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2012-03-31

義統、しっかりしなさい!

久しぶりに更新にこぎつけましたw
一週間深夜帰宅が続くと、さすがに背中とかバリッバリだわ。
そして前に書いたことをすっかり忘れてるわ……。

はてさて、大友よしむーのひどい行跡のあたりまで読んだわけだけど、
今回はそれに黙っちゃいなかった大友の家臣がお説教するよ!
また仏教説話とかがたっぷりと出てきて、すでに泣きそうです。


大友老臣、義統を諫めること(上)

義統が常に側近くに召し使っている者たちが、十人中七、八人が南蛮人となってくると、
義統自身も、日常的に使う言葉が南蛮言葉になってきた。
武道のことは口の端にすらせず、ただ明けても暮れても数寄だけに心を移し、
茶の厚薄、水の軽重、唐土の祖師の墨蹟、和朝の歌人の掛け物などについて評論するばかりで、
陸羽・盧仝の再来のように見えた。

またキリシタンの宗門の行事は、絶対に怠ることはなかった。
南蛮人の好物なので、牛馬の類の肉食を好み、「今日は誰の数寄の会だ」といっては牛を殺し、羊を食し、
「明日は誰の茶を所望する」といっては家猪を煮て、鶏を焼く。
昼は終日茶を喫し、夜は終夜酒を飲んで、国を持ち民をはぐくむ道を忘れ、
敵を滅ぼし味方を助ける謀略は絶え果てた。
何事も南蛮流といって、手荒く乱暴に行い、仏像を壊し経典を焼くことだけを日課とした。

あるとき、近広賀兵衛尉が登城すると、義統は雑談をした後、伴天連の説法を披露して
「賀兵衛尉もこの宗門に入るように」と命じた。
賀兵衛尉は謹んで返答した。
「未来の成仏はさて置き、まずただいまの御行跡こそ、まったく夢とも思えず幻ともわきまえられません。
私は愚かで蒙昧な凡夫ですので、仏法がどんなものかもよく理解しないまま、
いたずらに帰依して暮らしてきました。
しかし儒釈道のだいたいのところを推察いたしますと、人界では珍しいことではありませんが、
仁義礼智信の五常は一つとして欠けてはいけないものです。
その五常のことは、私が申すまでもなく、すでにご存知のことと思います。

さて、老子の道は虚無自然の道理と聞き及んでいます。
これも孔孟の道からは異端として嫌われてはいますが、これも皆一つの道に帰すものでしょう。
仏法もまたさまざまに八宗、十宗などとあるようですが、
上宮太子(聖徳太子)の『説法明眼論』にはこうあります。
『南天の祖師、仏法を分けて二となす。曰く、教内教外これなり。
すなわち如来の正法、口に望むるを教えとなし、心に望むるを禅と名づく』
こういっているので、まず釈尊の残した教えは祖意・教意の二つがあるのでしょう。

天台宗では中道があり、真言宗では阿字本生生と言い、禅宗では直指人心見性成仏と見、
浄土宗では他力往生の旨を守って十念一念と立て、
日蓮宗では真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊と喝破して
法華の功徳が一切の教法に勝っているとしています。
そのほか法相・華厳・三輪・倶舎などは自立他破の見解を備えています。
皆我が宗門に勝っているといっても、方法はすべて一つに帰すものです。
法に二法はないでしょう。また仏に二仏もないはずです。
すべて釈迦一代の説法を阿難が記述しておき、摩騰迦と竺法蘭が唐土へ渡って、
唐土で鳩摩什羅をはじめとして、すべて翻訳させたのが一切の経典です。
教外というのは、釈尊が花をひねったときに迦葉が微笑みました。
このときに釈尊が『私の正法眼蔵、涅槃妙心は、摩訶迦葉に備わった』と仰ってから、
以心伝心の旨を迦葉が刹竿に行って阿難に伝えたので、
教内も教外も、極めていけばすべて同じ道なのでしょう。

また釈尊がはじめの十七日間は華厳を説法されましたが、衆生の心に響かなかったので、
そこで瓔珞細軟の法衣を脱ぎ、麻衣で草に座して鹿野園において阿含のような小乗を説法してから、
方等部を説き、また般若・法華・涅槃などを説きました。
大乗・小乗は権実の差があるとはいっても、皆同じ法なのでしょう。
たとえば猿楽の太夫は一人ですが、翁の面をつけ、または高砂、田村の面、あるいは鬼の面などの面をつけ、
種々さまざまに舞いかなでます。
見物の人々には老翁に見えたり、美女に見えたり、鬼に姿を変えたかのように見えますが、
もともと太夫は一人です。

法華ではさまざまな説法をもって『方便力四十余年、未だ真実顕れず』と説いていますので、
日蓮宗などは、法華以前の説法を偽りのものとして、成仏できないなどと頑なに申しております。
けれども方便の中に真実を兼ね、真実の中にも方便が含まれるものでしょう。
その根拠は、法華経の中に『方便品』があり、ここでは羊車・鹿車・牛車の方便というものがあります。
仏が法華経で以前の方便の中でいおいて成仏はできないだろうと説いたといっても、これはすべて偏見です。
法華経ができる前に死んだ者は、皆地獄に落ちるのでしょうか。
そうなると仏の広大無辺の御慈悲は欠けてしまうことになりますので、そうではないでしょう。
法華経以前の者たちも成仏はできるはずです。

それというのも、方便とはいっても凡夫の嘘のようなものとはまったく違います。
釈迦がお生まれになるその前であっても皆成仏できるというのに、お生まれになったその後であれば、
さらに安んじて成仏することができるはずです。
仏のさまざまな説法も、風が起き波が起こるようなものでしょう。
また念仏宗は、法華経が王とはいっても、それは上代の仏教を信ずる衆生には最も適した法だったのでしょう。
そうはいっても、今のような濁った末法の世の衆生には合いません。

また禅宗などは教外別伝と立て、則心則仏と立てます。
達磨も九年壁に向かって座し、釈尊も六年端座なさって、
葦の若芽が膝を穿つのにも気づかないほどに修行なさった後だからこそ、
明星をご覧になって道を悟ることもできたのでしょう。
二祖は雪に立って肩を断じ、林際は六十回もの棒の打擲を受け、
雲門は門にまたがって脚を折って悟道しました。
そのほかの祖師も難行、苦行をしたからこそ悟道を発見できたのです。

来世の祖は、『宗門下の大俗五障三従の女人が自力で猛省できるわけがない。
どんなに長い時が経とうとも、成仏できないだろう。
天台宗の一色一香無非中道(いかなる存在にも中道の心理が備わっているということ)という教えや、
真言宗の父母初生則大日などという教えもあるが、世の衆生は欲にまみれわがままばかりなので、
そのまま大日如来になれるわけがない。
ただ阿弥陀のお力を頼みにして、安らかに西方の極楽へ至り、二十九種の荘厳相を直に拝めばいい。
そうすれば無量寿経に記されている阿弥陀四十八願の中で、第十八、念仏往生願に
“私が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、私は決して悟りを開きません 。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます”としているが、
観経五逆十悪の罪人であっても、南無阿弥陀仏と念じれば、八十億却生死の罪を除いて、
極楽世界に往生できるとも言っている。
もう自力で聖道に至る難行を捨て、他力によって易々と往生できる浄土宗門に帰依しよう』と立ち上がり、
そのほかのどの宗門もすべて、わがままばかりの偏ったものがあると考えました。

私などは今生の人界の法さえもよく存じ上げない愚か者ですので、
来世の成仏・不成仏など、どうやったらわかるというのでしょう。
けれどもこの賀兵衛尉、この愚かな心に思っていることを申し上げます。
まず、三皇五帝がいた遠い昔は、五常の道が大事にされていて、万民は何もしなくても安穏と暮らせましたが、
時代が下るにつれて道が廃れてしまいました。
孔子も聖人の道を貫きにくい世の中だったからこそ『春秋』を著し、
獲麟の一句を最後に筆を置いたとのことです。

孔子・老子のような聖人が世に生まれたときでさえ、五常を守る者は十人中一人か二人いることも稀でした。
ましてやこの末法の世では言うに及びません。
人は皆邪険放逸ばかりで、仁義礼智信の道は夢にも知らぬような顔をして、
毛の生えていない狸奴や白狐のようなものです。
仏はこれを心配なさって、仏のさまざまな法を説き、極楽と地獄の二つを教え、
末世の衆生の善の心を喚起なさいました。実にありがたいことです。

しかしながら、五戒や十戒のうちの一つも持たず、念仏の一返すら唱えなくても、
仁義礼智信の五つさえ正しく守っていれば、菩薩の六度にも勝り、
何万回も念仏を唱えたりすべての経典を千回繰り返し読誦したりするよりも、なお優れていると思います。
いかにすべての経典を写経し、阿弥陀の御名を唱え、南無妙法蓮華経の題目を四六時中唱えていても、
五常に背き、好きなように人の財宝を盗み、夜盗や海賊のような行いをしていれば、
念仏の功力によって死後は西方極楽浄土へ往生を遂げられるといっても、
まず今生は縛り上げられて獄吏の手に渡り、一刀のもとに首を打ち落とされるでしょう。
自分一人だけがそんな憂き目に遭うだけでなく、先祖の面目を汚し、子孫に罪を残します。
そんな状態で九品蓮台に至っても、何の意味があるというのか。
五常の道だけを固く守ろうと、何をするにもその心掛けを怠らないようにすれば、
現世も安穏と暮らせるし、後生もいいところに生まれられるはずです。

自分の心の外に自己を自己たらしめる法はないのですから、心に一字一点の塵芥がなければ、
祈らずとも神に守られ、願わずとも仏が導いてくださいます。
心が邪なまま極楽往生を願うのは、瓦を磨いて鏡にするようなものでしょう。
浄土宗の長老などと申す者は、いかに五常を守っていても願わずにいれば成仏できないなどと悪く言いますが、
そんなものにかまうことはありません。
自分の宗派をさも尊いもののように言い立て、念仏宗に引き入れるために言っているのです。

遠い未来の来世のことだけを願うよりは、まずは近い今生の政道を正しくなさって、
先祖から代々保っていらした数ヶ国をきちんと治め、武威をはっきりと示し、文徳を明らかになさいませ。
五常を正しく守っていれば、後世は自然と仏果に至れましょう。成仏間違いなしです。
人々は満ち足り、己は円満に仏の心を成就できるでしょう。
何も外に向かってあれこれと求める必要はありません。本来無一物の境地に至ってみてください。
上には尊ぶべき諸仏はなく、下にも従わせるべき衆生はいません。
釈迦や阿弥陀がまだお生まれになっていなかったころに目を向けてください。
『浄土論』にも、『真如界の裏では仏と衆生の差別はなく、平等性の内には自他の差別がない』とあります。

こんなことを申しましても、私は外道の見解や偏見を申しているわけではありません。
柳はおのずと緑に靡き、花はおのずと赤くほころんで、皆己が本来持っている色を顕しています。
人間も天から賜った本心・本性を受け取って生まれてきます。
その本性は、仏の心と少しも変わりはありません。
五体もまた仏祖と変わることはありません。
仏にも目があり、鼻があり、口があり、耳があり、手があり、足があります。
人間も同様に目鼻口耳手足があります。何が違うというのですか。
これよよくよく考えてみると、この賀兵衛尉の五尺の体だとて、まったく別物ではなく、
これが仏の体で、この愚昧な心も仏の心なのです。
迷えば衆生、悟れば仏なのでしょう。

こんなことを申しましても、私は祖師の公案は一つも学んだり考えたりしたことはありません。
また天台宗の止観、真言宗の阿字、または浄土宗の五重相伝などというものを授かったわけでもありません。
もとから無智無能であって、とんでもない無智、無能を極めた凡夫でございます。
ただ口に任せてアレコレと言い散らすのは、牡牛がモウと吼えているようなものです。
心が愚かで熱に侵され、寒さに侵されるのは、紅蓮・大紅蓮の氷に閉じ込められ、
火ネズミに尻を焼かれているような苦しみではありませんか。
五常を忘れ、法を犯して首を刎ねられ身を裂かれるのは、針山地獄の責めを受けているようなものです。
これは地獄は外になく、心が目の前の世界をそのように捉えているのです。
すべての法は心の外にはないのです。

外に仏を求めるのは、演若達多が頭を探した(エンニャダッタという女性が
鏡に頭が映らないので頭をなくしたと思い込み、探したものの、頭はきちんとついており、
鏡の裏を見ていただけだったという逸話)のと同じことです。
義統公は心の外にお求めになっているだけでなく、
日域・震旦・月氏の三国の仏法にすらたどり着いていらっしゃいません。
仏法になんら注意を向けずに南蛮の邪法に帰依なさっているのは、
地獄行きの業を自分で作っているどころか、今生で仁義礼智信に背いて仏神の冥罰を受け、
人望に背き、国家を滅ぼし身命を失うようなものです。
なんと口惜しいことか。

これはひとえに、心の一字を磨いていらっしゃらないからです。
何のために磨くのかといえば、仏となるためというのは未来のことですが、
まず今生では五常を正しく行うためです。
もし心が正しければ、成仏をいちいち模索しなくても、自然と仏になれるのです。
仏の身でありながら仏を求めることがありましょうか。
丙丁童子(火の兄弟)が、自らが火でありながら火を探し求めるようなものです。
つまり、国家をしっかりと治めて仁徳を行ってさえいれば、ほかに何をしなくても成仏できるはずです」

以上、テキトー訳。続く。

賀兵衛さん、説教長ぇwww
つーか、こんなに講釈垂れて、よしむーはちゃんと聞いてるのかね?
まだまだ続くんだよ、後半もこんこんと説教だよ。
自分が説教されてる気がしてきて軽く鬱w

なんか大友で説教というと、殿いつの影響かもしらんけど、
道雪さんが宗麟に雷落としてる図が真っ先に思い浮かぶ。
親子二代で家臣にダメ出しされる大友家のイメージができてしまったので、
さらに大友が好きになりまったwww

さて次回も賀兵衛の説教の続きからですぞ~。
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2012-03-27

かゆ……うま。

下巻の目次うpして未読部分に乗り出したはいいけど、
今週はずっと深夜帰宅が続きそうなヨカーンがします。
大友老臣のターンを引きずるのは避けたいが、飯の種には変えられん。
老臣のターンもお経の話があるので順調に行き詰ってるよ!
もしかしたら次回更新は土日になってしまうかもしれません。
ゆるりとお待ちくだされませ。
2012-03-25

キリシタン大名残酷物語

だいたいの流れ:
毛利が織田に悩まされているころの九州のお話。
大友家では宗麟が隠居して義統が跡を継ぎ、家中の気風も乱れはじめた。
そこへ南蛮の交易船がやってきて、商船のリーダー賢長・雲南弥と大友家は親密になっていく。

あの、はじめに書いておくけど、今回のお話はかなりショッキングな内容なので、
載っけてはおくけど、読むのはあんまりオススメしません。


大友貴理支旦に成り給うこと、付けたり悪逆のこと

賢長・雲南弥は、自分たちは豊後に身を置いたまま、家人たちを船に乗せて本国に通わせ、
毎年さまざまな商品を運送させていた。
臼杵・府内に屋敷を与えられると、町屋を造り並べて、この国に南蛮人を呼び寄せたいと言い出した。
義統が「いいだろう」と言って許しを与えたので、賢長たちは臼杵の海を埋め立て、
大石を積み上げて、その上に賢長町と名づけて六町を作り上げた。
また府内にも賢長・雲南弥は二人で町を六町作り、
本国から異人たちを五、六千人も呼び寄せてその町に住まわせた。

その後、賢長・雲南弥は伴天連宗の説法をして、多くの人をその宗教に引き入れたが、
後には義統もこの宗の説法を聞こうと、二人の者たちを呼び寄せて説法を聞き、やがて伴天連の宗門に入った。
どうしようもない話である。

この宗門は、天文のはじめごろに防州山口の道場の辺りへ初めてもたらされ、
しばらくここに居住して説法をしていたという。それから次第に流布していったそうだ。
仏神三宝を敬うこともせず、それどころか敵意をむき出しにした。
その昔の釈尊のときに釈尊を害そうとした外道の法なのか、我が日ノ本は仏法の東の果ての地だからと、
外道天魔が正法を破滅させようとして来たに違いないと、噂を聞くだけでも身の毛もよだつものだ。
それなのに、義統がこの宗門になったとは、まったくひどいことである。

義統は、雲南弥・賢長の教えに従って、田原の法檀寺という七堂伽藍の霊場を、
七日と七夜かけてことごとく焼き尽くしてしまった。
また田渋の大堂の釈迦釈迦牟尼如来の尊像の鼻を削ぎ、
そのほか湯須良八幡・宰府の天神の社をも焼き捨てて、たちまちのうちに焦土にしてしまう。
下々の者も義統をまねして、そのころ伴天連宗になった者たちは、
まるで競争でもするようにあちこちの仏像社壇を打ち壊し、次々と焼き払っていく。
豊後・豊前・日向・筑後・筑前あたりの寺社仏閣は、一つ残らず失われた。
デーバダッタにそそのかされて阿闍世王太子が父王頻婆娑羅を幽閉し、七重に取り囲んだ室内に置き、
また鋭い剣を手に母の韋提希夫人を殺そうとした悪よりもさらにひどい。
恵昌沙汰の後、これほどの仏敵・法敵は例にないことであった。

我が国の物部守屋大臣も仏敵となったが、それでも神道を深く尊んでいた。
無理難題を押し通したさしもの平清盛も、仏神を敬って信心深かったので、
安芸の厳島大明神をはじめとして、数ヶ所に寺社仏閣を建立・造営している。
この義統は文を用いて政道を正しくするでもなく、武を用いて威を厳しくするでもなく、
欲望ばかりが深いまったくの邪将であった。

そもそも我が国は、イザナギ・イザナミが高天原から天の逆鉾で大海を撫でたところ、
その鉾の雫が凝り固まって淡路島となり、天地が始まった。
それ以来、粟粒を散らしたような小国とは言いながら、
天竺や震旦よりもなお勝るほど、霊神霊社が跡を残していったので、仏法もまた広く伝播している。
それなのに、大友は仏神に何の恨みがあってこんなことをするのだろうか。
五逆の罪を超えてしまえば、今生ではたちまち仏罰・神罰をこうむり、子孫は断絶し、
来世では必ず阿鼻大地獄の底に落とされて、焔王の鉄棒で打ち据えられ、牛頭・馬頭の責めを受け、
どんなに長い時間を経ても、成仏することはできない。
目にした人は肝を潰し、耳にした人は身の毛をよだて、呆れ果てない人はいなかった。

また義統は、賢長・雲南弥が献上した虎には人間を餌として与えて飼っていた。
はじめは投獄していた重罪の者たちがいくらでもいたので、獄舎の看守に言いつけて餌にしていたのだが、
しばらくすると罪人の数も尽き果ててしまう。

どうしようかと思案していたところ、義統はハッと思い出した。
「国中にはない方がいいものは、神では疫病の神、虫ではヒキガエル、蛇、
人間では座頭(盲人)だろう。
あの座頭たちの様子を見ていると、一芸・一能があって人の役に立つ者は百人に一人か二人いるかどうかだ。
残りの盲人たちは、芸ができなければ、なかなか憐憫もかけてもらえない。
世の人から憐れみをかけてもらえず、その日の飯にありつくことも稀だから、
常に飢えに苦しみ、満足に衣も着られず、寒風に身を痛めている。
苦しいことばかりが多くて喜びや楽しみなどまったくない。
今生を生きているのは苦しくて仕方ないだろうから、命の根を断ってやれば、これ以上の慈悲はないはずだ。

なぜかといえば、肉体があれば飢え・渇き・寒い・暑いという苦しみがはなはだしい。
この肉体を脱して父母から生まれる以前の境界に至れば、
苦もなく楽もなく、暑くも寒くもなく、飢えや渇きの悲しみもないだろう。
仏教でも法のために虎に身を与えた例もある。
これからは座頭どもを搦め捕って虎の餌食にすればよいのだ。
そうすれば苦海を渡って悲願に至り、成仏の縁ともなろう。
さあさあ、座頭たちを成仏させてやろう」

義統は盲人たちを秘密裏に生け捕らせて、虎の餌として与えた。
それもはじめのうちだけで、そのうち国中の盲人がいなくなってしまったので、
他国の盲人を呼び集めるために、人を遣わしてこんな噂を流すようにした。
「大友義統は非常に座頭への憐憫が強い。
だから豊後の座頭たちは他国に行くことはないし、それどころか、
国中でも作善法事などのあるところへ行っては施された物の多少を問題にし
『もう少しくだされ』などと口々にわめいたり叫んだり、
杖で寺の門戸を叩きながら『布施を暮れないなら死ね、転べ』などと呪ったり、ということはまったくない。
皆府内の城中に集まって、美食珍膳に満足しているのだ」

この噂を聞きつけた近隣の国の座頭たちは、身を滅ぼされることも知らないで、
「それは本当か」と大喜びし、親しい友と連れ立って、我も我もとやってきた。
盲人たちが琵琶箱を背負い、竹の杖を突き、続々と豊後へ集まってくると、
すぐにそれを搦め捕って虎の餌食としてしまった。無残なことである。

こんなこととは夢にも知らず、九州の座頭たちは、
「豊後では義統が座頭を大事にしてくださると聞いているが、きっとこれは本当だろう。
先に行った座頭たちは皆居心地がいいからか、一人も帰ってこない。
我らも行こうではないか」と、手に手をとって豊後にやってくる。
しかし皆虎に与えられてしまい、「これはどうしたことだ」と驚くのだった。
「菊都の御坊はいらっしゃるか」「定都はどこにいる」「城民・城作はいないのか」
「聞いていたのとは大違いで、衣食を与えてもらえると思っていたのに、
逆に猛虎の餌食にされるとは悲しすぎる」「情のない義統や」「恨めしい大友殿や」
と声をばかりに泣き叫ぶ有様は、見るだけでも目の前が暗くなって、
感情も消えてしまうほどの、とんでもない有様だったそうだ。

四国の座頭で松都という力持ちの者がいたが、
捕らわれた獄中でこれから虎の餌にされるということを聞くと、
「これから逃げようといっても逃げようがない。
前世の因果の報いなのだろうから、嘆くことはない。
しかし私は人よりもずいぶんと力が強い。
いかに猛々しい虎であっても、片手か片足を掴めれば、ねじ折って振り払ってやるのに」と考えていた。

その松都が虎の餌にされる番になると、虎は勇み喜んで手を差し出し、
松都の顔を撫でて、飛び跳ねながら戯れだした。
松都はまた虎が顔を撫でようと手を出してきたところをヒタと捕らえてねじり上げる。
虎はひどく驚いて、痛さのあまりに松都の眉間に食いついたけれども、
松都は命の続く限りはと思い定め、ついに虎の片手をねじり折ると、自分もそのまま息絶えた。

昔、伊豆の北条入道早雲は、父の命日がくると金銀珠玉を奉納し、
経を書き念仏をして、丁寧に法事を行った。
父のために選任の僧を呼んで供養し、万部の経を書き、あるいは故人の話題を集め、
または念仏三昧の日を送った。
これは熱心なことなので、座頭に慈悲を垂れることこそ、一切の功徳の中でも一番ありがたいことだろうと、
施しを受けようとして近隣諸国や遠い島から座頭たちが集まってきた。

すると早雲はその座頭三千人を船に乗せて海中に漕ぎ出し、船底に穴を開けて、
水夫や舵取りたちは泳いで逃げさせた。
海水が次第に船の中に入り、座頭たちは一人残らず海中に沈溺して水の藻屑となってしまった。
早雲は、「千の仏を供養するより、一個の座頭を入水させるのに勝るものはない」と、
快然と笑みを浮かべたそうだ。
義統もこうしたことを思ったのか、なんとも非道な極悪ぶりであった。


以上、テキトー訳。

これはひどいとしか言いようがない。草生やす余裕もないわ。
キリシタンになって寺社仏閣の破壊を推進したのは宗麟だと思ってたけど、
ウィキペディア見ると、宗麟がやったのは日向侵攻のときで、
豊後・筑後国内での破壊活動は義統の行跡らしいね。
仏像の鼻を削ぐって、そりゃないよー。
仏像はきれいなお顔が多いのに、その鼻を削ぐなんてひどいよー・゚・(ノД`;)・゚・

まあ宣教師がやったわけじゃなくて、そそのかされた武士がそゆことしてるんだけどね。
この時期に渡来したイエズス会ってのは、キリスト教の本場でもカルト扱いされてたと聞くが、
実際のところどうなんだろう。
どのみち、最初は商売で取り入って、相手の懐に侵食して、
医療技術などを餌に宗教的に支配するってやり方は好きじゃないな。

キリシタン大名なんていっぱいいるけど、いったいどこに惹かれたのか気になる。
交易や各種技術を取り入れるのに、宗教的なつながりが必要だったのかな。ううむ。

そんで、なんたって胸糞悪いのは虎の餌の話だよね。
たぶん別の逸話をもとにした創作なんだろうとは思うんだけど。
元ネタがどこにあるのか調べきれなかった。残念。

さて次回は黙っちゃいなかった大友老臣のターン。
2012-03-25

『陰徳記』下巻 目次

上巻の目次はこちら

※リンクのない章は未読
※訳文は知識不足の人間が手がけているため信用度が低いので要注意
※原文は米原正義校訂『陰徳記』(マツノ書店、1996年)による




●巻之第四十二
 42-1 塩売弥太郎、立花を殺すこと
  42-1 塩売弥太郎、立花を殺すこと(1)[2012-06-22]
  42-2 塩売弥太郎、立花を殺すこと(2)[2012-06-24]
  42-3 塩売弥太郎、立花を殺すこと(3)[]
  42-4 塩売弥太郎、立花を殺すこと(4)[2012-06-26]
  42-5 塩売弥太郎、立花を殺すこと(5)[2012-06-28]
  42-6 塩売弥太郎、立花を殺すこと(6)[2012-06-29]
 42-2 豊前三ツ嶽の城没落のこと
  42-2-1 豊前三ツ嶽の城没落のこと(上)[2012-07-01]
  42-2-2 豊前三ツ嶽の城没落のこと(下)[2012-07-02]

●巻之第四十三
 43-1 筑前の国立花の城を取り囲むこと、付けたり大友勢後詰のこと
  43-1-1 筑前の国立花の城を取り囲むこと、付けたり大友勢後詰のこと(上)[2012-07-03]
  43-1-2 筑前の国立花の城を取り囲むこと、付けたり大友勢後詰のこと(下)[2012-07-05]
 43-2 五月十八日合戦のこと
  43-2-1 五月十八日合戦のこと(上)[2012-07-07]
  43-2-2 五月十八日合戦のこと(中)[2012-07-08]
  43-2-3 五月十八日合戦のこと(下)[2012-07-11]
 43-3 元就朝臣・輝元朝臣、長府へ下向のこと[2012-07-11]


●巻之第四十四
 44-1 尼子勝久、出雲へ入られること
  44-1-1 尼子勝久、出雲へ入られること(上)[2012-07-13]
  44-1-2 尼子勝久、出雲へ入られること(下)[2012-07-18]
 44-2 天野紀伊守、敵を方便のこと[2012-07-21]
 44-3 真木宗右衛門尉のこと[2012-07-21]
 44-4 庄式部少輔合戦のこと[2012-07-21]
 44-5 雲伯作備、毛利家に背くこと[2012-07-22]
 44-6 雲州冨田麓合戦のこと[2012-07-24]


●巻之第四十五
 45-1 出雲の国原手合戦のこと[2012-07-26]
 45-2 出雲の国三保関合戦のこと
  45-2-1 出雲の国三保関合戦のこと(上)[2012-07-27]
  45-2-2 出雲の国三保関合戦のこと(下)[2012-07-28]
 45-3 神西三郎左衛門心変えのこと[2012-07-30]
 45-4 美作の国高田の城合戦のこと[2012-08-02]
 45-5 玉串監物討ち死にのこと
  45-5-1 玉串監物討ち死にのこと(上)[2012-08-02]
  45-5-2 玉串監物討ち死にのこと(下)[2012-08-05]


●巻之第四十六
 46-1 備後の国神辺城合戦、並びに防州関所城合戦のこと[2012-08-06]
 46-2 大内太郎左衛門輝弘、山口に入ること
  46-2-1 大内太郎左衛門輝弘、山口に入ること(上)[2012-08-07]
  46-2-2 大内太郎左衛門輝弘、山口に入ること(下)[2012-08-08]
 46-3 仁保合戦のこと[2012-08-09]
 46-4 元春・隆景、立花の陣を引き払うこと
  46-4-1 元春・隆景、立花の陣を引き払うこと(上)[2012-08-10]
  46-4-2 元春・隆景、立花の陣を引き払うこと(中)[2012-08-11]
  46-4-3 元春・隆景、立花の陣を引き払うこと(下)[2012-08-12]
 46-5 立花の城を明け渡すこと[2012-08-13]
 46-6 輝弘山口落ち、付けたり最後のこと
  46-6-1 輝弘山口落ち、付けたり最後のこと(上)[2012-08-15]
  46-6-2 輝弘山口落ち、付けたり最後のこと(下)[2012-08-16]
 46-7 杉松寿丸のこと[2012-08-19]
 46-8 出雲の国日昇合戦のこと[2012-08-19]


●巻之第四十七
 47-1 出雲の国比部合戦のこと
  47-1-1 出雲の国比部合戦のこと(1)[2012-08-20]
  47-1-2 出雲の国比部合戦のこと(2)[2012-08-21]
  47-1-3 出雲の国比部合戦のこと(3)[2012-08-23]
  47-1-4 出雲の国比部合戦のこと(4)[2012-08-24]
  47-1-5 出雲の国比部合戦のこと(5)[2012-08-25]
 47-2 末次の土井明け退くこと[2012-08-26]
 47-3 元就朝臣、敵味方の噂のこと[2012-08-26]


●巻之第四十八
 48-1 出雲の国三笠の城没落のこと[2012-08-28]
 48-2 熊野降参、並びに高瀬城打ち回しのこと[2012-08-29]
 48-3 平田の城、並びに勝間そのほか所々の合戦のこと[2012-08-29]
 48-4 輝元朝臣・隆景・元長開陣、古志降参のこと[2012-08-29]
 48-5 羽倉の城合戦のこと[2012-08-30]
 48-6 源勝久、末次を攻め給うこと、同後詰、並びに米原降参のこと[2012-08-30]
 48-7 三村一家滅亡のこと
  48-7-1 三村一家滅亡のこと(上)[2012-08-31]
  48-7-2 三村一家滅亡のこと(中)[2012-09-01]
  48-7-3 三村一家滅亡のこと(下)[2012-09-03]


●巻之第四十九
 49-1 伯州浄満原合戦のこと[2012-09-05]
 49-2 馬田討ち死にのこと[2012-09-06]
 49-3 羽倉孫兵衛尉討ち死にのこと[2012-09-06]
 49-4 秋山父子心変えのこと[2012-09-09]
 49-5 元就朝臣逝去、並びに鹿助生け捕りのこと[2012-09-10]
 49-6 鹿助愁訴のこと、並びに八橋の城を明け渡すこと[2012-09-11]
 49-7 山中鹿助逐電のこと[2012-09-13]


