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2012-08-15

芸雲伯石捕り物帖

だいたいの流れ:
元春・隆景の九州出征の隙を突いて(大友の撹乱要員として?)山口に凱旋を果たした大内輝弘。
毛利氏の支配に辛酸をなめていた牢人やら、褒章に引かれた有象無象が集まって所帯だけは大きくなった。
「これで立花表の大友軍が元春・隆景を葬ってくれれば……」と脳内お花畑でいられたのもつかの間、
この兄弟、長府に帰ってきちゃったよ!

今回はそんな輝弘さんのお話。分割。


輝弘山口落ち、付けたり最後のこと(上)

さて、山口の鴻の峰へは、長府から加勢として桂左衛門大夫・渡部左衛門大夫などを大将として、
主力の兵を数千騎向かわせたので、城中はとても活気づいた。
元春からも鴻の峰へと山県左京亮・江田宮内少輔・山県宗右衛門・井上甚兵衛尉・
二宮弥四郎・長和三郎右衛門・田岡などという者たちが遣わされた。
城中から吉川式部少輔・市川兵部少輔・同雅楽允が一緒になって、湯田の縄手で大内勢と衝突し、
力いっぱい戦って多くの敵を討ち取った。
味方では二宮弥四郎が討ち死にした。

こうして鴻の峰には援軍が多数加わり、とりわけ元春・隆景が九州から無事に帰ってきたとわかると、
輝弘は「これはどうしたものか」と呆然として、松木・甲斐などを呼び集めて軍議をした。
しかしもう、防長で味方に駆けつけてきた兵たちは一人二人と逃げ出して、
今はたった五千ほどに減ってしまっていた。

元就様は、元春父子に対して輝弘を討伐するように命じた。
元春父子は「かしこまりました」と答えると、出雲・伯耆の勢に熊谷伊豆守などを加えて、
一万余騎で長府を打ち立った。
そのとき元就様は、「この旗竿はあちこちの強敵・大敵を打ち靡かせてきた縁起のいい旗竿だ。
これを掲げて輝弘を退治してくれ」と、元春へ旗竿を贈ったので、
元春は大いに喜んで、あっという間に敵地へと駆けつけた。

元春が討手として十月二十四日に長府を出発し、舟木・山中あたりに陣取ったと聞くと、
輝弘は「これはかなわない」とばかりに山口を逃げ出し、
秋穂・白松へと出て、豊後から乗ってきた船に乗ろうと、馬を急がせた。
輝弘の運の尽き、究極の惨めさとでもいうのか、
長府へ元春・隆景の大軍勢が到着したと聞いて、豊後の船は一艘残らず逃げ帰ってしまっていたので、
そこには船影ひとつ見当たらなかった。
輝弘は仕方なく浦伝いに進み船を調達して乗ろうと考えたが、輝弘に船を貸す者さえいない。
名を惜しみ、義を大切に思うつわものたちは、
道の途中で引き返して敵と渡り合い、次々と討ち死にしていった。

さて、輝弘が山口を落ち、秋穂・白松あたりへ逃げていったと報告があると、
元春・元長父子は山口には向かわずに、途中から進路を変えて秋穂の浦へと輝弘を追っていった。
「輝弘は八百ほどで三田尻の方へ逃げていきました」と土地の者が言うので、
そこからまた後を追って進軍した。

輝弘は小郡から陶・大道・岩渕・賀皮を経て防府へとさしかかり、
浮野を目指して進んでいたが、吉川勢の境与三右衛門春時・山県宗右衛門・井上平右衛門などが
七、八十ほどの手勢で追いかけていた。
右田の嶽の城から南方宮内少輔が手勢百余騎で駆けつけてきて、
これも同じく輝弘の後を追いかけ、熊谷の手勢も品川内蔵丞などをはじめとして数十人が馳せ加わる。

豊後勢のうち、松木入道一佐・甲斐左馬助は要所で引き返して戦ったが、数ヶ所深手を負ってしまった。
もうこれまでだと思ったのか、輝弘に向かって
「できる限り最後まであなたを見届けたいと思っておりましたが、ご覧ください。
深手を負って、もう一歩も進めません。ですからここでお別れです」と最後の暇乞いをして、
二人一緒にあたりの民家に走り込むと、腹を掻き切って枕を並べて死んでしまった。
そのほか秋友五郎三郎・畑野・上之原などという者たちも、皆あちらこちらで討たれてしまった。
早川主馬をはじめとして、防州の者たちは一人残らず逃げ出してしまった。

