FC2ブログ
2012-05-30

中庸……ってなんだーっけなんだーっけ!

ああああ、やっとこ今回で苦手な章が終わるわー!
絶賛信長dis祭会場はこちらどす。

信長の噂のこと(5)

その昔、大内義弘はまったく物を知らない人間であったが、政道には一点の曇りもなく、
そのうえ祖父と父の二代が名将だったので、何につけても祖父・父のしていた通りにした。
一卒一族の大将も、その筋目を正し、その器量を選び抜いて任命していた。
またその家の父が亡くなって子がまだ幼少であるときでも、代々の忠功を重んじて、
改易したり減封するようなことはなかった。
それだけではなく、昔の前例を道として重んじたので、
政治の様子はおのずと古代の聖賢のやりように似るようになった。

だから士卒は皆その仁政を慕って、恩に報いるために死さえも厭わなくなった。
それゆえに武威の勢いもますます増し、数ヶ国を切り従えて、義弘は名将の名を冠するようになった。
これを見れば、将は聖賢の道さえきちんと押さえていいれば、無駄に書を読んでも意味がないというのである。
文学とは、聖賢の道に入るための船や橋のようなものである。
その道にすでに踏み入っているのなら、舟や橋は必要のないものだ。
実に魚や兎の筌蹄(せんてい、罠。目的が達成サルと不要になるもの)、
月をさす指のようなものである。
月が見えたならば、その指は何のために必要だというのか。
将があまりに博学だと、詩を詠じたり文章を書いたりと、その才能に驕って、
心を傾けて熱中してしまうがゆえに、文学はかえって障害となって、
武の道がおのずとおろそかになってしまうことがある。
たとえ金屑が貴重なものだといっても、それだけでは物事を達成することはできない。
孔子・孟子の道さえ徹底して守っていれば、文学はそれを表す手段にすぎず、それ以上ではないのだ。
どんなに広覧博識であっても、それを実践する機会がなければ、褒められたものではない。

義弘の後胤の義隆は、数万巻の書を学んだが、その真髄には至らず、
政道は非常に邪で、武道もおろそかになって、ついにその身は滅びてしまった。
こうした将は、「今の世では私が儒家の棟梁だ」などと驕り高ぶって、
学徒を集めては、「四書の講義は銭でいくらだ、銀で何両だ」などと言って、
その対価を得て本を読むことで世を渡る底辺の者と同じである。
口上では孔子・孟子の教えを語ったとしても、心情は盗賊などとさして変わりはしない。

信長は義弘と同じく学識がなかったが、義弘のように孔孟の道に通じていたわけではなかった。
また義隆のように真髄を会得できないとはいっても、万巻の書を学んだわけでもない。
ただ無学なだけで、その心根は邪険放逸な悪将であった。
それでも勇にかけてだけは古今無双で、数ヶ国を切り従え、一度は天下の武門の棟梁となった身なのだ。
光秀のような一時雇いの将が数百人でかかっていっても、信長が負けるなどとは考えられなかったが、
ことわざにも言うように、油断が最大の敵となって、無残にも易々と討ち取られてしまった。
古い言葉に、「肌脱ぎになって剣を置いているときは、猟師も気に留めない。
兜をかぶって鎧を身につけ、兵に囲まれて寝ていれば、童子でも弓を引いてこれを殺そうとする」
と言い置いたのも、こういうことを言っているのだろう。


以上、テキトー訳。やっとおしまいいいぃぃぃ!

長かった……人をdisるのって、読んでて気分がよろしくないな。
私も気をつけよう。

結局「信長は無学なままなら武将になんかならないでフラフラしてればよかったのにね!」
とでも言いたげな正矩に、おまえが暮らす安寧の世の基礎には、
信長の存在が大きく作用しているんだぞ、と言って、キャメルクラッチかけたい。

さて次は筒井じゅんけーさんのお話らしい。
スポンサーサイト



2012-05-29

信長を殺す者は信長なり

正矩のご高説が長々と続いてますよ。飽きた!

信長の噂のこと(4)

それなのに信長は、儒道をひどく嫌っていたので、
それなら仏教を尊ぶかと思えば、仏敵・法敵となってしまった。
神道に傾倒するかといえば、敵国とあらば何の罪もなく神祠を破壊した。
実にデーバダッタの悪逆よりもひどく、桀村の驕りよりもひどい。

将が聖賢の道を学ぶのは、治世撫民のためのみならず、智計謀略の基本だとはいっても、
高覧博学なだけで、書を講釈し詩を口ずさむ才能さえあればいいというわけではない。
古代の王の堯・虞の舜・夏の禹・殷の湯・周の文といった聖代の政治は、
かくあるべしというものを体現していた。
これに十分の一でも近づこうと思うなら、たとえ一旦は政道に曲がりがあったとしても、
さまざまなものを学んで以前の非を悔い改めていけば、その後は大きな間違いは起こさないものだ。
「蘭に近づく者は芳しい」というものなのだから、
聖賢の行いを書で読み、教えに従って耳に入れるようにすれば、
やがてその賢者より賢くなれるはずではないか。

賢者より賢くなれば、行う政治にも邪なものはないはずだ。
政治に曲がりがなければ、自国の士卒は皆その徳に懐き、恩にこたえて死をいとわなくなるだろう。
自国の士卒がこうなったなら、他国の武士もその徳を慕って集まってくるはずだ。
遠国が帰服すれば、勢も多くなり兵たちはますます勇むだろう。
そうすれば、百回戦っても利を失うことはなく、毎回戦のたびに勝てる。
天下の将にこの志があれば、天下が乱れることなどないのだ。
一国の将がこの通りにしていれば、他国を何ヶ国も切り従えることができる。

また、夏の桀や殷の紂のような無道、秦の始皇帝のような奢侈、
漢の武帝が仙術に熱中して治国を放棄してしまった有様、
梁の武帝が仏道だけにのめりこんで最終的には国を滅ぼしたこと、
髄の煬帝が石を三品に封じて鶴を軒に乗せた例、
唐の玄宗が色を好んで楊貴妃に溺れたために、禄山によって蜀に追いやられたことなども知ることができる。
そうすれば自分の行いや政治もこうした前例に似ていると、自然と内省するようになって、
おのずと政治には邪がなく、行いには間違いがなくなっていくものだ。

堯・舜から夏・殷・周のときは、一番上に立つ者が聖だったがゆえに、
民もまた心が真っ直ぐで、自分のものでなければ、立った一本の毛であっても、
人のものを取ったりはしなかった。
今は将が暗愚で邪なので、民もまた私欲ばかりが先立って、他人のものを侵し奪おうとするのである。

つまり頂点の一人の心というものは、千人、万人の心であるので、
信長が仁義礼智信の五常を知らず、主君を蔑むようなことをしたばかりか、
弓を引いて遠流左遷の身とさせ、家臣たちの忠を賞することもなく、
そのうえ罪のない者まで刑に処してきたのだから、
また家臣も忠を尽くすことはなく、かえって恨みを抱いくようになった。
そのせいで信長は惟任に易々と殺されてしまったのだ。
もし信長が、漢の高祖が雍歯を什方侯に封じて諸侯に列した例に倣っていれば、
居並ぶ臣は皆忠誠を尽くし、逆心を抱くことなどまったくなかっただろう。

信長は、光秀を恨むべきではなく、ただ身から出た錆なのだと、まず自分の非を悔いなければならない。
年来の暴虐がたちまち光秀の胸裏に入って、反逆を企ませたのだ。
信長を殺した者は信長であって、光秀ではない。
信長が仁徳を施していれば、どうして光秀が逆心を抱くことなどあっただろうか。

もし信長が大公・張良の道を学んで、孫呉の書を知っていれば、
先に自分の身が滅びないように策を運んでいただろう。
中国へ差し下した諸将の中から二名ほど京都に留め置き、身辺を安全にした上で敵を滅ぼそうとしていれば、
光秀が何を思おうとも、信長を討つことはできなかったはずだ。
それなのに、自分の武威に驕って、今さら誰が自分を討てるのかなどと侮り、
わずかな近習の侍しか京都に残し置かず、とりわけその夜は少年少女を集めて夜通し酒宴をしていたのだから、
光秀の兵が大庭に入ったことにも気付かなかった。

信長は敵を滅ぼすことばかりに執心するより、
まず自分の臣下が恨みを抱かないように、愛をもうけ徳を施すべきだった。
臣下が恨みを抱くかもしれないとは一顧だにせず、怒るべきときに怒らず、
すべて気分に任せて振舞っていたからこうして滅びてしまったのだ。
義昭卿も信長の忠節をたちまち忘れてしまって、追罰しようとしたために、
かえって自分自身が流浪することになった。
信長はまた臣として主君を悩ませたために、光秀によって滅ぼされてしまった。
光秀もまた信長の厚恩を忘れて反逆を起こしたために、秀吉に討たれてしまった。
因果は、歴然とした道理として、こうして眼前に現れている。

秀吉はこうした前例の戒めを考えに入れていたなら、
多くの人々を納得させる徳政を敷いていただろうに、
この人もまた無智無学であって、仁義などは夢にも知らなかった。
前にも言ったように、将には学がなければならないとはいっても、
書を講釈して世を渡っている儒者などと同等であれと言っているのではない。
仁義礼智信の五つをさえきちんとわかっていればよく、虚しく文字の並びを詠じていても何の益もない。


以上、テキトー訳。あとちょっと!

なんでも自業自得で済まそうとするんじゃねえよバーヤバーヤ!
あとちょっとがんばるー!
2012-05-27

正矩の帝王学

真面目な話……読みこなせなくて日が開いてた……

信長disにかこつけて、正矩による仏教&儒教サイコー論が繰り広げられるんだが、
正直ウザい章ですじゃヾ(:3 ノシ ヾ)ノシ

そんなもんより広家出せ、元長出せ、元春の乳首出せ!!!


信長の噂のこと(3)

これだけでなく、信長はまた仏法にも帰依していなかった。
前に言ったように、仏法の敵となって天台山を焼き払い、高野山を攻めた。
また甲陽では快川和尚をはじめとして、数百人の僧を焼き殺した。

儒釈道の三徳を一つでも捨てたら良将とはいえない。
もともと、神道・仏教・儒道は同じものである。
それというのも、垂仁天皇の御時二十六年十一月卯の日の新嘗祭の夜、
倭姫の皇女が神託を受けてこう言ったのだ。
「皆、つつしんでおこたることのないように。まさにあきらかに聞け。
神代では、人の心は皆清浄で正直だった。だから罪を犯したりそれを咎めることもなかった。
しかし地神の末から、万人は心が汚くなり、根の国の底に沈んだ。
このとき、西方の天に真人が出で来て、皇天に代わって、時により法を説いた。
その者の言葉が今まさにもたらされようとしている。
これゆえに神明は託宣を止めて、如来に譲ったのだ」という神託だったそうだ。

つまり、天照大神は、教化の道を仏に譲った。
これは神慮と仏意が一致しており、東西天千里に普遍的なことだからだ。
また八幡大菩薩の託宣には、「昔は霊山に住んで法の真髄を説き、
今は宮中にあって大明神として姿を現す」ともある。
それに八幡大菩薩は、阿弥陀観音三尊の勢至菩薩として出現している。
これで殿内に三尊を安置するようになったとか。
悲華経には、「私は入滅したら、悪しき世の中に大明神として現れて、広く衆生を導く」と説かれている。
これを考えると、神明と仏陀は、根本では一体なのである。
神国に生を受けた者は、神明を敬うことは言うに及ばず、仏教も大事にしなければ、
たちまち神罰仏罰を蒙るだろう。

仏法に帰依するのは、つまり神慮を崇敬するのと同義である。
神道を敬うのは、仏教を信仰するのと同じである。
信長が天台山を焼いたのは、山王権現の神慮を恐れても余りある。
さらに高野山を滅ぼそうとしたので、天野の明神の冥罰をたちどころに蒙ったのだろう。
昔の人は、「三教の法を守れば、人を、悪を改めて善に向かわせ、邪を撥ね返して正に帰すことができる。
また儒教は正しい教えを説き、道教は尊う教えを説き、仏教は広く教えを説く。
三教は、天の三光、世の三綱、県の三足のようなものである」と言った。
夫子の黙識録の一貫、顔子(顔回)の心斉坐忘、老子の抱一守、朴荘子の鵬?、
逍遥世尊の拈華微笑、達磨の得皮得髄、これらは皆同じことを指しており、別の問題ではない。
孝宗皇帝も「仏教で心を治め、道教で身を治め、儒教で世を治める」と言ったという。
だから、三教のうち一つでもかけていれば、名将とはいえないのだ。

なかでも、仏教を滅ぼそうとして、かえって自分自身が身を滅ぼしてしまった恰好の例がある。
ケイ賓国王は獅子尊者の首を刎ねたがゆえに、臂から先が自然と落ちてしまって、七日目に命を失った。
後魏の大武は、大平真君七年に像や経典を焼き、僧たちを生き埋めにした。八年に雷に打たれて倒れた。
大武は雷撃にあって死にかけていたところを、常侍の宗受によって殺された。
北周の武帝は、建徳二年に像や経典を壊し、僧たちを殺した。宣政元年にらい病を患って死んだ。
唐の武帝は会昌五年に仏法を虐げ、六年には武帝の背中に疸が出て、狂い患ったすえに崩御した。
また柴周の世宗皇帝は仏教を迫害し、自身の手に斧を持って、大悲の銅像の胸に斧を打ち込んでを打ち壊した。
帝は後に疸が胸にできて死ぬことになった。
宋の徽宗は宣和元年に仏法を乱し、靖康二年に敵に都を破られた。

また我が国では、守屋大臣が仏法を排斥しようとしてその身を滅ぼし、
平相国清盛は、南都を攻め、東大寺などの伽藍を焼き滅ぼすと、たちまち高熱に犯されて死んでしまった。
南都討手の大将である本三位中将重衡は、易々と生け捕られて京鎌倉に引き渡され、
ついには南都の衆徒の手にかかって死に、臆将の名を後世に残した。
木曽義仲は明雲僧正を殺したが、はたして江州の粟津野で、深田に馬をで駆け入り、
流れ矢に当たって無念にも討たれてしまった。
最近のことでは、松永弾正少弼が大仏を焼いて、霜台父子は信長によって滅ぼされてしまった。
こうした前車の轍をまったく顧みずに、信長は仏敵法敵となって、
多くの伽藍・仏像を破壊し、僧や尼を殺し、悪逆が累積したので、
家人の光秀によって、無残にもあっけなく討ち取られてしまった。

一方、仏道に帰依した人はどうか。
梁の武帝は仏教に耽溺して、同泰寺に行き、衣をまとって袈裟をつけ、自ら放光般若経を講釈した。
仏心天子と人に呼ばれたということは、噂に聞いただけでも耳が洗われるようである。
ひたすら座禅を組み、鐘を衝き、一日中念仏や法華の題目を唱え、後生のことを思って常に念珠をつまぐり、
菩提の営みを行うだけというのは、もっとも戒めるべきである。
外では孔子・孟子の教えを守って、天下を治め万民を撫育し、内ではまた仏教に帰依し、
慈悲の心を起こすように、とのことだ。
仏家に十八地獄を示し、十方の仏土を説いて諸人を導く。
地獄では牛頭・馬頭、五色の鬼たちが鉄の棒で亡者を攻め立てる。
極楽では蓮華の上に座して美味なものを飲み食いでき、百錬の黄金のような仏になり、
妙なる香の煙に鼻腔をくすぐられる。

仏が機に従って法を説いたのは、すべて悪を退けて善に帰そうとしたためである。
四十年以上に及ぶ説法も、突き詰めれば善を勧めるためである。
もし悪を退けて善に立ち返れば、十万億土の西方浄土に遠くなく、弥陀となれる。
大祖大師は「自性が平等であればこれは仏の一念であり、
邪険であればすなわち衆生(凡夫)である」と言っている。
また龍舒は浄土文の序に、「阿弥陀仏はあなた本人の性を映す。
極楽浄土はあなたの心の中にある」とも書いている。
また、「この人の心が清浄であれば、仏土法も清浄である」と、昔の人は言っていた。

将というものは、仏を求める心ばかりがはやって、来世のことばかりに身を投げ打ち、
政道の善悪の取り沙汰と離れて、武道が廃れていくままにしてしまうのも、また慎むべきことである。
しかし、まったく仏道を捨ててしまえといっているわけではない。
仁義礼智信の五常は、仏家の五戒に結びつく。
殺さずの教えは仁のこと、盗まずの教えは義のこと、邪ならずの教えは礼のこと、
酔わずの教えは智のこと、乱れずの教えは信のことである。
だからこそ先徳はこう言っている。
「百家之郷、十人五戒を持てば、すなわち十人淳謹。千室の邑に百人が十の善を行うときは、
すなわち百人が和睦す。それよく一善をおこなうときは、すなわち一悪去り、
一悪去るときは、すなわち一刑を息め、一刑は家において息め、万刑は国において息む。
だから私がよく仁を教えに説くのは、国を治めるのを補うことができるからだ。
仮に、もし人々が五戒をもって十善を修めれば、国家は刑罰を用いなくても済むようになるだろう。
ただ座っていても平和は保たれる」

このように言い置かれているので、仏教もまた治国の根本である。
だからといって、他に仏を求め、法を改めなければ、どうして治国撫民などができようか。
ただ自分を振り返って心頭に一点の塵もなく、明鏡のようであれば、おのずと五常はその上に備わっている。
エンニャダッタのように自分の頭を探したり、牛に乗りながら牛を探すようなことはしないほうがいい。
本分をきちんとこなしていれば、五常は自然と備わってくる。
将は将の法を明らかにし、兵は兵の法を正し、農夫・漁翁やそのほか一切の民が皆心を清浄にして、
自分の道に励んでいれば、それこそ仏果への縁となるであろう。


以上、テキトー訳。つ……続くの? 嘘でしょ??

