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2012-08-02

高田勢の勇み足

だいたいの流れ:
毛利勢は総力上げて九州立花に出征中。
出雲では山中鹿介が尼子勝久を奉じて挙兵し、絶賛勢力拡大中。
そんななか、美作の高田の城も宇喜多勢などに狙われて難局に立たされ、寝返りが続出。
九州に行っていた香川兵部大輔も加わって、どうにかしのいできた高田勢だったが。


玉串監物討ち死にのこと(上)

三浦・芦田などは会議をして、「香川兵部大輔は、九州で高名を挙げたからといって、
自分の勇を誇って、佐伯を自ら討ち果たしたのだろう。
歳がまだ三十にも満たないから、血気盛んで勇猛さを自慢にし、戦を慎むことをしないのだろう。
これは騙すにはもってこいだ。
明日はあちこちに伏兵を置いて、まず少数の兵で引き付け、
方々から取り囲んで、一人残らず討ち果たしてやろう。
兵部は一番に打って出てくるだろうから、これを殺すのは何よりも簡単だろう」と、
さもその場に臨んでいるかのように話を詰めた。

城中では「また牧野・玉串が、ややもすれば山下へ攻め寄せてくるだろうから、
伏兵を置いて討ち果たそう」と、同六日(永禄十二年十月)、
牛尾太郎左衛門・足達十兵衛尉・品川市右衛門・香川の郎党門田弥次郎・
香川右衛門太夫・同石見守・芥川・江戸・材間などの五百余騎が三ヶ所に伏して、
敵はまだかと待ち受けていた。

こうしたところに、今度はまた牧野・玉串が二手に分かれて高田勢を引き付けようとしてきたが、
どうやって知ったのか、敵に伏兵がいると見破っていて、
それなら伏兵の真ん中に切りかけて一人残らず討ち果たそうと、一千五百余騎が先陣に進んだ。
「もし戦に勝利したらそのまま城に乗り込むつもりでいるから、後陣の備前勢も続いてかかってくだされ。
あるいはもし戦に利を失えば退却しなければならない。
長船・沼本・三浦・斉藤などは、かねてから定めてあったように、伏兵を置いてお待ちいただきたい。
敵が我らを追って進んできたら、合図の旗を守って、合図の太鼓を聞いてから伏兵を起こし、
敵を一人残らず討ち取ってほしい」と定めた。
備前勢三千余騎は、久瀬というところに三ヶ所に分かれて伏せ、
山の高み高みに合図の旗を伏せて待っていた。

そして牧野・玉串は二手に分かれて、高田勢が伏せているところを見切って
弓・鉄砲をいっせいに放ちかけてくるので、牛尾・足達たちは、少ない手勢を起こして、散々に戦った。
しかし敵が大勢なので突き立てられ、城中から我先にと援兵が駆けつけてくる。
玉串・牧野は、事前に謀略を練っていた通りに弱々しげに引いていく。
城中の者たちは、「敵は大勢なのだから進みすぎるな」と下知されていたけれども、
勇に誇ったまま小坂を一つ追い越そうとしていた。
そこに、長船・沼本・斉藤など三千余騎が、合図の旗を見太鼓を聞いて、
どっと鬨を上げて立ち上がったので、高田勢は散り散りになって引き返してきた。
敵が執拗に追いかけてくるので、牛尾・足達は何度も立ち止まって防戦したが、
場所も広く敵は大勢だったので、わずかな兵力ではなかなか防ぎきれないと感じて、仕方なく退却した。

香川右衛門太夫は、味方が一人残らず討たれてしまいそうだと思ったので、
何度も振り返って敵と鑓を合わせた。
「私一人が討ち死にして、多くの味方を助けたい。皆足早に引いてくれ」と味方に下知し、
たった一人とどまって多くの敵を突き伏せたけれども、
多勢に無勢ではかないようもなく、ついにその場所で討たれてしまった。
右衛門太夫の死骸に敵が大勢寄ってきて、我先に首を打とうとする。
十五、六人ほどが右衛門太夫の首を奪い合っていると、
右衛門太夫の従僕に又五郎という者がいたが、これを見て、
「主君が討たれたというのに、何のために命を惜しもうか」と思ったのか、
たった一人で引き返し、主の首を奪い合っている敵を手当たり次第に切りつけた。

