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2012-03-10

蔚山ピンチ!

ついったでつい魔がさして、隆達節のBOTを作ってしまった……
そんな暇あるなら「陰徳記・下」の目次を早々に作れよ、と、脳内の景様に白い目で見られて至福。
目次もね、ホントそろそろ作らなきゃね。
わざわざログをたどってくれている方がいたら、本当に申し訳ないです。

あ、さっき岩国レンコン焼いて食べた。
歯ごたえもあってホクホクのみっしりした食感が最高でした。
明日はかす汁に挑戦せねばのう。

さて今回の陰徳記、停戦中の朝鮮でナニヤラ事が起こっているようですぞ。


蔚山(ウルサン)の城、南兵勢が取り囲むこと

遊撃将軍が和平を請うてきたので、大明と日本は和睦をして、諸人はやっと胸を撫で下ろしていた。
秀吉公は、自ら大明へ攻め入って四百余州を我が手に従え、
後陽成院様を大明へと遷御させて帝王として仰ぐつもりでいた。
また関白秀次公を大明でも関白とし、毛利輝元卿・宇喜多秀家卿を左右の大臣として、
そのほか西国の大名たちをすべて大明へ渡らせて、
彼らが領していた国々には自分の旗本の武士たちを置こうと考えた。

これを発表すると、西国の大名たちはこれを聞いて、いまさら見たこともない唐土に入れられるのは、
戦功の恩賞ではなく、ただ遠流の刑に処せられるのと同じだと嘆いていたが、
遊撃が和平を申し出てきたのでホッとしたのだった。
大明と日本が和睦すると、朝鮮に軍を駐屯させていても意味がなくなって、
三奉行をはじめとして、多くの大名が帰朝し、中国・九州の大名からわずかな兵が残されるだけとなった。

さて蔚山の城を築いて加藤主計頭を籠め置くことになり、
同(慶長二年)十月から鍬初めを行い、ひしひしと昼夜の別もなく築城を急ぐ。
上方衆では浅野左京太夫(幸長)、普請の奉行には大田飛騨守(一吉)、
中国の毛利家からは宍戸備前守(元続)、そのほか吉見大蔵大輔(広長)・日野上総介・
冷泉民部太輔(元満)・阿曽沼豊後守・三村紀伊守・口羽十郎兵衛尉・
和智少兵衛尉・都野三左衛門(家頼)などが、普請のために差し出された。

大明とは和睦しているので、もう何も起こらないだろうと、用心を緩めて張番も物見も出さず、
すっかり油断していた。
大明が遊撃を通じて和平を請うてきたのは謀略だったのだろうか、
慶長二年十二月二十二日の卯の刻(午前六時ごろ)、漢南兵勢に高麗勢が加わり、
百二十万騎が蔚山表へ攻め懸けてきて、先陣が日本陣に切ってかかった。

浅野左京太夫は城中にいた。
城外には中国勢がいたが、敵に一番近い位地には冷泉民部太輔・阿曽沼豊後守・
都野三左衛門などが陣取っていた。
思いもよらず明け方に、敵が数百で夜討ちを仕掛けてきてもいかんともしがたいものだが、
ましてや数万騎で切りかかってきたので、雑兵たちは
城との間を分断させられる前に城中へ入ろうとして、乱れに乱れて物の役にも立たなかった。

冷泉民部は名高い剛の者だった。鎧を取って肩に掛け、そのままで切って出る。
都野三左衛門・阿曽沼豊後守も少しも騒がず、向かう敵に切ってかかった。
そのほかも、中国勢は敵を打ち破ってから城に入ろうと、少し突き退けたところで城中に非難した。
阿曽沼・都野は追っ手を切り払いながら城の近くまで来たけれども、
いくら切っても突いても、敵は猛勢なので足を止めることもできず、ついに討たれて死んでしまった。

冷泉の父の判官隆豊は、長門の国の大寧寺で大内義隆に忠死を遂げ、
兄の五郎元豊は、豊前の柳の浦で戦死したが、親・兄ともに、世に類なき勇士であった。
だからなのか、民部もまた無双の剛の者だったので、城には入らずに一文字に敵に切ってかかり、
自身の陣所より二町も三町も敵の方に切り入ったまま討ち死にした。
世が明けて冷泉の戦死したところを見れば、
討ち死にした唐人たちの死体が塚を築いたかのように積みあがっていた。

