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2012-04-30

毛利勢の盛り返し?

ぷぇ。母の誕生日祝いに実家行ってきたぜ。
父の退職も祝わなきゃならんのだが、あの人欲しい物言わなすぎてこまる。

さて久方ぶりの陰徳記。
だいたいの流れは、毛利VS織田、鳥取が落ちて馬野山での睨み合いも終わったあたりだね。


因州大崎の城、そのほか荒神山以下没落のこと

翌天正十年のこと。去年は羽柴秀吉が因幡の国鳥取・丸山の両城を攻め落としている。
吉川元春・元長は、この遺恨を晴らすために、敵城の一、二ヶ所も攻め破ろうと考えていたが、
早十二月に至って大雪が降ってきたので、自由に身動きが取れなくなった。
明くる春を待って因幡へと発向しようと、はやる心を抑えているうちに、その年も暮れて天正十年になった。

今年は例年より暖かく、正月の中旬には雪が消えたので、
まず冨田あたりまで打ち出で、そこから因幡に向かおうと、
正月十七日に芸州を出発し、同二十五日には出雲の国の冨田に着いた。
同二月初旬、伯耆の八橋の城に着陣すると、杉原兄弟(元盛・景盛)が先陣に進み、
因幡へと出張りして、手始めに大崎の城を攻めようと、その表へと旅立った。
しかし鳥取城には木下備中守をはじめ、宮部善乗坊など、但馬には神子田・尾藤などが在陣していたので、
もしこの者たちが後詰に来た場合に備え、
熊谷豊前守・益田越中守・三沢摂津守・三刀屋弾正左衛門・湯佐渡守・
天野新兵衛尉などが三千余騎を率い、分かれて陣を取った。

大崎へは先陣は杉原弥八郎元盛・同又次郎景盛、
そのほか佐波越後守・富永三郎左衛門・周布十兵衛尉・津野駿河守など四千騎が馳せ向かった。
城中には、木下備中守から差し籠められている木下民部大輔、
そのほか因幡の国人の山崎・村越・蓑部・笹塚などという者たちが八百の兵とともに立て籠もっている。

同年二月十四日、杉原兄弟は、
「父の盛重は最期のとき、因幡で敵城の二、三ヶ所も切り崩して孝養とせよ、
と重ね重ね言っていたではないか。いざこの城を、他人の手は借りずに、我らだけで切り崩そう」と決心した。
その夜が明けるころ、手勢一千五百余騎で取手の丸に無二に切って入る。
足立治兵衛尉・安原民部が一番を争い、兵へ盛り上がるのを見ると、皆遅れるものかと攻め入っていく。
城中では思いも寄らぬときだったので、慌てふためいて二の丸へと逃げ込み、
杉原はここにも続いて攻め入った。

他の軍勢は「やれ、杉原に出し抜かれてしまった。これは口惜しい」と、取るものもとりあえず攻め上る。
城中では身命を捨てて防戦したけれども、多勢に無勢でかなうはずもなく、
皆あちらこちらで討たれていった。
木下民部は、杉原の郎党の三吉徳兵衛尉が討ち果たした。
その日取った首は四百六十ほどになった。

元盛・景盛は急いで元春の本陣に駆けつけ、
「今朝は下知のないまま城に攻め込みましたこと、二人の罪科は逃れられぬものと思っております。
しかし父盛重が死に際にこう言ったのです。
『私は忠興の第四番目の家老だったのに、元春公の御憐憫によって杉原家を相続できたのだ。
それなのに生きている間にたいした戦功も立てられず、
とりわけ京芸の合戦に勝負をつけるときが近々やってくるだろうから、
このときに身命をなげうって御厚恩に報いようと思っていたのに、不幸にももう長く生きられそうにない。
お前たち兄弟は、私の供養のために、敵城の二、三ヶ所を自分たちだけで攻め破り、孝養にしてくれ。
仏を供えたり僧に法要などやらせなくていい』
父がこう申し置きましたので、それに従ってこのようなことをしでかしました」と平伏して言った。

元春が、「今回の武勇は言葉では表現できない。父の盛重が生き返ったのかと思うほどだった。
しかしながら、今後は、こんな無茶な働きをするものではないぞ」と制すると、
兄弟は、「今回のことでは、父の遺言を守ろうとしたこととはいえ、罪科は軽いものではないでしょうに、
どうしてこれから、御下知のないまま、自分勝手な挙動などいたしましょうか。
今回軍法に背いた罪科を免じていただけて、実にありがたく存じます」と言って退出した。

元春・元長は、「軍法に背いたことはいけないことだが、
去年鳥取・丸山が落城してから、諸軍士は意気消沈していたのに、
元盛・景盛が勇猛な働きを見せ、兵たちの勇気を励ました」と、かえって兄弟を賞賛した。

同二十日、元春父子三人は七千余騎で荒神山へと発向した。
敵はその夜城を空けて退却したが、それを追いかけて三十余人討ち取り、
そのまま鳥取の山下へと押し寄せて、在家をことごとく焼き払った。
木下は「こうなれば打ち出して一戦するしかない」と勇んだが、
手勢が多くないので、仕方なく城に籠もって守りに徹した。
それから吉岡の城を攻めようと打ち出していくと、
敵はわずか二百人ばかりが籠もっているだけだったので、ひとたまりもなく退却していった。

それからは手近な城の麓に押し寄せ、焼き討ちをしたり一揆勢を数百人切り捨てた。
その後大崎の城まで戻って、どうにか鳥取を攻め破ろうと軍略をめぐらしたが、
なかなかの名城なので力攻めにしても落としがたいということになって、そのまましばらくそこに逗留した。

木下備中守がこうした出来事を羽柴秀吉に報告すると、秀吉は、
「この夏には備中口へと発向するので、因幡表は鳥取・私部などを敵に攻め破られないように守り、
打って出て戦おうなどと考えるな。
わしが備中へ下向すれば、隆景一人で後詰はできないだろうから、
元春もそのあたりを捨てて備中へ出てくるだろう。
そうでなければ、わしが備中へ攻め入り数々の城を落としたと噂にでも聞いて、
その表を捨てて芸州に逃げ帰り、自分の城を落とされないようにと、
堀を深くし、兵をつけて身構えるだけだろう。

この秀吉はこの夏中に備中を切り取り、備後から攻め入って、芸州を陥落させてみせる。
当年の内には毛利三家を成敗してやる」と返事をした。
但馬の山名宗仙・垣屋駿河守・増屋隠岐守、そのほか因幡・但馬両国の者たち七千余騎は、
秀吉の出張りを待ち受け、先陣に進もうと、但馬の国の竹田あたりに集まってきていたが、
この返事を聞いて皆自分たちの城へと帰っていった。

元春父子も伯耆の八橋まで引き揚げて、
「再び軍勢を催して私部を乗っ取ろう。
そうすれば秀吉は因幡へとやってくるだろうから、その地で一戦しよう。
せめて味方が一万騎もなくては、三、四万の播磨勢と対陣もしづらい」と、
出雲・伯耆・石見・安芸の者たちに出兵を促した。


以上、テキトー訳。

杉原兄弟かっこいいな。
先にこの兄弟の末路の話を読んでしまったから、なんとなく触れずにきたけど。
うん、こういう話を知ってからだと、杉原兄弟の逸話も切なさ倍増だな。

さて、連休は実家に帰りつつ、本を読んだり資料を漁ったりもしてました。
いま興味があるのが当時の建築物だとか生活用品なので、だいたいそのへん。
あと石見吉川(鳥取で自害した経家の系譜)あたりをちょこちょこと。
次の連休あたりには気がついたこととかまとめられるといいな。

陰徳記はしばらく惰性で続きを読む予定。
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2012-04-27

馬野山周辺事情

まともに陰徳記読むの久しぶりだー。
なんだか頭の中がしっちゃかめっちゃかで、落ち着いて読めてないな。
ゴールデンウィークなんてなくなればいいのに!
休日になる分、その周辺の平日で消化しなきゃならない仕事が山盛りだよ\(^p^)/

流れとしては、鳥取落城→元春と秀吉が馬野山でにらみ合い→降雪により秀吉撤退、というあたり。
周辺の毛利方の様子。


因州大崎の城明け退くこと

大崎の城には、田公備前守に元春から都野主水正を検使として添えて差し籠められていたが、
秀吉が大軍で攻め寄せてくると噂が立つと、城中はわずか三百ばかりで、
どうにも対抗しようがないように思えた。
吉岡の城には、安達又兵衛尉が、元春から鉄砲隊三十挺を差し添えられて差し籠められており、
安達がそこから駆けつけてきて城中に入り、
「よし、皆はここで覚悟を決めろ。この安達は、この城を枕にして切り死にする覚悟である。
今回協力してくれた者たちは皆芸州へ帰ろうと言ったのだが、
私は死を一途に思い定めていたから、どうにかそれを諫めてここまで来たのだ」と言った。

田公は一騎当千の勢いを得て、刀を抜いて畳を丁々と切り、
「私は以前からこの城で討ち死にしようと思い定めていたが、
今の安達の一言に、ますます勇気付けられたぞ。
氏神・八幡もご覧あれ。敵が何万騎で攻めてこようと、一歩も引かずに、
城の戸を枕にして切り死にしようではないか」と言い放つ。
その座にいた者たちは残らず、「戦死してやろう」と誓い合った。

秀吉は馬野山から退却すると、大崎の城に調略を入れた。
「こうなると、もうかなうわけがないとわかっている場所で犬死するのもどうかと思います。
この城を明け渡して妻子の命を助けてやってください」と、田公の一族たちが結束して提唱したので、
備前守も、一族と仲違いをしてはこの城を持ちこたえるのも難しいと考えた。
しかたなく城を渡して芸陽に戻ろうとしているとき、また一族たちは、
「備前守は国に留まれ」と抑留したけれども、備前守は強硬に従おうとしない。
一族たちは、「それなら元春から検使として差し籠められている都野殿も戻らせるものか」と言い募った。
田公は、「罪のない都野を殺害するのはしのびない」と、自分は国に留まり、都野を芸州へと帰した。
主水正は普通の人より優れた勇の持ち主だったので、田公も、
「私がわずかな勢だけでこの城に堪えることができたのは、主水殿のおかげでした」と謝辞を述べて、
東西に別れていった。
大崎は秀吉から十分な人数が入れ置かれ、秀吉自身は姫路へと戻っていった。

杉原弥八郎元盛・又次郎景盛の父の盛重は、ずっと病に臥せっていたが、
同年(天正九年)十二月二十五日に死去した。その盛重は最期のときに二人の子供に向かって、
「私は去る夏から病気に身をさいなまれていて、起居も簡単にできなかった。
秀吉が馬野山に出てきたときも、話しだけを聞いて寝ているしかなかった。
どんなにか、早く元気になって因幡へ駆けつけ、
敵城を二ヶ所も三ヶ所も攻め落としてやりたいと思ったことか。
しかしどうやら、黄泉へと続く旅路に向かわなければならないようだ。
お前たちは、私への弔いとして、何とか敵城の一つ二つを攻め落としてくれ。
それには、ああするといい、こうするといい」と丁寧に教えた。
兄弟は、父を失った悲しみのなかにも、
「因幡へと攻め出て敵城を攻め落とし、父の孝養にしよう」と勇気を励ました。


以上、テキトー訳。

まあ今回も短いわけですが。
HPが十分ないので、今回はこれで。
休み中は実家に戻るので更新できなさそう。まず陰徳記は読めない。
重いから! この重い本持って帰るとか、なんの拷問?ってレベル。

田公・吉岡と聞くと、鳥取落城の前に別の場所で秀吉撃退してた人たちがそんな名前だった気が。
そっちの活躍があまりに鮮やかすぎて、鳥取城の印象が霞んだのは内緒。

次回更新は5月に入ってしまうかもしれないけど、
引き続き次の章を読んでいきますー。
2012-04-25

信直さんを描きたかっただけ

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2012-04-24

中国VS京勢のころの因幡・美作情勢

わーい、早く帰れた&章が短いので続けて2章読むよ!

だいたいの流れというか、時期的には鳥取落城前後の、因幡・美作の情勢のようだよ。
草刈って誰。顔の濃い人しか思い浮かばないよ\(^o^)/


草刈三郎左衛門生害のこと

因幡の国の住人、草刈加賀守衡継の嫡子三郎左衛門景継・次男太郎左衛門尉重継は、
因幡の知頭郡・美作の高房部を切り従え、自分の国にして支配した、無二の毛利方だった。
しかし三郎左衛門は何を思ったのか、日ごろの志を変じて信長に従おうとして密かに使者を送った。
信長は草刈が味方に与せば因幡・美作を制圧するのが容易になると考え、
所領などを過分に宛行うと約束する朱印状を発行した。

この使者を隆景が放っていた検分の者が絡め取り、首を刎ねて朱印状を見せると、
隆景は大いに驚き、草刈家の老臣、黒岩土佐守を沼田に呼び出してこのことを伝えた。
そして三郎左衛門を討ち果たすように言い渡すと、黒岩は急いで馳せ帰り、
太郎左衛門と密議して、三郎左衛門を騙して連れ出し、競馬を見ているところで討ち果たした。

太郎左衛門は勇に優れていただけでなく、義一途にして実法第一の者だったので、
兄の不義を己のことのように恥ずかしく、口惜しく思いながらも、
ますます芸陽へ対して忠戦を貫き、何度も武功を立てた。

そのため、秀吉が因幡へと攻め入ってきたときも、
宮部善乗坊・木下備中守が神子田半左衛門・尾藤神右衛門などを案内に立てて
八木・磯部の何某などを連れ、草刈の端城の淀山へ攻め寄せてきた。
近隣の村に放火されると、草刈は城中から切って出て防戦を遂げ、敵数十人を討ち取った。

その後、宇喜多和泉守直家と美作で何度も衝突があったが、草刈はついに利を失うことがなかった。
鳥取が落城した後は、木下備中守が入れ替わってその城に籠もり、
宇喜多と足並みをそろえて美作の国中の敵城を攻めていったが、草刈は最前線で踏み堪えた。
しかし敵は猛勢で味方は無勢だったので、最終的には踏みとどまりきれないと判断して、
淀山などの端城を空け退き、自分の家城の高山へと撤退していった。


草刈、所々合戦のこと

こうして淀山を空け退くと、木下備中守が叔父の隠岐土佐守という者を籠め置いていたところに、
草刈太郎左衛門が攻め寄せ、夜討ちにした。
土佐守も散々に戦ったものの、進の市兵衛尉・塚原一伝が二人で討ち取った。
また、篠山には宇喜多直家が小原の新明という者を籠め置いていた。
太郎左衛門の弟で、与次郎という者がいて、芸陽に人質として暮らしていたので、
十七歳になるまでまったく戦場に出たことがなかったのを無念に思い、手勢三百余人で篠山に攻め懸けた。

小原もなかなかの勇士で、足軽を出して弱々しく退却する振りをして、
与次郎が血気盛んなままに逃げる兵を追いかけるところを、
新明は次第に人数を繰り出して、敵の後ろから挟むようにして討ち果たした。
与次郎は、「おとりの兵に飛びついてはならない、逃げる者を深追いしてはならない」
という戦の心得を知らなかったのが残念である。

兄の太郎左衛門はこれを聞くと、悲しみで袂を濡らし前後もおぼつかない様子であったが、
「どうにかして弔い合戦を華やかにやってやろう。弟の供養にしよう」と思っていた。
とそこへ、篠山から敵が出てきて略奪などを始めたので、
草刈は「これこそ以前から願っていたところだ」と喜び、家城の高山から打って出ると、
一戦のもとに追い立てて、そのまま篠山を乗っ取ってしまった。
さしもの小原新明も、這々の体で命からがら逃げ出していった。
草刈は勝鬨を上げ、篠山に放火して自分の城へと引き揚げていった。


以上、テキトー訳。

fmfm、あんまりよく知らん人だが、草刈さんて活躍した人だったのね。
ざっくりグーグル先生に聞いてみたら、
草刈衡継が「足利幕府の地頭」だったり「尼子家臣」だったり、まあよくわからんね。
ちゃんと調べろよって話だけど。
今は毛利方なんだからいいんじゃない(テキトーすぎる)。
……まあもう少ししたら、体系的なお勉強もしていこうかと。
まだ興味の赴くまま突っ走っていたい時期なの!