まあ……こうした論調が、江戸初期の思想だったと思えば……たぶん文化人類学的には……
ちっともおもしろくねーよ! ウワーン><。

逃避してチラ読みしてた九州立花陣に著しく心惹かれつつ、
つっかえつっかえながら、少しずつこの章を読み進めるぜ。
2012-05-24

担板漢(たんばんかん)

えー……夜に会議があったり飲んでたりしているので更新が遅れているわけですが。
今回はね。苦手な漢文がいっぱい出てきてね……(;ω;)ウッ
勉強すればいいんだけど、それより先読みたいねん。

さてさて、引き続き吉川家の執事が信長公をdisるよ!
石投げないで! ちょ、魔王様、焼き討ちだけは勘弁したってくだしあ!!!


信長の噂のこと(2)

そうなると、家臣の諫言を一向に聞かないので、邪な行いも少なくなく、
虚言を弄して信長に従順な奸臣ばかりを大事にする。そうした奸臣たちが、
まったく自分に媚びへつらわない者のことを「誰それには逆胃があります、
陰謀を企てています」などと信長に言うと、讒言とは知らないからか、
この実否も糺さずに鵜呑みにして、賢哲の重臣たちを多く処分した。

『六韜』にはこうある。「主君が、世俗の人間が褒める者を賢いと思って重用し、
世俗の人間が非難する者を愚か者だとして用いなければ、
一族や仲間の多い者が昇進し、少ない者は退くしかない。
もしこのようにすれば、衆愚がたちまち本当の賢さを覆い隠してしまって、
忠臣は罪もないのに殺され、奸臣は虚飾の誉れで爵位を得る。
このせいで世の中は甚だしく乱れ、国が滅びるのを免れられない」
これはまさに、今の信長の行いのことであろう。
古代の聖賢の書の片端だけでも見ていれば、暗君・奸臣の実の姿というものを知ることができただろうに、
一文も知らなかったので、残念ながらそうはならなかった。

ある人が信長をこう諫めたそうだ。
「大将が無智無学であれば、昔の聖君・賢臣の絶妙な政道もわからないでしょう。
もっとも、あなた様は聡明でいらっしゃいますから、賞罰は相応に行っていらっしゃいます。
しかし過去の道をご存じなければ、間違って政道に悪を招いてしまうこともございましょう。
愚痴蒙昧な者ですら、孔子・孟子の学を学ぼうとしますから、その道のことにも少しは明るいのです。
信長公が文武の学に精進されれば、虎に角が生えたようなもので、
それこそ世間の諺にも言うように、鬼に金棒となりましょう」と、
言葉を和らげて諫めると、信長は激怒した。

「文学を勧めてくるやつというものは、何かというと、やれ等の書を学べだの、
詩を作れだの、文を書けだのと言う。昔の義経・義貞が論語を読んだと聞いたことがあるか?
私は若年のときに父と死別してからというもの、尾張では国中の敵と戦い、
一度も利を失うことなく、やがて美濃の斉藤を滅ぼし、
その後には近江の佐々木右衛門督・浅井備中守をたいらげた。
そして義昭卿を天下にお据え申して、畿内の三好の一族、越前の朝倉、甲斐の武田、
駿河の今川義元らと戦ったが、そこでも一度として利を失することはなく、ついにはすべて打ち倒してやった。

一度も『論語』を読んだことがないからといって、戦利を得られないわけでもない。
『大学』を読まないからといって、謀略が劣るわけでもない。
こんな乱世には、孔子だの孟子だのは用無しだとまでは言わないが、
楚の項羽も、姓名だけ書ければ事足りると言っているではないか。
聖賢の経伝出家の還俗したように学んでも何にもならん」と言って、
結局諫言を受け入れないまま、一文も知らずにいたものだから、
ひどいことに聖人の道というものは夢にも知らなかった。

ああなんという担板漢(物事の一面だけを見て全体が見えない人のこと)だろう。
昔から、和漢両国の聖君明主が、学を嫌ったことなどあっただろうか。
秦の始皇帝は古代の書を焼き、咸陽で学士たちを生き埋めにしたことで、
「不善」の名を末代まで残すことになったばかりか、
二世の胡亥の代には、趙高によって殺されて、ついに沛公に天下を奪われてしまった。

漢の高祖もまた、はじめは書を学んでいなかったところ、陸生がときどき御前で詩書を説いていた。
高祖はこれを「なぜ軍事に携わるおまえが、それほどまでに書を云々するのか」と罵った。
陸生は「戦で勝利は得られますが、戦では土地の民を治めることはできません。
かつて、湯武は逆に、取ってから順をもってこれを守ったといいます。
文武を併せて用いるのは天下を長久に保つ術なのです」と諫めた。

高祖もその道理に感服して、その後太子に対してこう言った。
「私は乱世に生まれて、秦が学問を禁じたときは、書を読んでも何の得もないと喜んでいた。
この地位について以来、ときどきふと書のことを考えてみると、
その作者の意図を知っている人を使ってみて、それからこう思ったのだ。
昔はよくない行いが多かったと」
高祖ですらこう言っているのだ。
それなのに信長一人だけが、どうして聖賢の書の教えを廃することができるというのか。


以上、テキトー訳。まだ続く。

まだ学がないと言うか!
まあそれはそれとして、今回感動したこと。
「鬼に金棒」って、このころすでにあった言葉なんだねーーー!!!
慣れ親しんだことわざを見ると、途端に親近感が湧くわー(*´∇`*)
つながりっていうのか、そういうものを感じられて嬉しい。

そしてお勉強になったのが、「担板漢」て言葉。
物事の一面しか見えていなくて、全体的な視点を持てない人のこと。フムフム。
まあこういう人は実際身の回りに多いから、「この担板漢め!」って言ってやりたいな。
まず言われるのが自分だってことはよく知ってるさ。
ていうか響きが面白くて好き。タンバンカン。ちょうリズムいい。

さて明日は深夜帰り確定だから更新できないけど、次回も引き続き信長disを読むよー!
なんかこの章、胃が痛いわ。
2012-05-22

ここがヘンだよ、信長くん!

今回は信長評の章だね。
というか信長disの章だね。
なので、信長好きな方は読まない方がいいと思います!!!


信長の噂のこと(1)

さて、左(右)府、平(たいらの)信長は古今無双の勇将であり、智もまた傑出していた。
尾張から挙兵してついに天下の武将となり、その武威は東西の諸将の上を行っていたので、
やがて日本六十余州を余すことなくその手に従えようとしていたところ、
思いもよらず、惟任光秀によって易々と殺されてしまった。残念なことだ。
しかしこれは年来の悪逆がたたり、人望にも背かれ、神にさえも憎まれたからこその結末だった。

将は勇智仁信忠を兼ね備えていなければ、天下を保って泰平をもたらすことは難しいという。
信長には智と勇が備わっていたものの、仁信忠の三つについては少しも気にかけなかった。
秦の始皇帝が、燕・趙・韓・魏・齊・楚の六ヶ国を滅ぼして天下を掌中に収めたことと同じである。
だから、自分の気に入るように甘言を弄するやからには、忠がなくても大国を与え、
またいかに忠戦を貫いた節義功名の臣であっても、
近習の奸臣に媚びへつらわず肥馬の塵を望まぬ兵には恩賞を与えることもなく、かえって讒言を信じる。
それで誅殺された者は数知れなかった。

松永弾正少弼・その子息右衛門・荒木摂津守などをはじめとして、
信長が近臣の嘘を信じ、誅殺しようとしたから、皆、
どうせ処刑されるのであれば、ただ一筋に思い切って、兵を挙げて切り死にしようと考え、
自分の城に籠もって身を滅ぼした。
佐久間右衛門尉・同甚九郎・林佐渡守・伊賀伊賀守などは流罪にされてしまった。

それだけではなく、水を渡ろうとする者の脛を切り、孕んだ女の腹を割き、
聖人の心を割ったという殷紂の無道よりもひどいことをした。
鹿を指差して「馬だ」と言った趙高の悪逆にもなお勝る。
主君の義昭卿にも難癖をつけ、怒らせるようにわざと侮蔑し、ついに遠流左遷の身にしてしまった。
それに天台山を焼いて多くの僧や子供を殺し、仏像や経巻をすべて焼き捨てた。

また高野山を滅ぼそうと、付城を数ヶ所構えていたが、
宗門の者たちが出てきて防戦していたときに、不思議なことが起こった。
その山の鎮守、天野明神の使者は白狗だったが、
衆徒たちが敵陣に向かうたびに、どこからかわからないが白い犬が一匹やってきて、先に進んだ。
衆徒たちは奇異に思って、白い犬が向かうところについていって切りかかってみれば、
敵をことごとく打ち負かすことができたという。

こうして信長は、仏法の法敵となったばかりか、主君を悩まし民を苦しめることにかけては、
唐の禄山、漢の王莽にも増していた。
男色は立派な大人を狂わせ、女色は善人の言葉さえも曲解させるというが、
森乱丸のような美少年を愛で、梅園の局・中将御華などという美人を愛したので、
功臣が諫言をしてもまったく聞き入れずに逆上する。
これでやせ細った胸を割かれ、伍子胥(ごししょ)刑に処された者は数知れない。

およそ、天下の草創を心にかけている将は、
文武両道を大事にしなければ天下を泰平にできるはずもないのだが、
信長は文徳仁政というものをまったく行わなかった。
背く者は、以後の見せしめのためだといって、すべて首を刎ねた。
それだけでなく、怨敵と所縁だとか、誰それの外戚の親類、誰々と親しいなどといって、
罪もない僧や尼に至るまで刑にかけた。
これを聞いて、近隣諸国の者たちや、敵となった者の一族や残党も皆、
兜を脱いで平身低頭し降伏しても助かるわけがないと思った。
一旦は和平を申し入れた者も、結局身の安全は保障されないことを知ってまた兵を起こすので、
諸国の動乱は止むことがなかった。

将は愛を先にもうけ、罰を後に行うべきなのに、
信長は愛和の道を少しも知ろうとせず、刑罰だけを好んで行った。
だから諸卒は、徳に懐いて忠を貫こうとはせず、ただ法外な罰を嫌って、恨みを抱くばかりだった。
仁を施し徳を行えば、諸卒はその恩に報いるために死ぬこともいとわない。
喜んで忠死する者が多ければ、戦いで勝てないはずがない。
戦に勝てば天下草創の功は速やかに達成できる。
それなのに信長は、武威を強くするには、罰を厳しくして万民に恐れられることが肝要だと思って、
民が従う善政というものを考えなかった。

もし仁徳を施し、万民を撫育する志が厚く、刑罰が明らかに妥当なものであれば、
人々はその恵みに懐いて、忠を貫くために自ら死を望み、
その罰を恐れて法に背いたり上を侮ったりしなかっただろうに、
ただ武の一面だけに拘泥したのがいけなかった。

仁才の利は、近くを治めているだけで遠くに及ぶものなのだから、
仁徳を施していれば、東の奥、筑紫の果てまでも、その徳が広く知られ、招かずとも人が来て、
幕下に属したいと申し入れてくるはずだから、戦わなくても敵国が降伏してくるだろう。
百回戦って百回勝ったとしても、善のなかの善ではない。
戦わずに敵を屈服させることができるものを明将という。
戦わずに勝つとは、仁徳で万民を従わせることにあり、刀剣の力は仁には及ばない。

刀剣の利は近くを傷つけるが徒置くまでは刃は届かないという。
それなのに信長は、文武の学がなかったので、ただ武をもって敵を滅ぼすだけで、
文をもって国を治め、民を従えるということが念頭になかった。
もし文武の学があれば、政道がこれほどまでに曲がることはなかっただろうに、
毛ほども学がなかったから、昔の聖人・賢人の教えを少しも知らなかったのだ。

せめて、学がなくても忠臣の諫言を受け入れていれば、賞罰も道理に背かないものになっただろうに、
自分が聡明だと驕り高ぶって、まったく人の諫言を受け入れようとしなかった。
それどころか、諫言をする者をかえって疎んじる始末だった。
「人は皆知恵があるというが、紛糾した難局に立たされてみると、
どうやったらそれを避けられるのかを知る者はいない」というのも、信長公に符合するようである。
見る間に火坑に落ちていくような有様が目に見えていても、
人は皆眉を顰めながら口を閉ざしてしまい、諫言をする者はいなくなった。

古代の楚の荘王が、あるとき政治を謀議したとき、群臣のなかで、王に匹敵する者はいなかった。
朝廷を出てから、荘王は憂いをたたえた表情をしていた。
申公が「我が君、どうして悲しそうな顔をなさるのですか」と問うと
、荘王は「私はこう聞いていた。世の中に聖人が絶えることはなく、賢人もまた少なくない。
自分の師を得られる者は王者となり、自分の友を得られる者は覇者になると。
今の私には才もないのに、群臣には私に及ぶ者がいない。楚国の将来はきっと危うい」と答えた。

昔の賢王はこのようなものであったのに、それに引き替えて信長はといえば、
評定のときには何事につけても、自分が言ったことに臣下がほんの少しでも逆らって一理ある諫言をすれば、
大激怒するばかりか、その後遠ざけてしまう。
またどんなことでも悪いことを聞き流し、
「我が君の仰ることがもっとも至極です」と言って少しも異を唱えない者には、
「分別があって、しかもよく心構えができた、危なげのない者だ」と言って大いに感心し、
所領を与え、宝物を授ける。

はじめは、十人中一人は忠臣の節度を守って、諫言をしていたのだが、
奸臣が立身出世を遂げていくのを見て、悪には与しやすく、鮑が魚の肆に入るようなもので、
やがて忠勤の志を捨て、主君に媚びへつらうようになった。


以上、テキトー訳。続く。

やめて! みんな正矩に石を投げないで!
ふふふ、いかにもな机上の空論感ががっつり出てくるな。
ぼくのかんがえたさいきょうのナントヤラというか、中二というか。
しかし「遠国のことだから詳しく知らない」んじゃなかったのか、正矩ェ……

まあ今回は漢文でかなり手こずってるし本当にテキトーすぎる訳だね。
たぶん文中で引かれてるのは「中庸」とかだと思う。きっついわぁ(;ω;)
自分が四書五経学んでるからといって、
信長のこと「学がない」連呼するのはどうかと思うねん。
武士の子だからそれなりの教育は受けとるでしょうに。
むしろ武士としての初期教育受けてないはずの秀吉が、陰徳記では古代中国の例を引っ張ってくるじゃん。
そっちのが違和感あるんだぜ。

ちょっとげんなりしつつあるけど、がんばって続き読むぜ。
吉川成分が足りないよ! KIKKAWA!
2012-05-20

信長の首

ぎゃああああ。更新したと思っていたら本文がまるっと抜けていたでござるうううぅぅぅ!
パーティー行ってきて酔っ払って確認してなかったからホントだめね。
そんなわけでアップし直し。

前回までのあらすじ:
光秀は信長に見出されてずいぶん出世したけど、
いずれは小姓の森乱丸の讒言で殺されてしまうと思って、逆意を抱いたよ。
家康の接待役を仰せつかって準備したのに、直前で他の人に担当が変えられたよ。
面目丸つぶれだよ! 信長、殺す!
ということで機会をうかがっておりましたとさ。


光秀、信長を弑すること(3)

さて羽柴筑前守から信長に早馬が来て、「備中高松の城を取り囲んだところ、
吉川駿河守父子・小早川左衛門佐などが後詰としてやってきました。
兵力は、先年播磨の上月表に攻め懸けてきたときよりはるかに少なく、
ようやく三万に届く程度かと思われます。早々に出馬なさってください。
吉川・小早川の陣を切り崩し、そのまま芸陽に押し入ってしまいましょう。
毛利家退治のときが来たと思われます」と、再三注進してきた。
信長が、「では近隣の国の武士たちは急ぎ西国に下向して、秀吉に協力するように。
私もすぐに出張りしよう」と下知したので、皆自分の国に帰って軍勢を整えた。な
かでも惟任日向守は思うところがあったので、急いで丹波に下ると、国中から兵を集めた。

高野山には敵が数万騎で付城を構えて攻めたので、
「信長には、日本のと東西の諸将でさえ、あるいは滅ぼされ、または兜を脱ぎ旗を巻いて降伏した。
当山の宗徒がどうして戦利を得られようか。仏神のご加護がなければ我らも殺されてしまうだろう」と、
修行を極めた老僧たちは、調伏の法を修し、精魂を尽くして祈った。
満願の第七日目は六月朔日だったが、数々の珍しい現象が起こったという。

惟任は、「西国へ出陣する軍勢のいでたちを信長公にお見せしたい」と発表して、
総勢八千余騎で、五月の晦日の夜半に丹波の亀山を出発した。
どんどん道を進んでいくと、まだ夜中のうちに大江山まで着いた。
ここで惟任が明智左馬助(弥平次秀満)・斎藤内蔵助(利三)などに向かって、
「この密事をすべて軍兵たちにも言い聞かせよう」と言うと、皆「それがよろしいでしょう」と答える。

光秀は諸軍勢に向かって、「私はとあるわけがあって、信長を討ち果たそうと思っている。
皆、これから本能寺に討ち入り、一気に攻め破ってしまえ。
私がこの大望を遂げたならば、皆にも大国を宛行おう。進めや、者ども」と呼びかけた。
兵たちはこれを聞いて、勇み進んで洛中へと攻め寄せた。

折りしも信長はそのとき、終夜多数の美女を集めて、酒を飲み、
歌を謡わせるなどして何の用心もしないでいたが、「飲みすぎた」と言って帳の中に入り、
珊瑚の枕を押しやって、美しい婦人の玉臂にすがって寝はじめたので、
当番の者たちも皆、帯剣を解いて寝入った。

こうしたところに、天正十年六月朔日、東雲が明けてゆくころ、光秀は大江山を越えて桂川に臨んでいた。
村井長春軒(春長)が召し使っていた者が、桂川のほとりで畔頭などをしていたが、
光秀の兵が西国には下らず、洛中へ行こうとしているのを不審に思って、急いで使者を遣わした。
「光秀の軍兵たちは西国へは向かわず、洛中目指して討ち入ろうとしております。
おそらく光秀は謀反を起こしたものと思われます。ご用心ください」と注進したけれども、
これを聞いた者は、「何を言うか。今さら誰が、わが主君信長公に向かって弓を引くというのか。
なかでも惟任は世に類ない厚恩を受けている。
他の者ならともかく、光秀に限ってそんなことするはずがない」と、まったく聞き入れなかった。
これが信長の運のつきだった。