●巻之第五十
 50-1 武田・上杉へ元春より使いのこと(付けたり謙信・信玄噂のこと)[2012-09-14]
 50-2 佐々木、信玄・謙信の物語のこと
  50-2-1 佐々木、信玄・謙信の物語のこと(1)[2012-09-16]
  50-2-2 佐々木、信玄・謙信の物語のこと(2)[2012-09-17]
  50-2-3 佐々木、信玄・謙信の物語のこと(3)[2012-09-19]
  50-2-4 佐々木、信玄・謙信の物語のこと(4)[2012-09-20]


●巻之第五十一
 51-1 将軍義昭卿御流浪、付けたり三淵諫言のこと
  51-1-1 将軍義昭卿御流浪、付けたり三淵諫言のこと(上)[2012-09-23]
  51-1-2 将軍義昭卿御流浪、付けたり三淵諫言のこと(下)[2012-09-24]
 51-2 安国寺上洛のこと[2012-09-27]
 51-3 山中・立原、信長へ出ること[2012-09-30]
 51-4 吉川元春・同元長、因幡へ発向のこと[2012-09-30]


●巻之第五十二
 52-1 山中鹿助と大坪合戦のこと[2012-10-01]
 52-2 私部城合戦のこと[2012-10-02]
 52-3 大坪と武田・亀井合戦のこと[2012-10-04]
 52-4 因幡の国鳥取の城合戦のこと[2012-10-05]
 52-5 若佐合戦のこと[2012-10-05]
 52-6 諸寄合戦のこと[2012-10-05]
 52-7 勝久、鳥取を明け退くこと[2012-10-07]
 52-8 牛尾・山中合戦のこと[2012-10-08]
 52-9 私部麓合戦のこと[2012-10-09]
 52-10 私部城降参のこと[2012-10-10]
 52-11 若佐鬼の城没落のこと[2012-10-11]


●巻之第五十三
 53-1 大阪の城へ兵糧を入れること[2012-10-13]
 53-2 親鸞上人系図のこと、付けたり信長本願寺を所望すること
  53-2-1 親鸞上人系図のこと、付けたり信長本願寺を所望すること(上)[2012-10-16]
  53-2-2 親鸞上人系図のこと、付けたり信長本願寺を所望すること(下)[2012-10-17]
 53-3 浦上宗景流浪のこと、並びに浦上普光院殿を討ち奉ること
  53-3-1 浦上宗景流浪のこと、並びに浦上普光院殿を討ち奉ること(上)[2012-10-18]
  53-3-2 浦上宗景流浪のこと、並びに浦上普光院殿を討ち奉ること(下)[2012-10-19]
 53-4 将軍義昭卿、鞆へ下向のこと[2012-10-27]


●巻之第五十四
 54-1 乃美心変えのこと[2012-10-28]
 54-2 讃岐の国元吉表合戦のこと[2012-10-30]
 54-3 因幡の国楢尾駒次夜討ちのこと[2012-10-30]
 54-4 淡路の国岩屋の城のこと[2012-11-02]
 54-5 播州上月の城へ勝久が入り給うこと[2012-11-03]
 54-6 秀吉、上月の城を落とすこと、付けたり勝久再びこの城に入ること[2012-11-04]


●巻之第五十五
 55-1 中国勢、上月の城を取り囲むべく会議のこと[2012-11-05]
 55-2 元春・隆景、上月城を取り囲まれること、付けたり秀吉後詰のこと[2012-11-06]
 55-3 杉原の手の者忍び討ち、並びに後詰勢馳せ加わること[2012-11-13]
 55-4 元長、夜合戦の会議のこと
  55-4-1 元長、夜合戦の会議のこと(上)[2012-11-14]
  55-4-2 元長、夜合戦の会議のこと(下)[2012-11-16]


●巻之第五十六
 56-1 上月の城、忍者が台無を盗むこと[2012-11-17]
 56-2 勝久より秀吉へ通路の者を搦め捕ること[2012-11-18]
 56-3 鈴木・秋山のこと[2012-11-18]
 56-4 上月合戦のこと
  56-4-1 上月合戦のこと(上)[2012-11-20]
  56-4-1 上月合戦のこと(中)[2012-11-21]
  56-4-3 上月合戦のこと(下)[2012-11-22]
 56-5 羽柴秀吉、上月表を引き退くこと[2012-11-23]
 56-6 上月の城没落のこと[2012-11-24]
 56-7 山中鹿助最後のこと[2012-11-25]


●巻之第五十七
 57-1 市川少輔七郎謀反のこと[2012-11-27]
 57-2 神西の女房のこと
  57-2-1 神西の女房のこと(1)[2012-11-30]
  57-2-2 神西の女房のこと(2)[2012-12-04]
  57-2-3 神西の女房のこと(3)[2012-12-06]
  57-2-4 神西の女房のこと(4)[2012-12-08]
  57-2-5 神西の女房のこと(5)[2012-12-10]
  57-2-6 神西の女房のこと(6)[2012-12-14]


●巻之第五十八
 58-1 宇喜多直家心変えのこと[2012-12-15]
 58-2 両将黒沢山を引き払われること[2012-12-17]
 58-3 戸川肥後守上洛、付けたり小西弥九郎のこと[2012-12-18]
 58-4 南条兄弟逆意のこと[2012-12-20]
 58-5 南条元続、山田出雲守を討たんと欲すこと
  58-5-1 南条元続、山田出雲守を討たんと欲すこと(上)[2012-12-22]
  58-5-2 南条元続、山田出雲守を討たんと欲すこと(下)[2012-12-23]


●巻之第五十九
 59-1 美作の国所々の城没落のこと[2012-12-24]
 59-2 隆景・直家対面のこと[2012-12-25]
 59-3 直家、舛形の城を打ち回すこと[2012-12-26]
 59-4 塩屋佐介討ち死にのこと[2012-12-26]
 59-5 伯州長郷田合戦のこと
  59-5-1 伯州長郷田合戦のこと(上)[2012-12-27]
  59-5-2 伯州長郷田合戦のこと(下)[2012-12-29]
 59-6 杉原・天野、長郷田合戦の批判のこと[2012-12-30]
 59-7 備中の国四畦の忍山城没落のこと[2012-12-31]


●巻之第六十
 60-1 羽衣石山のこと[2013-01-01]
 60-2 羽衣石の城の向城を構えらること、付けたり宇津吹の城合戦のこと[2013-01-02]
 60-3 但馬の国竹田の城合戦のこと[2013-01-02]
 60-4 伯耆の国、岩倉の合戦のこと[2013-01-03]
 60-5 横見のこと、付けたり冠山没落のこと[2013-01-04]
 60-6 高畠心変えのこと[2013-01-04]
 60-7 久留島、信長公に一味のこと[2013-01-05]
 60-8 備前の国児島の蜂浜合戦のこと[2013-01-06]
 60-9 備前蜂浜の城を攻めること[2013-01-07]
 60-10 山名少七逐電のこと[2013-01-07]
 60-11 因州鹿野城を明け渡すこと[2013-01-08]
 60-12 信長、本願寺と和睦のこと、付けたり大城を明け退くこと
  60-12-1 信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(上)[2013-01-09]
  60-12-2 信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(中)[2013-01-10]
  60-12-3 信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(下)[2013-01-12]
 60-13 信長、本願寺と合戦のこと[2013-01-13]
 60-14 中島合戦のこと[2013-01-15]
 60-15 信長公、大阪敗軍のこと、付けたり信長公伊勢越前へ働きのこと[2013-01-16]
 60-16 森口表合戦のこと[2013-01-17]
 60-17 天王寺合戦のこと[2013-01-17]
 60-18 原田備中守討ち死にのこと[2013-01-19]
 60-19 大阪大寄のこと[2013-01-20]
 60-20 大阪所々の合戦のこと[2013-01-21]
 60-21 戸摩利の城合戦のこと[2013-01-22]
 60-22 備中の国小倉合戦のこと[2013-01-25]


●巻之第六十一
 61-1 山名大蔵太輔豊国心替えにつき森下・中村、豊国を追い出すこと[2011-11-26]
 61-2 鳥取城へ牛尾楯籠もること[2011-11-27]
 61-3 吉川式部少輔経家、鳥取に籠もること、並びに秀吉出張のこと
  61-3-1 吉川式部少輔経家、鳥取に籠もること、並びに秀吉出張のこと(上)[2011-11-29]
  61-3-2 吉川式部少輔経家、鳥取に籠もること、並びに秀吉出張のこと(下)[2011-11-30]
 61-4 因州吉岡の城合戦のこと[2011-12-02]
 61-5 大崎城合戦並びに隅何某切死のこと[2011-12-03]
 61-6 丸山扱いの使いを切ること並びに狼狩のこと[2011-12-07]
 61-7 鳥取丸山扱いのこと、付いて吏部以下自害のこと
  61-7-1 鳥取丸山扱いのこと、付いて吏部以下自害のこと(上)[2011-12-08]
  61-7-2 鳥取丸山扱いのこと、付いて吏部以下自害のこと(下)[2011-12-09]


●巻之第六十二
 62-1 伯州馬野山対陣のこと
  62-1 伯州馬野山対陣のこと(上)[2012-04-17]
  62-1 伯州馬野山対陣のこと(下)[2012-04-18]
 62-2 羽柴秀吉備中の国発向のこと(本文なし)
 62-3 秀吉敵城の批判、並びに敗軍のこと
  62-3-1 秀吉敵城の批判、並びに敗軍のこと(上)[2012-04-21]
  62-3-2 秀吉敵城の批判、並びに敗軍のこと(下)[2012-04-23]
 62-4 草刈三郎左衛門生害のこと[2012-04-24]
 62-5 因州大崎の城を明け退くこと[2012-04-27]


●巻之第六十三
 63-1 因州大崎の城、そのほか荒神山以下没落のこと[2012-04-30]
 63-2 羽柴秀吉備中発向のこと[2012-05-02]
 63-3 高松の城を取り囲むこと
  63-3-1 高松の城を取り囲むこと(上)[2012-05-03]
  63-3-2 高松の城を取り囲むこと(下)[2012-05-04]
 63-4 加茂の城合戦のこと
  63-4-1 加茂の城合戦のこと(上)[2012-05-06]
  63-4-2 加茂の城合戦のこと(下)[2012-05-08]
 63-5 清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉と元春・隆景和平のこと
  63-5 清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉と元春・隆景和平のこと(1)[2012-05-10]
  63-5 清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉と元春・隆景和平のこと(2)[2012-05-11]
  63-5 清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉と元春・隆景和平のこと(3)[2012-05-12]
  63-5 清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉と元春・隆景和平のこと(4)[2012-05-13]


●巻之第六十四
 64-1 吉見大蔵大輔正頼、長府より上らること[2012-05-15]
 64-2 光秀信長を殺すこと
  64-2-1 光秀信長を殺すこと(上)[2012-05-16]
  64-2-2 光秀信長を殺すこと(中)[2012-05-18]
  64-2-3 光秀信長を殺すこと(下)[2012-05-20]


●巻之第六十五
 65-1 信長の噂のこと
  65-1-1 信長の噂のこと(1)[2012-05-22]
  65-1-2 信長の噂のこと(2)[2012-05-24]
  65-1-3 信長の噂のこと(3)[2012-05-27]
  65-1-4 信長の噂のこと(4)[2012-05-29]
  65-1-5 信長の噂のこと(5)[2012-05-30]
 65-2 筒井順慶、羽柴秀吉と一味のこと[2012-06-01]
 65-3 織田七兵衛最後のこと[2012-06-02]
 65-4 信長本願寺へ討手を向け給うこと、付けたり門跡表裏を分かつこと[2012-06-09]
 65-5 惟任滅亡のこと[2012-06-10]


●巻之第六十六
 66-1 紹巴法師のこと、並びに秀吉連歌のこと[2012-06-11]
 66-2 隠岐守清家生害のこと
  66-2-1 隠岐守清家生害のこと(上)[2012-06-11]
  66-2-2 隠岐守清家生害のこと(中)[2012-06-12]
  66-2-3 隠岐守清家生害のこと(下)[2012-06-16]
 66-3 宮野宮合戦のこと[2012-06-18]
 66-4 南条没落のこと[2012-06-20]


●巻之第六十七
 67-1 出雲の国杵築三万句のこと[2012-06-21]
 67-2 経言・秀包、大坂へ上りたまうこと[2011-10-29]
 67-3 杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと
  67-3-1 杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(1)[2011-11-18]
  67-3-2 杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(2)[2011-11-19]
  67-3-3 杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(3)[2011-11-21]
  67-3-4 杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(4)[2011-11-21]
  67-3-5 杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(5)[2011-11-22]
  67-3-7 杉原景盛、舎兄元盛を討つこと、景盛滅亡のこと(6)[2011-11-23]


●巻之第六十八
 68-1 雑賀並びに根来合戦のこと
  68-1-1 雑賀並びに根来合戦のこと(上)[2012-04-03]
  68-1-2 雑賀並びに根来合戦のこと(下)[2012-04-03]
 68-2 伊予の国所々の城攻め落とすこと[2012-04-05]
 68-3 河野先祖のこと
  68-3-1 河野先祖のこと(1)[2012-04-06]
  68-3-2 河野先祖のこと(2)[2012-04-07]
  68-3-3 河野先祖のこと(3)[2012-04-08]
  68-3-4 河野先祖のこと(4)[2012-04-14]
 68-4 伯州香原山の城のこと[2012-04-15]
 68-5 元長・隆景、大坂へ上りたまうこと
  68-5-1 元長・隆景、大坂へ上りたまうこと(上)[2011-11-24]
  68-5-2 元長・隆景、大坂へ上りたまうこと(下)[2011-11-25]


●巻之第六十九
 69-1 大友義統家督のこと[2012-03-24]
 69-2 大友貴理支旦に成り給うこと、付けたり悪逆のこと[2012-03-25]
 69-3 大友老臣、義統を諫めること
  69-3-1 大友老臣、義統を諫めること(上)[2012-03-31]
  69-3-2 大友老臣、義統を諫めること(下)[2012-04-01]


●巻之第七十
 70-1 島津修理大夫、大友に背くこと[2011-12-11]
 70-2 七尾合戦のこと[2011-12-11]
 70-3 備前小倉城合戦のこと[2011-12-13]
 70-4 中国勢豊前に渡ること、小倉城が明け退くこと[2011-12-14]
 70-5 賀春の嶽、高橋乗っ取りのこと[2011-12-15]
 70-6 宇留津城没落のこと[2011-12-16]
 70-7 筑前国障子の嶽明け退くこと[2011-12-17]


●巻之第七十一
 71-1 吉川元春、九国の弓矢の予言のこと[2011-12-18]
 71-2 吉川駿河守逝去のこと[2011-12-19]
 71-3 三の嶽を切り取ること
  71-3-1 三の嶽を切り取ること(上)[2011-12-20]
  71-3-2 三の嶽を切り取ること(下)[2011-12-21]
 71-4 賀春の嶽降参のこと[2011-12-23]
 71-5 賀春大明神のこと[2011-12-24]
 71-6 龍造寺味方になること[2011-12-25]


●巻之第七十二
 72-1 大和大納言、豊前着陣のこと[2011-12-25]
 72-2 島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと
  72-2-1 島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと(上)[2011-12-26]
  72-2-2 島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと(中)[2011-12-27]
  72-2-3 島津中務、耳川の城を明け退くこと並びに高城を取り囲むこと(下)[2011-12-28]
 72-3 関白秀吉公、九国下向のこと[2011-12-29]
 72-4 秀吉公、老翁の物語を聞きたまうこと[2012-01-04]
 72-5 島津和を請うこと[2012-01-05]
 72-6 吉川治部少輔元長逝去のこと[2012-01-06]
 72-7 経言、吉川家相続並びに隆景、筑前拝領のこと[2011-10-30]


●巻之第七十三
 73-1 豊前の国で一揆蜂起のことにつき岩石城没落のこと[2011-10-31]
 73-2 城井(きい)の屋形降参のこと
  73-2-1 城井(きい)の屋形降参のこと(上)[2011-11-01]
  73-2-2 城井(きい)の屋形降参のこと(下)[2011-11-03]
 73-3 賀来・福島の両城没落のこと[2011-11-03]
 73-4 肥後の国和仁・辺春落城のこと[2012-01-10]
 73-5 佐々陸奥守、肥後の国を賜ること[2012-01-11]
 73-6 佐々自害のこと[2012-01-12]
 73-7 小西・加藤、肥後の国を賜ること[2012-01-13]
 73-8 毛利三家上洛のこと[2011-11-09]
 73-9 宇喜多秀家の母のこと
  73-9-1 宇喜多秀家の母のこと(1)[2011-11-10]
  73-9-2 宇喜多秀家の母のこと(2)[2011-11-11]
  73-9-3 宇喜多秀家の母のこと(3)[2011-11-12]
  73-9-4 宇喜多秀家の母のこと(4)[2011-11-13]


●巻之第七十四
 74-1 大仏造営のこと[2012-01-14]
 74-2 北条小田原籠城のこと
  74-2-1 北条小田原籠城のこと(上)[2012-01-15]
  74-2-2 北条小田原籠城のこと(下)[2012-01-16]
 74-3 韮山の城を抱え詰めること並びに下田の城明け渡すこと[2012-01-17]
 74-4 小田原の城没落のこと
  74-4-1 小田原の城没落のこと(上)[2012-01-18]
  74-4-2 小田原の城没落のこと(中)[2012-01-19]
  74-4-3 小田原の城没落のこと(下)[2012-01-21]
 74-5 広家朝臣、出雲冨田入城のこと[2012-01-23]
 74-6 八幡太郎殿、早世のこと[2012-01-24]
 74-7 細川藤孝俳諧の発句並びに隆景と山伏問答のこと[2012-01-25]


●巻之第七十五
 75-1 厳島宝前物語のこと
  75-1-1 厳島宝前物語のこと(1)[2012-01-26]
  75-1-2 厳島宝前物語のこと(2)[2012-01-27]
  75-1-3 厳島宝前物語のこと(3)[2012-01-28]
  75-1-4 厳島宝前物語のこと(4)[2012-01-29]
  75-1-5 厳島宝前物語のこと(5)[2012-01-30]
  75-1-6 厳島宝前物語のこと(6)[2012-01-31]
  75-1-7 厳島宝前物語のこと(7)[2012-02-01]
  75-1-8 厳島宝前物語のこと(8)[2012-02-02]
  75-1-9 厳島宝前物語のこと(9)[2012-02-03]
  75-1-10 厳島宝前物語のこと(10)[2012-02-04]
  75-1-11 厳島宝前物語のこと(11)[2012-02-05]


●巻之第七十六
 76-1 高麗陣のこと、付けたり小西釜山海城を切り取ること[2012-02-06]
 76-2 日本勢、朝鮮の都入りのこと
  76-2-1 日本勢、朝鮮の都入りのこと(上)[2012-02-07]
  76-2-2 日本勢、朝鮮の都入りのこと(中)[2012-02-08]
  76-2-3 日本勢、朝鮮の都入りのこと(下)[2012-02-09]
 76-3 霊仙(筤銑)合戦のこと[2012-02-10]
 76-4 高麗言葉のこと(略)
 76-5 漢南(かぐなみ)勢小西を攻めること、付けたり大友敗軍のこと
  76-5-1 漢南(かぐなみ)勢小西を攻めること、付けたり大友敗軍のこと(上)[2012-02-11]
  76-5-2 漢南(かぐなみ)勢小西を攻めること、付けたり大友敗軍のこと(下)[2012-02-12]
 76-6 江陽合戦(碧蹄館の戦)のこと
  76-6-1 江陽合戦(碧蹄館の戦)のこと(上)[2012-02-13]
  76-6-2 江陽合戦(碧蹄館の戦)のこと(中)[2012-02-14]
  76-6-3 江陽合戦(碧蹄館の戦)のこと(下)[2012-02-15]
 76-7 井上・粟屋、鑓の一二の争いのこと[2012-02-16]


●巻之第七十七
 77-1 加藤主計頭清正、朝鮮の帝王を虜にすること[2012-02-17]
 77-2 清正、オランカイの城を攻めること[2012-02-18]
 77-3 大明の帝より加藤清正へ勅使のこと
  77-3-1 大明の帝より加藤清正へ勅使のこと(上)[2012-02-19]
  77-3-2 大明の帝より加藤清正へ勅使のこと(下)[2012-02-20]
 77-4 加藤主計頭都へ帰り入ること並びに清正夜討ち批判のこと
  77-4-1 加藤主計頭都へ帰り入ること並びに清正夜討ち批判のこと(上)[2012-02-21]
  77-4-2 加藤主計頭都へ帰り入ること並びに清正夜討ち批判のこと(下)[2012-02-22]
 77-5 芸陽福王寺の名石のこと
  77-5-1 芸陽福王寺の名石のこと(上)[2012-02-23]
  77-5-2 芸陽福王寺の名石のこと(下)[2012-02-24]

 
●巻之第七十八
 78-1 河下の城を攻めること[2012-02-26]
 78-2 大友義統のこと[2012-02-27]
 78-3 遊撃将軍和平を請うこと、並びに晋州の城落去のこと[2012-02-28]
 78-4 高麗城番のこと、付けたり秀元朝臣並びに金吾殿のこと[2012-02-29]
 78-5 福島左衛門太夫・立花左近和睦のこと[2011-11-14]
 78-6 関白秀次公自害のこと[2012-03-01]


●巻之第七十九
 79-1 摂州の塘を築くこと、並びに遊撃再び渡ること[2012-03-02]
 79-2 大地震のこと[2012-03-04]
 79-3 黄門隆景卿逝去のこと[2012-03-05]
 79-4 黄門隆景卿のこと、秀吉公感じ給うこと[2012-03-06]
 79-5 黄門隆景卿御在世時の噂のこと
  79-5-1 黄門隆景卿御在世時の噂のこと(上)[2012-03-07]
  79-5-2 黄門隆景卿御在世時の噂のこと(下)[2012-03-09]
 70-6 朝鮮人の鼻を取ること[2012-03-09]


●巻之第八十
 80-1 蔚山(ウルサン)の城、南兵勢が取り囲むこと[2012-03-10]
 80-2 加藤主計頭清正、蔚山に入ること[2012-03-11]
 80-3 蔚山の城の後詰、並びに大明勢敗軍のこと
  80-3-1 蔚山の城の後詰、並びに大明勢敗軍のこと(上)[2012-03-12]
  80-3-2 蔚山の城の後詰、並びに大明勢敗軍のこと(下)[2012-03-13]
 80-4 加藤清正、馬印を吉川広家に進めらること[2012-03-14]
 80-5 高麗城番のこと、並びに石田・安国寺広家を讒ること[2012-03-15]


●巻之第八十一
 81-1 冷泉民部少輔に伊賀崎追い腹のこと
  81-1-1 冷泉民部少輔に伊賀崎追い腹のこと(上)[2012-03-17]
  81-1-2 冷泉民部少輔に伊賀崎追い腹のこと(下)[2012-03-18]
 81-2 冷泉、化け物を突き殺すこと
  81-2-1 冷泉、化け物を突き殺すこと(上)[2012-03-19]
  81-2-2 冷泉、化け物を突き殺すこと(下)[2012-03-20]
 81-3 太閤公ご他界のこと[2012-03-22]
 81-4 大明勢、蔚山・順天の両城を攻めること[2012-03-22]
 81-5 諸将、朝鮮より開陣のこと[2012-03-23]
 81-6 諸将会盟のこと[2012-03-23]
2012-03-24

大友家、おわりのはじまり

どこを読もうか決めかねているので、
今回は穴埋め的に、毛利が織田にてこずっていたときの九州の話を読む。
とりあえずこの直前の章がコチラコチラの2日間で読んだ分。

大友義統好きなんだよな。なんかあのダメダメっぷりが。
小突き回したくなるというか、S心を刺激されるんだよねwww


大友義統家督のこと

豊後の国の住人、大友左兵衛督義統は、左近将監能直の末裔である。
父の左衛門督義鎮入道宗麟は、若く勢いのあるときは文武全備の良将だったので、
九州のうち七ヶ国を斬り従え、武威文徳を日々知らしめていた。
しかし歳をとるにしたがって、色を好み情に耽る傾向が強くなっていくと、
政治でも正しくないことが多くあった。けれども武勇はまだまだ衰えなかったので、
人々は恐れて従って、ついには九州のつわものたちは、ことごとく大友の手に属した。

こうなると栄華はその身に余るほどで、何をするにも心のままにならないことはない。
しかし五十を過ぎるまで男子が一人も生まれず、このとことだけはいつも悩みの種だった。
そろそろ六十にもなろうかというころ、男子が一人生まれたので、
宗麟は、「これはきっと大友家の武威がこれからもっと盛んになって、
天下の権勢をも掌の内にできるという瑞兆だろう。
私が若い盛りだったときでさえ男子ができなかったのに、
こんなに歳をとってからこうして息子が生まれたのは偶然ではない。
この子はきっと古今無双の良将となるだろう。

我が子孫が日本六十余州を掌握する征夷大将軍の宣旨を賜ることになったとしてもおかしくはない。
それというのも、先祖の左近将監は源二位の頼朝の御子である。
頼朝の側妾が一人懐妊したときに、これが御台所の耳にでも入れば差し障りがあると思われたのか、
頼朝はその妾を因幡守広元に下げ渡された。
さてようやく臨月になって、安産で生まれてきた子を見れば男子だったので、
広元が養育し、成人した後は『市法師』と名乗って頼朝卿の側近くに仕えていた。
ある事情があって大友と名乗った。

だから私も大友と名乗ってはいるが、平家に与した菊池・原田・大友などという兵の末裔ではない。
まさしく頼朝卿の落胤である。
だから再び天下の武将に返り咲いて、源二位のように人々から仰がれても、
少しもおかしくないではないか」と大いに喜んだ。

そして年月が経ち、義統が十六歳になると、宗麟は、
「では家を譲り、私は世の交わりを避けて、ひたすら後生の菩提の営みをしよう」と言い出した。
天正九年に隠居すると、朝晩の勤行に身を捧げ、
青陽の春の朝には花の枝を手にとって拈華微笑の奥意を悟り、
玄冬の夜には雪の裏に立って切なる求道の決意を示し心を澄ましていた。
八十余歳で金河の流れを汲んで涅槃の跡を追っていったという。

大友の一族郎党は多くいるが、そのなかでも戸次道雪・臼杵新介などが義統の後見に当たったので、
武威は先代に少しも劣らず、九州の大名・小名は、皆昔の通り大友の幕下に属していた。

こうしたころ、肥前の国の平戸へと、船が一艘着岸した。
その船長は賢長・雲南弥と名乗っていた。
その二人の者たちは交易船に数々の宝物を積み込んで臼杵や府内に入港していたが、
能島・久留島の海賊たちがこれを見て、天が与えたものだと大いに喜んで、
ヒタヒタと攻め寄せると、数艘を奪っていってしまった。
このせいで賢長・雲南弥は恐れおののき、すぐに大友義統に訴えたのだった。

「あなたの国に我が国の宝物を入れようとしたのですが、本船は大きな船なので思うように入港できず、
また小さな船で漕ぎ送ろうとすると、伊予の住人の能島・久留島などという海賊が
たちまち攻め懸けてきて奪い取ってしまいます。
我らの力では防ぎきることができませんので、ひとえにこちらの屋形をお頼み申します。
能島・久留島に狼藉をやめるようにと下知を加えてください。
そうすれば臼杵・府内へと、毎年船を漕ぎ渡すことができます」

大友家の奉行頭人たちは寄り集まって、この訴えをどうしようかと話し合った。
皆口々に言うには、「これこそ天が大友家に与えた福徳だろう。
もちろんこれまでも平戸へ交易船が来着しているが、
九州の内で大友の支配が及ぶのだから領国の中と同じだとはいっても、
龍造寺や松浦などが我が物顔で買い漁ってしまう。
その残りを得ただけでも大友家の富の元になるというのに、臼杵・府内へ交易船が来れば、
豊後一国がますます栄え、さながら日本第二の都のようになるだろう。
能島・久留島へは使者を遣わして断りを入れ、その船を臼杵・府内へ入れようではないか。
ほかにいい案があるとも思えない」と言い立てた。

ここで臼杵新介が口を開いた。
「皆の言うことも一理あるが、私の思うところとはまったく違っている。
昔の人も、唐の物は薬以外はなくても問題ないと言ったと聞いている。
今交易船を臼杵・府内へ入れたとしても、何の用があるというのか。

当代の皆の様子は、先代の宗麟の時代の様子とは天地ほども懸け離れていると思う。
宗麟はあらゆる手を使って九州を切り従え、防長にまで渡って毛利と一戦し、
弟君義長が無念にも討ち果たされてしまった遺恨を晴らし、国々を多く攻め取り、
当世に武名をあげ、後代に名を残そうと、四六時中このことばかりを思案なさっていた。
今はそれに引き替えて、九州が統一されて味方になっているからといって、
武ということを忘れ去っているようだ。

それに文をもって国の政治を正しくするわけでもなく、文武の道が廃れ果ててしまっている。
ただ美食珍膳を求め、茶の厚薄を論じ、そのうえきらびやかな衣服で身を飾り、
朝晩見栄を張ることだけを考え、ちょっとした話をするにも
茶入れ・茶碗・墨蹟の真偽の論争ばかりに熱をいれ、武のことなどほんの少しも口に出さない。
とりわけ今こうして異国の宝物を集めようと躍起になるとはどういう了見か。
ただ見栄ばかりにとらわれて国の金銀を浪費すれば、土地は貧しくなり、民は飢えに苦しみ、
自分から国を滅ぼそうとしているのと変わらない。

金銀は天から降るものでもなく地から湧いてくるものでもない。
ただ自分の所領の米を売って銀にしているだけだ。その銀はなんの役に立つかといえば、
侍の武勇の軽重を糺して、その功によって褒美を与えるために使う。
また他国に進軍するときに兵糧を買い求めるときのため、あるいは武具兵具を調達するときのためだろう。
また所領は何のために運営するのか。
自分の衣食のためだというのは言うに及ばず、賢哲勇猛の士を招いて雇用するためだろう。
千里の馬のたとえを引いてくるまでもない。

所領の米を売りつくして、本来の用途には用いずに、ただ無駄に綾羅を買い求めては身に纏い、
茶器を求めては家宝だの何だのといって、得意顔でいるのは、金銀を泥土のように投げ捨てているのを同じだ。
取ることは緇素(僧俗)を尽くし、という言葉もこうしたことではないのか。
前代のときは、南蛮西戎の船にあらゆる珍宝を集めていらっしゃらなかったが、
何か事欠くものがあるわけでもなかった。
今人々がこぞって求めているような絹布や茶器の類は、どれひとつとっても戦具になるわけがない。
ただ町人や白拍子にとっての宝であって、武家には無用の長物だ。

