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2012-02-01

謙信のち信長、ところにより北条

記事タイトルは天気予報みたいなノリでw
予告で「次は北条だよ☆ミ」とか言っておきながら、北条ってば一行で終わってやんの。
いや、関東はよく知らないのはわかるけど、もうちょいがんばろうぜ、正矩。

そんなわけで今回は上杉と信長について語られています(CV:坂東なまりの人)。


厳島宝前物語のこと(7)

「北条家は早雲以来、代々良将だとはいえ、氏政は智も乏しく勇も劣っていたからたちまち滅びてしまった。
上杉謙信は古来稀な大勇将で、孝心も厚いと聞いている。
けれどもこの人は、武勇と比べると愛和の道はそれほどでもないとこのことだ。
もし愛が勇に等しかったなら、この人こそこの末法の世における良将と言えただろう。
国政にも少しもいけないところはなかったが、ただ最初に威嚇をして後から慈愛を注いだので、
先年の小田原攻めのときも、恩ある成田の頭を扇で叩いたことで、手勢に背かれて戦に負けてしまった。
士卒がまだ十分服従していないときに罰を先に与えてしまうと、士卒は服従しない(孫子)というが、
実にその意味を理解すべきである。
この人に愛和があれば、信長に先立って天下を我が物にしただろうに、惜しいことに愛が足りなかった。

今の喜平次景勝は、勇でも謙信に劣ることなく、愛もまた一通り備えているとのことだ。
だからこそ越後・佐渡二ヶ国の太守として、中納言に出世なさった。
これは謙信の徳が信玄に勝り、景勝の智謀が勝よりに勝っていたからではないだろうか。
惜しいことに、信玄に不孝の罪さえなければ、どうして徳で謙信に劣ることがあるだろう。
実に末法の世の良将にふさわしいというのに。

織田信長は勇将であり、かつ謀略でも群を抜いていた。
けれども仁儀礼智忠の五つを夢ほどにも知らない大悪将だった。
信長の罪を一つ一つ挙げると、大海を硯に、須弥を筆にして、
空中に書き付けていったとしても書き尽くすことはできないはずだ。

そのうちのいくつかを拾い上げてみよう。一を挙げれば三がわかる。
まず、自分が天下に旗を揚げたいからといって、公方義昭公を再び天下の将軍として臣従すると発表し、
江州へと攻め入ったので、美濃・尾張の兵たちは主君の恩を報じるために付き従い、
ついに江州を制圧て、一旦は義昭卿を入京させた。
これは信長の忠功のように見えるが、実はそうではなくて、
単に公儀の威を借りて自分の武威を大きくし、天下の権勢を握ろうとの策略だったのだ。

そして義昭卿が立腹するように仕向けた。
あたかも趙高が鹿を指して馬と言った故事と同じだ。
義昭卿は暗君だったので、信長の謀略にまんまと乗せられ、ついには信長を成敗しようとなさった。
信長はこのことを聞いて、自分の策略がうまく運んだと喜び、義昭卿を都から追い出してしまった。
これは平相国清盛が法皇を城南の離宮へ押し込めたことや、
北条相模守高時が後醍醐天皇を隠岐国へと追いやった暴悪に等しい。

それに信長は天台山に攻め上って多くの仏閣や経像を焼き払い、数千の僧や稚児らを殺害している。
この山が開闢して以来、同様の例を見ないほどひどいことだ。
これはひとえに僧たちが朝倉・浅井に味方して、その両将を山上に上げさせ、
陣を構えさせたたというだけでこんなことをしでかしたのだ。

昔、新田義貞・義助が天台山に陣を構えて京都を二度も攻めたことがあったが、
義貞・義助が滅びた後も、(足利)尊氏は比叡山を攻めることはなかった。
たとえ天台山の衆徒が朝倉・浅井に味方した罪を罰したとしても、
山王権現やそのほかあの山に縁のある仏神まで、
どんな罪があってご神体や仏像まで焼き払ったりしたのだろうか。
昔の守屋(物部守屋)の大臣は、神道を保護し仏法を締め出そうとした罪で、ついに滅んでしまった。
信長は仏敵でかつ神敵なのだから、守屋の悪行より十倍はひどい。
かの平重衡は父の命令で南都東大寺を焼き、多くの仏閣・仏像を破却してしまった。
その罪がたちまち報いて、生きたままその面を京・鎌倉にさらしただけでなく、
南都の衆徒の手に渡って首を獄門にかけられてしまった。
これは父の命令に背けなくて仕方なくそうしたのだろうが、天罰は下されたのだ。
これを思えば信長が惟任(明智光秀)に殺害されたのは遅すぎると言っても過言ではない。

また甲州に攻め入って武田父子を討ったときは、快川和尚をはじめとして数百人の僧や門徒を焼き殺し、
生きたまま火炎地獄の苦しみを味わわせた。
こうしたはなはだしい悪行を思えば、
項羽が関に入りはじめに秦の宮室を焼き秦の子弟たちを坑(穴に埋めて殺す)に処したことも、
信長の悪行に比べたらほんの取るに足りないことに思える。
だから昔の人も、国がたとえ強大でも戦を好めば必ず滅びると言ったのだ。
信長は自分の強さを過信していたからこそ、戦を好んで囲むべきではない城を囲み、
攻めるべきではない国を攻め、やらべきではないことをやった。

さて、囲むべきではない城とは何かというと、まず大阪の城だ。
西国の押さえにもっとも適したところだから、ここに兵を籠め置こうとして、
本願寺顕如に対して『この場所を自分に譲るように』と言い送った。
顕如上人は、『この地は仏法を繁栄させる霊境として蓮如上人の代からずっと守り伝えてきた。
それを信長に譲ってしまえば、仏法を衰微させてしまうだろう。
けれども絶対に譲らないなどと返事をすれば、大悪人の信長のことだから、かえって恨みを抱くだろう。
まずは一応断ってみて、その上で重ねて所望するようなら、そのときにまた考えよう』と、
言葉を和らげて断った。