光秀の先駆けの勢は、卯の上刻(午前五時ごろ)に本能寺の門前に至った。
「光秀は西国に出陣するいでたちを信長公にお見せするためにここまで参りました。
上様にもこのことをお伝えください。紋も開いてください」と言うので、
門番たちは「それは喜ばしいことです」と、門を八の字に開いた。
すると光秀の勢が一度にどっと駆け込んでくる。
当番の者たちは、「上様はまだ御殿に籠もっていらっしゃるというのに、
狼藉に及ぶのはいったい何者か!」と制したけれども、兵たちは鬨の声をどっと上げた。
陳後の主である張麗華が、珠簾宝帳の奥で孔貴嬪と歌舞遊宴に興じているとき、
韓擒虎が数万騎を率いて新林から真っ直ぐに朱雀門に進んできたという故事もかくや、と思われた。

森の乱丸は勘のいい者で、「謀反人は惟任めか。出て見てみよう」と目をこすりながら走り出た。
案の定光秀だったので、乱丸は、「皆の者、切って出て手が動く限り戦い、敵を追い払え」と下知した。
当番の者たちは鬨の声に飛び起きて帯を急いで身に回したけれども、太刀を取りそびれた者もいた。
同じところで寝ていた者たちは、一本の帯を、「自分の帯だ」「いやこれは誰々のだ」などと論じ合って、
太刀なども同じように、自分のものだと言い争い、奪い合う者もいた。
また太刀を抜いて出てみると、後から鞘だけを持って追いかけてきたりする者もいて、
慌てふためいているところへと、明智勢がここぞとばかりに攻め入り、散々に切り立て、突き伏せる。
寺にいた兵は皆、とても歯が立たないと思うと、向かってくる敵に走りかかっていって切り死にした。

信長は白綾の単衣を着て、髪を茶せんに結い、鑓を提げて廊下へと走り出て、
「せがれめか、せがれめか」と言ったが、
敵が思いもよらず攻め入ってきたせいで抵抗のしようもなかったので、自害をしようと決めたのだろう。
信長が中へ入ろうとするところを、光秀の郎党、天野源右衛門が、鑓でしたたかに突いた。
信長は深手を負ってしまったので、自害も思うようにできなかったのか、猛火の中へと飛び込んだ。
並河金右衛門が続いて飛び入って信長を引きずり出し、ついにその首を討った。

この二人の者たちは、秀吉が天下の主となったときに、主君の信長を討ったということで大いに憎んだので、
身を潜めて、天野は秀次のもとにいたのだが、あることがあってからは、立花左近の家人となっていた。
並河は加藤肥後守を頼って暮らした。
天野はその後、頬にところに出た瘡を引き抜こうとしたものの、
次第に肉が出てきて治らないので大いに腹を立てて自害したとも、
またその瘡によって死んだとも伝わっている。

さて三位中将(織田)信忠は、惟任が本能寺を攻めたと聞くと、総勢七、八千ほどで打って出、
後詰しようと言い出したが、そのときにはすでに本能寺は落ちて、信長が討たれてしまったと報告が来た。
その方角では猛煙が天に上っていて、実にさもありなんという様子だった。
兵たちは、「今は安土へ引いて再度勢を整え、光秀を滅ぼしてください」と諫めたが、
信忠は「いやいや、これほどの謀反を企てたほどの光秀は、幸いにも坂本を知行しているのだから、
宇治・瀬田を固めていないわけがない。
野の果てや山の奥で迷い、雑兵の手にかかってしまえば、遠い未来までの武名を傷つけることになろう。
ここで討ち死にしよう」と言う。
さすがは一度天下の部門の棟梁となった器が備わっていると、諸軍勢は感服した。

信忠は、ここから引き返して二条の新御所に籠もったけれども、
七、八千の税も散り散りになって、最後には五百ほどしかいなくなってしまった。
惟任も、「敵に時間があれば、あちこちから勢を集めてくることもあるだろう。
早く攻め入ってしまおう」と取り囲む。
御所に籠もった者たちも、兼ねてから覚悟していたことなので、死狂いに切って出ると、
敵を追い出そうと火花を散らして防ぎ戦った。

惟任は床机に腰をかけて軍の下知をしていたが、京童たちがさかしらにも、
「天下が御手に入り、おめでとうございます」と、早々に酒などを持ってくる。
日向守は「祝着である」と、酒を盃に引き受けてぐいぐいと飲んだ。
しかし一滴も咽喉には入れず、鎧の胸板を伝って流れ落ちるようにした。
これを見て、小賢しい者たちは、「惟任は一度天下をとろうとも、保持することはできまいよ。
生まれつき肝が小さいやつだ。
今回の合戦が身の浮沈に関わると思い入れているから、胸がふさがって酒を一滴も飲めないのだ。
小国の主にふさわしい。天下の武将の器ではないわ」と言ったが、果たしてそれがよくわかる結果となった。

こうしたところへ賀仁(可児)才蔵が、笹の葉の指物で走り寄ってきた。
「どんなに攻め入っても、城中の守備が強くて打ち破ることができません」と言うので、
日向守はハタと睨んで、「この程度のところを攻め破れないなどと言うやつがあるか。
そのような臆病者は踏み殺してしまうぞ」と激怒した。
才蔵はそのまま走り帰ったが、やがて攻め入って乱戦になると、信忠朝臣は潔く自害した。

さて惟任は二十七日(十七日)の間天下の権勢を握ったが、京都の棟別の税金を赦免した。

※これについては、遠国のことなので詳しくは知らない。
 天野源右衛門が文禄のころに高麗で語ったことを伝え聞いて書き記している。
 並河は近頃まで存命していた。
 信長の首が見つからなかった、と書いている記録もある。
 これは信長の威を強調するためにそう書かれているのか、事実ではないかもしれない。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

なるほど、出典てのは特になくて、ソースは天野源右衛門、てやつなのね。
信長が首取られてるからけっこう驚いたわ。
そんでもって首がなかったという説についても付記で説明されてて、
こういう書き方は面白いね。
正矩お得意の「遠方のことなので詳しく知らん」が出たけれども、
まあ普通はそうだよね。

さて、次章も信長の話らしい。
2012-05-19

自分用グッズなど

グッズ作りに精を出していたというか、のめりこんでしまったので陰徳記読んでません☆テヘペロ
そんなわけで作ったものをさらすことにする……

続きを読む

2012-05-18

光秀の逆意

前回のあらすじ:
光秀が信長を殺すに至った経緯の章。
細川家の足軽だった光秀が、貧しいながらも妻と協力して暮らしを立てていたとき、
光秀の働きぶりに目をつけた信長に引き抜かれてぐんぐん出世した。
しかしある日、信長が光秀の所領をお気に入りの小姓に与える約束をしているのを聞いてしまう。
いずれ罪をでっち上げられて殺されるかもしれない。
その疑念が光秀を衝き動かした。


光秀、信長を弑すること(2)

光秀がつくづくと考えてみると、
「主君の信長公は、忠のある武士を鼓舞するために大国を与えて出世させてくれたとはいっても、
もともと侍を慈しむことをご存知ではない。
ただ罰だけは法よりも厳しく、ほんの少しの落ち度も一生お忘れにならない。
しまいには皆刑罰に処せられてしまう。

指を折って数えてみても、佐久間右衛門尉信盛・その子甚九郎(信栄)・林土佐守(秀貞)・
伊賀伊賀守、そのほか失脚した者は数知れない。
松永弾正小弼・松永右衛門尉・荒木摂津守、この三人は、
信長が讒臣の虚言を信じて誅罰しようとしているのを察して、とても逃げられないと思い、
事が迫って捕まってからではいくら悔いても意味がないと考えたのだろう。
先を制する者が勝つという人の世の道理に任せ、自分の国で敵の色を立てたが、
運が天にかなわなかったのだろう。
あるいは命を刃によって失い、または流浪の身となって旅泊の霜に苦しむことになった。

中でも松永は、三好家が天下の権勢を司っていたときから、
才能は人より優れ、勇も世に肩を並べる者がなかった。
天下の諸将は皆これに媚を売ったものだ。だから数々の重宝珍器を山のように持っていた。
信長は欲に溺れて武士の道をお忘れになり、
松永が自害に及ぼうとしたときに、森乱丸を遣わして、
『平蜘蛛の釜、九十九髪の肩衝などの茶器、新身藤四郎の脇差、そのほか古今の名物二十あまり、
これをすべて差し出せば一命を助けてやろう』と仰った。

松永は天守から、『信長の仰せには恐れ入りました。
これらの重宝を差し出せば一命を助けようとの仰せ、返す返すもありがたいことです。
諺に言うように、宝は身の差し合わせなので、一つ一つ進上いたしましょう。
さて余人の手には渡せませんので、乱丸殿に直にお渡ししましょう』と言った。
乱丸は喜びを抑えきれずにすぐに天守の下に馳せ出た。
松永が『乱丸殿、しばらくお待ちくだされ。すぐにすべてお持ちします』と言うと、
乱丸はもう役目を終えたような気になって、気を緩めて待っていた。
松永は数々の重宝をすべて粉微塵に打ち砕き、
『これを乱丸殿にお渡しいたす。信長の御前までよろしく』と言って投げ出して、声も高らかに言ったのだ。

『信長はすでに武士の本分を忘れ、欲に狂って、頭が焼けても顔に汚水をかけられても気付かないほどだ。
この松永ほどの者に、茶器を差し出せば命を助けようなどと言うとは浅ましいにもほどがある。
賊は取るに足らない者だが智は君子に過ぎたり、というから、
欲深い邪将であっても、もし智があれば、私と一旦和睦して、
その後騙して捕虜にすれば、これまで蓄えてきた重宝はすべて信長のものになったのに、
欲深いだけで智略がないから、宝を出せば命を助けようなどと言うのだ。
この松永を騙せもせず、おのれの恥辱をさらしただけだ。
これは天に向かって唾を吐くのに等しい。

私は九十七にもなって、どうして命など惜しもうか。
人生は百年に満たないとはいっても、私はもう百歳近い。
これ以上生きたいという望みなどない。
こんな乱世に生き延びるよりは、義兵を挙げて名を後の世まで残し、
清浄な極楽浄土で生まれ変わろうと思う。

剛の者が自害する様をよく見ておけ。
信長はこれから数年のうちに神仏に見放され、人望に背いて身をいたずらに滅ぼし、
後代に名を残すだけとなったとき、おまえたちも死を共にするだろう。
そのときはこの松永のように潔く自害し、せめて勇のほどを人に知ってもらえ』と松永は笑った。
そのまま腹を十文字に切り破って死んだ。

これは私がよく見聞きしたすべてだ。
こうして皆信長の邪政を憎み、反逆を試みたけれども、
まだそのときではなかったのか、本人が身を滅ぼしてしまった。
私もまた乱丸の讒言によって、無駄死にするかもしれない。
時節をうかがって謀反を起こし、一戦のもとに身の興亡を試みよう」と光秀は考えた。

光秀は、大江山の峰々に、京都に上るための近道を一つ整備した。
これはしかるべき時節をうかがって一気に攻め上り、敵の不意を打とうという謀である。
また、谷を伝う道も一筋用意した。
もし京都で戦利を失ったら、敵はもとの道筋へと追いかけてくるだろうから、
そのときは違う道を通って、谷を伝って家城に入ろうと考えてのものだった。
そのほか本道があり合計で三筋あったが、谷の道は人に知られては意味がないと考え、
常日頃は閉鎖して人を通さなかった。

あるとき、惟任日向守が居眠りをしていると、
思わず寝言で「本能寺の堀の深さはどれほどあるか」と言ってしまった。
誰も聞きとがめたりしなかったのだが、森乱丸はこれを人づてに聞いて、
「病人は夢の中で快癒を遂げ、囚人は夢の中で赦免されるものだという。
きっと光秀は陰謀があって、本能寺を乗り破ろうと強く思っているがゆえに、
夢の中でも忘れられず、そのように言ったのだろう」と言ったが、
そばにいた者たちは「乱丸は光秀に何か遺恨があるからそんなことを言うのだろう」と思って、
まったく信用しなかった。

またある夜信長は、鼠が馬の腹を食い破る様子を夢に見た。
眼を覚まして、乱丸に向かって「今夜は不思議な夢を見た。吉兆だろうか、凶兆だろうか」と尋ねると、
乱丸は「これはめでたい瑞夢でしょう」と合わせた。
しかしその後傍の者たちに向かって、
「これは由々しいことだ。信長は午の年(天文三年)生まれだ。
光秀は子の年(享禄元年)生まれだから、信長より六最年長だ。
しかもあやつは内心逆意を抱いているように見える。
信長が惟任のせいで腹を切ることになりそうだ。
あと十日も早くこの夢をご覧になっていれば、惟任を殺してやったのに、
もう西国に下向するため丹波へと下ってしまったからどうにもできない。
わが主君の御世はこれで終わってしまうのかもしれない」と、涙をぽろぽろと流した。

物をわかっていない若者たちは、
「今、この日の本はさておき、唐土・天竺から蒙古が攻めてきたとしても、信長が滅ぶわけがない。
夢などは泡影のようなもので不確かだというのに、その夢を信用して、
主君に関してたいそうなことを言い出し、涙まで流すとは。
乱丸には天狗でも憑いているのか」と、眼を細めて笑った。
はたしてこのことは真実となったので、後になって、
人々は皆、「乱丸は神通力でもあったのだろうか」と感心したのだった。

さて今回光秀が急に謀反を企てたのは、日ごろから憎く思うことが積もり積もっていたのだが、
身の浮沈が一挙にかかっているので慎重に打ち過ごしていたからだった。
去る四月(五月)、家康が上洛したとき、光秀は幸いにも坂本が所領だったので、
そこで饗応するようにと、右府信長公が命じた。
光秀はすぐにそこへ向かい、陸産・水産の嘉肴を求め、金銀珠玉をちりばめて饗膳を用意したのだが、
馬にものを食べさせる器さえも、あるいは漆塗りにして蒔絵などをほどこし、
または木の地にロウショウで木賊(とくさ)などを書き、
そのほかのことでも、ここが勝負とばかりに贅を凝らして接待に当たろうとした。

その言語に絶する有様を伝え聞いた信長はすぐに人を遣わし、
光秀が家康をもてなす準備を見聞させて、詳しく報告させた。
そのとき信長は、「光秀め、憎いことをする。
行く末は家康こそが天下の武将になるだろうと思って、
これほど贅を尽くしたのだろう」と察して、大激怒した。
家康の旅宿の接待は、急に別の者に差し替えられてしまったので、
惟任が入念に準備してきたものが無駄になってしまったばかりか、面目も失ってしまった。
惟任は大いに腹を立て、数万貫の銭を費やして調えたものをすべて打ち砕くと、湖の底に沈めてしまった。

光秀はこのことで、「いよいよ身に危険が迫ってきた。
今度毛利家を滅ぼし終えたら、私を処刑するつもりに違いない。
表向きは西国に発向すると言って、京都に攻め入り、信長を討とう。
もし私の運命が天にかなわなければ、死骸を華洛の土になそう」と、思い定めたという。


以上、テキトー訳。まだ続く。

ありゃ、松永さん、爆死じゃなくて普通に腹切ってるねぇ。
爆死説以外はないと思ってたからなんかちょっと意外。
普通に切腹説もあったのね。爆死の方が面白いけどね!

でも100歳近くにもなって、大事な宝物を差し出すときに「粉々に打ち砕く」とか、
ずいぶんファンキーなじいちゃんだなw
まあな。完全な状態で渡したるなんて一言も言ってないしな。嘘はついてないwww

乱丸に対する評価がイマイチよくわからないな。
奸臣のようだったり、洞察力の優れた若者像だったり……
光秀に対してはずいぶん同情的な態度なのはわかったけど。

まあ次回もボンヤリと続きを読むです。
うーん、それにつけてもこの章のもとネタ知りたい……
2012-05-16

光秀の立身

さてさて、備中高松城の和睦も済んで、今回の章からは信長関連のようだ。
なんとな~くな俗説しか知らんのだけどまあいいか。このまま読んでいきます。

光秀なぁ……イメージとしては某BLマンガ家さんの描く、お蘭ちゃん(と信長)にイビられるキンカン頭か、
某ゲーム(やったことはない)の「本能寺の変態」くらいしかゲフンゲフン


光秀、信長を弑すること(1)

惟任日向守光秀はもともと、細川兵部大輔藤孝の足軽の者だった。
若いときは身分卑しく、まるで茫丹のように貧しかったが、
器量はまるで項羽のようで、いつも人にへつらうこともなく、
ほんの少しの蓄えさえなくても、「おれは大金持ちだ」などと胸を張るような男だった。

あるとき一組の足軽たちが集まって、
「これからは持ち回りで肴を振舞う『汁事』というのを始めてみようじゃないか。
食事を饗応できればいいのだが、肴を調達する銭さえ、皆の収入ではどうにもならんのだから、
食事は皆で持ち寄ればよい。汁は用意しよう」と誰かが言い出すと、皆「それはいい」と賛同した。
そして順番に、自分の身代で無理のない肴などを揃えて汁事を催していった。
惟任は、そのときはまだ明智という名字も持っていなかったが、
生まれつき活気第一の者だったので、人より上座に座り、魚の骨を噛み鳴らし、
酒を大盃に何杯も飲んで、声高に話をし、手や足まで動かして話し散らし、
宴席のたびに自分一人だけあれこれと我儘に振舞った。
こうして人のところに行くのにも、米の一粒さえ持っていけなかったので、
ましてや人を招くことなどできるわけがない。

惟任は妻に向かって、
「こんなことがあって、人のところに行ったときは酒肴を好き勝手に飲み食いしているのに、
自分のところに招くことができないなどと言えるわけがない。
だからと言って、銭など一文も蓄えていないのだから、饗応などできない。
こうなったら、足に任せてどこかに行ってしまおうか、と思う。
どんなに貧しくとも、人にもてなされておきながら、
自分は知らぬ顔をしていては、人に合わせる顔がないのだ。
武器を取っても弓を引いても、仲間たちには勝るとも劣らないというのに、
貧しさほどつらいものはない」と、さも恐ろしげなその目から、涙をハラハラとこぼした。

