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2012-07-30

鹿の誘い

昨日は頭痛でほぼ1日寝てたから、夜中に起きて陰徳記読んでみたw
あれだけ寝てまだ眠いってどういう了見なの……

さて陰徳記、だいたいの流れは、
毛利が九州立花で大友の大軍勢と交戦してる虚を突いて、
山中鹿介・立原源太兵衛らが尼子勝久を奉じて出雲入り。
尼子につく将兵は多く、月山冨田城の天野はどうにか踏ん張っているものの、
ドタバタしつつもそのまま破竹の勢いで進む尼子軍、というところ。


神西三郎左衛門心替えのこと

神西三郎左衛門尉は、先年、尼子が月山冨田城に七年間籠城をとげたときに降人に出て、
その後は毛利家に対して忠勤を貫いていた。
だからこそ元就様は、まさか裏切ることはないだろうと頼りに思ったのか、
伯耆の末石の城に中原善左衛門・小寺佐渡守二人を添えて、神西を籠もらせておいた。

勝久が入国すると、山中鹿介・立原源太兵衛尉たちは、
「神西は味方になるかどうか、これまではっきりと言ってこない。
どうも怪しい。少し心を引いてみよう」と、とある同心の者(在地の豪族?)を呼び寄せ、
「おまえはこうこう言え」などと教えてから、神西へと遣わした。

その同心の者は末石に赴いて、神西と話をした。
その後美しい扇を取り出すと、「これに一筆、何か書いてください」と言う。
神西が「なぜそんなことを言うのだ」と尋ねると、
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、それも昔のよしみは忘れられずに、
朝となく暮れとなく懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」と答えた。

神西はこれを聞いて、「なんと、山中・立原はこんなにも私を思っていてくれたのか。
実に昔のよしみが深い。私もどうして忘れられようか。それならば一筆書こう」と言って硯に向かった。
そしてふと思いついて、自分の忠志を表すために、
「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて、同心の者に渡した。
同心の者がそれを持って帰って山中・立原に見せると、
二人は「これは、神西は味方になるつもりがあるようだ。
この歌は、『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに
(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに:古今和歌集)』という歌だ。
旧交を忘れず、という心を書き表している。よし、味方に引き入れよう」と、
またその同心の者を遣わして、神西を誘った。
神西はもとから望んでいたことなので、すぐに尼子に味方した。
けれどもこのことは深く秘匿して態度に表さなかったが、中原善左衛門が早々に感づいた。

この中原は、何度も武功を立てているばかりか、智でもまた世の人より優れた者だったので、
目ざとくそれに気付いても、そ知らぬ顔をしていた。
しかし早急に解決しなければならないので、小寺佐渡守を呼び寄せ、
「あなたは神西を見て何か気付いたことはないか」と尋ねた。
小寺は「何も気付いたことはない」と答える。
中原は、「いやいや、神西には逆心があるように見えるぞ。
そうはいっても、何の確証もなしに今刺し違えて死んだとしても、
胡乱のきわみだと人にあざ笑われるだろうから口惜しい。
そう思ってこれまで見過ごしてきたが、この調子で行けば、神西はおそらくそろそろ、
あなたと私の二人を討ち果たそうとするだろう。
少しでも目の色が変われば、ただ一打で切り殺し、返す刀で刺し違えて死んでやろう。
絶対に油断はしないでほしい。

このことはすぐにでもあなたに聞かせたいと思っていたのだが、
もしあなたが驚いて騒ぎ立てれば、何もないのに事を起こし、
風もないのに波を立てるようなものだったから、今までは押し隠していたのだ。
もう今は神西の悪逆が疑いないように見えたから、お知らせしたのだ。
私はここで討ち死にし、元就様のご厚恩に報謝しようと、一途に思い定めている。
あなたはどうだ」と問いかけた。

小寺はこれをつくづくと思案して、「中原殿のお覚悟も、実にそのとおりだと思う。
しかし一歩引いて愚案をめぐらしてみると、
今このときにこの城でやすやすと討たれてしまっても、何の意味もなく思える。
だから命を全うして、再び主君のお役に立ちたいと思う」と答えた。

中原は冷笑して、「あなたの仰せは確かにもっともだ。
今うかうかと討たれて、その首を神西が勝久への捧げ物にするかと思うと、実に口惜しいことだ。
あなたのご存念は本当にその通りだ。
しかし一隅を守る私は、何の才覚・智謀もなく、ただこの城に籠もった日から、
神西に野心があれば差し違えよ、もしまた毛利家への味方を貫いて敵に囲まれれば、
神西とともに自害せよ、と命じられたと考えている。だから特に気にすることもないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。

小寺はやがて神西に向かって「少し両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は非常に喜んで、すぐにその城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、
また老後になってから本国に帰ってきたという。

さて中原は、神西と刺し違えようと思い定めていたが、
「何の証拠もなしに討ち果たしてしまえば、きっと人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と言って、下人一人を故郷へ帰したのだった。

こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。

神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。


以上、テキトー訳。

中原かっけー(゚▽゚*)
しかしどうして「神西が怪しい」って元就に密告して、対処を仰がなかったのかね。
証拠がないから? 証拠がなくても早期の段階で報告・相談せんと!
ってのは今の考え方なんだろうけどね。

それにしても鹿、やりよる……
まさか昔のよしみとか感情的なことだけで神西を釣り上げたわけじゃないんだろうが、
こういうふうに伝えられるってことは、やっぱりきっと、とても魅力のある人だったんだろうな。
しかし何だね、調略って、女を口説くのに似てるよねw
「今は敵味方で会えないから、思い出のよすがに筆跡を見たい」だなんて。
ちょっとキュンとするじゃない。このたらし!
きっとモテたんだろうなー。妄想ですけど。

さて次回は合戦! 私の兵部が活躍しそうで今からウハウハー!
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2012-07-28

大波乱の美保の関

前回のあらすじ:
石見に攻め込もうと考えていた鹿介たちは、伯耆からの誘いに乗って進路を伯耆へと変更した。
しかし程近い美保の関で火の手が上がり、隠岐為清の反乱だとわかったので、これを鎮圧することに。
山の手から攻めてくるだろうと予想しているであろう隠岐の裏をかき、
寄せ集めの小船で浜手から襲い掛かる鹿介たち。
しかし本陣にいた兵たちに切り返され、鹿介・立原は山の中への逃走を余儀なくされる。


出雲の国美保関合戦のこと(下)

このとき横道源介・同権允・松田表部丞はというと、
州崎で船に乗ってあれこれとしている間に時が過ぎてしまい、最初の合戦には間に合わなかった。
ようやく船を漕ぎ着けると、町の方から味方の勢が崩れ出てくる。
「どうしたのだ」と問うと、
「鹿介殿・源太殿は合戦に負けなさって、生きているのかどうかもわかりません。
皆はどうにかここまで逃げてきたのです。
敵が大勢、関の明神の方へ追いかけていったので、
きっと鹿介殿・源太殿もそこでどうにかしているのでしょう」と答える。
横道・松田は、「なんと口惜しいことだ。
臆病神に取り憑かれて、我らを待たずに退却するとは口ほどにもない」と味方を押し立て、
総勢百五十人ほどで、町の外れから鬨を上げると、為清の籠もる門前へと押しかけていった。

隠岐守の勢はほとんどが山中・立原を追いかけていったので、
このとき寺に残っていたのは、わずか二十五人ほどだった。
しかも敵がまた攻め寄せてくるとは思いも寄らず、
まったく油断していたところに突然敵がかかってきたものだから、寺の者たちは非常に慌てふためいた。
寺本の一族二、三十人ばかりが、大門を破られまいと、身命を惜しまず防ぎ戦った。
横道兄弟は短兵急に攻め破ろうと、揉んで揉んで攻め入った。

こうしたところに、備後の国の住人、長森与一という者が弓を取り直し、
横道の鑓脇で敵に向かって散々に射掛けていたたが、もどかしく感じたのか、
弓はどこかへガラリと捨て、太刀を抜いて切りかかり、たちまち敵を一人切り捨てた。
横道たちはこれに勇気付けられて、「進めや者共」と勇み進んで突きかかっていく。

ここに、真野ヶ嶽・聖返しに配備していた隠岐勢が、急いで走り戻ってきた。
鬨の声や矢の鳴る音が谷に響いてしきりに山彦が響くので、寺の方で戦いが始まっていると気付いて、
敵を追い払おうと鬨を上げ、「エイエイ」と声を出して駆け下ってくる。
隠岐勢はこの声を聞いて、味方とは思いつかずに、
敵がまた山の手から攻めてきたと勘違いして、寺の中へと引いていく。
松田・横道はこれで力を得て、息も継がずに攻め入った。

隠岐守為清が「もうこれまでだ。自害しよう」と鎧の上帯を引き切ろうとすると、
一族の若党たちは、「ひとまずお逃げください。もう一度兵を整えて、この鬱憤を晴らしましょう」と
無理矢理手を取って引き立て、小船を一艘見つけ出して為清を乗せた。
そして漕ぎ出そうとすると、皆我もわれもとその船に乗ろうとする。
それを払うために太刀・長刀で切り払っているうちに、敵に討たれたわけではなく、
味方に切られて水中で溺死した者の数は百人に及んだ。
立原・山中を追っていった兵たちは退却しようもなくなったので、皆山中へと逃げ隠れていた。

さて立原・山中はといえば、とある藪の中に隠れていたが、
二度目の合戦に打ち勝ったと聞いて喜びを抑えきれずに走り出してきた。
「横道兄弟・松田の武勇のおかげで敵を挫けたばかりか、二人の十死一生の命も助かった」と、
手を合わせて喜んだ。

そして翌日、水練に長けた者を使って渚を突かせていると、
船に乗ろうとして切り払われ、そこで死んだ者が六十三人見つかった。
これらの首を取って美保の関の浜に並べ、また山の中に籠もっていた兵四百余人は生け捕りにして、
喜びの鬨を三度上げた。
その四百人の者は、命は助けたものの太刀を奪っておいて、大根島へと捨てておいた。

鹿介は「梨打烏帽子に赤熊の毛皮をつけた兜を着けた兵は討つな」と下知していたが、
すぐにその兵も生け捕られた。
その姓名を聞くと「中畑忠兵衛尉」と答える。
鹿介は「敵ながらも比類のない働きだった」と、太刀や鎧などにいたるまですべて返し渡し、
「今度の武勇は群を抜いていた」という感状を添えて、隠岐の国へと送ったのだった。

その後隠岐守はまた出雲へと渡っていき、
「先日謀反を企てたのは、隠岐の国はいただけないとの仰せでしたので、
一度この恨みをお知らせするためにしたことなのです。
大根島の者たちの一命を助けてくださいましたから、また以前のようにお味方に加わって、
忠戦を貫きたく思います」としきりに詫び言を述べてきたので、鹿介はこれを勝久に伝えた。
そして四百余人の者たちは命を助けて国へ返し、為清は美保の関で切腹させて、
その領国は約束どおり三郎五郎(景房・清家)に与えた。

勝久は合戦の様子をあれこれ尋ねて、横道兄弟・松田を大いに称揚したが、感状は出さなかった。
これは、横道・松田に感状を与えれば、山中・立原が恥ずかしく思うだろうと、
二人の心中を思いやってのことだった。

鹿介はこのことを伝え聞くと勝久の御前に急ぎ参上し、
「これこれこうしたわけで横道・松田に感状をお与えにならなかったと聞きました。
これはいいお考えではないように思います。
賞罰をはっきりさせなければ功臣が離れていくと聞き及んでおります。
賞すべきを賞さなければ、兵たちもやる気が出ません。
兵がやる気を出さなければ、戦でも勝利することができません。
戦に勝利できなければ、国が滅ぶではありませんか。
どうか早く横道・松田に感状をお出しになり、禄を与えてやってください。

また立原や私が最初の合戦に打ち負けて命からがら山の中に逃げ入ったことは、
私はまったく恥だと思っておりません。勝も負けるも世の習いです。
たとえにするのも恐れ多くて気が引けますが、かの聖徳太子も一度は守屋の逆臣に打ち負け、
源頼朝も土肥の杉山の合戦ではたった七騎になるまで打ち負かされて、倒木の穴へと逃げ隠れました。
どうしてこれを武勇の不足だと思いましょうか」と諫言した。

勝久が感状をしたためると、鹿介は自分でそれを持っていき、横道・益田へと渡した。
人々は皆、「鹿介は心優しい仁だ」と感心したという。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

喜びをこらえきれずに思わず走り出してくる鹿介とか……ちくしょー可愛いじゃねえか!
自分を追い詰めた中畑に感状まで与えて送り返すのはもうギャグというか……
なんでそんないらんことしてるのかとwwwww

それにせっかく勝久が気を使ってくれたのを、真正面から諫言して仲間に慕われる。
なんかこのパターン、親しみを覚えるわ。すごくヒーローっぽい。
少年漫画とかに出てきそう!
もうさ、鹿介を主人公に、勝久=主君で剣士、立原=女房(ツッコミ)役、
秋上=おっちょこちょい、横道兄弟=フォローに回る仲間A・Bみたいな感じで、
少年漫画化すればいいんじゃないかな! かな!!!

いやいや、まさか鹿介がこんな魅力的に描かれているとは思わなかったわ。
吉川家中にこのことを伝えた人(横道権允と勝手に予想)は、
きっと鹿介のことがすごく好きだったんだねー、なんて思った。

しかし隠岐隠岐守はあんまりイイトコないなwww
ドタバタすぎる合戦だったなぁ、美保の関。

さて次回も続きの章読むよー!
2012-07-27

鹿飛び出し注意

山中鹿介・立原源太兵衛尉たちが尼子勝久を奉じて出雲に入ると、次々と味方に降ってくる付近の国人衆。
月山冨田城は攻め落とし損ねるも、出雲の原手での合戦でも、
豪将小田を相手に勝利を収めたよ! この勢いはとどまるところを知らないのか。


出雲の国美保関合戦のこと(上)

さて、山中・立原などが原手表の合戦に難なく打ち勝つと、
その報を聞きつけて尼子に付き従う勢力は格段に増えた。
こうなれば勢いに乗って石見へと討ち入り、佐波・益田といった者たちの家城を攻め落とそうか、
と話し合っていると、伯耆の国大山の宗徒である経悟院のもとから使者が送られてきた。
「どうか早く伯耆の国に来てください。
この国にはお味方しようという気持ちのある者が多数いますから、
お出ましになれば、ばらばらと御手に属しましょう。
経悟院が先陣を務めますので、杉原の家城を攻めましょう。
岩倉は備前の牢人たちが攻め落とします」と言ってきたので、
山中・立原は大いに喜んで、「それなら伯耆へ討ち入ろう」と決めた。

あちらこちらの城郭に籠め置いていた軍勢を一ヶ所に集め、三千余騎で伯耆へ旅立とうとしていると、米子の浜の民家からおびただしく煙が上がって、勢いよく立ち上る炎は天を焼くかと思えるほどだと報告が入る。
山中らが「それはおそらく、住民の失火ではあるまい。
伯耆にいる敵が攻め寄せてきて、民家に放火したに違いない。
幸いにも隠岐守が美保の関にいるから、手痛い合戦をしているかもしれない。
もし敵が押し寄せていたなら、隠岐守に力を合わせよう。様子を見てこい」と足軽たちを向かわせた。
戻ってきた足軽たちは、「伯耆の者たちの仕業でもなく、また住民の失火でもなく、
隠岐守が反逆しました」と報告した。

山中たちは、「隠岐守め、憎い行いをするものだ。
それなら伯耆へ向かうのは後にして、まず隠岐守を攻め滅ぼしてやろう」と合戦の軍議をした。
「隠岐の勢も七、八百はいるだろう。
そのうえ一戦しようというつもりで待ち受けているはずだから、勝負の決着をつけてやろう。
合戦に勝利することは疑いないとはいっても、ここで手勢を多く失えば、
再度戦いを挑もうにも力が足りないはずだ。

さあ、船に乗って一晩で片付けてやろう。
隠岐為清は、おそらく陸側から攻められると思って、山の手ばかりを堅守しているはずだ。
そこに我らが夜半に船から上陸して、隠岐が備えていない海辺から鬨をあげて切り入れば、
隠岐は不意を突かれてひとたまりもなく、素っ裸のほうほうの体で逃げ惑うだろう。
散った兵をあちらこちらで追い詰め、一人残らず討ち果たしてやろう」と、
まるでその場に臨んでいるかのように会議した。

すぐに近辺の船を探させると、折悪しくたいした船がなく、ようやく八艘の小船が手に入っただけだった。
大勢は乗せられないので、軍兵たちの多くを残し置き、
山中・立原・横道・松田・遠藤・疋田など四百余人が船に乗り、美保の関へと向かった。

一方、美保の関の隠岐守も、きっと敵が攻め寄せてくるだろうと予想してはいたが、
船手から攻めてくるとは思いも寄らなかったので、山の手が重要だと考えていた。
それで真野ヵ嶽の聖返しというところへ三百余人の手勢を向かわせ、向陣を固めた。
隠岐隠岐守為清自身は他の四百騎を従えて、美保の関にある古い禅寺に陣を構え、
敵が来たらそこに向かって有無の一戦をするつもりだった。
これで毛利家への忠勤の証が立ち、今回尼子へ与した罪を帳消しにできると、
弓の弦を締めなおし、矢束を解いて待ち受けていた。