敵もしばらくは、首を奪い合っているところだったので、又五郎に渡り合うことができなかった。
又五郎はその隙に八人を切り伏せ、自身もずたずたになって死んだ。
志は立派だが、誰かの従僕になるような賤しい身分の者だったので、持っていた刀はなまくらだった。
切りつけたうちの二人は急所を突いて殺すことができたけれども、
残りの六人は傷が浅かったのか、後に養生して命を永らえたという。
門田弥次郎も右衛門太夫が討たれたのを見て引き返し、同じく討ち死にした。

その他もほとんど討たれてしまい、敵がこの機に乗じて城に乗り込んでこようとしたので、
味方を助けるために香川美作守が門を開いて打って出ると、
嫡子の左衛門尉広景は、もう山の八分ほどまで駆け下りている。
次男の兵部大輔は、宗像三郎左衛門という郎党を一人だけ引き連れて、
郷中まで下って鑓を合わせていたけれども、
敵が大勢で勇みかかってくるのに対し、味方は無勢なので足をとどめることもできずに引いていく。
どうにもかないようがないので、兵部大輔も仕方なく退却した。

とそこに、枯れススキが群生した迫田のある場所があった。
こここそ天然の要害なので、ここで敵を待ち受けて一戦し、
死骸を山野の土となし、名前だけでも残しておけば、
枯野のススキが形見ともなるだろうと考えて、兵部大輔はそこで鑓を構えて敵を待ちかけた。


以上、テキトー訳。続く。

ありゃりゃ、ずいぶん追い詰められてるね、香川一族。
このあたりは、きっと正矩が小さいころから家中で語り伝えられてきた話なんだろうな、と。
「若く血気にあふれ、おのが勇を誇り、危ない戦を慎むことを知らない」なんてのは、
春継自身の反省の弁だったんじゃないかとも思うよね……

さてちょっと長めなので以下次回というところだけど、
明日は飲み会で帰りが遅いので更新できない可能性が濃厚ですお。
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2012-08-02

香川一族「寝返りは許しまへんで!」

最近いろいろと生活リズムが崩れておりますというかこれって夏バテ?
消化器官が仕事サボりがちな今日この頃ですが、無理せず乗り越えたい所存。

さて陰徳記。
毛利勢力下の城でも、じわじわと尼子への寝返りが始まっているころ。
今回は美作の城に籠もる香川一族のお話。
キャー! 兵部ー!!!


美作の国高田の城合戦のこと

美作の国の高田の城(後の勝山城)には、先年から牛尾太郎左衛門(久清)・
足達十兵衛尉(信泰)・国衙隠岐守などを入れ置いていたが、
「この国の三浦貞広の一族たちがややもすれば城を攻め落とそうとしてきて、
城中の兵の数が少なく対抗しようがありません。
しかるべき大将を一人差し籠めてください」と申し入れてきた。
元就様は去る永禄十一年七月二十一日に香川左衛門尉光景を美作守に任じて大将となし、
その嫡男の小助五郎広景を左衛門尉に任じると、長左衛門尉就連とともに高田の城へと差し籠めた。

この国の住人、三浦・芦田・市などは、高田の城を攻め落とそうと、
宇喜多和泉守(直家)に加勢を要請した。
宇喜多はすぐに船紀伊守・岡信濃守・同剛介・沼本新右衛門などに四千余騎を差し添えて美作の国に派遣した。
芦田五郎太郎自身は、まだ年齢的に幼かったので、叔父の芦田民部大輔に具足五百、
牧野勘兵衛尉に五百、玉串監物に八百を差し添えて、備前勢を後ろに回し、
自分の手勢を先陣にして、度々高田の麓で暴れさせた。
けれども、足軽の小競り合いばかりして、興亡をかけた勝負はなかった。

高田の二の丸に籠もっていた熊野入道をはじめとして、多くは出雲の勢だったので、
勝久に与力するとたちまち兵糧蔵に火をかけ、敵の陣に加わってしまった。
このせいで城中が難局に陥っていると、香川兵部大輔(春継)が九州より戻ってきてすぐ芸陽に入り、
仁保の島に残っていた家之子郎党や兵糧米をかき集めて、八十余人で高田の城に向かった。
付城の山下を白昼に通っていくと、敵はそれを止めようとして、篠ふきの城から兵を出してくる。
兵部大輔はこれを一戦して打ち払い、易々と高田の城に入っていった。

