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2012-06-29

城主の様子に気付いた人々は……

これまでのあらすじ:
立花城主の立花何某は最愛の妻を病で亡くし出家遁世したが、ある日出先で見初めた女を強奪した。
この女は塩売り弥太郎の妻で、どうにか連絡を取り合えた夫とその伯父の助力により、
立花を酔いつぶしてから殺して、敵対勢力の宗像の領地へと逃げおおせた。

最初に言っておくけどオチがひどい。


塩売弥太郎、立花を殺すこと(6)

さて、立花の城では上士・下人ともによく呑んで酔いつぶれていたので、
こんなことがあったとは夢にも知らなかった。
その夜も明け、日の出が過ぎ、正午が過ぎても立花が閨から出てこないので、近習の者たちは、
「殿は酔いが過ぎたのか、まだ起きていらっしゃらない。ご機嫌はいかがだろう。
誰か起こしてこい」などと言い合っていたが、
侍女たちも「奥様もまだ出ていらっしゃらない。
私たちも、お二人で寝ていらっしゃるところに参るわけにはいかないわ」などと言って、
年端も行かない子供を遣わして二人を起こそうということになった。

十一、二歳ほどの禿童(かむろ)を行かせ、「ご機嫌はいかがでございますか」などと問いかけさせたが、
禿童が帰ってくると、「殿はどんなに起こしても、起きてくださらないのです。
ただ、御首はどこへおいでなのか、お留守でした」と報告した。
侍女たちは「なんてことを言うのでしょう、忌々しい。御首がお留守とはどういうことです」と問う。
禿童は「いや、御首はあたりに見当たりませんでした」と言うので、
「どういうことだろう」と驚き騒いで見に行くと、夜具や衾まで皆真っ赤に染まり、
枕がそれに浮かんでいるような情景は、目も当てられぬ有様だった。

「これは何としたこと。御台所は?」と探しても、どこにも見つからない。
「何ということ。彦山に住んでいるという豊前房という天狗が、
御台所を掴んで天に連れ去ってしまったのかしら。
大江山の奥にいる酒呑童子などという鬼も女を攫うというから、そうした化け物の仕業かもしれない。
きっと殿の首は鬼に食われてしまったのだわ」などと、侍女たちは口々に言って嘆き騒いだ。

家之子郎党たちもこれを聞きつけて、
「これはおそらく宗像・高橋たちが夜討ちに忍び込んだに違いない。
それならば、すべての門は守り固めているのだから、まだ城中に隠れているはずだ。
討ち取れ、探せ」などと言う者もあり、
また何の思慮もなく立花の寝所に立ち入って、命の火が消えてしまった死骸にすがりつき、
声を限りに泣き叫ぶ者もいた。城中は上を下への大騒ぎになった。
誰かが「この機に乗じて敵に城を取られぬようにせねば」と言い出すと、我先にと城中に立て籠もる。
しかし思い思いに駆け込んでいったために、甲の丸には弓・鉄砲の足軽たちや郎党が立て籠もってしまった。

そこで一族たちが、「甲の丸には一族が籠もるものだ。雑兵たちがいるものではない。
早く二の丸、三の丸の城戸へと行け。入れ替わろう」と言うと、
雑兵たちは、「この城には大将がいらっしゃいません。早く入った者が本丸を守ります。
甲の丸に入りたければ早く駆け込んでくるべきだったのに、そうせずに、
入れ替われなどとおっしゃっても遅すぎます。
これまでの、元旦・節句の儀礼のときのような座敷での上下関係のようなものは、
ここにはありません」と憎々しい調子で返してきた。
家之子郎党たちは、「これは傍若無人な返答だ。そやつらの首を刎ねてしまえ」と怒り出し、
城中は敵味方に分かれて同士討ちに発展しそうな気配だった。

こうしたところに、宗像が三千騎を率いて押し寄せてくると報告が入ったので、城中は一旦はまとまった。
しかし大将がいないので下知もできないうえ、
ましてや今は内部で分裂して喧嘩騒ぎが起きるようなときである。
まともな抵抗もできず、皆自分の思うように勝手に逃げていった。儚いものである。

宗像はすぐに兵を置いて立花の城を守らせた。
大友はこれを聞いて、大勢の兵を送ってまた城を奪い取り、
その後立花弥十郎・臼杵新次允・田北刑部少輔・同民部大輔・鶴原掃部助、
そのほか主力の兵を八百余騎、雑兵を三千七百余り差し籠めた。

ある説には、豊前の長野が庄屋の女房を盗んで夫に討たれたとも、
また秋月が臼井の門名という者の女を盗んで討たれたとも伝わっている。
どの説が本当なのかわからないが、世を挙げて言い伝えられている説にのっとれば、立花のことだろう。

円悟和尚は『碧巌録』の第一則の、武帝が達磨大師との問答を評して、
「志公は天監十三年(514年)に亡くなり、達磨は普通元年(520年)にやってきた。
その間七年も隔てているというのに、どうしてこの二人が同時に会うことなどできるのか。
これは間違いだろう、と言う人もいるが、しかしそのように載せている書物もあるのだから、
今論ずる問題ではない。大事なのは、この物語の本質である」と言っている。

また陳舜愈は「廬山記」で、「慧遠法師は陶元亮(陶淵明)と陸修静を送っていく道すがら、
ついつい話し込んで、隠棲するつもりだったので二度と渡るまいと心に決めていた虎渓を
うっかり渡ってしまった。三人はそこで大いに笑った。
この『虎渓三笑』は絵の題材として好まれている。
宋景濂は三笑の事跡を調べて、陶・陸・遠法師の三人は、生きていた時代が重ならないので、
三笑の話は事実ではないと指摘した。
しかし、気の合う友と話して夢中になってしまうのはよくあることだ。
だから人々はこの話を信じる」と言っている。

だから、先に取り上げた立花・長野・秋月に関しては、あえて姓名を究明せず、
ただ好色さが身を滅ぼし城を奪われることを世の人に示すにとどめる。
以後の人が前車の轍を踏まなければよい。


以上、テキトー訳。おしまい!

Σ(゚Д゚) 立花のことじゃないかもしれないの!? なにそのオチ!
ひどい、正矩ひどい!!! このオチじゃ毛利大友大戦争のきっかけにならないじゃん!
「これを教訓に好色を慎むんだよ」とかドヤッてる場合じゃないよ正矩www

そして何かおかしい。うん、侍女たちは夫婦の寝室に行くなんてとんでもないんだよな。
これにもちょっと驚いたけど、あられもない姿かもしれないからだろうか?
そこでどうして子供を行かす? ちょっと現代感覚だと意味わかんない。
そんでもって11歳か12歳くらいっつったら、第二次性徴が始まるころなんじゃないのかなぁ。
あんたらそんな子に……殺生やでぇ。
そして10歳過ぎると子供でもだいぶしっかりしてくるし、死も理解できるはずだから、
「御首がお留守」なんてすっとぼけたこと言わない気がするんだよ。激しく違和感。
でも血に染まった寝室と立花の死が判明した後の描写がいやに生々しいので面白かったw
死骸にすがって泣いてくれる人がいたんだね。よかったね。

まあ立花城のゴタゴタで毛利と大友の戦争に発展するんだね(強引)。
次章から戦争に突入だぜ! 待ってました!!!
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2012-06-28

立花城宴の始末

さてさて最近生活が荒んでいるわけだけど、ちびちび陰徳記。

これまでのあらすじ:
愛しい女房を病で亡くした立花何某は仏門に入り後室を迎えなかったが、
あるとき出かけた先で見かけた女を一目見るなり気に入り、手勢に攫ってこさせた。
女は、塩売り弥太郎の妻だった。


塩売弥太郎、立花を殺すこと(5)

弥太郎はそれと知らず、塩を売りつくして夕方に自分の家に帰ってみてみれば、
いるはずの女房が、どこへ行ったものか、見当たらなかった。
最初は、きっと近くに出かけているのだろうと、女房が帰ってくるのを待っていたが、
どんなに待っても女房が戻ってこないので、近所の者たちに女房の行方を知らないかと訊いてまわった。
しかし杳として行方は知れなかった。
弥太郎は、「これはいったいどうしたことか。
天狗や木魂などという恐ろしい妖怪が連れ去っていったのだろうか。
人であるなら、商人や盗人などといった一癖も二癖もある者がかどわかしていったのだろうか」と、
鬼に一口に呑まれてしまったような気分になって、足をすり合わせて泣いた。

そうしてばかりもいられないので、また塩を売り歩いていた。
さて、その女房は立花の城に入ってからは、夫の面影ばかりを思い出して忘れる隙もなく、
浪の上に小舟がゆらゆらと浮かぶのを見るにつけても悲しさばかり募っていった。
「こんな幸運にめぐり合ったからといって何ができるのだろう。
玉の輿も、八重垣茂る立派な宿もいらないから、夫婦で一緒にいたいものだわ」と思い沈んだ。

あるとき矢倉まで出て四方の山々を眺めていると、
「夫の弥太郎は自分の妻がここにいると知らずに、私の行方をあちこちに尋ねまわっているかもしれない」
と考えてまた悲しくなる。
どうにかしてもう一度会いたいと嘆き、
「もしかしたらあの山の向こうに夫がいるかもしれない。あなたがいる方向が恋しい。
雲よ、隠してしまわないで」と独り言を呟いていた。
するとそこへ、いかにも無骨そうな声がして、「塩売らー、塩売らー」と客を呼ぶ声が聞こえてきた。
疑いようもなく夫の弥太郎の声である。
女房は、「これはきっと出雲の神のお引き合わせに違いない」と嬉しくなって、
すぐに走り出ていって夫を呼び止めたいと思ったが、さすがに人の目がたくさんあるので、
吉野の山のなかに流れる妹背川で激しい波に夫との仲を引き裂かれるような気持ちがして、
涙に咽ぶしかなかった。

けれどもこれで諦めるつもりもなかったので、小篠という下人に言いつけて、
「あの塩売りから塩を買いたい。明日当城の裏方へ来てほしい」と伝えさせた。
弥太郎は大喜びして、翌日に塩を一荷担いで城の中へと入ってきた。
その小篠という下人がすぐに出てくると、塩を受け取って内に入り、その塩籠に米を目一杯詰めて返してきた。
弥太郎は、「これは塩の価格の十倍に当たる。受け取れるものではない」と断ったが、
小篠は、「いいから取っておきなさい。また明日もおいで」と言った。
弥太郎が不思議に思いながらも家に帰って見てみると、米の底には銭が百疋も入れられていた。
「さっきの城の女房は、きっと人に福を与えてくださる弁財天、
もしくは毘沙門天の妹君の吉祥天女などの化身なのか。私が困窮しているのを助けてくださった」と、
じっとしていられないほどの喜びようだった。

また翌日も塩を一荷担いで昨日のように持っていくと、また同じような対応だった。
「またおいで」と言われたので、弥太郎は三日目も続けて通った。
するとまた同じように対価を与えられ、自分の庵に帰って米を取って見ると、
入れ物の底に、なんて書いてあるのかはわからないが、一枚の紙が入っている。
「これはきっと文というものだろう。何かわけがあるのだな」と考えて、
三里ほど離れたところに住んでいる宗六という伯父のところに行って読んでもらおうと、
文を懐に入れて伯父のところへと尋ねていった。

伯父が文を手にとって、「いったい何があったのだ」と尋ねてきたので、
弥太郎はあったことを包み隠さず語った。
伯父が文を開いてみると、弥太郎のもとからいなくなった女房の文だった。
読んでみると、あったことがすべて書かれていて、その末尾には、
「もし弥太郎が本望を達しようと思ってくれるならば、来る九月九日は我が氏神の祭りの日なので、
酒を振舞って、立花殿、そのほか家之子郎党たちを酔いつぶします。
そのとき、懸け出しの雪隠の下まで忍んできてください。
時をうかがって小篠を遣わすか、そうでなければ私自身がそこまで行って、道案内をいたします。
そのとき館に忍び込んで、敵を討ち取ってください。
もしまた、男の心と川の流れは一夜にして変わるのが世の常ですから、
私との妹背の契りを断って他の妻を迎えようとお思いなら、それは仕方ありません。
しかしながら、私の心は、曇りなき鏡の神もご存知のように、
重きが上の小夜衣、あなた以外に夫はいないと思っております」と、実に情愛深く書き綴られていた。

伯父の宗六はあふれる涙をぬぐい、
「おまえのような賤しい男に操立てして、この国に肩を並べる者がいない立花殿にも情を移さず、
貞女の道を守り通すとは、稀有な心栄えの女だ。ここから先は弥太郎の意思次第だぞ」と言った。
弥太郎は「これこそ私が望んでいたことです。
忍び込んで易々と敵を仕留め、これまでの遺恨を晴らしたいと思います。
このとおり返事を書いてください」と答えた。
伯父が返事を書いて弥太郎に渡すと、また塩の筒に入れて以前と同じように城中に入り、
小篠という下人に渡した。

さて取り決めの日が近づくと、女房は立花に向かって、
「明日は私の氏神の祭日です。私は身分賤しい農夫の娘で、また塩売りの女房でしたが、
今はこれほどお情けをかけていただいて、天にも昇る心地です。
これはひとえに氏神様のご加護のおかげだと思いますので、以前よりさらにありがたく感じます。
ですから明日は神前にもお神酒を供え、また内外の方々にも酒を振舞いたいと思うのです。
どうか私の望みをかなえてください」と言った。

立花は、「これまでは何を考えているのかもわからず、
塩焼衣が打ちしおれたように嘆き沈んでいた様子だったが、いつの間にか態度が変わって、
解きにくかった下帯がするりと解けるように、こまごまと物を言うようになった。
これは嬉しいことだ」と思って、「よいことを聞かせてもらった。
あなたの言うことならば、蓬莱の島にあるという玉の枝、燕がもっているという子安貝であっても
探し出して贈り、願いをかなえてやりたい。酒宴などお安い御用だ」と了承した。

翌九日、立花は「折に逢いたる我が宿の、菊の下露今日毎に、落ち積みつつ淵となるまでも、
変わらぬ契りをお守りください」と、神に三寸を奉じた。
家之子郎党にも酒を振舞い、自身も盃を重ねていった。
あとは舞ったり謡ったりしながら大騒ぎをして、盃の数が増えていくと、夜もだいぶ更けてきた。
肴はすでに尽き、盃や皿があちこちに散らばって、盃を枕に寝てしまう人もあり、
銚子提げを抱えたまま突っ伏してしまう人もいる。また玄関や大庭に寝転がってしまう者もいた。
立花も前後不覚の様子で帳の中に入っていった。

女房は「ようやく酔いつぶれてくれた」と思って、
「殿、欲しい物はございませんか。酔いのさめるお薬などをお持ちいたしましょうか」などと言いながら、
立花の顔に水を注いだり、押してみたり揺すってみたりしたが、立花はまったく起きる気配がない。
ただの屍のようだったので、そろそろいい時分だと考えた女房はさっと忍び出て、
懸け出しの便所に隠れていた二人の者たちを連れて帳の中へと忍び込み、難なく立花を討ち取った。
そして三人は連れ立って城中を忍び出ると、七、八町ほどの道のりを足早に走って逃げた。

前もって宗像にこのことを伝えておいたところ、そのあたりまで迎えの馬を置いておいてくれたので、
女房と伯父・甥はその馬に乗り、宗像へと逃げ込んだ。
宗像にとっては立花は数代前からの怨敵だったので、ひとかたならず喜んで、
この者たちを丁重に匿い、この機に乗じて兵を集め、立花の城を落とそうと考えた。


以上、テキトー訳。あと一回!

