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2012-04-14

河野家の終焉

お久しぶりだよー! 中途半端なまま河野家の歴史をおっぽってたせいで
なんかコレダレダ状態ですな。
もうあらすじとか関係なくそのまま読みきっちゃおうそうしよう。


伊予の国、河野先祖のこと(4)

通有には子が七人いた。嫡子の通忠、次男の通貞、三男の通茂、四男が通種である。
通種のこの通時は、建武年中に、伊予の凶徒を退治した。
通種の次男の通任は、先だって伊予で放棄したときに討ち死にしていた。
通有の七男、九郎左衛門通治は、元弘年中の六波羅合戦での忠勤が認められて、
対馬守に任じられて伊予を与えられた。
その後、足利尊氏に味方して高名を極めた。

父の通有は何を思ったのか、家を通治に相続させるようにと遺言状を残した。
兄たちが不思議に思って確かめようとすると、通治の母の通久の娘のところにあるらしいとわかった。
通有が逝去してからは河野道忍と名乗っていたが、この譲り状はこちらに預かり置かれているという。
この人は六人の母でもあるので、私情で物事を歪めることはないだろう。
通治もそこにあると言うので、六人の兄がそこを尋ねて実物を見てみると、確かにそう書かれていた。
その後、尊氏と新田義貞が合戦に及んだ際、土居・得能は新田に従ったが、
通治は自分には野心がないことを鎌倉に訴えた。
しかし奉行頭人はまったく聞き入れなかったので、恨みを抱いて建長寺の南山和尚に頼んで入道してしまった。
南山和尚は通治を深く憐れんで、通治の言い分を強く推してくれたので、本領が安堵された。
通治は貞治元年十一月二十六日に逝去した。

細川頼春は阿波・讃岐・土佐を与えられ、伊予をも我が物にしようとして、
通朝と矛盾に及び、合戦で勝負をつけるときがきた。
頼春は南方蜂起のときに上洛し、討ち死にしてしまった。
その子息の頼之が、提示元年九月に讃岐から押し寄せてくる。
通朝は同晦日に瀬田山に陣を取ったけれども、多勢に無勢でかなわなかったので、
城に引き籠もったときに、斉藤の者たちが寝返って城を落とされ、通朝は自害して果てた。

息子の徳王丸を陣中に召し連れていたが、僧が抱いて高市竹林寺に落ち延びた。
徳王丸は四五日経ってから大通寺に移されててそこで養育され、後に江良城で元服して六郎通堯と名乗った。
その後、一族国人を率いて正月十六日に温泉山に陣を張り、
同二十七日に湯月山を攻めて細川天竺禅門などを自害に追い込んだ。
そのまま大空を攻め、武州が大軍で道後にやってきたので通堯は高縄城に籠もった。
四月十日に武州がその城に攻め寄せてくると、河野一族が武州に内通したので落城してしまった。
通堯は江良に引き籠もった。
またここから能美島に移り、その後九州に渡って、菊池に従ってその幕下に属した。
後に通堯という名を改め、通直と名乗った。

正平二十三年六月晦日、伊予の松崎へと上ると、すぐに完草入道父子三人が三百騎で駆けつけてきて、
未明から合戦が始まった。通直が勝利し、大空の城へ正岡六郎左衛門を忍び入れて攻め落とす。
閏六月十三日、完草入道父子は自害した。その後、あちらこちらで合戦があった。
康暦元年、宮方で言うと天授五年のこと、河野家はこの年、道前を切り敷いて吉岡佐志久原に陣を取り、
諸勢を新居・宇麻の両郡へ派遣していた。
すると、陣中ががら空きだということを武州へと密告する者がいた。
細川方は吉岡の山中に忍を放ち、河野の陣の様子を確認すると、西の山陰から大軍で切ってかかる。
河野はこれを防ごうとしたがどうにもしようがなく、十一月六日、通直は自害した。
西園寺殿も同じところで自害した。

通直の嫡男は亀王丸が十歳、弟の鬼王丸が八歳で、
将軍義満は翌年、父・祖父の忠功に対して、本領安堵の書状を整えた。
しかし武州との戦争は終わる様子がない。
こうしたとき、武州が京に呼び寄せられたので、ようやく互いにに和平を結んだ。
亀王丸は至徳元年に元服して九郎通能と名乗った。鬼王丸は六郎通之と名乗った。
その後、康応元年に将軍が西国に下向したとき、三月十八日に、防州竃戸関で御目見えして、
次の年の明徳二年に通能が上洛した。
その後、応永元年に通能が病気になると、弟の通之を呼び上せて家督を譲った。
通能の妻は懐胎していた。通能は弟の通之に向かって、
「もし今腹の中にいる子が男子ならば、十六歳になったら家督を譲るように」かたく約束した。
果たして腹の子が産まれてみると男子であり、十三のときに元服して通久と名乗って謀反を起こした。
このときから通久方と州方が対立し、一家は二つに割れて戦が続いた。
そのころ、将軍義教から大友追捕のために大内と協力して現地に向かうように命じられた。
そして九州に向かうと、戦に勝利できずに、姫嶽において若干二十五歳で討ち死にしてしまった。
また対馬守通之の嫡子通元は京都で逝去した。嘉吉三年六月三日、弟の四郎は名越の城内で自害した。