そんな感じで、次回も続きをさら~っと流し読んでいく予定。
2012-04-23

馬野山の駆け引き

日曜日にうpしようと思ったのに……あまりに体調不良で一日寝ていました。
おそらく気圧とかそのへんの影響かと。

前回のあらすじ:
鳥取を落とされた吉川勢は、背水の陣で馬野山にて秀吉軍数万と対峙する。
雪が深々と降り出したなか、余裕を見せつつ備えを怠らない元春、
攻め込む機をうかがう秀吉との間で心理戦が繰り広げられる。



秀吉、敵城の批判並びに敗軍のこと(下)

南条伯耆盛元続・小鴨左衛門尉元清は、羽柴美濃守秀長に向かい、
「ただ今一、二千ほどで打ち出てきたのは、吉川治部少輔元長・同民部大輔経言だと思いますが、
たったあれだけの勢で何ほどのことができましょうか。
ぜひ兵をけしかけてください」と進言した。
美濃守が「それがいい」と答えると、それを聞いて、藤堂与右衛門・井合次郎左衛門・
中村式部少輔・神子田神右衛門・亀井武蔵守などが我先にと山の下へと駆け下っていく。
その勢一万四、五千ほどが続いた。

きっと芸陽勢はこの勢いを見ては堪えられずに退却するだろうと思っていたが、
元長・元棟・経言は少しも怯まずに、この大軍に対してたった二千余騎で備えを固めた。
今日こそ京・芸の戦の勝負が決するかと思われた。

しかしそこに、秀吉から軍使が遣わされた。
「芸陽は鳥取を攻め落とされ、その無念を晴らそうと、無二の合戦を遂げる覚悟に見える。
それを小勢と侮って、うかうかと一戦する必要はない。
それにわしの下知もなしに、美濃守一人の判断で一戦に及ぶのは、この秀吉を軽んじているようなものだ。
早く兵を引き上げろ。敵がたとえ憤りに任せて無二の一戦と思い定めているのだとしても、
この大軍に対してたった一夜堪えただけでも不思議なものだ。
きっと今夜には退却するだろう。
大将元春父子が、死すともここを動くまいと覚悟していたとしても、下々の輩は夜逃げするだろう。
放っておいても勝てるのに、危うい一戦をしても意味がない。
今夜まで待って、退却しようというところを追いかけて討ち果たせばいい」
こう引き止められたので、上方勢はすぐに兵を引き上げた。

宮部善乗坊は、元長兄弟の振る舞いを見て、
「元就の武勇は三代まで滅びずに続いているようです。
吉川がいる限りは、毛利家の軍事面は盛んでしょう。
小早川がいる限りは、毛利家の政道は堕落しないでしょう。
『堯の子は堯に似ず』とも言います。
上古の時代の聖王すら、子の賢・不肖は思うに任せなかったというのに、
元就はいったいどんな神仏の再誕だというのでしょうか。子までよく産み残している。

しかしあの人もまだ壮年に至らないときは、
大内左京兆(義興)・尼子経久といった名将の陰に隠れていました。
ことに大内は七ヶ国、尼子は十一ヶ国の太守で、元就は吉田三千貫しか持たずに、
一国の主にもなれませんでした。
その両将が死んだ後には数カ国を切り従えていますが、そのころには年齢も七十に及んでいます。
あと二十歳ほども若ければ、天下の権勢はあの人が握ったでしょうに、
義興・経久という二人の良将大名がいて、元就が一国の主となれたのが老年になってからだったのが、
そうはできなかった原因でしょうね。

昔の頼朝・時正・尊氏といった良将も、元就より智・仁・勇が優れていたわけではありません。
ただすばらしい果報があって、時を得られたか得られなかったかの違いです。
顔淵が言ったように、地を易て然る也」と称美した。

中村・神子田は「元春があれしきの小勢で何ができるのか」と息巻いていたが、
宮部の言葉を聞いて、また上月で押し立てられたことを思い出して、
「小勢と思い侮っては、たしかに仕損じるかもしれない」と今さら思い至った。
それでもまだ負けん気が勝ったのか、もしくは自分の勇を確信しているのか、
「今夜夜討ちして切り崩しましょう」と言い募ったが、
宮部は「夜討ちの計画など何の益もない。
敵陣に夜討ちをかけるより、味方が夜討ちされないように用心なさい。
昨夜も熊谷の手の者に、秀吉の本陣のそばを火付けされたでありませんか」と言う。
皆はぐうの音も出なかった。

秀吉は、南条伯耆守を呼び寄せ、
「あの吉川の陣はどれほどあるだろうか。兵の数は美濃守の陣ほどいるか。
よもや六、七千以上にはなるまい」と尋ねた。
南条元続は「吉川が小勢でこんなところまで出てきたということは、天が与えてくださった好機です。
たとえ芸陽すべての勢をもってしても、秀吉公とまともな一戦はできないというのに、
ましてやあれっぽっちの小勢では話になりません。早々に切り崩されるのがよろしいかと存じます。
吉川父子が滅び果ててしまえば、小早川などはなかなか持ち堪えることもできずに逃げ出すことでしょう。
芸陽を御手に入れるのは当年のうちか来春のことと存じます」と答える。

秀吉はにっこりと笑って、いかにも愉快そうにしていたが、敵城を見渡して
「あの先溜りの城に籠もっているのは何者か」と尋ねた。
何条は「あれは杉原播磨守の婿、河口刑部少輔久氏と申す者で、
百四、五十騎で立て籠もっています」と答えた。
秀吉は「この大軍を相手に、平山の片端を少し掘り切り、芝土手を築き、
ひどい造りの城に何の用意をしている様子もない。
門外へ人の一人も出さずにのんびりとしているのは、きっと敵に侮らせ、
寄せてくれば引き受けて切って出て十死一生の合戦を決する覚悟でいるからだろう。
なんと強靭な兵だろうな。城の持ちようにも、そこらの者とは雲泥の差がある」と感心した。

また松ヶ崎の城には小森杢允が立て籠もっていたが、夜は篝火も焚かず、
大門も閉ざさずに八の字に開け放ったままで、人の一人も家から出てこなかった。
秀吉はこれも南条に名字を尋ねて、
「きっと小森は城を退却したような振りをして、敵をだましてうかうかと城に誘い込み、
一文字に切って出ようという腹づもりだろう。
もしそうでなければ、敵に油断させて一夜討ちしようと考えているはずだ。
溜りの城といい松ヶ崎の城といい、あんなものには構わない方がいい。
どちらも大剛強の者ばかりだ」と言った。

そのほか宇津吹・条山といった城などには用心を厳しくしていたので、
秀吉は「なんと可愛らしいことだ。
しかしながら、ハンカイのような勇を見せても、わしが切り崩そうと思えば、
半刻すら堪えられまい」と打ち笑った。

さて秀吉は、南条が進めたことももっともだと思ったので、
今日・明日の間につくづく打ち下し、吉川陣を切り崩そうと考えて、
主力の侍大将を呼び集め、軍評定を開いた。

蜂須賀彦右衛門が進み出て、
「吉川元春父子はさる大剛将と聞いております。
これほどの大軍に対して、わずかな手勢ばかりで少しも恐れる気配もなく対陣し、
そのうえ舟などもすべて陸に引き上げ、後ろの橋も落とし、無二の一戦を遂げる覚悟を決めていると見えます。
昨日も松ヶ崎のあたりへ元長が打ち出てきたのを見ましたが、
わずか二千ほどの勢で、当方の数万騎に立ち向かった態度は、
とにかく十死一生の合戦をと心に決めているように思えました。

上方勢などは、大軍を見れば一戦もせずに逃げ出し、また取るに足らない敵を見れば勇んで進みますが、
それも敵によるものです。
佐々木・朝倉などと同じように考えられては、不覚を取ることになるでしょう。
鳥取・丸山を我らに切り取られて腹を立て、
『さあかかってこい、一戦しよう』と思い定めている敵に、
うかうかと小勢だと侮って切りかかれば、おそらく味方が利を失うことになりましょう。

幸いに多勢に無勢なのですから、どうにかこちらが勝利できたとしても、
味方の半分以上は討ち死にするでしょう。
勝って兜の緒を締めよと、諺に言うのは、こういう場合のことだと思います。
手勢を多く失えば、再度輝元・隆景との一戦のとき、勝利を得られるかどうかわかりません。
このように、剛敵が死を一途に思い定めているとき、
こちらからもまた力任せに攻め滅ぼそうとするのは、謀略が足りないということです。

謀を先にして戦は後にするのがいいでしょう。
強きを砕くのに刃をもってすれば、刃はかえって折れてしまいます。
微弱な雨滴が軒下の石を消し去るとも言うではありませんか。
まず今回は敵との真っ向勝負を避けられ、敵の勇気がほころびたときに、再度切り崩すのがいいでしょう。
これは楠正成が隅田・高橋の大敵を倒し、宇都宮が小勢で向かってきたときに、
先鋭を避けて退却した謀と同じことです。

鳥取・丸山の両城を攻め落としたのですから、今引き退いたとしても、
あなた様の軍略にはまったく傷がつきません」と、大いに諫言した。

秀吉はこの趣旨に納得して、「では道々の雪が積もらぬうちに引き払おう」と、
同二十九日に羽衣石あたりまで引き揚げ、因幡の鳥取まで撤退し、
そこから播磨路を目指して上っていった(十一月八日、姫路城へ)。
京童たちは、碁や将棋の戯れにも、無二に引き切った覚悟のことを
「吉川が橋を弾いたほどのことだ」などと口ずさむようになったという。

こうして元春様父子も、同十一月朔日、馬野山を引き払った。
輝元様・隆景様も出雲の冨田でそれを待ち、連れ立って芸陽へと帰っていった。


以上、テキトー訳。

この章はこれでおしまい。
意外に長くかかってしまったのは、まあ、しょうがないよね。
リアルの事情で……

とにかくこのあたりは元春がかっこよすぎてどうしようかと、そればかりで……
まともな感想にならないのは低気圧のせい(なすりつけ)
これからもGW前の仕事が詰まった状態なので、
とりあえず少しずつでも読み進めていければいいな~と思います。
2012-04-21

くつろぎの吉川馬野山本陣へようこそ

ヒャッホウ! 久しぶりすぎるぜブログ!

えーっと、これまでの流れは、
鳥取城が落ちて秀吉が大軍で向かってきたよ!
少ない兵力ながら元春が馬野山で対陣して、背水の陣で臨んでるよ!
さぞかしプルプル震えてるかと思いきや、なんかのんびり飯食ったり酒飲んだりしてるよ。
そのくせ見回りや、合戦の準備は怠ってないよ、てとこまで読んだ。


秀吉、敵城の批判並びに敗軍のこと(上)

秀吉はその夜、敵が引いていくはずだと考えて物見を出してうかがっていたが、
馬野山の陣は物静かなものだった。
出雲・伯耆の人々も、敵が数万の猛勢を率いて竜や虎のような威を振るいながら山頂に陣を据え、
芸陽勢の陣に真っ逆さまに駆け下ってこようとしているのだから、
いかに元春父子が非常に強いとはいっても、一晩も足をとどめていられないだろうと思っていた。
それで皆馬に鞍を置いてその上に腰を乗せ、いつ退却になるのかと待っていたのだった。

元春様は謀略にも長け、とりわけ剛強の名を掲げる良将だったので、
敵の大軍をまったく気にせずに、「今夜は大雪が降って寒くてかなわん」などと言いながら、
炉に赤々と火を焚かせ、帯や剣を解いてせなかを炙り、高いびきをかいて眠っていた。

杉原弥八郎元盛は横道権允を呼ぶと、
「おまえ、元春の本陣に行って見てこい。
あの大軍とまともに対峙したら、きっと今夜一晩も堪えることができずに敗北してしまうだろう。
陣の様子も心もとないだろうよ」と言った。
また三刀屋弾正左衛門尉久祐は、坂田平蔵という者を、元盛と同じように遣わした。

二人で本陣の様子を見て帰ってくると、元盛・久祐は「どうだった」と問う。
「それが、元春は持病がうずくといって、宵から帯を解いて火を焚かせ、
背中を炙って寝ていらっしゃいました。
そのほかの侍たちも、特別な用心をしているわけでもなく、小鼓を打ったり謡をしたり、
いかにもくつろいだ様子でございました。
それでいて油断しているか思えば、元長・経言のご兄弟が
代わる代わるしっかりと夜回りをしていらっしゃいます」と二人は答えた。

元盛・久祐はこれを聞いて、「なんと、元春父子ほどの大剛強な大将は他にはいないだろう。
敵は味方の城を攻め落とし、勝利に勇んで進軍して、その上我らの十倍の兵力で山頂に陣取っている。
背後では南条の城へ秀吉が加勢を入れ、ずいぶんと手強い供えになっていると聞くから、
前後を敵に挟まれているわけだ。
自分だって意気消沈した小勢で対陣しているというのに、味方が臆病風に吹かれてしまうとあらかじめ察して、
持病が出たようだなどと言って宵から臥せていらっしゃるとは、世に類まれな勇将だなぁ。
大将がこれほど無二の気持ちをお持ちなら、味方の六千の兵は、敵の六万騎に倍するだろう。
秀吉の大軍など恐るるに足りん」と鼻息を荒くした。

元春様もくつろいだ振りはしていたものの、味方の諸軍士の心の動揺を心配したのか、
それぞれの陣に人をやって様子をうかがわせていた。
様子見に出た者たちが帰ってくると、
「どこそこの陣はこのようでした、ここはこうであそこはああでした」などと報告する。
「なかでも杉原弥八郎・同又次郎兄弟は、博打双六などを打っており、
これほど寒いというのに着物の両肩を脱ぎ、両采一賽と打ち出したり、
手をもんで『しょうさい、しょうさい』と声を大きく張り上げたりと、
ほかの事は考えていない様子でした。
三刀屋弾正左衛門久祐は、河井入道とかいう者と碁を打っていました。
指を折って十目二十目と目算などをして、人が来て何か言っても、聞こえていないようです」

元春はこれを聞いて、
「三刀屋久祐は、もともと武勇の誉れのある者だから、それが普通なのだろうな。
杉原兄弟はまだ二十歳を過ぎてから二年、三年といったところだろう。
心が強いのか臆病なのか、どちらだろうと思っていたが、
子は父の業を継ぐからだろうか、父の盛重によく似ている。
なんと強い者たちだ」と感心しきりだった。

そして夜が明けると、同(天正九年十月)二十八日、秀吉が南条の城へ兵糧を入れてやろうと、
峰づたいに雲霞のごとく兵を出した。
元春様は、井上平右衛門・山県宗右衛門に鉄砲数百挺を差し添え、
今田玄蕃を検使として松ヶ崎の辺りへと打ち出させる。
「鉄砲を撃ちかけて敵を誘引してみろ。
もし全員が挑発に乗ってくるようなら、こちらの陣からも打ち出して一戦しよう」と元春が言うと、
二人は「わかりました」と答えて出発した。

山県は敵の様子を見て軽く仕掛け、また井上は敵の懐深く切り込み、
敵が大勢でかかってきても少しも引かずに、今田玄蕃と一緒に控えていた。
これは神無月の中旬を十日も過ぎたときだったので、北国前は特に寒さが厳しく、ひどく吹雪いていた。
数間の距離でも周りがはっきりと見えなくなる。
ときどき風が穏やかになったときに見てみると、敵勢は段々に構えて、二、三千ほどが打ち出てきていた。
中でも真っ先に進んでいた武者二人が、馬上で指麾(ザイ)を振るって後陣の勢を招いている。
これは味方が一人残らず討ち取られたかと思っていると、
また風が激しく吹雪き、ひどく雪が降ってきたので、ほとんど物が見えなくなった。

「もはや敵が後ろに回っているだろう。とても逃げ切れない」と、
死を覚悟して、皆一ヶ所に集まり、鉄砲を立て並べ待っていると、
五、六反ほど前の松山の尾崎で鉄砲の音がした。
誰だろうかと見ると、千代延与介が真っ先に進んできていた武者大将らしき者を一人、
馬上から真っ逆さまに撃ち落とし、声高に名乗りを上げた。
味方はこれに機を得て進む。
上方勢の数はさらに増していたが、その武者がなかなかの人物だったのか、
馬から落ちると同時に、後ろから続いていた敵勢はそこに駆け集まって、
傷を手当しようと、自分たちの陣に戻っていった。
今田・井上たちは「十死に一生を得たばかりか、上方勢との初の合戦で塩をつけてやったぞ」と喜び勇んだ。

これを知らずに、馬野山の本陣には
「敵が大勢で打ち向かってきて、味方が難局に直面しています」と報告が入る。
元春は「敵が出てこないものかと待ちかけていたところだ。
これは願ってもない幸い、まずは元長を向かわせろ。
私は秀吉の本陣の様子を見て、機をうかがってから出る」と言った。
元長・元棟(後、元氏)・経言兄弟が打ち出すと、
熊谷伊豆守信直・その嫡孫の豊前守元直・杉原弥八郎元盛・その弟の又次郎景盛らも、
二千余騎で松ヶ崎あたりへと向かった。


以上、テキトー訳。続く。

え、ちょっと待って。元棟、いつからそこにいたのwwwww
元長・経言の名前しか出てこなかったから、次男はてっきり留守番組かと思いきや、
馬野山には来てたのねw それならそうと早く言ってよ、正矩www

えー、「吉川本陣」て料理屋さんがあるそうだね、元春館跡の近くに。
九曜紋のごとくに並べた色とりどりの蕎麦が有名だそうだ……食べに行きたい……ギリィ
というか、元春館へのアクセスを調べたらさ、
「最寄のバス停から徒歩40分」て書いてあったとこがあったよ。
バス停からかよ! 車移動できるやつ以外来るなって話なのかしらそうなのかしら。
車なぁ……法的には運転できるが、人道的に運転しちゃいけない。
なぜならペーパーだから! どっちがブレーキでしたっけ???

