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2012-01-18

景様ドS語り

昨日の続きのはずなんですけどね。なんか雰囲気がガラリと……
背景としては秀吉の小田原征伐でほぼ端城を制圧した後の話だと思うよ。


小田原の城没落のこと(上)

秀吉勢が小田原の城を取り囲む有様は、まるで稲・麻・竹・葦のようであった。
海上に関しては毛利勢が数千艘の船に乗って警護を固めている。
東の口から海辺までは家康卿、北の方は尾張の内大臣(織田)信雄公、この山続きには秀次公、
その次の尾頭は宇喜多中納言秀家卿、西口は北国衆が海辺まで陣を引いていた。

関白秀吉公は西の方の山に陣を張った。
この山に左は小田原へと続く川があり、右には海、前は小田原である。
本陣は石垣を丈夫に構え、二・三の来輪まで溝で囲い、馬攻場まで山上に構えて、
何年でも在陣できるようにしてあった。これは敵を退屈させようとの策だった。

同五月二十日、秀吉公の命令で、羽柴侍従広家様が小田原へと下っていくと、
小早川宰相隆景卿も、清洲から小田原へと下ってきていた。
秀吉公は二人を御前に呼び出し、「はるばるこの地までの下向、ご苦労であった」とねぎらった。
「ここからどうやったら小田原の城を早々に落とせるだろうか。二人の所存を一つ残らず申してみよ。
中でも隆景は、元就が尼子を七年がかりで攻め落としたときの智計謀略を知っているだろう。
そこのところも申してみよ」と秀吉が告げた。

隆景は口を開いた。
「この城に関しては、秀吉公が出馬されたのですから、遠からず落ちますとも。
しかし思い当たることもございますので申し上げましょう。
また愚父の元就が尼子を攻め落としたときの様子も、ご希望通りお話いたしましょう。
広家はその時分には四、五歳でしたから、伝え聞いた知識しかないので、
御前で申し上げるのは憚りがあるかと思います。私が申し上げましょう。

まず、尼子は曽祖父の伊予守経久から義久まで四代の間、
十国から八国の太守となっていましたので、兵の数は多くいました。
また義久の代まで、経久の代から武道に秀でた家老たちが多かった。
その上、山中鹿助のような智勇の将兵の器を備えた者も多く、
とりわけ冨田の月山の城というのは中国一の名城で、
古来より一度も落とされたことがないと伝え聞いています。

晴久・義久父子も、一通り勇も智も兼ね備えた武門の者、
しかも城は峻険で、精鋭が数多く立て籠もっていました。
力任せに攻めれば、たとえ日本六十余州の軍勢でも落とすのは難しいと考えましたので、
亡父の元就は戦はともかく謀略を練りました。

あるときは城中の兵にいろいろと働きかけて見方に取り込み、
またこちらの味方にならずに尼子に一味する決意の固い者は、
逆心を抱いていると敵方に聞こえるように言い募る。
このように策を運びましたので、晴久の代には、
尼子紀伊守・その子式部少輔・その弟の左衛門大夫をはじめとして、数人を粛清しています。

中でも義久が籠城している間には、卯山飛騨守父子など、皆元就の術中にはまり、数多く討ち果たされたので、
義久は家臣たちを疑い、家臣たちはまた義久が罪のない者を刑に処すのをうらみに思ったものです。
卯山の一族、その他罪科に問われた者の一門親類は、皆義久に恨みを抱き、こちらの味方になりました。

また城中の兵たちの妻子や老父母を出雲と放棄の境目まで拉致して、
美作・因幡あたりの遠くの縁者を頼って疎開していた者たちもすべて探し出し、
洗合の陣中に置くようにしました。
城中の兵たちは、父母や祖父母、また妻子が敵方に囚われている状況では、
大事な者たちの命を奪われてしまうと考えます。
自然と尼子への中世もおろそかになって、しまいには元就に味方するようになりました。

これゆえ、尼子もまた妻子父母兄弟が寄せ手に囚われている者に対しては、
たとえその者自身が忠節深いことが疑いないとしても、尼子への忠誠を違えないと心に誓った者であっても、
きっとあの者もまた敵に通じているのだろうと疑うようになります。
仕方なく敵に味方した者や、また津森という者をはじめとして
主君の疑心を散らすために自害した者もおります。

また所々に向城を構え、人の往来を遮断しておりましたので、尼子は兵糧に困ったようです。
あるときは、こちらに降れば命を助けてやろうと声をかけましたが、
道口を開くと雑兵たちはバラバラと一日に十人、二十人ずつ、
しまいには百や二百も落人になることがありました。
こうして何くれとなく謀略を張り巡らせましたので、城中の者たちは皆逃げ出すか討ち果たされ、
次第に数が少なくなってゆき、威勢も衰え果てて、ついに義久兄弟三人も降伏してきたのです。

今申し上げましたことは、釈迦の前で説法をするようなものではございますが、
この城も無闇に戦を仕掛けずに、まずは策謀に専念なされ、
城中の兵の心を引いてご覧になるとよろしいでしょう。
関東八国の兵が籠もっているのなら、皆が忠節第一というわけでもありますまい。
敵が大勢いるならば、それはかえって味方が謀略を運びやすいというものです」

隆景が語ると、秀吉公はうなずいて、
「隆景の申したことを第一に心がけよう。
これは呉子が『間諜を巧みに用いながら機動部隊を出没させて撹乱し、敵の内部分裂を誘う』と唱えた
『事機』に相当するものだ。
わしもまた元就のやり方をまなぼうではないか」と言って、
やがて羽柴筑前守利家・その子息の肥前守利長・上杉弾正景勝を先陣に、
数万騎の兵をもって関東八国の城と言う城、松枝・鉢形・松山・箕輪・厩橋・川越・八王子・岩村など
数ヶ所を攻め落とした。

小田原に籠城する諸卒の妻子を多く生け捕りにして、城中へそのことを伝え送る。
するとこれまでは二心なく北条に忠節を誓っていた兵たちも、
さすがに恩愛の道の悲しさに、弓を引き鉄砲を撃つ力もなく、
どうにか秀吉に降伏して妻子を助けたいものだと思うようになった。


以上、テキトー訳。長いので分けまする。

うへぁ、さすが景様、本領発揮といったところか。すんごい怖い^^
どんな物の怪の怪談より、げに恐ろしきは現世に生きる人の心よなぁ。
修羅じゃ、修羅がおる!

そんな感じに心が千々に乱れていましてよ。景様のドSっぷりを侮ってたわw
いや、隆景は昔語りをしてるだけで、実際やったのは元就なんだけどさ、それにしても。
毛利ファンはお隣の直家さんをアレコレ言えない気がしてくる。
毒殺とかより内部分裂を誘う手口の方が数倍むごいと思う。人の心を操るんだからね。
本当は味方同士なのに、疑心暗鬼を誘い、お互い憎み合うように仕向けていくっておっとろしいわ。

そういえば厳島のときもこんな手口使ってたけど、
寡兵VS大軍ていう好みの状況に酔っててあんまり目が向いてなかったな。
毛利コワイです毛利。
この血が輝元や広家にも脈々と受け継がれているんだなぁ。戦慄。
前回がかなり心温まる話(個人的に)だっただけに、落差が激しいよ!
「ガキだったお前の出る幕じゃない」って、言外に広家がのけ者にされてたけど、
むしろよかったと思ったよ! 景様シビれる(河豚毒的な意味で)!
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