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2012-08-16

大内輝弘の最期

前回のあらすじ:
市川経好の妻が奮闘する話? そんなものはない!
とりま、元春・隆景が九州出征中に山口に凱旋し、あわよくば両川が九州で新出ればいいな、
などと甘い夢を見ていた大内輝弘の目論見は外れ、
帰ってきた元春の軍に追われる身になってしまったよ。

元春が差し向かわせたのは私イチオシの境与三右衛門尉です♪ヾ(。・ω・。)ノ゙


輝弘山口落ち、付けたり最後のこと(下)

境たちも少勢なので、そのまま続けて敵の控えている難所へ上がっていくことができないので、
やがて反対の山に控えた。
そこで、「吉川元春の家人、境与三右衛門と申す者です。
輝弘はもう、とも逃げ切ることはできないでしょう。いざ尋常にお腹を召してください」と声高に呼ばわる。

すると輝弘は、「元春の家中の境殿であるか。
仰せのように、もう命運が尽きてこのような形成に罷りなってしまった。
すぐにでも自害したいところだが、大将にも相対せずに腹を切るのは口惜しく思う。
元春の旗を待ち受けて、とにかくそのときにどうにかしようと思う。
それまでは境殿をお頼み申す。雑兵たちが狼藉を働かないように下知をしていただきたい」と返してきた。
境は、「しかと承りました。どうかご安心ください」と返答して、味方に下知をすると元春の着陣を待った。

その夜は輝弘が茶臼山に陣を構えていたので、「下部の者たちは命を助けてやろう」と騙して、
一人ずつ山を下らせては首を刎ねていたが、
そのうち我もわれもと「命が助かるかもしれない」と兜を脱ぎ、手を擦って降参を請うてきたので、
これらをすべて討ち果たした。

こうなると、後に残ったのは、輝弘の乳人の波多野石見守、そして城井小次郎ばかりで、
主従三人だけになってしまった。
山口の清水の別当は、輝弘が入国したときに
「清水領と伊賀路の高山寺領をいただきたい」と望んで、輝弘がそれを安堵する判物を発行したので、
別当も「もしもうまくいけば」と希望を抱いてここまで逃げ上ってきた。
しかしこうなってはどうにもならないと思ったのか、輝弘が富海から茶臼山へ上ったときに、
道から少し逸れたところに上って腹を掻き切って死んでいた。

明くる二十五日、夜もほのぼのと明けていくころ、
茶臼山を見ると輝弘主従が三人きり、鎧の袖の霜を払いながら心細げにしていた。
その様子は、日が昇るのを待つ間の朝顔に宿る露のような命に思われて、哀れなものだった。
輝弘の声で、「境殿」と呼びかけられ、境は「何事ですか」と答える。
輝弘は、「ほかでもない、元春に頼みたいことがある。どうか丁重に伝えていただきたい。
私が命運尽きて今ここで自害してしまえば、死骸を山野にさらされて行き交う人の草履に汚され、
また馬の蹄に踏みつけられるのはいかにも口惜しい。
どうか供養を仰せ付けてほしいと頼みたいのだ」と言った。

境は「ご安心なされ。そのことはきちんと元春に申し聞かせましょう」と、急いで元春へと使者を遣わした。
その使者はすぐに帰ってきて、元春の返事を境に伝える。
境は大声を張り上げて、「輝弘へ物申す」と呼ばわった。
対する山から「何事だ」と返ってくる。
境が「仰せのとおり、元春へ使者を遣わして伝えたところ、
『輝弘の仰せは承った。左京大夫義長が長府の谷の長福院で自害なされたときは、
すぐにその寺に供養を申し付けてある。
輝弘の御事も、義長と同様に、葬礼そのほか法事などを申し付けるつもりだ』と申されています」と言うと、
輝弘は「実にありがたいご芳志だ。もはや思い残すこともない」と、手を合わせて喜んだ。

