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2012-02-27

よしむーの処遇

だいたいの流れ:
押し寄せる大明軍120万を跳ね返し、朝鮮の都を堅守する日本勢だったが、
勝ちに乗って川下の城を攻めるも、損害を多く出した。

今回は小西がズタボロにやられたときにさっさと逃げ出しちゃった大友よしむーのお話。


大友義統のこと

大友義統は都にもいられずに釜山海まで出ていたが、このままでは取り潰しにあってしまうと考えて、
朝鮮船が数艘出ているところへと、五千余騎を乗せた船で飛び込んでいった。
無二にかかって敵の大船を二艘乗っ取ったけれども、
三奉行たちはまったく褒め称えることすらしなかった。
それどころか石田・増田・大谷たち奉行衆は、先日大友が小西を見捨てて逃げ出した振る舞いを
ありのままに太閤に報告しようと、大田小源五(後に飛騨守と名乗る)・早川主馬の二人を、
同(文禄二年)四月に日本へ返したのだった。

殿下は二人の口上を聞き、石田の書状を見ると、「大友の臆病は前代未聞だ」と怒り心頭の様子で、
同六月、また大田・早川を高麗へと渡海させた。
三奉行、そのほかの諸将への御内書にも、
「大友左兵衛督義統は日本一の臆病者なり。早々に領国を没収し、追放すべし」と書き送った。
その両使は六月十五日に高麗に着き、大友義統は七月二十三日に高麗から追い返され、
九州の地へと到着すると、すぐに太閤秀吉公から毛利黄門輝元卿へと預けられた。
それからしばらくは防州の陶に置かれていたが、その後はまた高野山の麓に蟄居させられていたそうだ。

こうして豊後の国は十一人に割り与えられた。
高田の城は竹中伊豆守、飛玖の城は垣見和泉守、秋野の京留の城は熊谷半次(後に内蔵丞と名乗る)、
杵月の城は松井佐渡守、比地の城は朝日右衛門、府内の城は早川主馬、
おい田郡の内萩原の城は福原左馬助、竹田の城は中川修理亮、臼杵の城は稲葉孫六、
比田の城は毛利民部大輔、臼杵の内切ごうの城は久留嶋出雲守が入ったそうだ。


以上、テキトー訳。

短いけどこの章はここまで。

なんだ、どんだけよしむーが罵倒されてるんだろうと期待してたのに、あっさりしてやがる。
まあ諸将にまで、「あいつ臆病だからクビな」って書き送られちゃうあたりは、
想像するだにかわいそうな気がしないでもないがwww

それでもこの人、あちこちで幽閉生活を送ったりしながら、息子は高家として家名を保ったらしいよ。
ていうか預かった輝元が、関ヶ原の乱のときに義統を支援して、九州方面で暴れさせたらしいよ。
そこでもあっさり如水さんたちに負けて、娘婿の母里友信に降伏……
ちょっとお義父さん、いい加減にしてくださいよw

関ヶ原後は常陸の国に幽閉→慶長15年に死去して嫡男が家名を継ぐ、と。
踏んだり蹴ったりだな、よしむー。でも家が残っただけすごいじゃん。
もともと関ヶ原前から嫡男は秀忠に近侍してたみたいだけどな。息子GJ!

どうでもいいけど常陸の国ってよく失脚した人が流されてるのね。
花房助兵衛も佐竹に預けられて常陸に蟄居させられてたし、曲直瀬道三も常陸に流罪だったな。
茨城、そんなに辺鄙なところなの? アンコウがおいしいってイメージしかないよ。あと納豆。

さて、次回は和平交渉とまた城攻めの話かな。
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