そんな思いがあるからか、
きっとな、馬野山の吉川本陣は、鮭と濁り酒と小鼓と謡でくつろがせてくれるんだぜ……
まで想像したというか妄想した。
で、丸顔のおっちゃんが炉辺で背中炙って寝ててくれたら言うことないよねアヘェ
でも妄想じゃ元春館や万徳院や吉川本陣、馬野山には飛んでいけないんだぜ。

うん、飛んでいきたい。できることなら明日あたり、佐倉に。
博物館で見たい展示があるんだよー!
2012-04-18

どポジティブ思考

前回のあらすじ:
鳥取城が秀吉に囲まれているころ、元春たちは後詰の兵を集めていた。
各地の境に抑えの兵を割くので思うように兵が集まらないまま鳥取は落城。
その報を聞いた元春は経家の弔い合戦を遂げようと、
馬野山辺で秀吉の進軍を待ち受けた。


伯州馬野山対陣のこと(下)

吉川駿河守元春は、嫡子の元長・三男の経言を連れて打ち出すと敵陣を見渡して、
「秀吉の勢は六万あまりと聞いていたが、聞いていたより数が少ないようだ。
四万以上にはなるまい。とはいえ、我らの十倍ほどはいる。
きっと秀吉は、我らを小勢と侮っているに違いない。
主将が敵に対して驕り高ぶるのは敗北の端緒になる。
今日はもう昼過ぎになった。おそらく一日は人馬の息を休め、また我らの陣の様子をうかがおうとするはずだ。
明日はこの陣に切りかかってくるだろうから、それを待ち受けて無二に秀吉の旗本へと切り入り、
この手で討ち取ってくれよう。
これほどの大軍、強敵に会ってこそ、私の日ごろの武勇が際立つものだ」と、
にっこりと笑って立っていた。

元春様は、すぐに後ろの橋津川にかかる橋をすべて引き落とし、
隠岐隠岐守清家・竹安杢允が乗ってきた警護船をすべて陸に引き上げて、櫓や櫂をすべて折ってしまった。
これはひとえに、皆で心を合わせてともに討ち死にしようという胸の内を、
士卒たちに知らしめるためであったという。

元春父子はいつも、弱そうな敵を相手にすると、凡庸な将が強敵に出会ったかのように恐れ、
逆に強敵を相手にすると、愚かな将が取るに足らない小さな敵を見て喜び勇むような調子であった。
このときもまた大いに志気を上げて、少しも臆した気配すらなかった。
この様子を見て、「なんと勇ましい強将だろう」と、敵も味方も思わず口をあんぐり開けた。

熊谷伊豆守信直は、これを見ると自分の子供に向かって、
「元春の態度はなんとすがすがしいことか。戦は兵の数でするものではないぞ。
ただ大将の強い心と、士卒の団結が肝要なのだ。
大将がとても剛強で、士卒もまた死を一途に思い定めている。
地形はというと、後ろに逃げ出せる道はなく、左右のどちらにも退却できない。
橋を落とし船の櫓櫂をも折ってしまった。
これは項羽が秦の軍と相対して、兵舎を焼き、釜を壊し、船を沈めたその考えと同じことだ。
また当然、韓信の背水の陣と同じである。
味方にとって悪い地形をそのまま悪い地形にしておくのは愚将のやることだ。
こうした悪地を好地にするのが良将である。
将といい、兵といい、場所といい、これは必ずこちらが勝つぞ」と大いに勇んだ。

するとこれを聞いていた者たちはますます気を奮い立たせ、
「もう死ぬものと思い定めて、一歩でも敵の方へと進み、手が動く限り、
命が続く限り戦い続けて、討ち死にしてやろう」と、前にもまして色めきたったようだった。

三沢三郎左衛門・嫡子の摂津守・三刀屋弾正左衛門、そのほか出雲・伯耆の国人たちは、
「秀吉は鳥取・丸山の城を攻め落とし、そのうえはなはだしい大軍で我々を見下ろす山の頂に出てきています。
勝に乗った強敵に味方は城を攻め落とされてしまい、意気消沈した小勢では、
なかなか思うような一戦もできはしないでしょう。
まずは急難を逃れて退却し、隆景と合流してからもう一度兵を集めて勝負を決しましょう」
と諫めようと話し合いで決まり、益田越中守元祥を先に立て、元春の本陣へと集まってきた。

国人たちが皆、「いかに剛強な元春とはいえ、あの大軍をまともに引き受けたら、
十の内十は味方が敗北するに決まっている。
その不安が外に漏れてくるだろうから、皆も機嫌をうかがったら引き揚げましょう」
と言おうと思っているところに、
元春様が浅黄の袴の裾もからげずに、いかにもゆったりとくつろいだ様子で出てきた。
あれこれととりとめもない話を心静かにしていたが、
「もう日も暮れてしまったな。晩飯を出せ」と元春様が言うと、
三尺ほどもある鮭があるところから献上されたので、それを料理した。
皆もこれを出され、「いつもより倍も美味い」と舌鼓を打った。

元春は口を開いた。
「こうして皆で炉の周りに集まって火を焚き、盃で濁り酒をあおっていると、
身を切るような寒さなど感じることもない。
でも秀吉は山の上に陣を構えているのだから、さぞかし寒風が肌身にしみるだろうよ。
敵の寒苦を思えば、味方はなんと安楽なことか」と言って、
なんとものんびりとくつろいでいるので、国人たちは思いがけないことだと思った。
なかなか「この陣を引き払ってください」とは言い出せないままで退出していった。

「さてさて、元春は智仁勇の三徳を全備した大将だとは知っていたが、まったく剛強な御仁であるなぁ。
周の武王は二万二千五百人の兵で、紂王の億万の衆に打ち勝った。
魏は五万の兵で秦の五十万の勢を破った。漢は三万の兵で楚の八万の衆を打ち砕いた。
これを考えれば、兵の多少で戦の勝敗が決するわけではない。
信長は臣の身でありながら君をないがしろにし、また天台山を焼き払い、
多くの信徒や関係のない者たちを殺したのだ。その悪行は夏桀・殷紂と同じである。
これから天の裁きを受けることになるだろうから、遠からず滅亡する。

今、信長の内衆で四天王として聞こえが高いのは、
まず羽柴筑前守秀吉・柴田修理亮勝家・惟任日向守光秀・滝川将監(一益)である。
この者たちは皆、勇は世に優れているけれども、仁の道は夢ほども知らない。
しかし元春・隆景は武勇に優れているばかりか、仁政を敷いているという面では、
昨今の諸将よりも抜きん出ている。
いかに秀吉が鉾を執れば無双、戦えば常勝の武勇があっても、刀剣の利は仁には勝らない。
となれば、最終的には味方が勝利するだろう。
それにとりわけ元春父子は、仁将の徳も勇将の名も古今の諸将に勝っている。
これを思えば、敵がたとえ一旦は勝に乗って大軍を率いて陣を敷いているといっても、
恐るるに足らず」皆はそう口々に言って、自分の陣へと帰っていった。

熊谷伊豆守の郎党に、戸谷志摩守と言って、命知らずの荒武者がいた。
戸谷は敵陣を見渡すと、「いかに秀吉の陣が堅固に用心していても、
わしが今夜忍び入って、大将の本陣のそばに火をつけてきてやるぞ」と言い出した。
仲間たちはこれを聞いて、
「秀吉は、人が皆、ゆくゆくは天下の主になるのではないかと噂しているほどの人物だぞ。
そんなに油断して、お前などに火をつけられるわけがあるか」と取り合わない。

戸谷は、「このうえとやかく問答しても意味がない。待っていろ。目に物見せてくれるぞ」と、
本当にその夜に敵陣へと忍び寄って、宣言どおり、本陣のそばに火を放った。
陣屋が四、五軒焼けた。

「熊谷の手の者、戸谷志摩、秀吉の本陣に火をつけて、ただ今罷り帰りましたぞ。
これほど油断なさっているなら、きっと不覚を取ることもありましょうな。
畿内や美濃・尾張の兵どもと同じだと思われるなよ。いろんな敵がいるものですぞ」
戸谷はさも声高に叫びながら走り帰ってきたものだから、人々は大いに騒ぎ、
「その男を討ち取ってしまえ」と言って追いかけてきたけれども、
あたりは真っ暗で、戸谷がどこに去ったかもわからなくなったので、
仕方なく陣屋の火を消すことに専念しようと、皆陣中へと入っていった。

こうして夜が更けていくと雪がひどく降り積もり、風が骨身にしみるほどに寒くなった。
元春様はこの夜のうちに芝土手を高く陣の前に上げ、柵の木を隙間なく結いめぐらせていた。
「明日は秀吉がこの陣に切りかかってくるだろうから、待ち受けて一戦し、ことごとく討ち取ってやろう」と、
夜中に陣の前に堀を作り、土手を築き、その上に柵を結び渡すと、
味方が突いて出る場所を二ヶ所開けて、敵が攻め寄せてくる道筋の雪をすべて払わせた。
すると京の一条・二条の大路のようになった。
夜回りは元長様と経言様が代わる代わる行った。

また秀吉は、「敵は小勢だからきっと今宵逃げていくだろう。絶対に油断するなよ。
追いかけてつくづく討ち取れよ」と下知をなし、斥候などを放った。

以上、テキトー訳。この章はここまで。

ハァン元春かっこいい……(*´∇`*)
誰もが絶体絶命と思う状況で、ゆったりと平常時のように袴姿でご飯を食べる。
「敵の奴らはかわいそうに、山の上で陣張ってるから寒いだろうなプププ」まで言っちゃうw
橋まで落としてやけくそかと思えば、しっかり抗戦の用意はしてる……
ちょっともうこれは惚れざるを得ない。
でもこれで「うちの大将ならダイジョブだよね」って思っちゃう国人衆、
あんたらみんな丸め込まれてどうすんのー!wwwww

あとね、信直さんがステキ。さすが信直さん。
元春のことちゃんとわかってて、信頼してる感がビンビンします。
婿大好きなお舅さん。
この義父子はもー、私のツボをこれでもかってくらいに突いてくれるなw
自分の子たちに婿自慢する親父ってのもなかなかいないぜ。
元長の初陣のときも、信直じいちゃんが後見してくれたんだよね。
勇む孫にデレっぱなしのじいちゃんだったなぁ。
その一方で、敵陣に忍び入って火付けしちゃうようなヤンチャくれどもをまとめてるすごい人なんだよね。
信直さん愛してる。

義父子といえば、益田越中守元祥も元春と義父子だね。
元春が元祥の舅なわけだが。
この婿さんもホントよくできた人でねぇ。
なんか親戚のおばちゃんみたいな心境になってきたwww

ああ、なんか前半は鳥取の余韻で切なさと焦燥感に苛まれたけど、
なんかダイジョブって気がしてきた。
私も丸め込まれたわwww

次も続きを読むよー。明日は更新無理そうだけど。
2012-04-17

鳥取の叫びを聞いたか

ハイノハイノハーイ!てのも古いな。
まあ鳥取落城後から備中高松城に向けて読んでいこうと思うよ。
流れは文中で語られてるので省きます。
この前の章はコチラコチラ


伯州馬野山対陣のこと(上)

去る天正九年七月から、羽柴筑前守秀吉が数万騎の軍兵を率いて因幡の国の鳥取の城を十重二十重に取り囲み、
昼夜の境もなく攻め続けていた。
そのうえ城中では兵糧が乏しいということだったので、元春様は、後詰に駆けつけようと、
まず出雲・伯耆の勢を集めるために、同七月下旬、治部少輔元長を、伯耆の八橋の城まで進ませた。
杉原播磨守盛重と合議して出兵を催促するも、伯耆の半分の勢は南条兄弟への押さえのために、
あちこちの向城に籠め置かねばならなかった。
出雲では三沢三郎左衛門とその嫡子攝津守が、去る天正六年の上月の陣の間から南条に通じていて、
秀吉に内通しているとの噂があった。
三沢は、自分の身が危ないと思い、まったく野心を抱いていないと訴える起請文を何通も書いて毛利に送ると、
自分の城に立て籠もって守りを固めていた。
こうして何かしら警戒していたので、戦地に連れて行ける兵は十分に集まらなかった。

元春様は、「兵がいないからといって一日一日と出陣を引き延ばせば、鳥取の城が落ちてしまう。
何百万騎の兵を整えることができたとしても、そうなってしまってからでは、
賊が過ぎ去った後に弓を張るようなものだ。
まず手勢だけでも出雲に赴かせ、杉原と合流して因幡へと向かい、決戦に臨むべきだ」と、
同八月五日に総勢千五百余騎で安芸の国の新庄を出発し、同八日に田木というところに到着した。
それからしばらく出雲の冨田に逗留しつつ、国中の兵を集めていた。

小早川左衛門佐隆景様も、「秀吉はとてつもない大軍だと聞いている。
そうだとしたら、元春は出雲・石見・安芸の兵ばかりでは、後詰もままならないだろう。
それなら私が一緒に行って補佐しよう」と、備後・備中・安芸・周防・長門の兵を集めた。
しかし長門へは、大友金吾入道宗麟が、元春・隆景が京勢と対陣するなら、
その隙を突いて門司の関から攻め渡り、国中を切り従えてやろうと狙っていたので、
一国の兵はその押さえのために他国に出すことができなかった。

備中勢は宇喜多八郎秀家が信長の加勢を請うている。
元春が因幡表へ打ち出てくれば備中の国へ攻め入ってくるだろうと、
信長からは、織田七兵衛尉・筒井順慶などが備前へ向かうと発表があったので、
皆自分の城に籠もって、下向してくる敵に備えていた。
そうしたわけで南方の兵も少なく、
「こんなわずかな兵で因幡へ向かうのもどうか。もう少し兵を集めてみよう」と、出足が遅れてしまった。

元春様は、「後陣の勢が何万騎駆けつけたとしても、この機を逃してしまえば意味がない」と、
同十月二十日、伯耆の八橋の城に着くと、すぐさま杉原盛重と合議して、運命の決戦をすべしと結論した。
そのとき、杉原がひどく風邪をこじらせてしまい、前後不覚の状態になったので、
嫡子の弥八郎元盛・次男又次郎景盛に、諸軍勢の兵糧などを預けた。
ここで北面の勢を列挙してみると、月山冨田城にを預かっている杉森少輔十郎元秋・毛利七郎兵衛元康、
熊谷伊豆守信直・嫡孫豊前守・益田越中守・三刀屋弾正左衛門尉が駆けつけている。
三沢も同十月初旬に八橋へと来ていたので、これだけでも六千余騎に及んでいた。

同三日、輝元様も出雲の冨田に着陣した。
隆景様もそれに続き、同五日に到着した。
輝元様は「急いで伯耆に向かって、元春を力づけよう」と提案したが、
隆景が「もう少しお待ちください」と言って冨田を出ようとしなかった。

元春父子は鳥取がいよいよ難局に陥っていると報告を受けると、同十五日に八橋を出立しようとしていたが、
右馬頭輝元様・左衛門佐隆景から使者が来て、
「そんな少人数で因幡へと向かっても、物の役にも立たないでしょうから、もう少しだけ待ってください」
と言い送ってきた。

それで八橋に控えていたものの、「鳥取はすでに兵糧が尽きて近日中に落城しそうだ」と聞こえてくる。
こうなると、兵が集まるのをただ待っていても意味がないので、
同二十五日、伯耆の馬野山へと陣を移し、同二十六日、大崎あたりへまた陣を移そうとしているところに、
鳥取・丸山はつい一昨日落城し、式部少輔などが切腹したとの報告がもたらされた。

元春様はこれを聞くと、「それなら因幡へ攻め上って十死一生の合戦を遂げ、
式部少輔(吉川経家)の孝養にするぞ」と、すぐにでも攻め上ろうとした。
するとまた、「秀吉が南条に後押しをして、近日中に伯耆へ攻め入り、
八橋の城を攻め落として出雲の冨田まで攻め取ってやろうとしています」と櫛の歯を引くように注進がある。
元春様父子三人は、「ではここで秀吉を待ち受けて一戦してやろう」と、
そのまま馬野山に陣を据えていた。

さて羽柴筑前守は、鳥取・丸山の両城を攻め落とすと、ひとまず兵を引き上げて、
翌年にまた伯耆の八橋の城へ攻めかけようと考えていた。
これを聞いた蜂須賀彦右衛門(正勝)の嫡子、阿波守家政は、
「南条兄弟の城へ、この兵たちに兵糧を持たせて入れさせてください。
兵糧が尽きてから城を落とされたとしても、その城の者たちは二度と味方にはなりません」と大いに諫めた。
秀吉も、「確かにそうだ」と、同二十七日に馬野山に上り、羽衣石の続きの高山に上った。
以前から秀吉の勢は八万騎とも六万騎とも聞いていたが、そのとき打ち出てきた勢は
四万と四、五千もあろうかと思えた。

元春・元長・経言の父子三人は、わずか六千余騎で馬野山に在陣していた。
ここで敵陣を高山の頂上に引き受けて、味方の陣は平山で何の足がかりもなく、
左側には湖水が満ち溢れ、満々と波を打地寄せる湖が五百里先まで続いている。
右は崖に岩がガツガツとせり出し、地は崩れ山はひしゃげて、万八千丈の天台を掌様にしている。

後ろは橋津川という逆さに折れ曲がった川が波濤を巻き上げており、渡るには危険すぎる。
橋が一つしかかかっていないので往復もしようがなく、
敵がもしあの山の上から真っ逆さまに攻め下ってくれば、いかに生死を騎にしない芸陽勢であっても、
敵の大軍が地の利を得てしまえば、ひとたまりもなく左側の湖水や後ろの川に追い立てられてしまうだろう。

一人も逃れられずに溺死してしまうかもしれないと思うと、いかに大勇将と名高き元春様父子といえども、
今夜一夜も堪えてはいられないように見えた。
京の兵たちは、「吉川よ、今夜は生き永らえさせてやる。
夜が明ければ一文字に切ってかかり、分捕り高名してやるぞ」と、はやる心を抑えきれずにいた。


以上、テキトー訳。続く。

あああああああしょっぱなから鬱展開だったよー!
読んでる途中で涙と鼻水が止まらなくなってどうしようかと思った。
もうね、「式部少輔の孝養のために一戦するぞ」ってね、
その元春の言葉だけでぶわっと……

経家というと、元長の深い想いが赤裸々につづられた書状が残っているから、
どうしても経家切腹後の元長の心情に気持ちが行ってしまうけれど、
元春もつらいよね。経家のことは、嫡男のそばで将来の側近として育んできたんだろうに、
十分な兵糧を送ることもできず、後詰も間に合わず、若い命を散らせてしまった。
窮地の鳥取に経家を送り込んだのも、信頼の現われだったろうと思うんだ。
元長もつらかったろうけど、元春の心情を思うと、かなりつらいね。

そして今度は自分たちが窮地。
これをどうやって切り開くのか、次回に期待だな。
2012-04-15

鬼のいぬ間の南条急襲

河野の鬱歴史はさっさと忘れて次行こうぜ!