山中鹿介・立原源太兵衛尉・遠藤神九郎・疋田右衛門尉など二百五十余人は、
一番に船を着けてひらりと飛び降り、隠岐守の本陣目指して押し寄せた。
町屋に火をつけ鬨の声を上げて寺に向かうと、寺にいた者たちは驚いて、
隠岐兵部少輔・中畑藤左衛門・真野三郎左衛門・中畑忠兵衛尉・田平市允などが
ドッと突いて出て散々に防戦した。

出雲勢のなかでは原田孫六が一番に鑓を入れ、勇み進んで戦っていたが、
胸の板が外れたところを突かれて討たれてしまった。
寺中の勢がこれを見て大いに勇み、鑓衾を作ってまっすぐに突いて出ると、
山中・立原たちは突き立てられて美保の関の明神目指して引いていく。
残った軍兵たちは皆、船に乗ろうと渚を目指して逃げていった。
隠岐勢は端武者などには目もくれず、山中・立原を討ち取ろうと、
明神の鳥居の前に迫り、階段で追いついた。

鹿介は、もう逃れられないと思ったのか、立ち止まって太刀を抜きかざして待ちかける。
中畑藤左衛門が鑓で渡り合い、籠手の外れや草摺の隙間を突こうと、散々仕掛けてせり掛ける。
鹿介は剣技の達人なので、柄の長い三尺以上ある大太刀を打ち振るって、
中畑の鑓を打ち払いつつ切り結んでいたが、中畑の突く鑓を背後に流すようにして塩首を掴んで引くと、
中畑が足元へうつ伏せに倒れてきた。
山中は「やった」と太刀を振り上げ、首を打とうとして丁と切る。
しかしこの一撃は階段の石に当たってしまい、目釘のところからぽっきり折れて、
刀身があらぬ方へと飛んでいってしまった。

藤左衛門の後から続いてきた中畑忠兵衛尉はこれを見て、
鹿介が脇差を抜こうとしたところに、長めの槍で突いてかかった。
鹿介は太刀が折れてしまってはどうしようもなく、とにかく後ろの山に入ろうと、足に任せて逃げていった。
立原もしばらくは戦っていたが、勝てそうにないので、鹿介とともに山の中に入っていった。

隠岐勢が逃すまいと追ってくると、鹿介は
「立原殿、こうなっては逃げられるはずもない。討たれてしまうくらいなら腹を切ろう」と言う。
立原は「なんと思慮の浅いことを言うのだ。戦というものは、勝も負けるも時の運だ。
負けても恥辱にはなりません。どんなときでも、死ぬのは容易いもの。
命を全うして、この鬱憤を晴らそうではないか。自害はもう少し待ってくれ。
どうしてもかなわないときには、二人で手と手を取り合って、刺し違えようではないか」と諫めた。
すると鹿介もそれがもっともだと思ったのか、さらに山奥深く逃げていった。


以上、テキトー訳。続く。

いやぁ、鹿介……味方にしても厄介だな、この人w
なんつーか、目的が定まってないというか、思いつきで行動してるように見えるのは、
もし私の気のせいじゃなかったら、きっと正矩のせいということでひとつ←ひどい

三千も兵がいて、船に乗せられるのが数百なら、
信頼できる仲間に数百の手勢を預けて隠岐守討伐に向かわせればいいんじゃない?
鹿介自身が船に乗ってく必要なくない?
船手から奇襲させて混乱させたところに、山の手から挟み撃ちすればもっと確実なんじゃない?
と、ど素人の私が思うわけだけれども、
この鹿が前の章で呉子を諳んじてた人と同一人物には思えないわけさ。
つまり鹿介のキャラクターが迷子というか。

鹿ちゃんのことで「ほほぉ」と思ったのは、実際の元長の手紙で、
鹿介のことが「鹿」と一文字で書かれていたことだったな。
たぶん「鹿」だけで通じてしまう何か強烈なインパクトがあったんだろうな、と。
そういう人なら、軍記物でキャラが迷子でもしょうがないよね☆テヘペロ

あ、そうだ。立原と鹿のコンビ、イイネ(゚▽゚*)

そんなわけで次回も続きだす。
2012-07-26

尼子快進撃

月山冨田城攻めでは少し痛い目にあって静観を余儀なくされた尼子勢だったが、
他では着々と手を広げているようで、今回はその一面のお話。


出雲の国原手合戦のこと

さて石見の国の銀山にいた吉田孫左衛門父子は尼子勝久へと一味し、
山吹の城を焼き捨てようということで内通をした。
しかしその陰謀がたちまち露見してしまったので、吉田は仕方なく銀山を逃れて、出雲の国へと赴いた。
このことで、同様に銀山に差し置かれていた服部左兵衛尉・池田何某・河村備前守・
岩崎出雲守・熱田対馬守・矢野民部少輔・同石見守・二宮加賀守・高橋与三兵衛尉・
栗栖備後守たちは出雲との境まで打ち出して、元就様の疑いを晴らそうと意気込んだので、
坂・出羽の手の者たちも数多くこれに加わった。

こうしたところに、芸陽の佐東の小田助右衛門は、佐東・佐西郡の兵たちをかき集め、石見へと向かった。
この小田を大将として、出羽の手の者、坂の郎党たちも十倉から原手表へと打ち出した。
しかしその兵力も三千以上にはならなかった。

山中鹿介はこれを聞いて、
「小田はなかなかのつわものだと聞き及んでいるが、自分の手勢を百人すら持っていない。
坂の郎党は、主君が九州に出征しているのだから、その留守居役として残った者など、
老年に達して思うように歩けもしない爺様か、もしくはまだ年端もいかない未熟な者たちに違いない。
そのうえ大将がいないのだから、ものの役にも立つまい。
それに銀山の者たちは普段は銀を掘っているばかりで、弓矢を扱う方法は夢にも知るまい。
出羽の者たちも、東越前とかいう手練は今は芸州に行っているそうだから、
残った者共など取るに足らないはずだ。
きっと手厳しく攻め立てれば、ひとたまりもなく退散していくだろう。
いざ押し寄せて蹴散らしてやろう」と考えた。

山中鹿介・立原源太兵衛尉・横道源介・同権允たちは、二千余騎で原手表へと打って出た。
これを聞いて隠岐隠岐守為清は七百騎ほどで第二陣に続いた。
米原平内兵衛尉綱寛は高瀬の城から出陣し、五百余騎で鹿介に加勢すると言いながら、
勝負の行方を見物しようと、はるか遠くから合戦を見物していた。

地理的に前線に近い銀山の者たちが先陣を努めることが以前から決まっていたので、
先陣は池田・服部の兵五百余騎、二番手は出羽・坂の手の者一千余騎。
三番手は小田の七百余騎となった。
小田は時に臨んで、「出雲勢は尼子家のころから名を馳せたつわものばかりだ。
決して油断するでない」と下知して、自分の勢を後陣に残し置き、たった一騎で先陣に駆けてくる。
小田は「敵の様子を見極めたくてやってきた。どうかみだりに挑みかからないでほしい」と釘をさしたが、
どちらにしても大将のいない寄せ集めの勢だったので、
小田の下知も守らずに、皆自分勝手にどよめくばかりで、その備えは騒がしくあるべき姿ではなかった。

山中たちが貝を吹き立て太鼓を打ち鳴らしかかってくるのを見ると、
銀山の者たちは「もしかしたら出羽・坂の手勢たちが陣の前後の取り決めを破って抜け駆けするかもしれない」
と思い、そうはさせまいと身を乗り出す。
すると案の定、第二陣の勢が先陣を追い越すような勢いで進んでくるので、
先陣と二陣が一塊になり、我先にと敵に打ってかかっていく。
こんなに入り乱れてしまうと、せっかくの弓・鉄砲・鑓などの段々の備えも役に立ちそうには見えなかった。
そのまま雪崩れかかるかと思いきや、隙のない敵の陣形を見て銀山勢は速度を落とし、
「早く後ろが続いてこないものか」と、後ろをチラチラと気にしていた。

鹿介はこれを見て、「『敵人の来ること蕩々として慮なく、旌旗(せいき)煩乱(はんらん)し、
人馬しばしば顧みば、一、十を撃つべし。必ず措(お)くことなからしめん(呉子)』と言うではないか。
今の敵の様子を見ると、弓・鉄砲・長柄の侍たちは混乱して、前後の備えも乱れている。
それに我が勢の脅威に臆して、勇気がしぼんでしまってかかってこない。
今この勢いに乗って戦えば、味方の必勝は目に見えている。進めや者ども」
と号令をかけると、散々に射立てつつ無二に切りかかって攻め戦う。

銀山の者たちは、はじめの威勢はどこへやら、
しばらく防戦するかと見えたがたちまち突き立てられて、右往左往しながら退却していった。
小田はこれを見て、「竜頭蛇尾のしょうがない者たちだ。最初の威勢はどうした。
みっともない戦をして逃走し、敵に利をつけるとは腹だしいものだ」と、
七百余騎をばらばらと居並べ、弓・鉄砲を前に立てて、静まり返って待ち構えた。

山中たちは一陣と二陣を難なく追い立て、勇み進んで小田の陣へと打ってかかった。
立原は敵の様子を見て、小田の備えの立て方が尋常ではないと思ったので、
隠岐守の隊へと使者を送り、「急いで小田の後ろをさえぎるようにかかっていただきたい」と言い捨てて、
自身も切りかかっていく。

小田は味方があちこちへと引いていくなかで少しも騒ぐ様子も見せないほどの勇士だ。
敵が多勢であってもとりたてて気にせず、三度も射立てて突き放す。
ようやく入り乱れて戦うころになると、隠岐守が鬨をあげて小田にかかっていき、
これを見て米原もようやく同様に攻めかかった。
小田の心は猛々しく勇ましかったが、味方たちはあるいは討たれ、または逃げ散ってしまい、
もう主従五、六騎が残っているに過ぎない。
それでも少しも引かずに、命を限りに戦ったが、
眉間・脇板・籠手の外れを五、六ヶ所も射られ、ついにうつ伏せに倒れた。
横道権允が倒れた小田を見逃さず、押さえて首を掻いたのだった。
小田が討たれてしまうと、残った者は後ろも振り返らずに逃げ退いていった。

その後、勝久の軍勢はさらに数を増し、すでにもう国中に行く手を遮る者すらいなくなった。
出羽もたった三百ほどの手勢では十倉にとどまることができず、その城を出て、
出雲と石見の境にある赤穴に陣取った。
そして九州に飛脚を遣わし、「あまりに兵の数が足りないので、十倉を空けて罷り退きました。
しかしながら、この出羽元資がいる限りは、石見には敵に足を踏み入れさせませんので、
ご安心くだされ」と言い送った。


以上、テキトー訳。

ぎゃああああ((((((゚Д゚;))))))ガクガクブルブル
鹿め、尼子めええぇぇぇぇ!!!!!
まあ尼子ファンに言わせると、「吉川め、毛利めェェェ」ということだそうなんで、
まあそんなもんよね。

鹿ちゃんすげえな。呉子を諳んじるのか。インテリだなぁ。
なんか熱血漢なイメージが先行して脳筋キャラで想像してた私が悪かったです。
申し訳ありませんでしたーーー!
立原さんも冷静な目を失わないなかなかの采配、
寝返り組の隠岐為清をうまく使いこなし、様子見してた米原さえも触発する……
勢いに乗ってるときって、対立する側からするとものすごい怖いなー、と思った。

小田さんもかっこよかったよ。
即席大将で兵をまとめきれなくてもしょうがないのに最後まで引かずに壮絶な最後を遂げる。
こういう話は日本人なら結構みんな好きだろう。
いらぬ意地よと笑わば笑えってな。
この小田さんの首取ったのが横道権允てことは、このあたりの話は権允ソースなのかもね。
この人は後に毛利勢に入って活躍してるしな。

さてさて次章も合戦! 合戦!!!
2012-07-24

天野、奮闘す

さてさて九州ではやっと立花城を落としたようだが、まだ大友の後詰の大軍に囲まれてっぞ!
というころの?出雲情勢。
勝久・鹿介たちがそりゃもうたくさんの国人衆を味方につけちゃった。
月山冨田城を預かってる天野隆包は「味方になる」と嘘をつき、尼子勢の一隊を誘い込んで撃破。
でも尼子勢はずんずん数増してんだ。悲しいけどコレ戦争なのよね~(・ε・)


雲州冨田の麓合戦のこと

さて、山中鹿介・立原源太兵衛尉は、先日天野隆重に騙されて多数の兵を失ったことに憤っていたので、
「こうなったら味方から伏兵を出し、敵を騙して討ってやろう」と考えた。
そして同十七日、山中鹿介。立原源太兵衛尉・牛尾弾正忠・秋上庵介など一千余騎は、
浄安寺の中に陣をとった。

「三ヶ所に伏兵を置いて、城中から山の下の田を刈ろうとする者が出てくるとときに、
足軽をけしかけて殺そうとする。
きっと天野はこれを討たせまいと山の下へ出てくるだろう。
そうしたらこの浄安寺から出て行って一戦し、いかにも弱そうな降りをして敵が追ってくるように仕向け、
浄安寺に誘い込んで、そこで伏兵を起こし寺の中に閉じ込めて一人残らず討ち取ってやろう」と企んでいた。

山中たちが夜中から兵を動かして伏兵を三ヶ所に配置し待ち受けているところへ、
天野隆重は夜中に斥侯を放ち山の下を見張らせていたので、「伏兵が三ヶ所にいる」と報告があった。
城中から弓・鉄砲を手に手に提げ、ヒタヒタと忍び足で山を下っていき伏兵の真ん中に弓・鉄砲を撃ちかける。
伏兵たちはひとたまりもなく、散り散りになって逃げていった。

山中・立原も浄安寺から駆け出て戦ったが、難なく押し立てられて退却した。
これを見て隆重は待っていたとばかりに静々と打ち出で、足軽を七、八十人ほど前に立てて追いかける。
牛尾弾正忠は、白い帷子まで肌脱ぎになって引き返し、これに渡り合って追い払った。
天野の足軽衆の神代の何某という者が名乗って真っ先に進み、
敵が押し返してくるとさっと引き、敵が引こうとするとまた跡を追う。

尼子勢が足軽を追い払って討とうとすると、天野が後陣に備えて控えているので、なかなかそれもできず、
また足早に引こうとすると、先に散っていた天野の足軽がハエのようにむらがって追いかけてくる。
牛尾は、「味方が口ほどもなく退却して敵に利をつけてしまったから、
合戦が思うように行かないではないか。
私が後詰であれば、あの天野を追い立ててやるものを」と、
目を怒らせ歯噛みをして後陣に下がり防戦した。

これで尼子勢は虎口の難を逃れ、岩坂から引いていった。
天野も「これまでだ」と思ったので、やがて兵を引き揚げさせた。
このときは敵を十四人討ち取ったとのことだ。
山中・立原も、その後は天野の器量智謀を侮りがたく思って、
ただ遠巻きに攻めて勝負を決する一戦には打って出なかった。


以上、テキトー訳。

天野さんてば、たった数百の手勢でがんばってんなぁ。かっこよす。
対して尼子勢はわちゃわちゃしててかわいい(*´∇`*)
たぶん実際には必死こいてたのは天野の方だと思うんだけど、
そこはそれ、吉川の軍記だからいーじゃない。

そりゃそうと、元春や広家を称揚したのは子孫なり家臣なりだってわかるんだが、
景さまはいったい誰が称揚しはじめたんだろう。
いい評判しか聞かないとこ見ると、景さまageの仕掛け人は名プロデューサーだったよね。
だって子孫もいないのに、これだけ爆ageってのも珍しい。んじゃないかと思う。うん。
子孫いないといえば秀吉だけど、秀吉は天下人だしな。
外征してるから明治~戦前まではイメージアップ強化されただろうし。

そんなことを気にしつつもとりえず放置しておいて、
次章もまたまた合戦なり~!
2012-07-22

前門の大友後門の尼子

北では鹿勢がブイブイいわして破竹の勢い、
西では立花城も落ちずに大友の大軍に囲まれる毛利。
いったいどうする!?


