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2012-08-31

すれ違い、両川

だいたいの流れ:
尼子再興軍に悩まされるも、主力を投じた合戦に勝利した毛利勢。
それほど恐れる勢力でもないとはいえ、勝久・鹿介などといった中心人物が抵抗を続ける。
元就の具合が悪化したので、輝元・隆景・元長は芸陽に帰り、
出雲では元春が尼子残党征伐のために残っていた。

今回は北方ではなく、南東の備中近辺の情勢。
重々しく長い章なので数回に分けて読みます



三村一家滅亡のこと(上)

備中の国に住む、三村修理進家親の子の元親・実親という者がいた。
父の家親が先年、宇喜多和泉守直家によって殺されると、この兄弟二人は芸陽へと使者を遣わし、
「親である家親は毛利の味方になり、これまで忠勤を貫いてきました。
その父が、宇喜多直家に騙されて、残念なことに討たれてしまいました。
宇喜多は父の敵ですので、どうにかして宇喜多を滅ぼし、この恨みを晴らしたいと思っております。
しかし我ら兄弟の力だけでは、なかなかこれを果たしえないでしょうから、
どうかどうかお力を添えていただきたい。
宇喜多を滅ぼし、父の没後の恨みを晴らし、我らの今生の鬱憤を散じたいのです。
家親の忠志をお忘れになっていないのでしたら、ご憐憫をかけてください。
この二人もさらに毛利家の御ために働き、忠節を尽くします」と、元春に泣きついてきた。

浦上帯刀左衛門宗景も、
「宇喜多は主従の序列を乱し、不忠な暴虐をたくらんでいます。
これを滅ぼしてくださればお味方につきましょう」と嘆いていた。

そうしたところに、宇喜多直家はこのことを聞くと、
毛利に睨まれてはひとたまりもないと考えて、洲波隼人入道如慶という者を隆景に遣わし、
また安国寺恵瓊を深く頼って、
「三村・浦上を退治し、備中一国をすべて輝元へと差し上げようと思います」と訴えてきた。

元就様は老衰のうえに病も重くなり、少し耄碌してきたこともあったので、
だいたいのことを聞いただけで、「隆景・元春の二人でよく話し合って、よいように取り計らえ」と言った。
このことは、この年の春から夏にかけて、出雲で何度か会議があったけれども、
「南表の軍事に関しては、とにかく隆景の裁量に任せよう」と輝元様が言うので、
三村・浦上を見捨てて、宇喜多に協力することになった(元亀三年十月か)。

元春はこう言った。
「宇喜多和泉守は卑怯極まりない佞人だ。
今は毛利家の庇護を得て自分の敵を滅ぼそうとしているが、自分の軍事力が十分強くなったなら、
しまいには当家の敵になるはずだ。
良将は災いの芽がまだ出ていないうちに察すものだという。
今に見ていろ、宇喜多は敵になるに違いない。

三村家親はあ元就がまだ芸陽の半国さえ手に入れていないときから幕下に属し、
忠戦を貫き、備中の郷を帰属せしめてきた。
このおかげで毛利家の武威は東南に浸透し、
備中・備前・播磨・美作の四ヶ国をすべて手に入れることができた。
これはひとえに三村の忠節によるものだ。
これほどの忠功の者だというのに、その子孫を見捨てて直家のような佞奸の輩を受け入れるとは何たることだ。
宇喜多はおだて上手で、弁舌も飛びぬけてうまい。
真面目な顔をして言葉を卑しくしながら人をたぶらかすのは野狐よりも得意だ。

元就は病気になって久しいしご老衰もはなはだしい。
このことを申し上げれば、それでも三村を見捨てようとはなさらないだろうが、
この六月から少し霍乱のように患ってから、お心もますます弱っていらしたようだ。
それに私は北方の敵を成敗するためにこの国(出雲)に駐屯しているから、
直接この道理をお話しすることもかなわない。どうにかして勝久を一日も早く退治して、
吉田に帰って、元就が老いでぼけることが少ないうちに、このことを申し上げたい。

しかしながら、一昨年以来のご老衰を思えば、たとえあと二年ほど永らえたとしても、
このような道理などは、簡単には聞き分けてくださらないかもしれない。
この過失は隆景が間違ったからではない。元就がすでに老いぼれてしまったからだ。
これからの毛利家の武運が、順風にはいかないという印なのだろう。

きっと隆景は、あの安国寺とかいう佞僧を重用してしまったから、こんな間違いを犯したのだろう。
宇喜多があの僧に金銀を与えて平身低頭したからこそ、
あの恵瓊が直家を引き込んでこんな計略を立てたのだろう。
隆景と私がこの世に生きている限りは、あの佞僧が災いをなすこともそれほどないかもしれない。
しかし我ら二人が老いて死んでしまえば、恵瓊が毛利家の災いになるのは目に見えている。
毛利家の武運は下り坂になってしまうかも知れない」

元春がこう涙を流すと、御前に侍っていた者たちたちは、
「元春様はなんと大げさなことを仰るのだ。
直家は終始忠勤を貫き、毛利家のためによく働くかもしれないではないか。
また三村・浦上が急に敵にならないとも限らない。
未来のことは神や仏や天狗などでなければわからないと聞いているぞ。
人間の目で見えるものではないだろう」と白々しく思ったが、
上月の開陣のときには、「良将の予言は仏神さえも超越している」と皆が思い知ったという。

さて宇喜多和泉守直家は隆景に申し入れて、備前・美作の兵を集め、
才田の城に籠め置かれていた三村の軍兵を攻めようと、総勢八千余騎でひしひしと取り囲んだ。
持ち楯や掻き楯を突き寄せながら攻め近づいていくと、城中はひどく難渋した。
三村は独力ではどうしようもないと思い、穂田の庄の式部少輔元祐に助けを求めたので、
元祐は二千余騎で後詰して、元親に先立って才田表へと出陣していた。
浮田はこれを見て、「後陣の三村が到着しないうちに元祐を討ち果たせ」とばかりに、すぐに攻め寄せた。

元祐は至強の者だったので、たちまち宇喜多の先陣・二陣をあっという間に突き崩した。
しばらく馬の息を休めて扇を使っていたものの、乗っていた馬がひどく丈夫だったのか、
どうしたことか不意に駆け出して、一直線に敵の真ん中へと駆け向かっていく。
元祐はもともと乗馬をたしなみ、そのうえ荒馬を乗りこなす名人だったが、
運が尽きたのか、元祐が手綱を引いても止めても馬は止まらない。
何くれとしている間に敵の真ん中に来てしまったので元祐はすぐに太刀を抜いて切ってかかった。
宇喜多勢はこれを見て、「なんと、これは元祐本人だ。討ち漏らすな」と色めき立ち、
我先に討ち取ろうとしてくる。
元祐はこれらと渡り合って、左右両方に敵を受けても散々に渡り合い、十数人を切り伏せて、
そのままついに大勢に囲まれて討たれてしまった。

こうなると、才田の城も程なく落城した。それでも三村を退治せよという命令は下らない。
そこで宇喜多直家は、隆景へと「三村兄弟は阿波の三吉に一味しています」と讒言を吹き込んだ。
また三村の家之子で三村孫兵衛尉という者が、元親・実親と不仲だった。
この孫兵衛尉は自分の主君を滅ぼしてその所領を申し受けようと考え、隆景へと
「主君の元親・実親は輝元様を恨んでいて、阿波の三吉と一味いたしました。
また信長へも使者を遣わして、今後信長が中国へ侵攻されるときには、
自分が先陣を承って忠節を貫くと申し入れました」と巧みにうそをつき、
まるで本当であるかのように讒言をした。

隆景は、「宇喜多が言うばかりか三村の家之子である孫兵衛尉がこう言うのなら疑いようがない。
では備中表へ出張りして、三村家を退治しよう」と決めた。
出雲へも使者を送って、「新山には押さえを置いて、元春もまずは備中へ出てきてください」と言うので、
元春は「孫兵衛尉は佞臣だ。近年元親兄弟と不和だということは聞いている。
言い分には疑わしいところがある。もう少し備中への出陣を待って、ことの実否をただしたほうがいい。
三村兄弟は、父が無二の味方だったからこそ、子もこの家の『元』の字を申し受けて元親と名乗っている。
私が使者を一人遣わして事の様態を尋ね聞き、向こうがわかってくれたら、
元親・実親の妻子を人質に差し出して無二の味方に参じるように説得しよう。
そうすれば、宇喜多に対する押さえは三村、三村に対する押さえを宇喜多にすることができ、
これから二人はどんなことがあっても逆意を企むことは難しくなるだろう」と制した。

しかし隆景は、「あれこれ引き延べては由々しい大事に至ります」と強く出陣を主張する。
宍戸も「隆景、何の遠慮もいりません。早く打って出てください。
先陣は私が務めましょう。備中一国などあっという間に成敗して見せます」としきりに勇んだ。
結局、三村を成敗するために出陣することに決まった。

そして「孫兵衛尉は味方に属するのか否か、その態度をはっきりさせるように」と
桂善左衛門尉を成羽へと遣わした。
孫兵衛尉はもともと望んでいたことなので、すぐに「味方に参って忠勤に励みます」と、
誓紙を提出して固く誓った。
桂がすぐに吉田へ帰ろうとすると、敵が出てきて妨害しようとしたが、
桂はそれを打ち払って無事に帰着し、孫兵衛尉の言い分をつぶさに伝えた。
それでは出陣しようということになり、元亀元年十二月上旬(天正二年閏十一月)に備中へと発向した。


以上、テキトー訳。続く。

うへぁ……なんかすごいギスギスしてるね。
ギスギスな両川もおいし……くないよ! 胸が痛いよ!
・゚・(ノД`;)・゚・
もう、尼子さんちでいいから、ちこなつください。
読むのが心情的につらいよぅ・゚・(ノД`;)・゚・

備中近辺はホント修羅っていうか、暗殺だの情報戦だの何でもござれで怖い。
いや九州も怖かったけどさ。
なんとも暗い雰囲気が漂ってくるイメージだわ、京都に近くなるにつれて。

それにしても三村兄弟が不憫でならぬ……
父親を殺されたうえに、父が忠節を尽くした毛利は力添えをくれないばかりか、
敵に肩入れするんだぜ……うわぁこれからどうなってしまうの((((((´;A;`))))))

ううぅ、この章はだいぶ長いので数日に分けて読むつもりだけど、
途中でへこたれたらごめんね!
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2012-08-30

元春、翻弄される

どうもシステムが不調のようで、昨夜の更新記事が長時間反映されていなかった……
いつ復旧したんだろう。
まぁ無事更新されたのでよしとしますか!

だいたいの流れ:
鹿介を中心とした尼子再興軍と対陣する毛利勢だったが、初の総力戦に勝ったこともあり、
また元就がいよいよ体調を崩したこともあり、元春を月山冨田城に残して、
輝元・隆景・元長たちは芸陽の吉田へと帰っていった。

今回は出雲表で奮戦する元春さんの活躍を二本立てでお送りします!


羽倉の城合戦のこと

羽倉(和倉とも)の城には、横道源介・同権允などが何度も攻め寄せてきて、
民家に放火したり足軽を暴れまわらせたりしていた。
はじめは城中から弓・鉄砲を撃ちかけていたものの、敵が無二にかかってくるので、
その後は城を攻め破られないのを勝ちとしてこらえていた。
その後、山中鹿介が横道兄弟を連れて1千余騎を率い、羽倉の城へ攻め懸けてきた。

寄せ手が防衛のための備えを乗り破ろうとするところに、城中からも打って出て散々に防ぎ戦い、
寄せ手の上田与三郎が鉄砲に当たって死んだ。
城中でも井上源左衛門・中島善左衛門らが鑓を合わせて武勇をあらわした。
けれども横道兄弟らが先陣に進み、毛利勢を城中に追い込んで、
外構えの小屋も一つ残らず焼き払って勇み進む。
「長屋、もう降参しろ。命だけは助けてやるぞ」と叫びながら、仕寄を寄せてものすごい勢いで攻め立てた。

城中は防ぎかねて難局に陥っていた。
元春が、新山から大軍が出て羽倉の城を攻めていると聞きつけて、
「急いで救援に向かうぞ」と言うと、益田越中守藤兼が進み出て、
「長屋は先年、陶五郎が切腹してから、富田の若山に籠め置かれていましたが、
大内義長が大軍で攻めてくると聞いて城を明け退きました。
今回もこらえきれずに逃げ出すかもしれません。どうか急いでください。
まず私が馳せ向かいましょう」と、急に座を立って、手勢の一千五百余騎で羽倉に駆けつけた。
三刀屋・三沢も益田と同じく向かうようにと、元春が命を下したので、
これらも一千余騎で馬に鞭を打ちながら進んだ。

益田は後陣の到着を待たずに山中の陣にかかっていたので、
尼子勢はたちまち打ち負けて新山へと逃げ入っていった。
三刀屋・三沢も敵の後を追って、少しではあるがいくつか首を取って帰ってきた。
益田の武勇のおかげで、長屋は運を開くことができた。


源勝久、末次を攻め給うこと、同後詰並びに米原降参のこと

尼子勝久は山中・立原・横道・森脇らを呼び集め、
「元就の老病が重くなって、輝元・隆景は芸陽へ帰っていった。
だから敵軍は大幅に減って、わずか三分の一が当地に残っているだけだ。
いざ、この隙に乗じて、あちらこちらの城郭に籠め置いている兵を集め、
国中へ打って出て敵城の山下などを焼き払い、味方の勇気を呼び覚まし、
敵の威勢を奪ってやろう」と言った。
皆は「それがもっともです」と賛同して、このことをあちこちへと触れまわった。

秋上三郎左衛門は自分が病気なので、嫡子の伊織助久家に五百余騎を差し添えて新山へと遣わした。
米原平内兵衛尉が四百余騎、寺本安芸守は隠岐から二百余人で渡ってきて、同じく馳せ加わる。
福山二郎左衛門・同弥次郎・神西三郎左衛門・加藤彦四郎なども七百余騎で集まってきた。
そのほか大山の衆徒の教悟院などをはじめとして、百や二百、あるいは数十ずつ集まってきたので、
尼子勢は程なく四千余騎に膨れ上がった。
こうなったら少しも待っている必要はないと、同十月三日に新山を出立し、
同五日の早朝から、末次の土居を一気に切り破ろうと、揉みに揉んで攻め懸けた。

城中には河口刑部少輔久氏・小鴨四郎次郎が籠もっていたが、
身命を捨てて防戦していたので、まったく落城する様子がない。
そのことが月山冨田城へと報告されると、元春様は、
「末次は堀も一重すらめぐらしておらず、守備には適していない。
それに河口・小鴨の兵数はたった三百もないだろう。乗り破られないうちに後詰しよう」と、
総勢五百ほどで冨田の城を打ち立った。
途中で杉原・南条・三刀屋・三沢・益田なども駆けつけてきた。

尼子勢は敵に援軍が来たと見ると攻め口を退却し、自分たちの陣を固めて、
敵がかかってきたら一戦しようと待ちかけていた。
元春は、「今日はもう日が暮れてしまった。合戦は明日にしよう」と、こちらも陣を構えるのに専念した。

益田・三刀屋そのほか国人衆が「明朝にいっせいにかかって一千しますか」と言うと、
元春は、「一戦して勝つのは簡単だが、ここで合戦すれば、
勝ったとしても勝久を討ち漏らしてしまうだろう。
まずは明日の合戦を先延ばしにして、敵が退却できないようにつなぎとめ、
その間に新山へと兵を差し向けて、敵の退却する道を塞いでおくのがいいだろう。
それから合戦を始めれば、勝久をはじめとして鹿介・源太などもすべて討ち取れると思うが、
いかがか」と言った。
皆は「まったくそのとおりです」と賛同した。
それならば、今夜のうちに出立して新山の麓へと行き、敵の退路を遮ろうと、
南条豊後守宗勝・山田出雲守重直たちは、一千余騎で急いで出発した。

一方、山中鹿介は勝久にこう言った。
「末次の土居を一気に乗り破れば、冨田から援軍が駆けつけてきたとしても、
『賊が過ぎたる後の張り弓、六日の菖蒲(手遅れなこと)』だと思っていましたが、
案外に城中の抵抗が激しくて、元春が出てきてしまわれました。
ここでいたずらに対陣していれば、敵勢は日を追うごとにあちこちから集まってきて、
いずれ雲霞のようになって味方の退路を断とうとするでしょう。
そうなれば一人残らず討ち取られてしまうはずです。
どうか少しでも急いで退却なさってください」

勝久はこれに同意して、その日の夜半に密かに末次表を引き払った。
芸陽勢は明け方に敵陣の篝火が次第に消えていくのを不審に思って、人を遣わして様子を見させたが、
そこには敵は一人もいなかった。
諸軍勢は「あと一日こらえていたなら、一人も残さず討ち取って、尼子を根絶させてやったのに。
よく感づいて逃げ出したものだ」と言い合った。

元春が河口・小鴨に対して、
「おまえたちが粉骨砕身の働きをしてくれたからこそ城を持ちこたえることができた」と褒め称えると、
この二人は「早々に後詰にでてきてくださったからこそ、
城を落とされずに済んだばかりか、我ら二人の命も助かりました」と、功を譲って元春に謝した。

元春様はそれから新山の麓を焼き払った。
鹿介たちは、「これをおめおめと眺めていては、まるでいくじなしだ。
打って出て一戦しよう」と言ったが、
立原が「進軍してくる敵の大軍に立ち向かって戦っても勝利はできないだろう。
帰ろうとするところに奇襲をかけよう。これが兵法では重要な部分だ」と制止したので、
皆勇気を抑えていた。

元春は三日間陣を据え、同投下に南条・杉原をしんがりにして新山表を引き払おうとした。
こうなるとなかなか後をつけて一戦するのも難しく、新山からは足軽が少々走り出て、
遠くから毛利勢に矢を放っただけで城中へと引き返していった。
元春はそれから高瀬表へと向かって、この城を攻めようとしたので、
米原はかなわないと思ったのか、降人になって城を明け渡し(元亀二年三月十九日)、
新山へと入っていった。

元春は高瀬の城にすぐに軍勢(口羽春良)を差し籠め、
そこからまた神西を攻めるために末石へ向かおうとしたが、
その方面から「神西は城を空けて因幡あたりへ退却したようです。
その後へと山中鹿介が七百ほどで入れ替わって、
稲石で暴れまわって郷人たちを数多く討ち取ったとのこと」と報告が来た。
元春は「それなら山中を攻めよう」と出発しようとしたが、
急に体調を崩したので、「再度米原を攻めるように」と言い置いて、療養に専念した。


以上、テキトー訳。

益田パパ(藤兼)、頑張ってますなぁ!
このころには長男が亡くなって跡継ぎとなった次男元祥の元服を終え、
元春の娘を元祥の嫁に迎え、相続手続き等を済ましたか進めてるあたりだね。
うまいこと一門に食い込めたから、ここで手柄をあげておきたいといったところか。
ずっと後に、広家の娘がこの元祥の曾孫に嫁ぐんだからすごいよなぁ。
それどころか元祥の子供は小早川にも入り込んでたりして、抜け目のない益田が怖い!

今回のハイライトは、個人的には鹿介を押しとどめる立原源太兵衛尉だな。
突っ走ろうとする鹿介をうまくサポートする女房役だね。
尼子勢もそれぞれキャラクターが立ってて魅力的だな。
それほど興味がなかったけど、だんだん好きになってきた!

さて次章は結構長いので、こちらは分割する予定。
ついにあの……三村一家のことですぞ!
2012-08-29

(主に頭が)混乱する出雲情勢

だいたいの流れ:
元亀元年、ついに衝突した毛利輝元(ココ重要!)軍と尼子再興軍。
毛利方の勝利に終わるが、しぶとく生き残った鹿介たちを中心に、
毛利への抵抗を続けるものはまだまだ多かったでしかし。

今回は短い章が連続しているので、三本立てでいってみよう!


熊野降参、並びに高瀬城打ち回りのこと

熊野兵庫助(久忠)は、先年の月山冨田城落城の際は毛利家に一味していたが、
勝久が国入りを果たすと、旧交を忘れがたく、再び尼子家に帰参した。
そこで、井上肥前守が熊野と断金の友だったので、密かに
「今また毛利家に降人に出れば、本領をそのまま安堵しよう。
行く末の頼りない尼子家に与するなど、まったく愚かなことだ。
侍は渡り物だぞ。すぐに降参して、妻子や一族を安心させてやってくれ」と密かに言い送った。
一度はなだめ、一度は怒って諫めると、熊野はもっともだと思ったのか、
城を明けて降人になった(元亀元年八月上旬か)。

そして高佐の城では敵がまだ持ちこたえていたので、
討伐のために、元春様・元長様・経言が六千騎で打ち出た。
敵はとてもかなわないと思ったのか、すぐに明け退いて高瀬の城へと退却していった。
吉川勢はそこから鴟の巣表へと移動し、平田手崎の小城を掌握すると、
高平の城にいた牛尾大蔵左衛門がいたので、岡又十郎(元良)に添えて差し籠めた。

それから隆景様とともに高瀬表へ打ち回り、同七月三日、狼ヶ森に陣を張って、
近辺の稲をすべて薙ぎ捨ててしまった。
同二十七日、この陣を引き払って引き揚げようとしていると、
高瀬の城から米原平内兵衛尉の一族で、米原与一兵衛尉・同四郎兵衛尉といった者たちが後をつけてくる。
元春はこれを見て、「我が大軍にも臆さずに、こんなにわずかな勢で後をつけてくるとはなかなか度胸がある。
綱寛は勇に劣った者だから、すぐに城を去って、命が助かったことだけでも大喜びするだろう。
この与一兵衛尉たちは、ぜひとも召抱えたいものだ」と言った。

味方は取って返して戦ったが、米原たちも屈強なので、少しもひるまずにつけてくる。
隆景の手勢の井上又右衛門が何度も引き返し、比類ない働きをした。
けれども、その日は敵味方ともに怪我人・死人は出なかった。
元春・隆景両将は、「また敵がつけてきたら、全軍で取って返してことごとく討ち取るぞ」と下知をなし、
その手順を緒軍勢に通達した。

案の定、次の日もまた敵が城を出て後をつけてきたので、寄せ手は全力で取って返す。
城の兵は小勢だということもあり、ひとたまりもなく崩れてサッと退くのを、
寄せ手が切岸の際まで追い込めて、それからようやく平田へと引き揚げていった。


平田の城並びに勝間、そのほか所々の城の合戦のこと

平田手崎の城へと、米原与一兵衛尉・同四郎兵衛尉が打ち出でて、足軽のせめぎ合いが度々に及んだ。
城中からは岡惣左衛門・牛尾大蔵左衛門が打ち出でて、
野伏せを仕掛けたりして、城中方も数人の敵を討ち取る。
与一兵衛尉・四郎兵衛尉も手に手に首を提げて帰り、またその後、
勝久から加藤彦四郎・福山二郎左衛門・岸左馬進・力石九郎兵衛尉・
目賀田采女などが一千余騎が送られてきたが、岡・牛尾がまた打って出て散々に戦う。
杉原播磨守盛重が加勢に来たので、尼子勢はかなわずに引き退いた。

また、佐田の奥勝間という城に志道左馬助・中村内蔵太夫などを籠め置いていたが、
勝久から三刀屋蔵人・中井平蔵兵衛尉などが八百騎とともにやってきて、その城の山下で暴れまわった。
城中からは志道・中村が打って出て、一戦してたちまち勝利を得、
三刀屋蔵人を討ち取った(元亀元年六月三日)。

勝久はきわめて無念に思ったので、どうにかしてもう一度合戦して、
これまで何度も利を失ってきた鬱憤を晴らそうと、勝間あたりへと何度も軍兵を出してきた。
元春は「勝間の城の様子が心配だ。行って見回ってこい」と手勢の森脇若狭守に軍兵二百余人を差し添えた。
益田越中守の郎党も百人ほど行って帰ってきたが、
新山から森脇市正・平野賀兵衛尉・真木与三左衛門などが七百ほどで
吉川勢の引く後をつけて討ち取ってやろうと追いかけてきた。

敵は大勢で、しかも勇気を盛んに燃やしている。
味方は小勢なうえ、退却しようとしているところだったので、雑兵たちの足並みが乱れてしまいそうだった。
森脇若狭守は機転を利かせ、何度も取って返して追いかけてくる敵を追い払い、
また引いた後をつけてくる敵も追い払い突き退けて、味方を救って帰ってきた。

またそのころ、高瀬の城は兵糧がすでに尽きてしまっていたので、
新山からこれを救援しようと、目賀田段右衛門・同采女允・高尾右衛門尉などが
兵糧船に乗って高瀬へと向かった。
吉川式部少輔が事前に岡惣左衛門(元良)を差し向けていたので、
岡はたちまちその船に押し向かい、散々に戦った。
互いに怪我人や死人も数多く出て、船を少々打ち破ったものの、
高尾・目賀田も少しもひるまずに、兵糧を補充し終えて帰っていった。


輝元朝臣・隆景・元長開陣のこと、古志降参のこと

こうして出雲の逆徒たちをあちらこちらで討伐し、残った者たちも威勢が衰え勢もわずかになったので、
もう恐れるほどでもなくなった。
そのうえ元就様が老いと病が重なっていたので、早く帰って元気付けたいと考えて、
元亀元年八月下旬(九月五日)に、輝元様・隆景・元長は、平田から芸陽へと帰っていった。

その途中に杵築大明神へと参拝し、
「この国の逆徒たちを無事に退治できたのは謀略の功ではなく、
この明神がご加護の眼差しを向けてくださったからです」と丁重に礼拝した。
また神馬三頭、そのほか数々の宝物を寄進した。
供奉していた侍たちもこれを見て、負けるものかと太刀・刀・馬・鎧などに至るまで捧げていったので、
神前はまるで宝の山のようになった。

千家(義広)・北嶋(久孝)は、「この神社の社人のなかには、乱舞の達者な者がたくさんいますから、
呼び集めて能などをご覧に入れましょう」と言ったが、
輝元様たちは「元就様のご老衰がとてもひどいようだからとにかく心配だ。
少しでも急いで帰陣したい」と答え、そのすぐ翌日に杵築を打ち立ち、芸陽の吉田へと帰っていった。

同九月上旬、元春様が六千余騎を率いて国中の敵城を残さず攻め落とそうと打って出ると、
古志因幡守(玄蕃助)はとてもかなわないと思ったのか、
兜を脱いで降伏した(元亀元年十一月二日)。


以上、テキトー訳。

小競り合いの連続って、一番体力も精神力も削られそうだな……
ついに爺さまが危ない状態になってきたみたいで、輝・景と元長は芸陽に帰るのか。
元春は一人出雲に踏みとどまって戦うんだね。切ないね。
このとき広家(才寿丸)も従軍してるはずなんだけど、
才寿が元春とともにいたか兄と一緒に安芸に帰ったのかは、吉川家譜でも「不詳」だそう。
つまりどちらのシチュエーションでも妄想し放題ってわけですなデュフフコポォ

それはそれとして、毛利・尼子双方に同じ名字の人がいっぱい出てきて、
私的にはわけがわからなくなってまいりました。
これまで覚えてるだけでも、牛尾・森脇・三刀屋・熊谷は両方にいるね。
熊谷は、毛利勢は「くまがい」、尼子勢は「くまたに」だそうだけど、だからなんだってんだ。
ややこしさは変わらんわ!
状況把握がめんどうだよぅ(´;ω;`)

次章もこんな感じの小競り合いが続きそうですよ_ノ乙(.ン、)_
2012-08-28

牛尾VS牛尾!?