えーと……どの辺りの話だったかすっかり忘れている。
そうだ、秀吉の四国征伐に隆景と元長が駆り出されてんだった。
今回は、そのときの国もとの話。


伯州香原山の城のこと

南条伯耆守元続は秀吉公を頼って本国に帰ったが(天正十一年ごろ)、
吉川・小早川両将の四国渡海の隙をうかがって、行松入道の次男、次郎四郎を大将として、
福頼藤兵衛尉(左衛門尉元秀)がわずか百人程度で籠もっている香原山の城を攻めようとして、
一千余騎で攻め寄せた。
福頼は敵の猛勢に臆したのか、一日戦いに費やすと、
同(天正十三年)七月九日の夜になって、城を逃げ出した。
行松がすぐにこの城に入った。

このことは、近辺にいた牛尾大蔵左衛門・吉田肥前守が伝え聞いて、
「香原山の城を敵に取られたのに、一日でも二の足を踏んでいてはならない。
そんなことをすれば、我らの武勇が劣るせいだと人が嘲弄するだろう。
すぐに攻め寄せて取り返してやろう」と息を巻いたが、
二人の手勢は合計しても三百に届かない数だった。
「ならば、毛利七郎兵衛尉元康が、兄の元秋が死去(天正十三年)したあと、出雲の冨田の城に入っている。
この人と示し合わせて行松を退治しよう」と、早馬を飛ばして元康にこのことを伝えた。
元康は「来る十四日に香原山へ出張しよう」と応じたので、
二人の者たちもその日を待って攻勢に出ようとした。

元康は十四日の朝に八百余騎で香原山あたりへ打ち出したが、
牛尾・吉田はまだこの地に到着していなかったので、
元康は「わずかな手勢で戦って敵に利を付けてしまえば、見方がまた戦うときに厄介だろう」
と考えて軍を引き上げてしまった。

牛尾大蔵左衛門は、合図の日と違わないように、同日の夕方に手勢七十ばかりで香原山近辺に打ち出した。
大坪神兵衛尉・境与三右衛門もその辺りにいたので、牛尾と合流して駆けつけた。
さて香原山に入って里の人に「毛利七郎兵衛殿はもうこの地にいらしているか」と尋ねると、
「それはもう、今朝の卯の刻(六時ごろ)にいらっしゃいましたが、お見方が続いてきません。
敵方には南条から続々と加勢が来ているとお聞きになって、すぐにこの地を引き払ってしまわれました」
と返答があった。牛尾はこれを聞いて、
「私は和泉山を出た日から、香原山の城を攻め落とさないうちは二度と帰らないと思い定めてきたのだ。
敵がたとえ百万騎いようとも、一歩も引くものか」と、
百騎にも満たぬ小勢で敵勢千騎を向こうに回して、少しも怯まずに陣を構えた。
牛尾の心栄えこそ不敵である。

吉田肥前守は、尾高の城を出て約束の日に遅れないようにと急いだけれども、
あまりに小勢なので近辺にい合わせた味方に出兵の催促をしていたため、
あちこちで少しずつ時間をとられてしまっていた。
その日は道を進むうちに日が暮れてしまって、あと三里ほどというところで一夜陣を張っていた。

牛尾は手の者たちを付近の人家に入らせて、陣屋を作るための材木などを取らせ、
自身は大坪・境らとともに、わずか十四、五人で小屋の中にいた。
敵は牛尾が少人数でいるのを見て、百人ばかりで我先にと城から打ち出てきた。
牛尾・大坪・境たちは、鉄砲四、五挺を前に立てて待ち受けたが、
人家や山々に入っていた手の者たちは遠くからこれを見つけ、「主を討たせるものか」と、
我も我もと急いで駆け帰ってくる。
敵はこの様子を見ると、ひとたまりも泣く逃げ帰ろうとする。
それを追いかけ、三人討ち取った。
「幸先がいい。軍神の血祭りに上げてやろう」と喜び勇んだ。

翌けて十五日の早朝、吉田肥前守が百五十騎ばかりで着陣すると、
牛尾が七、八十ばかりで陣取っているのを見て、
「なんと、大蔵は至剛の者だなぁ。自分の十倍の敵勢を山頂に引き受け、一夜こらえたのか。
項羽の勇にもなお勝る」と大いに感心したが、
牛尾の陣に首が三つ並んでいるわけを問うと、昨晩の様子を教えてくれた。
吉田は牛尾の勇に感服を通り越して、思わず開いた口がふさがらなくなった。

さて城中では、「昨日の朝には毛利元康がこの表に打ち出してきたが、すぐに引き返していった。
これもきっと、吉田・牛尾が出てきたのを聞きつければ、こちらに取って返してくるだろう。
近辺の敵勢は次第に増えて、味方の危機が訪れるかもしれない。
まず吉田・牛尾を切り崩せ。一陣破れば残党は残らないものだ。
後陣に大勢いようとも、矢の一つも放てずに敗北するだろう」と、五百騎ほどで城を打ち出した。
吉田・牛尾は二百五十ばかりで渡り合い、無二にかかっていく。
敵はかなわないと思ったのか、貝を吹いて逃げていった。

こうして後陣の大軍が到着するのを待って敵城を乗り破ろうと、
その間は「どんな弱敵であっても侮るな」とまずそれぞれ自分の陣を固めていた。
行松は「これはとてもかないそうにない。長居をしては身に危険が及ぶ」とでも思ったのか、
同日の夜半に城を忍び出て羽衣石の城へ逃げ帰っていった。
寄せ手は忍の斥候を放っていたのでこれに気づいて、敵が逃げてゆくと聞くやいなや、
我先にと城中に駆け入っていった。しかし敵の逃げ足が速く、
逃げ遅れた兵を百余人討ち取っただけにとどまった。

ここに、坂手新允という者がいた。
もとは杉原元盛の手の者だったが、そこでも同僚の中原弥介と毎度のように先を争っていた。
近年は南条を頼って妻子を育んでいたが、どうか中原と渡り合って勝負を決めたいと思い、
他の人間が退却しても坂手はまったく退こうとしなかった。
ある村のススキの陰に隠れて、中原が来ないかと待ちかけた。

弥介はそのころ風邪をこじらせていて四国には渡っておらず、自分の宿で療養していたが、
香原山に敵が出たと聞くと、吉田の館に馳せ向かい、一緒に進軍した。
弥介が味方に下知をして逃げていく敵を討ち取っていたところ、
坂手は「今、声高に味方に下知をしているのは中原に違いない。願いが天に通じたのだ」と喜んで、
声も高らかに叫んだ。

「ただいまこの辺りで大声を上げて物をのたまったのは中原弥介殿と聞きなした!
かくいう私は坂手新允である。
一方を打ち破り落ち延びるのは何よりも簡単なことではあるが、
おそらく中原殿がこの城へお向かいあるべしと思ったので、
待ち受けて一太刀浴びせ、近年杉原家で何度も先を争ってきた勝負をここでつけたいと考え、
今までここに控えていたのだ。いざ一勝負参ろうぞ!」

坂手がススキを押し分けて飛び出てくると、身の丈は六尺に及ぶ大男、
三尺以上に見える大太刀を軽々と提げている。
普段は目に見えぬ鬼が姿を現したのか、または近くの大山に住む天狗が化けているのか、
まさか人間ではないだろうと、さしもの中原も身の毛がよだつほどだった。

中原は鑓を引っさげて、「なんと坂手殿、久しいな。
私もあなたと巡り会いたいと思っていたところだ」と、突いてかかる。
中原の中間は主を討たせまいと間に入って切ってかかるが、坂手はこれをキッと睨んで、
一打で両膝を薙ぎ払った。
坂手が太刀を引き寄せようとしたところに、大王寺弥次郎という者が、
朋輩を討たれて悔しく思ったのだろう、息を継がせるまもなく鑓で突きかかる。
坂手は敵の突く鑓のしお首を打ち払い、弥次郎の眉間をしたたかに切りつけた。

中原はそこにツッと走りかかって、坂手の草摺り目掛けてズンと貫く。
ハンカイを髣髴とさせるほどのさしもの坂手も、犬のようにドウと座り込む。
太刀を振り上げて鑓の柄を切ろうとするも、中原が重ねて突いてくるので、もうかなわないと思ったのだろう。
坂手は持っている太刀を中原に投げつけて伏せてしまった。
中原は押さえ込んでその首を掻き切った。
なんと大剛の者だろうと、人々はこぞって褒め称えた。

中原は首を三つ討ち取った。
弥次郎も手傷は負ったが浅いものだったので命には別条がなく、落人二人を討ち取った。
牛尾・吉田の手勢も首を七十余り討ち取り、やがて香原山へ人数を入れ、
南条が攻めてくるかと待ちかけたが、元続はかなわないと思ったのか、その後は兵を出すこともなかった。


以上、テキトー訳。

いいですなぁ、いいですなぁ! 血沸き肉躍るよ合戦シーン!!!
元康の名前が出てきて期待したけど……うん、陰徳記はどうあっても元康を活躍させる気はないようだw
心底憎み合ってたわけではないんだろうが、やっぱり元康と広家がナカワルだったからだろうね。
対して牛尾・吉田は、尼子から毛利に帰服した連中で、吉川の管轄だ……ったよね、確か。
江戸期も吉川家臣として存在してる。

境与三右衛門なんてそれこそ吉川一門衆だし。
キャー与三右衛門サーン!!! もうすっごい好き! 与三右衛門は私のヒーロー!
すっごい好き!!! 大事なことなので2回い(ry
名前が出てくるだけで、何してくれるのかと期待させてくれる人もそうそういないよ。
与三右衛門はそういう人だよ。
陰徳記の鳥取城落城あたりを読むとそう思うよ。
誰か与三右衛門を主人公にマンガでも小説でも書いてくれないかしら。
めちゃくちゃオイシイ人物だと思うの。
ハァ……滾ったのでドッと気だるさが襲ってきたwww

いや、今回の坂手・中原の対決はよかったねぇ。
カッコイイよね。軍記物読んでるー!って感じがする。
現代の少年漫画でも通じるかっこよさ。
こういうノッてる描写は大好きだ。正矩愛してる(告白)。

この次の章はすでに読んでいるコチラです。
2012-04-14

河野家の終焉

お久しぶりだよー! 中途半端なまま河野家の歴史をおっぽってたせいで
なんかコレダレダ状態ですな。
もうあらすじとか関係なくそのまま読みきっちゃおうそうしよう。


伊予の国、河野先祖のこと(4)

通有には子が七人いた。嫡子の通忠、次男の通貞、三男の通茂、四男が通種である。
通種のこの通時は、建武年中に、伊予の凶徒を退治した。
通種の次男の通任は、先だって伊予で放棄したときに討ち死にしていた。
通有の七男、九郎左衛門通治は、元弘年中の六波羅合戦での忠勤が認められて、
対馬守に任じられて伊予を与えられた。
その後、足利尊氏に味方して高名を極めた。

父の通有は何を思ったのか、家を通治に相続させるようにと遺言状を残した。
兄たちが不思議に思って確かめようとすると、通治の母の通久の娘のところにあるらしいとわかった。
通有が逝去してからは河野道忍と名乗っていたが、この譲り状はこちらに預かり置かれているという。
この人は六人の母でもあるので、私情で物事を歪めることはないだろう。
通治もそこにあると言うので、六人の兄がそこを尋ねて実物を見てみると、確かにそう書かれていた。
その後、尊氏と新田義貞が合戦に及んだ際、土居・得能は新田に従ったが、
通治は自分には野心がないことを鎌倉に訴えた。
しかし奉行頭人はまったく聞き入れなかったので、恨みを抱いて建長寺の南山和尚に頼んで入道してしまった。
南山和尚は通治を深く憐れんで、通治の言い分を強く推してくれたので、本領が安堵された。
通治は貞治元年十一月二十六日に逝去した。

細川頼春は阿波・讃岐・土佐を与えられ、伊予をも我が物にしようとして、
通朝と矛盾に及び、合戦で勝負をつけるときがきた。
頼春は南方蜂起のときに上洛し、討ち死にしてしまった。
その子息の頼之が、提示元年九月に讃岐から押し寄せてくる。
通朝は同晦日に瀬田山に陣を取ったけれども、多勢に無勢でかなわなかったので、
城に引き籠もったときに、斉藤の者たちが寝返って城を落とされ、通朝は自害して果てた。

息子の徳王丸を陣中に召し連れていたが、僧が抱いて高市竹林寺に落ち延びた。
徳王丸は四五日経ってから大通寺に移されててそこで養育され、後に江良城で元服して六郎通堯と名乗った。
その後、一族国人を率いて正月十六日に温泉山に陣を張り、
同二十七日に湯月山を攻めて細川天竺禅門などを自害に追い込んだ。
そのまま大空を攻め、武州が大軍で道後にやってきたので通堯は高縄城に籠もった。
四月十日に武州がその城に攻め寄せてくると、河野一族が武州に内通したので落城してしまった。
通堯は江良に引き籠もった。
またここから能美島に移り、その後九州に渡って、菊池に従ってその幕下に属した。
後に通堯という名を改め、通直と名乗った。

正平二十三年六月晦日、伊予の松崎へと上ると、すぐに完草入道父子三人が三百騎で駆けつけてきて、
未明から合戦が始まった。通直が勝利し、大空の城へ正岡六郎左衛門を忍び入れて攻め落とす。
閏六月十三日、完草入道父子は自害した。その後、あちらこちらで合戦があった。
康暦元年、宮方で言うと天授五年のこと、河野家はこの年、道前を切り敷いて吉岡佐志久原に陣を取り、
諸勢を新居・宇麻の両郡へ派遣していた。
すると、陣中ががら空きだということを武州へと密告する者がいた。
細川方は吉岡の山中に忍を放ち、河野の陣の様子を確認すると、西の山陰から大軍で切ってかかる。
河野はこれを防ごうとしたがどうにもしようがなく、十一月六日、通直は自害した。
西園寺殿も同じところで自害した。

通直の嫡男は亀王丸が十歳、弟の鬼王丸が八歳で、
将軍義満は翌年、父・祖父の忠功に対して、本領安堵の書状を整えた。
しかし武州との戦争は終わる様子がない。
こうしたとき、武州が京に呼び寄せられたので、ようやく互いにに和平を結んだ。
亀王丸は至徳元年に元服して九郎通能と名乗った。鬼王丸は六郎通之と名乗った。
その後、康応元年に将軍が西国に下向したとき、三月十八日に、防州竃戸関で御目見えして、
次の年の明徳二年に通能が上洛した。
その後、応永元年に通能が病気になると、弟の通之を呼び上せて家督を譲った。
通能の妻は懐胎していた。通能は弟の通之に向かって、
「もし今腹の中にいる子が男子ならば、十六歳になったら家督を譲るように」かたく約束した。
果たして腹の子が産まれてみると男子であり、十三のときに元服して通久と名乗って謀反を起こした。
このときから通久方と州方が対立し、一家は二つに割れて戦が続いた。
そのころ、将軍義教から大友追捕のために大内と協力して現地に向かうように命じられた。
そして九州に向かうと、戦に勝利できずに、姫嶽において若干二十五歳で討ち死にしてしまった。
また対馬守通之の嫡子通元は京都で逝去した。嘉吉三年六月三日、弟の四郎は名越の城内で自害した。