雲伯作備、毛利家に背くこと

さて尼子孫四郎勝久は、出雲に入って敵城をすでに十五ヶ所も落とし、兵力が六千余騎にも及んだ。
これを聞くと、備前の赤松家の牢人たちも駆けつけてきて、
伯耆の国に入り、岩倉城を攻め取って立て籠もった。
美作の国では、芦田・三浦・市の一族が尼子に与し、
昨年から香川美作守・長左衛門太夫が入れ置かれている同国の高田の城を攻め落とそうと取り囲んで、
日々休まずにせめぎ合いを繰り返していた。

また福屋隆包が石見の国へと入ったという話も聞き、そのほかでもあちこちで敵が蜂起していると、
長府ならびに立花表へと、櫛の歯を引くように報告が入った。
前には大友が数万騎で対陣しており、後ろにはまた尼子の一族が蜂起して本国に乱入してきた。
毛利家はもうおしまいだと、思わぬ者はなかったという。

元春・隆景は、「まずは出雲・伯耆の城を尼子に落とされてはならない」と、
米原平内兵衛尉綱寛を急ぎ出雲に上らせ、「高瀬の城を堅固に守れ」と下知した。
平内兵衛尉は「かしこまりました」と、手勢三百余騎とともに立花表を出立し、石見の国まで上ったが、
折りしも浜田の浦へ唐船が来航していたので、四、五日ほど逗留して唐物を買い取り、
あまりにものんびりしていた。

これを見た人々は、「米原の行動はどうもおかしい。
家城が難局に陥っているのだから、それを救いにきた者が、
こうして道の途中で何も気にせず留まっているなどということがあろうか。
きっと綱寛は勝久と心を合わせたに違いない」と噂した。
案の定、綱寛は事前に出雲へと使者を送り、「味方に与します」と言い置いてあったので、
こんな様子だったという。

ようやく綱寛が出雲に到着し、すぐに勝久へ一味に加わることを言い送ると、
勝久は非常に喜んで、「毛利家を滅ぼした暁には、米原の本領に七千貫を加えて宛行おう」と確約したという。
南条伯耆守胸勝・山田出雲守は下関の勝山にいたが、敵が羽衣石の城を取り囲んだと聞くと、
「急ぎ伯耆に戻った方がいい」と、勝山には周防の由宇の正覚寺周音を差し籠めて、
南条は急いで羽衣石に戻っていった。
山田出雲守はすぐに岩倉の城へ押し寄せて攻め落とし、敵を六十三人討ち取った。
しかし出雲守の家人の梶屋藤兵衛尉・林甚四郎・同又兵衛尉・安長神左衛門・谷川久允、
そのほか中間八人も命を落とした。
石見の国へと福屋が戻ってきたとわかると、森脇一郎右衛門が立花表を立って石見に向かい、
三ツ子山に入って立て籠もった。

こうしたところへ、福屋隆包は国人たちを篭絡するために、
新蔵主という僧に回文を持たせてひそかに国中を回らせていたが、
森脇はこの僧を見つけ出してすぐに捕らえると首を刎ね、獄門にかけた。
こうして立花表の兵数が減ってくると、米原が残し置いていった人質の者が、
前から言い含められていたのか、「山下の風呂に入ってくる」と言って豊後勢の中に走って逃げ込んだ。
これで米原が敵になったことがわかり、吉川・小早川の両将は、
「出雲・伯耆の侍たちは尼子に与しているかもしれない」と、一時も安心できなかった。

立花表の味方の人数が減っていくこともあり、一刻も早く立花の城を攻め落とさなくてはならないと、
息も継がせずに攻め近づいた。
一気に乗り破らんとする勢いを見て、城中がこれ異常ないほどに困っていると、
「城を明け渡せば一命を助けよう」と伝えられる。
立花・田北をはじめ、人々は命が助かるのを手を合わせて喜んで、早速城を明け渡した。
中国勢はすぐに城へと兵を入れ、城中にいた者たちは、残らず敵陣へと送り返した。


以上、テキトー訳。

いやまあ「前から後ろから」に反応しましたよね通常運転。
ちょっと脳内洗浄してきますでごわす ((((((´・ω・)

今回ピクリと反応したのは、米原の人質が「山下の風呂に行く」というくだりだぁね。
自由だな! てゆーか戦場で風呂???
まあお寺さんとかには風呂の施設もあったらしいけど、
なんか戦場に集まる商人だの遊女だのの営業っぽい雰囲気もそこはかとなく……
ていうか元春や隆景クラスの大将は、陣屋で風呂とかどうしてたんだろうねーと考えてしまったwww
普通に考えて、水浴びで済ますか、物資が十分にあれば、たまに湯を沸かして浴びてたのかな。
寺に陣屋を構えるのも普通だったようだし。
入浴中に攻め込まれたら……ゴクリッ
あ、大友さん、ちょっとがんばっちゃってもらえますか!?
え? そういう場合でもまずは先陣の人たちが対処する? デスヨネー(´・ω・`)

とりあえず今回で立花城が落ちたということで。
次章は、天野が籠もる月山冨田城が危機に瀕するようですぞ☆
2012-07-21

大友・尼子タッグ!

今日は短いやつ二本立て!
じりじりと、宿命の対決が始まろうとしているよ!
イイネ:+*゚。(`・∀・´)。゚*+:


真木宗右衛門のこと

山中鹿介が京都にいる間に、大友金吾入道宗麟へと飛脚を遣わし、
「尼子勝久が本国を取り戻しに行きますので、元春・隆景をそちらの国で滅ぼしてください。
勝久は、元就・輝元を芸陽で討ち果たします」と談合していた。

今回また真木宗右衛門尉を豊後へと向かわせ、
「出雲一国を切り従え、残る月山冨田城も追い詰めています。きっと近いうちに落城するでしょう。
ですから元春・隆景に帰国させないようにしてください」と言い送ったが、
尼子の運が尽きたのか、真木はその途上で船が転覆して死んでしまった。

また吉田三郎左衛門を遣わして、美作の足田・市・三浦、備前の宇喜多へと、
味方をするようにと催促すると、皆尼子家に同意すると返事をしてきたので、勝久は非常に喜んだ。
これを聞いた出雲・伯耆の国人たちは、さらに勇んで付き従ったので、いや増しに兵の数が増えていった。


庄式部少輔合戦のこと

大友勢は、この永禄十二年の五月から立花の後詰をして三度も合戦に及んだが、
特に何が変わったわけでもなかった。
これを口惜しく思ったのか、同七月二日、豊後勢は古沢右馬允・姫嶋閑斉などの五千余騎が、
備中の国の住人、穂田の庄式部少輔元祐の陣へと、鬨をあげて切ってかかった。

元祐はなかなかの古つわものである。
「中国には私に勝てる者はいないだろう」と豪語するほどの者なので、
手勢の七百騎をひとまとめにして、ドッと切って出る。

寄せ手もしばらくは応戦して戦線を支えていたが、元祐はこれを難なく追い立て、
山の下までまくり落とす。
けれども敵は猛勢なので、押し返して山の上へと追い上げる。
追い上がれば追い落とす。
汗が滝のように流れ出てもなお四、五回も戦い、
ついに元祐は戦いに勝って鬨をあげ、陣中に入った。

敵が引いた後で、元春・隆景から、「今日の元祐の戦いぶりは、実に勇壮であった」と、再三称えられた。


以上、テキトー訳。

鹿ちゃんも騙されているばっかりじゃないんだぜ!
あれこれ手回しして味方もたくさん引き入れるし、大友と手を組んだりしちゃうんだぜ!
パーフェクト鹿ちゃん! ※馬鹿にしているわけではなく、なんとなく私の中で鹿のイメージが迷走中
ゲリラ戦仕掛けてくるだけじゃないから、手を焼くよなぁ、これは。
ぜひとも自分のところに引き込みたい元春の気持ちがじわじわとわかってくる……

大友との対陣の方も、なかなか大変だね。
この段階ではまだ立花城は落ちてないっぽいし。
元祐、カッコイイなぁ(*´∇`*)
7月だよ。夏真っ盛りだよ。暑さで死ねるよ!
そんななかで長時間の合戦……見物さえ参加したくないw

さぁて次章は。次々と国人衆が尼子に寝返るお話のようだよ。
タイトル見ただけで鬱だね!
2012-07-21

尼子再興軍VS月山冨田!

打ち込み終わって更新ボタン押さずに寝てしまったあああぁぁぁぁぁ!
アホだwww

さて陰徳記。
尼子再興軍が始動したところで、じゃんじゃん仲間を集めている勝久・鹿チームに対して、
今回は月山冨田城ではどんな反応だったかというお話。


天野紀伊守、敵を方便ること

天野紀伊守為清は、わずか三百ほどで冨田の城に籠もっていたが、
どうにかして尼子と一戦して敵の強弱を確かめようと思った。
しかし、敵はすでに六千余騎にも及び、対して味方はわずか三百騎なので、
下手に合戦をして敵に利をつけては、かえって愚の骨頂になると、思いとどまった。
「しかし今こうして私がこの城にいながら、軽く一戦でもしないで城に籠もってばかりでは、
まるで武略が足りないようではないか」と、ひそかに秋上庵助のもとへと試写を遣わした。

「勝久がこの国へお入りになって、あちらこちらの城を攻め落とされたので、
皆御手に属して、兜を脱ぎ旗を巻く者は幾千万と数知れません。
ですからこの隆重が一人でこの城を守ろうとしても、
蟷螂が隆車を遮る(カマキリが前足を振り上げて大きな車に立ち向かうこと、
無謀で身の程をわきまえない意味)のたとえに等しいではありませんか。
それにこの城はとりわけ、尼子家にとっては数代の間家城でありました。
私の望みを受け入れていただけるなら、この城を明け渡しましょう。

毛利家を滅ぼした後、私の現在の本領に加えて、
どこなりとも五万貫の所領をいただけるのであれば、お味方に加わります。
そうはいっても、ここで何の抵抗もせずに城を明け渡してしまえば、私のこれまでの武名が汚れ、
ずっと大臆病者のそしりを受けることになるでしょうから、それも口惜しい。
芸陽の吉田に置いている妻子も皆首を刎ねられてしまうかもしれないので、それではあまりに不憫です。
ですからどうか策謀をめぐらして、妻子の命を助けたいと思います。

そちらの兵たちを切岸まで詰め寄らせていただければ、私は防戦しかねた振りをして、詰の丸に退却します。
それで和平を結んで城を明け渡し、芸陽へ帰って妻子を自分の城へ移してから、
尼子の発向を待ち受けて、国中で旗を挙げます。
このことを勝久に仰せになっていただき、勝久が了承してくれるのであれば、
早々に兵を差し向けてください」天野がこう言い送ると、秋上はこのことを鹿介に話した。

山中は、「これこそ天が与えてくださった好機だ。
天野が味方に加わって城を明け渡せば、この国に敵城は一つもないのと同じだ。
そうすれば伯耆も残らず手に入るだろう。
尼子を再びこの国の主にしようという杵築大明神の計らいに違いない」と喜んで、勝久にもそれを伝えた。
すぐに秋上庵介を大将として、疋田・遠藤・岸・池田・相良・有村などの二千余騎が冨田の城に押し寄せ、
非常に険しい七曲を一息に攻め上がり、切岸に着くと、ドッと鬨の声を上げた。

以前からの取り決めなので、天野は防戦するふりをして退却するだろうと、寄せ手がすっかり油断している。
隆重は「敵をまんまと騙しおおせてやったぞ」と喜んで、
弓・鉄砲をそろえると、矢間を開けて散々に撃ちかけた。
秋上が想定外の攻撃にあい、「さては騙されたか」と慌てふためいているうちに、
早くも死傷者が数百人も出てしまったので、一旦退却しようとする。
とそこへ、天野紀伊守隆重は、「いい時分だ。切って出よ」と下知をして、
三百余人を前後に立て、七月初旬の朝霧にまぎれて、鬨を上げ鑓衾を作って突いて出る。
さしもの秋上も予想だにしていなかったことなので、
まったく戦線を維持することができずに大勢の兵を死なせつつも、
自身はどうにか命からがらその場を逃れた。

鹿介をはじめとして、皆「天野めに騙されて大勢死なせただけでなく、
浅い智略で敵の思う壺にはめられたと、人々の笑い種になるとは口惜しい」と、歯噛みして悔しがった。
今回討たれた者は、岸与九郎・相良新三郎をはじめ十七人、
負傷したのは岸左馬進など六十余人に及んだそうだ。


以上、テキトー訳。

天野さんの「方便」て……最初はわりと本気だったりしない?
本当に尼子につくつもりじゃなかったの? それで時が経ってから思い直したとか……ちがう?
まあこんな方便がまかり通るんだから、世の中なんて信用できないよね。
ままある手だったのかな、こういう方便。

それはそれとして、今回気になった箇所は、「天野隆重の妻子が吉田にいる」というところ。
つまり人質ですよねっていう。
子供や重臣の子をを人質に送るのは把握してたけど、今回初めて「妻」ってのを見たわ。
妻子を証人として出府させるってのは、どうしても江戸幕府のイメージが強くて、
あと思い浮かぶのは、朝鮮出兵時に秀吉が大名の妻を上洛させたこと程度。
妻を証人にすることも、もっと以前から、習慣や制度としてあったのかな。
けっこう簡単に連れ帰れるようだから、城を預かっている間だけの措置なのかもしれないけどさ。
統治システムも、連綿と続いてきたものを土台に成り立ってるんだなぁと、ふと思った。

さて次章も引き続き、尼子の動きを追っていくようだよ。
2012-07-18

鹿たちの失敗?

昨晩はマシンの強制シャットダウンで打ち込んでたテキストがぶっ飛んで自棄になり、
今日は操作ミスなのか更新できないまま入力文が消えた……ぐれてやる。
というかPC、まじで買い替え時な気がしてきたねwww

さて陰徳記、毛利が九州で大友とドンパチやっているときに、東方で不振な動きがあったようですぞ。


尼子勝久出雲へ入らること(下)

さて山中鹿介・立原源太兵衛・真木宗右衛門尉・同与一・吉田八郎左衛門・同三郎左衛門・
横道兵庫助・牛尾弾正忠(信久)・同大炊助・三刀屋蔵人・遠藤神九郎などが京都に馳せ集って会議をした。
「このごろはあちこちから浪人が集まってきていて、大将がいなくてはとてもまとめきれない。
どうしたものか」と話し合っていた。

「新宮党の尼子式部大輔(誠久)の三男は、父が晴久に殺害されたとき、まだ幼子だった。
これを乳人が抱きかかえて逃げ出し、備後の徳分寺の僧を頼っていったのだが、
ここは毛利の領国なので、ずっと隠れていられるわけがない。
それで京へ上って、今は東福寺にいらっしゃる。
他の者たちよりもずば抜けて聡明だというから、この人を還俗させ申して、
大将として仰ごうではないか」と一決すると、すぐにこのことを当人へと申し入れた。

すると「私もこれまで、毛利家を滅ぼして尼子家を再興したいと、心から思っていたのだ。
皆がそう言ってくれるならば望むところである。
光武は赤眉を滅ぼして漢の家を再興したという。私たちもそれをやり遂げよう」と大いに喜んだ。
山中・立原がすぐにその人を東福寺から呼び寄せると、還俗させて、尼子孫四郎勝久と名乗るようになった。

勝久は、再び尼子家の大将と仰がれるべき器量が生まれつき備わっていたのか、
力量も技の早さも他を圧倒している。
一通り太刀の奥義を極めた者が木刀で切ってかかると、中に踏み落とし、素手でその者を捕らえる。
また二人で打ってかかってみれば、畳を跳ね上げて、その部屋が何百畳敷きであろうが、
また四畳半の小座敷であろうが、畳の下をくぐるように歩いて、一太刀も喫することがなかった。
また塀沿いに五、六間ほど走ってから、また七、八間ほど離れて座っている者に声をかけて打つときには、
相手がまだ立ち上がらないうちに、素早く丁と打つ。
伝え聞く九郎義経が、鞍馬の奥の僧正ヶ谷で、太郎坊・次郎坊などという者たちに伝授されたという秘術も、
こうしたものであったのだろう。
勝久は、まさに大将の器だと感じない者はいなかった。

さて勝久を大将として、山中鹿介・立原源太兵衛・横道兵庫助・同権允・真木宗右衛門尉・
吉田三郎左衛門・同八郎左衛門尉・川副右京亮(久盛)・同三郎左衛門尉・同次郎左衛門・
目黒助次郎・米原助十郎・川坂助太郎・力石九郎兵衛尉・平野加え兵衛尉・同源介・宇山弥次郎・
三吉五郎左衛門・同神二郎・小林神介・青砥助二郎・日野又五郎・大塚弥三郎・大野平兵衛尉・
日野助五郎・福山内蔵丞・中井与次郎・片桐治部丞・江見源内左衛門などが但馬へと下り、
垣屋播磨守を頼って奈佐日本助の海賊船に乗り込むと、
永禄十二年六月二十三日、出雲の国の島根群忠山(美保関町)へと到達した。
名字のある侍は六十三人、雑兵は三百あまりに対して、勝久は、
「今回は国入りである。尼子家に恩顧のある兵たちは、早々に味方に駆けつけるがよい」と叫び、
夜中に三度鬨の声を上げた。

これを聞いて、国方に残っていた兵たちからは、大庭の大宮司秋上三郎左衛門(綱平)・
その子伊織助(庵介)久家が二百余騎で一番に駆けつけた。
森脇市正(久仍)・横道源介・疋田右近・同右衛門尉・原田弥六郎・松田兵部丞(誠保)・
熊野兵庫助(久忠)・同二郎・馬田長左衛門・桜井与八・浅山六郎・田原右兵衛尉など、
屈強な兵が七百余騎、騎馬でこれに加わった。
大山の宗門の教悟院も三百余騎、中井平蔵兵衛尉(久家)・同助右衛門・加藤彦四郎・寺元市允・
進左吉兵衛尉・高尾右馬允・同宗兵衛尉・目賀田采女允・同段右衛門・福山次郎左衛門尉・同弥二郎・
長森吉内・日野の一族、熊谷(くまたに)新右衛門・池田与三郎・相良助九郎・比田十郎太郎・
徳吉孫九郎なども、五百余騎でともに加わってきたので、五日のうちに総勢三千余騎にまで膨れ上がった。