そういえばブログ始めて1年が経過したわけですが、
こんなたどたどしい進行を見守ってくださった訪問者の皆様、ありがとうございます。
調べ物をしていてこんなところにたどり着いてしまった方はご愁傷様でした。
記念記事のテーマが思いつかなかったので(やりたいテーマはあれど能力が追いつかない><)、
ちょっとだけ旅行してた吉川史跡(ただし静岡)レポを、次の休日に練り練りしたいと思います。
さて陰徳記、まだ半分も読んでないから、まだまだ懲りずに続けていくよ!

だいたいの流れ:
毛利VS尼子再興軍の初の主力合戦は毛利方の勝利で幕を閉じた。
討たれたかと心配されるもひょっこり生きて戻って元気に指揮する鹿介、
総大将輝元の快勝の報にデレるジジ就。
しかし本当の戦いはこれからだ!


出雲野区に三笠城没落のこと

出雲の国牛尾(海潮とも)の高平の城主、牛尾豊前守は、昨年から美作の舛形の城番として上っていて、
その城には牛尾の女房と養子の大蔵左衛門尉が籠もっていた。
しかし大蔵左衛門尉はまだ幼少だったので、牛尾弾正忠(信久)は、
その城を攻めればたいした抵抗もできないだろうと考えて、
山中鹿介に加勢を乞い、大勢で舛形城に押し寄せた。

大蔵左衛門はまだ幼少だとはいえ、ここ心栄えは勇健で、
大勢の敵にも少しも臆すことなく、身命を捨てて防ぎ戦った。
豊前守の女房は武田刑部少輔信実の妹である。
武田元繁にとっては外孫であったが、とても気丈な女で、昔の葵や巴などにも劣らぬ女だった。
女房が兵たちに戦の下知をなし、堅固に城を守ったため、
弾正は最終的に高平の城を落とすことができずに、三笠山に城を構え(牛尾城)、
自分はそこに立て籠もって、隙あらば舛形の城を攻め取ってやろうと、毎日足軽をけしかけて、
合戦がやむことはなかった。

そして元亀元年四月十五日、輝元様・元春父子・隆景は、三笠の城山を見るために打ち出てきた。
吉川衆の今田中務はこれまで故郷にいて、香川兵部大輔は美作の高田に在番していたので、
この二人は先日の布部の合戦に参加できなかったのを無念に思っていた。
同十六日、二人は手勢の郎党たちを連れて三笠の城の三の曲輪の小屋を攻め落とそうとして陣を出た。
これを見て小坂越中守は
「どういうことだ。あの二人には物でも憑いて狂ってしまったのか。
あの大勢籠もっている城へ、たったわずかの勢で攻めかかったとしても、
勝利できるわけがないではないか」と強く制止した。

二人は耳にも聞き入れずに駆けていったが、
それを見て黒杬宗右衛門・足立彦右衛門なども続いて駆けていったので、
小坂も制しかねて後についていった。
岡又十郎と途中で行き会い、岡が「小坂殿はどこへ行かれるのですか」と尋ねると、
小坂は「あの物狂いどもが小屋を落としに行くので、あまりに心配で、後について行ってみます」と答える。
すると岡は「では私も同道いたしましょう」と言って、二人打ち連れて進んでいった。

こうして小屋の近くに詰め寄っていくと、敵が百四、五十人ほど出てきて、弓・鉄砲を撃ちかけて防戦する。
寄せ手の二百余人は無二にかかって鑓で叩き立て、敵を城中へと追い込んだ。
城からも門を開けて打って出てきて、しばらくの間は押し返して戦っていたが、
太刀打ちできずに逃げ入っていく。
このとき香川の手勢の鑓櫃弥三郎という者が矢に当たって討たれてしまった。

寄せ手は勝ちに乗って柵の木を切り破り、香川兵部大輔が一番に乗り込もうと塀に走り寄ろうとしたが、
城中から大石・小石を間断なく投擲してきたので、香川はたちまち岸から下へ打ち落とされた。
香川は目がくらみめまいに襲われて、しばらくしゃがみこんだまま心を取り静めた。
後から続いた小坂・黒杬も同様に石で打たれて引いたので、
このとき今田中務一人だけになって残っていたものの、
これもまた城中から投げられた茶臼で正面を強打したので、
さしもの力持ちの今田にとっても痛恨の一撃で、しばらくは立ち上がれもしなかった。
岡はこの様子を見て、ここで怪我をしても意味がないと思い、石の陰に隠れていたので、その身は無事だった。

これを見て城中は威勢を取り戻し、「あれを討ち取れ」とばかりに
七、八十人ほどが鑓・長刀・太刀などをそれぞれ手にして出てきたが、
吉川衆の者たちはまたばらばらと立ち上がって敵を追い立てる。
そこで「今はこれまで、早く退却するぞ」と一気にサッと引いてきたので、今度は敵も追いかけてこなかった。

元春様はこれを聞き、「命令もなしに敵にかかっていってはならないと掟を出したばかりなのに、
このような振る舞いをするとは、まったく常軌を逸している」と激怒した。
元就様も元春と同じように裁定してしばらくは対面も許さなかったが、
緒軍勢の目の前で比類のない戦いぶりを見せたので、勇猛さはよくわかったと深く感じ入ったそうだ。

同十七日、「この城を切り崩してしまえ」と命令があったので、
十六日の夜半から血気にはやる若者たちはすでに切り岸に押し寄せていた。
こんな様子ではこの城を守りきることはとてもできないと思ったのか、
牛尾弾正の弟で隣西という僧が、
「降参しようと思います。許していただけるなら、
兄の弾正に申し聞かせて、城を明け渡すように説得します」と申し入れてきた。
これを了承すると、牛尾の運も極まったのか、手違いで城中の小屋から火の手が上がった。
寄せ手は「さてはどこかの口から切り入って火をつけたのだな」と言うが早いか、
皆我先にと乗り込んでいった。

井上肥前守がただ一人で甲の丸に一番に乗り込むと、
牛尾弾正忠・弟の隣西堂が二人がかりで鑓で突き立てた。
井上は気持ちばかりは猛々しく勇んでも、敵は数十人、味方は自分一人しかいないので、
城戸の外へと引いていく。児玉兵庫助も弾正と渡り合って戦った。
弾正忠はなかなかの剛の者なので、残念ながら二の戸・三の戸を攻め破られてしまったら
もうどうしようもないと思ったのだろう、敵に名乗りも上げさせずに突き合い、
切り伏せ、命を限りに攻め戦った。

内藤河内守・今田中務少輔・香川兵部大輔・森脇采女正は、甲の丸に乗り込もうとして、
構え置いてある枝切戸を切り破ろうとしていた。
そこに、恩田与一左衛門・飛石宗兵衛尉・岩田・熊谷(くまたに)などという牛尾の郎党たちが、
ここが先途とばかりに防ぎ戦った。
けれども寄せ手は大勢なので、ついには枝切戸を切り破り、皆分捕り高名を果たした。
森脇・香川も続いてくる敵を突き伏せて首を取った。
今田中務は門井の何某と切り結んだが、この門井こそ討ちもらしたものの、他の兵の首を取って差し上げた。
塩屋孫二郎もよく敵を討った。

牛尾弾正忠は、鑓も散々に折れてしまったので、太刀を抜いて切って回っていたが、
多くの敵と渡り合って、ここかしこに数ヶ所の深手を負っていた。
もはやこれまでと思ったのか、太刀を投げ捨てて猛火の中に飛び込み、焼け死んだ。
弟の隣西堂はまだ討たれずに戦っていたが、兄の行動を見て
「火裏に清水を汲む(火の中から清水を汲み上げるような自由自在な心のありようのこと)」と呟くや否や、
自身も火の中に飛び込んで死んでしまった。

牛尾の女房は十歳ほどの子をそばに連れて、白い小袖に赤い手拭いを鉢巻にして、
太刀を持って切って回っていたが、夫の様子を見ると、我が子を抱いて火の中へ入って焼け死んだ。
類まれなことである。

その後、その城には牛尾豊前守が移って籠もっていたが、
雨の夜などには、弾正の女房が十歳ほどの子供の手を引いて泣き悲しんでいるところに行き合う者が多かった。
きっと狐が人をたぶらかそうとしているのだろうと疑って、
聖道の僧を招聘し、荒神供(三宝荒神を供養する法会)などを執り行ったが、
なおもその幽霊は鎮まらなかった。
それならその女房の苦しみを救おうと、堤婆品一巻を読誦し、「南無幽霊出離生死」と回向をした。
その後は成仏解脱したのか、その女房の幽霊に会ったという者はなくなった。

こうして翌日の十八日には、寄せ手は十倉へ陣を替え、やがて熊野、高瀬の城を攻める軍議を始めた。


以上、テキトー訳。

敵味方に牛尾が溢れてて何ながんだかわからないよ……!
すごいややこしいよ!!!
とりあえず豊前守・大蔵左衛門父子が毛利方で、弾正が尼子方なのは理解。

まあそんなんはどうだってええねん。春継!
やんちゃし過ぎなんじゃないの、春継!!!
九州で抜け駆けしたときだって、元春が「困ったやつだ」なんて言いながら、
「でもなかなかやるではないか(ニヤニヤ」とか甘やかしてるから、こんな子に育つんですよ!
ちょっとはビシッと叱ってください!
元就も、お仕置きが「しばらく会わない」ってのはどういうことなのwwwww
そんなわがままプリンセスみたいなジジ就様もステキですけどね、ええ!
こんなやんちゃを繰り返しつつ、叱られたり大きな愛に包まれたりしながら、
春継は立派な広家の執事に育っていったんだね。ホロリ。

あと、女の人が戦ってるのが今回のハイライトだね!
豊前守の女房は下知するシーンだけだが、弾正の妻は太刀抜いて戦うんだ、すげえ。
子供もろとも焼身自殺するわ幽霊になって祟るわ、アグレッシヴなお方だのぅ。
やっぱり城の守備戦となると、女性の出番が増えるのかね。

そんなわけで、次回も続きを読んでいくよ!
2012-08-26

毛利、尼子それぞれの喜び

お祭りから無事生還しました。
棒に押し当ててた肩が腫れてるけど是非もナス。
たぶんものすごく日に焼けたけど、楽しかったから後悔はない。
あのテンションなら私も合戦できそうな気がしてきた。

さて陰徳記。
だいたいの流れ:
毛利主力陣と尼子再興軍が布部で激突、初の総大将を務める輝元のもと、
犠牲は多く出しながらも快勝を得た毛利軍であった。

今回は短い章が連続してたので2章まとめるよ!


末次の土居を明け退くこと

さて、尼子勢は皆末次まで逃げ集まってきて、誰が討たれたのかを調べていた。
真木・横道・隠岐、そのほか誰々といっているうちに、
「鹿介も討たれてしまったのだろうか。まだ姿が見えない」と言い出すと、
皆大きなため息をついて、勝久をはじめとして
「鹿介が討たれてしまったら、尼子家の再興はできなくなるだろう。
どうしよう」と、ただ呆然としていた。

しかし山中鹿介は夜半になってから帰りつき、すぐに使者を放って
「武士は言うまでもなく、町人などもすべて打ち出で、末次の土居を守備せよ」と触れまわる。
すると勝久を筆頭に、「さては鹿介は死んでいなかったのだな」と大いに喜んで、
皆走り出てきて、手に手をとって、
まるで浦島太郎が故郷に帰り、七代末の孫に会ったかのように喜び合った。

すぐに末次の土居に塀をつけ、あちこちに柵を作らせ、
落とし穴を掘り、橋を引いて敵を待ちかけた。
翌十五日、尼子左衛門尉勝久は、昨日の布部での合戦の手柄の軽重を調べ上げ、論功行賞を行った。
まず横道源介には兼光の刀、その弟の権允には同作の脇差、森脇東市正には鹿毛の馬が与えられた。
この間、輝元様・元春父子・隆景は、月山冨田城に入城して、数日間兵を休ませていた。

そして末次にいる勝久を討伐するために、同二十四日、
元春・元長・経言は、七千余騎で末次の隣の山上に打ち上がった。
尼子勢は鹿介をはじめとして、
「元春父子がこの川を隔てて合戦しようとしたら、橋は外してあるのだから川を渡るしかない。
水の流れも早いし、人馬ともに苦労して渡っているところに切りかかって、
半分ほどの兵を皆討ち取り、川の中に追い入れて、川底の水くずにしてやろう」と待ちかけていた。

元春父子は、敵が橋を外したとわかると、その夜は緒陣に終夜篝火を焚かせ、
まるで陣中にいるかのように装っておき、密かに夜中のうちに島根に回りこんで、
洗合口から攻め寄せたので、鹿介の思惑は外れてしまって、勝久とともに新山へと逃れていった。

昔韓信が魏の国を攻めようとして、膾晋という渡しに船をそろえ、
そこを渡ろうとしているように敵に思い込ませておいたので、
魏の兵は皆膾晋を防衛しようと待っていたのに、
韓信は密かに夏陽に回って筏に乗り、魏の都に攻め入った。
この韓信の勝利も、今の元春のやり方と同じだろう。


元就朝臣、敵味方の噂のこと

芸陽の吉田の城では、上も下も「出雲表の合戦はどうなったのだろうか」と心配していた。
福原広俊をはじめとして、重臣たちは皆元就様の御前に行くと、
「出雲表の合戦の報告を聞きたいものです」と言った。

元就様は、「味方の勝利は疑いないので、それほど心もとないとも思わない。
まず、敵の大将の勝久は、輝元に比べたら及びもつかない。
それに元春・元長・隆景を加えた四人が味方なのだから、
敵の将と引き比べても、是非を論ずるまでもない。

敵の侍大将の山中・立原・秋上は、味方の宍戸・杉原・熊谷に及ばず、
敵の森脇・横道・牛尾は味方の山内・平賀・三吉にかなわない。
松田・熊野・米原・吉田・福山は、三沢・三刀屋・宍道・佐波・益田・小笠原・木梨・楢崎に及ばず、
そのほか譜代の侍、福原・桂・志道・口羽などには対抗できる敵がない。

将といい、士卒といい、一つとして負ける道理がない。
そのうち合戦に勝利したとの報告が来るだろう」と言った。

果たして布部表で勝利したと知らせが着くと、
「実に元就様の仰っていた道理の話は、割符を合わせたかのようだ」と思われた。
元就様も、輝元さまが総大将として初めて出馬した合戦に大勝利を得たので、一方ならず喜んだという。


以上、テキトー訳。

「鹿介が生きてたー!」って喜ぶ勝久様可愛いなオイ。
合戦には負けたのに。鹿介が生きてただけで喜ぶとか、尼子勢可愛い。
負けてもちゃんと論功行賞やる勝久様まじイケメン><

そして元春のテクニカルな追い討ち。鮮やか。
「もうやめて! 尼子勢のライフはゼロよ!」とか言いたくなるけど、
悲しいけどこれ、戦争なのよねってことですよねそうですよね。
ちゃんと逃げ出せるだけ素晴らしいと思うんだ、尼子勢。

あと吉田の爺さまも可愛いな。
「べ、べつに孫と息子たちのこと心配なんかしてないんだからねッ!
あんな敵、勝って当たり前なんだから!」などと言いつつ、
いざ勝利の報告が入ると大喜びすんのな。じんわり可愛い。

さて、可愛い話が続いたところで、次章からまた合戦の気配。
軍記物だからね。合戦がメインだよね。
2012-08-25

布部の決着

これまでのあらすじ:
尼子再興軍と毛利主力軍の合戦が始まる。
初の総大将を務める若き当主輝元に快勝をプレゼントしたい両川の叔父ズ。
山上に陣を張って威嚇してみるものの、兵数が少ないのでガチ合戦は避けたい鹿介たち。
毛利勢の先陣は、不利な立地から追い落とされるも、元春父子&隆景が協力して戦線を押し上げていく。


出雲の国比部合戦のこと(5)

隆景の手勢は右の谷を回って上っていく。
森脇・米原たちは、心は猛々しく勇んでも、二度目の合戦に打ち負けて、一度にドッと引き退いた。
山中鹿介・立原源太兵衛尉たちも、「これはいけない」と思って、入れ替わって防ぎ戦う。
これを見て森脇たちも引き返し、ここを破られないようにと必死に戦った。
互いに怪我人や死人を踏みつけ、乗り越えながら、一歩も引くものかとばかりに勇気を奮い立たせ、
鬨の声を上げながら攻め戦った。

鋭利な矢じりが骨をうがち、兵の刃が肉を切り裂き、あたりは鮮血に満ちて天にまで迸る。
たちまち日月の両輪も光を失って、まるで霧の中にいるようで、
敵も味方も誰が誰なのか見分けがつかなくなった。
尼子と毛利の国争いは、今日が最終決戦の様相を呈している。
すでにあちらこちらで火花が散るほどの激しい戦いが繰り広げられているが、
いつ勝負がつくのか見当もつかない。
こうしたところに、かねてからそこここの峰や谷に配置されていた国人衆が、
一隊ずつ自分の持ち口から息も継がずに攻め上がってくる。
敵の前後左右から攻め近づくので、鹿介たちは、心はどんなに勇猛でも、力及ばず引き退いていった。

東口も吉田勢が取って返して攻め上ったので、牛尾弾正・横道・遠藤・疋田らは突き立てられて少し引いた。
すると熊野・松田が入れ替わって防戦したが、横道兵庫助は深手を負いながら退却していたので、
それを見て勇気を挫かれたところに、敵の毛利勢が険しい断崖や洞穴さえも気にせずに攻め上り、
あちこちの峰から回り込んでくるのを目にすると、残った勇気までそがれてしまって、
尼子軍は皆瓜のように潰れてしまった。

芸陽勢は勝ちに乗って鬨の声を上げながら追いかけた。
敗走する尼子勢を追撃して駆け回っていると、尼子家の精鋭の勇士たちは持ち場を破られて悔しく思ったのか、
項羽の勇にならって自ら首を掻き切って死ぬ者や、引き返して一戦し子路のように兜の緒を結ぶ者もいた。
なかでも真木与一は二人といないほど血気に溢れた勇者だったが、
今日の合戦に打ち負けるのを口惜しく感じたのか、二度目の合戦では、
他人が引いても自分だけは退却せずに、敵を数人突き伏せ、大勢の中に乱れ入って討たれたという。

水谷口は山中・立原・森脇などの主力陣が固めていたので、坂の頂上で引き返してこようとした。
そこに吉川勢の境又平(井筒女助と名乗る)・山県宗右衛門・境七郎左衛門などが
真っ先に追いかけていったので、森脇市正は踏みとどまることができずに、鑓を投げるように突いた。
しかしこれは二月半ばのことなので、鹿の子まだらに消え残った地雪に足を滑らせ、
山県宗右衛門の足元に倒れこんでくる。
山県はこれを鑓の柄で押さえ込もうとしたが、森脇はさらに下の谷へと滑り落ちて、命からがら逃げていった。

落ち行く尼子勢は道伝いの城まで辿り着こうと必死に走ったが、
城中の兵たちは皆、味方が合戦に負けたとわかるや、城に火を放って逃げ出してしまっていた。
その猛煙が空中に迸るのを見ていよいよ気を挫かれ、力を落として山の中に逃げ入る者や、
付近の賤が家に身を隠す者もいた。隠岐三郎五郎は退却しようがなくなったので、取って返して討ち死にした。
これを見て、寺本四郎三郎をはじめとして主力の郎党たちは、ともに四人までも討ち死にした。

横道兵庫助は深手を負っていたので道の脇へと逸れ、草鞋の緒を結んでいるように見せかけて、
追いかけてくる敵に向かい
「味方だぞ。間違ってくれるなよ。少々怪我をして、逃げていく敵を討ち取れなかったが、
なんと無念なことだろう」と自然な様子で言っていたので、皆見逃して通り過ぎていく。
しかしそこに、横道の姪婿の中井善左衛門が通りかかった。
これは十日ほど前に降伏して、今回は毛利勢に加わって逃げる敵を追っていたが、
横道を見つけると無言のままスラスラとそばへ寄っていく。
横道は、「善左衛門は姪婿だから、まさか自分を討とうとはしないだろう」と思ったのか、
「中井か、私は怪我をしてしまった」と声をかけた。

中井は耳にも聞き入れず、横道を切ろうと太刀を抜く。
これを見た横道は、「中井め、さても邪見放逸な輩よ」と呟くと姪婿をにらみつけ、
「いいだろう、私の首を打て」と首を差し伸べて打たせてやった。
「中井の振る舞いは、敵味方に分かれたとはいっても、なんとも情けのかけらもないものだ」と、
爪弾きにしない者はなかった。

真木与一の首は、江田七郎右衛門・浅原助六が二人がかりで討ち取った。
目黒左衛門尉は手傷を負って逃げる力も尽き果てたので、
日ごろから見知っていた土民の家に逃げ込んで、「どうかこの通り、しばらく隠れさせてくれ」と頼んだ。
土民はすぐに櫃の中に目黒をかくまったが、
追手は目黒がこの家に入っていったのを見ていて、家を取り囲んだ。
目黒は取り押さえられて易々と討たれてしまうのは悔しかったのだろう、
櫃の中から這い出ると、腹を掻き切って死んでしまった。

昔、細川右京大夫高国は、京都の戦で利を失って摂津の尼崎へと落ち延びていき、
とある酒屋の主人を頼った。主人はすぐに酒甕を伏せて高国を隠したが、
すぐに追っ手が捜索に来たので、高国は逃げ切れないと思って、
酒甕の中から出ると、自害に臨んで辞世の発句を「夕立の空たのめなる舎り哉」と口ずさんだという。
今の目黒の有様と重なって、哀れなものに感じられた。

牛尾弾正は具足の上帯が突き切られてしまったので、鎧を解き捨てて退却したが、
毛利勢が厳しく追いかけてくるので、もう討たれてしまうのだろうかと思えた。
そこに金尾半四郎・飛石孫太郎・由利甚七・中間の四郎などという者たちが
ところどころで引き返して追っ手と渡り合い、討ち死にしたので、
弾正本人はつつがなく牛尾の城へ帰りついたという。
同じように熊野も追い討ちにされたので、その日の首級の数は三百余りにのぼったという。
そのほか、あまりに必死に走りすぎて、息が切れ、そのまま倒れて死んだ者も多かった。

山中鹿介は銀の草摺が目立ったので、小阪越中守が山道を一里ほど追いかけていったが、
ついに鹿介が逃げ切った。低木が茂っているところへと、
後藤という郎党とたった二人で隠れていて、どうにか命が助かったそうだ。
これは、阿修羅王が天帝と戦ったときに、戦に敗れて八万四千の眷属を引き連れて
藕糸の穴の中に隠れたというのもかくや、と思わせた。
毛利勢でも、田門右衛門尉・粟屋又左衛門(元光)・児玉弥七郎・細迫左京亮の四人が討ち死にし、
怪我人は数百人に及んだそうだ。


以上、テキトー訳。おしまい!

