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2012-06-09

本願寺のドンパチ

なんとなく元春の手紙とか読んでた(というか眺めてた)から吉川充できた(*´∇`*)~♪
やっぱイイなぁ元春。最初は三兄弟のなかでもほとんど興味なかったのに。
手紙とか読むほどに、お父さんっぷりに萌えるというか。いや弟としても可愛いね。

そんなわけで陰徳記は芸もなく続きを読む。
いや、九州立花陣読もうかと思ったんだけど、
どの辺から読み始めるべきか考えるのが面倒になっただけなんだけどねw

さて、だいたいの流れとしては、織田信長が光秀に殺されて、
大混乱に陥っているあたりだね。
今回は、そのころ織田に攻められてた本願寺のお話。


信長公、本願寺へ討手を向かわせ給うこと、付けたり門跡表裡と分かつこと

信長公は生前、こう言っていた。
「大阪の本願寺は表裡を構え、自身は和睦したといって大阪の城を去り、
教如を後に残して籠城させている。
これは信長を欺いただけでなく、天子の勅定をもないがしろにしているのに等しい。
このような悪逆の罪を犯した佞僧、勅に背くようなやつを生かしておけば、
さらに邪法を使って人々を魔に引きずり込むような者が繁栄し、天下泰平の功を妨げるだろう。
急いで顕如上人を誅殺すべきだ。

しかしながら、顕如上人を追討することを世間に発表すれば、
また紀州や諸国の宗門の徒らが蜂起して、由々しい事態になってしまうだろう。
幸いにも、最近は四国の三吉の残党や長曽我部土佐守(元親)らを退治して、
この四ヶ国を三七に与えることに決まった。
この四国征伐にかこつけて、三七を大将として、本願寺顕如を誅伐させよう」と密かに決定してた。

同年(天正十一年)五月下旬に、神戸三七郎(信孝)を大将として、四国征伐を決行すると発表した。
総勢一万五千余騎が花の都を出発して大阪に着き、そこから堺を通って和泉の国に進軍し、
浜の手と山口越とに陣を据えた。
人々は皆、「なんとも不思議だな。
四国征伐として出発されたのだから、海辺へと行きなさるはずなのに、
今こうして陣を構えているとは。
きっと四国征伐というのは口実で、紀州にいらっしゃる顕如上人を討とうという腹づもりなのだろう」
と思って、その在所にいる者たちは、櫛の歯を引くように、このことを上人へと告げてきた。

上人はこのことを聞くとすぐに鷺の森を立ち退いて和歌山へと上り、
所々に関を設け、難所を切り塞ぎ、寄ってくる敵を待ち伏せた。
こうしたところに、神戸殿の先陣が六月三日に鷺の森へと押し寄せた。
上人の兵たちは、如来の助け、祖師の恩に報謝するためならば、
骨を粉にし身を砕いたとしても惜しく思わない者たちだったので、
今回が最期だと思い定め、大鉄砲を構えて散々に撃ち掛けた。
寄せ手は何とか持ちこたえたけれども、楯も竹束も打ち破られてしまったので、
さすがに堪えかねて数十町ほど引き退いた。

また引き返して攻めてくるだろうと、門跡方の兵たちが鏃をそろえ、槍を提げて待ちかけていると、
巳の刻(午前十時ごろ)には、急に敵が陣を払って大阪目指して引き退いていく。
こんな風に敵が引くとは思わなかったので、上人の兵たちは、跡を追うこともなかった。
これほどの猛勢で攻めてきて、先陣では鉄砲のせめぎあいまでしたのに、
易々と引いていくのを不審に思っていたが、
後から聞いたところでは、信長が惟任日向守(明智光秀)に殺されたと報告があったので、
急いで引いていったのだという。
光秀の悪逆の行いがなければ、上人の命は危なかったかもしれない。

さて、教如上人・准如上人の兄弟は仲が悪く、惣領・庶子の争いがあってからは、
両門跡に分かれて、西を表、東を裡と言った。
その顛末を聞いてみると、信長が惟任に討たれてからは、
顕如・教如ともに、何を恐れることもなく胸を撫で下ろし、
父子の対立についても禁裏から勅定があって、勘当を解かれ、教如は隠居となって、逼塞して暮らした。
顕如上人は次男の顕尊を差し置いて、三男の准如上人に嗣法した。
元祖からの聖教家宝もこれにすべて付属している。次男の顕尊は興正寺の門跡となった。

こうして顕如上人は紀州の鷺の森の坊から、天正十二年八月上旬に、和泉の貝塚へと住まいを移した。
同十四年には天満へと入った。天満の御坊というのがそれである。
その後、伏見に伽藍を建立したいと秀吉公に申し入れたが、
秀吉公は何と思ったのかわからないがこれを了承せず、同十九年に今の六畳堀河の御坊へと移った。
そこの土地を点検して布金の土地となし、大伽藍を建立してから、
文禄元年十一月二十四日に、顕如上人は入寂した。

