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2012-09-30

信長「ウホッ、いい男」

いやいや、諸事情によりホントさぼってばかり……
ごめんね正矩。愛が尽きたわけじゃないんだよ(´;ω;`)

さて久々の陰徳記、だいたいの流れ:
元春が尼子勝久・山中鹿介らを出雲から追い落とすも、まだ予断を許さない。
そこに京都で将軍義昭と信長が敵対したとの報があり、
輝元・元春・隆景は、安国寺恵瓊らを遣わして義昭と信長の仲裁をさせた。
義昭は流浪の身となり、紀伊へと逃れていった。
またそこで、鹿介・立原源太兵衛らが信長に接触しているということだったので、
恵瓊は「鹿介を受け入れないように」と信長に釘を刺していた。

短い章2本まとめる!


山中・立原、信長へ出すこと

山中鹿介・立原源太兵衛尉が信長に出仕した経緯はというと、
一昨年の元亀二年、鹿介は宍戸・口羽を騙して捕虜の難を逃れ、美作へと逃げ上った。
それから上洛して勝久を待っていたのだが、勝久は新山を持ちこたえられずに逃げてきて都へ上ってきた。
そのころ信長が上洛したとのうわさを聞くと、山中・立原は連れ立って大津へと向かい、
惟任日向守(明智光秀)を頼って信長に会えるように申し入れた。
信長はすぐに対面した。

鹿介はまず諸侍たちに一礼して、その後信長卿の御前に出て盃を与えられ、帰ってきた。
信長は「鹿介はいい男だ」と言った。
二番目に立原源太兵衛尉がスラスラと出て行き信長の盃を飲んで、
帰るときに諸侍たちに向かって一礼して通ったので、
信長は「立原は男ぶりもいいが立ち振る舞いもなかなかだ」とほめた。
その後鹿介には四十里鹿毛という名馬、源太兵衛尉には貞宗の刀を与えた。

山中・立原は、「信長卿が中国へと発向なさるときは、先陣を承って道案内をいたします。
どうかお力添えをくださり、出雲を賜らせてください」と申し出た。
信長は「そのようにしよう」と了承し、
「山陰道は惟任日向守に申し付けてある。これの手に属して忠義を貫け」と言った。

さて山中・立原は惟任に付き従って、まったく落ち度なく働いた。
あるとき惟任は、山中・立原を近くに呼んで酒盛りをし、それから四方山話などをしていたが、
やがて鹿介に向かって「武田と尼子の橋津合戦のことを話してほしい。耳にしたことがあるのだ」と言った。
鹿介は「私がまだ生まれる前のことですので、全然知りません」と答えた。
代わりに、立原が「このように聞き及んでいます」とだいたいのことを話した。

その後は惟任の機嫌が変わって、「鹿介殿、毛利家との戦を思いとどまってくれ。
一国の将ともなろうという程の者が、生まれる前のことだからといって、
このような名誉の合戦を知らないわけがない。
他国のことはもちろん、月支国・震旦のことであっても聞き漁って、
その戦の謀を手本にしているはずだからだ。またその戦の敗因を前車の轍とするものだ。
自国の戦をさえ知らないというのは不覚の至りでしかない。

人々はずっと昔の平家物語や東鑑の兵法を参考にするが、
そんなに遠くない昔の自分の家の合戦を知らない者が多い。
これは武の学を好んでいない証拠だ。
どうして遠くばかりを見て近くに気付かないのか。
いわゆる、迷子が自分自身の一仏を知らず、外に向かって空しく求め続けるのと同じようなものである。

鹿介殿、それほど武の学を心にかけていないのなら、
絶対に吉川・小早川などと対峙して満足な一戦を遂げることはできないだろう。
ただよい大将をほかから選んで、その指示に従うのがいいと思う。
なかなか一国の侍となることは難しいだろう」と言った。
鹿介は顔を真っ赤にして、汗をかくばかりだった。

惟任は本当に山中が一国の大将となることはできないと見抜いていたのか、
または鹿介が将兵の器を兼ね備えた者だと感じたので、
こんなことを言って自分の郎党に抱えておきたいと思ったのかはわからないが、
果たして惟任が言った言葉は一つも違わずに、鹿介はついに一国の大将となることはなかった。
これを思うと、惟任の予言は実に道理だと言うほかない。


吉川元春・同元長、因幡へ発向のこと

但馬の国の山名入道宗詮(祐豊)は、尼子勝久に一味しており、
先年勝久・鹿介らが出雲へと入国したときには、
山名が協力して奈佐日本助の海賊船に乗せて島根郡へと送っていった。
因幡の国の守護、山名中務小輔豊国も、尼子に深く通じていた。
この件で元春は謀をめぐらし、豊国を味方にして因幡から但馬へと攻め入ろうと考え、
天正元年七月、出雲の国の冨田を出発して伯耆の八橋に着き、それから因幡へと入っていった。

山名但馬入道宗詮は、垣屋駿河守・大田垣軍監などを呼び集めて軍議をしたが、
元春・元長を相手に一戦しようという者もなく、意見が割れたまま数日が過ぎてしまった。
同十月、元春父子は七千余騎で因幡の篠尾に陣を据え、やがて但馬に向かってくるとうわさが立った。
山名はとてもかなわないと思ったのか、すぐに降人になったので、
垣屋・大田垣なども人質を差し出して味方に属した。

山名中務少輔は毛利輝元に従ったが、今回は幼少の子供に大田垣勘七という者を差し添えて人質に出した。
また山口・森下・中村・塩冶たちも皆自分の子供を人質に差し出した。
奈佐日本助・佐々木三郎左衛門も抵抗をあきらめて元春の手に属したので、
因幡・但馬は、刃を血で濡らすことなく従属した。
元春・元長は同年十二月の末に因幡を打ち立って、
翌天正二年正月三日(元年十二月中か)に冨田へと帰陣した。


以上、テキトー訳。

まず、前章では鹿介たちは柴田さんについてたはずなのに、柴田さんどこ行ったん……?
ま、まあいいか。よくわからんが明智についたのか。

しかし織田さんちは信長はじめ光秀も優しいなぁ。
盃をいただくときは、座の侍たちに礼をするのは盃をいただいた後なんだね。へぇ。
それを指摘せずに、「鹿介はいい男だな」と褒めてやる信長さんステキ(*´∇`*)
光秀もまさかのお説教というか説得……厳しいこと言うけど、嫌味ではないような……?
というか、信長もこの時点では毛利を攻める気なくて、
なんとか諦めさせるように光秀に言い含めてたって線も考えられるのかも。
鹿ちゃんかわいそうにな。いいキャラなのにな(´;ω;`)

元春・元長の因幡&但馬平定は特に波乱もなく……
鳥取城で一緒になる中村・森下・奈佐・塩冶たちは、このときからの付き合いになるのかな?
もっと前から交流あったんだろうか? ちょっと気になる。
多分、経家もこのとき従軍してたんだろうと思うと、鳥取城(´;ω;`)という気分になるわけですよ。

しかし今日は九月晦日! 明日未明にかけて厳島合戦の日だよ!
しかも嵐! 出航にはおあつらえ向きだねHAHAHA!
嘘です外の風の音が普通に怖いです>< 今回は激しいなぁ……
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2012-09-27

恵瓊の仲裁

訳に手間取ったり飲んだくれていたりして日が開いてしまったorz
反省しよう><

さて陰徳記、だいたいの流れ:
元就が亡くなり、やっと捕らえた山中鹿介にも逃げられた。
そんなころ、都では織田信長が将軍足利義昭を奉じて入洛するも、
義昭と信長は険悪になってしまう。
義昭が信長との交戦を想定して宇治の真木嶋に引き退くと、毛利から両者の間を取り持つために使者が出された。


安国寺恵瓊長老上洛のこと

義昭卿が信長と敵対したと聞き及ぶと、和睦のための使者として、
輝元卿からは林杢允、備後の安国寺の恵瓊長老、元春からは井下左衛門尉、
隆景からは兼久内蔵丞を指し上らせた。
そして今回は宇治の真木嶋で、安国寺たちは羽柴藤吉(秀吉)並びに朝山日乗上人について扱いを入れ、
義昭卿の命を助けて紀伊の方へと送っていった。

またそのころ、山中鹿介が柴田修理亮(勝家)に付いて信長に出仕して、
出雲・伯耆を与えてほしいと頼み込んでいるとわかっていたので、
輝元様から信長へと、「鹿介に取り合わないように」と通達した。
信長は、「輝元とは先年から相談しあう仲なのだから、いまさら鹿介に協力したりしない」と返事をした。
けれども、中国の毛利が大阪の門跡(本願寺)に兵糧を入れて、
また花隈・三木の城にも加勢したので、
信長もまた山中鹿介に兵と兵糧を与えて協力し、中国へと差し向けることになってしまった。

さて、安国寺・兼久・井下は京都へと上り、これから中国へと帰ると告げると、信長はすぐに対面した。
「毛利三家に対しては、少しも疎略に思っていない。
この信長は関東へと馬を出し、武田・上杉・北条といった兇徒を成敗しようと思う。
輝元・元春・隆景は九州へと発向なさって、大友・龍造寺などをお攻めなされ。
輝元とこの信長は水魚の約を交わし、天下を泰平にして、苛政を改めて苦しむ人々を救おうではないか。
そうすれば、堯や舜の時代の理想的な政治を取り戻すのも難しいことではない。
どうか絶対に、輝元・元春・隆景も、信長に対して別心を抱かぬようにと、
和尚からもよくよく申し上げてくれ」と信長が言うと、
安国寺は「かしこまりました」と了承して、やがて下向した。

井下・兼久はまっすぐ国へと下っていったが、安国寺は宇喜多直家のもとへと立ち寄った。
備前の岡山から元春・隆景へと次の書状を送っている(吉川家文書一―六一〇)。

「申し上げます。京都のことは一通り終わりました。
 本日十二日、備前の岡山に到着しています。すぐにそちらに参上すべきではありますが、
 長旅になりますので、まず吉田に罷り下ります。
 特に信長から大事な馬を輝元に差し上げるように預かっていますので、急いで向かいます。

 一、上様が帰京できるように調停するため、私は京に参りました。
   翌日、羽柴藤吉郎・日乗が私のもとに差し下され、話し合いましたが、
   信長の上意は、人質をきちんと取らなければならないならないということでした。
   藤吉は、人質の件については申し上げないようにしようと申しておりました。
   そうして一日ほどとどまっておりましたが、羽柴藤吉は
   「信長に何と言い訳をしたものか。上意だからそこまで甘くはない。ともすれば一大事なってしまう。
   ただ義昭卿が行方不明ということにして、会えなかったと信長には申し上げよう。
   だから早々にどこへなりともお忍びになって落ち行かれるとよい」と言って、
   翌日に大阪まで帰っていきました。

   私と日乗は一日残っていましたので、一応意見を申し上げようと思って一通り話をしました。
   簡単な話ではないので、こうして芸州からも調停に来ているのです。
   しかし信長の上意をしいて申し上げるのもいかがかと思います。
   さてこうなりましても、もし義昭卿が西国へご下向なされたりしたら、それこそ一大事です。
   どうかよくご理解いただき、西国にいらっしゃりたいと仰ったとしても、
   しばらくは下向なさいませんようにと念を押しました。

   そしてご退座の音信を進めまして、ご返事をいただいた上で京都へと罷り上りました。
   公方様は上下二十人程度で小船にお乗りになり、紀州の宮崎の浦というところへと到着されました。
   信長も、今すぐ討ち果たすつもりではなかったので、公方様はそこに逗留なさっています。
   先々も、こちらの国にご下向なさらないようにと、重々お断りしてまいりました。
   ご安心くださいますよう。

 一、阿波の三吉に肩入れしないという朱印状を整えていただきました。

 一、但馬のことは、二月に羽柴藤吉が大将となって攻め入ると決定したようです。
   現在も半国は羽柴の勢力下にあります。来春を逃してはならないでしょう。
   このことを第一にお考えください。

 一、備・播・作の朱印は浦上宗景に出されました。
   これも芸州に対して進むとのこと、ことのほか口納(?)です。

 一、別所長治と宗景の間のことも、しばらくは持つことになりました。
   別所も自身が罷り上がってきましたので、一つの座で同時に両方へと申し渡されました。
   宗景への三ヶ国の朱印のお礼として、夕庵(武井尓云)から過分に申しかけてきました。
   おかしなことです。

 一、日乗とは散々意見を戦わせましたが、昔の周公旦と太公望などのようでしたよ。
   まったく御似合いの者がよく出会ったものです。
   そうはいっても、やりすぎずに今のままでいてくれれば、芸州にとっても重宝です。
   今回の調停も、すべてあの人が協力してくれました。
   ただ実に危なっかしいものです。藤吉などの取次ぎまで、日乗がやっているのです。
   このことからも推察してください。

 一、若君様(義昭の子)はご無事です。信長が宿に置いています。
   来春にはお礼をされるおつもりだとのこと。
   ただし、過分のお礼は、信長へも若君へも申し通してあります。
   二月の予定は、ご推量よりも早く申し付けられることでしょう。
   国のこともそのときに決着をつけましょう。
   このことも条件に載せられているので何と詫び言を言ってきても許されるおつもりはないようです。

 一、山中鹿介(幸盛)は柴田(勝家)に付いて、あれこれと言ってきているようです。
   これもまた受け入れないとの朱印状を出されました。

 一、播磨の広瀬のことは、様々な問題があったので仰せになりませんでしたが、
   条文に載せて披露しましたので、これも放ち状を得てきました。
   ですので、本日十二日に宇喜多直家と会って話をし、
   来春はまず広瀬に取り掛かってくださいと申しておきました。
   直家もそう望んでいますので、あの表へ罷り向かうと、確約いたしました。
   先述のように仰せきかされていますので、たぶんこのとおりかと思います。
   今回は信長の機嫌がひときわよかったです。
   上下の間で少々気を緩める人があれば、すぐに按合を申し付けるようにとのことです。
   今回は宗景の使者も同道していました。
   藤吉郎がかなりきつく申されましたので、その使者も大汗をかいて、
   頭のてっぺんに大きなお灸を据えたようになっていて、なかなか見ものでした。
   こういうわけですので、そのことについての連絡は不要だそうです。
   折につけ忘れずに言いつけて、勝手にさせないようにすると、信長が直々に申されていました。

 一、今回、三好左京太夫(義継)は家来衆の裏切りによって腹を切りました。
   代々そうしたものだとはいうものの、なかなか立派に腹を切ったそうです。

 一、河内の高屋の城は、遊佐(信教)と四国衆(三好康長)が立て籠もりました。
   信長は向城を取り付けました。そこの人々が引き揚げてくれば、信長も帰国するそうです。
   おそらくこれは本当でしょう。

 一、信長の世は、数年ほどは持ちこたえると思います。
   来年には公家などになられるかと踏んでおります。
   しかし後には、高転びして仰向けに転ばれる(失脚する)ように思います。
   藤吉郎はなかなかの者です。お目にかかったときに詳しくお話しましょう。
   明日十三日には、吉田へと罷り下ります。吉田からまた連絡を差し上げます。
   このことをよろしくお伝えください。恐惶謹言。

   (天正元年)十二月十二日     安国寺恵瓊
     山県越前守(就次)殿・井上又右衛門(春忠)殿」


以上、テキトー訳。

実は書状部分の訳に手間取っていたわけで……そのわりにはきちんと調べきれずに、
いつにもましてとてつもなく中途半端で乱暴な訳文になっているよ_ノ乙(.ン、)_
お気をつけあれ!!!

