FC2ブログ
2012-02-29

秀元・秀秋の養子入りの件

広家小説ゲット。『うつけの采配』(中路啓太著/中央公論新社)です。
内容は……これから読むよー。期待と不安が半々だよーwww

書店で書棚にひっそり差し込まれているのかと思ったら、まさかの平積みで舞い上がった。
発売が予告より遅れてるのにHPの発売日を修正しない出版社には腹が立つけれども、
平積みを勝ち取った営業さんにはとりあえず拍手したい。見つけやすかった。
ただマジで発売が遅れるなら明示してくれと言いたい。ここ数日で何度本屋に足を運んだことか……

とりあえず今日の分の陰徳記を読む。

だいたいの流れ:
朝鮮の方はなんか節目がついたようだよ。


高麗城番のこと、付けたり秀元朝臣並びに金吾殿のこと

日本の諸将は釜山海近辺のあちらこちらに城を築き兵を籠めておき、
釜山海の東方のセツガイの城には加藤主計頭、占城茶碗の城には黒田甲斐守、
トクネンギの城には吉川侍従、カドカイの城には立花左近、釜山海の城には毛利太夫秀元、
竹嶋の城には龍造寺、南高麗のカラ嶋の城には福島左衛門太夫(正則)、
順天の城には島津兵庫頭(義弘)、その次の城には小西攝津守を置いた。

そして高麗もすべて平定して楯突く者が一人もいなくなり、大明はまた和平を請うてきたので、
日本の諸将は代わる代わる帰朝するようにと太閤秀吉公から申し渡しがあった。
毛利輝元卿も養子の秀元朝臣と交代して帰朝した。小早川中納言隆景卿も、
養子の左衛門督(秀秋)と交代して帰朝した。

さて、毛利右京太夫秀元朝臣が輝元卿の養子となったのは、
生まれながらに聡明で明らかに優れた良将の器量だったので、毛利家を相続するのに適していたのだが、
今回は天の加護があったのか、不思議なめぐり合わせであったという。

その委細をたどっていくと、輝元卿には初老のころまで実子がなかった。
それまでそうしてきたのならば、今後も子はできないだろうから、
一族の中に誰か毛利家を相続する器量のある人を選び出して養子にするだろうと、周りの者たちは考えていた。
しかしなかなかその沙汰がなかった。

宍戸民部少輔は、輝元卿の御台所の甥に当たり、御台所が特に目をかけていた。
幼少のころから器量や人柄が他の者より優れていたので、輝元卿も特別にかわいがっていた。
そうするうちに皆、この宍戸民部こそが輝元卿の養子になるのだろうと思うようになった。
そうなると裏方の女房衆も、すでに事が決まったかのように囁きあう。
しかし心ある者たちは、「民部少輔は優雅で愛らしいから、一時のご寵愛に過ぎないだろう。
毛利家を相続することはあるまい。ともあれ他家の人ではいけない。ご一族のなかの誰かだろう」
と言いあっていた。

そうしたころに、太閤が、朝日孫兵衛殿の子息の右衛門殿の弟である左衛門督殿を
輝元卿の養子にさせようと思っていると、ある人が隆景卿へと内密に告げてきた。
隆景卿はこれを聞くや否や、もしこのことが事実であっては困ると胸を潰していた。
やがて太閤が隆景と安国寺恵瓊を呼び寄せ、あれこれと話をしているうちに、
「輝元はもう四十歳にもなるというのに、どうしてまだ養子を取らないのだ。
今までその沙汰がないのは、隆景・安国寺たちの気が利かないからだ」と言い出した。

隆景卿は、「内々に聞いていたのはこのことか。
秀吉公が左衛門督を輝元の養子にと仰せになってからでは、お断りなどできるわけがない。
この左衛門督は、そもそも胡乱に過ぎる方だ。
毛利家を相続すれば家を滅ぼすのは目に見えている。
天魔波旬を養うようなものだ。これは困った」と思ったので、まずはその場を取り繕った。
「それはかたじけないご上意でございます。
輝元の養子に関しては、すでに吉川や私のところへと、内密に輝元が言ってきており、
決まっているのです」

太閤が「ふむ、それはよいことだ。して誰だ」と尋ねるので、
隆景卿は「宍戸式(民?)部は、祖父の隆家が元就朝臣の婿とはいっても、これは一門ではない。
今、一族のなかでは年齢にしても器量にしても秀元こそがふさわしい」と、ハッと思い出した。
「は、穂田治部少輔元清の嫡子を輝元の養子に申し付けております」と答える。
太閤は「それはよいことだな。
わしはそれを知らずに、朝日孫兵衛の三男、左衛門督をやろうかと思っていたぞ」と言った。

隆景卿が使者を遣わし、「太閤の上意を私が承った」と委細を広島に報告すると、
輝元卿はすぐに使いを出して元清へとそのことを告げた。
元清の内衆は、夢のようだと思って、一方ならず喜んだ。
やがて吉日の良辰を選び、備中猿掛の城から秀元様が郡山へと移っていった。

現在の長門守秀就様がまだ産まれていなかったので、秀元様が養子となったわけだが、
ほどなく諸大夫から三位の宰相に昇格し、高麗にも輝元卿の名代として渡っていた。
秀就様が産まれてからは、長門の国に二十万石を知行して、毛利家の重臣となった。
このときにこの若さでなかったならば、元政・元康などの子孫と同様の扱いだっただろうに、
これほどのめでたい果報があったのは考え深いことである。

隆景卿は、「太閤が金吾(左衛門督秀秋)を毛利家の養子にしようと思っていらしたのに、
それをただお断り申し上げれば、太閤のご機嫌も悪くなるだろう。
もしこのことを恨みに思われれば、毛利家の行く末に大きな影を落とすに違いない。
私の家は他人の手に渡ったとしても問題ない。
毛利家を金吾に与えてしまえば、名字は続いたとしても、元就の血筋は断絶してしまう。

それも一門のなかでふさわしい者がなければ致し方あるまい。しかし幸いにも秀元がいるのだ。
他人に相続させるのは、父の元就に対しても不孝になると思って、
秀元を養子に迎える契約があると、太閤に申し上げたのだ。
父の家のためを思えば孝になり、輝元に対しては惣領への協力になるはずだ。
私が金吾を養子に申し受け、毛利家の安泰を図ろう」と考えた。

その後隆景卿は金吾を養子に貰い受け、筑前を譲り渡したいと太閤に言上した。
秀吉公はとても機嫌がよくなって、その申し出に乗ってきたので、
文禄四年に筑前を金吾に譲り渡し、隆景卿自身は備後の国の三原へと隠居した。
自分の家を捨てて毛利家の安泰を図ったことは、末法の世の聖人とも称される人なので、
たしかにさもあらんとは言いつつも、なかなかできることではないだろう。


以上、テキトー訳。

秀元が賞賛されててとりあえずホッとした。
だって広家晩年の書状を見るに、秀元との仲がマズかったみたいだしね。
慶長10年末ごろには、輝元から見ると、本人同士は特に険悪でもないけど、
家中の者たちがいがみ合いをしている状態だったらしく、輝元から調停が入ってる。
翌慶長11年には広家・秀元が協力して江戸の手伝い普請をしていたようだから、
そのために両家を取り持ったという面もあるんだろうな。
広家は息子に家督を譲ったころ、毛利家の差配を握った秀元の専横を嘆く書状を、
萩にいる息子の広正に送ってるし、秀元もその後毛利家中で失脚したりしてるし、
元康や安国寺みたいに悪役っぽい描かれ方をしているのかな、と思ってたんだ。

そんなわけで吉川家臣から見た秀元ってのはどんな人物像なんだろうと思ったけど、
器量が褒められているだけで、今のところこれといって特色がないね。
まあ秀元もこの時点では、自分自身で何かするには若すぎたんだろうが。

秀元、そしてその後裔は後に毛利本家に養子入りすることになるわけだけど、
この、長府系っていうのかな、この人たちの秀元age広家sageはなかなかに興味深いよ。
現在でも続いてるんだよね、微妙な吉川dis。
このへんはまだ頭の中でモヤモヤしてるのでまとめきれないけど、いずれ考察したいと思う。

今回注目したいのは「今の秀就」って記述かな。
秀就は慶安4年(1651年)1月5日に死去してるから、この章が書かれたのはそれ以前のことなんだろうか。
それとも秀就が死去した後、陰徳記の下敷きとなる安西軍策をそのまま写したらこうなったのか。
陰徳記著者の香川正矩が亡くなったのが1660年で、陰徳記の成立もそのころだと言われていたはず。
もうちょっと早かった可能性も十分あるのね。
いや、だから何ってわけでもないんだけどさ。

さてこの次の章は以前読んだコチラ
次回はその次、秀次事件だよ! いきなりかよ!
スポンサーサイト



2012-02-28

首狩族、再来

だいたいの流れ:
つっても、状況的には昨日の前提と同じようなもんだな。
押し寄せる大明軍120万を跳ね返し、朝鮮の都を堅守する日本勢だったが、
勝ちに乗って川下の城を攻めるも、損害を多く出した。(コピペ)
とりあえず朝鮮征伐では一息ついて、九州にいる秀吉と連絡を取りました、ってとこか。


遊撃将軍和平を請うこと、並びに晋州の城落去のこと

文禄三年三月中旬、遊撃将軍(沈惟敬)が大明から出発し、和平を申し出てきたので、
今度も堅く誓いを交わし、大明と日本は和睦した。
小西摂津守から使者として小西飛騨守を大明へと遣わし、
遼東境での交渉の際に人質として出していた竹田吉兵衛尉を受け取る。
今回送ったのはは丹波の内藤五郎丸という者だったが、惟任(明智光秀)のせいで本国を追い出され、
しばらくの間は中国あたりに左遷されており、小西を頼ってきたのだった。
内藤は無双の剛の者だったので、苗字を与えて小西と名乗らせた。
万里の城、咸陽宮なども一見したそうだ。

大明からは官人二人が、日本の諸将へ会盟を祝すために差し出された。
小西摂津守が伴って朝鮮の都へ入ると、宇喜多中納言(秀家)・小早川中納言(隆景)・
三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)、そのほか日本の諸将が位階順に列座して対面した。
その後、小西が二人の唐使を連れて日本に渡り、同五月二十三日、太閤が唐使に対面した。

去る四月、太閤から日本の諸将に向けて皆釜山海へ引き揚げるように朱印状が発行されたので、
皆それに従って釜山海に引き揚げた。
こうした折、また六月十二日に太閤から朱印状が下された。
「赤国のモクソ判官が立て籠もる晋州の城を、かつて細川越中守(忠興)・長谷川藤五郎・
木村常陸守・小野木縫殿助・牧村兵部・糟屋内膳・大田飛騨守・青山修理亮・岡本下野守らが攻め損ね、
敗軍したのは我が国の武名を傷つける。
急ぎ馳せ向かって城を乗っ取り、一人も残さず切捨てにして、会稽の恥を雪げ」とのことだった。

すぐに出発したのは宇喜多中納言秀家卿・小早川中納言隆景卿・吉川侍従広家朝臣・黒田甲斐守(長政)・
加藤主計頭(清正)・小西摂津守・毛利壱岐守(吉成)であり、
総勢四万五千余騎が、同六月二十四日、晋州の城を取り囲んだ。

そもそも、ここを「赤国」と言うのは、全国的な呼び名ではない。
日本人が朝鮮の絵図で国の遠近や地形、山川などを調査したとき、
この絵図では全羅道・平安道などを五色に塗り分けていて、
晋州の近辺の国はすべて赤く塗ってあったため、赤国と呼んでいた。
またその国の軍兵たちは皆赤い印を持っていたので赤国と呼んだとの説もある。

さて、この城は険しい難所で、容易には攻め落とせないので、
諸将は仕寄をつけて攻めようと支度をしていた。
加藤主計頭の陣では亀の甲羅のような仕寄を構えて城の石垣を崩そうとした。
城中からは散々に矢を放ってきたけれども、仕寄の亀の甲ですべて受け止め、
矢などまったく気にせずに石垣を崩していく。
これに困った城中は、今度は砂を炒って撒いた。
これは寄せ手の具足の隙間に入って熱くてたまらなくなったので、寄せ手は亀の甲を捨ててさっと引いた。

同二十八日、また亀の甲で詰め寄ると、城中の者たちも命運が尽きたと思ったのか、
手当たり次第に小家に火をつけ、これがたちまちカッと燃え上がった。
これを見て、備前勢や逸った吉川・小早川の手勢が、
「城に火をかけられたとは、これは先を越されてしまったようだ」と攻めかかり、
取るものもとりあえず真一文字に切って入る。
加藤・黒田たちも「備前勢がかかっていくぞ」と言うや否や飛び出していき、
吉川・小早川もまた同様に、我先にと攻めかかっていく。
加藤・黒田の足がかりがよかったので、他の勢より少し先に切り入った。

この城の二方面は岩壁がゴツゴツとそびえ、
逆巻く水岸を穿つ龍蛇でも住んでいそうな深い滝つぼだったので、鳥でもなければ通ることはできない。
他の二方面には堀が深く掘られ、逆茂木が幾重ともなく構えられ、
菱がしっかりと植えられて、落とし穴なども掘られていた。
それは厳重に来る者を拒んでいたが、
寄せ手たちが堀も逆茂木もまったく気にせずに無二に攻め入ってくるので、
城中の者たちもここが最後と散々に矢を放って防戦した。

しかし猛火が城の裏手に回り、南風が煙を運んでくると、敵も味方も見分けがつかなくなった。
目を開くこともできず相手の顔を確かめられなかったが、
寄せ手は勝ちに乗じていたので、ついに一・二の城戸を押し破る。
モクソ判官は散々に戦い、最後に宇喜多秀家卿の手勢、岡本権允の手で討ち取られた。
岡本はモクソの首を取って高く掲げ、
「この城の大将、モクソ判官は岡本権允が討ち取ったぞ」と名乗りを上げた。

残った兵たちは、大将が討たれてしまったので、あちらこちらで討たれる者もあり、
また散り散りになって逃げていく者もあった。これは追いかけて討ち取った。
あまりのことに堪えかねて、十余丈ほどもある岩壁にヒラリと飛びつき、河水に沈んで溺れ死ぬ者もいた。
また河水を泳ぎ渡って向こう岸に渡り、逃げていく者も多かったので、
吉川勢の中から香川又左衛門尉がこれを見咎め、「晋州の川を渡るぞ」と馬の手綱を操って、
逆巻く波の中へとさっと入っていく。
この河は上流から二筋流れてきていて、この場所で合流するので、
それでなくとも波が渦巻いているというのに、これまでの雨に水かさが増えていた。
森脇弥三・熊谷平内は、水に押し流されて死んでしまった。

秋里主水は以前から無双の泳ぎの達者で、氷を打ち砕いて水底にもぐり、
鯉や魚を捕らえて、もとの氷の穴を探し当てて出てくるほどの者だった。
今回も鎧を脱いで渡っていれば危ないこともなかっただろうに、
自分の泳ぎの技術を過信して鎧をつけたまま泳ぎ渡った。
川の中で溺れた敵にしがみつかれ、引き寄せて討ってやろうとしたときに、
また一人流れてきて取り付かれ、二人がかりで水底に引き込まれた。
鎧さえ着ていなければ、水底でも二人の首を掻き切って水上に戻ってきただろう。
鎧を着けていたから自由に体を動かせず、結局敵と一緒に水底の藻屑となってしまった。
ことわざにも「何だちは川にて死する」という言葉がある。
秋里が自分の水練技術を過信しなければ、鎧を脱いで泳いでいっただろうから、
自分の身が助かるどころか敵を二人も討ち取って存分に高名できただろうに、
高慢さゆえに身を滅ぼすとは嘆かわしいことだ。

香川は真一文字に川を渡り、川向こうで逃げようとする敵を討ち、同じく手の者たちも皆首を取った。
これを見て、続いて祖式九右衛門・桂次郎兵衛尉が川を渡ってゆき、同様に首を取る。
これをはじめとして三百余人が続き、敵を百五十三人討った。
川の手前岸では首を五百余り討ち取った。

また宇喜多秀家卿からも宇喜多河内守に二千余騎が添えられ、
川向こうに前もって差し向けられていたが、この手勢も首を三百余り討ち取った。
都ではこの城に立て籠もっている敵は三万余騎と聞いていたが、そのほとんどを切捨てにし、
そのうち四、五百人ほどが河水を泳ぎ渡って命を拾った。

このことが日本に報告されると、城攻めをした七人の将それぞれへ
太閤秀吉公・関白秀次公から御内書が送られた。
その書状にはこう書いてある(吉川家文書之一-一二八)。

 「七月十九日の書状が本日届けられた。委細は読んだ。
  よって高麗の晋州の城を落去させたことは、皆がその地に在陣し、
  たゆみなく粉骨砕身の働きをしてくれたからこそである。
  あれこれと詳しく報告してくれて喜ばしく思う。なお、江口備後守から伝えさせる。
   八月二十三日」
  ※秀吉公・秀次公ともに同じ文体なので、両方は掲載しない。


以上、テキトー訳。

んー……晋州城攻略戦って文禄2年だよね? いろいろと時系列がごっちゃになっとるな。
まあそりゃいいや。所詮軍記だし。
今回も香川又左の活躍がパないっす。しょうがないよね、だって著者は香川正矩だし。
又左愛してる。

そして個人的に登場が楽しみだった亀甲車。
なんか描写があっさりしてるーーー!
ここで変形するとか、今週のびっくりドッキリメカとか出てくる期待をするのは私だけじゃなかろう。
変形もしないし小さなメカも出てこないけどね! 夢見るだけなら自由よね!

清正「というわけで仕寄を作った。亀の甲羅みたいだから名付けて亀甲車だ!」
長政「で、いつ変形するんだ? 合体機能はあるのか?」
広家「びっくりドッキリメカはどこに格納してるんだ?」
清正「ねえよ」
長政「(´∵`)」
広家「(´∵`)」

落ちない。めげない。

しかし首狩合戦はイイねぇ。久々で。
なんていうか大陸の人たちは圧倒的に弓使うよね。
雨霰とばかりに弓。これでもかとばかりに矢。
鑓のどつきあいの方が燃えるな……ってわかった。

さて次は……秀元さん出てくる感じかな?
秀元も広家好きにとってはなかなかオイシイ関係の人物なので、どんな風に描かれてるのかドキドキするね☆
2012-02-27

よしむーの処遇

だいたいの流れ:
押し寄せる大明軍120万を跳ね返し、朝鮮の都を堅守する日本勢だったが、
勝ちに乗って川下の城を攻めるも、損害を多く出した。

今回は小西がズタボロにやられたときにさっさと逃げ出しちゃった大友よしむーのお話。


大友義統のこと

大友義統は都にもいられずに釜山海まで出ていたが、このままでは取り潰しにあってしまうと考えて、
朝鮮船が数艘出ているところへと、五千余騎を乗せた船で飛び込んでいった。
無二にかかって敵の大船を二艘乗っ取ったけれども、
三奉行たちはまったく褒め称えることすらしなかった。
それどころか石田・増田・大谷たち奉行衆は、先日大友が小西を見捨てて逃げ出した振る舞いを
ありのままに太閤に報告しようと、大田小源五(後に飛騨守と名乗る)・早川主馬の二人を、
同(文禄二年)四月に日本へ返したのだった。

殿下は二人の口上を聞き、石田の書状を見ると、「大友の臆病は前代未聞だ」と怒り心頭の様子で、
同六月、また大田・早川を高麗へと渡海させた。
三奉行、そのほかの諸将への御内書にも、
「大友左兵衛督義統は日本一の臆病者なり。早々に領国を没収し、追放すべし」と書き送った。
その両使は六月十五日に高麗に着き、大友義統は七月二十三日に高麗から追い返され、
九州の地へと到着すると、すぐに太閤秀吉公から毛利黄門輝元卿へと預けられた。
それからしばらくは防州の陶に置かれていたが、その後はまた高野山の麓に蟄居させられていたそうだ。

こうして豊後の国は十一人に割り与えられた。
高田の城は竹中伊豆守、飛玖の城は垣見和泉守、秋野の京留の城は熊谷半次(後に内蔵丞と名乗る)、
杵月の城は松井佐渡守、比地の城は朝日右衛門、府内の城は早川主馬、
おい田郡の内萩原の城は福原左馬助、竹田の城は中川修理亮、臼杵の城は稲葉孫六、
比田の城は毛利民部大輔、臼杵の内切ごうの城は久留嶋出雲守が入ったそうだ。


以上、テキトー訳。

短いけどこの章はここまで。

なんだ、どんだけよしむーが罵倒されてるんだろうと期待してたのに、あっさりしてやがる。
まあ諸将にまで、「あいつ臆病だからクビな」って書き送られちゃうあたりは、
想像するだにかわいそうな気がしないでもないがwww

それでもこの人、あちこちで幽閉生活を送ったりしながら、息子は高家として家名を保ったらしいよ。
ていうか預かった輝元が、関ヶ原の乱のときに義統を支援して、九州方面で暴れさせたらしいよ。
そこでもあっさり如水さんたちに負けて、娘婿の母里友信に降伏……
ちょっとお義父さん、いい加減にしてくださいよw

関ヶ原後は常陸の国に幽閉→慶長15年に死去して嫡男が家名を継ぐ、と。
踏んだり蹴ったりだな、よしむー。でも家が残っただけすごいじゃん。
もともと関ヶ原前から嫡男は秀忠に近侍してたみたいだけどな。息子GJ!

どうでもいいけど常陸の国ってよく失脚した人が流されてるのね。
花房助兵衛も佐竹に預けられて常陸に蟄居させられてたし、曲直瀬道三も常陸に流罪だったな。
茨城、そんなに辺鄙なところなの? アンコウがおいしいってイメージしかないよ。あと納豆。

さて、次回は和平交渉とまた城攻めの話かな。
2012-02-26

広家に「切り入れや」って言われたい

創作戦国イベント、戦国izm行ってきた。
ついったでしかお話したことのない方々と直にお話してきました。楽しかったー!
主催者の方々がグッズやレクリエーションに力を入れていらっしゃって、すばらしかった。
泣くほど笑った。あと湯のみを買ったので、今後、酒はこれで呑む。
もちろん狙っていた吉川アンソロジーもゲット。明日の糧。
もし次回があれば、そのときには自分もサークル参加できればいいなと思うけど、
創作熱より資料漁りたい熱のほうが高いので、いつになるやらといった感じ。

さて昨日休んだ分バリバリ読むよ。合戦イヤッホゥ!
しかし三成がdisられてるとツライ人は読まないほうがいい回ですじゃ。


河下の城を攻めること

朝鮮の都から三里ほど川下のほうに城があったが、何という名の城だったのか、
日本から来た者たちは「川下の城」と呼んでいた。
その城には、唐勢と高麗勢が入間まじり、五、六万のどの人が立て籠もっていた。
そこ前での道のりはとても厳しく、その上唐勢は先日の江陽の合戦でむなしく敗北した恥をすすごうと
意気揚々と立て籠もっていた。
敵は皆死を一途に思い定めていたので、簡単には落とせなかった。

そのときは石田治部少輔三成・増田右衛門尉長盛・大谷刑部吉継なども、
先日の江陽巴州の勝ち戦に気をよくして、川下の城を暇つぶしがてらに切り崩そうと評定して、
文禄二年二月四日、その城へと向かって出発した。

石田は狡賢さがあって上面は智将のようではあったが、武道のことは白とも黒ともわからなかったので、
秀吉公から加藤遠江守(光泰)からさし添えられていた。

増田右衛門尉は天性の臆病者だったが、頭のいい者だった。
「私はもともと臆病者だ。しかし弓馬の道に携わるものが臆病で、そのままでいいわけがない」と、
家之子郎党に向かって
「私は敵に向かうたびに日ごろの思いも消えうせて、ただ退却したいとばかり思うようになってしまう。
どんなに引けと私が言っても、馬の口を取って敵のほうへ引き向けてくれ。
それでも臆病の持病が出てきて何度も『引け、引け』と言うだろうから、
絶対に聞き入れないで敵の中へと連れてかかれ」と言い含めていた。
これほどの者だから、勇の志は立派だったけれども、
生まれながらの臆病という病のせいで、武の道は中の下だった。
前野但馬守(長康)は増田につけられていた。

大谷刑部少輔は勇の誉れもあって、祐筆から次第に出世して、今は三奉行の一人となっている。
はじめは朱慶といったそうだ。

このように石田・増田は軍事には疎かったので、敵の機を察することはできなかった。
うかうかと敵を侮って、一度に切り崩し、自分の手柄にしようとして、
陣組みは、一番は加藤遠江守・その子左近・前野但馬守、二番は小西摂津守、
三番は石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門尉、四番は宇喜多中納言秀家卿、
五番は吉川侍従広家様・叔父の久留米侍従(小早川)秀包様・毛利大蔵太輔元康に決まった。

広家は、「今日の先陣を任せてほしい」と強く望んだが、三奉行とも、
「広家は先日、江陽で先陣に進まれ、比類なき勇を顕された。
今日は加藤・前野に先陣を譲ってください」と断ってきたので、五番備に甘んじることになった。

そして加藤・前野・小西・石田・増田・大谷たち、三番の備までが白の追手へと近づこうとすると、
もともと唐人は日本人より百倍も弓術に熟達していたので、
逆さ落としに差し詰め引き詰め散々に射掛けてくる。
先陣の加藤が射すくめられてさっと引くと、後陣から「かかれ、かかれ」と下知を飛ばして詰めかかってくる。
遠江守は勇に秀でた将なので、雨のように射掛けてくるのも気にせずに、
逆茂木を引き退けようと一気にかかっていった。
敵はここぞとばかりに矢を放ってくる。

切岸や逆茂木を撤去して城に近づくのは、たとえ敵が一人もいなくても大変なことだ。
ましてや矢尻を揃えて射掛けてくるなか、加藤・前野は心は猛り勇んだけれども、
攻め入る手段は皆無に等しい。
三度までせり上がろうとしたが、逆茂木の一つも破れないままで、攻めかかることもできなかった。
引こうとしても後陣が退路を塞いでいるので進むことも退くこともできず、
ただどうすることもできずに矢の的になっていた。

広家様ははるか後陣にいたが、先陣が麓まで広がっていてこの方面では攻め寄せようがなかったので、
右手へ移動して、一段下って平らになっている三の来輪のようなところへと、手勢五千騎とともに押し寄せた。
そこには逆茂木が据えられ、菱が植えられていた。

敵は広家様の勢を直下に見下ろし、矢を雨のように放ってきたが、
それに怯まず逆茂木を引き退けて無二に乗り越えようとした。
安田喜左衛門が指していた吹貫に矢が十六本も刺さるほどの激しさだった。
松岡安右衛門・祖式九右衛門・二宮兵介・森脇一郎右衛門・有福新兵衛尉・安田喜左衛門などをはじめとして、
百五、六十人ほどが逆茂木を越えて切り入ると、後陣の勢三百ほどがそれに続いた。
唐人たちは一段高い二の来輪へとさっと引き、ここから雨足よりなお激しく矢尻を揃えて散々に射掛けてくる。
ここで井上平蔵・綿貫半介が射殺されてしまった。
松岡安右衛門・祖式九右衛門・二宮兵介・森脇一郎右衛門たちは、退却しそびれた敵を突き伏せ、
その首を切り落として槍の切っ先に突き刺して持ち上げた。

寄せ手がこれから二の来輪へ乗り入ろうとすると、ここは岸がひときわ高く、屏風が立ててあるようなもので、
逆茂木を全部取り払ってしまったので、上がることができない。
しばらく足をとどめている間に、唐人・朝鮮人たちが
「ここが破られたらこの城はあっという間に落ちてしまう」と考えて、身命を捨てて散々に矢を放ってくる。
たちまち六十余人が手負いとなったので、三の来輪にいた寄せ手たちはまた外構へとさっと退却した。

広家様は自ら采配を振るって押し返し、「切り入れや」と下知していたが、
それでこの人が大将だとわかったのか、狙い澄まして差し詰め引き詰め射掛けてくる。
広家様は眉間をしたたかに射られ、たちまち流血して両の目に入ったが、
まったく気にせずにまた三の来輪へ攻め入るため、進もうとした。

追手の先陣では死者や怪我人があまりに多く出たため、
加藤遠江守が下知して、一度にさっと引いて麓に下り、その後陣も次第に引いていった。
城中はこれで活気付いて、今度は三の来輪を死守しようと、散々に射掛けてきて一歩も引かない。
寄せ手は大手が退却していくのを見ながら少しも怯まずに、
今一度攻め入って、他家の衆より優れた勇を顕そうと攻め戦った。

