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2012-03-11

蔚山の攻防

粕汁初めて作ったー。
岩国レンコン&五橋の酒粕入り。岩国ゾッコンLOVE☆
残りの酒粕をどう使おうか思案中。甘酒がいいかな?
あと本日のお酒は山口県限定の「大吟醸毛利公」。
うん、やっぱり五橋の方が好きだな。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
蔚山城の普請に当たっていた諸将たちは、明と日本の和平締結にすっかり油断していたが、
慶長2年12月22日、明・朝鮮の大軍から思いもよらぬ攻撃を受けた。
城外にいた将も多くの犠牲を払いながら場内に撤退し、各所の守りを固めた。


加藤主計頭清正、蔚山に入ること

河南勢百二十万騎が蔚山の城を稲麻竹葦のごとくびっしりと取り巻いたことが、
セツガイへと櫛の歯を引くように報告されてきた。
加藤清正は「私があの城に籠もろう。
城を乗っ取られては、我が年来の武勇は無駄なものになってしまう。
せっかく今生きているのだから、無二に城へと入ってやる。
しかしながら、我が手勢の八千騎をもってしても、陸地からの入城は難しいだろう」と、
兵の多くは待機させたまま、わずかな手勢を率いて船に取り乗った。

夜のうちに蔚山の港に漕ぎついて陸に上がり、
一千余騎で大明勢の十重二十重の囲みの真ん中へとドッと切ってかかる。
大明勢は思いがけず切りかかられて、左右へさっと道を開けた。
清正はこの調子で十重二十重を切り破り、城へツッと入っていった。
「清正の働きは、凡夫の勇の及ぶところではない。神通力でも得たのか」と、
城中はドッと歓声を上げ、「もはやこの城は落とされまいぞ」と、上下ともに大いに心を強くした。

さて持口の支配は、加藤主計頭・浅野左京太夫・宍戸備前守が評定をして、
さらに堅固に構えるように下知した。
外構えが張り出して堪えているところには、敵が平攻めに攻めかかってくる。
城中からは鉄砲をしきりに撃ち掛けて防ぎ戦った。

西の門では浅野左京兆の持口から大明勢がなだれ込んできて、味方は無力に持口を放棄して城中へ引き退いた。
宍戸家の深瀬次郎兵衛尉は自分の持口を去らず、
同様に楢崎吉右衛門・渡辺三右衛門なども一緒に持ちこたえる。
加藤与左衛門が「こんなところで無駄に討ち死にするより、城中へ戻れ」と強く言い送ったので、
深瀬たちはようやく城に戻った。

大田飛騨守は門を守っていたが、扉を開けて味方を中に入れようとしたところ、
大明勢がそこに付け込もうと攻め入ってくる。
これを散々に切り払って追い立て、そのまま門内に引き揚げた。
このとき、神代新三郎という者が討ち死にした。
宍戸備前守も城中へ入れずにいたので、三村紀伊守と宍戸の郎党の末兼土佐守が追っ手に突き掛かり、
大明勢が怯んで少し後退した隙に、宍戸備前守はすばやく門の内に入った。

さて本丸には加藤主計頭・浅野左京太夫・大田飛騨守、二の丸には宍戸備前守が籠もり、
三の丸には宍戸勢の一組、そのほか中国勢を籠もらせようということになったが、
普請がまだ途中で、塀も格子も出来上がっていない。
そこにわずかな勢で籠もったところで、大軍を引き受けて防ぐことなどできはしないので、
自分から立て籠もろうと名乗り出る者はいなかった。

宍戸備前守が「なぜ皆三の丸へ籠もろうとしないのか。
これまで受けてきた主君の恩賞は、こうした場所で身命を投げ打ってこそ報謝できるというのに、
まったくどうしようもない」と言うと、
口羽十郎兵衛尉・和智少兵衛尉が進み出て、
「我ら二人が籠もって戦死してまいります」と、すぐに三の丸に向かっていった。
日野上総介もこれに続いた。