そのうえ賢長・雲南弥たちに金銀を取られて、蔵の中には無駄な南蛮天竺の珍物だけを積み上げては、
金銀米銭は一粒一銭も蓄えられまい。
敵国に入るというとき、錦繍綾羅の類が兵具になるのか。
城に籠もるときに、ラシャ・ルスン壺などの珍物が兵の腹を満たしてくれるのか。
戦の役に立たないものは、泥土を蓄えているのと同じだ。

さて、こんな役に立たないものに自分の宝を費やして、目を光らせて肩をいからせて綾羅を身に纏い、
驕り高ぶっていれば、いつかは貧しく困窮してしまうだろう。
ほかに方法がないのだから、所領から一粒でも一銭でも多く取ろうと民を責め立てれば、
民は皆飢えに直面し、子を売って年貢を用意し、妻を売って借金を返すようになる。
皆が困り果てる。他国に身一つで逃亡する者も出るだろうし、また道の脇に行き倒れて死ぬ者も出るだろう。
そうなれば当然、前年は米千俵が用意できたところは五百俵に減り、
五百俵のところは三百俵に減るだろうから、国もすさんで侍も貧しくなる。

それどころか、土民たちは
『こんな邪な大将のもとにいるからこそこんなにつらい目にあって、
妻子や一族をも質に出したり売り払わなければならないほどの貧しさに苦しむのだろう。
ああ、政道を正しくしてくれる武将がこの国に攻め込んでくれればいいのに』と熱望するようになる。
皆敵方に肩入れをし、我が国の大将を忌み嫌って、
ついには一揆を起こして敵を引き入れたりするだろうから、間違いなくこの国は滅んでしまうだろう。

国が滅びるきっかけは何かといえば、異国の船の宝物をほしがったことにある。
だから最初に言ったように、薬などのほかは、異国のものは必要ないのだから、
交易船をこの国に入れるというのは、絶対にやってはいけない。
それでなくても武芸を忘れ果て、驕りを極めた大友家の諸侍の気風はよろしくないのに、
賢長・雲南弥らの船が来着して臼杵や府内に入港させようというのは、
ひとえに当家を滅ぼそうと天魔が変化してやってきたのに違いないと思う。

今は毛利家が信長との和睦が敗れて天下を左右する戦争に及んでいる。
どちらも大敵だから簡単に相手を滅ぼすことができず、何度も合戦を重ねていると聞く。
また互いに和睦をすれば、毛利家は当家とは何年にも及ぶ遺恨があるのだから、
きっと豊前口から攻め入ってきて、たちまち当国を攻め取ってしまうだろう。
もし毛利家にそのつもりがなくても、信長が九州を放っておくはずがないから、
やはり毛利家を先鋒として攻め下ってくるはずだ。
信長の配下に属すといって赤手を擦り合わせて和平を請うても、信長は欲が深くずるい大将だから、
自分の旗本の侍たちに国を与えたいと思うはずだ。
とても今の分国をそのまま安堵されるはずがない。半分は減らされるだろう。

そもそも毛利家は、元就が逝去したとはいっても、元春・隆景という良将がいるのだ。
敵国が強いと感じれば無理には領国を奪おうとはしないだろうが、
当家の軍事の様子をきっと見透かしているだろうから、十中八九、
弱敵だと侮って国を追い出し、自分の譜代相伝の侍たちに所領を与えようとするだろう。

一番いいのは、交易船を当国の港に入れて日本第二の都として栄えるよりも、
異国の宝物を禁じ、我が国の賢哲智勇の侍を召抱えることだ。
燕の昭王が宮殿を築いて郭隗を師と仰いだようにすれば、当家の武臣もいよいよ忠功に励み、
他国よりも智勇全備の侍が集まってくるだろう。
そうすれば当家の武威もたくましくなり、日本に数少ない弓取りだと賞賛されるはずだ」

臼杵新介は言葉を尽くして説得したが、大友家はもうおしまいなのか、
奉行頭人たちは皆欲に耽り、愚意に迷い、臼杵の諫言を受け入れなかった。
やがて部丹生弾正忠を使者として、伊予の国の能島掃部助・久留島出雲守のもとへ申し入れを行った。
両島は「交易船の宝物を奪い取ることを停止せよとの由、承りました。
まったく思いもしなかったことです。我らは昔から海上を知行として妻子をはぐくみ、
家人を養ってきましたので、仰せは理解できますが、このことだけは了承することはできません」と返答した。

大友はこの返事を聞いて、また使者を遣わした。
「確かにその通りです。では交易船に攻撃を仕掛ければ、今後は九州の地で商売ができないと思ってください」
と伝えると、能島・久留島はこれを聞いて話し合う。
「交易船が我が国に来るのは、数年に一度のことだろう。それに大して商売は日々のものだ。
九州での商売ができなくなれば、我らは飢えてしまう。仕方がないから大友の言い分を呑もう」
両島がこのことを返事すると、義統は大いに喜び、すぐに交易船に印を与えた。
その後は何に煩わされることもなく、交易船は臼杵・府内へと珍器重宝を船に積んでやってきた。

さて義統には金銀珠玉が数多く献上されたが、これだけではつまらないと思ったのか、
生きた虎や豹なども献上された。
義統は、「日本において生きた虎を目にできるとは」と大いに喜んだ。
奉行頭人にも金襴緞子などの宝物が飽きるほど贈られた。
人は皆、「賢長・雲南弥が天魔の変化だなどと言っていた新介の言い分は違う。
実は徳の神の化身だったのだろう」と、後の災いも知らずに、手を打ち合わせ、喜び笑い大騒ぎをした。
愚かなことである。


以上、テキトー訳。

義統が宗麟が歳をとってからの子っていうのは、たぶん誤解なんだろうな。
宗麟=1530年生まれ、義統=1558年生まれ……で合ってるよね?
宗麟の父義鑑が1502年生まれらしいから、それと混同されてるんだろうなぁ。
他家のことはけっこう適当らしいから、これはしょうがないかも。
大友さんちは滅亡してないといっても改易されてるしな。情報不足なんだろうな。
でも歳をとってからの子で期待をかけられてた義統って設定はなかなかイイw
本人がダメダメな印象が強いだけに、これはイイ!

臼杵新介のお説教が、なかなか胸にくるものがある。
本分を忘れないようにしなさいね、っていうのは、誰にでも言えること。
私もこの前上司に同じ調子で苦言を吐かれたもんで^^;
黒字が出たりして潤ってるとついつい緩むんだけど、やっぱりそれはイカンよね。
初心に戻って気を引き締めなければ。ちょうど新しい年度がすぐそこだからね!
がんばってボーナスたくさんもらえるようになって、それでいろんな本買うんだ!

そんなわけで4月からちょっと新しい業務をやらなければならんので、
勉強とかいろいろあって、更新が滞ることもあるかもしれません。
業務フローがどうなるかはやってみないとわからない部分もあるから、
もしかしたら今までのようにそ知らぬ顔で更新してるかもしれないけどw
気長に待っていただけると幸いです。
2012-03-23

陰徳記最終章(でもブログはまだ続く)

最後の二章は短いからまとめて読んじゃおう。
今回は朝鮮からの撤退場面と、まとめちっくな最終章です。


諸将、朝鮮より開陣のこと

さて太閤秀吉公が薨去したことが朝鮮に伝わり、報告が諸将に上がると、皆
「こうなっては誰のためにこの地を守ればいいのか。もう本国へ引き揚げよう」などと会議していた。
そこにまた敵が蔚山・順天両城に攻め寄せてきたので、
まずこの勝敗を見定めようと、しばらく城を守っていた。
大明勢がまた打ち負けて退却していき、さて母国に帰ろうと思っているところに、
「五人の大名」と名高い徳川家康卿・毛利輝元卿・前田利家卿・宇喜多秀家卿・上杉景勝卿から、
朝鮮表を引き払うようにとの指示があった。
諸将は約束を定め、一緒にとも綱を解いて帰ろうということになり、皆釜山海の城に集合した。

島津兵庫頭・島津又八郎は釜山海から二里ほど離れたところに軍船をつないでいた。
釜山海の城にいた諸将たちは、順風のときを見計らって城に火をかけると、
同時に乗船して帰朝したのだが、どういうわけか島津兵庫頭にはそれを知らせなかった。
そのなかで島津中書(中務)忠豊は釜山海の城にいたのだが、
きっと兵庫頭父子はこのことを知らないだろうと、
軍艦を整えて敵船を押し破りつつ島津父子がいるところへと知らせに走った。
大明・朝鮮の兵船数千艘が待ち構え、日本勢の行く手を阻もうとしたものの、
なかなか勝てそうにもなかったので、ただ遠くから見ていただけだった。

こうして我が国の大名・小名は皆大阪に上陸した。
その後、幼君秀頼公を守護して太閤の厚恩に報謝しようと、無二の忠勤に励んだが、
皆それぞれに権威を争い、自分が人の上に立つことにばかり腐心した。
また石田・増田などの奉行頭人らの近年の奸邪を快く思わず、
積年の恨みを晴らそうと思う者が多かったので、人々は皆、またこれから天下が大いに乱れ、
下克上が起こる世の中になるかもしれないと、深い淵の上の薄氷を踏むような思いでいた。

しかし石田たちは行いを省みて身を慎むこともせず、秦皇が崩御した後で趙高がそうしたように、
ただ驕り高ぶった振る舞いばかりを続けた。
心ある者たちは、
「今に見ておれ、天下は大いに乱れ、中原の鹿(天下の帝王)を争う世がやってくるぞ。
恐ろしい恐ろしい」と囁きあった。


諸将会盟のこと

太閤秀吉公の遺言に従って、五人の大名と三人の奉行は、
「絶対に野心を抱かず、幼君秀頼公に奉公して忠勤を貫き、天下を太平に守護する」
との七枚起請文を書いて、天神地祗に誓った。
まずその五人の大名としては、松平家康卿・前田利家卿・宇喜多秀家卿・毛利輝元卿・上杉景勝卿である。
三奉行は、石田治部少輔三成・増田右衛門尉長盛・大谷刑部少輔吉継らだった。
五人の大名とはいっても、東の三十三ヶ国の大名・小名はすべて家康卿に付き従い、
西の三十三ヶ国の大名・小名は、皆輝元卿に靡き従って、秀頼公を守ったのだった。

しかし異国の十二諸侯の戦国の七雄といい、魏呉蜀の三国といい、
また我が国においては、平家が西海に内裏を建て、木曽は都を守護し、頼朝は鎌倉にいてそれぞれ威を争い、
天下の兵馬の権勢を握ろうと、躍起になった例は多々ある。
けれども行く末はいざ知らず、今は諸侯がことごとく幼君秀頼公に対して無二の忠勤に励んでいるので、
天下泰平、国土安全が保たれている。
万民も楽しんで時を過ごし、この御代がずっと永遠に続けと願わぬ者はなかった。


以上、テキトー訳。

まず、朝鮮撤退で島津さんち置いてけぼりにするなんてヒドイwww
ていうか島津家の連絡役が遅れただけなのか、最初から島津がしんがり役だったのか、なんじゃないのかな。
いや単なる想像だけど。
朝鮮出兵はほかの研究書を読まないと、「陰徳記」だけじゃよくわかんないよなぁ。
ウィキペディアだと、11月23日に加藤清正ら、24日に毛利吉成ら、
25日に小西行長・島津義弘たちが釜山を発ったとあるけど、
行きも船団を分けて渡ってるんだし、帰りもきっと同じ理由で分けたんだろうな。

しかし前章で「いつまた世が乱れるか」と戦々恐々としてたってのに、
次の章で「皆太平の世を謳歌した」みたいになっててツッコミたい!
無理やりイイ話で終わらせようとしただろ、コレwww
「僕たちの冒険はまだまだ続く」ってアオリが出るような、
打ち切り漫画の終わり方に似ていると思うのは私だけだろうか。
しかし「香川正矩先生の次回の作品にご期待ください!」とはならんのよね。残念。

今回は「陰徳記」最終章を読んだけど、前回の宣言どおり、
次からはまた前に戻って、すっ飛ばしてしまった章を拾い読み続行予定です。
次はどこ読もうかな。山中鹿介のターンとか、元就じいちゃんが死ぬ場面とか、
広家の初陣とか、備中松山城の攻防とか、いろいろ気になるシーンはあるんだけど……
あと、もっと前にさかのぼって陶隆房の謀反~山口平定あたりね。
でもその前に下巻の目次を整えなきゃ、とも思いつつ^^;

明日は明日の風が吹くってことで、行き当たりばったりで進めちゃいますが、
また気が向いたらのぞいてやってくださいませ。
2012-03-22

蔚山・順天の攻防

さあ、秀吉死んじゃったし! 最後の章まであとちょっとだし!
サクサク読んでいきますか。
今回は朝鮮のお話。


大明勢、蔚山・順天の両城を攻めること

同(慶長三年)九月、河南税四十万騎は二手に分かれ、二十万はまた蔚山の城を取り囲み、
もう一方の二十万騎は順天の城を包囲した。
加藤主計頭(清正)は敵の大軍が向かってくるのを見て、
「なんと夥しい数の敵だろう。
この前の正月にこの城を攻め損ねたのを無念に思い、こうして挙兵してきたのか。
城の構えがまだ十分でなかったときでさえ我が方が大勝利を得たというのに、
ましてや今は石壁・塀・格子に至るまで鳥も通さないほどに完成している。
どんなに激しく攻められても、露ほども恐ろしいとは思わん」と、まったく動じずにいた。

唐人たちは新しい兵を入れ替えながら攻め近づいてきた。
今度は鉄砲の攻撃に備えるためか、大きな楯の板を突き出しつつかかってくる。
木村又蔵主は清正に向かって、
「敵の楯の板はあまりに大きゅうございます。
人力では持ち上げられないと思うのですが、ああして軽がると突きかざしてきておりますので、
おそらくずいぶん薄いのでしょう。楯の上から鉄砲を撃ち掛けるとよろしいでしょう」と言った。
清正も「もっともだ」と言って、すぐに楯の上から撃ち掛けた。
すると弾は楯の真ん中を撃ち貫き、兵士たちは前につんのめるようにして次々と倒れ伏していった。

その後大明勢は十四、五日間も攻め続けてきたが、
城中から撃ち出す鉄砲の前に、楯も耐え切れず鎧も用を成さず弾が突き抜けてくるので、
これはかなわないと思ったのか、楯を背に引っ掛けて退却していった。
大勢が一度に退いていくので、前後の備えもなく、誰がしんがりともわからないほど、我先にと逃げていく。

しばらくして大きな池のあるところへと突き当たった。
城中ではこれを見て、兵たちは「さあ追い討ちをかけて一人残さず討ち取ってやろう」
と気炎を上げたが、清正はこれを制した。
「太閤が薨去されたのだ。敵を多く討ったところで、誰がほめてくれるわけでもない。
いたずらに罪を増やすより、そのままに捨て置け。
石田は口が悪いから、いかに数万の敵を討ったとしても、武勇とも戦功とも言うまい」
清正はこう言って手勢の郎党たちを押しとどめたので、
兵たちもはやる気持ちを抑えて足を止め、逃げ遅れた兵の首をいくつか取っただけだった。

また、順天の城を取り囲んだ二十万騎の先頭に、身長が八尺ほどもある大男が六人、
鉄の棒を打ち担いで進んでいた。
目がつり上がって鬚が左右に分かれ、筆に任せて獄卒を描いたよりもなお恐ろしい顔をしている。
おそらく大明の小唄なのだろうか、狼や牛のような声を高らかに上げて、山も崩れんほどに叫び歌っていた。
その者たちが手にした鉄棒でしっかりと結い渡してある柵の木を横払いにすれば、
柵は一つ残らず木っ端微塵に砕けて倒れてしまった。

島津兵庫頭(義弘)はこれを見て、「あれを撃ち倒せ」と下知した。
もともと、薩摩の兵たちは鉄砲が大の得意である。
百歩離れたところの柳の葉は言うに及ばず、針などが的であっても、十間二十間離れていようが、
目に見えさえすれば必ず真ん中を射抜く。
それだけでなく、雲の間を飛んでゆく鳥や野辺を走る獣だろうと、撃って外すということがなかった。

こうした手練の者たちが「かしこまりました」と種子島を構え、
「エイヤッ」と送り声をかけて、真っ先に進んでいた巨人の体の真ん中を撃ち貫く。
先ほどまでは牛頭馬頭のようだった大明人も、「アッ」と声を上げただけで、
うつぶせに倒れて死んでしまった。

残った五人の者たちは少しもひるむ様子もなく、鉄棒で石垣を打ち崩そうとする。
百人の力でもなかなか動かない大石も易々と撥ね起こしていくので、
この城も間もなく撥ね崩されて陥落するかのように思えた。
しかし種子島で狙い澄まして撃ちかけていくと、また三人が矢場に撃ち倒された。
残る二人の者たちはさすがに恐れをなして本陣へと逃げ帰っていった。
この巨人たちは、大明が韃靼国へ「力持ちの人を援軍に派遣してほしい」と要請したので、
韃靼国で選び抜いた加勢のための六人だったそうだ。

その後、城中から鉄砲を激しく撃ちかけると、敵方には怪我人が続出した。
寄せ手は、これはもうかなわないと思ったのか、攻口から少し退こうとしたが、
すでに浮き足立っているのが城中からも見て取れた。
三浦三左衛門尉が三十騎ほどで門を開いてついて出ると、
ほかの軍勢も三浦に負けまいと、後からドッと打って出る。
その勢いに、さしもの大明勢も一気に崩れて、我先にと逃げ出していった。

退く先には大河があり、また道も狭い崖なので、先に逃げたものだけが助かった。
後から退却した者は追いかけてくる日本勢の猛攻に堪えかねて、弓を引き矢を放つこともすっかり忘れ、
慌てふためいて騒いでいるうちに、次々と討ち取られた。
首注文に記載されているのは三万八千七百、崖から河に落ちて溺死した者は、幾千万とも数知れなかった。

島津兵庫頭の武勇は今に始まったことではないが、実に古今無双の働きだと、人々は皆感心した。
嫡子の又八郎(家久、忠恒)も、諸軍勢に檄を飛ばす様子などは、
父の兵庫頭にも伯父の修理大夫(義久)にも劣らない良将の器だと、皆こぞって褒めそやした。

日本の「五人の大名」と名高い人々から、幼君秀頼公の上意を得て、兵庫頭父子に感状が出された。
その書状にはこうある。

 「このたび朝鮮の泊川表において大明人・朝鮮人が大軍を起こして攻め懸けてきたところ、
  貴殿ら父子が一戦に及ばれて敵を打ち崩し、敵を三万八千七百も討ち取られたとのこと、
  その忠節は比類ないものである。
  よって、褒美として、薩摩の国内の御蔵入地を宛行うこととする。目録は別紙に記す。
  並びに、子息の又八郎は少々に任じられ、
  また長光の御太刀、家弘の御腰物、正宗の御脇差を拝領されることとなった。
  御当家においては御名誉の至りと存ずる。   以上
         慶長四年正月九日
                 安芸中納言  輝元
                 米沢中納言  景勝
                 備前中納言  秀家
                 加賀大納言  利家
                 江戸大納言  家康
         島津兵庫頭殿
         同 又八郎殿」


以上、テキトー訳。

清正、けっこうリアリストなのね。
「得にもならねー殺しはやめときな!」とかカッコイイんですけど。
全体的に清正はすごく好意的に描かれてるよね。
陰徳記成立時では、確か加藤家は改易されてると思うんだけど、
それにもかかわらずこの清正フィーバーは何なんだろう。
ヘタ打ったのは三男だし、それで父の事跡が汚されることはない、ってことなんだろうか。
清正公さんの愛されっぷりは、ちょっと嫉妬www

追い討ちを制した清正と、三万以上の首級を揚げた鬼島津とは、対比されてんのかな。
しかし島津、まじ鬼島津! 九州は修羅の棲むとこなんだなぁ。
「殲滅じゃあああぁぁぁ~~~!」という鬼軍団も、それはそれでカッコイイね。
怖いけど惹かれるものがあると言うか。
義弘さん、こんなことやりながら、戦陣から妻に向けて
「おまえの夢を見たよ」なんてかっわいい手紙送ったりしてるんだよな。ニヤニヤ。

さて、次回は朝鮮脱出回だと思う~。
2012-03-22

秀吉に「お疲れさま」と言いたい

夜会議→飲み会の流れで、また日付変わる前に更新できなかったさ。

さて今回の陰徳記は太閤の身に大変なことが。
直前までの冷泉さんの話とかすりもしない構成だけどいいんだろうか。


太閤公ご他界のこと

さて、太閤は去る六月から病床に臥していたが、次第に重篤になり、
今にも命が消え果てしまいそうになった。
諸仏諸神に祈祷をし、医療の術を尽くしたけれども、ついにその甲斐なく、
慶長三年八月十八日に、伏見の城で亡くなった。
石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門たちは話し合って、このことをしばらく隠しておいたので、
人々はまったく知らなかった。

しかし広家様はそのことを聞きつけて、ひそかに輝元卿にもにも知らせながら、そ知らぬ顔をしていた。
広家様の執事である香川又左衛門尉が、
「太閤の体調が次第に悪くなっていっているということは間違いない。
近日お亡くなりになるかもしれない。
まだ世の中も十分に安定していないから、三奉行などという者たちは、
もし本当に亡くなってもきっと公表しないだろう」と考えて、先に手を打っていたのだった。

香川が何かあったら人より先に知る方策を探していたところ、
太閤の妾に召し置かれている山名豊国入道禅高の息女を思い出した。
これに因幡の国の住人、吉岡質休の次男右近の娘が、昔からのよしみで侍女となってついていた。
右近は中国では無二の味方として、広家様の家来のように出入りしていたので、
香川はその娘をそれとなく里へ呼び出し、
「もし太閤がお亡くなりになったら、ただ一筆
『かねがねお約束のもの、ただいま整いましたので進上します』と書いて薬を一服添え、
親の右近に宛てて寄越すようにしなさい」と言い含める。

女は「かしこまりました」と言って立ち帰り、八月十八日に、
「兼々御約束ノ物唯今調候」と書いた書状を小者に持たせて送り出した。
門は厳重に閉ざされていたけれども、これが策略とは夢にも知らず、
「これなら問題ない」と小者を通したので、知らせが又左衛門のところへともたらされた。
約束どおりの文言に、「では太閤が亡くなったのだな」と理解して、広家様にもこのことを報告した。

さて、太閤が寝付いたのはどんな病かと訊ね聞くと、こんな話がある。
去る六月、遊撃将軍が来朝して太閤に対面したとき、遊撃将軍が懐から丸薬を取り出して服用した。
太閤が「それは何の薬だ」と訊ねると、遊撃将軍は「これは老人が若返る良薬です」と答える。
太閤が「再び若さを取り戻せる薬とは、老いたこの身にとっては、日本に替えても手に入れたいものだ。
わしに少し分けてくれ」と言うと、遊撃将軍はすぐに献上した。

そのとき、御前には松平家康卿・毛利輝元卿・前田利家卿・宮部善乗坊なども伺候していたので、
太閤はこの薬を皆にも分け与えた。
家康卿と輝元卿は、老人が若返る薬など、古来から例がないので怪しいものだと思い、
飲むようなふりをしてすぐに懐へと隠した。
善乗坊はすぐに飲んだが、この人も太閤と同じ年に死去してしまった(慶長四年三月二十五日)。

遊撃将軍は、太閤が長生きすればしまいには大明も責め滅ぼしてしまうと危惧し、
自分の身を捨てて大明四百余州の人々を救おうとして、こうして毒を良薬と偽り、
自分が服用することで太閤を安心させて献上したのだという。
遊撃などの謀略のなかに落とされて亡くなってしまうとは、口惜しいことである。

たとえ昔から老人が若返るなどという良薬があったとしても、
大敵というか、他所の国の者というべきか、
怪しげな者が献上した薬を軽々しく考えて飲むべきではなかった。
とりわけ、このような薬効のある良薬など、今に至るまで聞いたことすらない。
もしそんな薬があれば、どうして秦の皇帝が徐福を蓬莱島に派遣したり、
漢武が暁の露をなめたりしただろうか。
これほどにまで知恵の浅い人ではなかったのだが、これは宿世の因果の結果だったのかもしれない。
残念なことである。


以上、テキトー訳。

香川春継大活躍。うんまぁ陰徳記も香川氏の著したものだしね。
マユツバでもかまわないさ! 春継さん大好きさ!!!
春継は幼少期から日野山城で元長と一緒に育ったらしいけど、
近臣候補として見込まれてたのか、あるいは武田から寝返った後だから人質要員だったのか。
どちらにしても、元長に近侍して、広家の家督の際にも積極的に動き、
広家の家老になって働いた人なんだね。如水さんの覚えもいい。
いろいろ気が利いた人だったんだろうと思う。
陰徳記では鑓働きも比類なく描かれてきてる。
史実でも、安濃津城攻めのときに、本人が大怪我負うほど突出して働いてるしな。

さて秀吉の死因が、ここでは遊撃将軍の献上した若返りの薬ってことになってるのな。
このとき献上された薬については諸説あるみたいだけど、本当のところはどうなんだろう。
まあどのみち秀吉も、長くはなかったんだろうなー、なんて思う。
濃い人生だったね。よくおやすみと言いたい。
結局秀吉嫌いから大好きに矯正されてしまった。陰徳記おそるべし。
この本でも秀吉は傲慢で鼻持ちならないやなやつだけど、なかなかどうして、いいキャラだったじゃないの。
いなくなると寂しい。

このまま読み進めると陰徳記はあと少しで最終章なわけだけど、
前半・中盤すっ飛ばして読んでるので、
最後までいったら、まだ読んでない章を読んでいくよ。
とりあえず次回は、撤退前の最後の一花かな。
2012-03-20

冷泉、化け物を討つ

今日3月20日は、黒田如水の命日だそうな(慶長9年)。
「黒田家譜」には福岡で没したと書かれてるそうだけど、
伏見の黒田邸で亡くなったのが本当のところらしい。
広家を大きく支えてくれた恩人で、如水さんが有馬に湯治に来たとき、
広家もそこを訪れてお見舞いしたりしてる。
息子の長政とも親交を深めてるし、如水・長政の墓がある京都の龍光院に、
広家の墓も建てさせてもらってるんだよね。仲良しさん。
黒田家大好き。今年の目標は「黒田節」を歌えるようになることです!
ngmsばりの歌唱力だけどがんばるぞ!