こういう息も継がせぬ合戦描写はイイなぁ。血湧き肉躍る。
敗走する人々の最後のあがきとか、けっこう好きなんだよな。

横道さんは残念だったね。
中井は、妻の小父とはいえ敵の首級を取ったのだから「情を捨ててよくやった」
と賞賛されるかと思いきや、爪弾きにされるんだね。興味深い。
情けのある立派な武士ならば、こういうときにはどうするんだろうか。
やっぱり生け捕りにして親類の命乞いをするのかな。

とりあえず毛利勢の勝利で幕を閉じたわけだけど、毛利方の消耗も大きかったね。
簡単な勝利ではなかった、というのが印象深い。
尼子は宿敵というか、毛利としてはなかなかに思い入れのある敵だったのかな、などと。

さて、明日は休日だけど、朝から祭りに行ってくるので、陰徳記は読めないかも。
この気温で神輿とかムリゲーすぎる(でも担ぐw)……
2012-08-24

激突、布部山合戦

これまでのあらすじ:
輝元が初の総大将を務める対尼子再興軍戦、甥っ子当主の晴れ舞台に張り切る叔父ズ、
威勢よく威嚇しているが実は合戦を避けたい鹿介たち……
両者の思惑はそれとして、ついに合戦の火蓋が切って落とされ、
山下から攻める毛利勢には先走る者もおり、苦しい展開になりそうな気配。


出雲の国比部合戦のこと(4)

また、水谷口では、山中鹿介は敵がかかってくるのを見ると、味方を励ますためなのか、
「皆、あれを見てくれ。芸陽勢は聞いていたよりも少数のようだ。
そのうえ備えはめちゃくちゃで、前後の分かれも混乱している。
特に、今朝軍米を炊く煙を見ていたら、敵陣が敗れるという験がはっきりと現れていた。
今日の合戦は味方が勝利するぞ。間違いない。さあ皆々、進め」と勇んだ。

さらに鹿介は左の先陣に備えていた森脇市正たちへと軍使を遣わし、
「敵方は備えが乱れ、兵士の士気も上がっていない。これは敵方が利を失っている一番の兆候だ。
その次に、敵の先陣は藤の丸に三引両の旗だから、吉川のようだ。
それに続く三頭の左巴の旗は小早川だ。
日ごろは後陣に控えて諸士に軍令を発している大将たちが、
今日に限って一陣・二陣に進んでいるということは、前後の定めがしっかりできていないということだ。
将は後陣に控えて敵の挙動を見極め、正兵を奇兵として用いたり奇兵を正兵に仕立て上げ、
あるいはみだりに懸からないように、みだりに引かないように、
懸かるべきときには進み、引くべきときには退却の下知をなすものだ。
そうしてこそ、先陣がたとえ利を失っても押し返しながら懸かって勝利をつかめるものなのに、
両将が先陣にいたのでは、一陣・二陣が突き崩されてしまえば、
後陣の取るに足りない輩は矢の一つも放てないまま逃亡するだろう。

敵陣は、前方が重く後方が軽いのだと思う。
敵の先陣はたった三千しかおらず、味方の勢はこの倍はいる。
この先陣を突き破るのは、山で卵を押しつぶすよりはるかに楽なことだろう。
一陣さえ破れば残党は最後まで戦わず逃げ散るだろうから、味方の勝利は歴然としている。
これが二つ目の兆候だ。

吉川・小早川は兄弟の間柄だとはいっても、吉川が北前の担当なのだから、
一番に合戦を始めようと進んでくるだろう。
小早川は、戦場には兄に対する礼などないというから、これも先を争って進みたいだろう。
そうなれば備えは混雑して、先陣が引こうとすれば後陣の鑓・長刀に貫かれ、
後陣が進めば先陣は不意に進まなくてはならず、崖から追い落とされるだろう。これが三つ目だ。

敵は九州から負けて帰ってきて勇気を失い、臆病神が脳裏に焼きついているだろう。
味方はこれまであちこちの戦に勝って兵の士気も高い。これが必勝の要因の四つ目だ。
敵は長旅を経て人馬ともに疲れ、そのうえ山の麓から攻め上ってくる。
味方の兵はまったく疲れていないし、それに山上から真っ逆さまに降りていけばいいだけなのだら、
戦を有利に進められる。これが五つ目。
敵はいろいろな国から寄せ集められた者たちで、味方は尼子家譜代相伝のつわものばかりだ。
身を捨て命をなげうって戦うことに関しては、雲泥の差があるだろう。これが六つ目。
今回のような隘路で防戦するのは、一人で十人を討てることになるから、
小勢で大勢を撃破できる利点がある。これが七つ。

そのほかにも味方が勝利を得られる道理はいくらでもある。
絶対に先陣の吉川を、ひときわがんばって切り崩してくれ。
小早川の勢も吉川と入り乱れていると見えるので、これもともに引いていくだろう。
総大将の輝元は今年十七歳になったばかりなのだから、勇猛だといっても恐れるに足りない。
今日の合戦の肝は先陣の一軍にこそある。よくよく諸士を励まして、ご自身も手を砕いて働いてほしい」
と言い送った。

森脇・真木たちはこれを聞いて、
「鹿介殿の仰せは実にもっともなことだと思います。
味方必勝の道理を一つひとつ列挙されましたが、どれもこれも納得のできるものです。
たとえ須弥鉄囲山が崩れかかってきたとしても、この陣は動じることなどありません。
これからあの敵を切り崩してご覧に入れましょう。
そのときこそ、たった今お聞かせいただいた必勝の理は、すべて符合することになりましょう。
鹿介殿のお手勢まで合戦に引きずり込むことはありません。
私の手先の一陣で敵を挫いて見せますので、
あなたは足を上げて左扇で首実検をなさってください」と返答した。

そして森脇たちは二百余挺の鉄砲をそろえ、前に楯を雌鳥羽(左を上に、右を下に)に構えて待ちかけた。
熊谷伊豆守信直の家之子に、細迫左京亮という、たいそうな剛の者がいた。
先日軍議があったときに末席から進み出て
「私の主君の熊谷伊豆守は、元就公の御手に属してからというもの、
折々の合戦において先陣を務めないことはありませんでした。
なので、今回輝元公が初めて総大将として出馬された合戦に、熊谷の手の者が先陣を務めないとなれば、
これまでの武勇が無駄になってしまいます。
ですから今回の先陣はどなたでもかまいませんが、一番鑓は熊谷の手の者、
それこそ私、細迫左京亮となるでしょう」と居丈高になって荒言を吐いた。

そばに居並んでいた兵たちのなかには、
「この合戦で一番に退却しようと思っている者がいるわけもない。
細迫の物言いは傍若無人だ」と呟いた者も多かった。
志道上野介は、「細迫は力量にも優れ智謀もほかの者より飛びぬけているというのに、
今のようなことを言っているようでは討ち死にしてしまうだろう。
惜しいつわものだった」とそばの者に向かって嘆いた。

細迫は自分の言葉を違えないようにと思ったのか、味方よりも四、五段ほど先立ってたった一人で攻め上り、
仁王立ちになって、細迫とは名乗らずに、
「熊谷の家之子の、同名左京亮直勝、今日の一番鑓だぞ。後になって間違えるなよ。
続く味方も向かう敵もよく見ておれ」と荒々しい言葉を吐く。
そのまま数百本の白刃がひしめく鑓衾の真ん中へと、少しもためらわずにまっすぐ突いて懸かり、
しばらく多くの敵を引き受けて戦ったが、敵ニ、三人に怪我を負わせて、
自身も数十本の鑓に貫かれ、終にその場で討たれてしまった。

さて吉川・小早川勢は一丸となり、真っ黒にひしめき合って水谷口を一息に駆け上っていく。
尼子勢が二百余挺の鉄砲を入れ替わり立ち代り撃ちかけてきてもものともせず、
あっという間に間近まで攻め寄せる。
森脇東市正は前に突き立てていた楯を跳ね除け、一千五百騎で鬨を上げて真っ逆さまに突いて懸かる。
芸陽勢はこれに正面から渡り合い、しばらくぶつかり合ったが、
敵が坂から下ってきたからか、ほとんど支えることができずに突き立てられて、麓へさっと引いていく。

元長が控えているところまで雪崩れかかってくると、元長は大声を上げて、
「吉川元長ここにあり。押し返せ者ども」と指揮を打ち振りながら下知をなし、
「さあ攻め上れ」と自ら五百余騎を率いて進んだ。
元春・隆景も後陣から「敵に息を継がせるな。ひたすら攻め上れ」と強い調子で下知したので、
引いてきた者たちも、また取って返してせり上がっていった。


以上、テキトー訳。もうちょい続く。

鹿介! 伝令の内容が長いよーーー! よく覚えたな、軍使の人は。
てか敵が迫ってきてるのに、よくこんな長話してる余裕あるな、尼子の人は。
もう合戦を避けるだとかそんな話はどこかに吹っ飛んでしまったね。
立原はさぞ「言わんこっちゃない」と頭を抱えたことでせう。
尼子から仕掛けたわけではないので、立原のフラグ成立には至らなかったが。

あと、熊谷さんちはホントに人材が豊富ですねー特にゴロツキ方面の。
どんな家中なんだろう。すごく興味をそそられるわ……
こういう細迫みたいな若者をまとめ上げてた信直さんという人に、実に興味を引かれるwww
自分の名字を名乗らずに、「熊谷」って名乗ったんだから、惣領のことが大好きだったと思うんだ、細迫。
ちゃんと若党の心をつかんでる感じがするんだよね、信直。
そんな信直と、元春が縁を結びたがったのも納得って感じだな。

そして我らが元長! キャー元長サーン! カッコイイー!!!
元春・隆景が一緒に軍事行動してるもなんだか新鮮でイイ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙

そんなわけで、次回でこの章は最後の予定だす。
2012-08-23

輝元VS尼子再興軍、開戦

夏休み明けの仕事+長い会議+ひっかけてきた酒で、昨日はついついノビていたけれども、
今日はまじめに陰徳記!

これまでのあらすじ:
輝元が初の総大将となった出雲の尼子討伐、叔父たちは当主の甥っ子に花を持たせようとやる気マンマン、
対する尼子勢は、兵数が不利なので、抗戦する布陣をして兵を鼓舞しつつも、
できれば合戦は避けたいところ……しかしガチンコ合戦の用意だけが着々と整っていくのでしたw


出雲の国比部合戦のこと(3)

翌十四日、水谷口には吉川・小早川の総勢三千五百余騎が進んだ。
しかし北前は元春が担当している地域なので、合戦は吉川衆から始めることになった。
ニ陣には杉原石見守盛重、その次には宍戸・熊谷・天野・益田など、出雲・伯耆・石見の兵たちが、
合戦も半ばになったときにそれぞれ押し上がって四方八方から敵にかかるようにと、
それぞれあの山、この谷と定められて配置された。
東口には吉田譜代の衆の福原・桂・志道・児玉・赤川・粟屋・口羽など四千騎が進む。
その次には小笠原・平賀・楢崎・木梨などが、それぞれ分かれて我先にと進んだ。

総大将の右馬頭輝元様は、旗本衆や後備を並べて三千七百騎で陣を固めて控えていた。
こうしたとき、三沢三郎左衛門と三刀屋弾正左衛門が、合戦の前途を祝おうと、大樽二十荷を献上した。
輝元様は、これを諸軍勢に配分しても、深い谷に水一滴を落とすようなものだと考えたのか、
大きな桶を四五十ほど大庭に並べ、そのほかの大樽も百や二百ほど合わせて桶に移し入れた。
そして諸軍勢に、「器を持ってきて一杯ずつすくって飲め」と言った。
軍兵たちは、「昔の良将は、自分に贈られた酒を川に流し、兵士たちとともに同じ流れを飲んで、
皆でこれを味わったという。輝元公のお心と一緒だ。なんとすばらしい大将だろう」と感じ入った。

まだ敵の様子を見計らいながら合戦を始めないでいると、輝元様は、
「元春に隆景、まだ東山に日が昇っていないから、敵軍のほとんどは朝飯を済ませていないだろう。
朝飯を食べ終わって備えを固めたならば、簡単に切り崩すのは難しくなるだろう。
ただ片時も急いで切りかかり、一戦を始めるのがいいだろう」と言った。
すると元春・隆景は、「ごもっともです」と同意した。

杉原播磨守はこれを聞いて、「蛇は一寸をもって大小を知り、
人は一言をもって賢愚を察すといいます。輝元様はなんと良将の器をお持ちなのか。
今年で十七歳になられたとはいえ、七十歳以上になられた祖父の陸奥守殿(元就)にも劣らぬ
立派な大将に成長されましたな」と感激した。
播磨守は黒い小袖に革袴を着ていたのだが、その袴を解き捨てると鎧も着ずに、
まったく防具なしのままかかっていった。

元長様はまだ二十歳そこそこだったが、とりわけ優れた勇将だったので、先陣に進んで軍の指揮をしていた。
元春・隆景は少々後ろに控えていたが、大声を張り上げて、
「敵はきっとひとまずは激しく仕掛けてくるだろう。
たとえ先陣が切り崩されたとしても、何度でも押し立てながら無二にかかって切り崩すぞ」と下知していた。

そして太鼓を打って進軍しているいると、輝元様は本陣で床几にに腰をかけていたが、
どうしたことか後ろの山から、人の力では三十人ほどでかかってもちっとも動きそうにない大岩が、
つぶてとなって落ちてきた。
大地が鳴動して、皆は身の毛がよだち魂も消えてしまいそうだというのに、輝元様は少しも騒がず、
「私の後ろから落石があるとは、天も私に力を合わせてくださって、
敵陣を打ち破れとお示しになったのだろう。
また、合戦を早く始めろとのお告げでもあるだろう。進めや者ども」と力強く下知をなした。
蘇老泉の言葉に、「将の道とは、まずは心を治めることである。
突然山が崩れだしても、兵の前で顔色を変えてはならない」とあるが、
このときの輝元様のようなことをいうのだろう。
大将がこれほど剛強なので、諸軍士もさらに勇んで攻めかかっていった。

敵も、山上から芸陽勢が出発したのを見ていて、静かに備えを固めていた。
西口の一番の先陣には森脇東市正・真木与一・中井・米原などの二千余騎が、
弓・鉄砲を前に立てて備えている。
少し右手側の奥に、山中・立原・隠岐・加藤・寺本などが一千五百余騎で控えている。
また五百余騎を力石・黒正・高尾などに添えて後方の高みに控えさせ、
敵が細い道を伝って攻め上ってきたならそこに馳せ向かって防戦するか、
そうでなければ味方が戦い疲れたときに入れ替える新手として定められていた。

東口は、先陣の牛尾弾正忠・横道源介・同権允・遠藤・馬田などの一千余騎が、
布部の山道を遮るようにして控えている。
ニ陣には横道兵庫助・岸・秋上・羽倉・平野・松田・熊野などが一千七百余騎がおり、
先陣が激しい合戦をして敵が備えを乱したところに無二にかかって生死を一時のうちに極めようと、
皆下ってきて控えていた。
兵たちは尼子家では何度も勇をあらわし、ずいぶんと武名の通った勇士猛卒たちばかりである。
場所は布部の大難所、備えは堅固に設けられている。
いかに元春・隆景が勇将・智将だとはいっても、簡単にこの陣を攻め破れるとは思えなかった。

輝元様の近習に、田門(たと)右衛門尉・粟屋又左衛門という無双の勇士たちがいた。
二人は輝元様の前に行くと、「今回はご主君が初めて総大将として打ち出ていらっしゃるのですから、
吉川・小早川衆、そのほかの国人たちによって先を越されてしまえば、
あなたさまの旗本衆の名に傷がつきます。
是非とも私たち二人が一番に駆け入って、討ち死にしたいと思います」と申し出て、
最後の盃を与えられてから出発した。その言葉を少しも違えずに、二人連れ立って真っ先に進んでいった。

さて、吉田勢は鬨をあげて太鼓を打ち、足並みを乱さずに布部の坂口から押し上がった。
尼子勢でも、横道兄弟が今日の一番鑓をと心にかけて、人より進んで待ちかけていたが、
敵が近づいてくると、「二百余挺の鉄砲を先に立てろ」と下知して、
百挺ずつが二手に分かれて、入れ替わりに撃ちかけた。
しかし芸陽勢は少しも怯まずに、怪我人や死人を乗り越えながら攻め上ってくるので、
二百余挺の鉄砲隊は、たちまち乱れ散って退却した。

尼子勢一千余騎のなかで、横道兄弟が一番鑓をと心にかけ、足軽を押しのけて進んでいくと、
敵二人が群れを離れて進んでくる。
そのうちの一人に向かって権允が「誰だ」と問うと、「輝元の近習、田門右衛門尉だ」と答えた。
源介がもう一人に問うと、「粟屋又左衛門」と名乗った。
敵も二人、味方も二人、余人を交えずに鑓を合わせていたが、
横道権允が田門の内兜へ鑓を突き入れ、田門が仰向いたところに、二の鑓で草摺の外を突いた。
さしもの阿修羅のように見えた田門も、両膝をついて倒れてしまった。
権允が首を打とうと太刀を抜いて走りかかると、田門は倒れたまま三尺ほどの太刀を抜いて、
権允の草摺を切り落とす。
けれども体にはかすりもしなかったので、権允はツッと近寄って田門の腕を切り落とし、
そうしてから首を打った。

粟屋も源介と渡り合っていたが、一鑓突かれてかなわないと思ったのか、
鑓を投げ捨て走りかかり無手と組む。
互いに劣らぬ力自慢の者たちなので、上になったり下になったりしながら取っ組み合っていたが、
粟屋は怪我をしていたので、ついに源介によって討たれてしまった。
横道の郎党、長沢十兵衛尉も太刀で敵と渡り合って、一人を討ち取った。
尼子勢は勝ちに乗って「進めや者ども」と、鑓・長刀の切っ先をそろえ、
山上から一直線にかかってきたので、芸陽勢は一気に突き崩されて、思わず山下へと引いてしまった。


以上、テキトー訳。まだツヅクノデス!

おおおおお輝元ちゃんがホント大将みたいだよー!
いや大将なんだけどさ、正真正銘の。
かっこいいなぁ輝元ちゃん(*´∇`*)
きっとお父さんも草葉の陰で嬉し涙流してるよー!
隆元:(*ノ∇;*)リッパニナッテ……

でもアレだね、大岩が落ちてきても動じないってのは、器が大きいというより、
のんびり屋さんというか、ちょっとニブいだけって気もしないでも……
いやいや、ホンワカした輝元ちゃんを夢見たいのですよ!!!
というか輝元が慌てるところが想像できない。景さまに折檻されそうなシチュエーションでなら慌てそうだけど。
秀吉に臣下の礼をとるために初上洛したときも、道中で浜遊びしちゃうような人だし。
夜中に秀長の屋敷に押しかけちゃうような肝の持ち主だしw

ていうか杉原さんは登場回数多いな。春継あたりが特別仲良しだったんだろうか。
あと、鹿介の思惑とは裏腹に、ガチ合戦に雪崩れ込んだようにしか見えないんだが。
しかし、今回の状況的には毛利勢は不利っぽいな。どうなる、続き!?
とりわけ優れた武将の元長の活躍の場はあるかな???
2012-08-21

毛利・尼子それぞれの計略

前回のあらすじ:
元亀元年正月、ついに尼子勝久討伐のために芸陽を打ち立った毛利勢(まだ幼い広家も一緒)。
しかも今回は輝元が初の総大将を務めるので、どうにか華々しい一戦をと力む叔父ズ。
尼子は本来なら戦は避けたいところだけれども、
目の前で月山冨田城に兵糧を入れようとしている敵軍を横目で指くわえて見ているわけにはいかない。
どうにか勢を掻き集めて毛利勢を牽制しようとするが、はたしてどうなる?


