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2012-03-02

久々の帰国

だいたいの流れ:
朝鮮出兵がだいたいひと段落して、関白秀次が太閤秀吉の命で切腹させられた。


摂州の塘を築くこと、並びに遊撃再び渡ること

太閤と当代の関白秀次公が不仲になり、秀次公が高野山で切腹したことが朝鮮へと伝えられると、
その地にいた諸将たちは、これはひとえに秀次公の悪逆無道が積み重なったせいだとは言いながらも、
それをことさらに讒言したのは石田治部少輔なので、石田の奸邪を忌々しく思った。

黒田甲斐守(長政)・加藤左馬助(嘉明)・福島衛門太夫(正則)・吉川侍従(広家)たちは、
三成の讒言を恐れて、どんなおべっかを使おうかと、人心地がしなかった。
そのうち、文禄四年九月には、朝鮮も平定された。
そうなると、中国勢の近年打ち続いた忠戦の苦労をねぎらうため、
「早々に帰朝するように」と秀吉公から命が下ったので、
吉川侍従をはじめとして、皆順風に帆を上げて帰国した。

そうして十一月に大坂に上ると、太閤は
「近年はあちこちで忠戦に励み、なかでも江陽の大戦、川下の城攻めでは、
諸手に優れて骨を砕いてくれたのは神妙の至りである」と、再三にわたってねぎらった。
朱印状に御太刀・御馬などを添えて下賜されたので、時の面目世の誉れ、また類ないものに見えた。

翌けて慶長元年二月、大坂から伏見の間にある淀川の
川除(かわよけ、川底をさらって河川の氾濫を防ぐ工事)と堤の建設を輝元卿・広家様に任せるようにと、
秀吉公から命が下った。
すぐに中国八州の勢が普請に当たったので、同年十一月までには出来上がった。
太閤は「まさか今年中に堤建設が終わることはないだろう」と思っていたのに、
意外にも早く完成したので、ずいぶんと精を入れてくれたのだと、大いに感じ入ったそうだ。

さて同五月、小西摂津守は大明と和睦して、遊撃将軍、並びに参謀の謝用梓竜岩を伴って大坂に着いた。
太閤はまず小西の戦功を大いに賞賛した。
同六月一日、太閤は唐使に対面した。唐使は、異国の珍器を数を尽くして捧げた。
このとき、大明の帝王から、我が国の諸将に唐冠と装束、石の帯が贈られた。
まずは松平大納言家康卿・宇喜多中納言秀家卿・小早川中納言隆景卿・吉川侍従広家朝臣・
立花侍従統虎(宗茂)朝臣・黒田甲斐守長政朝臣・島津兵庫頭義弘朝臣・加藤主計頭清正朝臣・
小西摂津守行長・石田治部少輔三成・大谷刑部少輔吉継・増田右衛門督長盛・
前野但馬守長泰・加藤遠江守光泰・加藤左馬助、以上十七人だったという。
あとの三人は忘れてしまったので、あとで調べてから記す。

このなかの人では、前野は秀次公と一味して討たれていたが、
明の使者はそれを知らずに、目録に載せてしまったようだ。
この人々は朝鮮で猛勇を示し、知略も抜群だったので、武名が三鮮に響き渡っていた。
それどころか大明の七百余州にもこの諸将の名が響き渡ったので、
明の帝王が和平を祝してこうして装束などを贈ったのだという。

なかでも家康卿は、自身は我が国にいながらにして、神武の名が数万里に鳴り渡っていたからこそ、
明の帝王が冠装束を贈ってきたのだろう。こうした前例はほとんどなかった。
このとき小西が唐の使者を連れてきて秀吉公に対面した詳細は
「太閤記」に詳しく載っているので、ここでは大雑把に記す。


以上、テキトー訳。

目が痛くてもうだめだ。寝る……寝てやる。←ただの酔っ払いです。
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