細部の意味はわからなくても、恵瓊が信長の未来を予言したとも言われる書状だっていうのと、
恵瓊の書く文章はけっこう喩えが面白くて好みだな、ってことはわかったw
もうちょっと浦上宗景や別所長治の情勢がわかってると理解しやすかったんだろうな……
これからオベンキョしよう><

余談になってしまうけど、「信長之代五年三年者可被持候」って部分を
「三年や五年じゃないだろw」って揚げ足とる論調をたまに見るけど、
だいたいこれまで読んできたなかで、「五三年」みたいな表現は、
だいたい「数年」て捉えるのが正解な気がする。
あと、このころから秀吉とはだいぶ仲良さげだったんだねぇ。
元春や隆景に会ったときに、どんな風に秀吉のことを話したのか、気になるところだ。

恵瓊の書中にもあったけれど、鹿介たちが不穏な動きをしているらしい。
次章はそんな鹿ちゃんたちのお話だよ!
2012-09-24

それぞれの決意

前回のあらすじ:
将軍足利義昭は、先代の義輝が三好によって殺されてから流浪の身となっていたが、
信長の庇護を得て三好を討伐できたばかりか、再び将軍として入洛することができた。
しかし信長は義昭を軽視し、その態度に堪えかねた義昭は信長追討の号令を発する。
それも簡単に鎮圧され、窮地に陥った義昭は、宇治の真木の嶋に引いて信長と対峙しようと決意する。


将軍義昭卿流浪のこと、付けたり三渕諫言のこと(下)

ここで三渕大和守(藤英)が強く諫言した。
「この謀略がうまくいくとは思えません。
それというのも、将軍は都にいてこそ権威もあるものなのに、
今宇治へ移られたなら、義昭卿が京都を逃げ出されたと思われます。
そうなったら誰一人としてお味方につく武士などいないはずです。
譜代や外様の人々の心も変わり、おそばから逃げ出してしまうかもしれません。
遠志北草となる、というのもこういうことでしょう。

真木の嶋はさておき、雲をつんざき天にそびえた漢陽宮であっても、
項羽・高祖に劣らぬ信長のことですから、どうして破れないと断言できましょうか。
皆散り散りになって、野の果てや山の奥で雑兵の手にかかり、屍を路傍の土に晒し、
猛禽や野獣に死肉を漁られるのではあまりにも口惜しいではありませんか。

言い伝えられている西国の大内は、他国に出張りする際に妻子を籠め置くために、
長門を越えて一の坂というところを上がった左のほうに城を築きました。
しかし左京太夫教弘はこの城を利用しませんでした。どうしてか。
防長豊筑四ヶ国の主となるほどの身で、他国に出張りする間だけとはいっても、
自分の館の近辺に敵が攻め寄せてこれるほどに武威がお粗末では、
たとえ鉄の山や壁であったとしても、一日も破られないでいることなどできましょうか。
ただ仁徳を大いに施して民衆を愛し、武威を逞しくして敵を手懐ける方法こそ、
鉄壁防御の城になると考えたから、あの城を破却したのだと聞き及んでおります。

真木の嶋の難所も、なんの役に立つというのか。
昔から、川を前にして当たった合戦で勝利を得たとは聞いたこともありません。
大河のある難所を頼りにするのは、兵が少なくて平地で戦うことができないからこそです。
天下の武将が逆臣を討伐するのであれば、自ら数万の軍兵を率いてその逆臣の城に攻め寄せ、
あっという間に攻め破るべきです。
それなのに、逆臣を追罰すると言いながら都で一戦もせず、
真木の嶋の城を頼りにしなければならないほどの不利な形勢で、
どうして逆臣を討伐できるというのでしょうか。

この戦の勝敗がどちらにあるのか、私の愚見を申しますと、
味方の御大将は、代々将軍として逆臣を退治するために家城を去り、
大河の難所を頼らなければならないほど武威が衰退していて謀も下手です。
敵の大将は、斯波の家の臣ではなく、斯波の家の子、
織田の郎党の身でありながら天下に旗を上げるほどの者ですので、
まず天の加護も深く果報も飛びぬけています。
とりわけ勇も智も謀も古今に抜きん出ていないのであれば、どうしてこんなことができるというのか。
これを考慮すると、将と将を比べてみるに、雲泥の差、万里の隔てがあります。

次に士卒を見ると、敵方には木下・柴田・滝川・明智など、
部門の棟梁ともなれるほどの者がいくらでも揃っており、兵もまた十万騎以上はいるでしょう。
味方の者たちは、一人としてこれらの人々に及ぶようには到底思えません。
木下・柴田の郎党ほどの武士もなく、また兵は千騎もいないでしょう。
こうして見てみると、勝つなどとは口が裂けても言えず、合戦となればまともに防戦することすらできません。

とくに将軍家は、兵力も東山殿のころから次第に衰微していて、
もう断絶する時期が到来しているのだと思います。
対してて敵は、天下の執権を手中にして、家が興隆するときなのです。
すでに夕日が西に傾いているような我らの力をもって、
どうして朝日が東に昇るかのような勢いの信長に対抗できるでしょうか。

これまでも再三申し上げてきましたように、
信長に何の不忠があって、こうして誅罰するとお定めになったのですか。
そもそも信長が先年お味方につかなければ、これまで安穏にお過ごしになることもできなかったというのに。
三好によってその御命が危険に晒されるばかりか、再び天下の武将として仰がれることもなかったでしょう。
これは皆信長の忠でなければ何だというのですか。

ですから、信長にどんな不忠・不義があったとしても、忠功の方が莫大なのですから、
一旦はそれを思し召して宥恕なさるべきです。
今こうして信長追討を企んでいらっしゃるなど、諸仏諸神もさぞその不義を憎まれるでしょう。
仏神にも見放され、人望にも背かれてしまえば、どうやってこの戦に勝利できるというのでしょうか。

たとえ信長がいかなる不忠・不義を尽くしたとしても、主君がさらに君臣の礼を正しくさえしていれば、
いかに情けも知らぬ野蛮人の信長であっても、主君が主君であることを感じて、
これまでの悪逆の態度を改めて、忠勤に励むことでしょう。
伝え聞くに、昔の人は、拳を振り上げて顔を殴ったとしてもまったく怒ることはなく、
その拳が自分の顔に当たって汚れてしまったことを謝罪したそうです。
昔の人はこういう風に過ごしてきて、百戦百勝は一忍にしかずとも言うではありませんか。
また悪口車匿(釈迦の弟子、チャンナ)を黙擯(無視する)して品行を改めさせた例もあります。
信長がどんなに公方様をお腹立ちになるように仕向けたとしても、知らぬ顔をして放っておけばよいのです。

これにつけても、政道をもっと良くしていくことをお心にかけるべきです。
世の中を徳化し、万民を撫育なされば、天が感心なさってご加護を垂れてくださるのみならず、
諸国の武士はこちらから呼びつけなくとも自然と従ってくるでしょう。
そうすれば天も信長の鼻持ちならない驕りを見咎めて、罰を与えてくださるはずです。
東西の諸将もまた義兵を挙げて、主君を救わんと駆けつけてくるはずです。

あと二年も過ぎれば、関東の北条・武田・長尾、中国の毛利などのなかから、
武威逞しく智謀盛んな者が出て、信長を攻め滅ぼすでしょう。
そうなれば御手を下されずとも悪しき敵を滅ぼせます。
これが戦わずして勝つという良将の行いではないでしょうか。
どうか今回の信長追罰は思いとどまってください」

三渕は涙を流して諌めたけれども、義昭卿は桀・紂のような暗君であった。
近習の人々も禄山・趙高のような奸臣だったので、三渕の意見に賛同する者もなく、
一挙して真木の嶋へと移ってしまった。

こうしたところに、一方の大将として頼りにしていた細川兵部大輔藤孝は、
弟の三渕大和守に向かってこう言った。
「信長追討のご決断を考えてみると、義昭卿の自滅のときが来たのだと思う。
今信長を討ち滅ぼせる者は、我が朝にはさておき、唐土や天竺が一緒に襲ってきたとしても、
たやすく滅ぼせはしないだろう。義昭卿では言うまでもない。
勝ち目のない企みに与して細川家を断絶させるのはあまりに残念でならない。
仕方がない、私は信長に一味して、我が家を存続させる謀をめぐらそう。
おまえはどう思う」

三渕はこれを聞いて、「実にもっともなことです。
早々に信長に同心なさって、御家が断絶しないように計をめぐらせてください。
私は家というほどのものでもないので、三渕の家はあってもなくても同じようなものですから、
今回はもう討ち死にすることにして、義昭卿のご厚恩に報謝したいと思います。
近年、義昭卿の部下に三渕という者がいるということは、都でも田舎でも皆知っていることです。
『三渕は詩歌や管弦、月見や花見のお供ばかりして、酒を与えられているばかりで、
義昭卿の最後のときにどこへともなく逃げ去ってしまった』と人々の口に上ろうものなら、
そのように嘲笑われるのは我が身の恥辱となるばかりか、一族の面汚しになってしまいます。
私は二条の御所にとどまり、たった一人であっても、悪人の信長に矢の一筋でも射掛けてから、
自害を遂げるつもりです。
こうして一途に思い定めておりますので、生きているうちにお会いできるのはこれが最後になりましょう」
と、深く涙に咽んだ。藤孝も袖を絞りながら三渕と立ち別れた。

義昭卿が宇治の真木の嶋へと移ったと聞くと、
信長は尾張から攻め上って、まず二条の御所へと軍兵を差し向けた。
御所に立て籠もっている兵たちは手を揉みながら命乞いをして助かったが、
三渕大和守は門の外へと打って出て、敵の先陣を散々に翻弄すると、
それから御所の中に戻って潔く自害を遂げた(天正二年七月六日)。
三渕の名は末代にまで残った。
『なんと義も忠も勇もある人だろう』と、人々は皆感心したという。

その後信長は真木の嶋へと打ち向かい、宇治川を難なく渡って一気に義昭卿を攻め破ろうとした。
義昭卿の譜代の臣や外様の者たちは、はじめの威勢はどこへやら、
手をすり足をすりながら、「どうか命を助けてほしい」と嘆願したので、
信長もこのまま討ち果たしては情けを知らぬ者のようだと思ったのか、
義昭卿の命を奪わずに、どこへともなく追放したのだった。
天正元年(元亀四年)七月十八日、先祖の大納言尊氏からこれまで代々、
天下の武将として続いてきた義昭卿が流浪の身となった。痛ましいことである。


以上、テキトー訳。おしまい!

三渕さん……幽斎さんの弟だったんか……はじめて知ったわ。
不勉強なのが露呈するよねテヘペロ☆

熱い、熱いなぁ、三渕さん。
幽斎さんは見切りが早いけど、個人的な感情より家の存続の方が大事だもんなぁ。
三渕さんも、結果的には「名」を残したわけで。
これはね、生き残ったからこそ未だにグチグチ言われなきゃならない家を見てると、
名を残して華と散った方が利口だったかもしれないと思うこともあるよね。
でもしぶとく生きてる毛利家の人々が好きだよ。
数百年単位で見れば、きちんと挽回してることはしてるし、
おかげでたくさん資料が残ってるしね!
生き残ってくれてありがとう!

そんなわけで絶体絶命に陥った義昭ちゃんですが、
次章で西の方から助け舟が入ると思うよー!
2012-09-23

苦しくったって~♪ でも涙が出ちゃう、将軍だもん

週末からなんだかムスカなみに目が痛かったり突如降ってきた妄想に埋没したりして
ブログをサボりがちですが、なんとか生きてます。
今夜もお出かけだー面倒いよぅ><

さて陰徳記、今回は将軍義昭と信長のお話だから、特にあらすじは不要だと思うので、そのまま。
長いので2回に分けまする。


将軍義昭卿流浪のこと、付けたり三渕諫言のこと(上)

大納言足利義昭卿は、千年光源院義輝今日が三好によって殺されてからは、
奈良の一条院にいることができなくなり、忍び出て若狭・越前の中間に移った。
しかし怨敵の三好を成敗する謀略を運ぶことすら満足にできずに、自分の身一つさえ隠しかねていた。
そのころ、織田上総介信長が尾張で勢力を伸ばし、ゆくゆくは天下の部門の棟梁ともなりそうな器であると、
世を挙げて噂されていたので、義昭卿は信長を頼りたいと思って、そのことを仰せ下した。
信長はすぐにこれを了承して、分国の兵を集めると、江州の佐々木(六角承禎・義弼父子)を退治(追放)し、
ついに義昭卿を再び京都へと帰し入れた(永禄十一年九月)。

しかし、義昭卿はその忠節をたちまち忘れ果てて、逆に信長を滅ぼそうと企んだので、
結局は流浪の身となってしまった。

そのことを詳しく聞いてみると、そもそも信長はもとから義昭卿に忠勤を貫く意志がなかったそうだ。
信長は、「自分が天下に旗を上げる際に、将軍という旗印があれば、
もし誰か妬む者がいて、自分の武威が広がることを妨げようとしたとしても、
将軍の敵になることを憚って、弓を引き、矢を放つことはできないだろう。
これは、対外的には主君に対して忠戦を貫いているようにしながら、
裏では我が武威を天下に振るうための謀になるぞ」と考えた。
だから天下に切って上るまでは、義昭卿に対して君臣の礼儀を正しくしてきたのだった。

畿内・東海道・北国、あわせて大国三十余ヶ国を切り従えると、
もう信長に肩を並べられる武家はいなくなった。
そうなると、「義昭卿がいる間は自分は管領職でしかない。
義昭卿を討ち果たして、自分が征夷大将軍になろう」と信長は考えた。ひどいことだ。
信長はこうした暴虐が頭に浮かんできたので、あれこれと邪な考えをめぐらして、
義昭卿が腹を立てるように振舞った。
だいたいにして、信長は軍事に関しては勇も智も古今では飛びぬけた大将ではあるが、
武一辺倒で、文道の学にはまったく通じておらず、
仁道などは夢にも知らず、そのうえきわめて田舎者だった。

木曽義仲は平家を追い落とすと都入りしたが、数々の恥ずかしい行跡を多く残している。
そのなかでも、鼓の名手で知られる平知康に会ったときに
「あなたが鼓判官と呼ばれているのは、人に打たれたからか、張られたからか」と問いかけたこと、
また猫間中納言(藤原光隆)を接待したときには、
「猫殿、猫の食い散らかしは噂に聞いているが、もっと掻き込みなされ」などと言ったことなどが、
よく人々の物笑いの種になる。こんなことばかり多い人だった。

信長も、近衛殿に会うと、「あなたはもともと馬や鷹を使役する家だと聞き及んでいるが、
馬に乗ることに関してはよく熟達しているのだろう。
私の厩に、月毛の馬で強情な馬がいる。誰も乗りこなすことができないのだ。
あなたが乗ってみてくれないか」と言って、すぐに馬具足を整えさせて馬を引き出してきた。
「さあ、乗ってくだされ」と進められたので、近衛晴嗣公は面白く思わなかった。
しかし近衛は、「信長はまったく情緒というものを解さない田舎者なので、
拒否したならどんなつらい目にあわされるだろうか」と考えて、すぐに馬に乗ったところ、
肩を並べる者のない馬術の達人だったので、自由自在に乗りこなした。

信長はこれを見て、「なんと近衛、あなたは馬術の達人だ。
私の厩の別当のなかには、なかなかあなたほど上手に乗りこなす者はいない。
今後はたまに訪ねてきて、我が厩の馬たちを調練してくれ」と言った。
またしばらくして、「なあ森の乱丸よ、近衛に何かふさわしい物を与えよ」とも言った。
晴嗣公はすっかり気分を害していたものの、褒美をもらうほどのことでもないと思って、
つっと立って帰ってしまった。
「世がすでに乱れきってしまったから、三台槐門(太政大臣などの高位の職位)でさえ、
天下の武将に対して肥馬の塵を望み、残盃の礼に従わなければならぬとは、
なんとも口惜しいことだ」と涙を流したという。

かたじけなくも天津児屋根命の末裔、大織冠(藤原鎌足)の子孫を、こうまでひどく扱った信長は、
天にも見放され、また人望も集まらなかったので、
天下の執権でいられるのはそう長くないだろうと思わない者はなかった。
近衛殿をさえこうまで傍若無人に扱うのだから、そのほかの摂家、
あるいは清華・羽林などの名家の人々に至るまで、皆自分の手勢の郎党のように扱ったという。

こうして信長が義昭卿に対して数々の不義・無礼を尽くしていると、
義昭卿も最初のうちは、父とも頼んだ信長のことなので、
どんな無礼があっても子として父に背くまいと心に決めてやり過ごしていたものの、
これが度重なると非常に怒りだした。

義昭卿は「信長の私に対しての不義・無礼、言語道断のやり方だ。
今これを罰しなければ、三好の事件の二の舞になるだろう」と考えて、
あちこちの国の大名たちに信長討伐の話を持ちかけた。
しかし大名たちは、信長と仲違いしては勝ち目がないと思ったのか、
義昭卿に味方しようとする者は一人もなかった。
義昭卿は数少ない近習たちにもこのことを話したが、これ以上何をすることもできなかった。
昔、後白河法皇が平相国清盛を滅ぼそうとして新大納言成親・俊寛僧都などに話を持ちかけ、
平家を討とうとした例と同じである。

こうしているうちに、信長がこれを聞きつけて、
「さては義昭卿は我が術中に落ちたな。これこそ願うところの幸いだ」と、
尾張から大軍を引き連れて上洛した。
そのまま御所を十重二十重に取り囲み、情け容赦なく攻め破ろうとしたのだが、
御所中の男女たちは「これはどうしたものか」と呆然としたままで、
誰一人として敵に向かっていって死のうと進み出る者はいなかった。
しかし、さすがに横紙破り(無道、傍若無人なこと)の信長も、
世間の人々に何と言われるのかを気にしたのか、まず和睦をして義昭卿の命を助けた。
そのうえ元通りに「公方様」と仰ぎ、「天下の政道の不善を攻めなされ」と諫言までして、
すぐに尾張へと引き揚げていった。

これは、忠臣の節目を守っているように見えることは見えるけれども、まるで似て非なるものだった。
信長は、「義昭卿が私を討とうと企んだとしても、どうせたいしたことはできまい」と内心は侮りながら、
対外的には「信長は正真正銘の怨敵になった義昭卿すらも、
君臣の礼を違えずに敬って、恨みつらみを恩で報いた」と、
世の人に知らしめようと言う陰謀だった。