通元の嫡男の大法師は三本松で自害、弟の伊予守通春は任国で二十五年を過ごしたが、
寛正四年に、重見・森山・南宮内少輔・得能三郎・和田中務などが通春に背いて細川に味方して、
阿波・讃岐・土佐の勢を率いて、讃岐の観音寺殿を大将に据え、攻め寄せてきた。
河野家が滅亡の危機に陥ったので、両家は和睦した。
通秋は京にいたので、通春と通生が対面して和平を結んだ。
通春は兵数が少なかったのでなすすべなく湊山に籠もり、通生は江良城に籠もった。
敵が大勢で湊山に攻め寄せると、通春と大内が縁者だったので、
竹内という者を使者に、大内に後詰を要請した。
大内はこれを引き受け、栗井坂にやってくると宅岐山に陣を取った。
そのほか堀江が三津の沖に舟を出し、敵陣を相手にせずに三木城を攻めて、その城は落城した。
湊山の寄せ手は、これを見て敗軍した。
土佐から来た大将の新渥一人が切腹した。追いかけて討った者は数知れない。
観音寺殿は湯山へ忍んで逃げ、剃髪し仏門に入ったので命は助けられた。
大内左京太夫教弘は帰陣する際に、興居島で亡くなった。

同六年、河野両家の和平はまたしても破れた。
応仁元年の兵乱のときに上洛していたのは通春である。戦功は応仁記に詳しい。
通春が十三年在京しているその間に刑部太輔通直が国に下り、
難波江良城へと策謀を使って入ると、それから湯月の城へ移った。
その後、あちらこちらで合戦をしたが、通直がことごとく勝利を得た。
通生の敵は星岡にある二つの山を取り込み、そこに籠もって日々戦をしている。
その後、余戸の薬師堂へと入った。防州の大内から加勢もある。大将は河内山壱岐守だった。
大野・森山・重見近江守たちは河内山と一緒になって、十二月二十八日に両山に攻め懸けた。
通生は門を開けて切って出ると、前の川原で攻め戦いた。

大野・重見が討たれてしまうと、壱岐守は松崎に退却した。
通生はここで一気に押し寄せて討ち果たそうとも思ったが、
大内と矛を交えてしまうのもまずいと思って、河木原隠岐守を使者に立て、
無事に防州へと送り届けようと言い送った。
すると壱岐守は命が助かったことを喜んで防州に帰っていった。
同晦日、通生は夜中に道前に移動すると、河内に籠もった。
象森には重見伊豆守がいたが、正月朔日に城を明け渡して周敷へと退却し、その後に通生が居住した。
通春はどうにかしてこれを討とうと謀略を練ったが、ついにかなわず、
湊山で文明十四年七月十四日に死去した。

嫡子通篤も久しく流浪の身となっていたが、平岡下総守通直の子が通宣の勘気を蒙り、
施梨の城に引き籠って、通篤に一味してあれこれと謀略をめぐらした。
南山城守・大内右衛門太夫を味方に引き込んだので、
文亀三年八月十六日、通信が湯原城を逃げ出すと、通篤が替わって入場した。
通宣は難波府中にいたが、永正二年七月二十三日に両家は和睦して、和介郡の高音寺で対面した。
南・大内は城を落ち、平岡はまた通宣と一味した。

同四年、両家の和睦はまた破れた。通宣は国の運営を自分の思うがままに執り行った。
同五年、能島・今岡・村上たちがことごとく通宣に従っただけでなく、
剰黒河は先代からの忠功がほかより抜きん出ていて、
とりわけ古は通篤の外戚だったのに、通宣に降伏してしまったので、通篤は力を落とした。
通篤はしばらくは梅子城にいたが、大永六年の春に剃髪して防州へと落ち延び、
その後また伊予に帰ったものの、宇和郡で死んでしまった。

通宣は家を嫡子の弾正少弼通直に譲ると、通直の息子、通信の代にも、
土佐の長宗我部と何度も合戦に及び、急難のときには毛利元就から援兵を出されて救われてきた。
今度は、秀吉に対して何の罪もないのに国を改易されただけでなく、
通信には子がなかったので、通信が亡くなると河野家は長く断絶した。ひどい話である。

これはひとえに先祖の通信が三嶋大明神の諫言に背いたため、
その後は神が直接助言を行うことをやめてしまったので、
世の安危や家の興亡を尋ねることができなかったせいだろう。
それで武威が次第に衰え、それどころか一門も不和になって他国の敵に侮られ、
とりわけ通信と名乗る人がいる代にこうして河野家が断絶したのは、
神勅に背いた罪を世の人に知らしめようという天の意思なのだろう。
人の諫言に背く者でさえ滅びていく例は枚挙に暇がないというのに、ましてや神の勅である。
どんなに恐れても恐れすぎることはない。真に崇めるべきなのは神の徳であろう。


以上、テキトー訳。これでおしまい。

河野家鬱歴史怖い。伊予コワイ(((((;・ω・))))
もう、どれが誰やらまったくわからなくなったけどコワイwww
通直って名前はけっこうよく出てくるんで、時代を把握しないとまったく理解できんな。
でも河野をちゃんと調べるのはまた今度にして、先に進もうと思います。
だって私、毛利家というか吉川家というか、ぶっちゃけ広家目当てで陰徳記読んでるわけだし。

通直って実名の人、多すぎるんじゃないかしら……それでわかりにくくなってると思うよ。
同じ実名が数代置きに使われるのって、毛利家臣の福原さんとかもそうだよね。
福原さんなら、まだ毛利家だから、どうにかがんばれば把握できそうな……気がする。
うん、気がするだけだwww

今週は仕事が忙しかったのももちろんだけど、
毛利の家臣団の系図にも浮気をしてて、陰徳記は滞ったけど意外に充実していましたw
毛利家臣団や吉川家臣団のまとめ、いつか作りたいなー。
もうね、益田家がすげえのなんのって……。
2012-04-10

更新が滞ります

仕事場のリーダーがインフルエンザに罹患したため、
その人の分の作業をフォローするために残業が続く見通しです。
陰徳記をきちんと読む時間が取れないので、
次回更新は土曜日になるかもしれません。
2012-04-08

平安末期~承久の乱あたりの河野家

いやはや、今日は打ち込んだテキストがマシンのフリーズでまっさらに消えてしまって焦った。
お釈迦様の誕生日だからか? 天部のいたずらか?

前回のあらすじというものはないけれども、伊予河野氏の先祖をたどって
一大ファンタジーワールドが繰り広げられてる真最中ですよ。
今回は平安末期の院政期あたりの話だね。


伊予の国、河野先祖のこと(3)

『平家物語』には、養和元年二月に西国より平家へ報告があったとある。
伊予国人の河野介通清が去年の冬から謀反を起こし、
当国の道後・道前の境である高縄の城に立て籠もっているので、
備中の国の住人、奴可入道西斉が、備後の鞆の浦から兵船十艘で押し渡り、
高縄の城へ攻め寄って通清を討ち取り、国中ならびに阿波・讃岐・土佐を平定し、
正月・二月の間はそこに居住していた。

そこに通清の子息である河野四郎通信が高縄城を忍び出ていて、
安芸の国沼田郷から兵船三十艘ほどを釣り船のように装って漕ぎ出してきており、
西斉をうかがっていたが西斉はそれを知らなかった。
さる三月二十一日に宿海にて、室高砂の遊女を集めて舟遊びしているところへ通信が攻め寄せてきて、
西斉を捕虜にして高縄の城へと引き上げ、磔に架けたとも、あるいは鋸で首を切ったとも言われている。
新居・高市をはじめとして、四国の住人たちは皆河野に付き従ったとのことだ。

しかしこの物語と河野家の相伝とは少し違っている。
河野家に伝わっているのは、平家が大勢で伊予の国に来襲し、通清が三度の合戦で勝利したので、
平家はまた一万騎を率いて、七ヶ国の兵を引き連れてきたときに、温泉郡で合戦した。
通清は分が悪くなって高縄の城に籠もったところ、
備後の奴可入道西斉たちが示し合わせてその城に攻めかかった。

城中から内通者が出て敵を引き入れたので、通清は討たれてしまい、
同じく子息の通考・通員も討ち死にして、中河の者たち十六人も討ち死にした。
城中の者たちはことごとく討たれてしまったので、どうにか生き残った者たちは足が動く限り逃げた。
こうして中河の一族は皆滅びてしまったが、相模の国の藤沢道場に生弥陀仏いう時宗の僧侶が一人いて、
それを呼び寄せて還俗させ、家を相続させた。その子孫は栄えた。
また通清の子は童名を若松丸といって、北条四郎時政の婿である。

『平家物語』九巻には、元暦元年、門脇中納言が福原へ来たとある。
子息二人は伊予の国の住人河野四郎通信を攻め滅ぼそうと、二手に分かれて四国に渡ってきたという。
越前三位通盛は阿波の国の北郡花園の御所に着き、能登守教経は讃岐の国の矢嶋の御所に着いた。
河野四郎はこれを聞きつけて、安芸の国の住人沼田次郎源氏が味方してくれると、
一緒になって沼田尻へと渡った。
能登守はそれを追いかけ、備後の笠嶋に着いた次の日に沼田尻へ攻め寄せ、一日と一夜戦った。

沼田次郎は矢種が尽きてしまったので降参をし、
河野四郎はというと、城主さえこの通りなのだから、主従七騎だけで細綴白の浦まで船で落ち延びた。
能登守の郎党に、平八・為員二騎が矢で射られ死んでしまい、三人は馬を射られて動きようがなくなった。
通信が自分の命と同じように思っている郎党だからと、
能登守の郎党の讃岐七郎がこれを討とうと付け狙ったが、
通信がその者たちを肩に引き掛けて小舟に乗り、伊予の国に渡っていったという。

河野家旧記には、安芸の国の沼田城を能登守に攻め落とされたとある。
沼田次郎は通信の小舅だったので協力したのだが、兵数が少なくて城を落としてしまった。
通信は力を落として「沼田次郎の言うようにここは退こう」といって、
怪我をした大武者を肩にかけて一里ほど退却すると舟に乗り、易々と海を渡ったそうだ。
沼田はそれから伊予に住んで、十八ヶ村の一員になったとも。

また出雲房宗賢という者は、通清が若年のときに江集の西坂本で拾った捨て子だという。
通信は親を奴可入道に殺されたのを恨みに思って、どうにかして入道を討とうと策を練ったが、
流浪の身の上ではどうしようもないと思っていた。
宗賢も同様に恨みを晴らそうと考えていた。

奴可入道は恩賞として備後の国を与えられ、その栄華に溺れた。
鞆の浦に出て室高砂の遊女たちを呼び集め、山海の珍味嘉肴を尽くして酒宴を開いた。
これを通信が聞きつけると、三尺ほどもある大きなアワビを手に入れ、
宗賢と二人で主演の場所に行って、
「私たちは伊予の今治の海人でございます。貴君がこちらで遊山なさっていると聞きつけ、
それにふさわしい肴が手に入りましたので持って参りました」と言った。
西寂が喜んで二人を幕の内へ呼び入れて盃を与えようとすると、宗賢が飛び掛って西寂を生け捕った。
そのまま提出舟に乗せて筒の門口に縛りつけ、二人で舟を押し出してこう言った。
「私は通信、ここにいるのは河野四郎通信である。父の仇を成敗してやる」

通信は舟を漕ぎ出し、伊予の国の風早郡北条浜に着くと、
高縄城の通清の墓の前に西寂を三度引き回してから首を刎ねた。
西寂もなかなかの者で、その墓に尿を引っ掛けた。
それがあってから、河野家では墓を築かなくなったという。

その後、頼朝が天下を治めるようになり、鎌倉の由比の浜で大宴会があった。
「諸侍が座位を争うことになるだろうから、先に席次を定めておこう」ということで、
頼朝は小折敷を取り寄せて座配を定めた。
まず一文字を書いて自分の前に置く。北条の前に二文字、河野の前に三文字を置いた。

また河野家の幕の紋のことについて、その先祖の三並は、
異国を成敗するために日本から十人の大将を渡海させたとき、第三番目の大将だった。
そのときの幕の紋は一スハマであった。伊予の皇子が下向してきたときからの慣例である。
異国でよく似た紋があったので、紛らわしいと、河野の舟には折敷を角違いにはさんで舳先に立てたところ、
その影が白々と海水に映ったのを見れば三文字が見えた。
不思議なことだと思っていると、その舟から日本軍が勝利を収めることができたという。
帰国してから、三文字を幕の紋にしたそうだ。折敷もただの四角のものを付けていた。

その後、承久の兵乱のとき、通信は天下の安否を三島の明神に参詣して尋ねた。
神はこう答えたという。
「聖運が傾き、その後関東が滅ぼして聖代となるだろう。
まず関東に従えば四国の探題の職に据えられるだろう」
通信はこれを聞いて、「普天のもと、卒土の内は王土にあらずということはない。
私は皇恩を蒙ってきたのに、どうして朝敵に味方することがあろうか」と帰ろうとする。
明神は「時の変化を見抜けないのは勇士ではない」と諫めたけれども、
通信はまったく聞く耳を持たずに、明神が握っていた通信の直垂の袖を振り払って帰ってしまった。
明神は大いに怒り、「これから七代は私の前に現れるな」と神勅があった。
これから長らく、三嶋大明神が河野に対面することはなくなってしまった。
通信は宮方についたので、奥州平泉へ流された。

その弟の五郎通経は、源義経の烏帽子子だったために、「経」の字を与えられていた。
武芸に秀でていたので「甲冑五郎」とも呼ばれた。
義経の兵書を相伝し、また河野家の兵法の深淵を極めたそうだ。
その子孫は栄えたが、先年、細川武蔵守頼之が上位に背いて四国に下向してきたときに河野と合戦に及び、
このときは惣領に恨みがあって細川に味方した。
細川右京太夫勝元に「甲冑加賀」と呼ばれたのは、この通経の末裔である。

通信には子息が多数いて、嫡子の得能冠者通俊は得能のはじめであり、十八家中の十八番目である。
その子の通秀とまたその子の通純は、文永年中に六波羅探題の吏部を討伐して、
阿波の国の冨田庄を与えられた。
次男の通村と三男の信綱、四男に通方と、総勢四人の子がいた。
そのなかで通村の子の通綱が備後守に任じられ、元弘年中の後醍醐天皇の時代に、通信の旧領を与えられた。
それで惣領家となって河野を名乗ったが、その孫が宮方についてしまったので、他国で断絶した。
また通信の四男、九郎左衛門通久は、承久の乱のときに上洛しており、
宇治川の先陣を務めて、阿波の国の冨田庄を与えられた。
その子の通時・次男通継・その子の通有は、後宇多院の時代、弘安年中に蒙古の襲来があったとき、
軍忠を貫いたので、肥後・肥前で数箇所の所領を与えられた。
海上と陸地で都合七十余度の合戦に粉骨砕身し、たいそう感心されたという。


以上、テキトー訳。マダツヅクノデスw

つーかマジで神様と仲いいな、河野氏www
お告げに食って掛かってみたり、引き止められた袖を振り払って帰っちゃったり。
なんだ、痴話喧嘩見てるよな気分にさせられるね。
そういえば通清のお母さんは神様と密通して通清が生まれたんだっけ。
そのときも神様に思いっきり反論してたしな。
喧嘩するほど仲がいいとか言うけれども、このころの人にとって、
神様っていうのはすごく身近な存在だったんだね。

さてさて、『平家物語』とか承久の乱とか、日本史で習った記憶のある単語がちらほら出てきてるね。
このころのことは不勉強なのでまったくわからないけれども、
親兄弟が敵味方に分かれて、家の存続をどうにか図った動乱の時代だとざっくり理解してる。
今年の大河は『平清盛』だっけ。さんざっぱら悪役として描かれてきた清盛ってどうなの、
とも思わんでもないけれど、どうせ見ないのでどうでもいいというのが本音。
初回だけ人に付き合って見たけど、清盛の父親が厭戦気分滲み出させてたところで
「もういいや」って気分になった。あと海賊に一人で立ち向かおうとするシーンとかな。
どこの少年漫画の主人公ですか、と。
映像とか音楽とかはいいんだけれど、根底の思想的なものが肌に合わないのよね。イライラする^^
犬HKは金持ってるんだから、もっとがっつり大規模合戦シーンとか嬉々として描いてくれないかな。
大軍VS寡兵の合戦も好きだけど、大軍VS大軍も好きなんだよね。個人的な好みだけどさ。
血沸き肉躍る合戦シーンが見たいよーーー!

しかし河野家の家伝は血なまぐさいというかおどろおどろしいというか。
親の仇をただ殺すんじゃなくて、生け捕って父の墓の前で引き回すとかえぐいわ。
生け捕られてる方も墓にションベン引っ掛けるとか、やるじゃないの。
万人受けはしないだろうけど、劇画タッチで漫画化してほしい作品だよねーと思ったりしたw
2012-04-07

河野家の「通」という通字の由縁

前回のあらすじ:
河野家は、元をたどると孝霊天皇の皇子の血筋だよ!
大昔から朝廷の敵を退治するお役目を担ってきたよ!