さて陰徳記、前回のあらすじ:
冷泉民部少輔元満は、妻を病で亡くしてからなかなか後妻を娶らずにいたが、
家臣の娘に惚れ込んで、なかなかなびかない娘にアプローチをし続けた。
するとある晩、意中の娘が突然民部のもとに忍んできて、民部はようやく想いを遂げる。


冷泉、化け物を突き殺すこと(下)

その後は互いに想いを人に知られないように、岩橋を駆け渡って毎晩女が民部の元に通ってきた。
比翼連理の言葉をたとえにすれば、
「八百日行く浜の真砂(歩きつくすのに何日もかかる長い浜。
本歌:八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守『万葉集』)」を詠み尽くすことはあっても、
妹背の契りはずっと変わらないようにと、日々暮らしていた。

民部の寝ている次の間に宿直していた若党たちは、
「殿は夜な夜な誰と話しをしているのだろうか。ぶつぶつと囁き声がするが、なんとも面妖だ。
それにもしかしたらご病気なのか、物思いにふけるそぶりで寝もせず起きもせず、
普段のご様子もなんだか調子が悪そうで、お顔の色も青ざめて、やせ衰えてしまっている。
これは怪しい」と考えた。

あるとき若党は、民部に向かって直談判した。
「最近は毎晩何をおっしゃっているのですか。ご様子がとてもおかしいですよ。
独り言をおっしゃっているから、気でも違われたのかと心配しています。
どうしてそんなにお心を乱していらっしゃるのですか。
御一族のなかからでも、もしくはそうでなくてもいいから、
どなたかいい人をおそばに置いてお心を慰めるようにと、
ご友人が強くお勧めくださったのは、こんな御病がもし差し出でてしまってはと危惧したからでしょう。
深く愁いに沈む者は心が鬱々として、人にも悪い噂を立てられるものです。
ご自分のお姿をご覧になってください。ずいぶんひどいご様子だと思います」

若党の諫言に、民部はこう応えた。
「最近夜な夜な話していることは、人に知られていないと思っていたのに、
阿漕ヶ浦の網(本歌:伊勢の海阿漕が浦に引く網もたび重なれば人もこそ知れ)ではないが、
度重なれば見咎められてしまうものなのだな。恥ずかしいことだ。
私は愁いに沈んで心を乱しているのではない。

いまさらごまかしても納得などしないだろうから本当のことを言おう。
以前、あの伊賀崎の娘を妾に召し置こうと思って、あれこれと言って誘いをかけたが、
娘は最初のうちはつれない態度だった。
しばらくすると、さすがにこちらの心を蔑ろにしすぎるのも罪深いとでも思ったのか、
この十日ほど前に私のところに忍んできて、理由をつけて断ってこようとしたが、
私もまた言葉を尽くして娘と語らった。これまで毎夜娘が忍んできていたのだ。
私は散々心を尽くしてきた恨み言を言って胸の思いを晴らし、またこの世の徒然の話などをしていた。
おまえはそれを聞いたのだろう。絶対に、露ほども人に漏らすなよ」

固く口止めされた若党は、どうも納得できない様子でいた。
「それにしても不審です。あの伊賀崎の娘は、最近は母方の祖母のところに行っていて、
ここ二十日ばかりは自分の家におりませんでした。
たとえ自分の家にいたとして、忍んで参るにしても、戸に厳重に掛金をかけてあるこの屋敷に、
どうやって外から入ってこれるというのでしょう。

私もどこかから何者かが来ているのかと思い、注意して耳を澄ましていましたが、
掛金がカラリと鳴ることさえありませんでした。
また戸がガタガタいう音もさせずに、その人は部屋の内へと入ってきたのでしょうか。
あまりに不審で怪しく思いましたので、こう申し上げておきます。
その者は絶対に今宵も来るでしょうから、よくよくお心を静めてご覧になってください。
おそらく古狸のしわざか、古狐が人を誑かしているんでしょう」

民部はこの言葉にハッと気づかされた。
「確かに、どこの戸が開いたのかもまったく覚えていない。
寝入ればやってきて、また寝入れば帰っていく。これはただ事ではない。
変化の物が私を誑かしていたのだな。これは口惜しいことだ。
きっと今夜も来るだろう。怪しいやつなら真ん中を刺し貫いてやろう」と、
冷泉家に代々伝わる中堂来光包の脇差の鞘をはずして、一人用の幅の狭い莚の下に置き、
その化け物が来るのを今や遅しとまどろみもせずに待ちかけた。

そうすると、この魂胆が相手に知れたのか、その夜は、
夜中を過ぎて鶏の声が暁を告げるころになっても女は姿を現さなかった。
民部は、今夜はもうこないだろうと思って、警戒を緩めて少しうとうとしはじめた。
そのとき、天井から何かの足音らしき物音がかすかに聞こえ、
天井の破れから何かがひらりと飛んだかと思えばカッと光って、床の上に下りたような音がした。

民部は「来たぞ」と思いながら寝入ったふりを続けていると、
そのうち深くやさしい風の匂いを漂わせながら枕元に近寄ってきた。
「ようやく参りました。驚かせてしまいましたね。
あなた様は深く思い入れてお待ちくださったのでしょうから、いらつくのも無理はありませんが、
こんなに寝入ってしまうことはないではありませんか。
これまであれこれと仰ってくださったのは嘘だったのですか。
こんな浅いお心とは知らず、夜な夜な参っていたとは。

それに大通りは人目につきやすいからと、茨や枳殻の茂みを掻き分け、
袂も袖も絞れるほど露に濡れてしまいました。
すでにお心変わりなさったことも知らずに、この身はあなた様に惹かれていくばかりでした。
女の心ほどみっともないものはございません。
目を覚ましてください。帰ってしまいますよ」と、女がさめざめと泣き出すと、
民部はたった今夢から覚めたような様子で目を開ける。

「どうして今夜は遅いのかと、待っている間に先年も立ってしまったように思えて、
『更けゆく鐘の(本歌:待つ宵に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは、新古今集)』
と詠んだ昔の人の気持ちまで身に染みたのだぞ。
夜の衣を返して寝るにも『いとせめて(本歌:いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる、
古今和歌集)』という古い昔の言葉を思い出した。
今夜はもうおまえは来ないだろうと思い、せめて夢のなかでおまえに逢いたいと思ったから、
少しまどろんでいたのではないか。よく来てくれたな。嬉しく思う」

言いつつ、民部は夜具を重ねた途端、抜いてあった刀を取って、
中堂来の柄も拳までも突き抜けろとばかりに、女の体の真ん中をズンと突いた。
女は突かれて「アッ」と声を上げたかと思うと、ひらりと飛び上がって天井を蹴破り、
どこかに逃げ去ってしまった。

冷泉は若党を呼んで、「変化の物をたった今貫いたぞ。
招集をかけて、急いで跡をつけてとどめを刺そう」と言う。
若党は「かしこまりました」と、我も我もと手に手に松明をかざして出てきた。
見れば、天井の真ん中が蹴破られている。
民部はそこをキッと睨んで「来たときはあの床上の破れから来たのだが、
手傷を負わされて慌てたのかもしれない。もとの道には帰らずに、天井を蹴破って帰ったのだ。
血の跡がついているだろう。よく見よ」と命じた。
案の定、破れた風口から血痕が続いていた。これを手がかりにしてその跡をたどっていった。

ここは長門の問田というところだったが、六、七里ほど隔てて、月山という場所がある。
由緒ある古跡で、七堂伽藍のある神聖な場所だった。
寺から少し上には仲哀天皇の御廟があったが、そこから上は崖が峨々と聳え立って、
山頂には人が通れる道がない。
しかし血の跡を道しるべにどうにか登りついてみると、
峰に岩の重なった岩窟があって、大きな穴があり、血痕はその中へと続いている。

そこに人を入れてみると、
「中には数えることもできないほど骸骨が満ち溢れていています。
奥には恐ろしくて入れませんので、こうして戻ってまいりました」と言う。
民部が「おまえたちが入れないのなら、私が行くほかあるまい」と、穴の中に入っていこうとすると、
一人進み出た中間が制止して、
「こんなところには近習の侍衆さえ入らせるべきではありません。私たちのような下郎の役目です」と、
思い切って飛び込んでいく。

入って見てみると、頭や顔は人間で、口は左右の耳の脇まで裂け、鋭い牙が生え、舌は紅蓮のよう、
身には狸のような毛が生え、三歳の牛のような大きさで、爪は鷲のような姿をした化け物が、
胆の真ん中を突き破られて死んでいた。
そいつは、どこで手に入れたのか、赤い小袖を着て倒れていた。
その中間は、化け物の両足を掴むと「エイヤッ」と引いて穴から出てきた。

冷泉は化け物をキッと見据え、
「これまでおまえに誑かされてきたとは情けないわ。
智が獣を過ぎれば獣を獲得できる、という。
おまえの智計をもって私を騙しおおすことなどできぬ。
かえってこうして私に殺される羽目になったではないか。
獣の知恵がどうして人間に及ぼうか」と言った。

すると息絶えたはずの化け物が再び生き返り、目をクルクルと見開いたので、
それを見ていた者たちは「アッ」と言って逃げ出してしまった。
民部だけは少しも騒がず、化け物の頭を二度三度と蹴ってとどめを刺した。
その後、また人を洞窟の中に入れてみると、人の骸骨が数知れず山積みなっていた。
このあたりの里では昔から、夕方ごろに人が行方不明になることが多く、天狗の仕業だと噂になっていたが、
皆この化け物の仕業だったのだろうと、人々は語り合った。

末法の世だからといって、これほど恐ろしいことがあるものなのだろうか。
源三位頼政が射止めたという変化の物も、こうした類の化け物だったのだろう。
その後、化け物の遺骸は路頭に晒して捨てたそうな。


以上、テキトー訳。おしまい。

通ってきた女が物の怪だったよ!!! 民部かわいそうに!!!
途中までは、源氏物語の夕顔のように、
二人でしっぽりやっているところに何かが現れて
切った張ったの大騒ぎにでもなるのかと思ってた。
ていうかそっちの方がよかった……抱いた女が化け物だったなんて、民部ショック!

まぁ、害さえなければ、情は細やかだし、女の姿になってれば見た目も問題ないし、
そのまま夫婦になってもよかったんじゃないかとは思う。害さえなければ。
陰徳記に登場する化け物の類は、けっこう愛嬌や情があるやつが多くて好きだな。
少しの間だけどいい思いさせてもらったんだから、遺骸をちゃんと葬ってやりゃいいのに。

それはそれとして、宿直の若党が個人的にすごく気になる。
主人の寝間の次の間にいるんだよね。
家来たちが隣の部屋にいる状況で、特に気にせずアレコレするのか。
それで「人目を忍んで」なんてぬけぬけとよく言えるもんだわwww
人目を忍ばない関係にしても、たとえば夫婦が同衾するときとかはどうするんだろ。
奥女中が宿直するのかなぁ。
まあ家族が隣の部屋にいる状況でニャンニャンするのは現代も同じだし、
そうたいして変わらないか。家来も家族だもんな。

そういえば刀だと「斬る」と表現したくなるが、ここで使われる表現は「突く」だね。
聞くところによると、室内だと斬るより突いた方が理にかなった動きなのだそう。
たしかに刀を振り上げると鴨居に刃をぶつけたりしそうだなぁ。
室内で斬るやつは素人、突くやつが玄人。でもそんな玄人にはなりたくねえ。
夜とか恋とか夜具とか色っぽいキーワードが散りばめられてるとアレですな。
突くというとどうしても、放送禁止用語的なアレを思い浮かべてしまいますな。ヌフフ。

して民部よ、当初のお目当ての娘とはどうなったのだ……
あと近習より中間の方が度胸あるってどうなの。供回り変えた方がいいんじゃないの。

次は、いきなり太閤薨去の話だよ!
2012-03-19

冷泉民部の恋患い

今回は、朝鮮は蔚山城の攻防戦で戦死した、冷泉元満のちょっとしたエピソード回。

冷泉、化け物を突き殺すこと(上)

冷泉民部少輔(元満)は何度も武名を世に顕した、世に類なき勇士だったが、
そのなかでも不思議な手柄だったのが、去る天正年中に恐ろしい化け物を突き殺したことだった。

詳しい話を聞いてみると、民部少輔は長年連れ添ってきた妻と死に別れ、
それからは寂しく独り寝に甘んじてきた。
親しく話すような友達などは、後妻をもらえばいいのにとせっついてきたが、
これという女もいないので、「そうだな」などと空返事をしながら、年月ばかりが経っていった。

そんなころ、家人の伊賀崎入道の娘が、とても清らかな容姿で心栄えもまたすばらしいので、
民部はこれに心を寄せていった。
どこか他所から妻をもらうよりは、この女を妻に召し置きたいと考えて、気の知れた若党を呼び寄せて、
「この通り言い聞かせ、彼女の心を引いてこい」と命じる。
若党は「かしこまりました」とこっそりその女に近づき、
「殿がこう仰せである。ともかくも仰せに従ってくれ。
もし殿のお心を無碍にするなら、おまえのことはさて置き、父の入道殿のためにもよくないだろう」
などと、脅しすかしながら誘った。
女は頬を赤らめて、返事もせずに立ち去ってしまった。

若党がこのことを民部に告げると、
「なかなかに心深くしっかりした心栄えの女ではないか。
終生の寄る辺として頼むにはこういう女がいい。見た目ばかりが艶やかであっても、
あまりに不誠実であってはよろしくないと思っていたところだ」と、
なおさら恋しさが増してゆき、その女の俤が身にぴったりと添うような気持ちすらして、
ひたすらに態度を明らかにして恋しい気持ちを書き送り、その文も千束以上になった。

しかしこの女房はなかなかに手ごわく、民部もなかなか落ちなくとも諦めたりはしない。
それにしても一途に想う心は岩をも貫通していくものだというのに、なかなかに難しい。
この女は他所の家の者でもなく、身分的にふさわしくない相手でもない。
自分の家来の娘なのだから、あまりもったいぶるようなら無理やり迎えにいこうと思いながら、
そうすると世の人の噂というものは虎や狼よりもなお恐ろしいので、浮名が立つのも口惜しく思った。
まずは何度か女を慰めなだめておいて、少し心が和らいだところで父親に頼んで妻に迎えようと考え、
一途に恋い慕って独り歌を詠みながら夜を明かして暮らしていた。

あるとき、宵のころから雨がしめやかに降って、灯の影がなんとも妖しく揺れる晩、
民部は「松風のさと音信ければ、早晩聞物とや」と独りごちて、
枕に寄りかかるにも、「今ぞ知りたるしき物」と、古い歌謡を口ずさんだ。
「今夜の雨はひときわ寂しい。
光源氏と頭中将が女の品定めをしたというのも、こんな雨の夜だったのだろう。
私が想う女はどんな品であろう」などと物思いしているうちに、
ふと眠気が襲ってきて少しだけまどろんだ。

そのとき、誰ともわからない者が部屋の戸をそっと押し開け、民部の枕元に立った。
民部はさすがに恥ずかしそうに驚いた様子だったが、何も言わずに相手を見れば、
想い焦がれ、恋い慕った俤がそこにはあった。
普段見るよりもいっそう優雅で、夢ともうつつともわからぬまま、その女を見つめる。

民部はあまりの嬉しさに、小声で「なぜここに!」ともらし、
女の袂にすがって「これまでよくもつれなくしてくれたな。
しかしその恨めしさも、今こうして逢えたのだから、喜びに変わる」などと語りだす。

女は、「最初のころは、慎ましさが大切だと思って返事もいたしませんでした。
しばらくしても繁々と御文をくだされるので、返事を申し上げたいと思うようになりました。
それに大事な主君の仰せですので、私は女の身ではありますが、
どうしてそのような方のお心を無碍にして、仰せに背くことができましょう。

そうは思っても、飛鳥川の流れにもまして変わりやすいのが殿御の心と聞いております。
軽々しくお返事しても、
『色見えで(本歌:色見えでうつろふものは 世の中の人の心の花にぞありける(小町 古今集)』
と詠んだ小町の歌の心さえ、この身の上に重なるように思えました。

もし他所に浮名がもれ聞こえてしまえば、千度も百度も悔いたところで甲斐もなく、
また父母がなんと仰せになるかもわかりません。
心が迷うまま、打ちすごしてきてしまいました。
それでも私のおろかな心で繰り返し考えたところ、親の戒めを破るのは五逆の罪です。
主君の仰せに背けば鉢逆の罪を負います。
だから罪の軽い方を選ぼうと思い、慣れ親しんだ親の戒めに背いて、ここまで参りました。

あなた様のお心に従おうとすれば、青い海よりも深い親の恩を知らぬがごとし。
また親の戒めを守ろうとすれば、九天よりも高き主君のご恩に報いることができない。
それにつけても恨めしいのは女の身です。
今あなた様のお心に従えば、両親の戒めを破ることになるので、
今生はさて置くとしても、来世までも罪深き奈落の底、黄泉の国に沈み果てることとなりましょう。
これはいくら嘆いても足りるものではありません。
このことを申し上げるためにここまで参りました。
ここでお別れを許していただければ、主君のお心を破ることもなく、親の戒めにも背かずにすみます。
そうなれば後生にも及ぶご恩になるのではないでしょうか」と涙を流した。

その儚げな姿は、なんともいえぬ色香の桜花が、
晴れることのない春の雨に楚々と打たれ潤っている様子と寸分たがわなかった。
信実の思いをもたずに強情にしているよりは、ずっと見所があるように思えた。

民部はもっともな道理を突きつけられても、なお気持ちが揺れ動いて、
何かを言うのももどかしいと感じ、そ知らぬ顔で夜の衣を引き重ねて語らう。
するとさらに強く心惹かれ、鳥の声が聞こえ始めるあわただしい夜明けごろになって、
露の命のように短い間の契りも夢かまことかはっきりと確信が持てないまま、
人目につくのを避けて忍んで帰る女と涙ながらに立ち別れた。


以上、テキトー訳。つづく。

ちぇっ。なんだ、またリア充かよ。はいはい、爆発爆発。
ところで化け物マダァ-? (・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン

まぁそれほどリア充とは言えないのかもしれない。現代の感覚では。
「殿のお気持ちに応えなきゃ、おまえの父親がどーなってもしらんぞ」と脅迫されて
頬を赤らめる娘ってどんな??? 脅迫されてるんだよお嬢さん???
それとも脅迫するほど強い気持ちと解釈するんだろうか。ヨクワカラナイ。

簡単になびかない=慎ましやかでしっかりした心栄え、というのはわかった。
ひたすら手紙を送って口説くとか、まったくどこの平安貴族なんでしょうね!
恋愛ゲームを上手にできる人はさぞ人生楽しいんだろうなぁ。
私は恋愛ゲームより知識欲に走るタイプだと今回身にしみてわかったので、
べ、べつに羨ましくなんかないんだからねッ!
本読んだりして好きな世界に思考を馳せてるときが一番幸せなんだもんね。
こりゃ結婚できんわwww

また今日も本を衝動買いしてしまったんです……
昼休みに密林眺めてて「欲しいな~」と思った本が、帰りに立ち寄った書店に置いてあるとかね!
これはもう運命だと思ってお持ち帰りするしかないよね!!!
夏にボーナスもらえたら、萩藩閥閲録を購入したいな、なんて☆
山口県史の史料編とか、その他研究書も興味アリアリだったり。
小説の類は図書館で借りよう。
それにしてもいつ読む気だ。まだ陰徳記すらまったく読み終わる気配がないのに。

とりあえず次回も続きだす。
2012-03-18

妻「来世もあなたとともに!」舅「ちょっと待って!」

そういえば前回書くのを忘れてたけど、このころは、夫のことも「妻」って書くんだね。
「夫」表記も混在している。というか「夫」と書いて「つま」と読むのかな。
万葉集の昔から、伴侶のことは男女の区別なく「つま」と呼んでたんだね。
元就=妙玖の妻、隆元=尾崎局の妻、元春=新庄局の妻、隆景=問田大方の妻と変換するとキュンとくる。
隆家=五龍局の妻っていうのはそれほど違和感がない。広家=俺の嫁←結論。

さて前回のあらすじ:
朝鮮は蔚山で戦死した冷泉元満の家来、伊賀崎民部少輔は、弔い合戦もできずに、
主君の亡骸のそばで腹を切って果てた。
それを聞いた国許の妻は、涙に暮れながら、亡き夫との思い出を語りだす。
今回は伊賀崎民部の妻の話の途中から。


冷泉民部少輔に伊賀崎追い腹のこと(下)

「またこの刀は、私の夫が常に肌身離さず持っていたものです。
女の身には似つかわしくありませんが、あの人の身に添って手になじんだ物ですから、
あの人をありありと思い出せます。
長く夫とともに旅をしてきたこの刀は、盗人などというものや、
心ある人のことも知っているでしょうから、私を守ってくれるはず。

そう思って、この刀を形見に置いていってほしいと頼んだのです。
まさかこれを、自分の身に触れさせる日が来ようとは思ってもいませんでした。
それでなくても女は五障の罪が深いというのに、それにもまして私は恋慕の罪が深く、
そのうえ刃にかかろうものなら、どんなに気の遠くなるときを超えても成仏はできるものではありません。

女人が成仏するには念仏の功力にすがるしかないと世を挙げて言います。
仏は韋提希婦人のために十六観をお示しになりました。
するとたちまち華座観で無量寿仏が空中に立ち現れたので、それを拝んだそうです。
また阿弥陀如来の四十八願のうち、第三十五には、
『たとえ私が仏になることができても、すべての限りない諸仏の世界の女性が、
私の名号を聞いて、喜び信じさとりを開く心を起こし、
女性の身をきらいつつ命終後に再び女性の身になるなら、私は決して仏になりません』と言っています。

また烏揚国王が仏法に傾倒して、夫人とともに西方浄土に神のように住もうと考えて、
六時に念仏を唱え、毎日楽を奏して仏を供養したそうです。
その崩御のときには仏や菩薩が姿を現し、お迎えにいらしたとか。
それに隋の文帝の后は女の身をきらって、日々西方を拝んでいたそうですが、
臨終とのときにはなんともいえぬかぐわしい香りが部屋に満ちたとのこと。
また荊王の夫人は西方の術を身につけ、後には炉に香をたいて立ったままあの世に旅立ったと聞いています。

こうした故事を見るに、女人の成仏は阿弥陀如来が世を超えて悲願としたほどに難しいものなのでしょう。
阿弥陀の三文字は空仮中の三諦、法報応の三身、仏法僧の三宝、三徳、三般若といった、
一切の法門はすべて阿弥陀の三文字に入っています。
だからその名を唱えれば、八万法蔵を読誦し三世の仏身を持てるようになるのではないでしょうか。

また須弥四域経には、『日月星辰二十八宿がみな西に行くわけは、
すべての諸天や人民に、ことごとく共に阿弥陀如来を礼拝させるためである』とあります。
日月星辰がすべて心を傾け、阿弥陀如来に向かって行くゆえに西へ流れていくのです。
これを思えば、阿弥陀の悲願にすがって九品蓮台にすべてを託すべきなのかもしれませんが、
私は幼いときから毎日一部の法華経を読誦し、後生の幸福を願ってきました。
そのお経には、『今この三界はすべて私の有しているもので、そのなかの衆生はことごとく我が子である。
そして多くの患いや困難が降りかかってくる今のこの世を、ただ一人、
仏である私だけが救い護っている』と説かれています。

そして『方便品(法華経の一節)』には、『仏の教えを聞いて成仏できない者などいない』ともあります。
『法師品(同)』には、『妙なる法華経の一偈一句を聞いて一念も随喜しない者には皆、記を与え授けよう。
阿耨多羅三藐三菩提である』とも説いてあります。

また『堤婆品(同)』の龍女得脱の文にはこうあります。
『龍王の娘が忽然と釈迦の前に現れ、釈迦の足に額をつけて礼拝すると正面に退き、
偈を唱えて釈迦を褒め称えてこう言う。
“お釈迦様は罪福を深く見極めて、世界中をあまねく照らしてくださっています。
そのなんとも言えず清らかな法身を目にしますと、三十二の吉相や八十の福相がありありとわかり、
その法身の荘厳さがわかります。
天上界・人間界ともに、そのありがたさを仰ぎ、龍神さえもことごとく、心から敬愛しております。
あらゆる生あるもので、あなた様の教えに帰依しないものはありますまい”』
こうして畜類の龍女でさえ成仏することができるのです。
どうして人間にできないことがありましょうや。

どうか生まれ変わったら男子として生まれたいと切望し、法華経の五の巻を読誦しました。
『勧持品』のにはこうあります。
『釈迦の叔母であり養母である摩訶波闍波提比丘尼が学無学の比丘尼六千人とともに座から立って、
釈迦の尊顔を仰ぎ見ると、しばらくわき目も振らず一心に合掌した。
釈迦は?曇弥(摩訶波闍波提)に告げた。

“どうしてそんなに心配そうな顔をするのか。如来を見ればあなたの心配など晴れるだろう。
私はあなたに阿耨多羅三藐三菩提の記を授けず、あなたを成仏させないとでもお思いか。
?曇弥よ、私は先に一切の声聞に対してすでに授記したと説いた。
今あなたもこの記を知ろうと思うならば、あなたは将来の世界では、
六万八千億のあらゆる仏法のなかで、大法師となるだろう。
またここにいる六千の学無学の比丘尼もともに法師となるだろう。

このようにして菩薩の道を身につければ、ついには成仏できる。
一切衆生喜見如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・
調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけよう』
この文を読んで、また涙があふれてきました。
ここにもまたあらゆる比丘尼が授記されたとの記述があるのですから。

法華経は王の功力によって五障の罪を救ってくださいます。
私も必ず、先立ってしまった私の夫と同じ仏の国に再び生を受けられるはずです」と、
伊賀崎の妻は読経を終えた。

そして肩脱ぎになると題目を十回ほど唱えながら形見の刀をすらりと抜き、
胸の真ん中に突き立ててうつぶせに倒れこんだ。
周囲にいた女房たちは「これはどうしたこと」と伊賀崎の妻の袂にすがり、
急いで刀を奪い取って、伊賀崎入道(舅)に報告に行った。
入道は仰天してよろよろと惑い来てみれば、雪とも見紛う白い肌はすでに深い紅に染まり、
目も当てられぬ有様だった。

入道は涙を流し、「なんということだ。
夫との死別が悲しいからといって、こんなはしたない振る舞いをする者があるか。
中務が死んでしまったからには、おまえをこそ息子の名残とも形見とも思っていたのに、
こんなことになってしまっては、この入道一人で老いさらばえた姿をさらして生きていたいとも思えない。
おまえが生きてこの世に暮らし、一巻の経でも読み、一返の念仏でも唱えてこそ、
中務が成仏できるというものなのに、
こんなどうしようもないことをして死んでしまったら、逆に罪が深くなるだろう。
この傷だけでは死ぬことはないだろう。手当てをして、傷が治るように薬を飲んでくれ」と言った。

妻は、「仰せはごもっともでございますが、夫と死に別れて浮世で一人生きながらえ、
物を思うのは悲しすぎます。
それでこうして、女の身には似つかわしくない振る舞いをいたしました。
いまさら命が助かるように薬を飲むくらいなら、はじめから自害など企てたりしません」と、
湯水すらまったく飲まない。

治療さえすれば助かる命だったが、本人がひたすらに思い切った道だった。
その後は題目を唱え、また「本師釈迦如牟尼来よ、どうか夫の後生をお助けください」、
また十方仏土中也と聞けば、「どこの浄土だろうとも、
我が夫と同じ仏の国に生まれさせてください」と願って、ついに息絶えた。

再婚しないだけでも世間ではまれに見ることなのに、ましてやこれは自ら命を絶ち、
二世の契りを結んでいる。
心を動かされるというか、語るにしてもなかなか言葉が及ばない。
これを伝え聞いた人は、心ある者もまた心無い者も、皆涙で袖を濡らしたという。


以上、テキトー訳。おしまい。

結局自害しちゃうのな。
お舅さんの悲しみこそが目も当てられない有様で泣ける。
息子に先立たれた上、嫁にも自害されるとか、悲劇というレベルじゃねえ。
この妻、女人の成仏云々て、自分のことしか考えてないだろ!
と、文句をつけるのは、お経を調べるのに泣く思いをしたからです。

陰徳記は、武士の傾向なのか、だいたい出てくるのが禅宗系の話なんだけど、
今回はバッチリ日蓮宗だったね。
日蓮宗なぁ。あの他宗に対して攻撃的なところがどうもダメなんだよな。
法華経の話を振ったら質問に答えてくれそうな人が知り合いにいるんだけど、
宗教話したら勧誘されそうで、結局連絡しなかった。
何度「今度一緒にお話聞きに行かない?」と誘われたことか。
説法聞くなら、やっぱ禅宗か密教系の方が興味ある。

さて次は上司の冷泉さんの生前の話だよ。
何故このタイミングでこういうエピソードが出てくるのか、いまいち法則性がわからない。
2012-03-17

主従は三世、夫婦は二世の契りというけれど

昨日は夜に会議があって、金曜日だからそのまま飲み会に流れて、
そんな感じで帰宅が深夜→酒が入ってるせいもありほぼ即寝コースで更新できなかった。
そんな日もあるよね!

さて今回は、朝鮮の蔚山で戦死を遂げた冷泉元満の部下のお話。


冷泉民部少輔に伊賀崎追い腹のこと(上)

さて何とも物悲しいのは、冷泉民部少輔(元満)の郎党の伊賀崎中務・白松善左衛門・
吉安太郎兵衛尉といった者たちの振る舞いである。
去る正月に河南勢が蔚山へと攻め寄せてきて、冷泉たちが討ち死にしたときは、
この者たちはちょうど他所に行っていて、最後の供ができなかった。
唐勢が蔚山へ攻め寄せてきたと聞いて、急いで帰ってきたものの、敵はひとり残らず退却した後だった。
主君が甲斐なく討たれてしまったというのに、無二に走りかかっていって刺し違えて死ねる敵もおらず、
主君の無念を晴らす方法がない。ただ涙に暮れていた。

なかでも伊賀崎中務は、涙をこぼしながらこう掻き口説いたものだ。
「戸部(冷泉元満のこと、民部の唐名)の祖父の判官殿は、大内左京太夫義興と男色の契りが深く、
京都から連れられて下国してきたとき、我らの祖父もまた主君の判官殿に供奉して下向してきた。
それから防州に主君が三代住み、我らもまた三代続いた。

一族の中でも私は幼少のときから戸部の御憐みを蒙り、片時もおそばを離れずにお仕えしてきたというのに、
何の因果か、こんな大事なときに他所に行っていて居合わせられなかったとはあまりにもひどい。
もし戸部の御身に大事があるときは、私が真っ先に討ち死にしてからならともかく、
死に遅れるとは何たることだ。
仏神三宝にも見放され、君臣の契りが尽き果てたとでも言うのか。

戸部よ、どうかしばらく道で待っていてください。
すぐに腹を掻き切って、死出の三途の川を渡る間に追いつきますぞ。
あの山路の露を払い、三瀬川を背負って渡りますのでご安心なされ。
このときにこそ最後のお供をしなかった言い訳もいたしましょう」

伊賀崎がこう言うと、残る二人の者たちも、
「私もどうして後に残ったりしましょうか。一緒に道を行きましょう」と、すでに思い切っていた。
それぞれ主君の亡骸に三度礼拝し、そして腹を十文字に掻き切って死んでいった。
なんとも立派なことである。
これを見聞きした人は、「忠といい義といい勇といい、比類のない者たちだ」と皆感心した。

これはさておき、さらに哀れなのは、長門の国の問田というところに住んでいた伊賀崎の妻である。
妻は夫が主君に殉じて追い腹を切ったことを伝え聞いて、
「なんということでしょう。来世もともに生きようと誓い合った仲だというのに、死に遅れたとは悔しいこと。
中書(中務の唐名)殿が十九歳、私が十五歳のときに初めてお会いしてから、
玉響の間も離れたことがなかったというのに。

河嶋の水の流れが変わっても、比翼連理の夫婦の仲は変わるまいと、
互いに情愛を深くして、来世にかけて契りを交わしました。
かねがね言い交わしていたことも実現せず、たった一人でこの世に生き残ってしまった。
番いのいないオシドリの悲しい鳴き声だけが、あの人のいないこの世に残っているようです。
なんと恨めしい」と涙に暮れて倒れ伏した。

しかし少ししてから起き上がり、妻女はこうも言った。
「それにしても儚いものです。私の夫がクダラとかいうところに向かう際、涙を流してこう言いました。
『私はこれから青い波を万里も越えて、コマとかいう国に向かう。
波路だけでも千里以上あるらしいと聞いている。
かの童男と丱女がいたずらに船の上で年を重ねていったという話も、今は身につまされるようだ。

この身の上は白波の、寄る辺も知らぬ海原の、
潮の八百合(やほあひ、潮流が交わるところ)に沈んで死んでしまわないとも限らない。
もしくは西海の波路を無事にしのいでクダラの地に着いたとしても、
見知らぬ蛮族の国に入って、日夜朝暮に戦をするのだ。生きて帰ってこれるとも思わない。
しかし戦場に赴く者が命を捨てるのは当たり前だ。
それに軍事に携わる者は戦場で命を散らしたいと切望するものだから、露ほども恨みには思わない。

しかしこれまでおまえに慣れ親しんでからというもの、主君にお仕えする身だから宿直などをする折には、
我が家に帰っている間は夏の夜のように短く感じた。
また離れて寝る夜は秋の夜を千夜も隔てたような心地がして、
大して寝ていないのに夜が明けるなどと言う人の気持ちさえうらやましく思ったものだ。
早朝に帰っておまえに逢うと、浦島の少年が古龍の都で年を重ねて自分の故郷に帰り、
七代先の孫に会ったという話よりもなお、とてつもなく待ち遠しかったと感じたものだ。

今回はそれ以上に、いつ帰れるのかも八重の白雲に覆われていてわからないのだから、
きっと今こそが別れのときなのだろう。

私が高麗の国で敵の手にかかって命を失ったり、もしくは病に臥せって死んでしまったと聞いたならば、
必ず後の菩提をよく弔っておくれ。
もし他の男に沿うことになっても、私と交わした約束は、少しも忘れてくれるなよ。
ああ名残惜しいことだ』

夫は私の手をとってこう言いました。
私もあまりの悲しさに、涙ばかりがこぼれてきて、しばらくは何も言えなかった。
でもどうにか心を静め、夫にこう言ったのです。

『なんと情けのない仰せでしょうか。
あなたと生き別れたら他の男の妻になれとは、これほど口惜しいことはありません。
あなたに一度近江(逢う身)なる、潮ならぬ海(湖=貝がない→甲斐がない)は七度まで葦原となし、
末の松山が波の底に沈んだとしても、この契りの行く末は絶対に変えるものかと、
互いに涙を流し袖を絞りながら、諸神にかけて誓ったことも嘘だったというのですか。

もしあなたと離れてしまったなら、他の人に会うなんて思いつきもしません。
この世に生きている限りは、龍の住む山であろうと虎のいる野辺であろうと、
この想いだけを道しるべに必ずこの足であなたのもとにたどり着き、同じところで生涯を終えたい。

この世に永遠というものはないのだから、あなたがどこかで草派の露霜と消え果てしまったと耳にしたならば、
妻恋かぬる秋の野の小鹿の角のつかの間も、この命を永らえようとは思いません。
深い谷川にでも身を投げて、来世も同じように夫婦でいられるように、
閻魔のところにもご一緒して、六道四生のその間も、あなたと手をつないで巡りましょう。

しかしながらこれは、あなたのお言葉があまりに情のないものだったから、
恨みを残さないために申したまでです。
あなたは数千万里の波路を無事にお渡りになり、異国の蛮人を切り従え、
きっとめでたく帰朝なさるでしょう。

旅路ではいろんなものに心慰められるものです。
知らぬ波路の秋の月、見たこともない唐土の春の花を見て喜び、
心が浮かれることもあるでしょうから、旅のつらさも少しはまぎれるでしょう。
私は一人きりでここに残って、荒涼とした寝床が寂しくて、軒からもれる露に袖を湿し、
板間の風に肌を刺されながら、物思いにふけることになります。
ああ悲しい』と涙に咽び地に伏してしまいました。

しかし、これではいけない、戦に赴く武士を送り出すというのに、
涙を流すなんてとんだ粗相だと思い直しました。
袖の涙を打ち払い、なんでもないような振りをして、杯を出して夫と酌み交わし、
『お帰りをお待ちしております』と、互いに袖を引きつつ立ち別れて、旅立つ姿を見送りました。

かの松浦伏(佐?)夜姫が、恋人を乗せた唐船を見続けるために、
高い山に登って見えなくなるまで見送ったという話がありますが、
自分の身に積まされるようで、白雲に包まれて立ち迷ったような気持ちで泣いてばかりいました」


以上、テキトー訳。つづく。

昨晩すっぽかしたからいつも以上に頑張ろうと思ったけど匙を投げたよ。
なぜかというと、この後に漢文?お経?がたくさん引用されてて、正直手に負えない……
前から言ってるけど、軍記物読むには、日本神話・中国故事・仏教説話・その他文芸の素養がないとダメらしい。
調べるにしても根気がいるよ。マジで。ネット空間が発達しててよかった。
人に聞いたり足で探してたら、それこそ何カ月がかりで調査しなきゃわからないんじゃね?
ネットで調べててもうんざりするのに、自分の目と耳と足で、なんて、どだい無理な話だわ。

愚痴はこのへんにして、冷泉民部の部下たちおよびその妻のお話だね。
ていうか後半はほぼ妻の話だよ☆
男女の情愛とか……リア充爆発しろ!!!!!!! いえ特に恨みがあるわけではありませんが。
いやうん、伊賀崎夫婦に恨みはないが、正矩にはある。
源氏物語とか古い和歌とかを下敷きにして書かれてるから、調べるのがものすごくめんどくさい。

陰徳記はたま~にこうした男女の恋愛物語みたいなものが出てくるんだけど(尼子義久夫婦とか)、
そのたびに文芸作品理解してないと意味があまり通じない描写が多くて、もうね!
男色ならズバリ「男色の寵愛深く~」とかドストレートに書いてあるんだけどな。
まあ、この文芸引用してもったいぶってる感じがオツなのかもしれないね。
でも「潮のない海=湖=湖には貝がいない=甲斐がない」なんてのは感心するよりうっとおしいわ^^
だいたい平安貴族のせい。紫式部とか。

はっ。結局愚痴になってしまった。
まあ、愛する夫を戦地に送り出す妻の心情が細やかに描かれてるので、この点はちょっと嬉しかった。

次回はいろいろな引用にめげなければ、この章の最後まで読みます。
2012-03-15

昭和な時代劇風映像で脳内再生推奨

ナチュラルに「昭和」とか書いたけど、
もう平成生まれの子たちが社会に出てるんだよね。年月って怖い。
そのうち「これだから昭和生まれは」とか言われるようになるんだろうか。gkbr。
でも昭和って60年以上続いたしな。世代的に幅広いよな。大東亜戦争だって昭和だもんな。

だいたいの流れ:
蔚山救援が済んで、乙女回路発動した清正から広家への馬印の贈与も済んだ。

ていうかもっと秀元あたり出してもいいと思うんだぜ、正矩!