ただでさえ無礼だった信長は、この後はさらに義昭卿を軽視して、
義昭卿が腹を立てるように仕向けたものだから、
義昭卿は、「こうなっては生きていても仕方がない。ただ信長に一矢報いてから討ち死にしたい」と言って、
あれこれと謀略をめぐらした。
しかし兵を五百人と持っている武士は一人も味方につかなかったので、役に立つとは到底思えなかった。

先年、義輝卿が自害した後は、諸国を流浪して飢える寸前まで追い詰められ、
その身一つをさえ置く場所がなかったというのに、信長を頼ってからは、
怨敵までも滅ぼして再び天下の武将と仰がれるようになったのだから、
どんなに信長が驕り高ぶって不義を尽くしたとしても、この大功を忘れるべきではなかったのだ。
今こんなことになってしまったのは、まったく残念でならない。
恩に対してあだで報いれば、この日ノ本の諸将は皆そっぽを向いてしまう。
たとえ義昭卿に対して忠節を貫き、信長を討ち果たしたとしても、
また信長と同じように忠功を忘れて無碍にされるのかと考えてしまう。
だから誰も義昭卿の下知に従わないのは、実に道理だった。

義昭卿は近習の人々を呼び集めて、「どんな手を使ってでも、速やかに信長を追罰せよ」と言った。
すると皆一同に、「まず二条の御所は構えが堅固ではありませんので、
大軍を敵に回してはなかなか一戦も満足にできません。
ここにいたまま本意を遂げられるのは難しいと存じます。
ですから、真木嶋玄蕃(昭光)の家城、宇治の真木の嶋へお移りになって、
大河を前にして信長の大軍を引き受ければ、戦利もあると思われます」と答えた。
義昭卿もこの意見に同意した。


以上、テキトー訳。続く。

義昭ちゃんの身の上が悲しすぎる(´;ω;`)
信長め! 信長め!!! イジメ、ダメ絶対!
でも教養がないってのは嘘だろうと思う。
ジャイアンな信長、嫌いじゃないわ。ノビ太には悪いけど。
あとあんまり関係ないけど木曽義仲……けっこう好きなタイプかもしれない。

もしここで信長を討とうとかせずに堪えてたら、
義昭ちゃんは悲劇のヒロインまっしぐらだなこりゃ。
父とも頼んだ信長に、手ひどくあしらわれつつも堪え抜いて人望を集めていく
尊い血を受け継いだ将軍義昭……とかだったら、
美談というか物悲しく美しい物語になったろうに。
しょうがないよな。義昭ちゃんだもんな。

こんな義昭ちゃんにもちゃんと諫言してくれる人もいたようで、
次回はハイパーお説教タイムに突入だよ!
幽斎さんもちょこっと登場する感じだよ!
2012-09-20

スピンオフ? 盛重・隆重舌戦!

だいたいのあらすじ:
元春から信玄・謙信に遣わされた使者の佐々木が戻ってきて、
旅先で聞いてきた川中島合戦の様子を語ったよ!
すると座中で聞いていたらしい杉原盛重が、信玄・謙信の戦い方にダメ出ししたよ!
さぁてこれを聞いてた天野隆重の反応やいかに。
てかいたのかよ。


佐々木、信玄・謙信の物語のこと(4)

天野紀伊守隆重はこれを聞いて話し出した。
「実に、盛重の仰せにも一理あるように思えます。
しかしながら、天下に数人とも言われる名将のことですから、
間違いに思えるようなことでも何か理由があってしたことなのでしょう。
どうして私などの愚かな考えが及ぶでしょうか。
そのように批判すれば、どんな過失もない名将などいないことになってしまう。

私のくだらない意見を申しますと、昔の義経というのは開闢以来の名将だと聞き及んでおります。
平家が十万余騎で籠もっていた一の谷の城を、ひよどり越えでまっさかさまに落ちかかり、
攻め落としたのは言うまでもありません。
この戦に利を得て、主力の平家一門を数十人も討ち取ったのですから、
八島の戦も普通にしていれば勝てたことでしょう。

それなら危ない戦は慎むべきなのに、渡辺から大風のなか四国の勝浦へと渡ったのです。
これは勇ましいことですが、良将が好んで行うべきことではありません。
そのうえわずか八十騎で数万騎が籠もっている八島に無二にかかっていったのは、どうしてでしょうか。
実は義経は猪武者で、勇はあっても智はまったくなかったのです。
平家が慌てふためいて八島を逃げ出したからこそ、義経はまたしても高名できて、
末代までその名を残したのでしょう。
もし平家に勇将が二人ほどいたなら、八島を逃げ出すことはなかったでしょう。
平家が数千の兵を率いて義経に立ち向かってくれば、やすやすと討たれてしまったはずです。
そうなったら、勝って当たり前の戦に負けて、父の仇をとることができないばかりか、
謀略が拙いと、末世末代に至るまで『愚将』の名をかぶったことでしょう。

これを思えば、自分の武勇を誇ってこの危ない戦いに臨んだのか、
もしくは兄の三河守範頼に先を越されまいという競争心があったから危険な戦をしたのか、
動機はこの二つのうちどちらかでしょう。
戦場では長幼の礼など存在しないと昔から言い伝えられていますが、それにもまた理由があるのでしょう。
他人と先を争って、合戦の勝負の得失を考えられないようでは、将の器ではありません。
それにもかかわらず、まさしく兄と先を争い、合戦に負け、
そのうえこれまで胸に抱いてきた、父の仇を滅ぼすという大望を忘れ去ってしまったとしたら、
まさに取るに足りない人間のすることであり、愚将・邪将のやることです。
これを考慮すると、義経は勇ばかりで智も謀も孝もない愚将ということになります。

また、一の谷を攻め落とし、そのまま息をもつがずに西国へ攻め下れば、
平家は矢の一つも放てなかったはずなのに、何もせずに一年を過ごしてしまったので、
平家も威勢を盛り返して、壇ノ浦で攻防をかけた一戦をすることができたのです。
これも源氏の一番の過ちではないでしょうか。

また、頼朝は仁も勇も智も全備した名将と言い伝えられていますが、
平家は十万騎、源氏は六万ですから、これでは勝利は危ぶまれます。
とくに木曽義仲が平家と一味すれば、範頼・義経は十のうち六、七は戦利もないでしょうに、
なぜ義仲を最初に攻めたのでしょう。
万全な謀略にするならば、義仲を語りすまして味方に加え、それから一の谷を攻めれば、
いよいよ勝利は確実なものになったでしょう。
平家を滅ぼしてから義仲を討てばいいのですから、これは簡単です。

義仲は勇いっぺんの凡庸な将だったがゆえに、
たった三千の味方で六万の軍勢と戦って討ち死にしてしまいました。
もっと謀略に通じていたなら、一の谷に下って平家に一味し、頼朝を滅ぼし、そ
の後平家を攻めれば、すぐに天下の武将になれたでしょう。
それなのに勇ばかりを頼って猛勢に立ち向かい、無駄に戦死したのはまったく愚将でしかありません。
これを考えると、頼朝・義経は良将ではないどころか愚将です。

けれども私などの愚かで取るに足りない意見で、古今に稀な良将をそしるのは、
実に管で天を測るようなもので、あまりにも的外れです。もうよしましょう。
きっと頼朝には、義仲・宗盛をまとめて敵に回しても勝てる算段があったのでしょう。
そのときのことを詳しく知らないまま、自分の意見が正しいと考えて是非や得失を論じるのは、
的外れもいいところです。
また義経も、嵐のなか四国に渡り、少人数で八島に攻め寄せ、敵の不意を衝こうとしたのかもしれません。
それで自分の危険を忘れていたとしても、まったく不思議ではありません。
これもそのときの形勢を知らずに、どうして時代も違う今、得失を論じることができましょうか。

床に伏せて耳を澄まさなければ、地の底を穿つ足音を聞きつけることもできません。
その時代に生まれ、その場に行くことはできないのですから、
そのときの謀の是非などわからないではありませんか。

私が申しましたようにただの凡庸な将ならば、
どうして頼朝・義経はその時代から古今無双の名将だと称揚されていたのでしょうか。
愚将とは言われずに、古来稀な名将と呼ばれているこの事実だけでも、
頼朝・義経は謀も智も勇も兼ね備えているとわかるではありませんか。
こうした評判があるのに、根拠がないはずがない。

猿や鶴はもともと、これらのことを理解できません。
私も足りない頭や見識で、どうしてさしもの名将を批評することができましょう。
私が頼朝・義経を批判したように、あなた(杉原盛重)も現代の良将の信玄・謙信を批評しましたが、
それは意味のないことです。
なにか深慮でもあったのでしょう。
また信玄が忍びの物見を出さなかったことも、
そのときその場にいないあなたがあれこれと批判しても意味がないのです」

こう隆重が語ると、盛重は、
「その場にいたわけではないのなら批判をすべきではない、というのは、実にそのとおりです。
しかしながら、信玄・謙信のような良将を論評することそれ自体がよくないとおっしゃるのであれば、
納得できません。
信玄・謙信はどういう人なのか、また自分はどういう者なのか、これは簡単です。
この二人は生まれながらにして一国の将なのですから、その名はこの日本国中に知れ渡っています。
私はようやく一郷一村の主ですので、勇も智も信玄・謙信に劣っていなくても、
人に名を知られていません。
それなら批評するにも何の憚りもないはずです」と食い下がった。

熊谷伊豆守はこれを聞いて、
「お二人の智弁を残らず戦わせれば、天地を両者の唇として、
未来永劫まで是非・得失を論じたとしても、勝負がつくことはないでしょう。
さあ、古い詩に『梅はすべからく雪に三分の白を遜(ゆず)るべし、
雪もまた梅に一段の香りを輸(しゅ)すべし』とあります。
互いに白を譲り、香りを任せることになさい」と言った。
すると盛重・隆重たちは大いに笑って退出していった。


以上、テキトー訳。おしまい!

うわー、義経・頼朝・義仲がすっげえdisられてんぞー^^;
と思ったら、「でもそんな批評しても意味ないよ」って話だったのね、天野さんw
ひねくれた話し方だwww
しかしこれも天野隆重というキャラクターを借りた正矩自身の意見なんだろうな。

いやしかし。しかし身に積まされるね、この話は。
「あれこれ批評しても、そのときその場にいたわけじゃないんだから、
それだけですでに的外れなんだよ」ってことか。
インターネッツの片隅あたりで武将の優劣批評を戦わせてる人たちに聞かせてやりたいねぇwww
私もその一人ですが何か。
まあ誰が優秀で誰が劣ってるとか言ったことはないけど。
たいがい「好き」か「嫌い」か「興味ない」という主観でしか見てないけど。

また漢詩を持ち出して場を収める熊谷パパもいい味出してんじゃないの! 惚れる!
花とか雪が登場する漢詩を美青年が呟くのもいいけど、
信直さんのような筋骨隆々イメージのおっさんが持ち出すと、
なんかソワッとするんですが私だけでしょうか。信直さんかわええわぁ(*´∇`*)

さて、次章では将軍義昭ちゃんが登場予定ですぞ!
2012-09-19

川中島合戦評

これまでのあらすじ:
元春から使者として信玄・謙信のもとに遣わされた佐々木が帰ってきて、
元春に甲斐・越後で見聞きしてきたことを語る。
話は川中島合戦、西条(妻女)山に陣取った謙信を追い払うべく作戦を練る信玄と、
それを察して密かに山を下り、不意打ちをかける謙信だったが、
謙信もまた思わぬ敵襲に遭って退却を余儀なくされた、というのが甲斐で聞いてきた話。


佐々木、信玄・謙信の物語のこと(3)

「また越後では、大筋は同じなのですが、最初の合戦には謙信が打ち勝ったので、
信玄の旗本も川を越えて退却したということになっています。
謙信がそのまま追いかけていらしたならまさに大勝利だったのに、
謙信は割り菱の具足をつけた対象と思しき者を、
三尺一寸あった兼光の刀で具足の上からズンと切って落とし、
「信玄を我が手で討ち取ったり」と大いに喜び、油断していました。
これは、実は信玄の弟の武田左馬助という人でした。

その場所は竹の俣というところだったので、その刀を「竹の俣兼光」と名づけ、
門外不出にして秘蔵していると聞いております。
また、その刀は竹の俣という者が謙信に献上したものだから
「竹の俣兼光」と呼ばれるようになったとも聞きます。

こうして信玄を討ち果たしたと気を緩めていたところへ、
西条山へ向かっていた一万ほどの勢が後ろから思いもかけずに襲い掛かってきたので、
謙信は二度目の合戦に打ち負けて退却したそうです。
また謙信は信濃の国下米宮において信玄に大勝し、武田大坊をはじめとして、
信玄の譜代の侍大将数人、それに駿河の今川家から援軍として差し向けられた朝比名などを討ち取って、
大勝利を得たとも言われていました。

関東では「家康には信玄、信玄には謙信」と言い習わしています。
けれどもどちらが優れていてどちらが劣った大将だと言うようなことはありません。
今は家康は兵数が少ないから信玄と戦って勝利できなかったものの、
兵が同数なら、勝つことはあっても負けることはほとんどないだろうと、
人々は皆言っているそうです」佐々木はこう語った。

杉原播磨守はこう言った。
「合戦の様子を聞くと、まさに名将の出会いというのは、二つの鏡を対面に置くようなものですな。
しかしこの盛重の愚案を申しますが、さしもの良将にも少しは間違いというものがあるのだと思います」
天野隆重が「では盛重の思うところを申されてください」と言うと、盛重は話しはじめた。

「では私の考えを口任せに述べてみましょう。
信玄の魂胆を、西条山から暗に見抜いていた謙信は、実に千里眼を得たのかとも思えるほどです。
ここでは、信玄に一つの誤りがあったと思います。
それは、信玄ほどの良将が、どうして西条山に忍びの兵をつけなかったのか。
忍びの物見を出さなかったがゆえに、謙信が密かに西条山を打ち立ったことも知らず、
かえって謙信に不意を突かれてしまったのです。
このせいで弟の左馬助・山本勘介などをはじめとして、一騎当千のつわものたちを失ったばかりか、
信玄も命からがら生き延びたのが幸運だと思えるほどの大敗を喫してしまうことになったのでしょう。
これは信玄の謀略が不足していたからにほかなりません。
それなのにどうして信玄に手落ちがなかったなどと言えるのか。

また、さしもの謙信も心を一方にばかり傾けて、信玄の不意を衝こうとばかり考え、
密かに西条山を忍び出て、馬がいななかないように舌を結び、
兵たちには声を出さないように木片を口にくわえさせて、
信玄の不意を衝こうとしたのは一隅を守るだけの行為です。

まさに戦を決しようというときには、まずは自分が負けないように準備をしてから、
その後に勝つための行動をするものなのに、
謙信は負けないようにすることはまったく顧みずに、勝つことにばかりこだわって、
自分の謀略を敵は知るまいと思って侮ったのは、地獄に向かって活計を寝るようなものではありませんか。

もし信玄が忍びの物見を出していたならば、どんなに越後勢が忍んで行動していても、
一万あまりの兵が行軍しているのにまったく気付かないというころはないでしょう。
もし信玄が西条山から謙信が出たのを知っていたならば、馬場・高坂たちを西条山に向かわせたりせずに、
謙信の後ろから備えを固めて攻めかかったはずです。
謙信がこれに渡り合おうとすれば、後陣はかえって先陣になってしまいますから、
まず最初に小荷駄隊が切り崩され、後ろ備えから乱れ立って旗本まで切りかかられ、
十中八九は西条山へ向かった武田勢だけに敗北してしまうと思います。

そうはいっても、義経以来の大強将と名高い謙信のことですから、自身で大いに防戦するかもしれません。
ここで利を失わなかったとしても、ここまで戦って乱れた隊列に、
信玄が七、八千の兵で攻めかかってくれば、
どんなに大強将の謙信といえども、たちどころに敗北するばかりか、
十中八九、長尾の家はこのとき滅亡することになったでしょう。
これを考え付かずに、敵の不意を衝いて勝つための作戦ばかり考え、
自分が負けて死ぬかもしれないということをわきまえないのは、謙信も十分に智があるとは思えません。

私が謙信ならば、西条山で陣を固めていたはずです。
信玄にさえ勝てる謙信なのですから、高坂・馬場がかかってきても、
たった一戦で勝利することができるでしょう。
そしてこの戦の後に兵を引き揚げるだろうと考えた信玄が、穴を見守って兎が出てくるのを待つように、
旗本の備えを固くして待っているはずです。
その思惑をそらして退却せずに、そのまま西条山に陣を固め、
勝った勢いを残したまま陣取っていればいいのです。
信玄は、「粗雑な一戦をして多くの兵を討たせたばかりか、敵に利をつけてしまった」
と深く後悔するでしょう。
そのときに再び戦ったとしても、謙信が勝つはずです。
また、サイ川を越えて引き揚げるにしても、勝って引くならまったく問題はありません。
こう考えると、良将ともに不足な点がありますので、十分な謀略があるとは思えません」


以上、テキトー訳。あと1回!