伊予の国、河野先祖のこと(2)

それから武男、玉男、諸飽、万躬(つみ)、守興と続き、
この守興は天智天皇の御代に勅命を受けて、新羅の国へと渡っていき、
日本との境にて三年の月日を送った。
この守興までは食器に土器を使っていて、一度使った食器は二度と使うことはなかったが、
一度飯を盛った器を捨てていくうちに、日本から船で持ってきた土器はすべて使い尽くしてしまった。
異国の茶碗も同じように土で作った器なのだから土器と同じようなものだろうと、現地のものを使ったという。
この守興の代までに、朝敵を三度退治した。

守興の嫡子、伊予大領玉興は、人王四十二代、文武天皇の御代に、大化五年(孝徳天皇時代)、
役優婆塞(えんのうばそく、役の行者)が葛城山に久米の岩橋を架けようとして、
諸神を術で呼び寄せて一夜のうちに橋を架けるように言いつけた。
葛城神は容姿がとても醜かったので昼は人目を忍んで夜にやってきたが、
夜のうちに完成しなかったので行者は激怒した。
神もまた怒って、成役の行者に謀反の意志があると、帝に讒訴した。
このとき、玉興は行者には過失がないことを強く帝に訴えたため、
行者と同罪だとされて罪に問われてしまった。行者は玉興とともに摂州へ下ることになった。
そこで、通りがかる船に頼んで、伊予の国に戻ろうとした。
このときまでは摂津の中嶋はなかった。
このあたりは海辺なので、常に唐船が寄港していた。そのため「唐崎」と呼ばれていた。

あるとき、唐船が二艘やってきた。
玉興が便船を頼もうとすると、船員たちは入った国の決まりごとに従う習いだったので、
「帝の怒りを蒙った人など乗せられるものか」と断られ、
もう一艘の船にまた便船を頼むと、すぐに了承してくれ、伊予の国に戻ることができると喜んだ。
ところが備中の沖で船の水の備蓄が尽きてしまった。
ある島で、玉興が弓のハスでもって塩水を掻き分けるとたちまち水が沸いてきたので、
その場所は水嶋と呼ばれるようになった。

船員に「おまえはどういう者だ」と問うと、
「私は唐土の越の国の者だ。私の母は遊女である。
日本から異国退治のために渡海した伊予の大領守興と結婚して懐妊し、二子を生んだ。
母はもう死んでしまった。
私たちは孤児になってしまったので、父に会うためにこの地へとやってきたのだ。
先に船を貸さなかったのは私の兄だ」と答えた。
玉興は、「これは不思議なことがあるものだ。
私にとっては兄弟に当たるではないか。
しかし、何か守興の子だという証拠はあるのか」と問いかける。
「これだ」と言って船員が出してきたのは、代を重ねた剣と、守興の筆跡の書状だった。

「これなら疑いようもない。玉興には子がいない。弟に家を譲ればいいのだ」と、
玉興はすぐに家を譲り渡し、「名字がなくては具合が悪い。
そうだな、先ほど湧き出てきた水は、伊予の国の高縄山から流れ出ている水の末の流れだ。
その高縄山は観音菩薩がおわす霊験の地である。その昔、十六人の天童があそこに来遊した。
つまり三島大明神十六王子の霊跡だ。新宮と呼ばれている。その廟の下から流れてきた水なのだ。
私にはお告げがあったから、あそこに水があるとわかったのだ。
おまえもその水脈の上に住むといい。水をたたえた里にするのだ。
これを二つの文字で表してみると、河野という字になる。
だから名字は河野と名乗りなさい」と言った。だからその土地も河野というようになったそうだ。

しばらくして玉興も行者ともども赦免された。
その後弟に家を譲り、玉澄と名乗るようになった。新居・高市・岡田も一族である。
新居一党の八ヶ村とは、周敷・越智・今井・松木・難波江・徳水・高部・新居である。

玉澄のこの益男は、周敷郡司となった。
その子孫は実勝、深躬、息村、息利、息方、好方と続く。
この好方は、朱雀院の時代、天慶二年、純友という逆臣が九州を横領して朝廷に背いた事件があったが、
その純友を成敗するために九州へと発向するように命じられた。
好方が「朝敵退治のことなら、当家の昔からのお役目です。
綸旨をいただいたので、すぐに馳せ向かって逆臣をたちどころに退治してご覧に入れます」と返答すると、
帝はたいそう喜んで、赤地錦の直垂を下賜した。

そのころ、村上という者が新居の大島に流されて何年も住んでいて、
海での船の案内ならとても達者なので、好方は勅許を受けてこの村上を伴っていった。
そのほか西国勢を率い、船三百艘で九州に押し渡ると、朝敵を打ち据えた。
好方の郎党である田新藤次忠勝を差し向け、ついに純友の首を取った。

好方の子、好峯を野万押領使という。そのこの安国を風早押領使といった。
そして安躬、元興、元家と続き、次の家時の代になって、
嵯峨天皇第十の皇子が、藤原の姓を与えられて伊予の国に下向してきたのを、
家時が婿にとって家を相続させた。
それによって姓も越智と改め、為世と名乗った。そして為時、時高、為綱、親考と続いた。
この親考の代になって、殿上を許された。
孝霊天皇から数えて四十二代、玉澄からは十八世に当たるが、この功名は先祖よりも勝っていた。
弟の宗綱は寺町判官と呼ばれた。

親考の子の親継のときになって、伊予守の源頼義が伊予の国司として在国していた。
そのとき親継と気心を通じて、国中に四十九ヶ所の薬師堂、八ヶ所の八幡を建立した。
親経には女子が一人ばかりで男子がいなかったので、頼義の末の御子、
三島四郎親清を婿にとって家を譲り、河野伊代権介と名乗らせた。

この親清にもまた男子がなかったので、御台所が河野の氏神である三嶋の宮へ参籠して祈りを捧げた。
そのころまでは、家督に関わる人の社参りには、丑の刻にすべての社の灯明をすべて消して参れば、
明神が三の階まで出てくるので、それを拝むことになっていたという。
このときもまた明神が出現して、御台所に向かって、
「家清は姓の異なる他人である。どうしてあの人の子に当家を相続させることがあろうか。
いかに祈ったとしても願いはかなわない」と神託を告げた。

御台所はこれを聞いて、「これは神のお言葉とも思えぬものです。
では何で私を男子として生まれさせてくれなかったのですか。
河野家の子孫を断絶させようとのおつもりなのですね」と言い返すと、
明神もまったく道理にかなった方法で責められてしまい、
「ではこれから十七日参籠するように。男子を与えてやろう」と言って、
御殿の扉を押し開き、中へと入っていった。
御台所は神託を頼もしく思って、いよいよ丹精をこめて参籠した。
六日目の夜に大蛇が枕元に立ち寄って、それから程なくして懐妊し、
臨月になって安らかに男子を産み落とした。

その子は顔つきも普通の人とどこか違っていて、身長は八尺、
両面と両脇に鱗のようなものがあり背をかがめても背中に溝が出来なかった。
こんな異形であることを深く恥じ入ったので、人に対面するときは顔を手で覆うようになって、
世間の人は河野の恥だと陰口を叩いた。
烏帽子に手形のあるのもこの所以であるという。
はじめは河野新太夫といい、後に伊予権介通清と名乗った。
「通」の字を名乗ったのは、明神が一夜密通したためである。
これがすなわち大通智勝仏の御子である証拠だという。


以上、テキトー訳。まだ続くよ!

切りどころがわからないけど、この後は平家物語と河野家伝が比較されるようになっていくので、
とりあえず今日はここで一区切り。

しかし河野家、すさまじいな。役の行者って、役小角だろ。
昔、「まんが日本霊異記」みたいなので読んだよ。空飛んだりする人だよね!
そんなんと関わりあったり、配流された土地で異母兄弟にバッタリとか。
言わない方がいいんだろうなと思うけど、自分のブログだからいいよね。
それってまったく関係ない人が騙して住み着いただけなんじゃねーのー???

あと子供ができないことに悩んだ奥さんが氏神の宮に参籠して懐胎……
明らかに旦那の子じゃねえだろ、って思ったら、やっぱり「神様が密通してできた子」ってことなのね。
納得。でも旦那の立場がない。ただでさえ婿養子なのにwww
そして生まれた子は異形。人々に「河野家の恥」とか言われる……かわいそうになぁ。
生まれた子の責任じゃないのになぁ。
とはいっても、当時は前世の宿業が今生にめぐってきてるって考えだったんだろうから、
その人本人の因果だと思われたんだろうな。

この通清くん、次の段落で子供が登場してるから、普通に結婚して子をなすことはできたようだね。
とりあえずよかった。

しかし河野家の「通」って通字が「神様が密通してできた子」という意味だとは……いやはやw
2012-04-06

すごいよ! ご先祖さん!

なんかホントお久しぶりにブログ触る気がしてる……。
本来は毎日やるのがいいんだろうけどね、生活リズム的に。
リズムをつかむまでは読めるときに読むよ。

さて、今回は、秀吉の四国征伐で改易されてしまった河野さんちのご先祖さんのお話。


伊予の国、河野先祖のこと(1)

さて河野の先祖をたどっていくと、仁王七代の帝、孝霊天皇の第二の皇子、
伊予の皇子という方が、今の河野家の先祖に当たるそうだ。
孝霊天皇の御代に、南蛮西戎が活発に蜂起していたが、
その鎮圧のために弟の伊予の皇子を差し向けていたので、西南藩屏将軍という印を下賜されていた。
伊予に下向したことで、伊予の皇子と呼ばれるようになったとも。
その国で和気姫と結ばれ、三子をもうけた。しかし、外聞が悪いということで、
棚無小舟三艘に乗せて海上に放り出した。

嫡子の舟は伊豆の国に流れ着いた。
大宅というところがあり、そこで成人したが、後に神となって、従一位諸山積大明神と名づけられた。
本地は阿閃如来である。
その末裔の大宅氏は栄え、たくさんの庵を作り並べて住んでいたので、ここを庵原と呼んだ。
第二の皇子の舟は中国の吉備山本に流れ着いた。
備前の児島である。そこの三家の名家に養われて成人した。
そのため、その子孫は三宅氏と呼ばれた。児島というのもこの末裔だという。

第三の皇子の舟は伊予の国和介郡三津浦に流れ着いた。
そして国の主として仰がれ、越智御子と呼ばれた。この御子を祖として、
その諱を氏となし、七歳で勅定によって都に上ってやがて帰国した。
伊予の越智郡大浜に着くと、そこに館を造営して住んだのだった。
その御子の天狭貫中、またその子の天狭介、粟鹿、三並と続き、
この三並のときになって、新羅征伐のために十人の大将を派遣した。
その子の態武伊但守は、伊予の国の西南の土佐との境に館があり、その地名を名乗った。
そして喜多守、高縄、高箕、勝海、久米丸、百里、百男、益躬と続いた。
この益躬は伊予の国司に任命された。

推古天皇の時代に、三韓から鉄人が大将となって、八千人の軍兵が渡ってきた。
この異人たちは人間を食べたので、さながら地獄の牛頭馬頭のようだった。
九州の兵たちはよく防戦したが、あらかたは討たれて皆山林に逃げ隠れてしまったので、
異人たちは王城を襲ってやろうと攻め上っていく。
益躬は、「外的を退治するのは先祖代々、当家ののお役目です」と、勅を賜って九州に行ってみると、
九州の地には味方が一人もいなくなってしまっていた。
味方がいなくては戦いようがないので、まずは智計をめぐらし、降参を申し出てこう言った。
「日本は偏狭なので、ここに住んでいてもつまらないのです。
できたら鉄人の配下にしていただき、忠節を尽くしますので、三韓に渡って武臣になりたいと思います。
我が国はこの通り、山は高く川もたくさんあるので、
地形がわからなければ敵に不意を突かれて討たれてしまうこともありましょう。
私が先に立って道案内をいたしましょう」
鉄人はすぐにこれを受け入れ、益躬を先陣に立たせた。

益躬が思ったのは、
「いかに鉄人といえども、五体の内に肉がまったくないというわけではないだろう。
近づいてから隙をうかがって、一矢で射殺してやろう」ということだった。
そのためにずいぶん努力したのだが、
「播磨の明石の浦からは陸路を行きなされ。世にも優れた景色ですぞ」と勧めると、
鉄人はすぐに船から降り、ここからは馬に乗って進んだ。
蟹之坂を越えるとき、明石の浦の景色が異国にもないような素晴らしさだったので、
鉄人はあまりに感動して、足を上げて馬の上からしばし見とれていた。

「あの島はなんと言うのだ」「ここは何の山だ」と尋ねられ、
それに答えるようなふりをしながら益躬がうかがい見ると、鉄人の足の裏に眼がついていた。
益躬は「これが天が与えてくださった機会だ」と喜んで、袖の下に隠し持っていた矢でもって、
鉄人が再度足を上げようとしたところにすかさず投げ放つ。
すると、たちまち足の裏から脳天まで貫通してしまった。
さしもの鬼神のような鉄人も、馬の上からまっさかさまに落ちてしまった。

益躬の郎党に出江・橋立という者が二人付き従っていたが、二人が鉄人を押さえ、益躬に首を打たせた。
益躬が討ち取った首を高く差し上げ、「異国の大将、鉄人を簡単に討ち取ってやったぞ」と呼ばわると、
従ってきていた兵たちは、大将が討たれてしまったのでもうかなわないと思ったのか、
大勢が自殺して死んでしまった。
残った者たちは切り殺したり、また生け捕った場合は足の要の筋を切って海辺に放置した。
その子孫たちは皆海人となって世を渡ったので、
「西海の浦の人々は皆河野の家来となるように」と定められた。
また討ち漏らした者たちが四国に渡って乱暴していたのを、益躬が下向してことごとく切って捨てた。
そのためその場所を鬼谷と呼んだそうだ。
益躬は伊予の皇子から数えて十七代に当たるという。


以上、テキトー訳。続くよ!

ていうか先が長いよ!!! 何回で読み終えることができるかわからないので、
暫定的に今回は(1)としておこう。
なんかあんまりぱっとしなかった河野さんのご先祖さんと言われても……と思ったけど、
かなり戦慄したね。いや、遡りすぎの時の流れにではなく、
「足の腱を切って海辺に放置する」という残虐な処刑方法のことだよ☆
いっそ一思いに首を落としてくれたほうがマシだと思う。
まあ相手も人間を食うような輩なわけだが、古代中国大陸では食人はままあることだったとも聞いた。
現代は倫理観が地域差を超えて行き渡ってきてるけど、
習俗的にカニバリズムをタブー視しない地域はかなりあるんだよね。
足の腱を切って海辺に放置するのも、当時の日本では特段ひどいことではなかったのかも。

話に出てくる「鉄人」ていうのも、足の裏に目がついてるとかいう化け物じみたやつだから、
多分に神話やら怪しげな伝承が混じってるんだろうなーと思ったら、
どうも室町時代に成立した『豫章記』という物語が下敷きになってるようだね。
そりゃこの章が長くなるわけだわー。

休日も続きをしこしこ読みますw
2012-04-05

吉川無双の伊予合戦!

なんかもう今日は眠いから陰徳記諦めようかと思ったけど、
隆景・元長・経言に加えて益田・今田・香川が登場してたので、これは読まなきゃイカンだろ!
明日ちゃんと起きれるといいね!!!