出雲の国比部合戦のこと(2)

さて山中・立原は前もって檄文を飛ばして勢を集めていたので、
守山から秋上伊織助が七百余騎で打ち出てきて、三笠の城からは牛尾壇上忠が五百余騎で駆けつけてきた。
熊野兵庫助は四百余騎、高瀬の米原平内兵衛尉は七百余騎、宇波から真木が五十余騎、
山佐から吉田八郎左衛門兄弟が三百余騎、
そのほか淀井・末石・稲石城などから福山弥二郎・隠岐三郎五郎・遠藤・疋田・中井などが
二百や三百、五十や七十ずつ群れ集まってきたので、総勢六千七百余騎が布部表へと打ち出てきた。

鹿介は智謀に長けた者だったので、布部の峰や谷のあちらこちらに空の陣屋をたくさん作らせた。
なかに人がいるかどうかは他所からはわからないので、そこには一万以上の軍勢が陣取っているように見えた。

立原源太兵衛尉は、鹿介・横道兄弟に向かってこう話した。
「芸陽勢は一万騎しかいないといっても、出雲・伯耆の勢が駆けつけてくるだろうから、
一万五千か七千ほどにはなるだろう。
味方は六千ほどいるとはいっても、この三分の一は因幡・美作・備前の諸牢人たちだ。
自分自身を顧みずに合戦に臨む者は、尼子家譜代の恩顧の者たちしかいない。
だから今回の合戦で勝利を得るのは難しいだろう。

しかし、あちこちの城に五百や三百ずつで立て籠もってばかりで、
はかばかしい合戦を一度もしないまま敵に捕らわれるのを口惜しく思うからこそ、
今回は皆一緒になって生死をかけた合戦を遂げようと思い定めている。
もし芸陽勢が噂通り、今回は兵数が少ないからといって、
合戦をつつしみ冨田へ兵糧を入れて引き揚げていけば、味方は天の加護にあずかったようなものだ。
だからこちらからは、合戦をしたそうに見せかけておき、裏では合戦を謹んでほしい。
絶対に敵が合戦を仕掛けてくる前に、こちらから合戦を始めないでくれ」

鹿介はこれを聞いて、「私もそのように思っているけれども、
はじめから皆の前でそんなことを言えば、軍勢の気持ちが緩んでしまうだろう。
これは、長井斉藤別当実盛が東国の兵の勇と兵の多さを話してしまったがゆえに、
味方が怯えきって、富士川の小鳥の羽音に驚いて逃げ出してしまった故事と同じことだと思う。
味方を勇気付けるために、敵を侮ったように言うのだ。
敵を強そうに言うのは、兵書でも戒められていることだ。
味方を力づけようと思って、戦を好んでいるように言っているのだ」と言った。
立原は、「まったくその通りだ。
このことは、森脇市正・牛尾弾正忠など数人だけがよく心得て、絶対に人に言ってはならないぞ」と言った。

元春は先年から冨田近辺の在郷の一揆衆に金銀を与えて間諜を入れ、
「敵の謀略・策略を報告するように」と言い含めておいたので、
その者たちから日々敵の様子や計略などの報告が入った。
このことは尼子勢にも察知されて、布部の一揆勢の三人が鹿介に捕らえられて首を刎ねられたという。
しかし報告してくる者はたくさんいたので、軍勢の到着の様子、空き小屋のことなどが事細かにわかった。
また杉原播磨守が付け置いていた佐田彦四郎の中間も走ってきて、
「芸陽勢は兵数が少ないと聞いて、一戦しようと布部へと打ち出てきました」と告げてくる。
元春・隆景両将は、「さては敵の様子を聞くに、皆同じように言うから、謀の内に落ちてくれたな」
と大いに喜んだ。

さて、芸州勢は三沢の鎌倉山に陣を変え(正月二十八日)、同二月十二日には比田に到着した。
敵がすでに布部に陣取っているとわかっていたので、まずは冨田の城へ兵糧を入れるのは後回しにして、
布部の敵を退治しようと、翌十三日に布部表へと打ち出た。
布部の城には森脇位置正(久仍)が三百ほどで籠もっていたが、
鹿介が使者を遣わして「その城を空けてこちらに集まってほしい」と言い送った。
市正は「敵を防ぐためにこそ城に立て籠もっているのだ。
敵が猛勢だからといって城を捨て、退却する者がどこにいる。
私の三百騎の勢は芸州勢の三千余騎にもまだ倍すると考えてほしい」と、まったく聞き入れなかったので、
鹿介は今度は横道源介・同権允を差し遣わし、同日の夕方ごろに、市正はようやく退却してきた。

鹿介は芸陽勢の数が聞いていたより大勢に見えたので、驚いたようだった。
そして諸侍を呼び集めて、「戦は明日になるだろう。
どんな策謀をめぐらせれば勝利できるだろうか。皆思うところを残さず話してほしい」と言った。
すると森脇市正が、「味方の勢は六千七百が参集しているとのことですが、
私の勢も二百ほどいますので、七千騎にはなるでしょう。
これは皆尼子家譜代恩顧の兵たちばかりなので、心を一つにして戦うでしょうから、
芸陽勢の五万や十万にも勝てると思います。
敵勢は一万と聞いていますから、数ではほぼ互角だとはいっても、
もともとの手勢と寄せ集めの勢では雲泥の差があるでしょうから、
水谷口・中山口へと二手に分かれて、勝負をかけた一戦をなさってください。
味方の必勝に何の疑いがありましょうか」と言った。
鹿介は「東市允殿の仰ったとおり、味方の勝利はもとから決まっていることだ。
当家を再興するときが今まさに来たのだと思っている」とにっこりと笑って座していた。

「それでは手分けをしよう」ということになり、
西の水谷口は、山中鹿介幸盛・立原源太兵衛尉久綱・真木与三左衛門・同与市・
中井平蔵兵衛尉(久家)・米原平内兵衛尉(綱寛)・森脇東市正・隠岐三郎五郎・
加藤彦四郎・神西三郎左衛門(元通)・寺元市允・進左橘兵衛尉・力石九郎兵衛尉・
馬田兵左衛門・高尾右馬允・同宗兵衛尉・目賀田段右衛門・同采女允・池田与三郎・
相良勘九郎・比田十郎太郎・徳吉孫九郎・真野・黒正・屋葺など四千余騎となった。

東の中山口は、牛尾弾正忠(信久)・秋上伊織助・岸左馬進・同孫右衛門・羽倉孫兵衛尉・
平野賀兵衛尉・横道兵庫助・同じく弟の源介・その弟権允・遠藤神九郎・疋田右近・
同右衛門尉・松田兵部丞・熊野兵庫助・同次郎・古志新十郎・福山次郎左衛門・吉田三郎左衛門・
同八郎左衛門・長森吉内・馬田入道(慶篤)・浅山太郎次郎・日野助六・牛尾大炊助・足立次郎左衛門・
目黒・熊谷・原・吉岡など、二千八百余騎が、明日を最後の合戦と思い定めて待ち受けていた。

さて出雲勢が布部の参上に二手に分かれて陣取ると、各家の旗が紅白色を交えつつ、
二月半ばの春風に吹かれ、峰の木々の間から翻るのが見えて、花や雪と見まごうほどだった。
萌黄や緋縅など種々の鎧の袖が並ぶさまは、秋の野辺の露時雨が、
昨日はまだ散り残っていたもみじ葉を打ち落としたかのようであった。

こうして出雲勢が二手に分けて備えているのを見て、芸陽勢も追手と搦手の二つに軍勢を分けた。
輝元様は床几に腰を打ちかけて、元春・隆景、
そのほか宍戸・平賀・熊谷・杉原・福原・桂たちに向かって話し出した。

「敵は合戦に臨むつもりですでに布部の山上に控えている。
今日の合戦はどうすれば速やかに勝利できるだろうか。
敵が少ない兵数でここまで出てきたのは、天が与えてくださった好機だ。
敵の兵数を見るに、味方の五割にも満たない。
すぐに押し寄せて一戦を始めれば勝利は決まっているとはいえ、小敵を侮るなかれという言葉もある。
しっかりした計略もないまま合戦を始めてもし仕損じれば、これからの武運にけちがつくというもの。
寄せ集めの牢人たちとはいっても、皆一騎当千のつわものどもだ。
敵は大将の勝久から足軽たちに至るまで、今回諸人の目を驚かす武勇をあらわして、
先年冨田の城を落とされた会稽の恥を雪ごうと思い入れて、歯を噛み締め肩を震わせている者たちばかりだ。
きっと興亡をかけた勝負を挑んでくるだろう。絶対に侮るなよ」

三刀屋・三沢・杉原は、
「仰せの通り敵は一戦をしようとここまで出てきたのですから、激しい合戦にはなるでしょう。
しかしながら、この三人の国方の問題ですので、我らが先陣に進んで身命を惜しまずに戦えば、
どうして一時の間に攻め破れないことがありましょうか。
今回の先陣はどうか我らにお任せください」と進み出る。

元春・隆景はこう言った。
「元就様がまだ芸陽すらすべて切り従えていらっしゃらなかったとき、
陶と戦争をして、その後の尼子、大友との合戦のときも、
この二人が先陣に進んで手を砕かなかったときはありませんでした。
今回は輝元公がこちらの総大将として打ち出されましたが、これが最初のことです。
ですから、今回は元就の吉例にならって、我ら二人に先陣を仰せ付けください。
このこと、また備えの定めは先日申し合わせたはずです。
今日になってこれを変えるのはいけません。
きっと敵は興亡をかけた一戦をと望んでいるでしょうから、先陣は何度も切り崩されることになりましょう。
それを我らが後ろからひたすら押し上げて、あっという間に追い崩してご覧に入れます。
通り一遍の戦では、味方に怪我人ばかり出て、勝利はなかなか決さないと思いますので、
三沢・三刀屋はこのあたりをよく知っているはずですから、
左右の尾根から攻め上り、横合いから攻め懸けていただきたい。
赤穴・宍道はあの谷からかかっていってほしい」

こうなると、吉田譜代の重臣たちも、
「輝元公が初めて大将としてお出になったから、
元春・隆景さえ自分が先陣を務めると名乗り出ているというのに、
我らがどうしてニ陣に控えていられましょうか。
一方の先陣をお任せいただきたい」と勇み進んで、死を一途に思い定めている様子だった。


以上、テキトー訳。まだまだ続くよ~長いよ~!

なぁ……立原の「こっちから仕掛けちゃならんぞ、絶対だぞ!」ってのはもしかしてフラg(ry
いやまあこの時代にそんなお約束あるわけないかーとは思うけれどもw
しかし戦の備えをして、毛利勢にガチでかかってこられた場合はどうするんですかね、この人たち。

そしてやる気マンマンの毛利勢。
輝元がかっこよく大将らしいこと言ってる……だと!?
軍議の最中は才寿(後の広家)のほっぺたムニってるだけかと思ってたのに。
なんか新しい(゚▽゚*) そんな輝ちゃんも好きよ(*´∇`*)
そして大将ではなく一介の武将っぽく先陣争いをする叔父ズもなんか新鮮(*´∇`*)
負けるもんかと勇む吉田衆も頼もしいじゃないの。

さてさて、この先どう転ぶのか、次回が楽しみ~♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
2012-08-20

毛利勢、出雲発向(才寿といっしょ)

だいたいの流れ:
・山中鹿介・立原源太兵衛尉らが尼子勝久を奉じて出雲入り&勢力急成長
・元春&隆景は九州へ出張してたが急遽呼び戻される
・山口に大内輝弘乱入、しかし帰ってきた元春によって無事成敗される

そして少し時が経って、元亀元年のお話。


出雲の国比部合戦のこと(1)

翌元亀元年正月十六日(永禄十三年四月二十三日改元)、尼子左衛門尉源勝久を討伐するために、
毛利右馬頭輝元様、吉川駿河守元春・嫡子同治部少輔元長・三男又次郎経言・小早川左衛門佐隆景は、
芸陽を打ち立って、出雲路を目指し急いで進軍した。

又次郎経言は当年で十一歳になった。
父の元春の前に行って、「今度は尼子勝久退治のために出張りされるとのこと、
私もお供して、一方の先陣を務めたく思います」と言った。
すると元春はとても嬉しそうに笑って、
「おまえの気持ちは立派なものだけれども、あと二年ほどは待っていてくれ。
今戦場に行ったとしても、あまりに幼いから、ほとんど何もできないだろう」と言う。
経言は重ねて何度も頼んだけれども、元春は絶対に許さなかった。

経言はあきらめきれず、兄の元長と母親にこのことを嘆いた。
元長は母の前に行って、「経言は今度出雲へと罷り上がりたいと望んでいるようです。
召し連れてくださるように、私からも元春公へ申し上げるかどうか、
母上のご意見をうかがいたい」と言った。

母は、「元春は、経言はまだ幼いからといって、今回はお連れにならないとおっしゃっているそうですね。
武将の子というものは、幼いとはいっても、戦場に臨みたいと望むなら、
それこそ父にとっては望むところではありませんか。
連れて行くのが当たり前というものです。
たとえその子が戦場に行くことなど自分からは思いつくことのない人間であったとしても、
いろいろと手を打って連れて行くべきだというのに。
経言は幸いにも生まれつき勇が備わっていてこうして望んでいるのに、
それをお許しにならないのは、子を思う親の道ではありません。
現在名将として名を知られている元春の仰せは、愚かな私の考えとは違うようですね」と、
非常に腹を立てた。

元長は「ごもっともなご意見です」と言って、父の元春へと、母のこの言葉を伝えた。
すると元春は莞爾と打ち笑って、「母と経言の望みは一緒なのか。では一緒に連れて行こう」と、
経言を連れて行った。

同二月八日(正月下旬)、輝元・隆景が津賀に着陣すると、元春父子三人は先陣として赤穴に陣を張った。
ここで出雲・石見の勢が合流して、総勢一万三千余騎となった。
このとき芸陽勢の数が日ごろよりも少なかったのは、大友が豊前へ発向したと報告があったので、
宗像・高橋に加勢を送るために、防長の勢はすべて残し置いていたからだった。
また南条・山田・小鴨・北谷・福頼・福田・小森などは、
武田高信が尼子勝久に一味して伯耆へと攻め入ろうとしていたので、
その押さえとして皆自分の城を守っていたので、一人も出雲へは出てこなかった。
備中・備後の勢の半分は、三村のような自国の敵と衝突していたし、
宇喜多も勝久に同調していて美作の高田表の芦田に援兵を出していることが明らかになったので、
その押さえとして国に残し置かれていた。
また出雲に出張りしてきた者たちも、自分の城が心配で、十分な数の軍士を国に留め置いていたので、
従来の兵数の三~四割にも及ばなかった。

同九日、福山次郎左衛門・遠藤神九郎(秀信)・川添右京亮が五百余騎で籠もっている
多久和の城を攻めようと、元春の一手を先陣として打ち出ていった。
吉田旗本勢も、福原などが馳せ加わった。
敵はこのことを聞いて同日の夜半に城を空けて退却していったが、これを逃すまいと追いかける。
尼子勢はところどころで踏みとどまって抗戦し、戦死した者は七十余人に及んだ。

元春の先陣、杉原盛重の手勢では高橋右馬允・壇上献物・佐田彦四郎・安原神二郎・同民部少輔、
元春の郎党では朝枝市允・小河内石見守・黒目市右衛門・江村源二郎、
高弥三郎・二山美濃守、三刀屋の郎党では坂田彦六右衛門、
吉田勢では南方宮内少輔・井上民部少輔・末国与次郎・羽仁藤兵衛尉・福原宗右衛門、
平賀の手勢では桂右衛門允・東村平内・阿曽沼の若党の井上源右衛門などが分捕り高名した。
吉田衆の井上又右衛門が討ち死にした。
吉川勢にも笠間刑部少輔をはじめとして、怪我人が数十人に及んだ。
川添・福山・遠藤たちは、命はどうにか助かったものの、ほうほうの体で布部へと逃げていった。

鹿介・源太兵衛尉が逃げ帰ってきた者たちに「敵の兵力はどのくらいあるか」と問うと、
「一万五千と聞いていましたが、二万以上はいると思います」と答える。
皆これを聞いて、「臆病神にとり憑かれているからそんなことを言うんだろう」と笑った。

さて元春・隆景は、中国の国侍、そのほか吉田の重臣の福原・桂・志道・口羽に向かって言った。
「今回は輝元が初めて総大将として出陣されているので、
どうにか策謀をめぐらせて敵を引き寄せ、華々しい一戦を遂げさせて差し上げるようにと、
元就公が我ら二人に仰っていた。
敵はおそらく道の途中に物見や物聞きを放ってこちらの陣取りの様子を探らせ、
兵力の規模をつかもうとするだろう。
大勢だと知れてしまえば、敵が城から出てきて戦うことはないだろうから、
敵を誘い出すために、人数が少なく見えるように陣を取り、
また味方の一万三千の勢を一万余騎と発表してほしい。

また、『今回は兵力が少ないので、道中の宿場で一戦するのも危険だ。
まずは月山冨田城に兵糧を入れたらすぐに引き揚げ、再び防長の兵を残らず掻き集めて合戦に臨もう』
というように、敵に伝わるようにしてくれ。
このことは吉田で定められていたことだけれども、敵地に近くなってきたから念を押した。
固くこれを守るように」

案の定、鹿介が石見路から宿泊の宿ごとに付け置いていた忍びの者たちが馳せ帰り、鹿介にこう語った。
「芸陽勢は一万ほど集まっていると聞きました。
防長と備中あたりに押さえのための勢を大勢差し置いているので、
今回はいつもより兵数が少ないようです。
まず冨田の城に兵糧を入れて加勢を籠め、そのほかの味方の城にも、
落城しないように人数を入れて引き揚げるつもりだとのこと」

また石見の一揆勢も鹿介に志を通じている者がいたので、同じようなことを通告してくる。
鹿介・源太兵衛尉たちは、この報告を受けて会議をした。
「元春・隆景は、今はとても勝てないと思って危険な合戦を延期し、
再度大軍を催して必勝の合戦をしようと考えているらしい。
そうはいっても、我らの味方があちこちに抱え置いている城は、
布部・守山・丸瀬・熊野・古志・高瀬・末次など十五ヶ所に及んでいる。
そこに二百や三百、あるいは五百ほど籠め置いている。
もしこれを一つ一つ攻められたならばひとたまりまないだろう。
あちこちの勢を集めて布部あたりに陣を取り、冨田の城へ兵糧を入れようとするところを妨げるようにして、
足軽などを少々けしかけてみよう。

しかし本来なら合戦は避けたいところだ。
味方の勢は五千以上にはならないが、敵勢は少ないとはいっても一万はいるだろうから、
少数の兵で大勢に勝つというのは難しく、いたずらに犠牲を出してしまうだけかもしれない。
これもまた謀の一つなのだ。
戦を慎んだとしても、芸陽勢がはるばるここまでやってきて冨田の城に兵糧を入れ、
引き返そうというのを横目で見ているだけでは、こちらが敵の大軍に臆していると、
敵味方ともに言い募るだろう。
また勇もなく、智謀も十分ではないと世人に嘲笑われるだろう。

だからまず布部へと打ち出て、陣取りを猛勢に見えるようにすれば、
今回はただでさえ隆景・元春は戦を慎もうとしているのだから、
我らが案外にも猛勢だと思えば、それこそ一戦しようなどという気はなくなるだろう。
また、勝久自身がご出陣されれば、尼子家の兵数を敵に見透かされてしまうかもしれない。
だから我らだけで打ち向かって、まだ大将の本陣に大勢がいるに違いないと、
敵に印象付けてやろうではないか」
ということで、勝久を末次の土居に差し籠め、山中・立原などが一千余騎で出発した。

勝久は諸軍勢に向かって、
「毛利勢はここまではるばる上ってきたのだから、きっと痛烈な一戦挑んでくるだろう。
そのとき一番鑓を突き入れた者には、以後の証拠のために、この刀脇差を与えよう」と、
兼光の刀を取り出し、
「味方の中で誰がこれを手にするかな。お粗末な戦をして、芸陽勢に笑われるな。
これまで何度も合戦に打ち勝ち、高名を極めていたとしても、ここで下手を打てばすべてが無駄になるぞ。
どうか皆、身命を惜しまず戦って、武勇の名を上げてくれ」と演説した。


以上、テキトー訳。続く。

え、鹿介さんが謀略を練ってる? そんなことはどうでもいいのだよ。
我が広家ちゃんの初従軍の話じゃまいか。
「経言」ってなってるけど、この時点ではまだ元服してないから、本当は「才寿丸」だね!
ついでに言うと元長もまだ初名の「元資」だったころだね!
それにしても吉川のカーチャン強えぇ!!!
このへんから、次期当主の嫡子の意見より、
現当主の妻の権限の方が強かったんじゃないかなんて邪推してみるけど、どうなんだろうね。

あと「輝元にどうにかして見せ場作ってやらなきゃ」って気を回す叔父ズとか吉田衆、好きです。
実際そのころの輝元→元春の手紙に、
「次の出雲出兵はどうしても出馬したいからよろしく!」みたいなこと書かれてたんだよな。
おそらく隆景にも同じような頼みごとしてるはず。輝ちゃんかわいい。

そんなわけで次回、続きから。
けっこう尼子再興軍との抗戦模様は丁寧に描写されてるみたいだな……

そういえば今日は鹿介さんの現行暦での命日だそうで(旧暦では7月17日)。
2012-08-19

大内残党の末路と一方そのころの鹿

帰省してて更新が止まっていたけれど、今日から再開。
帰省中は鎌倉時代の吉川氏の拠点に足を運んできたよ。
地名に「吉川」「Kikkawa」って文字を見ると嬉しくなるね!!!
まとめるほどの情報量はないけど、まあそのうプチ旅行記をうpしたいと思いますです。

さて久々の陰徳記、だいたいの流れ:
元春・隆景が九州出張中に起こった尼子再興軍の撹乱、及び大内輝弘の山口乱入。
しかし元春・隆景は無事に長府に戻り、まず大内輝弘が成敗された。

今回は輝弘に与した者の末路と、鹿ちゃんたちの動静の二本立てで。
微妙に短い章なのでw


杉松寿丸のこと

さて、輝弘を無事に成敗すると、大内に一味していた者たちは山林に姿をくらまし、
一般の町人や農夫に身をやつして忍んでいた。
こうした者たちは皆あちこちから探し出されて、笠井帯刀・道場など、残らず刑にかけられた。
杉松寿丸は大内家代々の重臣の家系だったので、今回輝弘が山口に入ると、
「大内家が再び花咲く春を迎えられるぞ」と大喜びして一味したのだが、
このことが露見すると、山口から逃げ出して筑前の国に身を潜めた。
元就様はこれを聞くと高橋右近秋種・賀来・福嶋らに「杉を討って首を差し出すように」と下知した。
高橋秋種は杉の居所を聞き出して、杉が忍んでいた民家を五百余騎でくるくると取り巻いた。

杉松寿丸の乳人で久佐弾正忠という者がいた。
久佐は杉の小姓として仕えていた広津新三郎に向かって、こんなことを言う。
「広津よ、これまではどうにかなると思っていたが、
こうして敵に四方を取り囲まれて逃げ道を失ってしまうと、幼主の松寿丸殿を逃げさせ申す手立てがない。
我らには、お供して討ち死にする以外の道はあるまい。
しかし、私は策略をめぐらして敵を騙し、松寿丸殿をお逃がししたいと思う。

それというのも、おまえは松寿丸殿と年齢も一緒で姿かたちもよく似ている。
なので、おまえが一筋に思い切って、『杉松寿丸である』と名乗り、潔く自害してくれれば、
私がすぐに介錯をして、それに続いて私も腹を切ろう。
高橋の郎党たちは松寿丸殿をしかと見知っているわけではないのだから、
おまえの首を松寿殿だと思って囲みを解くだろう。
その隙に主君をお逃がししようと思うが、おまえはどう思うか聞かせてくれないか」

広津はこれを聞いて、
「よくそのような策謀を思い付かれました。私はどうやっても死を免れられません。
そのちっぽけな命を、松寿殿の御身に替えることができるなら、忠臣として望むところです。
久佐殿のよろしいようにお取り計らいください」と答える。
久佐は大いに喜んで、松寿丸に向かい、このことを話した。

しかし松寿丸は「おまえたちの忠勤はとても立派なものだ。
この志にはいつの世にか報いたいと思う。
しかしながら、おまえたち二人を失って、私だけが今ここを落ち延びたとしても、
千年生きられるわけでもなし、死ぬべきときに当たって死なないのは、勇士の恥じるべき行いである。
私も同様に自害して、来世まで及ぶ主従の約束を違えたくない」と言った。

久佐・広津は大いに憤り、「そのような情けないご所存なら、
どうして大内に与し、このような謀反を思い立たれたのですか。まったく不甲斐ない。
昔の、唐の程嬰・杵臼の例をご存じないのですか。
我が国で、浮島太夫が討ち死にして、志田の小太郎が再び世に出てきたことを
お聞きになったこともないのですか。
死ぬことは簡単ですが、命をまっとうすることはなかなかやり遂げられることではありません。
恥を忍んで命をまっとうし、怨敵を滅ぼして、
これまでの恨みを晴らしたいとはお思いにならないのですか」と強く諫めた。
杉は、「それならば、とにかくおまえたちの計略に任せよう」と、鎧を解き捨て麻の衣を身に着けると、
菅の小笠で顔を隠し、そばに立って敵の様子をうかがった。

広津新三郎が走り出て高いところにのぼり、
「杉松寿丸、武運尽きて自害する。これを目に焼き付けて、後々の噂話にでもするがいい」
と高らかに呼ばわった。
見れば、十六歳ぐらいの容貌も清らかで態度も立派な若者である。
これまでは自分の手で討ち取ってやろうと勇み争いあっていた兵たちも、
さすがに岩や木ではないので、「なんと、姿ばかりか心も勇敢な若武者だ。
生かしておいて成長した行く末を見てみたいものだ」と涙を押さえ、静まり返って注目した。

広津が氷のような刀を抜いて腹を十文字に掻き切る。
久佐が太刀を抜いて振り上げたと見るや、水さえも切り割りそうな勢いで広津の首を打ち落とした。
「久佐弾正忠、主君の冥土の供奉をするために、続いて腹を切るぞ。よく見ておけ」と、
立ったまま腹を切って死んだ。
寄せ手は「あっぱれ、なんと強い兵だろう」と関心しきりだった。
この隙に松寿丸はひそやかに忍び出ると、どこへともなく落ちていった。

広津・久佐の行いは類まれなことだといって、
この話は説教・浄瑠璃(古浄瑠璃『しだ』)・小唄に仕立てられ、
これを聞いた人は皆袖を涙で濡らし、憐憫の情を惹起されない者はなかった。


出雲の国、日昇合戦のこと

日昇(登)の固屋には三沢三郎左衛門為清から兵が入れ置かれていたが、
同十二月七日、ここを切り崩そうと、山中鹿介・立原源太兵衛尉・牛尾弾正忠・
横道源介・同権允らが二千余騎で打って出た。
折りしも大雪が降って、どこに道があるのかも見分けがつかない。
けれども途中から帰れるわけもなく、その日は民家に入って夜を明かしたが、
夜が明けてまた打って出てみると積雪に足を深くとられ、
鬚には氷が吊り下がる有様だったので、兵たちは身を縮こまらせて、
弓を引いたり鑓を構えたりすることもできなかった。

しかし鹿介は、「このような大雪の日は、敵もきっと油断して、
帯を解いて薪を切りくべ、身を暖めていることだろう。
こうした不意を突いてこそ、大勝利を得ることができよう」と、雪を踏み分けて攻め上った。

固屋の中には雑兵たちが四百余人籠もっていたので、打って出て防ぎ戦った。
寄せ手は大勢だとはいっても、大雪をしのいで上ってきたので身は凍えて自由に動けない。
固屋の中にいた兵たちは身を暖めて代わる代わる打って出たので、
手足は自由に動いて、弓・鉄砲を自在に操ることができた。

寄せ手の先陣は撃ち立てられて、怪我人・死人が三十余人に及ぶと、退却しそうな気配を見せる。
しかし山中・立原が押し返しながら切り入ってくるので、
三沢の郎党たちは命を惜しまず防ぎ戦ったが、
三沢次郎左衛門をはじめとして、屈強な兵たち七十余人が討たれてしまった。
しかし野尻たちが少しも怯まずに防いでいると、尼子勢も怪我人が数百人に及び、
切り崩すことができずに、敵の首を十四、五ほど討ち取ったのを勝ちとして引き返していった。
三沢も大勢の兵を討たれたが、固屋を落とされなかったことを喜んで、
敵の後追いをすることもなかったので、その日の合戦はこれで終わった。


以上、テキトー訳。

アレかな、乳人が出てきたら主君の切腹フラグなのかな。
厳島で陶さんの介錯したのも乳人だったよね。
ちょっと前に輝弘さんの介錯したのも乳人だったよね!
主君が腹切るときの介錯も乳人の仕事に含まれるんですか!?
オムツしてるころから慈しみ育ててきた我が子のような存在の首を落とさなければならないんですか。
なにそれツラァ……(´;ω;`)
まあ今回の切腹は松寿丸本人ではなくてフェイクだったわけだけれども。

それにしても「松寿殿」って呼び方いいなぁ。かわいい。
元就も秀就も幼名が松寿なんだよね。あと黒田の長政さんも。
ところで「まつじゅ」なんですかね、それとも「しょうじゅ」なんですかね。
毛利博物館ブックレットには「まつじゅ」ってルビ振ってあったけど、
毛利家スキーの先輩方が「しょうじゅ」だって言うんで、どっちなのかわからないの……

でもって、鹿ちゃん。
なんだろう、この熱血体育教師ちっくな雰囲気は。
いやいや、武略で雪の中行軍させてるのはわかるけど、雪とか寒さ対策しとけよ!
そこはかとなく「根性で乗り越えろ」みたいな勢いを感じるよ!

