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2012-01-24

鶴松の夭逝

昨日の続きを読むけど、昨日の話と特に関連はない。
今回は秀吉の嫡子が死んじゃったというお話。


八幡太郎殿、早世のこと

同(天正19年)八月五日、秀吉公の嫡男、八幡太郎(鶴松)殿がにわかに早世してしまった。
秀吉公はひどく嘆き悲しんで、やがて東福寺に入って髷を切り落とした。
これに追随して、家康興・輝元卿・利家卿をはじめとして、六十余州の大名小名はことごとく髪を切り、
門戸を閉ざしたので、まるで諒闇(天皇が父母の死にあたり喪に服す期間)のようだった。
昔、源(足利)尊氏が鎌倉で髷を落としたときには、関東の武士は皆髷を切って
「鎌倉の一束切」などと呼ばれたが、それにもまして、
見るにつけても聞くにつけても大規模なものだったようだ。

翌年には改元があって、天正二十年は文禄元年となる。
翌年の玉祭のころ、秀吉公がまだ木下藤吉郎と名乗っていたときから親しくしていた梅雪という者が
都に来ていた。
その者は非常に貧しかったので、どうにかして渡世の元手を手に入れたいと考え、何か思いついたようだ。
秀吉公のところへ行き、
「この梅雪は八幡太郎殿にお目にかかりましたぞ。
ご伝言を預かっておりますので、それを申し上げるために参りました」と、ある局方へ申し入れた。

秀吉公・御台所は、「なに、それはどういうことだ。急ぎ梅雪を呼べ」と御前のすぐ近くまで呼び寄せる。
「やあ梅雪、なんとも久しいことだ。さて、八幡太郎にはどうやって会ったというのだ」と尋ねると、
梅雪は「それはですな、彼岸盂蘭盆には、西方十万億土の極楽からも、
また奈落の底の罪人たちでさえも、娑婆の世界へ亡き人々が帰ってくると聞いたものですから、
きっと御曹司様も娑婆穢土へお帰りになるだろうと思い、墓所に参って終夜念仏を唱えておりました。
そろそろ夜が明けるというころ、御曹司様がおいでなされました。
『我は西方極楽の九品の中、上品上生に至った。どうかご安心くだされと、
秀吉公・御台所のお二人へ伝えてくれ』とのことでございました。
また歌を一首お詠みになられましたぞ」と答えた。

秀吉公が「そうか、太郎は仏になったか。無病息災そうであったか」と問うと、
「それはもちろん、ことのほかご立派になっていらっしゃいました。
お顔の色なども一段といい様子でしたとも」と答える。
「そういうことなら安堵の至りだ。ところで歌とはどうやって身に着けたのだろう。
歌舞の菩薩がお教えくだされたのだろうか。なんと詠んだのだ」秀吉が問うと、
梅雪は「遥々とたづねて来たる梅雪に目かけて給れかかやとと様、とお詠みになりました」と返した。

秀吉公は「おまえの気持ちの深さを感じて、そのように詠んだのだろう。
太郎の伝言の旨、少しも疎かにするものか」と、梅雪に金銀珠玉を山ほど与えたので、
梅雪はあっという間に大金持ちになった。

土民の子ながら天下をすべて手中にしてしまうほどの武勇・才知を持っているなら、
梅雪のこうした浅ましい嘘に騙されたりはしないはずだが、
身分の貴きも卑しきも、才ある者も愚かな者も、子を思う道に迷うのが世の習いなのだろうか。
秀吉公は、この程度の昔話のような話を本当だと信じ、多くの宝を与えただけでなく、
その後も「八幡太郎があれほど頼んでいたのだから」と、折につけ梅雪に金銀を与えたという。
愚かにも哀れにも思えて、周りの者たちも袂を涙で濡らしたそうな。


以上、テキトー訳。

タカられてんじゃねえか、秀吉w 誰か止めてやれよォ~。
なんでポツポツこういう同情引く系をはさんでくるかな。かわいそかわいく思えちゃうだろ。

鶴松は残念だったよね。
誰の子だろうと、幼くして死んじゃうってのは気の毒だ。
生来虚弱体質だったとも言われてるけど、まだ数えで3歳だったんだよ。
現在の年齢にすると2歳と2ヶ月くらいしか生きてないんだよ。
かわいそうになぁ。親も悲しいよなぁ。それにつけ込む梅雪最低だな。
ていうか秀吉の周りって何気にけっこうひどい人が多い……?

次回は、そんな傷心の秀吉が俳諧をするそうです。
美貌の叔父様も登場すんのかな。
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