こうしたとき、石田・増田から軍使が遣わされ、
「今日はあまりに怪我人が多く出て、そのうえ兵も皆疲れてきたので、明日また攻め懸けて乗り崩しましょう。
大手も退却するので広家もまずは引いてください」と再三言い送ってくる。
広家は、「私の手勢だけでこの城を乗っ取るのは不可能だ。石田たちの言ってきたことに従おう」と、
静かに勢を引き揚げた。

そのとき、吉川勘左衛門(経実)はしばらくその場で堪えて、
敵がもし跡を追ってくるなら一合戦してやろうと備えていた。
城中の勢が中から突いて出てくる気配もなく、誰もが「早くお引取りなさい」と声をかけたが、
勘左衛門は応じない。
「大将が引き取れと下知をされるまでは引き揚げません」と、なおも堪えていたので、
広家様は軍使を送って「早く引き揚げろ」と下知した。
それでようやくしんがりを務めながら引いてきたのだった。

広家様は「大手の勢が引き揚げなければ、今日の内に私の攻め口からこの城を乗り破れたというのに。
三奉行など、戦の道を夢ほども知らないばかりに、無駄な城攻めをして敵に勝利を与え、
味方を多く怪我させるとは腹立たしいものだ」と歯噛みしていた。

こうして討ち取った四つの首を三奉行のところへ持っていくと、
「たちまち戦で利を失い引き退いたが、広家の手勢だけ敵を討ち取りなさったのは、
まさに勇の至り、他に抜きん出た粉骨の働きです。
必ず近いうちに、このことを秀吉公へ言上いたします」と三奉行は言った。
しかし自分が担当していた方面の逆茂木を一重も破ることができず、
いたずらに諸卒を討ち死にさせたことが智謀も勇もなきに等しいことだったので、
自分の至らなさを隠すために、人の忠戦も顧みずに、太閤へと披露しなかった。

だいたいにして元春・元長・広家の父子三人はいずれも、
安国寺を狡賢く人を誑かす売皮僧だと忌み嫌っていたので、
安国寺は常に広家のことを石田に悪く言っていた。
治部少輔と広家の仲もいいものではなく、こうした大忠功をすら何度もなかったことにして、
太閤へと披露しなかったそうだ。

さて備前中納言・吉川侍従・久留米侍従は楯の板を風除けにして一ヶ所に集まっていたが、
粟屋彦右衛門を使者として、この三将から石田・増田・大谷へと提案をした。
「今日この城を攻め破ってしまわなければ、敵は日本勢に塩をつけた(勝った)と調子に乗るだろう。
そうなれば日本勢の勇が不足しているようなものだ。
今度はこの三人が先陣を務めるので、他の方々にはまだ戦いに加わっていない元気な兵に入れ替えて
後陣を詰めてていただきたい」と言い送ると、
三奉行たちは「諸卒は皆疲れ果てているので、今日はまず撤退して、
明日未明に攻め懸けて切り崩すことにする」と返事をしてきた。

粟屋がこのことを三将に告げるに戻ると、城中から狙っていたのか、
鉄砲がドンと鳴って、粟屋の股にしたたかに突き刺さった。
日本の弾とは似ておらず、鉄砲の玉突きのような一尺ほどの樫の木に、鉄を吹き付けたものだった。
すべての鉄砲の弾がこういう作りなのか、
または弾がなくてこんなものを鉄砲にこめたのかはわからなかったが、
粟屋は大の剛の者で、股を撃たれながらもまったく顔色を変えずに静かに口上を述べ、
その後何もなかったかのように、その一尺ほどのものを抜き取った。
諸人はこれを見て、なんと強そうな振る舞いかと、皆感心したのだった。

その日、石田は吉川侍従に向かい、
「今日三の来輪へ乗り入り、手の衆が分捕り高名を果たしたこと、
毎度のことながら比類のない働きです」と賞賛した。
その後、また城に攻めかかろうとしたところ、敵は勝って兜の緒を締めようとでも思ったのか、
やがてその城を空けて退却していった。日本勢が攻め損ねたのは、この城と陳州の城の二つだった。


以上、テキトー訳。

なんか今回、気になる描写が多いなぁ。
まず石田・増田へのdisりが絶好調なのは是非もナス。
加藤光泰カワイソス。広家カッコヨス。
怪我したのは眉間だったのね。まったく気にせず攻め入ろうとするのはいいけど止血しろ。
血が目に入ったら痛いのはもちろん、よく見えないだろうが。
大将がよく見えない状態でどうやって部下の働きを見てやるつもりだ。
べっ、べつに広家のことが心配で言ってるわけじゃないんだからねッ!←ムダツン

勘左! いつでも突っ走り気味な勘左が非常にかわいい!
お父さんの経家も突っ走る系だったよね。血は争えないね。
あのときはまだ幼かった亀寿が立派な荒武者に育ったと思うだけで胸がいっぱい。
「広家様から下知があるまでここを動きませんから!」とか、もうホントかわいい。

あと粟屋さん! 彦右衛門愛してます結婚してください!
股に変な鉄砲弾が突き刺さったまま顔色一つ変えずに口上を述べる……漢だぜ、彦右衛門。
これで在りし日は誰もが振り向く紅顔の美少年だったとか非常に胸熱。
ていうか周りのやつ、特に広家。「口上は後でいいから手当てしてこい」って言ってやれよ。
感心してる場合かよ。

しかし広家と秀包と宇喜多秀家ちゃんと一緒に話し合いしてる図って、なんかイイな。
秀包・秀家あたりはきっと美貌。まあ広家がイチバンかわいいがな。
うわぁい、カワイコちゃんが満ち満ちてるその空間の空気を吸いに行きたいです。

そうだ、忘れちゃいけない安国寺。
元春にも元長にも嫌われてたってさw 想定どおり。
安国寺の扱いがひどいのはしょうがない。そういうことにしとかなきゃね。
吉川家文書なんかを見る限りだと、安国寺とか三成とかと仲悪かったようでもなさそうだよね。
広家の覚書は別にして、書状群とかだと。
まあ仲良かったとも悪かったとも判別のつかん書状ばっかりだけど。

意外に今回の章が個人的にステキ情報盛りだくさんだったのでホクホクです。
次回は大友義統に関しての話のようだ。
イジメたいおっさんNo.1(暫定)。今度は何言われるんだろ、よしむー。
2012-02-25

持病で一回休み

私「すみません。今日○○って本の発売日だと聞いて探しに来たんですが」
書店員「お調べしますね……ああ、未入荷ですね~。
    早ければ月曜の便だとは思うんですが、確実な入荷日はわからないんですよ」
私「そうですか……ありがとうございます。またうかがいます」

このやり取りを今日だけで3回もやっちまったぜ。
書店を3軒めぐったわけだけど、そんなわけで手に入らなかったよ、広家小説。
発売日公示したらその日に書店に並べてようぜ。
出版元や取次への怒りがふつふつとたぎってるからこんなに首が痛いのね。
いや首は持病が悪化しただけだけど、頼む、効いてくれロキソニン。
明日は超絶楽しみなイベントなんですじゃ。

そんなわけで陰徳記はお休みです。
首のせいで左頭部・左上半身全体に痛みが出てるんだけど、
左目も痛くて開けていられない&首を起こしているのがつらいのでさっさと寝ます。

鎮痛剤が効きますように!

2012-02-24

石が芸陽にもたらされた由来と秀吉が石を返した理由

前回のあらすじ:
秀吉が夢のお告げで、芸陽の福王寺から取り寄せていた名石を元のところに返した。
そもそもこの石というのは、その昔芸陽にいた家親という怪力の人に由来する。
家親は飛びぬけた怪力で幼少のころより名高く、
成長すると安芸武田氏に随身して上洛した、その後の話。

ようやく石のことが出てくるようだよ。


芸陽福王寺の名石のこと(下)

その後家親は、どうにか末代まで自分の力量のほどを残し置きたいと思っていたが、
内裏に火事があったとき、諸国の武士たちは我も我もと駆けつけて消火に当たった。
家親はそのとき嵯峨へ行っていたので、駆けつけたのは人よりも遅かった。
「このときこそ我が力量のほどを知らしめてやろう」と馬に鞭をくれて帰ってきたものの、
二里ほどもあったので他の人がすでに集まっていた。
はるかに出遅れてしまったので、特に力量を発揮できるようなこともなかった。

そこかしこと見回っていると、ある御坪の中に長さ五尺ほどの大石があった。
見るほどに、言葉にも尽くしがたい妙な雰囲気のある石だった。
「これはきっと名高い石だろう。これを取って帰って、郷里の福王寺に寄進して、
これこそ家親が内裏から盗んできた石だと、末の世の人にも知られるようになるぞ」と企んだ。
そばにいた人に「これはどんな石なのか」と尋ねると、
「これこそ伊勢物語に登場する藤原の常行が、山科の禅師の皇子に奉納した石である」と返答があった。

家親は、「この石は二、三十人でも簡単に動かせないだろう。さて力試しに取って帰ろう」と思い、
小脇に掻き挟んで、塀をヒラリと飛び越えて門の外に出たけれども、
忙しく人が往来しているときだったので、誰に見咎められることもなく帰っていった。

その後家親が、その石を船に積んで芸州へと下っていくと、
能島・久留島らの海賊たちが、盗んだ名のある石を乗せて国許へ下っていく船があると聞きつけ、
船を四、五十艘揃えて備前の児島の沖で攻めかかってきた。
家親はかねてから海賊対策として、五間ほどある柱のような杭の先に
先のとがった鉄をはめ込んで用意していた。
海賊船がぴったりと船を寄せて鉤縄をかけてくるまでは矢の一つも射掛けずにいたが、
賊船がぴたりと寄ると立ち上がり、その杭柱のようなものを持ち上げて、賊船の水際を突く。
すると、その一突きで五艘がたちまち突き破られて沈んでしまった。
他の船はこれを見て、皆我先にと逃げていった。
その後家親はは無事に国に下り、やがて福王寺へとその名石を寄進した。

そして幾星霜をを経て、天正の末ごろ、里村紹巴の記録係の正允という連歌師と
香川又左衛門尉春継が二人連れで福王寺へ詣でたとき、
正允が「あの石のことは聞いたことがあるぞ」と、歌に詠もうとしだした。
するとその寺の住持の学雄法師が
「この二人は紹巴から直接学んで、歌道に熟達していると聞いている。
よくぞこの寺に詣でてくださった」と、発句を欲しがった。
正允は「苔の上の落ち葉は風の蒔絵かな」としたしめた。

学雄が脇の句をつけ、春継が第三をして、そのまま百韻興行し、
その連歌を添削してもらおうと紹巴へ送った。
紹巴は「安芸の国福王寺にはなかなかの名石があると昔聞いたが、この発句で思い出した」と言いだして、
その後太閤秀吉公の御前で四方山話をしていたときに、そのことを話したのだった。
「その石が安芸の国にあるということは、遠い昔に耳にはしていたのですが、
それからすっかり忘れていたのです。宗養・私の二代の記録係を務める正允という者がいまして、
中国で連歌を推進させるために、
その者を雲州冨田の吉川侍従広家に召抱えていただけるようにお頼みしていました。
広家は歌の道に造詣が深くまた堪能なので、すぐに家来にしてくださいました。

近ごろその正允が福王寺へ詣でて、その名石について発句をひねって提出してきましたので、
その石のことを思い出したのですよ」と紹巴が言うと、秀吉公は、
「それでその石というのは、どういうものなのだ」と尋ねる。
紹巴法師は語りだした。

「それが、伊勢物語に描かれていることですが、昔、多賀幾子という女御がいらっしゃいました。
お亡くなりになって初七日の法要を安祥寺で執り行いました。
右大将、藤原の常行という人がいたのですが、その法要に参列した帰り道に、
山科の禅師の皇子に会いに行かれました。
その山科の宮というのが、滝を落として水を走らせるなどして、たいそう趣深い屋敷だったのです。
常行が『このごろは他所にばかり顔を出していましたが、皇子のお近くにはお仕えしておりませんでしたな。
今夜はこちらでお供いたしましょう』と言うと、
皇子はお喜びになって、常行のために寝所をご用意されました。

その大将が御前から下がって考えをめぐらすに、
『皇子にお仕えするはじめに、ただ何もしないではいられない。
父の三条邸に大御幸があったとき、紀の国の千里の浜にあった、それは見事な石を献上したことがあった。
しかし献上したのが大御幸の後になってしまったので不要になってしまい、
ある人の部屋の前の溝に据えておいたっけ。
この皇子は造園を好む人だ、この石を献上させよう』と思いつきまして、
共の舎人を遣わして取りにやったのです。

それほど時間もかからず持ってきました。
この石は、前に聞いていた様子より、目で見たほうがずっとすばらしかった。
これを何のひねりもなく献上してもつまらないとお考えになって、
常行は人々に歌を読ませたのですが、石に生えた青い苔を刻んで蒔絵のようにして、
右馬頭という人の歌をつけて石を贈ったのです。
『あかねども岩にぞかふる色見えぬ 心を見せんよしのなければ
(満足なものではないけれども、岩に私の気持ちを伝えさせます。
私の心をお見せする方法がありませんので)』と詠んでありました。
ここまでが伊勢物語でございます。
千里の浜にあった石というのは、現在は芸陽の福王寺にある石のことです」

秀吉公はそれを聞いて、「その石に興味がわいた。一目見たいと思うが、おまえはどうか」と言うので、
紹巴法師も「そうでございましょうとも。私めも一目見たい気持ちは強いです」と答える。
こんなことがあって、中納言輝元卿にそのことを伝えると、
輝元は「かしこまりました」と、すぐに福王寺からその石を借り受け、
船に乗せて昼夜を問わず急いで船を漕がせて、秀吉公に献上したのだった。

秀吉公は石を見ると、物語に書いてあったように、
実にこの石は、聞くよりはこの目で見たほうがずっと立派に思えたので、とりわけ大事にして庭に置かせた。
朝な夕なに飽きもせず眺めては歌を詠んでいた。
最初は秀吉公も、しばらく自分のところに留め置いてから元のところに返そうと思っていたが、
特に夢のお告げもなかったので、そのうちこの石への寵愛がいや増しに深くなっていった。

「ずっとこのまま手元においておきたい。
たとえ福王寺の宝物であっても、この空の下はすべて王のものなのだ。
わしは今帝位には昇っていないが、六十余州の権勢をこの手の内に握っている。
日本国中の神であれ仏であれ、わしに従わぬことがあろうか。
もういつまでもここに置いておくことにしよう」と考えていた。

秀吉公がこの石をあれこれと歌に詠んでいるとき、ふと睡魔が襲ってきた。
「眠の来れば打眠す」という古句をくちずさんで、枕に寄りかかって昼寝をしていると、
夢ともなくうつつともなく、一尺ほどの不動明王が剣を提げ、秀吉公の枕元に近寄ってきた。
その不動明王が秀吉公の眉間を斬ろうとしたとき、秀吉公は胸騒ぎがして夢から覚めたのだった。
「これは不思議なことだ」と思っていると、衣も透けてしまうほどに大汗をかいていて、
しばらくは人心地もなくただ呆然としていた。

「しかし世の中の怪しい現象というのは夢幻泡影というではないか」と考え直したが、
その夜もまた同じ夢を見たので、「これはただ事ではない」と思うようになった。
また紹巴法師を呼び寄せて、「芸陽の福王寺から取り寄せた石はただの寺の物なのか。
それとも神でも仏でも主のあるものなのか」と尋ねた。
紹巴は、「あの寺には昔から池があります。この池の主は緑毛の亀というそうです。
その寺に吉事があるときは、まずこの亀が水の上に浮かんでくるといいます。
池の水の上の方に大樹がありまして、木の下に長さ一尺ほどの不動明王が据えられているそうです。
この不動の前にこの石がありました。
ですからその石の主は不動明王だと聞き及んでおります」と答える。

秀吉公は、「では不動明王がこの石を深く惜しんで、こんな霊夢をお見せになったのだろう。
なんとも恐ろしいことだ」と、すぐに早船を用意してその石を元のところに返し送り、
また不動明王へは黄金百両を寄進した。
石がすばらしかっただけでなく、仏もまた霊験あらたかだった。
世は末法の時代になったとは言いながら、仏の力はまだ健在だと、人々は皆信心を深くしたのだった。


以上、テキトー訳。この章はここまで。

まず家親、「これはいい石だ」とかいって盗んできちゃいけません。
武士ってのは盗賊なのか? うーん、違うと言えないところが苦しいな。
なんか英雄譚みたいな書かれかただし、ヒーローが盗みしてもオッケーなのかもね、このころの感覚では。

あとまさかの香川又左登場。ちょろっと名前だけだけどね。広家も。
正允と又左は、なんでまた二人きりで寺になんか行ったんだろうか。デートなの?
まあ普通に考えればお役目とかですよね。そうですよね。わかっちゃいるんですけどね。

伊勢物語の藤原常行と禅師の皇子もなんかちょっとアヤシイ。
「最近はご無沙汰でしたね。今夜はお供しちゃおうかな~」で大喜びする皇子って……
つまりはそういうことなの?
いや、藤原頼長さんの例もあるし、平安貴族って男色盛んだったみたいじゃない。

どうしてこういう思考回路なのかというと、日曜日に久々に同人イベント行こうと考えてるので、
脳内がちょっとお花畑になっているという。だって何年ぶり? 数えたくない。
そんなわけでたぶんしばらくこんな調子だと思います。
こういう話見たくないのにうっかり見てしまった人にはご愁傷様としか言いようがありません。
2012-02-23

秀吉が夢を見て何か引っかかったらしい石にまつわる話

やばかった。今日は夜会議だったのすっかり忘れてた。

そんなわけで昨日の章の続きだけど、今回は箸休め的小話な気配。


芸陽福王寺の名石のこと(上)

同(文禄二年)三月、太閤は去年安芸の国の福王寺から取り寄せた名石を元のところに送り返した。
その理由はというと、新たな霊夢のお告げがあったからだという。

そもそも、その名石が福王寺にあったわけはというと、
昔、芸州に温科左衛門尉家親という者がいた。
勇名を世にとどろかせただけでなく、力量でも人に優れ、鬼と首引きしたとしても負けるものか、
二王と相撲をとっても地に投げ捨ててやろうと思うような、勇ましい心の持ち主だった。

その家親の父は家親の生まれる前、常々こう考えていた。
「子供はたくさんいるが、どんな道でも世の人に名を知られるような子はまだいない。
末の世までも人に名を知られるような子を一人もうけたいものだが、それは人の力の及ぶものではない。
ただ神仏に祈願するしかないだろう。
となると、諸仏のお力はどれが優れどれが劣っていると言うわけではないが、
なかでも観世音菩薩は三十三身に変身できるだけでなく、大きな願いをかなえてくださるそうだ。
その御経を見ると、もし女人がいて、どうか男児を産めるようにと観世音菩薩に礼拝・供養をすれば、
福徳智勇の男児を授かる、との経文である。
その御仏にお頼みして礼拝・供養をなせば、きっとこの願望が捨て置かれることはあるまい。

昔から文武の誉れある者は、幾千とも幾万とも数知れない。
そのなかでも三歳の幼子までその名を知っているのは、唐土ではハンカイ、
我が国では武蔵坊弁慶・朝比奈の三郎である。
唐土は四百余州もあるから、ハンカイに勝る勇士も、きっと古今にはいくらでもいただろう。
それでも、勇士と聞いてまず諸人が真っ先に思い浮かべるのはハンカイだ。

また我が国は、開闢以来、六十余州に大変なつわものが多くいたが、
指を折って数えてみると、まず親指には弁慶、その次には朝比奈がくる。
これはただ勇が諸人より勝っていただけでなく、力量が古今に傑出していたためだ。
ならば私も大力持ちの子をもうけ、あれこそ温科弾正忠の子だと、現代でも賞賛され、
その子の力強さが語り継がれ、末代でも親まで人に名を知られるようになりたい」

こうして夫婦一緒に百日間も精進潔斎して、
「南無大慈大悲の観世音、我に大力量の男子を授けたまえ。
末の世までもその名を残したまえ」と一心不乱に祈願した。
またあるときは、「南無観世音菩薩」と一日に一万回も唱えたり、
普門品三十三巻を一夜のうちに読誦したりした。
すると百日目の夜、夫婦ともに仏前の柱にすがりフラフラと寝入っていると、
夢なのか現実なのか、観世音菩薩がその尊いお姿を顕して、
門前の二王尊を授けられたところで目が覚めた。
夫婦同士で霊夢のことを話し合って、「きっと祈願が成就したのだ」と
歓喜に満ち溢れた様子で下向していった。

本当に願いがかなったのか、女房はやがて懐妊した。
男でも女でも、子供はたくさんいたが、今回は様子が違った。
胎内にいるときもまったく苦しみはなく、臨月になるとするすると産まれた。
急いで取り上げて見ると、普通の子よりはるかに大きくて、眼光は日月のごとく、
腕にはむくむくと毛が生え、前歯も三本生えていた。
ためしに何か食べさせてみようと、七夜が過ぎてから父が食べ物を赤子の口に入れると、
ムスムスと噛んで飲み込んだのだった。
「これは凡人ではあるまい」と喜んで、夫婦は大事に大事に育てた。
その子は、六、七歳にもなると、十六、七歳の者たちと相撲をとっても簡単に勝つようになった。

成長した家親は、武田判官元信に随伴して上洛した。
これは二人といない大力持ちだと禁中でも評判になり、呼び出された。
家親は洛中の人々に自分の力量を見せようと思い、あるとき祇園へ詣でて畳紙を取り出し、
社壇の東の角の柱を片手で引き上げ、その下へ畳紙を入れて、そろりと柱を置いた。
諸人はこれを見て「こんなことは人間にできるはずがない。これが鬼というものだろう」と恐怖した。

その後、細川右京太夫が自宅で一式式部太輔・赤松備前守・大内左京太夫・畠山修理大夫・
武田判官などを饗応した後、温科の力量の噂をした。
「噂は聞いているが、まだ目にしたことはない。
元信よ、その家親というのをここに呼んでくれ」と言うと、
判官は「お安い御用ですとも」と使者を遣わして家親を呼び寄せる。
「何でもよいから力のほどを見せてくれ」と言うと、
家親は「どんなことでも御所望にお答えしましょう」と答えた。

ちょうどよくそこに囲碁があったので、右京兆が
「その盤に碁石を押し込むというのはどうだ。
そんな技があると聞いたことはあるが、この目で見たことはない」と言うと、
家親は「承りました」と言うや、続けざまに三つ、親指で押し込んだ。
右京太夫はかねがね家親に恥をかかせてやろうと思っていたのか、周径が七、八寸、
長さ七尺ほどもある鉄の棒を、ずいぶんと金と時間をかけてこしらえておいて、それを出してきた。
「この鉄棒はその昔、新田義貞の家来であった篠塚が持っていた棒だと言い伝えられている。
とある力持ちの法師がいて、真ん中から真っ二つに引き裂いたが、篠塚がまた押し直しておいたという。
これで力業を何か見せてはくれないか」と右京太夫が言った。

家親は、「篠塚は世に聞こえた大力だったと聞き及んでおります。
どうして私などが真似できましょうか」と言いながら、鉄棒を取った。
そのまま易々と押し開き、キリキリと縄のように拠り合わせて投げ出し、
「今なら都の辺りには大力の人はいくらでもいるでしょう。
これを解かせて元通りにさせてください」と言う。
これには京兆をはじめとして、皆仰天したようだった。

これは先日、細川殿の内衆の白川何某という力自慢と家親が六条川原で相撲を取ったのだが、
三番連続で家親が片手だけで投げて勝った。
それまでは白川が日本一の大力の相撲の達人と称されていたのに、
家親に片手投げにされたのを、主人の右京太夫が心底悔しく思って、
こんな茶番を用意したのだと、後に噂になった。


以上、テキトー訳。続く。

短めだけどこのへんで。
朝鮮編に一区切りついたところで、今回は日本の話。
秀吉の話かと思ったら石かよ。しかもなんかまた唐突に昔話が始まったよ。

すでに子供がたくさんいるにもかかわらず、「有名になれそうな子がいないから」って
神仏に全力で祈願してまで力持ちの男児を授かろうとする夫婦……アグレッシブだなぁ。
それに「親の七光り」ってのは聞いたことあるが、この夫婦、
「子の七光りで親まで有名になりたい」とはすさまじいな。
我が子の芸能界入りを目論む親だって、そうそう「親まで有名に」とは願わんと思うぞ。

……しかし、石の話はいつ出てくるんだ?
と言うわけで次回も続き。
2012-02-22

滾った! 正矩が滾ったァ!!!

これまでのあらすじ:
「ある説」では、清正は都周辺にいた明軍を諸将の反対を押し切って夜討ちをかけ、
誰もが怯んで手出しできずにいた明軍を追い払ったそうだ。
しかし著者はこの説に疑念を抱いていた。だって都にいる諸将だって、清正に劣らない名将ぞろいなんだもの。

てなわけで、今回は広家以下がどんな名将かってのが力説されてるよ!