さらに隠岐守為清が隠岐から船に乗って三百余騎で漕ぎ渡り、勝久の国入りを祝した。
その後為清は、山中・立原に対してこう言った。
「私は近年毛利家へと従っており、元就から隠岐一国を賜っております。
しかしながら、私にとってはまったく不本意なことでしたが、我が家を続かせるために、
仕方なく甘んじておりました。
そこへ今回の勝久様のお国入りです。どれほど待ち望んでいたことか。
昔からのよしみとはいえ、ご一門から爪弾きにされても仕方ない身ではありますが、喜びを抑え切れません。
隠岐一国さえ間違いなく安堵していただけるならば、先陣を承り、身命を投げうって忠戦を貫きましょう」
鹿介・源田兵衛尉はこれを聞いて、「その通り勝久様に申し伝えよう」と会釈して、
忠山に仮屋をしつらえ、陣幕を張って、三百余人をことごとくもてなした。

さて為清が忠山を辞して去ろうとすると、鹿介は為清に向かって、
「あなたがおっしゃっていたことは、そのまま勝久に申し上げます。
昔からのよしみ、一門の契りを忘れず、早々に味方に加わってくださったのは、実にご芳志の至りです。
なので、隠岐一国は毛利と変わらずにあなたに預け置きたくはありますが、
ご同名の三郎五郎が近年流浪しており、我らに付き従って忠志を貫いてきたので、
本国の隠岐は、この者に宛行うことになるでしょう。
だから為清には、この国を平定した暁には、出雲・伯耆の中で、どこの地なりとも望みに任せ、
これまでの所領の倍を差し上げることにしましょう。決して粗略に思っうことはありません」と言う。
為清は「特に望みはありません。どこでもいいので、私に相応の小さな郷をいただきたく思います。
とにかく、お味方に参ったうえは、土地の選り好みなどいたしません」と、
何でもないように言い放ったが、このことを侵害に思ったので、最終的に心変わりをしたとのことだ。

鹿介にもし智があれば、まずは為清の望みに沿って隠岐一国を与えると約束していただろう。
そうすれば為清も味方に忠志を厚くしたに違いない。
そしてもとからの怨敵の毛利家を滅ぼしさえすれば、中国は自ずと手に入る。
それからなら、為清は何とかなだめすかして、どこか別の土地を所領として与えるならば、
少しも異議はなかっただろう。
まだ出雲の半国さえ切り従えていないのに、「隠岐の国は誰に与えよう、これに与えよう」などと、
為清の望みを受け入れなかったのが間違いである。

為清がたとえ敵方であっても、「本国の隠岐の国を宛行うから味方につけ」と招くべきだったというのに、
幸いに自ら味方に与し本国を望んでいるだけだというのに、どういうことだろうか。
少しも思い悩むことなく、すぐに与えると約束すべきだった。
それを許さなかったのは、愚痴の至りである。
これほど愚かで、敵を誘い衆を手懐ける策謀さえも知らない尼後家の者たちが、
どうして毛利家を滅ぼせるというのだろうか。あまりにひどい話である。

その後、勝久は三千余騎を率いて、国中を打ち従えようと、
新山(松江市)に籠もっている田賀左京亮(元龍)・同吉六を攻め落とし、
末次の土居を構えて勝久が籠もった。
次は天野紀伊守隆重が籠もっている月山冨田城を攻めるべく、宇波・山佐・布部・丸瀬、
そのほか数十ヶ所の向城を構え、毎日足軽を出して競り合った。
こうして一ヶ月の間には、出雲において六、七ヶ所の城を攻め落とすと、
一国はすべて手の内に入り、伯耆・石見の兵たちも味方に内通を図ってくるようになった。
尼子の武威が飛龍が天にいるかのようになると、靡かない草などなかった。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

なんかwww
お飾り大将ではあるものの、身体能力とかが賛美されてる勝久に比べて、
中心の鹿ちゃんが「愚か」ってwww 憎しみが滲み出てるぞwwwww
そんなにsageたくなるほどに強敵だったのかと思うと、いやなかなかw

せっかくの転機の章なんだけど、前述の出来事でスネているので、
感想とかまともに述べずにドロンする! もうやだ・゚・(ノД`;)・゚・
今週は夜も何かと忙しいので更新できるかわかりませんが、
気長にお待ちいただけると幸いです。

次も続きの章を読む予定。
2012-07-15

広家の献身@少年向け読み物

今日も陰徳記はお休みで、追加で発見した少年向け読み物から、
広家サンのかっこいい話を抜き出しちゃうぜぇ(^―^) 手抜きだろぉ~

ほとんど訳す必要はないんだけれど、少しばかり読みやすくしようと試みてみますた。


吉川広家、十五歳にして先登(先駆け)す

 吉川広家、幼名は又次郎、はじめは経言という。元春の第三子である。
 天正二年正月、尼子勝久が因幡に侵攻して三城を攻略した。
 翌年の秋、元春は兵を率いて伯耆に入り、小早川隆景もまたこれに続き、
 鳥取城を攻め取り、さらに私部城を囲んだ。
 広家はここで先駆けを果たした。年は十五であった。

毛利勢は一挙に鳥取城を落とした。
山名豊国が兵を率いて私部城を攻め、橋をかけて谷を渡り、堀端近くまで押し寄せる。
城将の亀井新十郎茲矩は勇猛によく闘った。豊国は敗軍しておびただしい死者が出た。

広家はこれを聞いて歯軋りをし、私部城を見渡して独り言つ。
「いざ敵に出会って一鑓試みてこよう」
槍を掻き揚げて城中をにらみ付ける。
そばについていた小坂越中守が、広家の鎧の袖を掴んでそれを押しとどめた。
「鑓を交えるのは兵卒の仕事です。隊長であるあなたがやるべきことではありません」

広家はこれを聞いたとたんカラカラと笑い、
「父上や兄上ほどであればそうであろうな。だが私は居候の身分だ。
奮闘してようやく名を上げられるというもの」
と、進んで城に向かおうとした。
しかし越中守が馬を引きとめて放さず、広家は不本意にも思いとどまることとなった。

その夜、城将の茲矩はひそかに決死の兵を出して、寄せ手に襲い掛かった。
広家は真っ先に馬を乗り出し、鑓をひねって縦横無尽に奮い闘った。
広家が触れる者はみな斃れた。
敵兵は散々に負けて逃げ走る。

広家は勝ちに乗じて敵を追い詰め、そのまま城の堀際まで迫る。
味方の兵も続いてきて、ドッと鬨の声を上げた。山や川が震えるほどだった。
広家は兵たちを指揮し、揉みに揉んで激しく攻め戦い、ずっと手を緩めない。

城兵はすっかり疲れきり、もう防ぎ戦う気力もなく、城将茲矩はどうしようもなくなって、
ついに使者を遣わして「城兵の命を助けていただければ、城は明け渡します」と申し入れた。
取るべきは城であって人の命ではない。毛利勢が直ちにこれを許すと、茲矩は旗を巻いて城を落ちていった。
毛利勢が替わって城に入り、一文字三ツ星の旗が城の上に高く翻った。
この先駆けによって、広家の勇名が全軍に轟き渡った。

 野史氏(飯田忠彦?)はこう述べている。
 制韓の役では、広家は諸将とともに蔚山を救援し、野蛮な敵兵を大いに打ち破った。
 加藤清正は感嘆して、吉川氏の軍が最も強いと言ったそうだ。
 広家の勇猛さはおおむねこの通りである。

 また、最近の少年たちは、父兄に爵位があるからといって、父兄の財産を頼みにして、
 他人に対して傲然と驕り、自分から一生懸命に励むことで名を上げようとする者が少ない。
 広家の「私は居候の身分だ」という一言を聞いて、深く自戒する必要がある。

以上。
『少年武士道. 第1』 熊田葦城 著 (東亜堂, 1908) P112~116
先日と同様、近代デジタルライブラリーで読めます。
元就や秀元、立花宗茂、黒田長政などの逸話もあるので、興味があればぜひ。

このあたりの話は、まだ陰徳記で読んでないな。
陰徳記出典ぽい気がするから、かなり楽しみ((o(^-^)o))

まあ広家ちゃんがかっこいいのは当たり前なわけだけれどもw
この話をダシに「自分で努力することが大切だよ」と説かれるわけなのねwww
なかなか興味深い……

広家は自分でアレコレやりすぎて、ちょっと面倒なことになったりもしたね。
石見小笠原家への養子入り騒動は、どうも広家主導で動いてたみたいだし。
といっても元春たちの知らないところで根回ししていたとかではなく、
元春・元長も、気乗りはしないまでも、一応了承はしていた感じだ。
それで元春・元長から毛利本家へ相談しないまま話を詰めていったので、
輝元たちが吉川の行動を怪しんで大騒動に発展した、と。

たぶん、小笠原養子騒動は社会人向けの題材だな。
「このプロジェクトが失敗した原因と解決策を考える」みたいなワークショップやりたいwww

次こそは陰徳記に戻るぞーーー!
2012-07-14

広家の初陣@児童向け読み物

章の途中で別の話を挟むのは気が引けるけど、
先日発見した80年ほど前の小学校の教科書に載っていた広家の話が
ものすごーーーーーーく可愛かったので、今日はそちらをご紹介。
堪え性がないとは私のことだ。フヒヒ☆サーセン_ノ乙(.ン、)_

ほとんど訳す必要がないので、旧仮名遣いを現代様式に改めたり、
送り仮名や表記を整えるにとどめてお送りしますぜ。
手抜きwww


初陣~十歳でたって出陣をのぞんだ吉川広家

元亀・天正のころは、日本国中、あっちでも戦、こっちでも合戦という、
勇ましくもまたさわがしい時代でありました。
その元亀元年正月、吉川元春は、出雲の尼子氏を攻めることになりました。
いよいよ出陣ということに決まると、その子で、やっと十歳になったばかりの又次郎が、
父の元春のところにやってきて、
「私も戦に連れていってください。一方のさきがけをいたします」
と、健気にも頼みました。

元春は、又次郎の勇気のあるのを喜びましたが、十の子供では、手足まといにこそなれ、
戦の役には立たないと思いましたので、
「お前はなかなか偉い。けれども、戦場はどうしてどうして恐ろしいところだよ。
お前はまだ小さいから、恐ろしい戦場へ出て働くことは、とてもできるものではない。
まあまあ、もう三四年まっていなさい」
といって許してくださいませんでした。

「戦場で一人前の働きができるかできぬか、行ってみなくてはおわかりにならないではございませんか。
私は、きっとできると思います。ぜひ連れていってください」
押し返してお頼みしましたけれども、元春は笑っていて、どうしても許しません。

又次郎は、それが不平でなりませんでした。
どうしても、諦めきれませんので、今度は兄の元長に
「どうか兄さんの軍勢の中に入れて、連れていってください」とお願いしました。
元長は、悪いことではないと思いましたが、
父さんのお許しのないものを、勝手に連れてゆくわけにはゆかないと思い、
どうしたらよいか、母さんにご相談いたしました。

これを聞かれた母さんは、さすがは名ある武士の女だけあって、たいそう腹を立てられて、申されました。
「弓矢とる家に生まれた子は、小さくて竹馬や破魔弓の遊びに気をとられているときでも、
なだめたりすかしたりしてまで、戦場に連れてゆくが当たり前ではございませぬか?
それを、そのように自分から進んで出陣したがっているものを、
わざと押しとどめて、望みをかなえさせてやらないというのは、
どういうお考えでございますか、私にはとんとお心がわかりませぬ。
けれども、武士の子の教えかたというものは、そういうものではなかろうと存じます。
…………ぜひとも、又次郎に華々しい初陣をさせてやってくださいと、
お前からよく父さんに申しなさい」

元長も、母さんのおっしゃることがもっともだと思いまして、その通り父さんに申し上げました。
「母も兄も当人も、そろってその気ならば、差し支えはあるまい」
というので、元春もようよう許してくださいました。

元亀元年正月十六日、とって十歳の又次郎は美々しい小桜縅の鎧きて、
意気揚々と初陣の門出をしたのでございます。

それから数々の戦いに手柄を立て、元春・元長が続いてなくなった後は、
名も広家と改めて吉川家の跡取りとなり、秀吉時代の名高い大名となりました。


以上。
『三年生の修身』(学校家庭学年別模範児童文庫) / 安島健 等編[他] (大阪宝文館, 1930) P159~164

これは近代デジタルライブラリーで公開されているので、
気になる場合はアクセスしてみてください。
児童向けの簡単な挿絵もあってかわいい(*´∇`*)
小学生の道徳の授業でこのお話が読まれていたなんて……!
「父さん」「母さん」「兄さん」て呼び方もかわいいよおおぉぉぉぉぉ!

この内容をツイッターで呟いたら、フォロワーさんから返ってきた反応が
「母ちゃんかっこいい!」多数だった。広家の話なのにwww でも私もそう思う。
新庄局……熊谷家の武闘派っぷりパネェwww
他の武将にもこうした逸話はあるだろうに、あえて広家をチョイスしてくれた筆者の方に
畏敬の念を禁じえない、とのご指摘もありまった。
うん、そうですね……ホントありがてえ(*;∇;*)
吉川家の家族の絆は日の本一やでぇ~~~~!

ツイッターといえば、最近ものすごい奇跡を体験したかもしれない……
別の話なので続きに書きますw

続きを読む

2012-07-13

松永弾正昔語り

だいたいの流れ:
毛利は幕下の勢力と大友が九州立花でいざこざを起こしたのをきっかけに、大友との大戦争に突入した。
裏切り者の長野が籠もる三ツ嶽は落としたものの、立花城は未だ奪取できず、
大友の後詰の大軍に囲まれて、戦況ははかばかしいとは言えないぞ!


尼子勝久出雲へ入らること(上)

尼子義久が降伏してから(永禄九年十一月)、山中鹿介などは皆国を追い出されて流浪の身となった。
皆京へ上って一緒に集まっていたとき、
「今この日本ではどの将が智計謀略に優れ、天下の部門の棟梁となるだろうか。
それをうかがい見て確かめてから、どこかの大将を頼みにして本国を取り返そうではないか」と話し合った。
山中鹿介・吉田八郎右衛門・真木宗右衛門の三人は連れ立ち、巡礼に変装して関東へと赴き、
武田・長尾・北条などの軍事力などを観察すると、
それから越前へと向かい、朝倉家を回って京都へと戻ってくる。

こうしたところに、「吉川・小早川が九州の立花表で大友と対陣しており、
どちらが勝つかわからないそうだ。だから元就・輝元も長府へと発足されたらしい」との風聞を聞くと、
鹿介たちは、「これこそ天が与えてくださった好機だ。この隙に本国の出雲を取り返そう」と、
京都で様々な浪人を呼び集めた。

そのなかに、横道兵庫助・同権允の兄弟が松永弾正少弼(久秀)を頼って身を寄せていたところ、
山中鹿介・立原源太兵衛(久綱)から、
「元春・隆景が筑前の立花表に在陣している隙を狙って、本国の出雲に攻め寄せよう。
大友と協力して挟み撃ちにすれば、毛利家を攻め滅ぼすのも難しくはなかろう。
早々に京都へ来て、本国を取り返す策謀を練ろう」との連絡がきた。
横道兄弟は大いに喜んで、このことを松永霜台(弾正の唐名、久秀のこと)に告げて暇乞いをした。

松永は天下に二人といない軍略家である。
もともとは摂津豊島の土民の子であったが、次第に出世して、
一度は将軍の後見役まで務めたほどの者だったので、毛利と大友の戦の行く末を予言し、
不思議にもそれとまったく変わらない結末になった。

霜台が横道兄弟に向かって言うには、
「元春・隆景の戦ぶりを伝え聞くに、父の元就にも劣らない名将だという。
元春は文武全備だとはいっても、そのなかでも勇が優れていて攻めれば取り、
戦えば勝つ方法をよく知っているらしい。
隆景は智勇を兼備しているといっても、智謀がきわめて優れていて、
国を治めて民を懐かせる才能があると聞いている。

この兄弟と大友を比べると、智も勇も雲泥の差がある。
智将と愚将が戦えば、すなわち智将が勝つ。
勇将と臆病な将が戦えば、勇将が勝つと昔から言うではないか。
たとえ大友が三倍の兵力で対陣したとしても、吉川・小早川を滅ぼすことはできないだろう。
十中八九、元春・隆景は九州戦線を無事に離れるだろうし、
そうでなければ和睦を結んでからあの地を去ろうと謀をめぐらすだろう。
もしこの両川が九州から舞い戻ってくれば、おまえたちは流浪の身なのだから、
はかばかしい一戦はできないだろう。

このまま私を頼って、もうしばらく足を休めていてはどうだ。
私は賤しい身分だが、主君の三好筑後入道実休(三好元長の次男)に祐筆として召し置かれてからというもの、
寝食を忘れて忠勤に励んできた。
そのころは和泉の松浦や河内の喜蔵左京太夫、安見の何某などという者たちが、五畿内では優れた軍略家で、
将軍の後見につくような勢いだった。
このとき、古入道実休が阿波の国から七千騎あまりを率いて攻め上り、
喜蔵と何度か合戦をして、ついに喜蔵を攻め滅ぼした。
その後松浦と戦になり、松浦を和泉の境の津へ追い落とそうとしていたとき、
根来寺の宗徒の杉本坊・岩室坊などが五千余騎で大和の国の葛城の麓、
久米田(和泉の国)へと打ち出してきて、松浦に力を貸した。
実休はこのときは松浦に押さえを置いて、四千余騎で久米田へと出張りして、
すぐに根来の宗徒たちを追い払った。
ところが運の尽きだったのか、実休は流れ矢に当たって死んでしまった(永禄五年三月五日)。

