FC2ブログ
2012-03-12

蔚山、待ってろ、落ちるんじゃないぞ!

二日目の粕汁が美味すぎる……!
すべて五橋の酒粕と岩国レンコンのおかげです(すっかり信者)。
しかし明日中にはコレ食いきってしまうな。しょんもぅり。

さてこれまでの流れ:
明は和睦したいって言ってきたのに、油断した日本軍の隙を突いて
普請真っ只中の蔚山城に大軍で攻めかかってきやがったよ!
急遽加藤(清)が入城して持ちこたえたり時間稼ぎしたりしたけど、なんかそろそろ限界かもしれないよ!


蔚山の城の後詰、並びに大明勢敗軍のこと(上)

蔚山城が大明の軍勢百二十万騎に稲麻竹葦のようにびっしりと取り囲まれ、
近日にでも陥落しそうだという報告が、西高麗へと櫛の歯を引くようにもたらされた。
日本の諸将は援軍に駆けつけようとしたけれども、このときの日本からの派兵はごくわずかなものだった。
太閤秀吉公が「わしは大明の帝王と和睦した。今は高麗で戦うべき敵はいない。
軍勢を少し残してとどまらせ、三韓の地を守備せよ」と、諸将を半分以上帰朝させてしまったからだった。

高麗に残っていた人々は、まず毛利宰相秀元卿が、中国勢三万騎を率いて後詰に向かった。
これは今回、輝元卿に代わって高麗に渡ってきたのだった。これが初陣だったそうだ。
蜂須賀阿波守・黒田甲斐守(はじめ吉兵衛尉という名だった)・鍋島加賀守・山口玄蕃允たちも、
二万五千余騎で蔚山表に駆けつけた(慶長三年正月二日)。
大河を隔てて手前の山に陣を取る。

黒田勘解由入道如水は、太閤秀吉公が
「予の天下を手にしようとうかがっているのは黒田勘解由入道めだ」と常に言っていたが、
今回は「朝鮮の戦の評定をするように」と、再び渡海させていた。
その真意は、「黒田勘解由が日本にいては面倒なことになる」と思ってのことだったという。

如水は、さすがの胆の大きな太閤さえもが恐ろしい者だと思うほどの、智勇全備の良将であるがゆえに、
ここに駆けつけて、諸将に向かって
「日本勢の数はあまりにも少ない。一ヶ所に陣を構えて、勢の全容を敵に知らしめるのはあまりにも稚拙だ。
後ろの山に控えて、小隊を一つずつ次々に山上に打ち上げ、
なおも後から大勢が続いているように見せかけなさい」と助言した。
皆これをもっともだと考え、一隊ずつ次々に陣を移した。

小早川金吾(秀秋)は釜山海の城にいたが
「皆と一緒に城を明けて蔚山に向かってしまえば、
その隙をうかがって敵が舟手を切り取ろうとしてくるだろう。
そうなれば由々しき一大事だ。
金吾は釜山海の城にいて、後口を堅固に守ってください」と諸将が口をそろえて言うので、
山口玄蕃允を名代として差し出し、釜山海の城を守っていた。

それを石田治部少輔が、太閤へ
「左金吾は敵の大軍に臆して、蔚山の救援に向かわず、なさけなくも釜山海の城で震えていました」
と讒言したので、いったんは筑前の国を取り上げられ、
石田が自分が預かったといって、所務などを我が物顔で奪い取ったという。

吉川侍従広家様は古泉の城にいたが、蔚山の様子が知らされてきたので、
茶碗の城にいた毛利伊勢守(高政)に飛脚を飛ばし、ともに蔚山に向かおうと呼びかけた。
伊勢守が固く約束してきたので、広家が五千余騎を率いて茶碗の城まで打ち出てみると、
伊勢守は約束を違えて、自分の弟を一人城に残し置き、
「広家と一緒に来い」と言い捨てて、自分は舟に飛び乗って、海上から蔚山に向かおうとしていた。
しかし伊勢守は急に変わった風向きに難儀して海上を漂ったのだった。

広家様は伊勢守に出し抜かれたと激怒して、翌けて慶長三年(戊戌)正月朔日に、
カドガイの渡しに到着した。
その河水の氷は固く閉ざされていたが、年越しの夜間の風が温かだったのか、
朝吹く風にも氷が解けて、なかなか氷上を走って渡れるほどでもなかった。
また舟が自由に往来できるわけでもなく、ようやく舟一艘が通れるような状態だった。

帰るときはまた帰るときで考えればいいが、大勢を一度に渡河させることができない。
広家様は馬一頭と旗本の勢二、三十ほどを連れて舟に飛び乗り、その夜遅くに釜山海に着き、
翌二日にセツガイに着いた。
同三日の午の刻(正午ごろ)に蔚山に到着し、その足で太夫秀元様の陣所へと向かった。
秀元様はすぐに対面して、軍評定などを行った。