加藤主計頭都へ帰り入ること並びに清正夜討ち批判のこと(下)

吉川広家様は父の元春にも劣らない勇将である。日本では数々の戦功を打ち立ててきた。
この先日も、江陽でこの広家が「ともかくも攻め懸けて一戦するべきだ」と呼びかけたが、
隆景卿が二度も「経験豊富な将が多くいるのだから、
まずは皆の意見を待ってから、意見があるなら言うように」と諫めた。
それなのに広家は「一晩陣を構えている間に、足軽たちは夜陰にまぎれて都へ逃げ込んでしまう。
ただ突きかかって一戦しましょう」と、主張した。

敵の河南勢百二十万騎が勝ちに勢いづいているときでさえ、こうして「一戦すべし」と勇を奮い起こし、
一番に駆け入って、自分自身も敵を馬上から突き落とし、勇を顕したのは広家である。
また霊仙でも、敵五万騎にわずか三千の手勢でかかっていって一戦のうちにたちまち切り崩し、
二、三千ほどの敵を切り捨てにしたので、太閤はこれに大いに感じ入った。
こうして大勢の敵を見てさえ怯まず進む広家が、敵が敗軍の兵を集めて陣取っている状況で、
どうして臆し、退却しようなどと言うだろうか。

福島左衛門太夫(正則)は、十八歳のときに播磨上月の合戦に参加し、
南条伯耆守の郎党を討った後、江州賤ヶ岳の合戦のときも、七本槍と称される人々にも劣らず勇を顕した。
その後何度も戦功を上げ、清正にも劣らない鬼神のような人だと人々に噂されたものだ。
この人がどうして年来の勇猛ぶりを忘れたかのように「逃げよう、引こう」などと言いだすだろうか。

黒田勘解由入道如水は播磨の小寺家の養子となっていたこともあったが、
とある事情があって流浪の身となった。
はじめは小寺与吉と名乗っていたが、そのときから何度も武勇を顕しており、
良将の誉れは世に例を見ない。先年、秀吉公が小田原の北条氏政を取り囲んだとき、
その城を点検した後でさも愉快そうに笑った。
「これほどの大軍は、その昔源頼朝が富士川に押し寄せたときは二十万騎だったと聞いているが、
その後なら北条家が千早の城・吉野の城を攻めたときは百万騎もいたそうだ。
それは古い昔のことなのでよく知らんが、きっと百万の兵をうまく使える良将が多かったのだろうな。
しかし今なら、百万の軍勢を操って、自由自在に使える者がいるだろうか。
おそらく我が国六十余州にはいないだろう」と言ったが、ややあって、
冗談ぽく「これを使えるのは黒田勘解由だ。ほかにはいまい」と言った。それほどの良将である。

とりわけ秀吉公が今回朝鮮に黒田を渡海させたのは、
黒田が天下を望んでいるのではないかと秀吉公が懸念したからだった。
三人の憎まれ者と呼ばれているのは、黒田如水・尾藤神衛門・神子田半左衛門である。
そのなかで如水は何の罪もなかったが、
秀吉公は「諸将が唐に渡っている隙を狙って、この入道め、
謀反を企て天下を手に入れようとするのではないか。
これほどの難敵を日本に置いていられるものか」と思い、
「お前は朝鮮へ渡り、諸将の合戦の評定にもし間違いがあれば諫言をせよ」と言って渡海させたのだ。

その子息の黒田甲斐守(長政)は、勇も智も父の入道如水に勝るとも劣らない将である。
そのころ勇将と賞賛されていたのは、黒田甲斐守・福島左衛門太夫・加藤主計頭(清正)・
吉川侍従・長曽我部土佐守(元親)・加藤左馬助(嘉明)などで、揃いも揃って勇にずば抜けた良将だった。

また立花左近将監(宗茂)は、父の戸次入道道雪にも劣らない勇将で、
先年島津と大友が矛を交えたとき、大友は毎度戦利を得られなかったが、
この左近だけは薩摩の大軍勢にもいささかも臆さず、何度も合戦に及んだ人なのである。

前野但馬守(長康)・加藤遠江守(光泰)も、三奉行の軍事面の後見役として
秀吉公からつけられたほどの人たちである。
石田・増田は武功がなかったが、大谷刑部少輔は、勇その道では加藤・前野にも勝るほどの人だった。

このように、皆智勇全備の良将たちだからこそ、先日はたった八万の勢で河南勢百二十万騎に打ち勝ち、
二里も三里も追い討ちにできたのだ。
しかもこうした良将は一人だけではなく数十人もいたのだ。
百二十万騎の敵を前にして少しも臆さず、突きかかって一戦を遂げ、追い崩して、
敵は今たった四十万騎になっている。
そのうえ先日江陽で完膚なきまでに叩き潰した同じ敵を前にして、
どんな理由があってそれほど恐怖するというのだろうか。
一戦せずに釜山海まで退こうなどと思うはずもない。
都に籠もっていたこれらの良将が、これまでの智勇を完全に捨て去って愚将・弱将となり果て、
意味もなく釜山海まで引き返そうと言ったという説はまったく信憑性がない。

ことにそのころ江陽の合戦に参加した者や都にいた人々は、家人がここまで調子づいて言うほど、
加藤主計頭が大活躍したとは聞いたこともなかった。
もしこの誇説のとおりならば、そのころ都にいた諸軍士は言うに及ばず、
我が国にもそのことが知れ渡るだろうから、三歳の幼子でも知っていそうなものなのに、
これを知るものはまったくいない。
ただ清正の家人だけがこうした説を信じているのはなぜなのか。
これほどまでの名誉の勇を顕したのであれば、人が知らないというのも不思議な話である。
これはきっと誇説に違いない。

朝鮮で数万の敵を数千の味方で追い崩した合戦というのは、
四、五万の敵に味方三千で勝った広家の霊仙の一戦、
敵一万余りを中国勢七百騎で追い散らした玄風の一戦である。
そのほか黒田たちも、数千の手勢で二万や三万の敵に勝ったことが何度かある。
何度あっても、取り立てて勇猛なことだとも感じていなかったため、
これを人に向かって自慢げに言いふらすことはしなかった。

きっと清正は、江陽の一戦に参加しなかったので、武勇のほどを他の諸将に見せ付けたいと思っていたところ、
幸いにも近くに陣取っていた大唐勢に夜討ちをかけて切り崩したのだろう。
都にいた諸将の手に負えないことを清正の一分で成し遂げたのではないはずだ。
そのとき都にいた者は、諸将の手に負えない大敵を清正一人の智勇で切り崩したという話は
聞いたこともないそうだ。

もし清正の家人が言うとおりならば、都に陣を敷いていた諸将は、
大友のように「大臆病者」と罵られ所領を没収されていただろう。
また末代に至っても皆大臆将の汚名を着せられ、天下の弱将と呼ばれているはずである。
しかし宇喜多・小早川・吉川・黒田・福島・立花・高橋・前野・加藤といった人々は、
今でも古今無双の名将と称されている。これをもって知るべし。

清正の家人たちは「朝鮮の戦はすでに大昔のことだ。
今は実際に見聞きした者たちも老いて死に絶え、生きている者は稀だろう。
ならば何を言っても、それは違うと言い返してくる者はいないだろう」と、
主君の勇を知らしめるために、三歳の幼子でも本当だと信じ込むように吹聴しだしたのだろう。

また小西と清正は仲が悪かった。
清正の家人たちは小西を嘲弄して「小西は大臆病者だ。
唐勢に対峙して追い崩され、ほうほうの態で逃げ出した」と言う。
これは美点をも覆すほどの浅ましい行いではないか。

それというのも、河南勢百二十万騎を相手に城を落とされなかったことだけでも勇のなせる業だというのに、
ましてや一方を切り破り、都へ帰ってきたのは大勇の至りではないか。
大いに称美すべきことなのに、「臆病だったから逃げ帰った」と非難するののだから、実に嫉妬深い。
武道の理に通じていない証拠だ。

これもまた大いにばかげた話だが、小西は清正に先立って都に入ったことを誰もが知っている。
それを逆に清正が都入りの先陣だと言い立てるのは真実を歪めて嘘となし、
嘘をもって信実だと言うようなものである。

木村又蔵が主君の清正に向かって
「都と思しきところに煙が見えます。あれはきっと都でしょう。
あの丑寅(北東)の方に旗が見えるのはまさしく小西殿の旗です」と言ったのを、
清正が本当だと思って馬に乗って駆けつけると、すぐに都に入ったと家人たちは言った。
これは小西が先に都に入って陣を取り固めていたからではないか。
また煙が上っていたというのは、小西が先に都入りして内裏に放火した証拠ではないか。
この煙を見て、清正が都だと確信して駆けつけたのは、清正が小西より遅かったからではないか。

こうして自分の主君の勇名を高くしたいからといって、後陣を先陣と言い、
あるいはありきたりの勇を大勇だと誇張し、嘘を真実だと吹聴するものだから、
さしもの勇将の清正がそれまでになしてきた真実の武勇も、
家人の虚説のせいで信じられない気持ちになってくる。
清正の勇の誉れを高く印象付けようとして、かえって年来の智計謀略も
すべて徒ごととなることを知らないのだろうか。

たとえ清正に事情があって都入りが遅くなっても、これはまったく恥ではない。
清正は日本では武勇で諸人を引き離していたからこそ、朝鮮侵攻の先鋒に任じられたのだ。
いまさらどうして弱将だなどと言われようか。
昔、治承のころには、佐々木高綱・梶原景季が宇治川の先陣を争ったときに、
梶原は結果的に二陣に下がったが、梶原を臆病な侍大将とは言わなかった。
熊谷直実・平山季重が一の谷の先陣を争い、熊谷が二陣に決まったが、直実の勇名に傷はつかなかった。
これを考えれば、清正が二陣だからといって勇名が衰えることはない。

太閤がまだ羽柴藤吉郎と名乗っていたときから付き従い、旗をさし、秀吉公に供奉し、
三十余里を一日にして進んだことで「虎は一日に千里をゆくものだ」と、虎助と名付けられた。
その後も江州賤ヶ谷の合戦、肥後天草の合戦、そのほか多くの勇を顕し、
今は肥後半国の主となった良将の器量のある人である。
特に自慢などせずとも勇将だと賞賛されるものなのに、世俗に言うように、針を棒のように言い立てるために、
開城の夜討ちのことで主君の手柄を強調し、諸将を大臆病者のように言うのは、
まったく愚の骨頂で、その阿りの深さは言語に尽くしがたい。

清正は日本の地における勇は言うに及ばず、朝鮮でも帝王兄弟を捕虜にして、
とりわけウルサンに入ったときの勇は古今無双なので、
自慢げに言い立てずとも、世間は怯将とも庸将とも言ったりしない。
それなのにこうして虚説をでっち上げるので、
さしも名高い清正の武勇・戦功を、後の人はかえって疑いながら見なければならない。
やりすぎはかえって君徳を損する、無言が一番だ、ということである。


以上、テキトー訳。

うん、そうだね。でも正矩、滾ってるけど、それは正矩・宣阿にも同じことが言えるよね。
陰徳記・陰徳太平記で毛利・吉川がこれ以上ないほど持ち上げられているために、
その活躍をかえって疑う人もいっぱいいる。
昔からそうだし、今も変わってない。
研究者と名のつく人だって、贔屓の人物を称揚したいがために、
ほかの人物を不必要に貶めようとするくらいだし。
まあ恵瓊研究本で広家が「毛利のトラブルメーカー」って強調されてたのをまだ引きずってるわけだけど。
私も何か書いたならそうなる。

ていうかさ、誇張されてないと面白く読めないよね!
結局広く知ってもらうにはセンセーショナリズムなんだよね!

今回の収穫:
如水さんが秀吉に「百万の兵を率いることができるのはこいつだけ」って言われて
警戒されて朝鮮に飛ばされた説は陰徳記にも出てるんだねぇ。
この説はいつからあったんだろうか。

以下は恵瓊本への愚痴。

続きを読む

2012-02-21

清正と三成と火花

だいたいの流れ:
小西に先を越され、上陸から都入りまでイイトコ見せられなかったものの、その後は
加藤(清)無双で朝鮮帝王兄弟を捕らえる→明の勅使にギャフンと言わす、まで読んだ。


加藤主計頭都へ帰り入ること並びに清正夜討ち批判のこと(上)

こうして清正は同(文禄二年)二月下旬に長橋を出立し、
十六日行軍して都より手前の川耳に陣を構えていた。
鍋島加賀守はその夜にじかに都へと入った。
セルトウスは清正の郎党の津田三四郎という者に預けられていたが、
どうしたことか、その夜にセルトウスは忍んで逃げ出してしまった。
清正は怒りをあらわにしたが、どこへ逃げたのかもわからないのでどうしようもなく、
翌日に清正も都へ入り、帝王兄弟やその他の捕虜たちを、石田治部少輔やそのほか三奉行、
そして宇喜多中納言をはじめとして日本の諸将に見せた。すると皆、清正の勇に感歎したのだった。

ある説では、加藤主計頭清正が都入りすると、日本の諸将は
「はるばるオランカイまで行き、そのなかでも朝鮮の帝王兄弟を捕虜にしてきたことは、
勇といい智といい文句のつけようもないもので、さらにこれは他に類のない忠節だ」と大いに感服したという。
宇喜多中納言をはじめとして、清正を招いて饗応をすることになり、
次第に順番がめぐって、石田(三成)が清正をもてなす番になった。
その日は美酒も数辺めぐったあと、石田が四方山話をし始めた。

「ここに諸軍勢が籠城していて難儀なので、なかなか思うように羽も伸ばせない。
というのも、開城のこちらのほうに、河南勢が数十万で陣取ったのだ。
また河の向こうには万郎耶が三十万騎を率いて陣をすえて睨みを利かせていたから、
日本勢は実に籠の中の鳥、網の中の魚のようだった。そのうえ兵糧の補給もないのだから、
そのまま籠城していても飢え死ぬのを待つだけだ。
そうなるよりは一矢でも報いようと、あの四十万に及ぶ大軍を相手にしたところで、
まともに戦えるわけがない。この状況では、まずは釜山海まで退却するべきだと思う」

加藤はこれを聞いて、「私はまったく同意できない。
朝鮮征伐のために渡海してきたのだから、敵が大勢だからといっておめおめと退却するべきではない。
実際兵糧の調達に難儀して引き退くとしても、ともかく日本へ使者を遣わして
太閤へそのことを申し上げ、お許しを得てからの話だろう」と答えた。
石田と加藤はもとから仲がいいとは言えない間柄だった。
治部少輔はせっかちな男なのでたちまち顔色を変え、加藤に食ってかかった。
「確かにそれはそうかもしれない。しかし日本に伺いを立てている間、何を食えばいいのだ。
使者が往来している時間が待てるのか」
清正は、「食べるものがなければ何も食わずにいればいい」と答える。
加藤遠江守は「砂を食っていれば問題ない」と言いのけた。

そのとき清正が「さて、数十万の軍勢が幸いにも川のこちら側へ渡って陣を構えていたのを、
なぜ追い崩して跳ね除けなかったのだ」と声高に言うと、
石田三成は「味方は少数しかいないのに、どうやったら十万の大軍をやすやすと追い散らせるというのか」
と激昂する。
清正は「どうということはないだろう。私なら一万の手勢でたいした手間もかけずに、
一刻ほどの間に切り崩して敵勢を皆川水へと追い込んでやるぞ」と言った。

石田は「そんなに簡単だと言うなら、清正の手勢だけで追い崩せばいいではないか。
これに関しては鍋島勢も同意していないようだ。
ほかの諸将からの加勢も一人もいらんのだろう」と言い募る。
清正は、「他人に協力してもらって切り崩しても清正の勇にはならん。
今に見ていろよ、河南勢の首をことごとく刎ねて実検に入れてやるぞ」
と荒々しく言い捨てて、その座を立った。
夜討ちで仕留めてやろうと八千の手勢に出陣の用意をさせていたので、諸将は数百ずつ援兵を遣わした。

さて清正は夜半に敵陣へと押し寄せたが、
唐勢はまさか敵が攻めてくるとは思っておらず油断していたようで、
夜討ちに気付く者もなく、皆静まり返って眠っていた。
蝋燭が多数灯されていて本陣と思しきところに近づくと、清正はドッと鬨の声を上げる。
敵が慌てふためいて騒いでいるところに、清正が大将の万郎耶を切り伏せてしまうと、
清正に従っていた軍兵たちは我も我もと打ってかかり、皆分捕り高名を果たした。
清正は高いところに上って祐筆を四、五人呼びせ、諸将からの援兵に対して「
首いくつ討ち取った手柄は明らかである」と感状を出した。
陣の後ろを見ると、蔵がいくつか据えられていて、その中には米や大豆が数万石備蓄されていたので、
牛馬に載せて都へ持ち帰り、石田をはじめとして諸将に分け与えたという。

この説の言わんとするところを考えてみると、清正はさすがに強将なので、
河南勢十万余騎をわずか一万騎で夜討ちをして勝利を得たというのは間違いないようだ。
さもありなん。しかしこれは清正の家臣たちが主君の勇を強調するために誇張したものだろう。
その根拠はというと、そのとき都に籠もっていた将たちも、皆清正に劣らぬ智将・勇将であったからだ。

まず宇喜多中納言秀家は、太閤が朝鮮へ派遣した諸将のなかでも、
自身の代理として大将の名乗りを許した人である。
この人はまだ三十歳にも満たない将なので、ほかの将に比べると戦功そのものは少ないけれども、
秀吉公がかりそめにも諸将への命令を司らせたということは、それ相応の勇智を備えていたということだ。
とりわけ後見役としてつけられていた叔父の宇喜多七郎兵衛尉入道安心法印は、
かつて何度も勇を顕してきた大の剛の者で、兄の和泉守にも劣らぬ勇将である。
将としての器なら、清正にも引けを取らないだろう。

また小早川中納言隆景卿は、朝鮮へ渡した諸将の後見のために太閤が差し遣わしている。
まだ十七歳のときに芸陽の厳島で三浦越中守と自ら鉾を交え勇を顕してからというもの、
智計謀略は諸人に優れ、勇もまた当世の諸将に勝っている。
先日河南勢が小西のあとを追って都へ攻めかけてきたとき、開城に陣取っていたので、
石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門尉から
「そこを引き払って都に集まるように」と再三言われた。

しかし黄門隆景は「小西を敵が追い立てて攻めてこようとする勢いに怖気づいて、
敵の旗先も見ずに都に引き返してしまえば、治承の昔の平惟盛と同じだ。
ここで見捨ててしまったとあれば、大友の二の舞となるだろう。
敵をこちらへ引き付けて一戦してからなら、そちらの仰せに従おう。
日本を出たときから命は太閤に捧げたものと思い定めている。
この城へ河南勢を引き受けて防戦してかなわなければ切腹することになってもいい。
ただ逃げ出すことだけは承服できない」と返事をした。

そのとき三奉行はまた使者を送った。
「これは隆景の仰せとも思えません。
多数の日本の諸将の後見をするようにと秀吉公が思し召されているというのに、
黄門隆景が我が身一つの勇と世間体ばかりを気になさって、
大局の合戦の勝敗に心をかけないのはご不覚の至りだと思います。
それは千や二千の勢の対象を務める者の考えではないでしょうか。
それも勇一辺倒の侍大将なら、血気盛んな勇者と言うこともできましょう。
しかしこれはまた猪武者とも申すものです。

隆景がその地で一戦すれば、たとえ何度かは勝利を納めても、いかんせん多勢に無勢、
最終的には攻め滅ぼされてしまいます。
今は小西が城を落とされ、敵が勝ちに乗っているというのに、このうえまた隆景まで敗北してしまえば、
どれだけ考えても、これからの日本の勝利はないでしょう。
ですから、日本の日本の軍事の要は、隆景を置いてほかにないのです。
強弱剛柔全備の隆景がこのように言うのは、きっと天魔の仕業でしょう」
としきりに言ってくるので、隆景はこの説得に屈服して、開城を引き払って都へと引き揚げた。
このときでさえこんな風に考えていた隆景が、一戦で大勝利した後だというのに、
何の恐れがあって都から釜山海に退却しようなどと言うだろうか。


以上、テキトー訳。続く。

景様がなじられるって何か新鮮……ドキドキ。
でも景様のストレスゲージ高まってそうやね。おおコワイw
三奉行の隆景説得の詳細が、前に出てきたのと違うような気がするんだけど、
そこんとこちゃんとツメなきゃだめじゃない、正矩。

でもまあ今回は、清正と三成が可愛かったのでちょっと満足w
ガキみたいな喧嘩してんのな。
そもそも軍記でしかも「一説によると」って但し書きされてるから信憑性はアレだけども。
そんなのどーでもよーい!
「なんで敵追っ払わねえんだよ」「るせえ。多勢に無勢でどうしろってんだ」
「俺なら手勢だけで追っ払うね」「言ったなてめえ。吐いたツバ飲まんとけやコラ」
と、売り言葉に買い言葉で夜討ちをかけることになる清正。
あれ、これじゃ子供ってより893だな。まいった。

でも同輩相手にアツくなってる三成って微笑ましいよね。
個人的に冷徹な能吏のイメージがあるから、清正みたいなタイプが突っかかってきたら
ガン無視決め込みそうに見えるんだけどね。それが子供の喧嘩レベルの応酬www
たいへんおいしゅうございました。

次回も続きで諸将のことが書かれてるよ! ようやく広家とか福島正則とかの話題が出るよ!
たぶんチラッと見たところ、黒田も登場! やったねタエちゃん!

さてこの下は愚痴。

続きを読む

2012-02-20

清正「40万騎? ばっちこい」 勅使「アッー」

前回のあらすじ:
朝鮮出兵中に少し羽を休めていた加藤(清)のところに明の帝王から勅使が遣わされ、
「他の部隊は37564してやったけど、おまえは助けてやるから捕虜引き渡してカエレ!」と言ってきたよ。
でも清正は「日本は昔唐から王号を許してもらった」って言われたのにカチンときて
くどくどと神話というか歴史というか、とにかく
「日本の皇帝は神様の末裔なんだから大陸の王様より偉いんですぅ」という演説が始まった。
今回はその続きから。


大明の帝より加藤清正へ勅使のこと(下)

「我が国では神武帝の御時に、紀伊の国の名草の郡、高雄村に一匹の土蜘蛛が出た。
身は短くて手足が非常に長く、人間は力ではかなわなかった。
この土蜘蛛が多くの人々を傷つけたので、すぐに官軍を差し遣わして宣旨を読み上げ、
葛で編んだ網で捕らえて、ついにこれを誅罰した。

これが朝敵の始まりで、恵美の押勝・横萩右大臣豊成・藤原の広嗣・大友の皇子・守屋の大臣・
入鹿大臣・安部の貞任・宗任・平将門・藤原信頼・源義朝・平清盛・平宗盛・北条相模守高時、
そのほか枚挙に暇がない。しかし一人として帝位を傾けることすらできなかった。
皆死骸を軍門にさらしただけでなく、子孫は永久に絶え果てて、
「不善」の汚名をずっと後の世まで着せられることになった。

これらについては、皆人臣の身なのでともかくとして、昔は千万という逆臣に仕えていた鬼がいた。
土も木もすべて我が大君の国なので、どこに鬼の住処があるのだろうと読み取ろうとすると、
心のない鬼神すら逆臣に味方したことを悔いて、最終的には千万を捨て去ってしまった。
このことからも我が国の帝位が尊いものだとわかるだろう。

先ほど言ったように、震旦の帝王は王莽・禄山程度の逆臣に国を奪われ、韃靼の蛮族に天下を傾けられた。
帝位の軽さは鵝毛と同程度で、一枚の葉のようだ。
この清正は愚蒙の身ながら、大唐国裏の古今の盛衰を鑑みると、
大唐の帝位は我が国六十余州の権勢を握る武臣と等しいように思うぞ。
なぜかというと、昔は平相国清盛が、平治年中に藤原の信頼・源の義朝を討って、
天下の政治を自分のいいように執り行っただけでなく、位は従一位の太政大臣にまでなった。
これはあたかも秦の始皇帝の驕りのようではないか。

それを源二位頼朝が、父の仇だといって伊豆州で義兵を起こし、ついには一の谷・八嶋を攻め破り、
長門の国の壇ノ浦で平氏の一族をことごとく誅罰したのだ。
その後頼朝は征夷大将軍の宣旨を賜り、天下の武将となった。
しかし父子三代で絶えてしまったので、北条の時政が成り行き上天下の権勢を握り、上に仕えて忠を尽くし、
下を慈しんで徳を施したところ、九代の間は天下を保持できた。
しかし相模入道宗鑑の代になって、朝廷をないがしろにするようになったために、
足利尊氏・新田義貞に滅ぼされてしまった。

尊氏は大樹(将軍)の号を賜り、子孫十四代を経て、大納言義輝卿が三好に殺されてしまった。
弟君の義昭卿は織田の右府信長を頼って三好を滅ぼしはしたが、
やがてまた信長によって流浪の身となってしまった。
信長は主君を追い出し万民を苦しめたので、家臣の惟任(明智光秀)に殺された。
惟任もまた自分の配下の秀吉に討たれた。

炎帝八代の後に黄帝が滅ぼされ、夏は殷のせいで滅び、殷は周に天下を奪われ、そ
のほか歴代の君主の滅亡の様子は、あたかも我が国の武臣の盛衰のようではないか。
これを思えば震旦の帝位は我が国の武将とまったく同じである。
天照大神の末裔と並べて語ることはできない。
それなのにかえって百代王号を免除したなど、口任せに言い出すのは感心しない。

『允(まこと)に厥(そ)の中(ちゅう)を執(と)れ』とは、堯帝が舜帝に授けた言葉だ。
『人の心は乱れやすく、本来の道をはおろそかになりやすい。
だから一途に本来の道を追って、その中心を保つようにしなさい』とは、舜帝が禹帝に授けた言葉である。
唐堯虞舜は一言も嘘をつけとは言っていないぞ。
詩三百篇の思無、邪礼記の母不敬、尚書の欽の一字、周易の時の一字、春秋の勧善懲悪、
論語の我が道一貫、中庸の中和と誠、大学の明徳至善、孟子の性善養気など、
これらのなかでも『虚説を構えよ』などとは言っていない。
昔の人も『誠は天の道なり これを誠するは人の道なり』と言ったではないか。

大唐の帝ははなはだもって恥知らずであるがゆえに、人が恥をかいていると思い込んでいる。
恥を知らぬ者をどうしたものか。
昔、神功皇后が三韓を従えたとき、弓の上部で石の面に
『異国の王は我が国の犬である』とお書きになったと聞いているが、
清正は今、この文字は未来のことを予言していたのだとわかった。

また朝鮮の帝王兄弟のことは、官人にこの場で渡してやりたいとは思うが、私の判断だけでは難しい。
日本の将軍、豊臣秀吉に唐帝の勅定に従うべきかどうか伺いを立て、そのうえで勅に答えて申し上げよう。
また美婦人のことは日本に尋ねるまでもないから、この場で清正が取り計らおう。
さてこの清正は空の上にも飛び立てず、地の底にもぐることもできないそうなので、
まずはこの美人を天地の中間に置くとしよう」

清正は、すぐに磔の木を高く構えて無情にも女の手足を左右に引っ張り、左右の足を八文字に結びつけ、
黒々とした髪を後ろにまとわりつかせた。
美しい女は夢とも現実ともわからない様子で、ただ涙に咽んだ。

清正が声を荒げて「それそれ」と呼びかけると、見るも恐ろしげな武士たちが、
柄の長さは二間以上、刃を氷のように磨き上げた鑓を引っ提げて、スルスルと走り寄った。
そのまま、女の胸の辺りを二、三ヶ所、「エイヤッ」と声を上げて続けざまに突き刺した。
これを見て、さすがに強がっていた官人も「アッ」と声をあげ、その後はまったく一言もしゃべらなくなった。
もしかしたら自分たちも同様の憂き目にあわされるかもしれないと思ったのか、
震えわなないてすっかり顔色をなくしていた。

美婦人の亡骸は、さすが高麗一と言われるだけあって、花も妬む容貌は春の風に誘われ、
秋の雲に隠れた月のような姿だった。
かの玄宗皇帝が昔馬塊の原の塵となった楊貴妃との死に別れたときもかくやと、
朝鮮の帝王の心中の悲しみが推し量られて、心ある者もまたなき者も、皆袂を絞った。
朝鮮帝はこれを見て、そのまま地に崩れ伏し、足をばたつかせて泣いた。

それから清正は官人に向かってこう言った。
「小西は遼東境で一戦に打ち負け死んだというが、これならわかる。
これは日本の泉州境の浦の町人ではあったが、宗対馬守の縁者だということで、
道案内のために、諸将より先に対馬守を連れて渡ってきている。
秀吉の臣下として先鋒を仰せ付けられてきたのはこの清正だ。
小西のような町人を易々と討ったからといって、
この清正も同じようにねじ伏せられると思ったら大間違いだぞ。

四十万の大軍でも、ここは難所だから一度に懸かってはこれまい。
日に五万ずつ攻め寄せてくるなら八日、二万ずつなら二十日、一万ずつなら四十日か。
一人残らず討ち果たし、それからすぐにこちらから帝都に攻め寄せてやろう。
そのときに大明帝の龍顔を拝し、じかに御返事申し上げようではないか」

こう言われて、官人たちもただ呆然として、一言も発することができずに戦慄するばかりだった。
その後官人たちはしおしおと帰っていった。
清正は武勇が古今に抜きん出ている上、今回は何の罪もない美人を磔にかけて
牛頭馬頭のように無情に突き殺したので、大明人も朝鮮人も「鬼上官」と呼んで恐れたのだった。

  ※これ以前の三つの章と、小西の遼東バテンにおける籠城、並びに江陽の合戦は時系列が前後しているが、
   加藤・小西両将のことが混乱してしまうので、合戦の次第に詳しくない身では整理しきれず、
   連続して書き記した。


以上、テキトー訳。この章はこれまで。

ヤバイ。時系列とかちゃんと把握してなかったな。
ていうか朝鮮出兵の全体を一通りなぞってから朝鮮編に入れという話なんだが。
そうか。清正は小西たちとは別行動だったんだよね。
まだ小西たちが退却して開城の守りを固めてることを清正は知らんのか。

しかしなんつうか清正、痛快だな。
小西disは余計とはいえ、日本万歳ぶりがハンパない。
いや、ソースは神話なんだけどね。
朝廷もいろいろあって、暮らしぶりが涙なくては語れない有様だったりしたんだけどね。
それどころか真っ二つに分かれちゃってたときもあるんだけどね。
でもこの「ウチが一番!」な自信はちょっと憧れるよね。
戦後の自虐教育刷り込まれてきた身としてはさ。

そんで何の罪もない女を殺してるけど、あんまり悪逆とか残酷とかいう印象が浮かんでこないのはなぜだ。
「悲しいけどこれ、戦争なのよね」ってことか。
しかし秀吉がやると「このゲス!」って言いたくなるんだけどなぁ。
キャラの差か。全体的に清正がかっこいいからか。
そりゃ「大軍勢ドンと来い。受け止めて一人残らず殺してやる」とか、かっこええわな。
こういうシーンを映画とかドラマでやりゃいいのにな。
あ、在日外国人団体だの外国の団体だのが難癖つけてくるからムリですかそうですか。

さて次も清正の話だよ! どんだけ続くの! うちの広家さんはどうしてますか!
2012-02-19

虎之助のパーフェクトれきし教室

これまでのあらすじ:
加藤(清)の朝鮮進軍は絶好調で、オランカイ襲撃も成功したよ!
そこで朝鮮八道のうち四道の守備を任された将軍セルトウス、
波に流されてこの地に住み着いた日本人後藤をゲット。通訳って便利。
セルトウスの反応で、捕まえた朝鮮王兄弟も本物らしいとわかって一安心だね!