嫡子(三好元長の長男)の修理大夫長慶・その次(元長の三男)の安宅冬康・
四男の十河一存はいずれも劣らぬ名将であった。
私はこのとき、長慶の御身辺に召し使われていて過分の所領をいただき、
松浦・根来・安見を征伐するときにも身を捨てて先陣に立った。
ついに松浦・安見を滅ぼし、根来の宗徒を追い込むと、
首里大夫殿はようやく公方様の官領職になることができた。

そして長慶が逝去した(永禄七年七月)後、安宅(永禄七年五月)・
十河(永禄四年四月)も程なくこの世から去ってしまわれたので、
不肖の身ながら私が左京太夫(三好義継)殿を擁立したのだ。
そこへ、三好の三人衆と名高い三好日向守(長逸)・同下野守(政康)・
松山新入斎(岩成友通)などが、まだ幼い左京殿を蔑ろにして、
自分の思い通りにするために執権になろうと思ったのだろう。
光源院(足利義輝)殿を討ち果たし、また左京太夫殿さえも亡き者にしようとした。

私は奈良の多門にいて、八幡の城にいらっしゃる左京殿をお守りするために、何度か防戦をしたのだ。
三人衆は近隣の国の兵たちを集め、私の居城を取り巻いた。
敵は猛勢だったので、白昼の仕掛け合いの合戦では勝てないと思って、
大仏の陣へと夜討ちをかけたところ、どうにか勝利を得られて、
敵を五百人あまり討ち取って、三人衆に塩をつけることができた。

そのとき織田信長が義昭公に頼られて天下へと切り上っていらしたが、
まず手始めに江州を制圧なさり、箕作の城を攻め落とされたと聞くと、
三好の三人衆はそれを恐れて敗軍した。
私が忠義の戦に励んだからなのか、天の加護をこうむって運が開けたのだ。
だから信長が上洛されたときに私が大津近辺まで出て行くと、信長は大いに感心されて、
大和・河内の両国を与えてくださった。

長々しい昔話ではあるが、何かにつけて自分の身の上を若い者たちに語って聞かせている。
私はもう八十歳近い年寄りで、余命は幾許もないだろうから、
私が死んだ後の思い出話にでもなるだろうと思って、このようにしているのだ。
また、私は百姓の子として生まれたが、今は二つの国の主となるまでになっている。
これほど天のご加護にあずかったのだから、あと七年ほどのうちには、天下に旗をはためかすことになる。
だからどうかここにとどまって欲しい。
十分な所領も宛行おう。本国への下向は思いとどまっておくれ」

松永は再三こう引き止めたが、横道兄弟は、
「おっしゃることはもっとも道理ではありますが、たとえ野辺の土となるとしても、
一度本国に帰って、以前からの念願を果たしたく思います。
このままここに足をとどめて数万貫の所領をたまわり、栄華を誇ることは、
それこそ望むところではありますが、いくら裕福になっても故郷に帰れなければ、
せっかくの錦の衣を夜道で着ているようなものです。
まず一度は故郷に帰り、義のために命を捨てることこそが、本当に望むところなのです」と答えた。

松永は、「これ以上は引き止めても仕方あるまい」と、鎧一領・太刀一振を横道兄弟に与え、
「この老翁が言った言葉を、最期のときにでも思い出してくれ」と、二人に暇を出した。


以上、テキトー訳。続く。

いよいよ鹿ちゃん登場だね!
しかし今回は爆弾正さん回だった。あれ、けっこういい人……?
他の章でも、松永久秀はけっこう好意的に描かれていたような気がするが、
ここに出てくる横道権允さんという人が、後に吉川に仕えているようなので、
横道さん情報でイメージがいいのかもしれないと思ったり。
出自がはっきりしないとか、今回ちょっとだけ調べてみて初めて知った。
噂には聞いていたけど、畿内情勢はホントわけがわからんな。

さて次回も続きを読むです。
が、ちょっとさまよっているうちにイイ話を発見したので、もしかしたらそっちを載せるかもしれない。
明日は明日の風が吹くさ……
2012-07-11

一方そのころ輝元は

だいたいの流れ:
九州立花の城を取り囲んだ中国勢は、援軍に送られてきた大友の大軍と小競り合いを繰り返していた。
今回は、じゃあそのとき輝元は何をやっていたか、というところ。


元就朝臣・輝元朝臣、長府へ下向のこと

さて大友宗麟は、自身は豊州にいながらにして、立花表には、
弟の柳川左近・田原重忍を大将として、侍大将には戸次道雪などを差し向けていた。
大友勢は数万騎で寄せ手の毛利勢をくるくると取り巻いた。
中国勢は味方を引き入れようにも方法がなく、進んで戦うには敵が猛勢すぎて太刀打ちできない。

その知らせが届くと、輝元様は「こうして自分だけ吉田にいるのも後ろめたい」と考え、
すぐに長門の国府へと下向してきて、谷の長福寺に滞在した。
またその後潮音寺へと移り、九州表の味方がさらに難局に陥ったときには
さらに兵を掻き集めて味方のもとへ駆けつけようと奔走していた。

こうしたところへ、立花表から長府へと、五月十八日に討ち取った首級五百あまりが送られてきたので、
輝元様は「戦の首尾はいいようだ。九州退治は後退してはいない」と、ひとかたならず喜んで、
使者に褒美を与えた。
こうして長府に陣営を構えて様子を見守った。

このころ、内藤左衛門佐隆春の郎党の勝間田土佐守という者が長府に居を構えていたが、
ここへと大友から「元就・輝元を討ち取ってくれれば、
防長両国のうちで所領を望みのままに宛行おう」とひそかに言い送ってきた。
土佐守はすぐに使者を捕らえると、書状を刺し添えて差し出したので、
忠勤の至りであるとして、やがて加増された。
その使者は首を刎ねられ、獄門にかけられた。


以上、テキトー訳。

短いけど今日はこれにて。次の章が長いので、一緒には載せられんのよ。

そういえば輝元は、初陣の後は、この次の年(元亀元年)の出雲出陣まで、
戦に出た記録が見つからなかった。
少なくとも、大日本史料のデータベースをさらっと検索した限りでは、だけど(手抜き)。
立花陣でも、渡海はしてないもんね。
この間は、後継者教育とかをビッチリされてたのかなぁ。

おそらくこの永禄12年に、輝元は元春に対して、次の戦には自分も出馬したいという手紙を送ってたと思う。
ちょっと健気な感じがして好きだ。
尾崎局から出陣している輝元への手紙に「爺さまが会いたいって言ってる」
などと書いてあったりするので、元就が手元から離したがらなかったんじゃないかと憶測。

というか、この直前あたりの話って、私読んでたっけ……?
いや、まだだった。義久の降伏あたりだけ拾い読みしたんだったな。
益田家に興味が湧いてきたので、尼子義久降参後の出雲・石見平定あたりも近々きちんと読みたい。

でもしばらくこのまま次の章を読んでいきます。
次章はいよいよ! 七難八苦のあのカリスマが登場するよ!!!
2012-07-11

元長の雄姿

昨夜は書きかけで華麗に寝落ちしてしまったので、朝の更新www
ダメ人間度が増している昨今……_ノ乙(.ン、)_

さて陰徳記、これまでのあらすじ:
立花城を取り巻いて攻め寄せる毛利勢に背後から攻め寄る後詰の大友勢。
激しい戦いが続くなか、吉川衆も大活躍を見せて難局を乗り切っていく。
今回もその続きから。


五月十八日の合戦のこと(3)

また高野山入道の陣へは、元長様が粥を煮させて水と一緒に送っておいたので、
兵たちは皆粥を飲んで力を回復し、水で火矢を消して防ぎ戦った。
最終的に敵を追い払うと、敵の退却する後を追って、山の麓で手負いの者数百人の首を取って、
吉川・小早川両将の実検に臨んだ。両将は、「高野山の振る舞いは最高にすばらしい」と褒め称えた。

熊谷の陣には、佐伯・臼杵といった者たちが攻め寄せてきたが、
どちらも九州では屈指の強さを誇る侍大将だったので、
先陣が引いてくれば下知を下して押し返しながら切り込んでくる。
このままでは危ないというとき、熊谷伊豆守の三男、三須兵部少輔が、
足軽たちが鉄砲を撃っているのを見て、自分の陣が撃ちだす鉄砲はというと、
矢間から撃ち出す者は敵の鉄砲を恐れて首を矢間の下に隠し、手だけを上げて、
敵がどこにいるかもわからないまま撃っている。
また塀から外に出て撃っている者を見ると、鉄砲を頬に当てる者はなく、
皆腰だめにして撃っていたので、なかなか敵に命中しない。
三須は「私が撃って見せるから、これを手本にして撃て」と、足軽が持っていた鉄砲を奪い取って、
連続して四、五回撃って見せた。

ここで、誰かはわからないがおそらく一軍の大将だろうと思われる武者が一人、
団扇を持って下知して駆け回っていた。
三須はこれをよく狙ってドッと撃つ。
その弾はその武者の胸板を貫通し、武者はうつ伏せに倒れた。
この武者はよほど大切な者だったのか、その手勢たちは武者を肩に担いで退却していった。

宍戸の陣も敵にしきりに攻め立てられていたが、隆家はなかなかの勇士だったので、
下知に駆け回り、手勢の郎党たちの深瀬・末兼・奥垣・佐々部たちも身命を惜しまずに防戦したので、
豊後勢もこの陣を破ることができなかった。

こうして戦っているときに、もし後詰の敵と城中の兵たちが合流すれば一大事になると考えて、
両将は「城からの道に堀を作り柵を結い回せ。
しかし城から矢が届く距離で散々に射られてしまうだろうから、
堀を切ることができなければ誰かを置いておけ」と命じた。
桂上総介は元春に向かい、「お手勢の森脇市郎右衛門が適任ではないでしょうか」と申し入れる。
元春は「では」と森脇を呼び寄せ、このことを下知すると、
市郎右衛門はすぐに了承して、足軽数百人を連れてその場所に向かった。
すると案の定、城から散々に射掛けてくる。
しかし市郎右衛門はまったく意に介さず、道を掘り切り柵を二重に結い回して帰ってきた。

さて、後詰の勢は寄せ手の陣を破ることができずに、仕方なく引き上げていったが、
今日の合戦で勝利を得ることができなかったのを口惜しく思ったのか、また引き返してきた。
申の刻になって、小早川衆の椋梨次郎左衛門の陣に無二に切りかかってくる。
これを見て、浦兵部丞宗勝・坂新五左衛門・乃美少輔五郎・山田源五郎・豊嶋九郎右衛門が打って出ると、
敵はこの昼の負け戦の験を直そうと勇んで進んできた矢先だったので、
難なく突き立てられて柵際まで押し込まれ、この陣が危なく見えた。
吉田衆の材間越前守、小早川衆の末永源六郎・裳懸六郎・田中源七はここを破られてなるものかと
必死に戦ったものの、枕を並べて討ち死にした。
敵はさらに勝ちに乗って攻め入ってきて、味方は突き立てられ右往左往して退却した。

元長様はこれを見て、ここは自分の手を砕かなければ打開できないと考え、
手勢五百余騎を率い、藤の丸に三ツ引両の旗を夕暮れの風にたなびかせ、椋梨の陣へと向かっていく。
ここに、突き立てられて逃げてくる味方が雪崩れかかってきたので、
元長は井上五郎右衛門という者を遣わして、
「味方が利を失ったと見える。吉川元長が椋梨の陣へと、馳せ向かっている。
退却する者たちは、せめて道を空けてくれ」と呼びかけさせた。
これを聞いて多くの者は立ち止まった。

豊後勢がさらに進んで、柵の木を切り破って乗り込んでこようとするところに、
「吉川治部少輔元長である」と名乗り、五百余騎をひとまとめにして、
自らが先頭に立ち一直線に進んでいく。
宮庄・今田・桂・粟屋・香川・伊志・小坂・森脇・境・朝枝も、皆我先にと、身命を惜しまず突きかかった。

豊後勢も勝ち誇った勢いに乗って無手と渡り合い、しばらくの間は戦っていたものの、
新手の猛将・精鋭にかないようもなく、山の麓へとさっと引いていった。
味方は後を追おうとしたけれども目的は果たせず、
元長は百歩も進まないうちに「もう戻ってこい」と兵を引き上げさせた。
隆景をはじめとして、「元長の行動は立派である」と大いに褒め称えたので、
中国八ヶ国の武士たちも皆、称美しない者はなかった。

なかでも杉原播磨守盛重と三沢三郎左衛門は陣を並べて据え、
どちらも城を攻めていたので後詰の敵との合戦には参加していなかったが、
盛重が三沢に向かってこう言ったそうだ。
「それにしても、元就様の勇機智謀が三代も引き継がれるとは恐れ入った。
元長の今日の行動を見るにつけても、毛利家の武運は、
たとえ元就様が老いて死んでしまわれたとしても、なおいや増しに隆盛するだろう。
なぜなら輝元が良将の器だからだ。
また一族の元長がこのような人物であれば、私の予測は外れるわけがない。
私のような国人衆が傍から見ているだけでも、なんという勇将の振る舞いかと好もしく思う。
元春も親の身であるのだから、どんなにか嬉しくお思いだろうか」

盛重がこう語ると、為清も「私も本当にそう思う」と言って、
二人一緒に元長の本陣へと向かっていたところ、道でちょうど元長と行き会った。
元長様は緋縅の鎧を着けていたが、夕日に輝き渡って、まるであたりの景色を霞ませるかのようだ。
魯陽が夕日を三度呼び戻したという故事もこのようなものだったと思えるほどに勇壮な姿だった。
杉原が「なんと勇ましい強将ぶりでしょう」と正面から褒め称えると、
元長様も気分よさそうに本陣へと引き揚げていく。
その後、祖父の元就様もこの合戦の様子を聞いて大いに喜び、
すぐに近習の者を使いに立てて、左文字の御太刀や寒梅という駿馬などを贈ったという。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

びええぇぇぇぇ元長かっこいいいぃぃぃぃぃぃぃ!!!
惚れてまうやろおぉぉぉぉぉぉ!!!
そして隆景をはじめこの絶賛ぶりである。満足。

この戦いは「多々良浜の戦い」と呼ばれて、実際は毛利が敗軍したらしいけど、
いいんです、元長がかっこよければそれでいいんです!
小早川衆も宍戸さんもそれなりに活躍してるし、ちょっとホッとしたw

個人的に熊谷さんちの鉄砲隊が面白すぎる。
鉄砲の撃ち方がなってなくて注意されるとかw まじwww
実戦で使う前に一通り指導しとけよというwww
しかも「このままでは危ない」って段階になってからかい!とツッコミたくなるわ。
お茶目な人たちだなぁ(*´∇`*)
これは熊谷氏sageではなく、三須の活躍シーンだと思うね。

さて次章は、九州でこうした戦いを繰り広げているころの元就たちの様子ですぞ。
2012-07-08

抜け駆け吉川勢「ヒャッハー!」

前回のあらすじ:
立花城を取り囲んだ毛利軍の背後に詰め寄る、大友の後詰12万騎。
緒戦は退けたものの、大友側は身命を賭して決戦を挑んでくる。
三つの陣がとりわけ厳しく攻め立てられ、吉川衆の香川兵部・吉川式部などといった人々は、
元春の命令を待たずに、劣勢の楢崎弾正忠の陣へと忍んで駆け出し、激戦に身を投じた。


五月十八日の合戦のこと(2)

楢崎弾正忠は、自分の陣を破られるまいと行動を慎み、危ない戦をしなかったので、
自分の陣に押し寄せてきた敵なのに、よその勢に先を越されてしまったのを口惜しく思い、
真っ先に突いて出た。
すると岡又十郎・児玉内蔵丞・小早川衆・磯兼左近太夫・粟屋雅楽允・兼久内蔵丞・
河井新右衛門・小田新右衛門が続いて懸けてくる。
これを見て、先に戦って息を継いでいた吉川勢は、また一緒になって突いて出た。

この場所は立花の木の丸殿(斉明天皇の行宮?)にも近かったからか、
敵も味方も名乗りを上げながら攻め戦った。
芸陽勢は数は少ないといっても、高所から敵を見下ろして突いてかかっている。
後詰の勢は毎度のように突き立てられ、足並みが乱れそうになりながらも、
大勢なので押し返し、入れ替わりながら攻め上った。
千や万の旗が東西に入り乱れて、鯨波(鬨の声)や矢を放つ音が乾坤鳴動し、
上は帝釈天の耳にも届き、下はどっしり構えた地の神も仰天するような騒ぎだ。

敵も味方も関係なく、一騎当千の精鋭・勇士だったので、
進んで死ぬことを名誉だと思い、退却して生き延びるのを恥だと考えていた。
切られても射られても少しもひるまずに攻め戦い、死骸が山となり、流れる血は川となる。
白川と名のついた川も、紅葉の淵と成り果てて、
唐暮れないに水くくる竜田川の秋の暮れが「神代も聞かず」と詠まれたのも、こうしたことかと思い出された。

こうして敵があまりに激しく射立ててくるので、岡又十郎が泥障(あおり、馬具)を楯に突き立てると、
香川兵部大輔は「運は天にあるという。楯を持っても意味がない。重いだけだ、捨ててしまえよ」と諫めた。
岡はカラカラと笑って、遠くへガバッと投げ捨てた。

