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2012-08-08

大内輝弘、山口凱旋?

前回のあらすじ:
毛利勢が立花表で大友と戦争に及んでいるとき、出雲方面では山中鹿介らによる騒乱が起きた。
またこの機に乗じて、大友宗麟のもとに身を寄せていた大内輝弘が山口に押し入ってきた。
近隣の鴻の峰の城を守る勢は、寡兵ながら、敵の来襲に備えて用心を固めた。


大内太郎左衛門尉輝弘、山口入りのこと(下)

信常・井上は、寄せ来る敵の様子を見極めるべく二手に別れ、
信常太郎兵衛尉は小郡口、井上善兵衛尉は秋穂口へと駆けつけ、糸根あたりに打って出た。
輝弘は糸根口から押し寄せてきたので、井上は敵の五千余騎の兵を見て、かなうはずもなかったのに、
「大勢だからといって一戦もしないで引くのは臆病者だ」と、
人々に指さされて嘲笑われるとでも思ったのか、豊後勢に立ち向かった。

「井上善兵衛尉である」と名乗りを上げて、小高い場所に備える。
寄せ手の先駆けの波多野石見守はこれを見て、
「これほどの猛勢にも少しも臆さず、たった百や二百だけで立ち向かうとは不敵なものだ。
者ども、あれを討ち取れ」と指図し、鑓を構えて突いてかかった。
井上もここが最期の場所だと覚悟して散々に防ぎ戦ったので、豊後勢にも死人や怪我人が数多く出た。
しかし大勢なので入れ替わり立ち代り新手の兵を繰り出してくるので、
井上はとうとうその場所で討ち死にした。

大将が討たれてしまうと、残った兵たちは皆散り散りになって逃げたが、
豊後勢はそれを執拗に追いかけて討ち取ると、そのまま山口へと雪崩れ込んだ。
井上が討たれたのだから、鴻の峰の城中はすっかり落胆し、
すぐに城を攻められば難なく攻め落とされるだろうと思われた。
しかし輝弘は少しも城を攻めようとはせず、築山の館へと入って本陣を構えたので、
豊後の諸軍勢は皆町屋に押し入って陣を張った。

そして五百人や千人ほどで二、三里ほどの距離を練り歩いて、
「元春・隆景は立花表の戦に勝利できず、そろそろ敗軍しそうだ。
たとえそこを退却してきても、若松・芦屋をはじめとして、
豊後から五千や七千ずつ軍兵を差し出して道をふさげば、一人として無事に帰ってこれないだろう。
そうすれば毛利家の滅びのときがやってくる。そして大内再興のときが来る。

よく聞け皆の者、琳聖太子から二十七代の旧交を忘れずに味方に属すならば、
田夫農老には田畑を作る税を免除し、永代にわたるまで各家の所有物にしてやろう。
町人たちにはそれぞれに応じた金銀を与えよう。
武士は上下を問わず、毛利家から与えられた所領の倍の給地を宛行おう。
大内家の武士で、元就に従わずに民間で時を過ごしてきた者には、
義隆・義長二代の所領に、また倍の加増をしてやろう。
もしまた味方を裏切った者があれば、妻子や一族までことごとく首を刎ねてやる」と触れ回った。

輝弘は九(十)月十一日に秋穂に着き、同十三日に山口へと入ったが、
もう十四日には近辺の一揆勢が少しずつ集まってきていた。
同十七日には、笠井帯刀・同新六が一味したので、
輝弘は「長門に五千余貫の所領を与える」と記した書を出した。
これをはじめとして、橋上・宇野・清水の別当快山・道場の何某の上人などが、我もわれもと付き従った。
そのほか、海辺の浦里野原の一揆、守山・島田の河村・室津の矢野などという者たちも志を通じてくる。
また須々万、鞍懸で親を討たれ子を討たれた者たちも多かったので、
この恨みを晴らそうと、あちらこちらから駆けつけてきて付き従ったので、総勢八千余騎にまで膨れ上がった。

輝弘の威は、まるで龍が水を得たかのようになり、再び大内と仰ぎ見られ、
国中を手中に収めたので、槿花一日の栄(きんかいちじつのえい、儚い栄華のこと)とは言いながら、
このときは実に勇ましく見えた。
けれども手勢を百人と持った武士は一人も従わず、
ただ、何とかの郷の庄屋だとか、どこだかの町の酒屋の何某、
または何とかいう寺の法印阿闍梨などという者ばかりだった。