今回は清正が明の使節相手に語るわけだが、先にちょっとこれだけ言いたい。

清正「みんなー! 虎之助のれきし教室はじまるよー!
   それがしみたいな天才目指して、がんばっていってね!」


大明の帝より加藤清正へ勅使のこと(上)

年が明けて文禄二年正月五日、アンヘンにいる加藤清正のところに、
大明の帝王から官人三十騎ほどが遣わされた。通訳を通して大明の帝王の宣下を聞いた。
「日本は昔、大唐から百王百代の約束で王号を赦免していたのに、その約束を破り、
近代は貢物を献じることもなく、それどころか今度は小国の武臣ふぜいが軍兵をを渡海させて、
高麗国を切り従えようとしている。はなはだ奇怪の至りだ。

なので凶徒を誅罰するために万郎耶などに数百万騎の軍兵を添えて、
遼東口では小西摂津守をはじめとしてつくづく討ち果たし、
そこから都まで陣取っていた日本勢を残らず討ち取ったのだ。
帝都から釜山海までは日本勢は一人もおらず、今生き残っているのは清正と共にいる軍士だけである。
殺してしまうのは簡単だが、清正は智勇全備の良将である。
とりわけ仁義の道に忠実で、万民を慈しみ育てる志が深いと聞こえが高い。一旦はその命を助けてやろう。

今、清正の身の上は籠の中の鳥、網の中の魚のようなもので、天がいくら高いといっても飛ぶことはできず、
地が深くてももぐることはできまい。
こうして命が失われるときを待っているよりは、
すみやかに高麗の帝王兄弟や美婦人をこの勅使に別条なく引き渡しなさい。
そうして忠節を尽くせば清正に従っている軍兵も一人残らず船に乗せ、日本の地へと送り帰してやろう」

清正は、「私は日本という小国の武将、秀吉公の臣下の身として、
今大明四百余州を統べる帝王の勅定をいただけるのはありがたいことだ」と、
湯を浴び髪を洗って装束を改めたうえで勅使に対面した。
その後、日本染の小袖を二重ずつ勅使への贈り物とした。

清正は鍋島加賀守に使いを出して美人を呼び出し、宮人に対面させて
「この美婦人のことですか、それともこれは関係ない者ですかな」と尋ねると、
官人たちはじっと眺めて、「疑うところもありません。
天下に二人いるものならば騙すこともできるでしょうが、似る者もないのでこの者です」と答えた。

清正はそのとき、通訳を通して勅に答えた。
「我が国の帝王が、ずいぶん昔に大唐の帝から百王百代の王号を許されたというのはとても信じられませんな。
陛下もご存じないのではないだろうか。
我が大君は言葉にできないほどかたじけない、天神七代、地神五代の末裔でいらっしゃる。
そのお方に誰が王号を許すことができるというのか。

そもそも、天神七代というのは、第一は国常立尊、第二は国狭槌尊、第三は豊酙渟尊、
第四は泥土瓊尊・沙土瓊尊、第五は大戸之道尊・大戸間辺尊、第六は面垂尊・惶根尊、第七は伊弉冉尊である。
また地神五代といったのは、第一は天照大神、第二は天忍穂耳尊、第三は天津彦々火瓊々杵尊、
第四は彦火々出見尊、第五は彦波瀲武鸕鵲草葺不合尊である。
さて人王のはじめである神武天皇は、鸕鵲草葺不合尊の第四皇子でいらっしゃる。
このように、人間の種ではなく、かたじけなくも天照大神の御苗であらせられるので、
どうして下界の大唐の人と比べることなどできようか。天と地よりもなおかけ離れている。

そちらの国で崇敬している伏義・神農・黄帝の三皇、少昊・顓頊・帝嚳・帝尭・帝舜の五帝は、
皆下界の人間であって、皇天の末裔ではないそうだ。
だから人知の及ばないことが起きれば、天を仰いで日月星辰に祈りを捧げる。
その日月とは何か。
伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)ははじめに日の神をお生みになった。これが天照大神である。
大唐国裏だけでなく三千世界が崇めている日輪月光は、我が帝の皇祖である。
どんなに崇めても足りることはないというのに、百王百代の王号を免除したなどと言うのは、
天を嘲弄する振る舞いではないか。ああ、天罰が恐ろしいなぁ。

仏の二十三天では、五帝三皇ですら梵天帝釈天に比べれば下界の小王に過ぎない。
さて二十三天の頂点は毘盧遮那仏だという。つまりは大日如来のことだ。
大日とは何かというと、天照大神のことだ。
現在では僧侶たちが誇張して仏が本来のあり方であって、
神はその顕現に過ぎないなどと言っているがおめでたいことだ。
実は神が本質であって、仏がその顕現なのだ。

なぜかというと、我が国の垂仁天皇の御時、二十六年の十一月、新嘗祭の夜に、
倭姫命に祭祀を託してこう仰った。
『決して怠ってはならないぞ。よく聴きなさい。神代では人の心も皆清くて正直だった。
だから罪や咎などありはしなかった。しかし地神の末の代から、人は皆心が汚れていき、
根の国の底までさまようようになった。
このせいで西の天に真実の人が出てきて、皇天に代わって折りに触れ法を説くようになった。
その者の言葉もこの国にもたらされている』とな。

だから神明は託宣をやめて如来にその役を譲られたのだそうだ。
これを考えると、一切衆生の教主である釈迦牟尼仏も、皇天に代わって法を説いているので、
やはり仏が顕現であり神が本質なのだ。
我が国の帝王は三千世界の果てにある恒河沙、那由陀の仏国土の上に立たれている神明の末裔なので、
わずか四百余州の大唐の帝など、そのはるか下に見たとしても当然である。

人王のはじめである神武天皇以来、代々の聖主は徳も三皇五帝より越えていた。
だからこそ南蛮北狄、東夷西戎を恐れることもなかった。
今百有余代、天下に皇統が面々と続き、絶えたことはない。これから先もまた億兆の限りもなく続くだろう。
天に限りがあって傾き、地に限りがあって覆ったとしても、皇天の末裔は尽きることなどありはしない。
我が国の和歌(ヤマトウタ)にも、
『君が代は千代に一度いる塵の白雲かかる山となるまで』
また『君が代は尽くしとぞ思う神風や御裳川の澄まんかぎりは』と詠んでいる。
たとえ三災壊劫(火災・水災・風災)のときがきても、皇統は絶えはしないだろう。
これは天照大神の末裔だからこそである。

また三皇の古大昊の末裔もその名前しか残っていない。炎帝の後胤も黄帝に滅ぼされてしまった。
黄帝の子孫は代々聖主ではあったが、帝堯の皇子丹朱が愚か者で、天下を帝舜に譲ってしまった。
我が国の帝王は一代たりとて愚鈍だったことなどないから、皇孫以外に天下を譲ったこともない。
夏殷周の三代も、夏は十七代の桀に至って湯王に滅ぼされ、殷は三十代目の紂のときに武王に討たれた。
周もまた三十七代、八百六十七年も天下を保持してはいたが、
政道で天に背いてしまったので次第に帝威も衰えて、十二諸侯に分かれ戦国の七雄となり、
ついに天下を秦に奪われてしまった。
秦もまた二世の胡亥が臣下の趙高に殺された。
また前漢は王莽に天下を奪われ、後漢は魏に奪われた。唐は禄山に都を落とされた。
これだけでなく、宋は韃靼の異人に攻め込まれて天下を傾けた。
なんと浅ましい、恥ずべき、恨むべきことか」


以上、テキトー訳。続く。

虎之助たんもうやめて! 明の勅使のライフはとっくにゼロよ!!!
これ、聞いてる方も涙目だろうけど、通訳してる後藤も涙目だろうな。
ていうか今になって後藤って名前がジワジワきている。後藤って……www
しかもせっかく清正に名前もらったのにその名前が文中に登場しないという不憫さ。
あと私のライフもゼロになりそうです。明日仕事なのに知恵熱出そう。

清正もS属性だったんだねぇ。なんとなくMっぽいと思ってたんだけど。
戦で攻めても言葉で攻めても有能なのね。景様の威圧プレイには負けるがな!
でも湯を浴びて髪を洗って身なりもきちんとして応対するとか、イイよね。
隙を見せないぞって意気込みのように思えて、ちょっと胸熱。

明の勅使もハッタリすげえな。
「お味方は全て屠ってやったぞ。残るは貴殿だけ。一命は助けてやるので捕虜を返して帰国しなさい」か。
って言っても、捕虜を呼び寄せるにしてもナベシマンたちと普通に連絡取れてるし。
むしろ清正、明の官人の言葉通り、小西がヤラれてればいいのに、くらい思ってたかもしれないなw

そんなわけで次も清正が延々としゃべってます。
2012-02-18

清正しかおらん回

だいたいの流れ:
朝鮮に出てきたもののコレという戦功を立てられずに懊悩していた加藤(清)。
水垢離して天照大神や八幡大菩薩に「朝鮮の帝王を生け捕れますように! さもなくば殺せ」と願をかける。
祈願が通じたのか、朝鮮のなかで内通してくる者が帝王を捕らえておいてくれたので引き取ったよ。


清正、オランカイの城を攻めること

加藤清正は、オランカイの人々がとても勇猛で武力に自信を持っていると聞きつけて、
「ではその手のほどを見てやろう」と、「この辺りに敵城はあるか」と土地の者に尋ねた。
土地の者は「ここから五里ほど進むと、オランカイの人が籠もる城が十三あります」と答える。
「それなら一斉に攻め破るか」と、ホイレグのものを先陣として、合印に法華の題目をつけさせた。

こうして、十三の城へ手勢を分け、卯の上刻(午前五時ごろ)同時に攻め入る。
敵は正面だけは懸命に防戦したが、搦め手はこの国の習慣で防いでいなかった。
そのうえ堀すら構えていなかったので、後口からひたひたと攻め入ったところ、十三の城は易々と陥落した。
そのなかで川上の方の城の一つは清正自身が攻め落とした。

その夜は川下の方に陣を置いていたが、城を落とされた者たちが悔しく思ったのか、
夜討ちをしかけてきたけれども、たいしたこともできずに退却していった。
清正は敵を鉄砲で打ち払い、そのまま五、六里ほど追いかけていくと都についてしまった。
敵はまったく思いもよらないときだったので守備兵はきわめて少数だったが、
とりあえず防戦しようとしたところを、清正が鉄砲頭に命じて鉛玉を撃ちこむと、
敵はばらばらと退却していく。
そのまま都に乗り込んで火をかければ、一刻ほどのうちに一軒残らず焼き払い、
その日はすぐに五、六里ほど高麗の方に引き揚げた。

オランカイの者たちは、敵が来るとも思わずに油断していたところに、
清正に攻め込まれて都を焼かれたのを無念に思って、翌日には大軍勢を起こして清正に陣に押し寄せた。
清正はこれを待ち構えて散々に戦ったので、先陣はすこし引き退き、
そこにまた重ねて切ってかかると、にわかに空模様が怪しくなって雷鳴が大きく響き渡り、
土砂降りの大雨となったので、敵を追い詰めることもできずに、その日は本陣に引き返した。

翌日に決着をつけようと思っていて、夜のうちは大篝火を焼かせていたが、
余りにも敵の数が多く、また戦のやり方も高麗人とはわけが違っていたので、
さすがの大勇将の清正も「こんなときには兵を軽々しく入れるものではない」と、夜のうちに陣を払った。
そのまま朝鮮の内側の鬼セグというところまで撤退し、そこに五日逗留した。

ここで聞き込みをすると、また五日ほど東に道を行ったところに青州浦というところがあるという。
このばしょにセルトウスという兵がいるそうだ。
朝鮮八道のうち四道の大将軍だと聞いて、「では行って攻めよう」と、鬼セグを出発して駆けていく。

セルトウスは敵がここまで攻め寄せるとは思いもしなかったのか、
事態が急すぎて兵を整えることもできずにいた。少数の軍勢で難所を利用しつつ防戦しているところに、
清正が鴨平次を大将にして、二千余騎に鉄砲を差し添え、後ろの山から畳み掛けるように攻め懸ける。
セルトウスは不意に撃たれてついに生け捕られてしまった。清正がセルトウスを見ると、
面相はそこらの人間とは違い、実に大将の器と見える威厳があった。
年のころは五十四、五だろうか、身長は六尺五寸以上の、鬚の豊かな大男だった。

また同じところで後藤という者を一人生け捕った。
これは松前の漁師だったが、風に流されて二十年以上前にここに流れ着いたとのことで、
高麗のこともオランカイのこともよく知っているようだった。
清正は後藤に次郎という名を与え、現地の様子を尋ねたり、通訳を申し付けたりした。
後藤が言うには、「ここは高麗の東の果てで、日本へも近いところです。
天気がいいときには富士山も間近に見えます。ここからだと未申(南西)の方角ですな。
この青州浦にも松前のように昆布がたくさんあります」と言った。
清正は、「高麗は我が国から見ると西に当たるが、さては東の方に来てしまったか。
『余りに山の奥を訪ねて(本歌:なかなかになお里近くなりにけり、あまりに山の奥をたずねて(?)古歌)』
と詠んだ歌の心もよくわかるというものだ」と、カラカラと笑った。

そこから鏡の城へ五日かけて帰ると、セルトウスが帝王の様子を聞いて
「これは絶対に帝王ではありません。どこの馬の骨とも知れぬ者です。
この者は町人のようですが、帝王を落ち延びさせるために偽って帝王だと名乗ったのでしょう」と言い出した。
清正は、「では帝王とセルトウスを対面させればことの真偽がはっきりするだろう」と、
すぐにセルトウスを呼び出した。

帝王は一段高いところに南に向かって座し、その次席に清正が座る。
そのはるか末席へとセルトウスを案内した。
セルトウスは座中に上がろうとはせず、白州に頭をつけて涙を流し、ただ平伏するばかりだった。
額を砂に当てたのか血が流れ出てきたので、
清正が「あれはどうしたのだ。自害でもする気か」と次郎に問えば、
次郎が「いったいどうしたのか」とセルトウスに問いかける。

セルトウスは涙を押さえて、
「都から南、ケンタイ道・チグシャク道・ケクシャク道・センラ道のこの四つは牧司判官、
北のカアン道・エアン道・ヘハイ道の四つはセルトウスが軍事の大将を仰せつかっていたというのに、
甲斐もなくはかばかしい一戦もできずに、易々と生け捕られてこの命を永らえ、
今こうして帝王の御前に罷り出るとはあまりにも悔しい。
もう少し時間があれば、近隣国の兵を集めて一合戦もでき、
こうして帝王を生け捕らせたりはしなかったのに」と、顔を覆うこともせずに大声で泣き出した。

さてここから八日ほどの道のりのキツ州というところまで帰陣し、
ここで加藤右馬允・加藤清兵衛尉・加藤伝蔵・長野三郎左衛門・原田五郎右衛門・
天野助左衛門・山口与三右衛門に一千五百人ほどを添えて置いておいた。
蔵床には近藤四郎右衛門尉・安田善介、タンランには加藤与右衛門・九鬼四郎兵衛尉・井上大九郎、
リセクには庄代下総守・大脇二郎左衛門、ホクセンには吉村吉左衛門・堤権右衛門などに数百ずつ添えて、
各所に配置した。

そこから三日分の道の間は鍋島平五郎・成隅十右衛門・龍造寺七郎左衛門、
長橋には鍋島加賀守、また六日分の道の間は龍造寺衆、
その次のアンヘンには加藤清正が十一月の初旬から陣を置いて、
三冬の霜雪をしのぎ、陽春の温かな光を迎えてから華洛に入ろうと、年が暮れるのを待っていた。


以上、テキトー訳。

記事タイトルはほんのり反省してます。はい。

あれ、陰徳記って加藤清正公系の軍記だっけ……?
清正が吉川家中に憧れられてたというのか、慕われてたというのか、
だいぶ好かれてたんだな~というのがよくわかる流れだね。
配置人員とか詳しいってことは、吉川衆の誰かが加藤に添えられてたりしたんかね?

いやしかし清正さん大活躍ですなぁ。
広家っつったら自分で首一つ取ったくらいだよ。いやすごいけどさ、それも。
あと黒田さんちの息子さんの活躍も見たいんだけど、出てくるかなぁ。不安。
まあ黒田に関しちゃ別の物語なり何なりがあるからね。
広家をひとしきりストーキングしたらそっちを追うつもりなんだけど、
はたして広家ストーキングに終わりはあるのか???
あの、萩藩閥閲録とかも漁りたいんだけど一向に終わりが見えないぜ。

そりゃそうと、今日は国立国会図書館に行ってみたんだけど、
東京駅から皇居のお堀沿いにぐるっと歩いていったのね。天気よかったから。
風が冷たいし強かったから一瞬で後悔したけど。
その道沿いに清正邸跡があって、こっそり碑?みたいのが立ってた。
それが見れたのはちょっと嬉しかったな。また歩いて行こうと思う。
でも図書館にいるときに地震があって、思わず書庫の人をものすごく心配してしまった。
というかあの図書館、書庫ってどうなってるんだろう……謎。

さて、次回も清正。
2012-02-17

清正の切なる願い

いつも閲覧してくださる方は、ご訪問・拍手等ありがとうございます。
真面目に調べ物しててこんなサイトにうっかりたどり着いてしまった方はくじけないでください。
おかげさまで訪問者数が1,000カウント超えました。
絵や文は練習不足なので特に企画などはやるつもりないんですが、
もし万が一何かご要望などありましたらお聞かせ願えれば嬉しいです。
ご連絡は風の便りか虫の知らせで!(嘘)

さて今回は清正さん。

だいたいの流れ:
日本勢が入った朝鮮の都に押し寄せる明の大軍勢をキッチリ締めました。←昨日と一緒かよ
けど釜山海制圧・都入りでは小西行長が一番乗りを果たして戦功を独り占めしてるので、
いろいろと思うところがある将もいるようです。


加藤主計頭清正、朝鮮の帝王を虜にすること

さて加藤主計頭清正は、釜山海や都入りで図らずも小西に先を越されてしまったことを口惜しく思い、
どうにかして朝鮮の帝王を生け捕って面目を保ちたいと腹の底から思っていた。
しかし朝鮮王はどこに落ち延びたのか、まったく行方知れずだ。
「今は凡夫の力が及ぶものではない。神助にすがればもしかしたらこの祈念が通じるかもしれない」と、
清らかな水を取り寄せて七度も水垢離をし、東に向かって天照大神と八幡大菩薩を拝んだ。

「私は今、太閤秀吉公の命を受けて異国征伐の先鋒を務めています。
天照大神よ、どうか我が国と異国との戦争で、味方が勝利を得られるように眼差しを向けたまえ。
どうかお頼みいたします。
なかでも八幡大菩薩は、ご父君の仲哀天皇や神功皇后を思い出されて、
きっとご加護をくだされるでしょう。

今、この清正のたっての願いは、朝鮮の帝王をこの手に生け捕ることです。
私は小西行長とともに追手搦め手の先鋒の将として選び出され、
秀吉公の軍命を受けて異国に渡ってまいりましたが、
釜山海・帝都の先陣は行長に出し抜かれて、無念にも二番手になってしまいました。
ですからこの先、清正が異国や我が国の軍士の目を驚かすような勇を顕さなければ、
これまでの戦功が無駄になって、弱将の名を着せられるのは目に見えています。
なので、先に申したように、朝鮮王を捕虜にして、諸将を超える高名を上げたいと強く願っています。
この願いを聞き届け、神力を添えて、私の願いを成就させてください。

もしこの願いを受けてくださらないのなら、清正の二つとない命を今すぐに奪ってください。
このままでは面目が立たずに、本国に帰って人に見せる顔がありません。
もし三日の内にこの命が失われなければ、私の願掛けが成就する奇瑞だと信じます。
頼みをかけるだにかたじけない神の力だと、暗に神のご意思を察することにいたします」と祈願した。

清正は都に入って十八日後に帝都を出発し、七月五日にアンヘンというところに着いた。
小西は平安道から本唐境へと進み、咸鏡道へは加藤・龍造寺・相良などが攻め進む。
そのほかの諸将は皆、加藤・小西の後陣を詰めた。

さて清正は鍋島加賀守を待って、同十七日にアンヘンを出発し、同十九日に長橋というところに着陣した。
ここでは町中に高札が立ててあり、何が書いてあるのかと立ち寄ってみてみれば、
「高麗の帝王はここより奥へ退却なさった」と書いてあった。

加藤清正はこれを見て、
「世はすでに澆季(道徳が薄れ人情が希薄になった末世)に至ったといえども、
まだ神力は生きているのだなぁ。
この私の命を懸けて大願を立てたのを神が受け取ってくださり、
私に帝王を生け捕らせてやろうとなさっているのだろう。
天照大神、八幡大菩薩が感応してくださったのだ」と大いに喜んだ。
「急いで奥へ向かうぞ。少しも待ってなるものか」と進もうとする。

鍋島加賀守はしばし思案して、
「清正の仰せは至極もっともではありますが、一歩引いて愚案をめぐらすに、
高麗の者たちは帝王兄弟が落ち延びた方角を深く隠すでしょうから、
このように高札を立てて諸人に知らしめるようなやり方はいかにも不審だと思います。
きっとこれは謀略でしょう。帝王は別の道を行って、違う場所に落ち延びていると思います。
もし我らが敵の謀略に乗せられてウカウカと追っていけば、敵は思いのまま難所に引き入れ、
前後を塞いで易々と討ち取ろうとしているはずです。
これはさしずめ、我らをひきつける餌でしょう。
もう少しこの場所に控えて、ことの実否を確かめてから、あれこれと進めた方がよろしい」と進言した。
鍋島加賀守は龍造寺家の重臣であり、才知に優れて熟慮を重ねる人だと評判だが、
実にその通りだと、皆一同に感心した。

加藤清正は武勇一筋で、また並ぶ人もないような将ではあったが、
性格は無頼漢のような人だったため、他人の諫言を聞き入れることは稀なうえ、
これはひとえに天照大神・八幡大菩薩の神託だと思い込んでいたので、
鍋島加賀守の意見などどこ吹く風だった。
「敵の謀略とも何とでも言うがいい。この清正、帝王の落ち延びたという方角を耳にしながら、
敵の嘘かもしれないと追いかけないなどということはできない。
ただ帝王に会うまでは、南蛮・天竺までであろうと、馬の蹄が及ぶ限り、また我が命がある限りは、
訪ね行ってやろう。
後をまったく打ち捨てていくのはさすがにどうかと思うので、加賀守殿はここに留まっていてくれ」と、
加藤は鍋島に別れを告げて進んだ。

都を出て六十八日、鍋島と別れて五十二日が経ち、同(文禄二年)八月末日に、
オランカイとの境にある鏡の城というところに着いた。朝鮮人はトグセンと呼んでいた。
ここから四里先のホイレグという城に帝王はいた。
ここはまだ朝鮮の内ではあるが、重罪人を流刑にするような場所だという。
ホイレグから三、四里ほど手前に広野がある。
その中に山があり、その山に石垣を高く築いて城のように構え、流刑にされた者たちを置いていたのだが、
その左遷された者たちが、こんなところに流されたのを恨んで、帝王兄弟を生け捕ったのだった。
兄の方はイモハイクンシン(臨海君津)といい、弟はコウハイクンコン(光海君琿)という。
左大臣はホウクン、右大臣はハンジンゾウと名乗った。
そのほか公卿など二百人余りを生け捕って、その旨を清正へと伝えてきた。

清正はこれを聞き、「これは清正の念力は岩をも通したのだ。
だからこそこんなことがあるのだろう」と大いに喜んで、「急げ者ども」と、手勢の八千騎を率い、
その場所に赴いて陣を構える。
通訳を通してことの首尾を尋ねると、左遷された者たちは、
「帝王兄弟、そのほか公卿二百人はまだ生け捕ったままでいる。城外に出して引渡そう」と答えた。
清正は家之子郎党を集めて、「関係のない者を帝王だと名乗らせて渡されても困る。
できれば城中に入って直に帝王の様子を見たいものだ」と話し合った。

まずはカマをかけてみようということになり、宮田平七に大将と名乗らせ、
小田原半介という祐筆と、通訳の仙斉という者を門の近くに遣わして、
「大将がお食事をされる。門の内を少しの間お貸しいただきたい」と伝えた。
左遷された者たちが「数人なら問題ない。どうぞ内へお入りください」と返答したので、
食器や箸などを一人に一つづつ持たせて、強引に四十人余り内へ入れてみると、
長さは七、八町、広さは一町ほどもある大きな馬場があった。
その脇に瓦葺の家があって、帝王兄弟はそこに捕らわれていた。

確認ができたので「こちらへ渡してほしい」と言うと、
左遷された者たちはすぐに帝王兄弟を渡してきた。
清正は大いに喜んで、田寺久太夫・前野助兵衛尉に一千騎ほどを差し添えて鏡の城へ遣わし、
堅固に帝王兄弟を護送させた。


以上、テキトー訳。

どうでもいいけど章タイトル、「帝王を虜にした」って、清正、色仕掛けでもしたの!?
などと真っ先に考えてしまった私はいろいろと汚れている。

毛利勢がチラリとも出てこないわ。不満てわけでもないけど。
清正かわいいしな。水垢離の現場を●RECしたい。
たぶん水かぶったとたんに清正の体から湯気が立ち上るんだぜ。瞬間湯沸かし器清正。
冬はアンカ代わりにすると吉。
猫科(虎)だから放っておいても布団にもぐりこんできてくれるはず。
こんな風に思考が乱れるのは現在とても寒いからです。でも暖房はキライなの……!