女房はこれを見て、「ご安心なさいませ。私が何とかして、饗膳を一通り出して見せましょう」と言った。
惟任は「それでは和御前(そなた)に何もかも任せよう。万事よろしく頼んだぞ」とは言ったものの、
女の身では饗応できるほどの手配などできるはずがなかった。

さて、兼ねてから約束していた日になると、惟任は仲間たちを連れてやってきた。
惟任の女房は酒を買い、肴を揃えてもてなしたので、仲間たちは
「今日の会はこれほど酒肴が十分あって、美酒・嘉肴の数々がある。
子供たちも出てきて、一つ酒でも飲んでくれ」などと言って、終夜代わる代わる酌をし、
謡い舞って遊び戯れ、東方の空が白々と明けてゆくことにも気付かないほどだった。

惟任はこうしてもてなしを済ませたのだが、女房がどうやって肴を揃えてきたのかわからない。
世にも不思議に思っていたのだが、二、三日経って夫婦で浴室に入って女房の洗髪の様子を見ると、
外側には髪があるとはいっても、内側はすべて切り落とされていた。
惟任は「これはどうしたことだ」と尋ねた。
女房は、「あなたが『客を連れていらしても、もてなしようがない。
これからどこかへ行ってしまおうか』などと仰るものですから、
私はあなたの心中が察せられて、どうにかして饗応を成し遂げなければと思いました。
けれども困窮して鏡の一つも身の回りにありませんので、特別何かできるわけでもありません。
考えてみると、私の黒髪は人よりも長いのです。
これを切って、かつらに仕立てて売り、過日の饗膳を取り揃えたのです」と答える。

惟任はこれを聞いて、「なんと、そのようなことをしたのか。
晋の陶侃の母もそんなことをしたという。
妹背の仲とは言いながら、この思いやには、どんなに報いても足りることがない」と喜んだという。

その後、将軍義昭卿の御座所の普請のとき、藤孝は惟任を普請の者たちの世話役として差し出した。
それなりの大将から出された世話役などというものは、
日暮れになると我先にと争って帰っていくものなのに、
この惟任は、出るときは人より先に出てきて、買えるときは人より後に残って、
材木の切れ端などをすべて拾い集めて帰っていく。
信長はこの様子をたびたび目にしていた。
「あやつは只者ではない」と思ったので、すぐに細川兵部太輔藤孝に譲らせて、まず歩行小姓に召し使った。
するとこの者は勇も諸人に優れ、智もまた普通の者とは違う。
あちこちの戦場で数知れず分捕り高名をなした。
信長は、あるいは千貫、または二千貫の加増を与えたが、それでも足りないと思ったのか、
江州志賀の郡で六万石を与えた。

光秀は、若いときとは打って変わって富栄えたので、
貧しかったときに髪を切って客をもてなしてくれた恩を返そうと思っていたのに、
その女房は間もなく死んでしまった。
そのとき、家之子郎党を呼び集めて、
「女房が死んだときには、夫は葬礼の行列に加わる習いはないとは言っても、私はとある思いがある。
私が身分卑しく貧しかったとき、これこれのことがあったのだ」と言って、
あのとき女房が髪を切ったことを語りだした。
「ここまで恩を蒙った妻なのだから、他の例に比べることなどできない」と、
棺に手をかけ、涙を拭いながらその亡骸を送ったという。

その後次々と忠戦を重ねていくと、恩賞もまた他よりも抜きん出て、丹後一国の主となった。
そのころ人々は口々に「柴田修理亮勝家は五万の将に向いている。
羽柴筑前守秀吉は三万の将、惟任日向守光秀は二万の将」などと言っていたそうだが、
目利きが違ったのか、勝家も秀吉に滅ぼされてしまった。
秀吉は日本の頂点に立つ武将となったばかりか、三韓さえも切り従えた。
この人はおそらく、人間ではあるまい。きっと神仏の化身なのだろうと思える。

さて、こうして信長に重恩を与えられた光秀だが、何の恨みがあったのか、急に謀反を企てたという。
その仔細を調べてみると、あるとき信長が森乱丸と二人きりでいたとき、
寵愛するあまりに数々の重宝をそれはたくさん取り出して弄んでいた。
「どうだ乱丸、もしこのなかにおまえの欲しいものがあれば掌に書いてみよ」と信長が言うと、
乱丸は「どれも望みのものではございません」と答えた。
信長は、「このほかにでも所望のものがあれば掌に書け。
私もまた手の裏に書いて、もし一致したなら望みのままにしよう」と言った。
乱丸は、「それなら仰せの通りにいたします」と答えて書いたが、
互いに手を開いて見せ合ってみると、割符を合わせたかのようにぴったりと合っていた。
信長は大笑いして、「私はおまえの心の中を、鏡に映したように知っているからこう書いたのだが、
さては察したことがぴたりと当たったな。
あと三年待てば、ゆくゆくはおまえの望みどおりにしてやろう」と言った。

乱丸の父、三左衛門尉(可成)は坂本を知行していたが、討ち死にした後、
嫡子の勝蔵(長可)もまだ幼少だったので、坂本の城は六万石とともに惟任に与えられた。
乱丸は、父の本領なのだからその地を知行したいと一途に望んでいたので、
信長もこれを知っていて、このように言ったのだという。

惟任は折りしもそのとき、座を隔てて眠っていたが、
このことを始めから終わりまで聞いていて、「さては乱丸め、わが所領を望んだな」と推察していたところ、
信長が「あと三年待て」と言ったのを聞いて、
「私の行く末も安心していられない。乱丸のせいで讒言を受けて殺されてしまうに違いない」と思ってから、
逆心が芽生えたのだという。

信長は、「乱丸の所望も大事だが、だからと言って大忠を尽くしてきた光秀を、
落ち度もないのに所領を改易するのもどうしたものか」と考えていたが、
名案を思いつき、光秀に「乱丸を婿に取れ」と命じた。
光秀は何を思ったのか、首を縦には振らなかった。
これで乱丸も光秀に対して恨みを抱き、どうにかして光秀を滅ぼそうと考えた。
信長もまた「私が命じたことに従わないとは、光秀め、不義の至りだ」と思ってしまった。
このときから、乱丸と惟任の仲が不和になり、光秀も「将来は身の大事に及ぶだろう」と予期した。


以上、テキトー訳。続きます。

うん、見事に俗説だね! ある意味安心した。
冷やかし気味に読んでいけそうwww
これはどこから引いてきた話なんだろうなぁ。
読んだことないけど、太閤記? それとも信長公記???

読んでて一番血圧上がったのは、光秀が女房とお風呂に入るシーンだね。
足軽の家にも浴室ってあるの? それとも共同なの?
ていうか夫婦で入るの??? というね。
あと「妻の葬列に夫は加わらない」ってとこ。そういう習俗あったんだ。

読んでて不思議だったのが、信長と乱丸がイチャコラしてるときに、
なぜ座を隔てて光秀が寝ているのかwww
夜伽のお役目? それは近習の仕事でない???
うーん、なんとも不思議。

てなわけで次回も続きだす。
2012-05-15

吉見正頼の高松陣

どうもこの季節は誘惑が多くていけねえ。
年に数回関東に出てくる飲み友達のおっちゃんと会えたから、
昨日はついつい話し込んで酔っ払っておりました。反省。
福島の人なんだけど、元気そうでよかった。

さて陰徳記、備中高松城をめぐって、秀吉・毛利の和睦がなった。
今回はそのサイドストーリー。


吉見大蔵太輔正頼、長府より上らること

吉見大蔵太輔正頼は、九州の大友入道宗麟の押さえのため、長門の国府にいたが、
備中高松表において元春・隆景が対陣しているところに、
信長が畿内・東海道の勢を率いて近く発向してくると聞き及ぶと、
「毛利家の存亡はここに極まった。九州は何かあったとしても大事にはなるまい、
高松表の合戦こそが重要だ」と、手勢をすべて長府に残して、天正十年五月六日にその地を出立した。
「正頼の勇のほどは、九州の者たちも見たり聞いたりしているはずだ。
それなら私自身がここにおらずとも、旗を残しておき、
もしも国に事が起これば、私の旗を振り上げれば、『死せる孔明、生きる仲達を走らしむ』というものだ。
敵は正頼だと思って、一戦もできずに敗走するだろう」と、
常備していた替えの旗を一本、長府の城に残していった。

家之子郎党たちは、
「こんなに手勢をすべて置いていってしまっては、正頼お一人がお上りになったとしても、
合戦となったときには、心は猛く勇んでも、一方面の先陣を務めることもできませんでしょう。
いま少し兵をお連れください」と諫めた。
しかし正頼は、「戦は兵の多少によるものではない。謀の浅い・深いにある。
私一人でも馳せ向かって、元春・隆景にお会いし、ともに行ければそれでいい。
兵のことを言うのなら、五千や一万の兵で、信長の十万以上の兵に向かい合って、何の益があるというのか。
謀を用いれば、十万の敵勢も、この正頼一人で欺くことだってできる」と、
上士・下士合わせて二十余人だけで進んだ。

高松表でいよいよ衝突が始まったと聞くと、
「人馬ともに、足の立つ限りは先を急げ。もしついてこられない者は、後から追いかけてこい」と、
長府から安芸の国府までの四十六里ばかりを、一日一夜で駆け上り、
なおも馬に鞭を打って、千里をも一息に走り抜ける勢いで急いだ。
しかし正頼も心身ともに疲れ果てて強い眠気が襲い、馬上で夢の続きを見ているうちに、
蔵の前輪に寄りかかるかと思ったとき、そのまま真っ逆さまに落ちてしまった。
頭をしたたかに打ち、眩暈を覚えて前後不覚に陥り、そのうえ意識もはっきりしない。
供の者たちは大いに驚き、鍼灸などをしてあれこれと薬を与えた。すると、少しばかり回復した。

郎党たちは、「この人は今すぐ死ぬというわけではないだろうが、
それにしても、こんな様子では、高松に向かったとしても何の益もない。
これから供奉して帰ろう」と話し合った。
正頼は寝込みながらも頭をもたげ、
「何を言うか。おまえたちは、帰る気力があるのなら、なぜ一歩でも前へ進まないのか。
私は息の続く限り、一歩でも高松に近づくぞ。
もし途上で事切れたなら、道のそばの土中に埋めておけ」と言う。

若党たちは正頼を「アフダ」というものに乗せ、担いでいったが、
備中の矢陰の宿で、京都・安芸が和睦して両陣がともに引き揚げたとの報告が入った。
正頼はここまで、敵に向かい立とうと勇む心に引かれ、
また味方の様子を心配する一念で正気を保ってきたが、
和平を結んだと聞くと、「それではあちらへ行っても意味がない」と思い、気が緩んだのだろう。
それを聞くと同時に意識を失って、ただ息をするだけになった。
若党たちが手を尽くして看病したけれども、それ以上よくなることもなく、
「これはどうしたものか」と呆然としているところへ、輝元・隆景・元春が帰陣した。

吉見正頼が矢陰の宿で生死の境をさまよっていると聞いて、
三将はその宿に立ち寄ったが、正頼はこれを夢にも知らず、今にも息絶えそうな様子だった。
三将から「正頼よ、ここまではるばる来てくれたこと、忠志の至りだぞ。具合はどうだ」と話しかけられても、
何の反応もせず、目すら見開かない。
輝元様たちは、「正頼の忠志は、まったくもって深いものだ」と大いに感心し、
三将は皆腰にさしていた刀を抜き、正頼の枕元に置くと、
「すぐに快癒するだろう。これはここに立ち寄った証拠にしよう」と言って、
その宿から出て、芸陽へと帰っていった。

正頼はあれこれと鍼灸治療を施され、悪い血を散じる良薬などを飲んだので、
ようやく持ち直して、また長府へと帰っていった。


以上、テキトー訳。

吉見さんはもともと大内家中なんだけど、陶さんと折り合いが悪くて、
毛利と陶がこじれたときは、毛利にいち早くついた人だね。
所領は石見で益田と隣り合ってて、益田とも折り合いが悪かったらしい。
吉見さんが隆元の娘を嫁にもらうと、益田も対抗して元春の娘をもらい受け、
そのうえ吉田郡山城・日山城を訪れて接待までしてる。
このときの接待メニューはだいぶ有名だよね。

正頼の子の広頼が隆元の娘を娶ったものの、女子しかできぬまま隆元娘が死去、
その後は輝元の母方のいとこに当たる女性(内藤隆春娘)を妻に迎えて男子をなしたが、
嫡男は挑戦で戦死、家督を継いだ広長はは輝元と折り合いが悪くて出奔→帰参を繰り返し、
広頼の死後に粛清される。

子孫の末路はかわいそうな感じなんだけど、信を置かれてたんだなってのがなんとなく伝わってくるね、正頼。
落馬していざというときにどうしようもなくなっちゃうドジッ子だけどさ。
兵隊なんてナンボ連れてっても信長にはかなわん、自分の頭一つでお役に立ってみせる!
こういうガツガツしたおっさん大好き。

吉見家には、広長粛清の後に、広家の子の政春(後に毛利姓に復帰して就頼を名乗る)が入ってたので、
もしかしたらその関係でageられてるのかもしらんね。とも思いつつ。

次章は信長の話らしい。
2012-05-13

元春「追撃なんてとんでもない」元長「ヒャッハー!」

今日は万徳院跡で説明会があったそうで、
ツイッター仲間で参加してきた人が数名いるので、その報告聞くのが楽しみーーー!
はやる心を抑えつつ陰徳記読むぜ。いつもより早めだぜ。

前回のあらすじ:
松山城周辺で睨み合う中国勢と秀吉、これから信長も中国征伐に乗り出してくるというとき、
突如秀吉から和睦の申し入れがある。
高松城主清水宗治の処遇をめぐって交渉は難航するも、
清水は自分のことで両陣が和睦できないと知ると、元春・隆景には知らせずに腹を切ってしまった。


清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉、輝元・元春・隆景と和睦のこと(4)

安国寺は急いで馳せ帰り、この様子を元春・隆景へと伝えた。
両将は、「なんと、清水は当家のために身命をなげうったのか。深い忠功であることよ」と感涙を抑えかね、
その場に並びいた兵たちも皆、鎧の袂を絞るのだった。
「こうして清水が切腹してしまったからには致し方ない、それでは和睦に応じよう」
ということになったので、安国寺は秀吉に伝えに行く。

秀吉は、「ことを急ぎたい。早々に互いに熊野の牛王印を翻して起請文を取り交わそう。
安国寺は往来も大変だろう。まずわしが起請しよう」と、小指から血をたらし、暗黒の目前で血判を押した。
「この秀吉の心の奥底はこの通りだ。このうえで疑心があるというのであれば、どうしようもない。
もしそうでなければ、和尚よ、元春・隆景の起請文を持ってきてくれ」と秀吉に言われると、
安国寺は急ぎ馳せ帰り、秀吉の血判状を両将に見せ、また両将の起請文を受け取って秀吉に渡しに行った。
秀吉はこれを見て、その日のうちに播磨路へと引いていったが、
森勘八・森兵吉を使者に立て、無事和睦が成ったしるしにと、
錫一つ、菓子一鉢を添えて「長陣だったので、蓄え置いていたものは尽き果ててしまった。
これはありあわせの物をお送りしたまで」と言って贈ってきた。

秀吉は、自身は馬廻りだけを連れて、忍ぶようにして先に陣を退却した。
昼過ぎに、中国陣のそばにあった、人足などがいた小屋から火が出てすぐに消火したのだが、
この煙を見るや否や、敵陣は一気に崩れだし、皆我先にと引いていった。
太刀や刀、馬具、幟、幕などに至るまで打ち捨て、身一つになって大急ぎで引いていったので、
近隣の土民たちがこれを拾って、にわかに金持ちになったという。

さて元春・隆景が「秀吉から送られた酒を飲もう」と言うと、
皆が大いに「敵が謀略で猛毒を入れて贈ってきたのでしょう。飲まないでください」と諫めた。
両将は「起請文を取り交わして和睦したのだから、そんなことをするはずがない。
敵の大将が会盟を祝して送ってきた酒を飲まないとは、礼儀知らずにもほどがある」と、
酒を三献飲んだ後、勘八・兵吉にも引き出物を持たせて帰したのだった。

上方衆が一里ほど引いたとき、播磨の阿賀の一向宗の坊主、休巴のもとから、信長が切腹した報告が届いた。
そのほか雑賀孫市や、修学のために中国から東福寺に上っていた僧などのところから、
櫛の歯を引くように同じ注進が届く。
こうなると備前の宇喜多七郎兵衛尉・岡越前守をはじめとして、
「信長は惟任に殺されてしまったために、秀吉は逃げ上ったのです。
まだそれほど遠くには行っていないでしょう。追いかけて討ち果たしなされ。
我らがその先陣を務めましょう。
秀吉を道中で討ち取り、そのまま京都に攻め上り、天下に旗をお挙げなさい。
天は今、毛利家に天下を与えられたのです。
これを受け取らないのはかえって禍になりましょうから、
騙して利用しようというつもりではないのです」と、神文血判を添えて申し入れてきた。

そのほか味方の諸侍も皆、「追い討ちにしてください」と勧めたけれども、
元春・隆景は、「大将である者が一旦和睦すると起請文を交わして堅く約束したというのに、
敵の弱り目に乗じて会盟を破るのは、良将のすることではない。天がそれをどうご覧になることか。
また天下を望もうとすれば、先年木津・難波・大坂まで味方に引き入れたときこそ、
京都へも攻め上ることができた。
そのときは一旦は天下に旗を上げることが上げることができたろうが、
父の元就様が常々こう仰っていたのだ。

『あい構えて天下に望みをかけてはならぬ。
天下の武将となった者は、子孫が続かないものだ。
ただ国を多く切り従えていれば、私が死んでから百年の後も、
元春・隆景さえいれば毛利家が断絶することはあるまい。
たとえ元春・隆景が老いてしまっても、元長・元清がいればその事跡を受け継いで、
子孫が長く繁栄するだろう』