輝弘は最初こそ、杉・内藤といった大内家の武士が馳せ集ってくるだろうと考えていたのだが、
皆元就の徳に懐いて、大内には靡かなかった。
輝弘は考えていたことと違ったので、戸次・松木・甲斐・城井・波多野などを呼び集め、
「こうして無駄に山口にいても仕方がない。敵を滅ぼし国中を打ち従える策を立てたい。
元就・輝元は長府に陣を据えている。どうにかして攻め寄せて一戦したいものだ。
皆はどう思う」と意見を求めた。

松木入道一佐は「こうして築山の館で無駄に日を送るよりは、
鴻の峰をすぐに攻め落としてあの城に籠もり、
軍勢を分けて右田の坂を切り塞いで防長の通路を遮断した方がいいと思います。
そうでなければ、元就・輝元を討伐すると触れ回って、味方の一万にも及ぶ勢で
秋穂・白松へと打って出、厚東の塩降松のあたりに古城があるのでそこを本陣とし、
警護船を秋穂にかけ並べ、この八千人の兵を千か二千ずつ、舟木・阿佐方面へと向かわせて、
周防から長府への海道を塞ぐべきです。

もし元就・輝元が長府から攻め寄せてくるならば、願ってもないことなのですから、
興亡を決する合戦をするべきでしょう。
また、元就に兵がなくて攻めてこられずに、そのまま陣に控えているようなら、
海陸から長府へ攻め寄せて、一気に攻め破ってしまいましょう」と言った。
これは、聞く分にはなんとも勇ましい謀略のようではあったが、
後から聞くと、「もし戦に勝利できなければ、
船を引き寄せて取り乗り、豊後に帰るにしても、ここにいたのではそれも難しい。
山口の山中に籠もっていては、豊後に帰れないだろう」と思ってこう言ったそうだ。

こうしたところに、戸次内蔵太夫はこれを聞いて、
「立花表の合戦は、必ず豊後方が勝利するでしょう。
あの表で吉川・小早川を討ち果たしていれば、宗麟はそのまま長府へと攻め上っていらっしゃるはず。
そうなれば、いかに猛々しい元就でも、ほうほうの体で逃げ帰っていくでしょうから、
それを追いかければ何の手間もなく討ち取ることができます。
長府にも、少しとはいえ、兵の七、八千はいるでしょう。
それに対して味方に集まった寄せ集めの勢を頼りにして、八千や一万で渡り合っては、
なかなか勝負は難しいもの。

また鴻の峰の城を攻めて、あたら兵を損なうのもどうかと思います。
ただ立花表の味方の勝利報告を待って、危ない戦を慎んでいるのがよろしいと思います。
これは戦わずして勝利を得られる手段になりましょう」と言った。
城井も波多野も、これに同意した。

輝弘は、「立花の戦の勝利報告をいたずらに待ち続けるのは、
一見勇が足りないように思えるが、皆の意見だ。
もうしばらく待ってみようではないか」と言った。
それから山口への入り口のあちらコちらに逆茂木を備えさせたり、堀を作らせたりなどした。
また、築山の館の周りにも塀を取り付けて堀をこしらえ、矢倉を構えて堅固に用心した。

松木一佐は、「どうして堀など構える必要があるのか。
元春・隆景を立花で仕留めれば塀も格子も用無しだ。
また、元春・隆景が九州を引き払って帰ってくるなら、鉄の城に籠もったとしても何の意味もない。
長府へと下るか、鴻の峰を攻めるかするべきだ。
そうでなければ海辺に陣取ればいい。
勝てそうならば打って出て中国を切り従え、負けそうになったら速やかに退却して豊後に帰れるではないか。
それなのにどうして今、山口に柵を結い、矢倉を構えるのか。将
も兵も暗愚だ」と言って頭を掻いていた。


以上、テキトー訳。この章はここまで。

んー、ということは、輝弘側のソースは松木さんなんかな。
松木さんが後に吉川に召抱えられたかどうかなんて調べもついてないけど。妄想だよ!
どうでもいいけど「てるひろ」と入力すると「輝広」と変換されるMy環境は致し方ないね!
いや「輝ちゃん」とか「広●」とかよく打ってるからね。
腐った意味じゃないよ。
腐った意味では脳内輝様が動いてくれないんだよ!

まあそんなこたどうでもいいや。
なんとなくうっすらつけた知識では、市川経好妻が采配をふるって城を守備する、
って話がこのあたりじゃないかと思ってたんだけど、いつ出てくるのかね。
女傑オイシイよ女傑(*´∇`*)ハァハァ

でも次章は女傑に関係なさそうな小競り合いの話っぽい。
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