この先もしばらく清正の話が続きそう。
広家も清正の馬印の意匠を譲られてるし、けっこう吉川家中では清正人気あったようだね。
てか清正は熊本では神だし全国的にも人気あるもんね。是非もナス。

そしてなんだかフラグ立てっぱなしで放置されているナベシマンが少し不憫。
清正「謀略だと思うんならここでお別れですな(スパッ」みたいな。
あんまり鍋島さんのこと知らないけど、評価低かったんだろうか。
とりあえず広家が秀元をdisるのに「龍造寺の鍋島みたいなことしようとしてる」とか
書いてた(広正宛書状)はずだから、広家的には覚えはよくなかったのかも。
この先に活躍どころがあるといいね、ナベシマン!
2012-02-16

名誉のためなら相手を殺して自分も死にます

あわわ、変なところで更新してもた。
上げなおします。

だいたいの流れ:
日本勢が入った朝鮮の都に押し寄せる明の大軍勢をキッチリ締めました。


井上・粟屋、鑓の一二の争いのこと

小早川黄門隆景卿は、粟屋と井上の江陽での戦いぶりが実に群を抜いていたので、
二人を呼んで直に褒美を与えようと考えていた。粟屋四郎兵衛尉は、
「今回の江陽の合戦の武功で隆景卿の感状をいただけるならば、
一番鑓は粟屋四郎兵衛と明記していただかなければ、戦の様態が明らかにならんだろう」
と言っていたが、これを聞いて井上に告げ口をする者があった。

井上五郎兵衛尉は、「これは思いのほかなことを言い出すものだ。
もちろん粟屋が一番にかかっていったが、一戦に打ち負けて引いていったではないか。
そこに私が攻めかかって敵を追い立てただけでなく、粟屋もそのおかげで危なく命を拾ったのだ。
今回はこの私の武勇が粟屋よりも勝っている。
どうして私が粟屋と同じ文章の感状を受け取れるというのか。
この戦功は粟屋といっしょくたに語られるべきではない。
ましてや、盃をたまわるならば、私が一通り終わってから粟屋が出てくるべきだろう」と言う。

粟屋はこれを聞いて、「合戦は時の運だ。
勝つも負けるも五分、私が敵に押し立てられたからといって、二番鑓に回されるわけがない。
それなら誰が一番鑓だというのだ。
井上が攻めかかっていったときに私が退いていたからといって戦功がその下に置かれるものではない。
私は井上五郎兵衛が懸かるのを見て、そのまま引き返して突きかかったが、それは二度目のことだ。
どうして井上の戦功を私と同列に語れようか。
もし酒をたまわるときに、井上が私より先に出るなら刺し違えて死んでやる」と言った。

井上も「粟屋が裂きに出るなら刺し違えて死ぬ」と激昂したので、
双方の組の者たちも、互いに優劣を言い争って、「刺し違えてやるぞ!」といきり立つ。
隆景卿も、「双方に同じ文言の感状を与えれば刺し違えると大騒ぎし、
まして一方に肩入れすれば、さらに大事になるのは目に見えている。ならば双方に感状は出すまい」と言って、
その後はまったく沙汰もなかった。

こうしたときに、太閤秀吉公から隆景卿へ、江陽の合戦の戦功を褒め称える書状が届いたが、
手勢の郎党が抜きん出て骨身を砕いたことが太閤の耳に入ったと言ってきた。
こうなったら井上・粟屋の一二の争いを安国寺恵瓊が仲裁するようにと指示した。
安国寺は、井上・粟屋に
「黄門がこのように仰っているので戦功の争いをおやめなさい。
そうすれば隆景卿も、感状はどちらも一番合戦と文言に載せ、
また両人をはじめとして組の者たちを呼び寄せて盃をくださるときにも、
二つの銚子で一緒に与えてくださるだろう。
このうえあれこれと言い立てるなら、黄門の御心を破ることになる。
そうなればこれまで尽くした忠はかえって不忠に変わってしまうぞ」と、
再三理を尽くして制したので、二人とも安国寺の仲裁に腹を治めて、
「ならばともかくお任せします」と了承した。

その後、隆景卿は二人を呼び寄せて盃を与えたが、安国寺が両手に二人をとらえて一緒に呼び出し、
二つの銚子で酒を与えて、そのほかの組の者たちも一度に二人ずつ出るようにさせた。
なんとも面倒な争いになったものだ。

粟屋は雅楽允の嫡子で、父子ともにたいそうなつわものだった。
特に四郎兵衛尉は、このときばかりだけでなく何度も武名を上げた者だ。
井上五郎兵衛はあ井上伯耆守の嫡子だった。
伯耆守は又右衛門と名乗っていたときから黄門の家中では肩を並べる者が見当たらないほどの勇士だった。
五郎兵衛尉はまだ年若く、初めて戦場へ出てから四、五年しか経っていなかったが、
毎度武名を上げる志は見て取れても、さしたる高名の機会もなく無念に思っていたところだった。
今回は他の人をおさえて優れた武勇を見せ付けてくれた。

隆景卿が勇将だからこそ、剛将の下に弱兵などいないのが世の習いなので、
井上・粟屋もまた勇に優れている。
子は父の業を継ぐものだから、四郎兵衛尉・五郎兵衛尉も、
雅楽・伯耆に劣らず強いのだと、世を挙げて称美したのだった。


以上、テキトー訳。

小早川家中も血の気多いな。なんで身内で争ってんの。
てかまあ、外で争ったら大変なことになるわな。
「刺し違えて死んでやる」とか、敵に向かって言いなさいよw

ちょっと意外なのが、安国寺がなかなかイイ役よね。もっと悪者扱いされてると思ってたんだけど、
家中の諍いを丸く治めるところとか、かっこよく描かれてんじゃない。
実際にいろいろと折衝に動き回ってるはずだから、安国寺に恩を感じてた人は多いと思うんだよな、毛利。
関ヶ原では生贄っつったらアレだけど、毛利の後ろ暗いところをすべてかぶって死んだ人。
この人の魅力がもっとわかれば楽しそうだよなぁ。
数ヶ月前に読んだ安国寺age本は、安国寺ageるために広家sageてたからなんかしっくりこない。

でもアレよね、安国寺が粟屋・井上両人の手を引いて隆景の前に来るシーンとか、
まるで結婚式みたいでワロタwww
BGMはタタタターン、タタタターン、タタタタンッタタタタンッタタタタンッタタタタンッタタタターンタンタタンタンタンタータラララ~とかいうやつだ。
おめでてえな。手を引いてんのは坊さんなんだけどね。

そういや井上っていうと元就に一族ことごとく粛清されて炊けど、
小早川についてって残ったのもいるんだねぇ。
元就が井上一族誅殺のときに隆景宛に切々と理を説いた書状もあったような気がした。
しかしダウンロードした書状群を入れたメモリは以下略。

次の章は加藤(清)のお話のようだ。

そりゃそうといつの間にか訪問者数が1,000超えててびっくらこきました。
いろいろと不始末の多い管理人ですが、懲りずにご訪問いただけると幸いです。
2012-02-15

吉川衆「広家様ご高名!」「●REC! ●REC!」

これまでのあらすじ:
日本軍が占拠した朝鮮の都に攻め寄せる明の大軍勢に、見回りの宇喜多勢・立花勢・吉川勢などが討たれた。
軍事評定で石田・増田らの奉行衆は「一晩陣を敷いて様子を見るべき」と言うが、
広家・黒田長政らは逆攻めでの一戦を主張する。
会議が紛糾する中、宇喜多秀家の叔父、安心が自軍に出撃の号令をかけた。


江陽合戦(碧蹄館の戦)のこと(下)

宇喜多と吉川とは、先陣を心にかけていたので、他の将よりも先に備えはできていた。
宇喜多は昨日手勢を多く討たれたことを無念に思ってか、日本への面目が立たないと思ったのか、
諸人に先を越されまいと、ひときわ進んで駆け出た。
吉川は道の口に兵を配備しており、一番に攻めかかろうと思案していたところだったので、
本道を押し進んでいく。
宇喜多はこれで道を進むことができず、吉川を追い越そうと田も溝もかまわずにひたすら進んでいく。

総勢八万騎が「エイヤ、エイヤ」と声を上げて、今朝立花勢が控えていた坂の上へと我先にと打ち上る。
高橋・粟屋・井上・桂なども後陣の到着を待ちうけて、声を上げて突きかかっていった。
立花勢も味方を多く討たれていたので、この無念を晴らすためにも、左近はひときわ進んで攻めかかった。

宇喜多・吉川の両勢は、足を休めずに大明勢の真ん中に駆け行っていく。
日本勢の八万六千騎は、大明勢に比べたら、宇宙に放り出された毛筋のように、
あるいは広々とした谷に落とされた一滴の水のようでもあった。
しかし一騎当千の精鋭ぞろいで、大軍の敵を見てますます喜び勇んで懸かってくる様子は、
天帝の四天王が八万四千の魔軍を一瞬のうちに降服させたという威厳にも似ていると感じさせる。

大明と日本との国力を争う戦だ。
月支・震旦・日本はさておき、三千世界のその中に、これほどの大戦があったのかと思えるほどだった。
大明は兵の数こそ多くても、我が日本勢の兵の切っ先にもなかなか太刀打ちできずに、
一戦のうちにたちまち押し立てられて、散り散りになって退いていった。
こうした大戦であれば、敵を幾千も幾万も討ち取れそうなものではあるが、
唐勢は日本の軍勢が無二に懸かってくるのを見て、後陣から器用に退却していく。
険しい隘路を引いていくので、その唐勢を討てた者は少なかった。
特に二番・三番に下がって懸かった将の手勢は、ほとんど敵を討てなかった。

吉川広家は、逃げる敵の真ん中へと駆け入って、最後尾を固める兵たちが切りかかってくるのを、
自ら馬の上より突き落とし、首を掻き切った。
同所で敵を討った者は、香川又左衛門(春継)・今田玄蕃允(春政)・松岡安い右衛門(春佳)・
二宮兵介(春実)・桂左馬助(春房)・前原備前守(春時)・境二郎左衛門(春之)・
長谷川源介(春持)だった。綿貫藤次郎は敵に射殺された。
吉見次郎兵衛尉は敵一人を突き伏せ、首を取って広家に見せると、
「さすがは正頼の孫だな」と賞賛された。

隆景卿の手の者では、梨羽壱岐守をはじめとして数人が分捕り高名した。
熊谷豊前守の手勢では熊谷六郎右衛門、そのほか宇喜多・黒田などの将の手勢も、
首を五つから七つ討ち取った。
河南勢の首は百には満たなかったが、大将自ら敵を討ったのは広家一人だった。

こうして大明の軍が敗北すると、諸将は日が暮れてから都に引き揚げた。
翌日、「もしかしたら敵が攻め寄せてくるかもしれない。
どのあたりに潜んでいるかな」と、二千や三千ずつ大規模な物見を出したけれども、
五里三里ほどは人影も見あたらなかった。

その後、太閤はこの合戦の様子を聞いて、
「小早川・立花の手の者が一番に渡り合ったそうだな。粉骨の至りである」と、両将と高橋に朱印状を出し、
また「大明と日本の初の合戦に、皆は都へ引き揚げようとか一晩陣を構えようと言う中で、
広家・長政・安心たちが是非とも攻めかかろうと勇んだそうだな。勇智は十分なようだ」と大いに感称し、
日本へ帰国したときもこのことを対面の上告げたそうだ。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

うーん、ウィキペディアとかで流し読んだ状況とまったく違うけど、
これはこれとして読んでいこう。広家カッコイイよね!
自分自身で敵の首取るとか、一軍の将として
そこまで前線に出ちゃうのはどうなのと思わんでもないけど、
なんか正矩も自慢げに書き立ててるし、吉川勢は嬉しかったんだろうな、殿様が首取ったの。
まあ仲良しの黒田Jr.も突撃癖のある将で、敵と組み合ったりとか日常茶飯事だったみたいだから、
そういう大将のあり方もいいのかもしれないね。

あと文禄2年というと、確か熊谷信直さんが亡くなってたはずなんだよな。
子の高直はとっくに亡くなってるので、
文中にちょっとだけ登場してるのは孫の元直さん。広家の従兄だね。
元直に対する病床の信直(在日本)の遺言状が熊谷家文書に収録されてるんだが、
「帰国したら直接言おうと思ってたけど、この分じゃ当分帰ってこれそうにないから一筆残しておくね」
なんていう内容で、ちょっと切なくなる。

そのへんの書状をダウンロードしておいたはずなんだけども、
入れておいたUSBメモリが物理的にお陀仏になったので立ち直れない。
接続端子がすっぽ抜けるとか何なのそれ。
再びアレを落とすのは根気と時間が必要なんだぜ。データ復旧に出した方がいいかなぁ。
いろいろ画像データとかも入ってるんだよなぁ。
しかし修理費出すならもう一冊本が欲しいと思ってしまう……

まいっか。
とりあえず次は景様んちの手柄争いみたいなカンジ。
2012-02-14

吉川・黒田「合戦! 合戦!」石田・増田「ちょw 待ーてーよ!」

前回のあらすじ:
与三が死んだ……鬱。

いや、朝鮮で明との和睦に気を抜いてた日本勢を明の大軍勢が襲撃して、
各地に散らばってた諸将は都に集まって善後策を話し合っていたわけだけれども、
ある日、都からほど近い江陽というところで、見回っていた宇喜多の小隊が明の軍勢に襲撃されたのね。
次の日に見回りに出た小早川と、添えられていた立花・吉川たちも、明の大軍とガチンコになったよ!


江陽合戦(碧蹄館の戦)のこと(中)

都へは、南兵勢が江陽表に雲霞のごとく攻めてきて立花衆が多く討たれ、
味方が窮地に陥っているとたと矢継ぎ早に報告が行った。
一番に吉川侍従広家様が五千余騎で駆けつけると、
立花左近は小野和泉守という家之子を先に立てて小さな山のあるところに控えた。
吉川侍従が走り寄り、「どうしました、立花殿」と声をかけると、
「それが、南兵勢の先陣とぶつかって、手の者を多く討たせてしまいました」と、
さしもの名高き立花も、どうしていいかわからない様子で呆然としていた。

ここに宇喜多七郎兵衛入道安心(忠家)が駆けつけてきて、じかに上の山に登って陣を整える。
広家様は香川又左衛門を呼び寄せ、
「あの山上にいるのは宇喜多安心法印だ。
今日合戦に及ぶつもりでいるのだろうか。行って訪ねて参れ。
この広家は都から秀家・隆景、そのほか三奉行が駆けつけてきたなら、すぐに一戦するつもりでいる。
このことを伝えてきてくれ」と言った。

香川は急いで山に駆け上り、「広家がこう申しております」と伝えると、
安心は、「確かに今日が一戦すべき日だろう。
これを後日にしてしまえば、そのときにははかばかしい合戦はできまい。
すぐにそちらに参って評定をしよう。
とにかく仰るように突きかかって一戦するのがよろしいと思う」と返事をした。

黒田甲斐守(長政)は都で双六を打っていたが、その座からつと立って、
隆景と三奉行に会い、兜だけ取ってかぶると、黒小袖に革袴姿で馬にまたがり、
鞭をくれて江陽へと向かっていく。
広家様はそれを見つけると、「甲斐守殿」と呼びかけた。
黒田は、「広家は早く駆けつけていたのだな」と、すぐに広家のところにやってきた。
広家様が「どうだ、後陣の勢は続いてきそうか」と問うと、
黒田は「そうだな、秀家・隆景・三奉行もすぐにこの表へ来ると言っていた」と答える。

広家は、「敵は百万以上もいるそうだ。
都に引きこもって取り巻かれてしまえば、勝利は得られないだろうから、
今日江陽へ逆に攻めかかって、浮沈を決定づける一戦をするのがいいと思う。
あなたはどう思う?」と訪ねた。
黒田は「私も広家にまったく同意する。
隆景もすぐにこちらに出てくるだろう。是非とも一戦するのがいい。
するべき一戦を延ばしてしまえば、かえってしてはいけないところで無理な防戦をしなければならなくなる。
そうなれば負けは必定だ。
石田・増田が思慮深げに何だかんだ言ってきても、あなたと私が道理を説いて説得し、一戦しよう」と言った。

宇喜多中納言秀家卿・小早川中納言隆景卿・石田治部少輔・増田右衛門尉・
大谷刑部少輔・加藤遠江守・前野但馬守・小西摂津守などが集まってきた。
皆一ヶ所に集まって「今日は合戦をすべきか、すべきでないか」と会議をしていると、
吉川侍従広家が「今日は味方を大勢討たせて敵に勢いをつけてしまった。
そのまま放置すれば唐勢はさらに調子を上げ、味方が再び一戦するときには勝利は得がたい。
引き延べずに一戦するのがいい」と言った。

すると叔父の隆景卿が、このときは白綾に赤い裏のついた小袖を着て、
黄色の羽織に黄の綿帽子、赤い帯を締め、とても静かに、優しげな物腰で岩に腰掛けていたのだが、
「広家、他の意見も待たずに、話を遮って一戦がいいとは何事か。
唐と日本の合戦の勝敗は今日決するのだ。戦うのも一大事。また戦を延期するのも大事だ。
老将たちの仰せを待ってから口を開きなさい」と諌めるのだった。
広家様はま少し言い返そうとしたようではあったが、叔父相手なので黙ってしまった。
石田・増田が「ここに一晩陣を構えて、敵の様子を見極めて一戦しよう」と言うと、
多くの将はこれに賛成した。
大谷刑部少輔は「敵の様子を見てこよう」と、馬を駆って江陽へと向かっていく。
黒田・吉川・宇喜多安心は「是非今日の一戦を」と言い募った。議論は紛糾して、まだ結論は出ない。

ここに大谷刑部がただ一騎、鞭を高く上げながら帰ってくる。
この人は三奉行の中では唯一、日ごろから武勇の誉れも高かったが、
その理由もよくわかる馬術・機動力だった。
帰り着くと、「敵勢は何万とも数え切れない。
こんな大軍は日本で見たこともないから、見積もるのは難しい。
兵の群れが江陽の郷中にひしめいて、日本道へと二、三里も延びているだろうか。
野も山も皆陣取られていて、おそらくは百二十万騎ほどはいるだろう。
高橋・井上・粟屋・桂はこちらの方の坂へ上って控えている」と報告した。
石田・増田はまた、「まずこのあたりに一晩陣を据えて、敵の動きに応じて防戦すべきだろう」と言う。

吉川広家は居丈高になって、また他の意見も待たずに、
「今夜一晩陣を置いておけば、下々の中間どもは敵の大軍勢に臆して、皆夜中に都まで逃げ帰ってしまう。
そうなれば味方が清々と一戦に及べないばかりか、都へと退却するほか道がなくなってしまうではないか。
またそうなっては敵は調子づいて都に攻めかけ、味方はさらに竦み上がって敗軍するのは間違いない。
ことに日本と大明の初めての合戦で、戦わずに都に退却することになれば、日本の軍事の瑕疵となるはずだ。
是非とも今から江陽へ攻め懸けて一戦したほうがいい!」と熱弁する。

黒田甲斐守も「熟慮したふりで生ぬるいことを言うものだ。
ただ一戦するほかに何があるというのか。戦わなくてはとても敵を滅ぼせはしない。
都で一戦したところで勝算があるのか? ここで一戦したら負けるとでも言うのか?
どうか皆、一戦の覚悟をお決めくだされ!」と続く。

宇喜多中納言が金の笠の馬印を打ち立てそばに立っていて、
叔父の安心法印は、南蛮頭巾形の兜に黒具足に茶の陣羽織を着てそれに付き従っていたが、その安心が動いた。
「理非も分かれて会議にばかり時間を取られていては一戦の期を逃す。
他の将はともあれ、宇喜多の手の者どもはかかれ!」と言い捨てると、我先にと懸かっていった。


以上、テキトー訳。あと一回。

くあああぁぁぁ! 盛 り 上 が っ て ま い り ま し た !
待ってたんだぜ、この血沸き肉躍る感。吉川・黒田・安心がスゲエかっこいい!
景様のたおやかなふりしてババンバンな感じもすごくイイ!
もうなんていうか地の果てまで叱られ倒されたい感じ!
白い小袖に赤い裏、赤い帯、黄の羽織と帽子かぁ。
帯が見えてるってことはまさか着流し? 武装せず戦場に来るとかステキ。

あぁん広家……滾る広家ステキ……!
同じく血の気の多い長政も最ッ高……!
もうこの二人が! この二人が出てくるだけで私の体内のヘモグロビンは躍動する。
「ともに戦おう」とか脳内麻薬ピュッピュ。
原酒飲みながら書いててごめんなさいね! いろいろと酔ってます!

あと会議中にキレて兵出しちゃう安心さんもイイよね!
安心さんは宇喜多直家の腹違いの弟で、広家の嫁の叔父に当たるな。
ウィキペ情報だと、文禄2年時点ではまだ入道してないはずだけど細かいことは気にしない。
宇喜多は毛利とイロイロあったけど、このころは仲良かったんだろうか。
九州攻めのころは吉川衆と先を争ったりしてたよなぁ。
まあ縁戚になったんだから仲良くしないとだめだよな。
花房助兵衛さんと広家も、このあたりで昵懇の仲になったのかな?

あぁもうこの先が楽しみでしょうがないんだぜ。
2012-02-13

帝都ににじり寄る大明勢

だいたいの流れ:
朝鮮出兵で日本勢が押してて和睦も整ったけど、明の大軍勢に不意打ちをかけられて、
諸将はみんな都まで退いてきた。


江陽合戦(碧蹄館の戦)のこと(上)

同(文禄二年)正月中旬、諸将は都へ集まり、大明の大軍をどうやって防ぎきるかを話し合っていた。

会議を重ねながら、毎日張番の物見を出していた。
宇喜多中納言秀家卿が当番になっていた同二十二日、巴州江陽へ張番を出したところ、
江陽へと続く坂の手前側に村があり、その左右には松や柏が生い茂っていたが、
そこに大明の伏兵が置かれていたのを備前(宇喜多)勢はちっとも知らなかった。
江陽へ行こうと坂を越えようとすると、左右の林から敵が伏兵を出動させて散々に射掛けてくる。
備前勢は敵に不意打ちをかけられて備えが乱れ、歯も立たずに退却してきた。

翌日の二十三日は小早川隆景卿の当番で、井上五郎兵衛尉・粟屋四郎兵衛尉・桂宮内少輔の三組、
小姓組として井上次郎右衛門・児玉六郎右衛門の二組も添えて見回らせる。
立花左近は隆景卿の寄騎として秀吉公から定められていたので、
弟の主膳勝正に自分の手勢を指し添えて小早川勢に追随していた。
昨日は備前勢が敵の伏兵によって討たれているので、今日はその林を点検しようと、
足軽衆を遣わして見回らせたが、敵の姿はない。
明日は吉川広家様の当番になっていたので、広家様は
福冨与右衛門・境与三右衛門に鉄砲衆三十挺を添えて付き添わせていた。

こうして都から二里ほど離れたところまで来ると、
南兵(カゴナミ)勢の先陣が二千ほど、思いも寄らず駆けてくる。
立花の先陣の兵たちはこれを見て「さあおまえたちを討ち取って今日一番の高名を上げてやろう」と、
取るものもとりあえず打ってかかった。
南兵勢はひとたまりもなく、馬に鞭をくれて逃げていく。
これを三十余町ほど追い立て、江陽の手前側の小坂を追い越してみると、
江陽の一面は、野も山も谷も峰も、まったく隙間がないほど百二十万騎の南兵勢が充満していた。

さしもの立花勢も肝を潰してしばらく呆気に取られていると、
境・福冨が馬を駆って駆けつけてきて、敵勢が雲霞のごとくひしめいているのを共に眺めた。
境は「こうした場所には長居をしない方がいい。早く退こう。懸かるも退くも折によるのだ」
と馬を引き返そうとする。
立花衆は境をキッと見据え、「見ればわかりますとも。しかしただ退いてしまうのでは甲斐もない」と言った。
境は「こういう場合は早々に退くものですぞ。あなたがたはまだここで迎え撃つつもりなのか。
先に行ってお待ちしております」と引き返そうとする。

境の舎人に大という大つわものがいたが、馬の口を捉えて、
「境殿は一度として敵に背中を見せてこなかった。
だからこそ勇の名も諸人に勝っていますが、今日はなぜそうして臆し、
敵がかかってこないうちから退こうとするのですか」と、轡を引いて引き止める。
境は「おまえなどはこうした場合の見切りは知らんのだろうな。
一度退かなくては、とてもかなうものではない。
私が臆病かどうかは後でわかるだろう」と馬を引き返し、
坂を下って一町ほど退いたところで後ろを振り返る。
立花衆もたまらずに、一度にどっと退いてきた。

境は坂を下って小川のほとり、柳が茂ったところそこで三十挺の鉄砲を一面に並べ、足軽たちに
「足を乱さず馬を撃つと思って撃て。そうでなければ少し上を撃て。
弾が当たるのはいずれにしろ敵なのだ。外すことはないからな」と下知して、
馬の頭を立て直し、福冨と一緒に控えていた。
そこへ立花衆もほうほうの体で追いついてきた。

境は、「どうした立花衆。口ほどもなく退いてきたのか。
ここには吉川の手の者、境与三右衛門尉、ならびに福冨与右衛門がひかえていますぞ。
引き返して一戦なさればよろしい」と言ったが、
前後の者たちが一斉に退いてきたので、一言も返答できずに、皆我先にと退くばかりだった。

境が三十挺の鉄砲を三度撃たせると、真っ先に進んでいた南兵勢が馬上からバラバラと落ちた。
けれども敵は猛勢で、前後左右に充満している。
今は歯が立たないと観念して、振り払って退こうとするところ、
十万の弓衆から放たれた矢に眉間を射抜かれ、境は馬から落ちてしまう。
舎人も一緒に射られたところ、数人の南兵勢が馬から下りて、その首を取った。
福冨は左の方、畑のあるほうへと退いて、危なく命をつないだ。

立花勢も池辺龍右衛門をはじめとして、主力兵三十六騎、そのほか雑兵たちは数知れず討たれてしまった。
立花勢がこうして散々にやられて退いてくるのを見て、
高橋主膳正は味方を助けようと自分が先頭になって真っ先に進み、
小早川衆の井上・粟屋・桂などもそれに続いた。
たちまちの内に競うように攻めかかり、さっき立花衆が越えてきた坂を追い越して、
南兵勢の先陣へとぴたりと押し当たる。
敵は本陣から少し先に小さな小山の平らな尾崎を手先の備えとして、その後ろへと続いて備えを構えていた。

一番に粟屋四郎兵衛尉の組が千騎ほどで南兵勢と無手と組み合い、
しばらくは切りつ切られつ戦っていた。
敵は数えようもないほどの大軍で、四郎兵衛尉は心だけは勇んでも、やがて敗色濃厚となっていく。
井上五郎兵衛尉が「粟屋の勢と一緒にかかって粟屋を助けるぞ」と言うと、
佐世伊豆守は「いやいや、ここで粟屋を助けたとしても、
敵が大勢で競いかかってくる矛先では、なかなかかなうものではありません。
しばらくここに控えて、粟屋が押し立てられて退いてきたら、
勝ちに乗った敵が備えを乱したところに攻め懸けましょう。
そのほうが味方の勝利は間違いない」と諌める。

井上が槍衾を作って控えていると、案の定、粟屋もさっと退いてくる。
敵は調子に乗って追いかけてきた。
井上五郎兵衛尉、「いい頃合だ。者ども、突きかかれ!」と下知して、
鉄砲を激しく撃ちかけて突きかかる。
井上の組の乃美主殿助・村上八郎左衛門・佐世伊豆守たちは、自分の命をゴミくずほども重んじずに、
槍を突き出して散々に攻め戦う。
たちまち南兵勢は押し立てられて引いていった。

粟屋も井上が仕掛けるのを見て引き返して戦ったので、部下の村上掃部助なども槍を突きたて、
わき目も振るわず戦った。
益田修理亮はそのころ十五、六歳だったが、ひときわ進んで槍を振るう様子は、
諸人に抜きん出ているように見えた。
高橋主膳も同様に続けて戦い、ついに唐勢をもとの山上へ追い上げ、
さっと退いてもとのところに備えを固めた。

桂宮内は「井上・粟屋たちは小勢だからそのうち押し立てられてくるはずだ。
今かかって一戦すれば味方が大崩れになるかもしれない。
ここで備えて先陣が退いてきたら、入れ替わって敵の疲れたところを突こう」と、
鉄砲を一面に並べ、槍衾を作って待ち構えていたが、
意外にも井上・粟屋が勝利したので、桂はその日は合戦には加われなかった。


以上、テキトー訳。続くよ。

ああ、なんてこと……愛しの与三右衛門が討たれてしまうだなんて。ショックすぎる。
この人はねー、もともとは石見吉川、経家の手勢だったはず。
鳥取城から端城の丸山に遣わされて、そこからもうインパクト強かった。
秀長の軍勢と一緒に狼狩りしたり、落城のときには藤堂高虎を人質に取ったりしてたなぁ。
そのおかげで私の中では経家の切腹がいまだ霞んでいるわけだけれども。
大好きだったよ、与三右衛門。もうおまえさんの活躍は見れないんだね。悲しい。

きっと、家中でも愛されてた人なんじゃないかと思うんだ。
突拍子もなかったり小狡いところもあるけれど、お茶目でしたたかで憎めない。
だからこんな風に活躍が書き残されてるんじゃないかと思うんだ。
惜しい人を亡くしたもんだ。

益田修理亮てのは、ちゃんと調べてないけど、益田元祥の子かな。
とすると、広家の甥っ子になるのかな。
元春の娘、広家の姉が益田さんの嫁。
益田さんも大好き。てか益田さんと広家はけっこう仲いいから、ageられてるんだろうな。
まあageなくても益田さんはスーパーいい男だけどね!