この父が言い残した遺言には背けない。
父の命を守って天下を望まなければ、秀吉であろうともそれほど怨讐を含むはずがない。
惟任にしても親しい間柄ではないのだから、どちらが天下の武将になったとしても、
喜ばしくも悲しくもないだろう」と言った。

元長は、敵がこの時期に和平を申し出てきたことに不審を抱いて、
敵の様子をうかがい見るため、廂山に登っていたが、その間に和睦が成立してしまった。
「急いで帰ってきてください」としきりに使者がやってきたが、
「何が和平だ。いま少し事の成り行きを見守らせてください」と、廂山からまったく下りてこなかった。
そのうちに敵が陣を引き払い、そのうえ信長が討たれたという知らせが届くと、
元長は、「これだから、秀吉が何の利もなく和睦を申し入れてきたのが不審だと思っていたのだ。
なるほどこういうことか。元春・隆景は起請文を交わして堅く和睦したとはいえ、私は違う。
追いかけて討ち取ってやろう」と言い出した。
しかし隆景・元春が引き止めたので、怒りを抑えて思いとどまった。

さて敵軍が三里ほど退却したとき、両将はいわさきの陣を引き払い、直接猿懸の城へと向かって、
輝元様へと「和睦がこの通り整いました」と報告した。
それから連れ立って猿懸の城を出た。そもそも今回秀吉が和睦を急に申し入れてきたのは、
惟任日向守が信長を討ち、そのまま元春・隆景へとこのことを知らせ、
「上下から挟み撃ちにして秀吉を討ち果たそう」と言い送ろうとした飛脚が、
和睦の日の早朝、秀吉の陣に着いたからだった。

秀吉は尾張の土民の子だったのに、
後には日本どころか三韓さえ切り従えるほどの大果報の人であったからなのか、
日向守の飛脚は中国勢の陣には来ずに、秀吉の本陣へと来たのだから不思議なことだ。
秀吉が「なにごとだ」と尋ねると、この出来事を話し出したので、
その後秀吉は「酒を飲ませよう」といって飛脚を呼び出して捕らえると、小屋の中で切って捨てた。
そのまま安国寺を呼び、和睦のことを申し入れたのだという。


以上、テキトー訳。この章はこれでおしまい。

元長wwwまたしてもwwwwwそゆとこ大好き。

さてさて、秀吉追撃を主張するのは元春なんだろうと思って読み進めてたからびっくりだよ。
陰徳記だと元春も「約束破るの、ダメ、ゼッタイ」派なんだな。
その代わり約束してない元長が追撃主張……さすが秀吉に「目がコワイ」って言われるだけあるわ。
私の中でのイメージも元長=目がコワイで固定されそうwww
そういえば初陣のときの章で、元就じいさんにも「眼光鋭い」って褒められてたっけなぁ。
陰徳記の底本になった覚書の著者か、聞き込みした古老あたりが
「元長様の目は恐ろしくてのぅ(褒め言葉)」とか述懐してたんかな。
なんかこのキャラクタライズは徹底してるし、いやにリアリティ感じるわ。
広家=美少年の記述にもリアリティ感じますが何か?

あと秀吉の引き際もなんかドタバタしてて面白いね。
最近は「そんなのなかった」って言われてるらしい「中国大返し」だけど、
もしこの描写が当時見ていた人の証言そのままだとしたら、
秀吉は明智を討つために急いで帰ったんじゃなくて、
明智と毛利に挟み撃ちにされないように、急いで「逃げ」帰った、と見たくなるね。
道々の農家などに粥を炊かせた褒美として金品を与えたんじゃなくて、
逃げ帰った兵が急ぐあまり装備を投げ捨てていったから、それを拾い集めた近隣の住民が裕福になった……
どうしよう、ものすごくしっくりきてしまったwww

今回、安国寺は行ったり来たりでお疲れ様でしたな。
さて次の章は……吉見? 石見の吉見さんちの話らしい。隆元の娘が嫁いだとこ。なぜここで。
2012-05-12

清水兄弟の切腹

前回のあらすじ:
高松城を取り囲んだ秀吉軍と決戦と意気込む元春・隆景。
しかし敵は安易に誘いに乗らず、味方に内通者が出たとの噂も飛び交う。
このうえ信長の援軍も加わるって? もうやめて! 中国勢のライフはゼロよ!
というところに、突如秀吉から和睦の申し入れがあるも、
高松城主、清水宗治の処遇をめぐって、条件面で交渉が進まない。さてどうする。


清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉、輝元・元春・隆景と和睦のこと(3)

秀吉は、あれこれと交渉を引き延ばして、もし信長公が惟任(明智光秀)に殺されたことが
敵陣に知れてしまったら、味方が由々しい一大事になると思った。
安国寺にさまざまな贈り物をして、また
「信長公にはよきようにとりなして、所領をたくさん与えよう」などと機嫌をとろうとした。
安国寺は、「そういうことなら、吉川・小早川に申し聞かせていたのでは、
交渉もすんなりといくものではありませんので、清水に直に話しましょう。
あの者はなかなかの義士ですから、自分のことで両陣営が和平を結べないと聞けば、
いても立ってもいられないでしょう」と、小舟に飛び乗ると城中へ急いで入っていく。

清水に対し、秀吉の言い分と元春・隆景の仰せを詳しく話して聞かせると、
清水はすべて聞き、涙をはらはらと流した。
「それにしても元春・隆景ほどの義将がこの世にいただろうか。
今両陣の勝敗を予想すると、敵は猛勢なうえ、信長が近日出張りしてくるという。
中国勢は小勢で、それに後から続く援軍もなく、中国が大敗するのは目に見えているように思う。
そこに敵から和睦しようと申し入れてきたのだから、この清水のような者など、
何人見捨てても和平するものだろうに、そうはせずに、
かえって私のために和睦を受け入れないでくださるとは、まことにありがたい。

大将がこれほど義を大事にしているのだから、兵が忠義を貫かないはずがない。
私がここで取るに足らない命を惜しみ、信長の下向を待ったところで、この命は助かるもではなかろう。
これから自害して死をもって善の道を守り、中国の危機を救おうではないか。
そうすれば忠義は後世に残り、この名も知れ渡るだろう。
両将が私を助けようとなさってご自身の危険を顧みず、和睦を受け入れないでいるこの厚恩を仰ぎ見れば、
須弥山を二十ばかり積み重ねてもなお足りない。
せめて身命をなげうってこれに報いようとも、大宇宙における一本の毛のようなものであり、
千尋の谷に一滴の水を投ずるようなものだ。
この程度で、元春・隆景の厚恩に少しでも報謝できるとは思っていないが。

私が自害をして両陣の和平を進めようと申せば、元春・隆景はきっと許してくださらないだろう。
だからお知らせせずに密かに自害いたそう。
私の命亡き後は、どのようにお考えになろうとも、死んだ者は生き返らないものなのだから、
考えていても仕方ない。そのときは自然と交渉が進むだろう」

清水の言葉を聞いて、安国寺は
「清水殿の仰せは、忠も義も勇も全備されている。
あなた様が今中国のために死にゆかれることは、節義功名は後代に残り、当世にも広く知れ渡るでしょう。
これを秀吉に報告してきましょう」と、急いで舟に乗って馳せ帰り、
清水の所存をありのまま秀吉に伝えた。

秀吉は、「なんという義士だろう。これにつけても毛利三家の政道が奥深く思える。
士を愛する気持ちが深いゆえに、士卒もまた将のためにしきりに忠をなそうとする。
去年、因幡の鳥取の城では、吉川式部少輔が士卒のために身命をなげうった。
今度は清水が両陣の和平のために、自分の大将に断りを入れぬまま自害しようとしている。
先に言ったように、諸卒の忠死は将の愛があってのものだ。
輝元・元春・隆景が良将だということはこれだけでわかる。

諺に言うように、敵にして手強い者は味方にして心強いものなのだから、
信長も常々、『毛利三家と和睦して、西国の統治のことは毛利に任せ、
自身は北狄を攻め平らげれば、天下太平の功も速やかになろう』と言っているのだ。
今わしが和睦を成立させたといえば、わしのためにもなるし、
和尚もまた多大な恩賞にあずかれよう」と言った。
信長がすでに討たれてしまったとは夢にも知らず、安国寺は、
「自分がこの調停をうまく運べば所領もたくさんもらえるだろう」と喜んで、頭を振り、笑みを漏らした。

さて清水長左衛門が自害しようと出て行くと、兄の月清入道(宗知)がこう言った。
「長左衛門一人に腹を切らせ、何の面目があって私が生き永らえることができよう。一緒に自害しよう」
長左衛門は、「これは思いも寄らぬ仰せです。
私一人が自害すれば、他の者たちはことごとく助けると秀吉は言っているのに、
意味のないことをなさいますな」と強く制した。

月清入道は、「いやいや、そうではない。
父の子供のなかでは私が長兄に生まれたのだから、この家を相続するはずだった。
しかし私はどうしても、世俗に交わり、肥馬の塵にまみれ、
残盃の冷(冷遇されて恥辱を受けること)に従うことができなかった。
真っ当でない人を見ればすぐに頭痛を起こして腹を立て、
その気持ちを抑えようとしても抑えることができずに、すぐに顔色に表れる。
独りだけで心を澄まし、独りだけ醒めた頭で渡っていける世ではないのだ。
だからこそ昔の人も、『世人が皆濁っているなら、なぜ自分もその泥を濁して濁流を巻き上げないのか。
世人が皆酔っているのなら、なぜ自分もその糟を食わずその汁をすすらないのか』と言うのだ。

私の性格は屏風のように屈曲していて、俗に従うことなどできなかった。
おまえなら我が家を継ぐ器が生まれつき備わっていると思って、
私が父に対して家督相続を深く辞し、おまえに家を譲ったのだ。
私がもしおまえに家督を預けなければ、今秀吉を相手に自害をするべきなのはこの私なのだ。
私がおまえに家を譲ったからこそ、おまえがこんな目に遭うことになってしまった。
それなのに、兄の身でありながら、他人事のように見ているのはどうかと思う。
自害をすることはすでに思い定めた。
それに私の方が先に生まれたのだから、死ぬときも先に死のう。
おまえは私の自害の様を見届けて、心静かに腹を切れ」と言った。
あとは何を言っても聞き入れなかった。

月清の子、右衛門(行宗)も、「父が自害するのを見ながら、虚しく生き残るのは孝道ではない。
同じ道を進んで、死出の山、三途の川も、手を引き肩に担いで越えましょう」と、
これも死を一途に思い定めた。
義を思って死を恐れない月清の様子は、実に月が白く輝き風が清く吹きぬけるようだった。
月清と名乗ったのも道理だと感じられる。

隆景から検使に籠められていた末近左衛門尉(信賀)も「ともに自害いたそう」と言ったが、
清水は「あなたがどうして切腹するのだ。
ここを逃れられたとしても、人々があざ笑うことなどありません。
ただ早くお帰りになり、この有様を隆景公へ報告なさい」と言った。

末近左衛門尉は、「私はこの城に籠もった当初から、
あなたがもし心変わりして信長に味方しようとしたならば、刺し違えて死のうと思い定めておりました。
それなのに今、義を守りきって味方の約束を違えずに籠城を遂げ、
さらに自害を遂げようとしているあなたを見捨てて帰ることなどできません。
敵となられたならば、その悪逆を憎んで刺し違えるつもりで、
また味方であるならば、その義に感服してともに自害しようと考えていました。
先に申したように、『この城に入ってくれ』と隆景から申し渡されてからは、
二度と本国へ帰ろうとは思っていません。
どんなにお止めになっても止められませんよ」と、笑っていた。

清水は、兄の月清父子と末近がこれほどまでに言い切られてしまうと、これ以上どうしようもなかった。
ではともに自害しようと、小舟一艘をささやかに飾り立て、
清水長左衛門がまずひらりと飛び乗ると、兄の入道月清・その子右衛門・末近左衛門尉、
並びに清水の家人三人が同乗して静かに舟を押し出した。
妻子や一族たちは最後の別れを悲しみ、「もう少し待ってくれ」と、
舷にすがりつき纜にしがみついて嘆き悲しんだ。
その心中がいかにも思いやられて、周りにいた者たちの袂も濡れた。
弘誓が舟に掉さし、生死の海を渡り、焔王の御座庁の官に赴くときもこうであったかと思えるほどで、
哀れな様子だった。

さて清水が自害するのを見ようと、敵勢たちは我も我もと出てきて見物した。
舟が秀吉の本陣に近づくと、清水長左衛門は舟の棹を止め、
「いざ、最後に一曲奏でよう」と刀を抜いてかざし、とても清らかな声を上げた。
「川舟を止めて逢瀬の浪枕、浮世の夢を見るならわしの、驚かぬ身ぞはかなし」と謡うや、
腹を十文字に掻き切る。
清水の郎党の高市允は、すでに抜いていた刀を振り上げ、時間を置かずに首を打ち落とす。
入道月清はこれを見て、「道の辺の清水流るる柳陰、暫が程の世間に、心止むるぞ愚かなる」と
赴き深い声で謡って、続いて腹を切った。
嫡子右衛門も同様に潔く腹を切って、父の死骸に抱きついて倒れ伏した。
残った二人の兵たちも思い思いに自害する様子は、何とも勇壮なものだった。

末近左衛門尉はこれをキッと見て、
「わたしは以前から乱舞は得意ではないが、ここで一節謡わなければ男がすたる」と、
太刀を抜いて提げ、舟板を丁々と踏み鳴らし、
「敵と見えしは群居るかもめ、鬨の声と聞きしは浦風なりけり。高松の朝の霞とぞ消えにける」と、
最後を少し謡い替えて、腹を掻き切って北枕に倒れ伏した。
高市允は六人の死骸を整えると、秀吉から遣わされた検使に向かって、
すべての者の仮名・実名を記したものをつけて渡した。
それが済むと、自分も腹を掻き破り、介錯する人もないので、自分で咽喉を押し切って倒れた。
数万の敵勢はこれを見て、「なんと剛の者だろう」と賞賛する声がしばらく鳴り止まなかったという。


以上、テキトー訳。まだ続くよ・゚・(ノД`;)・゚・

……・゚・(ノД`;)・゚・
久しぶりに読みながら泣いたなぁ。高市允……・゚・(ノД`;)・゚・
天晴れに切腹を遂げる人たちも素敵なんだけど、すべて高市允がかっさらっていった。
介錯を引き受けてちゃんと首も引き渡した後、自分のやるべきことをきっちり終えてから、
一人で腹切って、もう介錯してくれる人もいないから、咽喉を押し切って死ぬとか、もうね。
せつなすぎるよ。

そういえば陶さんちの伊香賀民部さんも似たようなことしてたなぁ。
陶さんを赤子のころから育ててきた側近なのに、自分の手で首を落として、
その首を敵に見つからないように隠してから、遠く離れた場所で切腹→咽喉押し切りコンボ。
離れた場所に行ったのは、近くで死ねば、自分の死骸が見つかったとき、
主君の首も探し出されてしまうと思ったからなんだよね。せつないね。

清水宗治、さすが義の人。兄の月清もいいね。
病気で家督を弟に譲ったのかと思ってたけど、性格的に当主が務まらないって理由になってるのね。
元長とちょっとかぶるなぁ。右衛門にも生きてほしかったなぁ。
末近さんもさすがは隆景が選んだ人だけあるね。
みんなかっこいいわ。言葉が見つからん。

まあ安国寺が悪どく描かれてるのはデフォなんで、そのへんは差し引いて読みたいね。
次回も安国寺が活躍しそうだよ!
2012-05-11

決戦の決意と始まった交渉

前回のあらすじ:
元春たちゎ頑張った……清水がまってる……でも……高松城を救ぇなぃ……
でも……ぁきらめるのょくなぃって……中国勢ゎ……ぉもって……がんばった……でも……
内通者もぃるかもなんて……つらぃょ……ゴメン……もぅすぐ溺れちゃぅ……でも……
清水と……もぅりは……ズッ友だょ……!!