まあ切りどころが悪かったよねー、と少し反省している(´・ω・`)
そして、盛重と隆重、いつからいたのwwwww
佐々木が元春に報告してるシーンなんじゃないの。
盛重たちも同席してたの? いきなり名前が出てくるからびっくりするわー。
たぶん現代小説ではやってはいけない登場方法だろうね。

おそらくこの盛重の語りの部分は、「盛重が語った」ってことにしただけで
正矩自身の考えなんだと思う。
「家康には信玄、信玄には謙信」なんて言葉ができたのはこのころよりもっと後のことだろうし。
それにしても盛重さん、ホントよく出てくるな。
すごく気になってきたからそのうち杉原氏関連の論文とか読んでみよう。

今回気になったのは、忍んで行軍する様子を表す「駒の舌を結ぶ」「枚を銜える」という言葉。
意味がわからんので調べたら、「銜枚(かんばい)」なんて単語があるらしいよ!
ていうか夜討ちなどをするときに声を立てないようにするためのグッズがあったのか!
なんか、猿轡っぽいというか……まんま猿轡かwww やwwらwwwしwwwwwww

そんなわけで次回、これを聞いてた天野さんのターン!?
2012-09-17

川中島合戦、甲州の言い分

前回のあらすじ:
甲斐の武田信玄・越後の上杉謙信に、元春からの使者として遣わされた佐々木が帰ってきた。
見聞きしたことを元春に報告する、その内容の最中から。
謙信は父と死に別れた後に乳人の紹田一族に謀反を起こされ、兄二人を殺されたものの、
喜平次景虎だけはどうにか命をつなぐ。
数年後、挙兵した景虎は紹田と前面対決の構えを見せた。
紹田の婿だった柿崎は府中の城を預かったが、古くからの主従の契りを忘れずに、
景虎へと寝返って、府中の城で紹田城門郎を討ち果たした。


佐々木、信玄・謙信の物語のこと(2)

「柿崎は、弟弥二郎の妻が紹田の娘だったのでこれを離別させ、
すぐに数千騎を率いて末本の郡へと打って出ると、紹田に対してはっきりと敵対しました。
その後あちこちで合戦がありましたが、景虎は智勇をともに兼ね備えた良将でありました。
本庄・色部・中条・黒河・加地・竹股・大河・相川などは
一騎当千の勇士だったので、戦のたびに勝利します。
紹田は次第に威勢も衰えて、自分の城に引き籠るようになりました。

同十八年五月、新発田尾張守を大将として、本庄・色部・中条・黒河・
加地・竹股・大河・相川などを添えて打って出ると、
七月十日には安田・村松の城を乗り破り、一人残らず切り捨てにしました。
同十九日、本庄美作守が刈輪の城に攻め寄せて攻め破り、常駐の兵たちをすべて討ち取ったので、
紹田久三郎は新山の城に引き籠り、同久五郎は黒滝の城、父の常陸介は三条の城に立て籠もって、
城を落とされないようにするだけで精一杯でした。

同十九年の春、景虎は数万騎を率いて越之郡に発向され、三条の城をお攻めになりました。
追手の先人は新発田尾張守・色部・本庄弥二郎・加地・竹股、二陣は斉藤・中条・黒河・直江、
その後ろには景虎が総大将として控えています。
搦手の先陣は越之駿河守・新津孫二郎・平賀久七・高梨源三郎・桃井清七、
二陣は本庄美作守・虎崎・大崎です。
そして三条の城に押し寄せると、紹田もたいそうな剛の者ですので、散々に防ぎ戦いました。
とはいえ、これまで積み重なった無道・不義のせいで天の冥罰をたちどころにこうむり、
ついには滅び果てたそうです。

その後翌年正月朔日、紹田久三郎が立て籠もっている新山の城へと、
高梨源三郎が夜半に忍び入って、紹田たちを切り捨てました。
城中には芳賀・吉原・武藤・山田・宮川などという者がいて、
これらは皆高梨の譜代の郎党だったのですが、一旦紹田に従っていた者たちです。
しかし彼らは主君の高梨に心を合わせて城中に引き入れ、紹田を討たせたそうです。

同五月二十六日、景虎は黒滝の城を攻めました。
紹田久五郎をはじめとして一族郎党を残らず討ち果たすと、二人の兄の供養として、
自身もこれまでの鬱憤を散じられたということです。

同二十二年、景虎は越中へと発向されました。
岩瀬・滑川を皆攻め破り、その後永禄六年からまた越中へと発足なさって、
同十年までの戦のうちに、ついに良衡の子孫・一族の首をことごとく刎ね、
父為景を殺された恨みを晴らし、同十二年には能登を切り従えて、
加賀の国も少々手に入れたそうでございます。

また武田の信玄とたびたび合戦していますが、なかでも龍虎の戦いにもたとえられるのは、
信州川中島の合戦だと聞き及んでいます。
その合戦の有様を、だいたい尋ね聞いてきました。
しかし、関東でもあれこれと違った説があるようです。

まず、謙信が川中島の城を攻めようとして、西条(妻女)山に陣を構えました。
信玄は後詰のために数万騎を率いて発向すると、越後への退路を塞ぎ、陣を据えました。
けれども謙信はたいそうな強将ですから、退路を塞がれても少しも心配する気配がないように見えます。
信玄はまた家老や武道の功のある者たちと話し合って、
『この表の陣を引き払って川中島の城に入れば、謙信は帰路が開いたと喜んで、
越後へと退却していくだろう。退くならば退かせてやろう』と決し、
甲州勢はそこの陣を引き払うと川中島の城に入りました。
しかし、謙信はとにかく武田信玄と勝負を決する一戦をしたいと常日頃から望んでいましたので
道が開けても越後へと帰る気配も見せず、なおも西条山に陣を据えたまま、ゆったりと過ごしていたのです。

信玄はこれをご覧になって、また弟の左馬助・高坂弾正・馬場美作守・内藤修理亮・
山県三郎兵衛尉・小山田兵衛尉・真田源太左衛門、そのほか六奉行の者たちを呼び集めて、
合戦について会議を開きました。
この後、信玄は二万の勢を一手にまとめると西条山を差し向けましたが、
これは『一戦すれば、謙信は勝っても負けてもサイ川を越えて越後へと陣を退くだろう。
そのときこの信玄が道筋に備えて待ち受け、敵がはじめの合戦に疲れて備えを乱して退却するところに、
新手の我が旗本勢で攻めかかって切り崩そう』という作戦でした。
謙信は、西条山からわずか五十町ほどしか離れていない川中島の城を見て、
その城中があれこれと騒がしく篝火も多く焚かれているのに気づくと、
『信玄はきっと明日合戦をしようと決めたのだろう。謀略はこれこれこうしたものだろう』と言って、
信玄の作戦を微塵も違えず言い当てました。
謙信は神に通じているのかと、人々は皆感心したそうです。

そして謙信はこんなことをおっしゃったそうです。
『信玄は、最初の合戦はこの西条山、そして私が一戦して引こうとするとところに、
自分は旗本を引き連れて道の途中に向かい、新手の兵で我らを切り崩そうというのだろう。
謙信を、信玄の旗本勢で追い崩したということにして、
自分の武勇がこの謙信より勝っていると諸人に褒め称えられたいという欲が、暗にわかる。
私もまた、不意に襲撃して、あっという間に敵を挫いてやろうではないか』

こうして謙信は、直接信玄の旗本に攻めかかるために西条山を忍んで下りていきます。
夜の間のことでしたから、甲州勢はこのことにまったく気付きません。
高坂・馬場などが西条山に攻め寄せているうちに、謙信は信玄の旗本へと車がかりの陣で無二に攻めかかり、
興亡をかけた一戦を挑みます。
甲州勢は切り立てられ、信玄の旗本も危なく見えましたが、
そこに西条山へと向かった勢が鉄砲の音に驚いて駆けつけてきたので、
後ろから越後勢に攻めかかって謙信を切り崩したのです。
謙信は仕方なく高梨山へかかり、越後へと兵を引き揚げたそうです。
これは甲州勢が申していたことです」


以上、テキトー訳。まだ続く!

「私の聞いてきたことなんてぇ///」ともったいぶってたくせに、佐々木、ずいぶん語るなwww
謙信(景虎)が兄と父の復讐を果たしたところから一気に話が川中島に飛ぶんだな。
謙信のこと、よく知らないけど、もっと他になかったんだろうか……

ともあれ川中島合戦、江戸初期でもいろいろ見解が分かれてたんだねぇ。
そんなわけで次回は越後ではどんな風に語られてるか、といったところから始めようと思う。

ちょっと短い気もするけど、実は、
昨日はしゃぎすぎたツケが回って、体中がギッシギシいってるのですよ……_ノ乙(.ン、)_
だが好きなことしてきたんだから、我が人生にいっぺんの悔いナス!
2012-09-16

佐々木、大いに語る

今日は早朝から神輿を担いできましたよーーーー!
幸せ!!! 神社の紋が左三巴だったしな。
広家の具足の意匠にも使われてる「龍の丸」柄のシャツを着たんだ! 幸せ!
酒は島根ショップで買ってきた「月山」を飲んだ! うまい! 幸せ!!!

すでに筋肉痛でヒイコラ言ってるけど、少し眠ったので問題ない。今日の陰徳記。
だいたいの流れ:
尼子再興軍を追い詰めつつあるものの、勝久・鹿介といった中心人物を取り逃がしたまま迎えた春。
元就の在世中に使者が来たものの、老病で亡くなったことで返礼をしないままでいたことを気に病み、
元春は部下の佐々木源兵衛尉を甲斐の武田信玄・越後の上杉謙信のもとへと遣わした。
佐々木はどうにか甲斐・越後にたどり着いて信玄・謙信に対面を果たすと、安芸へと帰ってきた。

長いので数回にわけまする。


佐々木、信玄・謙信の物語のこと(1)

元春様は佐々木に対面して、「見てきた武田・上杉の軍備の様子などを詳しく聞かせてくれ」といった。
佐々木は了承して話し出した。

「信玄・謙信につきましては、どちらも智勇兼備の良将でございます。
私のような愚蒙の身が、どうしてその良将の軍事情報など、何を見て何を聞いてきたなどと言えましょうか。
この目や耳は粗末なものですので、とても申し上げがたく思います。

しかしながら、謙信は幼少のときに父の為景と死に別れ、その後やがて親の敵を討たれて、
寡兵で大軍を打ち破り、最終的には数カ国を切り従えるようになったと聞いております。
また信玄は、まだ少年のころに父の信虎を追い出し、甲斐一国を手になさると、
これも強大な敵をものともせずに、戦のたびに勝利を収めて、今は五ヶ国を切り従えたそうでございます。
父を追い出したというのは、信虎は勇にかけては卓越した大将ではございましたが、
大欲不当の大悪将でもあり、次男の左馬助(信繁)を当主にして家を相続させ、
嫡男の晴信には国を譲らないと決めたのです。
晴信はこれに大いに憤り、家老の飯富兵部(虎昌)という者と協力し合って駿河の今川義元を頼り、
信虎を騙して追い出したそうです。
晴信が武田家を相続すると、木曾・小笠原・諏訪・村上・北条・上杉・徳川といった強大な敵と、
毎年数回も戦をしたようですが、そのたびに勝利を得ています。
これによって、当世の諸将のなかで飛び抜けて智勇の誉れ高い良将だと称されているということです。

また謙信につきましては、父の為景は越中の良衡と数年越しの敵対関係にあって、
永正二年に越中へと発向したところ、石田・大須賀と申す者たちが反逆したので、
為景はたちまち敗北してしまいました。
滑川でいざ自害しようとしたときに、飯沼源太・高梨源五郎が主君に代わって比類のない討ち死にを遂げ、
その隙に為景は十死一生の難を逃れて、佐渡に退却しました。
佐渡の国主の高信は為景にとっては姪婿でしたのでそこを頼り、翌年の春まで滞在して、
やがて越後に帰ると、石田・大須賀兄弟、並びにその婿の五十嵐を討ち果たして、会稽の恥を雪ぎました。

その後天文七年、また越中へと発向なさって、そこでの初戦で勝利を得ましたが、
それで油断してしまって二度目の合戦でたちまち勝利を失って、仙段野というところで自害なさいました。
法名は道室というと聞いています。

嫡子平蔵景康・次男左平次景房・三男喜平次景虎の三人の人々の乳人は、
もとは越前の者でございましたが、朝倉と戦って利を失い、、国を追い出されて流浪の身となり、
長尾を頼って召抱えてもらいました。
父は紹田常陸介といって、これは平蔵殿の乳人につけられ、
嫡子の紹田久三郎は左平次殿、次男の紹田久五郎は喜平次殿の乳人につけ置かれました。

為景が自害なさった五年後、天文十一年三月十三日に紹田父子が謀反を起こし、
紹田久三郎が平蔵殿を切り殺してしまいました。御年四十一歳であったそうです。
十九歳だった弟の左平次殿は、十三歳になった三男の喜平次殿とともに二の丸から脱出しようとしましたが、
紹田はかねてから討手を用意していたので、逃すまいと追いかけてきました。
次男左平次景房は取って返して散々に戦い、追手の兵を数人切り伏せると、
ついにご自身もそこで討ち死になさいました。
その隙に喜平次殿は門のところまで逃げることができました。

門番としていた小島勘左衛門・山岸六助という者たちは、この若君を隠せる場所がないので、
敷板を撥ね起こしてその下に入れておくと、夜になって林泉寺という寺に逃がしたのです。
折りしもそのとき、林泉寺には栃尾の常安寺という僧が居合わせていましたが、
長尾は先祖代々の主君でしたので、その夜のうちに供奉して栃尾へと帰り、
長尾の重臣の本庄美作守のところへと送り届けると、すぐに美作守は喜平次殿を深くかくまったのです。

紹田は「喜平次景虎はまだ幼少ではあるけれども、心栄えは普通の人間よりもはるかに優れていて、
良将の器に見える。いかにも行く末が恐ろしい」と話し合って、
三年間ずっと寺という寺、神社という神社まで捜索させましたが、
深く匿われ忍んで暮らしていらしたので、誰も喜平次殿の行方を知りませんでした。
そこに、山東郡の内宮本というところの茶売りの文七という者が紹田に訴え出て、
景虎が忍んでいることを詳しく知らせたので、
紹田は大喜びしてすぐに戸屋・佐貫・尻藤・松尾などという者たちを大将として、三千余騎を差し向けました。

これを聞くと、景虎への加勢として、上田から樋口・金子・斉木・栗林といった屈強な兵たちが、
こちらも三千騎ほど差し出されたので、喜平次景虎はこの兵力で一戦を始め、たちまち勝利を得たのです。
戸屋・松尾二人の大将を討ち取り、そのほか敵を多数討ち取りました。
この年、景虎は十五歳でした。これが初めての合戦だとのことです。

こうして紹田には、昔の主従のよしみを忘れず、越前の者たちあちこちから駆けつけてきたので、
次第に大軍になっていきました。
そのうえ柿崎を婿にとっていたので、その威勢は日々増してゆき、
国中の勢が味方について三万ほどになったそうです。
このため、府中の城にいながら越後の国主のようになり、
越中・能登にも手をかけんとするほどの勢いになりました。

同十五年、婿の紹田監物に婿の柿崎を添えて府中の城に残し置くと、
紹田父子三人は府中の城を出て、まず紹田久五郎が栃尾へと攻め寄せてきました。
同久三郎は上田へと発向し、父常陸介は後ろの備えを強くするために、三条の城に移って立て籠もりました。
黒滝の城には親類の森備前守、新山の城には郎党の山下又左衛門、
刈輪の城には瀬良田九右衛門、村松の城には野本大膳、安田の城には篠塚惣右衛門、
菅石の城には重堂式部少輔、新潟の城には森岡十左衛門などを入れ置いてあちこちの敵を押さえ、
自身は背後をまったく気にすることなく、景虎を討ち取るために大軍で発向していきました。

しかし柿崎は、一旦は縁者として逆徒の紹田に一味したとはいっても、
長尾が先祖代々の主君ですので、忠功の思いを忘れずにすぐに態度を翻し、
同九月六日、府中の城で紹田城門郎を討ち果たし、そのほか紹田に従っていた兵たちも切り殺したのです」


以上、テキトー訳。続く!