いかんせん与三右衛門の討ち死にのショックから立ち直れない……
この次はたぶんngmsと広家と景様が堂々と登場してくるというのに。
立花さんも出番あるかな。楽しみにしとこう。明日になればきっと浮上する。
2012-02-12

前回のあらすじ:
明と日本の和平が調うも、明は不意を突いて大軍勢で小西の籠もる遼東境の城を包囲する。
日本勢は明方面から順に小西、大友、秀包、吉川宿老、黒田家老、
カセンホ(開城)に隆景・広家・立花という布陣。
小西はたちまち取り囲まれ、大友は明の大軍に恐怖して退いていく。
秀包は小西の生死を確かめ、己の持ち場を死守する覚悟、
吉川宿老の香川・森脇も浮き足立つ士卒を宥めすかしていた。


漢南(かぐなみ)勢小西を攻めること、付けたり大友敗軍のこと(下)

小西はというと、十日余りの間、昼夜の境もなく防戦し、
切り殺しあるいは突き殺して数千の敵軍を亡き者にしたが、
敵軍勢の数が多すぎて、どうにもかないようがなくなった。
夜半になって一方へ無二に切りかかると、さすがの唐勢もあまりの勢いに押されて左右へさっと開いていく。
そこに小西勢が「よしやったぞ。進め者ども!」と、まっすぐに切りかかる。
十重二十重にも取り囲んでいた唐勢は、皆道をあけて通したので、小西は囲みを抜け出した。

ここで唐勢が追いかけてくれば、戦に疲弊した小西勢のこと、たちまち討たれてしまう。
しかし唐勢は城を落としたのを喜んで、皆我も我もと城へ乗り込み、
捨て置いた幕や具足櫃、弁当などを奪おうとして、小西を追ってくる者はまったくいなかった。
摂津守は十死を逃れて一生を拾い、エナンの城へとようやく落ち延びた。

そこで「大友は」と問えば、城には一人も残っていない。
小西は、「さてはこの辺りへも唐勢が攻撃を仕掛けてきて大友も追い落とされたのだろう。
きっと五度も十度も手痛い合戦になったのだろう。
どの辺りが合戦場なのだろうか。敵も味方も大勢死んだことだろう」と、
近辺の五町、十町ほどに騎馬兵を派遣して見回らせたが、
死人は一人もなく、ここが合戦場だとわかるような場所もなかった。
小西は歯噛みをして、「この男は先年、島津と戦ったときも逃げ出して、城を二度も明け退いたが、
今度もまた見捨てて逃げたのだな。臆病という持病が出たんだろう」と散々に悪口を吐き、立っていた。

とそこへ、久留米侍従(小早川秀包)から五百人、黒田甲斐守(長政)から後藤又兵衛尉を将とした五百人、
吉川広家朝臣から香川雅楽助・森脇加賀守を将として五百人、
合計一千五百余人が張番としてエナンへと差し遣られてきた。
小西はその夜はそこで人馬の息を休め陣取っていたが、夜が明けると張番の軍勢がしんがりを務めて、
小西を先に退かせた。

こうしたとき、都の三奉行から「各所に陣取っている将は皆都へ引き揚げられよ」と通達が来た。
小西・大友・久留米侍従たちは話し合い、秀包がしんがりを務めて、小西・大友を先に引き揚げさせた。
その日は黒田甲斐守の手の栗山四郎右衛門尉が籠もっている河安の城まで引き退いた。
このことが報告されると、吉川侍従広家様は四千騎で河安表へと打ち出した。
大友はまず黒田甲斐守に会おうとしてその陣所に駆けつけたが、黒田は義統に対面すると同時に
「今回小西を見捨てて逃げ出したとは臆病至極だ!」と散々に罵詈雑言を浴びせる。
しかし義統は一言の返答もなく、ただ赤面して呆然としているばかりだった。

さて吉川・小西・久留米三将は後陣について話し合い、道の半ばまでは一緒に退いていき、
そこからは広家様がしんがりとして、小西摂津守・久留米侍従を先に引き揚げさせた。
また翌日、黒田甲斐守と吉川広家とでしんがりの相談をして、黒田を先に引き揚げさせ、
吉川がしんがりとして引いていく。
すると道中に徒歩の若党、また中間や人足などが、あるいは足を傷め、
または飢えや疲れに堪えかねて、あちらこちらに倒れている。
これをすべて馬に乗せ、カセンホ(開城)まで連れて帰り、
皆の名字を尋ねてそれぞれの主人のもとへと送っていった。
皆、情け深い振る舞いだと手を合わせて喜んだ。

小早川隆景卿へも、諸将と同じように、
三奉行から「開城を引き払って都へ集まってください」と通達があった。
隆景卿はこう返事をした。
「小西は城を落とされ、多くの手勢を討たれたが切り抜けてきました。
それなのに大友は、小西の生死すら確認せずに見捨てて逃げてきたのです。
ですから今この隆景が簡単にここを動いて都へ帰ってしまえば、大友の二の舞となるでしょう。
日本を出たときから、この命は太閤に捧げたものと心得ておりますので、
この地で南兵(カゴナミ)勢を引き受けて防戦を遂げ、かなわなければ切腹いたしましょう」と再三言い、
また井上弥兵衛尉を都へ遣わして、このことをきちんと説明させた。

三奉行は、「隆景の返書、井上の口上は確かに承った。
しかし開城から都への往来は日数を定めている。
特に今回は有事の使いだというのに、書状の日付を見ると、
おまえはこちらへの到着が一日余計にかかっているではないか」と声を荒げた。
井上は「それはこちらから申し上げるべきでしたが、御返事になってしまいました。
この地に着くのに定められた日数より時間がかかったのは、
途中で朝鮮人が出てきて通路を分断しようとしてきたのを散々に切り払ってきたからです。
ですから連れてきた者たちは七、八人手傷を負っています。
敵を三十余人ほど討ち取りましたので、これで時間がかかって、到着が一日遅れてしまったのです」と答える。

三奉行は「そうか、朝鮮人が妨害してきたのか。
小西が城を落とされ、大友が敗軍してきたから、各所の敵が示し合わせて蜂起して、
通路を塞ごうとしたのだろう。
敵を追い払って数人討ち取ったとは素晴らしい武勇だ。
このことは隆景にも返事の際に申すことにしよう」と、弥兵衛に鉄砲五十挺を添えて送っていかせた。
敵が出たというところに数人の死骸が転がっていたので、送りの者たちは、
弥兵衛尉の働きが勇の至りだと感嘆した。

三奉行は隆景への返事にこう言い送った。
「仰ることはもっともです。しかしながら、隆景がその表で南兵勢を引き受けて一戦を遂げ、
討ち死にでもしてしまったなら、太閤に対して忠のようではありますが、実は忠にはなりません。
そうなってしまえば、味方は大いに勝機を失って、敵はまた勝利に勢いづくでしょう。
和漢両朝の戦いの勝敗は、隆景の胸襟一つで変わってくるでしょう。
ただ早々に都へ退いてください。
諸将と会議した上で、最後の一戦をしましょう。
もし一身の勇を優先して一身の忠を貫こうと、その地で一戦を遂げてしまえば、
日本軍の敗北を招くどころか、秀吉公に対しても大不忠になります」

ここまで言われて、隆景卿も
「では開城を引き払うとするか。しかし先陣の勢を待ってから退こう」と決心した。
そこへ、次々と黒田・吉川の人々も帰り着いてくる。
開城でしんがりの相談をして、小西・大友・黒田などの人々は翌日開城を出発して都へと引き揚げた。
吉川・小早川の両将は開城に一日逗留して、
その翌日に広家様がしんがりとなって開城を出立し、都へと帰着した。
都から日本道を三里ほど行ったところに巴州という場所があって、そこに古城があったが、
黒田甲斐守がここに立て籠もって唐勢を迎え撃とうとしきりに提案するも、
三奉行から「無駄な籠城だ。ただ都へ引き揚げられよ」と再三通達があって、
黒田も仕方なく都へと入っていった。


以上、テキトー訳。

三奉行sage、黒田ageのバイアスがすごい……吉川ageは通常運転なのでカウントしませんw
あと大友義統sageもなんかお約束っぽい。
小西にdisられ、ngmsにも正面切って罵られる義統、プライスレス。
ここまでSっ気を刺激されるキャラクターって、なかなかいないよね。
えーっと、ウィキペ調べで1558年産まれだから、このころだいたい30代中盤か。
どうですか。怯えたり赤面したり罵られても言い返せないイイトコのボンボン。S心くすぐられませんか。

お待ちかね、黒田と吉川の共闘とまでは行かないけど連携プレー。
落ち延びてきた小西と、前線に残った秀包を守る張番を遣わし、退くときもしんがり。
その先も吉川がしんがり。本当かどうか知らんけどしんがりカッコイイ。
もうね、書面に吉川・黒田の文字が踊っているだけで心躍るわぁ。
ホントここの人たち大好きだわぁ。
てか義統にいきり立ち籠城徹底抗戦を呼びかける黒田甲斐守ステキだわぁ。
広家と長政がこのときにいろいろ話してたと思うとほっぺたが歪む。

長「俺はね、ああいう、大友みたいなの許せないんですよ。家中にいたら斬ってる」
広「うんうん、だよなぁ」
長「冶部たちも退いてこいって言うけど、なんなんすか。
  いきなり都で最終決戦とか頭おかしいんじゃねぇの」
広「まあ景様も納得して引き揚げてるから、俺たちも退こうぜ」

うん、大しておもしろくないけど、こんな感じかなと思う。お兄ちゃんぶる広家。
あと立花さんの動向が気になる。開城で隆景たちと一緒に待ってたんだろうか。
としたら、秀包との再会がどんなだったかとか、非常に気になりますね!

次回は碧蹄館の戦いに突入予定。
2012-02-11

諸将の覚悟

大まかな流れ:
朝鮮出兵→都制圧→太閤も出馬するってよ→じゃあ各所に宿舎建てなきゃな
とやってる広家のところに数万の朝鮮勢来襲、吉川勢は4千騎でこれを蹴散らした、まで読んだ。


漢南(かぐなみ)勢小西を攻めること、付けたり大友敗軍のこと(上)

太閤秀吉公は朝鮮に渡ることなく名護屋の城にいて、同(文禄元年)七月初旬に、
三奉行と呼ばれている石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門尉を高麗へと派遣した。
彼らが都へと打ち入ると、日本の諸将は皆都へ集まり、三奉行に対面する。
三奉行は日本の諸将の抜きん出た忠戦を称える太閤のねぎらいを伝えた。

三奉行から「日本の諸将は各地の城郭へと立て籠もり、三韓の地を守るように」と、
太閤の言葉が言い渡される。
本唐の遼東境平安道のバテンの城には小西摂津守が立て籠もった。
その次のエナンの城には大友義統、ベクサンの城には久留米侍従(小早川)秀包、
ウホンの城には吉川広家様から香川雅楽助・森脇加賀守らが差し籠められた。
河安の城には黒田甲斐守の家老栗山四郎右衛門、
カセンホ(開城)には小早川金吾隆景卿・吉川侍従広家朝臣・立花左近が在陣した。

小西摂津守へと、本唐から遊撃将軍が和平を請いに来たので、
その旨を三奉行へと言い送ると、すぐに名護屋へと伝えられた。
太閤は「本唐が和平を望んできたのは、秀吉の武勇に恐怖した証拠だ。
我が武名は震旦四百余州に翻っているのだろう。
猛勇に臆し赤手を摺りながら和平を請うてくるとは嬉しいものよ。

昔の神功皇后は我が朝の神たちを先鋒として、龍宮へと千珠万珠をお求めになり、
この神通力をもって三韓を攻めて従えたのだ。
現在、秀吉は自身の一胸襟の智謀猛勇で三韓を従えた。
そのうえ本唐まで降服を請うてくるとは、この秀吉、神にも仏にも勝ったのだな」と、
跳び上がって喜んだ。
「では本唐の望むように、和睦をしてやろう」と言い送った。

小西は「本唐との和平の約束を堅くして、
すぐに大明の官人から日本の諸将へと和睦を祝す賀詞を伝えにくる」と諸将に伝えた。
諸将は、では各所にその宿を建てようと、普請に精を出し、
合戦の用意はまったくせずに、油断していたのだった。

唐勢が和平を請うてきたのは策謀で、日本勢を攻める算段をしていた。
実際には平安道の大河で大勢の兵を一度に渡す方法がなかったので、その川が凍るのを待っていた。
晴天がずっと続いてはいても余寒はなお厳しく、これによって川面の氷が次第に厚く閉じていく。
唐勢はこれを契機として、李郎耶・郎耶などを大将として、
南兵(カコナミ)勢百二十万騎は平安の河水の氷を渡った。

翌文禄二年正月六日、小西摂津守が立て籠もっているバテンの城を稲麻竹葦のようにびっしりと取り囲み、
昼夜を問わず攻め懸けた。
鉄砲の音は百千の雷のようで、矢は夕立の雨粒より激しく射掛けられた。

小西はかつて魚屋弥九郎という名の者だったが、武勇で肥後半国の主となり、
今では朝鮮攻めの先陣を務めるほどの者である。
敵の大軍をものともせずに鉄砲をしきりに撃ちかけるが、
沓の子を打った(たくさんの人や物が隙間なく立ち並ぶ様)ような大軍なので、
一度に二、三人を射倒して、無駄になる矢は一つもなかった。
けれども百二十万の猛勢では、どんなにしても勝ちようがない。

小西は家老の木戸作右衛門たちに向かい、
「大明勢の和平交渉を信じ込んで、騙されてしまったとは口惜しい。
今、この城に籠もってたとえ敵を何千人討つとも、いつかは精も魂も尽き果て、押し切られてしまうだろう。
こうなったら一方面でも突き破って、大友が立て籠もるエナンの城までどうにか落ちていこう。
とにかく夜陰に紛れなければできることではない。
皆兵糧を腰につけて、今夜無二に切り抜ける覚悟をしておけ。
この堅陣さえ切り抜ければ、たとえ追手がかかっても切り払いながら、夜の内に落ち延びるぞ」
と言い渡し、日が暮れるのを待ちつつ防戦した。

さて小西が道の途中途中に小城を構えて配備していた伝令の者たちは、
唐人の目に余る猛勢に恐れをなして、取るものもとりあえずに逃げてきた。
四日ほどの道のりの大友左兵衛督義統の立て籠もっているエナンの城へとやってくる。
大友が「どうした」と問えば、
「それが、南兵(カゴナミ)勢が、百万なのか二百万なのか確かな数はわかりませんが、
小西殿の立て籠もっている城の五里三里近辺を、野といわず山といわず、陣を敷いて攻め懸けております。
摂津守は城から落ちる方法もなく、あの城で主従一緒に残らず討ち死にいたしました。
私は一方を破ってここまで逃げて参りました」と応えた。

大友義統はこれを聞いて、すぐに叔父の田原入道紹忍をはじめ一族郎党を集めた。
「今聞いたとおりならば、小西摂津守は討ち死にした。
そうなると唐勢はじきにこの城へと攻め寄せてくるだろう。
小西を討って勝ち誇っている大軍に、少人数で我らがこの城で待ち受けては、
小西の二の舞となってやすやすと討たれてしまう。
まずは吉川・小早川の陣まで退いて、隆景・広家と一緒に戦うか、
そうでなければ都まで退いて石田などの下知を守って一戦を遂げるかだ。
またもし小西がまだ討たれずに、城に籠もって戦っているとしたら、
それを見捨てたとあれば大友家の武名に傷が付く。どうしたものか」
と、あれこれと会議をしていると、引き続いて逃げてきた者たちが自分の臆病をごまかそうとして、
皆「小西は討ち死にした」と口々に言う。
大友も、「さては小西の討ち死には間違いなさそうだ。
唐勢に取り籠められて簡単に討ち取られてしまうのは口惜しいものだ。まず先陣を避けるぞ」と、
エナンの城を空けて、足に任せて逃げていった。

そして久留米の侍従秀包がいるヘグサンの城まで逃げてくると、大友は秀包にも会って、
「小西はすでに唐勢によって討たれてしまった。
ここで同じように討たれてしまうより、隆景・広家・黒田などと一緒に、
都に陣取っている石田治部・増田右衛門・大谷刑部と軍議をしてから一戦しようと、ここまで来たのだ。
さあ秀包も共に退こう」と言った。

秀包は義統からすると妹婿なので、義統の臆病をとても口惜しく思い、しばらくは黙ったままでいた。
やっと口を開いたと思うと、
「見捨てるなどということさえ、この世には先例も少ないというのに、
義統が今回小西を見捨ててきたことは、前代未聞です。
大友家の名を傷つけるだけでなく、太閤がお聞きになれば、あなたの身上も問題に問われるでしょう。
私は小西討ち死にの報の実否を確かめ、そのうえで三奉行と備前中納言(宇喜多)秀家卿へ報告して、
どんなことでも下される下知に従おうと思います」と返答して、
都にいる黄門秀家卿と三奉行、隆景・広家へとその通り報告を上げ、
唐勢が攻めてきたなら潔く戦死しようと待ちかけた。
元就の末子であるからこそこうした振る舞いを当然のようにできたのだろうが、
義統の行状とは雲泥の差があったので、
大友の臆病を嘲笑うときには、諸人はまず秀包の覚悟を褒め称えるのだった。

さてエナンから一里ほど都に近いところに、ウホンという城がある。
この城には吉川広家から香川雅楽助・森脇加賀守などが差し置かれていた。
大友義統が小西が討たれたから退却してきたと風聞が飛んでくると、
道々に数百の諸大将から配備されていた城兵たちは多くが明け退いてしまった。
ウホンの城でも、下々の者たちは早々に浮き足立ち、どんなに制しても静まる様子もない。

香川雅楽助は森脇加賀守に向かって、
「こんなときのためにこそ、我らはこの城に差し置かれたのだ。
それなのに今情けなくこの城を明け退くなど、弱兵呼ばわりされることになるどころか、
広家のためにもいいことではない。
このなかではあなたと私が宿老なので、刺し違えて死のうではないか」と言った。
森脇も「私もそう思っていたところだ。我らが死んでからなら、
兵たちは落ち延びようが逃げ散ろうが好きにすればいい」と、腰の刀に手をかける。

周りにいた者たちは、「お二人には物の怪でも憑いたのですか。
昔から、いつ吉川の兵が見捨てたりしたでしょうか。ご安心くだされ。
下々の中間や水汲みの者どもが浮き足立っても、侍身分の者は一人も逃げ出したりしません」と宥めた。
二人は、「ふむ、では皆もそう思っているのだな。では取るに足らない勘違いだったようだ」と、
居住まいを正した。


以上、テキトー訳。続く。

どこまでも有頂天で「神に勝った」とまで言っちゃう狂気のラスボス。
限りなく小者臭を掻き立てられdisられる義統。
キライじゃない。キライじゃないぞォ。

秀包カッコイイね。まだ26歳なんだよ。シビレル。
立花宗茂と義兄弟で、九州征伐のころから一緒に戦って、関ヶ原のときまでずっと一緒。
でも秀包といたときって、宗茂は宗茂って名じゃなかったよね。このときは統虎だっけ?
ついったで立花家資料館の人とかがなかなか萌える呟きをたまにしているらしい。フォローすべきか。

秀包のことも詳しく調べたいなぁ。関ヶ原の翌年に死んじゃうんだよね。
大友宗麟の娘(キリシタン)を娶って、秀包自身も洗礼を受けた、程度なら知ってるなぁ。
義兄さんの不甲斐なさに腹立てるとかちょっとときめく。
ていうか腹立てられてdisられる義兄さんにときめく。
だって、義統のダメ男ぶりって、ちょっと貴重だと思うの。

吉川衆の香川雅楽と森脇加賀の小芝居にも萌えた。
いや、小芝居っていうか、たぶん止めが入らなきゃそのまま刺し違える気マンマンだったと思うけど。
宿老とか、けっこう地位のある人からして血の気が多いよね、吉川衆。
関ヶ原の前哨戦でも香川又左とか吉川勘左(経家の子)とかが率先して大怪我負うほど奮戦するし。
もうホント大好きです。

さて次回はいよいよ、黒田・吉川共闘となるか。
三奉行や隆景はどんな風に絡んでくるのか。ドキドキするなぁ。
2012-02-10

広家の対朝鮮戦デビュー

大まかな流れ:
朝鮮出兵は小西・加藤(清)の手柄争いなどなんやかんやあったが、
とにかく都を制圧して、とばっちりで川を渡るのに時間がかかったけど、諸将も都入りしたよ。


霊仙(筤銑)合戦のこと

太閤秀吉公が朝鮮に渡ってくるとの知らせがあると、釜山海をはじめとして、
所々に宿所となる館を構えることになった。
諸将は皆、他家に負けじと館の造営に励んだ。
吉川侍従広家様は、開寧から日本道を二十里ほど都方面に行ったところにある、
門慶というところに秀吉公のための館を建てることになって在陣していた。

そうしたころ、霊仙というところに朝鮮人が四、五万人も陣取った。
これを知らずに、二宮兵介たちが見回りのために陣を出た。
小阪を一つ越えたところで山上を振り仰ぐと、四、五万ほどの敵勢が赤や黄色の印、
また色とりどりの旗を風に翻している。
これはきっと霊仙の陣を切り崩そうと打ち出てきたに違いないと、すぐに本陣へと報告をやる。

広家様は、「朝鮮との初めての合戦に、
敵が大勢だからといってかかってくるのを待ち受けていては武門の名が泣く。
逆にこちらから攻め寄せて蹴散らしてやろう」と、出陣した。
いつもであれば手勢は八千人ほどはいるのに、今回の渡海の際に船が少なかったため、
二度に分けることになっていた。
まだ兵の半数は名護屋に残し置いていたので、現在の手勢は四千騎に満たない。

広家様は、敵の様子をうかがわせるために、源蔵主という僧を呼び出した。
これは朝鮮人と筆談させて通訳にするために連れてきた陣僧だ。
「日本の将軍は近日こちらにお渡りになる。急ぎ帰服するように」と札にを書かせて立てると、
朝鮮人はこれを見て、敵は小勢だと侮ったのだろう。
「そんなことは知らん。ぜひとも一戦しようではないか」と返事をして、警告の札を散々に打ち破った。

広家様はまた「一戦に及べばお前たちはひとたまりもないだろうから、
ただこちらの味方について、自分の里や家に帰って生活を守ってはどうか」と、
長新右衛門を遣わして札を送る。
敵は、今度は新右衛門を生け捕ろうと思ったのか、三人で向かってきた。
袖の裏を見ると差し縄のようなものが見えたので、長はすぐに感付いて、
書簡を投げ渡して近付こうとはしなかった。

その返事には、「とにかく一戦しよう」と返ってきたので、
「では一戦しよう。覚悟することだ」と言い送り、
四千騎が鬨の声を上げて一度にどっと切りかかった。

朝鮮人の大軍が山を八分ほど下ってきたところで散々に射掛けてきてもひるまず、
無二に切りかかり、先陣に進んできた敵を次々と切り捨て、または付き伏せ、
そのまま死人を踏み越えて攻めかけていく。
朝鮮人も大口を叩いた手前、しばらくは持ちこたえて応戦したが、
いざ勝負となるとなかなか日本勢にはかなわずに、たちまち突き立てられ、
ついには一度にどっと崩れて逃げていった。
これを、息をも継がせず追いかけて、三千五百人あまりを切り捨てた。

明けて六月、敵の残党がいないかと、四、五里ほどを見回っていると、
昨日余りに慌てて逃げて走りすぎたのか、水辺ごとに死人が転がっていて、その数は数えようがなかった。
走りすぎた者が水を飲めば死んでしまうというのは本当だとわかった。
太閤はこれを聞いて大いに感心したそうだ。


以上、テキトー訳。

(*≧ω≦)ノシ <キャーヒロイエサンカッコイイー!
うん、だけどあんま盛り上がらないなぁ。
家臣の誰が首取ったとかどんな活躍したとか、たいして書いてないってことは……
正矩め……盛ってるな。

よく知らん土地で、大して情報もない約十倍の敵相手に、
しかも相手が有利な山上にいるのにガチンコしかけるとか、ありえんて。
「近寄るんじゃねぇ、怪我するぜ」とか、正直笑う。
任侠漫画とかの主人公みたいだよねwww
そんな広家もスキ。脳が溶けてるんでカンベンしてやってちょうだいね。

これからこんなドカ盛りが続くのかと思うと、オラ、wktkすっぞ!
2012-02-09

九州・中国勢の渡河

前回までのあらすじ:
朝鮮出兵が始まったけど、小西・加藤(清)は先陣争いを白熱させている。
釜山海近辺の城は小西が一人でたいらげた。都入りは加藤(清)が務めることになった。
けれども山道を行ったコニタンの嫌がらせが炸裂、川を渡るための船を焼き、または流し、
下流を進む加藤(清)が渡河できずにもたついている間に、まんまと都に一番乗りを果たす。
しかしこの嫌がらせは後を追う諸将にも影響してるようだよ、コニタン!

※地味加藤さんだけ差別化のために「地味」がつけられているのがなんかモヤッとしたので
 せいしょこさんも「加藤(清)」と差別化してみた。


日本勢、朝鮮の都入りのこと(下)

九州・中国の兵たちは次々と渡っていったが、またしても都に至る川には船が一艘もなかった。
小早川中納言隆景卿は、川べりに立って、
「この川の船は先陣の兵たちが焼き捨てたとも、朝鮮人どもが流し捨てたとも言うが、
何とかして渡ってやろう。
海辺で暮らしていた者なら船のことをよく知っている。
乃美・村上をここへ」と、村上掃部助・同八郎左衛門・乃美孫兵衛尉らを呼ぶ。

「おまえたち、一働きしてこの軍勢を向こう岸へ渡せ」と命じると、
「かしこまりました」と、軍兵の中から水練の得意な者を三人選りすぐって、まずは泳いで渡らせる。
その者たちが焼き捨てられた船の板を集めて乗り付けてくれば、それをつなぎ合わせて、
隆景は手回りの兵を乗せて、向こう岸へと渡っていった。
残った諸軍兵は、皆筏を組んで乗り渡った。

その後、吉川侍従広家様は、中国勢の先陣を務めて都へと入っていこうとするも、
都川に差し掛かると、またしてもこちら岸には船が一艘もない。
中国の諸将たちは寄り集まって議論した。
「きっと向こう岸には船も数多くあるのだろうが、
この川の広さはただでさえ七、八町ほどもあると聞き及んでいたのに、
ここのところの雨天のせいで水かさが増しているようだ。
船がなければ渡りようがない。
流れが穏やかになるのを待って泳ぎの達者な者を選び、泳いで渡らせて、
船をこちら側へ漕いでこさせよう」

ここに、広家様の若党で相見神次郎という者が進み出て、
「私は伯耆の出身で、湖で漁をしていたときには水底に入って時を過ごし、
波間に浮かんで日を送ってきました。
この川が増水していていかに川幅が広くなっていようとも、まさか一里を超えることはないでしょう。
たやすいことですので、私が泳ぎ渡って渡し舟でも乗り付けてまいりましょう。
ただし私一人ですので、船といっても一艘しか乗って帰れませんが」と申し出た。
広家様は、「なんと神妙な申し出だろうか」と、すぐに先陣の衆へ向けて、
「船を渡していただきたい」と記した書状を整えた。

相見はこれを髻に結び付けて、川へと飛び込んでいった。
水かさが増しているので、普段は藍色を湛えている水も黄河の流れのように変じている。
相見の頭上を波が襲いそうになると、神次郎は打ちかかる波にゆらりゆらりと水鳥が浮かぶように乗っていく。
背は水の上に出ていたので、最初のうちは鵜やカモメのように見えていたけれども、
だんだん波に隔てられて見えなくなっていった。
人々は皆、相見は泳ぎ疲れて主意中で溺死してしまったのだろうと噂し合った。

とそこへ、十二、三艘の船が岸へとやってくる。
先陣の将から足軽二、三十人をつけられた相見が乗り付けたのだ。
中国の諸将はこれを見て、「相見は水神の再来に違いない」「いや、鵜が人に化けているのかもしれんぞ」と
口々に言って褒め称えた。

こうして広家様がこの船に乗って川を渡ると、中国八州の兵は言うに及ばず、
備前勢・因幡・但馬あたりの兵たちも次々に乗り渡って、二、三日のうちに都へと入っていった。

高麗言葉のこと(省略)


以上、テキトー訳。

約5ページにわたってびっしりと書き付けられている「高麗言葉のこと」は省略する。
そのうち気が向いたら載せるかもしれないけど、辞書みたいなもんだしな。お話じゃない。

さて景様は実にドSっぷりがぶれないね!
「おまえたち、海辺に住んでたんだから、ない知恵絞って軍勢を渡河させなさい」とはまあ、
具体的に指示しない命令とか最高ですね!(*´д`*)ハァハァ
せっかく乗り付けた板も、自分のだけ組ませてとっとと渡っていっちゃうし。
この孤高っぷり……イイ……

てか景様って、「すぐにわかったとか言うやつは本当は理解してない」って言ってた逸話があるけど、
おたくの下僕たちは揃いも揃って何も訪ねないまま
「かしこまりましたー( ´ ▽ ` )ノ」って行動に移っちゃってるよw
ご主人様のためにワラワラ働く小早川勢かわいいなオイ。

あと広家! 美化されてんのは重々承知してるけど、優しさに胸が千切れそう!
相見「俺、泳いで船乗り付けてきますよ。一艘しか乗ってこれませんが」
広家「おまえいいヤツだな……先に行ってる将に手紙書くから協力してもらいなさいね」
ってもう! 家臣思いだよね! ご奉公させてくれー!!!
他の将にも優しいしね! うん、美化されてるんだろうけど!
2012-02-08

清正の苦難

これまでのあらすじ:
秀吉による朝鮮出兵が実現し、九州は名護屋から対馬経由で朝鮮入りした諸将たち。
いち早く着岸した小西部隊は独力で釜山海城などを落城させる。
さて都入りの先陣は誰が務めるか、小西と加藤清正との間で言い争いが起き、一触即発の状態になるも、
諸将たちの説得によって、小西が先陣を清正に譲ることになった。
迂回路の山道を行く小西は、近道を進む清正に嫌がらせを仕掛けた。
「清正の先に回って、川の船を全部壊すか焼くか流すかしちゃおうぜ」
これで足止めを食う清正を横目に、小西は帝都への一番乗りを果たす。
朝鮮王たちはようやく「いつもの海賊と違う」と気づいて、命からがら逃げ出した後だった。


日本勢、朝鮮の都入りのこと(中)

加藤清正はこれを夢にも知らず、小西に先を越されまいと心ばかりは勇めども、
川にぶつかるごとに日数がかかる。
「小西は山道を行ったといっても、もう都の近くにいるだろう。
ああ、険しい山道や渓谷の深くにでも迷っていればいいのに」と独りごちながら、
それでも都に向かっていると、見渡したところ十町(約1キロ)ほどもある大河に行き合った。

日本の名だたる大河でさえ、都付近には宇治・勢多・淀、
関東には利根・富士川・天龍・大井、中国には江の川などという大河があるが、
それとは比べものにもならないものだった。
江州の湖(琵琶湖)なら似たようなものだろうか。