高麗城番のこと、並びに石田・安国寺広家を讒ること

さて同(慶長三年)三月までに蔚山の城の普請が終わると、加藤主計頭が入れ置かれた。
セツガイの城には黒田甲斐守、竹嶋の城には(竹があったので日本人は竹嶋と呼んでいた)鍋島加賀守、
釜山海の城には寺沢志摩守、古泉の城には立花左近将監・久留米侍従(小早川秀包)・筑紫上野介・高橋主膳正、
順天の城には島津兵庫頭、ヤク山の城には小西摂津守が籠め置かれた。
そのほかの諸将は帰朝するようにと太閤から指示があったので、同六月に皆日本へと帰船して、
直接伏見へと向かった。
そこで今回の朝鮮での戦功を上げた者について、その軽重が吟味され、それぞれに感状が出された。

このときまで、日本で木綿を織る産業はなかったが、高麗から帰ってきた人々が、
木綿を糸にして織物にすることを婦女に教え、始めたのだった。こ
れ以降は、身分の低い者はこれを布子と呼んで、布を裏表に合わせ、中に綿を入れて着るようになった。

早川主馬・垣見和泉守は、太閤の前に進み出て、
「蔚山の合戦で敵が敗走していったのは、先日ご報告申し上げた通りです。
加藤の武威はいよいよ人間のものとも思えません。
この人が無二の覚悟で身命を捨て、城中に入っていなければ、城は三日の内に陥落させられたことでしょう。

また後詰の勢が到着して、決戦は明日と決まったとき、吉川が一番に敵の様子を見切り、
わずかな勢で山上から駆け下って真っ先に切りかかっていきました。
そうしなければおめおめと敵を逃していたことでしょう。
吉川が一番に切りかかったからこそ、大唐まで噂されるほどの追撃ができたのです。
そうしなければ、こちらは敵の退却を知りもしなかったでしょうから、追いかけることはできませんでした。
ですから唐人たちの大軍が敗走し、日本勢を恐れて、自分たちから近づいてこようとしなくなりました。
これは吉川の戦功に他なりません。このことは安国寺がよく存じております」と報告した。

そのときともに御前に侍っていた者たちも、口々に
「吉川・加藤はなかなか類を見ない働きでした」と言った。

太閤は「先年、伯耆半国・出雲三郡・隠岐一国を吉川に与えている。
そしてその後も空いた国があれば遣わそうと、黒田入道(如水)を通して吉川に伝えていた。
今回は南条の退いたあとの東伯耆三郡と因幡の蔵納、
そのほか本領と合わせて三十万石ほど宛行おうと思うが、どうだ」と言った。
すると石田治部少輔・安国寺瓊西堂は「それは良いお定めです」と言って一旦御前を立ち、
すぐに人気のないところに行って二人で密談をした。

二人はまた太閤の御前に行って、袖を掻き合わせてこう言った。
「吉川が朝鮮での数々の戦功によって、伯耆一国、並びに因幡のお蔵入地をお与えになるというのは、
確かにもっともなご判断だと思います。
しかしながら、今少し思慮を重ねられるべきかと。

あの者は戦功もたいしたものですが、もともと並外れて優れた才覚の持ち主です。
今回の蔚山でも、敵は百万騎以上いたというのに、諸将と示し合わせもせずに、
たった二、三十騎で一番に切り込んでいます。
いくら必勝の確信があったとしても、大胆不敵すぎはしないでしょうか。
また、決戦は明日と決まっていたのに、その軍法を破ったのも感心しません。

この者が手勢を一、二万も持てば、今後もし天下が乱れたとして、
どんな企みを抱くかわかったものではありません。
とりあえずは金銀珠玉の褒美だけにして、
所領を宛行う件はもう一度よくお考えになってはいかがでしょうか」

石田は広家と従来から仲がよくなかった。
安国寺は奸僧なので、元春・元長・広家ともに、
「あれは生臭坊主だ。ゆくゆくは毛利家を危うくするだろう」と毛嫌いしていた。
ことに今回は蔚山で広家が出撃の際、
「施餓鬼供養のやり方ならよく知っているのだろうが、戦のことは何も知るまい」
と大いに罵倒したことで、安国寺もまた腹を立て、
石田と結託してこうして讒言したのだという。

太閤はこのことで広家に所領を与えるのはとりあえず保留にしたものの、
どうにも心が引けて、やがて宰相に任官しようと約束した。
しかし、広家の冥加が薄かったのか、太閤の体調不良でその沙汰が繰り延ばされ、
次第に容態は悪くなっていったので、それに紛れてしまって結局なかったことになってしまったそうだ。


以上、テキトー訳。

「安国寺、おぬしも悪よのぅ」「ふっふっふ、治部少輔様こそwww」
なんて聞こえてきそうだね。ビバ様式美!
書状なんかを見ると、広家はどっちとも問題なく付き合ってた感じだし、
特に仲良くはしていなかったけど、特別仲が悪かったわけでもなさそうなんだよね。
関ヶ原の乱の首謀者ってことになってるし、もう死んでるから、心置きなく悪者扱いできたんだろうなぁ。
この傾向は、広家の自筆覚書あたりからずっと継続してるんだよね。
こうして「安国寺・石田に意地悪されてたよー」とアピールすることで、
いろいろと正当化したいものがあったのかな。

陰徳記の秀吉は、これまでもけっこう、広家を気に入ってあれこれと絡んだり馬を与えたりしてるんだけど、
正矩的にはどんな風に秀吉を描きたかったんだろうなぁ。
かなり悪い噂や傲慢さなんかもストレートに書いてきてるよねぇ。
人格的にはアレだけど実力はある秀吉、ってところなのかな。
そんな癖のある秀吉に気に入られて気を遣われちゃううちの殿様ってばマンセー!もできるしな。

バイアスひどいとか、だから陰徳記は信用できないとか、好きなように言うがいいさ。
いいんだ。広家のかっこいいところが読みたくてこの本買ったんだ。満足だ。

次回は朝鮮で亡くなった冷泉元満さんの家来たちのお話みたいだ。
2012-03-14

70年代少女マンガ風イメージで脳内再生推奨

タイトルが不穏? 読めばわかる、かも。

だいたいのあらすじ:
朝鮮再征でいきなりピンチに陥った蔚山を、寡兵で救った救援軍。
特に広家は大活躍だったよーーー! わっほーい!!!


加藤清正、馬印を吉川広家に進めらること

河南勢を一戦で下して退却させると、日本の諸将は会議をして、
もし敵が近辺に逃げ延びてコチラの隙をうかがっていようものなら、
臆病神が敵に取り憑いているうちに攻め寄せて蹴散らしてやろうと、二千や三千ずつの大物見を出した。
しかし敵は皆逃げ散ってしまい、一日やそこらで行ける距離の内には足跡すらもなかった。

「しばらくは敵が寄ってくることもあるまい。急いで蔚山の城普請を終わらせてしまおう。
もし敵が先日の負け戦を無念に思って、本国の唐に加勢を要請し、新しい兵を入れて攻め寄せてきたら困る。
味方は小勢なのだ。いつかは城を落とされてしまうだろう。
兵は地形によって強くなるという。堀を深く構え、累を高く築いて、
小勢の味方でも敵の猛勢を凌げるようにしよう」と、諸将から人数を出し、昼夜を問わず工事を急いだ。

加藤主計頭(清正)は並河金右衛門を差し出した。
吉川侍従(広家)は山県清右衛門を出していたが、この二人の家臣が毎日会ううちに、
いろいろと話をするようになった。
あるとき、並河金右衛門が山県に向かってこんな話をした。

「それにしても先日、蔚山を唐勢が取り巻いたときは、あなたの主君の侍従広家は、
何を見切っていたのだろう。
広家が一番に敵陣に切りかかったから、河南勢百二十万騎は瓜のように潰れて散り散りに逃げていった。
これはひとえに広家の武徳の至りだろう。

清正は常々こう言っている。
『今回蔚山の篭城の運が開けたのは、吉川広家が敵の機を察して、
味方との約束のときを待たずに切りかかっていったからこそだ。
清正の命を救っただけでなく、和漢両朝の戦で我が国の軍が勝利できたのも、広家の勇と智のおかげ。
広家はたった二、三十騎で懸かっていったのに、敵の百二十万騎がその小勢に恐怖して退却するはずがない。
きっと敵の退きそうな機を暗に察したに違いない。
これは人智の及ぶところではなく、天照大神、並びに八幡大菩薩があの人に乗り移ったのではないだろうか。

それはともかく、この清正にとっては、先に言ったように命の恩人だ。
我が身命を投げ打ったとしても、この厚恩に報いることはできない。
そこでだ。先日、広家が一番に敵に懸かっていったとき、蒲の槌の馬印だったが、
これは遠目に見ると蜻蛉のように見えてあまり目立たない。
私の馬印のババラなら、目の届く範囲には、清正の馬印とはっきりと見える。
もし広家がこの馬印の台を欲しいと思ってくださるなら、差し上げたいと思う。

というのも、旗や馬印は軍神の乗り移りなさる物だ。
軍神の拠り所とは、人の身にたとえれば命のようなものである。
私の命の救い主には、私もまたこの感謝の念を、軍陣の命とも言うべき馬印を捧げることで顕したいと思う。
しかし私は、広家がどう思っているかもわからない。

もし広家が私と同じ思いでいてくれたら、この主計頭、
広家とは血を分けた同胞のように思い交わす印に、私のババラ印を差し上げたい。
もちろん同じ色では紛らわしいだろうから、私のババラは白いので、広家は色を変えればいいと思う。
でも広家がどうお考えなのかも知らない。
並河は山県と毎日集まって、あれこれと話をしているだろう。
私の思いをそれとなく話題にして、山県の見解を聞いてきてくれ』と、こう仰るのだ。

このことについて、どうだろう。
広家のご内意のほども知らぬまま、清正から差し上げようとは言い出しにくいのだ。
もし、もし清正が考えているように広家も思ってくださるなら、
清正はそれこそ踊りだすほどに大喜びするだろう。
一命をさえ投げ打って協力したいと心の底から願っているので、何かおかしな企みがあるあるわけではない。
山県殿、このことをよくよく理解して、どうかうまく申し上げてもらえないか」

山県清右衛門はこれを聞いて、
「なんと、清正公はそのようなご内意でいらしたのか。
広家に申し聞かせれば、身に余るご芳志を喜ぶはずだ。
あなたのお話になったことは、この私がしっかりと心得て、すぐに話を通して参ろう」と立ち帰り、
広家様へこのことを話した。

広家様は「私も清正のババラはすばらしい馬印だ、どうにか譲っていただきたいと思っていたところだ。
しかし私など半ば狂ったような男だから、色を変えたとしても、
同じ意匠を用いるのは許されないと思っていた。
願ってもしかたがないと思ってこれまで過ごしてきたのだ。
それを、清正がそんな風に考えていてくれたのなら、私の胸中の気後れも晴れた。
このことを並河に伝えよ」と言う。
山県は翌日、また普請の現場に行って並河を待っていると、すぐにやってきた。

ひとしきり時候の話題を終えて、山県は
「それで、昨日仰っていたことを広家に伝えたところ、
『以前から望んでいたことだ。とりわけ、清正が水魚の約束を交わす印と仰ったというのは、
実にありがたいお心だ』と、このことをきちんとあなたにお伝えするように、との内意だった」と話した。
並河は「主計頭の気持ちをお伝えして、広家がご納得されたとは、清正も喜ぶことだろう」と、
夕方に自陣へ帰ると、清正に山県の返答を伝えた。

「では広家も前から私の馬印が欲しいと思っていたのだな。うんうん。
そうでなければ、今回私がこういう申し出をしたからそう答えたのかもしれないが、それでもいい。
こうなったら並河よ、広家の陣へ行ってこの清正の所存を、仲良くしている山県まで、
『清正の申し出を聞き届けていただいてありがたい。
清正は広家のご内意を聞いて、確かに承知し、たいへん喜んでいる。す
ぐに馬印を差し上げに参ります』と言え」

清正にこう急かされた並河は、広家様の陣所に赴き、また山県を呼び出して顔を合わせると、
言い含められたとおりのことを伝えた。
広家はすぐに並河に対面し、「清正のお申し出にたいへん感謝している」と丁寧に謝辞を述べて、
清正に宛ててこの通り返書をしたため、
きっとそのうち並河がまた馬印を持ってやってくるだろうと待っていた。

清正は自分の陣所で並河の帰りを今や遅しと待っていたが、並河が大急ぎで帰ってきて
「このようなお返事でありました」と言うのを聞くと同時に、
ババラの馬印の台を持たせ、自身は馬にまたがり、加藤右馬允・並河金右衛門尉、
そのほか手回りの若党を二、三十人ほど引き連れて、広家の陣所へと向かった。

「主計頭がババラの馬印をお持ちいたしましたぞ」と、案内役に告げる。
広家も丁重に出迎え、まずは陣所の内に招き入れれれば、清正もそれに応じて内に入り、着座した。
右馬允・金右衛門は庭の上でかしこまっていた。
清正が持たせていたババラの馬印を「ここへ」と命じると、並河が持って近寄った。
そして自らの手でこれを持って広家に渡すと、広家もそのまま受け取って、
「ご芳志の至り、かたじけなさは海山に比べても比べきれませぬ」と感謝を重ねた。

その後、饗膳を取り揃え、右馬允・金右衛門たちもその座に招き入れて、
陸産・水産の嘉肴珍味を尽くし、終夜酒宴を催した。
「弓八幡」をはじめとして、囃子も三番あった。
清正はひどく寄ってしまったので、ずいぶん遅くの明け方ごろに別れを告げて帰っていった。

このときから清正のババラは白く、広家の馬印は赤いものになった。
この二人は、武勇の面でも優劣つけがたいが、清正も広家もともに「師の卦」であったという。


以上、テキトー訳。

清正……おそろしい子……!(白目)
立派なお髭のイケメン武将なのに、思考回路は実に少女マンガのヒロイン風なんよね。
「あの方のお気持ちがわからない、わからないのよ……っ!」と
涙の粒をきらめかせながら小指を立てて走り去る清正を想像しましたwww
並河が帰ってくるなり馬印を自ら届けに行っちゃうとことか、
このころは取次役介した授受が基本なのに自分の手で広家に渡しちゃうとことか、
泥酔しちゃうとこもメチャかわええ~~~(*´∇`*)ハァン
あまりの嬉しさに尻尾振りすぎてバランス崩す犬みたいw

対する広家も「紫のバラの人」みたいなイケメンオーラがぷんぷんだな^^
いやこの場合、「赤いババラの人」か(うまいこと言ったつもり)。
清正の相手してて酔いつぶれたと書いてないってことは、広家は酒強かったのかもしれないね。
毛利家は元就が下戸だったらしいので酒のイメージがあんまりないけど、
輝元は酒好き確定っぽいし、広家も黒田長政・福島正則・立花宗茂あたりと仲良くしてて
酒に弱いってのは考えづらいよな。
まあ普通に外交やってて、酒に弱いとやってけない気がするよ、豊臣政権。

しかし並河、「それとなく話題にしてくれ」って言われてるのに、
清正の赤裸々なトキメキ☆まで大暴露しちゃっていいの???
まあ結果的に問題なかったっぽいけど。
これ、小中学生の女子が「気になるアイツが私をどう思ってるか、さりげなく聞き出してくれない?」
と仲いい友達に頼んだりするけど、そんなノリだよね。
その頼まれた友達が、噂のアイツと仲のいい男友達にうっかり
「あの子アイツのこと好きみたいなんだけど、アイツはあの子のことどう思ってるのかな?」
ってズバリ言っちゃうようなもんだよね。ドストレートだよ。さりげなくねえwww
結果的に両想いだったんだから、ウフフ、オッケー☆なのかしら。

あー。陰徳記の清正、キャラ濃くておもしろいわぁ。
次回は打って変わって、かなりギスギスしそうなお話。
2012-03-13

広家先輩まじパネェっす!!!

粕汁も食べきっちゃったし「毛利公」も飲みきっちゃった。
これから何を支えに暮らしていこう……てまあ、普通に「陰徳記」が心の支えなんだけどね。

さて前回のあらすじ:
普請途中の蔚山が明・朝鮮連合軍に取り巻かれ、
小勢ではあったが、朝鮮に渡っていた諸将たちが救援に駆けつけた。
決戦は明日と決まり、送れて駆けつけた広家も、明日の陣立てに同意した。


蔚山の城の後詰、並びに大明勢敗軍のこと(下)

さて黒田・蜂須賀などの先陣の兵たちは、唐勢は弓馬の達人なので無二に駆け入ってくることもあるだろうと、
馬の足をつまずかせるために、若松の裏を三尺・四尺ほどに切り、左右に枝をつけ、
足軽たちの手に手に持たせようと支度をしていた。

広家様は渡し口の方にある山の上に登り、「ここに陣取ろう」と馬から下りて、
しばらく敵陣の様子を見渡していた。手の者に身かって、
「なんだか敵陣は騒がしくしているようだ。もしかしたらここの陣を引き払うつもりなのかもしれない。
大軍の引き際は、必ず裏崩れするものだ。敵の後陣によく目をつけてみろ」と命じた。

そして敵の後ろの陣山を見ていると、小荷駄隊に物を背負わせて人々が帰ろうとしている。
広家様はこれをいち早く見つけて、二宮兵介・二宮勘太夫らに、
「敵が退却していくぞ」と言うと、二人は「確かに」と答える。
いざ一番に追い打ちをかけようと、馬を引き寄せて背にまたがり、さて出発しようというときに、
安国寺瓊西堂が広家様に会うためにやってきた。

安国寺は広家様の様子を見て、
「広家殿にはもののけでも憑いて狂ったのか。戦は明日と決まっている。軍法違反は許されないぞ。
そのうえ百万以上の大軍に、たった二十騎や三十騎で駆け入り、犬死すれば、
敵に利をつけるどころか永代の瑕疵ともなろうぞ!」と荒々しく制した。
広家様は「安国寺、軍法にはくちばしを突っ込むな。
あなたは施餓鬼のやり方や仏法修行のことだけを考えていればよい。
戦のことは武士に任せておれ」としたたかに罵倒して、馬に鞭をくれ、全速力で駆け出した。

諸軍が「あれはなんだ」「どういうつもりだ」と言っているうちに、河水へと打ち入っていく。
人は皆これを見て、「見ろ、吉川が川を渡っていくぞ」と言うやいなや、
我先に負けじと河水に入って渡りだした。

吉川侍従は一番に川を渡った。
小山の尾を駆け回って見渡すと、すでに敵は一人残らず退却を始めていたので、
逃がすものかと、馬をせかして追いかける。
黄印の河南勢の後陣らしきしんがりの部隊の中に駆け入れば、
鉾を持ち直して懸かってくる兵を馬上から突き落とし、とどめに首を押し切る。
続いて今田玄蕃允・森脇作右衛門もそれぞれ敵を討ったが、その隙に敵は足早に逃げていった。

ここに垣見和泉守が駆けつけてきたので、広家様は「垣見、見たか」と声をかける。
垣見は「ひときわ見事でございました」と感嘆してから、馬を進めて敵にかかっていった。
二番に早川主馬が駆けつけ、広家様が「主馬殿」と声をかけると、
早川は「一番駆け・一番高名、比類なきことでございます。
しっかりとこの目で見届けましたので、太閤にご報告申し上げましょう」と言った。

その後、毛利伊勢守(高政)が出てくると、広家様は先日出し抜かれて船で蔚山に先行されたのを憎々しく思い、
「伊勢守よ、もう敵は一人もいないぞ。
無駄に馬の足を疲れさせるより、これからお帰りになられるがいい」と言った。
伊勢守は「広家は早いご到着だったな。高名お見事」と答えて駆け過ぎていった。

ここへ黒田甲斐守が騎馬兵六十ばかりで、右の方の山から駆け下りてくる。
広家はそれを見て、「甲斐守殿」と声をかけると、
黒田は「広家は何を見切って、こうして一番に駆け入ったのか。
もう敵は退却したけれども、もう少し追いかけてみる」と、馬足を速めて追いかけだした。
敵はすばやく退却したので、その日の首級は四、五百にも届かなかった。

諸将はやがて一同に会し、
「それにしても広家は、何を考えて一番に懸かっていったのか。
この働きで蔚山の城を保全できただけでなく、我が勢が大勝利を得られたのは、
実に広家の武功のおかげだ」という話になった。
広家様が「こういうわけでとっさに切りかかったのだ」と答えると、
皆「よくぞそこに気が付かれた」と大いに感心した。

その後、熊谷内蔵丞が「唐勢はまだ遠くまでは退いていないだろうから、
これからあとを追って皆殺しにしてしまおう」と言と、垣見・早川が「もっとも」と同意する。
蜂須賀阿波守は、「こうした大軍が退却したことこそ味方の勝利だ。
このうえ、わずかな勢で跡を追ってもしようがあるまい」と言ったが、皆強く追撃を主張する。
阿波守は、「我らは日本では小身で、
石にたとえれば石垣を築くときに大石の間に詰める五郎太石のようなものだ。
しかし今、この地では三千の手勢を持っている者はそういまい。多く人数を持っている方だ。
実に鳥なき島の蝙蝠というやつだろう。皆、五郎太衆の言うことは、膝より上には上げないものだ」と言う。
熊谷は大いに腹を立て、「そんなことはどうでもいい。我らは丸腰でも追いかけるぞ」と、
物騒な目つきになって、文句があれば出てこいとばかりに挑発した。

黒田甲斐守は押し鎮めようと、
「阿波守、そう構うな。この甲斐あたりが行かなければ、追いかける者はあるまい。
五十騎や百騎で行ったところで何になる。勝って兜の緒を締めよとは、まさにこのときだろう。
そうではないか、広家。こんな役にも立たないことを口任せに言っても、何の益もあるまい」と言う。

広家が「甲州の言うとおりだ。さあ、皆も、阿波守・甲斐守の意見に従おう。
この広家に免じて、ここは鎮まってくれ」と言うと、
熊谷・早川・垣見も「今日の合戦での軍功は広家が一番だ。では広家の言うとおりにしよう」と、
皆それぞれの陣に帰っていった。


以上、テキトー訳。おしまい。

はっはっは。たった二、三十騎で切りかかられて大崩れする大明軍てどんだけ。
いやしかし。いやしかしかっこいいぞ、広家。惚れそう。いやもうとっくに惚れている。
安国寺とのギズギス対立、楽しいです!
ngmsとの息の合った仕切りっぷりもお見事です!
もうね、「俺に免じてここは皆鉾を収めてくれ(ドヤァ」とかね、偉そう! 何様!!!(褒めてます)

森脇作右衛門の名前も出てきたねー^^ 広家に唯一殉死を許された家臣。
二世・三世を誓い合った主従って、ホント滾るよね!
聞くところによると(現地の学芸員さんの話を聞いた人からの又聞き)、
作右衛門は隆景と同じくらいの歳じゃないかと見られてるそうだ。
吉川家文書の功臣記録では、作右衛門の名前が初めて出てくるのが朝鮮出兵だから、
もっと若い家臣だと思ってたよ……でもいつも広家のすぐそばにいたと考えれば、
高名の機会がなかなかめぐってこなかったのは理解できるかも。
大将が前線にさらされるって、なかなかあるものじゃないしなぁ(黒田家は除く)。

ああしかし、朝鮮編だけでも「マンガで読む陰徳記」みたいに大衆化してくれないかしら。
きっとものすごく面白いと思うんだけどなぁ。
とか言う前に私は小説とか今の戦国マンガとか、もっと積極的に読むべきだよね。
「へうげもの」すら未読……だ、と?
まあ陰徳記も当時の小説には違いないか。うん。

次回は清正の馬印の話だよ! ちょっぴり有名なエピソードktkr!
ていうかね! ちょっと先行して読んだらね! 清正が超絶かわいかった!!!!!!
広家が可愛いのは常識です(キリッ
2012-03-12

蔚山、待ってろ、落ちるんじゃないぞ!

二日目の粕汁が美味すぎる……!
すべて五橋の酒粕と岩国レンコンのおかげです(すっかり信者)。
しかし明日中にはコレ食いきってしまうな。しょんもぅり。

さてこれまでの流れ:
明は和睦したいって言ってきたのに、油断した日本軍の隙を突いて
普請真っ只中の蔚山城に大軍で攻めかかってきやがったよ!
急遽加藤(清)が入城して持ちこたえたり時間稼ぎしたりしたけど、なんかそろそろ限界かもしれないよ!