あらあら、いつもは「遠国のことはワカンネ( ゚Д゚)、ペッ」で済ましている正矩が、
今回はどういうことでしょうね( ´艸`)
たぶんどこかの軍記物を参考にして、佐々木が語ったという筋立てで話を進めてるんだろうなw
甲陽軍鑑とかなのかな? 甲陽軍鑑読んだことないからわからないんだけども。
しかし信玄は、祖母の家が山梨にあるので、なんとなく親しみがある。
恵林寺の廟所も行ったことあるしな。
私の実家も静岡ではあるけど、戦国期は信玄の影響が強かったっぽい。
今度ちゃんと調べてみよう。

そういえば謙信は「軍神」と言われるほどの武将だという認識はあったけど、
その人生はほとんど把握してないなぁ。前半生は特に。
いろいろ大変だったのね……かわいそうに(´;ω;`)

そんなわけで今回ちょっと中途半端な感が否めないけど、
次回は佐々木の語りの続きから。
「私なんかが語っても」とかモジモジしながら長話する佐々木ェ……
2012-09-14

佐々木の大冒険

同僚が宮島旅行のついでに岩国に行ってきたらしい……いいなぁ((└(:D」┌)┘))
私も来年は旅行するんだ!
今年はお金を資料につぎ込んでるけど、来年こそは!
でも来年も資料収集欲が衰える気がしないお(´;ω;`)

さて陰徳記、だいたいの流れ:
尼子再興軍の殲滅に時間がかかっているうちに元就が亡くなり、
その弔い合戦で山中鹿介を生け捕ったものの、身柄を警護していた宍戸・口羽は隙を突かれてしまい、
鹿介はまんまと逃げおおせた。
元春は新山の勝久を攻めたが、勝久も隠岐へと落ち延びた。


武田・上杉、元春より使いのこと

翌けて元亀三年、二月の半ばも過ぎ、峰の雪汀の氷も溶けると、
もう北国へも往来しやすいだろうと、元春様は佐々木源兵衛尉を呼び寄せた。
「お前を甲陽の武田大膳太夫入道信玄、北越の上杉喜平次入道謙信へ遣わそうと思う。
去年・一昨年の間に、信玄からは仏道修行の僧侶に扮した者が、
また謙信からは六十六部回国聖の格好をした者が、元就や隆景、それに私にも使者として遣わされてきた。
元就からも、関東・北国へと侍を差し下されるだろうと思っていたが、
老いと病が御身を侵してしまったので、そのまま打ち過ぎてしまっているうちに、
ついにお亡くなりになってしまった。だからこれは中止されていたのだ。
これからお前を両家へと遣わすので、武田・上杉の軍事の様子もよくうかがってこい」
元春はこう命じた。

佐々木はかしこまって元春の御前を退出した。
畿内・東海道には信長があちこちに関所を設けており、たやすく人を通さなかったので、
佐々木は泉州の堺というところにいる宗質という者を頼って、そこまで上っていった。
すると政庁がそれを聞きつけて、
「宗質は中国に肩入れしている者だ。
だから、誰ともわからぬ者が忍びやかに訪ねてきたのは、
四国・中国・鎮西から回文などを持ってきた使者だろう。
これは怪しい」と、宗質を問い詰めてきた。

宗質は佐々木を隠すことができなくなったので、
もともと四国の牢人であった宥西という者を紹介した。
この者は、今は実を養うために商売をしているとはいえ、元来は武士だったので、
その心栄えは普通の町人とは違って、とても頼りがいがあって世話焼きである。
宗質が宥西に頼み込んで、「この人をかくまってくれ」と言うと、
宥西は快く請負って、すぐに源兵衛尉を塗込めの蔵に入れた。

宥西は「もしこのことがばれてしまって敵があなたを探そうと蔵の前に来たならば、
そのとき内側から切って出てください。
私もまた後ろから切り回り、思い切り戦って討ち死にしましょう」と言った。
けれども佐々木の運が強かったのか、まったく人に気付かれることがなかったので、
ここにしばらく隠れていた。
その後、ほとぼりが冷めると、宥西は自分と同じように腕の立つ家人を添えて、三里ほど道を送ってくれた。

佐々木はかねてから山伏に扮装しようと思っていたので、
宿出の貝・宿借の貝・朝暮の勤行などを習得して、
頭巾を頭に巻き、笈を肩にかけて、名は「快尊坊」と名乗った。
その姿で泉州境を出ると、朝暮の勤めもきっちり行ったので、
誰かに怪しまれることはまったくなかった。
そして無事に甲州に到着した。

佐々木が「元春からの使いで来た」と案内を請うと、
信玄はすぐに山県三郎兵衛尉(昌景)を奏者として対面し、盃を振舞った。
また信玄は、自分の腰にさしていたテンコゾリの脇差も与えた。

佐々木はそれから越後へと赴き、謙信は河田豊前守(長親)を奏者として対面した。
折りしも観経していたときだったが、すぐに壇上から出会ってくれた。
謙信は何を考えていたのか、山伏のいでたちで大きな禅門の頭巾を篠懸けにし、
両の腰のものを掲げて立ち出でた。
その様子は、音に聞こえた大峯の五鬼か、葛城高間の大天狗天狗かとも思えて、
見るだけでも身の毛のよだつ思いがしたという。
その後謙信は二尺七寸ほどある青江の刀を佐々木に与えた。
そして佐々木は別れを告げて芸陽へと帰ってきた。


以上、テキトー訳。

謙信はね……きっと酔ってたんだよ!
でもこの人の場合は酔ってるのがデフォルトっぽいから、むしろこのときは醒めてたのかなw
こういう風に言い伝えられてきたってことは、謙信はだいぶインパクトがあったんだろうね。
山伏装束に禅宗の袈裟かwww
ていうか元長ももし若死にしなかったら、こんな感じになってたように思うわwwwww

それにしても佐々木さん、どうせならもっとスリリングな大冒険をかましてくれればいいのに、
遠慮してつつがなく用を果たしやがって。
さすが元春の見込んだ男!と言いたいが、やっぱりちょっと面白みがないよねw

そんでもって信玄や謙信といったいどんな話しをして何を見てきたのか、
まったく書かれてないじゃない!と思ったら、
どうやら次の章でそれが語られているようだ……
2012-09-13

盛重「こォの……バカチンがーーーーッ!!!」

昨日は毎度お騒がせの首が疼いてたよー_ノ乙(.ン、)_
頭起こすのが苦痛だった……加齢っていやぁねw

今日はまじめに陰徳記、だいたいの流れ:
元就が鬼籍に入り、最期を看取れなかった元春は、弔いのために経悟院を攻めると号令する。
しかし途中で取って返し、山中鹿介の籠もる末石の城に攻め寄せた。
鹿介は油断していたのでなすすべなく、毛利勢に降伏する。
鹿介の首を刎ねろと命じる元春に、「助けておいて味方に引き入れるべきだ」と主張する宍戸・口羽。
鹿介の身柄は、一旦両者に預け置かれることとなった。


山中鹿介逐電のこと

杉原播磨森盛重はそのころ、病に臥していて末石の城攻めには参加していなかったが、
使者を送って元春様にこう伝えてきた。
「山中鹿助が今回降参してきたのは、絶対に心から服従を誓ったからではありません。
ただ一旦命を永らえるための策略でしょう。
きっとどうにかして隙をうかがって逃げ出そうとするでしょうから、どうかお心を許されませんよう。
もし鹿介が逃げたら、私があちこちの道や辻に人を出して絡め捕りましょう」

そして盛重はすぐ三柳あたりに、忍びに慣れた兵たちを選んで隠れて待たせていたところ、
鹿介の方から新山にいる勝久に遣わされた飛脚を、あっという間に捕らえて、
書状とともに元春様へ送ってきた。
元春は「盛重が言い送ってきた内容は、私の考えと合致している。たしかにそうだろう」と、
すぐに鹿介から勝久への書状を見た。

それには「末石の城を不意に取り囲まれて防ぎきれず、落城してしまいました。
一旦命をつないで、再度敵を滅ぼすために、偽って降人に罷り出ました。
なんとか警護の武士の隙をうかがい、走り抜けて新山へと参りますので、
それまではお心を強く持たれ、新山を堅固に守備して時節を待ってください。
もし兵数が少なくて新山に籠城しきれないとお思いになったら、隠岐の国に渡ってください。
私も後から馳せ参じます」と書いてあった。

元春はこの書状を隆家・通良へと送ったが、この二人は負けず嫌いだからなのか、
「杉原と鹿介とは、敵味方としてもきわめて仲が悪い。きっとこれは盛重の偽の書状でしょう」
と軽んじていた。

鹿介は、どうにかして人の目を盗んで抜け出そうと思っていたが、
ある夜、ひどい赤痢にかかったといって頻繁に厠に行った。
宵の口から鳥が鳴くころまで、百七、八十度にも及んだので
警護の武士たちもはじめこそ注意して見ていたのだが、後のほうには油断していた。
鹿介は「隙ができたぞ」と思って、厠の樋を潜り抜けた。
そのまま大山の麓を通り、美作の国へと逃げていった。

警護の者たちが「鹿介がいつもより長時間厠に籠もっている。怪しいな」と言うと、
医学知識をかじっていた者が「赤痢というのは、後重ねといってよくあることだ。
長くかかっても仕方ない」と言ったので、
警護の者たちも「そういうこともあるのだな」と言って鹿介が戻ってくるのを待った。
しかし一向に厠から出てこないので、「もしかしたら気を失って厠で倒れているかもしれない」と、
紙燭に火をともして見に行くと、鹿はさておき鼠の姿すら見当たらなかった。

「これはどうしたことだ」と驚いて、「鹿介が逐電したぞ」と言うや否や、
「道々辻々に人を出して捕らえろ」などと呼びまわり、我も我もと探索に出かけた。
馬に鞭を撃って追いかける者や、馬に乗るまでの時間さえもどかしくて息が切れるほどに走った者もいた。
しかし鹿介はすでにはるか遠くまでにげのびていた。
実に賊が過ぎ去った後に弓を張っても遅く、とても間に合うものではなく、結局捕らえられなかった。

鹿介の郎党の日野何某は大いに太っていたので、早く走ることができなくて、
大山の山に入ると木の陰に隠れて様子をうかがっていた。
鹿介と追手はわずか十町ほど離れていただけだったが、鹿介が足早に走り逃げていった。
日野はその後、鹿介が美作に入ったと聞いて、後から忍んで追っていった。

杉原盛重はこれを聞いて、「だから私が、鹿介は隙を見て逃げ出すぞと言ったではないか。
それなのに宍戸・口羽の不喞留(ふしつる)漢(愚か者、ばか者)どもめが、
しっかり留めておかなかったのか」と、大暴れして激怒し、頭を掻き眉をしかめていた。
やがて例の書状と飛脚を宍戸・口羽の陣に引かせると、
二人の人たちはこれを無視していたので返す言葉もなく、恥ずかしそうにしていた。
盛重は「とにかく飛脚を殺してください」と言ったが、
宍戸・口羽は「首を刎ねても仕方ない」と、路銀を渡して追い払ってしまった。

元春は「こうなったら新山に攻め寄せて勝久を退治しよう」と、
宍戸安芸守隆家・口羽刑部大輔通良・杉原播磨守・南条入道・三沢・三刀屋をはじめとして
七千余騎で新山へと急いだ。
勝久は持ちこたえることができずに、同八月二十一日、新山を明け退いて簾岳というところへ落ち延びた。
元春がそこにも続けて押し寄せると、勝久は加賀の浦の桂島へと船で逃げる。
児玉内蔵太夫が数百艘の兵船で追いかけるとここにも留まることができずに、隠岐の国へと渡っていった。

これでこの国では敵城が一つ残らず落ちたので、人々は毛利に属すほか道はなかった。
元春様は「これは杵築(出雲大社)・神魂の神助のおかげだ」と言って、
同二十七日、杵築大明神には鹿毛の馬に金覆輪の鞍を置いて寄進し、
神魂には葦毛の馬に同様の鞍を置いて奉納した。


以上、テキトー訳。

盛重さんいいキャラだなぁ(*´∇`*) さらに好きになってきたw
犯罪人を召抱えておきながら殺そうとしたりするしなぁ。
忍者もいっぱい召抱えてるし。
あー……杉原家おもろいーーー!!!

そんなわけで、ようやく鹿ちゃんが脱出成功したね!
「まさか便所で倒れてるんじゃないか」なんて心配しちゃう
宍戸・口羽の警護の皆さんやっさすぃ~~~!
便所からの脱出って、やっぱ下水道みたいな中を通るのかな?
このころの「樋」ってのがしっかりとつかめない。
これまでもよく出てきた「架け出しの雪隠」てやつならば、
密通や襲撃の経路によく選ばれてるから、人の出入りはけっこう簡単なんだろうな。
ともあれ、また鹿ちゃんが活躍してくれるのを待とう!

今回お勉強になったのは、「不喞留漢」って罵り言葉だな。
けっこう罵倒のバリエーションが豊富だったんだね。
担板漢、風癲漢、そして不喞留漢。今でも残ってるのは風癲漢あたりかな。

次章は元春が信玄・謙信に使者を遣わすようだ。
2012-09-11

元春・鹿介の駆け引き

今日はついついブラウザゲームに白熱してしまったので、短い章を一章きりでござんす。

だいたいの流れ:
元就が亡くなり、弔い合戦と称して経悟院を攻めると発表した元春だったが、
いきなり進路を変えて、鹿介の籠もる末石を取り囲み、鹿介を生け捕った。
元春はそのまま鹿介の首を刎ねるつもりであったが、
宍戸隆家・口羽通良が味方に引き入れるようにしきりに主張するので、
鹿介の身柄は一旦、宍戸・口羽に預け置かれた。


鹿介愁訴のこと、並びに八橋の城を明け渡すこと

山中鹿介幸盛は、宍戸安芸守隆家・口羽刑部大輔通良を通じて元春様へとこう伝えてきた。
「今回私の一命を助けてくださったのは実にありがたいことです。
一生涯忘れることはありません。
しかしだからといって、今すぐにそのご厚恩に報いようとして、
つい昨日まで主君と仰いでいた勝久に向かって弓を引き、矢を放つというのは八逆の大罪、
畜類にも劣る振る舞いです。ですからこれだけは御免蒙りたい。
五百人扶持をいただけるなら、さまざまな牢人たちを集めて伊予の国に攻め渡り、
そこから長曽我部の領国土佐にに攻め入って、切り取れるだけ切り取って毛利家の領国にいたしましょう」
元春はこれを了承することはなかった。

すると鹿介はまた「四国は中国からそれほど離れていないから、
私に隔心があって、首を縦に振ってくださらないのでしょうか。
それなら千人扶持をいただけたなら、九州に罷り渡って国を切り取ってまいりましょう」
と望んだけれども、元春はこれも許さなかった。

鹿介は「さては深く疑っていらっしゃるのだろう」と思ったのか、
「私が降伏してきたのですから、あちこちの城を明け渡すのがよろしいでしょう。
まずは当国の八橋の城をお渡ししましょう」と、
宍戸・口羽の勢三百余騎に鹿介の郎党、日野又六という者を添えて、
八橋の城に「明け渡すように」と言い送った。

その城には福山次郎左衛門がもともと籠もっていたのだが、
横道権允も先日稲石に攻め寄せ、鉄砲で足の親指から踵まで撃ち抜かれてしまったので、
その養生をするためにこの城に籠もっていた。
この者たちは鹿介の伝達を聞くと、
「鹿介め、なんとおかしなことを言うのか。
味方であったならその下知にも従うが、自分の命惜しさに義理をも法をもかなぐり捨てて、
人に嘲笑われるのも気にせずに、兜を脱いで敵に降り、
諸人に顔をさらすのを恥ずかしいとも思っていないようだ。
何の面目があって、我らに城を渡せなどと言ってこれたのだろう。
敵になっても昔のような思いやりを持てるとでも思っているのか」と、
散々に鉄砲を撃ちかけて追い返した。

そうは言っても、なかなか八橋の城を持ちこたえることはできそうになく、
南条入道が扱いを入れると、福山・横道は城を明け渡して新山へと入っていった(元亀二年八月二十日)。


以上、テキトー訳。

鹿ーーーー!
もっともらしいことを言いながら、兵を手にしようとは憎いやつ!
このやりとり、駆け引きめいててなかなかスリリングだね。
このとき鹿介に兵を預けてたらどうなったのかな。
九州や四国に行くふりをして、勝久のもとに戻るつもりだったのか、
もしくは吉田を攻めるつもりだったのか……いや、千や五百じゃ吉田攻めは難しいか。

今回気になったのは、横道権允さんの怪我だよ。
鉄砲で足撃たれたのか。かわいそうに。
親指から踵まで貫通……すごく、痛そうです><
こういう怪我人がどうやってまた戦場に戻っていくのかってのも気になるなぁ。

さて、次章も鹿ちゃんの動向に注目だ!
2012-09-10

謀神死す

だいたいの流れ:
尼子再興軍を正面切って叩き潰すも、勝久・鹿介という根っこを断ち切れず、
元就の容態が悪化するなか、一人出雲にとどまって、残党の掃討に力を注ぐ元春。
尼子では主力だった秋上家の調略も無事果たしたものの、
いよいよ元就に最期のときが近づいていた。


元就朝臣逝去並びに鹿介生け捕りのこと

元就様は病にかかったものの、数々の医療の手を尽くして、ようやく快癒した。
しかし若年のときから戦場の霜雪に身をさらされ、心も休まるときがなく、
その疲れが身に積もっていたからか、非常に老衰してしまった。
元亀二年六月十二日からいよいよ容態が悪くなり、同十四日、七十五歳でついにこの世を去った。
輝元・隆景は、それは嘆き悲しんだ。そして葬礼を丁重に執り行った。