なんだかノリが軍記物というより昔話ちっくな感じだけど、
なかなかスリルもあっていいねぇ。
今回気に入ったのは、夫に操を立てた女房でも女房を奪い返した弥太郎でもなく、
物語の鍵を握った伯父さんでもなく、実は
「銚子提げを抱えたまま突っ伏してしまった人」だよ。なんかちょっとかわいい。
酔いつぶれた人たちの描写、面白いなぁ。
こういう飲み会がデフォルトなら、宴会のときを狙って戦を仕掛けることの強みが理解できるなwww
結婚式の酒宴を狙って夜討ち、正月の酒宴を狙って夜討ち、なんて話はゴロゴロあるもんね。

さて次回、立花さん……は死んじゃったから、立花の城中の人々はどうなるんかねぇ。
2012-06-26

人妻奪取の作法

えっと、立花何某が最愛の妻を亡くして泣き暮らしているところまで読んだ。
途中のお経の話はまるっと読み飛ばしてます(*`∀´)、<ペッ マンドクセ
今回ようやくタイトルの「弥太郎」登場だね。


塩売弥太郎、立花を殺すこと(4)

その後立花は出家遁世して、山寺を回り、妻の後生を弔おうと躍起になっていた。
一族郎党たちは、「なんとも嘆かわしいことだ。
昔から軍事に携わる身の上の者が、妻と死に別れたからといって、元結を切り、出家した者がいるだろうか。
もし千に一くらいはその例えがあったとしても、よいことではないと自然に反省するものだろう。
こういうことこそ、北の方が今わの際までくれぐれとよろしくと言い置いていたのだ」と、
あれこれと制止した。

また一族たちは、「独り身でいるからこうして嘆きばかりがいや増すのだろう。
どんな者でもいいから、姿の美しい女を探し出して宛がえば、慰めとまではならなくても、
情が移れば心も変わる世の中なのだから、亡き妻への想いも少しは軽くなるだろう」と考えた。
このことを立花に諌言しても、頭を抱えてしまってなかなか耳にも聞き入れてくれない。
法師のような仙術がないので魂のありかを探し出すつてもなく、
反魂香も焚けないので煙に現れる姿を見ることもできず、
せめて夢でもいいからその面影を見たいものだと枕に頭を預けても、
物思いに胸がふさがって、少しも安眠できない。
日ごろは春の夜の短いのを惜しむものだが、明け方を告げる鳥の声が遅いと言ってはそれを恨み、
なかなか暮れていかない夏の夕暮れ時を過ごすにも、
蛍が明りを点すことすら自分の身になぞらえてしまって、堪えがたい様子であった。
とても哀れなものに思えた。

昼は堤婆品三十三品を読み、夜は阿弥陀の宝号を唱えて、女犯肉食を絶って二年が過ぎたころのことだ。
立花は宇佐八幡宮へ詣でたが、近隣の者たちが見物しに出てきた中に、
この国の植松というところの塩商人の弥太郎という者の妻も友達に連れられてきて見物していた。
この女を一目見るなり、立花は居ても立ってもいられない恋路に踏み惑い、
呆然として、他に目をやることができなくなった。
供にいた侍たちは、「何をそんなにつくづくと眺めていらっしゃるのですか。
もう日も暮れてしまいます。早くしましょう」と諫めたので、立花は仕方なく宇佐八幡へと詣でた。

さて宝前に来ると、鍔口を丁々と打ち鳴らし、
「これまでは武運長久を願ってきたが、今日はそのことではない。さきほど見かけた女のことだ。
袖の涙の雨とのみ、ふるの小篠の霜を経て、一夜の契りを結ばせてほしい」と、
恋慕の情に想い沈んで、礼拝を済ませた。

立花は身近に召し使っている若党を一人呼び寄せて、
「さきほど植松で見かけた女がいる。年齢は二十八歳くらいで、こんな衣を着ていた。
その女がどこへ行ったか、跡をつけて見てきてほしい」と言いつけた。
若党は急いで走っていって見回したけれども、神頼みの験もなかったのか、
どこが女の住まいなのか見分けがたく、
どこに行ったかもわからないので、跡をつけていくこともできなかった。
しかし主人の言いつけをたよりに行ってみてみれば、
その女は植松から二、三町ほど山の方に行ったところに、
松の柱に竹を編んだ垣根をしつらえた、野花の咲く軒の屋根の家、
雨露もしのげなさそうな粗末な小屋へと入っていった。

この若党はすぐに近辺の家に立ち寄って、なんとなく最近の話などをしていたが、
少ししてあの女が入っていった家の主人の名を尋ねた。
その家の主は「あれは塩売りの弥太郎という者の住まいです」と答えた。
若党が「あの女はどんな縁の者だ」と問うと、主人は話し始めた。

「父は下賎の者ですが、母は藤原氏の出身だと聞いています。
祖父の代に、大友のせいで所領を横領されてしまい、このあたりに親しい知人がいるので訪ねてきて、
近年はここで蕨を摘み、田を耕して、露のような命を永らえています。
彼女の母も身分の低い者と一緒になって、あの娘をもうけました。

娘は容姿も美しく心栄えもよかったので、母は身分の高い人に嫁そうと考えました。
母親は、『こうして時代が変わってこの身が落ちぶれてしまっても、
この娘はこの世の普通の人ではないようで、人から心が美しく愛嬌のあるところを好まれて、
そのあたりの人とはずいぶん違うようね。
こんなに貧しいのに、昔の羽振りがよかったころのような心の余裕があって、世間にすれたところもない。
この娘には卑しい家業をさせないようにしよう。願えば幸福がやってくるというものだわ』と、
ずいぶんと世話をしました。

父は、『私たちのような卑しい身分の娘を諸侯大夫の妻にしたいと思ったところで、できるわけがない。
これがきっと世に言う“鼠が娘をもって月を婿に取ると言う”というやつだろう。
似た者が友となるのが世の習いだ。私の婿には、同じような稼業の者こそがふさわしい』と、
強引に娘を塩売の弥太郎のもとへと嫁がせました。

この娘は、期せずして卑しい身分の夫をもったので、手ずから食べ物をとって夫の器に盛ったり、
また幅の狭い麻衣などを解いて洗うときに、気をつけてはいても、
こうした下賤のものの勝手がわからずに、衣の肩を破ってしまったりもしました。
父は、『あれを見てくれ。身分不相応なことばかりを習ってきて、
私のような者が世を渡っていく仕事をまったくわかっていない』と大いに怒りましたが、
母はこれにつけても昔のことを思い出して泣くばかりです。
『見目がよいのは幸福の兆しなのだから、身分のある人に娶わせようとしていたのに』と、
父の計らいを世にも恨めしく思い、いつも嘆いていました。

しかしこの娘は賤しい弥太郎であっても夫婦の礼をおろそかにはせず、あれこれと世話をしています。
その稀有な心栄えこそがありがたいものだと、周囲の者たちは話しております。
これほど容姿が優れた女が、こんな賤しい者の妻となったことがいけなかったのです」と主人は語った。

この若党はそれに相槌を打つと、主君のもとへと帰っていって、このことを伝えた。
立花はそれは嬉しそうに、すぐに宇佐八幡から下向し、若党たちに言いつけて、
弥太郎が塩を売りに出た隙をうかがって、その女房を盗み出させた。
女房は「これはなんとしたこと」と茫然自失した。
「白玉か何ぞ(白玉か何ぞと人の問いしとき露と答えて消えなましものを『伊勢物語』)」
という和歌もこういう状況なのだろうか、「露と答えて消えてしまいたかった」と、
飛鳥井の舎人が問うた昔のことまで、今は自分の身の上に降りかかり、
盗人に攫われるなんあまりにもひどいと、悪夢のなかにいるような気分だった。
娘はどうしても歩こうとしなかったので、若党たちは家の近くにしばらく潜んでいて、
やがて足がつかない馬に乗せて連れ去った。
娘は、王昭君が胡国への旅に出された唐土の言い伝えの昔のことまで、自分の身に積まされるようであった。


以上、テキトー訳。続くよー><

おい立花、最愛の女房と死に別れたら他の女とは添わないんじゃなかったんか。
頭も丸めたくせに、なに一目惚れした人妻かどわかしてんの。かなんわーwwwww
あと神仏に「一発やりたい」って願うのはどうなの。僧侶の姿で何願っちゃってんの。
当主としてとか以前に人としてどうなのwww

やっぱりそれなりに身分があっても、武士ってのは夜盗山賊と似たようなものなのかもね。
夫と別れさせてから妻に迎えるとかじゃなくて、いきなり攫うんだからすげーわ。
これがこの時代のスタンダードな作法……ではもちろんないんだろうが、
それくらいはっちゃけてるというか荒々しいもんでも、別に驚かなくなってきたよ。

輝元の人妻強奪? だから何?
その後お家騒動が巻き起こったりせずにうまいこと収めてるんだからいいじゃない?
同じようなことを繰り返してるわけでもなし、
子供もポコポコこさえてるわけだし、その子達も大事にされてたわけだし、
それはそれで結果的に丸く収まったんじゃねえのって。

そんなわけでこの夫婦はどうなるのか、次回以降読んでいくよー。
てかぶっちゃけ、タイトルに結末が出てる気もするけど気にしな~いΨ(`∀´)Ψ
2012-06-24

仏話ゾーン(未記載)

塩売弥太郎、立花を殺すこと(3)用スペース

内容は後日こっそり補充するつもり。
どうせ全部お経の話だから!
2012-06-24

仏教話キターーーーorz

昨日はイロイロ動き回りすぎて早々にダウンしますた。
益田の資料も少し仕入れてきたから、少しずつ読んでいきたいな。
さて陰徳記……きたよ、苦手な漢文……

これまでのあらすじ:
立花は美人の嫁をもらって終日イチャイチャしていたものの、
相思相愛だった嫁も3年目に重い病で身罷ってしまった。
立花は嘆き悲しんだ。


塩売弥太郎、立花を殺すこと(2)

やがて立花は、万部の法華妙典を読誦し、数百人の僧を集めて醍醐上味を書き写し、
あるいは山や川で殺生を禁じ、または蔵に秘めてあった金銀珠玉の数々を取り出しては
乞食や非人に施しをしたりして、妻の菩提を弔った。

あるとき、どこの宗派かわからない修行僧が一人やってきたので、
立花はすぐに家へと招き入れてあれこれと話をしていた。
立花が「僧殿よ、女人成仏となると、なんといっても浄家に帰依して念仏の功徳、
他力往生ほどいいものはないと聞いている。
しかしながら、私が死に別れた女房は天台宗だったから、法華経を読誦したり写経したりさせたのだ。
女人成仏に関して法華経は、浄土宗の念仏の功に劣らないだろうか。
物を知らない私に詳しく教えてほしい」と問うと、この僧は答えた。

「女人の成仏のことだけではありません。総じて山河大地千草万木に至るまで、皆仏果に至れるのです。
皆自分の宗派を立て、他を論破しようと躍起になって、
八宗十宗また十二宗のすべてが目を怒らせ胸をそらしてあれこれと言っているだけです。
仏一代の説教を五つの派に分け、また大乗小乗の二つの違いを言い立てますが、
いずれにしても成仏は同じことなのです。
しかし女は五障三従の罪が深いので、諸仏にも嫌われて成仏解脱はしづらいもの。

まず五つの障りというのは、一つは、女人は帝釈天にはなりえません。
帝釈天とは勇猛で欲の少ないものなので、男はなれますが、雑多な悪の多い女人は、帝釈天にはなれません。
二つ目は、梵天にもなれません。梵天とは清浄な行をしていて垢や汗はあってないようなもので、
四等の心を修め、四禅を尊ぶことで梵天になれるので、欲深く節操のない女人には到達できません。
三つ目は、女人は魔天にはなれません。十善を兼ね備え三宝を重んじ、二親に孝行すれば魔天となれますが、
軽率で驕慢で従順でなく正教を見失う女人は、魔天にはなれません。
四つ目は、転輪王にもなれません。転輪王は菩薩道を行い、慈悲の心が萌芽して輪王となり、
清らかな行いをするものですから、女人はこの聖帝にはなれません。
五つ目に、仏にもなれません。それは菩薩の心を実践して念というものを絶ち、
無我の人を理解できるから仏なのです。色欲に執着するような女人は仏にはなれません。

また、十悪というのは、一つ目は、女人は初めてこの世に生まれたときに父母は喜びません。
二つ目は無教養なこと。三つ目は常に人を恐れていること。
四つ目は、嫁入りのことで父母を困らせること。五つ目は父母と離れて生きること。
六つ目は夫の顔色をうかがうこと。七つ目は出産がとても大変なこと。
八つ目は、幼いときに父母の監督下にあること。九つ目は、成長すると夫に行動を縛られること。
十には、老いては子孫に従わなければならないことです。

三従というのは、さきほどの十悪のうちの八・九・十と同じですので、重ねては申しません。
大論には、『熱された鉄を目の中に注がれても、散漫な心で女の身を邪視するものではない。
毒蛇や悪龍をその身に突きつけられても、近づいてくる女人に親しんではいけない』と書いてあります」


以上、テキトー訳。まだ続く_ノ乙(.ン、)_

女人成仏の話が出るたびになんかイライラする^^
うるせえ、エビフライ投げんぞ。

それでまぁ、この調子でずっとお経の話が数ページ続くわけだが……
ぶっちゃけお話の進行にそれほど関係なさそうだし、今現在吉川に飢えている私としては、
すっ飛ばして先読みたいんだけど、どうだろう。いいかな? いいよね!?
仏教話用のスペースだけ用意しといて、後で埋めればいいかなって……
そんなふうに思ってるの☆

よし決めた! 私は! 坊さんの演説を! 読み飛ばすぞー!!!
やってられっかバーヤバーヤ!! 後日穴埋めするけどいつになるかなーハハハハハーハァ。

そんなわけで次回、同じ章の坊さんの話が終わったあたりから読むよー!
2012-06-22

リア充が爆発してしまったようです

これまで読んでいた話の時期からいきなり永禄11年(1568年)まで遡る。
ええと、このころはまだ元就じいさまが生きてるころだな。
元春・隆景たちが九州に出征して大友とドンパチをやることになるわけだけど、
今回はそのきっかけになった出来事のお話。

立花城の戦いはずっと読みたいなーと思ってたところなんだけど、
なんかこのきっかけの出来事の話がいやに長い……いつもどおり細切れに読んでいきます。


塩売弥太郎、立花を殺すこと(1)

立花で事件が起こって、毛利と大友が戦争になった。
そのきっかけを尋ねきくと、筑前の国に両立花と呼ばれて久しい国人がいたが、
その庶流の立花の何某の好色のせいだという。
立花は九州第一の美人を妻にして、その寵愛も甚だしく、
昼は一日中ともに語らい、夜となればずっと枕を並べて、かの長恨歌のように、
「天では願わくば比翼の鳥となり、地では願わくば連理の枝となりたいものだ」と二星に誓った。
「我が身の上に白波の、塩ならぬ海が七度まで芦原となったとしても、妹背の仲は変わらずにいよう」と、
来世のことまでも約束しあった。

しかし愛別離苦の習いの恐ろしさか、この女房はすぐに煩ってしまい、
寝もせず起きもせずふらふらとして、とても苦しげに面やつれして、
ずっと床に臥せっているようになってしまった。
乳人の女房などが「これはきっと、これからおめでたいことが起きるのでしょう。
世の人も振り向くような玉の男の子をお産みになるのではないでしょうか」と喜んで騒いでいたが、
そうではなくて、容貌は日に日に衰え、心は次第に弱っていった。
咲き誇っていた花の色が衰え、かすかに残っていた香りさえ、
誘う風でもあれば簡単に散ってしまいそうな様子である。
立花はひどく驚いて医療の術を尽くし、貴僧高僧を呼び寄せて大規模な祈祷を行わせたが、
その甲斐もなく、女房は次第に力が衰え、実に頼りない有様になってしまった。

女房は立花をそばに呼んで、とても苦しそうに息をつき、ひどく気だるそうに、
しばらくは物も言わずにいたが、ややあって話し始めた。
「のう立花殿、私は今こんなに重い病になってしまって、もう黄泉路に旅立ってしまいそうです。
生者必滅が世の習いなのですから、いまさらこれを嘆いても仕方ありません。こんなに早く穢土を離れ、九品の蓮台に生を受けられるのなら、嬉しくさえ思います。
しかし、女は五障三従の罪が深いものですから、成仏・解脱はしづらいものと聞いております。
けれども法華経王の功徳があれば、罪業の深い女人をもたちまち変成男子にして、
安養不退の極楽に往生できるとも聞き及びますから、
私が身罷った後は、どうか法華経を読誦し、あるいは写経するなどして、丁重に弔ってください。

一本の木の下で休んだり、川の流れを汲むにしても、すべてが他生の縁と聞いております。
ましてやこの三年間、一緒に日々を送ってきたこの名残は、たとえ生を隔てても忘れたりいたしません。
ただあなたの行く末だけが、この世で唯一の心残りです。
この妄執は罪深く、邪淫の罪が重くて、とても暗い道に踏み惑う原因になりそうです。
しかし、夫婦は二世の契りなどと申しますから、
来世も同じ蓮の台に、半分ずつ場所を分け合って座りましょう。

でも人の心は色に見えず、移り変わっていくものですから、
我が身が露と消えてからは、またどこかの人と添って、
私のことは仮初の夢にも思い出すことはなくなるのでしょう。
互いに忘れないようにしようと約束したことは、我が身一つの誠なのでしょう。
なんと恨めしい世の中でしょうか。
三年間も、春の夢のような手枕のなかにいたというのに、その甲斐もなく約束など簡単に破れてしまう。
返す返すも恨めしくございます」と、女房は涙に暮れていた。

しばらくして、「こんなふうに取り乱してしまって、我ながら情けないことです。
こんなことを言ってしまったのも、邪淫の妄執が深く、愛欲の念に囚われて、
迷いの雲が厚く心の月の光を見失いやすくなって、
楽しむばかりの国へとつながる道を妨げているのだと思います。
南無本法師釈迦牟尼仏、私の妄執を晴らしてください。
この人が他の妻を迎えることも、浮世の習いなのですから、露ほども恨めしいとは思いません。
どんな人でも、この人が見初めた方ならそれでいい。
お心をお慰めになって、また私の供養もお忘れにならず、
経を書き題目を唱えて、私の後生をよく弔ってください」と心細げに掻き口説いた。

立花は聞いていられず、肝魂が身から離れそうになり、
「そう心弱いことを申すな。
これほど、諸仏諸神に祈祷させているのだから、忝きご利益がないということはなかろう。
もしも偕老同穴の契りに終わりが来て、おまえが黄泉のへと旅立つならば、
私一人がこの浮世にとどまって、何の意味があろうか。
同じ野辺の煙となって、六道四生のその間も、苦楽をともにしようではないか。
もしまた一族郎党たちが私が死ぬのを許さなければ、せめて元結を切り、法師になって、
高野粉川の奥に分け入り、木の実を採り川の水を汲む身となって、
仏に仕えおまえの後生、菩提を弔おうと思う。

それに、他の妻を娶って心を慰めて欲しいなどと言うのはあんまりではないか。
我が日の本にいらっしゃる諸仏諸神、なかでも宇佐八幡大菩薩もお心得あれ。
おまえと離れたその後は、他の女と慣れ親しむことなど絶対にない。
私のことはどうでもいいと思って、一人捨て置き、冥土の旅に赴くのか。
私もまたおまえ一人をただ一人で死出の山、三途の川を越させたりはしない。
とにかく同道して一緒に行く」と、血の涙を流しながら嘆き悲しんだ。