寄せ手にはここかしこから五騎や十騎ずつ加わって、ほどなく総勢七百騎ほどになった。
境与三右衛門尉は敵と味方の間あたりをたった一人で進んでいたが、
浮野の坂の谷の奥から流れ出ている小川のあたりで、逃げ遅れた敵を一人切り伏せ、
掻き切った首を差し上げた。

輝弘は浮野の坂を過ぎ、富海の浦に出てきたものの、船は一艘もない。
ここから富海の龍文寺へと逃げてその寺に籠もり、一合戦してから自害しようと話し合って、
富海の町へと入っていく。

杉次郎左衛門(元相)は立花の城に籠もる用意をするために自分の城に帰ってきていたが、
輝弘が逃げてくると聞きつけて、野上から五百騎ほどで打って出ると、
椿ヶ峠というところに備えて待ち受けていた。
また周防は由宇の正覚寺の周音も八百余騎で海辺を進んできている。
香川兵部大輔・山県四郎右衛門・平佐出雲守などは、秋の新庄に残っていた吉川勢を掻き集めて、
二百ほどで輝弘と渡り合おうと馬を急がせていた。
これを見て、今まで輝弘に付き従ってきた防長の兵たちは散り散りになり、皆自分勝手に逃げ出していった。

追っ手の者たちは我先にと浮野の坂を越え、素早く浜辺へと下ってくる。
ここで境与三右衛門は井上平右衛門・山県宗右衛門を呼び、
「少し考えがある。しばらくここに控えていてくれ」と言った。
二人が「わけを話せ」と問えば、境は「今富海の浦を見たところ、船は一艘もない。
それに椿ヶ峠の浦の二方向から、誰かはわからないが芸陽方の勢と思しき大軍が進んできている。
おそらく輝弘は、とても逃げ切れないと思って、死を一途に思い定めて取って返すだろう。
取って返してくれば、味方はひとたまりもない。
獣は窮せば噛み付き、猛禽が窮せば突いてくるというではないか。もう少し様子を見ていよう。

敵は一度返した後ならまた勇気が緩むに違いない。
そのとき駆け寄って撃破してやろう。
実を避けて虚を突くとは、こういう場合に用いるものだろう」と答えた。
すると二人も「それもそうだ」と同意して、境と同じく傍の高い場所に踏み上がって様子を見守った。

するとそこに、輝弘は案の定、富海に船が一艘もないばかりか敵が二手に分かれて進んでくるのを見て、
今となっては逃げ場を失った網の中の魚のようだと思ったのか、総勢八十騎ほどで取って返し、
寄せ手に無二に切ってかかる。
寄せ手はあちらこちらから寄せ集められた者たちばかりだったので、
少しも支えられずにほうほうの体で浮野の坂を逃げ上っていく。
しかしそのなかで、主君の人質として吉田に滞在していた三河内の何某という者が、
「無様に逃げるわけにはいかない」と思ったのか踏みとどまって戦い、そこで討ち死にした。

輝弘が坂を上って進んできたとき、境与三右衛門・山県宗右衛門・井上平右衛門たちは、
「吉川の手の者だ」とそれぞれ自分の名を名乗り、傍の高い山から陣形を整えてかかっていく。
輝弘がこれを見て進みかねたところに、この三人と熊谷勢の品川内蔵丞なども加わって無二に切ってかかった。
輝弘は歩き疲れていたこともあり、そのうえ無勢ということもあって、左側の茶臼山へと逃げていった。


以上、テキトー訳。続く。

元就に旗竿もらって大喜びする元春かわいいね。
少数ずつでもあちこちからワラワラと集まってくる毛利勢おそろしいね。
うん。

いやもうすっかり心を与三右衛門に奪われてしまっておってな。
この人好きなんだよ、与三右衛門。
誰が一番とか考えたことはないけど、春継と同列くらいには好き。
キャラ濃すぎる。経家の切腹さえもかすむ濃さ(まだ言う)。

けっこう前にコピッてきていた資料を最近読み直したわけだが、
境与三右衛門は元長の「奉行人」にカウントされてて驚いた。
文書仕事のイメージないなー、なんて思ってたら、奉行人のくせに文書発給はほとんどしていなかったらしい。
元長の傍で何してたの、このフーテン……

ともあれ、次回も与三右衛門の活躍にご期待ください。
あーん(*´∇`*)なんという俺得……
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