だいたいの流れ:
毛利は秀吉の配下に属し、秀吉は雑賀・根来衆なんかを征伐し終えたよ。
次はど・こ・に・し・よ・う・か・な~♪


伊予の国所々の城攻め落とすこと

四国には長宗我部土佐守元親(原文:長曽我部土佐守広親))という人がいた。
秦の始皇帝の末裔ということだったが、武勇一筋の無双の大将だったので、
土佐・阿波・讃岐の三ヶ国を切り従え、伊予の国には久竹内蔵助(親信)を大将に立てて
何度か侵攻してきていた。
しかし河野には毛利家から加勢があったので、元親は攻め取ることができずにいた。

高尾の城にいた金子備後守(元宅)が仁井道前の郡を打ち従え、
河野から離反して長宗我部についたので、黒河何某らがこれに追随した。
これによって河野四郎は「加勢をたまわれれば金子など国中の怨敵を退治します」と秀吉に申し入れたので、
秀吉も「ちょうどよく四国征伐をしようと思っていたところだ」と、
弟の美濃守秀長に千石権兵衛尉(秀久)をはじめとして数万騎を差し添え、土佐表へと向かわせた。

伊予表へは中国勢が渡るようにといわれたので、
輝元様は吉川蔵人頭経言を伴い、備後の国三原まで打ち出した。
小早川左衛門佐隆景・吉川治部少輔元長は、中国八ヶ国の兵二万騎あまりを率いて、
伊予の八町へと押し渡った。秀吉公からは、検使として、黒田官兵衛尉が差し添えられた。

中国勢は天正十三年七月二日から黒河太郎三郎広隆の家城の丸山を取り囲んだ。
金子はこれを見て、黒河を助けようと三十騎ほど物見のように差し向けたところ、
隆景様の手勢から早雄の者たちが七十騎あまりが我先にとかかってくるのを見て、
とてもかなわないと思ったのか、馬を引き返して逃げていく。
それを「一人たりとも逃すな」と追いかけていると、なかでも裳懸主水正が、
乗っていた馬が優れて体力のある馬だったので、真っ先に進み出て、不意に大勢の中に駆け入った。
敵はこれを見て大勢で切りかかってきたので、裳懸は心ばかりは勇んでも、
たった一人だったので重傷を負い、馬から落ちてしまう。
敵が首を取ろうとして刀を振りかざしてきたときに、井上与七郎が助けに駆けつけ、
その敵を討ち果たし、裳懸を助け起こして帰ってきた。
黒河はどうにもしようがないまま、兜を脱いで降伏することになった。
城を明け渡して、これからは先陣を勤めようと申し出てきたので、
その城には香川左衛門尉広景が入れ置かれた。

さて、その黒河を先に立てて、同十三日には金子の城を取り囲んだ。
尾首に吉川勢が攻め上っていくと、敵が三百ほどで打ち出してくる。
今田中務・その弟・杉岡安右衛門・香川兵部が一番に掛かっていって敵を追いたて、
たちまち城中とせり合って、そのまま仕寄をつけておき、
鹿垣を結いめぐらして敵を一人も討ちもらさないようにと攻め近づく。
先陣は益田越中守・熊谷豊前守、その次には出雲・伯耆・石見三ヶ国の兵たちがそれぞれに陣を取り、
麓には小早川勢の木梨・楢崎を先陣として、備中・備後・安芸の兵が、隙間なく陣取っていた。

吉川元長は同十四日にその城を一気に乗り破ろうとしたけれども、
もう少し仕寄を寄せてから攻め落とすべきだと軍評定が一決して、同十五日が決戦と定まった。
しかし敵がたまりかねて、十四日の宵の六つ時ごろ、城中から鹿垣を切り破って切り抜けようとしてきたので、
吉川勢はそのまま敵をすべて切り殺してしまった。
そのなかで敵三百人ほどは深い山へと分け入って土佐の国へと逃げていった。
敵が落ちたとわかるや否や、我先にと城へ乗り込んでいって、
吉川勢では山県源右衛門・綿貫権内・江田新右衛門らが素早く攻め入って首を取る。
その次に井上又右衛門が駆けつけ、金子の祐筆の首を討った。
益田越中守も先陣にいたので、これも人より先に城へ乗り込んで分捕りした。
城主の金子はというと、三村紀伊守の手の者たちが落人を多数討ち取ったその中に、彼の首もあったそうだ。

小早川衆では真田孫兵衛尉、吉川衆では松岡安右衛門・井上左馬允・朝枝信濃守・
桂五郎兵衛尉・山県源右衛門・綿貫権内・江田新右衛門・井上又左衛門・三吉九郎兵衛尉・
野上右衛門尉・市川五郎右衛門・宮庄太郎左衛門の家人の神保・山県杢助の手勢の新三郎・
香川兵部大輔の郎党・三宅源允などが、城中で敵を討った。
小早川衆やそのほか中国の国人たちも数知れないほど多くの敵を討ち取ったが、皆追い討ちであって、
一人として城中に乗り入っ戦いを繰り広げたわけではないので、詳細はここには載せない。
首の数は五百以上になったそうだ。

同十六日、荒居の柴尾へ七里ほど陣を移した。
これを見て石川・帆柱の二つの城がぐうの音も出ずに城を明け渡したので、ここに在陣することになった。
しかしここで吉川治部少輔元長様がにわかに体調を崩してしまい、
弟の蔵人経言様を三原から呼び寄せて名代として差し出すと、自身は療養のために芸陽に帰っていった。

羽柴美濃守殿は阿波の国に漕ぎ渡ったところ、安宅三河守が家城で迎え撃ったもののすぐに降伏し、
仏殿の城も明け渡してきたので、そこに陣を据えていた。
そこに、隆景・経言が着陣したので、美濃守殿はすぐに対面して、
「伊予を早速攻め従えられたのは、吉川・小早川両将の戦功が群を抜いていたからだ」といって、
大いに感心した。

そこからは合流して、土佐の国に押し入って長宗我部を責め滅ぼしてやろうとしたところ、
土佐守は「阿波・讃岐の二ヶ国をお渡しし、自分は土佐一国だけの身になって、
九州攻めの先陣を勤めましょう」と強く申し入れてきた。
それではということで、元親の望むとおりに事を運んだ。

そこから隆景・経言は、黒田官兵衛尉・蜂須賀彦右衛門を添えられ、讃岐の国に差し向けられた。
両将は讃岐を一回りした後、美濃守殿も大阪に引き上げていったので、中国勢も国もとへと帰っていった。

秀吉公は「伊予の国の河野はまだ幼少なので、素の国は小早川に預けるように」と命じた。
また阿波一国は蜂須賀彦右衛門、讃岐一国は千石権兵衛に与えられた。
さて伊予の国は隆景様に預けられたとはいっても、秀吉公の心積もりは、
「毛利家は以前から二手に分かれて軍事を統制し、北は吉川、南は小早川としてきた。
伊予の南表が自由になるなら小早川に宛行おう」というものだった。
そして伊予を隆景に与えることになったので、
「河野のことは小早川が好きなようにするがいい。
この秀吉が直接召抱えることはないだろう」と言った。

隆景は河野四郎を呼び寄せようとしたが、やがて死んでしまった。
河野の一族の平岡遠江守広頼は智勇ともに備えた者だったので、
隆景が「元通り本領を宛行うから、私の家人になるように」と声をかけたけれども、
平岡はまったく首を縦に振らず、元結を押し切って遁世の身となってしまった。

遠江守はこう呟いていたそうだ。
「河野通信は宍戸安芸守の婿なのだから、隆景にとっては姪の婿に当たる。
それならば秀吉の面前でなんとか取り計らってくれれば、本領までもとどおりとはいかずとも、
少しの所領は与えられただろうに。隆景が伊予一国を望んでいたからこそ、
河野の身の上のことは一言も秀吉には言わなかったのだろう。
河野は殿下へ対して摘みもなく、不忠もない。
どうしてこのように流浪の身とならなければならないのか。
これはひとえに隆景様が、河野家があれば伊予一国すら少しも残さず与えられることはないと
お思いになったからだろう」
遠江守は、こう心中で憤っていたから、出家してしまったのだという。


以上、テキトー訳。

ちなみに
香川兵部:春継。光景の子、広景の弟。一説によると、幼少期から日野山城で育ったらしい。
     後に又左衛門尉と名乗って、広家の家老として活躍する。
益田越中守:元祥。父藤兼はもともと大内の臣だったが毛利に鞍替え。元春の娘を娶った。
      関ヶ原では広家に同心し、戦後は幕府からの誘いを断って輝元を補佐した。財政面でとても有能。
今田中務:経高。元春が吉川に養子入りする前から吉川の一門衆。
     父は経世(興経の叔父で元春を引き入れた張本人)。
     興経暗殺後は毛利への不信感を露にするが、その後は元春・元長・広家を支え続ける。
てな感じで、この人たちがものすごく好きです!!! 熊谷信直さんは別格。
武功面でもなかなかに活躍してくれてたみたいですごく嬉しいね。
時間があれば吉川関連の家臣・寄騎まとめとか作りたいけど、まあ無理だな。
陰徳記すらちゃんと読めてないのに。

大好きな人たちが大活躍してるのになんだかイマイチ後味が悪いのは、シメの河野さんの話のせい……
助けを求めた本人が所領を取り上げられるって、そんなのひどいお!!!
隆景でもそれなりに憎まれてるんだなぁ。
実際、吉川は隆景をだいぶ警戒してる感があるんだよねぇ。
それ関連でついったに勢いに任せて吐き出したけど、
そのうち吉川と隆景の間のギスギスした空気について、
下らん考察をまとめたいと思います。

次の章は河野さんちの先祖の話らしい。
2012-04-03

大軍VS祈祷!?

えー、本日は大変なお日柄で……帰宅ラッシュの電車で死ぬかと思った。
人間の密度がひどいことになっとった。あと途中で電車止まったよ。事故られるよりは数倍ましだけどな。
天気も、春の嵐っていうかそんな可愛いもんじゃ断じてねぇ! 台風よりも凶悪だったぜ。
そんなことを書いている今でも、窓の外では風が唸りをあげています。
こんな日は、そうだね! 厳島合戦ごっこだね!
私は元就さんの腰に餅をくくりつける係をやりたい。

そんな戯言はどうでもいいので陰徳記。
前回のあらすじ:
毛利が秀吉と和睦した後、秀吉は雑賀・根来衆・紀州一揆勢に取り巻かれた岸和田の城に加勢に駆けつけた。


雑賀並びに根来寺合戦のこと(下)

雑賀の兵たちは夜中に城中へと加勢が入ったことを知らずにいたが、秀吉が入城したことを聞きつけると、
「敵はもってのほかの猛勢だ。たやすく攻め落とすことはでき名あくなった。
まずこちらの陣の備えを固くしてから攻めかかることにしよう」と、
四十町ほど退却して、三ヶ所に陣を据えた。

積善寺には根来の衆、沢には雑賀の一族、もう一ヶ所には紀州那賀郡の者たちが陣取り、
敵が根来の衆を討ちに来れば、雑賀・那賀郡の者たちが救援に駆けつけ、
雑賀の陣に押し寄せてくれば、根来・那賀郡の者たちがそれを助け、
那賀軍の一揆勢が狙われれば、根来・雑賀が力を合わせて立ち向かおうと、
三ヶ所に陣を固く備える様子は、常山の蛇の威
(常山に住む蛇は、首を撃てば尾が助け、尾を撃てば首が助け、胴を撃てば首と尾が助けるという故事から、
先陣と後陣が相呼応して行動をとること)を髣髴とさせた。

その後は秀吉も紀州の者たちの武勇を侮りがたいと思ったのか、再び自分の方から仕掛けようとはしなかった。
紀州の者たちは秀吉が大軍で出張りしていると聞いていたので、
自分たちの陣にかかってこないのをいいことに、再度城に攻め懸けようとはしないまま数日が経っていった。

秀吉は使者を送り、
「紀州へは二度と攻め込まないので、紀州の者たちも天下へ恨みを報じようとしないように。
それでよければ互いに起請文を取り交わし、和睦を結ぼう」と伝えた。
一揆勢も望んでいたとおりだったので、秀吉の言い分を受け入れて、
その後は秀吉の味方に属してどこへなりとも先陣に進み戦功を上げると約束した。

こうして、紀州の者たちは積善寺で秀吉が引き揚げるのをうかがっていたが、
秀吉は岸の和田を引き払う気配はなく、逆に諸国から続々と加勢が駆けつけてきているようだった。
それを聞いた一揆勢は、
「これはきっと、先日の和平は謀略だったのだろう。
ここでいたずらに長陣を張っていても、しまいには味方が討ち滅ぼされてしまう」と、
急いで紀州田中に城郭を築き、その工事が終わると、ようやく積善寺を引き払っていった。
根来衆は皆自分の寺や坊へと帰っていく。
紀州の者たちも皆散り散りになって、城に籠もる勢はわずか五千人ばかりになった。

秀吉は紀州へと発向してその城を隙間なく取り囲んだが、
この城は周りに大河があって城の地はそれよりも低かったので、
これこそ絶好の水攻めの場所だと言って、四里あまりの堤を築き上げる。
そこに水をたたえると、五湖の春水のようだった。

一揆勢はよく時分を見計らって、隙を突いて気って出てやろうとしていたところ、
東の方の宮部善祥坊が担当している堤が切れたのをいいことに、城中から打って出る。
寄せ手はこれを見ると、自分が討ち取ってやろうと殺到した。
一揆勢は命を限りに敵を大勢討ち取ったが、死人を踏み越えながら進んで戦っていくと、
一揆勢が歯の立つ相手ではなく、堤を切り破ることができずに、再び城中へ引き籠る。

寄せ手はまた堤を補修し、さらに高く築き上げて、その中へと船を数多く浮かべて、
城の塀や矢倉にかぎ縄を引っ掛けて引き倒そうとする。
城中の者たちは敵の船をどうにかして手に入れようと、防戦しかねているふりをしながら、
矢倉には一人も出さず、鉄砲の一つも撃ち出さずに、弱り果てた様子で待っていた。
寄せ手がこれを本当だと思って、矢倉のすぐ近くまで船を乗りつけたところ、
内側からかぎ縄を引っ掛けて引き寄せ、たちまち城中は敵船一艘を手に入れた。

けれども水は次第に高さを増していき、このままむなしく水に溺れて死んでしまうように思えたので、
城中から降参するとの旨を言い送った。
秀吉が「それなら中心となった者たちの首を五十人分出てくれば、残った者たちの命は助けてやろう」
と返答したので、一揆勢は「わかりました」と引き返し、水汲みや薪切りの者たちを五十人ばかり殺した。
その首に「これは誰の首」「それは誰の首」などと札をつけて差し出したところ、
秀吉も約束どおり堤を壊したので、
生き残った一揆勢は命からがら、皆散り散りに逃げていった(四月二十二日)。

秀吉は雑賀の者たちを責め従えた後、根来へと使者を送って、先日秀吉の手に属した件を確認した。
「その言葉に今でも変わりがなければ、鉄砲三千挺を献上するように。
そうすれば根来寺の領地は旧例どおりに寄進しよう。
もしこのことを了承しないのであれば、根来寺を打ち壊して僧たちの首をことごとく刎ねてやる」

これを聞いた老僧たちは、言うとおりに鉄砲三千挺を差し出して秀吉の手に属すようにと言ったけれども、
若い僧たちは反対した。
「何故そんなことをしなければならないのですか。
今おめおめと秀吉の手に下れば、諸国の兵乱がおさまった後、必ず我らの寺は滅ぼされるでしょう。
ここで我らの勇のほどを見せつけておいてから和睦すれば、
秀吉も『根来の者たちの手並みはたやすく挫くことなどできない。
これからもあの宗徒どもを手につけておかねばならない』と考えて、存続させるでしょう。
とにかく一働きして目に物見せておかないと、今後和平も長続きするはずがありません」
若い者たちはこう言い募り、老僧たちが制しても受け入れずに、
ついに「一戦して負けたなら、そのときこそ味方に参じよう」と返事をしてしまった。

これによって、秀吉はすぐに数万騎で攻め寄せた(天正十三年四月)。
若い僧たちは打ち出したりしつつ防戦し、老僧たちは本尊を逆さにして秀吉を調伏しようとした。
そして本尊の五体に釘をしっかりと打って、
「この願が成就するなら、何か奇跡をお見せください」とわめき叫んで祈っていると、
大手の戦線で寄せ手が撃ち立てられて少し引き退いた。
「やれあれを見ろ」とさらに熱を入れて祈祷したものの、
秀吉は、農夫の子に生まれて猿と呼ばれていたのに、日本六十余州は言うに及ばず、
三韓までも切り従えるまでになるほどの大将だったので、
不動明王はさて置き、諸仏が秀吉を深く加護したのだろう。
根来寺の本尊の不動明王像から炎がカッと出たと見るや、たちまち猛火が四方に迸って、
寺々へ燃え移り、黒煙がもうもうと立ち上がった。

先陣で戦っていた若い僧たちは、これを見ると一気にドッと崩れてしまい、我先にと逃げ出した。
本尊に向かって祈祷をしていた老僧たちも、衣を脱ぎ袈裟をかなぐり捨てて、足に任せて逃げていく。
寄せ手はこれを追いかけて、あちこちで切り捨てた。
これで紀州国内の逆徒は根を断たれ、葉を枯らされたので、畿内は平穏になったそうだ。
秀吉に従軍していた毛利藤四郎秀包が詳細に報告してきた。


以上、テキトー訳。

紀州の坊さんコワイーーー(((((((( ;゚Д゚))))))))!!!
いや、秀吉がジャイアンでアレなのは周知の事実だから今さらいいとして、
本尊を逆さ吊りにして祈祷する坊さんどもって……!
まぁ密教は呪詛だの調伏だの何だの、いろいろ禍々しい雰囲気はあるけれども、
そしてそういうところが密教の魅力だったりするわけだけれども、
それにしても不動明王像に釘を打つって……(((((((( ;゚Д゚))))))))
なんか長刀持って前線で戦う坊主なんて可愛らしく思えてくるレベルよね。
恵瓊? あんなん赤子同然じゃ。

さて次章は伊予攻めだよー。景様や元長が出てくるよー!
この衝撃に磨り減った心のHPを回復したいんだず。
2012-04-03

雑賀・根来VS秀吉

集中して本読める状況にないので、未読部分を穴埋め的に読んでいくよ!
だいたいあんまり興味がない部分だけど、これを機にいろいろ興味が持てるといいな。

今回は、毛利・秀吉の講和後、秀吉のところに人質として残っていた秀包が参陣したという、
雑賀・根来衆との戦い。
長い章ではないけれど、読める時間的余裕が少ないので途切れ途切れになります。

この前の章はコチラから7回に分けて読んでいます。


雑賀並びに根来寺合戦のこと(上)

毛利藤四郎秀包より、秀吉公が紀州雑賀・根来両所の敵を無事討ち果たしたと報告があった。
その様子を訊ね聞いたところ、紀州雑賀の一揆勢二万余騎が、
岸の和田の城にいた中村孫平次を攻め落とそうと攻めてきたそうだ。
その一揆の主力は大体が鈴木一党であった。
これは熊野権現の臣下、鈴木何某という者の子孫である。
源義経の家来、鈴木三郎重家の子孫でもあり、池ノ内も同じ一家だそうだ。

