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2012-02-02

愛を! もっと愛を!!!

夜会議が予想外に早くハネたのでちょっとがんばってみたけど、
漢文引用部分がまったく読み解けない。そんないつもよりさらに「テキトー」訳。

厳島で雑談してるおっさんたちの中で、諸国を武者修行してきたという男が信長にダメ出しする続き。


厳島宝前物語のこと(8)

「また、浅井は智勇を一通り全備した将で、これを攻め滅ぼすのは信長の力をもってしても難しかった。
だから嘘で騙してこれを滅ぼそうと、浅井備前守を妹の婿にして親しくしていた。

その後信長が京都へ攻め上ろうとしたとき、まずは江州まで向かい、
浅井の陣中へ寄って騙して討とうとしたが、浅井はその陰謀に感づいて用心し、
病気だといってしばらく会うのを断った。
信長も、『さては浅井め、わしの胸中を察したから来ないのだな』と思い、
浅井に逆心ありとして、即座に攻め込んだ。

こうして浅井をだまし討ちにしようとせずに、
ただ親交を深めて、浅井を先鋒にして上洛していれば、天下に旗を翻すのも三年は早く果たせていただろう。
それなのに、何の恨みもない浅井を騙して殺そうとしたがために、
天下を掌握するのが三年も遅くなったのだ。
これは攻めるべきではない国を攻めたからだ。

殺すべきではない人を殺すとは何か。神木民部とは一度は矛盾を交えたとはいえ、
民部はすぐに旗を巻いて降服した。
しかし信長は、これを騙して討ち果たした。
すでに降った者を殺すに勝る禍はないという言葉を知らないのか。
そのほか、越前では若林、丹波では波多野など、特に荒木摂津守(村重)は、
信長が森乱丸の讒言を信じたことを恨んで反逆を企てたのだから、
その一族を刑にかけるのは、確かに納得できる処罰だ。

しかしその妻や娘に至るまで、皆ことごとく貼り付けにかけたのは、いったいどういうことだろうか。
こんな刑罰はまったく古来から聞いたこともない。
朝敵となった物部守屋大臣、あるいは相馬(平)将門、安部貞任・宗任、もしくは源為義・義朝、
平宗盛といった輩であっても、女性に刑罰を行ったか?
朝敵ですら女を刑罰の対象から外したというのに、信長の家人たちはなぜそれがわからないのか。

また、朝敵に味方した僧の忠円などは、皆遠流にされた。
これを考えると、快川和尚をはじめとして仏道に入った者を焼き殺すなど、
これもまた聞いたことがないほどの悪行だ。

そのほかの悪行などいちいち挙げていられない。一つの事例からすべてを察してくれ。
こういうわけで、信長はついに光秀にやすやすと討たれてしまったのだ。
天下の権勢を握るのであれば、仁徳を施して万民を撫育し、愛和を注いで敵を服従させ、
仏神に帰依して三宝(仏・法・僧)を敬うべきだ。
そうすれば自身も生涯を全うできるだけでなく、子孫が永久に栄えたことだろうに、
信長は力で人をねじ伏せ、刑罰で万民を脅したのだから、行く末は知れる。

蘓子はこう言っている。
『天下の大勢が戦を好まずにいるうちはたいしたことはなかったが、
戦を好むようになって、将を秦皇にした。秦皇の国は小さくはない。
それなのに子孫に譲らないままあっという間に滅んでしまったのは、戦のしすぎだからだ。
そもそも戦とは火災のようなものである。
それを治めずに将が自分から焚きつけて戦を好むようなら、必ず滅亡する』と。
信長の暴悪は秦皇に倍する。

杜牧の阿房宮賦ではこう言っている。
『ああ、六国(齊・楚・燕・韓・魏・趙)を滅ぼしたのは六国であって秦ではない。
秦の一族を皆殺しにしたのは秦であって、天下の人々ではない。
もし六国の王がそれぞれの国民を慈しんでいたならば秦の侵略を妨げたはずだし、
秦もまた攻め滅ぼした六国の民を愛していたならば、
秦は三世から万世に至るまで君主として立っていられただろうに。
誰が秦の一族を滅ぼすことなどできようか』と。
確かに信長が攻め取った土地の民を慈しんでいたならば、こんな風に滅び果てはしなかっただろう。

また武田・佐々木・朝倉・浅井・斉藤・三好たちの暴悪を考えてみると、
三好は主君の(足利)義輝卿を討ち果たし、朝倉・佐々木・浅井は主君の(足利)卿に背いた。
斉藤龍興の父、斉藤山城(道三)もまた、主君の土岐氏を追い出しただけでなく、民にひどい刑罰を行った。
武田信玄は父を追い出し子を殺害した。

もしこれらの諸将にこうした悪行がなければ、信長に滅ぼされることもなかっただろう。
信長もまた彼らを滅亡させた後、その国の士民を愛していれば、ずっと後の世まで天下を保持しただろうに、
暴悪がきわまったからこそ自身は光秀にやすやすと討ち取られ、
子孫はまた秀吉によって、あるいは殺され、または遠流の身となってしまった。

秀吉もこうした前例を目にしているのだから、政道によくないところがあれば正すべきだったのに、
そうはせず、驕り高ぶってしまった。
自分一代の間は武威のたくましさでどうにか天下を治めたとしても、
子孫がたちまち滅び果ててしまうのは、信長の例を見ても明らかだと思わないか?

現在、武も仁も全備しているのは松平家康卿その人だ。
ああ、この人が天下の執権であったならば、
私のような山林江湖に隠れ住む身も安心して世を渡ることができるだろうに。
今は石田治部少輔ごときの小者奉行が台頭しているから、
世を離れた深山の奥深くであっても、おちおち人生を楽しむことすらできない」と語った。

するといかにも徹翁・関山両派の知識を修めたとも見える僧が、口を開いた。
「お二人の諸将の批判は、その善悪の道理は実にもっともだと思っている。
では拙僧は釈尊の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五期)の説法、
もしくは祖宗門下の大善知識にたとえて、その善を称美してみよう」


以上、テキトー訳。まだ続く~。

正直飽きてきたwww
つまり正矩は「勇があっても愛がなきゃダメだよね! その点、うちの殿様は愛に溢れてるよね!」
と言いたいんだろうか。いや確かに毛利一族は愛に溢れていますけれども。
でも処断するときはマジ容赦ないよね、毛利家。井上一族とか熊谷一族とかね。

んでもって、けっこう強烈に石田三成sage・家康ageをしてきてるね。
たぶんこういう点が、現代では読む人を選ぶんだろうなと思う陰徳記の系譜。
三成も近年はけっこう見直されてきてるというかむしろ必要以上に称美されてる感じだし。
今の三成ageの風潮もイマイチよくわからんが。

広家は三成=大悪人の風説流布を促進した張本人なわけだけど、それなりに交流の痕跡も残してるよね。
吉川家文書に三成からの書状が収められたりしてるし。
挨拶文程度だから三成の人となりが窺い知れるとかそういうものではないけれども。
まあ生き残った者が滅んだ敗者にいろいろなすりつけていくのはよくあることだから
それをどうこう言うつもりはないけど、
実際のところどうだったんだろうってのは、興味が尽きないよね!

そんなわけで次回は、ようやく坂東なまりの武者修行者が話し終えてるから、
坊さんのターンだな。てか坊さんいたの??って感じだな。ステルスすぎるwww
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