FC2ブログ
2012-06-05

経家の覚悟と和睦交渉

さてさて今日は元長さんの命日ですよ。
ウィキペディアには15日ってあるけど、何かの間違いだと思うの。
当時の書状読んでも5日だと思うよー!
鳥取落城から数年経って、元長がやっと幼馴染の経家に会いに行けた日なのかもね。
水魚の仲、自分の半身とも思ってたんだよね、元長……・゚・(ノД`;)・゚・

てなわけで(?)山縣さんの覚書の続き~。


山縣長茂覚書(中)

一、鳥取では籠城が始まってしばらく経つと、兵糧がないことが陣中にも漏れ聞こえた。
  和議に向けた調整が始まった。
  野田左衛門尉が国衆方の婿だったので、その舅に密かに連絡を取り、
  扱いの使いには堀尾茂介・一柳市介が立ち、城内からは野田左衛門尉が務めた。

一、はじめは軽々しく申しかけてきたものの、次々と条件が増えていって、
  森下・中村の切腹についてまで要求してきた。
  式部少輔殿はこれを絶対に承知しなかった。
  調停役の二人は重ねて、「森下・中村のことは、
  一旦は因幡・但馬・東伯耆まで大人しくしているように仰せ付けられながら、
  再び乱れたのはこの二人の逆意のせいである。
  そのうえ譜代の主君に対して不忠の罪人であるから」と、
  秀吉公が(二人の切腹なしでは)承知しないと通達してきた。

一、「丸山に籠め置かれた塩冶・佐々木・奈佐は、近年北前での山賊・海賊の罪科が浅くなく、
  芸州で召抱えるのも、上方に置いておくのもよろしくない。
  今回切腹するように」と、四、五日後に申しかけてきた。

一、式部少輔殿の内意は、「森下・中村に関しては、
  禅高(山名豊国)への不義については秀吉公が仰せになるとおりだ。
  しかしながら、自分自身が出している人質をも捨て、芸州に大きく貢献した。
  丸山に置かれている塩冶・佐々木・日本助らについては、差し当たってかまわない。
  (森下・中村の)二人のことは、何とか容赦してもらって、
  元春様の御陣所へと送りたい」というものだったが、このことに秀吉公が納得しない。
  さらに式部少輔殿ご自身のことについて、
  臨時の加番だとはいっても、鳥取城を預かっている身なのだから、
  森下・中村は言うに及ばず、禅高の家中の者すべてに「式部少輔殿」と尊敬されている。
  よって、絶対に逃げないと、無二の覚悟を決められた。

一、こういう次第なので、式部少輔殿は堀尾茂介・一柳市介へと切腹を申し出た。
  筑前守殿は、それは無用であると伝えてこられたが、無二の覚悟だったので、
  またこちらから(切腹すると)伝えて、一旦調停を止めた。
  二、三日してから、筑前守殿からこう伝えてきた。

  「ずっと以前から諸国の戦争で和睦の交渉は多々行われてきたが、
  式部少輔殿は百日余りも籠城を遂げられた。
  この秀吉は天下(織田信長)からの軍代として罷り下った。
  和睦をして諸人をお助けになることは、今後、式部少輔殿の瑕瑾にはなるまい。
  そのうえ、重罪の森下・中村などと同じように切腹させてしまっては、
  この秀吉が道理をわきまえぬ傍若無人のようになってしまう。
  秀吉の意に任せて、切腹は思いとどまってほしい」と再三通達されたが、
  (式部少輔殿は)議定の条文を再度渡すと、調停を止めてしまった。

一、元春様と元長様へお暇乞いの書状を、式部少輔殿が自筆で調えられ、
  井上木工允・森脇大蔵と宛名し、加番に置かれた国衆への暇乞い状もそれぞれ用意され、
  辞世の句も調えられると、筑前守殿からの検使を待たれていたが、
  (筑前守殿は)四、五日も可否の判断を伝えてこなかった。

一、その後、羽柴筑前守からはこう伝えてきた。
  「式部少輔殿のご切腹について、何度お止めしても納得してもらえず、
  その家名を恥じる無二の覚悟は、実に神妙である。
  何日にも及ぶ籠城で兵糧が尽き、牛馬や人まで食うようになったことは、
  天下にも隠さず申し上げるつもりだ。
  このまま和睦をして吉川式部少輔殿を西国へと送り帰せば、天下が今後の戦で苦戦するだろう。
  式部少輔殿の覚悟を、名誉として、この秀吉が末代まで伝えていく。
  ついては、秀吉の陣所へと一人遣わしてほしい。神文に血判を押すところをお見せいたす。
  此外一人も覚悟たて於有之者、見掛た?籠城候間、
  矢鉄砲を留立ほしに可申付之由、堅被仰越候事(※訳せなかったので原文)

一、その後、野田左衛門尉に小野太郎右衛門を添え、筑前守殿の陣所へと遣わした。
  (二人は)御神文を受け取って帰ってきた。
  そのとき、「(経家の首を)天下に送り届けるから、介錯は念を入れてほしい」と
  (筑前守殿が)仰っていたと、野田が言った。

一、筑前守殿の御神文を見ると、式部少輔殿は
  筑前守殿へのお暇乞いの一書の案文を自筆でしたためられ、
  私(山縣長茂)に清書するようにと仰せになった。
  私は若輩で悪筆なので、なんとか辞退したかったが、
  折も折のことなので、断ることができずに清書をした。
  その文章は次の通り。

  「今回、因幡の鳥取で京(織田)・芸(毛利)の戦の境目となり、
  筑前守を相手に私が切腹に及び、諸人を助けることになった。
  恐れながら、後代までの名誉としたい。
  このことを、天下にご披露願う。恐惶謹言
    天正九年十月二十五日     吉川式部少輔経家
      羽柴筑前守殿」


以上、テキトー訳。あと1回で読みきる予定。

ゴネ家さん……「自分が死ぬ」ってゴネる人はそういないよ。ばか。
この人のお暇乞いの書状は、経言(広家)宛、子供たち宛は読んだけど、
元長・元春宛は見かけたことないんだよな。現存してないのかな。
宛名は井上木工允・森脇大蔵らしいですぞ! ですぞ!

ちゃんと宛名に元長の名前書いてやれと思ったが、
隆元も元就に宛てた手紙の宛名を家臣の名にしてるんだよな。
そういう文化なのかしら??? 浅学だからいろいろわからんわ><。

あと、なんで経家がこんなにも頑なに死を望んだのだろうって考えてて思いついたこと。
~~~以下妄想~~~
もしかしたら、生き延びた場合は上方の捕虜にされて外交カードに使われるか、
織田の対毛利戦線の先兵にされると思ったからじゃなかろうか。
元長から経家への手紙で、「経家のことを自分の弓矢のように思ってるようでおかしいけれども」
みたいな一文があって、私はそれがとても印象深かったんだけれども、

経家「わしは元長様の弓矢じゃ。元長様に向かって放たれる矢になるわけには参らぬわ!」

とか呵呵大笑しちゃうシーンを夢想したね。うん、妄想だけども。

さて次回はラストまで読む(つもり)ですぞー!
スポンサーサイト



検索フォーム
カレンダー
05 | 2012/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
訪問者数