すんません、ついったでコピペ改変が流行ってたもんで調子に乗りました。


清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉、輝元・元春・隆景と和睦のこと(2)

元春から「侍も下人も、柵の木を一本持ってくるように」と下知があり、
人々は皆すぐに柵の木を持って集まった。
やがて廂山の陣を柵で囲み、芝土手を築き上げ、陣の備えがいよいよ堅固になる。
こうなると、味方のなかに少しくらい敵に内通している者がいたとしても、
簡単に攻め破られそうには見えなかった。
こうして人々の心が少し落ち着いたので、
「では羽柴七郎左衛門の陣に攻めかかろう。明後日の六月五日だ」と定まった。
とそこへ、翌日四日の早朝に、秀吉から使者が遣わされて、
「安国寺瓊西堂をただ今から急ぎ寄越してほしい」と申し入れがあった。

安国寺は、いったい何事かと急いで敵陣に赴いた。
秀吉は安国寺を陣中へと呼び入れ、席を勧めて話し出した。
「近年、わしは元春・隆景とあちらこちらで対陣してきたが、これはわしの意志ではない。
それというのも、先年に信長と輝元が水魚の交わりを約し、天下を泰平たらしめ、
民の苦しみを救おうということになったが、その約束は金や石よりもなお堅いもので、
血肉を分けた同胞のように思っていた。

それなのに将軍義昭卿が信長の忠勤をたちまち忘れ去ってしまい、かえって恨みを抱くようなことをしたから、
信長も仕方なく宇治の真木の嶋へと追いやったのだ。
そのときの成り行きは貴僧がご存知の通りだから、詳しくは申すまい。
輝元から和尚と林杢允、元春から井下新兵衛などが遣わされ、扱いを入れて、
そのうえで義昭卿を中国に下向させないようにと、重ねて申し定めたのだ。

そして義昭卿が毛利三家を頼って下向されたとき(天正四年二月)、
備後の鞆の浦に留め置いて、信長と矛楯に及んでしまった。
年来の和睦はたちまち破れ、今ではあちらこちらで合戦に及び、無駄に諸卒を疲弊させている。
信長の代官としてこの秀吉が罷り出で、また輝元の先鋒として元春・隆景が出張りして、
こうして毎度のように戦いを繰り返すのは、二頭の虎が牛を取り合っているようなものだ。
最終的には共倒れになってしまうだろう。

それに、京都と安芸がぶつかっているのをいいことに、関東・四国・九州の諸将がその隙に乗じ、
不当に威を振るっている。
信長と輝元が私的な怨恨を突き詰めて、どうして天下を泰平にできるというのか。
早々に和睦をなして、信長は陸奥・出羽の東夷を退治すればいい。
輝元は大友を追罰して、西戎を鎮めなさればよい。
信長も常日頃から、わしに対してこのことをよくよく言い含めていらっしゃるのだ。
今この秀吉が自分の考えばかりで申しているのではない。
元春・隆景へは、和尚からよろしく伝えてほしい。
元春・隆景が和平のことを了承するのなら、輝元にも別儀はあるまい。
この秀吉がこのように申すのは、信長が以前から望んでいたことなのだから、なおさら異議はあるまい。

もし和睦のことを了承してもらえるなら、北は伯耆半国を境としよう。
南はこの国の兄部川を境とすればよかろう。
南条味方に属して忠勤を貫いているので、本領を宛行いたいと思う。
また兄部川を境にするということだが、わしが清水の城を攻めながら、城主の首を見ずに和睦してしまえば、
信長がどんな風に考えるかわからない。
また人々もわしの勇がつたないとあざ笑うはずだ。
その上の信長が、わしがこうして取り囲んだ城を攻め落とさずに和睦をしたのは、
中国に内応しているからだなどと疑心を起こせば、毛利三家の今後のためにもならないと思う。
清水には切腹してもらいたい。このことを和尚からよくよく伝えてくれ」
安国寺はこれを聞くと、「承りました」と急いで馳せ帰り、元春・隆景へと秀吉の言い分を伝えた。

両将はしばらく考え込んでいたが、元春が口を開いた。
「確実な約束もせずに和平を請うのは謀略だと、孫子にも書かれている。
今敵の様子を見ると、数が味方の三倍にもなろうか。
それに信長が近日出張りしてくるとなれば、敵の勝ち目はいくらでもある。
味方は兵が少なく、城もまた弱りきっていて、士卒は逆心を抱いて心が一つになっていない。
勝敗は戦わなくとも目に見えているではないか。
それなのに何の益もない和睦を申し入れてくるのは不審このうえない。これが一つ。

また清水の城が危機に陥っていて、これを救うためにこそここまで出張りしてきたのだから、
あの者を助けられるのであれば、国を分かち取ることは秀吉の望み通りにしてもいい。
清水に切腹させるとなれば、和睦はゆめゆめかなうまい。
孫子にも、『士卒を見るに、赤子のように思っていれば、深い谷に赴くときも士卒はそれに従い、
士卒を見るに愛児のように思っていれば、死にゆくとも士卒はこれに従う』とある。
どうして清水を見捨てて和平など結ぶことができようか」

隆景も、「私もそのように思います。清水を失ったら何のために和睦するのかわからない。
安国寺よ、このことを秀吉へ返答せよ」と言った。
瓊西堂はすぐに敵陣へと行って、このことを伝えた。

秀吉はこれを聞くと、「元春・隆景は、清水さえ助かれば和睦をしようというのか。
清水を切腹させたら和平はできないと言うのは、義将の鑑といえよう。
しかしこの秀吉も、攻めかかった城を落とさずして和睦を結ぶのは、これからの我が軍略に傷をつける。
また清水が自害したとしても、あながち中国の瑕瑾にはなるまい。
去年因幡の鳥取の城を攻め落としたとはいっても、馬野山で元春と対陣し、
我が陣を払って引き揚げることになったのだから、十分な勝ちにはならない。
先年、播磨の上月で尼子勝久を捨てて引き揚げているのだから、秀吉の面目は失われたも同然だ。
今こそ清水の切腹のことをわしの思い通りにして、上月のときの会稽の恥を雪ぎたいのだ。
わかってほしい。しみずには切腹させて和睦してほしい」
と、腰を低く礼を厚くして再三申し入れたが、
元春・隆景は、清水を捨てて和睦しようとは絶対にしなかった。
交渉は暗礁に乗り上げたかに見えた。


以上、テキトー訳。まだ続くー!

さていよいよだねぇ。
まあ交渉自体はもっと早くから進められてたんだろうとは思うけど、
こういうドキドキハラハラな展開も悪くない。
ここから恵瓊はどうやって両陣を和睦に持っていくのか。楽しみ~♪
2012-05-10

元長がかっこいい回

あーんまた日が開いたのは昨日飲んでたせい。
またかよ。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
毛利VS秀吉、クライマックスの備中高松城。
睨み合う両陣がバチバチ火花を散らすなか、周辺の端城では武力衝突が起こるも、
決定的な合戦はなく、未だ膠着状態でござ~るでばざ~る。

この章は長いので何回かに分けます。


清水兄弟自害のこと、付けたり秀吉、輝元・元春・隆景と和睦のこと(1)

さて、高松の城は里の中にある平山である。
そこに兄部川の流れを引き入れられてしまったうえ、堤の方が城山よりも高くなってしまった。
水は程なくその山の山頂まで届き、あと五尺も溜まれば、城中の人は皆水中に溺死するかに思えた。
秀吉は、城の様子がすでに極限まで及んでいると見て取ると、
これに力を得て大船に矢倉を上げ、城中を見下ろしながら大筒・小筒を撃ちかけ、
熊手をかけて塀を引き破ると城中へ攻め入ろうとした。

城中の配備は以下のとおりだ。
まず秀吉の攻め口には、中島大炊助の一族の荒木の一党がいて、身命を捨てて防ぎ戦った。
宇喜多の攻め口では、池の下の林与三・片山助兵衛尉・林九郎・鳥越五兵衛尉などが、
ここを破られてなるものかと鉄砲を撃ちかけ、汗を滝のように流して戦った。
このせいで、寄せ手は大軍だとはいっても、塀の一重さえ破れずにいた。
けれども、これがあと十日も続くようなら、城中の者たちは水に溺れて死ぬであろうことは明白だ。
元春・隆景は、どうにかして堤を切り落とそうと策謀を練ったが、
敵は大軍なうえ陣の備えも堅固で、なかなか堤を切って落とす方法が見つからない。

そうしたとき、元長がこう言った。
「こうしていたずらに敵陣を遠く隔てて自陣を守っているだけでは、後詰に来た甲斐がない。
とりわけ、信長がこの地に下向してくるとの噂がある。
これが本当なら、敵勢はさらに増えて、きっと二十万騎ほどにも膨れ上がるだろう。
そうなれば敵はますます図に乗り、味方は意気をそがれて、最終的には城を落とされてしまう。
信長が出てこないうちに、仕掛けて一戦すべきだ。

隆景はお手勢も多いのですから、秀吉の旗本を抑えていてください。
私が出雲・伯耆・石見三ヶ国の兵を率いて、こちらの正面に陣取っている羽柴七郎左衛門の陣を切り崩します。
あの陣を切り破るのは、そう難しいことではないでしょう。
秀吉が全軍で攻めかかってくれば絶体絶命ですが。
しかし、私が夜中に諸軍勢を打ち出し、七郎左衛門の陣を暗闇にまぎれて切り崩して見せます。
切り崩したら秀吉の勢に向かいますので、隆景のお手勢と両方から挟み撃ちにすれば、
あっという間に勝利を得られるでしょう。
宇喜多の勢はもともと卑怯な奴らです。当方が最初の合戦に勝利を得れば、
強い方につこうとして勝負を見合わせるはずですから、懸かり合って一戦したりはしないでしょう。
家の浮沈、この見の生き死にをただ一戦のうちに定め、十死一生の合戦をさせてください」

隆景はとりわけ智に秀でた良将なので、常に謀を先にして戦を後にし、深く熟慮を重ねる。
元長に言われてからしばらくは、何も言わずに考え込んでいた。
そこに元春が口を開いた。
「どうだ、隆景。元長の申すことにも一理はあるではないか。
元長・経言兄弟を先陣に立て、この元春が後陣をつめれば、敵陣は瞬く間に切り崩せる。
ただ一戦と決定する以外に、どんな策があるというのだ」

これを聞いて、隆景は
「仰せは実に道理だと思います。
元長が言うように、信長が出張りしてくれば、何万騎かの敵兵が増えることになるでしょう。
まだ後陣の勢が到着していないうちに興亡を賭けた一戦をするのは実に名案だと思います」と言った。
これで明日一戦すると一決した。

しかし三沢摂津守をはじめとして、数人が秀吉に内通して逆心を抱いていると密告する者があったので、
味方中でも、誰に逆意があるのかと互いに距離を置き合ってしまい、
このせいで一戦の決定は少し延期された。

こうなるとどの国の兵たちも、
「敵には信長が後陣に大勢の援兵を出し、信長自身も出張りしてくると聞く。
味方には裏切り者が多くいて、おそらくは元春・隆景も、まずこの表を引き揚げるに違いない」
と囁きあうようになった。

諸陣の様子が何とも浮き足立ったようになってくると、元春父子・隆景は廂山の上へと登った。
供には隆景の家中の久村久左衛門一人を連れて行き、そこで評定を行った。
「三沢やそのほか数名が敵方へ内応していると聞く。こうなると無二の一戦も難しくなった。
こうなったら役にも立たぬ仮武者どもは足手まといだ。
この廂山に柵を結いまわし、手勢だけを引き入れて、敵を誘って一戦しようではないか。
三沢たちが秀吉に心を通じているというのが事実ならば、
筑前守が近日中にこの陣へと切りかかってくるはずだ。
そのときに秀吉の旗本へと一文字に切りかかって、晴れがましく死んでやろう」
と評定が一決すると、やがて本陣へと帰っていった。

元長様は直接三沢の陣に行くと、たった一人で中へと入り、摂津守のひざのすぐそばまで寄った。
「為虎よ、あなたは秀吉へと内応していると聞き及んでいる。
その実否を確かめるために、ここに来たのだ。
もし風説が虚妄でなければ、今ここでこの元長の首を打って秀吉への土産にするといい」
と元長が言うと、為虎は大いに驚いて、頭を地に着け、
「そんな悪逆、まったく毛ほども思いついたことすらありません。
讒者が嘯いただけのことでしょう」と答えた。

元長様が「本当に野心がないのなら、疑心を晴らすために起請文を一枚書いてほしい」と言うと、
為虎は、「それこそ仰せになるまでもないことです。
これから書こうと思っていたところです」と言って、すぐに手洗い・うがいをし、
熊野の牛王印を裏返して天神地祇を呼び起こし、起請文を書いて捧げたのだった。
元長は、「これ以上疑うようなことはない」と言って、その起請文を懐にしまうと帰っていった。

両陣営が和睦した後、中国の侍たちに逆心があったという証文が、秀吉から輝元・元春・隆景へと送られたが、
三沢の家人の三沢雲波という老人から、寝返りを約した書状もあった。
為虎は、「私には寝返るつもりなどまったくありません。
これはただ雲波入道が一人でしでかしたことです」と断りを入れて、その入道の首を刎ねたそうだ。
また久代修理亮も内通の噂があったので、この陣へは民部大輔経言が出向いた。


以上、テキトー訳。ツヅクノデス。

くっ……このっ……元長ぁぁぁあああ!
さすが陰徳記。元長がカッコイイ。なんで? いやもともと元長はかっこいい(希望)だけど。
え、でも肖像画はアレ(僧侶コスプレ髭おっさん)だけど。

元長「うだうだしててもどうもならんからヤッちゃいましょう」
元春「うちの子いいこと言うだろ」
隆景「……うん、他に手もないですしね」

なんだろうなぁ、この血の気の多さは。
九州征伐でも先走ろうとして隆景に止められてたよねw
上洛したときも秀吉殺そうとしてたし。
元長さんおもろいキャラだなぁ。

そして三沢に詰め寄るシーンもいいじゃないの。
「もし寝返りの噂が本当なら、この俺を倒してから行け!!!」
と超意訳すると、どう考えても死亡フラグでしたね、はい。
私は今回の三沢になりたい。そして元長に膝元まで詰め寄られたい。
二人きりで膝突き合わせてお話したいよハァハァ!!!

どうもまだ頭が煮えているのでこのへんで。
次回も続きだす。
2012-05-08

秀吉の兵論

だいたいのあらすじ:
毛利VS秀吉、備中高松城周辺の攻防。
賀茂の城では二の丸の生石が寝返って敵兵を引き入れ、甲の丸に攻め寄せたが、桂民部が撃退。
庭瀬の城では井上豊後守が攻め寄せた敵軍を撃退して城を堅く守っている。

まあ今回はあんまり関係ない秀吉の語り場なんだが。


賀茂の城合戦のこと(下)

秀吉は常々こう言った。
「畿内・東海道の兵たちは、一つの城を攻め落とせば、近隣の城などは攻めなくても落とす。
また猛勢を率いて発向すれば、地形が厳しくない城や将の勇に不足がある場合には、
一日や二日の間にバラバラと五ヶ所も十ヶ所も陥落するが、
去年は因幡の鳥取を攻め落としたけれども、吉岡・大崎の城をはじめとして、他はまったく落とせなかった。
だからわしが取次をはさみ、人質を交換してようやく城主が城を空け退いたのだ。

その後は因幡の南条の城に兵糧を入れるとき、元春と馬野山で対陣した。
松ヶ崎・高野宮・戸満利などの城の様子を見ると、攻めずに落ちるとは到底思えない。
また今敵城の賀茂・庭瀬などを見ると、攻めても落とせないのだから、
攻めずにいればなおさら落とせないだろう。

畿内の者、坂東武者には従来勇が備わっているといっても、少し違う。
まず畿内の兵は、駆け引きを自在にして、虚実の二つを見分けるのが得意だから、
軽く懸かって引き、戦で実に華々しい活躍をするが、
坂東の武者に比べると、華々しいばかりで実りが少ないように思う。
坂東武者は生死を気にかけず、懸かるとなれば沼だろうが川だろうがかまわず、
峯でも谷でも平地と同じように思って懸かっていく。
しかし懸かるという字は知っていても、逃げることを知らない。
知恵を回して城を久しく守り、あるいは小勢ながらも大軍に遭いながら、
一旦は勇に任せて少しも臆せずに対陣するわけだが、長々と堪えきることはできない。

また中国勢は、懸かって一戦するにも、勝てる道筋が見えなければ、
いい加減に攻めかかって一戦するのを慎む。
戦が始まると、千騎いた兵がたった一騎になるまで引くことがないと聞く。
先年、播磨の上月の合戦のとき、戦の様子を見ると、戦を慎んでいた。
さて、いよいよ戦となれば、はじめは鉄壁も貫くことなどできないような風情だったが、
しだい次第に強くなり、自分が思い定めた念が晴れるほどに敵を追い詰めなければ気がすまないと、
死んでしまうとしても休まずに、その戦ぶりは泥の裏に棘があるかのようだった。
上は柔弱だろうと思ってうかうかと戦を挑めば、その庭はへそまで徹して勇なのだ。
太陽が東の峰に上っていくような勢いで次第に強くなり、いかんともしがたい。
特に城をわずかな勢で守ったり、または小勢で敵の猛勢と対陣すると、
何百日、いや何千日が経っても、退屈して引くことなどない。

思い出してもみろ。上月では信長から雲霞のように加勢を差し出され、
わしは大軍、中国勢は小勢だったが、ついに相手が引くことはなかった。
また伯耆の馬野山では、わしの四万の勢に対して、元春は五、六千ばかりだというのに、
少しも引こうとしなかった。
また城を堅く守ることについては、鳥取では兵糧が尽きて牛馬を食べるほどになり、
そのうえ丸山では人肉を食っていたという有様だったというのに、最後まで降伏を願わなかった。
また、今の高松は、城中に水をたたえ、樹上にスノコをかけているほどだというのに、
降参を望まないではないか。

これを考えてみると、畿内・坂東・中国の兵は、野戦では甲つけがたいというものの、
城を守ることにかけては、中国の武士が大いに勝っている。
このように人は畿内・坂東よりも優れて傑物で、将はまた勇である中国を退治させようと、
信長の手の内では柴田・惟任・滝川、そのほかにも多く将がいる中でも、
この秀吉を選んで差し向けられた。信長は、人をよく知っている名将だ。
その理由は、今に見ておれ。
この秀吉の謀をもってして、今年・来年のうちには中国を切り従えてみせよう。
これで皆も思い知ればいいのだ。
この秀吉に勝る弓取りは、唐土はいざ知らず、この日本のうちにはいるはずがないと。
これほどに難しい中国攻略でも、鳥取を攻め落とし、今は高松を取り囲んでいる。
敵の強さと比較して、秀吉が良将であると知ればいい」

中村孫平次・堀尾茂介、そのほか座に居並んでいた者たちははこれを聞いて、
「仰せはもっとも至極にございます。
秀吉公はきっと人間ではなく、仏神が仮の姿を顕しなさったのだろうと、
人々はっ囁きあっております」と言った。

秀吉は喜色満面で、
「今わしが言ったのは、現在の諸国の軍兵の様子をあれこれと批評しただけだ。
しかし、場所によって兵の強い・脆いが決まるわけではない。
機内の兵は勇がへそに徹していないようではあるけれども、
楠木の兵は皆勇も智も全備して、百万の敵を引き受けて城を守り、ついには大勝利を得た。
それに三吉修理の兵は、多くは和泉・河内の者だったけれども、関東勢にも劣らぬ武勇だったと聞く。
関東勢も、百万騎で楠木のたった五百の手勢に負け、上杉は八万の勢で八千の北条に負けた。
こうした例は枚挙に暇がない。

これを見れば、国の違いで兵の強弱はない。
将が勇であれば兵もまた勇なのだ。将が弱ければ兵もまた弱い。
それに、その家の勢いが増していくときは、将が勇でありまた正しい政治をする。
政治が正しければ、兵は君の徳に懐いて、喜んで命を投げ出す。
命を投げ出そうとすれば、勇はおのずと備わる。
だから兵の強弱は、将の勇と政治とにある。

