伝えさせる」

・天正15年6月6日付 疋田就長→経言(吉川家文書 875)
 「お伝えくださった旨はすべて秀長卿に伝えました。
  元長公の病状についてよくよく申し上げました。早くよくなってほしいと願っていらっしゃいます。
  お見舞いをしたいと思し召しですが、まずは昨日、使者を送られました。
  私は秀長卿の午前であなた様の話をして取り成しをしております」

・天正15年6月7日付 豊臣秀長→蜂須賀家政(吉川家文書 867)
 「書状を見た。ちゃんと連絡をしてくれなきゃ。長雨のせいで下々は迷惑するよね。
  島津中務(家久)が不慮に亡くなったこと、是非もない。
  又七(豊久)に心付をやったのはいいことだ。
  次に元長のことだが、これまで患っていたとはいっても、こうも急に死んでしまうとは思わなかった。
  元長は親父(元春)以来、関白殿に協力してくれていたから、
  私も蔵人(経言)に対して少しも手抜かりはない。
  とりわけ蔵(経言)のことは、このごろ細々と訪ねてきてくれたから、すっかり仲良くなった。
  おまえも仲良くするように。
  輝元と隆景の心中を察しているよ。あとは九兵衛(疋田就長)から伝えさせる」

・天正15年6月8日付 疋田就長→経言(吉川家文書 876)
 「それにしても元長公のことは是非もないことです。中納言殿(秀長)も大変残念に思っています。
  ご身上のことについては、昨日蜂須賀家政から私に連絡がありました。
  必ず取り成しをいたします。ご安心ください」

※6月6日~7日くらいに元長死去の報が秀長に届いている様子

【結論】
むしろウィキペディアが間違ってる感じだなこりゃ。
6月15日死亡の根拠が見つからん。どこかにあるなら教えてほしい。

元長は4日あたりにもう危篤の状態で、吉川の重臣が経言家督に向けて急速に動き出したんだろう。
5日に輝元の了解を取り付けるのと前後して元長が亡くなったようだ。
吉川家臣・寄騎の起請文の提出が素早いから、手回しが鮮やかだよね。
これだけ急いだってことは、吉川家中がいかに焦ってたかを感じさせる。
「御家ヤベエ!」って感じだったんだろうなぁ。

この文書群には黒官さんが登場しないけど、実際はどんな風に関わってたんだろうか。
まさか陰徳記をそのまま信用するわけにいかんからなぁ。
代わりに蜂須賀さんの名前が出てるのか。フムフム。
黒田-蜂須賀ルートが中国勢の豊臣政権への窓口なんだな。


どうでもいいけど秀長がすごい優しいよ! 惚れてまうやろ!
「経言とは知音になったんだよ」ってもう。
知音て、恋人って意味もあるから、最初「えっ」って思ったwww ここでは「友人」程度の意味かな。
疋田さんはちょっと「私が頑張ってるんですからね」アピールがきつくて萎えたので全文は訳してない。
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