通元の嫡男の大法師は三本松で自害、弟の伊予守通春は任国で二十五年を過ごしたが、
寛正四年に、重見・森山・南宮内少輔・得能三郎・和田中務などが通春に背いて細川に味方して、
阿波・讃岐・土佐の勢を率いて、讃岐の観音寺殿を大将に据え、攻め寄せてきた。
河野家が滅亡の危機に陥ったので、両家は和睦した。
通秋は京にいたので、通春と通生が対面して和平を結んだ。
通春は兵数が少なかったのでなすすべなく湊山に籠もり、通生は江良城に籠もった。
敵が大勢で湊山に攻め寄せると、通春と大内が縁者だったので、
竹内という者を使者に、大内に後詰を要請した。
大内はこれを引き受け、栗井坂にやってくると宅岐山に陣を取った。
そのほか堀江が三津の沖に舟を出し、敵陣を相手にせずに三木城を攻めて、その城は落城した。
湊山の寄せ手は、これを見て敗軍した。
土佐から来た大将の新渥一人が切腹した。追いかけて討った者は数知れない。
観音寺殿は湯山へ忍んで逃げ、剃髪し仏門に入ったので命は助けられた。
大内左京太夫教弘は帰陣する際に、興居島で亡くなった。

同六年、河野両家の和平はまたしても破れた。
応仁元年の兵乱のときに上洛していたのは通春である。戦功は応仁記に詳しい。
通春が十三年在京しているその間に刑部太輔通直が国に下り、
難波江良城へと策謀を使って入ると、それから湯月の城へ移った。
その後、あちらこちらで合戦をしたが、通直がことごとく勝利を得た。
通生の敵は星岡にある二つの山を取り込み、そこに籠もって日々戦をしている。
その後、余戸の薬師堂へと入った。防州の大内から加勢もある。大将は河内山壱岐守だった。
大野・森山・重見近江守たちは河内山と一緒になって、十二月二十八日に両山に攻め懸けた。
通生は門を開けて切って出ると、前の川原で攻め戦いた。

大野・重見が討たれてしまうと、壱岐守は松崎に退却した。
通生はここで一気に押し寄せて討ち果たそうとも思ったが、
大内と矛を交えてしまうのもまずいと思って、河木原隠岐守を使者に立て、
無事に防州へと送り届けようと言い送った。
すると壱岐守は命が助かったことを喜んで防州に帰っていった。
同晦日、通生は夜中に道前に移動すると、河内に籠もった。
象森には重見伊豆守がいたが、正月朔日に城を明け渡して周敷へと退却し、その後に通生が居住した。
通春はどうにかしてこれを討とうと謀略を練ったが、ついにかなわず、
湊山で文明十四年七月十四日に死去した。

嫡子通篤も久しく流浪の身となっていたが、平岡下総守通直の子が通宣の勘気を蒙り、
施梨の城に引き籠って、通篤に一味してあれこれと謀略をめぐらした。
南山城守・大内右衛門太夫を味方に引き込んだので、
文亀三年八月十六日、通信が湯原城を逃げ出すと、通篤が替わって入場した。
通宣は難波府中にいたが、永正二年七月二十三日に両家は和睦して、和介郡の高音寺で対面した。
南・大内は城を落ち、平岡はまた通宣と一味した。

同四年、両家の和睦はまた破れた。通宣は国の運営を自分の思うがままに執り行った。
同五年、能島・今岡・村上たちがことごとく通宣に従っただけでなく、
剰黒河は先代からの忠功がほかより抜きん出ていて、
とりわけ古は通篤の外戚だったのに、通宣に降伏してしまったので、通篤は力を落とした。
通篤はしばらくは梅子城にいたが、大永六年の春に剃髪して防州へと落ち延び、
その後また伊予に帰ったものの、宇和郡で死んでしまった。

通宣は家を嫡子の弾正少弼通直に譲ると、通直の息子、通信の代にも、
土佐の長宗我部と何度も合戦に及び、急難のときには毛利元就から援兵を出されて救われてきた。
今度は、秀吉に対して何の罪もないのに国を改易されただけでなく、
通信には子がなかったので、通信が亡くなると河野家は長く断絶した。ひどい話である。

これはひとえに先祖の通信が三嶋大明神の諫言に背いたため、
その後は神が直接助言を行うことをやめてしまったので、
世の安危や家の興亡を尋ねることができなかったせいだろう。
それで武威が次第に衰え、それどころか一門も不和になって他国の敵に侮られ、
とりわけ通信と名乗る人がいる代にこうして河野家が断絶したのは、
神勅に背いた罪を世の人に知らしめようという天の意思なのだろう。
人の諫言に背く者でさえ滅びていく例は枚挙に暇がないというのに、ましてや神の勅である。
どんなに恐れても恐れすぎることはない。真に崇めるべきなのは神の徳であろう。


以上、テキトー訳。これでおしまい。

河野家鬱歴史怖い。伊予コワイ(((((;・ω・))))
もう、どれが誰やらまったくわからなくなったけどコワイwww
通直って名前はけっこうよく出てくるんで、時代を把握しないとまったく理解できんな。
でも河野をちゃんと調べるのはまた今度にして、先に進もうと思います。
だって私、毛利家というか吉川家というか、ぶっちゃけ広家目当てで陰徳記読んでるわけだし。

通直って実名の人、多すぎるんじゃないかしら……それでわかりにくくなってると思うよ。
同じ実名が数代置きに使われるのって、毛利家臣の福原さんとかもそうだよね。
福原さんなら、まだ毛利家だから、どうにかがんばれば把握できそうな……気がする。
うん、気がするだけだwww

今週は仕事が忙しかったのももちろんだけど、
毛利の家臣団の系図にも浮気をしてて、陰徳記は滞ったけど意外に充実していましたw
毛利家臣団や吉川家臣団のまとめ、いつか作りたいなー。
もうね、益田家がすげえのなんのって……。
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