女房は苦しそうに涙をこぼして夫の方を見ると、
「のう、それはなんと口惜しいおっしゃりようでしょう。夢とも現とも思えません。
弓馬を扱う家に生を受けたというのに、妻との別れを悲しんで遁世したり、自害などする人がありますか。
それに他の妻は娶らないなどというのも、なぜそんなことがおっしゃれるのか。
私のためのお情けでしたら、とても報いきれるものではありませんが、
これもまた世の中にありふれていることなのですから、
私のことは露ほどもお心にかけてくださらなくていいのです。
だって、妻がいなければ子孫は生まれないでしょう。子孫がなければ立花の家が断絶してしまいます。
妻との別れに心迷い、先祖代々弓取りとして伝えられてきた家を絶やしていいはずがありません。
私はたとえ生を隔てていたとしても、あなたの家を相続させる子孫がないとなれば悲しくて仕方ありません。
絶対に、そのようなことは夢にも思い定められますな。

どうかどうか、私が死んだらありがたいお経を書写し、読誦してよく弔ってください。
『かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(源氏物語、桐壺更衣)
』と昔の人が詠んだことも、今自分の身をもって知ることになりました。
もっと話したいことはあるのに、心に任せません。なんと名残惜しいことでしょう」と、
女房は夫の手を取って自分の胸にあて、やがて息を引き取った。

立花は、「これはどうしたことか」と呆然として、
最期の別れを悲しんで空になってしまった亡骸にすがりついて声をばかりに泣き叫んだ。
その様子は見るだけでもそうとう哀れなものだった。
こうしてばかりもいられないので、高位の僧を呼び寄せて、野辺の煙を見送った。
立花も同じ炎の中に行こうと、飛び込もうとしたところを、
一族郎党たちが急いで袂を引いて「何をなさる」と引き止めた。

生きていたころは憎く思っていた人であっても、もういないとなると恋しくなるのが世の習いだ。
ましてや、今度亡くしたのは、容貌に優れていただけでなく
心栄えも穏やかで世の人とは違った人だったと思い出されて、
誰もいない床に転がり、古い夜具や古い枕を忘れ形見だと思ったが、悲しみは癒されない。
あの人でなければと、心を痛めてなきたいと思っても、はや涙は尽き、叫ぼうとしても声が出ない。
ただ呆然としている立花の様子は、見る者の涙を誘った。

春の花を見ては「人面は知らず(崔護『人面桃花』、
桃の花は相変わらず美しいのに美しかった愛しい人はもういないという漢詩)」という詩を思い出し、
秋の月を詠むにも、「苔の下にも影や澄むらん(あの世でも月影は美しだろう?)」などと、
想像するだけでも胸がふさがって、袂を湿す。
その折につけても、落ちる涙が雨となって川に流れて増水すれば、
もしかしたらまたあの人が帰ってくるのではないだろうかと、いたずらに、空しいことを詠んでしまう。
恋しい人の残していった古い言葉ばかりが思い出されて、昼は終日泣き暮らし、
夜は朝まで泣き明かし、打ち沈んでばかりいた。


以上、テキトー訳。続く。

どんな血生臭い話が来るのかと思ったら、イチャイチャ夫婦……
ちょっと、死別とかの話になると「リア充爆発しろ」とか言えないねぇ。
なかなかに物悲しい。
私は脳内で広家と容光院夫婦に置き換えて読んでいたんだが、じゅるり……ハッ!
3年しか一緒に暮らしてないのに、ってところとか、奥さんが先立ってしまうところとか、
まじ広家夫妻のようで……!!!

最近まで私は夫婦萌えってのはなかったんだけど、
調べていくうちに女房衆の情報が集まってくると、奥さんたちのことが好きになっていくね。
尾崎局・新庄局が大好きです!!!
容光院は情報がイマイチ少なくて、妄想が大部分なんだけど、
それでも容光院の居館だったといわれる場所(元春隠居館跡の一画)からの出土物とか、
万徳院にある容光院墓所とかっていう情報で萌えているわけで。切ない。
ていうかコレべつに夫婦萌えじゃないなw

そんな感じに脱線しながら次回も続きを読むけど、
チラっと見ただけでも仏教がらみの漢文がゾロゾロ出てきているので、読み解ける気がしないwww
更新は進まないかもしれません。気長にお待ちください~ノシ
2012-06-21

戦人の連歌

さてさて、毛利と織田の対立によって起こった国境周辺のゴタゴタも読んだし、
なんとなくシメみたいな感じで、今回は連歌興行の話のようだ。
連歌って……イメージ湧かない_ノ乙(.ン、)_


出雲の国杵築三万句のこと

さて、去る天正十年、羽柴筑前守秀吉が備中の国の高松の城を取り囲んだので、
元春・隆景は中国八ヶ国の軍士を率いて後詰に向かったが、
秀吉が猛勢なうえ信長まで近々出張してくるとの噂もあり、敵勢の数は日に日に増えていった。
毛利三家の浮沈はこのときに極まったと、上士も下士も固唾を呑み手に汗を握っていたが、
そのとき出雲杵築大明神にさまざまな奇跡が起こって、
巫に神がかりがあり「信長が滅亡し、秀吉が敗軍する」との予言が託された。
それがみごとに的中したので、すぐにその神社に捧幣して、種々の珍宝を数多く寄進した。
ことさら前年の高松の対陣のとき、立願が多くあったなかで、
その神祠で連歌興行をしてほしいとの願いが第一だったので、
今年天正十一年閏正月十六日から、早速連歌を行うことになった。
その第一の千句の発句、脇、第三まで、記録に残っているものを記す。

  賦花の何連歌(第一)

 梅が香は万の言の葉種かな   輝元
 木々を洩さす雨かすむ山    義広(千家)
 雪は今朝響に残滝落て     久孝


  賦山何(第一)

 見ぬ方も手に取梅の匂かな   元春
 簾を捲ば春の朝風       慶澄
 鶯の外面を近み啼出て     光親


  賦何人(第三)

 朧月も匂はしるし園の梅    丑歳
 空も長閑に明る鳥の音     就次
 年や唯寝ぬる夜の間に越ぬ覧  元伝


  賦何船(第四)

 華々にわくとも梅の匂かな   元孝
 菫交りの露の下草       長信
 朝日さす野辺は長閑に雨晴て  広佐


  賦初何(第五)

 梅が香を舎さす草の露もなし  広堯
 胡蝶ぬる野の着きの夕景    宗清
 求食する方に雉子の集りて   広経


  三字中略(第六)

 梅が香を四方に掩える嵐かな  正允
 柳に重き雪の垣中       祐吉
 冴帰る砌のかたへ鳥の寝て   連珎


  賦何衣(第七)

 梅は猶道ある御世の色香かな  元長
 誘引出つつ若菜摘む袖     秋孝
 朝な朝な沢辺の凍隙見えて   広徳


  賦何路(第八)

 梅は且色しる山の南かな    隆景
 深谷の氷江には流れて     孝清
 河上の里よりまたき返す田に  常清


  賦手何(第九)

 春の日の染出す色や雪の梅   久孝
 緑たち添庭の松が枝      元信
 池水は霞の下に明初て     貞吉


  賦何鳥(第十)

 天地の開けし春や梅の花    義広
 幾久かたのあら玉の年     春俊
 朧げの影より秋の月待て    安栖


  追加賦玉何

 色も香も八重垣深し梅花    文養
 霞になびく風の白木綿     秋具
 朝朗空に残れる雪散て     為吉


以上、テキトー訳(訳してないけど)。

高松は落とされてしまったけど、毛利としては、負けてはいなかった……ってことなのかな。
ナニワトモアレ、歌の部分はほぼそのまんま載せてるっていう。
連歌のシステムがイマイチわからんちん。
輝元・元春・隆景・元長って名前が並んでるだけで嬉しいからまあいっか。
しいて言えば元春・元長の句が好きだ(安定の吉川贔屓)。

そんでもってこの次の章は「経言・秀包、大坂へ上りたまうこと」でござんす。
経言(広家)と小早川元総(秀包)が大阪へと人質に行ったときのお話。
ずいぶん前に読んだとこだなぁ。

とりあえず陰徳記、次回からは九州立花陣読むよ!
って言いたいところだけど、立花陣のきっかけになった話から読んでいくよー!
今まで読んでたところより十年以上も前の話になるんだねぇ。
……拾い読みばっかりで、どーもすみませんwww
2012-06-20

南条兄弟の悲劇

台風の日にわざわざ飲み屋に顔を出して、他のお客さんが来ないので帰りづらくなって、
飲みすぎてノビてたのはどこのどいつだぁ~い? アタシだよッ!(古い)

てなわけでようやく陰徳記。
毛利が織田と睨み合ってるとき、国境付近の国人衆たちも、二つの勢力に分かれてゴタゴタしてたときのこと。
南条元続は、一時は時分の配下でもあった山田出雲守に夜襲をかけたが、
これは山田が画策した罠だった……!
けど事がうまく運ばなかったから南条は再起不能にはならなかったんだけどね、てとこまで読んだ。


南条没落のこと

南条伯耆守元続は、山田に騙されて数々の勇士を討たれてしまい、世にも口惜しく思った。
どうにかしてこの遺恨を晴らさんがために策を練った。

元続の手の者の、新藤勘介・秋里目(サクワン)など十三人が一味同心して、
山田出雲守に「時節を見計らって羽衣石の城に火をかけます。
そのときに正面から切り入ってください。
そのとき、この十三人が志を合わせて主君を裏切ります」と申し入れてきた。

折りしも同(天正十年)九月二十三日、因幡の国境付近でとある神の祭礼があったが、
これに南城の手勢たちが多数行って、神の御幸を拝もうとしていたが、
いったい誰が言い出したのか、「羽柴筑前守殿は京都で不慮の戦が起きて討ち死になさった」
という噂が立っていた。
南条の若党、二宮源次兵衛尉という者がこれを聞いて、急いで城に帰りこのことを通達すると、
羽衣石の城中の者たちはひどく騒ぎ立てて、すぐにでも城を空け退こうとした。
元続は少しも騒がず、「静まれ」と下知をしていたところに、
新藤をはじめとして例の十三人の者たちが「いい時分だ」と思い、
四、五百軒ほど作り並べられた小屋に、十三ヶ所から火を放った。
そのときは秋風が激しく吹いていたので、あちらこちらに炎が迸り、煙が虚空に充満した。

これを見て、高野宮にいた山田出雲守と嫡子の蔵人は、三百余騎で大手口から乗り込んでいく。
十三人の者たちも内側から鬨の声を合わせて切って回った。
城兵たちは猛火の煙にむせて、弓を引き矢を放つこともできず、
どうにか子を背負い、親を肩に引き掛けて、どこを目指すわけでもなく足の向くまま逃げ出すしかなかった。
伯耆守元続も、「城の大門にも火が移って燃え上がっている。
敵は大手口から鬨の声をあげて責め近づいてくる。こうなってはかなわない」と、
郎党を四、五人ほど召し連れて、城の切岸をすべるでもなく這うでもなく逃げ下りると、
命からがら播磨を目指して逃げていった。

小森和泉守は居城が少し遠かったので山田より半時ほど遅れたが、搦手から乗り込んでいった。
城中では道を引き返して戦おうとするものもいたが、夜半のことで誰が敵で誰が味方かを見分けようもなく、
兵火の煙に目はきかず心も惑わされるので、どうしようもなく我先にと逃げていった。
山田の手勢がこれをしきりに追いかけて、王賀・津村などという者たちをはじめとして、八十九人討ち取った。
小森勢も数人を切り伏せ、そのうえ元続が信長から譲られた栗毛馬などを奪い取って、元春様へと献上した。
山田もまた信長から与えられた天下一槻毛・鬼鹿毛などという名馬を奪い、輝元様・元長様へと献上した。
また尼子家から与えられた残雪という名石をも拾ってきて、元春様へと進上した。

岩倉の城にいた小鴨左衛門尉元清も、羽衣石が落城したと聞くと、
仕方なく、同様に城を空けて因幡目指して逃げていった。す
ぐに上寿院の利菴西堂・尾鴨四郎次郎・北谷刑部少輔などが乗り込んで、朽木という名馬などを奪い取った。

こうして南条兄弟は播磨の姫路へと逃げてゆき、秀吉に「こんなことがあってこちらに参りました」と言うと、
秀吉は「そんなくだらない噂を聞いて秀吉に実否を糾さず、とりあえず逃げてくるなど、臆病のきわみだ。
しかしこの秀吉を杖とも柱ともひとえに頼ってくるとは不憫なものだ。
吉川に了解を取って本国に返し入れてやろう」と言った。
しかししばらくして、秀吉はまた「吉川は謀に秀でた大将だ。
羽衣石は名城だから力攻めでは落としがたいと考え、また元続はもともと臆病な人間だと知って、
秀吉が自害したなどという噂を流して、南条を騙したうえで追い落としたのだろう。
吉川の謀の見事さも、南条の臆病さも、どちらも並び立つ者がないな」と言った。


以上、テキトー訳。

南条さん……なんかちょっぴり同情したくなるね。
しかし正矩は、秀吉に吉川のことを褒めさせるの好きだな!
陰徳記読んでると、秀吉はどんだけ元春のこと好きなのかと思ってしまうわwww
ずっと逢いたい話がしたいと望みながら、結局逢えないまま逝ってしまった元春……やだけっこうステキw
他で見る逸話なんかだと、秀吉はどんだけ隆景好きだったんだよと思うが、
陰徳記は歪みなく元春が愛されてますね別に変な意味ではなく(重要)。

それはそれとして、この間から武士は山賊・海賊と似たようなものなのかって疑念があったけど、
やっぱりここでも盗賊みたいなことしてるよな。
敵城に乗り込んでいい馬取ってくる→上納するコンボ。
小規模でやればただの強盗だけど、この規模でやれば戦争だよね。
人を一人殺すと殺人犯、たくさん殺すと英雄になるって聞いたことがあるけど、
なんかソレ系の無常感を思い出しますた。

さて、次回は出雲の連歌会についてらしい。
2012-06-18

毛利VS織田周辺のゴタゴタ

さてさて昨日は戦国時代物オンリーイベントに足を運び、
ハッスルしすぎて、重い荷物を手に提げたまま長時間お散歩とかしてたもんで、
そのせいで首の持病を悪化させて臥せっておりましたぞー(ダメダメ)。
寝たら直ったから、いつもより早起きもできたし、気分よく更新(*´∇`*)

さてさて陰徳記、織田と毛利が睨み合っているとき、
南条との境界あたりでも、ひと悶着あったらしい。


高野宮城合戦のこと

山田出雲守重直・嫡子蔵人は、伯耆の高野宮の城に籠もっていたが、
どうにかして南条をだまし討ちにしてやりたいと心の底から思っていたが、
南条は多勢だったのでいかんともしがたかった。

山田はあるとき、家人の石垣弥介・同何介・野田宗介という者を呼び寄せ、
「おまえたちは幸いにも南条の内に親類も多い。また親しい朋友もいる。
だから、何とか連絡を取って、
『謀反を企んでいる。南条殿に、高野宮の城を夜討ちにしてほしい。我々が手引きをする』と話してみよ。
もし敵が本当だと信じておまえたちの案に乗ってくれば、元続もきっと討ち果たせるだろう。
ともかく言ってみよ」と言った。

その三人の者たちは、「承知しました」と答えて退出し、
その後は何かと半納(勢力の境界地域で年貢を半分ずつ別々の領主に納めている者)の民家に出入りしては、
親しい友の噂などを、それはそれは懐かしそうに語った。
するとその家の主が、「さては何某殿とは従兄弟の間柄なのですか、または他の所縁があるのですか。
もしご伝言でもありましたら、私から申し伝えましょう」と言うので、
三人の者たちは「実にありがたいことだ。それなら頼む。
しばらく会っていないが元気にしているだろうか……」などと、思いのたけを小まめに伝えた。
その家の主は羽衣石へと行くってこのことを伝えると、その友達たちもまた、
石垣・野田らへと、細かく返事を託した。

石垣たちは事がうまく運ぶので面白く思い、その家主を通して「謀反を起こそうと思っている」と伝えさせた。
友たちは「それこそ日本一のことだ。これはよくよく取り結ばなければ」と、
半納の民家へと出かけていき、石垣たちにも「密かにこちらへ出てきてくれ」と言い送った。
石垣たちはすぐに忍んで逢うと、
「我らをそれなりに出世させてもらえるなら、謀反を起こそう。
元続殿が兵力を整えて夜中に惜しいってくだされば、我ら三人が高野宮の城に火をかける。
そのときに切岸から一度にドッと乗り入ってほしい。この三人は東の矢倉の下に向かおう」と言った。

南条もこれを聞いて大いに喜び、
「山田を思うとおりに討ち取れれば、この三人は望みのままに所領を宛行おう」と堅く約束をして、
事前に決行の日時を詰めておいた。

山田出雲守が「これで騙してやれたぞ。決行の日はいつになった」と問うと、
三人は「天正十年八月二十日の夜に決まりました」と答える。
山田はすぐに杉原弥八郎元盛へと、
「こういうことになったので、屈強な兵を三百余人、二十日の夕方にこちらの城へ寄越してください。
お手勢に城を預けておいて、我ら父子は城を出て、法師マロキというところに伏兵を用意しておきます。
元続がこの城に乗り込もうと人数をすべて差し向け、
自分たちが馬廻りの衆だけで控えているとこを炉を見計らって、
そこで兵を動かして、この手で討ち取ってやるつもりです」と言い送った。
元盛はすぐに横道権允に三百余人を添えて、高野宮の城へと遣わした。