蔚山の城の後詰、並びに大明勢敗軍のこと(上)

蔚山城が大明の軍勢百二十万騎に稲麻竹葦のようにびっしりと取り囲まれ、
近日にでも陥落しそうだという報告が、西高麗へと櫛の歯を引くようにもたらされた。
日本の諸将は援軍に駆けつけようとしたけれども、このときの日本からの派兵はごくわずかなものだった。
太閤秀吉公が「わしは大明の帝王と和睦した。今は高麗で戦うべき敵はいない。
軍勢を少し残してとどまらせ、三韓の地を守備せよ」と、諸将を半分以上帰朝させてしまったからだった。

高麗に残っていた人々は、まず毛利宰相秀元卿が、中国勢三万騎を率いて後詰に向かった。
これは今回、輝元卿に代わって高麗に渡ってきたのだった。これが初陣だったそうだ。
蜂須賀阿波守・黒田甲斐守(はじめ吉兵衛尉という名だった)・鍋島加賀守・山口玄蕃允たちも、
二万五千余騎で蔚山表に駆けつけた(慶長三年正月二日)。
大河を隔てて手前の山に陣を取る。

黒田勘解由入道如水は、太閤秀吉公が
「予の天下を手にしようとうかがっているのは黒田勘解由入道めだ」と常に言っていたが、
今回は「朝鮮の戦の評定をするように」と、再び渡海させていた。
その真意は、「黒田勘解由が日本にいては面倒なことになる」と思ってのことだったという。

如水は、さすがの胆の大きな太閤さえもが恐ろしい者だと思うほどの、智勇全備の良将であるがゆえに、
ここに駆けつけて、諸将に向かって
「日本勢の数はあまりにも少ない。一ヶ所に陣を構えて、勢の全容を敵に知らしめるのはあまりにも稚拙だ。
後ろの山に控えて、小隊を一つずつ次々に山上に打ち上げ、
なおも後から大勢が続いているように見せかけなさい」と助言した。
皆これをもっともだと考え、一隊ずつ次々に陣を移した。

小早川金吾(秀秋)は釜山海の城にいたが
「皆と一緒に城を明けて蔚山に向かってしまえば、
その隙をうかがって敵が舟手を切り取ろうとしてくるだろう。
そうなれば由々しき一大事だ。
金吾は釜山海の城にいて、後口を堅固に守ってください」と諸将が口をそろえて言うので、
山口玄蕃允を名代として差し出し、釜山海の城を守っていた。

それを石田治部少輔が、太閤へ
「左金吾は敵の大軍に臆して、蔚山の救援に向かわず、なさけなくも釜山海の城で震えていました」
と讒言したので、いったんは筑前の国を取り上げられ、
石田が自分が預かったといって、所務などを我が物顔で奪い取ったという。

吉川侍従広家様は古泉の城にいたが、蔚山の様子が知らされてきたので、
茶碗の城にいた毛利伊勢守(高政)に飛脚を飛ばし、ともに蔚山に向かおうと呼びかけた。
伊勢守が固く約束してきたので、広家が五千余騎を率いて茶碗の城まで打ち出てみると、
伊勢守は約束を違えて、自分の弟を一人城に残し置き、
「広家と一緒に来い」と言い捨てて、自分は舟に飛び乗って、海上から蔚山に向かおうとしていた。
しかし伊勢守は急に変わった風向きに難儀して海上を漂ったのだった。

広家様は伊勢守に出し抜かれたと激怒して、翌けて慶長三年(戊戌)正月朔日に、
カドガイの渡しに到着した。
その河水の氷は固く閉ざされていたが、年越しの夜間の風が温かだったのか、
朝吹く風にも氷が解けて、なかなか氷上を走って渡れるほどでもなかった。
また舟が自由に往来できるわけでもなく、ようやく舟一艘が通れるような状態だった。

帰るときはまた帰るときで考えればいいが、大勢を一度に渡河させることができない。
広家様は馬一頭と旗本の勢二、三十ほどを連れて舟に飛び乗り、その夜遅くに釜山海に着き、
翌二日にセツガイに着いた。
同三日の午の刻(正午ごろ)に蔚山に到着し、その足で太夫秀元様の陣所へと向かった。
秀元様はすぐに対面して、軍評定などを行った。

広家様は、並み居る中国の侍大将に向かって、
「この陣の取り方を心得ておいてほしい。
敵陣に近いようでいて近くはなく、見渡してみればわずか三町前後だが、
いざ敵と一戦となれば渡し口に遠いから、人に出遅れることになろう。
もう少し渡し口に近い場所に陣取ってくだされ。
ただ敵陣に近いところをと心がけたところで、渡し口からの遠近を
思慮のうちから外してしまってはいけない」と言った。

熊谷豊前守(元直)は声高になって
「私もこのことを皆に申したのだ。
私などはこれという高名はないけれども、先祖の次郎直実以来、数代にわたって勇を顕してき申した。
そのなかでも祖父の伊豆守信直・父の兵庫助隆直は、中国の地で何度も武勇を顕してきた。
このことはおのおの方もご存知のはず。
私自身も高野山のときから元春・元長・広家の三代の先陣を務めてきたのだから、
武芸の法は身近で見聞してきている。
広家の仰せのとおり、私も皆へ申したのに、私などの申すことと、
気に留める者はいなかったではないか」と言った。

秀元様は輝元卿の名代としてこの地に来ていたが、軍評定を仕切る様子は、
是非・得失の別をはっきりとさせていて、さすが大将の器量だと思えた。

それから広家様は、黒田甲斐守・蜂須賀阿波守の陣所に赴いた。
皆は、「ただいたずらに敵を見守っていたところで、
蔚山の城がかんらくしてしまえばどうしようもなくなる。
明日河を渡って、興亡を決する一戦をしようということになった。
一番には黒田甲斐守・蜂須賀阿波守、二番には鍋島加賀守・山口玄蕃允、三番は毛利秀元様と評定は決した。
幸いにも広家がこの時節に着陣したうえは、思うところがあれば言ってくだされ。
何でも相談して味方必勝の策謀を練りましょう」と言う。

広家様は「皆の作戦がもっとも適切だろう。私の手勢も今日中に到着するはずだ。
もし到着しなくても、ただ一騎だけでも敵陣に切りかかって、
太閤へ身命を捧げ忠戦を貫いてみせよう」と、黒田・蜂須賀と一緒に三人で静かに話を続けた。

「それにしても夥しい敵の数だな」と言えば、
黒田が「先年、江陽表へ打ち寄せてきた唐勢より、はるかに多く見える。
川の渡し口へ向陣を張っている赤印の勢は、日本勢の押さえのようだが、あれは朝鮮人か。
これも二十万騎は下るまい。この勢だけでも太閤が小田原の城を取り囲んだ勢よりさらに多いだろうな。
日本勢一人当たり十人ずつ切り殺してもまだ足りない」と応じる。

広家様が「確かに、目を見張るほどの大軍だ。
しかしながら、敵があまりにも大軍すぎて、これは敗北のもとになるとも考えられないだろうか。
これほどの猛勢では、全軍一致して等しく軍法を適用することなどできないだろう。]
きっと皆バラバラなはずだ。
そのうち、陣中に火事でも起きるか、寝返りでも起きれば、大騒ぎになって鎮めようとしても鎮まるまい。
どんなに制しても大勢が傾いてしまえば踏みとどまることは難しいものだ。
手先の陣に夜討ちをかければ、友軍もともに崩れて、崩壊は止まらなくなる。
敵が三十万程度であれば味方も由々しき難局にあっただろうな。
百万以上の猛勢なら、かえって欺くのは容易いのではないだろうか」と言うと、
黒田も蜂須賀も、「確かにそうかもしれない」と同意した。


以上、テキトー訳。

このタイミングで駆けつける広家、まじヒーロー☆じゃね?
そうかぁ、秀元はこのとき初陣だったか。キツい初陣になったなぁ。
いきなり輝元の名代で、しかも敵の数がありえんほど多い。
負けてもおかしくないって言うかほぼ負ける戦いじゃんね。
さぞ不安だったろう。
そこに颯爽と現れる百戦錬磨の従兄……惚れてまうやろーーーー!
秀元の陣所に行った広家が「待たせたな☆」とか言ってたらキュン死にするわ^^

そして黒田・蜂須賀との会合というか主に黒田!との仲良しっぷりが
個人的にたいへん美味しいです。
長政はホントわんこ系だなぁ。愛いやつじゃ。
蜂須賀さんも中国と中央の取次役で、黒田との所縁もあって、興味深いんだけどね。
如水・長政と広家の仲良さのインパクトにはかなわん。

如水さんもさすがだよね~。
はったりを利かすにも、「敵から見るとどう見えるか」を念頭に置いているあたり、
現代でもマーケティング上手そう。ただしたまに重大なうっかりをやらかす。
慎重でデータ重視の隆景と、ひらめきとコンセプトの押し出しが強いクロカンのコンビで商売させたい。
もれなく競合他社の島津に泣きが入るという情景まで思い浮かべました。

あと、さりげなく金吾のフォローしつつ、相変わらず石田sageてんのは2424するね!
そしてもう一個、熊谷さんの軽んじられぶりが地味に気になる。

次回も引き続き蔚山救援。
ちょっと先行して読んだら、広家が本当にかっこよすぎて生きるのがつらくなるレベル。
2012-03-11

蔚山の攻防

粕汁初めて作ったー。
岩国レンコン&五橋の酒粕入り。岩国ゾッコンLOVE☆
残りの酒粕をどう使おうか思案中。甘酒がいいかな?
あと本日のお酒は山口県限定の「大吟醸毛利公」。
うん、やっぱり五橋の方が好きだな。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
蔚山城の普請に当たっていた諸将たちは、明と日本の和平締結にすっかり油断していたが、
慶長2年12月22日、明・朝鮮の大軍から思いもよらぬ攻撃を受けた。
城外にいた将も多くの犠牲を払いながら場内に撤退し、各所の守りを固めた。


加藤主計頭清正、蔚山に入ること

河南勢百二十万騎が蔚山の城を稲麻竹葦のごとくびっしりと取り巻いたことが、
セツガイへと櫛の歯を引くように報告されてきた。
加藤清正は「私があの城に籠もろう。
城を乗っ取られては、我が年来の武勇は無駄なものになってしまう。
せっかく今生きているのだから、無二に城へと入ってやる。
しかしながら、我が手勢の八千騎をもってしても、陸地からの入城は難しいだろう」と、
兵の多くは待機させたまま、わずかな手勢を率いて船に取り乗った。

夜のうちに蔚山の港に漕ぎついて陸に上がり、
一千余騎で大明勢の十重二十重の囲みの真ん中へとドッと切ってかかる。
大明勢は思いがけず切りかかられて、左右へさっと道を開けた。
清正はこの調子で十重二十重を切り破り、城へツッと入っていった。
「清正の働きは、凡夫の勇の及ぶところではない。神通力でも得たのか」と、
城中はドッと歓声を上げ、「もはやこの城は落とされまいぞ」と、上下ともに大いに心を強くした。

さて持口の支配は、加藤主計頭・浅野左京太夫・宍戸備前守が評定をして、
さらに堅固に構えるように下知した。
外構えが張り出して堪えているところには、敵が平攻めに攻めかかってくる。
城中からは鉄砲をしきりに撃ち掛けて防ぎ戦った。

西の門では浅野左京兆の持口から大明勢がなだれ込んできて、味方は無力に持口を放棄して城中へ引き退いた。
宍戸家の深瀬次郎兵衛尉は自分の持口を去らず、
同様に楢崎吉右衛門・渡辺三右衛門なども一緒に持ちこたえる。
加藤与左衛門が「こんなところで無駄に討ち死にするより、城中へ戻れ」と強く言い送ったので、
深瀬たちはようやく城に戻った。

大田飛騨守は門を守っていたが、扉を開けて味方を中に入れようとしたところ、
大明勢がそこに付け込もうと攻め入ってくる。
これを散々に切り払って追い立て、そのまま門内に引き揚げた。
このとき、神代新三郎という者が討ち死にした。
宍戸備前守も城中へ入れずにいたので、三村紀伊守と宍戸の郎党の末兼土佐守が追っ手に突き掛かり、
大明勢が怯んで少し後退した隙に、宍戸備前守はすばやく門の内に入った。

さて本丸には加藤主計頭・浅野左京太夫・大田飛騨守、二の丸には宍戸備前守が籠もり、
三の丸には宍戸勢の一組、そのほか中国勢を籠もらせようということになったが、
普請がまだ途中で、塀も格子も出来上がっていない。
そこにわずかな勢で籠もったところで、大軍を引き受けて防ぐことなどできはしないので、
自分から立て籠もろうと名乗り出る者はいなかった。

宍戸備前守が「なぜ皆三の丸へ籠もろうとしないのか。
これまで受けてきた主君の恩賞は、こうした場所で身命を投げ打ってこそ報謝できるというのに、
まったくどうしようもない」と言うと、
口羽十郎兵衛尉・和智少兵衛尉が進み出て、
「我ら二人が籠もって戦死してまいります」と、すぐに三の丸に向かっていった。
日野上総介もこれに続いた。

こうしたとき、吉見大蔵太輔の家之子で吉見四兵衛尉という者が
「大蔵がこれから三の丸に立て籠もります。
後日のためですので、よくお聞き届けください」と言い捨てて三の丸に向かっていった。
三刀屋監物も負けるものかと進み出たので、三の丸はなかなか堅固な備えとなった。
口羽十郎兵衛尉は、門の構えが十分でないので、木々を結い集め、竹を束ねて掻きつけて、
門の構えを堅固にし、鉄砲を引っ掛けて待ちかけた。
日野・和智たちもそれぞれの持口で緩みなく控えている。
三刀屋監物はそのなかでは古兵だったので、走り回って下知を飛ばし、働いた。
寄せ手は入れ替わり立ち代り、隙間もなく攻め上ってくる。城中も、ここを先途と防ぎ戦った。

同二十四日、宍戸は手の者から足軽五百人を選りすぐり、
渡辺壱岐守・難波信濃守を歩兵の将として、敵陣に夜討ちをかけた。
一人が数人ずつ敵を切り捨てるも、大軍を破ることもできず、城中へと帰ってくる。
唐勢も、真っ先に応戦に出た百や二百の兵たちが、最後尾の城兵の帯に追いすがって、
一筋に続いて石垣を這い登ってくる。

鉄砲で射落として鑓長刀で突き落とせば、またその後から攻め上ってくる。
上れば切り落とし、切り落とせばまた上る。
少しも死を恐れず、太鼓を打ちつつ、一時の間は息も継がずに攻めてきた。
やがてまた、鐘を打ち鳴らして引いていった。

こうして引いていかずに、半日ほどもひたすら攻めかかられれば、
城中は小勢なので、たちまち息を切らして防ぎ戦いようがなくなるというのに、
唐勢は一時攻めて一時休んだ。
その隙に城中も兵糧を食い、水を飲んで休息できたからこそ、城を持ち堪えることができた。
しかしすでに諸軍勢は疲れ果て、時間が経つごとに目に見えて浮き足立ってきた。
加藤主計頭清正が本城に入り、具足を解いて広袖の赤く染め抜いた夜着をつけ、
楊枝をくわえて何ともない風情でいる姿を見て、城中はようやく静かになった。

寄せ手が昼夜の境もなく攻めてくるたびに、切り伏せ突き伏せしていたので、
鑓や刀の刃はササラ鋸のようになった。
そのうえ鉄砲の弾薬も乏しくなってきたので、石垣のために集め置いていた石を使って数人を撲殺し、
石垣を登ってくる敵には砂を炒って蒔く。
唐人は弓を持って馬に乗れば自由自在に動き回れるが、
太刀・長刀・槍を合わせる手詰めの勝負は不得手なようで、
我が国の兵一人に二十人で向かってきても太刀打ちできない。

そうでもなければ、日本勢がいかに名将勇士ぞろいとはいっても、たった八万や十万騎で、
どうして唐勢百二十万騎に勝てたというのか。
唐勢が臆して死を恐れたわけではない。
死を恐れない心は日本勢にも勝っていたけれども、
手詰めの勝負を決することが、先に言ったとおりなので、日本の僧や町人にも劣り、
手ぬるい働きとしか言い様がなかった。
だからこそ、いつも日本勢が寡兵で大軍を挫くことができたのだ。

清正は軍評定の場で、「この城は兵糧と弾薬が足りない。
無二に切り抜けて、セツガイの城に籠もるべきか」と問いかけた。
宍戸が「セツガイまで九里も退いてしまうのはどうかと思う。よく考えたほうがいい」と言ったので、
清正ももっともだと思ったのだろう。切り抜けるという案は実行されなかった。

大明勢の先陣には日本人が二人いた。
一人は岡本越後守といって、もとは清正の家臣だった。
一人は田原七左衛門といって、宇喜多秀家の郎党だった。
二人ともとある事情があって大明に寝返ったが、この者たちが同二十七日の朝、
馬に飛び乗って城の近くに駆けてきた。

「鉄砲を止めてくれ。城中へ申し上げたいことがある」と呼びかけると、
城中は「あれを聞け」と弓・鉄砲を撃つのをやめて話を聞く。
「我らはは先年、清正の家中におりました岡本越後守、
宇喜多黄門の家人であった田原七左衛門でございます。
こたびは、河南勢百二十万騎の先陣に加わって、ここまで参りました。

いかに清正が大勇将でいらしても、この城に籠もる兵を地の広さから類推しますに、
わずか二万騎にも及ばないはずです。
その人数では、大明勢百万騎にはとてもかなわないでしょう。
昔の主従のよしみは未だにほんの少しも忘れておりません。
御一命をお助けしたいと思います。
まず和睦をなさってこの城を明け渡していただければ、下々に及ぶまで、
命にかかわらぬように取り成しをいたします」

清正はこれを聞いて、「これは天の加護だぞ。
きっと日本勢の後詰があるはずだが、到着まで鉄砲の弾薬も続くまいと思っていたから、
これは好都合だ。それに兵たちも疲れている。
息を継ぎ、体を休めることができる。これはこの城の運を開く神助に違いない」と考えた。
「では二人を頼ることにしよう。城を明け渡すことはできないので、ただ互いに和睦を結び、
人質を取り交わし申そう」と返事をすると、大明からは「城を渡すように」としきりにせっついてきた。
これで二十七日から二十九日までは交渉のみで合戦はなかった。

さて岡本・田原がまた駆けてきて、
「主計頭が城より出てきて、我が軍の将と対面したうえで和睦のことを礼謝してくだされば、
大明勢は諸軍を引き揚げて帰ります。
もしそうしなければ、和睦はできません」と伝えてきた。
主計頭は「この城は普請もなかばで、兵糧・弾薬が乏しく、あと十日も籠もっておられまい。
となると、まず一旦和睦をするのが、城を守る策略になる」と考え、
互いに小勢で会見し、対面しようと約束を交わした。

さて三十日の朝の辰の刻(午前八時ごろ)、加藤主計頭は大明勢の陣へ赴こうと、
手勢百余人を連れて門の外へ出た。
しばらく敵陣を見てみると、城と寄せ手の中間に四、五間ほどの仮屋が建ててあり、
その上を何とも形容しがたい色合いの、つややかに光って辺りを照らすような
唐の織物らしき物で覆って目隠しにしてあった。

清正はしばし門の外に立って、敵陣の様子をうかがっていたが、何を思ったのか、
「和平は破れたとしても敵陣へ行くべきときではない」と、やがて門の中へ入ってしまった。
「和睦の条件には相違するが、大明の陣へ行くことはできない」と返事をすると、
大明勢は怒り狂い、晦日からまた鬨の声を上げて昼夜の別もなく攻め懸けてきた。


以上、テキトー訳。

攻城戦とか野戦に比べて、城の守備戦てのはどうも嫌な汗が滲んでくるね。
引くにしても、一旦押し返してから門に引き返すってのは、着実なんだろうけれども被害がハンパなかろう。
きっついなぁ。一番きっつい三の丸に志願した人たちはホントすごいと思うよ。

「も、もう俺たちダメなんじゃね?」「に、に、に、逃げ出しちゃおっか」となってる城内を、
寝巻き姿の披露で黙らせちゃう清正たんテラスゴス。
これを考えると、真っ先に逃げ出す大将(山名豊国とか大友義統とか)は、
小者・足軽ごときの分別って言われてもしょうがない気がする。
しかし赤い襦袢の清正とか想像すると鼻血出そうだなwww

和睦会見を蹴ったのはなんでだったんだろうね。
密室で取り巻かれて殺されるかもしれない、という予感が強くなったからなのか、
そろそろ後詰が来ると見切ってのことだったのか。
陰徳記の描写のし方だと前者だよなぁ。
清正で保ってる城内だから、清正が殺されたとしたら、あっという間に崩れるだろうし。

うーん、そんなわけで次回は蔚山救援に向かう諸将の動き。
個人的に待ちに待った秀元の登場だぜぃ!


末筆ながら、今日は東日本大震災から一年経った日なわけだけど、
大内義隆の辞世の句の下の句を思い出したよ。
「如露亦如電 応作如是観」
露のごとく、また雷のごとし。まさにかくのごとく観をなすべし。
「金剛経」の一節だそうだ。
命は儚く消えるもの。それを知ったうえで、明日を生きたい。
受け止めて前に進む。昔からご先祖さんたちがやってきたように、
生き残った者たちとして、明日からもまた足掻いて生きまっしょい!
2012-03-10

蔚山ピンチ!

ついったでつい魔がさして、隆達節のBOTを作ってしまった……
そんな暇あるなら「陰徳記・下」の目次を早々に作れよ、と、脳内の景様に白い目で見られて至福。
目次もね、ホントそろそろ作らなきゃね。
わざわざログをたどってくれている方がいたら、本当に申し訳ないです。

あ、さっき岩国レンコン焼いて食べた。
歯ごたえもあってホクホクのみっしりした食感が最高でした。
明日はかす汁に挑戦せねばのう。

さて今回の陰徳記、停戦中の朝鮮でナニヤラ事が起こっているようですぞ。


蔚山(ウルサン)の城、南兵勢が取り囲むこと

遊撃将軍が和平を請うてきたので、大明と日本は和睦をして、諸人はやっと胸を撫で下ろしていた。
秀吉公は、自ら大明へ攻め入って四百余州を我が手に従え、
後陽成院様を大明へと遷御させて帝王として仰ぐつもりでいた。
また関白秀次公を大明でも関白とし、毛利輝元卿・宇喜多秀家卿を左右の大臣として、
そのほか西国の大名たちをすべて大明へ渡らせて、
彼らが領していた国々には自分の旗本の武士たちを置こうと考えた。

これを発表すると、西国の大名たちはこれを聞いて、いまさら見たこともない唐土に入れられるのは、
戦功の恩賞ではなく、ただ遠流の刑に処せられるのと同じだと嘆いていたが、
遊撃が和平を申し出てきたのでホッとしたのだった。
大明と日本が和睦すると、朝鮮に軍を駐屯させていても意味がなくなって、
三奉行をはじめとして、多くの大名が帰朝し、中国・九州の大名からわずかな兵が残されるだけとなった。

さて蔚山の城を築いて加藤主計頭を籠め置くことになり、
同(慶長二年)十月から鍬初めを行い、ひしひしと昼夜の別もなく築城を急ぐ。
上方衆では浅野左京太夫(幸長)、普請の奉行には大田飛騨守(一吉)、
中国の毛利家からは宍戸備前守(元続)、そのほか吉見大蔵大輔(広長)・日野上総介・
冷泉民部太輔(元満)・阿曽沼豊後守・三村紀伊守・口羽十郎兵衛尉・
和智少兵衛尉・都野三左衛門(家頼)などが、普請のために差し出された。

大明とは和睦しているので、もう何も起こらないだろうと、用心を緩めて張番も物見も出さず、
すっかり油断していた。
大明が遊撃を通じて和平を請うてきたのは謀略だったのだろうか、
慶長二年十二月二十二日の卯の刻(午前六時ごろ)、漢南兵勢に高麗勢が加わり、
百二十万騎が蔚山表へ攻め懸けてきて、先陣が日本陣に切ってかかった。

浅野左京太夫は城中にいた。
城外には中国勢がいたが、敵に一番近い位地には冷泉民部太輔・阿曽沼豊後守・
都野三左衛門などが陣取っていた。
思いもよらず明け方に、敵が数百で夜討ちを仕掛けてきてもいかんともしがたいものだが、
ましてや数万騎で切りかかってきたので、雑兵たちは
城との間を分断させられる前に城中へ入ろうとして、乱れに乱れて物の役にも立たなかった。

冷泉民部は名高い剛の者だった。鎧を取って肩に掛け、そのままで切って出る。
都野三左衛門・阿曽沼豊後守も少しも騒がず、向かう敵に切ってかかった。
そのほかも、中国勢は敵を打ち破ってから城に入ろうと、少し突き退けたところで城中に非難した。
阿曽沼・都野は追っ手を切り払いながら城の近くまで来たけれども、
いくら切っても突いても、敵は猛勢なので足を止めることもできず、ついに討たれて死んでしまった。

冷泉の父の判官隆豊は、長門の国の大寧寺で大内義隆に忠死を遂げ、
兄の五郎元豊は、豊前の柳の浦で戦死したが、親・兄ともに、世に類なき勇士であった。
だからなのか、民部もまた無双の剛の者だったので、城には入らずに一文字に敵に切ってかかり、
自身の陣所より二町も三町も敵の方に切り入ったまま討ち死にした。
世が明けて冷泉の戦死したところを見れば、
討ち死にした唐人たちの死体が塚を築いたかのように積みあがっていた。

宍戸の手勢でも、深瀬次郎兵衛尉・末兼土佐守・渡辺壱岐守・難波信濃守たちが、身命を投げ打って防戦した。
江田市兵衛尉・江田弥六・蔵田三蔵・山路惣太郎・井上又六・児玉五郎兵衛尉・万代彦右衛門・
大垣左吉・若林新三郎・木口二右衛門・板花利兵衛尉をはじめとして、数百人が討ち死にした。
宍戸備前守はその隙に十死を逃れて城中に入ることができた。

吉見大蔵太輔は、そのときまだ十五歳だったが、兄の次郎兵衛尉が病死してしまったので、
今回初めて戦場に赴いた。祖父正頼の勇を受け継いだのか、味方が大勢討たれて、
皆前後を乱して城中へ入ろうとするなか、吉見は少しも騒がずに、手勢の五百騎に下知をして、
切り返して突き退けた。
吉見が唐勢の先駆けを一手に引き受けて追い返したので、味方も安心して城中に入ることができた。
吉見がこうした勇を成さなければもっと味方が討たれていただろうに、末頼もしいことである。

浅野左京太夫も諸軍勢に下知して、城を敵に奪われないように立ち働いた。実に立派な将である。
大明勢はこのときの勢いで城に攻め入っていれば、城はすぐに陥落しただろうに、
夜討ちの勝利に気を良くして、やがて本陣へと引き返し、陣をかまえた。
城中は次々と持口を固め、諸軍士は息を継いで体制を整えた。


以上、テキトー訳。

和睦交渉をしていても、現地の軍勢は上に従わず……てのはしょうがないよな。
そんなわけで有名な蔚山の攻防に突入したね。
はっはっは。百二十万騎とか、まじで正矩はお茶目さんだなぁ。

宍戸さん! いつも影の薄い宍戸さんが活躍してるよ! ヒャッホウ!
元続は関ヶ原でも広家と一味して、東軍への内通に一役買ってるんだよな。
元続の父、元秀は「病弱など」を理由に廃嫡されて、祖父隆家から元続へと家督が譲られたんだね。
隆家の死が文禄元年かぁ。父の元秀も慶長2年没。
マジで毛利の頼りになる実力者がこの期間に次々と死没してんのな。熊谷信直もな。
その次の実力者世代が、広家・福原広俊・益田元祥・宍戸元続・熊谷元直といった
同じような年齢(ほぼ1560年近辺の出生)の世代だったのは興味深い。あと元康や秀包も。
吉川にとって、関ヶ原で意見が足並みそろえた宍戸は盟友じゃないのか、とも思ったけど、
この人、大坂の陣で佐野道可事件に深く関わってるっぽいな。
大人の世界はいろいろあるんだねぇ。いえ私も年齢だけなら立派な大人ですけどもね。

あと吉見氏も活躍してるね。
吉見さんとこは、正頼が元就に属してから、子の広頼が隆元の娘を娶り、
隆元の娘が死んで(1571年)から内籐氏女が後妻に入って男子が生まれ、
今回出てきてる少年はその次男の広長、で合ってるよね。
この広長が輝元とそりが合わず、1599年に出奔→帰参→粛清という末路になるけど、
吉見氏自体には広家の子の彦次郎が養子に入ってるから、
そのせいでかっこよく描かれてる可能性もあるね。
結局、彦次郎も吉見姓捨てて毛利姓に復す(毛利就頼)んだけどな。

そんなこって、関ヶ原前後の毛利を支える重要人物がチラホラ出てきて、オラ、わくわくすっぞ!
蔚山救援は吉川大活躍のはずなので期待しつつ、
次回は加藤清正の大活躍みたいなので続けて読んでいく。

清正と浅野幸長も、深い絆があるようなので、ちょっとワクワクですな。
聞くところによると、幸長のトーチャンが息子を朝鮮に送らなきゃいけなくて悲嘆に暮れていたところ、
清正が親代わりになることを申し出たとか。
そして現地で揃って女遊びして揃って梅毒にかかったとかいう話もあるけど仲イイねー^^
浅野のトーチャンと広家は喧嘩したこともあったけど、まあまあ仲は良好だったみたいだし、
後年浅野の家老になった上田宗箇さんと広家・広正は交流を深めてたみたいだし、
浅野さんちにも興味が沸いてきたなぁ。
2012-03-09

朝鮮、再乱

えー……岩国の酒購入してきて、めちゃんこ気分がよいです。
これまでも何度かアレコレと、山口のアンテナショップで購入してきたんだけど、
今日立ち寄ったら新酒フェアやってたよ。
ついでに、これまで見かけなかった岩国レンコンもゲットできたよ!
ヤッホーイ! レンコンステーキ食べるぅ! ああでも、煮てもいい!!!
一節は焼いて、一節は煮て食べようかな。酒かすも買ったから鮭も買ってきてかす汁にするとか。
フェアは明日までだってさ。また明日行こうかな。財布の中身がズンズン減っていくぜぇ。

ちなみに私のお気に入りは今のところ、「五橋」「獺祭」。メイドイン岩国。米は呑むものだ。

さて陰徳記。朝鮮が一息ついたと思ったら隆景が死に、そしてまた朝鮮で……。


朝鮮人の鼻を取ること

同(慶長年)四月、太閤秀吉公は高麗に駐屯していた諸将へと使者を遣わした。
「高麗の赤国へ攻め入り、男女とも一人も残さず切り捨てるように」と命じられた諸将は、
すぐにその国へ押し寄せた。
一人も残すものかと撫で斬りにしていくと、
毎日一人当たり十人や二十人ずつ切り殺していった。

その後、太閤はまた朱印状を発行した。
そんなに人寿(人間の寿命、ここでは首?)を絶ってしまったら、その罪も恐ろしいので、
皆鼻をそいで日本へ送るようにと下知するものだった。
諸将が「では人間の鼻を一人につき一つ取ってこい」と軍兵たちに命じると、
仲間に負けてなるものかと競い合って取るようになった。
一人で二十や三十の鼻を取ってくる猛者もいた。

しばらくすると、高麗人たちは手を合わせて
「鼻を差し出すので命を助けてくれ。鼻だけ持っていってくれ」と言い出すようになる。
そんなわけで、赤国には五十年や六十年後になっても、鼻がない人が多かったっという。

こうして取った鼻を塩漬けにして大樽に詰め、日本へと送った。
太閤は大いに感心して、やがて洛陽の大仏の側にこれを埋めて、「鼻塚」と名付けたが、
これは今も存在している。
以前もカク(モクソ?)判官の城を永岡・小野木・長谷川らが攻め損じて負けたことを苦々しく思い、
判官を討ち果たしてからもまだ腹の虫が収まらず、
こうして多くの人々を殺したと聞いている。
その罪はたった一人に跳ね返ってくるものだ。
秀吉公の行く末を危ぶまない者はいなかった。


以上、テキトー訳。

あー。鼻そぎかぁ。やな話だよねぇ。
歴史の授業では鼻じゃなくて耳だと習った気がしたけど、ずいぶん前のことだから忘れたなぁ。
と思ってウィキペディア見たら、「鼻塚ってのは野蛮だから」って理由で
林羅山が「耳塚」と書いたところ、それが広まったとか。
耳でも鼻でも同じことじゃい。変な嗜癖のあるシリアルキラーみたいだよね、秀吉。
ラスボスwwwとか笑ってられないよなぁ。

そんなわけで次回から残りの朝鮮編を読んでいく。
広家とか長政の活躍に期待だね!
2012-03-09

さぁて、今週の「隆景さん」はー?