こうしたとき、敵の後陣からドッと鬨の声が上がり、
先陣の兵を押しのけて「エイヤ、エイヤ」と前進してくる者がいる。
ハッと見ると、その者たちは上野主殿助・同佐介と名乗って、
命の危険を顧みずに真っ先に進んで一直線にぶつかり合って戦う。
これで中国勢が崩れだしたので、このままではこの陣が破られてしまいそうに見えた。
そこに吉川式部少輔・香川兵部大輔・岡又十郎・磯兼左近太夫・楢崎弾正忠・
粟屋雅楽助・山県宗右衛門・江田宮内少輔・山県四郎右衛門・香川雅楽助などが踏みとどまって、
鑓先から火花を散らして攻め戦う。

境与三右衛門・同又平・荒木又左衛門の三人は、太刀だけでも一歩も引かずに、
「エイ、エイ」と力強い声を上げながら突き合い、切り合い、戦った。
どんなに攻められても、この堅陣が破られるようには見えなかった。
磯兼左近太夫は敵の突く鑓を股の間に挟み、敵が「ここだ」と跳ね上げようとするのを、
下の谷へと撥ね落とした。
このとき江田宮内少輔・境与三右衛門・同又平は、敵の首を打って高くかざした。

元春様は遠目にこれを見ていて、
「あの紅白の混じった段々の羽織を着ているのは吉川式部少輔、白い羽織は香川兵部大輔、
赤い羽織は岡又十郎のようだ。忌々しいやつらだ。
下知がない限りは一人も敵に懸かっていくなと、あれほど堅く制法を出したというのに、
軍法破りを顧みないとは、不敵なものだ。
私が法令を正し、下知もなしに抜け駆けした者は、あるいは首を刎ね、
または一所懸命の所領っを没収すると周知してある。
それなのに、この固く定めた法を知りながら、こんな振る舞いをするとは、まったくあきれる」と憤った。

しかし、もとから赤い羽織は敵・味方の矢傷・切り傷から流れる血に染まり、
何度も何度も紅に染めたように見え、白い羽織は唐紅に染まっていたので、
「我が手の者ながらなかなかやるではないか」と思ったのか、
莞爾と打ち笑って、余所見もせずに見守っていた。

戦いはこの日の朝辰の刻(午前八時ごろ)から始まり、
未の刻(午後二時ごろ)の終盤までせめぎ合いが続いていた。
敵・味方ともに、討たれた者や傷を負った者は幾千万と数知れない。そ
ろそろ日が傾いてきたとき、豊後勢は戦い疲れたのか、少しひるんだ。
そこに芸陽勢が「ここで一気に巻き返すぞ、者共続け」と、鑓・長刀の切っ先を揃えて無二にかかっていく。
豊後勢はすでに引き色になっていたうえ、この攻撃で上野主殿助・同佐介・楢尾・
柴沢何某といった者たちが一歩も引かずに、三十余人枕を並べて討ち死にしたので、
さしもの豊後勢も七、八段ほどさっと退却した。

これは大崩になりそうだと見えたところに、後陣の吉広などが押し返してきて、
芸陽勢もまた取って返して備えを固める。しかし息を継いでいるのか、豊後勢が進んでこない。
芸陽勢も、一日中入れ替わる兵もなく、また引こうとすれば敵が付け入ってくるのは目に見えていたので、
思わず眩暈を覚え喉が乾き息が切れたけれども、引くにも引けずに戦い続けていた。
敵が引いていったのをこれ幸いと、膝の上に鑓をドウと置いて、大きく息をついて休んだ。
敵はこの陣はとても破れないと思ったのか、後詰の兵たちは一隊ずつ順繰りに引いていった。
これを見て、芸陽勢も陣中に引き揚げた。

さて吉川勢は打ち連れて帰途に着いたが、香川兵部大輔は境与三右衛門尉に向かって、
「山県宗右衛門は鑓を持っていなかったが、誰の鑓で突いたのだ」と問いかけた。
境は「あなたの手の者の塚脇が討ち死にして捨てた鑓を拾って突き合ったのだ。
塩首に手鞠ほどの大きさの四手の鑓印がついていたが、それを小刀で切って捨てた後、
山県と名乗って鑓を合わせていた」と答える。
このころは他人の鑓で突いたものは自分の鑓働きとは認められなかったので、こうしたのだという。

香川はこれを聞いて「これほどの乱戦で敵も味方も見分けがつかない状況だったというのに、
よく小刀を抜いて四手を切り捨てたものだ。
それに、何かと忙しいなかで、境殿もよくぞそんなことに気がついたな。
釈尊が花をひねったときに迦葉が微笑なさったというのも、こうしたことと同じだろう。
色でも香りでも、知る人ぞ知る、というのはまさにこのことだ。

強い将の下に弱兵はないという。
元春様が大の勇将でいらっしゃるから、家中の人々も皆、心の持ちようが半端でなく強い。
近年坂東で名高い、甲斐の武田入道信玄、越後の長尾入道謙信という大剛将や猛将の部下の人々も、
千里同風というから、きっと同じようなものだろう。
中国・四国・九州の兵の勇は十分わかった。
願わくば武田・長尾といった強敵と手合わせして、勇のほどを確かめたいものだ。
碁は相対すれば実力がわかるというが、大友という強敵に対しても一通り勇を顕されたのだから、
武田・長尾の猛々しい兵と相対すれば、鷺喉が肉を求め、
針頭が鉄を削るかのようになるだろう」と大いに感心した。


以上、テキトー訳。もうちょい続く。

わぁい、経家の陣羽織は紅白段々、春継の陣羽織は白、ちぃ覚えた!
うそ、メモメモ……(トリ頭だから忘れる><)

いいなーいいなー。元春かっこいいな。
「軍法無視しやがってこのドアホウ」なんて言いつつ、
「うちの奴らもなかなかやりおる」とかヤニ下がってんでしょ。
かっこいいというか可愛い。
そして遠くから脇目も振らずに見守る元春。まるで慈母のよう(*´∇`*)
まあ軍法破りは名物というか、抜け駆け禁止はほとんど守られたためしがないじゃない、吉川衆は。
通常運転だぁねwwwww

こういう肉薄したガチンコの合戦は死人が多く出るけど、
なかなか読み応えがあるね!
春継がいっぱい喋っててものすごく嬉しい!

んでもって元長は何やってんのかというと、次回あたりに登場しそうだ。楽しみ!
2012-07-07

以心伝心☆吉川衆

だいたいの流れ:
立花城での小競り合いをきっかけに九州出征に臨んだ毛利軍。
大友に寝返った長野の三ツ嶽を落とし、いよいよ立花城を取り囲んだ。
そこへ、大友宗麟から援軍として12万の大軍が送られてくる。
急襲してきた豊後勢を一旦は撃退したものの、敵は陣を固めて中国勢と対陣した。

今回は、その後詰の勢との本格的な合戦。長いので分割。


五月十八日の合戦のこと(1)

戸次入道道雪は、田原入道重忍・柳川左近将監・同近家・臼杵・吉広・佐伯・志賀・清田・武田、
そのほか主力の侍大将を呼び集めて言った。
「昨晩、立花の城から忍びの者が一人やってきて、城中の様子を詳しく聞かせてくれた。
すでに水の手にも詰め寄られていて、二、三日中には攻め落とされてしまいそうだとのことだ。
そのほかもあちこちに仕寄で間近に寄られ、そのうえ井楼を高く組み上げて城中を真下に見下ろし、
鉄砲を撃ちかけられているので、難儀しているという。
九州の兵をすべてかき集めて後詰しておきながら、その甲斐なくこの城を落とされてしまえば、
大友家の武名の傷になる。
それも皆、我らの勇が劣っていたからだと、諸人は指を差して嘲笑するだろう。
これではあまりに口惜しい。いざもう一度敵陣に切りかかって、勝負を決する合戦をしようではないか」
こう言われて皆も、「道雪の仰せはもっともでございます」と同意した。

道雪は、「先日は十分に策も練らず、ただ味方が猛勢だからといって、
小勢の敵を侮ったがゆえに仕損じてしまった。
今度はたとえ抜群の働きをした者であっても、軍法に背いた場合には、
呉起が二つの首を取ってきた男の首を刎ねた例に倣って、必ず首を刎ねる。
合図の太鼓を聞いて懸かり、鐘を聞いたら退却するように」と、前もって法令を出しておいた。
そして、先を争えば備えが乱れて敵を倒せない原因になるだろうと考えて、
先陣は、すべて大友家の氏神の田原八幡を陣中に勧請して神前でくじ引きを行った。
それから二回三回とくじを引き、一組ずつ、全体の合印のほかに順番の印をつけた。
吉日良辰を選び、来る十八日の辰の刻(午前八時ごろ)に一戦すると定めていた。

同十六日、高橋右近鑑種が立花の陣に駆けつけた。
これまでは自分の城(宝満)にいて、敵陣へと何度も夜討ちなどをして、
多くの首を取っては立花に送っていたが、城に人数を十分置いて守らせつつ、
自身はこの陣に赴いてきたのだった。
この鑑種は九州では並び立つ者がいないほどの勇将だったが、
いつも酒を飲んで一日中盃を手から離すことがなく、
何百杯を飲んでもなお満足のいかないような酒豪でもあった。
きわめて意地が悪く、ちょっとしたことで人を罵倒するのが常だったので、
まさに風顚漢(ふうてんかん、馬鹿野郎という意味)で幼稚で
郎党漢(ものをわきまえない人?)とも言われるべき行跡である。

さて同十八日、豊後勢は皆卯の刻から陣中を出た。
次々に詰めかけて段々に備え、足軽を先に立てて太鼓を打って進軍する。
敵陣から少し離れたところに備え、鉄砲の一つも撃ち出さない。
芸陽勢も自分たちの持ち口を固めて、敵が懸かってくるのを待って開戦しようと備えていた。
そこに道雪の本陣から合図のほら貝が三回吹き鳴らされた。
豊後勢は総軍でドッと攻めかかってくる。なかでも三方向に激しく切りかかってきた。
一つは備後の国の住人高野山入道久意・同国住人楢崎弾正忠の陣、一つは安芸の国の住人宍戸隆家の陣、
もう一つは同国住人熊谷伊豆守信直の陣だった。
皆、自分の陣を固めて打ち出し、ここを突破されるまいと、身命をなげうって防戦した。

吉川・小早川両将は旗本の勢を数百ずつに分け、どこか危ない陣があれば協力しようと、
浮武者(見方を援護するための隊)として置かれていた。
はじめに楢崎の陣が、敵が激しく詰め寄って危なく見えたので、
元春様が伊志源次郎・井上平右衛門に鉄砲を六十挺を差し添えて加勢に行かせた。

吉川式部少輔・香川兵部大輔は元春の御前に伺候していたが、二人はキッと目配せして、
なんでもないようなふりをして御前を退出すると、
すぐに菅笠をかぶって本陣の脇をそっと通り過ぎ、楢崎の陣へと駆け出した。
これを見て、山県四郎右衛門・江田宮内少輔・香川雅楽助・山県宗右衛門・境与三右衛門・その弟又平・
荒木又左衛門などが続けて駆けてきた。

こうしたところに小川右衛門尉という者がいて、これは元就様の鉄砲大将だったのだが、
抜け駆けの者たちがこの陣の前を通るときに、小川陣中から声がかかった。
「今私の陣の前を通るのは何者だ。
錆び鑓五本や十本程度であの大軍に立ち向かおうなど、卵で山を押すようなものだ。
そこをどきなされ。小川の鉄砲で撃ち払いますぞ」

これを聞いて香川の郎党の猿渡壱岐という者が引き返してきて、
「我らは吉川元春の手勢で、これこれこう申す者でございます。
寡兵をもって大勢を挫くのは、吉川の手勢の癖なのです。
その証拠は、大内・尼子両家との戦で、あなたも毎度ご覧になっているはず。
この錆び鑓で華々しく一戦して、敵を突き崩してまいりますので、
そんな陣中に張り付いているより、我らの後についてきて、よそで見物してはいかがか」と叫んだ。

そして伊志・井上は味方の到着を待つと鉄砲をしきりに撃ちかけた。
井上平右衛門が真っ先に進んできている敵の足軽を指して
「式部殿、兵部殿、あれをご覧ください。仕留めてご覧に入れますぞ」と言って、
鉄砲を提げて駆け出して撃ちかけたところ、あやまたず足軽一人を撃ち抜いた。
井上は、「ではあの首を取ってきます」と、二重の空堀を越え、その首を打ち取って帰ってきた。
敵が走り出て井上を突けば、難なく井上を討てたのだろうが、
備えを破られるまいとしたのか、鑓衾を作った先頭からわずか十二、三間ほどのところだったけれども、
井上には目もくれなかった。その日の一番首はこれだった。

その後、吉川式部少輔・香川兵部大輔・同雅楽助・江田宮内少輔・山県四郎右衛門・
伊志源次郎などが陣中から突いて出ると、敵は鑓衾を作って待ちかけていたので、
思う壺とばかりに渡り合い、黒煙を立てて戦いはじめた。
香川の郎党の猿渡壱岐守・沖源右衛門・塚脇彦右衛門は、
主を討たれまいと真っ先に進んで鑓を入れて防戦した。
同じく手の者の香川与七郎は、十九本の矢で敵を二十人射殺したので、
合戦が終わってから、元春様が非常に感心して、御前へと呼び出して太刀一振を与えた。

敵が鑓十本ほどで香川兵部を取り囲むと、沖源右衛門がとっさに鑓を投げ捨てて走りかかり、
鑓を持った敵六、七人に横から抱きつくようにして組みかかった。
敵はそれを受け止めて多数の鑓で突いたが、沖は主を討たせてなるものかと、
その鑓にしがみついて死んでいった。
この隙に、兵部も式部も敵を突き伏せ、勇み進んで戦ったけれども、
敵は大勢なのでそれを押し返して進んでくる。

兵部の先に進んだ塚脇が敵を突き伏せているところに、横からツッと走り寄ってきた者があり、
塚脇の太腿をズンと切り落とした。
塚脇は鑓を遠くへガラリと投げ捨て、切られた片足を岸に寄りかからせて、
向かってくる敵を打ち払いながら、しばらくの間戦っていた。
山県宗右衛門はこれを見て、抜いた太刀を鞘に収め、塚脇が捨てた鑓を拾って散々に突き合い、
仕掛けつ返されつしばらく戦うと、敵がひるんだところを見切って、
手を翻すかのように塀の中へと退却してしばらく息を整えていた。

香川兵部大輔が塀の中から外の方を見ると、
敵二人が塚脇の首を打とうと太刀を抜きかざしてかかってくるのを塚脇が打ち払うのを目にした。
「誰かいるか。あれを助けてこい」と言うと、
郎党の材間四郎三郎が「かしこまりました」と言って塀の中からツッと走り出た。
敵を一人切り伏せると、もう一人の敵はこれを見て逃げていく。
塚脇は材間に向かって、「私はもうこれまでだ。敵に首を取られるのは口惜しい。
あなたの手に懸けてほしい」と首を差し伸べた。
材間はこれを打って、敵の首と一緒に提げて陣の中に帰っていった。


以上、テキトー訳。続く。

そいそいそぉい! イイじゃないスか正矩、いや正矩せんせー。
やっぱ合戦描写ですよ。こう、血沸き肉躍るっていう。
ってわけで楽しいな、この章! 仏教薀蓄とかに紙幅割くより、
合戦描写とか人間ドラマ増やせばいいのに。
てかなんで高橋は関係ない文脈で大酒のみとかdisられてんの?

経家・春継コンビが陣幕抜け出すとこもイイね。目配せしてそ知らぬ体で抜け出すとか。
血気盛んだな。このころ20代半ばか。
元就の旗本に引き止められても意に介さず、ゴーイングマイウェイな吉川衆。
しびれるわぁ(*´∇`*) 「見物してろ」って捨て台詞がまたイイね!