いっぺんの煙となって立ち上ったのを見ても、面影をすらとどめてはくれない。
無常の風が誘い引いていく煙さえ、これを名残と詠む間にも、涙は止まらずに流れ落ちていく。
送りを済ませて帰る道すがら、まるで夢の中にいるような心地だった。
元就様が身近に召し使っていた人々はさておき、遠方で仕えていた者たち、
心もないような身分卑しい男女にいたるまで、これまでの深い恵みがありがたくて、
「なんということだ」と嘆き悲しんだ。
この様子は、大聖釈迦牟尼如来が沙羅双樹の陰で涅槃に入ったときに、
すべての弟子は言うに及ばず鳥や獣たちにいたるまで残らず嘆き悲しんだという故事も、
まさにこのときのようだっただろうと思われて、実に涙を誘った。

出雲の高瀬表へも、すぐに早馬が出されてこのことが知らされた。
元春様は非常に悲しんで、諸軍士がすぐに本陣に駆けつけてお悔やみを申し述べると、やがて対面した。
「元就が亡くなったのは是非もない次第だ。
それにしても私は、敵の残党を退治するためにこちらに駐屯していたから、
今わの際の孝行さえ遂げられなかった。
この名残惜しさは他の兄弟たちの比ではない。
たった一人でこんな思いをしているような気がする。どうかこの心中を察してほしい。

けれども、今嘆いていても父が帰ってくるわけではないのだから、供養を丁寧に行う他にできることはない。
僧たちを集めて写経や念仏で供養するのは、吉田で輝元・隆景が手配しているだろう。
それなら私は、周の武王が父の文王崩御のときに兵を発して紂を討伐した例に倣おうと思う。

伯耆の大山の宗徒経悟院は勝久に一味した。
このおかげで鹿介は末石の城に籠もることができ、
福山・横道が八橋の城に籠もって国中の人々を悩ませている。
元就の初七日の供養のために経悟院を切り崩そうと思う。
元就に恩を感じている者は、これまでにも増して身命を投げ打ち、敵を挫いてほしい。
亡父元就の供養としては、仏前に供え物をしたり僧を呼んで供養をするよりも、
なお勝る行いになるだろう」

元春が涙ながらにこう語るのを聞いて、諸軍士は「仰せ畏まりました」と言うと、
こまごました返事もできず、ただ鼻をかみ頭を垂れて、しばらくは物も言えないでいた。
ややあって、南条伯耆入道宗勝が口を開いた。
「中国の武人で、元就公のご恩を海山のように蒙らなかった輩など一人もおりません。
そのなかでも私は、尼子のせいで本国を追い出され、数年間は山名を頼っておりました。
そのまま本望を達することもできないでいるところに、元就公がお力添えをしてくださって、
本国に再び帰ることができたばかりか、新恩の給地を数ヶ所も賜りました。
こうして安んじて人生を楽しめたのは、天地の恩、父母のよりも優れた元就公のおかげです。
これに比べれば須弥山など低い山、蒼海も浅いように感じてしまいます。
今回の経悟院攻めではこの入道が一番に攻め入って、
あの悪僧めらを絡め捕って、元就公のご恩に報いましょう」
南条はそう言うや否や声を上げて泣き出した。
その座にいた侍たちは、はじめは涙を押さえてしのび泣いていたが、これを契機に皆号泣した。

さて同二十日、三沢三郎左衛門・三刀屋弾正左衛門・杉原元盛・南条入道宗勝をはじめとして、
出雲・伯耆勢が一人残らず馳せ集った。
そのほか宍戸・熊谷・佐波・口羽など六千余騎が、伯耆に発向すると披露して、高瀬表を打ち立った。
山中鹿介たちは、「元春が伯耆へと討ち入ってくるなら、
あちこちの城に配備している兵力を集結させ、後詰して一戦すれば、
経悟院と挟み撃ちにして間違いなく勝利を得られる」と独笑いしていた。

元春様は勇だけでなく智も謀も優れた良将なので、東南に目を向けながら北西のことを考えられる。
これに気づかなかったのではどうしようもない。
元春が伯耆の大山に発向すると発表したのは、敵が末石を取り囲むと聞きつけたならば、
鹿介が城を出てしまうだろうから、逃がすまいとして「大山に向かう」と諸軍士にも言ってあったのである。
しかし実際は鹿介を攻め落とそうと考えていたので、
道の途中から取って返してヒタヒタと末石の城を取り囲み、
鹿垣をしっかりと結いまわして仕寄をつけ、勢を籠めて組み上げ、
城中を下に見ながら、息も継がずに攻め寄せた。

鹿介はすっかり油断していたときだったので、ほとんど防戦らしい防戦ができずに、
宍戸安芸守・口羽刑部大輔通良を通して降参を申し出た。
元春様はすぐに城を受け取ると、その夜には「すぐに鹿介の首を刎ねるように」と命じた。
しかし宍戸・口羽は強硬に「鹿介の一命を助けてやってください」と主張した。
元春は「いやいや、鹿介は勇気も智謀も人に勝っている。助けておいたなら将来の禍になるだろう。
鹿介がこの城にいるのを逃すまいとして、私は今回謀略をめぐらして生け捕ったのだ。
これは天の与えてくれた好機だ。今鹿介を助ければ、いずれ禍を招くだろう。
ただ速やかに首を刎ねてしまおう」と言う。
宍戸・口羽は「敵にして強い者は、味方にすると心強いものです。
毒薬変じて薬となす、といいますから、鹿介が味方になれば良薬になりましょう」と返した。

「強敵の鹿介を味方にできれば、確かにそのとおりだろう。
しかしまた敵になるかもしれない。
これでは、いかに智勇全備の者だとしても、当家に恨みを含む輩は結局は毒薬なのだ。
金屑は貴重だが目に入れば邪魔になる。
鹿介は、尼子家にとっては金屑、当家にとっては邪魔でしかない。
勝久が滅亡したならば鹿介が味方に与することもあるかもしれないが、
考えてみたら、義と忠を大切にしている者がどうして二君に仕えるというのか。
勝久が東福寺で出家していたのを還俗させ、大将と仰いだのは、鹿介・源太兵衛二人の取り計らいだ。
勝久もこの二人のことは父母と同じように考えていると言っているらしい。
これほどまでに勝久の股肱の臣、耳目の臣である者が、どうして主君を捨てて当家へ降り、
かつての主君に弓を引き矢を放つことができようか。

鹿介は少しでも命をつなぐために今回降伏してきたのだ。
勝久を捨てて完全にこちらの味方になることはない。
鹿介ほど智勇・忠義を備えている者はそういない。それに彼の智はとても深いから、
言葉を卑しくし表情を和らげて、方便だと気づかれないように、
当家に味方するなどと言っているのだ」

元春がこう言うと、隆家・通良は
「輝元・隆景に相談もせずに鹿介を殺して、後悔をなさいますな」と言った。
元春は、「輝元・隆景はさておき、鹿介を殺すことは元就が存命していたときに決めたことだ。
いまさら何の会議・評定も必要ない。
しかしながら、お二人がそこまでおっしゃるのを聞き入れないというのも、
あまりに四角四面に言い募っているだけのように見えるかもしれない。
まずはお二人に鹿介の身柄を預けるとしよう。ともかく再度話し合おう」と言って、
隆家・通良に鹿介を預け置いた。

けれども鹿介はすばしっこい男なので、もしかしたら隙をうかがって逐電するかもしれない。
まずは安心させてやろうということになり、「周防の徳地で千貫・伯耆で千貫の地を宛行う」と約した。
鹿介は「一命を助けていただいただけでもありがたいというのに、
こうして所領まで賜れたのは、ひとえに隆家・通良のお取り成しのおかげです」と、
真に迫った態度で謝礼して、すぐに元春にも対面した。
鹿介はすぐに尾高に宿を言いつけられ、宍戸・口羽から厳しく警護をつけられた。
金屑のたとえは、後になって思い知らされることになった。


以上、テキトー訳。

おぉ爺さま……・゚・(ノД`;)・゚・
でもお父さんやお兄さん、子供たちに比べると長生きした方だよね。
大変な人生だったね。ゆっくり眠ってほしい。
広家周辺の書状を呼んでて印象的だったのは、あの当時は病そのものよりも、
病人が物を食べなくなるってのが一番の危機だったみたいだ。
考えてみたら、現代みたいな経管栄養だの点滴なんてのはないんだもんね。
そりゃ食べなくなれば一気に死に近づくわな。
元就も食べられなくなって、衰えて死んでいったんだろうと思うとキツイけど、
隆景や輝元がそばにいただけでも、幸せな最期だったんじゃないかと思う。

そんでまた、看取れなかった元春の心中、悲しみいかばかりか……
とか思ったら敵を騙す余裕あんのかよーくそー><
余裕じゃないのはわかるけど、でもな、こうも鮮やかにキメられてしまうと悔しいというか、
なんというか、うん。

あとそうだ! 鹿だよ鹿! 生け捕られてる!!!
元春が抱き込みを狙ったのかと思ってたけど、陰徳記だと元春は「殺せ」って言ってるのか……
でもなんだろう、この殺したがってる人が一番鹿介を理解して評価してんじゃねえの?
憎しみじゃなくて鹿介の覚悟と能力を評価してるからこそ殺そうとしてるんだよね?
熱い、熱いぜ……
2012-09-09

尼子でロメジュリ

あーうー>< 金曜日はツイッターで盛り上がってて陰徳記に手をつけず、
土曜は更新して出かけたつもりが更新ボタン押し忘れてたよ!
飲んで語って超楽しかった//><//

そんなわけで陰徳記。
次第に形勢不利に追い込まれていく尼子再興軍。
戦では負け続き、今回はなんと秋上が!?


秋上父子心替のこと

出雲の国の大宮司、秋上三郎左衛門尉・その嫡子伊織助は無二の尼子方だったが、
たちまちその態度を変じて毛利家に一味した(元亀元年五月十三日以前)。
それというのも、こんな事情があったそうだ。

勝久が国入りのときに京都から回文を送ったとき、
「もし本意を遂げて出雲に入れたなら、秋上・山中を執事としたい」と約束していた。
秋上は森山の城から出て、鹿介・源太兵衛と話し合い、勝久を大将と仰いで数々の謀略をめぐらして、
あちこちの戦に勝利した。
初めこそそんな調子であったが、その後は何事も鹿介の方針だけを重んじて、
秋上の意見は耳に入れてもいないようであった。

これでは今後があまりに頼りないと思っていたところ、元春がこのことを聞きつけて、
「秋上は尼後家のなかでは兵も多く持っているし、そのうえ勇も智も一通り兼ね備えている。
秋上が勝久に恨みを抱いたのなら好都合だ。
これを味方に引き入れれば、勝久退治は速やかに済むだろう」と考えた。

そこでひそかに使者を遣わし、「秋上殿は尼子譜代の郎党ではなく、大庭の大宮司でいらっしゃいます。
どうか早く尼子一味の態度を改められ、神職を子々孫々にまで断絶させないように手を打ってください。
もし毛利の味方になっていただけるなら、平田近辺で七百貫を宛行いましょう」と言い送った。
秋上は、渡りに船と喜んで、すぐに毛利家に味方することを心に決め、
「降人に罷り出よう」と返事をした。
すると元春からもすぐさま、平田七百貫を保証した証文を出した。
勝久がこれを聞くと、「秋上が敵となってしまったら味方は兵が減ってしまう。
これでは戦に勝利できないではないか」と、非常に慌てふためいたという。

三郎左衛門の嫡子伊織助は、たった一人で鹿介の宿所に赴くと、「お話したいことがあります」と言った。
鹿介は人を呼ぶまでもないと考えてすぐに会った。
伊織は鹿介に向かって「こんなときにここまで駆けつけてくるなど、面目もないことだ。
しかしあなたと私は少年のときから仲良くしていて、死ぬのなら一緒に死のうと約束をした仲。
それなのに、愚父の三郎左衛門がいろいろ考えた結果、毛利家に属すことになってしまった。
明日からは敵だ。だから今後は、ここに来て話をするなどできなくなるだろう。
勝久に対して忠勤を貫き、あなたとは朋友の契りを深くしたいと思っていたのに、
今こうして不意に敵対しなければならなくなったこと、実に口惜しく思う。
重ね重ね、これまでの親交が忘れられない。お別れを言うためにここまで来たのだ」と言った。

鹿介は「あなたの父の三郎左衛門殿は尼子に味方する心を変じて毛利家に属されたのか。
侍は渡り物だ。そんなこともあるだろう。
それにしてもあなたと私は少年のときから何かにつけて話をしているし、断金の友だと思っている。
そのことを思い出して、今ここに来てくれたのは本当に嬉しい。
父君が尼子に背いたのなら、あなたも親と一緒に行動するのを、私はまったく恨みには思わない。
武家の習いは、今日ある命も明日には知れない。
互いに別れの盃を重ねよう。私は明日からは伊織殿を討つための謀略をめぐらす。
あなたもまた、私を殺す算段をするといい」と、
盃を出して取り交わし、さしつさされつ数杯の酒を飲んだ。

たっぷりと飲み交わすと、「ではこれまでだ。
たとえ明日はこの身が戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れないようにしよう」と、
手に手をとって涙に咽び、立ち別れた。悲しくも暖かい友情であった。
こうして伊織が森山の城に帰ると、その夜に山中鹿介・横道権允たちは秋上の所領の与土井へと夜討ちをかけ、
民家を焼き払い、首をいくつか打っていった。

まさか二心はないだろうと頼りにされていた秋上が敵になってしまうと、
皆誰もがそうなのだろうと、勝久はまったく安心できないでいた。
誰が言い出したのか、吉田八郎左衛門尉が秋上に一味して敵に与しているとの報告が勝久に上った。
勝久は大いに驚き、すぐに新山で吉田を討ち果たした。
吉田は元就には一生会わないと誓って神水を飲んだほどの者なので、
どうして敵に与することなどあろうか。
取るに足らない者の讒言に惑わされ、罪もない者を死刑に処すなどなんとひどいことだろうか。

また中井平蔵兵衛尉が反逆しようとしているといって横道権允を派遣し、中井を新山へ呼び出した。
中井は自分は少しも逆意を抱いていないと顔を上げて新山へ行ったがやがて新山から逃げ出し、
隠岐へと渡っていったという。


以上、テキトー訳。

黒元春爆誕……まるでアレだね、失恋して傷心中の女性を狙う間男のようwww
しかしまぁよくあることですな。いい条件チラつかせて寝返りを誘う。
こういう調略を地道にこなしていけるのがいい武将なんだろうね。
黒かろうと中間管理職の悲哀が漂ってようと、家庭で息子に反抗されてようと、
どんな元春でもおいしくいただくよ!
たとえどんなことがあってもね!←ちょっと別口で衝撃情報をゲットしたので乱れ気味w

それはそうと伊織! かわいいな伊織!!!
父親が態度を変えて、仕方なく幼馴染にお別れを言いに駆けつけてくるとか、
どこの清青春映画ですか!? いいぞ、もっとやれ!!!
鹿介もかっこいいじゃないの。
父に従うのが子の勤め、尼子に背く伊織を恨みには思わない。
明日からは互いに殺しあおう。でもこの友情は永遠に……
切ないなぁ。
ロミオとジュリエットみたいだね、あの若者たちは殺し合わずに駆け落ちするけどさ。

そんなこんなで、いよいよ次章、元就が大変なことに(´;ω;`)
2012-09-06

盛重フィーバー

だいたいの流れ:
毛利本体と正面衝突して敗れてから負け続きだった尼子再興軍。
士気を高めるためにも一戦しようとした平野が、
伯耆の尾高に籠もる杉原盛重を攻めるも、返り討ちにあう。

そんなわけでカッコイイ杉原盛重の章が続くよ!
今回は微妙に短いので無理やり二本立てにしてみた。


馬田討ち死にのこと

山中鹿介は平野が討たれたと聞いて、「いざ尾高を攻め破って平野の孝養としよう」と、
横道源介・同権允・森脇市正などなどに招集をかけた。
これらの者たちは自分が守っている城を引き払って、一千五百余騎が集まり、
杉原盛重が籠もっている尾高周辺で狼藉におよび、民家に放火した。

杉原はすぐに一千余騎を率いて打って出た。
敵味方は数十町を隔てて陣を据え、勇を抑えてすぐにはかからなかった。
尼子勢の中に、馬田入道という者がいた。
出雲・伯耆では二人といないほどの大の力持ちだったが、
たった一騎で戦列を離れて駆けてきて、杉原の陣の近くまで馬を乗り寄せ、
守備の様子を物見して帰ろうとした。

杉原の手の者に高橋右馬允という者がいて、この馬田を見ると、
「私はこのほど、博打に負けて刀・脇差を取られてしまって、
今日の合戦には木刀に素袋をかけて出てきてしまった。だから刀が必要になると困る。
あの馬田を見ると、大きなのしのついた太刀を佩いている。
高名して首を取るのは皆が望んでいることだが、私は刀を取ってこよう」と言って駆け出した。
壇の上監物は「私は馬田の首を取ろう」と、高橋に続いて駆けていった。