広家様は、並み居る中国の侍大将に向かって、
「この陣の取り方を心得ておいてほしい。
敵陣に近いようでいて近くはなく、見渡してみればわずか三町前後だが、
いざ敵と一戦となれば渡し口に遠いから、人に出遅れることになろう。
もう少し渡し口に近い場所に陣取ってくだされ。
ただ敵陣に近いところをと心がけたところで、渡し口からの遠近を
思慮のうちから外してしまってはいけない」と言った。

熊谷豊前守(元直)は声高になって
「私もこのことを皆に申したのだ。
私などはこれという高名はないけれども、先祖の次郎直実以来、数代にわたって勇を顕してき申した。
そのなかでも祖父の伊豆守信直・父の兵庫助隆直は、中国の地で何度も武勇を顕してきた。
このことはおのおの方もご存知のはず。
私自身も高野山のときから元春・元長・広家の三代の先陣を務めてきたのだから、
武芸の法は身近で見聞してきている。
広家の仰せのとおり、私も皆へ申したのに、私などの申すことと、
気に留める者はいなかったではないか」と言った。

秀元様は輝元卿の名代としてこの地に来ていたが、軍評定を仕切る様子は、
是非・得失の別をはっきりとさせていて、さすが大将の器量だと思えた。

それから広家様は、黒田甲斐守・蜂須賀阿波守の陣所に赴いた。
皆は、「ただいたずらに敵を見守っていたところで、
蔚山の城がかんらくしてしまえばどうしようもなくなる。
明日河を渡って、興亡を決する一戦をしようということになった。
一番には黒田甲斐守・蜂須賀阿波守、二番には鍋島加賀守・山口玄蕃允、三番は毛利秀元様と評定は決した。
幸いにも広家がこの時節に着陣したうえは、思うところがあれば言ってくだされ。
何でも相談して味方必勝の策謀を練りましょう」と言う。

広家様は「皆の作戦がもっとも適切だろう。私の手勢も今日中に到着するはずだ。
もし到着しなくても、ただ一騎だけでも敵陣に切りかかって、
太閤へ身命を捧げ忠戦を貫いてみせよう」と、黒田・蜂須賀と一緒に三人で静かに話を続けた。

「それにしても夥しい敵の数だな」と言えば、
黒田が「先年、江陽表へ打ち寄せてきた唐勢より、はるかに多く見える。
川の渡し口へ向陣を張っている赤印の勢は、日本勢の押さえのようだが、あれは朝鮮人か。
これも二十万騎は下るまい。この勢だけでも太閤が小田原の城を取り囲んだ勢よりさらに多いだろうな。
日本勢一人当たり十人ずつ切り殺してもまだ足りない」と応じる。

広家様が「確かに、目を見張るほどの大軍だ。
しかしながら、敵があまりにも大軍すぎて、これは敗北のもとになるとも考えられないだろうか。
これほどの猛勢では、全軍一致して等しく軍法を適用することなどできないだろう。]
きっと皆バラバラなはずだ。
そのうち、陣中に火事でも起きるか、寝返りでも起きれば、大騒ぎになって鎮めようとしても鎮まるまい。
どんなに制しても大勢が傾いてしまえば踏みとどまることは難しいものだ。
手先の陣に夜討ちをかければ、友軍もともに崩れて、崩壊は止まらなくなる。
敵が三十万程度であれば味方も由々しき難局にあっただろうな。
百万以上の猛勢なら、かえって欺くのは容易いのではないだろうか」と言うと、
黒田も蜂須賀も、「確かにそうかもしれない」と同意した。


以上、テキトー訳。

このタイミングで駆けつける広家、まじヒーロー☆じゃね?
そうかぁ、秀元はこのとき初陣だったか。キツい初陣になったなぁ。
いきなり輝元の名代で、しかも敵の数がありえんほど多い。
負けてもおかしくないって言うかほぼ負ける戦いじゃんね。
さぞ不安だったろう。
そこに颯爽と現れる百戦錬磨の従兄……惚れてまうやろーーーー!
秀元の陣所に行った広家が「待たせたな☆」とか言ってたらキュン死にするわ^^

そして黒田・蜂須賀との会合というか主に黒田!との仲良しっぷりが
個人的にたいへん美味しいです。
長政はホントわんこ系だなぁ。愛いやつじゃ。
蜂須賀さんも中国と中央の取次役で、黒田との所縁もあって、興味深いんだけどね。
如水・長政と広家の仲良さのインパクトにはかなわん。

如水さんもさすがだよね~。
はったりを利かすにも、「敵から見るとどう見えるか」を念頭に置いているあたり、
現代でもマーケティング上手そう。ただしたまに重大なうっかりをやらかす。
慎重でデータ重視の隆景と、ひらめきとコンセプトの押し出しが強いクロカンのコンビで商売させたい。
もれなく競合他社の島津に泣きが入るという情景まで思い浮かべました。

あと、さりげなく金吾のフォローしつつ、相変わらず石田sageてんのは2424するね!
そしてもう一個、熊谷さんの軽んじられぶりが地味に気になる。

次回も引き続き蔚山救援。
ちょっと先行して読んだら、広家が本当にかっこよすぎて生きるのがつらくなるレベル。
スポンサーサイト



検索フォーム
カレンダー
02 | 2012/03 | 04
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
訪問者数