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2012-06-03

少年兵が語る鳥取城の攻防

さぁて、本日の当ブログは!?
と、サザエさんちっくに始めてみたけど、何のことはない、
ずっと読まなきゃなぁと思ってた「山縣長茂覚書」に挑戦だ!
備中高松城の宗治切腹の日が近いって?
読んだばっかりで一通り泣いたから、けっこう満足してるんだよな……
読みたい資料手元にないし。

そんなわけで空気を読まずに鳥取城にいた人の覚書読むぜ。
でも長いから分けるぜ。


山縣長茂覚書(上)

     覚

一、公方(足利)義昭様と信長公との関係が悪化して、公方様が備後国の鞆の浦に移られたので、
  京(織田)・芸(毛利)が戦争をすることになった。

一、播州上月の城に、西国への押さえとして、信長公より尼子牢人(勝久)が籠め置かれた。

一、天正六年戊寅、元春様・隆景様のご領国中、南北の諸軍勢が打って出られ、
  上月の城を取り巻いた。
  信長公からの援軍として、羽柴筑前守(秀吉)殿・荒木摂津守(村重)が、
  上月の北高倉山に打ち上がって対陣した。
  しかし、芸州方が猛勢だったので手が出せずに、京勢は敗北した。
  その後上月城では、山中鹿助(幸盛)を通じて、
  尼子勝久公・同助四郎殿・神西三郎左衛門が切腹した。
  このほか、日野屋形・立花源太兵衛(久綱)・山中鹿助など、
  ことごとく下城を仰せ付けられ、芸州の勝利に終わった。

一、山中鹿助は毛利殿の家臣になりたいと望んだので、輝元様の御座所、
  備中松山へと送られたが、命を受けた天野元明によって、あいの渡しで討ち果たされた。

一、上月の陣中から、備前の宇喜多直家・伯耆の南条元続が、
  信長公へと寝返ったという噂があった。
  御帰陣の際に逆心を顕にし、宇喜多は隆景様の手勢と衝突、
  南条は伯耆へと逃げ入った。
  元春様はそのまま伯耆に出張りなさって、南条を取り詰められ、
  向城などを堅固にするよう仰せ付けられると、引き揚げられた。

一、翌年己卯(天正七年)、羽柴筑前殿が因幡・但馬表に打ち出ると、
  芸州に味方した諸城の人質を取り固め、東伯耆まで平定を仰せ付けると、引き揚げられた。

一、同辰年(天正八年)中に、山名禅高(豊国)の家臣である森下出羽入道(道與)、
  中村対馬(春実)が家中の者たちと話し合い、人質を捨て置いて、
  芸州に一味するのがいいと、禅高に進言したけれども、受け入れられなかった。
  禅高は手回りの小姓の十人、二十人ばかりを連れて上洛した。
  この通りだったので、因幡・但馬両国のことは言うに及ばず、
  南条までが芸州へとつくことになった。
  森下・中村が、鳥取の加番として、一族の御仁を差し上せてほしいと言ってきたので、
  吉川式部少輔(経家)殿が派遣され、巳(天正九年)の三月十八日に鳥取へと入城した。

一、天正九年辛巳、羽柴筑前守殿が因州に出張りすると、境目から告げてきた。
  加勢を送ってほしいと、式部少輔殿・森下・中村から言ってきた。
  元春様はまだご出陣しておらず、元長様は伯州の八橋の城にいらっしゃる。
  鳥取へは、今田孫十郎(宗與のこと)、丸山へは境与三右衛門を差し上せた。

一、鳥取の籠城衆は、今田孫十郎・朝枝加賀(春元)・山縣筑後(就慶)・森脇内蔵大夫・
  野田左衛門尉(春実)・武永四郎兵衛・井下新兵衛・井尻又右衛門・高助左衛門・
  長和三郎右衛門・大草玄蕃・長岡信濃、このほか近習衆、舟手衆、中間衆、
  その方面の国衆からは、杉原播磨盛重から横山弥太郎・南方半介、
  完道政吉からは同名弾正、古志因幡からは同名蔵人、有地右近からは同名左京など、
  また芸州から加番として四百あまりがいた。