横道はまず、由良の城に元盛から籠め置かれていた木梨中務にこのことを知らせ、
城の前を通ろうとしたが、木梨は横道の袂を引いて、
「横道殿、山田はもともと南条の旗下の者です。元続と示し合わせて、味方を騙しているのかもしれません。
絶対に心を許してはいけません。私も心もとなく思うので、一緒に参ります」と、
横道に同道して高野宮へと向かった。
しかし後ろめたく思って、道中では足を止めてばかりでためらっていると、
取り決めの刻限より少し遅れてしまった。
南条はすでに法師マロキまで打ち出ていたが、山田は伏兵を出すことができなかったので、
かねてから謀っていたものとは違う状況になってしまった。

ようやく杉原の援兵が高野宮の城に着くと、すでに日も暮れ、夜半になってしまっていた。
南条は切岸にヒタヒタと押し寄せている。
いい時分だと見計らって、石垣・野田たちは、城より後ろにある小屋に火をかけた。
寄せ手はこれを見て、正面から城へと乗り込んだが、東の矢倉の下に行っても、
そこで落ち合うと言っていた石垣・野田の姿は見えない。
「これは騙されたか」と心配して、「石垣、野田」と呼ばわった。
これに、杉原の手勢も「もしかして騙されたのか」と思った。
石垣らは「もしものことがあれば人質にも」と袂にしがみついてとにかく出ようとしないので、
敵は不審に思い、「どういうことだ、返事をせい」と言うばかりで、城へは乗り込まずに少しためらっていた。

山田は前から計画していた通り、城中の女童らに一度に声を上げさせ、ワッと泣かせた。
そこに野田が走り出て、「ただいま出雲を討ってきました。
石垣は重直を討ったとはいっても、傷を負ってしまったのでこちらには来られません。
早く切り入ってください」と言った。
これは敵を矢倉へと引き入れ、そこで討ち果たそうという謀である。
それなのに野田の兄が一番に乗り込もうとして、宗介は兄を殺されないように、
塀の下から手を入れて突き落とした。
野田の兄はこれを夢にも知らずにまた乗り込もうとするが、
宗介が「ええい南無三宝、今度はきっと討たれてしまう」と思って、
また力を出して拳で胸板を「エイヤッ」と突き、兄は仰向けに倒れ落ちた。
これを三度も繰り返せば、寄せ手は「これはきっとただごとではないぞ」と感じ取り、
城へ乗り入ろうとはしなかったので、山田出雲守は仕方なく鉄砲を揃えて散々に撃ち掛けた。
敵は「やっぱり騙されていたか」と、一度にドッと逃げ出し、
我先にと切岸を滑り落ちて、転びながら引いていった。

城中の兵たちは、逃すまじと追いかけていったが、
なかでも山田利兵衛尉・鍛冶屋市允・塩冶新允など七、八人が深入りして追いかけた。
小川の流れ出ているある村に、柳が生い茂っていたが、
その陰を利用して敵が七、八十人ほど取って返してきたので、深追いした者たちが逆に危ない状況になる。
山田利兵衛尉は肝が据わって頭のよく回る者だったので、
とっさに「敵が引き返してきたぞ。銅将谷の伏兵よ、今だ。
横道権允よ、伏兵を起こして、敵の後ろを切り取ってしまえ」などと、口に任せて仲間の名を呼び喚いた。
敵はこれを聞いて、「取り巻かれては大事だ。ここは引いて元続の旗本と合流しよう」と、また逃げていった。

ここで、誰かわからないが真っ黒な鎧を着た武者が一人、ふてぶてしく、
「絶対に引くものか」と踏みとどまって戦った。
山田利兵衛尉が渡り合っていたが、ようやく切り伏せて取り押さえ、「名乗りを聞こう」と言うと、
相手は「左京だ」と言った。
利兵衛は「さては豊岡左京亮だな。私はこれまで、諸仏諸神に、
豊岡左京をこの手で討たせてほしいと祈っていたから、それが成就したのだ」と嬉しく思い、
急いで首を掻き切ろうとしたけれども、敵は抵抗するし、自身は疲れてのども渇き、目も霞んでいる。
そばに塩冶新允がいたので、「こいつの首を切ってくれ」と声をかけると、
この左京は実は新允の兄だったが、新允はそれを知らずに首を押し切り、山田に渡した。
その間に、鍛冶屋市允は田公松千代を討ち、新允もまた敵一人を討って、皆手に手に首を提げて帰っていった。
山田が首実検をしようと火を焚いてよくよく見ると、豊岡左京ではなく、塩冶左京亮だとわかった。
弟の新允は、「これはなんとしたこと、兄ではないか。
そうと知っていたなら、私の命に代えても助けたのに」と、太刀を投げ捨て、
首に抱きついて声を限りに泣き叫んだ。その心中が思いやられて哀れなものだった。
こうしてその夜、三十余人の敵を討った。


以上、テキトー訳。

敵味方にゴロゴロ兄弟がいるとか、ぐっちゃぐちゃやな。
この辺は、南条が毛利方についたり織田側になったりしたのでしょうがないのかもしれないけど、
敵方に近親がいたりすると、殿様に警戒されないのかな。
というか、警戒されてるからこそ、こうしてアグレッシブに戦おうとするんだろうか。
なかなか悲しい運命だね。

次章は南条さんのこと。
どうでもいいけどこのPC、「なんじょう」て打つと、
いつまで経っても必ず「何条」ってはじめに出てくるからイライラ。
覚えろよ。学習機能ついてるんじゃねーのかあああぁぁぁ!!!
2012-06-16

水落の隠岐攻め顛末

ご心配をおかけしておりました、体調もだいたい回復しております。
さてようやく陰徳記。

前回のあらすじ……忘れたなぁ。
織田勢と毛利勢の睨み合いが続く中、毛利配下の隠岐では、隠岐家の家臣たちが秀吉に内通する動きを見せた。
しかし和睦が成立してしまったので、内通の罪を当主に擦り付けて殺害したものの、
その悪事は露見して、新庄に人質として預けられていた隠岐神五郎は復讐を誓う。
しかし隠岐に攻め込むにも兵がない。
この神五郎の前に現れたのが、熊谷家の郎党、山賊夜盗くずれの水落掃部だった。
今回はその水落の武勇伝の続きから。


隠岐守清家生害のこと(下)

その後、椎板入道という者が死んだが、この者は極めて根性が悪かったので、
すぐに地獄に落ちて幽霊となり、夜な夜な辺りを徘徊しているという噂が立った。
水落はこれを聞きつけると、次なるおかしなことを思いついたのか、
ある夜、柿の篠懸に頭巾をかぶり、鵠の羽を集めて左右の腋に挟み、顔には朱を塗って、
真夜中になってから極楽寺に行った。

増誉長老などという僧が念仏を唱えていたところ、後ろの障子がカッと開いたので振り向くと、
飛び込んできたのは六尺ほどの大きさの者で、山伏の頭巾を篠懸にかぶり、
顔は千入の紅よりも赤く、左右の腋には羽が生えて、手には鉄杖と思しき黒い杖を持って立っている。
それは話しはじめた。

「和尚よ、貴僧が西方極楽は日の入りの方角だと教えてくださったから、
それを信じて須弥山の頂上まで登ったが、結局極楽には辿り着けなかったぞ。
そのうえわしは老いて病に苦しんで死んだのだから一歩も引けない。
貴僧は私に、西方は十万億土とおっしゃった。絶対に辿り着いてやろうと思って、
須弥山から引き返して、また西方浄土はどこだろうと探したけれども、
足も老いているし、長く病んだあとだ。なかなか不調で、十分の一も進めない。
弘誓の舟とかいうものが迎えに来ると思って、待てども待てども船影も見えない。

あれこれと訪ね歩くうちに、六道に輪廻して、今は大天狗となってしまった。
心の浄土、このまま阿弥陀になれるという十万億土に行くまでもなく、成仏には底があると聞いたが、
わしにはこんな近道だということは教えてくださらなかったな。
十万億土、あるいは落日観念などといって、西方は日の入りの方角だとか、
黒雲・黄雲・白雲のどれが現れるかによって積みの軽重がわかるなどと、日々教えてくださるものだから、
そんなことを信じて、西へ西へとそれだけを心がけて歩いてしまったが、
どうしてそんなに遠くはないと教えてくださらなかったのか。

それに、釈尊の教えでは法に外れたものは成仏できないといっているが、
阿弥陀の思し召しがあれば、十悪の人間でも、摂取不捨の願力のおかげで成仏できると説法なさっていたから、
それも信じていたのに。
夜盗や海賊の類であっても、阿弥陀の誓いによって仏になれるのであればと、
今生の貧苦に耐えかねて、ずいぶんと盗みを働いた。
盗めればそれでよし、もしカモが現れなければ、一時は艱難を耐える。
戦って命を落としてしまっても、摂取不捨の願力にすがればいい。
死んでしまったらそのまま阿弥陀の来迎を待って、それにすがって成仏しようと思っていたのだ。

心では盗み算段をしつつも、口ではいつも阿弥陀の名を唱え、
この手に人の物を奪い取ったときも、口では阿弥陀仏と言っておった。
だから来世はきっと成仏できると思っていたのに、
これまでの悪行がたたって、閻魔王の責めを受けてしまったではないか。
貴僧はなんと情け心がないのだろう。おまえの邪説のせいで六道の街に迷ったではないか。
おまえを引き連れていって、
『この僧が私に虚説を吹き込んだものだから信じていまい、悪逆を重ねてきました。
私に罪はありません。この嘘つき坊主を代わりにしてください』と、ひとつ頼み込んでみよう。
さあ参ろう」と、僧の腕を取って引き立てた。

この僧は大いに驚き、「さては積もり積もった重罪で魔道に入り、こんな姿になってしまったのですか。
阿弥陀如来の不取正覚の誓願が、空しいはずがありません。
日ごろの罪業は風前の雲と消え、お恵みの日の光が柔らかにさして、
六道四生の暗い道に迷うことはないでしょう。
私があなたのために十七日間経を読み、念仏を唱えれば、きっとすぐに解脱できるでしょう」と言った。

すると水落はこう返した。
「いや、念仏を申して経を読んで成仏できるのはこの世のことだ。今となっては意味がない。
阿弥陀は銭ほども光ると言うから、貴僧が布施で集めた銭をくれ。
地獄に落ちている餓鬼たちにも、黒飯の一杯でも与えて喜ばせ、
閻魔王のおそば近く召し使えている冥官や、阿弥陀のおそばにいらっしゃる小仏たちへも、
『これっぽっちではありますが』と言って、少しの銭でも進上すれば、
わしの重い罪を少しでも軽くするように取り成してくれるだろうから、それで成仏できるだろう。

またこれまで極楽の造営もなかったが、そろそろ少し修理しなければならないところができたと、
小鬼たちが言っていたのを小耳に挟んだ。となれば、銭はその足しにしてもらえばいい。
また八大地獄の釜も、億兆の歳月を経たわけではないだろうが、遠い昔から使っている古い釜だ。
これも片端が破れているものがある。穴が開いているものもある。
最近大鉄囲山を掘り崩して鋳造しなおすことにしたそうだから、こちらにも、
一文でも半文でも協力すれば、阿弥陀如来、または牛頭馬頭や閻魔大王も、きっと機嫌がよくなるだろう。

昨今は末法の世で、人間が仏や僧に金銀を献上することがなくなったから、
釈迦も阿弥陀も閻魔大王も、ずいぶんと困窮していらっしゃる。
とにかく、経や念仏より米や銭さえあれば、成仏がしやすいのだ。
これが極楽・地獄の沙汰なのだから、早く近年の布施を出してくれ。
そうしなければおまえの命をもらっていくか、もしくは行きながらにして一緒に連れて行くぞ。
さあどちらを選ぶのだ」

こう責め立てられて、この僧はすぐに蔵に入れておいた銭を数百貫出して与えた。
水落は、「地獄の沙汰も銭次第と言うから、わしも成仏し、和尚もまた成仏するだろう。
いい場所を見繕って寺などを作ってお待ちいたそう」と言い捨てると、
後ろの築地の崩れからツッと出るかと思うと、掻き消えるようにしていなくなった。
「不思議なことがあったのだ。死んだ者が帰ってきて、来世のことをすべて語っていったそうだ」と人々は噂をしたが、後になって水落の仕業だとわかると、
僧は「熊谷は憎いやつだ。以後の見せしめにしよう」と討手を差し向けた。

水落はこれを見て後ろの山に入り、石見へと逃げ、銀山で雑用などをして日々を送っていた。
貧者は乱を好むもので、隠岐の国に出入りがあると聞きつけると、
これこそ望むところだと思い、づぐに神五郎の館へと駆けつけて、
「数百両の金銀をいただければ、わしが隠岐の国に渡って敵城を奪取してみせます。
憎いとお思いになっている奴らの首を、一人残らず刎ねてやりましょう」と言った。
神五郎は大喜びして「では頼むぞ」と言うと、水落も喜んで出発しようとした。
類は友を呼ぶもので、水落が日ごろ親しくしている者たちは、山賊やら海賊やら命知らずのはぐれ者たちで、
「この仕事をやりおおせればたっぷりと酒代をはずむぞ」と言って二十余人を呼び集め、
小舟に乗って隠岐の国へと渡っていた。

思うように風が吹いて波も穏やかだったので、その日の夜半ごろに隠岐の国へと着いた。
時分もいいので、そのまますぐ少輔五郎の家城八幡丸へと忍び込み、水落はたった一人で家へと上がりった。
「隠岐少輔五郎、逆意はすでに明らかになった。
元春から熊谷掃部助信武が大将として差し向けられたぞ。すでに八幡丸へと乗り入った。
三沢の勢は二の丸へ行け、三刀屋はどこへ切り入れ、牛尾・吉田はそれそれの所へかかれ」などと、
出雲・伯耆の侍たちの名字を呼びながら、舌が回るまま、無窮自在に言い続けていると、
寺本党をはじめとして、「やはりこの陰謀は隠しようがなかったか。
敵は猛勢だろう。そのうえもう八幡丸に乗り入ったとなれば、少勢の我等では防ぎきることはできまい。
まずは落ち延びて、その後で合戦に臨もう」と、我先にと逃げ出していった。

少輔五郎は「こうなっては仕方ない。雑兵の手にかかるよりは」と、腹を十文字に掻き切って死んだ。
寺本安芸守は、そのとき一族たちを集めて酒宴をしていたが、前後不覚になるまで泥酔してしまった。
郎党たちが手を引いて逃げていったが、このままでは落ち延びることもできそうになかったので、
郎党たちは「ご自害なさってください」と勧めた。
安芸守は「わかった」と言ってとある民家に駆け込み、そこで自害して果てた。
そのほか、寺本の一族があちこちに忍んでいたが、
その後吉川式部太輔経言様が隠岐の国を知行したときに呼び戻し、宥め置いた。
しかし中畑源太兵衛尉・中畑新右衛門・湯頭助兵衛などに言いつけて、
寺本五右衛門・寺本神允・寺本善兵衛を討ち果たした。
寺本和泉守とその子息平次郎は、宿所を襲って討ち果たした。

こうした者たちは皆勇士であった。
少輔五郎も勝久に従っていたときは勇の誉れも高い者であったが、
こうして水落一人に騙されて、易々と討たれてしまった。
これは勇が足りなかったからではなく、ただ日ごろの悪逆が自分に返ってきて大罰を蒙っただけだ。
自分自身が無残に命を失ったばかりか、家の武名まで末永く汚してしまったとは、ひどい話である。


以上、テキトー訳。おしまい。

水落さんパネエな。熊谷さん、なんて郎党飼ってるんですか!
強盗にしても演出が入念で恐れ入谷の鬼子母神だわwww 坊さんかわいそうに。

しかし水落と神五郎が同道して隠岐に渡るのかと思ってたら、水落だけで渡っていくとは。
少年のドキドキハラハラ仇討ちを期待してたこの気持ちをどうしてくれるの!
水落の独壇場じゃないの! なぜその場に神五郎がいないのか、小一時間問い詰めたい。
しかし口だけでここまで敵を混乱に陥れる水落、侮れんな。

あとさらっと経言(広家)の名前が出てきたけど、
確か隠岐を宛行ってもらえたのって、人質に出たからそのご褒美だったんだよね。
こんなゴタゴタしてるところをもらったのか。大変だな。
新しい土地に入って、敵対する在地勢力の粛清をするのはスタンダードなのかな。
関ヶ原の後に由宇に入ったときも、在地勢力と一戦してたはずだし。
土地を治めるって大変なんだね(棒読み)。

さて次回も続きだけど、今度はどこだ。高野宮城ってとこの話らしい。
2012-06-14

生存報告

元就公命日だというのに、ちょっと体調不良で更新すっぽかします。
風邪とかではなく持病(加齢性)なのが悲しいw
更新お待ちいただいている方は、話の途中で申し訳ありませんが、もうしばしお待ちを。


ついでに陰徳記の元就逝去のくだりを載せておこう(手抜き)。

「元就朝臣病の萌御座けるが種々医療の術を尽くし給へば、漸く快く成らせ給ひけるが、
 然れども若年の昔より戦場の霜雪に御身を痛め御心を安くし給はず、
 かかる御疲れにや以外に老衰し給ひけり。
 元亀二年六月十二日より聊か御心地悪かりけるが、同十四日、七十五歳にしてついに夜を去御座す」

じいさま……75歳までよくがんばったね。
2012-06-12

隠岐神五郎の仇討ち計画

今日は景さまの命日だよねって……私の住んでるところは雨だったけど、涙雨かな(梅雨だよ!)。
ツイッターで隆景のお墓参りに行ってたッフォロワーさんを羨みつつ続き。

前回のあらすじ:
秀吉と和睦した元春のもとに、隠岐の国の領主清家が秀吉に通じたため家中の者に殺されたとの報が入った。
しかし元春のもとにいる人質の神五郎は、謀反を起こしたのは家中の少輔五郎たちで、
清家は冤罪を着せられているとの申告もある。
調査させると、秀吉に通じたのは少輔五郎たちだと判明した。