宍戸の手勢でも、深瀬次郎兵衛尉・末兼土佐守・渡辺壱岐守・難波信濃守たちが、身命を投げ打って防戦した。
江田市兵衛尉・江田弥六・蔵田三蔵・山路惣太郎・井上又六・児玉五郎兵衛尉・万代彦右衛門・
大垣左吉・若林新三郎・木口二右衛門・板花利兵衛尉をはじめとして、数百人が討ち死にした。
宍戸備前守はその隙に十死を逃れて城中に入ることができた。

吉見大蔵太輔は、そのときまだ十五歳だったが、兄の次郎兵衛尉が病死してしまったので、
今回初めて戦場に赴いた。祖父正頼の勇を受け継いだのか、味方が大勢討たれて、
皆前後を乱して城中へ入ろうとするなか、吉見は少しも騒がずに、手勢の五百騎に下知をして、
切り返して突き退けた。
吉見が唐勢の先駆けを一手に引き受けて追い返したので、味方も安心して城中に入ることができた。
吉見がこうした勇を成さなければもっと味方が討たれていただろうに、末頼もしいことである。

浅野左京太夫も諸軍勢に下知して、城を敵に奪われないように立ち働いた。実に立派な将である。
大明勢はこのときの勢いで城に攻め入っていれば、城はすぐに陥落しただろうに、
夜討ちの勝利に気を良くして、やがて本陣へと引き返し、陣をかまえた。
城中は次々と持口を固め、諸軍士は息を継いで体制を整えた。


以上、テキトー訳。

和睦交渉をしていても、現地の軍勢は上に従わず……てのはしょうがないよな。
そんなわけで有名な蔚山の攻防に突入したね。
はっはっは。百二十万騎とか、まじで正矩はお茶目さんだなぁ。

宍戸さん! いつも影の薄い宍戸さんが活躍してるよ! ヒャッホウ!
元続は関ヶ原でも広家と一味して、東軍への内通に一役買ってるんだよな。
元続の父、元秀は「病弱など」を理由に廃嫡されて、祖父隆家から元続へと家督が譲られたんだね。
隆家の死が文禄元年かぁ。父の元秀も慶長2年没。
マジで毛利の頼りになる実力者がこの期間に次々と死没してんのな。熊谷信直もな。
その次の実力者世代が、広家・福原広俊・益田元祥・宍戸元続・熊谷元直といった
同じような年齢(ほぼ1560年近辺の出生)の世代だったのは興味深い。あと元康や秀包も。
吉川にとって、関ヶ原で意見が足並みそろえた宍戸は盟友じゃないのか、とも思ったけど、
この人、大坂の陣で佐野道可事件に深く関わってるっぽいな。
大人の世界はいろいろあるんだねぇ。いえ私も年齢だけなら立派な大人ですけどもね。

あと吉見氏も活躍してるね。
吉見さんとこは、正頼が元就に属してから、子の広頼が隆元の娘を娶り、
隆元の娘が死んで(1571年)から内籐氏女が後妻に入って男子が生まれ、
今回出てきてる少年はその次男の広長、で合ってるよね。
この広長が輝元とそりが合わず、1599年に出奔→帰参→粛清という末路になるけど、
吉見氏自体には広家の子の彦次郎が養子に入ってるから、
そのせいでかっこよく描かれてる可能性もあるね。
結局、彦次郎も吉見姓捨てて毛利姓に復す(毛利就頼)んだけどな。

そんなこって、関ヶ原前後の毛利を支える重要人物がチラホラ出てきて、オラ、わくわくすっぞ!
蔚山救援は吉川大活躍のはずなので期待しつつ、
次回は加藤清正の大活躍みたいなので続けて読んでいく。

清正と浅野幸長も、深い絆があるようなので、ちょっとワクワクですな。
聞くところによると、幸長のトーチャンが息子を朝鮮に送らなきゃいけなくて悲嘆に暮れていたところ、
清正が親代わりになることを申し出たとか。
そして現地で揃って女遊びして揃って梅毒にかかったとかいう話もあるけど仲イイねー^^
浅野のトーチャンと広家は喧嘩したこともあったけど、まあまあ仲は良好だったみたいだし、
後年浅野の家老になった上田宗箇さんと広家・広正は交流を深めてたみたいだし、
浅野さんちにも興味が沸いてきたなぁ。
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