「これはきっと朝鮮でも名の知れた大河だろう。船がなくては渡れるわけがない。
近辺の村や川の隅に船がないわけはないだろう。それを探してのって来い」と、
若党数百人を遣わして船を探させたが、一つも見つからなかった。
小西が焼き捨てさせたのだから、一艘もないのは当然である。

清正は高いところに登り、船がどこかにないかと見回したが、目の届くところには見当たらない。
小西の仕業とは思いも寄らず、朝鮮人がやったことだと思い込んだ。
家之子郎党に向かって言った。
「敵がこの地に船を一艘も残していないということは、日本勢の行く手を阻むためだろう。
だからこんなことになっているのだ。きっとこの川は最適な防御地点なのだろう。
ここが最後の頼みと備えを張っているのだとすれば、五万や十万の兵が対岸に陣取っているはずなのに、
敵らしきものの姿は一人も見えない。

これをよく考えてみると、敵はすでに逃げ出してしまって、都までは一人も残っていないと思う。
この近辺の兵は皆都へと集められているはずだ。
天地鳴動する大合戦の地は、おそらく帝都になるだろう。
皆々にも分捕り高名させて、ここまでの長い道のりをやってきた辛労をも忘れさせてやりたい。
敵も、皮の向こう側に船を置いていないはずはないのだから、
このあたりを駆け回って民家を解体し、筏にして向こう岸へと渡って、
人数を渡せる船をこちらの岸へと寄せよう

」ここに、曽根孫六という若党が一人進み出た。
「私の産まれ故郷は越中の国です。砺波川のあたりで育ちましたので、
川に入ったら浮いて流されることも沈むこともありません。
水の上で自由に動くことはカモメのごとく、水打ち際のサギにも引けは取らないと自負しております。
この川はいかに幅が広くとも、十町か二十町ほどのこと、さすがに一里を過ぎることはありますまい。
簡単に泳ぎ渡って、船を乗り付けてきましょう」

これを聞いて、主計頭清正は大いに感じ入り、「では渡ってこい」と命じた。
曽根は言葉をたがえずに易々と川を泳ぎ渡り、小船を一艘渡してきた。
主計頭は大喜びし、その船に大人数を乗せて対岸に渡すと、また多くの船を寄せてきたので、
大勢が取り乗って、次々と渡っていった。

さて、川を渡って山の上に登り、しばらく陣を構えていると、
清正の若党の木村又蔵が四方を見回りに行く。
都の方角から放火の名残と見える煙が雲まで上っているのを見つけ、そこから丑寅(北東)を見ると、
小西摂津守の旗幟と思しきものが、東風になびいてひらひらと翻っていた。

木村は主君の清正の前に帰りつき、
「あそこに煙が見えますのは、いかにも帝都でございましょう。
また煙から丑寅の山に見えますのは、朝鮮人の旗ではなく、小西殿の旗でございます」と告げる。
清正は、「確かに煙が見える。都かどうかはわからないが、
もしおまえが言うようにあれが帝都ならば、小西に先を制されたのは無念である。急げ者ども」と、
都の辰巳(南東)の山上から馬に鞭を打ち駆けつけた。
そこは疑いようもなく都ではあったが、小西によって三日以上前に焼き尽くされ、
空っぽの赤土だけが残っていた。


以上、テキトー訳。続く。

ギスギスしとりまんな。
コニタンひどい!と言ったところで、陰徳記では明らかに
困難に立ち向かう良将清正VS小知恵の回る貪欲な奸将行長という構図をあおっているので、
そこは差し引いて読んでいきたいところだね。
まあそもそも流されやすいことには定評があるんだけどね、私。

このへん、少年漫画とかで読むと燃えそうだよね。
仲間を信じ、ひたすら突き進む主人公(清正)、しかし彼を邪魔していたのは他でもない、
親友だと思っていたコニタンだった……!みたいな。
盛り上がりそうだからドラマとかでやればいいのにね。
って、ドラマどころかテレビ見る習慣のない人間が言うのもアレですが。

清正が「皆に分捕り高名させてやりたい」って言ってるとこを見ると、
本当にこのころは、戦がないと成り立たない社会だったんだなと思う。
「大切なものを守るためには仕方なかったんだ!」というよりは、
戦こそが生活の糧を得る日常的な手段というか。生活の一部。

天下が統一されたといえば聞こえはいいけど、
日本国内で戦ができなくなったら、外に戦場を求めなきゃいけなくなった。
嫌々戦をしていたわけじゃなくて、みんな戦がないと困った。って面もあるんだろうな、と。
今でもアメリカ経済なんか如実にソレだよね。

まあ社会システムとかマクロ経済は考えないが吉だな。読み終わらなくなるわ。
次回も同じ将の続き~。
2012-02-07

諸将が朝鮮に着岸したようです

秀吉が挑戦征伐決めーの、諸将が船造りーの、名護屋城築きーの、
まず小西が渡りーの、釜山海城攻めーの、落としーの。
嫁がないよ(゚∀゚)アヒャ

お笑い知識が古いのはどうでもいいとして、
引き続き朝鮮出兵。小西以外の諸将も対馬からどんぶらこっこと辿り着いたようです。


日本勢、朝鮮の都入りのこと(上)

日本勢がすべて釜山海に着岸すると、ここで加藤主計頭と小西摂津守が都入りの先陣を争った。

主計頭は、「小西殿は船が早く着いたから、釜山海などの敵城を乗り崩された。
だから都への先陣はこの主計が仕りましょう」と言う。
小西摂津守も、「船が早く着いて釜山海以下の城を切り取った私だからこそ、
都の先陣もつとめるべきでしょう。肝心なのは都入りです。
それを心にかけてきたからこそ、ほかの舟を引き離して釜山海へと急いだのです。
先に着いた者が先陣をつとめないのなら、誰が先陣を切ろうというのか。
昔から先陣・後陣の争いはたくさんありましたが、先に行った者に対して、
第二陣につけなどと命じられた例えなどありません。今回の都入りはこの小西が仕ります」と譲らない。

「それは小西殿、あまりにわがままな振る舞いでしょう。
釜山海などの敵城にも先陣を切って切り崩し、今度は都にも一番に入ろうなどとは、理不尽すぎます」
と主計が言うと、小西もまた口を開いた。
「先陣を望むなら一番に渡海なさっていればよかったではないですか。
それもせずに、先に着岸している者を待たせ、自分が先陣になどと仰るほうが傍若無人というものです。

都入りの先陣を望むならば、一日でも一刻でも急いで舟を渡されるべきだった。
なのに、今日は風が強そうだ、明日は雨が降りそうだ、などと空しく天候を気にしてばかりで、
対馬で無駄に日数を送っていたのは誰ですか。
朝鮮の地へ遅れて着きながら、自分が一番に帝都に入るだなどと、わがままの極みではありませんか。
あなたの家人どもなら下知に従うのでしょうが、この行長は絶対に耳を貸すつもりなどない。

これほど思うがままの振る舞い、太閤はいかが仰りましょうや。
日本国中を見ても、ほかには者を言える者はありますまい。
殿下の御下知ならば残念ですが諦めましょう。
しかしそうではないのですから、道理に従って、私が先陣を務めます」
これに加藤は大いに腹を立て、一触即発の事態となった。

日本から渡ってきた諸将は「理非はともかく、小西殿は敵城を三ヶ所まで切り崩しなされた。
ですから今回は道理には合わなくとも加藤殿に都入りの先陣をお譲りなされ」と宥めようとする。
小西もさすがに諸将の意見をまったく無視するのもどうかと思ったのか、
「では清正に先陣を譲ろう」と了承したのだった。

こうして加藤清正は釜山海を右に見て、ヤグザン(梁山)海道へと攻め入った。
これは都への近道だった。
そのまま十三里も行ったところの州の旧都を攻め破り、敵を数多く切り捨て、
急ぎ都へ入ろうと意気揚々と進んだ。

小西行長は釜山海を左に見て、トクネギ(東?)海道を経て都へ入る。
これは山道をめぐるので道程は遠かったが、宗対馬守の手勢に高麗の道に詳しい者が多くいて、
道の険難や山川の位置も熟知していた。

小西は梁山道には大河が多くあると知ると、高麗人を数人生け捕りにして人質を残し置き、
「おまえたち、梁山海道の大河にあるすべての舟を打ち壊すか、焼き捨ててこい。
それができなければ、渡し口から五里か三里ほど川下に流し捨てよ」と命じた。
高麗人は命惜しさに、皆「かしこまりました」と、川のあるところへと駆けつけて、
舟を焼き捨て、あるいは流し捨てるなどしたのだった。

加藤はこれを夢にも知らず、小西に先を越されるまいと急いで攻め上る。
しかし川に行き合うと船がないので一日半も足止めされ、
渡し場に行っては船がないかと訪ね歩いて空しく数日を過ごしてしまったので、
ここでもまた小西が先立って都に入ってしまった。

朝鮮の帝王は、日本から海賊船が数千艘もやってきて宝を求めていると聞いて、
数々の宝さえ与えれば、人を殺され宮殿を壊されることもあるまいと、
「金銀珠玉をあるだけ与えよう。戦をやめてくれ」と使者を送って言い送ったが、
小西は耳も貸さずに攻め入った。
これに上は帝王から下は貴族や高位高官、士農工商に至るまで、
「これはいったいどうしたことか」と慌てふためいて、急いで鏡安道に落ちていった。

小西は都に残った者たちを切り捨て、鬨の声をどっと上げる。
そして東に向かい、まずは天照大神を拝み、その後は肥後の宇佐八幡を拝んで、
「私は釜山海の城を落とし、今また異国の帝都を陥落させた。
これは天照大神が日本の軍勢をお守りくださり、また秀吉公へと加護の眼差しを向けてくださったからである。
また私の本国の宇佐八幡宮が私を憐れんでくださり、加藤清正に先立って都に入れてくださったからである」
と、頭を地につけて礼拝した。

その後、小西は「こうして金を塗り、玉を敷いた立派な宮殿を焼き尽くすのは
情けのないやり方のようではあるが、加藤の鼻を明かした証拠に放火しておけ。
そうでもなければ、清正は口さがなく、後日また前後の争いを吹っかけてくるだろう」と、火を放った。
するとたちまちの内に燃え上がり、さすがの金殿紫閣も一刻の間に焦土となり果てた。
はかないものである。
これは項王が函谷に入って始皇帝が心を尽くして造営した漢陽宮を焼き滅ぼしたというのも
このような情景かと思えて、目で見たこともない古い昔の有様を今目の前にしているようで、
心ある者たちは皆涙を流したものだ。


以上、テキトー訳。続く。

ちょっと長めなので分割する。
これは……加藤age小西sageってことなのかな。

なんにしろここで描かれてるコニタンの底意地の悪さと言うか悪運の強さと言うか、
清正公いじめたくて燃えてるコニタンは嫌いじゃない。もっとやれ。
「はん。遅れてきたくせにYOU何言っちゃってんの~?」と花輪君ばりに前髪をなびかせてほしいw
清正もコニタンもよく知らんのですが、朝鮮では敵(と書いてライバルと読め)意むき出しで
ガッツンガッツンやってたのは聞きかじってるよ。
てゆーかおまえら、仲間割れしてる場合なのか。

一丸となって当たらなきゃならないほどの厳しい敵じゃなかったのかもしれないけど、
だからといって身内でいがみ合いしててOKってもんじゃなかろうに。
きちんと睨みを利かせて統括できる人がいなかったってことなのね。
それを考えると、秀吉ってのはやっぱりすごい人なのかも。
この喧嘩上等な諸将を、国内とはいえちゃんと治めてたんだから。

毛利だって身内のいざこざはたくさん抱えてるんだよね。
元康と広家、秀元と益田なんかも不仲になってるけど、
そのたびに輝元が奔走して宥めたり叱ったりして収束させてる。
関ヶ原の後では広家と秀元、あと益田と熊谷かな。
熊谷の場合は一族粛清って運びになったんだけどね。
そこまでやってもたいして反乱にならないんだから、輝元ってすごいなと思うよ。

さて次回も引き続き章の続きを読む。
清正はいったいどうやって川を攻略するのかな。
2012-02-06

朝鮮征伐にいざ出陣!

ええ、ついに突入してしまったんです、朝鮮出兵。
章としては昨日までの章の続き。もうなるようになれって感じ。
抜け出せなくてもいいもんね。ほかの資料への浮気は相変わらずするもん。
とにかく広家と長政の息を合わせた(?)活躍が読みたいんじゃ。

今回は参戦武将の紹介と緒戦の様子だよ。


高麗陣のこと、付けたり小西釜山海城を切り取ること

文禄元年、関白秀吉公は朝鮮を征伐するために、去年から加藤主計頭(清正)を奉行に任じ、
肥前国の名護屋に城を築かせていた。
同三月にはその城に下向し、京都には関白秀次公を残し置いた。
こうなると、松平亜相家康卿・前田黄門利家をはじめとして、諸将は皆名護屋へと下向した。

さて、宇喜多中納言秀家卿を太閤の名代として、高麗出兵に関する諸将への命を司らせた。
先陣は小西摂津守(行長)・加藤主計頭である。
そのほか、中国では毛利中納言輝元卿・吉川侍従広家朝臣、
四国では長曽我部侍従(元親)・加藤左馬助(嘉明)・藤堂佐渡守(高虎)・
蜂須賀阿波守(家政)・生駒雅楽頭(近則)、
九州からは小早川宰相隆景卿・島津侍従(義弘)・その子又八郎(家久)・同中務(豊久)・同右馬頭(忠長)・
鍋島加賀守(直茂)・大友左兵衛督義統・立花左近(統虎、後の宗茂)・その弟高橋主膳(統増)・
秋月三郎(種長)・高橋右近・久留米侍従(小早川)秀包・黒田甲斐守(長政)・毛利壱岐(吉成)・
筑紫上野介(広門)・宗対馬守(義智)・松浦刑部法印(鎮信)・有馬修理亮・伊藤民部、
因幡からは宮部兵部少輔、但馬からは垣屋駿河守、伯耆からは南条左衛門進元清、
丹後からは長岡越中守(忠興)、
そのほか、浅野左京大夫(幸長)・福島左衛門大夫・加藤遠江守(光泰)・
前野但馬守(長泰)・山口玄蕃允の出兵が決まった。

横目付は七人いて、早川主馬・垣見和泉守・福原右馬助・熊谷半次・
大田小源五・森伊勢守・新庄新三郎であった。そのほかの有象無象は記載しない。

以上二十万騎は、四月十二日に名護屋を出立し、まず壱岐の島へ渡って、
そこから四十八里を経て対馬へ渡った。
ここから高麗の釜山海へと、また四十八里あったそうだ。

高麗では、昔から日本の海賊船が来て釜山海の近辺の民家を焼き払い、乱暴狼藉に及んでいたので、
今回もいつものことだろうと思った高麗国は、都からは「賊が来たならば宝を与えて和睦を請おう」と、
金銀綾羅を東門・南門に出して飾ってあった。

同二十八日に、小西攝津守行長の寄騎、有馬修理・大村・五嶋・平戸・宗対馬守など
二万五千余騎が一番に釜山海に着き、その城へと攻めかかった。
城中からも散々に弓を射掛けてきた。
小西は追手から切り入ることができなくて、搦め手から兵を回し入れて攻め入ろうとした。
そこで城の構えを見ると、堀の一重もなかったので、やすやすと乗り込めたのだった。

城中からは通訳を挟んでこう伝えてきた。
「唐の軍法上、城を攻めるのに搦め手から攻めたりはしない。日本人は卑怯だ」
こう言われて、小西は「呉子・孫子をはじめとして多くの兵書にも、
搦め手から攻め入る手法がないなどとは聞いたことがない。
唐の法はどうあれ、私は日本の法にのっとるぞ」と大笑いし、
相手の言い分も耳に入れずに、ことごとく撫で斬りにしてしまった。
釜山海の城は程なく落ちたという。
この件について、太閤秀吉公は小西に感状を与えた。

「今回の高麗国への発向で、先手を申し付けたところ、
 釜山海の城を即時に攻め落として平定したとのこと、大変感心した。
 よって太刀一腰(定利)、馬一頭を与えよう。
 領地のことは、宛行う国や場所を追って申し付ける。
 なお、増田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)から申し伝える。

   文禄三年五月三日     秀吉(朱印)
   小西摂津守殿へ」

それから小西はトクネンギの忠州の城へと攻め寄せ、息も継がずに攻め入って、
切捨てにした人は何百とも何千とも数知れなかった。

 ※秀吉公の朱印状は年代が前後と相違するが、釜山海のことを記した筆のついでに記しておく


以上、テキトー訳。

うへえ、20万か……外国だから兵站のほうが大変そうだな。あと輸送船。
てか、ちょっと前の章で、兵士たちの輸送船を作るのに、古木を伐らせて材木にしてたんだっけ。
もう遠い昔に読んだような気がしてきたよ……三人のおじさんがいけないw

九州の陣では、地元にも協力勢力があったから兵站に困らないで済んだけど、
それでも当地の物価は高騰したらしいし(それで秀長が高値で米を売り捌こうとしたとかw)
朝鮮は外地だし、ちょっと聞きかじっただけでも、補給が追いつかなくて困ったらしいね。

堀もなく簡単に落とせてしまう城の造りって、寄せ手側から見ても大きな問題点だったんじゃないかな。
迅速に落とせてしまうからこそ急激に戦線が拡大せざるを得ず、
結果として補給が追いつかなくなるわけだ。
現地調達をあてにしたら、敵兵だけでなく農民漁民まですべからく敵にしちゃうしな。
お勉強不足なんで適当なこと書いてますけども。

というわけで、これから高麗侵攻を読んでいく。
たまに息抜きで諸家文書とか違う資料の話を差し挟むかもしれない。
次回からしばらくは加藤清正と小西行長の活躍が主眼になりそうな気配。

とりあえず一言。コニタンこわいお《(;´Д`)》ブルブル
2012-02-05

宗教論で腹の中がパンパンだぜ(膀胱容量的な意味で)

ついった用広家botを練っていたらひどい時間になった。
慌てて陰徳記開いたけど、意味のわからない言葉の羅列に絶望した!

そんなわけで三人のおじさんの長い長い話は今日でおしまい。


厳島宝前物語のこと(11)

「さて、今の広家は文武の才を兼備していると、世を挙げて賞賛されている。
親や兄の道を受け継いだのだろう。これをさっき言ったようになぞらえれば、
『明星を見て道を悟る(釈迦が明星を見て悟りを開いたこと)』や迦葉の『拈華微笑』の大意が、
達磨(菩提達磨、禅宗の祖とされる)によって世に広く隆盛したことと並べられるだろう。

また、隆景は家を継がせる実子がない。
もし他家の人の子を養子にして相続させたとしても、武芸文徳に暗いかもしれない。
そうなれば、また阿難が仏の教えを誦出(じゅしゅつ)したものを
貝多羅葉(文字などを書き付けるための葉)にまとめたように、
隆景のやり方をも継ぐのは広家だろうから、鳩摩羅什などの三蔵にも相当するのではないかな。
また、儒教でいうと、孔子・孟子の道を再興させた朱子の飛びぬけた才にも並べられるだろう。
きっとこの後は毛利家を補佐し、その危機を助け、
その栄華を無窮の子孫にまで伝えるのは広家の才であろうと思う。

また、元就の才は臨済宗の四料簡によく似ていると思う。
最初の合戦で武田を討ち果たし、そのまま佐藤銀山へ攻め寄せれば、
敵は一日も持ちこたえられなかったはずなのに、公方の下知を守って、銀山をそのままにしたのは、
『奪人不奪境』ではないか。
また尼子義久は代々の怨敵だったのに、兜を脱いで降服したいと望んでくれば、
その一命を助けて城だけを受け取ったのも『奪境不奪人』ではないだろうか。
それに益田越中守・小笠原長雄などが旗を巻いて幕下に属したいと言ってくれば、
その望みに任せて本領と家城を与え、そのままにしていたのは『人境倶不奪』ではないか。
そして陶父子を討ち、大内義長・内藤隆世らをことごとく攻め滅ぼし、城郭を破却し、
国を切り取ったのは『人境倶奪』だろう。

また、次男元春は父元就の戦略の真髄を会得したとのことだ。
これは臨済宗の四喝に似ている。
元就の先陣として大内・陶・尼子などを攻め滅ぼしたとき、
元春が向かったところの敵はすべて討ち果たされたという。
これは金剛王宝剣の喝(相手の迷いなどをスパッと斬る喝)のようだ。

また羽柴秀吉が六万の軍勢を率いて伯耆の羽衣石に続く大山へと進軍してきたとき、
元春はたった六千の手勢で対陣し、敵の大軍をものともせずに勇猛に渡り合ったので、
秀吉はこの勢いに臆して大軍を引き揚げた。
山中鹿介は出雲・伯耆に入りたくとも元春の武威を恐れていたので、
秀吉の手に属して播磨へ攻め入り、上月に入った。
これは皆、元春の武威が非常に大きかったためだ。
踞地金毛(こじきんもう)の獅子の喝(うずくまったライオンのように相手を怯え上がらせる喝)のようだ。

そして山中鹿介を生け捕るために、大山教悟院を攻めると発表して、
その道を引き返し末石の城を取り巻いて、すぐに鹿介を生け捕った。
また上月の城を取り囲まれたときは、秀吉と対陣し、
味方に内通する者が敵方に多くいるということを、敵方に知らせるように策を運んだ。
秀吉は騙されて、本当だと思い込んでやがて負けて引いていった。
そして自分の手勢の中から選んだ者を山伏に扮装させ、
または若党・中間のふりをさせて秀吉に奉公させていたので、敵方の作戦は毎日報告が来る。
もし戦いになれば裏切るようにと合図を定めておいた。
少人数を誘い寄せて合戦に及ぼうとする場合は、実は大軍を率いていても、
こちらが少人数だと伝わるようにし、陣取りや備えの仕方も小勢だと見えるようにした。
だから布部で山中・立原はこの謀略に誘い込まれ、凄惨な一戦をして多くの兵を失って負けた。
上月では兵数が少ないのに大軍だと発表し、陣も大軍のように取った。
このせいで秀吉は早々に敗軍したのだ。
こうした行いはすべて探竿影草(たんかんようぞう)の喝(相手の真偽・凡聖などを見抜く喝)のようだ。

また元春は、秀吉の上方勢と和睦した後は、
子房(張良)が赤松子(せきしょうし、中国神話の仙人)の道を学んだその跡をたどろうと、
ついに家督を元長に譲り、石見の佐波のある曹洞宗の智者を頼り、
朝参暮請(禅の修業)のみを日課とした。
そうなると武名を世に高らかに上げることすら取るに足らない塵芥と思うようになり、
安閑無事の心境で、何もしないでいることすらも忘れるようになったことは、
一喝の用をなさずの喝(一挙手一投足がすべて喝)に似ている。

そして嫡男元長・広家が伯耆の馬野山で、たった三千の手勢で松ヶ崎へと打ち出して、
秀吉の六万の勢に駆け向かい、『敵よかかってこい、一戦してやろう』と呼びかけたのは、
徳山和尚が潙山和尚のところに乗り込んだときに、
複子(僧が用いる風呂敷)差し挟んで『無々』などと言って
すぐ出ていったようなもの(悟りとは程遠い振る舞い)だ。

また隆元様は愛に優れて仁道を第一にしていたので、
その柔和さでは趙州・南泉(唐の時代の禅僧)の道に似ている。

隆景は撫民治国の器なので、末法の世の聖人とでも言うべき大将だと人々は口々に言う。
だからこそ秀吉公も特別に取り立てた。
これは忠国師が肅宗を見出したことのようである。

だいたいにして毛利家は、南北を二手に分けて軍事を行った。
ならば元春は恵能に当たり、隆景は神秀に当たるのではないか。
また西も元春が先陣を務めたので、江西の馬祖に等しく、隆景は湖南の石頭に准ずるだろう。
元就の軍事の手法は、私の宗派(臨済宗?)の奥儀にとてもよく似ている。

世間の庸将は孤虚を孤虚(こきょ)を考え、咸池(かんち)を占い、亀兆(きちょう)を合わせ、
吉凶を視、星辰風雲(せいしんふううん)の変を観て、それで勝を成し功を立てようとしている。
これはすなわち十二分経(仏教経典の分類)のカスに食らいついて外に向かって仏を求めるようなものである。
それなのに元就は、厳島合戦のときに初めて陰陽術数を一度に投げ捨てて、
ただ戦いに勝つ方法と負けに至る理由を考え、敵を制して勝利を得た。
これは私の宗派で言えば、達磨が相を破って直に人心を指して、
『直指人心 見性成仏』させたようなものである。

またすべての陰陽術数を捨ててしまったかと思えば、これは愚鈍な者をうまく使うために有効な策だったので、
まったく捨ててしまいはしなかった。あるときは孤虚を考え、咸池を占ったりした。
これはすなわち、私の宗派の『第二儀門に下り和泥合水』の手段である。

敵に対して兵を用いるのに、あるときは正規兵を奇兵として使い、奇兵を用いて正規兵となし、
一つの用法にとらわれなかった。
常に変動し、敵によって手を変えるのは、あたかも韶陽慎定の機知のようだ。
上は天の時にとらわれず、下も地の利に制限されないことは、
釈迦が『天上天下唯我独尊』と仰ったのと同じだ。
実に関東関西唯我独尊の明将である」

僧が語ると、二人の俗人は言った。
「和尚の批評、文殊の才は、富楼那(ふるな、釈迦の十大弟子の一人)の舌でもかなわないだろうな。
虚堂録でも、『雪豆、その兵機をよくせずといえども、暗に孫呉にかなう』
続く僧宝伝に、『趙州禅、項羽が兵を用いるごとく』
碧巌録に『ただ徳山のごとくあれば什磨に似る。ひとえに李広が天性射をよくするに似たり』
光明蔵に『達磨、烏獲の力を孟賁が勇有り』
と言っているので、和尚の批評はいちいち兵法の理にもかなっている」と称美した。
そのころには東方から白々と朝日が昇ろうとしていたので、それぞれ東西に分かれて帰っていった。


以上、テキトー訳。やっとこの章終わり。

もうしばらく宗教のオハナシ読みたくない( ゚д゚)
魂魄が離れてしまいそう(((( ゚д゚))))プルプル
そんなわけで私は元長と親しい友人にはなれそうにありません。
もしくは宗教論議を吹っかけられたらすぐさま押し倒してやる。
そのまま四の字固めか腕ひしぎかけちゃる。待ってろ元長!!!

広家にも触れられてたけどほんのちょびっとだったね。
でも聖人になぞらえられた人に仲間入り。よかったね!!!
でも伝える人であってそれ以上でも以下でもないね!
意外に評価の低い広家。(´・ω・`)ショボーン
そしてふと気づいたんだけど、て……輝元は……?

そしてトイレ行くの忘れてたので行ってきますw
2012-02-04

元春=迦葉、隆景=阿難、隆元は……(;ω;)

引き続き坊さんが語る元春・隆景。
えっ……隆元は!?