馬田がざっとみて引き取ろうとするところに、高橋は木刀を打ち振りながら
「逃がすものか。引き返せ」と声をかけた。
馬田は「私が逃げようとしているなら『返せ』と言われるのもわかるが、今何と言った」と言って、
大太刀を抜いて待ちかけた。
高橋が木刀で渡り合おうとすると、馬田はただ一打に丁と切る。
高橋はそれを避けてツッと近づき、太刀の柄にひしとしがみついた。
馬田は太刀の柄を取られてしまってはどうしようもなく、高橋を取り押さえようとしたが、
後から続いてきた壇の上がそこに切りかかり、馬田に二回刀を刺した。

刺されてひるんだところを高橋が押し倒し、太刀や鎧などをすべて剥ぎ取ると、
「また博打の元手をもうけたぞ」と一人笑いして帰った。
壇の上も「よし首を打てたぞ」と気色ばんで帰っていった。

山中・立原は、頼りにしていた馬田を討たれて口惜しく思ったのか、
一千五百の勢を二手に分けてかかってきた。
杉原はこれを見て、深い田を前にして待ちかけた。
出雲勢がようやく深い田を渡ってきたところに、杉原は
「川や深田などを渡ってくる敵は、合戦には都合がいい。今なら勝てるぞ。進めや者ども」と言って、
前原・所原・福田などを差し向けた。出雲勢はたちまち突き立てられて引いていく。
これを見た後陣の勢が押し立ててかかってきて勢いよく突き立てると、杉原の勢は乱れ散って引いた。

杉原はかねてから思うところがあったので、小竹の一群を前にして控えていたのだが、
この竹の陰から射手を進めて冷静沈着に渡り合い、散々に射掛けた。
これを目にして、一度は引いた勢も一緒に集まって防ぎ戦う。
まだどちらが勝ちそうかわからない。
そのとき杉原は太鼓を打って、貝をフッと吹きたてた。

すると右の谷に伏せていた菖蒲左馬允の勢二、三百ほどが鬨を上げて、
思いも寄らぬところから奇襲をかける。
出雲勢はこれを二手に分かれて防ごうとすると、杉原は「ここで一気につぶしてしまえ」と、
自分が真っ先に敵勢へと突っ込んでいく。
手の郎党たちも我先にと進んだので、入江大蔵・弟の同左衛門尉・佐田彦四郎などもよく敵を突き伏せ、
そのまま首を取らずに、なおも敵にかかっていく。
出雲勢はこれでたちまち乱れ立ち、退却していった。
杉原は六、七町ほどは追いかけたが、小勢だったからか、やがて兵を引き揚げた。


羽倉孫兵衛尉討ち死にのこと

秋上伊織助は父の三郎左衛門尉に向かって言った。
「味方はあちこちの城郭を攻め落とされ、そのうえ先日は平野・馬田も無残に討たれてしまいました。
味方にはますます勇気を失い力を落とした兵ばかり、今は何万騎もおりますが、
これで役に立つとは考えられません。
これから敵城に夜討ちを仕掛けて、味方を力づけましょう。
杉原はこれまでの合戦に打ち勝って勇を誇っているので、
こいつの居城周辺に討ち出たところで勝利を得ることは難しいと思います。
米子の城に福頼治部大輔が立て籠もっています。
これを追い落とせば、大山の宗徒たちもますます味方として動きやすくなるはずです」

三郎左衛門は「確かにそうだ」と同意して、同三月十八日に夜討ちをかけることに決めた。
いざ出発しようというときになって、伊織助は急に腹痛を訴え、
前後不覚になって言葉もまともに喋れなくなった。
これでは夜討ちを延期しようかとも話し合ったが、
せっかく思い定めたことなのだから今更延期するべきではないと、
羽倉孫兵衛尉を物頭として、目賀多采女允・同段右衛門・高尾右馬允などをはじめ
五百余人が小船十余艘に取り乗り、米子の町へと討ち入った。

福頼はこれを見て二百余人を打ち出し、町を焼かせまいと防ぎ戦った。
しかし羽倉が味方を鼓舞して無二に切ってかかり、あちこちに火をつけていったので、
福頼は煙に巻かれて防ぎきれず、戦利を失って城中に退却した。
羽倉は「敵に息を継がせるな」と、退却する福頼勢を追って数人を討ち取り、
町屋に一つ残らず放火すると、「今夜の夜討ちはよくできた」と大喜びして船に乗り、帰っていった。

杉原播磨守は最近尾高の城を出て芸陽の吉田へと赴いたとも聞いていたので、
この隙を狙って、杉原の領内の稗津の民家を焼き払おうと、
翌日の十九日にその場所へと舟を漕ぎ寄せると、付近の民家に火を放った。
ところが、杉原はその日の朝に吉田から帰城していた。
杉原の手勢たちは、敵が稗津の町屋を焼き払う煙を目にするとすぐに、
婿の吉田肥前守の家之子の菖蒲・入江などをはじめとして、
七百余人が取るものもとりあえず稗津を目指して駆け出した。
森山勢は皆手分けして民家に放火しているときだったので、
なかなか一戦することもできずに、皆船を目指して引いていった。

羽倉孫兵衛尉は、力は人に勝り、鑓や剣技も達者だったので、取って返して防ぎ戦った。
味方を助けてから落ち着いて船に戻ってきたが、そのまま船に乗っていれば命が助かったものを、
「味方が一人でも船に乗り遅れて討たれてしまえば、私が慌てふためいて船で逃れ、
味方を見捨てていったと言われてしまう。
そうなったら無念きわまりない」と、あたりを見回っていた。
もしや味方がいるかと思って出たところで、羽倉は敵に取り囲まれてしまった。

羽倉は、一方を打ち破って船に乗ろうと、渚の方へ出てみたが、
味方の船はすでに漕ぎ出してしまっていて、乗り込みようがない。
こうなっては逃げる道はないと思ったのか、羽倉は取って返すと郎党一人をわきに立て、
大音声を上げて、「羽倉孫兵衛尉という者である。
これまであちこちで戦ってきたから私の手並みのほどは聞いているだろう。
これから最後の合戦をするぞ。よく見ておいて後の物語にするといい」と言って、
小さな松の陰に仁王立ちになった。

吉田肥前守たちはこれを聞くと、我先に討ち取ろうと二、三十人ほどで鑓で突きかかったが、
羽倉はしばらく討たれずに、死に物狂いで突いて回った。
岩田藤次郎の膝下をしたたかに突き貫き、そのほか敵数人に怪我を負わせたものの、
運の尽きだったのか、鑓が二つ三つに打ち折れてからは、
三尺余りの太刀を抜いて切り回っていた。

そこを二十四、五本の鑓ですくめられ、太刀で十四、五本は切ったけれども、
長い鑓に対して太刀では、敵を討つまでには至らなかった。
岩田は膝を突かれたのを無念に思ったのか、傷を負いながらも羽倉を討とうと進んでいた。
羽倉が四、五本の鑓で突き伏せられると走りかかり、押さえて首を取って、
「鬼神のように恐ろしかった羽倉は、この岩田が討ち取ったぞ」と、
首を高く差し上げて、興奮して帰っていった。
杉原は、味方の鑓十四、五本に切れ目を刻み付けた羽倉の最後の振る舞いを見て、
「なんと剛の者だろう」と感涙を流したという。


以上、テキトー訳。

杉原さんは家が絶えてるってのに、だいぶ称揚されてるんだなぁ。
それだけ愛されて当然の働きをしていたのか、もっと別の要素があるのか。
うーん……たしか元就の姪だかが、この人に再嫁してたはず。

それにしても相変わらず部下たちがとんでもないやつらばっかりで安定の杉原家。
熊谷さんちと張るんじゃないだろうか。

なんとなく頭が働かないのでまっとうな感想が出てこないけど(毎度だ)、
しばらくぼんやりと続きを読み進めるよ!
2012-09-05

デブVSガリ(ただし同軍)

だいたいの流れ:
尼子勢が勢いよく出雲入りして数ヶ所の城を制圧できたのもつかの間、
毛利本軍が本格的に尼子討伐に動き出してからは、尼子の負け続きだった。
輝元・隆景は元就の看病のために吉田に帰るも、依然元春が駐屯して、出雲に睨みを利かしているぞ!
どうする勝久・鹿介!?


伯州浄満原合戦のこと

尼子左衛門尉勝久は味方の城を数ヶ所攻め落とされたばかりか、
毛利勢がこの国に討ち入ってからは、あちらこちらの合戦で一度も味方勢が勝利できなかったので、
勇気はしぼみ、力を落としてただ呆然としていた。
平野加兵衛尉はこの様子を見て、「これでは味方がますますやる気を失って、
新山の城にもとどまっていられずに逃げ散ってしまうだろう。
こうなったら、どこでもいいから一働きして、味方を力づけよう」と思った。
そして元亀二年二月七日、手勢の三百余騎を従えて伯耆の尾高の麓、浄満(上万とも)原へ夜討ちをかけて、
民家に放火して一揆勢を薙ぎ捨てたところで退却しようとした。

杉原播磨守はこれを見て、取るものもとりあえず尾高の城から七百騎ほどで打って出た。
平野は、千年美作の国の小田草で自害した又右衛門の嫡子だったが、
父にも劣らぬ大の剛の者だったので、ひたひたと取り結び、切りつ切られつ散々に戦った。

そこに、浄満原で合戦していると聞きつけた杉原の手の者たちがあちこちから駆けつけて、
前に進み後ろをふさいで、一人残らず討ち取ろうと攻め戦う。
平野は四方八方に切って回り、稲妻のような動きでさまざまな手法を用いたけれども
敵は多勢なのでついには戦い負けて、仕方なく一方を打ち破って、
総勢百騎ほどでまん丸になって引き退いた。

杉原の手の者で進の孫次郎・谷本勘解由という者がいた。
谷本はきわめて太っていたので、孫次郎は「なあ谷本殿、あなたは姿形が弥勒や布袋のようだから、
なかなか達者な早業などできはしないだろう。
だからどんなことがあってもこの孫次郎には及ぶべくもないな」とあざ笑っていた。
谷本は、「痩せていれば武勇をあらわせるのなら、山から出てきた釈迦、絵に描かれた羅漢、
子供をつれた犬や大津の小荷駄に追いすがる者たち、果ては路頭にさまよう乞食や非人、
地獄にいるという餓鬼などこそ、武辺の手柄を立てられるのだろうな。
痩身で衣装負けすると言われた沈郎のような孫次郎殿がそうだとしても、珍しくはあるまい。
これまでの荒言は、畑の水練、退却時の精鋭とでもいうか、聞くもおこがましく、人の笑いものになるぞ。
次の合戦のときにこそ、肥えた者・痩せた者の優劣をお見せしようではないか」と答える。
孫次郎は、「物に触れた河豚、夏に孕んだ犬のように大きく腹が張り出た谷本殿のお稼ぎを拝見しよう」と、
さらに挑発する。
谷本は、「ここで罵り合えば、おまえに次の言葉のきっかけを与えてしまうことになる」と言って、
それからは口もきかなくなった。

それからすぐにこの合戦があったので、孫次郎は一番に打って出ていった。
この孫次郎というのは、早業では世の人より優れていて、まるで天狗のようだとまで言われた者である。
あるとき、ツバメが家に巣をつくり、そこから出てきたツバメを、孫次郎は抜き打ちに切りつけた。
すると尾がいくつにも切られて落ちた。
そばにいた人はこれを見て、「孫次郎はそうとうな早業だと聞いていたが、
あのツバメを切り損じたな」と言ったが、
孫次郎は「真ん中を切り割って殺してしまうのは不憫で、ああしたのだ。
本当に切ろうと思っていたなら、すぐに切り殺せたわ」と、続けて二つに切って落とした。
そのほか、どんな鳥であれ、見つければすぐに地を蹴って走りかかり、切り殺した。

また、盛重の郎党に罪を犯した者が二人いた。
この孫次郎もまた法を犯した前科者だったので、主人の盛重はこの困り者たちを討ち果たそうと決めて、
二人の者には「孫次郎を大手の矢倉の前で討て」と言いつけ、
孫次郎には「あの二人をあそこで切れ」と言い含めた。
こうしておけば、どちらが仕損じても問題はない。
いずれ三人を殺せばいいと思ってこう言い付けたのだそうだ。
孫次郎は二人を前後に置いてその真ん中を歩き、歩きながら話などをしていたが、
まず先に後ろの者を一打に打ち殺して、振り返りざまに前の者を切り捨てた。

これほどの剣技の達人はそうはいない。
だからこそ、孫次郎は自分の剣技を鼻にかけて谷本と争ったのだが、
この合戦では一番に首を二つ打って谷本の前までやってきて、「これを見てくれ」と投げ出した。
谷本はキッと睨んで、「虱頭ばかり、そんなに自慢か。ここで待って目にもの見ていろ」と言い捨てると、
たった一人敵の後を追っていった。

平野の百人ほどの手勢も、逃げたり討たれたりして、
今は平野一人になって逃げていくところに追いついた谷本は、
「今そこを落ちて行かれるのは平野殿ではござらぬか。卑怯にも見える振る舞いですぞ。
引き返して切り死になされ」と呼ばわる。
平野は「ここまで来てみろ。手並みのほどを見せてやる」と、石に腰をかけて待ちかけた。
谷本は太刀を抜いて駆けつけ、火花が出そうなほど激しく戦う。
平野はこの日はすでに何度も戦っていたので力も落ち、気疲れしていたのか、
戦い負けて、ついに谷本によって討たれてしまった。

谷本はすぐにその首を取って孫次郎を訪ね、
「これを見ろよ孫次郎、首は一つでもその質によるものだ。
『一月にしかず』という言葉はこのことだろう」と言った。
さすがの孫次郎もこれには言葉をなくしていた。

杉原盛重はこれを聞いて、「谷本・進は、太った・痩せたの言い争いから勇を争った。
勘解由は太っていて勇敢だ。進は痩せていて猛々しい。
古い詩に『短長肥痩はそれぞれいいところがある。玉環や飛燕を誰が憎むだろう』という文句がある。
楊貴妃・飛燕の妙なる姿をもって、二人の勇猛さをたとえることができる」と、大いに感じ入って戯れた。

吉田肥前・有坂二右衛門も敵を討って、首を提げて帰ってきた。
この合戦では、首級の数は七十以上、生け捕りは二人だったそうだ。


以上、テキトー訳。

なんだろう……「どきなさいよデブ」「あらいたのガリ」みたいな……
しかし孫次郎すごいな。ワルも極めると微妙にカッコイイんだよなちくしょう。
こんな部下纏め上げてる盛重さんステキ。
デブとガリを楊貴妃とツバメにたとえて「みんなちがってみんないい」みたいなこと言うなんて!
これは天然なの!? それとも……まぁ普通に考えたらふざけてるだけなんだろうがw
でも二人とも悪い気はしないよね、こう言われると。
もしかして私のツボは、癖のある部下を纏めてる親分さんなんだろうか。
信直さんもそんな感じだしな。

杉原さんちは秀吉の調略がらみなのか、盛重の死後に二人の息子が仲違い
→弟が兄を殺す→弟も元長に誅殺される、って流れだったと記憶してる。
家は断絶して、杉原の郎党たちは吉川に召抱えられるんだったな。
その流れで盛重贔屓の元部下の語った話が残ったのか、
はたまた正矩に昔語りを聞かせてくれた香川の古老たちが盛重贔屓だったのか。
盛重さんは愛される人柄だったんだろうなと思う。
そのわりにゃ部下を殺そうとしてるけどな。
大丈夫、よくあるよくある。

次章、尼子から放たれる次なる刺客……って、ヒーローものみたいなノリになってきたわ。
また盛重が活躍すんのかな。楽しみー(*´∇`*)
2012-09-03

荒ぶる正矩

昨晩陰徳記も更新しようと思ったけど、
不注意で打ち込んだテキスト全消ししちゃったテヘペロ☆

これまでのあらすじ:
毛利に忠誠を尽くした三村家親が宇喜多直家に謀殺され、元春に泣きついてきた三村兄弟を尻目に、
宇喜多に丸め込まれた?隆景&安国寺恵瓊&宍戸隆家主導で三村一家が滅ぼされた。
まぁ吉川視点(それも後世の)なので、解釈の違いは大目に見るとして。

今回はハイパー宍戸家sage回なので、宍戸家好きにはオススメしません(´・ω・`)わりと真面目に。


三村一家滅亡のこと(下)

こうして備中の国を無事に平定すると、元清が穂田の家に入って、
毛利の名字を改め、穂田治部大輔と名乗り、隆景の手に属してあちこちに睨みを利かせた。
そして木の実の城には宍戸安芸守から佐々部美作守を籠め置き、
杠葉の城には元春から今田上野介が入れ置かれた。

今回、宍戸隆家の武勇は諸人より優れていた。
そのうえ宍戸は元就様の婿なので、褒章も並大抵ではなく、
備中の侍たちを少々与力につけられて、再び南北の中筋の先陣に定められた。
北前は元春が掌握して、その裁量で杉原播磨守には宍道五郎兵衛尉・河口刑部少輔・
吉田肥前守などを与力として配置し、また南条豊後守には山田出雲守・小森杢允などをつけた。