やっべ。下書きに入れて更新しないまま寝ちゃった。
久しぶりに飲みすぎたな……反省。

前回の記事で書き忘れたけど、「面白の春雨や~」の小唄の作者って、「君が代」も詠んでたんだね。
高三隆達。隆達節が江戸時代を通じて親しまれて、
明治期に外国と付き合うのに国歌を定めなきゃいけなくなってから
「誰も彼もが歌える歌って何だ」と探したところ、隆達節の「君が代」だったそうだ。
こんなところでも私たちと景様や輝元や広家たちの時代が強くつながっているんだね。

今回も引き続き隆景追悼スペサル、エピソード集ですぞ。


黄門隆景卿御在世時の噂のこと(下)

隆景今日はいつも立花では、夜などは侍屋敷を忍びやかにめぐっていたが、
弓を射る声が高らかに聞こえたり、あるいは刀が柄に当たる音などなどがバチバチと聞こえ、
武道の訓練をしている家もあった。
そのほかでも、武士道のことを学んでいる者がいれば大いに感心していた。
また人が寄り集まって話をしているところがあれば、
「これも人に好かれているのだな。侍は人に好かれない無骨者が多いが、
若侍はいい心栄えをしている」と感心する。

またその家の前を通るとき、毎回人の気配もしないような家に住む者を、
「こいつは友達の一人もいないのか。なぜ友人達と寄り合ったりしないのだ」と言う。
ほかに、小唄・三味線・尺八などの音がする家の前では機嫌を悪くした。
この調子なので、人は皆兵道の学問に励み、ちょっとしたことでも悪いことはせず、
道徳の基本理念に到達しようと励んだ。


あるとき、松永弾正久秀が信長公に反逆したことを耳にすると、隆景卿は
「松永の謀反は少しだけ勇み足だったな。すぐに弾正は滅びるだろう」と言ったという。
柴田勝家と羽柴秀吉とが賤ヶ岳の合戦をしたときには、
佐久間玄蕃が中川瀬兵衛尉を討ってそのまま踏みこたえ、その場を取り仕切ったが、
これを聞くと、隆景卿は「玄蕃は次の合戦では打ち負けるだろう。
この戦は勝って終わり、陣を整えて秀吉が勝利を得ても、
五度も十度も手を砕き汗を握る合戦をすることになるだろう。
玄番は若く威勢のいい大将だから、大いに慢心してしまうはずだ。
あれこれと手勢を動かして最終的な勝ちを得る謀略を知らない。
今に見ていろ。すぐに玄蕃が敗北して滅ぼされたと告げてくるぞ」と言ったが、これもまた本当になった。
このほかにも、神通力でもあるのかと思うようなことが、幾千万とは言わないまでも、
それはたくさんあったので、いちいち記さない。

また、自分の命が尽きかけていると兼ねてから知っていたのかもしれない。
このとき長々と病床についていた弟の穂田治部太輔元清に、黄門隆景卿は、「気分はどうだ」と尋ねた。
元清様は「どう言っていいかわかりませんが、次第につらくなってきて、心も弱くなったと感じます。
順番は違ってしまいますが、私のほうが先に参ることになるでしょう」と言う。
隆景卿は「いやいや、おまえより私のほうが先に死ぬだろうと思う。
これから五十日もないだろうな」と言ったが、実際にその言葉通りに逝去してしまった。
不思議なことだ。


その後、林吉兵衛尉梅林・内藤河内守の二人が吉川侍従広家のところへやってきて、
隆景逝去の報を告げた。
二人は嘆きに堪えかねて、しばらく顔すらも覆わずに涙を流し、広家も涙に暮れた。
林・内藤はこう言った。

「元春公が生きていらしたときは、隆景卿とじかに軍評定ができない場合、
私たち二人を使者として話を進めていらしたのはご存知のとおりです。
信長との和睦が破れてから、元春・隆景後兄弟の思うところが食い違うことがたびたびありました。

元春公からは、『とにかく軍評定のことはこう言うように』と言われ、
隆景公のところへと参り、『今度の合戦について、元春はこのように思し召しです』と申しますと、
隆景公はそれを聞いて、
『まったく元春は若武者か。そうでなければ数百ばかりの兵を従える侍大将のようなことを言う。
ややもすれば、敵にかなわぬなら討ち死にするまでだ、ここを去らず敵に攻めかかる、と言うばかりだ。
大敵の秀吉に対して、そんなふうに短気に構えて、勇一途を心がけるだけでは戦の采配など握れるものか。
尼子勝久のような小敵相手なら、それでいいんだが』と仰います。

元春公の仰せは隆景公の賛同を得られませんでしたが、我らも隆景公の仰せこそがもっともだと思い、
そのとおり元春へ申し上げました。
元春公はまた気分を悪くされ、
『隆景は武の道をわかっていないのだ。どうして勝久ごときの小敵と同じだなどと思っているものか。
勝久のような小敵には負けない工夫をして、いかにも堅く身内の兵を大事に心がけて戦えば、
敵は小敵だからこそ次第に威勢も衰え、いつかは敗北するものなのだ。
小敵には気を引き締めて当たるのがいい。

さて信長を敵として、秀吉と戦うとなった。
ただでさえ大敵強敵、さらに秀吉は大強将であって、智もまた兼備している良将だ。
とりわけ大胆な将で、敵がたじろいでいると見ればあっという間に攻め破り、
その足を止めず、数カ国を一気に攻め取ろうとする戦上手だ。
だから秀吉は、父の元就が厳島で陶を討ち滅ぼし、その後二年かけて山口へ入ったのを聞いて、
『元就の戦法も古風なものだ。わしならば陶を討って、その勢いでそのまま山口に攻め入るというのに。
そうすれば大内はその年のうちに滅んでいただろうに、慎重すぎる戦のやり方だ』と批判したそうだ。
こうした不敵な将なのだから、こちらに少しでも弱気が見えれば、
武威に任せて大軍でメタメタに攻めかかってくるだろう。

こうした大将が大軍を率いてやってきたのだぞ。こうした将が、しかも大軍を率いているのだ。
今回は、武勇を存分に見せ付けて敵の機を奪い、
何かあれば十死一生の戦いを遂げる覚悟だと敵に示すのが適切だ。
それを小敵と同じように考えて、危ないことは慎むべきだ、ここは生き延びることを優先すべきだ、
などとばかり思っていたら、敵に勝機を奪われ、味方が不安になって、
決戦で刃を交えないまま大敗するものだぞ。大敵に対しては、勇ましくするのがいい。

父元就だって、尼子を追い詰め出雲に入ってからは、
戦は後回しにして、まずは謀略を練り、陣城で寝そべったままで戦を左右した。
陶のときには、二万の敵に対して見方はたった三、四千で立ち向かったのだ。
それどころか、厳島に自ら渡って無二に戦い抜いたのだ。これこそがよい鑑だろう。

秀吉のような敵を勝久と同等に考えて、自分の身が危ないからといって身を慎んでいたら、
しまいには戦わないまま大敗を喫すことになってしまう。
いつもどおりの作戦などというものはなく、常に変動して敵に合わせて戦い方を変える、
というものではないか』
こうお聞きしますと、我が身は愚昧ながらも、またこれこそが道理だと思ったものです。

元春公のもとに参って仰せを聞けばそれがもっともだと思い、隆景公のところで仰せを聞くと、
これも道理だと思えてしまう。
お二人のお考えは、どれもこれも生半なものではございませんでした。
このような明敏な将は、今は一人として残っていません。

この後は、毛利家のことはすべて広家公お一人が御後見なさるのですから、
これは言うに及ばないことですが、どうか肺肝を砕いて尽くしてください。
輝元公の賢才が諸人に優れていらっしゃるので、そうそう危ないことはないでしょうが、
古くから毛利家を支えてきた一族の方々は皆老いて死んでしまい、
安国寺恵瓊のような生臭坊主が幅を利かせています。
これだけは愚の至りだと、私などでも思うところです」

広家様は、隆景と離別したばかりか、亡父のことを思い出して、深く涙に沈んだという。


以上、テキトー訳。おわり。

あーあー。林君と内藤君が広家様泣かしたー。せんせえー。
ああ。ドSで頼りになる美貌の叔父様を亡くし、しばらく前に亡くした父を思い出し、
涙に暮れる広家……キュンキュンくるなぁ。不謹慎だけど●RECしたいお!
その後ずっぽり慰めたいお(*´Д`)ハァハァ

今回のエピは、「夜回り先生隆景」「景様、予言する」「元春との思い出」の三本でした。
夜回り先生……夜でも気の抜けない家臣たち。フヒィ、gkbrだぜ。
ヒキッたり歌舞音曲に傾倒したりしてると、漏れなく景様のあの白い目で見下げてもらえます!
それはそれでご褒美だわどうしましょう。

予言についてはね。死期とか予言しないでほしいよ。
言霊ってあるでしょ。滅多なこと言うもんじゃないよ。
元清もこの後すぐ死んじゃうんだよね。まだ若いのに。
この人がもう少し長く生きててくれたらどうなってたんだろうな。特に秀元が。
関ヶ原の動きも違ってきそうだしね。

意見がすれ違う隆景と元春の思い出話がけっこう強烈に萌える。
隆景「兄さんは何を意固地になっているんだ。無駄死にしてしまうぞ」
元春「あいつは戦のキモがわからんのよ。大軍には強気に出なきゃ押されるばっかりだぜ」
ギスギス兄弟、おいしいです☆
ギスギスの裏で、隆景は元春に「つまらない意地を張って死に急がないでほしい」と思ってるし、
元春は「輝元のそばに隆景がいるから目の前の敵に専念できる」みたいなとこがあったんだろうな。
このちこなつ兄弟め。隆元お兄ちゃんも入れてあげてください。死んでるけど。

しかし「隆景が亡くなった上は毛利家の後見は広家一人」ってのはな。
もしそうだったら相当キツイけど、実際は元康も重きをなしてたんだと思う。
秀元はな。この時点ではまだ若すぎるだろ。
あと宍戸はどうした。外戚だからってスルーしないでやっておくれ。

さて、次回からまた朝鮮がきな臭くなってくるよ。
2012-03-07

隆景「いいこと思いついた。おまえ、こうやって謡え」

「おれのケツの中でションベンしろ」とか言い出しませんよ、景様は。
そういうくそみそなこと言いそうなのはもっと他にいるよね。
あなたの頭の中には誰が浮かびましたか? 私は義隆様が浮かびました。

てなわけで今回は、物語上では隆景はもう死んでしまったけれども、
亡き人をしのぶために少し昔語りでも……という感じで、
小さなエピソードが紹介されてるよ。


黄門隆景卿御在世時の噂のこと(上)

中納言隆景卿は、養子の左金吾(秀秋)に筑前の国立花の城を譲って、
自身は備後の国三原の城に隠居の地を構え、住んでいた。
そのころ、林吉兵衛入道梅林が京都から下向して三原の城に伺候した。
黄門はすぐに梅林に対面し、「どうだ、梅林。最近都では何か珍しいことはなかったか。
近年は上洛していないから、都の噂を聞かせてほしい」と問いかけた。
梅林は、「それが、たいして珍しいこともないのですよ」と答える。
隆景卿は「では今は何が流行っているのか」と尋ねた。

「そうですねぇ。隆達の小唄のなかで、『面白の春雨やな、花の散らぬほど降れ』
という歌が流行しております。
男女僧俗を問わず、八十の翁から三歳の幼子までもが口ずさんでいます」と梅林が答えると、
隆景卿は「それは実に興味深い歌だ。ここで一節謡ってみせよ」と命じた。
梅林は「私はもう老いさらばえていますので、みっともなく謡うのは恥ずかしい」と思ったが、
他でもない黄門の所望なので、仕方なく、あまり上手ではない調子だったが、最後まで謡いきった。

「あと三十か四十ほど若ければ、声も朗々として品よく小唄を謡えたでしょうに、
すでに六十も越えていますので、歌声も老人じみて、聞く人の耳に棘が刺さるようでしたでしょう。
ああ、年老いることほど恨めしいものはありますまい。
『高歌(こうか)一曲明鏡を掩(おお)う、昨日の少年今は白頭』という古い詩(『秋思』許渾)も、
今翁の身になって、よく意味がわかりました」と梅林が言えば、隆景卿は
「いや、なかなかによかったぞ。もう一度謡ってくれ」と、重ねて所望した。
梅林は「こんな古入道が声震わせ息継ぎもできずに謡うものが、よかったはずなどありません。
それを再びとはあんまりです」と苦々しく言う。

隆景卿は語りだした。
「いやいや、歌の節回しや声の調子が良かったと言ったのではない。
『面白の春雨や、花の散らぬほど降れ』という、歌の文句が興味深い。
おまえ、帰って輝元卿にこの歌を謡って聞かせなさい。
いかに賢くいらっしゃるとはいっても、まだお若いのだ。
何かに熱中して他が目に入らなくなってしまうこともあるだろう。

『面白の儒学や、武備を忘れぬほど好け。面白の武辺だてや、文道を忘れぬほど好け。
面白の歌草、面白の乱舞、面白の数寄や、身を捨てぬほど好け』とでも謡いたいものだ。
どんなにすばらしいことでも、『中』の一字を過ぎてしまわないように嗜みたいものだ。
すべての道に通じる教訓が、この歌一つに詰まっている。
きっと、きっと輝元卿に謡ってよく聞かせて差し上げなさい。
他の奉行や重役たちにも、この歌の心を会得させるように言い聞かせよ。

この歌を作った隆達は、もともとは曹洞宗の僧だ。
良翁和尚の弟子で、一時などは法門の説破にもなったそうだ。
またあるとき、客殿の廊下を「淀の渡りのから船よ」という小唄を謡って
足拍子をドドロドドロと踏んでいたところ、良翁和尚が聞きつけて、この僧を懲らしめてやろうと考えて、
『隆達』と呼べば、『よっ』と答えたという。
良翁が『人の乗っていない舟にどうして舵がきくというのだ』と問う(「荘子」の「淀虚舟」を踏まえて?)と、
隆達は『もとから誰も乗っていないのだから、よく舵がきく』とはぐらかしたと語り伝えられている。
また先に言ったように、説法のときは、意味は同じであっても、言葉の品は違っていた。

それはともかく、仏法も商いもこのように頭の回転がいい人だったので、
その名を東西南北に響き渡らせていた。
しかしあまりに小唄に凝っていたので、根拠のない悪い噂が立った。
隆達は『身に覚えのないことだとはいっても、一度無実を言い立てて汚名を雪げるかもしれないが、
この身に過ちのないことは証明できようが、世の人は疑うことをやめないだろう。
出家の身の上の波の濡れ衣は、とっとと着替えてしまおう』と、還俗したという。
これも『面白の小唄や、浮名の立たぬほど好け』ということだろう。
梅林よ、この歌をよく腹で味わって、広島で謡ってこい」と隆景卿は言った。


あるときは隆景卿が上洛していたとき、京都では金のやりくりが達者な者がいないと困るだろうと、
三原の町にいたとある賢い町人がいたので、鵜飼新右衛門尉がその者を連れて上洛した。
隆景卿が下向した後、兼久次郎兵衛尉・桂三郎兵衛尉などがその町人に銀子の算用をさせてみると、
八貫目ほどの銀子が節約できたと勘定に出た。
鵜飼たちは、「こうした才覚があるだろうと思って、あの者を連れて行ったのか」と非常に感心した。
「おまえたち、隆景公へこのことを知らせてこい。駄賃に銀をくれてやろう」と言って、
兼久・桂の二人を遣わして、隆景卿に例の町人が節約をしたことを報告した。

隆景卿はこれを聞いて、
「赤字だったということはあっても、銀子が余ることなどあるはずがない。
銀が天から降ったり地から湧き出てくることなどないのだから、
人にやったり買い物に使うべき銀をわざと少なくしたのだな。
そんなけちなことをすれば、この隆景に恥をかかすとわからんのか。
むしろ多めに使って何貫目足りなかったと算出すべきなのに、憎いやつだ。
その町人の首を刎ねてしまえ」と激怒した。

この至極の金言をきいて、鵜飼たちは
「これは我らが考えていたのとはまったく違ったことになった。
隆景公には本当に利欲のお心が一点もない。
仁道に一本気なのは今に始まったことではないが、いまさらながら痛感させられる。
どうにかしてあの町人の罪を許してもらえないものか」と話し合った。

結局、ただの計算違いだったと報告することになって、
再び兼久・桂が出頭し、「先日、銀が余ったと算出したのはまったく違っていました。
確認の計算をしたところ、八貫目ほど足が出ておりました。
加・減を逆に書き間違えていたのです」と言うと、
隆景卿は「やはりそうだったか。それならばよい」と言った。


隆景卿は茶の湯に凝って、紹鴎・利休などについてこの道を学んだが、
唐土の祖師の墨蹟や我が国の歌人の掛け物、そのほか茶人・天目などにいたるまで、
一目見ると同時に「これは何貫するだろう」と値踏みをし、千貫もしそうなものを百貫で買い取れば、
やれ掘り出しだ、目利きだといって称美する。
これを間近で見聞きしてからというもの、その後は茶の湯には傾倒しなくなった。

隆景卿は常に「茶の湯はせせこましい世を離れて静かに心を澄まし、それを楽しむものだと思って、
その道に立ち入って学んでみれば、何かというと値踏みや掘り出し物の噂ばかりが話題にのぼっている。
それどころか、目利きだといって安物買いをすることだけに夢中になっている。
それでなくても人の心は移ろいやすい。放っておけば何であれ自然と悪くなっていくものなのだ。
利欲に耽るのもはなはだしい。朱に交われば赤くなるというではないか」と言って、
その後は茶の湯とは距離を置いたそうだ。


以上、テキトー訳。続く。

まあ噂だけど、こんな感じの小さなエピソードがこの後も続いてる感じ。

それにしても景様、恥ずかしがる爺さんを謡わせる羞恥プレイとか、やっぱドSだなw
しかも謡わせた上に「もう一度謡え」とか言ってるくせに、
「面白いのは歌詞であっておまえの謡い方じゃない」とかマジひどすwww
「べっ、べつにおまえの歌声とか節回しが良かったんじゃないんだからねッ!
勘違いしないでよねッ!」と言い換えるとツンデレ。
ツンデレ景様……想像がつかんなー。
恥らって謡い、その後「からかわないでくださいー!」とむくれる梅林がかわええのう。
あと、このころは輝元40歳越えてると思うんだけど、若い……か?
それに隆達は曹洞宗じゃなくて日蓮宗だそうですぞ。

金を節約して怒られる話、ちょっと理不尽よね。良かれと思ったのにね。
今のご時勢、どこも節約・節約だよ。こんなこと上司に言われたらぐれてやる。
ていうか、多めに払って見栄を張るとか、かなり江戸っ子のイメージなんですが。
江戸っ子の根本は三河武士だからめんどくさいのはデフォルトとして、
中国武士の景様もかなりめんどくさいな。
まあ「けち」って悪評が立つのはまずい、ってのは理解できます。
武士だのやくざだの、見栄やはったりの渡世だもんねぇ。

次のエピは景様と茶の湯……なんだろう、密室で謀略めぐらすとか、
そういう方向の不穏なイメージしか想像できない。
私は景様を何だと思ってるのか。
みんながキャイキャイ「この器が」「この掛け物が」と興じてるときに、
一人しらーっとして遠巻きに見つめてる図に脳内を修正してみたら、かなり似合うかもしれない。

なんだろうなぁ。この人が心から笑った顔が想像できないんだけど、どんな感じなんだろう。
肖像画は穏やかな表情の美形な老人だよね。
あの顔で、何を見て頬をたわませたんだろうなぁ。笑うことなどなかったのか。
幸せに生きられたのかなぁ、などと、三原に心を馳せたくなるね。

次回も引き続き景様、噂の真相(?)です。
2012-03-07

ついったにうpした画像置いとこ

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2012-03-06

秀吉が語る隆景・元春

うわぁい! 前記事の拍手ありがとうございました!
今回はちゃんと気付けてよかった(反応ないものだと思ってるからよく見落としてます)。
やっぱ景様人気あるのね。ちょっと嫉妬。←すっかり吉川ファン

今回までの流れも何も、景様が死んじゃったのね。
やる気出ないわぁ……と思ったけど、今回は隆景追悼回みたいだよ。


黄門隆景卿のこと、秀吉公感じ給うこと

太閤秀吉公はあるとき、御前に徳善院(前田)玄以法印 がいたときに、こう言ったそうだ。
「小早川隆景が死んでしまったのは、あまりに残念だ。
わしは農夫のような下賤の身から、今は摂政関白にまで出世したが、
他の者より前世からの果報が相当抜きん出ていたばかりでなく、智も勇も傑出していたからだ。
だからどんな賢才の持ち主や勇猛な者であっても、それほど気にかけてはいない。
しかしこの日本で、心底から感心している者が五人いる。

まず、智があって一通り仁の道も兼ねている者として、東には北条左衛門太夫、
西では小早川左衛門督・宮部善乗坊がいる。
とはいっても、北条・宮部の才は、小早川とは一緒くたには語れない。
隆景は、伝え聞いている小松の内府(平重盛)などという人も、
きっとこのような人であっただろうと思うほどの仁者だ。
これこそ、末法の世の聖人というのだろうと思う。
だからわしは隆景の策を採用して北条を退治し、また今度は朝鮮をも征伐した。
それが死んでしまったとは、わしの両の目のうちの一つを失ったようにも感じている。

また日本六十余州は言うに及ばず、朝鮮まで攻め従えるのに、この手を妨げる者は一人もいなかった。
しかしながらこれもまた、東では松平家康と、尾州の小牧において一戦したとき、
我が手の先陣を務めた秀次は打ち負け、池田・森なども討たれてしまった。
わしは大軍を率いていたのに、家康の少軍勢に利を失ってしまった。

また西では、吉川元春と三度にわたって対陣したが、その三度ともわしが先に陣を払って引き退き、
元春には鎧の背中を見せてしまった。
三度のうち二度は我が方の勝利は必然だと思えたが、諸事情があって退却せざるを得なかったのだ。

播磨の上月で対陣したときは、隆景も元春と一緒に出陣していた。
荒木摂津守(村重)がこちらについたことで、向こうは多勢だとはいっても、
とても勝利は得られまいと思っていたところ、
元春・元長が夜討ちをしようと進軍していることを、南条兄弟が知らせてきた。
荒木たちは談合して、『夜合戦となれば、きっと味方は負けてしまう。まずは先陣の精鋭を避けよう』と決めて、
尼子を捨てて退却してきてしまった。
これこそこの秀吉の一生の不覚だろう。

その後、因幡は鳥取の城を攻め落とし、そこから伯耆に攻め入って、
出雲まで一気に攻め落としてやろうと思って、伯耆の馬野山辺へ出た。
吉川元春父子三人は、わずか四、五千ばかりの手勢で対陣した。
我が軍は四万騎もいたから、勝敗は歴然としていると思っていたのに、
三沢雲波入道という者が、ひそかにこう告げてきた。
『輝元・隆景は雲州冨田まで出陣しています。
国人たちも元春がうかうかと少勢で馬野山辺へ出て行っては、皆殺しにされてしまうと考えて、
輝元・隆景のところまで引き返して、合流してから一戦するようにと諫めたのですが、
元春父子は、死んでもここを動かないと言い切りまして、陣を構えているのです。
後陣は続かないはずですから、急いで一戦してことごとく撫で斬りになさいませ』とな。

南条にもこのことを尋ねてみれば、
『雲波が申すことは本当でしょう。急ぎ攻め滅ぼしなされ。
そうしなければ、吉川がどんなに退かないと言ったところで、兵たちは今夜、
散り散りに逃げ出してしまうはずです』と答えた。
わしもそれはそうだと思ったのだ。
吉川は一夜のうちに柵を結いめぐらし、たちまち陣を堅固に構え、
後ろの橋や渡し舟を陸に上げてしまって、無二の一戦と覚悟しているようだった。

これはなかなかに切り崩しづらいと思ったが、
この秀吉自ら進めば、いかなる勇将の吉川でも粉微塵にしてやるものを、と勇んでいた。
早いうちに一戦を仕掛けようと考えていたが、
蜂須賀たちが『どうか一戦に及ぶのは控えてください』と何度も諫言してきたから、
その意見を容れて延期していた。
長期の対陣であれば謀略をめぐらして敵を破ることもできたのだが、因幡・伯耆は大雪が降る土地だ。
道を雪に閉ざされてしまえば一大事になると思って、早々に退却してしまった。

またその後、備中高松の城を攻め落としたときは、信長さえ出陣してくれば、
吉川・小早川をあっという間に攻め滅ぼせると思っていたのに、
惟任(明智光秀)が謀反を起こし信長を討ち果たしてしまったので、和睦を整えて退却する羽目になった。
またこのときも元長は、和睦すべきではないとしきりに主張したそうだ。
後に安国寺(恵瓊)がそう言っていたと、人が言っていたのを聞いた。

こんなことがあって、この秀吉は三度とも負けてしまったのだ。
そのなかでも、高野山では吉川勢がわずかな手勢で陣取っていたから、
上月の鬱憤を晴らそうと思っていたのに、背水の陣のことを知ると、
無二の覚悟をして身を捨ててかかってくる者に付き合っても意味がないと思って、怒りを抑えて退却したのだ。
この秀吉の背中を見たとは、元春・隆景は神仏の加護を得たもののふだ。

吉川一代の勇は、今話したように馬野山だ。
大内・尼子と戦ったことで大勇ありと知れ渡ったが、それは敵がだらしなかったのだろう。
わしは農夫の身分から大明まで手に入れたほどの勇将なのだから、ただの人間ではない。
神仏の生まれ変わりかもしれないと自分でも思うほどなのだ。
そのわしに立ち向かって負けずに戦をしたというだけでもなかなかないことなのに、
たった四、五千の少勢で、我が大軍の背中を見送るとは、武名が天まで届くほどの良将だ。
天晴れな敵であった」

秀吉公が元春・隆景を褒め称えるのも、自分自身を神だ仏だと大げさに言うのも、
実にもっともなことだと思って、玄以法印は、
「家康・元春・隆景などの智勇をそう仰いますが、
太閤殿下の御武勇はそれにも増して雪上の霜とも申すべきもの。
こうした良将をことごとく御手に従えて、それどころか大明まで手に入れられ、
和睦の使者を遣わされたほどです。
神功皇后の時代にもなお勝っていらっしゃいます。
実に神よりも仏よりもご立派ですとも。
私などの舌先であれこれと申し上げるのも恐れ多いことでございます」と言った。
秀吉公は快然と打ち笑ったそうだ。


以上、テキトー訳。

正矩、途中から思いっきり元春語りになってるよwww 景様はどうした。
いや元春さんもかっこいいし大好きだけど、景様追悼回じゃないんかいwww
まあ世間の隆景押しを思えば、陰徳記くらい吉川が小早川の出番を食っても無問題な気もするが。
と思ったら、次回の章に、本格的に隆景の生前のこととか取り上げられてるっぽい。
いったいどんなドSもとい、勇智仁が語られるのかな。

あ、どうでもいいけど秀吉の自分すげえアピールはブレなすぎて惚れボレするわぁ。

それはそうと、最近はついったで思う存分萌え語りをしているので、
隆景・元春とか自分で書いておきながら、隆景×元春って空目しちゃうんだぜ。
陰徳記読むときくらい腐った性根を封印したいものだけど、ウフ、しょうがないよね☆
陰徳記もたいがい男色ネタにまみれてるし、デュフフ☆オッケー☆
2012-03-05

美貌の叔父様の最期

最近、陰徳記が「参考にもならない三流軍記物」扱いされるとカッと頭に血が上るようになりまった。
正矩が根拠もなく「信用できん」と言われると、むかっ腹立つくらいには愛してるのよ、正矩。
自ブログでさんざんこき下ろしておきながら、他の人に批判(?)されると腹が立つとか、
愉快な精神構造だと嘲笑ってやってください。

さて今回は、隆景様がいよいよ……読みたくねえ。


黄門隆景卿逝去のこと

翌けて慶長二年の春にもなると、都では人々がこう話すようになった。
「一昨年は殿下秀次公が、大殿の諫言も聞かずに甚だしく驕りを極めたのみならず、
かの月支国の阿闍世太子が提婆達多にそそのかされて父である大王を禁獄にした悪道に追随した
(秀吉に対して謀反を企てた)ので、たちまち天罰をお受けになって、
ついに高野山の奥で露と消えてしまわれた。

また去年は天地鳴動して、数多くの人民の命を失い、牛馬鶏犬に至るまで、多くの生き物が死んだ。
こんなひどいことはそうそう言葉にもできない。
悲しくつらいことばかりが多いものだ。
どうか今年こそは、旧悪を改めて新しい喜びを謳歌しよう」と、
人は皆花に戯れて盃を傾け、松を愛でて茶を煎じ、心を慰める。
また、鶯の声に惹かれて野に暮らして歌を詠じ、月の影を惜しんで峰に上ると詩を口ずさむ。

そうして九旬ほど日数が経つと、やがて夏になった。
山ホトトギスの馴染みの声さえも、耳にするごとにかえって新しく感じ、毎度初音を聞いたような気分がする。
若竹の枝の茂りも、まさに栄え行く世を象徴しているようだと感じられて、
心の赴くままに遊び戯れるのだった。

太閤も、「わしは我が国どころか大明まで我が武威に靡いたぞ」と大いに喜び、
洛中洛外の者たちの心を慰撫するために、二度にわたって能などを催した。
千秋万歳の喜びを松にたとえようと、「高砂」を脇能にして、
また去年の震災は鬼神のせいだと数々の注進があったので、これを屈服させるために、
「田村」を修羅能に指定した。

人気の四座の名人を呼び集め、その家の奥義を尽くすようにさせると、見物客の貴賤の男女たちは、
「これはおもしろい、さすがは天下の金春太夫だ」「人殺しや、恐ろしや、助けてくれ」などと興に乗じて、
喚き叫び笑いどよめく有様は、見るも聞くも狂気じみていたそうだ。

太閤は「采女」を舞ったが、名人の松太夫が地謡の役にうつぶせになってシテ方を謡ったので、
太閤は見物人に自分が謡っているように見せかけようと、のど筋を引き張り、頭を振るわせた。
毎度のこととは言いながら、非常におかしげに踏む足拍子はスカスカと外れ、
差しかざす扇は何とも不恰好で、「水の月取る猿沢の~」というところを舞うときになると、
「信長公が猿と呼んだのもうなずける。これは能と言うものではない。猿回しだ」と、見物客たちは興に乗った。

「さてもさても、よく似ている」「あら面白い」と感心していると、
太閤は猿回しに似ていると囁かれているとは知らず、
自分の舞が褒められていると勘違いして、したり顔で舞った。
「武の知略とは雲泥ほどに隔たった、軽々しいお心だなぁ」と、人々は囁きあった。

こうして太閤も遊興にのめりこんでいたので、備後の三原に隠居していた黄門隆景卿にも御内書が出された。
「当年からは、大明・日本の和睦が成って天下泰平の世となったのだから、
わしも泰平の曲を歌って心を慰めている。
隆景も今は筑前を左金吾(秀秋)に譲り与えている。もう治世の心配もしなくていいだろう。
山に遊び水を楽しんで老いを慰めよ」

黄門は「かたじけない上意でございます」と三度頂戴した。
しかし天下の政道に間違いが多いことを嘆き、また
「毛利家の智臣老臣は多くが老いて死んでしまった。元春・元長親子はもういない。
今は私一人になってしまって、六十も越えてしまったのだから、余命もあまり残っていないだろう。