厳島宝前物語のこと(10)

「さて元就の文武の才は、元春・隆景に受け継がれた。
勇も智も仁も全備しているとはいっても、元春は戦国にふさわしい気質の持ち主で、
生まれながらにして武の才を備えている。

だから元就朝臣は嫡孫の輝元卿にも、
『元春は文武の道いずれにも欠けない良将だ。とりわけ勇智に優れて、
攻めれば取り、戦えば勝つ才能は、孫呉を髣髴とさせる。
戦のことはどんなことであろうと元春に任せなさい。
大敵・小敵・強敵・弱敵、どんな敵に遭って戦っても、必ず勝利するだろう。
たとえ天下の権勢を握ったとしても、武を表に出し文を裏にして、政を正しく行うと言う点で、
こうした乱世にあっては元春以上の将はいないだろう。

元春の意見を受け容れなければ戦で後手に回って武威も衰える。
諸葛孔明の出師の表(すいしのひょう)をよくよく見てごらん。
戦をすべきときを見逃してしまえば、必ず武威は衰えるものだ。
戦うべきか、戦わないべきか、その勝敗の見極めを元春の策謀にゆだねなさい』と言ったという。

たしかに尼子勝久退治、秀吉との数々の戦いで、元春が利を失ったことはない。
こうして元就が『勇謀は元春にあり』と褒め称えたことは、
仏が『私には正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門があり、
文字を使わず教外に別伝して摩訶迦葉(釈迦の十大弟子の一人)に伝承した』と仰ったのと一緒だ。
元就の勇の教外別伝の内容は、元春に以心伝心したのだ。
兵法は意をもって授けるべきであって、言葉で伝えるべきではなく、言葉で伝える者はその道に暗い。
意をもって授ける者は、その道に精通している、というではないか。
これは仏が黙って花をひねったときに、
迦葉が仏の行動の意味を理解してにっこりと笑ったという話(拈華微笑)の真髄ではないだろうか。

仏は一字不説の妙を迦葉、阿難(釈迦の十大弟子の一人)がしっかりと会得し終えてから
鶏足山にお入りになった。
元春もまた嫡子の元長が智仁勇全備の将だと思ったからこそ、備中高松で秀吉公と和睦し、
毛利家の危機を救ってから家督を譲り、空いた時間を楽しんだ。
これはすなわち仏の鶏足山の件と同じだ。毛筋ほどの差もありはしない。

また隆景は文徳武を欠けることなく兼ね備えてはいるが、
なかでも治世で撫民に適した器の持ち主だ。
元就は嫡孫輝元への遺言にも
『国家が平和なときは隆景の智に任せて、国の政道に力を注ぎなさい。
おそらく細川武州禅門(頼之)の政道にも劣らないだろう。
こんな風に言うと、元春が文に暗く隆景が武を得意としていないように聞こえるかもしれないが、
そういうわけではない。
元春は古来稀なほど学問に通じているし、隆景も当世では抜きん出て武に長けているのだぞ』
と言い置いたそうだ。

隆景は文に秀でていると元就が評したことは、阿難が仏の一代限りの説法を伝来したのに似ている。
元就は、乱世だったから武を第一にして文を後回しにしたが、
元春を迦葉になぞらえ、隆景を阿難になぞらえた。
また、隆元・元春・隆景の兄弟三人は、元就の武徳文政の真髄を得ており、
誰が秀でている、劣っているといった差はない。
その証拠をいちいちあげつらうのは不可能だ」


以上、テキトー訳。

今回短いけど次の段落で切りどころがわからなくなったからここまで。
隆元もなんかもっとちゃんと評してやってくれよぅ!
お兄ちゃんかわいそうじゃないか。三兄弟のなかでは一番信心深そうなのに。

そしてふと気づいたけど、坊さんって説法で聴衆や著名人なんかを仏やその弟子にたとえて論評する、
といったことを、けっこう日常的にやってる人たちだよね。
元就が仏様にたとえられたからといって、別に特別ageてるってわけでもなさそう。
内容はきっちりageageだけど。

元春が拈華微笑をたとえに迦葉になぞらえられてるのは、なんか納得。
お兄ちゃんに「確かに手紙書かなくて悪かったけど、特に反対意見とかなかったから……」なんて
弁解の手紙送ってたりするし、なんか「言葉にしなくてもわかりあってるよね」的な
ちょっと乙女チックな思考回路持ってそうなイメージ。
あと元春が太平記書写始めたのって、タイミング的に隆元の追善なんじゃないかと個人的に疑ってるんだが、
これも以心伝心的な発想動機だったらいいなと妄想してます。

隆景が阿難になぞらえられるってのもちょっと笑える。
ほら、阿難って美男子すぎて女難に遭ってばかりいたって逸話があるし、
そのへんやっぱ美貌の叔父様にはぴったりなんではないかと。
まあ景様がモテてモテて困るとか言い出したらイヤミ以外の何ものでもないけどな。
モテたって逸話もないから別にいいか。

さて次は愛しの広家のことが語られてるよ!
2012-02-03

仏様と日輪と元就

最初に言っとく。
仏教用語わっかんねええええぇぇぇぇぇ!

今回は坊さんが元就について批評するの巻き。


厳島宝前物語のこと(9)

「まず、仏は寂滅道場においてはじめて悟りを開き、悟りを求める人のために釈迦として姿を現して
円満教を説いたが、これが華厳経である。
これは日が昇るとまず高い山を照らすのと同じだという。
さて元就は初陣で武田検非違使元繁を芸陽の有田にて討ち取り、ここで初めて勇将として名を上げた。
仏が初めて悟りを開いたときに大乗の華厳経を説いて、
元就が初陣の武田との合戦で武の大機大用をあらわした。
仏法の陽光が高山を照らすことと、武威が日の上る勢いだということ、これらは本当によく似ている。

仏が最初に説法したのは苦行仲間に対してだった。
二乗の人(声聞乗・縁覚乗、自分一人で悟りの岸に行こうとする苦行者)は、
仏が苦行をやめて堕落したと考えて耳も貸さず目も向けないようにしていたが、
一尺六丈のぼろきれを身にまとった仏の姿は威厳に溢れ、苦行者たちも惹きつけられた。
仏が鹿野苑(ろくやおん)で阿含の小乗経を説くと、二乗の苦行者たちも悟解して、阿羅漢の境地に達した。
これは深い谷を日が照らすかのごとくである。

元就は武田を討って芸陽を打ち従え、大内・尼子・武田と並び称されていたのに替わって
大内・尼子・毛利と言われるようになりたいと思ったが、大内・尼子はそれぞれ数ヶ国の太守である。
安芸一国を従えただけでは、とても肩を並べられない。
『私が他人の幕下に属さずに一旗上げて大将と呼ばれる日はまだ到来していない。
大将を名乗りたいと言う望みはしばらく抑えて尼子に属し、
策謀をめぐらし、愛を結び、徳を施して備芸の国侍を味方に引き入れよう。
それから防長備芸を切り従え、山陰道へ出兵しよう』と考えて、尼子経久のもとに属した。
そこで備芸の国人たちと深く親交を結び、仁徳を第一にしたので、
備後・安芸の国人たちは元就の賢才と武勇とを褒め称えて、自然と元就に属すようになった。

これはさっき言った、仏が珍服を脱いでぼろぼろの衣を身にまとい、
小乗を説いて二乗の苦行者たちを阿羅漢の境地に導いたのと何の遜色があろうか。
また元就が武威を増していったのも、陽光が深い谷を照らすのに似ている。

仏は方等経を説いて小乗の声聞・縁覚をも大乗に帰依させようとした。
これは日が平地を照らすかのようだ。
これはすなわち、備芸の国人たちが元就の軍法の正しさや仁徳の深さに感嘆し、
この人こそ智勇全備の名将というものだろうと惚れこんで、
大勢力こそ強いという戦の道理をしばし忘れて大内・尼子に背き、元就に帰服したのと同じだ。
自分だけ悟りの境地に向かえればいいと考えていた人たちが、
皆が救われるようにしたいと考えるようになったことと遜色はない。
元就の武威がますます強大になっていったのも、日が平地を照らすのと一緒だ。

仏は般若経を説いて、万法はすべて一空に帰すと衆生に示した。
このときには小乗の人々も心の迷いをすでに脱して、大乗の機を発していた。
このまさに日光がさんさんと降り注ぐ巳の刻(午前十時ごろ)とでも言うべき時期に、
万法は皆真空なりと説いたのだ。
元就は厳島で陶隆房を討ち、防州へ攻め込んで大内義良・内藤隆世・陶五郎・陶小次郎をも討った。
大内・陶の子孫を一人残らず討ち果たし、地を払って空となし、
またあの家の邪政をもことごとく払い捨てた。
そうして民の心を和らげ、一点の邪悪もない本空の田地にしたことも、
また元就の武威がさらに増して巳の刻の陽光のようになったことも、これと同じことだ。

第五に仏はその後八年がかりで法華経を説いて、
無二亦無三(むにやくむさん)、仏になる道はただ一つ一条であり、二乗も三乗もないことを示した。
声聞・縁覚など小乗を修行する者たちは言うに及ばず、草木国土まですべて成仏させたのだ。
これは正午になったときの日輪のようである。
これを元就の軍略になぞらえれば、尼子を捕虜にし、宇都宮を攻め従え、
中国を統一して切り従えたことだろう。
もとから忠功を尽くしていた者には恩賞を与え、
旗を巻き兜を脱いで降伏した者には慈愛を注いで本領を安堵し、仁徳を施して全ての民を楽にした。
これは声聞・縁覚たちの成仏に相当する。

また朝廷も、元就が数ヶ国を切り従え天下を泰平に治めようとしていることに感じ入って、四位を叙階した。
公卿・殿上人まで、『ああ、この人にこそ天下の権勢を握ってほしいものだ。
そうすれば王法も昔のようにうまくいくだろうに』とこいねがった。
それだけでなく、公方(足利)義昭卿までもが、
元就が中国の政道に当たって仁徳を第一としていることを感称したのだ。
これは仏が法華経を説いたときに、多宝如来をはじめとして諸仏が歓喜なさったのと同じだ。

もとから元就の幕下に属していた国人や、家来郎党が恩賞を与えられて喜んだのは、
文殊や毘盧遮那仏などの菩薩たちの心境と同じだろう。
そして敵方にあって降服してきた者たちが元就の善政に心服したのは、
デーバダッタが悪心を捨てて心を改め、成仏したことに相当する。
中国の庶民たちはことごとく、あるいは農業に専念し、または商売が盛んになり、
五穀豊穣になったのは、草木国土をすべて成仏させたのと一緒であり、まったく違わない。

仏は法華の後には涅槃経を説き、ついに沙羅双樹の林で涅槃に入った。
元就は七十年以上生きて、余命いくばくもないことを悟ると、
輝元・元春・隆景に毛利家の将来に関する遺書を示し、または遺言を残して、
ついに元亀二年、安芸国の吉田の城で亡くなった。これは仏の入滅と同じだ。


以上、テキトー訳。まだもうちょっと。

あと1回、じゃ終わらないかな。2回くらいでどうにか読み終わるといった分量。ひでえ長い。
ついに仏様と同じってことになってしまった元就。
スケールがだいぶ違うんじゃないの、正矩。
これにはぢいさまもあの世で盛大に苦笑いしてそうwww
人殺しを生業にしている武家の大将と比べちゃっていいクラスの人なんだろうか、仏様。
いいのか。この時代は仏弟子だって長刀振るってるしね。いやしかしw

仏教用語だのに今回だいぶ苦戦したわけだけど、
ちょっと思ったのが、元長って仏教オタクだから、ナチュラルにこういう話してたかもしれないね、ってこと。
二乗がどーのこーの、阿羅漢がどーのこーの、草木国土がどーのこーの……
こりゃ聞かされる人が大変だわ。たぶん恵雍さんとか経家が聞かされ役なイメージ。
恵雍さんはお坊さんだからいいとして、
黙れと言って口をふさいでやりたくなったんじゃないか、経家?

口をふさぐ方法はアレコレ妄想で補うとして、
次回は坊さんが語る元春と隆景!
更新できなかったら用語理解に手間取っているとお察しください><。
2012-02-02

愛を! もっと愛を!!!

夜会議が予想外に早くハネたのでちょっとがんばってみたけど、
漢文引用部分がまったく読み解けない。そんないつもよりさらに「テキトー」訳。

厳島で雑談してるおっさんたちの中で、諸国を武者修行してきたという男が信長にダメ出しする続き。


厳島宝前物語のこと(8)

「また、浅井は智勇を一通り全備した将で、これを攻め滅ぼすのは信長の力をもってしても難しかった。
だから嘘で騙してこれを滅ぼそうと、浅井備前守を妹の婿にして親しくしていた。

その後信長が京都へ攻め上ろうとしたとき、まずは江州まで向かい、
浅井の陣中へ寄って騙して討とうとしたが、浅井はその陰謀に感づいて用心し、
病気だといってしばらく会うのを断った。
信長も、『さては浅井め、わしの胸中を察したから来ないのだな』と思い、
浅井に逆心ありとして、即座に攻め込んだ。

こうして浅井をだまし討ちにしようとせずに、
ただ親交を深めて、浅井を先鋒にして上洛していれば、天下に旗を翻すのも三年は早く果たせていただろう。
それなのに、何の恨みもない浅井を騙して殺そうとしたがために、
天下を掌握するのが三年も遅くなったのだ。
これは攻めるべきではない国を攻めたからだ。

殺すべきではない人を殺すとは何か。神木民部とは一度は矛盾を交えたとはいえ、
民部はすぐに旗を巻いて降服した。
しかし信長は、これを騙して討ち果たした。
すでに降った者を殺すに勝る禍はないという言葉を知らないのか。
そのほか、越前では若林、丹波では波多野など、特に荒木摂津守(村重)は、
信長が森乱丸の讒言を信じたことを恨んで反逆を企てたのだから、
その一族を刑にかけるのは、確かに納得できる処罰だ。

しかしその妻や娘に至るまで、皆ことごとく貼り付けにかけたのは、いったいどういうことだろうか。
こんな刑罰はまったく古来から聞いたこともない。
朝敵となった物部守屋大臣、あるいは相馬(平)将門、安部貞任・宗任、もしくは源為義・義朝、
平宗盛といった輩であっても、女性に刑罰を行ったか?
朝敵ですら女を刑罰の対象から外したというのに、信長の家人たちはなぜそれがわからないのか。

また、朝敵に味方した僧の忠円などは、皆遠流にされた。
これを考えると、快川和尚をはじめとして仏道に入った者を焼き殺すなど、
これもまた聞いたことがないほどの悪行だ。

そのほかの悪行などいちいち挙げていられない。一つの事例からすべてを察してくれ。
こういうわけで、信長はついに光秀にやすやすと討たれてしまったのだ。
天下の権勢を握るのであれば、仁徳を施して万民を撫育し、愛和を注いで敵を服従させ、
仏神に帰依して三宝(仏・法・僧)を敬うべきだ。
そうすれば自身も生涯を全うできるだけでなく、子孫が永久に栄えたことだろうに、
信長は力で人をねじ伏せ、刑罰で万民を脅したのだから、行く末は知れる。

蘓子はこう言っている。
『天下の大勢が戦を好まずにいるうちはたいしたことはなかったが、
戦を好むようになって、将を秦皇にした。秦皇の国は小さくはない。
それなのに子孫に譲らないままあっという間に滅んでしまったのは、戦のしすぎだからだ。
そもそも戦とは火災のようなものである。
それを治めずに将が自分から焚きつけて戦を好むようなら、必ず滅亡する』と。
信長の暴悪は秦皇に倍する。

杜牧の阿房宮賦ではこう言っている。
『ああ、六国(齊・楚・燕・韓・魏・趙)を滅ぼしたのは六国であって秦ではない。
秦の一族を皆殺しにしたのは秦であって、天下の人々ではない。
もし六国の王がそれぞれの国民を慈しんでいたならば秦の侵略を妨げたはずだし、
秦もまた攻め滅ぼした六国の民を愛していたならば、
秦は三世から万世に至るまで君主として立っていられただろうに。
誰が秦の一族を滅ぼすことなどできようか』と。
確かに信長が攻め取った土地の民を慈しんでいたならば、こんな風に滅び果てはしなかっただろう。

また武田・佐々木・朝倉・浅井・斉藤・三好たちの暴悪を考えてみると、
三好は主君の(足利)義輝卿を討ち果たし、朝倉・佐々木・浅井は主君の(足利)卿に背いた。
斉藤龍興の父、斉藤山城(道三)もまた、主君の土岐氏を追い出しただけでなく、民にひどい刑罰を行った。
武田信玄は父を追い出し子を殺害した。

もしこれらの諸将にこうした悪行がなければ、信長に滅ぼされることもなかっただろう。
信長もまた彼らを滅亡させた後、その国の士民を愛していれば、ずっと後の世まで天下を保持しただろうに、
暴悪がきわまったからこそ自身は光秀にやすやすと討ち取られ、
子孫はまた秀吉によって、あるいは殺され、または遠流の身となってしまった。

秀吉もこうした前例を目にしているのだから、政道によくないところがあれば正すべきだったのに、
そうはせず、驕り高ぶってしまった。
自分一代の間は武威のたくましさでどうにか天下を治めたとしても、
子孫がたちまち滅び果ててしまうのは、信長の例を見ても明らかだと思わないか?

現在、武も仁も全備しているのは松平家康卿その人だ。
ああ、この人が天下の執権であったならば、
私のような山林江湖に隠れ住む身も安心して世を渡ることができるだろうに。
今は石田治部少輔ごときの小者奉行が台頭しているから、
世を離れた深山の奥深くであっても、おちおち人生を楽しむことすらできない」と語った。

するといかにも徹翁・関山両派の知識を修めたとも見える僧が、口を開いた。
「お二人の諸将の批判は、その善悪の道理は実にもっともだと思っている。
では拙僧は釈尊の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五期)の説法、
もしくは祖宗門下の大善知識にたとえて、その善を称美してみよう」


以上、テキトー訳。まだ続く~。

正直飽きてきたwww
つまり正矩は「勇があっても愛がなきゃダメだよね! その点、うちの殿様は愛に溢れてるよね!」
と言いたいんだろうか。いや確かに毛利一族は愛に溢れていますけれども。
でも処断するときはマジ容赦ないよね、毛利家。井上一族とか熊谷一族とかね。

んでもって、けっこう強烈に石田三成sage・家康ageをしてきてるね。
たぶんこういう点が、現代では読む人を選ぶんだろうなと思う陰徳記の系譜。
三成も近年はけっこう見直されてきてるというかむしろ必要以上に称美されてる感じだし。
今の三成ageの風潮もイマイチよくわからんが。

広家は三成=大悪人の風説流布を促進した張本人なわけだけど、それなりに交流の痕跡も残してるよね。
吉川家文書に三成からの書状が収められたりしてるし。
挨拶文程度だから三成の人となりが窺い知れるとかそういうものではないけれども。
まあ生き残った者が滅んだ敗者にいろいろなすりつけていくのはよくあることだから
それをどうこう言うつもりはないけど、
実際のところどうだったんだろうってのは、興味が尽きないよね!

そんなわけで次回は、ようやく坂東なまりの武者修行者が話し終えてるから、
坊さんのターンだな。てか坊さんいたの??って感じだな。ステルスすぎるwww
2012-02-01

謙信のち信長、ところにより北条

記事タイトルは天気予報みたいなノリでw
予告で「次は北条だよ☆ミ」とか言っておきながら、北条ってば一行で終わってやんの。
いや、関東はよく知らないのはわかるけど、もうちょいがんばろうぜ、正矩。

そんなわけで今回は上杉と信長について語られています(CV:坂東なまりの人)。


厳島宝前物語のこと(7)

「北条家は早雲以来、代々良将だとはいえ、氏政は智も乏しく勇も劣っていたからたちまち滅びてしまった。
上杉謙信は古来稀な大勇将で、孝心も厚いと聞いている。
けれどもこの人は、武勇と比べると愛和の道はそれほどでもないとこのことだ。
もし愛が勇に等しかったなら、この人こそこの末法の世における良将と言えただろう。
国政にも少しもいけないところはなかったが、ただ最初に威嚇をして後から慈愛を注いだので、
先年の小田原攻めのときも、恩ある成田の頭を扇で叩いたことで、手勢に背かれて戦に負けてしまった。
士卒がまだ十分服従していないときに罰を先に与えてしまうと、士卒は服従しない(孫子)というが、
実にその意味を理解すべきである。
この人に愛和があれば、信長に先立って天下を我が物にしただろうに、惜しいことに愛が足りなかった。

今の喜平次景勝は、勇でも謙信に劣ることなく、愛もまた一通り備えているとのことだ。
だからこそ越後・佐渡二ヶ国の太守として、中納言に出世なさった。
これは謙信の徳が信玄に勝り、景勝の智謀が勝よりに勝っていたからではないだろうか。
惜しいことに、信玄に不孝の罪さえなければ、どうして徳で謙信に劣ることがあるだろう。
実に末法の世の良将にふさわしいというのに。

織田信長は勇将であり、かつ謀略でも群を抜いていた。
けれども仁儀礼智忠の五つを夢ほどにも知らない大悪将だった。
信長の罪を一つ一つ挙げると、大海を硯に、須弥を筆にして、
空中に書き付けていったとしても書き尽くすことはできないはずだ。

そのうちのいくつかを拾い上げてみよう。一を挙げれば三がわかる。
まず、自分が天下に旗を揚げたいからといって、公方義昭公を再び天下の将軍として臣従すると発表し、
江州へと攻め入ったので、美濃・尾張の兵たちは主君の恩を報じるために付き従い、
ついに江州を制圧て、一旦は義昭卿を入京させた。
これは信長の忠功のように見えるが、実はそうではなくて、
単に公儀の威を借りて自分の武威を大きくし、天下の権勢を握ろうとの策略だったのだ。

そして義昭卿が立腹するように仕向けた。
あたかも趙高が鹿を指して馬と言った故事と同じだ。
義昭卿は暗君だったので、信長の謀略にまんまと乗せられ、ついには信長を成敗しようとなさった。
信長はこのことを聞いて、自分の策略がうまく運んだと喜び、義昭卿を都から追い出してしまった。
これは平相国清盛が法皇を城南の離宮へ押し込めたことや、
北条相模守高時が後醍醐天皇を隠岐国へと追いやった暴悪に等しい。

それに信長は天台山に攻め上って多くの仏閣や経像を焼き払い、数千の僧や稚児らを殺害している。
この山が開闢して以来、同様の例を見ないほどひどいことだ。
これはひとえに僧たちが朝倉・浅井に味方して、その両将を山上に上げさせ、
陣を構えさせたたというだけでこんなことをしでかしたのだ。

昔、新田義貞・義助が天台山に陣を構えて京都を二度も攻めたことがあったが、
義貞・義助が滅びた後も、(足利)尊氏は比叡山を攻めることはなかった。
たとえ天台山の衆徒が朝倉・浅井に味方した罪を罰したとしても、
山王権現やそのほかあの山に縁のある仏神まで、
どんな罪があってご神体や仏像まで焼き払ったりしたのだろうか。
昔の守屋(物部守屋)の大臣は、神道を保護し仏法を締め出そうとした罪で、ついに滅んでしまった。
信長は仏敵でかつ神敵なのだから、守屋の悪行より十倍はひどい。
かの平重衡は父の命令で南都東大寺を焼き、多くの仏閣・仏像を破却してしまった。
その罪がたちまち報いて、生きたままその面を京・鎌倉にさらしただけでなく、
南都の衆徒の手に渡って首を獄門にかけられてしまった。
これは父の命令に背けなくて仕方なくそうしたのだろうが、天罰は下されたのだ。
これを思えば信長が惟任(明智光秀)に殺害されたのは遅すぎると言っても過言ではない。

また甲州に攻め入って武田父子を討ったときは、快川和尚をはじめとして数百人の僧や門徒を焼き殺し、
生きたまま火炎地獄の苦しみを味わわせた。
こうしたはなはだしい悪行を思えば、
項羽が関に入りはじめに秦の宮室を焼き秦の子弟たちを坑(穴に埋めて殺す)に処したことも、
信長の悪行に比べたらほんの取るに足りないことに思える。
だから昔の人も、国がたとえ強大でも戦を好めば必ず滅びると言ったのだ。
信長は自分の強さを過信していたからこそ、戦を好んで囲むべきではない城を囲み、
攻めるべきではない国を攻め、やらべきではないことをやった。

さて、囲むべきではない城とは何かというと、まず大阪の城だ。
西国の押さえにもっとも適したところだから、ここに兵を籠め置こうとして、
本願寺顕如に対して『この場所を自分に譲るように』と言い送った。
顕如上人は、『この地は仏法を繁栄させる霊境として蓮如上人の代からずっと守り伝えてきた。
それを信長に譲ってしまえば、仏法を衰微させてしまうだろう。
けれども絶対に譲らないなどと返事をすれば、大悪人の信長のことだから、かえって恨みを抱くだろう。
まずは一応断ってみて、その上で重ねて所望するようなら、そのときにまた考えよう』と、
言葉を和らげて断った。

信長はこれを聞いて、憤った。
『坊主の言いざまの憎らしいことよ。
信長が譲れと言うのに譲らないとは、今に目にものみせてくれよう。
わしは天下の武将だ。わしの土地でないところなど、この六十余州(日本)にありはしない。
それなのに武田・上杉はわしの下知に背いて、この日本を我が物にして威を振るおうとしている。
一向宗の坊主たちまでそのまねをして異議を唱えてくるのだから、まったくおかしなものだ。
譲れと言ったからいやだと返すのだろう。ただ攻め取れば言いだけの話だ』

こうして軍兵を差し向け、取り急ぎ顕如を討ち果たしてご本尊や開山の親鸞聖人の御影を焼き尽くそうと、
すぐに天王寺に付城を構え、自身も大阪へ向かって何度も合戦を仕掛けた。
もし信長が仏敵・神敵となることを悲しんで、理を尽くし、言葉を和らげて再三申し入れをしていれば、
顕如上人も承諾したことだろう。

愛和の道などまったくなく、ただ力押しで人を屈服させようとするのは愚かだ。
力で人を屈服させるのと、徳に人が服従するのとはわけが違う。
力で人をねじ伏せれば、その人はなおも自分に敵意を抱き、
仕方なく働いたとしてもその功は大したものではない。
徳で人を懐けたなら、意図しなくても人は自分から服従してくるものだ。
そういう者が働けば、功も自然に大きなものになるという。

信長に少しでも武道の心得があれば、こんなはなはだしい悪逆はなかっただろうに、
あれこれと学問を嫌って一文も知らなかったそうだから、やりたいままに悪行を重ねてしまった。
もしこのときに徳をもってこの場所を所望し、愛和を尽くして説得したならば、
顕如上人もこの場所を譲っただろうに、なんともどうしようもない振舞いではないか。
こうして力で奪い取ろうとしてきたから、諸国の一向宗の者たちは、出家在家ともに、
本願寺を助けようと蜂起した。
信長はまたそれを鎮圧しようと各地へ派兵して、伊勢の長嶋で氏家卜全が討ち死にした。
そのほかさまざまな戦において、織田大隅守をはじめとして主力の一族が数十人討たれてしまった。
伊賀では次男の信雄が大いに利を失って、多くの兵を消耗した。
大阪では野々村越中守・原田備中守などが討たれた。
これは囲むべきでない城を囲んだせいではないだろうか。

また攻めるべきではない国を攻めたというのは、信長の小舅、斉藤龍興の領国だった美濃のことだ。
欲ばかりが先走って所縁のある者を思いやることもせず、
その国を自分の物にしたいというだけで、龍興の家臣の『美濃の三人衆』とかいう
稲葉伊代守・伊賀伊賀守・氏家卜全と裏で通じ、美濃に攻め入って龍興を追い出し、美濃を横領した。
龍興は何の遺恨もないどころか、縁者だから親睦を深めていたというのに、
国を奪うためにこのように振舞うのは、攻めるべきではない国を攻めたと言えないだろうか」


以上、テキトー訳。まだ続く。

この後もまだ信長について語られてるようだけど、今日はここまで。
右目の白目部分が謎の鈍痛に襲われているので寝たほうがいいと判断しましたwww
考えてみたら一番忙しいのは今日じゃなくて明日だったので、次回更新は1日空けるかも。

うん。信長disがすごいねえ。さすが本願寺支援して木津川口で鉄甲船に散々にやられた毛利。
まあその何年か前に信長の水軍きっちり破ってるはずなんだけどね。
なんか語り口から憎しみが透けて見えるのでドキドキw
上杉はね、あんま興味ない。

いつも読んでる逸話サイト様で、毛利家臣団だけが知っている毛利の魅力みたいなのが話題に上ってて、
このところなんだかニヤニヤしっぱなしです。
毛利家臣はどうしてあんなに殿様のこと好きなんだろうかってのは常々思ってて、
陰徳記でこういう話を読むと、仏教・神道に対する寛容さもミソだったんじゃないかな、と思う。
厳島大明神への帰依は言うに及ばず、出雲でも九州でも、
それなりに当地の寺社仏閣を大事にしているみたいだしね。
先の領主に見捨てられたり戦乱で破却された霊域を建て直し、
旧例どおり寺社領を安堵するってのは、人心掌握にかなり有効だったのかも。
本願寺に加担して一向宗を助けようとしているわりに、毛利家文書とかからほとんど宗教臭がしないのも面白い。
葬儀の宗派とかもあんまりこだわってなさそうだよね。なんとなくご縁で禅宗、的な。

禅宗ってのは、勝手なイメージだけど、宗教というよりは哲学の側面が強いような気がする。
禅問答からして、これまでの概念を一度捨てて問い直すみたいなところがあるし。
信じるというより疑う、模索するといった方面に向かってる印象がある。
実利は実利、哲学は哲学とすれば、とっつきやすい宗派だと思うなぁ。
硬直した原理主義的部分があまり見出せないからなのかな。
絶対的な価値観を押し付けられると、なんか引いちゃうんだよね。

そういえば毛利の起請文にはたいてい「厳島大明神」て明記されてるんだけど、
ほかの家の人が書いた起請文だと、多くは「氏神」みたいにボカされて名指しされてないわけさ。
このへんも突き詰めていくと面白そうだよね。ほかに知りたいことが多いから突き詰めないけど。

そんなわけで(?)信長評論は次回に繰越。
検索フォーム
カレンダー
01 | 2012/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -
訪問者数