「固屋」ってのは「小屋」のことかなーとか途中まで思ってたのですが、
島根県雲南市の西日登ってところに、「固屋畦城跡」てのがあるみたいだね。へえぇ。
おそらくここのことなのかな。

さてさて、輝弘の乱も終わったことだし、次章から出雲情勢に入るよ!
2012-08-16

大内輝弘の最期

前回のあらすじ:
市川経好の妻が奮闘する話? そんなものはない!
とりま、元春・隆景が九州出征中に山口に凱旋し、あわよくば両川が九州で新出ればいいな、
などと甘い夢を見ていた大内輝弘の目論見は外れ、
帰ってきた元春の軍に追われる身になってしまったよ。

元春が差し向かわせたのは私イチオシの境与三右衛門尉です♪ヾ(。・ω・。)ノ゙


輝弘山口落ち、付けたり最後のこと(下)

境たちも少勢なので、そのまま続けて敵の控えている難所へ上がっていくことができないので、
やがて反対の山に控えた。
そこで、「吉川元春の家人、境与三右衛門と申す者です。
輝弘はもう、とも逃げ切ることはできないでしょう。いざ尋常にお腹を召してください」と声高に呼ばわる。

すると輝弘は、「元春の家中の境殿であるか。
仰せのように、もう命運が尽きてこのような形成に罷りなってしまった。
すぐにでも自害したいところだが、大将にも相対せずに腹を切るのは口惜しく思う。
元春の旗を待ち受けて、とにかくそのときにどうにかしようと思う。
それまでは境殿をお頼み申す。雑兵たちが狼藉を働かないように下知をしていただきたい」と返してきた。
境は、「しかと承りました。どうかご安心ください」と返答して、味方に下知をすると元春の着陣を待った。

その夜は輝弘が茶臼山に陣を構えていたので、「下部の者たちは命を助けてやろう」と騙して、
一人ずつ山を下らせては首を刎ねていたが、
そのうち我もわれもと「命が助かるかもしれない」と兜を脱ぎ、手を擦って降参を請うてきたので、
これらをすべて討ち果たした。

こうなると、後に残ったのは、輝弘の乳人の波多野石見守、そして城井小次郎ばかりで、
主従三人だけになってしまった。
山口の清水の別当は、輝弘が入国したときに
「清水領と伊賀路の高山寺領をいただきたい」と望んで、輝弘がそれを安堵する判物を発行したので、
別当も「もしもうまくいけば」と希望を抱いてここまで逃げ上ってきた。
しかしこうなってはどうにもならないと思ったのか、輝弘が富海から茶臼山へ上ったときに、
道から少し逸れたところに上って腹を掻き切って死んでいた。

明くる二十五日、夜もほのぼのと明けていくころ、
茶臼山を見ると輝弘主従が三人きり、鎧の袖の霜を払いながら心細げにしていた。
その様子は、日が昇るのを待つ間の朝顔に宿る露のような命に思われて、哀れなものだった。
輝弘の声で、「境殿」と呼びかけられ、境は「何事ですか」と答える。
輝弘は、「ほかでもない、元春に頼みたいことがある。どうか丁重に伝えていただきたい。
私が命運尽きて今ここで自害してしまえば、死骸を山野にさらされて行き交う人の草履に汚され、
また馬の蹄に踏みつけられるのはいかにも口惜しい。
どうか供養を仰せ付けてほしいと頼みたいのだ」と言った。

境は「ご安心なされ。そのことはきちんと元春に申し聞かせましょう」と、急いで元春へと使者を遣わした。
その使者はすぐに帰ってきて、元春の返事を境に伝える。
境は大声を張り上げて、「輝弘へ物申す」と呼ばわった。
対する山から「何事だ」と返ってくる。
境が「仰せのとおり、元春へ使者を遣わして伝えたところ、
『輝弘の仰せは承った。左京大夫義長が長府の谷の長福院で自害なされたときは、
すぐにその寺に供養を申し付けてある。
輝弘の御事も、義長と同様に、葬礼そのほか法事などを申し付けるつもりだ』と申されています」と言うと、
輝弘は「実にありがたいご芳志だ。もはや思い残すこともない」と、手を合わせて喜んだ。

元春・元長は馬の歩調を速め、馬に鞭を打って急いでいたが、ほどなく浮野へと到着した。
今回元就様から賜った毛利家の縁起物の旗竿を坂の上へとさっと掲げると、
輝弘はこれを見て、乳人の波多野石見守に向かって、
「どうやらこれまでのようだ。最後の杯を交わそう」と言った。
竹の葉を器にして三度傾けたところ、雑兵たちが自害の準備をしていることを嗅ぎ付けて、
首を奪ってやろうと周囲に集まってくる。
輝弘は大きく目を見開きギッと睨みつけると、
「おまえたち、手出しをしようものなら一人ずつ眉間を切り割ってくれるぞ」と怒りを隠さない。

輝弘は金の笄を抜いて投げ捨て、雑兵たちがこれを奪い合っている隙を突いて、腹を一文字に掻き切る。
波多野石見守が太刀を振り上げたかと思うと、輝弘の首が前に転がり落ちた。
石見守は返す刀で自分の腹を十文字に掻き切ると、
自分の喉を押し切って主君輝弘の死骸の上に、抱きつくようにして倒れこんだ。
城井小次郎も潔く自害して死んだ。

吉田衆の福間彦右衛門・児玉四郎右衛門の二人が
輝弘のそばまでやってきて首を取ろうとしているように見えたので、
境与三右衛門が「輝弘の討手は元春が命じられています。勝手なことはなさいますな」と呼びかけた。
すると二人は「どうしてそのような胡乱なことをするものか」と答えた。
この二人の心栄えは、世人より優れて見えた。

さて、ここで高名した者たちは、吉川衆の今田中務・井上平右衛門・境与三右衛門・山県宗右衛門などで、
そのほかの者たちの働きも加えて、首は七十六に上った。
熊谷の手勢では品川内蔵丞・中山内蔵助・岸添善右衛門・同十兵衛尉・渡辺新五左衛門などで、
討ち取った首は三十四。
そのほか、されこれと手勢ごとに五つや十の首を取り、その数は百五十以上になった。
その後、富海の山や谷をくまなく探し回って、数日後までにあちこちで六十余りの首を討ち取った。

輝弘の首と、その他の首注文(リスト)を添えて、元春から境与三右衛門尉を使者として長府へと送った。
元就様は大いに感心して、境を御前に呼び出して、輝元様も同席しながら合戦の様子を詳しく尋ねた。
そのとき元就様は境に盃を与え、それどころか褒章の禄まで与えてくれた。

元春は浮野から引き返して、防府の国分寺に滞在していた。
このことを伝え聞くと、防長備芸石の一揆はすべて静まった。
そのなかでも徳地一揆には、香川兵部大輔・同淡路守が命を受けて駆けつけ、
猿渡壱岐守・江戸十郎左衛門に言いつけて、一揆の発起人である河村助左衛門父子を騙して討ち取った。
これがわかると一揆勢数百人が一ヶ所に集まったのだが、
そこに攻め寄せて追い崩し、数十人を討ち取って、残った者のうち五十余人を生け捕りにした。
このことは元就様へも伝えられて、主要人物と見られる者十四人の首を刎ね、
残りの者たちは水汲みや薪を切るような下っ端の者たちだったので、一命を助け置いた。

こうして同二十八日、元就様・輝元様・隆景は長府を出発して防府へと到着し、
元春・元長と一緒に安芸へと帰っていった。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

なん……だと、与三右衛門がわりかしマトモだと……!?
まあこれでも吉川の一門衆だし(境吉川氏という分類らしい)、
元長の奉行人なので、筋目はキッチリしてるんだろうな。
え、騙して兵たちの首を刎ねるのは至極まっとうな手段ですが何か、
と思うあたり、私もたいがい戦国の遺風にやられている気がしないでもない。

しかし元春はすげえな。
元春が防府にいると聞いただけで、あちこちの一揆が沈静化したってよ!
吉川系軍記なんだから吉川ageは当然なわけで、正矩に罵声を浴びせないでください!!!

さて、今後も続きを読むつもりだけど、
明日から帰省するので、次回更新は週明けになりそうだよ!
2012-08-15

芸雲伯石捕り物帖

だいたいの流れ:
元春・隆景の九州出征の隙を突いて(大友の撹乱要員として?)山口に凱旋を果たした大内輝弘。
毛利氏の支配に辛酸をなめていた牢人やら、褒章に引かれた有象無象が集まって所帯だけは大きくなった。
「これで立花表の大友軍が元春・隆景を葬ってくれれば……」と脳内お花畑でいられたのもつかの間、
この兄弟、長府に帰ってきちゃったよ!

今回はそんな輝弘さんのお話。分割。


輝弘山口落ち、付けたり最後のこと(上)

さて、山口の鴻の峰へは、長府から加勢として桂左衛門大夫・渡部左衛門大夫などを大将として、
主力の兵を数千騎向かわせたので、城中はとても活気づいた。
元春からも鴻の峰へと山県左京亮・江田宮内少輔・山県宗右衛門・井上甚兵衛尉・
二宮弥四郎・長和三郎右衛門・田岡などという者たちが遣わされた。
城中から吉川式部少輔・市川兵部少輔・同雅楽允が一緒になって、湯田の縄手で大内勢と衝突し、
力いっぱい戦って多くの敵を討ち取った。
味方では二宮弥四郎が討ち死にした。

こうして鴻の峰には援軍が多数加わり、とりわけ元春・隆景が九州から無事に帰ってきたとわかると、
輝弘は「これはどうしたものか」と呆然として、松木・甲斐などを呼び集めて軍議をした。
しかしもう、防長で味方に駆けつけてきた兵たちは一人二人と逃げ出して、
今はたった五千ほどに減ってしまっていた。

元就様は、元春父子に対して輝弘を討伐するように命じた。
元春父子は「かしこまりました」と答えると、出雲・伯耆の勢に熊谷伊豆守などを加えて、
一万余騎で長府を打ち立った。
そのとき元就様は、「この旗竿はあちこちの強敵・大敵を打ち靡かせてきた縁起のいい旗竿だ。
これを掲げて輝弘を退治してくれ」と、元春へ旗竿を贈ったので、
元春は大いに喜んで、あっという間に敵地へと駆けつけた。

元春が討手として十月二十四日に長府を出発し、舟木・山中あたりに陣取ったと聞くと、
輝弘は「これはかなわない」とばかりに山口を逃げ出し、
秋穂・白松へと出て、豊後から乗ってきた船に乗ろうと、馬を急がせた。
輝弘の運の尽き、究極の惨めさとでもいうのか、
長府へ元春・隆景の大軍勢が到着したと聞いて、豊後の船は一艘残らず逃げ帰ってしまっていたので、
そこには船影ひとつ見当たらなかった。
輝弘は仕方なく浦伝いに進み船を調達して乗ろうと考えたが、輝弘に船を貸す者さえいない。
名を惜しみ、義を大切に思うつわものたちは、
道の途中で引き返して敵と渡り合い、次々と討ち死にしていった。

さて、輝弘が山口を落ち、秋穂・白松あたりへ逃げていったと報告があると、
元春・元長父子は山口には向かわずに、途中から進路を変えて秋穂の浦へと輝弘を追っていった。
「輝弘は八百ほどで三田尻の方へ逃げていきました」と土地の者が言うので、
そこからまた後を追って進軍した。

輝弘は小郡から陶・大道・岩渕・賀皮を経て防府へとさしかかり、
浮野を目指して進んでいたが、吉川勢の境与三右衛門春時・山県宗右衛門・井上平右衛門などが
七、八十ほどの手勢で追いかけていた。
右田の嶽の城から南方宮内少輔が手勢百余騎で駆けつけてきて、
これも同じく輝弘の後を追いかけ、熊谷の手勢も品川内蔵丞などをはじめとして数十人が馳せ加わる。

豊後勢のうち、松木入道一佐・甲斐左馬助は要所で引き返して戦ったが、数ヶ所深手を負ってしまった。
もうこれまでだと思ったのか、輝弘に向かって
「できる限り最後まであなたを見届けたいと思っておりましたが、ご覧ください。
深手を負って、もう一歩も進めません。ですからここでお別れです」と最後の暇乞いをして、
二人一緒にあたりの民家に走り込むと、腹を掻き切って枕を並べて死んでしまった。
そのほか秋友五郎三郎・畑野・上之原などという者たちも、皆あちらこちらで討たれてしまった。
早川主馬をはじめとして、防州の者たちは一人残らず逃げ出してしまった。

寄せ手にはここかしこから五騎や十騎ずつ加わって、ほどなく総勢七百騎ほどになった。
境与三右衛門尉は敵と味方の間あたりをたった一人で進んでいたが、
浮野の坂の谷の奥から流れ出ている小川のあたりで、逃げ遅れた敵を一人切り伏せ、
掻き切った首を差し上げた。

輝弘は浮野の坂を過ぎ、富海の浦に出てきたものの、船は一艘もない。
ここから富海の龍文寺へと逃げてその寺に籠もり、一合戦してから自害しようと話し合って、
富海の町へと入っていく。

杉次郎左衛門(元相)は立花の城に籠もる用意をするために自分の城に帰ってきていたが、
輝弘が逃げてくると聞きつけて、野上から五百騎ほどで打って出ると、
椿ヶ峠というところに備えて待ち受けていた。
また周防は由宇の正覚寺の周音も八百余騎で海辺を進んできている。
香川兵部大輔・山県四郎右衛門・平佐出雲守などは、秋の新庄に残っていた吉川勢を掻き集めて、
二百ほどで輝弘と渡り合おうと馬を急がせていた。
これを見て、今まで輝弘に付き従ってきた防長の兵たちは散り散りになり、皆自分勝手に逃げ出していった。

追っ手の者たちは我先にと浮野の坂を越え、素早く浜辺へと下ってくる。
ここで境与三右衛門は井上平右衛門・山県宗右衛門を呼び、
「少し考えがある。しばらくここに控えていてくれ」と言った。
二人が「わけを話せ」と問えば、境は「今富海の浦を見たところ、船は一艘もない。
それに椿ヶ峠の浦の二方向から、誰かはわからないが芸陽方の勢と思しき大軍が進んできている。
おそらく輝弘は、とても逃げ切れないと思って、死を一途に思い定めて取って返すだろう。
取って返してくれば、味方はひとたまりもない。
獣は窮せば噛み付き、猛禽が窮せば突いてくるというではないか。もう少し様子を見ていよう。

敵は一度返した後ならまた勇気が緩むに違いない。
そのとき駆け寄って撃破してやろう。
実を避けて虚を突くとは、こういう場合に用いるものだろう」と答えた。
すると二人も「それもそうだ」と同意して、境と同じく傍の高い場所に踏み上がって様子を見守った。

するとそこに、輝弘は案の定、富海に船が一艘もないばかりか敵が二手に分かれて進んでくるのを見て、
今となっては逃げ場を失った網の中の魚のようだと思ったのか、総勢八十騎ほどで取って返し、
寄せ手に無二に切ってかかる。
寄せ手はあちらこちらから寄せ集められた者たちばかりだったので、
少しも支えられずにほうほうの体で浮野の坂を逃げ上っていく。
しかしそのなかで、主君の人質として吉田に滞在していた三河内の何某という者が、
「無様に逃げるわけにはいかない」と思ったのか踏みとどまって戦い、そこで討ち死にした。

輝弘が坂を上って進んできたとき、境与三右衛門・山県宗右衛門・井上平右衛門たちは、
「吉川の手の者だ」とそれぞれ自分の名を名乗り、傍の高い山から陣形を整えてかかっていく。
輝弘がこれを見て進みかねたところに、この三人と熊谷勢の品川内蔵丞なども加わって無二に切ってかかった。
輝弘は歩き疲れていたこともあり、そのうえ無勢ということもあって、左側の茶臼山へと逃げていった。


以上、テキトー訳。続く。

元就に旗竿もらって大喜びする元春かわいいね。
少数ずつでもあちこちからワラワラと集まってくる毛利勢おそろしいね。
うん。

いやもうすっかり心を与三右衛門に奪われてしまっておってな。
この人好きなんだよ、与三右衛門。
誰が一番とか考えたことはないけど、春継と同列くらいには好き。
キャラ濃すぎる。経家の切腹さえもかすむ濃さ(まだ言う)。

けっこう前にコピッてきていた資料を最近読み直したわけだが、
境与三右衛門は元長の「奉行人」にカウントされてて驚いた。
文書仕事のイメージないなー、なんて思ってたら、奉行人のくせに文書発給はほとんどしていなかったらしい。
元長の傍で何してたの、このフーテン……

ともあれ、次回も与三右衛門の活躍にご期待ください。
あーん(*´∇`*)なんという俺得……
2012-08-13

舞え舞え浦兵部

だいたいのあらすじ:
国もとで尼子残党・大内残党が暴れだしたので、九州に出征してた両川は元就に呼び戻される。
安全に軍勢を引き上げるために、いったん落城させた立花城には
桂元重・坂新五左衛門尉・浦兵部M勝を籠め置いていたが……

元春・隆景の両将は仲良く喧嘩しつつ無事に長府の元就と合流できたので、
今回は立花城に残された面々のお話。


立花城を明け退くこと

さて立花の城に立て籠もっていた精鋭の兵たちは、
敵が退却する中国勢に追い討ちをかけようとすればすぐに打って出て、
無二にかかって戦死してやろうと、勇気を奮い立たせながら敵陣を見守っていた。
しかし敵は中国勢を追いかけるようなそぶりは少しも見せない。
それなら敵はきっとこの城を攻めてくるだろうと、矢束を解き、鉄砲を磨いて待っていた。

しかし敵は攻めてはこず、大友宗麟から吉弘掃部助が遣わされ、
「こたびは中国勢が敗軍したというのに、この城に残り留まられたことは、
実に忠功の至りであるだけでなく、勇もまた世人を超越した行いである。
これを称美しない者はない。
それにつき、先月この城に籠め置いていた立花弥十郎たちの命を取らずに、
こちらの陣まで送っていただいたので、その志に報いるために、
これからこちらに残っておられる三人の方々を無事に長府まで送り返したいと思う。
だから城を明け渡してほしい」と言い送ってきた。

桂・坂・浦は、「仰せの趣は承知いたしました。
どちらにしても、長府に元就父子が在陣しておりますので、飛脚を送って指示を仰ぎ、
その上でどうするかを返答いたします」と返事をして、このことを長府へと言い送った。
すると元春・隆景の両将は、「我らが無事に立花を引き払うためにこそ、その城を守らせておいたのだ。
今となっては、堅守していてもほとんど意味がない。
早々に敵に明け渡して帰ってくるといい」と返事をした。
桂たちは「すぐに城を明け渡そう」と大友へ伝え、
大友から姫島閑斎・大友駿河守など三千余騎が遣わされ、城を受け取って桂たちと入れ替わった。

そして杵月右馬允・秋友式部少輔など数十人が桂たちを送りに出て、
路地に仮屋をもうけて大幕を張り、酒宴を開いて時を過ごした。
宴もたけなわになると、豊後衆一番の舞の達者が立ち上がって一曲舞ってみせる。
豊後衆は鼓を出してきて、「これをひとつやってみてください」と進めるので、
もともと乱舞に堪能だった坂新五左衛門尉が大鼓を受け取ると膝の上にドウと据え、
大鎧を着たまま丁々と打ち始めた。
浦兵部は「一指し舞ってくだされ」と言われると「承った」とばかりに扇をとって立ち上がる。

桂はというと、「こうして打ち解けたようにもてなしてくれているが、
もしや騙して討とうという魂胆ではないだろうか。
物騒な気配を見せれば杵月の眉間を二つに切り割ってやろう」と、
大きく目を見開いてキッと睨んでいたが、はっと声を上げて
「これにつけても人々に 心なくれぞ呉服とり あやしめらるな面々」と謡いだした。
すると宗勝が扇をかざし、足拍子を丁々と踏み鳴らす。
その様子は、漢の高祖が楚の項羽と鴻門で会見したときに、
項壮が剣を抜いて舞ったというのもかくや、と思うほどであった。

宗勝は渾身の舞を舞い納めると、別れを告げて、「さらば」といって、
仲間たちと肩を寄せ合い、虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れたような心持で、
中国目指して帰っていった。


以上、テキトー訳。

敵を酒宴でもてなして無事に送ってやるなんて、大友さんてば侠気の人だなぁ。
領内の寺社仏閣を焼き捨てたり仏像の鼻そいだりするギラギラなそーりんはいつ光臨するの???
こんなことがあって宗麟への印象がよかったからかどうだかは知らないけど、
宗麟も関わっていたというかむしろ主導していたらしい苛政は、
陰徳記では全部義統の業績にされてるよね。

宗麟が桂・坂・浦を無事に送り届けてくれたのは、
先に毛利が立花城を開場させた際に城の将兵をきちんと向こうの陣に送ってやったからなんだね。
自分の行いが巡り巡って自分に帰ってくる、
これが「情けは人のためならず」って言葉の真髄か……

まあそんなことより、今回は扇をさして舞うM勝がツボだった。
なんか妙に笑いが……私はM勝を何だと思ってるのか。
一度はお墓に土下座しに行かなきゃなぁ。

というわけで次章は、大内輝弘の末路らしいよ。
早っ! 市川経好の妻が奮闘したという話は出てこないのかなぁ。
それともこれから出てくるのかな……
2012-08-12

さらば九州、またまみえん!

