FC2ブログ
2012-02-05

宗教論で腹の中がパンパンだぜ(膀胱容量的な意味で)

ついった用広家botを練っていたらひどい時間になった。
慌てて陰徳記開いたけど、意味のわからない言葉の羅列に絶望した!

そんなわけで三人のおじさんの長い長い話は今日でおしまい。


厳島宝前物語のこと(11)

「さて、今の広家は文武の才を兼備していると、世を挙げて賞賛されている。
親や兄の道を受け継いだのだろう。これをさっき言ったようになぞらえれば、
『明星を見て道を悟る(釈迦が明星を見て悟りを開いたこと)』や迦葉の『拈華微笑』の大意が、
達磨(菩提達磨、禅宗の祖とされる)によって世に広く隆盛したことと並べられるだろう。

また、隆景は家を継がせる実子がない。
もし他家の人の子を養子にして相続させたとしても、武芸文徳に暗いかもしれない。
そうなれば、また阿難が仏の教えを誦出(じゅしゅつ)したものを
貝多羅葉(文字などを書き付けるための葉)にまとめたように、
隆景のやり方をも継ぐのは広家だろうから、鳩摩羅什などの三蔵にも相当するのではないかな。
また、儒教でいうと、孔子・孟子の道を再興させた朱子の飛びぬけた才にも並べられるだろう。
きっとこの後は毛利家を補佐し、その危機を助け、
その栄華を無窮の子孫にまで伝えるのは広家の才であろうと思う。

また、元就の才は臨済宗の四料簡によく似ていると思う。
最初の合戦で武田を討ち果たし、そのまま佐藤銀山へ攻め寄せれば、
敵は一日も持ちこたえられなかったはずなのに、公方の下知を守って、銀山をそのままにしたのは、
『奪人不奪境』ではないか。
また尼子義久は代々の怨敵だったのに、兜を脱いで降服したいと望んでくれば、
その一命を助けて城だけを受け取ったのも『奪境不奪人』ではないだろうか。
それに益田越中守・小笠原長雄などが旗を巻いて幕下に属したいと言ってくれば、
その望みに任せて本領と家城を与え、そのままにしていたのは『人境倶不奪』ではないか。
そして陶父子を討ち、大内義長・内藤隆世らをことごとく攻め滅ぼし、城郭を破却し、
国を切り取ったのは『人境倶奪』だろう。

また、次男元春は父元就の戦略の真髄を会得したとのことだ。
これは臨済宗の四喝に似ている。
元就の先陣として大内・陶・尼子などを攻め滅ぼしたとき、
元春が向かったところの敵はすべて討ち果たされたという。
これは金剛王宝剣の喝(相手の迷いなどをスパッと斬る喝)のようだ。

また羽柴秀吉が六万の軍勢を率いて伯耆の羽衣石に続く大山へと進軍してきたとき、
元春はたった六千の手勢で対陣し、敵の大軍をものともせずに勇猛に渡り合ったので、
秀吉はこの勢いに臆して大軍を引き揚げた。
山中鹿介は出雲・伯耆に入りたくとも元春の武威を恐れていたので、
秀吉の手に属して播磨へ攻め入り、上月に入った。
これは皆、元春の武威が非常に大きかったためだ。
踞地金毛(こじきんもう)の獅子の喝(うずくまったライオンのように相手を怯え上がらせる喝)のようだ。

そして山中鹿介を生け捕るために、大山教悟院を攻めると発表して、
その道を引き返し末石の城を取り巻いて、すぐに鹿介を生け捕った。
また上月の城を取り囲まれたときは、秀吉と対陣し、
味方に内通する者が敵方に多くいるということを、敵方に知らせるように策を運んだ。
秀吉は騙されて、本当だと思い込んでやがて負けて引いていった。
そして自分の手勢の中から選んだ者を山伏に扮装させ、
または若党・中間のふりをさせて秀吉に奉公させていたので、敵方の作戦は毎日報告が来る。
もし戦いになれば裏切るようにと合図を定めておいた。
少人数を誘い寄せて合戦に及ぼうとする場合は、実は大軍を率いていても、
こちらが少人数だと伝わるようにし、陣取りや備えの仕方も小勢だと見えるようにした。
だから布部で山中・立原はこの謀略に誘い込まれ、凄惨な一戦をして多くの兵を失って負けた。
上月では兵数が少ないのに大軍だと発表し、陣も大軍のように取った。
このせいで秀吉は早々に敗軍したのだ。
こうした行いはすべて探竿影草(たんかんようぞう)の喝(相手の真偽・凡聖などを見抜く喝)のようだ。