城中には佐伯七郎次郎という者がいた。
たいそう力量に優れ、勇も智も人より優れていたので、先年の月山冨田城籠城の際には、
山中鹿介が目をつけて妹婿に取った(『森脇覚書』では姉)。
この者はきっと、勝久が出雲に入れば鹿介に味方しないことはないだろうと考え、
香川美作守は佐伯の従僕で十二、三歳ほどの者を呼び寄せ、
あれこれと酒を飲ませ飯を食わせるなどして懐柔した。

「どうだ、お前の主の佐伯殿には、最近はどこから便りがあったのだ」と問うと、
従僕は「どこからも連絡などありません。しかし、誰とはわかりませんが、
三の曲輪の懸け出しの雪隠の下から、文を持って通う者がいます」と答える。
光景はこれを聞いて、「おそらく陰謀を企てているだろうと疑っていたが、これではっきりした」と思い、
宗像三郎左衛門・江戸三郎右衛門などという者に下知して、その雪隠のあたりを隠れて見張らせた。
これを知らずに、敵が一人忍びやかにやって来たところを取り押さえ、
捕縛して持っていた文を奪い取ってみると、芦田五郎太郎の文であった。

佐伯の反逆は疑いようもなくなったので、すぐに佐伯を討ち果たそうと会議したが、
「佐伯はたいそうな力持ちの剛の者なので、簡単には討ち果たせそうもない。
まず矢倉の普請を言いつけて佐伯を奉行につけてみよう。
用心する素振りがあるか、もしくは陰謀が露見していないと油断しているか、
その様子を見計らってから、対処を考えよう」ということになった。
討手の者たちには「隙があれば討ち果たせ」と命じた。

しかし佐伯はことのほか用心を厳しくして、少しもたるむ様子がなかったので、
討手の者たちは隙を見つけられぬまま時が過ぎてしまった。
香川兵部大輔は、佐伯とともに「そこに塀を付けよ、あちらに柵を結え」などと下知していた。
そして佐伯が少し気を緩めたのを見逃さず、眉間を続けざまに二打する。
さしもの佐伯も慌てたのか、矢倉からひらりと飛び降りた。兵部もそれに続いて飛び降りる。
佐伯は眩暈がしているのか、地に下りるとそのまま倒れたものの、
伏した体勢のまま腰の刀を抜こうとしたところを、兵部がまたその腕をしたたかに切りつけた。
さしもの佐伯も、太刀さえ抜けないまま絶命した。
品川市右衛門は別のところにいたが、香川が太刀を抜くのを見てすぐに駆けつけてくると、
佐伯が倒れこんだところに一太刀浴びせていた。

敵方には誰かが告げたのか、「兵部という者が九州から上ってきたが、立花でも何度も勇を顕し、
またこの城に入ってからは佐伯を自分の手で討ち果たした」と広まった。
敵はこれを聞いて、「それなら高田表へ仕掛けてみて、兵部大輔の手並みのほどを確かめてみよう」と、
永禄十二年十月五日、玉串・牧野の一千余騎が、高田の山下に放火して、「敵よ出て来い」と待ちかけた。

城中からも牛尾太郎左衛門・足達十兵衛尉などが打って出て足軽競り合いをしたが、敵を六人も討ち取った。
香川の郎党、大乃美修理亮・材間新左衛門・香川宗右衛門などは、
鑓の戦いのなか、比類ない討ち死にを遂げた。
城中から入江与三表兵衛尉・遠藤左京亮・香川左衛門尉広景・同兵部大輔春継などが打って出てくるのを見て、
敵が早々に退却しようとしたところを、香川の郎党の三宅源四郎が跡を追い、
芦田の同朋と渡り合って切り伏せ、首を押し切って帰ってきた。


以上、テキトー訳。

ハァン兵部かっこいいよ兵部(*´∇`*)
もうまじで春継流行れ!!!!!
一人で「春継かっこいい!」ってモダモダしてるのツライよ・゚・(ノД`;)・゚・

広景父ちゃんが12、3歳の子供に酒を飲ませたりしてるけど、
このころはいくつぐらいから普通に酒飲んでたんだろうね。
現在は20歳からって法律で決められてしまってるから、子供が飲むイメージはないよね。
ずいぶん窮屈な世の中になったんだなぁと思う(酒好きだから)。

さて次の章も香川一族が活躍しそうな予感(゚▽゚*)
我大歓喜♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
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