これまでのあらすじ:
大友輝弘と尼子勝久が両川不在の隙を突いて好き勝手やってるから、
元就トーチャンから帰っておいでの号令が。
ナンヤカヤ役目を決めて、ようやく立花表を引くことになった両川。

つか、こんだけ長く引っ張って、まだ帰ってなかったのかよ!Σ(゚Д゚)
とりあえず帰り際、対陣してる大友勢に「かかっておいでカモォン!」と挑発したら、
大友さんもノリノリな気配だよ。


元春・隆景、立花の陣を引き払わるること(下)

大友家の諸将がこれに同意しようとしたところに、戸次入道道雪はしばらく思案して、こう言った。
「敵の後追いをするのとしないのでは差がある。
向こうとこちらの兵力、虚実の二つをきちんとわきまえて手段を講じるべきだ。
敵の将が臆し兵が疲れ我が軍に恐怖して、夜陰にまぎれて配送する場合、
またこれは日中のことでもいいが、旗を乱し順序を守らず逃げていくようであれば、
言われなくともこの老入道が一番に立って追いかけているだろう。

しかし今敵の様子を見ると、旗はまったく乱れていないし、前後の備えもひどく固い。
それどころか、普通なら忍んで退却するものなのに、
逆に軍使を駆けさせて我らに帰ることを告げたということは、
ここでおめおめと引くことを口惜しく思っているからだろう。
どうにか豊後勢がかかってこないものか、かかってくれば引き返して一戦のうちに勝負を決めてやろうと、
一途に思い定めていると、曇りのない鏡に物が映りこむよりもさらにはっきりとわかる。

それに、城にも軍士を残して籠め置いているように見える。
城中に残っている兵の胸の内を察するに、吉川・小早川は輝弘・勝久などを討伐するために
この地を去らなければならないのだから、防長両国の戦も、半年も一年も時間がかかるはずだ。
再度立花の城を守るためにしゅっぺいはできないだろう。
そうなれば、何の頼りもなく城を守り、豊後勢数万騎に対陣して残り留まるということは、
将兵たちが心を一つに合わせ、生死をともにしようと一途に思い定めている精鋭の者たちばかりだろう。
千騎がたった一騎になるまでも引き退くことなど念頭になく、無二に切ってかかってこようとするはずだ。

この城中の兵にさえ、味方の一陣二陣は手の出しようがなく突き立てられてしまうだろう。
ましてや、元春・隆景にかかったらどうなるか。どうして味方が有利な戦いなどできようか。
今味方の勢を見てただ大勢だということと、また敵が引いていくというだけで、
敵の後を追おうと勇んでいるが、このほかに勝負を利する要因がないだろう。
戦の勝敗は、兵力の大小にはかかわりなく、将兵の勇と和と不和、謀略の当たり外れにある。
もちろん、敵味方の将兵の優劣はないが、敵は今、『早くかかってこい、十死一生の戦をしてやろう』と、
将も兵卒もともに思い定めて、勇気を一にしている。

味方はただ猛勢なのをかさに着ているだけで、また敵が引いていく意図を察しようとせずに、
ただ逃げていくのだと考えて、勝ちに乗るばかりだ。
勇が一致しているかといえば、敵に比べれば三分の一にも達しないだろう。
味方の諸国の武者を集めたこの勢で、芸陽の父子君臣の兵と戦ったところで、
勝てるなどとは、この老入道にはまったく思えない。
敵がこの地を退いていくのを味方の勝ちだと考え、さらに陣を固く守って立花の城を攻め落とし、
それから高橋・宗像を滅ぼして豊筑二国を打ち従えることこそ、
味方必勝の手法なのだと思う」

戸次入道道雪の話を聞いて、田原・蜷川、そのほか佐伯・武田・清田といった人々も皆、
「それがもっともだ」と賛同した。
すぐに諸陣へと軍使が遣わされ、「一人として退却する敵の後追いをするな」と固く軍法を敷いたので、
豊後勢は勇む気持ちを押しとどめた。高橋鑑種も、ここで自分の城へと帰っていった。

さて、前もって定めていたとおり、中国勢の諸軍士は立花を卯の上刻(午前五時ごろ)に打ち立って、
決められた順序を少しも乱さず退いていく。
元春は「それにしても口惜しいものだ」と思い、手勢がすべて出発の準備を整えても出てこなかった。
森脇大蔵が「お早くおいでください」と二度も催促しても出てこない。
三度目に、森脇は無理やり元春の手を取って「おいでください」と強く言ったので、
元春も「では」と言って馬に乗った。
元春はしばらく敵の方をにらんだまま動かなかったが、
こちらから攻めかけるわけにもいかないので、静かに馬を歩かせはじめた。

この日は風が一にも増して激しく吹き、とりわけ寒さが厳しかった。
時雨が誘い落とす木々の葉がホロホロと散って鎧の袖にかかり、まるで錦の衣を着ているかのようで、
故郷に帰る道すがらとしては、先々が頼もしく思える。
しかし雪かと思うと時雨、時雨かと思えばみぞれが降り、風は顔を切るようなほどで、
いくら鞭打っても馬が前に進まない。
下々の人足たちはみんな凍え、通の脇で倒れこむ者が数知れず、多くの者が凍死した。

ここに、堺の町人で山崎屋の宗質という者がいた。
立花表の合戦を心配して、堺からはるばると下向してきていたのだが、
このとき軍勢に混じって帰ろうとしていると、集まってきた人馬の群れに自分の馬をはじかれ、
深田へと落とされてしまった。とにかく足掻いているうちに馬とも離れ、半死半生で倒れていた。
元春は諸軍勢の後に退却していたが、凍死しそうな者たちに薬を与え、
あるいは馬に担ぎ上げて命を助けながら行軍していた。

宗質が泥の中に落ちて身も凍え足がすくんで今にも絶命しそうなところを見つけると、
元春は「あれは宗質だ。誰か、あれを助けよ」と呼ばわった。
しかし寒さは厳しく、乗り換えの馬もない。自分が助けようと言う者もなく、
少し躊躇していると、元春様はしばらく馬を止めて、
「乗り換えの馬が来なければ、私の馬にでも乗せて助けてやろう」と言い出した。
小坂越中守が急いで馬から飛んで降り、宗質を担ぎ乗せた。
こうしたところ、やがて元春の乗り換えの馬が後ろから引かれてきたので、
小坂は宗質をこれに乗せると、自分は元の馬に乗って、後に下がって帰っていった。
宗質がまだ凍えていて命も危なく思えたので、その日芦屋に着いたときに治療させ、
これで命に別状はなくなった。

隆景の手勢は南の国に住んでいたので、多くが凍死して、
元春の手勢の北前の者たちは一人も凍死しなかった。
これを考えると、育ちによって命の有無が決まることもあるのだなあと、人々は口々に言い合った。
宗像は以前から味方に志が厚かったので、兵糧やそのほかこまごました道具を供出して協力した。

元春・隆景の両将は、「若松の渡りが肝要だ。
もしあそこの土地の者たちが一揆を企てて船などを打ち壊せば、諸軍士は退却できずに進退窮まるだろう。
誰かを遣わして船の調達をしてもらわなければ。智計のある者でなくてはこなせないだろう」と話し合った。
そしてたくさんいる者のなかから粟屋東市允を選び出した。

粟屋は両将の命を受けるとすぐに若松へと赴き、その町の年寄りや年行事・月行事などという者を呼び集め、
「少し話したいことがある」と、とある町人の蔵へと呼び入れた。
そこで「人質を出せ、そうしなければ一人残らず討ち果たしてやるぞ」と言ったので、
町人たちは断ることができずに妻子などを一人ずつ差し出した。
粟屋は計画通りに人質を取り終えると、「渡し舟を出してほしい」と本題を話した。
町人たちは皆、「かしこまりました。
こんなことに限らず、何であれお望みのままに協力いたします」と答えて、
すぐに周辺の船を点検して、数百艘の船を供出した。

こうして粟屋がこの船を波打ち際に並べていると、総軍勢が乗り込んだ。
ここで隆景が「立花表では元春が後陣で退いていらしたので、この渡しではこの隆景が後に残りましょう。
元春、先に渡ってください」と言ったけれども、互いに先を譲り合って、結局隆景が先に船に乗った。
元春は諸軍勢が渡り終えてから、手勢の二千騎ほどを率いて、
半日ほど遅れて、長府から戻ってきた船に乗って渡っていった。

さて隆景が一番に長府に着くと、すぐに「ここまで着きました」と告げるために
元就様・輝元様へと使者を遣わした。
元就様は大いに喜び、取り急ぎ対面するだろうと人々は考えたが、
元就様が「元春は」と問うと「まだ後陣にいて到着していません。
すぐにこの地に帰ってくるでしょう」と返事があったので、
元就様は機嫌が悪くなって、「隆景へは、元春と一緒に対面しよう」と言った。
「それにしても隆景は、道の途中で待ち合わせて帰ろうと思うとは言わなかった。
きっと元春がいつものしっかり者の癖を出して、新田義貞が敗軍して天竜川を渡るとき、
橋を切って落とさず近隣の者たちに橋の番を頼んで退却したのと同じようなことをしているのだろう。
こいつは生まれながらにして孫呉の真髄を心得ているのだな」とも言った。こ

うしたところに、同十八日の夕方、元春は隆景に五、六里ほど遅れて長府に到着した。
元就様は大いに喜んで、、元春・隆景に一度に対面し、
立花の合戦のことや、退却時のことを詳しく尋ねた。
その後、吉見・益田などといった国侍、また福原・桂といった者たちにも対面して、
これまでの戦での戦功を褒め称えた。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

こwのw親子wwwめんどくせえwwwww
三河武士ほどではないけどめんどくせえよ!

道雪さんはさすが大友家の雷親父じゃなかった、大友家の良心だよね。
さすがベッキー手ごわい……元春、あっけなく振られちゃったね。よしよし。
まあ大友としては、逃げる両川を追っていらん怪我をしなくても、
立花城さえじっくり落とせればいいしね。
両川を追うメリットがなさそうだわ。

はぁ……家臣に手を取られてようやく馬に乗るフテ春かんわいいわ(*´∇`*)
船に乗る順番すら争う兄弟もかんわいいわ(*´∇`*)
何気に凍死だの何だので景さまsageられてる気がするけど、
まあ吉川系軍記なのでそこのところは大目に見てやってほしいよ。

さて次章、両川に取り残され大友に取り囲まれる立花城のお話だよ!
2012-08-11

元春・隆景「 や ら な い か 」

前回のあらすじ:
元春・隆景が九州で大友とメンチ切ってる隙を突いて、
出雲で暴れまくる尼子勝久(実態は鹿)、そして山口に乗り込んできた大内輝弘。
一揆も多発して、「こりゃヤバイね」と考えた元就は、二人の息子を呼び戻す。
どうにか落城させた立花城には坂・浦・桂の三羽烏が残ることに


元春・隆景、立花の陣を引き払わるること(中)

こうしたわけで、明後日の十五日に立花表を引き払おうということに決まった。
ではしんがりは誰が務めるかという話になり、元春と隆景がしんがり役を奪い合ってしばらくもめていたが、
しばらくして元春に決まった。
そして元春が「しんがりの備えについては、出雲・伯耆・石見の者たちで適任の者に申し付けよう。
隆景は、南前の諸軍士と吉田の旗本勢を率いて退却してくれ。
もし敵が後追いをしてくれば、この元春が一の合戦をするから、隆景が次の合戦をしてくれ」と言うと、
吉見大蔵大輔正頼は、「私は近年大友の押さえとして置かれていましたので、
元春の御手に属して、一番のしんがりはこの正頼が務めましょう。
しかしながら、兵が千人とおりませんから、あの大軍を一身のみで受け止めるとはさすがに言えません。
私は元春の後に引きますので、その後は誰であれ、
出雲・伯耆・石見の兵たちに仰せ付けてください」と言った。
すると元春は「それが一番よさそうだ。
ではしんがりは正頼、その次にはこの元春の手勢から申し付けることにしよう」と言うので、
皆もこれに同意した。

さてこれは十月のことだったので、宵のうちから風が激しく、ときどき時雨れた。
明け方には雪が混じって、外はだいぶ寒かった。
諸軍士は十月十五日の寅の上刻(午前三時ごろ)に兵糧を食べて腹を満たし、
腰に二日分の食料を結びつけた。
「敵が後を追ってきたなら勝負をかけた一戦をしようではないか。
しかし敵は大軍だから、二度や三度の決戦では勝負が付かないだろう。
きっと一日がかりになる」と覚悟した。

さて隆景とそのほか吉田旗本勢が順を追って出て行き、その後に元春、正頼と続く。
合戦への備えとしては、一番に正頼が長門勢を率いてしんがりについている。
二番は三沢三郎左衛門・三刀屋弾正左衛門・益田越中守、
三番は元春の旗本勢に杉原播磨守盛重・熊谷伊豆守、そのほか出雲・石見の勢が六十余騎。
これは正頼の二千騎と二番手の三千とで大友と勝負し、大友は勝っても負けても備えが乱れるだろうから、
元春の旗本が六千騎で無二にかかって、一気に突き崩そうという策であった。
その次に吉田勢、そして隆景と定められた。

隆景は「元春の手勢の戦で敵が負けて引くだろうから、味方が勝ちに乗って備えが乱れるだろう。
そうなれば最終的な勝利が危ぶまれる。
旗本勢一万五千をもって備えを固くし、陣を守って控えていよう。
もし元春の本陣や吉田勢までが乱れて引き退くようであれば、
隆景の旗本勢で、敵の備えの乱れたところに無二にかかって一戦しよう」と決めていた。

五万に及ぶ勢で立花へ出張りしてきたが、出雲・伯耆・備後・石見の城へと先に帰している兵もいる。
また長府へと元長につけて五千余騎を差し上しているので、
今元春・隆景のもとにいるいる勢は三万ほどしかいなかった。
こうして戦の掟や備えの順序を厳しく定めておき、両将から軍使を遣わして、
豊後勢の陣へと引き払うことを言い送ろうということになって、
元春からは境与三右衛門、隆景からは神田右馬允を遣わした。

二人は馬で敵陣近くまでやってくると、颯爽と降りて、
「吉川駿河守元春・小早川左衛門佐隆景がこう申されている。
当陣において興亡をかけた勝負の一戦を遂げようと思っていたところ、
大内太郎左衛門輝弘・尼子勝久などが防州・出雲両国へと乱入した。
まずは自国の敵を退治するために、これからこの陣を引き払う。
これまで数ヶ月も対陣していたとはいえ、ついに田原・蜷川・戸次の人々と、
元春・隆景が直接勝負を決することができないのは残念至極である。
おそらくそちらもそのように思われるだろうから、後を追って打って出られよ。
通の途中で一戦しようではないか。
合戦の勝負の様子を物語りにして、愚父元就への土産にしたい」と、さも声高に叫んだ。

敵陣はこれを聞いて、「芸陽勢こそ武威も尽きて敗北するだろう。
いざ追いかけて討ち取ってやろう」と勇んだ。
しかし豊後の諸将のなかで、戸次道雪がこれを一番に聞きつけて、
「当陣を敗軍なさると仰せられたことはしかと承った。詳しくはこれから申し入れよう」と返事をした。
柳川・田原、そのほか臼杵・清田・佐伯などが馳せ集まって、
「芸陽勢の後を追うか、またはそのまま引かせるか」と話し合った。

吉広賀兵衛尉が進み出て「芸陽勢が威勢も尽きて引き退くのは、
前には我らが猛勢で後詰しており、とりわけ大友家の旺盛な軍事力に恐怖した上、
後ろには輝弘・勝久が蜂起して周防・出雲を掠め取ろうとしているからだ。
だから進むべき道を見失って力を落として退いていくのだ。
勢い盛んに勝ちに乗っているときは、たとえ年来怯将・弱将と呼ばれていた者でさえ、
勇気が湧き上がって猛将と大差なくなる。
いかに勇将・猛将といっても、力が尽きて退くときには、心臆して弱将になる。

したがって、日ごろは智勇全備している隆景・元春であっても、
さっき言ったように他国にはるばると踏み入ってきたものの、
大友の一族が数万騎で陣を張って隙を突いて自陣を破ろうと狙っている上、
自国ではまた大内・尼子があちらこちらで勝利して、
堀を深め塁を固くし兵を集めて恨みを晴らそうとしている。
北条宗鑑(高時)が滅びようとしたとき、赤松・楠討伐のために、一家でことごとく上洛した。
このとき関東では新田義貞が大軍で蜂起して鎌倉を攻め落とそうとした。
今の状況もこれと同じだ。ようやく毛利家の領国が大友に与えられるときがきたのだ。
これを取らなければ後難を招くようなものだろう。

さあ、引く敵の後を追って一人ずつ討ち取ってやろう。
元春・隆景さえ討ち取れば、元就・輝元のことは、輝弘・勝久と示し合わせて、
何の苦もなく滅ぼすことができる。
敵が大軍で引いていくときに、小勢で追いかけて勝利を得るなど、日常茶飯事だ。
ましてや今、引く敵は小勢、追いかけるのは大勢だ。
味方の勝利に何の疑いがあろうか。

昔の赤松二郎入道円心は、わずか三千の勢で六波羅の二万の勢の後を追って、
京都へと攻め寄せたのだぞ。勇将とはこういうものだ。
この大勢で追い討ちをかければ、中国勢は十方へと逃げ散るだろう。
ことごとく首を切り捨ててやろう。さあ早く出発しよう、片時もためらっているべきではない」と進言する。

立花弥十郎などは城を落とされて面目がつぶれたと思ったので、このときの無念を晴らそうと思って、
「宗行の仰せはもっとも至極です。先陣は私が務めましょう。
急いでください。必勝の秘訣は、相手の疲れに付け入るほかにありません」と賛同した。


以上、テキトー訳。もう少し続く。

うひゃぁー、退却するって大変なんだね。戦より面倒そう。
こりゃ元春・隆景が立花退却をすぐに受け入れなかったのもうなずける。
それにつけても、退却するに当たってしんがりを奪い合う元春・隆景、
おまえら仲いいなwww 首は譲り合うくせにチクショー><

元春「長幼の序とかそのへんを考えて、お兄ちゃんにしんがりを譲りなさい」
隆景「長幼の序とか言うんだったら、兄さんが先にお引きください。
   危険なしんがりは私が務めます」

とかナントカ、そんな会話が交わされていたのだろうか(*´∇`*)
これが仲良く喧嘩するということだろうか。
両川兄弟くっそかわいい!!! もうね! ジャンケンで決めればいいんじゃないかな!!!

あとあと、わざわざ大友に軍使をやって挑発するのもイイ!
しかも吉川家中の問題児というか人を食った振る舞いに定評のある境与三右衛門だよ!?
ヒャッホー! 私大歓喜ヾ(*´∇`*)ノシ
「俺たち引くけど、後ろからバッチコイよ大友さ~ん♪ 一発やろうぜ」ってことだろ?
そんなに誘われたら襲わずにはいられないじゃないか……ジュルリ

そんなわけで次回、いきり立つ豊後勢はどう出るか!
楽しみだなー!
2012-08-10

両川の退き口

多くの会社が今日あたりからお盆休みに入ったようで、
通勤で利用する駅が帰省客や旅行客でごった返しててツライよ!
普段ならほとんどいないお子ちゃまとか、赤ちゃん抱いたお母さんとかいるからね。
ぶつからないようにするのに神経磨り減った><
でもちみっこや赤ちゃんに癒された(*´∇`*)
願わくば、故郷や旅行先で楽しく過ごせるといいねー!
お母さんやお父さんたちも、子連れで長距離移動は大変だろうけど、がんばってね!

(だいたいの流れとか、あらすじ的なものは文中にあるので、今回は省略!)


元春・隆景、立花の陣を引き払わるること(上)

さて、出雲では尼子孫四郎勝久が乱れ入ってきてその国を切り従え、
伯耆でも大山の宗徒などが味方したので、国人たちも多くが尼子の下知に従った。
また美作では、市・芦田・三浦などが蜂起して尼子に歩調を合わせ、高田・升形の城を攻めたそうだ。
山口へは大内輝弘が豊後から責め渡り、総勢八千余騎にまで膨れ上がって、
築山に陣を張って防長の通路を塞いでいる。
備後では藤井が蜂起し、江田の一族も密かに回文を回して国中の兵を集めていた。
石見には福屋隆包が戻ってこようとしている、などと、
あちらこちらから櫛の歯を引くように、長府・立花へと注進が入った。

元就様は、「まずは自国の敵を退治しなければ、九州で二島を切り従えても意味がない」と思ったので、
平佐藤右衛門尉(就之)を使者として元春・隆景へと遣わした。
輝弘のこと、また勝久のこと、そのほかあちこちで怨敵が蜂起している現状を伝え、
「まずは立花表を引き払って、大内・尼子といった敵を退治してほしい」と言い送る。

ここで吉川・小早川の両将が話し合った。
「これほど追い詰めて何度も合戦に及んだというのに、易々と退却しなくてはならないとは口惜しい限りだ。
自国に敵さえ蜂起しなければ、城は攻め落としたのだから、
後詰の敵と一戦して切り崩し、豊後まで攻め入って大友を成敗してやるのに、
こんなことになるとは無念で仕方ない。
今からこの陣を引き払うにしても、退き口が大事だ。
しばらくこの陣で敵の出方をうかがわなければならない。
もし城を攻め落とされたことに腹を立てて切りかかってくるなら、勝負をかけた一戦を遂げてから退却しよう。
これには五日から七日はかかるだろう。
その間、元就様・輝元様が少勢で長府にいらっしゃるのは心もとない。
急いで帰って力を添えてやってくれ」と、治部少輔元長を差し上した。

国で敵が現れなかったとしても、大友勢が十二万騎で後詰に来ているのだから、
たった四、五万の兵力ではとても支えられないというのに、
出雲・備後・周防に敵が乱入し、そのうえ南条・米原らを筆頭に、
多くの国人が国もとへと帰ってしまっている。
立花表は兵が減りすぎているのに、ここまで踏みとどまって敵との一戦を心にかけている
この両将の心中こそが不敵であった。

さて、元春・隆景は平佐にそれぞれの使者を添えて送り返し、
「この陣を退却するのは、敵陣がたった十町ほどの距離にあるので難しいと思います。
どうにかもう少し対陣して、一合戦して敵に一塩つけてから、安心して引き払います」と言い送った。
すると元就様はまた「両将が一緒に引けば、敵が後を追ってくることもないだろう。
もし敵が追い討ちをかけようとするのであれば、そのときに引き返して一戦に及ぶといい。
片時も早く引いてくれ」と返事をした。
これによって、両将は立花表を引き払うことに決まった。

さて立花の城が落城したとき、杉次郎左衛門尉貫波を差し籠もらせようということになったが、
そのとき杉は、「かしこまりました。
この城は毛利と大友の国争いの大事な拠点ですので、一旦防州に帰って家人たちを呼び集め、
そのほか長期間籠城できる用意を整えたいと思います」と言った。
両将ももっともだと思って杉を帰したのだが、急に立花表を引き払うことになった。

隆景・元春は他にも宍戸隆家・吉見正頼・杉原盛重・熊谷信直・福原貞俊・
桂元澄・宍道広好などと会議をした。
「この大勢を無事に退却させるのはおおごとだ。どうやったら安全に引き払えるだろう」と話していると、
皆「とにかくこの立花城に軍士を入れておかねばなりません。
そうすれば敵が追い討ちをかけてくることはありますまい」と言う。
「それなら誰を残し置くべきか」と話し合ったけれども、
「これからここに留まる者は、勇も智も人より優れているばかりでなく、
忠もまた千人にも万人にも飛び抜けた者でなければ、そのお役目は果たせません」と、
適任な者を選ぼうとしていた。

中国八国の国侍には智勇が人並外れた者がいるとはいっても、
その者が身命を投げ打って忠節と貫くとは限らない。
とにもかくにも、毛利家恩顧の譜代の者でなければならないと、あれこれと名をあげてみて、
吉田の旗本からは坂新五左衛門(元祐)より優れた者はいないだろうと、一人は坂に決定した。
もう一人誰か差し添えようと話し合っていると、隆景の家中の浦兵部丞宗勝が選び出された。
五万にも及ぶ勢の中からたった二人が豊後の大軍を引き受け、
毛利家のために死んでくれる者だと信じて選ばれるとは、非常に類まれなことだろう。