元春・元長は馬の歩調を速め、馬に鞭を打って急いでいたが、ほどなく浮野へと到着した。
今回元就様から賜った毛利家の縁起物の旗竿を坂の上へとさっと掲げると、
輝弘はこれを見て、乳人の波多野石見守に向かって、
「どうやらこれまでのようだ。最後の杯を交わそう」と言った。
竹の葉を器にして三度傾けたところ、雑兵たちが自害の準備をしていることを嗅ぎ付けて、
首を奪ってやろうと周囲に集まってくる。
輝弘は大きく目を見開きギッと睨みつけると、
「おまえたち、手出しをしようものなら一人ずつ眉間を切り割ってくれるぞ」と怒りを隠さない。

輝弘は金の笄を抜いて投げ捨て、雑兵たちがこれを奪い合っている隙を突いて、腹を一文字に掻き切る。
波多野石見守が太刀を振り上げたかと思うと、輝弘の首が前に転がり落ちた。
石見守は返す刀で自分の腹を十文字に掻き切ると、
自分の喉を押し切って主君輝弘の死骸の上に、抱きつくようにして倒れこんだ。
城井小次郎も潔く自害して死んだ。

吉田衆の福間彦右衛門・児玉四郎右衛門の二人が
輝弘のそばまでやってきて首を取ろうとしているように見えたので、
境与三右衛門が「輝弘の討手は元春が命じられています。勝手なことはなさいますな」と呼びかけた。
すると二人は「どうしてそのような胡乱なことをするものか」と答えた。
この二人の心栄えは、世人より優れて見えた。

さて、ここで高名した者たちは、吉川衆の今田中務・井上平右衛門・境与三右衛門・山県宗右衛門などで、
そのほかの者たちの働きも加えて、首は七十六に上った。
熊谷の手勢では品川内蔵丞・中山内蔵助・岸添善右衛門・同十兵衛尉・渡辺新五左衛門などで、
討ち取った首は三十四。
そのほか、されこれと手勢ごとに五つや十の首を取り、その数は百五十以上になった。
その後、富海の山や谷をくまなく探し回って、数日後までにあちこちで六十余りの首を討ち取った。

輝弘の首と、その他の首注文(リスト)を添えて、元春から境与三右衛門尉を使者として長府へと送った。
元就様は大いに感心して、境を御前に呼び出して、輝元様も同席しながら合戦の様子を詳しく尋ねた。
そのとき元就様は境に盃を与え、それどころか褒章の禄まで与えてくれた。

元春は浮野から引き返して、防府の国分寺に滞在していた。
このことを伝え聞くと、防長備芸石の一揆はすべて静まった。
そのなかでも徳地一揆には、香川兵部大輔・同淡路守が命を受けて駆けつけ、
猿渡壱岐守・江戸十郎左衛門に言いつけて、一揆の発起人である河村助左衛門父子を騙して討ち取った。
これがわかると一揆勢数百人が一ヶ所に集まったのだが、
そこに攻め寄せて追い崩し、数十人を討ち取って、残った者のうち五十余人を生け捕りにした。
このことは元就様へも伝えられて、主要人物と見られる者十四人の首を刎ね、
残りの者たちは水汲みや薪を切るような下っ端の者たちだったので、一命を助け置いた。

こうして同二十八日、元就様・輝元様・隆景は長府を出発して防府へと到着し、
元春・元長と一緒に安芸へと帰っていった。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

なん……だと、与三右衛門がわりかしマトモだと……!?
まあこれでも吉川の一門衆だし(境吉川氏という分類らしい)、
元長の奉行人なので、筋目はキッチリしてるんだろうな。
え、騙して兵たちの首を刎ねるのは至極まっとうな手段ですが何か、
と思うあたり、私もたいがい戦国の遺風にやられている気がしないでもない。

しかし元春はすげえな。
元春が防府にいると聞いただけで、あちこちの一揆が沈静化したってよ!
吉川系軍記なんだから吉川ageは当然なわけで、正矩に罵声を浴びせないでください!!!

さて、今後も続きを読むつもりだけど、
明日から帰省するので、次回更新は週明けになりそうだよ!
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