井上平右衛門はスゴイねー。「あれ撃ちますから」って言って本当に当てちゃうんだもんな。
現代ならソレ、失敗フラグだよ、チミ。
あと春継の郎党、かっこいいな。主人を守る最大の防御は攻撃。
きっと香川家で語り継がれてたんだね、惜しくも命を落とした人たちの名前も。
塚脇なんてすごすぎる。片足切り落とされてもまだ防戦。
敵に首打たれるのはいやだからって、仲間の手でとどめを刺してほしいとか、泣かせる。
きちんと塚脇の首を打って持ち帰ってあげる材間も漢だ。

さてさて、次回も引き続き合戦だぜひゃっほい♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
2012-07-05

式部・兵部「ふたりはプリ○ュア!」

すみません、タイトル……プリ○ュア知らないのに調子に乗りました。

前回のあらすじ:
毛利の九州出征、手始めに裏切り者の長野が籠もる三ツ嶽を屠り、立花城を取り囲んだ毛利勢。
しかし大友宗麟は兼ねて用意していた大軍12万を引き連れて後詰に向かう。
侍大将の戸次入道道雪は、到着早々の一戦を望む奈須軍兵衛入道などの意見を容れて、
毛利の背後へと進み、まず一陣を打ち破って敵を恐怖させようとしたのだったが。


筑前の国立花の城取り囲むこと、付けたり大友勢後詰のこと(下)

先陣には大友駿河守・奈須軍兵衛入道・深津七右衛門・赤尾・中山など五千余騎が立つ。
第二陣は矢部助右衛門・秋友式部少輔・橋宇津・今江などが一組ずつ分かれて備えていた。
そのほか本城・杵月・古沢といった者たちが、「今日の合戦で奈須一人に高名させるものか。
我らも中国勢に勇のほどを見せ付けてやりたいものだ」と、
奈須より先に一陣を攻め破ろうと進んだので、豊後勢十三万は我も我もと中国勢の陣へと攻めかかった。

吉川・小早川両将は、前もって軍法を出していたので、
中国勢は他の陣を気にすることなく、自分の担当箇所に出て防戦した。
向城のように構えた陣なので防戦しやすく、豊後勢は弓・鉄砲に射立てられて、怪我人や死人が多数出た。
豊後勢の中でも奈須は、今朝の自分の言葉を重く考えたのか、もしくは自分の勇を過信したのか、
小早川勢の椋梨三郎左衛門の陣を攻め破ろうと、息も継がずに攻め近づいてくる。
芸陽勢も、このままではここが突破されてしまうと思って、命を顧みずに一心不乱に防戦した。

奈須たちも、ここを攻め破って面目を保ちたいと勇み、射られても切られても少しもひるまずに、
怪我人や死人を踏み越えながら攻め続けた。
敵・味方あわせて二十万騎に及ぶ大軍なので、互いに撃ちかける弓・鉄砲の音が、
まるで百や千の稲妻が雲を突き破って大地に落ちてくるように轟き渡り、
打ち違える刃の切っ先から、臆兆の電光石火が迸った。

さて先陣に進んで軍勢に下知をしている兵を見ると、色は真っ黒で目が鋭く釣上がり、
頬骨が高く隆起して顎が長く反って、左右の腕には猪のように毛が生えている。
肩より上が人よりぬきんでて高く見えるほど背の大きな男で、籠手や臑当てまで真っ黒な鎧をつけていた。
毘沙門天の木像を黒漆で塗ったかのように見える。
これが第一陣の戦将奈須軍兵衛と名乗り、三間の鑓を軽々と引っさげて、
攻撃のたびごとに真っ先に進んで攻め戦い、敵兵を数多く突き殺しながら、
ここを最後とでもいうように振舞っていた。
伝え聞く治承・文治の昔の、筒井浄妙の宇治橋の合戦、武蔵某弁慶の衣川の戦いぶりもかくやと、
人々は皆舌を巻いていた。

奈須は自分一人での大事な局面だと考えて奮戦したが、その身は鉄や石ではないので、
心は猛々しく奮い立っても、たくさんの弓・鉄砲に狙い撃ちにされ、うつ伏せに倒れてしまった。
中国勢はこれに力を得てドッと突きかかっていったので、後詰の兵たちは一町ほど引いていった。

ここで、吉川勢のなかから吉川式部少輔経家・香川兵部大輔春継の二人が二人連れ立ってこの陣にやってきて、
鑓を合わせて防戦していたが、敵がさっと引いていった後に、
一丈ほどある岸の陰に、武者が一人倒れていたのを発見した。
香川は敵だと思ったので首を取ろうと走り寄ったものの、
「いやいや、ここは敵・味方が入り乱れていたところだ。
もし味方であったなら、首を取ってしまえば、これからの武名の傷になる」と考えて、
またこれから敵が引き返してきて鑓衾を作って懸かってくるのを見て取り、
早く駆けつけて一番に鑓を入れようと思ったので、その武者を打ち捨てて向かってくる敵に対して駆け出した。

式部少輔がそれをキッと見て、「どうした兵部大輔、そいつは間違いなく敵だろう。
首を打ってしまえ」と言うと、兵部は
「たとえ敵だったとしても、すでに死んでいるのだから、首をとっても大して意味がない。
これから懸かってくる敵に馳せ合わせて一鑓入れることにする。
猛虎は卓に乗せられた肉には見向きもしないというだろう」とふざけながら、
二人で一緒に深津の勢に馳せ合わせて真っ先に鑓を入れた。
「エイエイ」と声を上げて戦っていると、これを見て椋梨も無二に突き掛かっていく。
こうして勝色が濃厚になってくると、備後勢も多く続いてきたので、さしもの豊後勢も押されぎみになった。

小早川衆のなかに、小泉与市という者がいた。
きわめて背の低い男だったが、勇の猛々しさは六尺の大男よりもなお優れ、
人より先に進んで戦っていたが、あまりに鑓を強く突きすぎたために、
下り坂を思わずよろよろと走ることになってしまった。
敵はその鑓を打ち払い、首を掴んで引き寄せて無手と組む。
これを見て敵は寄ってたかって下の谷へと引きずり下ろし、与市を押さえ込んで首を取った。
芸陽勢はあまりに戦い疲れたので少し息を継いでいた。
豊後勢も第二陣と第三陣が入れ替わるかと見えたが、
何を思ったのか金の団扇を持った武者が一人駆けてきて、味方に下知をすると静かに兵を引き上げていく。
中国勢がこの後を追おうとしたものの、隆景様から「一人として後追いをするな」と下知があったので、
それを守って皆自分の陣へと引き揚げていった。

児玉周防守の郎党で、もともとは豊前の長野の手勢だった者がいたが、
陣に引き揚げる途中で奈須の死骸を見つけ、奈須の顔を見知っていたので首を打って差し上げた。
香川兵部大輔はこれをキッと見て、
「大力殿、その武者は先ほど私も首を打とうと思って、一度は押さえたのですが、
もしかしたら味方かもしれない、明らかに敵だという確証がないと思って、打ち捨てて通ってきたのです。
さては敵であったのですな。あなたは見知っているのでしょう。
誰なのですか。姓名をお聞かせ願いたい」と言った。

その者は、「これこそ九州では知らない者がいない、血気の勇者、奈須群兵衛殿でございます。
きっと今日の合戦の大将だったのでしょう」と、服の上についた金の札を取り出したのを見ると、
「奈須軍兵衛入道、生年六十三、五月五日討ち死に」と書いてあった。
「間違いなく奈須なのだろう。なんと大強の者だろうか」と、感心しない者はなかった。
その昔、斎藤別当(実盛は髪や鬚を墨で染めて、その名を北国の故郷にまで轟かせた。
この奈須軍兵衛は一枚の金札に姓名を記して、その勇を九州の戦場に残した。
四百余年の年月がたったとはいっても、その名誉は同等だといえる。


以上、テキトー訳。おしまい。

春継……逃がした魚は大きかったのぅ。
経家と春継が仲良くしていると嬉しいなぁ。プリ○ュアは適切なたとえかどうかわからんけどもw
元長にとってこの二人は、水戸黄門における助さん・格さんのようなイメージがある。
式部・兵部でゴロもいいし。

そして奈須さん……あんた漢だな。
秀吉の九州征伐のときもそうだけど、九州の兵は姓名と討ち死に(予定)日を書いたものを
何かしら身につけてるよね。そういう土地柄と理解すればいいんだろうか。
それとも勇の優れた男たちと解釈すればいいんだろうか。
でも今回の奈須さんに関しては、敵を怯えさせるのが目的なんだから、
自分が討ち死にしちゃダメだと思うの(´・ω・`)

さて次章はまたまた合戦だよ! イイヨイイヨ~軍記物らしいよ~(*´∇`*)
やっぱり戦争の描写は血が滾るね!

それと余談ですが、ツイッターの診断メーカーというやつで
「吉川家に仕えたー」を作成してみました!→ http://shindanmaker.com/246115
その日の任務と同行者を診断します。不備が多いので徐々に拡充予定!
ツイッターアカウントなくても診断できるはずなので、よければ遊んでみてください!
2012-07-03

大友勢後詰メンバー紹介

だいたいの流れ:
立花で事件が起きて、大友と毛利の対立が激化し、毛利は約五万の勢を九州へと送った。
まずは大友方に寝返った長野の三ツ嶽を攻め落とした。
首実検に紛れ込んだ敵兵が元春に切りかかりヒヤリとする場面もあったものの、
三ツ嶽は無事毛利の手中に納まった。

今回はその後の立花城攻めだよー!


筑前の国立花の城取り囲むこと、付けたり大友勢後詰のこと(上)

翌けて永禄十二年三月中旬(四月上旬)、元春・隆景の両将は、筑前の国の帆柱というところへ陣を移した。
そこから若松・芦屋の渡しを越え、熊ガ峯を過ぎ、四月四日、壇というところに着陣した。
同五日、立花表へと歩を進め、すぐにその城を取り囲んで、三方向から攻め寄せた(四月十六日)。

まず水の手からは吉川衆が仕寄をつけ、水の手まで四、五間まで詰め寄る。
南の方は小早川勢、尾首の方は吉田衆、白滝口は吉見大蔵大輔正頼、
そのほか東西南北の山となく峰となく、立錐の余地もなく、五万余騎の軍兵が陣を構えた。
そして後詰にくる勢への用心のためには、塀をつけて柵を結い、壕を掘り、芝土手を高く築き、
向城のように構えたので、たとえ大友が数千万の精鋭の塀を後詰に送ってきたとしても、
この陣を簡単に破れるわけがないと思えた。

寄せ手は昼夜の境もなく、仕寄を近付けて楯を隔てて弓・鉄砲を間断なく撃ちかけ、攻め近づいた。
しかし井楼を高く組み上げると、杉原播磨守の手勢の石原弥次郎、
吉川勢の山県小五郎・小工の何某が鉄砲に当たって死んでしまった。
そのほか怪我人が多数出たけれども、寄せ手は少しもひるまずに、次々に詰め掛けたので、
城中も手の打ちようがなさそうに見えた。

そのうち大友へと、そろそろこの城は落城するだろうと、
あちこちからひっきりなしに報告が届くようになった。
大友金吾入道宗麟は前々から「敵が立花の城を取り囲んだら後詰に向かおう」と、
分国の豊後・豊前・筑前・筑後・肥後・日向の兵を、上は六十歳から下は十六歳までとして集めていた。
そのほか、配下の肥前の龍造寺・松浦、薩摩・大隈の島津なども援兵を出したので、
総勢十二万八千騎にも上った。

金吾入道は豊後の府内の城にいながら、柳川左近将監・田原入道重忍・同近家・その弟近広・同じく弟近貫、
侍大将に戸次入道道雪、臼杵新介・滋賀市右衛門・佐伯権助・
清田五郎左衛門(宗麟の婿、大内輝弘後家は嫁)・武田何某・
吉広賀兵衛尉宗行(宗麟の甥、国崎矢山の城主)・本庄新兵衛尉(豊後速見郡高尾城主)・
古沢右馬允(豊後国崎烏帽子嵩城主)・畑野善内(豊後の四手の尾城主)・
矢部助右衛門(豊前宇佐郡入賢之嶽城主)・秋友式部少輔(豊後国秋山城主)・
武田志摩守(豊後国飛玖城主)・田渋重冨(豊後国尾崎城主)・
アウガ仙介(豊後比地城主)・矢坂神太郎(秋之郷京留の城主)・杵月右馬允・古沢入道一竿・
吉広将監・同少輔右衛門・同掃部助・同三郎・西郡土佐守・梅野段右衛門・
久保内蔵丞・大友駿河守・矢坂平右衛門・上野佑介・同縫殿助・長松式部少輔・
小野市右衛門・戸郷七介・野原弾正忠・吹野源七郎・舘脇茂左衛門・小笠原上総介・
畑野勘八・宗像重継・湯の温井の何某・味武入道林松・野津の入道・一万田入道十古・
小田原又右衛門・姫嶋入道三甫・深津七右衛門・奈須軍兵衛尉、
豊前からは時枝平太夫・今江土佐守・橋宇津又兵衛尉・中山内記・中尾何某・賀来源介・
熊井越中守・城井・小城・野中・広津・福嶋・麻生、
筑後からは筑紫上野介・原田肥後・宇阿間右衛門・星野源次郎・同民部大輔、
日向からは伊藤一族など、雲霞のようにたなびき渡って、同五月五日に立花表に着陣し、
中国勢の背後をくるくると取り巻き、山や峰、里へと陣を張った。

野には旗を並べ立て、川には組練をめぐらした。また三万余騎は宗像表へと打ち出して陣を取る。
秋山・鶴原の七千余騎が舟手を務め、磯部浦の中間あたりに陣を固めた。
十二万八千余騎の大軍だったので、中国勢など網の中の魚、籠の中の鳥のようになってしまい、
いかなる勇将や精鋭であってもひとたまりもなく逃げ出してしまいそうなものなのに、
中国勢は少しもひるむ様子もなく、
「早く敵がかかってこないものか。最後の勝負を決しようではないか」と、静まり返って待ちかけていた。

豊後勢は中国の兵の様子を見て、たいしたことのない小勢だと思ったので、
先陣に進んでいた大友駿河守・深津七右衛門・奈須軍兵衛尉入道らは、
侍大将の戸次入道道雪の前に出て言った。
「中国勢は思いのほか小勢ですので、この湿った草鞋のまま踏み破ってしまいましょう」
これを聞いて、道雪は「まずはしばらく敵陣の様子を見計らった後で合戦をいたそう」と答える。

奈須軍兵衛尉が「どうかこの私に今日の合戦をお任せください。
あの尾崎の下に陣取っている一隊に切りかかり、刃を合わせてみて、敵の強弱を確かめてきます。
九州・二島の者たちは、この入道の勇のほどを、見方であろうが敵であろうが、よく存じているはずです。
しかし中国勢はまだ知る由もないでしょうから、初めての合戦で勇の優れたところを知らしめれば、
もともと中国勢は少数なのです。二度と戦う気も起きないでしょう。
今日は敵の隙をうかがって引くことにします。
これほどの猛勢をもって、陣を構えたまま一戦もしなければ、勇気が足りていないと思われてしまいます。
この入道、命を敵陣に投げ捨てるつもりなのですから、一陣、二陣を破らなければ気が済みません。
どうか老い先短い私の後の思い出のために、今日の先陣を務めて冥土の土産にし、
閻魔大王に向かって娑婆の物語としてお聞かせしたいのです」と食い下がった。

大友駿河守・深津なども、「是非一戦を遂げさせてください。
軍兵衛入道の老いらくの望みも叶えてあげてください。
我らも奈須が言うように、中国勢の手並みを確かめたいと思います。
敵が後詰の勢を猛勢と見て臆病風に吹かれ、後ずさりして、逃げ支度をしているところに攻め込めば、
味方の勝利は間違いありません」と続く。

道雪も智勇の二つを兼ね備えた大将とはいいながら、勇の方がなおも優れた入道だったので、
とりわけかけ合いの合戦を好んでいた。
そのうえ奈須などがしきりに「今日合戦をしましょう」と言い募ってくるので、
柳川・田原の人々もこのことを話し合って「もっともだ」と同意した。
「それでは奈須が望む旨に任せよう。ただし、あの尾崎の陣だけにかかっていくと敵に知れれば、
方々から援兵を出してあの陣を固く防ごうとするだろうから、攻め破るのは難しくなる。
総掛かりするように鬨の声をあげ、太鼓を打ち、貝を吹かせれば、
皆自分の陣を堅持しようとして、他の陣に援兵など出していられなくなる。
そのとき無二に懸かって押し破るようにしよう」と決し、総軍勢十二万八千騎が三度鬨を作った。


以上、テキトー訳。つづく。

ぐぬう、九州の名字ってテキスト打つの大変……しかし何だってこんなに詳細に敵メンバーを知っているのか。
というより書き記す必要があるのか。面倒くさいじゃないの(本音)。
「清田五郎左衛門(宗麟の婿、大内輝弘後家は嫁)」ってのは、清田鎮忠のことかな。
大内輝弘後家が嫁……? 一条兼定と混同されてるのかしら???
あと大友が十万越えの動員てことは……ないよね?
いつもどおりの水増し入ってると思う、うん。

ついこの間、大き目の会場でプロレスを観戦してきたんだけど、
まあその観客がだいたい一万人くらいらしいので、
なんとなーく五万人程度までの規模なら想像ができるようになったかも。
相変わらず気が遠くなるが。
毛利も五万なら十分大軍だよね。

さて次回、大友と毛利の激突、どうなるかな。
2012-07-02

兄弟の譲り合い ※ただし首

前段は九州立花陣に臨むメンバー紹介(および宍戸氏sage)だったわけで、
ようやく物語が九州の場面になるよー! 楽しみ(*´∇`*)

最初は立花ではなく三ツ嶽を攻めるようだね。


豊前の国三ツ嶽没落のこと(下)

やがて中国勢が豊前の港に着くと、ここで吉川・小早川両将が会議をして、
まずは長野の端城の三ツ嶽を攻め落とし、軍神に奉げようと決まった。
永禄十一年11月5日卯の上刻(午前六時ごろ)から敵の城を取り囲み、まず大三ツ嶽に攻め上った。
城中は寄せ手が大勢なので意気をそがれ防ぎかねているようなところに、
]吉川衆が一番に乗り込んで二十余人討ち取ると、
敵はこらえきれずにそこから逃げ出して小三ツ嶽に逃げ込んでいく。
寄せ手は、息を継がせるまいと、すぐさま小三ツ嶽に攻め上った。