教如上人は、秀吉公が挑戦征伐のために肥前の国の名護屋に発足したときに、
そこへと使者を送り、「教如が宗領なので、顕如の本寺を相続したい」との嘆願を行った。
また、聚楽第にいた関白秀次公にもこのことを訴えて、近習の者たちに金銀珠玉を渡し、朱印状を申請した。
その文面は、「惣領の教如上人が寺法をよくよくあい勤められ、
三男准如上人は、教如の現在の屋敷へと移るといい」ということが書いてあった。

このことについて、家老や奉行たちが駆けつけて評定し、
「まずは御朱印の旨を守らなくてはなるまい。
いかに寺の法や顕如上人の譲り状を立てたとしても、太閤公のご機嫌を損ねてしまえば、
皆流罪や死罪に処されてしまう。
そればかりか、准如上人のためにもよくないだろう」と決議した。
そして教如上人を立て、准如上人を隠居屋敷へと移した。

翌年の文禄二年、太閤秀吉公は名護屋から戻ってきて、やがて摂津の有馬へと湯治に行った。
このとき、顕如上人の後室(如春尼)が有馬へとやってきた。
太閤公は如春尼に対面してさまざまな話をしたが、そのときに
「そちは果報めでたくて、よく育った子供を多数持たれてうらやましいことだ」と言った。
如春尼には内々に訴えたいことがあって、これにかこつけてみようと思い、
少しお願いがあるということを、いかにも理由がありそうに言い出した。

そのとき殿下が「それはなんじゃ」と尋ねたので、如春尼は話しはじめた。
「そのことでございます。教如は本願寺を相続すべき身上ではございません。
相続については、父の教如の譲り状も、三男の准如に与えられています。
しかし、御朱印には背けませんので、是非もなく教如を本願寺に置いているのです」

これを聞いて、太閤秀吉公は、
「授法の次第を知らず、ただわしが教如上人と入魂の仲だったから大切に思うまま、
一時も早く安堵させ、諸ひともさらに帰依するようにと考えて朱印を出したのだ。
では大阪城に帰って教如を呼び寄せ、事の次第を尋ね聞き、
そのうえで朱印状を取り上げることとしよう。ご安心なされ」と言った。
如春尼は数々の贈り物を与えられ、都へと帰っていった。

その後太閤公が帰城すると、このことを調査して、准如上人へと判物を出した。
その文面は次の通りである(西本願寺文書)。

「本願寺影堂の留守職のこと、親鸞聖人以来の代々の証文、
 とりわけ先代の光佐(顕如)から光昭への譲り状には明白で、叡慮した。
 よって、三男ではあっても、寺法の任せ相続すべきこととする。
 ますます勤行などに怠りなく励むように。
     文禄二年十月十三日     関白秀次(御判)
       本願寺殿」

この原本は横切の紙に十一行で書かれており、外に年号・月日・御判がある。

「本願寺影堂の留守職のこと、親鸞聖人以来の代々の証文、
 とりわけ先代の光佐(顕如)の譲り状には明白で、殿下が叡慮した。
 三男ではあっても、寺法を任す旨、光昭へ仰せ付けられたのはもっともである。
 よって、勤行などいよいよ怠りなく励み、勤めを果たすことに専念するように。
     文禄二年十月十六日     太閤秀吉(御判)
       本願寺殿」

これも同じ横紙である。

さて、太閤公父子がこのように判物を出すと、教如上人はどうしようもなく、
またもとのように隠居して、准如上人が本願寺を相続した。
教如は智計は人よりも優れていたので、八年間の春秋を送った後、再び「門跡」として仰がれた。
准如は表(西)門跡と呼ばれ、教如は裏(東)門跡と呼呼ばれて、繁栄したと聞いている。

この門跡へと与えられた秀吉父子の朱印状は、
ここに載せている各話よりもはるかに後の話ではあるが、筆のついでに記しておく。


以上、テキトー訳。

信孝の話だったはずなのに、いつのまにか本願寺の内部抗争の話になっていたでござる。
へぇ~、本願寺の東西ってこのころ分かれたんやー(゚▽゚ )
……気の遠くなるような昔、歴史の授業で習った気もしなくもないが忘れているね!!!

しかし浄土宗だか浄土真宗のあたりは複雑怪奇な感じだよなー。
坊さんなのに普通に妻帯するんだもんな。開祖の親鸞聖人からして。
女房は尼住職が妻帯して子が相続する図式が当たり前なんだけど、
ほかの主立った宗派がそうなったのは、明治以降だそうで(しかも政府の命令で)。
なんか頭から、昔の坊さんは女色厳禁のイメージがあるから、
坊さんの奥さんとか子供の話が出てくると面食らうね。

しかし、坊さん自体に血縁が絡んでくるのが一向宗だとすれば、
一向一揆みたいな組織力もうなずける気がするなぁ。
信仰および血縁でガッチガチに固められた団結力とでもいうのか。
一向宗それ自体が一つの「武家」みたいな共同体だったのかな。

さてさて、次の章はいよいよ本能寺の変態、じゃなかった、
みっつんが追い込まれる章のようだ。
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