思い返すも、養子の左金吾は胡乱でどうしようもない。
ただ吉川蔵人頭広家朝臣こそ、勇も智も全備していて、毛利家の後見は言うに及ばず、
天下の管領職に就いたとしても十分やっていけるはずだ。
しかしこの人はまだ四十にもならないが、若年のころから折につけ患って、
たとえば頻繁に頭痛を起こしているし、また痔疾も抱えている。
もしこの人が病に侵されて世を去ってしまったら、中国はいったいどうなるのだろうか。
輝元卿は政道では優秀だと言っても、羽翼の一族がいなければ、もしまた世が乱れたとき、
鉾先を突きつけられて滅びてしまうかもしれない」と、安心してもいられなかった。
月花を見ても、心配事を投げ捨てて心を慰め、戯れることもなかった。

黄門は、去年筑前を左金吾殿へ譲って、備後の三原の城に隠居していたわけだが、
まだまだ世の人は隆景卿に用をもちかけ、仕事は逆に増えていた。
これは六月の初めのころのことだが、
芸州の隠戸を知行していた迫門因幡守が近日中に京都へと上ると言いに来た。
因幡守が挨拶の取次を頼むと、隆景卿は他の用もあるからと因幡守を御前へと呼び寄せ、
あれこれと用事を申しつけ、祐筆を呼んで京都への書状なども整えさせた。
やがて自判を置いて書状が整ったが、
「因幡守には晩飯を馳走しよう。またそのころに登城するように。
まずは宿舎に戻って休息していなさい」と言って帰したのだった。

隆景卿は、「今日はいつにもまして暑くてたまらん」と、鈎簾を高く巻き上げさせて、
欄(おはしま)の近くまで出る。
やがて枕にすがって昼寝をしているうちに、夕立がバラバラと降ってきた。
雨の音に夢から覚めた隆景卿は、
「眠り美にして山雨の過ぐることを知らず、覚え来れば殿閣微涼を生ず」という古い詩を口ずさんだ。

御前には桂三郎兵衛尉兼久・次郎兵衛尉の二人が伺候していたが、
夕立の雨が誘い起こした風がそよそよと吹いて涼しげに感じられたので、
「六月に清風を買わば、人の恐れるものもなし、というのも、こういうことを言うのでしょうな」と言うと、
隆景卿も心地好さげに笑って、
「人は皆炎熱に苦しむも我は夏の日長きを愛す、というのも、こんな時期なのだろうな」と答える。

隆景卿はにわかに「どうも調子が悪い」と部屋の中へと入っていったが、
たちまち顔色が悪くなったので、桂三郎兵衛尉があわてて駆け寄って背後から抱きかかえた。
兼久が当番の医師を予防として走り出したところ、隆景卿はしたたかに吐き戻してしまった。
酷暑の時期なので、暑気当たりだと思い、吐けば少しは楽になるだろうと思っていたが、
医師が二、三人寄り集まって脈をとってみると、もはや息絶えていて脈もなかった。

「これはどうしたことか」とひどく驚き騒ぎ、気付けの薬である蘇香円・延齢丹などをはじめとして、
手を変え品を変え、灸だ鍼だと数々の医術を尽くしたけれども、
もう微かに通う息も絶え果て、事切れていたのだった。
「これは一大事だ」と、人々は慌てふためき、嘆き悲しんだけれども、その甲斐はなかった。

華陀でもなければ、鍼や薬を用いてもどうにもできず、
背や腹を裂いて割薬種(さくやくしゅ)を用いることもできない。
扁鵲の術も修めていないので、五分の熨、八滅の済をもって人をよみがえらせることもできない。
ただ呆然と力なくたたずむばかりだった。御年は六十五だった。

早馬を駆って京都・広島へ報告し、また高麗の釜山海にいた左金吾殿へも、六月十二日に、
黄門隆景卿の逝去の報を告げた。
太閤はこれを聞くと、「末法の世の聖人とは隆景のことだったのに、
こんなにあっけなく逝ってしまうとはひどい話だ」と落涙したという。ありがたいことだ。

やがて葬礼を執り行い、一片の煙となって、遺骨を拾って高野山に納めると、
竜宝山大徳寺に一宇の伽藍を建立した。黄梅院がそれである。
法名は泰雲浄閑大居士といったそうだ。


以上、テキトー訳。

どうしてこんなにまで詳細に記されているのかね。
まったく、読んでて胸が締め付けられるったら……いつの間にか隆景のこと大好きになってたんだな。
この人がいるだけで、安定感がすごいよね!!!
なんか根拠もなく、毛利は大丈夫、って気にさせてくれる。すごい人だったんだろうな。
広家に託されてもね、器が違いすぎるわ。
ていうか景様が手塩にかけて調ky……育て上げた輝元きゅんはどーなんですか!
触れてやっくださいよ。お願いしますよ。

ていうか広家の痔疾バラさなくてもいいじゃんかーーー!
デリケートなお尻なのだよ! 日本人の七割はこの罹患歴があるらしいぞ!
私もバイトで立ち仕事始めたばかりのときはゴニョゴニョな心当たりがあるぞ。
医者にはかかってないけど、きっとアレはアレだったんだわ。

話を戻して。
隆景は、脳卒中だったって有名だけど、そのなかでもくも膜下出血っぽいな。致死率の高いやつ。
いきなり脳の生命維持に関わる分野で出血を起こしてしまうやつ。
私が幼いころものすごく世話になった近所のお婆ちゃんもこれで亡くなった。
直前まで元気なのに、いきなり逝っちゃうんだよね。
逆に考えると、苦しまなくてよかったのかもしれない。

それまで毛利の家を背負って、どれだけ緊張して生きてきたんだろうと、切なくなる。
ドSな印象しかないんだけど、ドSを保つにも強固な意志が必要だったんだろうな。
隆景……当初はあんまり好きになれない人だと思った。
でも大好きになったよ。ドSだからじゃないよ。がんばったねぇ。えらかった。
隆元も元春も早くに死んでしまったのに、よくここまで長生きしてくれたね。
願わくばあと数年……と思うのは、甲斐のないことかもしれない。

さて次回からは景様追悼スペサルだよ。いや、陰徳記の次の章がそうなってんだよ。
2012-03-04

未曾有の災い

今日はちゃんと陰徳記読むよ。

だいたいの流れ:
朝鮮出兵がひと段落して、関白秀次が謀反の疑いをかけられて切腹させられ、
不穏な空気を感じながらも、治水工事も進めたりして、
なんとか穏やかな日常に戻れると、僕たちは信じてたんだ……←誰


大地震のこと

同(慶長元年)七月三日、暦の上では秋立ではあったがそれは名ばかりで、
残暑が厳しく耐えがたい暑さだった。
天気の様子も夏の日差しと同じだったが、昼ごろになってにわかに空が曇りだし、
天からは、砂のようなものに葦毛馬の毛のようなものが混じって降ってくる。
皆、これはいったい何事か、こんなことがあるものなのか、と不思議に思って、
昔もこんなことがあったのかと、老齢を重ねた者に尋ねた。

すると、八十や九十にもなる翁が、
「わしは七十年、八十年のことなら見てきておる。
百年や百二、三十年のことは聞き及んでおるが、こんなことは見たことも聞いたこともない。
こんなに恐ろしいことは他にないぞ」と心細そうに言った。

浮世を渡り歩く陰陽師や占い師、生臭坊主などは、出番だ稼ぎ時だと喜んで、
「これはただ事ではない。今年の八月には天地がひっくり返って人間は滅び果ててしまうだろう」と言ったり、
また「修羅の眷属や八大地獄の牛頭馬頭たちが、皆我が国へ来て人を食い殺すと占いに出ておる」
などと言いふらしたりした。
あるいは「天から猛火が降ってきて、世界は焼き滅ぼされる」と言う者や
「いやいや、四海の潮が富士山の山頂まで満ちてゆき、我が国日本は再び海となるのだ」と主張する者もいた。
ありとあらゆることを口に任せて言い散らし、
「どこの仏へ花を進上せよ」「何の神に祈りなされ」「百座の護摩を修した者だけが助かるだろう」
「千部の二王経を読経すべし」などと言いあった。

また、日蓮宗の僧たちは、
「日蓮上人が仰っていたのはきっとこのことだ。それ見たことか。
真言宗が国を滅ぼすのはまさにこれからだと皆思い知れ。
禅宗が天魔の所業とはこのことだ。禅宗が隆盛したからこそ天魔がこんな災厄をもたらした。
今念仏を唱えている者は、生きながらにして無間地獄の業を受けることになるだろう。
祈っても甲斐などあるものか。ただ法華の功力を頼らなければ、この怪事を免れることはできんぞ」と、
ここぞとばかりに言い募る。

念仏宗(浄土宗)の僧たちは、
「このような災難が降りかかったのは、ひとえに衆生の業の報いである。
諸神諸仏の力をもってしても救えるものではない。
しかし弥陀の悲願功力ならば、人々を安んじてくださるだろう。
五逆十悪の罪人の地獄の苦しみをさえ救ってくださるのに、
ましてこの程度の災難は、地獄での苦しみに比べたら九牛の一毛にも及ばない。
弥陀仏と一音唱えれば、衆生の業報はたちまち消滅するだろう。
悪業が消滅すれば、天魔とて災いをもたらすことなどできない。
今、天下の人民を救えるのは弥陀の力の他にない。
皆、浄土宗だけに帰依して仏の御名を唱えよ。それで十年寿命を延ばせ」と、重ねて勧誘する。

真言宗・天台宗の名ばかりを汚している僧たちのなかには、
「華厳経こそが天魔をも降伏させる。
天帝修修の戦のときにも、修羅が勝ちに乗って襲ってきたときに、
帝釈天は華厳経を唱えて、修羅の眷属を降伏させたのだ。華厳経を読誦しなさい」と言う者もいた。

教外別伝を少しでも知っている者たち(禅宗)は、
「四海が壊乱しても仏法は朽ちないという。たとえどんな三災があっても、恐れることなどありはしない。
迷いや煩悩があると、心が乱れて正しい認識ができなくなるというから、
生臭坊主たちが何を言ってきても、口車に乗せられないようにしなさい」と言う。

また心は飽きるほどに欲を求めていながら、表面上は聖人のような言葉を重ねる儒者たちは、
「このような怪事は、昔から和漢両国に前例があって、怪事は善政に勝らないという。
これにつけても万民を撫育する善政こそが解決するだろう。
私が現在の三奉行・五奉行といった職役についていれば、周公旦の政治にも劣らず、
再び君主を堯や舜のように守り立て、民の苦しみを救うものを」などと、賢しらに言い立てた。

さて無知蒙昧な老女などは、我が子や孫の無事・安全を願って、
一つしか持っていない鏡を生臭坊主などに献上する。
ものをよくわかっていない老父などは、破れ紙子や古布団、
脇差などもすべて陰陽師に誑かされて取られてしまった。
こんなことも不思議だと思っているうちに、また同閏七月十二日の夜から大地震が頻発し、
伏見の城さえ揺り崩してしまった。
当然、洛中洛外の民家に至っては、あるいは倒壊し、あるいは傾くなどして、
家財の下敷きになって死んだ者は幾千万とも数知れなかった。

大地もたちまち二間や三間ほど、カッと裂けて口を開く。
このときさらに陰陽師などが「かねてから申していたのはこのことだ。天地が逆さまになるぞ」と言うと、
人々は「どうしよう」と混乱して、悲嘆に暮れた。
家の中に籠もっていれば、家はたちまち倒れて身を押しつぶしてくる。
堪えかねて広野に走り出れば、カッと裂けた大地の中へと落ちてしまう。
山に登ろうとすれば、峰から大石が転がり落ちてきて身を微塵に砕こうとする。

どこにも逃げ場はなく、ただ「父よ、母よ」と叫ぶ者や、
子の名前、孫の名前を呼んで泣き崩れる者もいて、目も当てられぬ騒ぎになった。
またこのとき、最後に残しておいた古鏡なども陰陽師や占い師に取られてしまっていたので、
ほとんどの五畿内の老女の茶壷、老父の酒瓢箪などまで、
皆生臭坊主たちに取られてしまったと聞いている。

さすがに物に動じない太閤も、ただ事ではないと思って、各所の霊社に進物を捧げた。
また禁裏でも御修法が行われた。

同八月に改元があって(文禄五年十月二十七日)、慶長元年になった。
そのころ太閤は大地震の処理のために参内すべく上洛したが、
大仏の前を通るとき、馬に乗ったままキッと振り返って、側衆から弓を取り寄せた。
馬廻の侍がすぐに弓を持ってくると、太閤は弓に矢をかけ左弓に引き、大仏に矢を二つ射かけた。
「天下を安んじるためにここに安置していた大仏だが、こんな大地震を未然に防げなかったばかりか、
自身すら揺れで崩れるとはひどい有様だ。
こんな甲斐のない大仏めに、矢風を味わわせて、諸仏への見せしめにしてくれよう」と言ったそうだ。
気でも違っているようだったという。


以上、テキトー訳。

思い出すねぇ、3月11日。もうすぐ一年が経つ。
犠牲になった多くの方のご冥福と、罹災された方々の精神と生活の安定を心から願います。

あの日は、私はオフィスで仕事をしていて、さすがに揺れてるときはデスクの下にもぐったけれど、
電気も水も通じてるし、オフィス街だと建物内より外のほうが危険だからって、
そのまま仕事を続けたんだよね。ラジオなんかを聴きながら。震度は5強だったと思う。
近所のビルのガラスにヒビが入ったり、私のいたビルでは壁にヒビが走った程度だったな。
夜になって、余震がそろそろ収まったようだとなって、家には歩いて帰った。電車は止まってたから。
幸い比較的距離は短かったので、大して苦労せずに帰れたな。
家の中も少し物が落ちたり割れたりしただけで大きな被害はなかった。
ただトイレタンクの水が出っぱなしになってしまっていて、直すのに苦労した。
微妙にハイだったから怖いとも感じなかった。夜遅くには実家に連絡もできた。
その日の夜は、コートを着て靴を履いたまま眠った。

あれくらいの揺れでも、昔の民家なんかはあっという間につぶれるんだろうな。
職人が手間暇かけた五重塔とかは倒れないのかもしれないけど、民家はな。
戦国時代の民家というと、戦があるたびに燃やされるか解体されるかして、
そのあと仲間内で集まって建て直すものだもんね。
そりゃバタバタつぶれるわな。外に走り出せば地割れに呑まれるしな。そりゃ怖いよ。

そういうときの人々の恐怖心に付け込んで商売するやつらはいつの時代にもいるけど、
なんか逆にこの肝の太さには舌を巻くよね。
自分も危ないのに金儲けのことばっかり考えてられるんだぜ。もういっそすげえ。
日蓮宗はまじでブレない日蓮宗だし、浄土も密教系もなかなか濃ゆいね。
このなかで禅宗ってあんまり宗教臭がしないなぁ。
書かれてないキリスト教はどうだったんだろうね。ちょっと気になる。

あと、文禄から慶長への改元は震災後だったんだね。十月のことらしい。
震災の禍を払うための改元なんだね。
で、改元のあった年のことは、後に書く場合には、新しい元号で統一するんだね。
7月や前の章での2月のことも「慶長元年」て書いてあるし。
あんまり重要ではないけど意外な発見だった。

さて次回……次回、は……隆景が、ついに……(;ω;)ウッ
2012-03-03

『うつけの采配』読了

読み終わったー。結論から言うと好きなタイプじゃない。
文体は重すぎも軽すぎもしなくていいとは思うんだけど、
そもそも重い軽いの基準をどこかに求められるほど小説読んでないんだった、私。

そんなわけで今日はgdgdな読書感想文をうp。もう、もうね……。

以下はネタバレありの感想なので、ネタバレいやな方はご注意を。
念のため文字色を変えておくので、ドラッグ反転して読んでください。

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2012-03-02

久々の帰国

だいたいの流れ:
朝鮮出兵がだいたいひと段落して、関白秀次が太閤秀吉の命で切腹させられた。


摂州の塘を築くこと、並びに遊撃再び渡ること

太閤と当代の関白秀次公が不仲になり、秀次公が高野山で切腹したことが朝鮮へと伝えられると、
その地にいた諸将たちは、これはひとえに秀次公の悪逆無道が積み重なったせいだとは言いながらも、
それをことさらに讒言したのは石田治部少輔なので、石田の奸邪を忌々しく思った。

黒田甲斐守(長政)・加藤左馬助(嘉明)・福島衛門太夫(正則)・吉川侍従(広家)たちは、
三成の讒言を恐れて、どんなおべっかを使おうかと、人心地がしなかった。
そのうち、文禄四年九月には、朝鮮も平定された。
そうなると、中国勢の近年打ち続いた忠戦の苦労をねぎらうため、
「早々に帰朝するように」と秀吉公から命が下ったので、
吉川侍従をはじめとして、皆順風に帆を上げて帰国した。

そうして十一月に大坂に上ると、太閤は
「近年はあちこちで忠戦に励み、なかでも江陽の大戦、川下の城攻めでは、
諸手に優れて骨を砕いてくれたのは神妙の至りである」と、再三にわたってねぎらった。
朱印状に御太刀・御馬などを添えて下賜されたので、時の面目世の誉れ、また類ないものに見えた。

翌けて慶長元年二月、大坂から伏見の間にある淀川の
川除(かわよけ、川底をさらって河川の氾濫を防ぐ工事)と堤の建設を輝元卿・広家様に任せるようにと、
秀吉公から命が下った。
すぐに中国八州の勢が普請に当たったので、同年十一月までには出来上がった。
太閤は「まさか今年中に堤建設が終わることはないだろう」と思っていたのに、
意外にも早く完成したので、ずいぶんと精を入れてくれたのだと、大いに感じ入ったそうだ。

さて同五月、小西摂津守は大明と和睦して、遊撃将軍、並びに参謀の謝用梓竜岩を伴って大坂に着いた。
太閤はまず小西の戦功を大いに賞賛した。
同六月一日、太閤は唐使に対面した。唐使は、異国の珍器を数を尽くして捧げた。
このとき、大明の帝王から、我が国の諸将に唐冠と装束、石の帯が贈られた。
まずは松平大納言家康卿・宇喜多中納言秀家卿・小早川中納言隆景卿・吉川侍従広家朝臣・
立花侍従統虎(宗茂)朝臣・黒田甲斐守長政朝臣・島津兵庫頭義弘朝臣・加藤主計頭清正朝臣・
小西摂津守行長・石田治部少輔三成・大谷刑部少輔吉継・増田右衛門督長盛・
前野但馬守長泰・加藤遠江守光泰・加藤左馬助、以上十七人だったという。
あとの三人は忘れてしまったので、あとで調べてから記す。

このなかの人では、前野は秀次公と一味して討たれていたが、
明の使者はそれを知らずに、目録に載せてしまったようだ。
この人々は朝鮮で猛勇を示し、知略も抜群だったので、武名が三鮮に響き渡っていた。
それどころか大明の七百余州にもこの諸将の名が響き渡ったので、
明の帝王が和平を祝してこうして装束などを贈ったのだという。

なかでも家康卿は、自身は我が国にいながらにして、神武の名が数万里に鳴り渡っていたからこそ、
明の帝王が冠装束を贈ってきたのだろう。こうした前例はほとんどなかった。
このとき小西が唐の使者を連れてきて秀吉公に対面した詳細は
「太閤記」に詳しく載っているので、ここでは大雑把に記す。


以上、テキトー訳。

目が痛くてもうだめだ。寝る……寝てやる。←ただの酔っ払いです。
2012-03-01

血塗られた秀次事件

『うつけの采配』、なかなか読み進められない。
通勤時間に読もうかと思ったけど、ラッシュアワーに電車内でハードカバーなんぞ広げてられるわけがない。
昔は徹夜してでも読んだものだけど、翌日の仕事に差し支えると思うとそれもできず。
まあなんだ、私も歳をとったということなんだね……

まあいいや。今日の陰徳記。

だいたいの流れ:
朝鮮出兵は和議に入って諸将も交代で日本に帰れるようになったが、
諸将が留守にしていたうちに、日本では新たな政権なら阿蘇意が勃発していた。


関白秀次公自害のこと

同(文禄四年)六月、太閤秀吉公と当時の関白秀次公との仲がこじれ、秀次公は高野山に入った。
このころ、秀吉公は朝鮮から帰朝していた福島左衛門太夫正則を呼び寄せ、
「おまえはすぐに高野山に行って秀次に切腹を申しつけよ」と命じた。
福島は福原右馬助と二人で検使役を務め、高野山へと赴くと、
秀次公へ自害するようにとの命が下ったと告げる。
秀次公は「心得た」と、すぐに行水をして、その後潔く自害をした(七月十五日)。
同じく続いて、山本主殿助・山田三十郎・不破万作・雀部淡路守・隆西堂、
以上五人が追い腹を切って後代に名を伝えている。

そもそも関白秀次公というのは、太閤秀吉公の妹(姉)君の子であって、
秀吉公もはじめはたいそう可愛がって、宮部善乗坊の養子にした。
このとき宮部の郎党の田中兵部という二百石の知行の者がいて、たびたび武勇の誉れを顕し、
また才覚もあったので、宮部法印が秀次公に近侍させた。
この者が狡賢いということを宮部法印が知らなかったのが、秀次公のケチのつき始めだったのだろう。
その後、宮部法印には兵部という実子ができたので、秀次公は阿波の三好の家に入り、
三好治兵衛殿と呼ばれた。

このまま四、五年ほどが過ぎ、秀吉公に子ができなかったので、
治兵衛殿を養子として天下を譲ろうと言うと、治兵衛殿は、
「天下は一人のための天下ではありません。天下のための天下です。
私はその器量がないので関白殿の委譲を受けるべきではありません」と言って、三度までは固辞していた。

秀吉公は、「とはいえ、他に譲る者がいない。
備前の宇喜多和泉守直家の後室をわしの妾としているが、その娘を先年からこの秀吉が養い、
実の娘のように育んできた。その弟の宇喜多八郎秀家を養子として天下を譲ろうか。
そのときになって後悔するなよ」と言った。
治兵衛殿は、さすがに天下を他人の手に渡すのは口惜しいと思い、
「このうえあまりにお断りするのもいかがなものか」と、秀吉公の提案を受け入れた。
秀吉公もたいそう喜び、やがて吉日良辰を選んで養子の契約を結んだのだった。

秀次公は、はじめのうちはその行跡に乱れたところもなく、厳格だった。
それどころか、諸道が長く続いている兵乱の渦中で廃れてしまったことを嘆いて、
公家の人々には上古の時代のように歌道礼楽の道を学ぶようにと勧めたので、
そのせいか、そのころの歌道は昔に戻ったような盛況ぶりで、俊才博学な公卿がたくさん出てきた。

また、五岳や徹翁・関山の両派にも、著述や仏学の奨励をしたので、
五山の僧たちは月次の詩・連句の会・禅の説法・問答などを催したし、
ときには秀次公から主題を示して詩を希望することもあって、そのなかで才能の秀でた僧をたいそう褒めた。
智の足りない僧には、これからこの道を勤勉に学べと教化し、
あるいは学問を疎かにしている者を叱ることもあった。
また、諸道のなかでも乱舞などを好み、四座の猿楽師らに切磋琢磨してその道に励むように命じたので、
このときには古今に傑出した乱舞の名人が多く排出された。

この人が天下を治めてくれたなら、文武両道とも古き良き時代に帰るだろうと、人々は皆喜んでいた。
それなのに、どんな天魔波旬が心に忍び寄ったのか、秀次公は
「私ほど文武に熟達し聡明な者はおるまい」と、驕慢の心が大きくなりすぎてしまった。
やがて大いに驕るようになったのみか、悪逆無道の所業をするようになって、
伝え聞く夏の桀や殷の紂王もかくや、という有様になった。

夜な夜な北野辺へと外出して辻斬りをして、毎晩必ず数人を殺すようになる。
また昼は昼で、些細なことにもひどく腹を立て、ほとんど毎日数人ずつ誅殺する。
それに聚楽第の天守閣から街行く人々を撃つのだが、きわめて達者なので的を外すこともなく、
即死するものもあり、重軽傷を負って逃げ惑う者もいた。

ある日秀次公が北野辺に物見遊山に出かけたとき、子を宿した大きな腹の女を見かけて、
そばにいた若い者を呼んだ。
「なあおまえ、あの女をここへ連れてこい。孕んでいるようだから、腹を破ってみよう」と言うと、
その男は「かしこまりました」と言って急いで走って女に近づいた。
すると小声で、「これ女、早く逃げよ」と言う。
女はこれを聞いて肝を潰し、足に任せて逃げていく。
その男はしばらく追いかけるふりをすると、誰を捕らえるわけでもなく、
その辺りにあった麦を手に握って帰っていった。

秀次公が「女はどうした」と問うので、男は
「それが、孕んでいると思いましたが見当違いで、麦を入れた袋を懐に抱いておりましたので、
その証拠にと思って、一掴み取って参りました」と、手にしていた麦を差し出した。
秀次公は「懐妊した女だと思ったが、なんだ、袋に入った麦だったか」と残念がった。
この者がこうして気を回さなければ、その女は無駄死にすることになっていただろうから、
情け深い振る舞いだと、人々はこぞって男を称美した。

この程度の悪行は、書こうとすれば限りがなく、その十分の一も満足に書けない。
それどころか秀次公は、実の親よりも慈愛を注いできた秀吉公の恩をたちまち忘れ果ててしまって、
逆に謀反を起こそうとした。これで、ついに天罰が当たり、人々にも背かれて、その身を滅ぼしたのだという。
また秀次公は後陽成院様の見目麗しいお姿を目にして恋慕の情を燃え上がらせ、
あれこれと言い寄ったところ、ついに御憐みを受けたとも聞く。
古来から前例がないことなので、その天罰が当たったのだとも噂された。

驕る者は久しからずの世の習い、いずれは滅びつ運命だったのだろうが、
今回は石田治部少輔三成の讒言があって、こんなことになったのだという。
その石田治部少輔三成は、三奉行の中でも秀吉公の面前では不足なく振る舞い、
天下の政道を何でも思うがままに操ってきた。

秀次公はこの奸邪をひどく嫌った。
石田は、この秀次公がこのままいれば、秀吉公が亡き後は自分の身が危なくなるのはわかりきったことで、
どうにかしてこの人をうまく陥れることはできないかと考えていた。
その年の春のころ、秀次公は何を思ったのか、諸大名にひそかに人を遣わし、
「太閤ご同然に仰ぎ仰ぎ奉ります」と記した起請文を書かせた。

太閤もまた秀頼公が生まれてからというもの、
「ゆくゆくは秀頼に天下を譲りたいものだ。
そうなると、秀次が関白の地位にいたままでは難しい。何か起こらないものか。
事を大げさにして失脚させてやろう」と思っていた。

石田はこれを好機と見た。
「かねてから秀次公に陰謀の企みがあると申し上げておりましたが、詳細がわかりました。
やがて聚楽第に太閤を招待して、饗応の後、
数奇屋に場を移して太閤を討ち果たそうとの計画です」と讒言した。
これは実際ありそうでもまったくの虚妄だったとか。
その数奇屋はよほど豪勢にしようとしたのか、どこもかしこも金塗りにして、使わずに取り置いていたそうだ。
これを石田は、その昔西園寺殿が北条家と同心して、後醍醐天皇を自分の屋敷に御幸させて討ち果たそうとした、
その陰謀を実現させるための家の構えと同じように伝えたようだ。
ずっと後まで、これは虚妄に過ぎないと人々は言い合った。

しかしながら、秀頼公が誕生してしまえば、秀次公が今後天下の主になれるかどうか、怪しくなってくる。
太閤の心も変わっただろうと、秀次公は考えたはずなので、
謀反を企てたというのは、まったくの虚説ではないかもしれない。
しかし、秀次公の逆意の証拠も、また謀反がまったくの嘘だという証拠も、どこにもなかった。
ただ年来の悪逆を天が憎んだからこそ、石田の心に味方をして讒言をし、秀次公を滅ぼしたのだろう。

また先年、秀吉公は関白秀次公へ四人の老臣を付けていた。
その四人は、中村式部少輔・木村常陸守・白井権太夫・田中兵部少輔だった。
第一人者の中村式部少輔は賢才のある者だったので、秀吉公と秀次公の仲が不和になると見切ると、
折につけ秀次公に諫言をしていた。
しかし忠言は暗君の耳を逆撫でするのが世の常で、式部はたちまち御前から遠ざけられてしまった。
そのとき式部は速やかに去ることはせず、秀吉公父子の仲がいずれ大惨事になると予測して、
「もう一度もとの通りご奉公させてください」と太閤に重ね重ね頼み込んだが、了承を得られなかった。
式部は重ねて、「私の言い分にご納得いただけなければ、頭を丸めて俗世を離れ、修行の道に入ります」
と頑固に言い張ったので、秀吉公もそれならばと再び召抱えた。

かの晋の張翰は、斉にいたときに、秋風が起こるのを見て蒪菜の羹(ジュンサイの汁物)、
鱸魚の膾(スズキの刺身)を思い出し、高官の位を捨てて故郷の呉帰ったというが、
まさにこういうことだろう。

田中兵部少輔は自分の立身出世のために、「秀次公はこう仰せになりました」などと、
あることは言うに及ばす、ないことまで治部少輔に密告し、
ついに主君の秀次公を滅ぼして、自分だけは大身になった。
こうした悪逆非道を天が見逃すはずもないだろうから、田中の末路は恐ろしいことになると、皆思ったものだ。

秀次公のことは、すでに記した書があるので、詳しくは書かない。ただその拾遺に留める。


以上、テキトー訳。

なんかB級サスペンスドラマの匂いが立ち込めてるwww
昔からみんな陰謀が大好きなんだね。
陰謀をたくらむのが、じゃなくて、他の誰かの陰謀を類推するのが好きなんだろうと思う。
しかし三成disのブレなさよ……もういっそ、こういう悪代官キャラだと思い込んで読んだほうがいいのかも。

そういえば昨日の章で書き忘れてたんだけど、
私が隆景に最初に違和感を感じたのは、秀秋を養子にしたくだりで
「自分の家を犠牲にして毛利を守ろうとした」ってとこなんだよな。
美談のように描かれてるけど、もともとの小早川家からしたらたまったもんじゃねえ。
そんなアッサリ捨てちゃって、「えっ、これ美談?」て思った。
小早川の姫との間に娘でもこさえて、その婿に他家からの養子を迎えるならまだしも、
子供一人こさえずに、つまり小早川の血の一滴すら残さずに放り投げるってどういうこと?と。
姫が子供産めないなら、一門衆からピチピチの女子を側室に迎えたっていいわけじゃない。
その側室が子供産むかどうかは別として、挑戦してみるだけだって違うじゃない。
それでもダメなら隆景にタネがなかったってことなんだろうが、せめてやってみればよかったじゃない。
そんなわけで、隆景ってもしかして人でなし?なんて思っちゃったわけだ。
この印象は今でもぬぐえないまま。
小説から戦国入門すれば少しは違ったかもしれないんだけどね……

まあ、そんな思い出し愚痴でした。
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