こうして隆景・元春は、安国寺瓊西堂・山県越前守・井上又右衛門などを遣わして、
この二人の者たちに「この城に残って忠戦を貫くように」と伝えると、
坂・浦は「かしこまって承りました。
当家には譜代の諸士が多いというのに、我々二人を選び出されて仰せ付けくださったことは、
軍事に携わる身の最上の誉れです。お心安くこの陣をお引き払いください。
たとえ敵が何万騎で攻めてこようとも、簡単に落とされるつもりは毛頭ありません。
矢が尽きれば潔く討ち死にして、忠志を貫く所存です」と返答した。
これを聞いて、両将は大いに感心した。

こうしたところに、桂左衛門尉(元重)がこう言った。
「今回この城に残るということは、身命を捨てて両将の危機を救うばかりでなく、
毛利家に対して忠志の深さを表し、また士卒の勇猛さを見せることができる、またとない機会です。
それなのに坂・浦の二人だけが残るのであれば、
世の人は皆『毛利家の家老が一人として残って戦の危機を救わなかった』と言うでしょう。
これはこの数人の老臣の恥辱のみにあらず、ひいては毛利家の名に傷が付きます。

私は年齢でも坂・浦の半分にも及びませんので、戦場での勇名もこの二人とは雲泥の差があります。
私などがこの城に残って何の用に立てるのだろうと、自分自身でも思い、また両将もそう思われるでしょう。
しかし桂の名字を継ぎ、家老の職を許された身ですので、ここに残って死を善道に守りたく思います。
桂と申す者がこの城で忠死を遂げたと世の人の口に上るようになれば、
元就公・輝元公の御ためにもなるのではないでしょうか。
毛利家の重臣が一人も留まらないのはひどく口惜しく感じたので、こんなことを思いつきました。
物の数にならない私ではありますが、桂と申す名字に免じて、どうかこれをお許しください。
この城に留まって忠死を遂げ、年来のご厚恩に報謝したいと思います」

両将はこれを聞くと、「今これほどの急難に臨んで、危険を顧みずにそう望むとは。
忠功のきわみ、剛の至り、まことに極めつけの所存である。
こうしたことをこそ、千人の英、万人の雄と言われるものだろう」と大いに賞した。
紀信が項羽による栄陽城の包囲網を劉邦に突破させるために項羽を欺いたことや、
佐藤忠信が義経を逃がすために身代わりとして吉野山に残ったのも、
和漢万里を隔て、古今先年が経っているとはいっても、その忠志に変わりはないと、
人々は皆桂左衛門を褒め称えた。

そのとき、浦兵部丞宗勝が「上層部は再びこちらの方面で戦をしようと思われるだろうか。
それとも近々にはこちらでの戦はないのだろうか。
使者殿、ご内意を少しうかがってきてもらえないだろうか」と言った。
これに坂新五左衛門尉は冷笑して、「無意味なことを申すのだな。
すでにこの城で戦死しようと一途に思い切ったからには、再戦の有無を聞いても仕方ないだろう」と言う。
浦兵部は、「いやいや、そうではない。
またこの表へ発向されるのであれば、かなわぬまでもこの城を守りきってみせようではないか。
そうではなく、自国の怨敵を追討するのに手一杯で、こちらへの出張りが延期されるのであれば、
ここで無益に死ぬよりは、謀略をめぐらして和睦を結んで命を永らえたいものだ。
本国に帰って体勢を立て直してから、今捨てなければならなかったこの地に舞い戻り、
身命を投げ打って戦おうと思う。これが最上の忠功ではないだろうか」と返した。

坂はこの道理に感服して、「それはもっともだ」と同意すると、
両将から遣わされた三人の使者を通してこのことを伝えた。
両将は、「山口・出雲の敵を討伐するには日数がかかるだろうから、九州への再出兵は延期となるだろう。
皆が赤間関を越えたら早々に和睦して城を明け渡し、無事に帰って来い」と返答した。
三人の使者はこの意を受けてまた浦・坂・桂たちに伝えにきたので、この三名は、
「そうはいっても、十中八九は敵が後を追って攻撃してくるでしょう。
そのときにはこの城を打って出て、できる限り防戦し、義に死んでお家のご危難をお救いしいたします。
もし敵がたとえ追い討ちをかけてこなかったとしても、必ずこの城を攻めようとしてくるはずです。
この三人は一途に死を思い定めているから、易々とは落とされないでしょう。
どうか安心して退却してください」と、頼もしげに答えた。


以上、テキトー訳。続く。

これまで出雲だの山口だのの騒乱を淡々と描いて、ここで集約して九州の立花城に戻ってくる……
ヒイイィィ、こりゃ本当に四面楚歌というかまじでヤバイ状況だよね。
と再認識したところで、元就登場だよ!
九州を捨てきれない息子たちに助言して呼び戻す。さすがだよ!
元春・隆景がてんでガキに見えるよ!!!
この爺さま、負けるつもりなんてまったくないのである。
長府が手薄で心もとないからって、元長を一足先に帰す元春もイイなぁ(*´∇`*)トーチャン……

そんでもって、立花城に残る面々も素晴らしいじゃないの。
特に桂元重。 ※元澄はこのころすでに亡くなっていると思うので、書き間違いか写し間違い?
輝元の元服で理髪役やってキャッキャしてた元澄の孫だと思うと、愛しいのぅ。

あとM勝さん。宗勝というと南条を思い出してしまうので、
浦(乃美)宗勝に関してはM勝と呼ぶことにするw
さすが景さまが信頼を寄せるだけあるわぁ(*´∇`*)
堅実で有能。かっこよろしいですな!

次もドキドキしながら続きを読むよ!
2012-08-09

毛利ピンチ!!!

だいたいの流れ:
九州立花で毛利と大友がガチンコ戦争、虚を付いて出雲に乱入する尼子再興軍、
また周防には大友の後ろ盾を得て大内輝弘が殴りこむ。
そ、そんな、前から後ろから下から……元就、壊れちゃう!?(違う)


仁保合戦のこと

石見の津和野、三本松の城には、吉見大蔵大輔正頼の留守居の者たちが会議をした。
「きっと山口の鴻の峰の市川たちは手が足りないだろう。加勢してやろう」と決まり、
伊藤左近・赤木らを大将として、五百余騎で山口へと向かった。

このことが輝弘に報告されると、「では道の途中で待ち受けて踏み散らせ」と、
城井小次郎・甲斐左馬助を大将として、二千余騎を宮野口へと差し向けた。

この勢と吉見勢は、仁保の坂でばったりと行き会った。
互いに鉄砲を先に立ててしばらく撃ち合いをしていたが、やがて双方ともかかりあって攻め戦う。
吉見勢が少し押していると見ると、この日の大将の伊藤左近が
「ここで勝負をつけるぞ」とばかりに真っ先に進んで戦った。
城井小次郎がそれに渡り合って戦ったが、吉見方は少数である。
結局は戦利を失って、伊藤はその場で討ち死にした。
残った者たちも鴻の峰へ入ることができず、そこから引き返していった。

こうなると、山城・徳地の一揆勢が大蜂起して、徳地で香川宗兵衛尉・遠藤左京亮を夜討ちした。
香川・遠藤はどうにか夜討ちの一揆勢を七、八人切り伏せたものの、
夜半のことだったので家臣たちは寝ぼけており、散り散りになって逃げてしまったので、
二人はついに同じ場所で討ち取られてしまった。
このことで一揆勢は大いに勢いづき、
「坂新五左衛門尉の家城、生見の高松を攻めるか、または山口に向かって輝弘と合流するか」
と議論ばかりして、いたずらに日を送った。


以上、テキトー訳。

この章は短いから、もう一章と一緒に……と思ったけど、
次がかなり長いですwww あきらめたよ_ノ乙(.ン、)_

おおおおお、追い詰められてるな毛利勢。
ヤバイ。これはヤバイ。
国人衆も協力するんだよねー。仲悪いところはガチで仲悪いけど。
とくに吉見と益田はマジで仲悪いけど。
でも毛利の仲介で所縁結んだりして、仲良くする努力はしてるよねw
仲直り後にまたドンパチして、調停役になってた元春がとばっちりで元就に怒られたりしてたけど。
まあこの辺の話は陰徳記ではまだ読んでないので、
どんな風に描かれているのか楽しみにしながら読もうと思います。

次章、いよいよ元就が最終兵器二人の息子を呼び戻すらしいよ!
2012-08-08

大内輝弘、山口凱旋?

前回のあらすじ:
毛利勢が立花表で大友と戦争に及んでいるとき、出雲方面では山中鹿介らによる騒乱が起きた。
またこの機に乗じて、大友宗麟のもとに身を寄せていた大内輝弘が山口に押し入ってきた。
近隣の鴻の峰の城を守る勢は、寡兵ながら、敵の来襲に備えて用心を固めた。


大内太郎左衛門尉輝弘、山口入りのこと(下)

信常・井上は、寄せ来る敵の様子を見極めるべく二手に別れ、
信常太郎兵衛尉は小郡口、井上善兵衛尉は秋穂口へと駆けつけ、糸根あたりに打って出た。
輝弘は糸根口から押し寄せてきたので、井上は敵の五千余騎の兵を見て、かなうはずもなかったのに、
「大勢だからといって一戦もしないで引くのは臆病者だ」と、
人々に指さされて嘲笑われるとでも思ったのか、豊後勢に立ち向かった。

「井上善兵衛尉である」と名乗りを上げて、小高い場所に備える。
寄せ手の先駆けの波多野石見守はこれを見て、
「これほどの猛勢にも少しも臆さず、たった百や二百だけで立ち向かうとは不敵なものだ。
者ども、あれを討ち取れ」と指図し、鑓を構えて突いてかかった。
井上もここが最期の場所だと覚悟して散々に防ぎ戦ったので、豊後勢にも死人や怪我人が数多く出た。
しかし大勢なので入れ替わり立ち代り新手の兵を繰り出してくるので、
井上はとうとうその場所で討ち死にした。

大将が討たれてしまうと、残った兵たちは皆散り散りになって逃げたが、
豊後勢はそれを執拗に追いかけて討ち取ると、そのまま山口へと雪崩れ込んだ。
井上が討たれたのだから、鴻の峰の城中はすっかり落胆し、
すぐに城を攻められば難なく攻め落とされるだろうと思われた。
しかし輝弘は少しも城を攻めようとはせず、築山の館へと入って本陣を構えたので、
豊後の諸軍勢は皆町屋に押し入って陣を張った。

そして五百人や千人ほどで二、三里ほどの距離を練り歩いて、
「元春・隆景は立花表の戦に勝利できず、そろそろ敗軍しそうだ。
たとえそこを退却してきても、若松・芦屋をはじめとして、
豊後から五千や七千ずつ軍兵を差し出して道をふさげば、一人として無事に帰ってこれないだろう。
そうすれば毛利家の滅びのときがやってくる。そして大内再興のときが来る。

よく聞け皆の者、琳聖太子から二十七代の旧交を忘れずに味方に属すならば、
田夫農老には田畑を作る税を免除し、永代にわたるまで各家の所有物にしてやろう。
町人たちにはそれぞれに応じた金銀を与えよう。
武士は上下を問わず、毛利家から与えられた所領の倍の給地を宛行おう。
大内家の武士で、元就に従わずに民間で時を過ごしてきた者には、
義隆・義長二代の所領に、また倍の加増をしてやろう。
もしまた味方を裏切った者があれば、妻子や一族までことごとく首を刎ねてやる」と触れ回った。

輝弘は九(十)月十一日に秋穂に着き、同十三日に山口へと入ったが、
もう十四日には近辺の一揆勢が少しずつ集まってきていた。
同十七日には、笠井帯刀・同新六が一味したので、
輝弘は「長門に五千余貫の所領を与える」と記した書を出した。
これをはじめとして、橋上・宇野・清水の別当快山・道場の何某の上人などが、我もわれもと付き従った。
そのほか、海辺の浦里野原の一揆、守山・島田の河村・室津の矢野などという者たちも志を通じてくる。
また須々万、鞍懸で親を討たれ子を討たれた者たちも多かったので、
この恨みを晴らそうと、あちらこちらから駆けつけてきて付き従ったので、総勢八千余騎にまで膨れ上がった。

輝弘の威は、まるで龍が水を得たかのようになり、再び大内と仰ぎ見られ、
国中を手中に収めたので、槿花一日の栄(きんかいちじつのえい、儚い栄華のこと)とは言いながら、
このときは実に勇ましく見えた。
けれども手勢を百人と持った武士は一人も従わず、
ただ、何とかの郷の庄屋だとか、どこだかの町の酒屋の何某、
または何とかいう寺の法印阿闍梨などという者ばかりだった。

輝弘は最初こそ、杉・内藤といった大内家の武士が馳せ集ってくるだろうと考えていたのだが、
皆元就の徳に懐いて、大内には靡かなかった。
輝弘は考えていたことと違ったので、戸次・松木・甲斐・城井・波多野などを呼び集め、
「こうして無駄に山口にいても仕方がない。敵を滅ぼし国中を打ち従える策を立てたい。
元就・輝元は長府に陣を据えている。どうにかして攻め寄せて一戦したいものだ。
皆はどう思う」と意見を求めた。

松木入道一佐は「こうして築山の館で無駄に日を送るよりは、
鴻の峰をすぐに攻め落としてあの城に籠もり、
軍勢を分けて右田の坂を切り塞いで防長の通路を遮断した方がいいと思います。
そうでなければ、元就・輝元を討伐すると触れ回って、味方の一万にも及ぶ勢で
秋穂・白松へと打って出、厚東の塩降松のあたりに古城があるのでそこを本陣とし、
警護船を秋穂にかけ並べ、この八千人の兵を千か二千ずつ、舟木・阿佐方面へと向かわせて、
周防から長府への海道を塞ぐべきです。

もし元就・輝元が長府から攻め寄せてくるならば、願ってもないことなのですから、
興亡を決する合戦をするべきでしょう。
また、元就に兵がなくて攻めてこられずに、そのまま陣に控えているようなら、
海陸から長府へ攻め寄せて、一気に攻め破ってしまいましょう」と言った。
これは、聞く分にはなんとも勇ましい謀略のようではあったが、
後から聞くと、「もし戦に勝利できなければ、
船を引き寄せて取り乗り、豊後に帰るにしても、ここにいたのではそれも難しい。
山口の山中に籠もっていては、豊後に帰れないだろう」と思ってこう言ったそうだ。

こうしたところに、戸次内蔵太夫はこれを聞いて、
「立花表の合戦は、必ず豊後方が勝利するでしょう。
あの表で吉川・小早川を討ち果たしていれば、宗麟はそのまま長府へと攻め上っていらっしゃるはず。
そうなれば、いかに猛々しい元就でも、ほうほうの体で逃げ帰っていくでしょうから、
それを追いかければ何の手間もなく討ち取ることができます。
長府にも、少しとはいえ、兵の七、八千はいるでしょう。
それに対して味方に集まった寄せ集めの勢を頼りにして、八千や一万で渡り合っては、
なかなか勝負は難しいもの。

また鴻の峰の城を攻めて、あたら兵を損なうのもどうかと思います。
ただ立花表の味方の勝利報告を待って、危ない戦を慎んでいるのがよろしいと思います。
これは戦わずして勝利を得られる手段になりましょう」と言った。
城井も波多野も、これに同意した。

輝弘は、「立花の戦の勝利報告をいたずらに待ち続けるのは、
一見勇が足りないように思えるが、皆の意見だ。
もうしばらく待ってみようではないか」と言った。
それから山口への入り口のあちらコちらに逆茂木を備えさせたり、堀を作らせたりなどした。
また、築山の館の周りにも塀を取り付けて堀をこしらえ、矢倉を構えて堅固に用心した。

松木一佐は、「どうして堀など構える必要があるのか。
元春・隆景を立花で仕留めれば塀も格子も用無しだ。
また、元春・隆景が九州を引き払って帰ってくるなら、鉄の城に籠もったとしても何の意味もない。
長府へと下るか、鴻の峰を攻めるかするべきだ。
そうでなければ海辺に陣取ればいい。
勝てそうならば打って出て中国を切り従え、負けそうになったら速やかに退却して豊後に帰れるではないか。
それなのにどうして今、山口に柵を結い、矢倉を構えるのか。将
も兵も暗愚だ」と言って頭を掻いていた。


以上、テキトー訳。この章はここまで。

んー、ということは、輝弘側のソースは松木さんなんかな。
松木さんが後に吉川に召抱えられたかどうかなんて調べもついてないけど。妄想だよ!
どうでもいいけど「てるひろ」と入力すると「輝広」と変換されるMy環境は致し方ないね!
いや「輝ちゃん」とか「広●」とかよく打ってるからね。
腐った意味じゃないよ。
腐った意味では脳内輝様が動いてくれないんだよ!

まあそんなこたどうでもいいや。
なんとなくうっすらつけた知識では、市川経好妻が采配をふるって城を守備する、
って話がこのあたりじゃないかと思ってたんだけど、いつ出てくるのかね。
女傑オイシイよ女傑(*´∇`*)ハァハァ

でも次章は女傑に関係なさそうな小競り合いの話っぽい。
2012-08-07

大内家とりかへばや物語

だいたいの流れ:
毛利両川が九州立花に出征して大友とガチンコのにらみ合いを続ける中、
出雲では山中鹿介らが尼子勝久を奉じて蜂起、あちこちから味方を集めて快進撃!
どうやら山口にも騒乱の種が芽吹いたようですぞ。


大内太郎左衛門尉輝弘、山口入りのこと(上)

大内太郎左衛門尉輝弘というのは、大内左京大夫義興の父、政弘の子である。
その政弘は、老齢に達するまで自分の子ができなかったので、このことを深く嘆いて神仏に願を立て祈った。
そのおかげか、ようやく晩年にいたってから、
御台所がなんとなく寝付いてしまって具合が悪そうになってから、すぐに懐胎した。
政弘は大いに喜んで、「どうせなら男子が産まれないものか。
大内家を相続させたいのはもちろん、軍事に携わる身で、女子だけいて男子がいないのでは困ってしまう。
どうか男子が産まれないものか。大内の介と名乗らせたい。
男子を一目見れれば、もう死んでもこの世に悔いはない」といつも言っていた。

こうなると御台所も、「自分の身はどうなってもいいから、
胎内に宿っている子が男の子でありますように」と、一途に心に願っていた。
そして臨月がきて無事に安産したが、急いで取り上げてみると、
成長すれば「輝く日の宮」とも言われそうな女の子であった。
するすると産まれてきたことは嬉しく思われたが、玉のような男の子ではなかったのを口惜しく思い、
どうしたものかと考え込んでいた。
するとそこにとある名家の公家が一人山口に下向してきて、長年住んでいたが、
田舎住まいの憂さを晴らすために一人置いていた妾がこのほど懐妊し、同日に男子を出産した。

政弘の御台所はなかなか機転の利く人で、そこでハッと思いついた。
「その公家の子と我が子を取替えてしまいましょう。
私がついに男子を産めなかったら、いずれは誰の子であれ、
人の子を養って自分の子にしていたでしょう。
これなら今人の子を我が子にしてしまっても同じことです。
それに、ある程度成長してしまった子を引き取れば、
その子は私たち夫婦が実の親ではないとわかっている。
この赤子のうちに人知れず取り替えて自分の子にしてしまえば、
こうしたことは誰かが指摘したとしても信じないでしょうから、私たちを実の親だと思うでしょう。
これはもう、その公家の子と取り替えるしかありません」と考えて、
このことを密かにその公家に言い送り、
「どうかこのことは、露ほども他人に漏らされますな」と固く口止めをした。

その公家もまた、自分の子が日本一の大名となれるのを嬉しく思ったので、
すぐに了承し、すぐに取り替えると、このことを人に語ることはなかった。
政弘はこれを夢にも知らなかった。
非常に喜んで、人々も皆、弄瓦之喜(ろうがのよろこび、女子が生まれること)の祝辞ではなく、
弄璋之喜(ろうしょうのよろこび、男子が生まれること)の賀詞を述べてきた。
これがすなわち、左京大夫義興のことである。
ある人が言うには、その公家の子は三日ほど前に産まれていたものの、
政弘の御台所がかねてから「こうした事情がある」と言い断って、
「もし私の子が女子であれば取り替えてほしい」とそばに呼び寄せておき、
女子を産むとそのまま取り替えたので、政弘はまったくこのことに気付かなかったのだという。

その御台所は、続けざまにまた懐妊し、今度は男子を産み落とした。
これこそが、この太郎左衛門輝弘である。
はじめは寺に入って氷上別当となり、尊光と名乗ったが、とある事情があって還俗し、
氷上を知行していたので、氷上太郎とも、大内の太郎とも呼ばれた。
その後、都督義隆卿の代になると、こう讒言する者がいた。
「太郎高弘は、いつもこんなことをおっしゃっています。
『私こそ大内の本当の子孫だ。義興はさる子細があって、多々良の血統を引いた子ではない。
だけれども、すでに父の政弘が嫡男に定め、当家を譲ったからには仕方ない。
今の義隆がこのことを知っているなら、防長豊筑のうち一国か、せめて半国は私に与えてくれるべきなのに、
わずか氷上の郷だけしか与えられないとは口惜しい』と呟かれ、
太守に対してそれはそれは恨みを抱かれています。
もし国に大事が起これば、太郎殿はきっと、すぐに大内家を狙ってくるでしょう。
これでは、獅子の毛についた虫が獅子の肉を食うようなものでしょう。
あのおお方とは御心を置いた方がよろしいと思います」
こんなことがあったので、義隆卿と高弘との仲は悪くなった。

高弘はこのことを伝え聞くと、義隆と仲たがいしてはどうにもかなわないと思ったのか、
密かに山口を出奔した。
義隆はこれで「高弘は逆意が隠しおおせなくなったと思って逐電したのだろう。
二人の子供を探し出して殺せ」と命じ、後に後ろの川原で子供たちの首を刎ねた。
高弘はそれから京都に上り、光源院殿(足利義輝)へとこの訴訟を起こして、
自分に罪がないということを涙ながらに訴えた。
大樹(将軍)もそれはそれは不憫に感じて、
太郎左衛門尉にかたじけなくも「輝」という下の字を与えたので、高弘は改めて輝弘と名乗ったのだった。

輝弘はそれから出雲に下って尼子に身を寄せ、義隆卿に復讐しようとしていたが、
義隆が陶隆房によって殺されてしまったので、世俗のことわざに言うように、
「疫病神にて敵を取る」と喜んだが、これで大内家が断絶してしまうことを嘆いていた。
ここで冨田七年の籠城のときも、六年までは耐えていたが、
兵糧が尽きて飢えてくるとどうしようもなく、忍んで城の裏から出て、
しばらくの間は同国の杵築に潜伏していた。
それから豊後へと下り、大友金吾入道を頼ると、入道は輝弘を婿に取り、あれこれと世話を焼いた。

そうして今輝弘は、この乱に便乗して、豊後から松木右衛門大夫入道一佐・
甲斐左馬助・城井小次郎らとともに、波多野石見守・戸次内蔵太夫などを主力の兵として、
五千余騎を率い、豊後の国の鶴崎(木村の浦とも)から船に乗り、
長門(周防)の国の秋穂白松へ上陸した。
ここに陣を据え、そこから山口へと攻め入るつもりだった。

山口の鴻の峰の城には、市川式部少輔経好を大将として、
内藤新左衛門(就勝)・山県備後守・児玉宗右衛門・黒川兵部をはじめとして、
主力の兵士が七百余騎立て籠もっていた。
また町方の押さえには信常太郎兵衛尉・井上善兵衛尉が置かれていた。
輝弘が山口から攻め寄せてきたとあちこちから櫛の歯を引くように報告が入ると、
城中では、「きっと敵は一番にこの城を攻め破りにくるだろう。
皆、持ち口を固めて一歩も引かず、城を枕に討ち死にしようではないか」と話し合い、
弓・鉄砲を矢間に引っ掛け、鎧の上帯を締め、兜の緒を締めて待ちかけた。


以上、テキトー訳。続く。

どどどどど、どういうことなの((((゚Д゚;))))
義興が政弘の実の子じゃないって、初耳なんですけど。どうしてこうなった。
あと、高弘と輝弘ごっちゃになってんぞ。そこは父子だろ。なして同一人物……
岩国だって大内の支配下にあったんだから、大内に詳しい古老はいただろうに、
ホントどうしてこんな話になったのか。

愚考をめぐらすに、大友が輝弘の大内家継承権を正当化するためにフいたのがこの説だった、
といったところだろうか。
それが共謀していた尼子再興軍に伝播し、後に吉川に入った旧尼子家臣が伝え、
陰徳記に記載された、など……妄想だけどね!