隠岐守清家生害のこと(中)

そもそもこの少輔五郎は為清の子である。
その隠岐守為清が切腹した後、少輔五郎は父の敵を討とうとはせずに、
逆に尼子に味方して勝久と行動をともにして京都に逃げ上った。
隠岐の国は、輝元様から清家に与えられた。

そのとき清家は出雲の国へと馳せ渡り、平田にいた元春に会いに行った。
「今度、私が隠岐の国をすべて宛行われましたのは、この清家が先年から一族を離れて御味方に参じ、
忠勤を貫いたからだとはいっても、元春公が輝元公へとよくお取り成し下されたからに他なりません。
生々世々、このご推挙のご厚恩は忘却いたしませんとも。
その深いご厚恩をお頼りします。
為清の嫡子の少輔五郎は、近年は勝久に与し、諸国を流浪しております。
願わくば、恩赦をいただいてあの者を呼び戻し、私の養子にして、この家を相続させたいと思います。
少輔五郎は当家の嫡流、私は庶流でありますので、
一旦は国を与えられてこれ以上ないほどの誉れでございますが、
できれば嫡流の者に家を渡し、愚息の神五郎は分相応の所用に召し使っていただきたく思います」

清家の懇願を聞いて、元春は
「自分の子がいるというのに、それを除けてまで惣領に国を譲りたいというその願い、実に稀有な志である。
少輔五郎は敵方に一味した者だから、子々孫々に至るまで誅罰にかけてしかるべきではあるが、
清家のありがたい謙譲の志に免じて、どうにかおまえの望むようにいたそう」と答えた。
元春がこのことを輝元様へと進言すると、
「北前のことは、何にしても元春の考え次第だ」と言われた。

清家は一方ならず喜んで、勝久へと「こういう次第ですから、少輔五郎を帰してください」と言い送った。
勝久は「少輔五郎は、一門のことなのだから、どういうことであれ本国が安堵されるのであれば、
それがいいだろう」と、その使者に少輔五郎を渡して、本国へと帰らせた。
清家はすぐに少輔五郎を養子にして、実の子の神五郎は元春様への人質に差し出した。

それなのに少輔五郎ときたら、こうした厚恩に報いることもせずに、
逆に自分の罪を免れようとして清家を討ったばかりか、冤罪をなすりつけるなど、言語道断である。
現世では諸仏諸神の冥罰を蒙り、眉も鬚も抜け落ちた白癩となり、
未来は焔王の鉄棒で打たれ、阿鼻大地獄に落とされて牛頭馬頭の呵責を受け、
どんなに長い時間がたっても成仏できるはずなどないと、
この所業を聞いた人々は皆、そろって爪弾きにしたそうだ。

この成り行きは隠しようもなくなって、いかなる申し開きのしようもなかった。
元春様はすぐに「神五郎が望む通りにせよ」と言った。
神五郎は、いざ父の恨みを晴らそうと思い定めたが、相手は多勢である。
「私は主従合わせて十四、五人だから、討ち果たすことはできそうにない。
けれども独力では適いそうにないから兵を貸してほしいなどと元春に言えた義理ではない」と思い、
こうなれば仏神の加護を頼む他はないと、諸仏諸神に祈誓した。

「なかでも駿河は富士山の麓に足跡を残した、兄の宮・弟の宮として祭られる曽我兄弟こそ、
私の嘆きをご自分のことのように思ってくださり、加護の眼差しを向けてくださるだろう」と、
仰々しい願文まで立てて一心不乱に祈っていたが、
奇特な霊夢を見ていよいよ頼もしく思い、協力してくれる者を募りだした。

熊谷伊豆守の郎党に、水落掃部助という者がいた。
力量は世の人に勝り、武勇も並ではない、血気盛んな者だったが、常に酒を好んで飲み、
そのせいか貧しい暮らしをしていた。酒代のツケが山のようになっていて、
しかたなく山賊や夜盗をしながら、人の宝を奪っては酒代にしていたが、
ある年の暮れに酒代がどうにも調達できなくなった。

掃部が酒に酔ったふりをして可部の市をよろよろと歩いていると、
酒屋の主人がこれを見つけて、酒代を徴収しようと考え、店から走り出てきた。
「掃部殿、今年の酒代を払ってください」と袂にすがると、掃部はかねてから企んでいた通りに、
雨露の落ちるところに掘ってある溝の中へとガバッと倒れこみ、大声を張り上げた。
「この酒屋の与三左衛門は狼藉者だ! 酒代にかこつけて、引き倒して恥をかかせていいわけがあるか。
昔から酒代を溜め込んだ者などいくらでもいるだろう。
杜子美などという者も、立ち寄るところすべてに酒代の借金があったという。
それなのに、酒代を催促するついでに恥辱を与えることがあるか。
こうして市で賑わっている市中で面目を失っては、これ以上生きていても仕方ない」と、掃部は太刀を抜いた。

与三左衛門は肝を潰して奥へ向かって逃げたが、掃部は逃がすまいと、
その髻をつかんで引き付け、首を掻き切ろうとする。
そこに、酒屋の女房があまりの悲しさに手を合わせて、
「今年中の酒代は、一粒一銭も取ったりいたしません。
どうか道理を曲げて夫の命を助けてください」と詫びたが、掃部は聞き入れなかった。

切り殺してやろうと目を見開き、肩を怒らしていると、銭屋の三郎兵衛尉という者がそこに通りかかった。
いつも掃部に米銭を貸していたので、掃部も、銭屋の機嫌を損ねたらたちまち飢えに瀕してしまうと考えて、
銭屋の気に入るように振舞っていたので、公私の別なく話しをして、まるで兄弟のようにして付き合っていた。
銭屋は、自分の言うことなら掃部も聞くだろうと、ツッと走っていくと、
「掃部殿には物の怪でも憑いているのか。言い分があるならば命は助けておいてください。
切り殺してしまっては、理非を取り調べるまでもなく、あなたの命も取られてしまうでしょう。
まずは落ち着いてください」と袂にすがり、手に取りすがって引き除けようとした。

すると掃部は与三左衛門を打ち捨て、
「この銭屋は同じ町民仲間だからか、与三左衛門に味方して、わしの腕をつねりよった。
喧嘩の相手もその助っ人も同じことだ。この身一人で二人を相手にできるなら満足だ」と、
三郎兵衛をも引き寄せて膝下に引き据え、切り殺そうと激怒した。

これを見てからは、近くへ寄る者もなかったので、二人の町人は引き据えられながら手を揉んで詫び始めた。
与三左衛門は「今年の酒代は絶対に請求いたしません。
そのうえ今回の慮外の振舞いをご赦免いただけるのなら、そのお礼に、
いま酒代に取っておいてある米俵がありますので、十俵差し上げます。
どうか命をお助けください」と言う。
銭屋は、「それなら私も今年と去年の間にお貸しした銭百余貫、米三十俵を返せとは申しません。
今回助っ人に入ったことをお許しいただければ、そのお礼に銭二十貫を差し上げましょう」と言った。

掃部は、「そんなことをすれば、わしが米銭によろめいて、
許すべきではないものを許したと人々が嘲笑うはずだ。そんなことはできない。
しかしこれは市中のことだ。この町の責任者たちの裁定に任せよう」と言った。
そして五人の年老・年行事・月行事などが集められた。
「掃部殿も僻言を申されますな。ただ物もわきまえぬ町人奴のことです。
ここはどうか理を曲げてご容赦ください。
そうすれば我らもお礼として、作り置いてある濁り酒がありますから、これをお持ちいたしましょう。
これで手を打っていただけないでしょうか」などと言っているところに、
酒屋の老婆が大きな天目茶碗に酒をなみなみと注いで、「まずはこれをお飲みください」と進めたので、
掃部は立て続けに三杯飲んだ。
そして「これほどまでに皆が詫びるなら、理を押し通すのは非よりも倍悪い。それなら許そう」と、
二人の者たちを助け、米銭をたくさんせしめて帰っていった。


以上、テキトー訳。あと1回の予定……終わるといいなw

ていうかどこに向かっているの正矩……?
いきなり熊谷さんとこのやんちゃくれの話になって、私はもうワケワカメよ(´;ω;`)
とりあえずこの掃部さんが神五郎の仲間になってくれるのかな。
なんだその「友情・努力・勝利」みたいな展開。
ていうか掃部のやり方ひどいわwwwww

熊谷のお義父さんとこは、ホントやんちゃくれが多いな。
杉原家中も山賊みたいなのがうようよしてたらしいから、武士の集団なんてそもそもそういうものなのかも。
国衆=チンピラの親玉とすると、戦国武将=ヤクザみたいな感じなのかね。
Vシネのノリで見てみたい気がするw

さて次回も続きー! 明日は深夜まで帰れないから更新できませんが。
神五郎はちゃんと仇討ちの本懐遂げられるのかね?
2012-06-11

隠岐隠岐守家中の動揺

織田・毛利が睨み合っていたのは高松表ばかりでなく、
在所の国人衆にも動揺が広がっていた……
今回は隠岐の国の隠岐隠岐守(わかりづらい)清家の顛末。


隠岐守清家生害のこと(上)

隠岐の国の住人、隠岐少輔五郎経清から使者が来て、
「養父の隠岐隠岐守清家が謀反を企て、羽柴秀吉に一味しいましたので、
私があれこれと意見をしましたものの聞き入れられず、仕方なく討ち果たしました。
清家の嫡子、神五郎は人質として新庄にいます。
父の悪逆は明らかですから、急ぎ神五郎を罪に問うてください」と申し入れてきた。

元春・元長はこれを聞くと、
「清家はなかなかの義士で、しかも毛利家に対しては、身命をなげうって忠節を尽くしてきた者だ。
それが今さら秀吉に与するなどとは、もしかしたら経清の讒言かもしれない」と怪しんだ。
その日のうちに、清家の嫡子、神五郎からこうも言ってきた。
「少輔五郎並びに寺本安芸守の一族が一味同心して、羽柴秀吉に内通したところに、
父の清家は無二の毛利方ですから、彼らに同心しなかったために、たちまち討ち果たされてしまいました。
そこに京(織田)・芸(毛利)の和睦が成立しましたので、
こうなるとこの者どもは自分の身の上が一大事になると考えて、
その罪を清家に着せ、清家が逆意を抱いたと申してきたのです。

よくよく実否を糾してください。
父が謀反したとのことが真実であるならば、私のところに検使を一人遣わしてくだされば、
潔く切腹いたします。
もしまた経清が逆意の罪を免れるために無実の父に罪をなすりつけたのであれば、
どうか兵をお貸しください。
隠岐の国へ罷り渡り、父の恨みを晴らし、経清の首を獄門に上げて、後の世の見せしめにいたします」

その詳細を聞いてみると、羽柴筑前守が数万騎を率いて高松の城を取り囲んだ。
これによって吉川・小早川がそこに出張りして、対陣したころには、敵勢は八万騎に及んだが、
味方はわずか三万に過ぎなかった。
そのうえ信長が猛勢を率いて近日中に下向してくるとの風聞が溢れてくると、
下人や中間たちに至るまで、
「いかに大強将の元春・隆景であっても、わずかの兵ではまさか持ちこたえられまい。
すぐにでもこの陣を引き払うだろう」と思って、浮き足立っているようだった。

それでも、元春・元長は少しも騒がず、落ち着いて、いかにもくつろいだ様子でいた。
隆景様も人々が騒いでいると聞きつけて、元春父子の陣の様子を見てくるようにと人を忍びやかに遣わしたが、
この者が走り帰って言うには、
「元春は湯何某に謡をさせ、いかにもくつろいで何の用心もしておりません」と言う。

小早川陣の諸侍は下部に至るまで、皆体を揺すりながらようやく座っているこの折に、
少輔五郎から使者として高松表へと遣わされていた寺本安芸守は、
諸軍勢が「いかに元春・元長が帯剣を解いてくつろぎ、
退却しそうにない様子を諸軍士に示していらしても、数日のうちに信長が下向してくると聞こえてくれば、
そのときはまさか一時も腰を据えていられないはずだ。
今でさえ敵勢は八万ほどもいると聞いている。信長が出張りしてくれば、十万は固いだろう。
今の秀吉の勢も八万とは言うけれど、見たところでは六万ほどか。
となれば、敵勢は十五、六万にも上ることになる。
味方は四万と言ってはいても、三万もいない。
松山に輝元がいらっしゃるが、これも旗本勢を五千以上連れていらっしゃることはないだろう。
きっと毛利家はこれから滅びようとしているのだろう」と囁き合っているのを聞いてしまった。

寺本は、「もし耳にした通りなら、毛利家の一大事だ。
片時でも早く馳せ帰り、羽柴殿へ一味する使者を立て、隠岐の国を安堵してもらわなければ」と、
小賢しく考えて、元春・隆景の返事すら待たずに、急いで国へと馳せ帰った。
そして隠岐守清家に向かって、
「高松表の味方はすぐに敗軍いたします。毛利家はもうすぐ滅亡することでしょう。
早々に羽柴殿へと味方して、隠岐の家を続かしめるのがよろしいと思います」と言った。

隠岐守清家はこれを聞いて、こう言った。
「安芸守が聞いてきたことも一理あるが、私はもともと隠岐の庶子の家に生まれた。
為清が切腹した後、私に当家を相続するようにと元春が手を回してくださったから、
輝元公からこの家を相続するようにとの判物をいただくことができて、隠岐隠岐守に任命されたのだ。
この厚恩は何をしたとしても報謝しきれるものではない。
だから私は、毛利家に一味する志を変えるつもりはない。
今一度知らせを待って、元春・隆景が高松表の戦利を失って自害したことが明らかであるならば、
この清家はここで腹を掻き切り、義士の名を末代まで残そうと思う。
皆はそのときには、私の首を秀吉に奉げ、この国を安堵してもらって、隠岐の家を続かせてほしい。
おまえが家のために敵に与そうというのは、いい謀だ。
私が恩のために命を投げ出したとしても、悪いことではあるまい」
清家のこの言葉は、少輔五郎・安芸守たちは予想もしていなかった。

こうしたところに出雲・伯耆から商船が渡ってきたが、
「元春・隆景は高松表で敗北し、上方勢がしきりに追いかけてくるので、
道の途中で引き返して討ち死にしたと聞いた」と伝えてきた。
少輔五郎・安芸守はこれを聞くと、
「よしよし、清家は同意しなくてもかまわない。
先に信長へと使者を送り、一味するという意志を伝えなければ」と、
寺本五右衛門尉・同甚允を若狭から上洛させ、信長に一味して忠勤を貫く旨を、京都へと言い送った。

こうして二人の者たちが小船に乗り、夜を日に継いで急いでいると、やがて若狭の国へと着いた。
そのころには、信長は惟任によって本能寺で討たれてしまっていた。
秀吉が調停を急ぎ、毛利三家と和睦して京都に向かっていると聞くと、
「これはどうしたことだ。聞いていたのと違うではないか」と引き返し、また隠岐の国へと帰っていった。

そのとき少輔五郎・寺本安芸守・同和泉守・同善兵衛尉・同五右衛門・
同神允などは、頭を寄せて話し合った。
「これほどの陰謀は、やがて人の知るところとなってしまうだろう。
となると、皆滅亡を逃れられない。
こうなったら、清家を騙して、饗応するふりをして招き入れ、討ち果たしてしまおう。
清家の謀反だと言って、我らの罪を着せてしまおうではないか」
と決議すると、天正十一年七月十一日、少輔五郎は使者を遣わして、清家へと饗応の案内を送った。

隠岐守は何の用心もなく、うかうかとやってきた。
そのとき清家は、京都・中国の和睦が成立して、こんな遠国までもが無事を喜んでいると、
舞えや謡えと言っているうちに、盃の数を重ねていった。
清家がひどく泥酔し前後不覚に陥ったと見るや、少輔五郎は安芸守にキッと目配せをする。
それと同時に、その座にいた寺本一党が太刀を抜いて清家に切りかかった。
さしもの猛者の清家も、その身をズタズタにされて、その場で息絶えてしまった。


以上、テキトー訳。続く。

秀吉VS柴田とかがたった数行の扱いで、配下のほぼ無名な勢力を長々と取り上げる
正矩のその姿勢、私、嫌いじゃないwwwww
こういうのが、埋もれた軍記物の醍醐味だよねきっと(*´∇`*)

「おきおきのかみ」って……と思ったけど、織田には「いがいがのかみ」もいたから、
同じくらいのインパクトだな。変ななm……いえなんでもありません。

しかし自分の命より家の存続を優先しようって考えは、なかなか壮絶だなぁと思った。
鎌倉時代あたりからこんな感じだと認識してるんだけど、合ってるのかしら。
二重外交って、それなりに普通の手段だよね???
あれ、ちがうかな、よく知らん。

まあそんなわけで、次回も続き。
隠岐は広家が輝元から与えられた所領だから、なんかドキドキするわー(*´∇`*)
2012-06-11

紹巴のワルヂエ

やっぱり前の章が短いから、晩中にもう一本アップしとくか。

物語は、信長が光秀に討たれ、光秀は秀吉に追い落とされて土民の手で討ち取られたところまで進行中。
たぶん柴田勝家も追い落として、秀吉が天下を握ったころだと思っていいのかな。
今回は光秀の謀反に絡んで、光秀に同心した者たちが裁かれる過程での、
連歌師紹巴法師のお話。