こうしたとき、吉見大蔵太輔の家之子で吉見四兵衛尉という者が
「大蔵がこれから三の丸に立て籠もります。
後日のためですので、よくお聞き届けください」と言い捨てて三の丸に向かっていった。
三刀屋監物も負けるものかと進み出たので、三の丸はなかなか堅固な備えとなった。
口羽十郎兵衛尉は、門の構えが十分でないので、木々を結い集め、竹を束ねて掻きつけて、
門の構えを堅固にし、鉄砲を引っ掛けて待ちかけた。
日野・和智たちもそれぞれの持口で緩みなく控えている。
三刀屋監物はそのなかでは古兵だったので、走り回って下知を飛ばし、働いた。
寄せ手は入れ替わり立ち代り、隙間もなく攻め上ってくる。城中も、ここを先途と防ぎ戦った。

同二十四日、宍戸は手の者から足軽五百人を選りすぐり、
渡辺壱岐守・難波信濃守を歩兵の将として、敵陣に夜討ちをかけた。
一人が数人ずつ敵を切り捨てるも、大軍を破ることもできず、城中へと帰ってくる。
唐勢も、真っ先に応戦に出た百や二百の兵たちが、最後尾の城兵の帯に追いすがって、
一筋に続いて石垣を這い登ってくる。

鉄砲で射落として鑓長刀で突き落とせば、またその後から攻め上ってくる。
上れば切り落とし、切り落とせばまた上る。
少しも死を恐れず、太鼓を打ちつつ、一時の間は息も継がずに攻めてきた。
やがてまた、鐘を打ち鳴らして引いていった。

こうして引いていかずに、半日ほどもひたすら攻めかかられれば、
城中は小勢なので、たちまち息を切らして防ぎ戦いようがなくなるというのに、
唐勢は一時攻めて一時休んだ。
その隙に城中も兵糧を食い、水を飲んで休息できたからこそ、城を持ち堪えることができた。
しかしすでに諸軍勢は疲れ果て、時間が経つごとに目に見えて浮き足立ってきた。
加藤主計頭清正が本城に入り、具足を解いて広袖の赤く染め抜いた夜着をつけ、
楊枝をくわえて何ともない風情でいる姿を見て、城中はようやく静かになった。

寄せ手が昼夜の境もなく攻めてくるたびに、切り伏せ突き伏せしていたので、
鑓や刀の刃はササラ鋸のようになった。
そのうえ鉄砲の弾薬も乏しくなってきたので、石垣のために集め置いていた石を使って数人を撲殺し、
石垣を登ってくる敵には砂を炒って蒔く。
唐人は弓を持って馬に乗れば自由自在に動き回れるが、
太刀・長刀・槍を合わせる手詰めの勝負は不得手なようで、
我が国の兵一人に二十人で向かってきても太刀打ちできない。

そうでもなければ、日本勢がいかに名将勇士ぞろいとはいっても、たった八万や十万騎で、
どうして唐勢百二十万騎に勝てたというのか。
唐勢が臆して死を恐れたわけではない。
死を恐れない心は日本勢にも勝っていたけれども、
手詰めの勝負を決することが、先に言ったとおりなので、日本の僧や町人にも劣り、
手ぬるい働きとしか言い様がなかった。
だからこそ、いつも日本勢が寡兵で大軍を挫くことができたのだ。

清正は軍評定の場で、「この城は兵糧と弾薬が足りない。
無二に切り抜けて、セツガイの城に籠もるべきか」と問いかけた。
宍戸が「セツガイまで九里も退いてしまうのはどうかと思う。よく考えたほうがいい」と言ったので、
清正ももっともだと思ったのだろう。切り抜けるという案は実行されなかった。

大明勢の先陣には日本人が二人いた。
一人は岡本越後守といって、もとは清正の家臣だった。
一人は田原七左衛門といって、宇喜多秀家の郎党だった。
二人ともとある事情があって大明に寝返ったが、この者たちが同二十七日の朝、
馬に飛び乗って城の近くに駆けてきた。

「鉄砲を止めてくれ。城中へ申し上げたいことがある」と呼びかけると、
城中は「あれを聞け」と弓・鉄砲を撃つのをやめて話を聞く。
「我らはは先年、清正の家中におりました岡本越後守、
宇喜多黄門の家人であった田原七左衛門でございます。
こたびは、河南勢百二十万騎の先陣に加わって、ここまで参りました。