この城には長野三郎左衛門の叔父、長野兵部大輔という力自慢の剛の者が、
総勢一千余騎で立て籠もっていたので、敵が大勢であろうと少しも臆せず、
矢間を開けて散々に弓・鉄砲を放ってきた。
寄せ手がその勢いに押されて少し進みかねていると、
小早川・吉川の両方の兵たちが先を争って詰め掛けたけれども、射立てられて躊躇していた。
吉川衆の井上新右衛門(斯直)・内藤十郎兵衛尉の二人が、
「このような難しい場面は、いつも元春の手勢が破ってきた。そこへ、一番に乗り破ってやるぞ。
皆、しっかり見ておいて後の証人に立てよ」と大音声を上げて真っ先に進み、一番に城に乗り込もうとする。

正面の塀から弓・鉄砲を多数揃えて射掛けてきて、
とりわけ横矢を射やすいように設計された城だったので、内藤・井上は無残に射伏せられてしまった。
なおも続いて進んだ吉川勢が同じ場所で数十人枕を並べて射殺されたので、
今田中務・吉川式部・香川兵部・山県四郎左衛門・二宮杢助・森脇内蔵太夫(春尚)・森脇一郎右衛門は、
無二にかかっていって塀を引き破り、一気に城へと雪崩れ込んでいった。
そのなかでも今田中務が一番に敵兵を組み伏せて首を掻き切った。その日の一番首がこれである。
森脇内蔵太夫も続いて敵を組み伏せ、首を掻き切って高らかに差し上げた。
式部少輔・兵部太輔・四郎右衛門もほぼ同時に首を打った。
二宮杢助は敵と渡り合い切り合いになったが、親指をしたたかに切られながら、それでも首級を上げた。

小早川勢も、吉川衆に先を越されたと大いに怒り、
射られても突かれても少しもひるまずに、城中へとドッと入っていく。
そのほか吉田の旗本勢、福原・桂・志道なども遅れてなるものかと乗り込んでいき、三ツ嶽は程なく陥落した。
渡辺左衛門太夫などをはじめとして、分捕高名も数知れなかった。

長野兵部大輔はこれが最後だと思ったのか、五十人ほどを左右につけて切って回っていたが、
あるいは討たれまたは逃げ出して、やがて一人きりになってしまった。
死に物狂いになって突いて回っていると、三間柄の鑓も二、三本が折れてしまい、
仕方なく三尺余りの大太刀を抜いて、一方を切り破って退却しようとする。
ここに、石見の国の住人、佐波常陸守(介)が「いい敵だ」と見て、「引き返せ」と呼びかけた。
長野は取って返して渡り合い、散々に切り結ぶ。
長野の太刀は三尺以上に見えたが、馬の尾を縒り合わせて巻いた長柄の先を握り
太刀の間合いをさらに広く取ると、畳み掛けるようにして打ってくる。
佐波は二尺三寸の太刀だったので、危機一髪に見えたけれども、佐波は少しもひるまずに、命を限りと戦った。

そこへ、佐波の郎党の深井杢允という者が、主を討たれるまいと、長野の後ろに回って抱きついた。
長野は強く動きを封じられてもうかなわないと思ったのか、自分の太刀を持ち直すと自分の腹に突き立て、
背後の深井も一緒に貫いて、二人して倒れた。
佐波常陸守はすぐに首を掻き切って高く差し上げ、
「この城の大将、長野兵部は佐波隆秀が討ち取ったぞ」と叫んだ。

ここに吉川衆の荒実重という者が駆けつけたが、長野はすでに佐波に討ち取られてしまったので、
仕方なく長野の鎧太刀を取ってみると、両の腰の物はともに金鍔でそのほかも金作りであった。
もともと困窮に喘いでいた者なので、「なまじ首を取るよりも、この方が何倍もいい。
今日は軍神のご加護には預かれなかったが、対極のお助けを得ることができた」と、
急に福の神が憑いたような気分になって、小躍りしながら帰っていった。
森脇一郎右衛門尉も長野の一族を一人討ち取った。
小早川衆も貫だ右馬允・河井大炊助などが分捕りした。

ここで、年のころは四十ほど、身長は六尺以上もありそうな大男で、
目つきは流星のように鋭く鬚が左右にカッと分かれて生い茂り、首が短く肩が隆々とした、
雪舟和尚が精根尽くして描いた達磨か、もしくは多聞天の木造かと見えるような男が一人、
首を一つ提げて、元春・隆景の首実験の場へと、なんでもないようなそぶりで通りかかった。
桂上総介元忠が両将のそばにいたが、「今の者は敵だと思います」と言うと、
その男はこれを聞いて、とても逃げられないと思ったのか、三尺余りの太刀を抜くが早いか、
「参るぞ」と切ってかかってくる。

元春が床几から立ち上がり、その男の眉間を二つに切り破る。
まだ倒れていないところに隆景が走りかかり、高股をズンと切って落とすと、
さも恐ろしげだった大男もうつ伏せにガバッと倒れこんだ。
ここに桂上総介・安国寺恵瓊長老二人も走り寄って一太刀ずつ浴びせた。
二人の者たちは「それにしても手早い対処です」と、振り返りざまに褒め称えた。
元春・隆景は逆に桂・安国寺を感賞した。

その後隆景が「先に太刀をつけたのですから、元春が首を打ってください」と言うと、
元春は床几に尻を打ち掛けて笑い、「若いのだから隆景が打ってくれ」と答える。
隆景は「どうしてそのようなことができましょう。さあ、早く首を打ってください」とこれを辞した。
桂・安国寺は「どちらでもいいですから早く打ってください」と言ったけれども、
二人とも譲り合って打とうとしないので、桂と安国寺が首を打った。

散会した後で「この男はどういう素性の者だろう」と人に尋ねてみたが、
生け捕りにした者はなかったので知る者がいなかった。
「長野の従弟に力自慢で九州に名を轟かせた大男の勇士がいるという。これがそうなのかもしれない」と、
はるか後に宗像・高橋たちが言ったとか。よって、この姓名を知ることはできなかった。
これをはじめとして、首級の数は五百七十余りだったという。
宍戸・福原・桂、そのほか吉見正頼の手の者たちなども、分捕り高名した者は数知れず、
味方は戦の幸先がいいと喜んで勝鬨を上げ、そのままここで暮れていく年を越した。


以上、テキトー訳。おしまい。

吉川衆力押しだな……まぁ結果として乗り破れたんだからいいのか、多少の(?)犠牲は。
それにしても長野を討ち取った佐波さんは、喜んでいるばかりじゃなくて、
手柄を立てた郎党の心配とかしないんだろうか。たぶんこれ死んでるよな。
まったくスルーで分捕りの話になっちゃうし。
当時は当たり前とはいっても、読んでてあんまり気持ちのいいものじゃないね、分捕り。

さて注目のシーンは式部・兵部でもなくて元春・隆景だったね。あと桂と安国寺。
かなり脚色されてるんだろうけど、とっさに切りかかられて逆に切り伏せる元春・隆景カッコイイ!
安国寺はお坊さんなのに……って思ったけど、僧が長刀持ってるのがデフォルトの時代ですものね。
元春と隆景は仲良く首譲り合いやがって。
ちこちこかよ! 隆元お兄ちゃんもなつなつしたそうにこちらを見ているぞ!

さて次章はようやく立花城の話になるのかな。
2012-07-01

九州発向!の前に

さてさて、立花城でゴタゴタがあったってことで、
その事件を追っていったら立花のことかどうかわかんないとかいうひどいオチだったわけだけど、
とりあえず立花城のゴタゴタが毛利・大友の戦争の引き金になったところまで読んだ。

ようやく九州に出陣するよー、と思ったら。


豊前の国三ツ嶽没落のこと(上)

こうして立花に不慮のことが起きて以来、大友金吾入道はその城(立花城)に数千の軍兵を籠め置き、
そのうえ戸次入道道雪・佐伯・清田などに二万余騎を差し添えて、宗像・高橋を攻めようとした。
以前から宗像重継(大宮司氏真)・高橋秋種(鑑種、宝満城主)は無二の毛利方だったので、
「彼らを救わなければ以後九州で味方につく者はいるまい。
また長野三郎左衛門(弘勝、三嶽城主)は寝返って馬之嶽の城に大友の兵を引き入れ、敵対を明白にした。
今後の見せしめのためにも、長野をすぐに攻め滅ぼさなければ」と、
元就様自身は吉田にいながら、九州へは吉川駿河守元春・その嫡子治部少輔元長と、
小早川左衛門佐隆景を大将として、数万騎を添えて豊前の国に渡海させた。

そうして元就様・輝元様は二手に分けて戦を進めた。
北西の方は元春、南前とそのほかの海辺は隆景である。中筋通の備中口は宍戸安芸守が担当する。
宍戸は、上古になぞらえれば、範頼・義経に遠江守義定が加わったようなものである。
頼朝はこの三将を重んじたが、世の人は範頼・義経の名ばかりを知る。
元就も中筋は婿の宍戸に担当させたが、たいていは元春・隆景を両手として使っている。
だからこそ大友金吾入道も、元就様との和睦の誓紙に「元就・元春・隆景」と三人の名を書いている。
また天正十年、羽柴秀吉が備中の高松で和平を交わしたときの神文にも「輝元・隆景・元春」と書いている。
その後秀吉が天下の軍事の権勢を手中にし、島津征伐のために九州に発向したときも、
毛利三家を九州に差し渡すと書いている書状が諸将に送られているが、
これにも皆「輝元・元春・隆景」のことが書かれている。
今ここでこのことを書き出しても意味のないことだが、最近は宍戸に肩入れしているのか、
または吉川・小早川に恨みを抱いているのか、どういう意図なのかわからないが、
毛利三家を「吉川・小早川・宍戸」と言う者が往々にしている。
しかし宍戸は元就様の婿だとはいっても、他家なのだから、
どうしてこれを毛利三家に含めることができようか。大いな誤りである。

そのころは、中国では「三殿」とも言った。
これは隆元様・元春・隆景兄弟三人のことを崇敬して、このように呼んだのである。
その後隆元が他界してからは、輝元様・元春・隆景を三殿と呼んだ。
元春・元長が逝去してからは、侍従広家を加えて三殿と言ったものだ。

元春・隆景に宍戸隆家が並び立つのであれば、備中高松の対陣のとき、
ちょうど隆家が任されていた国のことなので、秀吉が和睦の誓紙に隆家の名をも書き加えただろう。
しかし実際は元春・隆景とは雲泥の差があったために、和平を請うにしても、
安国寺を通して元春・隆景の二人に申し入れ、隆家には一言もなかった。
ましてや誓紙に書くわけがない。

だいたい備中一国の武士も皆が隆家に付き従ったわけではなく、小身の国侍五、六人が付いたに過ぎなかった。
備中でも出雲陣までは、三村家親のような大身の者は、人の風下に立つべきかどうかはさておき、
元就様から長左衛門太夫・香川左衛門尉の二人が検使として付け置かれていた。
その後猿懸の城には穂田元清が入り、隆景の手に付いた。
松山には天野中務少輔元明、譲葉には元春の老臣今田上野守が立て籠もったが、いずれも宍戸の手勢ではない。
また高松の清水長左衛門も隆景の手に属していたので、末近左衛門尉が検使につけられた。
そのほかのことをこまごまと述べていられない。杉原播磨守盛重は元春の手に属し、南条と並び立った。
南条には山田出雲守が付け置かれ、杉原には宍道五郎兵衛尉・川口刑部少輔が付けられ、
また南条が寝返った後は、山田出雲守・小森杢允などが付けられた。
国の小侍などを少々抱き込んでいるからといって、宍戸が元春・隆景と同じような者だったわけではない。
与力が付いた者が元春・隆景と肩を並べるというならば、杉原・南条もまた並び立つことになってしまう。

宍戸は、安芸の国ではなかなかの家である。とりわ元就様の婿なので、
他の家よりも大事にされて、隆家も勇が人より優れていたので、毛利家に対して戦功を立てている。
人々も、元春・隆景の次に隆家を重んじた。
その後元秋・元清などが成人すると、世の人々はこの二人を敬った。
元秋は智も勇も人より優れていたので、雖知苦斎(すいちくさい)道三(曲直瀬道三、正盛)が
洗合に下向してきたとき、養保の道や国民を撫育することを進言した一巻の書にも、
元就様・元春・隆景・元秋の四人の名を記している。
元清もまた智勇を兼ね備えていたので、備前の蜂浜合戦のときも、
将として宇喜多与太郎を討って大勝利を得た。元政・元康もまた文武に秀でた良将だった。
後にはこの人々の方が宍戸より世の人にもてはやされた。
それなのに元春・隆景と隆家を「三殿」だとか「毛利三家」などと言うのは、
東西をもわきまえず、黒と白の違いがわからないようなものである。

さて、元春・元長に従う人々は、熊谷伊豆守信直・嫡子兵庫助隆直・次男左馬助・
三男三須兵部少輔・四男熊谷右近太夫・己斐豊後守・香川左馬助、
石見からは益田越中守藤兼・佐波常陸守隆秀・同越後守秀貫・羽根弾正忠・冨永三郎左衛門尉・
都野駿河守・出羽元実・岡本大蔵太輔・周布・久利・小束・都路、
出雲からは三沢三郎左衛門為清・三刀屋弾正左衛門久扶・宍道遠江守・
米原平内兵衛尉・湯佐渡守・牛尾豊前守、
伯耆からは南条豊後守宗勝・杉原播磨守盛重・吉田肥前守・小鴨四郎次郎・福頼治部少輔など、
そのほかさまざまな者たちがいたが数え上げられない。
吉川の家之子郎党としては、宮庄次郎三郎元正・今田上野守・嫡子中務少輔・笠間刑部少輔・
吉川式部少輔・香川兵部太輔・粟屋三河守・桂大和守・山県日向守・同越前守・森脇和泉守・
境美作守・朝枝修理亮・市川式部丞など一万五千余騎が、
思い思いの家の紋、船印を飾り立てて海上に船を漕ぎ出した。

隆景に従う人々は、安芸の国からは平賀太郎左衛門尉隆祐・天野民部太輔・同中務少輔元明・
香川淡路守・同宗兵衛尉、石見からは小笠原長雄、
備後からは山内新左衛門・三吉式部少輔広隆・同新兵衛尉・宮次郎左衛門・高野山入道久意・
同五郎兵衛尉・久代修理亮・楢崎彦左衛門・同弾正忠・木梨治部少輔元経・
門田・池上・長大蔵左衛門・小寺佐渡守、
備中からは穂田庄部少輔元祐・田治部蔵人・同大蔵・志賀入道・上原右衛門太夫、
石川一党、細川一族などである。
小早川家の郎党では、乃美安芸守・梨羽中務・椋梨次郎左衛門・同平右衛門・草井式部少輔・
南兵庫助・小泉助兵衛尉・河井大炊助・末長七郎左衛門・井上又右衛門・豊嶋市助・
粟屋雅楽允・同四郎兵衛尉・桂宮内少輔、裳懸弥左衛門・鵜飼新右衛門など一万七千余騎となった。
宍戸安芸守には備中の者たちが少々従った。

吉田(元就)の旗本には、福原左近允貞俊・桂能登守・同左衛門太夫・口羽刑部太夫などが、
いずれも一組を率いている。
そのほか児玉・赤川・渡辺・坂、防長の武士では杉次郎左衛門・杉森下野守・
仁保右衛門太夫・三浦・吉田・朝倉、長門の安武郡からは吉見正頼、
そのほかさまざまな者たちが二万余騎、合計すると総勢五万余騎に上った。

船手は児玉内蔵丞・粟屋内蔵丞・浦兵部丞・飯田七郎右衛門・同弥七郎・桑原、
そのほか伊予の国からは、久留島道安が死去して嫡子の出雲守は病気だったので、
家之子の原太郎左衛門を差し下した。


以上、テキトー訳。続く。


宍戸さん……正矩、そこまで言わなくてもいいじゃない。
「最近宍戸を入れて毛利三家とか三殿とか呼んでる人がいるけど違うよ!」ってだけ言えばいいじゃない。
ただでさえ陰徳記では宍戸さん空気なんだから!><
新庄局も五龍局と仲たがいしたことがあったらしいし、相性悪いのかな。
でも元長の嫁さん、隆家の娘だろ……ちょっとはageといてやれよ……

とまあ少しばかりゲンナリしたわけだけれども、
うふふふふ、参戦武将に注目株がいるので期待に胸が高鳴るわぁ(*´∇`*)
吉川式部少輔経家・香川兵部太輔春継!!!
この二人は小さいころから元春の手元で育ってるらしいね。
経家は11歳のときに新庄に来たそうだ。
長男元長と年齢が近いから、おそらく次世代育成のための動きなんだろうね。
経家の元服では、元服前の元長が加冠してるしね!

そんでもって元長→経家のラブレターに「立花での働き、忘れないよ」みたいなことが書いてあったので、
この立花の陣には注目しているのですよデュフフフフ☆

香川春継に関しては、今のところ私は、
新庄局が熊谷の縁で、長男の側近候補として香川氏から貰い受けてきたんじゃないかと思ってる。
熊谷と香川は縁戚だしね。ほぼ同時期に安芸武田から毛利に鞍替えしてるし。
だから新庄局の差配なんじゃないかなーと思うわけだけども、裏付けはとってない。

さてさて、この二人がどんな活躍を見せてくれるのか、楽しみだぜ((o(^-^)o))
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