紹巴法師のこと、ならびに秀吉連歌のこと

さて、秀吉は怨敵の惟任の残党や味方した者たちをすべて探し出して刑に処してしまったので、
皆山林江湖に隠居してしまった。
紹巴法師は、去る(天正十年)五月に、惟任日向守が愛宕山に上り、
信長公を殺して天下を手に入れようと考えたときに、
「時は今 天か下知五月哉」という発句をしている。
これは光秀の発句ではあるが、実は紹巴法師の作意である。
この句は、信長を討って光秀が天下の権勢を握るだろう、との意味がこめられている。
ということは、紹巴法師は光秀の逆意に味方したことになる。
秀吉が急いで刑に処そう言い出すと、流罪に処すことに決定した。

この法師も事前に、「この発句のせいで私が刑罰にかけられるのは間違いないだろう」と思った。
法師が急ぎ愛宕山に上って「その懐紙を拝見したい」と言うと、西の坊がすぐに取り出して見せた。
紹巴は近くの物陰に隠れると、その発句の「天か下知」というところの「知」の字を小刀で削り、
またその上に元通り「知」という字を書いて、なんでもないふりをして、西の坊へと返して帰っていった。

案の定、秀吉は紹巴を呼んで、
「いかにも御坊は光秀に与し、愛宕山へ上り、『天か下知』という発句をしたと聞いている。
この句には光秀が天下を司るだろうとの意味が含まれている。
日向守に言わされたのか、信長を呪詛しているように思えるぞ。
であれば、光秀の謀反に同心した輩だ。急いで刑にかけなければ。
もし申し開きがあるならば急ぎ申し述べよ」と言った。

紹巴法師はかしこまって、
「仰せには大変驚きました。私に何の恨みがあって、信長公を呪詛などしましょう。
何の得があって光秀に同心などいたしましょう。
去る五月二十八日、光秀が愛宕山で連歌を興行すると申されましたので、
このような謀反の企みがあるなどとは露ほども知らず、何の用心もなく罷り上ったのです。
私に代わりに発句をするように申されましたので、『時は今天か下なる五月哉』と詠んだのです。
『知』などと詠んだ覚えはありません。
これはきっと、おかしな輩が讒言を構え、この紹巴を亡き者にしようとしたのでしょう」と言った。

秀吉は「確かに申す通りかも知れんな。ではその懐紙を証拠にしよう」と、
愛宕山へと急ぎ人を走らせ、懐紙を取り寄せて目を通すと、紛れも無く「天か下知」と書いてある。
秀吉は「紹巴よ、どういうことだ。もう申し開きはできんぞ。
これを見てみろ、『天か下知』とある。
こんな証拠があると知りながら、ほんの少しでも難を逃れようとして、
愛宕へ人を走らせろ、懐紙を見よなどと言うとは、光秀に与しただけでなく、
今またわしをも誑かしたのだ。許すことはできぬ」と言った。
最初は流罪にしようとしていたが、今度は自分を誑かしたのがますます憎く感じられて、
「首を刎ねよ」と激怒していた。

そのとき紹巴は少しも騒がず、袖を掻き合わせ、
「この紹巴、いったいどうして、これほどまでに人に憎まれたのでしょうか。
私が『天か下なる』と書いたものを、罠にはめようとしてか、
『なる』という字を削って『知』と書き付けてあります。これをよくご覧ください」と言う。
その場にいた者たちが、皆頭を寄せてこれを見てみると、確かに削った跡の上に『知』と書いてあった。
座中の人々は皆、「じつに紹巴が申すように、怪しい者が手を加えたのでしょう。
紹巴が申す通りです」と言う。
秀吉もこれを聞いて、「実にこれは道理だ。
今に始まったことではないが、世の人は口さがないものだ。
目を信じて耳を疑えというのも、確かにそうだというものだ。
わしは讒言を信じて紹巴を処刑してしまうところだった」と言った。

紹巴の才能が普通の人と同じであったならば、「知」という字を削って「なる」と書いただろうに、
そこでまた「知」と書いておき、こうして弁解しおおせて刑を免れられたとは、
紹巴の才もなかなか深いものである。

その後、秀吉は紹巴を呼び、「おまえは歌道においてわからないことは一つもないのだろう」と言った。
紹巴は「いまだすべての儒書をすら究めていないのに、
どうして歌道でわからないことがないなどということがありましょう」と答えた。
すると秀吉は激怒して、「わしは、歌学は易しく儒学は難しいと聞いている。
それなのに、自分が生業にしている道だからといって、
浅いものを深いと言い、深いものを浅いと言い立てるとは、はなはだ奇怪なことだ。
わしは布衣を着ていた身分から、剣を握って世を治めるまでになった。
だから一文不知の者だと侮ってそのように言うのだろう」と、
そばにいた細川兵部太輔藤孝に向かって、「どう思う」と尋ねた。

藤孝はこう答えた。
「そうですね、紹巴が申すように、儒書を学び究めなければ、歌道の奥旨には至ることができません。
すべての儒書や経論などが歌道には引かれていますので、
儒書を広く知っていなければ、歌道の片端にさえも至り得ないのです。
それに我が国は神の国です。大和歌は神のお言葉です。
神の御心にかなうには、和歌以上のものはありません。
神国に生を受けたというのに、神慮にかなわなければ、どうして武運長久でいられるでしょう。
目に見えぬ鬼神をも従え、猛々しい武士の心をも和らげるのは、和歌の徳です。
武器を用いずに太平を保つには、和歌の力ほど役に立つものはありません。
戦の勝敗は、上下の和にあります。

呉子はこう言っています。
『不和には四つある。国を和らげければ、軍を出すことができない。
軍を和らげなければ、陣を出すことができない。陣を和らげなければ、戦に進むことはできない。
戦で和らげなければ、勝ちを決することができない。
これによって、道を知っている主は、将にその地の民を用いる。まず和らげて大事をなす』とあります。
ですから、『和』の一字が勝利を制し、国を収める枢要になります。

和歌の「和」は和らげるという意味です。
先ほど申したように、鬼神さえもが和歌の徳に懐くのです。人間など言わずもがなでしょう。
仏神の加護を受け、君臣合体の和をなし、勝敗の利を確保し、国家の泰平を保ち、
万民を撫育する道には、和歌の道ほど適したものはございません。
ですから、天下泰平の功を生業となさっいるあなた様が和歌の道に携わらないままであれば、
天照大神の神慮にも背き、万民撫育の御心さえも疎かになって、下民が徳に懐くこともないでしょう。
上は神慮にかなわず、下は人望に背かれては、武運永久、国家安全の功を立てなさるのは難しいはずです」

これを聞いて秀吉は、「そうか、敷島(和歌)の道に歩を進めなければ、
天下草創の功は難しいのだな」と言って、
紹巴法師を師として、歌の道を学ぶことにしたので、紹巴はすぐに至宝抄を選んで進上した。

こうして連歌興行が開かれたが、ある句に「白鷺や氷の隙に求食らん」とあったので、
秀吉が「下なる鰌(どじょう)天井張夕見まいな」と付けると、
満座の者たちは「あっ」と言ってしきりに感心し、その声はしばらく鳴り止まなかった。

その後また秀吉が「集まりつつもカマキリ鳴なり」という句を出すと、
紹巴は「カマキリは鳴きません。少し手直しされてはいかがですか」と言った。
秀吉は、「虫なのに鳴かないものなどあるか。
蛍も口があるのだから、なく鳴く言われても、納得はできない」と言って、機嫌を損ねてしまった。
細川藤孝は、「蛍こそよく鳴くものでしょう。
古い歌に、『武蔵野はしのつくばかり 降る雨に蛍ならでは鳴く虫はなし』と詠まれています」と言った。
秀吉は「わしもそうしたことをもって『鳴く』としたのだ。
さしもの紹巴も、この秀吉の学には劣っているな」と、したり顔になった。

また、「名はいちじるしき武士の道」という句に、秀吉が「明智・柴田を退治して」と付けると、
これもまた皆で称美した。
この人は、勇智こそ古今無双の名将だとはいっても、
もともとは尾張の中村の土民の子で、「猿」と呼ばれていた人だったので、
何事においても愚かで下品なことが多かった。

こうして秀吉はしばらく和歌をひねってばかりいたが、つくづくと考えて、
「歌や連歌は紙に墨で記して末代までも残るものだ。
下品なことばかり言っていては、後々の名折れになる。
乱舞の遊興の会をしよう。能は一座一興で、その形を留め置くこともない」と、
それからは寝てもさめても乱舞にのめりこんだ。
そのころ越前の幸若太夫に「三木」「本能寺」などという舞を作らせて舞わせ、
四座の猿楽には「明智退治」「吉野詣」などという謡を作らせて謡わせた。
これらはすべて秀吉自身のことだという。


以上、テキトー訳。

ちょ、紹巴さん、これヤバい話なんじゃないすか???
……こういう話って、誰がいつどこで誰から聞いた話なのかものすごく気になるよね。
秀吉が存命のうちに、こんな話が出たらものすごく問題だろうし。
香川春継とかも紹巴に弟子入りしてたようだから、師弟間でぶっちゃけられた話なのかねぇ。
弟子もこんなことぶっちゃけられても困ると思うんだけど、
このころのノリなら、やんややんやの大喝采なのかな? よくわからん。

まあ実際あったことかどうかもわからないし、深く考えない。
もしかしたらどこかに似たような元ネタがあって、それベースで正矩が創作してるのかもしれん。
新庄局醜女説のように。
なんとなく、紹巴は知恵も回って弁も立つ、なかなか肝の太い人だな、というのは伝わってきたw

あと幽斎様かっこいいな!
逸話スレの話もあんまりじっくりとは読んでないけど、秀吉に阿ってるイメージが強かった。
しっかり言うべきことは言ってるよね、この話では。
和歌と儒学のところで、紹巴が先に秀吉の機嫌損ねてるのに、秀吉に合わせることはせずに、
紹巴の論を補強して秀吉を納得させるとか。
蛍のところでは、秀吉の機嫌を取るためにというよりは、ちゃんと論拠出してるし、
学問に対する芯みたいなのが感じられる気がする。かっこいい。

さてお次は、秀吉との対陣でゴタついた毛利領内のお話。
とりあえず隠岐で何かあったらしい。
2012-06-10

香川正矩先生の次回作にご期待ください

さて夫のためなら女の命?をも売り渡す女房と死に別れ、
出世したものの「いつか讒言で殺される」妄想に取り付かれて
世紀の大謀反を果たしおおせた明智光秀さんがとうとう成敗される章ですよ!

……ってアレ???


惟任滅亡のこと

さて、羽柴秀吉が西国から駆け戻ると、光秀は山崎へ向かって、
宝寺の上の山へと上がって一戦しようと考えたが、秀吉の先陣が早く、
山の八分目まで攻め上ってきた惟任の勢へと、真っ逆さまに駆け落ちていった。
日向守はたちまち一線のうちに打ち負けて散り散りになり、ついに坂本の近辺で、
地元の下人によって撃ち殺されたそうだ。
このことは「天正記」に詳しく載っているので、ここでは委細を記さない。

その後、羽柴・惟住・筒井の三人が床几に腰掛けていたが、
秀吉が「これからは、わしが天下の権勢を握る。皆もそう心得よ」と言った。
筒井・惟住は床几から急いで下りて、頭を地に着けた。
秀吉の威は諸将よりも飛びぬけており、ついに四海の安危を掌中にしたということだ。
その後の柴田退治、小牧合戦などのことは、遠国のことなので詳しくは知らないが、
だいたい「天正記」に書いてある。


以上、テキトー訳。

短ッッッ!!!
詳しく知らないにしてもそれなりにやりようがあると思うぜ正矩!
すでに巷間に流通してる話でも、なんとかしようぜ正矩!
ここ大事だと思うの!!!
打ち切り漫画じゃねーよ!?

天正記探して読むのはメンドイので、私もスルーして次にいこう。
今回短いから、次の章も一緒にアップしようかと思ったけど、
次の章がそれなりに長いのな……

そんなわけで次回は紹巴さんのお話だよってなぜここで紹巴?
あの人連歌師とかじゃなかったっけ?
2012-06-09

本願寺のドンパチ

なんとなく元春の手紙とか読んでた(というか眺めてた)から吉川充できた(*´∇`*)~♪
やっぱイイなぁ元春。最初は三兄弟のなかでもほとんど興味なかったのに。
手紙とか読むほどに、お父さんっぷりに萌えるというか。いや弟としても可愛いね。

そんなわけで陰徳記は芸もなく続きを読む。
いや、九州立花陣読もうかと思ったんだけど、
どの辺から読み始めるべきか考えるのが面倒になっただけなんだけどねw

さて、だいたいの流れとしては、織田信長が光秀に殺されて、
大混乱に陥っているあたりだね。
今回は、そのころ織田に攻められてた本願寺のお話。


信長公、本願寺へ討手を向かわせ給うこと、付けたり門跡表裡と分かつこと

信長公は生前、こう言っていた。
「大阪の本願寺は表裡を構え、自身は和睦したといって大阪の城を去り、
教如を後に残して籠城させている。
これは信長を欺いただけでなく、天子の勅定をもないがしろにしているのに等しい。
このような悪逆の罪を犯した佞僧、勅に背くようなやつを生かしておけば、
さらに邪法を使って人々を魔に引きずり込むような者が繁栄し、天下泰平の功を妨げるだろう。
急いで顕如上人を誅殺すべきだ。

しかしながら、顕如上人を追討することを世間に発表すれば、
また紀州や諸国の宗門の徒らが蜂起して、由々しい事態になってしまうだろう。
幸いにも、最近は四国の三吉の残党や長曽我部土佐守(元親)らを退治して、
この四ヶ国を三七に与えることに決まった。
この四国征伐にかこつけて、三七を大将として、本願寺顕如を誅伐させよう」と密かに決定してた。

同年(天正十一年)五月下旬に、神戸三七郎(信孝)を大将として、四国征伐を決行すると発表した。
総勢一万五千余騎が花の都を出発して大阪に着き、そこから堺を通って和泉の国に進軍し、
浜の手と山口越とに陣を据えた。
人々は皆、「なんとも不思議だな。
四国征伐として出発されたのだから、海辺へと行きなさるはずなのに、
今こうして陣を構えているとは。
きっと四国征伐というのは口実で、紀州にいらっしゃる顕如上人を討とうという腹づもりなのだろう」
と思って、その在所にいる者たちは、櫛の歯を引くように、このことを上人へと告げてきた。

上人はこのことを聞くとすぐに鷺の森を立ち退いて和歌山へと上り、
所々に関を設け、難所を切り塞ぎ、寄ってくる敵を待ち伏せた。
こうしたところに、神戸殿の先陣が六月三日に鷺の森へと押し寄せた。
上人の兵たちは、如来の助け、祖師の恩に報謝するためならば、
骨を粉にし身を砕いたとしても惜しく思わない者たちだったので、
今回が最期だと思い定め、大鉄砲を構えて散々に撃ち掛けた。
寄せ手は何とか持ちこたえたけれども、楯も竹束も打ち破られてしまったので、
さすがに堪えかねて数十町ほど引き退いた。

また引き返して攻めてくるだろうと、門跡方の兵たちが鏃をそろえ、槍を提げて待ちかけていると、
巳の刻(午前十時ごろ)には、急に敵が陣を払って大阪目指して引き退いていく。
こんな風に敵が引くとは思わなかったので、上人の兵たちは、跡を追うこともなかった。
これほどの猛勢で攻めてきて、先陣では鉄砲のせめぎあいまでしたのに、
易々と引いていくのを不審に思っていたが、
後から聞いたところでは、信長が惟任日向守(明智光秀)に殺されたと報告があったので、
急いで引いていったのだという。
光秀の悪逆の行いがなければ、上人の命は危なかったかもしれない。

さて、教如上人・准如上人の兄弟は仲が悪く、惣領・庶子の争いがあってからは、
両門跡に分かれて、西を表、東を裡と言った。
その顛末を聞いてみると、信長が惟任に討たれてからは、
顕如・教如ともに、何を恐れることもなく胸を撫で下ろし、
父子の対立についても禁裏から勅定があって、勘当を解かれ、教如は隠居となって、逼塞して暮らした。
顕如上人は次男の顕尊を差し置いて、三男の准如上人に嗣法した。
元祖からの聖教家宝もこれにすべて付属している。次男の顕尊は興正寺の門跡となった。

こうして顕如上人は紀州の鷺の森の坊から、天正十二年八月上旬に、和泉の貝塚へと住まいを移した。
同十四年には天満へと入った。天満の御坊というのがそれである。
その後、伏見に伽藍を建立したいと秀吉公に申し入れたが、
秀吉公は何と思ったのかわからないがこれを了承せず、同十九年に今の六畳堀河の御坊へと移った。
そこの土地を点検して布金の土地となし、大伽藍を建立してから、
文禄元年十一月二十四日に、顕如上人は入寂した。

教如上人は、秀吉公が挑戦征伐のために肥前の国の名護屋に発足したときに、
そこへと使者を送り、「教如が宗領なので、顕如の本寺を相続したい」との嘆願を行った。
また、聚楽第にいた関白秀次公にもこのことを訴えて、近習の者たちに金銀珠玉を渡し、朱印状を申請した。
その文面は、「惣領の教如上人が寺法をよくよくあい勤められ、
三男准如上人は、教如の現在の屋敷へと移るといい」ということが書いてあった。

このことについて、家老や奉行たちが駆けつけて評定し、
「まずは御朱印の旨を守らなくてはなるまい。
いかに寺の法や顕如上人の譲り状を立てたとしても、太閤公のご機嫌を損ねてしまえば、
皆流罪や死罪に処されてしまう。
そればかりか、准如上人のためにもよくないだろう」と決議した。
そして教如上人を立て、准如上人を隠居屋敷へと移した。