さて一揆勢が岸の和田に押し寄せると、中村孫平次は足軽衆を出して散々に撃ち掛け、
敵が少しひるんだ隙を突いてまっすぐに突いて出て、一揆の先陣の者たちとぶつかり大いに攻め戦った。
寄せ手は大勢、中村は小勢のうえ、鈴木源左衛門・鈴木孫市・天井浜・土橋などが我先にと進むので、
ついに戦いに利を失って城中に引き返す。
寄せ手は勝ちに乗って、逃げていく兵の跡を追って城に攻め入り、
たちまち外構の柵を押し破ってあちこちに放火し、そのまま乗っ取ろうとしたけれども、
中村は勇士なので身命を惜しまず防戦し、馬を二、三十頭追い放ったので、
寄せ手はこれに足止めされ、備えが乱れて進めなくなった。

こうしているうちに日が暮れた。
一揆勢は、「城を乗り破ることは簡単にできる。
夜になってしまえば敵を討ちもらし、または暗闇に紛れて味方を討ってしまうこともあるかもしれない。
明日の朝攻め破ろう」と、兵を引き上げていった。
その間に、岸の和田の城が難局に直面しているとの報が秀吉公に次々ともたらされた。
秀吉公は、その夜のうちに数万騎を率いて岸の和田の城に入っていった。

その夜も仄々と明けていくと、一揆勢は予定通りこの城を攻め破ろうと、
鈴木の一党の土橋・山内・西口・高柳・原・天井浜・平井・的場・佐武・高松・打越・津屋・高仏・
和歌、そのほか根来衆の杉本房・岩室房、紀州那賀郡の者たち、総勢二万余騎で押し寄せてくる。
先人の勢には山内三郎太夫・高松監物・西口平内太夫・原平馬・天井浜主計などが一番に攻め懸けてくると、
城の気配が何か変わっていると気がついた。

城では見慣れない武者が一人矢倉に上がり、采配を取って戦の下知を行っていて、普通の者には見えなかった。
けれども寄せ手はただ逸るばかりで、時機を逸せず攻め破ってやろうと、後陣からどんどん押し進んでくる。
先陣が我先にと進む中で、山口三郎太夫はこう言った。
「あの矢倉に上って軍に下知をしている兵は、これまであまり見たことがない。
この武者が戦の指示をしている様子は、孫呉の再来とも言うべき有様だ。
もう少し敵の様子を見合わせようではないか」
山口がこうして少し足を緩めていると、中村孫平次が三千ほどの手勢で門を破って繰り出してきた。
寄せ手は敵が出てくると見るや否や、自分が渡り合ってやろうと進み出す。
雑賀の者たちが駆け集って散々に攻めていると、また城中から大勢が打って出て、
根来寺の主力が五千ほど控えている真ん中へ無二に突きかかっていく。
根来衆は身命を押しまず防戦して、敵味方ともに一歩も退かなかったので、死人が累々と重なっていった。
少しばかり怪我を負った者たちは、岡治兵衛尉をはじめとして、多数の死人に紛れていて、
戦がひと段落した夜になって這い出し、味方の陣に帰った者も多数いた。

城中からまた後陣に続いて大勢の兵が打って出たので、雑賀や那賀郡の者たちはひとかたまりになり、
ここを最後と戦い抜いた。

攻めるのは紀州一揆勢、命知らずの荒くれ者たちである。
一方、防ぐは諸将に武威優れたる、六十余衆を掌握する大勇将である。
斬っても突いてもひるまずに、主が討たれたところで郎党はそれを顧みず、
父が討たれようとも子は助けず、ただ一足でも敵の方へ進もうと勇み、
後ろが何をしているとも、誰が敵か味方かも気にせずに、
向かってくる顔を見れば「これが敵だ」と思い、後口の方角を見ては先に進んだ味方だと思うばかりで、
黒煙を立て火花を散らして戦った。
しかしついに優劣つかず、二つの鏡が相対したような状況で、互いに左右へと退いていった。


以上、テキトー訳。続く。

本当は一度で読みきってしまいたい量なんだけど、今はこれが精一杯(byルパンザサンド)。
雑賀衆には今のところ、これといって思い入れがないので、
なんとなく流し読んでます。
2012-04-01

すれ違い、九州

今日はエエイプリルフールだそうで。
グーグル検索がモールス信号仕様になってたり、
グーグルマップがRPGマップのようになってたりしたそうだ。
よっし、私も広家ちゃんの薄い本作っちゃうぞ☆ミ
そんなことより資料とか陰徳記進めろってハナシですな。

前回のあらすじ:
大友義統は、長年敵対していた中国の毛利が織田に翻弄されて九州に出てこないのをいいことに、
武備を怠り、キリシタン宗に傾倒して、旧例を守らない統治を行っていた。
これに反発を抱いた老臣(近広賀兵衛尉)は、
仁義礼智信の五常を守り、武威を保つことの重要性を義統に説く。
今回はその賀兵衛の切々たる訴えの続きから。


大友老臣、義統を諫めること(下)

「こう申しましても、釈尊の遺してくださった教えを嘲弄しているわけではありません。
止観阿字などというものは、どれもこれも皆実にすばらしいものだと聞き及んでいます。
教外の悟道などは、さらにありがたいものなのでしょう。
凡夫の罪業を滅するには、念仏以上のものはないといいますが、
これもまた信心の肝とも言うべきものだと思います。
けれども義統公が尊んでいる伴天連宗ばかりは、とても合点の行くものではないと思うのです。
これは仏法・神道を破滅させようとしている外道天魔の所業にほかなりません。
こんなものをありがたがって、一心不乱に思い入れるとは、あまりにもひどい。

私のような愚か者が思うことは、仏法より儒教を誇ったり、儒家が仏法を論破するようなことも、
すべて偏見だと思うのです。仏法は儒教の助け、儒教もまた仏法の助けなのです。
それはなぜかといえば、人は生まれながらにして何でも知っているわけではないからです。

まず二歳や三歳のころに悪いことをした場合、父母がそれを制するにしても、
『悪いことをするなよ。我が君様がお聞きになったら殿から折檻されるだろうよ』などといって脅します。
これは主君のご命令には背くものではない、ということを教え手いるわけではないと思いますが、
言外に教えているのと同じなのです。
幼子もまた、主君である人を恐れ尊ぶことを自然に学びます。
これは仁義道中に初めて足を踏み入れることにほかなりません。
また何らかの物を壊したり、無理なことを言って泣き叫べば、
その父母は拳で打ち据えたりすることもあります。
これは、道に背き筋の通らないことをすれば鞭で打たれるということを教えるのと同じです。
こうして次第に父母に教育されて成人すれば、五常の道はこのようなものだと知ることができます。

そしてこう思うでしょう。
『仏法はありがたいものだ。これを尊ばない者は外道だ。
外道の捉え方では、何が五常だと考えているのだろう』と思うことでしょう。
けれども儒家のなかには異端だなどと言って論破し、
とくに碧岩録に『五帝三皇とは何者なのか』とあるところを見ると、
その深い意味を知らず、教外は五常の道を破る外道に近いものだと言い捨てています。
仏のように皆出家してしまえば、その後は人が生まれてくることなどないだろうから、
人間という種は百年以内に絶え果ててしまうだろうなどと言います。

しかし儒の道も釈尊の道も道教も、すべては同じです。
一をもってこれを貫くということも、万法は一に帰すというのも同じことなのです。
たとえば儒家が言う皇極、仏教で言う太極、道教で言う無極というものは、名は別ですが本質は同じものです。
これを仏とも祖師とも阿弥陀とも観音とも言うのでしょう。
一番大事なところは別のものではないので、仏家が儒意を嫌ったり、儒家が仏学を論破したり、
道家が驕り高ぶったりするのは、皆偏見であって仁義道中ではありません。

また仏法に帰依していれば、まず慈悲の心が起こるものです。
慈悲の心は仁の道の端緒です。慈悲の心から仁の道に足を踏み入れることになるので、
仏道こそ儒道への入り口ではないでしょうか。
また儒道を貫いて五常の道を少しでも心得ていれば仏法を尊ぶ心が出てきますので、
儒道もまた仏道への入り口となります。
法はもとから修めるべきものではなくまた捨てるべきものでもない。
修めず、捨てずというのは何かというと、これがまさに正しい捉え方であって、
人々が忘れやすいものではないでしょうか。

先に申し上げたように、仁義礼智信の五常さえ正しく行っていれば、
その行動の中に念仏も題目も止観も阿字も悟道発明もすべてこもっていて、
何を行うにしても孔子・老子の説いた道に合致し、何を言うにしても仏祖の意と同じになるでしょう。
儒・釈・道の三徳が備わっていれば、ますます我が国の神の思し召しにもかなうものです。
それなのに今こうして、仁義礼智信の道を壊し、その上仏敵・神敵となり、
キリシタンにおなりになったのは、石を抱いて淵に入るよりもさらに愚かなことです。
大友家滅亡の時節が到来しただけなのかもしれませんが、いくら嘆いても嘆き足りません。

八宗十宗の法で成仏できなければ、キリシタン宗になったところで成仏はできないでしょう。
キリシタン宗で成仏できるというのなら、釈尊一代の遺された教えに従えば、
教内教外のいずれであっても、なおさらよい成仏を遂げることができるでしょう。
もし釈尊の教えで成仏することができないのなら、ほかの何であってもできないのですから、
必ず地獄に落ちるものだときちんと理解してください。
天地開闢以来、そのなかでも釈尊のご誕生以来、どれだけの人が地獄に落ちたというのでしょうか。

それにしても先祖代々皆地獄へ行ったのだとしたら、
義統公お一人だけがキリシタンになって成仏したとしても、まったく意味のないことです。
父の道を改めないことを孝というべきなのだとしたら、善であれ悪であれ、
ご先祖と同じ道になった方がよろしいかと思います。
十宗や八宗のなかでさえ、人によっては、念仏宗は悪だといって日蓮宗になり、
日蓮宗だったものを念仏宗に宗旨替えすることもありますが、
この賀兵衛にとってはそれすらも、とてもひどい口惜しい心立てだと思います。
たとえ地獄に行くことになっても、先祖代々の宗門のままでいたいと思います。

今申しましたように、仏になるのなら父母や先祖と同じ仏果を得て、
地獄に落ちるのであれば先祖数代の尊霊と同じところに落ちたいものです。
父母や七代先の先祖までが悪い宗門に入って地獄にいる場合、子供だけがいい宗門に入って成仏し、
香の煙に鼻をくすぐられていたところで、それが本望ではないでしょう。
孝行の道からも外れてしまいます。

これは宗門を変えたとしても、皆釈尊の遺法の中であれば、どれであっても尊い宗門なのですから、
成仏・不成仏の優劣はないはずです。
それなのに仏法を嫌ってキリシタン宗に帰依なさることは、仏罰・神罰を蒙り、人望にも背き、
先祖のお心にもかなわないことです。
あなた様自身を滅ぼし国を壊す行いであって、自滅を招いているのにほかなりません。

しかしながらこの賀兵衛は、たいして文も理解できない凡人、木こりや漁夫のようなものですから、
仏法の優劣は、日本にある宗門すべてを存じているわけではありません。
ましてやキリシタン宗のことは言うに及びません。
夢にでも是とも非ともわかりませんので、その優劣をいったん置いて、道理に任せて申し上げます。

どうか、先祖代々の尊霊と同じように仏におなりになるか、同じ地獄の苦しみを味わうか、
この二つに思い定めてください。
孝の道は何かに替えられるものではないのですから、お願いですからもとの宗門に戻ってください。
そうされれば、先祖代々の尊霊も草葉の陰で、それはお喜びになることでしょう。
仏意・神慮にもかなうことでしょう。

仏神のお恵みが深く、先祖のお守りが強くあれば、この国も久しく維持できるでしょう。
九州を無事に治めていれば、四国も中国もいずれは手に入るはずです。
西国さえ幕下に属したならば、その主と天下を争う者がいるでしょうか。
もし義統公一代のうちに天下の権勢を握ることがなかったとしても、
御子孫のうちで誰であれ、武将の器量に優れた人が現れれば、源頼朝卿の事跡を再興なさることでしょう。
そうなれば、先祖数代の尊霊に対しても孝行になり、
またあなた様自身にとっても、軍事をつかさどる身の上で、これ以上ない名誉となるのではないでしょうか。

それなのに外道の輩に勧められてこんな宗門に宗旨変えし、まったく恐れずに悪逆三昧、
天罰をも恐れず、人望に背くことも省みずにいらっしゃるのは、返す返すも口惜しい次第でございます。
臼杵新介・田北入道なども、いつもこの宗門のことを、世にも非道なものだと言って、
御家が滅亡してしまうと涙を流しております。
ここは先祖代々の亡霊と同じ地獄に落ちるつもりで、どうか宗門を改めてください」

賀兵衛は、一度はやさしげな表情で言葉を和らげて言い、一度は目を怒らし声を荒げて強く諌めたが、
義統はまったく聞き届けることはなかった。
どうしようもないものである。

その後、大友家の老臣たち十三人が結束して諫状を出した。
「一、屋形様御行跡、甚だもって軽々しきこと
 一、キリシタン宗御信仰は無益であること
 一、文武の学習が廃れていること
 一、虎を飼っていらっしゃること、付けたり象のこと
 一、牛馬そのほか肉食のこと
 一、貴賎老若を問わず法体のこと
 一、武備が廃れていること
 一、御領国の庶務がうまくいっていないこと
 一、南蛮人を近習に召し使っていらっしゃること
 一、何事も慣習を壊していらっしゃること
 これらのことは、詳細は御前で口上にて申し上げます」
 こう記して捧げ、臼杵新介・志賀・清田などの老臣三人がまとまって義統に諫言をしたけれども、
これもまったく聞く様子はなかった。
このことで、かえって刑罰にかけられた者が多かったので、その後は諫言をする者もなくなった。
すると義統の悪行はさらに甚だしくなっていき、そのせいで大友家は断絶したそうだ。

さて義統の従兄弟の田原の近貫は、
「こんな暴悪邪道の義統を一家の惣領として従うなど、口惜しいにもほどがある。
だからといって中国の毛利家などに一味するのもどうかと思う。
ただ一矢報いてから自害するよりほかはない」と、
当国の国崎は佐野の鞍掛の城に引き籠り、敵意をあらわにした。
これを見て、義統の悪逆を憎々しく思っていた千寿重種をはじめとして、
秋月・賀来・福島・広津・小城などが近貫に味方をした。

義統はこれを聞いて、「近貫は憎いことをするものだ。急いで退治しろ」と、
大勢で取り囲ませて攻め懸けたが、近貫もさすがの勇士だったので、簡単に城を落とされることはなかった。
しかし荒玉の年の三年を戦に費やし、ついに兵糧が尽きてしまったので、
どうしようもなくなり、士卒の命に代えて、腹を掻き切って死んでいった。
近貫が自害してしまうと、秋月・千寿などの者たちも、すべて降伏したとのことだ。


以上、テキトー訳。おしまい。

この次の章はコチラ

よしむー、ホントどうしようもない描かれ方だね。ちょっと可哀相になってきた。
まあキリシタンに手を出したのは宗麟からのことなので、義統だけにおっつけられてる感じはするね。
宗麟の暗部をすべて義統に転嫁してるかのような……
正矩的に、宗麟は大友滅亡の悪いイメージと切り離したい事情があったのかな?
小早川秀包(元就末子)の妻が宗麟の娘だから、っていう事情もあるのかな?
一族の妻の親父がどうしようもないと言ってしまうよりは、
兄弟がどうしようもないと言う方がまだダメージが少ない気がする。
あと宗麟相手には毛利もだいぶ苦戦してるから、その相手がどうしようもない奴ってのは、
毛利全体としても好ましくないイメージなんだろうな、と。
そして宗麟への憎しみはすべて義統へ引き継がれたんじゃないかと。

秀包といえばついったで黒田クラスタさんとお話することもあるんだけど、
秀包の娘は黒田の家臣に嫁いでたりするらしいね。
関ヶ原のときに、九州にいた秀包の妻子を捕虜にしたのは黒田如水だから、
あのへんもなんか複雑なんだな、と感じたよ。
まあ如水さんは無血開城させて、捕虜は丁重に扱ったみたいなんだけどね。
秀包は関ヶ原の翌年に死んじゃうしね……。
そういえば秀包もキリシタンだったなぁ(奥方に勧められたとか)。

この章読んでて思ったのは、キリシタンは仏教の前提(成仏だの地獄だの)を否定してるんだから、
それをたとえにして説いたところで、なんの効力もないよね、ってこと。
まったく別の世界を信望している相手に向かって、従来の概念を前提に話しても無駄なんだということ。
カルトの人にはまったく話が通じない。議論にもならない。
かといってその人が信じているものを強く否定すると、かえって反発して、逆に強く信じ込んでしまうそうだ。
賀兵衛の説得方法は、方法論としてうまくないね。
じゃあどうすりゃよかったのかと言われても、解決方法なんて見つからないがな!
論理的破綻を突いても、ぶっちゃけ信じ込んでる人はどうにもならんもん!

さてと、次はどこを読もうかな。
また今週も帰りが遅くなりそうなので、更新が滞るかもしれません。
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