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2012-08-29

(主に頭が)混乱する出雲情勢

だいたいの流れ:
元亀元年、ついに衝突した毛利輝元(ココ重要!)軍と尼子再興軍。
毛利方の勝利に終わるが、しぶとく生き残った鹿介たちを中心に、
毛利への抵抗を続けるものはまだまだ多かったでしかし。

今回は短い章が連続しているので、三本立てでいってみよう!


熊野降参、並びに高瀬城打ち回りのこと

熊野兵庫助(久忠)は、先年の月山冨田城落城の際は毛利家に一味していたが、
勝久が国入りを果たすと、旧交を忘れがたく、再び尼子家に帰参した。
そこで、井上肥前守が熊野と断金の友だったので、密かに
「今また毛利家に降人に出れば、本領をそのまま安堵しよう。
行く末の頼りない尼子家に与するなど、まったく愚かなことだ。
侍は渡り物だぞ。すぐに降参して、妻子や一族を安心させてやってくれ」と密かに言い送った。
一度はなだめ、一度は怒って諫めると、熊野はもっともだと思ったのか、
城を明けて降人になった(元亀元年八月上旬か)。

そして高佐の城では敵がまだ持ちこたえていたので、
討伐のために、元春様・元長様・経言が六千騎で打ち出た。
敵はとてもかなわないと思ったのか、すぐに明け退いて高瀬の城へと退却していった。
吉川勢はそこから鴟の巣表へと移動し、平田手崎の小城を掌握すると、
高平の城にいた牛尾大蔵左衛門がいたので、岡又十郎(元良)に添えて差し籠めた。

それから隆景様とともに高瀬表へ打ち回り、同七月三日、狼ヶ森に陣を張って、
近辺の稲をすべて薙ぎ捨ててしまった。
同二十七日、この陣を引き払って引き揚げようとしていると、
高瀬の城から米原平内兵衛尉の一族で、米原与一兵衛尉・同四郎兵衛尉といった者たちが後をつけてくる。
元春はこれを見て、「我が大軍にも臆さずに、こんなにわずかな勢で後をつけてくるとはなかなか度胸がある。
綱寛は勇に劣った者だから、すぐに城を去って、命が助かったことだけでも大喜びするだろう。
この与一兵衛尉たちは、ぜひとも召抱えたいものだ」と言った。

味方は取って返して戦ったが、米原たちも屈強なので、少しもひるまずにつけてくる。
隆景の手勢の井上又右衛門が何度も引き返し、比類ない働きをした。
けれども、その日は敵味方ともに怪我人・死人は出なかった。
元春・隆景両将は、「また敵がつけてきたら、全軍で取って返してことごとく討ち取るぞ」と下知をなし、
その手順を緒軍勢に通達した。

案の定、次の日もまた敵が城を出て後をつけてきたので、寄せ手は全力で取って返す。
城の兵は小勢だということもあり、ひとたまりもなく崩れてサッと退くのを、
寄せ手が切岸の際まで追い込めて、それからようやく平田へと引き揚げていった。


平田の城並びに勝間、そのほか所々の城の合戦のこと

平田手崎の城へと、米原与一兵衛尉・同四郎兵衛尉が打ち出でて、足軽のせめぎ合いが度々に及んだ。
城中からは岡惣左衛門・牛尾大蔵左衛門が打ち出でて、
野伏せを仕掛けたりして、城中方も数人の敵を討ち取る。
与一兵衛尉・四郎兵衛尉も手に手に首を提げて帰り、またその後、
勝久から加藤彦四郎・福山二郎左衛門・岸左馬進・力石九郎兵衛尉・
目賀田采女などが一千余騎が送られてきたが、岡・牛尾がまた打って出て散々に戦う。
杉原播磨守盛重が加勢に来たので、尼子勢はかなわずに引き退いた。

また、佐田の奥勝間という城に志道左馬助・中村内蔵太夫などを籠め置いていたが、
勝久から三刀屋蔵人・中井平蔵兵衛尉などが八百騎とともにやってきて、その城の山下で暴れまわった。
城中からは志道・中村が打って出て、一戦してたちまち勝利を得、
三刀屋蔵人を討ち取った(元亀元年六月三日)。