翌年の文禄二年、太閤秀吉公は名護屋から戻ってきて、やがて摂津の有馬へと湯治に行った。
このとき、顕如上人の後室(如春尼)が有馬へとやってきた。
太閤公は如春尼に対面してさまざまな話をしたが、そのときに
「そちは果報めでたくて、よく育った子供を多数持たれてうらやましいことだ」と言った。
如春尼には内々に訴えたいことがあって、これにかこつけてみようと思い、
少しお願いがあるということを、いかにも理由がありそうに言い出した。

そのとき殿下が「それはなんじゃ」と尋ねたので、如春尼は話しはじめた。
「そのことでございます。教如は本願寺を相続すべき身上ではございません。
相続については、父の教如の譲り状も、三男の准如に与えられています。
しかし、御朱印には背けませんので、是非もなく教如を本願寺に置いているのです」

これを聞いて、太閤秀吉公は、
「授法の次第を知らず、ただわしが教如上人と入魂の仲だったから大切に思うまま、
一時も早く安堵させ、諸ひともさらに帰依するようにと考えて朱印を出したのだ。
では大阪城に帰って教如を呼び寄せ、事の次第を尋ね聞き、
そのうえで朱印状を取り上げることとしよう。ご安心なされ」と言った。
如春尼は数々の贈り物を与えられ、都へと帰っていった。

その後太閤公が帰城すると、このことを調査して、准如上人へと判物を出した。
その文面は次の通りである(西本願寺文書)。

「本願寺影堂の留守職のこと、親鸞聖人以来の代々の証文、
 とりわけ先代の光佐(顕如)から光昭への譲り状には明白で、叡慮した。
 よって、三男ではあっても、寺法の任せ相続すべきこととする。
 ますます勤行などに怠りなく励むように。
     文禄二年十月十三日     関白秀次(御判)
       本願寺殿」

この原本は横切の紙に十一行で書かれており、外に年号・月日・御判がある。

「本願寺影堂の留守職のこと、親鸞聖人以来の代々の証文、
 とりわけ先代の光佐(顕如)の譲り状には明白で、殿下が叡慮した。
 三男ではあっても、寺法を任す旨、光昭へ仰せ付けられたのはもっともである。
 よって、勤行などいよいよ怠りなく励み、勤めを果たすことに専念するように。
     文禄二年十月十六日     太閤秀吉(御判)
       本願寺殿」

これも同じ横紙である。

さて、太閤公父子がこのように判物を出すと、教如上人はどうしようもなく、
またもとのように隠居して、准如上人が本願寺を相続した。
教如は智計は人よりも優れていたので、八年間の春秋を送った後、再び「門跡」として仰がれた。
准如は表(西)門跡と呼ばれ、教如は裏(東)門跡と呼呼ばれて、繁栄したと聞いている。

この門跡へと与えられた秀吉父子の朱印状は、
ここに載せている各話よりもはるかに後の話ではあるが、筆のついでに記しておく。


以上、テキトー訳。

信孝の話だったはずなのに、いつのまにか本願寺の内部抗争の話になっていたでござる。
へぇ~、本願寺の東西ってこのころ分かれたんやー(゚▽゚ )
……気の遠くなるような昔、歴史の授業で習った気もしなくもないが忘れているね!!!

しかし浄土宗だか浄土真宗のあたりは複雑怪奇な感じだよなー。
坊さんなのに普通に妻帯するんだもんな。開祖の親鸞聖人からして。
女房は尼住職が妻帯して子が相続する図式が当たり前なんだけど、
ほかの主立った宗派がそうなったのは、明治以降だそうで(しかも政府の命令で)。
なんか頭から、昔の坊さんは女色厳禁のイメージがあるから、
坊さんの奥さんとか子供の話が出てくると面食らうね。

しかし、坊さん自体に血縁が絡んでくるのが一向宗だとすれば、
一向一揆みたいな組織力もうなずける気がするなぁ。
信仰および血縁でガッチガチに固められた団結力とでもいうのか。
一向宗それ自体が一つの「武家」みたいな共同体だったのかな。

さてさて、次の章はいよいよ本能寺の変態、じゃなかった、
みっつんが追い込まれる章のようだ。
2012-06-07

引用に関する注意

当ブログの記述をもとに2ch「戦国ちょっといい話」「戦国ちょっと悪い話」スレッドへ投稿された方へ。
逸話を紹介する際に、当ブログの文章をそのまま用いないでください。また、部分改変もお断りいたします。
現在の引用は、著作権に関する法律に抵触する行為ですので、
どうか、ご自身の文章による逸話紹介をお願いいたします。
2012-06-06

天正9年10月25日寅の刻

なんかいろいろと実生活でトラブル起こってて集中できてないけど、
とりあえず山縣長茂覚書の続き。
今回がラストでっす!


山縣長茂覚書(下)

一、(式部少輔殿は)その後行水をなされ、介錯の両腰とお好みの青黄の袷をお着けになり、
  広間へとおいでになった。
  上座に具足唐櫃を置き、皆へお暇乞いの盃を出されたとき、
  式部少輔殿の家中の小坂永左衛門が進み出て、
  「このようなことは前代未聞でございます。筑前殿の検使をこちらへお呼びください、野田殿」
  と言ったが、野田は「私もお二人を呼んだのですが、強くご辞退されまして」と答えた。
  静間(源兵衛)が奏者を務め、それぞれの内衆まで盃を配った。
  福光小三郎は白い越後帷子を着て、数珠を手にかけ、静間の脇に控えていた。
  収めの盃を静間にお与えになるとき、(式部少輔殿は)空笑いを二つ三つなさった。
  それから、具足櫃に腰をおかけになり、脇差を中巻きになさって、
  とても大きな声で「内々にも稽古をしたことがないから、不調法かもしれないな」と仰って、
  十月二十五日寅の刻、生年三十五で切腹を遂げられた。静間が介錯をした。

一、福光は式部少輔殿の前に一畳ほど離れたところにいたが、切腹を見届けると、
  脇差を胸に押し当て、掛け声をかけて乗りかかった。若鶴(甚右衛門)も同様に切腹した。
  この二人の介錯は竹崎市允が行った。

一、森下・中村は、二十四日の晩、それぞれの番所で切腹をしていた。
  式部少輔殿は筑前守殿からの「残りの兵たちを無事に送り届ける」という神文を待たれ、
  それを拝見なさって、こちらからもお暇乞いの書状を用意したので、二十五日に切腹した。

一、(式部少輔殿の)御験(首)は、濯ぎ清めてから首桶に収め、
  お暇乞いの書状を添えて、野田左衛門尉が筑前守殿のご陣所へと持参した。
  秀吉は感涙に咽んだと、野田が言っていた。

一、二十五日の朝、一柳の陣所の尾崎の矢倉へと筑前守殿がお寄りになって、
  下城する者たちを見物なさった。
  袋川の橋の左右に検使を百人ほど置かれ、
  芸州からの加番の衆と森下・中村の子供はそのまま通れたが、
  残った国方の衆はそこで差し止められた。

一、芸州の加番衆は神文の通り、杉原七郎左衛門が先導して、因州の大崎の麓まで送り届けられた。

一、これは籠城より前のことであるが、森下・中村の犯した重罪への怒りが深いと
  筑前守殿が仰せにになっていたことは知らなかったので、ありのままに書いておいた。

一、その後の話を聞いてみると、式部少輔殿の首には侍が二名つけられ、
  京都へと届けられて、江州の安土山で、信長公が諸大名を呼び寄せたうえで、
  名誉の侍の首実験を見物されたという。
  その後は寺に送られ、供養を仰せ付けられたと聞いている。

一、今田孫十郎殿が鳥取に送られたとき、小姓としては三木彦四郎・村井?十郎などをお連れになっていた。
  先方には井下新兵衛・武永四郎兵衛がいたので、孫十郎殿も一緒にと言い渡された。
  そこに今田中務少輔(経高)殿から、誰でもいいからあと二人ほど添えて下国されるようにと
  仰せ付けられているとうかがったので、私を途上の供としてお付けになられた。
  孫十郎殿は鳥取の国方衆へと、一通り準備が整ったら罷り下ろうと仰せになり、
  先方では式部少輔殿が、(孫十郎に)ぜひとも逗留していただきたいと、八橋へ通達していたという。

  京勢の先陣が因幡・但馬の境まで来ているとの風聞があったので、
  かねてから言い聞かされていたように、(鳥取へと)罷り下ることになったので、
  私も断りようがなく、それからは式部少輔殿の御前に絶えず置かれていた。
  そうしたわけで、籠城の調停の内容を詳しく知っている。
  そのころは、私は本当に若輩だったので、
  今では老いてしまって覚えていないことも多くあるけれども、、
  仰せに従って覚書をお目にかける。

    寛永二十一年十一月十一日    山縣源右衛門尉入道長茂
      吉川主馬佑殿


以上、テキトー訳。おしまい。

なんか最後でだいぶ読めないとこが多くて悔しい。
長茂さんは、今田孫十郎が鳥取に入るタイミングでついていったって理解であってるのかな?
……ホントは毛利の家臣団・国衆の構成を体系的に理解してた方がいいんだろうけど、
まあそれについては追い追い……_(:3」∠)_

鳥取のゴネ家もとい、経家はまじカッコイイよな。むかつく。

次は陰徳記に戻ろうかと思うけど、吉川勢出てこないと禁断症状ががが。
もしかしたら続きではなくて、別の章に飛んでしまうかもしれん。
最近いい子ちゃんで、なるべく順番通りに読んでたけど、
そろそろ腹の虫が「好き勝手したい」と言い出した。
なので次回予定は未定! です!!!
2012-06-05

経家の覚悟と和睦交渉

さてさて今日は元長さんの命日ですよ。
ウィキペディアには15日ってあるけど、何かの間違いだと思うの。
当時の書状読んでも5日だと思うよー!
鳥取落城から数年経って、元長がやっと幼馴染の経家に会いに行けた日なのかもね。
水魚の仲、自分の半身とも思ってたんだよね、元長……・゚・(ノД`;)・゚・

てなわけで(?)山縣さんの覚書の続き~。


山縣長茂覚書(中)

一、鳥取では籠城が始まってしばらく経つと、兵糧がないことが陣中にも漏れ聞こえた。
  和議に向けた調整が始まった。
  野田左衛門尉が国衆方の婿だったので、その舅に密かに連絡を取り、
  扱いの使いには堀尾茂介・一柳市介が立ち、城内からは野田左衛門尉が務めた。

一、はじめは軽々しく申しかけてきたものの、次々と条件が増えていって、
  森下・中村の切腹についてまで要求してきた。
  式部少輔殿はこれを絶対に承知しなかった。
  調停役の二人は重ねて、「森下・中村のことは、
  一旦は因幡・但馬・東伯耆まで大人しくしているように仰せ付けられながら、
  再び乱れたのはこの二人の逆意のせいである。
  そのうえ譜代の主君に対して不忠の罪人であるから」と、
  秀吉公が(二人の切腹なしでは)承知しないと通達してきた。

一、「丸山に籠め置かれた塩冶・佐々木・奈佐は、近年北前での山賊・海賊の罪科が浅くなく、
  芸州で召抱えるのも、上方に置いておくのもよろしくない。
  今回切腹するように」と、四、五日後に申しかけてきた。

一、式部少輔殿の内意は、「森下・中村に関しては、
  禅高(山名豊国)への不義については秀吉公が仰せになるとおりだ。
  しかしながら、自分自身が出している人質をも捨て、芸州に大きく貢献した。
  丸山に置かれている塩冶・佐々木・日本助らについては、差し当たってかまわない。
  (森下・中村の)二人のことは、何とか容赦してもらって、
  元春様の御陣所へと送りたい」というものだったが、このことに秀吉公が納得しない。
  さらに式部少輔殿ご自身のことについて、
  臨時の加番だとはいっても、鳥取城を預かっている身なのだから、
  森下・中村は言うに及ばず、禅高の家中の者すべてに「式部少輔殿」と尊敬されている。
  よって、絶対に逃げないと、無二の覚悟を決められた。

一、こういう次第なので、式部少輔殿は堀尾茂介・一柳市介へと切腹を申し出た。
  筑前守殿は、それは無用であると伝えてこられたが、無二の覚悟だったので、
  またこちらから(切腹すると)伝えて、一旦調停を止めた。
  二、三日してから、筑前守殿からこう伝えてきた。

  「ずっと以前から諸国の戦争で和睦の交渉は多々行われてきたが、
  式部少輔殿は百日余りも籠城を遂げられた。
  この秀吉は天下(織田信長)からの軍代として罷り下った。
  和睦をして諸人をお助けになることは、今後、式部少輔殿の瑕瑾にはなるまい。
  そのうえ、重罪の森下・中村などと同じように切腹させてしまっては、
  この秀吉が道理をわきまえぬ傍若無人のようになってしまう。
  秀吉の意に任せて、切腹は思いとどまってほしい」と再三通達されたが、
  (式部少輔殿は)議定の条文を再度渡すと、調停を止めてしまった。

一、元春様と元長様へお暇乞いの書状を、式部少輔殿が自筆で調えられ、
  井上木工允・森脇大蔵と宛名し、加番に置かれた国衆への暇乞い状もそれぞれ用意され、
  辞世の句も調えられると、筑前守殿からの検使を待たれていたが、
  (筑前守殿は)四、五日も可否の判断を伝えてこなかった。

一、その後、羽柴筑前守からはこう伝えてきた。
  「式部少輔殿のご切腹について、何度お止めしても納得してもらえず、
  その家名を恥じる無二の覚悟は、実に神妙である。
  何日にも及ぶ籠城で兵糧が尽き、牛馬や人まで食うようになったことは、
  天下にも隠さず申し上げるつもりだ。
  このまま和睦をして吉川式部少輔殿を西国へと送り帰せば、天下が今後の戦で苦戦するだろう。
  式部少輔殿の覚悟を、名誉として、この秀吉が末代まで伝えていく。
  ついては、秀吉の陣所へと一人遣わしてほしい。神文に血判を押すところをお見せいたす。
  此外一人も覚悟たて於有之者、見掛た?籠城候間、
  矢鉄砲を留立ほしに可申付之由、堅被仰越候事(※訳せなかったので原文)

一、その後、野田左衛門尉に小野太郎右衛門を添え、筑前守殿の陣所へと遣わした。
  (二人は)御神文を受け取って帰ってきた。
  そのとき、「(経家の首を)天下に送り届けるから、介錯は念を入れてほしい」と
  (筑前守殿が)仰っていたと、野田が言った。

一、筑前守殿の御神文を見ると、式部少輔殿は
  筑前守殿へのお暇乞いの一書の案文を自筆でしたためられ、
  私(山縣長茂)に清書するようにと仰せになった。
  私は若輩で悪筆なので、なんとか辞退したかったが、
  折も折のことなので、断ることができずに清書をした。
  その文章は次の通り。

  「今回、因幡の鳥取で京(織田)・芸(毛利)の戦の境目となり、
  筑前守を相手に私が切腹に及び、諸人を助けることになった。
  恐れながら、後代までの名誉としたい。
  このことを、天下にご披露願う。恐惶謹言
    天正九年十月二十五日     吉川式部少輔経家
      羽柴筑前守殿」


以上、テキトー訳。あと1回で読みきる予定。

ゴネ家さん……「自分が死ぬ」ってゴネる人はそういないよ。ばか。
この人のお暇乞いの書状は、経言(広家)宛、子供たち宛は読んだけど、
元長・元春宛は見かけたことないんだよな。現存してないのかな。
宛名は井上木工允・森脇大蔵らしいですぞ! ですぞ!