関東の武者は生死を顧みないつわものだと言い伝えられているのも、
昔を考えると源頼光・頼義・義家・為義・義朝・義平・頼朝・義経は、皆良将であった。
その後、北条時政とその子孫たちは皆文武を全備していたがゆえに、兵も皆勇だった。
相模入道崇鑑(高時)が滅びたときは、坂東勢の勇がそろってまずくなったように見えるが、そうではない。
崇鑑が邪将だったがゆえなのだ。
その時代、関東勢が弱かったのなら、足利尊氏・新田義貞はどうやって朝敵を滅ぼし、
家を盛り上げたというのだ。
その後明徳・応仁の兵乱では、坂東の者で名高い者はいないとはいっても、
それはその時代に、関東には良将がいなかったからなのだ。
すべての兵が臆していたわけではない。

近代になって北条氏が興ってきたときは、代々良将だったので兵も皆勇だった。
武田信玄・長尾謙信・松平家康などの良将が世に並び出たのだから、その領国の兵はすべて猛々しくなった。
五畿内には、近代では三吉の後に良将が出なかったので、兵が弱いように見える。
尾張近隣の武士は、信長が良将だからこそ兵もまた猛々しい。
中国の武士は、保元・平治・平家物語などの記録には、中国勢にたいした武士が登場しないとはいっても、
元弘、建武には赤松、その後の応仁のころは山名、近代では大内家が数代良将だった。
そのなかでも、左京兆義興が無償の明将だったので、大樹(将軍)義稙卿に頼りにされて、
京都に切って上り、ついに天下の武将と呼ばれるようになった。

その後は毛利元就が、丹比三百貫の身代から、次々と敵国を切り取り、
大内・尼子などを滅ぼして、領国となったのは十三州にも及んだ。
四国・九州も半ば過ぎがその武威に服したと聞いている。
元就に続いて元春・隆景も良将だったがゆえに、兵もまた強い。

これを考えてみると、中国もまた将が勇なのは明らかなのだから、兵もまた強い。
関東でも近代の上杉が、昔の崇鑑に勇もなく、政治もよくなかったから兵も皆たいしたことはない。
それで自分の生きる国を誇るために、関東の者は、関東とさえいえばどんなものでも勇だと言い張り、
畿内も畿内で、商売人や土民まで猛々しいなどと言う。
中国はといえば、年端も至らない子供まで強いと嘯き、
九州・四国に至るまで、皆自分の国を誇り、他の国をそしる。

これはすべて自分を立てるために他を貶めるための我儘に過ぎない。
九州も、昔は菊池氏が代々勇だったので、肥後の兵は皆猛々しい。
近代は大友が良将で、豊後の者たちには勇士が多い。
今また島津義久の弟の義弘という良将がいて、薩隅両国の兵も勇である。
四国は昔から河野家が代々勇将だったから、国人たちも皆肝が太い。
近代では阿波の三好、その後には土佐の長宗我部が良将なので、兵もまた強い。

これを考えると、国や場所によって兵の強さが決まるわけではないのだ。
古い句に、『剛将の下に弱兵なし』という。すべてはこの句の通りだ。
今は播磨にこの秀吉がいるのだから、この国の兵は皆剛の者だが、
わしの後で弱将が国を守れば、播磨の者たちはたちまち弱兵となるだろう。

長井・斎藤別当実盛は、源氏にあって義平に従っていたときは、
十七騎しかいないのに重盛の五百騎の勢に勝ったというのに、
平家にあって惟盛に従ったときは、富士川で水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ってしまった。
実盛のこの振る舞いで、兵の強弱は国によるものではなく、将によるものだということは明々白々ではないか。
この秀吉は日本一の明将なのだから、兵もまた日本一のつわもの揃いなのだ」

秀吉は目をらんらんと輝かせて肩を張り、
説法をする坊主が他宗を誹謗して自分の宗派の理屈ばかり並べ立てるような様子だったが、
言っている内容は、さすが秀吉というべきか、確かにその通りだったという。


以上、テキトー訳。この章はここまで。

秀吉喋るなぁ……(・∀・)oo0(いつ終わるんだろ
すごくまともなことを言いつつも、最後は「自分サイコー!」で締めるあたり、平常運転だね。

「みんな自分の贔屓のとこを持ち上げたいために強いと言い張って、
 そのために他を誹謗する」

これは耳が痛いですね~~~><。
気をつけなきゃ。

さて次の章は、いよいよ高松城が大詰めのようで。
2012-05-06

兄弟喧嘩? いいえケフィ(ry

毎日書くって宣戦したそばから一日空けちゃった。てへ。
西国から毛利展に来てた方々とゆっくりお話できて楽しかったわー(*´∇`*)
毛利展(二回目)も新たな発見が多くて楽しかったわ~(*´∇`*)
まあ昨日更新しなかったのは、その方々と別れてから
いい気分になってたついでに地元で飲んでたからなんだけどねw

さてさて陰徳記、高松城が水攻めにされつつ、周辺の城で攻防が続いてますぞ。


賀茂の城合戦のこと(上)

賀茂の城には、甲(つめ)の丸には桂民部大輔広繁・東の丸にはこの国の住人の生石(おいし)、
西の丸には山之上兵庫を差し込めていた。
]生石の何某はたちまち心変わりして秀吉へと内通し、
備前の宇喜多の勢を城中へ引き入れようと、密かに約束を交わしていた。

生石は、このことを他の人は知りもしないと思ったため、
詰めの丸に行って桂民部に会い、城を堅く守備する相談でもするふりをして、
城中の様子をうかがおうと考えていた。
いざ行ってみると、桂の家人たちが夜回りのために二、三人連れ立って歩くのに行き会った。
生石が「民部殿にご相談したきことがあって参ったのだ。門を開けてくだされ」と申し入れると、
民部の家人たちは特に意味もなく「門番はいつも怠慢だ」としたたかに罵った。
生石は、「さては私の陰謀を知っているからこのように用心しているのか」と深読みして、
急ぎ走り帰り、夜中に詰めの丸の堀際に塀をつけ、掻楯を立て並べるなど動き出した。

民部はこれを見て、「生石の振る舞いはどういうことだ。
敵に対してこそ幾重にも構えるべきであるのに、本城に向けて用心を重ねるのは、
きっと逆心を抱いているに違いない」と、
すぐに甲の丸の塀の裏に米俵を積み重ね、所々に楯を掻き付けて、そ知らぬ顔を決め込んだ。

その夜の明け方に、生石が備前勢を二の丸へと引き入れ、甲の城に向かって鉄砲を撃ちかけ、
鬨の声を上げて攻めかけた(五月二日)。
桂は兼ねてから予想していたことなので、矢間を開けて散々に射る。
夜も明けゆくころに見渡してみると、羽柴筑前守の陣取っている蛙ヶ鼻から、
敵勢が引きもきらず押し寄せていた。
群れをなす敵兵たちは、備後勢の後に続いて、入れ替わり立ち代り賀茂の城へと攻め入ってきた。

元春・隆景は、岩崎からこれを見ていた。
元春が「民部は二の丸へと火矢を放てばいいのに。
茅葺きの小屋が多く立ち並んでいるのだから、すぐに火が移るだろう。
その煙の中に突いて出れば、勝利を得られるのに」と言った。

隆景は、「仰るとおり焼きたてれば勝利は得られよう。その程度の謀は民部にもできる。
けれども、孫氏も『火を発するに時あり、火を起こすに日あり、天地の乾くときである』と言っている。
この四、五日は晴天続きでいい陽気なので、その時を得たとはいっても、
『火を風上に発すれば風下より攻めることなし』ということだろう。
今は風が甲の城へと吹きかかっている。だから民部は火をつけないのだ。
今にも風向きが変われば、民部が火攻めをするだろう」と答えた。

桂には天の加護があったのか、たちまち風向きが変わって、敵の方へと吹きかかった。
「ここだ」と見ていると、甲の城から火矢が射出すされた。
案の定、東の丸に作り並べられた茅葺き小屋に、カッと燃えつく。
これを見て、下から二人がスラスラと屋上に上がり、火を打ち消そうとしているところを、
民部の弟の桂孫次郎が鉄砲で撃ち落とした。
これに恐怖して、その後は家の上に上る者はなく、炎はたちまち空中に迸って、煙が寄せ手の上を覆った。

民部大輔はこれに機を得て、「者ども、ここで叩き潰すぞ」と、五百余騎を率いて、
敵の猛勢に少しも臆せずに、まっすぐに突きかかった。
寄せ手は煙にむせて前後もわからなくなっている頃合に、桂に手厳しく攻め込まれて、
一戦のうちに戦い負け、東の丸に留まることができずに山下へとサッと引いた。
けれども敵は大勢だったので、蛙ヶ鼻から推し続いて寄せてくる兵たちは、
それに入れ替わって攻め入ろうとする。

元春・隆景は、賀茂の城が危ないと見ると、「後詰せよ」と、元長・経言を大将に、
一万余騎を賀茂の城まで七、八町というところまで打ち出した。
元春・隆景も、秀吉が本陣から加勢を出して今日一戦に及ぶようなら、
これを勝敗を決める一戦にしようと決定して、廂山の総陣も敵の出方によっていつでも出られるように、
前後の備えを堅く制し置き、「早く敵が出てこないものか」と待ちかけていた。

一万の軍勢が次々と賀茂の城へと駆けつけるのを見て、
敵勢が備えを変えたのだから、そこは勇将の名を得た秀吉なのだから、
総軍は残らず出合い、きっと乾坤も倒覆するような大合戦が始まるかに思えた。
しかし秀吉の本陣から武者が二騎やってきて下知をなし、
京勢は残らず引き揚げて見方の陣に入っていってしまった。

民部の手の者には、井上新五左衛門・内藤七郎左衛門など数十人が討ち死にし、手傷を負った者も多くいた。
敵方にも手負い・死人が数百人出たと聞いている。

また庭瀬の城には井上豊後守が三百、郷人の原が五百、合わせて八百ばかりで立て籠もっていた。
この城は、岡山方面は沼なのですれ違える場所もない。
また蛙ヶ鼻方面も隘路なので、敵が大勢で懸かることができなかった。
足軽をけしかけて城の強弱を試してみると、井上はなかなかの勇士だったので、毎度自ら下知をなし、
足軽競り合いに勝ってきた。

元春・隆景からも、「庭瀬は敵方に突出した城なので、最後まで守りきることは難しいかもしれない。
そのときは空け退け」と言われていたが、豊後守は「かしこまりました」とは答えながらも、
ちっとも退却しようとせず、両陣が和睦した後までこの城を守りきった。


以上、テキトー訳。続く。

兄弟会話がギスギスしてて楽しい……

春「火ぃつけりゃいいのに(おまえの部下、そんなこともわかんないの)w」
景「民部にだってそれくらいの知恵はありますけどね。時を見てるんですよ。
  風向きが甲の城に向いてるでしょ。
  今火つけるとか自殺行為だし(兄さん、そんなこともわかんないの)www」

それでもいよいよ賀茂の城が危ないってときは、心合わせて「救援に行くぞ」って。
この兄弟め。仲良く喧嘩してるだけなんだなそうなんだな。
元長・経言、待ってたよー! ところで元棟はどこ行きましたかね?

桂民部は小憎いねぇ。気付いてて知らん顔。
でも裏切りと気がついた時点でさっさと始末してれば楽だったんじゃないの、と思わなくもない。
でもそうよ、秀吉本隊を炙り出すための罠だったんだわそうに違いない!
ところで桂民部って隆景の部下であってるのかな?
本家の人? 桂姓は吉川にもいるんだよなー。

井上さんもかっけーな。
「無理そうだったら城空けて戻っておいで」って言われてるのに、
和睦の後まで持ちこたえるとか……でもいるよね、こういう人!
律儀で意地っ張りで。もー、家臣団まじで可愛いな!

そんなわけで次も続きだす~。
2012-05-04

隆景、いかる

イヤッホウゥゥ! このGWにまさかの出会いが!!!
明日デートだヘヘイヘ~イ♪
ついったで知り合った方々だから正確には出会いじゃないかもだけど、
お顔を拝見してお話できるのは楽しみでしかたないぜ!!!
皆さん道中気をつけてね。心の底から安全を祈っています(西国から関東へバス移動らしい)!

さて今回の陰徳記。
流れとしては、秀吉が高松城に押し寄せたけど、地形が邪魔して城攻めできない
→そうだ、水攻めしよう!
ってことで窮地に陥った高松城。
因幡攻めの準備をしてた元春も隆景に呼びつけられたよ!
反対する者もいたけど、元春は駆けつけたよ!


高松の城を取り囲むこと(下)

羽柴筑前守秀吉は、吉川・小早川が後詰に来たと知ると、
二万余騎を分けて後詰のために陣城を構えて入れ置き、残る六万余騎は、次々と堤を高く築き上げていく。
水はいや増しになり、たちまち高松の城中にまで入ってきた。
兵たちは矢倉に上り、または木の枝にすのこを敷いて逃れる。
この有様は、三災壊却のなかでも、水災が二禅天を破ったのもかくやと思うほどのものだった。
巨霊神ではないので、山岳を撃破して洪水を西へ流す手立てもない。
昔の童男丱女(徐福伝説)は船の中でいたずらに老いていくことを悲しんだが、
現在の城中の若者や老人たちは、空しく水の中に溺死して、魚の腹の中に葬られることを嘆き、
巣父鳥窩の樹上の住居とは打って変わって、ずいぶんひどい有様だった。

城中から水練の得意な者を使者に立て、このことを告げてくると、
元春・隆景は、どうにかしてこの堤を破壊しようと策を練った。
しかし敵は大軍で陣の構えも堅固だったので、これ以上近づくこともできずに、刻々と時間が過ぎていく。
そのうちに水かさはますます増し、城中はこれ以上ないほどの難局に立たされた。

こうしたとき、日幡の城に入れ置いていた上原右衛門太夫元将が心替えをして、
城主の日幡六郎兵衛尉を討ち果たし、秀吉の勢を引き入れた。
この上原は隆景・元春の妹婿であったので、二心を抱くことなどまったく心配していなかったがゆえに、
日幡の城に入れ置いていたのに、こうした振る舞いをするとはひどい話である。

元春・隆景がこのことを知ると大いに怒り、
「日幡の城に敵の足をとどめさせておくものか。まずあの城に切りかかって追い落とそう」と言い出した。
国人たちは安国寺恵瓊を通して、
「日幡の城をお攻めになれば、秀吉はその隙に乗じて、猛勢を率いて攻めかかってくるでしょう。
味方は小勢です。十中八九は敗北します。もう少し熟慮なさってください」と諫言した。

元春・元長・隆景は、
「日幡を攻めようというときに、秀吉がその流れに乗って合戦を始めるのであれば、それこそ好都合だ。
敵は猛勢で陣城は堅い。柵を結い、溝を深くして、こちらへ派手てこないのだから、
こちらも手の出しようがなかった。
ああ、皆の言うように、秀吉が我らを小勢と侮って、一戦しかけてくればいいのに。
そうすれば、ただ一挙のうちに存亡をかけて戦ってやる」と答えた。

こうして、日幡は隆景が「他の者に任すところではない」と、備後・備中の勢を差し向けた。
この方面は宇喜多の勢がいて、羽柴美濃守秀長が後ろを詰めている。
もしこれが懸かってくれば、隆景が旗本を率いて一戦し、また秀吉の旗本から後詰があれば、
元春・元長・経言父子三人が駆けつけて一戦することに決まった。
諸卒は「今日こそ京勢の武運が尽きるぞ」と思って、
我先にと駆け向かい、分捕り高名してやろうと勇気を励まし、敵が出てくるのを今か今かと待ち受けていた。

隆景の手勢から、備後・備中の勢が、鉄砲一千挺を先に立て、入れ替わりながら日幡の城に撃ちかける。
そのまま乗り破ろうとするのを見て、日幡に籠もっていた備前の長船・市・福田は、
秀吉から検使に入れられた木村隼人祐をはじめとして、鉄砲競り合いに打ち負けて、
日幡の城を空けてもとの陣に帰っていった。
やがて日幡の城に放火すると、中国勢は引き揚げていった。

このとき、備前の宇喜多家の郎党が、羽柴美濃守にこう進言した。
「敵は小勢で、しかも日幡の城を攻めております。ぜひとも後詰して一戦なさってください。
その先陣に備前勢一万七千余騎がおりますので、この勢で切ってかかれば、
お手勢に骨を折らせたりはいたしません。きっと小早川の手勢を押し崩してみせます。
元春の手勢に関しては、秀吉の御旗本から勢を出して抑えていただければ、
吉川はもとから少勢なのですから、かかってきて一戦することはないでしょう。
ただ自分の陣を破られないようにすれば勝だと思って、控えていることでしょう」

美濃守はこれを聞いてもっともだと同意し、秀吉へと使者を送ってこの旨を言い送る。
秀吉はにっこりと打ち笑い、
「一戦していい結果が出るのなら、宇喜多の家人などに教えられて気付くような秀吉ではないわ。
わしは思うところがあって、今日の合戦はしないのだ」と、
日幡の味方が撃ち立てられ、散々に追い立てられるのを、何もせずに遠くから見ていたのだった。

後に秀吉が天下の権勢を掌握したときに、このときのことをこう言った。
「先年、吉川・小早川が日幡を責めたとき、かかって一戦していれば、
わしが勝利を得られたのは明々白々だったわけだが、
敵が小勢だというのにわざわざ城を攻めるのは、この秀吉に勝機だと思わせ、
うかうかと懸からせて十死一生の合戦をしようという胸懐なのだろうと、吉川・小早川の謀を察したのだ。

もしわしが数に任せて一戦した場合、中国勢が心を合わせて無二に戦えば、
わしが却って勝利を失うかもしれない。
狸が豹を打ち負かすことだってあるのだ。
高松の城さえ攻め落とせば、敵はおのずと退散するというのに、
危ない一戦をしても意味がないと考えたから、できる合戦をしなかったのだ。

また十の内十が勝利と決まっていたとしても、それでも合戦はしなかっただろう。
それはなぜかといえば、高松で一戦して、吉川・小早川を討ち果たしてしまえば、
毛利家は一月のうちに滅びて、長門まではバラバラとこの秀吉の手に入ることになる。
木曽義仲は、源寄頼朝に先立って都へ入り、平家を西海へ追い落とし、
かえってまた源頼朝に目をつけられて身を滅ぼした。
韓信は戦えば勝ち、攻めれば取るの武功をあげたが、高祖の天下を奪えるほどの器があったからか、
ついに高祖に殺されてしまった。
狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る。また敵国を滅ぼして謀臣亡ぶ、とも言う。
わしはこれを思って、たとえ百度戦って百度勝とうとも、自分一人だけの判断で戦を決しなかったのだ。

信長を引き出し、わしが先陣として信長の下知を守って一戦し、
そのうえで毛利家を退治したいと考えたからこそ、そのときに合戦をせず、
味方が多く討たれるのをただ見ていた。
わしの深慮を知らない者は、勇が不足していると思うだろうから、
これは口惜しいけれども、大行は少瑾を顧みず、というから、そのまま打ち捨てておいた」
と言ったとのことだ。


以上、テキトー訳。

今回一番驚いたのは、元春・隆景に妹いたの!?ってとこだな。
五龍局さんは姉ちゃんだしな。
ウィキペディアに載ってなかったのと、これまで調べてた中にそんな存在いなかったから、
まじ「いたの? 正矩の間違いじゃなくて???」ってなりまった。
旦那の名前で検索かけると、元就の娘婿って出てくるので、やっぱいたんだろうなー。
女子は存在確認が大変で困るわ。

でもって、妹の旦那が裏切って青筋ビキビキになる隆景が脳内で滾って大変だったwww
他の手を借りるまでもなく自ら出るとは。相当怒ってるぞ~~♪
上原はどうなったんだろうな。景様に膾に刻まれたか……。

あと毛利家の数段構えは惚れ惚れするね。
先陣:隆景の手勢
口の後詰の押さえ:隆景本隊
敵本隊の押さえ:元春本隊
敵を騙すための控え:輝元本隊
見よ、この鮮やかな連携プレーを!!!
数が少なくったって、知恵絞ってるんだねぇ。
こういう戦略大好き。

さて、明日は急遽、西国毛利クラスタのお嬢さんたちとデートなので更新するかわからないけど、
次の章は別方面の攻防戦の様子だよ!
2012-05-03

この元春だけは

今日は雨のなか、佐倉の国立歴史民俗博物館に行ってきたよ。
念願の「洛中洛外図屏風と風俗画展」見てきた。
お子様が多かったよ……慣れぬorz
そして企画展より常設展示のほうが面白かった。
また行きたいな。今度は佐倉城跡見学もしたい。

さて陰徳記、今回はいよいよ高松城の戦いに突入!