いろいろ気になりつつ、以下次回!
2012-08-06

備後方面情勢

さてさて、まだまだ続く尼子の撹乱。

備後の国神辺城合戦、並びに防州関所城合戦のこと

備後の国の神辺の城は、杉原播磨守盛重の家城だったが、自身は九州へと行っていたので、
留守代として荘原肥後守という者を置いていた。
こうしたところに、同国の住人の藤井能登守入道皓玄が尼子勝久に味方して、
備前・美作の兵を集め、永禄十二年八月三日、総勢五百余騎で夜中に突然攻め寄せ、
鬨をドッと上げて攻め入ってきた。

荘原は思いも寄らないことだったので、鎧を取って肩にかけると、
一の城戸口へと打って出て、命を惜しまず防戦する。
左右に立っている兵と一緒に八人まで打ち倒したが、荘原も三ヶ所傷を負った。
そのほかの城中の兵たちは皆寝ぼけて物の用には立たず、
ただ騒ぎまわるだけだったので、敵はしめたとばかりに攻め入ってくる。

荘原は一の城戸が破られるどころか本丸も危ないと思えて、
潔く自害しようとしたが、前原入道がこれを止めた。
「あなたが自害してしまったなら、播磨守殿のご子息たちは、皆敵の捕虜にされてしまいます。
急いで一方を打ち破ってお逃げください」と言われると、
荘原もこれに同意して、播磨守の次男、八郎景盛を連れ、一方を打ち破って落ち延びた。
敵はしきりに追いかけてきたが、主を無事に逃がそうとして、
高橋の何某などがあちこちで足を留め、敵と渡り合って討ち死にした。

藤井はやがてこの城に入ると、なおも近郷を打ち従えようとしていた。
荘原は手を尽くして養生し、ようやく傷が平癒すると、杉原の家人たちを集めて、
神辺の城を取り返すために、攻めかけようとしていた。
そこに、楢崎三河守(豊景)が、嫡子の弾正は立花へと下り、
自身は隠居した身ではあったが、末子の少輔三郎を連れて、杉原の家人と一緒になって、
同じく神辺の城へと押し寄せた。

藤井もかねてから予期していたことなので、矢間を開いて弓・鉄砲を散々に撃ちかけ防戦したけれども、
荘原は先日城を落とされた恥を雪ごうと、射られても切られてもひるまずに攻めかかる。
楢崎も無二にかかっていき、少輔三郎は怪我を負い、そのほかの郎党も多く討たれてしまっても、
まったく気にかけなかった。
城中の兵が防ぎかねて甲の丸へと逃げていくと、逃すまいと追い込み、
その勢いのまま、ついに藤井を討って城を取り返したのだった(八月七日)。

また、防州は岩国の関所の城には桂兵部丞が籠もっていたが、
同国の山城の一揆勢が大規模に蜂起して、関所の城を稲麻竹葦のように隙間なく取り囲んだ。
兵部丞はどうにもかないようがなく思えたが、急にハッと思いついて、
二、三十人ほどいた一揆勢の人質を拘束すると、塀のところに楯のようにしてくくりつける。
一揆勢が矢を放ち鉄砲を撃とうとすれば、敵を撃つのではなく、
逆に自分の妻子を殺してしまうことになるので、弓・鉄砲を撃ち止めにして、何もできずにいた。
こうなってはこの城を攻め落とすことができず、皆引き揚げていった。
桂の飛びぬけた智謀によって、城は固く守られ、虎口の難を逃れることができた。


以上、テキトー訳。

うーん、杉原さんてのは、けっこう重要なポジションに思えてきたわ(いまさら
荘原ってのは、その後吉川の直臣になったのかな?
杉原家滅亡後は、杉原衆をだいぶ吉川家が召抱えたようだけれど、
まだこのあたりは調べてないんだよな。
やはりそろそろ分限帳が欲しくなってきた……
分限帳に手を出すと、ズブズブ深みにはまっていきそうで怖い。

まあこれでなんとなく、毛利の味方と尼子の賛同者がそろってきた気がするけど、
次回、いよいよ大内の亡霊(?)が動き出す……!
2012-08-05

万死一生の春継

ところで昨日は隆元と黒田長政の命日だったわけですが……
追悼と称してお友達とお酒飲みつつ毛利語りをしていたので、帰宅後すぐに寝入ってしまいまった。
あとプロレス見てきた。すげえ燃えた……(*´∇`*)アヘェ

さてさて陰徳記、前回のあらすじ:
美作は高田の城を守備していた香川一族は、尼子再興運動に加担した国人衆や備前勢の猛攻を耐えしのぐ。
九州出征から戻ってきた香川春継も戦線に加わり、城中から寝返った者を成敗して勇を顕す。
と、敵は春継の若さゆえの血気盛んな性格を利用し、伏兵を多数配置しておびき出し、討ち果たす作戦に。
高田勢は多くが討たれ、退却を余儀なくされるも、春継は一人ススキの群生地に隠れて
追いすがってくる敵を待ちうけていた。


玉串監物討ち死にのこと(下)

高田川の方へは、牧野勘兵衛尉が千騎ほどで高田勢を追ってきた。
この方面では玉串監物が機に乗じて城に乗り入ろうと思ったのか、
小具足だけをしっかりと身に着けて、一丈ほどの鑓を下げ、
味方より五、六段ほど先に立って、岩の迫田のほとりをひらひらと飛び上り、一息に進もうとしていた。
後ろを見ると、手勢の兜が八百ほど真っ黒に群れて続いてくる。

香川兵部大輔は、「ようやくここに敵が来たな」と思い、ススキを押し分けてツッと進み出た。
玉串が「誰だ」と問うと、「香川兵部大輔」と名乗った。
玉串も「私は玉串監物だ」と名乗りを上げ、無手と渡り合う。
兵部は、敵の後陣が追いついてきたらとてもかなわないと思い、鑓を合わせたと同時に無二に突きかかった。
玉串の命運が尽きたのか、鑓は草摺を引っ掛けて細腰の後ろにズンと突き抜ける。
これまではまるで鬼神のように勇んでいた玉串がさすがに膝を折って倒れたところに、
兵部大輔は首を取ろうと太刀を抜いて一打した。
しかし後陣の大勢がすぐそこまで迫ってきていたので、太刀を鞘に収め、
サスカラを抜いて玉串を突き伏せた場所に目印として置き、鑓を取って構えて敵を待ちかけた。

猿渡壱岐守も引き返してきたところ、新左衛門という中間が足首を切られ、
足が立たなくなってそばに倒れていた。
新左衛門が「壱岐殿、兵部殿はあそこで鑓を合わせていらっしゃいます。
名乗りを聞いたら、相手は玉串と名乗っていました」と言うと、
壱岐守は「心得た」と答えて兵部のところに駆けつけた。
そして玉串の後から来た敵二人のうち一人を引き受け、突き退ける。
宗像ももう一人と渡り合って突き倒した。

大勢の敵が兵部を取り巻いて、これはたちどころに討たれてしまうと思えたが、
敵は兵部と渡り合おうとはせず、玉串の死骸のそばに集まって、
蟻などが物を運ぶような様子で、大勢の手で玉串の死骸を持ち上げると、そろそろと引いていった。
別の場所では、香川佐渡守・同石見守が牧野の手勢と戦い、敵に二人がかりで鑓を突き立て、
「兵部殿、ご覧になられたか」と言葉をかけた。
この方面の敵も、玉串が討たれたのを見ると、戦線を支えられずにさっと引いていった。

先陣の勢がこうして突き崩されると、後陣の長船・斉藤なども進むことができずに兵を引き揚げる。
敵がもしそのままかかってきたなら、兵部はたちまち殺されてしまっていただろうに、
軍神の加護があったのだろうか、万死に一生を得ることができた。不思議なものである。
兵部の父の美作守はこの働きを見て、兵部の手を取り、
「死んだと思った者が蘇ったかのようだ」と、嬉し涙で鎧の袖を濡らした。

こうして、「芦田たちの勢はもうすべて退却してしまったのか、
それともまた二陣の備前勢が引き返して攻撃してくるのだろうか」と思っているところに、
土俵空穂のついた武者が一人近付いてきた。
「もしや敵か」と思えばそうではなく、品川市右衛門であった。
「敵はもう皆引き揚げました。私はあの山の方まで後をつけてそれを見届け、帰ってきたのです」というので、
城中の兵たちは、皆安堵に胸を撫で下ろした。

この品川は、安芸の武田の一族だった。無双の大勇者で、特に弓が達者だったが、今回も敵を数人射伏せた。
先年武田が滅亡したときは若狭へ行って武田義統を頼っていたのだが、
義統が丹後の一色の城を攻めたときは、敵の中に、矢間の脇に刺さった矢を内側から手を出して抜き、
その矢で射返してくる者がいた。
この者は精鋭の手利きなので、寄せ手を数多く射伏せた。
義統が「あの敵を射殺せ」と弓衆に命じ、総攻撃させても命中しなかったが、
品川が「私があの敵の手を射抜いて、塀へ縫い付けます」と申し出た。
義統は「そんなことできるものか」と思いながらも、「ではやってみよ」と命じる。

品川は矢を抜いて構え、まず矢間の脇から七、八寸ほどのところに射つけた。
敵がまた例のごとく内側から手を出してその矢を抜こうとしているところに、
二の矢を番えてヒョウと放つ。
この矢は過たず敵の敵日を射抜き、敵の手首を塀へと縫い付けた。
味方が「あっ、命中したぞ」と感心していると、品川はまた矢を構えて、その敵の脇つぼをズンと射抜く。

義統は「奈須与一が扇を射抜き、本間(孫四郎左衛門忠秀)が空を飛ぶ鳥を射落としたなどということは、
昔の物語では聞いていたが、こんな精鋭の手利きが、今の世に二人といるとは思えない」と、
大いに感心したそうだ。

その後、高田の城にはまた敵が押し寄せてこようとしたけれども、
この戦で塩をつけられたためになかなか進めず、
それに田治部大蔵はこの城にいて、子供や一族が敵方に加わっていたので、
敵も父子が内応しているかもしれないと疑念にとらわれていたので、戦いを慎んだ。
その後、益形にいた牛尾豊前守と示し合わせて、三浦の一族をことごとく討ち果たした。
玉串が打たれた場所は「香川の鑓場」と名づけられ、里村の農夫たちも田畑にはせずにそのままにしておき、
今でも草がぼうぼうと生い茂っているとのことだ。


以上、テキトー訳。

あぁんさすが広家の執事(*´∇`*)
春継ファンって会ったことないけど、どこかにいたりするのかしら。いるといいな。
あ、ちなみに「広家の執事」は私が勝手に名付けたわけではないです。公式です。

春継のとーちゃんも可愛らしいな。
あまりの状況に、生きて帰ってくるはずがないと思ってた次男が帰ってきて、
嬉し涙に袖を湿らす……かわいいのぅかわいいのぅ。
この光景さん、たしか厳島合戦では、端城の守備任されてたのに独断で厳島に渡り、
なかなかの戦功を立てて、元就に「よくやってくれたけど、おまえ別のところ担当だろ」って言われてたなw
そんで「城の1個や2個、不在中に乗っ取られたとしても、また取り返せばいいんです!
毛利のご一族と命運を共にするのが私の奉公です!」って言い切って、
元就のことやり込めてたっけwww
そのときは「妻子が殺されたとしてもしょうがない」みたいな態度だったのに、
やっぱり息子のことがすごく大事なのね……(*;∇;*)ホロリ

品川さんの武勇伝もなかなかでんな。
品川というと、広家の側室の一人が品川氏だっけ。就頼を産んだ人。
それでかっこよく描かれているのかな、なんて思ったが、野暮だねw

さて次章は備後の合戦だよー!
2012-08-02

高田勢の勇み足

だいたいの流れ:
毛利勢は総力上げて九州立花に出征中。
出雲では山中鹿介が尼子勝久を奉じて挙兵し、絶賛勢力拡大中。
そんななか、美作の高田の城も宇喜多勢などに狙われて難局に立たされ、寝返りが続出。
九州に行っていた香川兵部大輔も加わって、どうにかしのいできた高田勢だったが。


玉串監物討ち死にのこと(上)

三浦・芦田などは会議をして、「香川兵部大輔は、九州で高名を挙げたからといって、
自分の勇を誇って、佐伯を自ら討ち果たしたのだろう。
歳がまだ三十にも満たないから、血気盛んで勇猛さを自慢にし、戦を慎むことをしないのだろう。
これは騙すにはもってこいだ。
明日はあちこちに伏兵を置いて、まず少数の兵で引き付け、
方々から取り囲んで、一人残らず討ち果たしてやろう。
兵部は一番に打って出てくるだろうから、これを殺すのは何よりも簡単だろう」と、
さもその場に臨んでいるかのように話を詰めた。

城中では「また牧野・玉串が、ややもすれば山下へ攻め寄せてくるだろうから、
伏兵を置いて討ち果たそう」と、同六日(永禄十二年十月)、
牛尾太郎左衛門・足達十兵衛尉・品川市右衛門・香川の郎党門田弥次郎・
香川右衛門太夫・同石見守・芥川・江戸・材間などの五百余騎が三ヶ所に伏して、
敵はまだかと待ち受けていた。

こうしたところに、今度はまた牧野・玉串が二手に分かれて高田勢を引き付けようとしてきたが、
どうやって知ったのか、敵に伏兵がいると見破っていて、
それなら伏兵の真ん中に切りかけて一人残らず討ち果たそうと、一千五百余騎が先陣に進んだ。
「もし戦に勝利したらそのまま城に乗り込むつもりでいるから、後陣の備前勢も続いてかかってくだされ。
あるいはもし戦に利を失えば退却しなければならない。
長船・沼本・三浦・斉藤などは、かねてから定めてあったように、伏兵を置いてお待ちいただきたい。
敵が我らを追って進んできたら、合図の旗を守って、合図の太鼓を聞いてから伏兵を起こし、
敵を一人残らず討ち取ってほしい」と定めた。
備前勢三千余騎は、久瀬というところに三ヶ所に分かれて伏せ、
山の高み高みに合図の旗を伏せて待っていた。

そして牧野・玉串は二手に分かれて、高田勢が伏せているところを見切って
弓・鉄砲をいっせいに放ちかけてくるので、牛尾・足達たちは、少ない手勢を起こして、散々に戦った。
しかし敵が大勢なので突き立てられ、城中から我先にと援兵が駆けつけてくる。
玉串・牧野は、事前に謀略を練っていた通りに弱々しげに引いていく。
城中の者たちは、「敵は大勢なのだから進みすぎるな」と下知されていたけれども、
勇に誇ったまま小坂を一つ追い越そうとしていた。
そこに、長船・沼本・斉藤など三千余騎が、合図の旗を見太鼓を聞いて、
どっと鬨を上げて立ち上がったので、高田勢は散り散りになって引き返してきた。
敵が執拗に追いかけてくるので、牛尾・足達は何度も立ち止まって防戦したが、
場所も広く敵は大勢だったので、わずかな兵力ではなかなか防ぎきれないと感じて、仕方なく退却した。

香川右衛門太夫は、味方が一人残らず討たれてしまいそうだと思ったので、
何度も振り返って敵と鑓を合わせた。
「私一人が討ち死にして、多くの味方を助けたい。皆足早に引いてくれ」と味方に下知し、
たった一人とどまって多くの敵を突き伏せたけれども、
多勢に無勢ではかないようもなく、ついにその場所で討たれてしまった。
右衛門太夫の死骸に敵が大勢寄ってきて、我先に首を打とうとする。
十五、六人ほどが右衛門太夫の首を奪い合っていると、
右衛門太夫の従僕に又五郎という者がいたが、これを見て、
「主君が討たれたというのに、何のために命を惜しもうか」と思ったのか、
たった一人で引き返し、主の首を奪い合っている敵を手当たり次第に切りつけた。

敵もしばらくは、首を奪い合っているところだったので、又五郎に渡り合うことができなかった。
又五郎はその隙に八人を切り伏せ、自身もずたずたになって死んだ。
志は立派だが、誰かの従僕になるような賤しい身分の者だったので、持っていた刀はなまくらだった。
切りつけたうちの二人は急所を突いて殺すことができたけれども、
残りの六人は傷が浅かったのか、後に養生して命を永らえたという。
門田弥次郎も右衛門太夫が討たれたのを見て引き返し、同じく討ち死にした。

その他もほとんど討たれてしまい、敵がこの機に乗じて城に乗り込んでこようとしたので、
味方を助けるために香川美作守が門を開いて打って出ると、
嫡子の左衛門尉広景は、もう山の八分ほどまで駆け下りている。
次男の兵部大輔は、宗像三郎左衛門という郎党を一人だけ引き連れて、
郷中まで下って鑓を合わせていたけれども、
敵が大勢で勇みかかってくるのに対し、味方は無勢なので足をとどめることもできずに引いていく。
どうにもかないようがないので、兵部大輔も仕方なく退却した。

とそこに、枯れススキが群生した迫田のある場所があった。
こここそ天然の要害なので、ここで敵を待ち受けて一戦し、
死骸を山野の土となし、名前だけでも残しておけば、
枯野のススキが形見ともなるだろうと考えて、兵部大輔はそこで鑓を構えて敵を待ちかけた。


以上、テキトー訳。続く。

ありゃりゃ、ずいぶん追い詰められてるね、香川一族。
このあたりは、きっと正矩が小さいころから家中で語り伝えられてきた話なんだろうな、と。
「若く血気にあふれ、おのが勇を誇り、危ない戦を慎むことを知らない」なんてのは、
春継自身の反省の弁だったんじゃないかとも思うよね……

さてちょっと長めなので以下次回というところだけど、
明日は飲み会で帰りが遅いので更新できない可能性が濃厚ですお。
2012-08-02

香川一族「寝返りは許しまへんで!」

最近いろいろと生活リズムが崩れておりますというかこれって夏バテ?
消化器官が仕事サボりがちな今日この頃ですが、無理せず乗り越えたい所存。

さて陰徳記。
毛利勢力下の城でも、じわじわと尼子への寝返りが始まっているころ。
今回は美作の城に籠もる香川一族のお話。
キャー! 兵部ー!!!


美作の国高田の城合戦のこと

美作の国の高田の城(後の勝山城)には、先年から牛尾太郎左衛門(久清)・
足達十兵衛尉(信泰)・国衙隠岐守などを入れ置いていたが、
「この国の三浦貞広の一族たちがややもすれば城を攻め落とそうとしてきて、
城中の兵の数が少なく対抗しようがありません。
しかるべき大将を一人差し籠めてください」と申し入れてきた。
元就様は去る永禄十一年七月二十一日に香川左衛門尉光景を美作守に任じて大将となし、
その嫡男の小助五郎広景を左衛門尉に任じると、長左衛門尉就連とともに高田の城へと差し籠めた。

この国の住人、三浦・芦田・市などは、高田の城を攻め落とそうと、
宇喜多和泉守(直家)に加勢を要請した。
宇喜多はすぐに船紀伊守・岡信濃守・同剛介・沼本新右衛門などに四千余騎を差し添えて美作の国に派遣した。
芦田五郎太郎自身は、まだ年齢的に幼かったので、叔父の芦田民部大輔に具足五百、
牧野勘兵衛尉に五百、玉串監物に八百を差し添えて、備前勢を後ろに回し、
自分の手勢を先陣にして、度々高田の麓で暴れさせた。
けれども、足軽の小競り合いばかりして、興亡をかけた勝負はなかった。

高田の二の丸に籠もっていた熊野入道をはじめとして、多くは出雲の勢だったので、
勝久に与力するとたちまち兵糧蔵に火をかけ、敵の陣に加わってしまった。
このせいで城中が難局に陥っていると、香川兵部大輔(春継)が九州より戻ってきてすぐ芸陽に入り、
仁保の島に残っていた家之子郎党や兵糧米をかき集めて、八十余人で高田の城に向かった。
付城の山下を白昼に通っていくと、敵はそれを止めようとして、篠ふきの城から兵を出してくる。
兵部大輔はこれを一戦して打ち払い、易々と高田の城に入っていった。

城中には佐伯七郎次郎という者がいた。
たいそう力量に優れ、勇も智も人より優れていたので、先年の月山冨田城籠城の際には、
山中鹿介が目をつけて妹婿に取った(『森脇覚書』では姉)。
この者はきっと、勝久が出雲に入れば鹿介に味方しないことはないだろうと考え、
香川美作守は佐伯の従僕で十二、三歳ほどの者を呼び寄せ、
あれこれと酒を飲ませ飯を食わせるなどして懐柔した。

「どうだ、お前の主の佐伯殿には、最近はどこから便りがあったのだ」と問うと、
従僕は「どこからも連絡などありません。しかし、誰とはわかりませんが、
三の曲輪の懸け出しの雪隠の下から、文を持って通う者がいます」と答える。
光景はこれを聞いて、「おそらく陰謀を企てているだろうと疑っていたが、これではっきりした」と思い、
宗像三郎左衛門・江戸三郎右衛門などという者に下知して、その雪隠のあたりを隠れて見張らせた。
これを知らずに、敵が一人忍びやかにやって来たところを取り押さえ、
捕縛して持っていた文を奪い取ってみると、芦田五郎太郎の文であった。

佐伯の反逆は疑いようもなくなったので、すぐに佐伯を討ち果たそうと会議したが、
「佐伯はたいそうな力持ちの剛の者なので、簡単には討ち果たせそうもない。
まず矢倉の普請を言いつけて佐伯を奉行につけてみよう。
用心する素振りがあるか、もしくは陰謀が露見していないと油断しているか、
その様子を見計らってから、対処を考えよう」ということになった。
討手の者たちには「隙があれば討ち果たせ」と命じた。

しかし佐伯はことのほか用心を厳しくして、少しもたるむ様子がなかったので、
討手の者たちは隙を見つけられぬまま時が過ぎてしまった。
香川兵部大輔は、佐伯とともに「そこに塀を付けよ、あちらに柵を結え」などと下知していた。
そして佐伯が少し気を緩めたのを見逃さず、眉間を続けざまに二打する。
さしもの佐伯も慌てたのか、矢倉からひらりと飛び降りた。兵部もそれに続いて飛び降りる。
佐伯は眩暈がしているのか、地に下りるとそのまま倒れたものの、
伏した体勢のまま腰の刀を抜こうとしたところを、兵部がまたその腕をしたたかに切りつけた。
さしもの佐伯も、太刀さえ抜けないまま絶命した。
品川市右衛門は別のところにいたが、香川が太刀を抜くのを見てすぐに駆けつけてくると、
佐伯が倒れこんだところに一太刀浴びせていた。

敵方には誰かが告げたのか、「兵部という者が九州から上ってきたが、立花でも何度も勇を顕し、
またこの城に入ってからは佐伯を自分の手で討ち果たした」と広まった。
敵はこれを聞いて、「それなら高田表へ仕掛けてみて、兵部大輔の手並みのほどを確かめてみよう」と、
永禄十二年十月五日、玉串・牧野の一千余騎が、高田の山下に放火して、「敵よ出て来い」と待ちかけた。

城中からも牛尾太郎左衛門・足達十兵衛尉などが打って出て足軽競り合いをしたが、敵を六人も討ち取った。
香川の郎党、大乃美修理亮・材間新左衛門・香川宗右衛門などは、
鑓の戦いのなか、比類ない討ち死にを遂げた。
城中から入江与三表兵衛尉・遠藤左京亮・香川左衛門尉広景・同兵部大輔春継などが打って出てくるのを見て、
敵が早々に退却しようとしたところを、香川の郎党の三宅源四郎が跡を追い、
芦田の同朋と渡り合って切り伏せ、首を押し切って帰ってきた。


以上、テキトー訳。

ハァン兵部かっこいいよ兵部(*´∇`*)
もうまじで春継流行れ!!!!!
一人で「春継かっこいい!」ってモダモダしてるのツライよ・゚・(ノД`;)・゚・

広景父ちゃんが12、3歳の子供に酒を飲ませたりしてるけど、
このころはいくつぐらいから普通に酒飲んでたんだろうね。
現在は20歳からって法律で決められてしまってるから、子供が飲むイメージはないよね。
ずいぶん窮屈な世の中になったんだなぁと思う(酒好きだから)。

さて次の章も香川一族が活躍しそうな予感(゚▽゚*)
我大歓喜♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
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