ちゃんと宛名に元長の名前書いてやれと思ったが、
隆元も元就に宛てた手紙の宛名を家臣の名にしてるんだよな。
そういう文化なのかしら??? 浅学だからいろいろわからんわ><。

あと、なんで経家がこんなにも頑なに死を望んだのだろうって考えてて思いついたこと。
~~~以下妄想~~~
もしかしたら、生き延びた場合は上方の捕虜にされて外交カードに使われるか、
織田の対毛利戦線の先兵にされると思ったからじゃなかろうか。
元長から経家への手紙で、「経家のことを自分の弓矢のように思ってるようでおかしいけれども」
みたいな一文があって、私はそれがとても印象深かったんだけれども、

経家「わしは元長様の弓矢じゃ。元長様に向かって放たれる矢になるわけには参らぬわ!」

とか呵呵大笑しちゃうシーンを夢想したね。うん、妄想だけども。

さて次回はラストまで読む(つもり)ですぞー!
2012-06-03

少年兵が語る鳥取城の攻防

さぁて、本日の当ブログは!?
と、サザエさんちっくに始めてみたけど、何のことはない、
ずっと読まなきゃなぁと思ってた「山縣長茂覚書」に挑戦だ!
備中高松城の宗治切腹の日が近いって?
読んだばっかりで一通り泣いたから、けっこう満足してるんだよな……
読みたい資料手元にないし。

そんなわけで空気を読まずに鳥取城にいた人の覚書読むぜ。
でも長いから分けるぜ。


山縣長茂覚書(上)

     覚

一、公方(足利)義昭様と信長公との関係が悪化して、公方様が備後国の鞆の浦に移られたので、
  京(織田)・芸(毛利)が戦争をすることになった。

一、播州上月の城に、西国への押さえとして、信長公より尼子牢人(勝久)が籠め置かれた。

一、天正六年戊寅、元春様・隆景様のご領国中、南北の諸軍勢が打って出られ、
  上月の城を取り巻いた。
  信長公からの援軍として、羽柴筑前守(秀吉)殿・荒木摂津守(村重)が、
  上月の北高倉山に打ち上がって対陣した。
  しかし、芸州方が猛勢だったので手が出せずに、京勢は敗北した。
  その後上月城では、山中鹿助(幸盛)を通じて、
  尼子勝久公・同助四郎殿・神西三郎左衛門が切腹した。
  このほか、日野屋形・立花源太兵衛(久綱)・山中鹿助など、
  ことごとく下城を仰せ付けられ、芸州の勝利に終わった。

一、山中鹿助は毛利殿の家臣になりたいと望んだので、輝元様の御座所、
  備中松山へと送られたが、命を受けた天野元明によって、あいの渡しで討ち果たされた。

一、上月の陣中から、備前の宇喜多直家・伯耆の南条元続が、
  信長公へと寝返ったという噂があった。
  御帰陣の際に逆心を顕にし、宇喜多は隆景様の手勢と衝突、
  南条は伯耆へと逃げ入った。
  元春様はそのまま伯耆に出張りなさって、南条を取り詰められ、
  向城などを堅固にするよう仰せ付けられると、引き揚げられた。

一、翌年己卯(天正七年)、羽柴筑前殿が因幡・但馬表に打ち出ると、
  芸州に味方した諸城の人質を取り固め、東伯耆まで平定を仰せ付けると、引き揚げられた。

一、同辰年(天正八年)中に、山名禅高(豊国)の家臣である森下出羽入道(道與)、
  中村対馬(春実)が家中の者たちと話し合い、人質を捨て置いて、
  芸州に一味するのがいいと、禅高に進言したけれども、受け入れられなかった。
  禅高は手回りの小姓の十人、二十人ばかりを連れて上洛した。
  この通りだったので、因幡・但馬両国のことは言うに及ばず、
  南条までが芸州へとつくことになった。
  森下・中村が、鳥取の加番として、一族の御仁を差し上せてほしいと言ってきたので、
  吉川式部少輔(経家)殿が派遣され、巳(天正九年)の三月十八日に鳥取へと入城した。

一、天正九年辛巳、羽柴筑前守殿が因州に出張りすると、境目から告げてきた。
  加勢を送ってほしいと、式部少輔殿・森下・中村から言ってきた。
  元春様はまだご出陣しておらず、元長様は伯州の八橋の城にいらっしゃる。
  鳥取へは、今田孫十郎(宗與のこと)、丸山へは境与三右衛門を差し上せた。

一、鳥取の籠城衆は、今田孫十郎・朝枝加賀(春元)・山縣筑後(就慶)・森脇内蔵大夫・
  野田左衛門尉(春実)・武永四郎兵衛・井下新兵衛・井尻又右衛門・高助左衛門・
  長和三郎右衛門・大草玄蕃・長岡信濃、このほか近習衆、舟手衆、中間衆、
  その方面の国衆からは、杉原播磨盛重から横山弥太郎・南方半介、
  完道政吉からは同名弾正、古志因幡からは同名蔵人、有地右近からは同名左京など、
  また芸州から加番として四百あまりがいた。

一、丸山には塩冶周防・佐々木三郎左衛門・奈佐日本助、加番の山縣左京・境与三右衛門、
  近習衆、小石見衆、舟手衆、中間衆、人数などは詳しく知らない。

一、天正九年辛巳六月下旬、因幡・但馬の境に、羽柴筑前殿がご出馬。
  同年七月五日、羽柴小一郎(後に大和大納言、秀長)を大将として、
  藤堂与右衛門(後に和泉守、高虎)などが二、三万騎を率い、
  丸山の当方の吹上浜へ打ち上り、丸山の様子を見ると、やがて引き揚げた。

一、同年七月十二日未明に、筑前守殿が猛勢を引き連れて、鳥取東北の高山に打ち上り、
  そこを本陣に定めた。
  田間の流尾に、堀尾茂介(後に帯刀、吉晴)・一柳市介(後に監物、直盛)が陣取った。
  田間は町の外に袋川が水掘のようにあって、この川を前に置き、
  浅野矢兵衛(後に弾正、長政)・中村孫平次(後に式部少輔、一氏)・
  小寺官兵衛(後に黒田如水)・蜂須賀彦右衛門(後に阿波守、家政)、
  鳥取・丸山の間の雁金山には宮部善乗坊(継潤)・垣屋駿河守、
  丸山には小一郎殿一手衆、海上は荒木平太夫(重堅)が数百艘の警護船を並べ、
  隙間なく陣取った。

一、十二日の荒寄には、四、五町ほどの近陣だった。
  翌日から筑前殿は日々陣を回り、諸陣に立ち寄っていく。
  塀を作り濠を掘り、柵の木を積み上げ、十間あるいは二十間ごとに櫓を建て、
  篝火を焚き、袋川には杭を乱れ打って縄網を張り、堅固に構えていた。

一、西口には仙大川があり、渡し口には一城を構え、杉原七郎左衛門が陣取って、
  かる(賀露)の湊へ落ち合い、因幡国中の船を入れた。

一、吉岡安芸は芸州に協力している人である。
  鳥取から西に数里ほど行ったところに、その城は湖に張り出していて、
  尾頸だけが地続きになっている。
  筑前守殿は夜中にその表へと出馬して、尾頸の方から人数を進め、
  自身は城の尾崎の方へと船を寄せ、湖へと追い崩そうとした。
  しかしそこに城内から尾崎の勢が突き出てきて、湖から向かってくる敵船を撃破した。
  数百人が死んだ。筑前守殿は馬印まで捨て置いたまま、命からがら退いていった。

一、吉岡城へ筑前守殿が出馬された夜中、諸陣は宵の内から物静かだった。
  夜明けに見てみると、それぞれの持ち口へと兵たちが出てきており、
  武具や幟、指物などを立ち並べ、驚くほどの警戒を敷いていた。
  このときの敵陣には、十万騎ほどもいるだろうと、城内の手練の者たちが言っていた。


以上、テキトー訳。続く。

まずはじめに考えておいた方がよさそうなのは、
この覚書は寛永21年(1644年)11月11日のものだということ。
つまり、鳥取城の攻防があってからずいぶん時間が経ってる。
約60年……おい、山縣さん、ずいぶん長生きじゃないか!?

と思ったら、この山縣長茂って人は、
鳥取城のときには、経家の小姓として付き従っていたということ。
秀吉に送る書状の清書させられてたりしたから、もっとトシ食ってるのかと思ったけど、
小姓ってことなら、この時点で二十歳を超えていることはなさそうだね。
まあ生年とか調べてないんですけどね(←ダメ)

現代で言うと、大東亜戦争の前線に送られて生き残った少年兵が、
数十年経ってから、当時を回顧しながら書き留めた手記、みたいな感じなんだろうか。
それにしちゃずいぶんと物覚えがいいというか……
たぶん、前から自分用の覚書みたいなのはあったんだろうな。

で、陰徳記もこの覚書の記述を引いてるから、陰徳記は少なくとも1645年以降の成立になるんだね。
そのへんを調べるのも面白そうだな。

さて、次回はいよいよ、鳥取開城に向けた交渉シーンなんかも出てきそうだよ!
2012-06-02

信長死後の混乱

そういえば6月2日は本能寺の変の日だそうで。
というか読んだばっかりじゃん。
そんなことより、私は高松尉開城の日や元長の命日、隆景の命日の方に心が飛んでいるでござる。
元長の! 命日は! 6月5日!
ウィキペディア記載の日付(6月15日)は何かの間違いだと思うよーーー!

さて、今回は、信長死すの報を聞いたムスコたんのお話。


織田七兵衛尉最後のこと

織田三七(信孝)は四国征伐をするといって、実際は本願寺を誅罰するため、
総勢一万五千余騎で泉州堺の津まで打ち出ていた。
松平家康朝臣・穴山玄蕃入道梅雪(信君)は、見物のために、同じく堺の津に来ていた。
境の南北を二手に分け、家康・梅雪を饗応していたが、信長が討たれたと報告が入る。
家康朝臣はこれを聞くと同時に、「道の途中で一揆が蜂起しては大事だ」と、
堺を夜中に出立して遠州目指して下っていった。

穴山梅雪は夜が明けてから堺を出たが、すでに一揆が起こっていて伊賀路で討ち果たされ、
鎧や太刀、刀に至るまで剥ぎ取られてしまった。
この人は、この春に信忠が武田征伐のために甲州に攻め入ったとき、
この入道は自分の命が惜しくなって、たちまち武田から離反して信忠に味方し、敵を引き入れた。
このせいで勝頼父子は易々と打たれてしまったのである。
その因果がたちまち報いて、一揆勢に無残に討たれ、
そのむくろを行き交う人や軍馬の蹄に踏みつけられ、末代まで名を汚すことになった。はかないことだ。

そして織田三七殿は、信長が討たれたと聞くと、四国征伐をやめて大坂に戻り、引き返した。
惟任五郎左衛門(丹羽長秀)は大坂の本城にいたが、三七殿を呼び入れて会議をした。
「織田七兵衛尉(信澄)は、光秀にとっては婿だ。きっと一味同心しているに違いない。
いざ、まずは七兵衛を討ってから、光秀を討つことにしよう」と、
西の丸へとヒタヒタと近寄り、一気に攻め破ろうと切ってかかった。

七兵衛尉もなかなかの勇士だったので、自ら切って出ると、刃から火花を散らして防ぎ戦う。
けれども寄せ手は大勢だったので、難なく押し破って攻め入った。
七兵衛尉は天守に籠もり、腹を掻き切って倒れた。
家人たちがその首を取って出すと、一番に詰めかけていた上田主水正がこれを受け取った。

こうして三七殿は、羽柴秀吉と合流して光秀を退治しようと、
秀吉が帰ってくるのを待つために、大坂の城に足をとどめていた。


以上、テキトー訳。

すごいな。真偽を糺さず「とりあえずぶっころ」とは。
従兄弟なんだよね、信澄……まあ兄弟同士で殺しあうのが日常茶飯事だからしょうがないか。
同様に光秀の婿の忠興の動きも知りたいなぁ。
あの人も記録類が多くてめんどくS……いやいや、面白そう。

信長の死であちこちのパワーバランスが崩壊するんだよね。
それだけを見ても、信長の存在感てのはパネエ気がするけど、
後継者も同時に死んでるのと、家中の謀反だったっていう要素も大きいんだろうな。
病死とかだったら、これほどの混乱はなさそうだもんね。

しかし家康、さすが家康抜け目ないwww

さて、次は本願寺関連の話のようだ。
もしかしたら諸家文書の方に浮気するかもしれない。手紙読みたい欲が、こう、ムラムラとw
2012-06-01

光秀の皮算用

ぎゃわわ、変なところでマシンが落ちたー><。
強制シャットダウン、心臓に悪いわ。でも途中までデータ残ってたのが唯一の救い。

さて、最近手紙を読みたい欲がウズウズしてるわけだけれども、
落ち着いて陰徳記読み流すよ!
今回は、信長が殺された後の筒井順慶の様子だね。


筒井順慶、羽柴秀吉と一味のこと

筒井四郎入道順慶は、昔は源三位頼政に与して宇治橋で一騎当千の勇をなした
筒井の浄妙明秀の末裔である。
数年前に松永弾正が謀反を起こして自害してからは、大和一国を信長から与えられていたので、
先祖にも前例のない国主となって、その栄華に浸っていた。

信長が惟任光秀によって討ち果たされたと聞くと、
大和から総勢五千余騎で打ち出し、八幡山の麓に陣を構えた。
中ノ坊飛騨守をはじめとして家之子を皆呼び集めた。
「さて、今回光秀が謀反を起こし、信長を討ったことは、実に悪逆の至りである。
あれこれと論評する意味もない。
なので、私は信長の厚恩に報いるために、光秀に向かって一矢報いるつもりである。

しかし一歩引いて考えてみると、私がこのように出世して山と一国の主となれたのは、
ひとえに光秀が信長公へといいようにとりなしてくれたおかげなのだ。
私は光秀にも言語に尽くしがたい恩をかけられている。
恩を知っているのが人であり、それを知らないのが畜類だ。
光秀に協力しないのもまた、禽獣と同じ身となってしまう。

また主君を討った輩に与せば、私もまた謀反の同罪を免れることができない。
主君の恩に報いようとすれば、骨肉同胞より親しい朋友のことを考えていないことになる。
朋友の盟約を破るまいとすれば、八逆の罪を身に受けることになる。
いくら嘆いても嘆き足りない」と、
ああすればいいのか、こうすればいいのかと頭を悩ませて、
「どうする、どうしよう」と家人に向かって意見を求めた。

しかしどちらにしても、何が是で何が非なのかも判別しがたく、皆口を閉ざしていた。
酌に回っていた中西小次郎は、そのとき十七歳だったが、手にしていた銚子をそばに置くと、
かしこまって口を開いた。
「是非や得失がわからないことなら、こうして会議評定を開くものなのでしょうが、
これほど白黒、分明、理非が歴然なことを、ご家老衆まで判断できず、
考え込まなければならないのでしょうか」

これを聞いて、座の中で年をとった翁が、
「小童めが、出過ぎたことを申すな。たかだか椰子(蘇鉄?)ほどの大きさなのに、
ずいぶんと大口をたたくものだ」と罵倒した。
そのとき順慶は、「いやいや、そうではない。
年をとっていても少年であろうとも、何の差があろうか。
何でも思うところがあれば、残さず申してみよ」と言った。

中西は、答えて言った。
「そうおっしゃるのでしたら。
惟任が主君の御前でよく取り成したからこそ、大和一国を拝領なされました。
この厚恩にはなかなか報いることはできません。
しかしだからといって、主君の怨敵であっても惟任に味方すると仰るのはどうかと思います。
主君のお志がなければ、惟任が何を申しても、恩賞など与えられることはなかったでしょう。
その恩の深さを比べれば、恩を与えてくださったことといい、深く恩を垂れてくださったことといい、
どちらが深いなどと考えていても、話が進むわけではありません。これが一つめ。

さて、君臣の道を貫かれること、盟友の道をもお守りになることは、
これもまた同列に考えることではありません。これが二つめ。
また、主君を討った逆臣を討ち果たして忠臣の名を獲得なさるか、
主君を殺した大悪人に味方して末代まで悪逆の名を残されるのか。これが三つめ。

そして合戦の勝敗を推測すると、信長のご厚恩を受けた者たちを数え上げれば、
羽柴筑前守秀吉・柴田修理亮勝家・滝川将監一益・佐々内蔵助(成政)・蒲生飛騨守(氏郷)、
その他にも数知れずおります。
この者たちが皆一味同心して惟任を滅ぼそうとすれば、光秀は一日も安穏としていられません。
羽柴・柴田が自分たちの手勢だけで戦ったとしても、どちらにしても光秀より兵の数は多い。
智も勇も優れていますので、光秀は十中八九は滅びることになるでしょう。
ましてやこの諸将のなかで、複数人が心を合わせて、主君の恩に報いようとすれば、
光秀は必ず亡ぶことになりましょう。これが四つめ。

そして天の照覧を推察すると、八逆の罪を犯した者を守るでしょうか。
忠戦を貫く者にこそ味方なさるでしょう。これが五つめ。
また世の人の心を察すると、忠臣に与するのか、逆臣に与するのか、
これもまた申すには及ばないことだと思います。これが六つめ。

このほかの道理を申しても限りがありません。
実に若輩者の私の才智をもってすら、是非ははっきりしていると思うというのに、
お歴々が皆閉口して時がすぎるばかりなのはおかしいと思います。
以上、心のままに、思ったことを残さず申し上げました」

これを聞いて、順慶は手をパンと打って、
「実におぬしの言うとおりだ。私はもう六十にもなるというのに、この程度の理に迷っていたとは。
皆も心の中で少し反省するといい。
中西が今言ったことはすべて、この者が言ったわけではない。
春日大明神が小次郎の胸裏にお入りになって、私に教えてくださったのだ。
ありがたいことだ。実にもっともである」と賛同すると、秀吉に味方することに決めた。

さて、秀吉に与することを知らせる使者には誰がいいかと話していると、また中西が提案した。
「私が参りましょう。それというのも、当家の大身の者が参った場合、
千に一つでも惟任が勝利した場合、筒井殿から重臣の誰々が秀吉への与力の使者に行ったとわかれば、
御家の大事に至りますから、それは避けたほうがいいでしょう。
その使者には中西という小冠者が参ったといえば、
人は『このような大事な使者に、この程度の者は使わないだろう。
筒井が秀吉に与したというのは嘘に決まっている』と考えるはずです。
大身の衆は、世間でも人が見知っていますから、責任を取らせても利はありません。
私なら、埋木の人知れぬ身ですから、後で責任をかぶるという使い道もあります」
順慶はこれを聞いて、「確かにそうだ」と、すぐに中西を秀吉に向ける使いに立てた。

惟任はこんなことも知らずに、「筒井はきっと私に味方してくれるはず」と思い、
使者をもって「お味方になってくださり、御出張のこと、大変喜ばしく思います。
天下泰平の功を速やかになしたならば、御領国のほかでも、お心に任せて差し上げましょう」と伝えてきた。
筒井は使者に対面して、「八逆の罪の大悪人に味方する者などいるはずがない。
とにかく一戦のうえで、委細の返事を申そう」と返事をした。
惟任は思いもよらないことにただ呆然としていたが、
細川越中守(忠興)は婿なのだから同心してくれるはずだと思い、使者を送ったが、
ここでも取り合ってもらえなかった。
そして、「これはどうしたことだ」と大騒ぎをした。


以上、テキトー訳。

中西……いやに活躍するな。吉川家と何か接触でもあったのかな。
それはそれとして、信長を殺した後、いろんな人にそっぽ向かれてしまう光秀の様子は、
ちょっと背筋が寒くなるね。
というか、事を起こす前になぜ根回しをしておかないのか。
根回しは大事だぞーって、会社の先輩が言ってるよ。私も社会で働いてて、実際そう思うよ。
このタイミングで、光秀に同心する面子がけっこういれば、
歴史は又違った様相を呈していたんだろうね。

さて次回、信長の息子のお話~。
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