勝久はきわめて無念に思ったので、どうにかしてもう一度合戦して、
これまで何度も利を失ってきた鬱憤を晴らそうと、勝間あたりへと何度も軍兵を出してきた。
元春は「勝間の城の様子が心配だ。行って見回ってこい」と手勢の森脇若狭守に軍兵二百余人を差し添えた。
益田越中守の郎党も百人ほど行って帰ってきたが、
新山から森脇市正・平野賀兵衛尉・真木与三左衛門などが七百ほどで
吉川勢の引く後をつけて討ち取ってやろうと追いかけてきた。

敵は大勢で、しかも勇気を盛んに燃やしている。
味方は小勢なうえ、退却しようとしているところだったので、雑兵たちの足並みが乱れてしまいそうだった。
森脇若狭守は機転を利かせ、何度も取って返して追いかけてくる敵を追い払い、
また引いた後をつけてくる敵も追い払い突き退けて、味方を救って帰ってきた。

またそのころ、高瀬の城は兵糧がすでに尽きてしまっていたので、
新山からこれを救援しようと、目賀田段右衛門・同采女允・高尾右衛門尉などが
兵糧船に乗って高瀬へと向かった。
吉川式部少輔が事前に岡惣左衛門(元良)を差し向けていたので、
岡はたちまちその船に押し向かい、散々に戦った。
互いに怪我人や死人も数多く出て、船を少々打ち破ったものの、
高尾・目賀田も少しもひるまずに、兵糧を補充し終えて帰っていった。


輝元朝臣・隆景・元長開陣のこと、古志降参のこと

こうして出雲の逆徒たちをあちらこちらで討伐し、残った者たちも威勢が衰え勢もわずかになったので、
もう恐れるほどでもなくなった。
そのうえ元就様が老いと病が重なっていたので、早く帰って元気付けたいと考えて、
元亀元年八月下旬(九月五日)に、輝元様・隆景・元長は、平田から芸陽へと帰っていった。

その途中に杵築大明神へと参拝し、
「この国の逆徒たちを無事に退治できたのは謀略の功ではなく、
この明神がご加護の眼差しを向けてくださったからです」と丁重に礼拝した。
また神馬三頭、そのほか数々の宝物を寄進した。
供奉していた侍たちもこれを見て、負けるものかと太刀・刀・馬・鎧などに至るまで捧げていったので、
神前はまるで宝の山のようになった。

千家(義広)・北嶋(久孝)は、「この神社の社人のなかには、乱舞の達者な者がたくさんいますから、
呼び集めて能などをご覧に入れましょう」と言ったが、
輝元様たちは「元就様のご老衰がとてもひどいようだからとにかく心配だ。
少しでも急いで帰陣したい」と答え、そのすぐ翌日に杵築を打ち立ち、芸陽の吉田へと帰っていった。

同九月上旬、元春様が六千余騎を率いて国中の敵城を残さず攻め落とそうと打って出ると、
古志因幡守(玄蕃助)はとてもかなわないと思ったのか、
兜を脱いで降伏した(元亀元年十一月二日)。


以上、テキトー訳。

小競り合いの連続って、一番体力も精神力も削られそうだな……
ついに爺さまが危ない状態になってきたみたいで、輝・景と元長は芸陽に帰るのか。
元春は一人出雲に踏みとどまって戦うんだね。切ないね。
このとき広家(才寿丸)も従軍してるはずなんだけど、
才寿が元春とともにいたか兄と一緒に安芸に帰ったのかは、吉川家譜でも「不詳」だそう。
つまりどちらのシチュエーションでも妄想し放題ってわけですなデュフフコポォ

それはそれとして、毛利・尼子双方に同じ名字の人がいっぱい出てきて、
私的にはわけがわからなくなってまいりました。
これまで覚えてるだけでも、牛尾・森脇・三刀屋・熊谷は両方にいるね。
熊谷は、毛利勢は「くまがい」、尼子勢は「くまたに」だそうだけど、だからなんだってんだ。
ややこしさは変わらんわ!
状況把握がめんどうだよぅ(´;ω;`)

次章もこんな感じの小競り合いが続きそうですよ_ノ乙(.ン、)_
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