宍戸に備中の侍がつけられ、中筋の先方を任されたのを見ると、
杉原・南条と似たようなものに思えるが、そうではない。この二人は伯耆の国人である。
宍戸は他でもない元就様の婿なのだから、雲泥の差がある。
こうして言うと、宍戸が元春・隆景に肩を並べているかのようにも思えるが、
これは同列に論じる問題ではない。

宍戸の名誉のために言えば、昔、源二位頼朝が木曾並びに平家追討のために、
範頼・義経を派遣した際に、安田遠江守義定にも兵を預けて同行させた。
『東鑑』では三将が並び立っているように見える。
しかし範頼・義経とこの義定とを同列に論じるべきではなく、
だからこそ『平家物語』にも載っていない。
義定は範頼に従ったとも言われ、また義経の手に属したとも書かれている。
宍戸もこの義定と同じである。

それを、元就・元春・隆景が亡くなってはるかに年月が経ったころに、
元就様の戦の歴史を記録するためだと言いながら、一人の奸人(深瀬忠良か)が、
宍戸に媚びているのか、はたまた吉川・小早川に遺恨でもあるのか、
嘘をでっち上げて世人を誑かそうとした。

それにはこうある。
「昔、世には『三家』といい、中国では『三殿』とも崇められたのは、
毛利・吉川・小早川ではなく、吉川・小早川・宍戸である。
隆家は元就様の嫡女の婿だったのでこう呼ばれた」と、
口を曲げて目を瞬かせて言い募り、言いふらしたばかりか、筆に任せて書き記した。
それに、このごろの若者たちは昔のことなどまったく知らないのだから都合がいい。
ただこの虚説を本当だと信じ込んで、かえって
「毛利三殿とは吉川・小早川・宍戸なのだろう。
それを毛利・吉川・小早川だと思っているとはおかしなことだ」などと言い出す。
これはまったく、伴天連宗の邪説を信じて、仏法・神道を外道だと考えるのと同じことである。

私が本当の「三殿」と言い伝えられているものをここに記そう。
世の人はしっかりと聞くがいい。
まず、三殿と崇められ、毛利三家と呼ばれるのは、
元就公の嫡子隆元公・次男元春・三男隆景のことである。
この三人ともが元就公の本妻の御腹なので三殿と呼ばれている。
母君はいずれも吉川国経の息女である。

また毛利三家というのは、吉川・小早川がどちらも他家であるとはいっても、
根本は元就公の子供であるからこそ、人々はこう呼んだのだ。
三村三家というのも、皆家親の子供であって、婿ではない。
また因幡・但馬の山名には一族が多いので、「村々殿にねりついぢ」と国人たちのことわざに言うのも、
すべて山名の流れであって、婿の例はない。
毛利家だけがどうして婿の宍戸を毛利三家に含むというのか。
もし婿だからといって宍戸を毛利三家に含めるのであれば、
備中の上原も加えて「毛利四家」と言うべきだろう。

宍戸は元就公の婿だからこそ、確かに他の国人たちとは段違いに崇敬されている。
しかし、元春・隆景と同列に論じるものではない。
たとえ今、虚言を構えて言いくるめ、諸人を誑かすことができても、
元春・隆景が存生のときには、人々が隆家を元春・隆景と同格だと思っていなかったという証拠がある。
これをすべてあげつらっていけば膨大な量になるので、だいたいの要所を記しておく。

まず大友入道宗麟が元就と和平したとき、その誓紙にも「元就・元春・隆景」の三人の名を書いた。
また公方義昭卿が信長と敵対したときには、和睦を勧めるために、
輝元公からは林杢允・安国寺恵瓊を、元春からは井下左衛門尉を、隆景からは兼久内蔵丞を差し遣わした。
このときに宍戸から誰が遣わされたというのか。

また宍戸の担当である備中高松表で羽柴筑前守秀吉と対陣し、互いに和睦したときには、
秀吉の神文にも「輝元・元春・隆景」の三人の名がある。
ちょうどよく宍戸の支配地域なのだから、その神文に宍戸の名が載ってもよさそうなものだが、
そんなことはなかった。
これは吉川・小早川と宍戸が同格ではないという証拠である。
三殿と呼ばれ、毛利三家と唱えられていたのであれば、
このときどうして宍戸の名が書き漏らされたというのか。

またこの和議の後、秀吉が天下の権勢を握ったので、その一礼として、
小早川隆景からは秀包、吉川元春からは侍従広家(そのころはまだ民部大輔経言といった)が
人質として送られた。
宍戸からは、子息にしろ兄弟にしろ一人も送っておらず、これもまた宍戸が三家ではない証拠ではないか。

またその後、隆景・元長が大阪に上ったとき、秀吉はたいそうこれを喜んで、
自ら隆景・元長の二人を案内して天守に上り、家之子郎党にまで引き出物を贈った。
このときにも宍戸備前守は上らなかった。これもまたそうではないのか。

その後秀吉が九州征伐を号令したとき、毛利三家を九州へ差し渡すとの朱印状が諸将に多く発行されている。
ここにあるのも「輝元・元春・隆景」である。
また「輝元・吉川・小早川を差し下す」と書かれた朱印状もある。
宍戸のことはまったく書かれていない。

またその後、輝元公・隆景・広家が聚楽第へ上洛した。
世俗にはこのことを「毛利三家の上洛」と言う。
このとき秀吉の思し召しで、この三人は同名の羽柴の名乗りを許され、姓もまた同姓の豊臣に改められた。
桐の頭の紋も賜った。このとき宍戸がこの三将と同様に上洛したと言うことを聞いたことはない。
また秀吉から羽柴・豊臣などの氏姓を賜り、官位を与えられたとも聞いたことがない。
これも宍戸が毛利三家ではない証拠ではないか。
また三家・三殿である吉川・小早川と同様には名を称揚されなかった証ではないか。

虚言をなして虚説を書き立てる佞翁は、
宍戸が三家の一つで吉川・小早川と肩を並べたという証拠を出せるのだろうか。
この三家のことについて、このような歴々たる証拠が速やかに出てくるというのに、
それを曲げて言い募り、宍戸を称揚し、
吉川・小早川を抑制するために、こうして根拠のないことを捏造するのは、
その本人の愚蒙佞奸を世に曝け出す行為である。恥を知るべし。
ああ、この有害な男、家の恥を外に向かって曝し上げる佞翁が記した書が事実ではないことは、
まさに漁夫や樵でさえことごとく話題にしている。

今ここで三家の論を明らかにしたのは、意味のないことのようであるが、
私がこの書を書こうと思い立ったとき、一人の佞翁がいて妄言を吐き偽書を出し、
これが世の人を誑かしていた。
その邪説を打ち破らんがために、私は自分の粗末な筆を墨に染めたのである。
世の人よ、皆目を開いてこれを見よ。


以上、テキトー訳。この章はおしまい!

見てるよ!
わかったよ正矩、宍戸は「毛利三家」でも「三殿」でもないんだね。
あと正矩は深瀬忠良っていう宍戸の一族に対して妄執ともいえる
憎しみのような感情を抱いているんだね……
でもはっきり言って、三村攻めの話とは関係ないよね(´・ω・`)

この深瀬さんという人は、毎度のごとくツイッター仲間からお聞きしたところによると、
「宍戸記」というのを記した人らしい。
人名でググっても出てこない情報を持ってるとかすごい(゚▽゚*)
近デジで読めるそうだから、気長に該当箇所を探してみるか……
もしかしたらこの正矩のクレームのせいで、出版までに削られてるかもしれないけどw

しかし正矩が「陰徳記」を記したモチベーションが「深瀬翁憎し」だったのなら、
私は深瀬さんに感謝しなければ。
おかげさまで気の遠くなるような時を超え、楽しく陰徳記を読ませていただいてます(*´∇`*)
みんないい仕事したね……このへんのゴタゴタ面白そう……おっと。

次章はまた尼子再興軍との戦争に戻るよー! ヒャッハー!
まぁ明日は更新できそうにないんですけどね……
2012-09-02

毛利ナイト(仮)やります!

毛利好き仲間で集まって、食べたり飲んだりしながら、
ワイワイ話をして交流を深めようというプチイベントを開催します。
つまり、ちょっとしたオフ会ですw
まだイベント内容が詳しく決まっておらず、参加者も募集中(平成24年9月2日現在)なので、
随時お知らせをしていきたいと思います。

きっかけは、ツイッター仲間と一緒にGWごろに開催されていた長宗我部ナイトにお邪魔して、
「毛利クラスタでもこういうイベントやりたいねー」という話になったので……
つまりパクリもとい二番煎じですね!!!

ちょっと興味があるという方は、「続きを読む」からお進みください。

続きを読む

2012-09-01

三村家の断末魔

この章はだいぶ長いと書いたけど、よく見たら3回で十分終わる分量だったテヘペロ☆
いやもう気持ち的には重すぎる内容なんだけどね_ノ乙(.ン、)_

前回のあらすじ:
父親を宇喜多直家に殺された三村兄弟は宇喜多退治のために毛利家に援軍を請うてきたが、
直家もまた巧みに動いて、輝元に三村家討伐の許可を得た。
元春は長年毛利家に尽くした三村一家を見捨てることを良しとしなかったものの、
折りしも自身は出雲出張中であり、隆景・宍戸隆家・安国寺恵瓊の主張もあって、
三村家を討伐することに決定してしまった。


三村一家滅亡のこと(中)

隆景が先陣に進んだので、輝元様は備中の小田というところに陣を据え、
同二十七日に手の城を取り囲んだ。
この城の城主は手右京亮で、元親から三村越中森・日名因幡守が援軍として差し籠められていた。
右京亮は生来の臆病者だったので、同月晦日に二十人ほどで手の城を忍び出ると、
松山の城を目指して落ちていった。

このせいで城中は大騒ぎになったので、翌年の正月元旦の明け方、寄せ手はひたひたと城に乗り込んだ。
城中では手新四郎が、親とは違って無双の大のつわものなので、
まったくひるまずに弓・鉄砲を撃ちかけて、散々に防ぎ戦う。
芸陽勢では一番に宍戸安芸守隆家が城に乗り入った。
一の城戸では、隆家の家之子の深瀬弾正忠が石賀右衛門尉という者と渡り合って、
激しく戦った後に突き伏せて首を掻き切ると、それを差し上げた。
三村越中守は宍戸の家人の中原刑部(浅原杢允)が討ち取り、
日名因幡守は、同じく宍戸の家人の浅原杢允(中原刑部)が討ち取った。
芦田次郎右衛門は木原彦右衛門が首を取った。

城中から兵が五十人ほど死に物狂いで切って出てくると、長井右衛門太夫が一番に渡り合い、
鑓を合わせて激しく戦う。寄せ手の吉田旗本の足軽大将、
転与三右衛門が足軽に下知をして鉄砲で打ち立てたので、敵はたまらず引き退いた。
そのままの勢いで敵勢を城に押し込め、
内藤弥左衛門・転右衛門・糸永市介・市川神右衛門・三木新右衛門・三戸六郎右衛門・
田原平右衛門・児玉七郎右衛門などは、鑓で戦って敵を討ち果たし、それぞれ首を取って差し上げた。
丹下与兵衛のことは、吉田勢の三上平兵衛尉・積山覚阿弥が二人がかりで切り伏せ、討ち取った。

手新四郎はまだ討たれずに本城に籠もって戦っていたところに、
粟屋彦右衛門・木原次郎兵衛尉が一番に切り入っていく。
手新四郎はすぐに大太刀を抜いて切りかかり、粟屋と戦ったが、
今朝から何度も続く戦に疲れきっていたのか、ついに彦右衛門によって討たれてしまった。

新四郎の兄に、友梅という盲目の者がいたが、杖を突いて走り出ると
「手の盲目友梅という者だ。早く首を打て」と叫んだ。
木原次郎兵衛尉が走り寄ってこれを討ち取った。
ここまで友梅に付き従ってきた一人の郎党は、「坂ノ下彦六郎だ」と名乗って腹を掻き切って死んだ。

木原は、「この盲人は手の名字がつくだけある」と思い、死骸を見てみると、
杖ではなくて、先を割った竹の杖に短冊を一枚挟んで持ってきたとわかった。
そばに投げ捨てられていたのを拾ってみると、短冊には歌が書いてある。
「暗きより暗き道にも迷わじな、心の月の曇り無ければ」と書いてあった。
こんなときに、こんなことを思っていたのかと思うと哀れで、人々は皆嘆息しあった。

この朝は、もう年も新しくなって、峰の霞に漏れる日の光は長閑で、
谷から聞こえてくる鶯の声も美しく、風が運んでくる梅の香りに鎧の袖さえも芳しく感じられる。
兵たちの心も華やかになって、ますます勇気が盛んであった。
今朝からの疲れを休めようと、馬を柳の枝につないで湧き水を与え、人々も皆食事を摂った。

隆景様は「ここから成羽へと陣を移し、外郡へ進軍しよう」と決めて、
翌日の元亀二年(天正三年)正月二日、総軍二万余騎で成羽へ移り、
それから上野近江入道が養子の実親と二人で籠もっている木の実の城っを取り囲んだ。
上野入道はもともとたいそう臆病な人間だったので、自分の命が助かると思って実朝に切腹をさせ、
自身は老いた一命を助けてもらって、目を瞬かせて阿波の方へと逃れていった。

実親は上野の養子とはいえ、孫婿とはいえ、死ぬのなら一緒に死ねばいい。
もしくは、一人が死んで一人が生き残る道があるのなら、
自分がこいねがってでも自害して若い実親をこそ助けるべきだというのに、
こんな振る舞いをする上野の心中など、あれこれと評するにも及ばないと、爪弾きにしない者はなかった。
木の実の城が落城すると、荒平の城も明け退いた。

三村家親の婿の石川久孝は幸山の城に籠もり、しばらくはこらえていたけれども、
とてもかなわないと思ったのか、家人の友野石見守という者を通じて、
阿波の国を目指して落ち延びようとした。
しかし友野は自分の命が助かるだろうと、このことを隆景に知らせてきたので、
隆景はすぐに追手数百人を差し向けた。
久孝は仕方なく散々に戦って討ち死にしたので、その首は小田に駐留している輝元様の実検に入れられた。
昔の五大院の右衛門の振る舞いと、今回の友野のやり方はまったく一緒だと、友野を憎まない者はなかった。

元親は頼りにしていたあちこちの城郭がどれもこれもすべて落とされてしまったので、
「もうこうなってはどうしようもない。早々に一戦して自害しよう」と思い定めていたところに、
隆景が猛勢で攻め寄せてきた。
元親は最後の一戦だと思ったので、無二に突いて出て先陣を激しく切りまくり、
それから「私が切腹するので、代わりに士卒の命を助けていただきたい」と言った。
隆景は大いに感心してそれを許したので、元親は潔く自害して命を絶った。


以上、テキトー訳。あと1回。

うええぇぇ後味が悪い~~~!
援軍を差し置いて逃亡・養子の命を差し出して逃亡・主君の逃亡を知らせて寝返り……
備中怖いよぅ(´;ω;`)
備中近辺の戦記とか読むと、こういうのゴロゴロ出てくるのかな。
ちょっと気になる……
きっと、いつかこういう戦いも好きになっていくのかもしれない、などと思ったりも。

まアレだね、吉川衆が関与してない戦いだから、こんな風に描かれてるって可能性もある。
三村兄弟が最初に泣きついてきたのは元春なのだし、
元春を頼ってきた方の肩を持ちたいだけなのかもしれない。
……それでもツライなぁ。

そんなわけで、あと1回でこの章読み終えて次に行こう!
次だ、次!!!
2012-09-01

吉川氏発祥の地に行ってきた

陰徳記は章の途中だけど、休日のうちに記念旅行記でもうpしようということで。
ブログ始めてから1年経ちましたね~(*´∇`*)
訪問者も少しずつ増えてくださって、たまに拍手やコメントもいただけるようになりました。
ありがたいことです。
読んでる内容を話したくて始めたツイッターでも、さまざまな方々と知り合って、
有意義な情報交換ができています。
まぁ私はだいたい情報をいただく側なわけだけどw

最初こそ隆元隆元言ってたのに、もともとその気はあったものの、いまやずっぽり吉川贔屓に……
そして吉川吉川言ってても、岩国やら北広島に行ったことはまだない。
今年は資料収集にお金かけるぞーって決めてたからね。
でも行きたいよ! 特に10月の吉川戦国まつり(北広島町)!
公共交通機関がもう少し充実してたら飛んで行ったかもしれない。
車運転できないからなんとか思いとどまったけど。

夏の間にツイッター仲間の皆さんがあちこち史跡めぐりに行ってるのを
奥歯をかみ締めて眺めるだけなのもなんなので、
私は里帰りがてら、静岡県の吉川発祥の地にお邪魔してまいりました。
フフフ……住宅地にあるさびれた神社を激写しまくるだけの怪しいお仕事です(´;ω;`)

今回訪問した駿河吉川八幡神社は、吉川氏と言っても頼朝公の鎌倉時代と、
あとは江戸時代の半ば以降にしか関連しないけど、
「まあ見てやってもいいよ」って方は、下の「続きを読む」をクリックしてくだされ。


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