信長はこれを聞いて、憤った。
『坊主の言いざまの憎らしいことよ。
信長が譲れと言うのに譲らないとは、今に目にものみせてくれよう。
わしは天下の武将だ。わしの土地でないところなど、この六十余州(日本)にありはしない。
それなのに武田・上杉はわしの下知に背いて、この日本を我が物にして威を振るおうとしている。
一向宗の坊主たちまでそのまねをして異議を唱えてくるのだから、まったくおかしなものだ。
譲れと言ったからいやだと返すのだろう。ただ攻め取れば言いだけの話だ』

こうして軍兵を差し向け、取り急ぎ顕如を討ち果たしてご本尊や開山の親鸞聖人の御影を焼き尽くそうと、
すぐに天王寺に付城を構え、自身も大阪へ向かって何度も合戦を仕掛けた。
もし信長が仏敵・神敵となることを悲しんで、理を尽くし、言葉を和らげて再三申し入れをしていれば、
顕如上人も承諾したことだろう。

愛和の道などまったくなく、ただ力押しで人を屈服させようとするのは愚かだ。
力で人を屈服させるのと、徳に人が服従するのとはわけが違う。
力で人をねじ伏せれば、その人はなおも自分に敵意を抱き、
仕方なく働いたとしてもその功は大したものではない。
徳で人を懐けたなら、意図しなくても人は自分から服従してくるものだ。
そういう者が働けば、功も自然に大きなものになるという。

信長に少しでも武道の心得があれば、こんなはなはだしい悪逆はなかっただろうに、
あれこれと学問を嫌って一文も知らなかったそうだから、やりたいままに悪行を重ねてしまった。
もしこのときに徳をもってこの場所を所望し、愛和を尽くして説得したならば、
顕如上人もこの場所を譲っただろうに、なんともどうしようもない振舞いではないか。
こうして力で奪い取ろうとしてきたから、諸国の一向宗の者たちは、出家在家ともに、
本願寺を助けようと蜂起した。
信長はまたそれを鎮圧しようと各地へ派兵して、伊勢の長嶋で氏家卜全が討ち死にした。
そのほかさまざまな戦において、織田大隅守をはじめとして主力の一族が数十人討たれてしまった。
伊賀では次男の信雄が大いに利を失って、多くの兵を消耗した。
大阪では野々村越中守・原田備中守などが討たれた。
これは囲むべきでない城を囲んだせいではないだろうか。

また攻めるべきではない国を攻めたというのは、信長の小舅、斉藤龍興の領国だった美濃のことだ。
欲ばかりが先走って所縁のある者を思いやることもせず、
その国を自分の物にしたいというだけで、龍興の家臣の『美濃の三人衆』とかいう
稲葉伊代守・伊賀伊賀守・氏家卜全と裏で通じ、美濃に攻め入って龍興を追い出し、美濃を横領した。
龍興は何の遺恨もないどころか、縁者だから親睦を深めていたというのに、
国を奪うためにこのように振舞うのは、攻めるべきではない国を攻めたと言えないだろうか」


以上、テキトー訳。まだ続く。

この後もまだ信長について語られてるようだけど、今日はここまで。
右目の白目部分が謎の鈍痛に襲われているので寝たほうがいいと判断しましたwww
考えてみたら一番忙しいのは今日じゃなくて明日だったので、次回更新は1日空けるかも。

うん。信長disがすごいねえ。さすが本願寺支援して木津川口で鉄甲船に散々にやられた毛利。
まあその何年か前に信長の水軍きっちり破ってるはずなんだけどね。
なんか語り口から憎しみが透けて見えるのでドキドキw
上杉はね、あんま興味ない。

いつも読んでる逸話サイト様で、毛利家臣団だけが知っている毛利の魅力みたいなのが話題に上ってて、
このところなんだかニヤニヤしっぱなしです。
毛利家臣はどうしてあんなに殿様のこと好きなんだろうかってのは常々思ってて、
陰徳記でこういう話を読むと、仏教・神道に対する寛容さもミソだったんじゃないかな、と思う。
厳島大明神への帰依は言うに及ばず、出雲でも九州でも、
それなりに当地の寺社仏閣を大事にしているみたいだしね。
先の領主に見捨てられたり戦乱で破却された霊域を建て直し、
旧例どおり寺社領を安堵するってのは、人心掌握にかなり有効だったのかも。
本願寺に加担して一向宗を助けようとしているわりに、毛利家文書とかからほとんど宗教臭がしないのも面白い。
葬儀の宗派とかもあんまりこだわってなさそうだよね。なんとなくご縁で禅宗、的な。

禅宗ってのは、勝手なイメージだけど、宗教というよりは哲学の側面が強いような気がする。
禅問答からして、これまでの概念を一度捨てて問い直すみたいなところがあるし。
信じるというより疑う、模索するといった方面に向かってる印象がある。
実利は実利、哲学は哲学とすれば、とっつきやすい宗派だと思うなぁ。
硬直した原理主義的部分があまり見出せないからなのかな。
絶対的な価値観を押し付けられると、なんか引いちゃうんだよね。

そういえば毛利の起請文にはたいてい「厳島大明神」て明記されてるんだけど、
ほかの家の人が書いた起請文だと、多くは「氏神」みたいにボカされて名指しされてないわけさ。
このへんも突き詰めていくと面白そうだよね。ほかに知りたいことが多いから突き詰めないけど。

そんなわけで(?)信長評論は次回に繰越。
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