一、丸山には塩冶周防・佐々木三郎左衛門・奈佐日本助、加番の山縣左京・境与三右衛門、
  近習衆、小石見衆、舟手衆、中間衆、人数などは詳しく知らない。

一、天正九年辛巳六月下旬、因幡・但馬の境に、羽柴筑前殿がご出馬。
  同年七月五日、羽柴小一郎(後に大和大納言、秀長)を大将として、
  藤堂与右衛門(後に和泉守、高虎)などが二、三万騎を率い、
  丸山の当方の吹上浜へ打ち上り、丸山の様子を見ると、やがて引き揚げた。

一、同年七月十二日未明に、筑前守殿が猛勢を引き連れて、鳥取東北の高山に打ち上り、
  そこを本陣に定めた。
  田間の流尾に、堀尾茂介(後に帯刀、吉晴)・一柳市介(後に監物、直盛)が陣取った。
  田間は町の外に袋川が水掘のようにあって、この川を前に置き、
  浅野矢兵衛(後に弾正、長政)・中村孫平次(後に式部少輔、一氏)・
  小寺官兵衛(後に黒田如水)・蜂須賀彦右衛門(後に阿波守、家政)、
  鳥取・丸山の間の雁金山には宮部善乗坊(継潤)・垣屋駿河守、
  丸山には小一郎殿一手衆、海上は荒木平太夫(重堅)が数百艘の警護船を並べ、
  隙間なく陣取った。

一、十二日の荒寄には、四、五町ほどの近陣だった。
  翌日から筑前殿は日々陣を回り、諸陣に立ち寄っていく。
  塀を作り濠を掘り、柵の木を積み上げ、十間あるいは二十間ごとに櫓を建て、
  篝火を焚き、袋川には杭を乱れ打って縄網を張り、堅固に構えていた。

一、西口には仙大川があり、渡し口には一城を構え、杉原七郎左衛門が陣取って、
  かる(賀露)の湊へ落ち合い、因幡国中の船を入れた。

一、吉岡安芸は芸州に協力している人である。
  鳥取から西に数里ほど行ったところに、その城は湖に張り出していて、
  尾頸だけが地続きになっている。
  筑前守殿は夜中にその表へと出馬して、尾頸の方から人数を進め、
  自身は城の尾崎の方へと船を寄せ、湖へと追い崩そうとした。
  しかしそこに城内から尾崎の勢が突き出てきて、湖から向かってくる敵船を撃破した。
  数百人が死んだ。筑前守殿は馬印まで捨て置いたまま、命からがら退いていった。

一、吉岡城へ筑前守殿が出馬された夜中、諸陣は宵の内から物静かだった。
  夜明けに見てみると、それぞれの持ち口へと兵たちが出てきており、
  武具や幟、指物などを立ち並べ、驚くほどの警戒を敷いていた。
  このときの敵陣には、十万騎ほどもいるだろうと、城内の手練の者たちが言っていた。


以上、テキトー訳。続く。

まずはじめに考えておいた方がよさそうなのは、
この覚書は寛永21年(1644年)11月11日のものだということ。
つまり、鳥取城の攻防があってからずいぶん時間が経ってる。
約60年……おい、山縣さん、ずいぶん長生きじゃないか!?

と思ったら、この山縣長茂って人は、
鳥取城のときには、経家の小姓として付き従っていたということ。
秀吉に送る書状の清書させられてたりしたから、もっとトシ食ってるのかと思ったけど、
小姓ってことなら、この時点で二十歳を超えていることはなさそうだね。
まあ生年とか調べてないんですけどね(←ダメ)

現代で言うと、大東亜戦争の前線に送られて生き残った少年兵が、
数十年経ってから、当時を回顧しながら書き留めた手記、みたいな感じなんだろうか。
それにしちゃずいぶんと物覚えがいいというか……
たぶん、前から自分用の覚書みたいなのはあったんだろうな。

で、陰徳記もこの覚書の記述を引いてるから、陰徳記は少なくとも1645年以降の成立になるんだね。
そのへんを調べるのも面白そうだな。

さて、次回はいよいよ、鳥取開城に向けた交渉シーンなんかも出てきそうだよ!
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