いかに清正が大勇将でいらしても、この城に籠もる兵を地の広さから類推しますに、
わずか二万騎にも及ばないはずです。
その人数では、大明勢百万騎にはとてもかなわないでしょう。
昔の主従のよしみは未だにほんの少しも忘れておりません。
御一命をお助けしたいと思います。
まず和睦をなさってこの城を明け渡していただければ、下々に及ぶまで、
命にかかわらぬように取り成しをいたします」

清正はこれを聞いて、「これは天の加護だぞ。
きっと日本勢の後詰があるはずだが、到着まで鉄砲の弾薬も続くまいと思っていたから、
これは好都合だ。それに兵たちも疲れている。
息を継ぎ、体を休めることができる。これはこの城の運を開く神助に違いない」と考えた。
「では二人を頼ることにしよう。城を明け渡すことはできないので、ただ互いに和睦を結び、
人質を取り交わし申そう」と返事をすると、大明からは「城を渡すように」としきりにせっついてきた。
これで二十七日から二十九日までは交渉のみで合戦はなかった。

さて岡本・田原がまた駆けてきて、
「主計頭が城より出てきて、我が軍の将と対面したうえで和睦のことを礼謝してくだされば、
大明勢は諸軍を引き揚げて帰ります。
もしそうしなければ、和睦はできません」と伝えてきた。
主計頭は「この城は普請もなかばで、兵糧・弾薬が乏しく、あと十日も籠もっておられまい。
となると、まず一旦和睦をするのが、城を守る策略になる」と考え、
互いに小勢で会見し、対面しようと約束を交わした。

さて三十日の朝の辰の刻(午前八時ごろ)、加藤主計頭は大明勢の陣へ赴こうと、
手勢百余人を連れて門の外へ出た。
しばらく敵陣を見てみると、城と寄せ手の中間に四、五間ほどの仮屋が建ててあり、
その上を何とも形容しがたい色合いの、つややかに光って辺りを照らすような
唐の織物らしき物で覆って目隠しにしてあった。

清正はしばし門の外に立って、敵陣の様子をうかがっていたが、何を思ったのか、
「和平は破れたとしても敵陣へ行くべきときではない」と、やがて門の中へ入ってしまった。
「和睦の条件には相違するが、大明の陣へ行くことはできない」と返事をすると、
大明勢は怒り狂い、晦日からまた鬨の声を上げて昼夜の別もなく攻め懸けてきた。


以上、テキトー訳。

攻城戦とか野戦に比べて、城の守備戦てのはどうも嫌な汗が滲んでくるね。
引くにしても、一旦押し返してから門に引き返すってのは、着実なんだろうけれども被害がハンパなかろう。
きっついなぁ。一番きっつい三の丸に志願した人たちはホントすごいと思うよ。

「も、もう俺たちダメなんじゃね?」「に、に、に、逃げ出しちゃおっか」となってる城内を、
寝巻き姿の披露で黙らせちゃう清正たんテラスゴス。
これを考えると、真っ先に逃げ出す大将(山名豊国とか大友義統とか)は、
小者・足軽ごときの分別って言われてもしょうがない気がする。
しかし赤い襦袢の清正とか想像すると鼻血出そうだなwww

和睦会見を蹴ったのはなんでだったんだろうね。
密室で取り巻かれて殺されるかもしれない、という予感が強くなったからなのか、
そろそろ後詰が来ると見切ってのことだったのか。
陰徳記の描写のし方だと前者だよなぁ。
清正で保ってる城内だから、清正が殺されたとしたら、あっという間に崩れるだろうし。

うーん、そんなわけで次回は蔚山救援に向かう諸将の動き。
個人的に待ちに待った秀元の登場だぜぃ!


末筆ながら、今日は東日本大震災から一年経った日なわけだけど、
大内義隆の辞世の句の下の句を思い出したよ。
「如露亦如電 応作如是観」
露のごとく、また雷のごとし。まさにかくのごとく観をなすべし。
「金剛経」の一節だそうだ。
命は儚く消えるもの。それを知ったうえで、明日を生きたい。
受け止めて前に進む。昔からご先祖さんたちがやってきたように、
生き残った者たちとして、明日からもまた足掻いて生きまっしょい!
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