高松の城を取り囲むこと(上)

羽柴秀吉は高松の上龍王山へ総勢を上げ、八万余騎の軍勢を分けて、高松の城を十重二十重に取り囲んだ。
城中にも雑兵たちが五千あまり籠もっていたので、敵がかかってきたら万死一生の合戦をしようと、
城の外に出て鉄砲を頬に構え、足軽を出して敵を招いたけれども、
秀吉が堅く制しており、合戦にはならなかった。
この城は、人も馬も通りづらいほどの深い田や、底があるかどうかもわからない水に満ちた池に囲まれている。
地形は厳しく兵は意気軒昂なので、力攻めにしてもなかなか落ちるものではないだろうから、
秀吉はしばらくの間竜王山に陣を張って、この城をどう落とすか、策を練っていた。

秀吉は同(天正十年)五月七日、蛙ガ鼻へ陣を移すと、翌日の八日から、
広さ三十間・長さ二十一里あまりに及ぶ堤を築き、兄部川を引き込んだ。
水たたきの方には大竹を割って当て、大盤石を積み上げた。
たちまち水がたまって、君山春水の眺望もかくや、というほどになっていった。
いつでも水が洋々と流れている兄部川の流れを引き込んでいる上に、
折りしも五月半ばで晴れ間もなく、雨ばかり降って谷の水は増す一方だ。
高松の民家もすべて水底に沈み、植え並べた木すらも波が越えて、魚も梢に上る。
裾野の水はたちまちのうちに峰まで平らに満ち、隠れ住める場所もないので、兎も波の上を走る有様で、
「緑樹陰沈み、月海上に浮かぶ」という昔の詞が思い出されて、
修羅に直面したような気分になった城中の人々の心を慰めるよすがとなった。

秀吉は大船三艘を担ぎ入れて、小西弥九郎・浅野や兵衛尉を警護大将として、
台無などの大筒を間断なく放ちかけ、昼夜の境もなく、喚き叫んで攻め寄せる。
主客相打って、山川は震眩した。声が河川を裂き、勢いは雷電を崩すかのようだった。
それでなくても真っ暗で、一寸先も見えないような皐月闇だというのに、
雲は地に下ってきて、その色も真っ黒でほとんど何も見えなくなった。
ただ入相の鐘が夕刻を告げ、鶏の声で暁を知るばかりで、
生きながらにして長夜の闇に迷い、修羅道の苦しみを身に受けているような気分になって、
ずいぶんひどい様子だった。

清水は日ごろから勇気・智謀が人より優れていた者なので、
高松の町中にいた紺屋を点検して紺板を集めると小舟を三艘作って、たびたび打ち出ては戦った。

さて高松の城が難局に直面しているとの注進が届くと、隆景は大いに驚いて、輝元様にこのことを報告した。
そして元春にも「備中表へ急ぎ出てきてほしい」と言い送った。
元春・元長はそのころは伯耆にいて、「因幡へと発向して敵城を攻め落とし、
鳥取を奪われた遺恨を散らそう」と言って、その準備を進めていた。
因幡の国人のなかには味方に志を通じる者が多数いて、
「合図を定めて鳥取の城に火をつけよう」と言っていた。
また鹿野の一族、森下・中村・塩冶・佐々木・奈佐の一族たちも国中にいたので、
皆味方として心を深く合わせてきて、元春父子が因幡へとやってくれば、
あるいは裏切り、または城へ引き入れようと約束していた。
だからこそ因幡へと発向することを決めたのに、隆景から高松表への後詰をしてほしいと言ってきたので、
「それなら備中で秀吉と合戦しよう。秀吉が備中で敗軍すれば、因幡の敵城は攻めずとも落ちる。
大事の前に小事にこだわるのは謀をしていないようなものだ」と、出雲・伯耆・石見三国の兵を整えた。

しかし、三ヶ国の国人たちは皆同じように言うのだった。
「隆景は自分の支配下の城に北前の兵の協力を受けていますし、また上月に元春を引き出しましたが、
去年伯耆の馬野山へ秀吉が出張りしてきたときは、特に元春公その人が危機に直面しているというのに、
出雲の冨田まで出てきておきながら、馬野山にはいらっしゃいませんでした。
自分が難儀しているときには雲伯石の者たちを呼び出し、また馬野山のような十死一生のところへは、
ご自身ではいらっしゃいません。
人を、ややもすれば敵の檻に放り込むようなことをしておいて、
自分は危ないことを嫌っていらっしゃいます。
なので、私たちは皆、今回高松表へ出て行くことはできません。
面々の受口のことでしょうから、隆景は高松表で秀吉と対陣すればいいんです。
皆は元春のお供をして因幡へと攻め入り、鳥取は名城なので攻めても容易には落ちないでしょうから、
まず私部・鬼ヶ城などを攻め破り、鳥取を奪われた鬱憤を晴らしましょう」

元春様はこれを聞くと、
「皆の言うこともわかるが、この元春が思うには、隆景がどうして元春を捨て、
自分一人だけが助かるようなことをするだろうか。
馬野山のときに冨田に控えて出てこなかったことも、きっと理由があるのだろう。
それを尋ねていないから理由は知らないが、皆が何と言おうとも、
この元春だけは、毛利家のために身命を捨てようと、無二に覚悟しているのだ。
どんなに強い敵にも、難しい局面にも、千度でも百度でも馳せ向かうつもりだ。
人々は同心してくれなくても、私はただ一人備中へと上って、安危を隆景と一緒にしようと思う」と言った。

雲伯石の国人たちは、この一言の道理に感服し、
「先ほどは言い過ぎました。そういうことならお供いたします」と言った。
三沢三郎左衛門為清・その子息の摂津守為虎・三刀屋弾正左衛門などをはじめとして、
出雲・石見の者たちはすべて連れて行ったが、
杉原兄弟・山田出雲守・小森和泉守・河口刑部少輔・福頼刑部少輔・小鴨四郎次郎、
そのほか伯耆の者たちは、南条の押さえとして、また因幡口の押さえのため、各所の城に残し置いた。
高松へと馳せ向かう軍兵は一万騎以上にはならなかった。

隆景も、備中半国・美作半国の兵は、境目の城に籠め置いていたので、一人も出すわけにはいかない。
長門の兵は半分以上を大友の押さえとして、下関などの城に残し置いている。
周防の兵も、山口の鵠の峯・右田ヶ嶽・冨田の若山、そのほか南表の海辺の城々は、
これも大友の押さえのために動けずに、皆自分の城に籠もっていた。
隆景が今回催した軍兵は、備後・安芸はすべて催促して、周防の三分の二、
長門の半ヶ国の勢だったので、軍勢が従来よりも少なくなった。

こうして元春父子三人と隆景が合流すると、合計で三万余騎になり、
岩崎の庇山あたりへと打ち出して陣を据える。
右馬頭輝元様は、三里隔てて、その国の猿懸の城に控えていた。
これは、秀吉が八万有余の勢を率いているのに対して、
輝元が自ら出てきたとしても、現在の勢に千か二千が増えるだけなので、
敵は「毛利勢はたったこれだけか」と思って、さらに勇気を励ますだろうと考えた上での処置だ。
まだ輝元が猿懸に控えていて、もし味方が劣勢になれば後ろから大軍を率いて打ち出してくるぞと、
しばらくは敵の勇気を抑えるために後陣に控えている。
そうすれば敵は用心深くして、また味方も、もし敵がさらに増えて大勢になったとしても、
輝元様が防長などに残っている兵を動員して駆けつけてくれるだろうと、心強く思うはずだ。
その謀略のために、こうして後陣に控えていた。


以上、テキトー訳。続く。

なんつーか、水攻めされてんのに「魚が梢に上り兎が波の上を走る」とか、とっても詩的。
でも水攻めってすごいよな、発想が。この時代の土木技術でダム作ってるんだもんな。
ホント秀吉の発想と土木技術の活用には舌を巻くわ。

でも今回の私の頭が煮えた部分はここではなく、元春の台詞な。
雲伯石の国人たちの隆景disにも滾る!
国人「いやです! だってあの人、危ないところは人任せにして、
   こっちが危なくても助けてくれないじゃないですか!
   秀吉とはあの人が自分で対陣すればいいんですよ!
   私たちは元春と一緒に因幡を攻略するんですー>皿<=3」
元春「いやアイツは兄貴見捨てるようなやつじゃないって。何か理由があったんだよ。
   俺は何があっても毛利に尽くすと決めたから、たった一人でも高松に行くよ」
国人「それなら私たちもついていきますー>A<ノ」

もうな、このやりとり、大好き! 元春かっこいいぃぃぃぃぃ!!!
国人衆からの好かれっぷりがもうステキ。ステキすぎる。
アニキと呼んでもいいですか……

あと輝ちゃんは臆病で出てこないんじゃなくて、総兵数を多く見せかけるための謀略なんだからな!
そこんとこ勘違いすんなよな>A<ノ

てなわけで次回も続き。
2012-05-02

うごめく高松近辺

ここんとこ毎日更新ができなくていつの間にか気力も削がれてるけど、
GW中はがんばる! 毎日更新する!!! いいかげんリズムつかもうぜ、私!
とりあえず四連休だヒャッホーイ! 佐倉行きたいよ佐倉!

とまあ心の箍がユルユルになってるけど陰徳記。
今回は備中高松城での攻防の直前のお話だね。


羽柴秀吉、備中の国発向のこと

右大臣信長公は、今年(天正十年)の春に甲州へ攻め入り、
武田四郎勝頼を対峙し、武田父子の首を獄門にかけた。
そのほか一族郎党をことごとく討ち果たしただけでなく、快川和尚をはじめとして、
位の高い僧侶を多数焼き殺し、それを「気分がよい」と喜んで、安土へと引き揚げていった。

北条氏政は先年から味方に属していたので、東は奥州の果ての津軽合甫まで、皆幕下に属していた。
今は長尾喜平次景勝だけが、わずか越後・佐渡を領有して、信長に従わなかったので、
柴田修理亮・佐々内蔵助・惟任五郎左衛門に二万騎を添えて、景勝を成敗するために差し向けていた。
景勝はわずか三千の勢で迎えうち、先陣の柴田、二陣の惟任には目もくれずに、
川を渡して後陣の佐々に打ってかかって切り崩した。
柴田・惟任は後ろを包囲して攻め寄せてきたが、
景勝は取って返してそれを突き崩し、数十町も追い討ちにした。

なので、その三人は信長に「景勝討伐においでください」と申し入れた。
しかし今は羽柴秀吉が中国に向かっている。当然毛利三家が後詰してくるだろうから、
わずかな兵では太刀打ちできるはずがないと、強く訴えてきていた。
信長は安土に引き揚げて待っていたので、先にこちらに加勢し、中国を支配した後に長尾を滅ぼそうと考え、
越後へは加勢を送らず、中国征伐に専念すると決めた。

羽柴筑前守秀吉は、備中・備後を切り従え、
右府信長公が到着するまでに一働きしようと、播磨の姫路の城を出た。
すると、播磨・但馬・因幡の兵たちが雲霞のごとく集まってきた。
信長から摂津勢並びに畿内の兵を援兵として差し添えられていたので、総勢六万騎にも及んだ。

また、宇喜多和泉守直家は去年死去している(天正九年二月十四日、享年五十三歳)。
嫡子の八郎秀家は当年十一歳なので、岡山の城に残し置き、
叔父の七郎兵衛尉忠家・戸川平右衛門・同肥後守・明石飛騨守・その弟勘次郎・長船紀伊守・同吉兵衛尉・
岡越前守・同平内・福田五郎左衛門・延原内蔵丞・同弾正忠・市三郎兵衛尉・同五郎兵衛尉・
芦田五郎太郎・小原入道新明・沼本新右衛門・宇喜多河内守・冨山半右衛門・沼波隼人入道如慶・
宮本四郎左衛門・同太郎兵衛尉・川端丹後守・小瀬中務少輔・明石四郎兵衛尉・中吉平兵衛尉・
延原六郎右衛門・宮本太郎右衛門・牧藤左衛門などをはじめとして、
播磨二郡、備前一国、備中・美作の両国では半国分の兵、およそ二万騎が先陣に進み、
天正十年四月上旬(十四日)、備中の国の宮路山の上にある渋櫛山へと攻め寄せて、
同日の夕方にはその勢はことごとく打ち入った。

宮路山(かわやが城)には隆景から乃美少輔七郎(弾正忠景興)が籠め置かれていたが、
敵方から城を明け渡すようにと強く言い送られると、すぐに(五月二日)空け退いてしまった。
冠山には清水長左衛門(宗治)の与力、
林三郎左衛門(重真)・鳥越左兵衛尉・松田左衛門などが籠もっていた。

秀吉は同十二日から同二十五日まで高松表に陣をすえていたので、
備前勢は「宇喜多勢が冠山を攻め落としてご覧に入れます」と強く申し出て、秀吉から許しを得た。
備前勢は四月二十五日の卯の刻、二万余騎で攻め上っていった。
はじめは「この程度の城などどうということはない」と侮って、一気に乗り破ろうと勇み進んで攻めていたが、
城中の兵たちが弓・鉄砲を間断なく撃ち出し、大敵にも少しも怯まず防ぎ戦ったので、
さしもの備前勢も怪我人や死人が多数出ると、最初の威勢はどこへやら、
竜頭蛇尾となって、一度にさっと引いていった。

城中の兵たちは大敵をしのぎ、勝利を得て、大いに喜んで休んでいた。
鉄砲の火縄を柴垣にかけておいたのだが、これは夏のはじめのことだったので、
照りつける日差しも強く、結い置いてしばらく時間がたった柴垣にはまったく湿り気がなかった。
からからに乾い柴垣など、ただでさえ火がつきやすいのに、
そこに風がサアッと吹いてきて、籬にカッと火がついた。
兵たちが「あれはどうしたことだ」と慌てているうちに、あたりにあった藁屋に燃え広がり、
すぐに猛炎が空中に迸る。
城中の兵たちは、劫火が世界を焼き滅ぼすときが来たのかと驚いて、呆然としていた。

宇喜多の勢は、「おっと、城に火がかかったぞ。
きっと城中にも逆心のある者がいて、火をかけたに違いない」と、
取るものもとりあえず、皆我先にと攻め入った。
城中の兵たちは、それでなくとも多勢に無勢でかないようもなかったというのに、
敵は火の手を見て喜び勇み、味方は炎に咽て目は霞み戦う心もうせていたので、
たちまち正面の城戸を攻め破られてしまった。
これではもうかなわないと思ったのだろう、名を恥じて義を思う者たちは一歩も引かずに、
向かってくる敵に走りかかって次々と討ち死にしていく。
雑兵たちはあちこちへ逃げ散っていったが、これも追いかけられて多数が討たれた。

そのなかで、林三郎左衛門尉・鳥越左衛門尉・松田左衛門尉は、
これまで何度も勇を顕してきた者たちだったので、
団結して一方を打ち破り、高松の城へと入っていった。


以上、テキトー訳。

オイ正矩、宇喜多勢の人員が詳細すぎないか……?
と思ったけど、吉川は宇喜多家から嫁を迎えてるから、
そりゃ嫁さんが当然宇喜多家中の人を連れてきてるよね。
岩国に移封された後も、旧宇喜多家臣だった一族がついてきてたはず。
たぶんそこらへんのつながりで、こういう場面も詳しいんだろうな。

しっかし冠山、守備の手際や威勢はいいのに、火縄の取り扱いで事故って自滅とか……まじ……orz
いやホント火の取り扱いは気をつけなきゃいけないよねっていうかwww
これは笑い話として読むべき話なんだろうかと逡巡してしまうわ。

さて次回はいよいよ秀吉が高松城を取り囲むようだよ!
検索フォーム
カレンダー
04 | 2012/05 | 06
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
訪問者数