また元春は、秀吉の上方勢と和睦した後は、
子房(張良)が赤松子(せきしょうし、中国神話の仙人)の道を学んだその跡をたどろうと、
ついに家督を元長に譲り、石見の佐波のある曹洞宗の智者を頼り、
朝参暮請(禅の修業)のみを日課とした。
そうなると武名を世に高らかに上げることすら取るに足らない塵芥と思うようになり、
安閑無事の心境で、何もしないでいることすらも忘れるようになったことは、
一喝の用をなさずの喝(一挙手一投足がすべて喝)に似ている。

そして嫡男元長・広家が伯耆の馬野山で、たった三千の手勢で松ヶ崎へと打ち出して、
秀吉の六万の勢に駆け向かい、『敵よかかってこい、一戦してやろう』と呼びかけたのは、
徳山和尚が潙山和尚のところに乗り込んだときに、
複子(僧が用いる風呂敷)差し挟んで『無々』などと言って
すぐ出ていったようなもの(悟りとは程遠い振る舞い)だ。

また隆元様は愛に優れて仁道を第一にしていたので、
その柔和さでは趙州・南泉(唐の時代の禅僧)の道に似ている。

隆景は撫民治国の器なので、末法の世の聖人とでも言うべき大将だと人々は口々に言う。
だからこそ秀吉公も特別に取り立てた。
これは忠国師が肅宗を見出したことのようである。

だいたいにして毛利家は、南北を二手に分けて軍事を行った。
ならば元春は恵能に当たり、隆景は神秀に当たるのではないか。
また西も元春が先陣を務めたので、江西の馬祖に等しく、隆景は湖南の石頭に准ずるだろう。
元就の軍事の手法は、私の宗派(臨済宗?)の奥儀にとてもよく似ている。

世間の庸将は孤虚を孤虚(こきょ)を考え、咸池(かんち)を占い、亀兆(きちょう)を合わせ、
吉凶を視、星辰風雲(せいしんふううん)の変を観て、それで勝を成し功を立てようとしている。
これはすなわち十二分経(仏教経典の分類)のカスに食らいついて外に向かって仏を求めるようなものである。
それなのに元就は、厳島合戦のときに初めて陰陽術数を一度に投げ捨てて、
ただ戦いに勝つ方法と負けに至る理由を考え、敵を制して勝利を得た。
これは私の宗派で言えば、達磨が相を破って直に人心を指して、
『直指人心 見性成仏』させたようなものである。

またすべての陰陽術数を捨ててしまったかと思えば、これは愚鈍な者をうまく使うために有効な策だったので、
まったく捨ててしまいはしなかった。あるときは孤虚を考え、咸池を占ったりした。
これはすなわち、私の宗派の『第二儀門に下り和泥合水』の手段である。

敵に対して兵を用いるのに、あるときは正規兵を奇兵として使い、奇兵を用いて正規兵となし、
一つの用法にとらわれなかった。
常に変動し、敵によって手を変えるのは、あたかも韶陽慎定の機知のようだ。
上は天の時にとらわれず、下も地の利に制限されないことは、
釈迦が『天上天下唯我独尊』と仰ったのと同じだ。
実に関東関西唯我独尊の明将である」

僧が語ると、二人の俗人は言った。
「和尚の批評、文殊の才は、富楼那(ふるな、釈迦の十大弟子の一人)の舌でもかなわないだろうな。
虚堂録でも、『雪豆、その兵機をよくせずといえども、暗に孫呉にかなう』
続く僧宝伝に、『趙州禅、項羽が兵を用いるごとく』
碧巌録に『ただ徳山のごとくあれば什磨に似る。ひとえに李広が天性射をよくするに似たり』
光明蔵に『達磨、烏獲の力を孟賁が勇有り』
と言っているので、和尚の批評はいちいち兵法の理にもかなっている」と称美した。
そのころには東方から白々と朝日が昇ろうとしていたので、それぞれ東西に分かれて帰っていった。


以上、テキトー訳。やっとこの章終わり。

もうしばらく宗教のオハナシ読みたくない( ゚д゚)
魂魄が離れてしまいそう(((( ゚д゚))))プルプル
そんなわけで私は元長と親しい友人にはなれそうにありません。
もしくは宗教論議を吹っかけられたらすぐさま押し倒してやる。
そのまま四の字固めか腕ひしぎかけちゃる。待ってろ元長!!!

広家にも触れられてたけどほんのちょびっとだったね。
でも聖人になぞらえられた人に仲間入り。よかったね!!!
でも伝える人であってそれ以上でも以下でもないね!
意外に評価の低い広家。(´・ω・`)ショボーン
そしてふと気づいたんだけど、て……輝元は……?

そしてトイレ行くの忘れてたので行ってきますw
スポンサーサイト



検索フォーム
カレンダー
01 | 2012/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -
訪問者数